http://www.asyura2.com/19/warb23/msg/776.html
Tweet |
米国の恫喝で中国と露国の連携が強まる中、日本の軍事力増強に厳しい目
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202205270000/
2022.05.27 櫻井ジャーナル
台湾を中国軍が攻撃したならアメリカは軍事介入するとジョー・バイデン米大統領が発言した翌日、5月24日に中国のH-6K戦略爆撃機はロシアのTu-95MS戦略爆撃機やSu-30SM戦闘機と共同で日本海、東シナ海、西太平洋をパトロール飛行した。バイデン発言に対する中露の回答だと見ることもできる。
アメリカと中国は1972年2月に国交を正常化させた。大統領だったリチャード・ニクソンが中国を訪問して実現したのだが、その際にアメリカ政府は中国を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないことを表明している。これがアメリカと中国が国交を正常化させる条件だったが、バイデンの発言はこの合意を否定するものだと受け取られた。中国とロシアの共同パトロールは4年連続のことだが、今回のタイミングに意味を感じる人は少なくないだろう。
ニクソン訪中を実現するために裏で中国側と交渉していた人物は国家安全保障補佐官を務めていたヘンリー・キッシンジャー。交渉の過程でキッシンジャーは周恩来に対し、日本の核武装について話したという。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、アメリカと中国が友好関係を結ぶことに同意しないならば、アメリカは日本に核武装を許すと脅したという。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)
ハーシュによると、キッシンジャーは日本の核武装に前向きだった。彼はスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)
実際、日本は核兵器を開発しつつあった。佐藤栄作が総理大臣だった1964年に中国が初めて核実験を実施すると、日本政府の内部で核武装への道を模索する動きが具体的に出始めたのだ。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)
NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤首相はリンドン・ジョンソン大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。こうした日本側の発言に対し、ジョンソン政権は日本に対し、思いとどまるよう伝えたという。
佐藤は1967年に訪米した際、「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守ると言うことを期待したい」と求め、ジョンソン大統領は「私が大統領である限り、我々の約束は守る」と答えたという。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)
アメリカの情報機関からの情報によると、1967年に設立された「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が日本の核兵器開発の中心的な役割を果たしていると彼らは考え、トラップドア付きのシステムを導入させていたという噂がある。
NHKの番組によると、この時代、日本政府の内部では核武装が議論され、西ドイツ政府に秘密協議を申し入れている。1969年2月に開かれた両国政府の協議へは日本側から外務省の国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調査課長だった村田良平が出席した。日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を歩もうと日本側は主張したのだという。
佐藤政権で核武装を目指し始めたグループは10年から15年の期間で核武装すると想定し、具体的な調査を始める。その中心は内閣調査室の主幹だった志垣民郎。調査項目には核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などが含まれ、技術的には容易に実現できるという結論に達している。
原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになっていた。志垣らは高純度のプルトニウムを年間100キログラム余りを作れると見積もる。長崎に落とされた原爆を10個は作れる量だ。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)
核武装については自衛隊も研究していたことが明らかになっている。1969年から71年にかけて海上自衛隊幕僚長を務めた内田一臣は、「個人的に」としているが、核兵器の研究をしていたことを告白しているのだ。実際のところ、個人の意思を超えた動きも自衛隊の内部にあったとされている。(毎日新聞、1994年8月2日)
ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、ロナルド・レーガン政権の内部には日本の核兵器開発を後押しする勢力が存在し、東京電力福島第1原子力発電所で炉心が用揺する事故が起こった2011年当時、日本は約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”)
そのアメリカの勢力はCIAやNSAも黙らせることができる力があるのだが、レーガン政権の前、ジミー・カーターが大統領の時代には問題が起こっていた。1972年に始められたCRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画が基礎的な部分を除いて中止になったのだ。1981年にロナルド・レーガン政権が始まると計画は復活するが、87年に議会が予算を打ち切った。
そこで高速増殖炉を推進していた勢力が目をつけたのが日本。クリンチ・リバー計画の技術を格安の値段で日本の電力会社へ売ることにする。CIAは日本の核武装を懸念していたものの、国務省やエネルギー省は賛成したという。国防総省もプルトニウムや核に関する技術の日本への移転に強くは反対しなかったという。
その結果、日本から毎年何十人もの科学者たちがクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入ることも許された。中でも日本人が最も欲しがった技術はサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関するもので、RETFへ送られている。
アメリカのエネルギー省と動燃との間で取り交わした協定によると、核兵器級のプルトニウムが製造されたとしても日本がアメリカの同意なしに核物質を第三国(例えばイスラエル)に輸出しないこと、日本がアメリカの事前承認なしにアメリカの核燃料を再処理してプルトニウムを取り出さないことが保証されていなかったという。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”)
日本の核武装を後押しする勢力が存在したアメリカには核兵器が開発された直後から核攻撃の計画が作成されていた。1957年の「ドロップショット作戦」は300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
1950年代に沖縄の軍事基地化が進んだのはそのためであり、必然的に核兵器は持ち込まれる。その基地は中国やソ連を攻撃するためのものだからだ。沖縄をアメリカ軍が占領する理由はそこにあり、海兵隊が駐留するのも必然だ。
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、アメリカの先制核攻撃は1963年後半に実行されることになっていたが、大きな障害が存在していた。ソ連との平和共存を訴えていたジョン・F・ケネディ大統領だ。そのケネディは1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺される。それを口実にしてソ連との戦争を始めようという動きがあったが、これは挫折した。それから間もなくして日本は核兵器の開発に向かって歩き始めたわけである。
台湾周辺をはじめユーラシア大陸の東岸で軍事的な緊張が高まる中、日本を見る目が厳しくなるのは当然だろう。「憲法第9条」に関係なく日本は軍事力を増強、「軍国主義の復活」と言われるようになっているのだ。そうした状況を理解している日本人はどの程度いるのだろうか?
最新投稿・コメント全文リスト コメント投稿はメルマガで即時配信 スレ建て依頼スレ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。