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中東情勢の軍事的な緊張が高まる中、イギリス軍がサウジアラビアへ入っていた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011290001/
2020.11.30 櫻井ジャーナル
イギリス政府は議会の承認を得ないままサウジアラビアの油田地帯へジラフ・レーダーを配備、イギリス軍の軍人もサウジアラビア入りしたと伝えられている。アメリカに頼っていられなくなっているのかもしれない。
昨年9月にサウジアラビアのアブカイクとハリスにあるアラムコの石油処理施設をイエメンのフーシ派がUAV(無人機。ドローンとも呼ばれる)と巡航ミサイルで攻撃、大きなダメージを受けた。その出来事にイギリスの支配層も危機感を持ったためだと言われている。
この攻撃はアメリカ製の防空システムが無能だということも明らかにした。破壊された石油施設の周辺には88基のMIM-104 ペトリオット・システムが配備されていて、そのうち52基は新型のPAC-3。しかもペルシャ湾にはアメリカ海軍に所属する3隻の駆逐艦(イージス艦)がいたのだが、攻撃を防げなかったのだ。すでに能力の高さを証明しているロシア製の防空システム、S-400やパーンツィリ-S1とは対照的だ。
また、アメリカのドナルド・トランプ大統領がシリア、アフガニスタン、イラクなどから撤兵させる動きを見せているが、それに対してフランス政府はアメリカ側に対し、撤退しないよう求めていると伝えられている。
2011年春にシリアやシビアへの傭兵を使った侵略が始まったが、その際に最も説教的だったのはイギリスとフランス、つまりサイクス・ピコ協定コンビだった。
この協定は石油資源に目をつけたイギリスとフランスが1916年に結んだもので、フランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコとイギリスのマーク・サイクスが中心的な役割を果たした。
トルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンをフランスが、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスがそれぞれ支配することになっていた。
協定が結ばれた翌月にイギリスはオスマン帝国を分解するためにアラブ人の反乱を支援。工作の中心的な役割を果たしたのはイギリス外務省のアラブ局で、そこにサイクスやトーマス・ローレンスもいた。「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。
ローレンスが接触していたフセイン・イブン・アリにイギリスのエジプト駐在弁務官だったヘンリー・マクマホンは書簡を出し、その中でイギリスはアラブ人居住地の独立を支持すると約束している。フセイン・マクマホン協定だ。このイブン・アリを追い出したイブン・サウドを中心として1932年に作られた国がサウジアラビアだ。
その一方、イギリスのアーサー・バルフォア外相はロスチャイルド卿に宛てに出した書簡の中で、「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。1917年11月のことである。なお、この書簡を実際に書いたのはアルフレッド・ミルナーだと言われている。
イギリスは1919年、石油利権を手に入れるためにペルシャを保護国にし、その2年後に陸軍の将校だったレザー・ハーンがテヘランを占領する。そして1925年にカージャール朝を廃して「レザー・シャー・パーレビ」を名乗るようになった。
第2次世界大戦後、そのイランは独立の道を歩み始める。1951年4月には議会での指名を受けて国王が首相に任命したムハマド・モサデクはAIOC(アングロ・イラニアン石油、後のBP)の国有化を決めるが、それはイギリスにとって死活問題だった。イランの石油利権にイギリスは支えられていたのだ。
イギリスはイランの独立、民主化を許せない。そこで1951年10月にウィンストン・チャーチルが首相に返り咲くとイギリスはクーデターに向かうのだが、自力でモサデクを排除することができない。そこでアメリカの力を借りることにし、ウォール街の大物でCIAの黒幕だったアレン・ダレスに接近する。1953年にドワイト・アイゼンハワーがアメリカの大統領に就任、クーデターを実行するための環境は整った。
アメリカのCIAやイギリスのMI6はエージェントをイランへ送り込んでモサデク側の軍幹部を暗殺、1953年6月にジョン・フォスター・ダレス国務長官はモサデク政権を転覆させる準備の許可を弟のアレンCIA長官に出している。そして作られたクーデター計画がエイジャクス作戦。作戦遂行のための資金を動かしていたのは、後にロッキード事件でも名前が出てくるディーク社だ。
このクーデターは成功、外国の巨大資本と結びついたパーレビ体制が復活。その体制を守るためにSAVAKという組織がCIAやイスラエルのモサドの協力を得て創設される。このパーレビ体制が倒れるのは1979年のことである。
その後、アメリカやイスラエルはイランの権力対立を利用して乗っ取ろうとするが失敗、シオニストの一派であるネオコンは1980年代からイラクのサダム・フセイン(元々CIAの手先だった)政権を倒して親イスラエル体制を樹立、シリアとイランを分断して個別撃破するというプランを立てた。そこで2003年にイランを先制攻撃してフセイン政権を倒し、シリアへジハード傭兵に侵略させ、イランに揺さぶっている。
しかし、シリアへの侵略に手間取っているうちにロシアが軍事介入、中東情勢が大きく変化しはじめた。2016年のアメリカ大統領選挙でネオコンが担ぐヒラリー・クリントンがリクードに近いドナルド・トランプに敗れたことも大きな影響を及ぼした。
中東の混乱が続く中、サウジアラビアは経済が危機的な状況に陥り、2019年9月には同国のサルマン国王が最も信頼していた警護責任者、アブドル・アジズ・アル・ファガム少将が射殺された。ジェッダにある友人の家で個人的な諍いから殺されたとされているのだが、宮殿で殺されたとする情報がある。
サウジアラビアを苦境に陥らせる原因を作り出したのはムハンマド・ビン・サルマン皇太子。その皇太子に関する情報を国王へ伝えていたのはアル・ファガムだけだったと言われている。
皇太子の国王に対する影響力が低下したこともあり、2019年10月頃からサウジアラビアはイランに接近する。イラン側のメッセンジャーを務めていたガーセム・ソレイマーニーはイスラム革命防衛隊の特殊部隊とも言われているコッズ軍の指揮官だったが、今年1月3日、PMU(人民動員軍)のアブ・マフディ・ムハンディ副司令官と共にアメリカ軍の攻撃で暗殺された。この攻撃はイスラエルも協力していた。イラクのアディル・アブドゥル-マフディ首相によると、緊張緩和に関するサウジアラビアからのメッセージに対するイランの返書をソレイマーニーは携えていた。
ソレイマーニーの喪が明けた直後の1月8日、イラン軍はアメリカ軍が駐留しているイラク西部のアイン・アル・アサド空軍基地やエル・ビルを含も2基地に対して約35機のミサイルで攻撃、犠牲者が出ているとも伝えられている。50分後にエルビル空港近くの米軍基地などに対して第2波の攻撃があったという。
その月の下旬、アフガニスタンではCIAのイラン工作を指揮していたと言われているマイケル・ダンドリアが乗ったE11Aが墜落、ダンドリアは死亡したが、これはソレイマーニー暗殺に対する報復だとも言われている。
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