「桜を見る会」を叩いてよろこんでいるルサンチマンの輩には理解できないと思うが、 世の中、本当に、昔から、左翼馬鹿李。歴史教科書も嘘馬鹿李www 2・26事件の真実も知らないんだろうね。CCTVを内臓したNHKに騙されっ放し。 ひどい日本の教育だ。少しは真実に目を向けないと、朝鮮半島人と同じだね。まだ、真崎勘三郎氏が2・26事件の黒幕だと、左翼・共産主義者に騙されている人が多いようです。 仕方がないかもしれません。公共放送のNHKが受信料を徴収して洗脳工作に余念が無いですから。 二・二六事件には不可解なことがあり過ぎる。。。 皇道派は「ソ連とアカい手先こそ日本の本当の敵だ」と主張し、 それらの謀略に乗せられて「支那と戦争すべきではない」と反対していた。 真崎は支那と戦うべきではないと考えており、常々こう言っていた。 「日本は支那や南方の国と戦争するようにはなっておらん。 日本はどうしてもソ連と対決するように運命づけられている」 大東亜戦争が起きる前から真崎は一貫してこのことを訴えてきた。 真崎を知る者はこのことを耳にたこができるほど聞いたという。 大東亜戦争の結果を知る今となってはこの真崎の言葉が真理であった。 二・二六事件で真崎ら皇道派は軍の中枢から追い出された。 二・二六事件以降は皇道派は軍の末端として、統制派の命令のままに戦う以外になかった。 ならば「なぜ皇道派は二・二六事件を起こした」という人がいるかもしれない。 それは「はめられたからだ」である。 正しい日本精神の持ち主が軍部内で葬り去られて日本は戦争へと進んでいく。 その裏にはコミンテルン、ユダヤの国際金融勢力がある。 日本は彼らの思う方向に突き進んで敗戦に向かっていった。 二・二六事件後に統制派が主導権を握ったため、皇道派はことごとく悪者にされたまま、自分達の陰謀も 消してしまったため、真実がほとんどわからないままとなり、それが戦後も続いている。 二・二六事件がコミンテルンの「日本を支那や米英との戦争に巻き込んで敗戦させる」ためのものであれば、 二・二六事件の真実は戦勝国が明らかにするはずはない。 二・ニ六事件の青年将校の著書には「ユダヤ」という言葉が出てくる。 皇道派青年将校の間ではすでにユダヤ金融資本の陰謀を勘ぐっていたようである。 そのユダヤ金融資本と結託していたのが三井などの財閥であり、その財閥に群がっていたのが 政治家達と永田はじめ軍の首脳であった。 さらに天皇陛下を取り巻く、内大臣の牧野伸顕、ユダヤの血をひく原田熊雄。 木戸幸一、西園寺公望など陛下に群がる君側の奸。 「相沢が永田を殺したという事実認定のみで背景が審議されていない。永田の背景には大陰謀がある。 この陰謀を企む者達は真崎甚三郎大将を更迭し、皇道派弾圧人事の陣頭指揮を執り、その中心が永田鉄山であった」 三井財閥の大番頭・池田成彬: 「池田は宮中に関わる重臣はじめ官僚、各政党、マスコミに絶大な影響力を持ち、 これらの面々が自陣営の意に添うように働きかけた」 「永田鉄山の死後、永田の遺族の面倒をなぜか三井がみている」 「池田が永田と築地の料亭で密会し皇道派人事刷新について話し合っていた」 「永田の叔父が経営する業績不振の新聞社が三井に買収されていた」 「永田の同郷の先輩が三井の弁護士で永田と密接だった」 NHK御用極左作家の【澤地久枝】の著『雪はよごれていた』に相沢三郎に関して不名誉な書き方をしている。 【相沢中佐が、上告を棄却され、死刑確実となって目の前に迫ってきた一夜『真崎閣下は俺を助けてやると言った。 なぜ、俺を殺すのだ』などと叫んで暴れ出し、刑務所側は制止させることが出来なかったという。 7月1日夜遅く、匂坂家へ刑務所から相談の連絡があり、匂坂は『明朝6時半に車をまわしてくれ』と答えて電話を 切った。そして通常の勤務時間が始まる前に相沢と会った。 話をするうちに相沢は突然床に手をつき『相沢は大変な心得違いをしてしまいました。永田閣下を殺したのは 間違いでした』と泣いて告白したという。公判廷でも言わなかった真崎からそそのかされたことも初めて語った。】 まるで相沢が荒れ狂って命乞いをしているように書いているが、そういう記録はない。 多くの日本人が知らないと思って確証のないデマを書いて相沢を貶めるのが極左作家の役割なのか? 澤地久枝は二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎の次女・渡辺和子に「これでお父様の仇をとった」と 言っていたが、作家という立場を利用して皇道派を捏造で貶めても、真実が明らかになることで “嘘つき極左作家”“ソ連の手先”ということが明らかになるのではないか。 昭和41年の『華族―昭和百年の側面史』で木戸幸一は 「二・二六事件が起こることを知っていた。僕は1カ月も前から情報をキャッチしていましたよ。 今度は軍はえらいことをやる。千人くらいの人間が動くという情報なんです」と告白した。 当時、内大臣秘書官である木戸幸一はこの情報を得ていたのに、そのまま放置していた。 また、木戸幸一の子息・木戸孝澄は二・二六事件が起きる前夜に級友・東宮侍従長 黒木従遠に 電話をかけて「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」と言った。 黒木は親友の道明を誘い、暮夜ひそかに寮を抜け出して市ヶ谷方面に向かった。 また、西園寺公望も事件を事前に知っており、事件の時には静岡県の官舎に避難していた。 事件後の3月14日、西園寺公望の弁護士・鵜沢総明は陸軍大臣になった寺内寿一にこう話した。 「西園寺公爵は25日に既に2月26日の事変を知っておられたそうだ」 伊藤章信が戦犯容疑で巣鴨にいた時、児玉誉士夫にこう語った。 「二・二六事件の指導者の一人から重臣に通するものがあって失敗に終わった。 もしあの事件が成功しておれば日支事変はあるいは起きなかったかも知れぬ」 (児玉誉士夫著『われはかく戦えり』) 河野司編『二・ニ六事件』の特別資料中に、3月7日午前10時、第一師団参謀長舞伝男大佐が 第一師団司令部において公表した口演要旨が収録されている。 そこには「我国家国軍を破壊するため、第三国より資金を提供しある疑いあり」とある。 真崎甚三郎は二・ニ六事件の軍法会議に「5項目の疑問点」を提示して真相の究明を求めた。 その中の一つにこうある。 「昭和11年7月10日、磯部と私は対決せらるることとなり、私は先に入廷し磯部を待って居たが、 間もなく磯部は大いにやつれ入り来り、私にしばらくでしたと一礼するや狂気のごとく昂奮し、 直ちに『彼らの術策に落ちました』と言うた。 私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて『術中とは何か』と 問い返したれば、沢田法務官は壇上より下がり来たりて『其は問題外なる故触れて下さるな』と 私には言い、磯部には『君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に』と肩を撫でて室外に連れ出し、 これだけで対決を終わった。何のことかわからぬ。私は不思議でたまらなかった」 二・ニ六事件後、統制派は世上の言論取り締まりに陰険と過酷を極めた。 新聞や雑誌の記事は厳重に検閲され、いささかも反乱将校に同情めいた記事を載せたり、 軍の発表しない機微な情報を伝えたものは片っ端から発売禁止され、憲兵隊の取り調べを受けた。 多少たりとも反乱将校と親しかった者は軍人、民間人問わず残るとこなく検挙された。 個人の親書も検閲を受け二・ニ六事件の消息を伝えたものはことごとく呼び出しを受け、 その出所を追及され、中には学生が二・ニ六事件の話をしていただけで私服憲兵にそれを聞かれ 拘引され、その消息の出所を同学生の母親以下芋づる式に十六人まで追求検挙された事実もあって、 暗黒裁判進行中の世上は陰鬱に満ちていた。 二・ニ六事件の軍法会議の主任検察官である匂坂春平。彼の書いた匂坂資料には、軍首脳部では始めから 反乱将校全部を死刑にする方針を決定しており、無期禁固の将校達まで死刑にする「判決予定書」があった。 幸徳秋水の明治天皇暗殺の大逆事件でさえ死刑に決定した24名のうち12名が死を減ぜられたほどだった。 二・二六の裁判は4月28日の第一回公判開始から2カ月で結審、判決処刑という異例の速さで終結した。 判決を下そうという時、突然、寺内寿一陸相から各裁判長に集合命令が下り、各裁判長に被告に対する 処断の見解を質問した。 民間人を受け持っていた吉田裁判長が「北一輝と西田税は二・二六には直接の責任がない」と不起訴ないし 執行猶予を主張すると寺内陸相は「両人は極刑に処すべきである。両人は証拠の有無にかかわらず黒幕である」 と極刑判決を示唆した。 昭和29年2月7日号の週刊読売によると、匂坂家にある二・二六調書には軍首脳部でははじめから事件に参加した 将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を捧呈関係者に配布し、その判決予定に 主任検察官の匂坂春平法務官も苦慮しながら死刑の判決に同意した、とある。 戦後、匂坂は自宅に閉じこもったままの生活を送り、毎年2月26日の賢崇寺で行われる仏心会の法要には、 玄関に姿を見せるだけで名刺を置いて「匂坂が来たということだけお伝えください」と言い残し退去していた。 その匂坂も昭和29年9月8日、老衰から滅入るような往生であった。 その日はきしくも、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の四人が東京衛戌刑務所で銃殺刑に処せられた 17回忌の日である。
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