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教育行政のトップとして教育機会の均等を図らなければならない立場である。にもかかわらず、教育格差を容認するような発言をした。大臣としての見識を疑わざるを得ない。 大学入学共通テストの英語民間検定試験を巡り、萩生田光一文部科学相はテレビ番組で、家庭の経済状況や居住地で不利が生じると指摘され、「自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」と述べた。不利な環境を甘んじて受け入れるよう受験生に求めたと受け止められても仕方がない。公平な制度設計を進める責任のある大臣がする発言ではなく、受験生や保護者らから批判が集まるのも当然だ。 今回の発言は大臣自らが入試の機会均等が確保されないと認識していることの証左である。英語で導入される民間試験は6団体7種類から最大2回まで受験する。受験料が2万円を超える試験があったり、会場が都市部に限られる試験が多かったりして、経済格差や地域格差といった問題が指摘されてきた。2020年4月を予定している民間試験の導入時期について、全国高等学校長協会は延期を求めている。 萩生田氏は今月初めの記者会見でも「初年度は精度向上期間だ」と発言、受験生らから「実験台にしないと言ったのに」と抗議を受けたばかりだ。今回は「身の丈発言」のほかに「『あいつ予備校に通ってずるい』というのと同じだと思う」とも述べている。入試の公平性と予備校通学を同じように語ることはできない。いずれの発言も受験生の心情に寄り添っておらず、思慮を著しく欠いている。 「身の丈発言」について萩生田氏は撤回し、謝罪した。その上で、民間試験を予定通り実施する方針を示している。課題があっても強引に制度を始めようとする姿勢が垣間見える。経済格差や地域格差が解消されず、受験生や関係者の不安が残ったままでの制度開始は許されないと政府は自覚するべきだ。 大臣や政治家の問題発言が後を絶たない。河野太郎防衛相も自身の政治資金パーティーで、「私はよく雨男と言われた。防衛相になってから既に台風は三つ」と語った。その後陳謝し、趣旨は被災地支援に当たる「自衛隊の努力と処遇改善の必要性だった」と釈明した。ならば笑いが起きるような言葉は必要ない。被災者への配慮を欠き、軽率とのそしりは免れない。 菅義偉官房長官は萩生田氏について「適材適所だ」と語り、閣僚の資質に問題はないとの認識を早々に示した。萩生田氏は首相の側近である。先に経済産業相を辞任した菅原一秀氏は菅氏の側近で、疑惑発覚から辞任まで2週間余り経過し、後手に回った印象が残る。 「身内」に甘い対応は、政府内の緩みを助長しかねない。首相は長期政権のおごりが生む弊害を深刻に受け止め、自ら言う「任命責任」を明確な形で果たさなければならない。 人事の要諦は適材適所だよ。私が、文部科学大臣。これこそ理想の適材適所。安倍政権の傑作じゃないか。口さがない輩は、「加計学園にあれだけドップリ浸かって、疑惑を抱えた萩生田が文科行政のトップとはブラックジョークか」などと悪口を言うが、ためにする言いがかりで八つ当たりも甚だしい。森友・加計批判を強引に乗り切った私こそが、教育行政のトップを担うにふさわしい。一見して明白だよ。 私は、予てからの教育勅語信奉者だ。日々、勅語の精神を政治に行政に体現しようと、議員会館の私の部屋には、勅語の額が掲げてある。掲げてあるだけではない。朝に夕に勅語を拝読三唱し、明治大帝の大御心の深さの一端でも、我が心にしようと誠心誠意努力を重ねている。そんな私なのだから、子どもたちに倫理を教える文科省の大臣にもっともふさわしいんだ。 往々にして、勅語は失効しただの、アナクロニズムだのという不敬の言動にお目にかかるが、ものを知らないということは恐ろしい。勅語の最後にはこう書いてある。 「斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所。之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス。朕、爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」 どう? おそれいらない? つまり、勅語の精神はだね、なんたって神さまがお示しになったものだから、正しいに決まっている。「古今の歴史を通じて、また世界のどこにおいても」けっして間違っていないと書いてあるんだ。勅語が示している道は、令和の御代においても、我等臣民の永遠に守るべきものなのだから、これを信奉している私こそが文科大臣に最もふさわしいわけだ。 その私の、「身の丈」発言だ。「身の丈」で生きることって、大切なことだよ。常々思っていることを口にしただけだが、形勢不利となれば、撤回も謝罪もなんでもありだ。これも、子どもたちに教訓的だろう。 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」というじゃないか。蟹だってオケラだって、身の丈に合わせて生きているんだ。ましてや知恵のある人間だもの、身の丈に合わせた生き方をしなくては苦しむだけさ。「身の程」を知り、「分相応」の生き方が大切なことを、道徳の時間に改めてよく教えなくてはならない。 人の平等だの、教育の機会均等だのというのは、そりゃ建前だけのこと。ほら、皇室をご覧なさい。畏れ多くも、皇室や皇族の皆様方が、われわれ臣下と平等であるはずはない。だから、安倍晋三首相が、臣下を代表して、高御座のお上を「仰ぎ見て」、「テンノーヘイカ・バンザイ」とやったのだ。これが世の常識というもの。 そして、「テンノーヘイカ・バンザイ」をやった安倍晋三首相も、典型的な三代目政治家。下から這い上がった人ではない。麻生太郎財務大臣も同じ。何の苦労も知らないお坊ちゃんたち。このような,格差の上澄みが支配する世の中であるという現実を、しっかりと知らねばならない。それこそが教育の課題。 憲法が、人間差別の象徴としての天皇の存在を認めているとおり、人間の平等は観念論だ。現実には、人は差別を背負ってこの世に生まれ育つのだ。とりわけ、貧富の格差による差別は如何ともしがたい。この格差を無理に是正しようとすれば、共産主義の世の中になってしまう。それでもよいという覚悟はおありかな。 だから、大学入試の英語民間試験導入を巡る問題で、「お金や地理的に恵まれた生徒が有利になるのではないか」と聞かれて、私は「身の丈」が大切と答えたのだ。なにも、大学入試の英語の科目だけが教育差別というものではない。人は、生まれ落ちたときから、教育格差の中で生きているのだ。幼稚園から大学まで、すべて教育格差で貫かれた現実。「自分の身の丈に合わせて勝負してもらう」以外にありようはない。 私は、「受験生に不快な思いを与えかねない説明不足な発言だった。おわびしたい」とは言った。もちろん、慎重にyle="color: #0000ff;">「受験生に不快な思いを与えた」とは認めていない。「説明不足」に過ぎなかったのだから、説明さえすればよいのだ。それで、身の丈に合わせてとは、「自分の都合に合わせて」の意味だと言ってはみたが、我ながら上手くない。「身の丈に合わせて」は外部からの強制による余儀なくされた選択で、「自分の都合に合わせて」は強制性のない自発的な選択なのだから。 しかしだ、この程度のことで騒がれるのは、はなはだめんどうだ。やっぱり、教育勅語だよ。上から目線で、教育も教育行政も貫けるのだから、戦前はよかった。ここでうんと天皇の権威を高めて、政治も行政もやりやすくしてもらいたいものさ。
文科相「身の丈」発言 格差容認か 大臣として見識疑う
愛媛新聞社説 2019年10月31日
https://www.ehime-np.co.jp/article/news201910310021独白 ― 萩生田光一「身の丈発言」のホンネを語る。
澤藤統一郎の憲法日記 2019年10月30日
http://article9.jp/wordpress/?p=13679
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