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本稿試食コーナー
1 補助金の交付を決定する採択をした外部審査委員への意見聴取を行うことなく、文化庁ないし文部科学省のトップの独断で決定
2 今回の文化庁の決定は、表現の分野に大きな萎縮効果を生み、事実上の検閲として機能する
3 オリンピックのためには「テロ等準備罪」まで新設して「テロの脅威」に備えた安倍政権が、なぜ、あいちトリエンナーレへの「テロリストの脅迫」に対しては、「テロリストの脅しには屈しない」という強い態度を取るどころか、逆に被害者であるトリエンナーレ側を厳しく罰する行為に出たのか
4 補助金交付の可否を外部の専門家委員会に委ねる仕組みは、「みんなのもの」である税金を「みんなのため」に使うために発達してきた
5 それを無視して独断で決めようという動きは、「みんなのもの」である税金を「自分のもの」にしようとすること
6 論理も手続きも議事録も欠落した補助金不交付の決定
7 「決定者による税金の私物化」
8 安倍政権下で一貫して加速してきた「公共の解体と私物化」
9 加計、森友、NHK、水道民営化、種子法……
10 なぜここまで安倍政権が平気で「公共の解体と私物化」を実行できているのか
11 世論調査の支持率がさして下がらないし、選挙でも勝ち続け
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2019/10/11
想田和弘(映画作家)
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(19年8月1日―10月14日)。その企画展である「表現の不自由展・その後」がきっかけとなって、さまざまな騒動が巻き起こった。一部作品の公開中止と再公開。そして文化庁の補助金不交付決定……映画作家・想田和弘さんはこの問題をどう見るのか、ご寄稿いただいた。
あいちトリエンナーレにおける企画展の一つである「表現の不自由展・その後」(以下、「表現の不自由展」とする)が、外部からの脅迫を受けて「危機管理上の正当な理由」によって中止された。それを受けて、トリエンナーレに対して交付される予定だった補助金7820万円が、9月26日、文化庁によって突然、全額不交付と決定された。補助金の交付を決定する採択をした外部審査委員への意見聴取を行うことなく、文化庁ないし文部科学省のトップの独断で決定されたようである。
この一連の事件は@「表現の自由」を脅かす問題であると同時に、A安倍晋三政権下で一貫して加速してきた「公共の解体と私物化」を象徴するような出来事であると、僕は考えている。本稿では、その2つの観点から補助金不交付問題を論じる。
■■あいちトリエンナーレは被害者である■■
まず再確認せねばならないことは、あいちトリエンナーレは「ガソリン携行缶持って館へおじゃますんで」などとテロ行為をほのめかした脅迫の被害者だということである。これは、いくら強調しても強調しすぎることはない。
10月8日からなんとか再開されたとはいえ、脅迫者や彼に共鳴する人々にとって、「表現の不自由展」が一旦中止に追い込まれたことは、それだけで大きな成果である。のみならず、文化庁は申請時に必要な情報を報告しなかったという手続きの不備を理由に、トリエンナーレ全体に対する補助金7820万円を全額不交付とした。中止された「表現の不自由展」に対する補助金は約420万円にすぎず、それ以外の展示はおおむね予定通りに行われたにもかかわらず、である。
これが前例として通用するなら、政府の補助金に頼る文化事業の主催者にとっては、大きな脅威となる。すでに交付が決まっていた補助金さえ取り上げられるなら、事業の開催を守るため、政府の方針に少しでも反しそうな表現はあらかじめ自己検閲しようとする力が働く。少なくとも、今後税金が拠出されるイベントでは、真に自由な表現をすることが、運営上の多大なリスク要因となることは間違いない。今回の文化庁の決定は、表現の分野に大きな萎縮効果を生み、事実上の検閲として機能するであろう。
また、脅迫者とその共鳴者の観点からすれば、文化庁の決定は望外の大金星である。なにしろテロ行為をほのめかしただけで、「表現の不自由展」を中止に追い込みトリエンナーレ全体に経済的ダメージを与えられたのみならず、日本中の文化事業から気に食わない表現を一掃できそうなのである。文化庁という役所は、今回明らかに「テロリスト」に加勢し、加担したと言える。共犯と言ってもいい。
今回の決定は、日本政府がこれまで取ってきた「テロ」に対する態度とも、整合性が取れない。
想像してみて欲しい。
たとえば、オリンピックの会場で「ガソリン持ってくぞ」という脅迫がなされ、競技が一部中止になったとしたらどうか。萩生田光一文科大臣の今回のロジックを適用するなら、日本政府はその競技に対する補助金のみならず、オリンピック全体へ交付予定だった補助金を、すべて引き上げることになる。
しかし、安倍政権がそうした措置を取ると信じる人は、たぶん誰もいないだろう。オリンピックに対して脅迫がなされた際には、安倍首相はおそらく「テロリストの脅しには屈しない」という決まり文句を述べて、警備を極限まで強化して対応するはずだ。なにしろオリンピックのための警備を理由に、国会では野党が猛反対した「テロ等準備罪(共謀罪)」を無理やり通した首相である。オリンピックは安倍首相の肝いり事業であり、脅迫によって一部の競技が中止になったとしても、補助金を不交付とすることなど到底考えられない。
問題は、オリンピックのためには「テロ等準備罪」まで新設して「テロの脅威」に備えた安倍政権が、なぜ、あいちトリエンナーレへの「テロリストの脅迫」に対しては、「テロリストの脅しには屈しない」という強い態度を取るどころか、逆に被害者であるトリエンナーレ側を厳しく罰する行為に出たのか、である。
ここに安倍政権の恣意的な意志を見出すことは容易である。
「『表現の不自由展』に慰安婦を表現する『平和の少女像』などが含まれていたことが、気に入らなかったのだろう」
本稿の大半の読者は、そう思わざるをえないのではないだろうか。
いずれにせよ、今回の文化庁の決定が、日本国憲法第21条で保障された「表現の自由」を脅かすものであることは間違いない。
<憲法第21条>
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
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公開中止期間中、「表現の不自由展・その後」の入口は閉じられ、#YOurFreedom(自由を奪われたこと)について入場者が書いた付箋がたくさん貼り付けられている。 撮影・イミダス編集部
■■公共とは「みんなのもの」■■
文化庁による補助金不交付の決定は、「公共性」という観点から見て、その手続きにも大きな問題がある。
そのことを論証するために、まずはそもそも「公共とは何か」ということについて、考えてみよう。
「公共」とは、平たく言えば「みんなのもの」という意味である。
たとえば公園は、公共性の高い「みんなのもの」である。したがって誰でも入れるし、特別な理由がない限り、その場から排除されたりしない。そしてその運営には、「みんなのもの」である税金が使われる。
しかし公園が民間に払い下げられ、私有化(私物化)されたらどうなるか。所有者の気持ち一つで、入場料を徴収したり、入場の条件を決めたりすることができる。一般人の入場を禁止し、自分や近親者だけの空間にすることもできるだろう。しかしその場合、運営に「みんなのもの」である税金を使うことを正当化できなくなる。
あいちトリエンナーレのような芸術祭に「みんなの税金」が使われるのは、芸術祭が「私物」ではなく「みんなのもの」であり、公共性が高いとみなされているからである。そしてそのような公共的な文化事業に税金を使うための法的根拠は、日本国憲法第25条に求められるだろう。
<憲法第25条>
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生
の向上及び増進に努めなければならない。
憲法に定められているように、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」わけだから、国には、国民があいちトリエンナーレのような芸術祭に入場したいと望むなら、入場できるような環境を用意する責任がある。したがって国は補助金を出し、入場料を低く抑える努力を支援することで、市民が芸術祭へ入場するためのハードルを下げるわけである。
では、そもそもあいちトリエンナーレのような芸術祭を、税金を投入すべき公共性の高い「みんなのもの」であると評価・認定するのは、いったい誰なのであろうか。
先進国では、その評価・認定は政府が行うのではなく、「アーツカウンシル」と呼ばれる外部の専門家委員会に委ねられるのが通例である。なぜなら政府が直接認定を行ってしまうと、政府による芸術作品の恣意的な選別ないし事実上の検閲が行われやすくなり、客観性や公正さが担保しにくくなるからだ。実際、アーツカウンシルの仕組みは、ナチス・ドイツが芸術を政治的に利用した事実を踏まえて、イギリスを中心に発達したものである。
あいちトリエンナーレへの補助金も、そのような考え方と手続きに沿って、交付が決まっていた。具体的には、「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)」の外部審査員6人の審査を経て、2019年4月25日付でトリエンナーレを含む26件の採択が決まった。そのうえで愛知県は5月30日、補助金交付申請書を提出し、文化庁は受理していた。
したがって文化庁が補助金交付を取り消そうとするなら、当然、交付を採択した外部審査員らに再審査を委ねるべきであった。審査員を通さずに補助金交付の可否を政府が決めてしまえるなら、外部審査員の存在自体に意味がなくなり、文化行政の根幹が崩壊してしまうからである。
外部審査員を務めた野田邦弘鳥取大学特命教授は10月2日、文化庁に外部審査員を辞任すると申し出た。野田教授は朝日新聞に対し、「一度審査委員を入れて採択を決めたものを、後から不交付とするのでは審査の意味がない」「理屈は後付けだと思う。そもそもやり方がありえない」「外部の目を入れて審査し、採択したあとに文化庁内部で不交付を決めるというやり方が定着してしまわないか、危惧している」とコメントしている。
また、共産党の本村伸子衆議院議員が文化庁に不交付決定のプロセスを問い合わせたところ、文化庁は1日、「あいちトリエンナーレへの補助金不交付を決定した審査の議事録はございません」と文書で回答している。
このような政治的案件を、官僚だけで決定することはありえない。宮田亮平文化庁長官か萩生田文科相、あるいは安倍首相が決めたものであることが疑われる。
ここで強調しておきたいのは、補助金交付の可否を外部の専門家委員会に委ねる仕組みは、「みんなのもの」である税金を「みんなのため」に使うために発達してきたということである。つまりそれを無視して独断で決めようという動きは、「みんなのもの」である税金を「自分のもの」にしようとすることに等しい。
実際、今回の論理も手続きも議事録も欠落した補助金不交付の決定は、「決定者による税金の私物化」以外に形容のしようがない。脅迫者への加担という問題に鑑みれば、「表現の不自由展」が中止されたからといって、それに対する補助金約420万円を不交付とすることも不適切だが、トリエンナーレ全体に対する7820万円を不交付とするに至っては、あまりにも恣意的で論理性を欠いている。決定者は「みんなのもの」である税金の使い道を、自分の感情や気分によって独裁的に決めたと言えるのではないだろうか。
少なくとも、公共のお金である税金の扱い方として、納税者からの精査に耐えうるものではない。
■■加計、森友、NHK、水道民営化、種子法……続々と進む「公共の解体と私物化」■■
ここから透けて見えるのは、安倍政権下で一貫して加速してきた「公共の解体と私物化」というベクトルの存在である。
たとえば 森友学園事件では、国有地という公共の財産=みんなのものを、安倍昭恵首相夫人と懇意にしていた森友学園に対して、8億円以上もの値引きをして払い下げたという疑いが濃厚だ。要は安倍夫妻が「お友達」のために国有地を私物化したという疑惑が持たれている。
加計学園問題では、50年以上どこの大学にも認められていなかった「獣医学部の新設」が、安倍首相の長年の友・加計孝太郎理事長への特別の便宜として、加計学園に認められたという疑惑がある。これも事実だとすれば、大学行政という公共のプロセスやリソースの私物化である。
ついでに森友問題では、財務省理財局による決裁文書改竄問題も発生した。財務省が国有地払い下げの経緯を記した文書を国会に提出した際、首相や昭恵夫人の関与が疑われかねない記述を削除していた問題である。これは財務省という、本来ならば「みんなのため」に仕事をすべき公僕の集団が、首相夫妻の利益のためだけに不正を働いていたことを示している。つまり財務省すらも、首相によって私物化されていたと言ってよいだろう。
この文脈で言えば、公共放送であるNHKの私物化も忘れてはならない。第二次安倍政権が誕生して間もなく、安倍内閣はNHKの経営委員会に百田尚樹氏や長谷川三千子氏ら首相に近い人物を4人も一気に送り込んだ。すると経営委員会は、NHKの会長に籾井勝人氏を選んだ。「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない」と発言し、言論界から厳しく批判された人物である。以来、NHKの報道から政権に批判的な論調が激減し、「みなさまのNHK」ならぬ「安倍さまのNHK」のようになってしまっていることは、多くの人が認めるところであろう。
安倍政権が強引に推し進めた、水道の民営化についても触れておこう。言うまでもなく、水道はあらゆる人にとって必要不可欠な「みんなのもの」であり、公共性が極めて高い。ところが安倍政権下、自治体が給水責任と施設の所有権を持ったまま、運営権を民間企業に売却する「コンセッション方式」を選択できるよう、水道法が改定された。諸外国では、水道を民営化した結果、水道料金が高騰するなどの問題が起きて、再公営化する例が増えているにもかかわらず、である。それによって誰が潤うのかはまだ定かではないが、これも「公共の解体と私物化」の流れの一環と言えるであろう。
種子法(主要農作物種子法)の廃止も同様である。同法は、米、麦、大豆の優良な種子の生産と安定供給を「みんなのため」に必要な公共事業と位置づけ、都道府県に実務を義務づけた。そして国が必要な予算を拠出する法的根拠となってきた。ところが安倍内閣は「民間企業の参入を促す」などの理由で、2017年の国会に同法廃止法案を提出。賛成多数で可決させた。
同法廃止を受け、代わりとなる「種子条例」を制定して従来の事業を継続する自治体が相次いでいるため、今のところ種子の生産体制は守られているようだ。しかし自治体が種子の生産をやめれば、主に外国の多国籍企業による種子の寡占が進み、農家は大企業から種子を買わざるをえなくなっていくだろう。すると種子は高騰し、農薬や化学肥料もセットで売られ、栽培法すらも企業によって指定されるようになる可能性が高い。そう考えると、種子法廃止も安倍政権による「公共の解体と私物化」のベクトルに沿うものだと言える。
■■究極の責任は私たち主権者に■■
このように見てくると、安倍政権下、多方面で「公共=みんなのもの」が解体・私物化されつつあることがわかるであろう。あいちトリエンナーレの件は、安倍政権下で同時に進んでいる様々な動きと、ある意味でシンクロしている。いわば必然的に起きたと言えるのである。
このまま放置しておけば、今度は税金が拠出されない表現も、規制・弾圧されていくことになるだろう。それには憲法第21条が障害となるが、今回の政府の説明が巧妙に21条問題を迂回し「手続き論」に終始したように、様々な詭弁が使われていくことになるのではないだろうか。私物化とは「貪欲」によって起きるものであり、必ずエスカレートするからである。
日本国民のみなさんに聞きたいのは、みなさんは日本がそのような社会になっても本当によいのか、ということである。僕は外国に住んでいるが、母国が一部の人たちに所有された不自由な社会になって欲しくないので、抵抗する。今回の政府の動きも到底許容できないものだと考えている。
容認できないのであれば、選挙で、署名活動で、路上で、オンライン上で、主権者としてその意思を示すことが肝心だ。なぜここまで安倍政権が平気で「公共の解体と私物化」を実行できているのかと言えば、それはいくら彼らが公共の私物化を進めても、世論調査の支持率がさして下がらないし、選挙でも勝ち続けているからである。
私たち主権者にこそ、究極の責任がある。
https://imidas.jp/jijikaitai/c-40-138-19-10-g726
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