日本を二等国にした反日売国奴の平成天皇 2019年08月19日 謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢
国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった
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天皇は謝罪が良い事だと思っていた 2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。 それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。 6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。 日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。 確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。 だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。 また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。
さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。 また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。 これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。
韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。 日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。 平成悪夢の30年が始まった。 今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。 中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。 象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。 天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。
これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。 韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。 だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。
日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。 乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。 とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。
天皇は1933年(昭和8年)生まれで終戦時に12歳、この時東京大空襲で皇居以外は焼け野原になり、占領した連合軍に粛清される可能性もあった。(この時ソ連軍も東京を占領しようとしていた) 敗戦で子供のころ死を覚悟しなくてはならなかった事や、日本軍や日本に裏切られた、騙されたという思いがあったのでしょう。 http://www.thutmosev.com/archives/80723382.html ▲△▽▼ 日本人の反乱に恐れおののいていた平成天皇 梨本宮伊都子妃の日記 梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。 伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。
『昭和33年7月14日。 きみ、きっと、これが僕の運命だね。 明仁皇太子』 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』 (3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを
昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html ▲△▽▼ 2002年1月26日 「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが 「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」 という質問に 「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。 韓国とのゆかりを感じます」 と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども 「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」 とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。 桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。
『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと 高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。 http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html ▲△▽▼
天皇家は国際金融資本のエージェント
宮内庁のホームページに、天皇皇后両陛下がロックフェラーの自宅でロックフェラー家との晩餐会を行っていることが記載されている (平成6年)天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問について
6月16日(木)ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸) http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h06america/eev-h06-america.html 天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜 天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。
エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。 引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。 ◆属国・日本の指導者を管理する要員 日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。 ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。 日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。 「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ) では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。 アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。 アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。 ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。 こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。 一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。 ◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇 昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。 昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。 そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。 昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。 ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。 4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)
ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)
昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。 おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。 そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。 ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。 その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)
天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。 昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。 http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html ▲△▽▼ 私の父が朝鮮の方々に迷惑をかけたのは十分承知しております。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ._,___ ./ __`ヾ),_ ,,. --――、_、_ /〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、 / : : : : : : : : ::)ノ: : ヽ i / /´ _ニ=-=ニ .i l| / : : : : : : ソ⌒゙ヾ"ヾ、 : :ヽ | 彳 〃_. _ヾ!/ ! : : : : : : ) ⌒ ⌒ヾ :(_, | _ !" ´゚`冫く´゚`l | : : : : :(, _ ) __ )!:_ノ (^ゝ " ,r_、_.)、 | ヽ :(aイ ´゚ i | . ゚`〈 ヽ_j 、 /,.ー=-、i リ \:_| " . ノ 、_)、 ゙.ノ __/\_ "ヽ ^ )ソ__ (_ソ人 l ー=‐;! ノ |ヽ. | |` ー--ィ´i | /\ヽ__,ノ | > |、/□、/| < | /⌒l─‐(_/_/‐⌒ヽ | i \| / | |o/i | ..{ | \ノ §i ノ ▲△▽▼ 2019年08月30日 日韓対立と新天皇即位 中国人は知っていたが韓国人が知らなかった事 旧天皇は日中日韓が対立すると必ず中韓側に立って謝罪を表明した。 国のトップが繰り返し謝罪したら正当性を失い外交戦で負けてしまう 画像引用:新天皇がもたらす静かな影響力 - WSJhttps://jp.wsj.com/articles/SB11920969829594324849904585266064066610270 韓国が北朝鮮を支える理由 日韓関係は悪化の一途を辿っているが、関係悪化を決定づけた一撃は2018年12月20日のレーダー照射事件だった。 もう一度事件を振り返って何が起きたか検証すると、韓国と日本が何で対立しているのかを理解できるかも知れない。 あの日海上自衛隊P-1は日本海を飛行していたら偶然韓国軍艦を発見したとしているが、事実ではないと考えられる。 自衛隊は何らかの手段でその場所に韓国軍艦が居るのを知っていて、現場にP-1哨戒機を向かわせた。
現場は日本海中心部の大和堆と呼ばれる浅い部分で、好漁場のため北朝鮮と韓国漁船が頻繁に漁をしている。 同時にどの陸地からも最も遠い場所であるため、韓国と北朝鮮が瀬取りするにも好都合だった。 現場に居た海上警察と韓国軍艦は、北朝鮮漁船から救難信号が発信されたので救援に駆け付けたと説明したが、救難信号は発信されていなかった。
事実は日本海の真ん中で韓国と北朝鮮が瀬取りをしていて、北朝鮮側の工作船が故障で動けなくなって救助していた。 その際の交信から自衛隊は不審な動きを察知し、P-1哨戒機を発進させて現場で証拠写真を撮影した。 韓国は瀬取りの証拠写真を撮られるのを恐れ、ミサイル誘導レーダーを照射してP-1を追い払おうとした。
日本側は事実を指摘したが瀬取りをしていたのは伏せ、レーダー照射だけを問題にするという温情をかけた。 韓国側は日本の温情を就き、レーダー照射は無かったとして日本に謝罪を求めてきた。 天皇代替わりの意味を知らない韓国
いつもなら日本が謝罪して韓国が留飲を下げる展開だが、ここで韓国の味方だった天皇が退位し代替わりした。 昭仁天皇は謝罪こそ自分の使命だと思い込んでいるような人物で、中国や韓国にとっては実に好都合だった。 天皇の代替わりによる日本側の変化を敏感に察知したのは中国で、空気を読めなかったのが韓国だった。 中国は一刻も早く新天皇と謁見するため日本側にゴマを擦ったが、韓国は逆に反日侮日を強めていった。
中国が新天皇を重視するのは新天皇から一言でも「反省」を引き出せば、日本政府を屈服させられると思っているからで、利用したいだけです。 ところが韓国にはこうした外交センスが一切ないので、日本で何が起きているのか理解できませんでした。 1945年8月15日、それまで1億玉砕だと言って総力戦をしていたのが、天皇が一言しゃべっただけで全軍が戦闘を止めてしまいました。
これを見て米軍や中国人は驚愕し、天皇を利用したり天皇が日本政府に与える影響を重視してきました。 だが何を見てもさっぱり分からないのが韓国人で、何も考えず何も知ろうとしませんでした。 習近平でさえ安倍首相にペコペコして新天皇に一刻も早く会おうとしているのに、文在寅と韓国人は天皇の写真に落書きしたり燃やしていました。
新天皇即位後の日本政府はもう「旧天皇」の謝罪好きに左右されなくなり、まともな外交交渉をできるようになった。 こうした日本の変化を韓国が読めていない、というか知ろうとしなかったために、今まで通用していた韓国のわがままが通用しなくなったのです。 日韓が対立するたびに「全て日本が悪い」「日本は謝罪します」などと言う天皇はもう居なくなったのです。
韓国が瀬取りで金正恩を支える理由
瀬取りとは海上で船舶を横付けして密輸することで、北朝鮮は国連安保理で貿易制裁を受けているため、韓国は輸出入できない。 そこで韓国は黄海や日本海上でタンカーや貨物船、漁船などを利用して瀬取りを行っている。 瀬取りによって韓国は利益を得ると思われるが、金額として微々たるものなので、北朝鮮を支えるために行っている。 韓国は朝鮮戦争以来北朝鮮と「交戦状態」だが、一方で韓国には北朝鮮の支持者が非常に多い。
韓国は北朝鮮と交戦中だったから日米にチヤホヤされ経済成長できたので、北朝鮮は最も重要な取引相手でもあった。 もし北朝鮮が崩壊したり脅威でなくなったら、日米は韓国支援をやめてしまい、せいぜい東南アジア諸国程度の扱いになる。 韓国としては自国が日米の特別優遇を受けるために、北朝鮮の金正恩体制を支えている。 韓国が北朝鮮に密輸しているのは原油や食料や医療品やぜいたく品、話題になった日本からの輸入品などだと思われる。 そうした必要物資が北朝鮮の人々に渡っているなら別に良いのだが、農村や貧困者に配られることは絶対にない。 北朝鮮に限らず共産国家は厳格な身分制度で、身分は先祖代々子々孫々まで変わらない。
政府は上位階層から順番に物資や食料を配給する事で、忠誠心を高め反乱が起きないようにします。 階級が下がると配給も減っていき、下層階級にはわざと配給量を減らして飢えさせる政策を取っている。 これは李氏朝鮮から1000年以上続けてきた政策で、「農民や貧困者が豊かになると反乱を起こす」という考えからわざと飢えさせる。
だから瀬取りで輸入した物資は金正恩周辺にだけ配り、下層階級や地方の農村には間違っても送りません。 瀬取りは金正恩周辺の人だけを豊かにし、北朝鮮の多くの人々に行き渡る事がありません。 http://www.thutmosev.com/archives/80829374.html
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