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「拝謁記」で明らかになった天皇裕仁の詭弁と責任回避(読む・考える・書く)
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/346.html
投稿者 HIMAZIN 日時 2019 年 9 月 07 日 22:31:00: OVGN3lMPHO62U SElNQVpJTg
 

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/09/07/112221

「拝謁記」で明らかになった天皇裕仁の詭弁と責任回避

2019-09-07

8月17日に放映されたNHKスペシャル『昭和天皇は何を語ったのか 〜初公開・秘録「拝謁記」〜』。戦後初代の宮内庁長官となった田島道治が天皇裕仁の言動を5年近くにわたって詳細に記録した文書が新たに発見(遺族により公開)され、その内容を紹介した番組だ。

全体としては、裕仁が戦争を深く反省していたとか、軍閥の「下剋上」に逆らえずやむを得ず開戦したとか、戦後になって作られた天皇免責のためのフェイクストーリーをなぞった内容に過ぎなかったが、一部注目すべき部分もあった。

■ 「事志と違ひ」は責任転嫁の言葉

ひとつはサンフランシスコ講和条約発効(1953/5/3)を祝う式典での「おことば」を巡ってのやりとりだ。

この「おことば」の草案には、今まで知られていなかった次のような一節が含まれていた。

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事志と違ひ 兵を列国と交えて敗れ

人命を失い 国土を縮め

遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは

遺憾の極みであり

国史の成跡に顧みて 悔恨悲痛

寝食為めに 安からぬものがあります
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

「拝謁記」によれば、冒頭の「事志と違ひ」、つまり開戦は自分の意志ではなかった、という言葉は裕仁の強い希望により入れられたものだったが、草案の検討過程で宮内庁幹部の反対に遭い、「勢の赴くところ」という言葉に差し替えられたという。

「拝謁記」にあったのは「昭和天皇の反省」じゃない 戦争責任回避、侵略への無自覚、改憲再軍備主張、沖縄切り捨て…
https://lite-ra.com/2019/08/post-4921.html

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(略)田島が宮内庁内部の意見として「何か感じがよくないとの事であります」と説明すると、昭和天皇は、「どうして感じがよくないだろう。私は『豈あに、朕が志ならんや』といふことを特に入れて貰ったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」「私はあの時東條にハッキリ、米英両国と袂を分かつということは実に忍びないといったのだから」と抗弁。開戦が自分の本意ではなかったこと、開戦の詔勅にも「豈、朕が志ならんや」という文言を入れさせたことなどを強調していた。

 拝謁記には、これに対して、田島が「陛下が『豈、朕が志ならんや』と仰せになりましても結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」と諌めたことも記録されている。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

裕仁は、開戦が自分の意志ではないことを示すために、開戦の詔勅に「豈、朕が志ならんや(どうして私の意志であろうか)」という文言を入れさせたのだと言う。ではその開戦の詔勅とはどのようなものだったか。[1]

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
詔 書

天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐める大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。

中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

  御 名 御 璽

   昭和十六年十二月八日

各国務大臣副署
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一読すれば明らかなように、結局この詔勅が言っていることは、中国と戦争になったのは「帝国の真意」を理解しようとせず、日本に武力行使をさせた中国側が悪い、米英はその中国に味方してアジアを支配しようとしている、それでも自分は我慢して平和裏に交渉を続けてきたが、もう我慢の限界だから開戦する、ということであって、「豈、朕が志ならんや」というのも、戦を欲していない自分に戦争を始めさせる米英中が悪いのだ、という責任転嫁の言葉でしかない。

「おことば」の前記の一節は、結局吉田茂首相の反対により削除されてしまうのだが、全体として見ても、先祖伝来の領地を減らした封建領主が「ご先祖様に申し訳ない」と言っているような代物であって、まったくもって自分の仕出かしたことの重大性を理解していない。こんなものが戦争への反省だとは呆れるしかない。

■ 「軍部の下剋上に逆らえなかった」も詭弁

また「拝謁記」には、暴走する軍部に逆らえずに開戦に至ったのだ、という裕仁の弁解が何度も出てくる。

繰り返し戦争を回顧 後悔語る
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-01.html

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
昭和天皇は昭和26年9月10日の拝謁で「東條が唯一の陸軍を抑え得る人間と思つて内閣を作らしたのだ。勿論(もちろん)見込み違いをしたといえばその通りだが」と振り返り、昭和26年12月14日の拝謁では「平和を念じながら止められなかった」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」と述べたと記されています。

また、昭和27年5月28日の拝謁では「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」としたうえで、「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し(もし)戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角(とにかく)負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハあゝ一部の者の意見が大勢を制して了(しま)つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」と語ったと記されています。
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嘘である。

軍部の暴走は事実だが、それができたのは明治憲法で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定され、軍事は政府による統制を受けない天皇の専権事項とされていたからだ。だから軍部は「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされた天皇の威を借りて政府や議会を恫喝することはできても、「大元帥」たる天皇自身の意志に逆らって戦争を始めることなど原理的に不可能なのだ。

日米開戦を運命付けたのは「帝国国策遂行要領」を可決した1941年9月6日の御前会議だが、この席で裕仁は異例の発言を行っている。[2]

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
『帝国国策遂行要領』は可決された。日米交渉は期限(十月上旬頃)つきとなり、対米(英、蘭)開戦意志が国家意志として決定されたのである。

 会議の終りに異例の現象が生じた。天皇が発言したことである。

天皇 私カラ事重大ダカラ両統帥部長二質問スル。
  先刻原ガコンコン述べタノニ対シ両統帥部長ハ一言モ答弁シナカッタガドウカ。
  極メテ重大なコトナリシニ、統帥部長ノ意志表示ナカリシハ自分ハ遺憾ニ思う。私ハ毎日明治天皇御製ノ

    四方よもの海皆同胞はらからと思ふ代になどあだ波の立騒ぐらむ

  ヲ拝誦シテ居ル。
  ドウカ。

 近衛手記『平和への努力』では、このあと、天皇が「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めて居るものである」と発言をつづけたことになっている。満座粛然、暫くは一言も発する者なし、とある。

(略)

『杉山メモ』は、「……直接『遺憾ナリ』トノオ言葉アリシハ恐曜ノ至ナリ。恐察スルニ極力外交ニヨリ目的達成二努力スヘキ御思召ナルコトハ明ナリ。又統帥部力何力戦争ヲ主トスルコトヲ考へ居ルニアラスヤトオ考ヘカトモ拝察セラルル節ナシトセス」と、九月六日の項の末尾に誌している。

 発言しない建前の天皇が発言したのは異例のことである。つまり、天皇は意思表示せずにはいられなかったと解すべきであろう。もしそうなら、天皇は詩歌の朗読による表現などとるべきではなかった。詩歌は感傷的感懐の表現手段でしかない。事はまさに国運が決する瞬間だったのである。

(略)

「四方の海」の御製の朗読の代わりに、あるいは朗読のあとでもよかった、天皇がもし戦争は欲しなかったのなら、朕は戦争を欲せず、とひとこと言ったらどうであったか。
 詩歌に意思を托したりせずに、明確に直接表現をとったら、どうであったか。
 沈黙の慣例は天皇みずからによって破られているのである。天皇の直接的意思表示が異例のこととして行われたとしても、行われてしまえば、それを輔弼ほひつするのが列席者たちの任務なのである。
 詩歌の朗読では、意思はどれほど明瞭に感取されても、手続き上は忖度そんたくでしかないから決定力を持たない。

 列席者は恐懼したが、それだけである。日米交渉に国運が懸っていたとすれば、その日米交渉妥結にとって最大の障害となる『帝国国策遂行要領』を、九月六日の御前会議は可決したのである。天皇は消極的感想を三十一文字に托しはしたが、最高権威者として否認はしなかった。沈黙の人が、決定的瞬間に沈黙を破る必要を感じ、しかも決定的なことは言わなかったのである。明らかな責任回避であった。

 これ以後、国家は、奈落への急坂を加速して転落する。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

裕仁は、国家の運命を決する決定的瞬間に明確な意思表示を避けて国家元首としての責任を放棄した上、敗戦後は、自分は立憲君主だから政府の決めたことは不満があってもすべて裁可したなどと言って臣下に責任を転嫁した。

こんな人物のために命を奪われたすべての人々が哀れでならない。

[1] 芝蘭堂 『太平洋戦争 対米英宣戦の詔書』
[2] 五味川純平 『御前会議』 文春文庫 1984年 P.161-163  

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コメント
1. 2019年9月08日 03:15:10 : bd13yMP25Y : QlRLdWJLYlo2Q2M=[1] 報告
立憲君主制は独裁政治ではないということを理解すべきだ。
日清、日露戦争の成功体験に日本人の多くが酔ってしまったことの責任が一番大きい。日本人は選挙によって軍国主義に突き進んだのだから。
2. 2019年9月08日 07:28:02 : ymDJ8fHSwk : S2MvYjJ1akZWWVE=[1] 報告
君死にたまふことなかれ http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_03/poem_hyo.php?p=12
  与謝野晶子 (1878〜1942・大阪生まれ)――旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて

   あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、
   末に生れし君なれば    親のなさけはまさりしも、
   親は刃をにぎらせて    人を殺せとをしえしや、
   人を殺して死ねよとて   二十四までををそだてしや。

   堺の街のあきびとの     旧家をほこるあるじにて
   親の名を継ぐ君なれば、   君死にたまふうことなかれ、
   旅順の城はほろぶとも、   ほろびずとても、何事ぞ、
   君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり。

   君死にたまふことなかれ、  すめらみことは、戦ひに
   おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、
   獣の道に死ねよとは、    死ぬるを人のほまれとは、
   大みこゝろの深ければ    もとよりいかで思(おぼ)されむ。

   あゝをとうとよ、戦ひに   君死にたまふことなかれ、
   すぎにし秋を父ぎみに    おくれたまへる母ぎみは、
   なげきの中に、いたましく  わが子を召され、家を守(も)り、
   安しと聞ける大御代も    母のしら髪はまさりぬる。

   暖簾のかげに伏して泣く   あえかにわかき新妻を、
   君忘するるや、思へるや、  十月も添はでわかれたる
   少女ごころを思ひみよ、   この世ひとりの君ならで
   あゝまた誰をたのむべき、  君死にたまふことなかれ。
――『明星・1904年9月号初出』――

1904年、2月8日日本軍は朝鮮半島に上陸、10日「宣戦布告」、日露戦争のはじまりである。その同年9月この作品は発表されました。この晶子の詩に対して、当時の言論界の重鎮「大町桂月」は雑誌『太陽』において「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為である。」「乱臣なり、賊子なり。」と非難しました。それに対して晶子は「当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや。」と反論しています。また、晶子は「女というものはみな戦争がきらいなのです。」とも書いている。『明星』11月号には「私はまことの心をまことの声に出だし候とより以外に、歌のよみかた心得ず候。」とも書いています。

与謝野晶子は堺の老舗の羊羹屋「駿河屋」の三女として生まれる。堺女学校時代から文学に親しみ、また「駿河屋」の帳簿係をする合間にも読書を続けた。1901年、来坂した与謝野鉄幹に出会い、翌年鉄幹との結婚のため上京する。

3. 2019年9月08日 07:40:58 : cA4M9XWQOQ : SVU1VEVRT3hDVlk=[229] 報告
戦えば必ず負けると思っているのに
内閣の決定に従って
開戦の詔勅を下すしかなった
陸塊に何度か勝てるのか
天皇は聞いていたよな
だけど失敗を認めない
罵奸凌どもは必ず勝てる断言した
天皇の所為にすべきではないが
天皇を免罪したために
岸のような奸物が復活したのが
日本の独立のため不幸だったと思う
4. 2019年9月08日 08:19:05 : wRNZWJNQ2M : L01ZcDJzYW9yL3c=[3] 報告
>天皇裕仁

この書き方だけで、この書き手のバカサヨ的立場が表れている。

そもそも「拝謁記」は、当時の宮内庁長官のメモ書きに過ぎない。

それを持ち出して、なぜそこまで昭和天皇を非難するのか?

また、もっとも問題とされている「再軍備・憲法改定」についても、

たとえ動機のほとんどは皇室を守ることであったとしても、

共産主義国を恐れて再軍備の必要性を話したことが、そんなに間違っていたか?

また、憲法を書き換えずに、自衛隊を保持したことは、後からは「専守防衛のためなら認められる」と解釈できたが、

自衛隊が出来る前に、昭和天皇が再軍備には憲法改定が必要、と考えたとしても、特段、おかしくはないだろう。

5. HIMAZIN[761] SElNQVpJTg 2019年9月08日 10:09:55 : tfL5STIxFs : SktxRUovLlVxR1E=[96] 報告
>>4

アクロバティック擁護ご苦労さんです。
最大の問題は戦争責任なんだが、真っ当に判断すれば処罰は免れないということ。

あと、天皇をどう呼ぶかなんて、民主主義国家じゃ個々の自由。

6. 2019年9月08日 15:46:02 : hHRyrQsPsY : Nk5rVnVxSUM2Vk0=[218] 報告
02、
それで思い出した。日本文壇を代表する、進歩的、ロマン主義歌人の与謝野鉄幹は、たったその数年前、1895年10月8日の閔妃殺害事件に関与していた。

「関与」というのは曖昧な表現だが、具体的にはどういうことかというと、与謝野は殺害の計画、準備、人員を集めることまでやっていて、事件の実行が急遽前倒しになった(その理由は、王宮を警護する部隊が日本兵から変わることになったため、それでは具合が悪いので交代する前に殺害を実行しようということになった)ために、その日ソウルを離れていた与謝野は(当時携帯を持っていなかったので)連絡がつかず、実行部隊に参加できなかった、ということだ。

こういう事実は、全く教科書にも雑誌にも書かれない。そもそも、日本で誰でもが忠臣蔵を知っているように、韓国では閔妃暗殺を知らぬものはない、という。しかし、加害者の日本では殆どの人が閔妃という名前すら知らない。

99パーセントがマスコミの責任なのだが、日本の支配層の恥になるようなことは国民に知らせないようにしている、やむなくイベントや項目だけは知らせないわけにゆかなくなれば、ストーリーを改ざんし誤魔化して報道する。真実を知らない日本人がどうして世界でリーダーシップを発揮できるだろうか。諸悪の根源はマスコミである。

7. 2019年9月08日 23:26:17 : JCaHVaMlVc : UU13NWwxTWNnbi4=[2] 報告
裕仁の大日本帝国憲法時代の日本の立憲君主制は、
君主権の行使が憲法の制限を受けるイギリス型の
立憲君主制とは異なり、君主権が事実上憲法の制
限を受けないプロイセン型(ドイツ型)の立憲君
主制と言われる。

したがって、全軍の統帥権を持つ裕仁には、立憲
君主制の、憲法による制限を受けず全軍を服従さ
ることができたのであり、開戦と停戦の責任は全
面的に裕仁にあると言うしかない。

>>1
「立憲君主制だから、開戦した責任は裕仁一人に
あるのでない。責任は勝ち戦に酔った国民にある」

というのは、大日本帝国憲法下における立憲君主
制の日本型形態を無視した、「一億総懺悔」の立
憲君主制バージョンといわざる得ない詭弁である。

8. 2019年9月09日 00:10:09 : 1SF01Fx6zo : VDlXdzY4VERNRWM=[1] 報告
>>7

1です。
勉強になりました。ありがとうございます。
昔NHKで、昭和天皇が若いころイギリスを訪問して、イギリス型の立憲君主を目指すようになったという説明がなされていましたが、大日本帝国憲法とは整合していなかったのですね。

9. SHIGE[439] gnKCZ4JogmaCZA 2019年9月09日 09:56:19 : 8UP26mIKBQ : dTR6TVVwRENwWVU=[173] 報告
昭和天皇が、戦争責任の回避を故意にしてきたかどうかはまだまだ闇の中だ。

だが、戦争開戦が天皇の直接の命令ではなかったこと、さらに結果としての戦争には反省していると口にすることで、天皇自身の立場を安泰なものにしていこうとしたのは事実だろう。

当方には、昭和天皇の狡猾な転身や過去の誤魔化しといわれてきたものが、田島道治の「拝謁記」で明らかになったというよりは、別の見方の方がより正確のように思えてきた。

それは、昭和天皇と田島ら宮内庁内部、そしてもう一つ昭和天皇と吉田茂という関係の中で、天皇と戦争とのかかわりについての三者間の認識の相違というか「ちぐはぐさ」こそが、衆目の知るところとなったということだ。

田島と宮内庁内部から、天皇は式典での「おことば」の草案にあったという「事志と違ひ」について適切でない(「拝謁記」では「何か感じがよくない」)のでは、と指摘されたという。

ここの解読は難解だが重要であるとに思える。

天皇は自己の「事志と違ひ」という言い方で、「戦争開戦への意思」が無かったことをともかくも言いたかったのかとも推測される。

それとも、草案のあとに続く「兵を列国と交えて敗れ 人命を失い 国土を縮め 遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至った」という戦争全体の結末に対し「事志と違ひ」と言いたかったのかもしれない。

どちらとも断言できない。悪意に取れば上、善意に取れば下というところか。

天皇は、田島らの意見を取り入れて「勢の赴くところ」という表現に変えたという。
先の「事志と違ひ」とちがうところは、この修正によって、軍部とか政府とかの中の特定の個人(少数)の所為にしてしまう、というニュアンスは免れているとは言えよう。

曖昧さのままの決着には違いないが、終戦後数年時点の宮内庁を含めた一般国民の感情や世相がどうであったかはわかる気がする。

昭和天皇だけが、終戦直後を過ぎた時点に及んでも、自らの戦争とのかかわりへ評価について異常な関心(惧れ)を持っていたとも言える。

世相や天皇周辺と昭和天皇との「ちぐはぐさ」のひとつであろう。

吉田茂の方は手厳しい。

田島や宮内庁内部の意見を取り入れて修正したお言葉さえ、吉田は拒絶したのだ。結果天皇はそれを受け入れている。

戦争中数少ない欧米派として軟禁状態にあり、一方で岳父の・牧野伸顕を通して、当時の天皇の所業にも通じていた吉田にしてみれば、昭和天皇が戦争の開戦はもちろん作戦遂行にも、どのような立場にあったかを知悉していたのである。

だから、天皇自身がサンフランシスコ講和で「反省」などど口にすることは、道義的に許しがたかったというよりは、吉田の心情として「しらじらしいから口にはしないでくれ」の方だったろうと思われる。

当方は、怠惰の老年学徒につき、大きく判断を誤らない範囲で「ちぐはぐさ」と表現した。
この点についてのさらに突っ込んだ新しい研鑚結果にもお目にかかりたい。

参考T

サンフランシスコ講和条約発効(1953/5/3)を祝う式典での「おことば」の草案

<事志と違ひ 兵を列国と交えて敗れ
人命を失い 国土を縮め
遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは
遺憾の極みであり
国史の成跡に顧みて 悔恨悲痛
寝食為めに 安からぬものがあります>

、冒頭の「事志と違ひ」、草案の検討過程で宮内庁幹部の反対に遭い、「勢の赴くところ」という言葉に差し替えられたという。

田島が宮内庁内部の意見として「何か感じがよくないとの事であります」と説明すると、昭和天皇は、「どうして感じがよくないだろう。私は『豈、朕が志ならんや』といふことを特に入れて貰ったのだし、それをいってどこが悪いのだろう。

(リテラ 8/24)より

参考U

「反省?何をいまさら」が吉田茂首相の心境か
 NHK報道によると、天皇が「反省」を口にして、それを1952年5月の日本独立回復式典で表明しようと、宮内庁を経由して吉田内閣に伝えたのだが、吉田がこれを拒絶した、とあるのだが。・・・・
元老の岳父・牧野伸顕を通して、当時の天皇の所業にも通じていた吉田である。・・・・
敗戦から7年近くなって「反省」?どういうことか、が彼の本心であったろう。

(本澤二郎の「日本の風景」(3411)敗戦直後の昭和天皇語録に仰天する国民 より)

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