「アンブロークン」どころではない、言語に絶する連合軍による日本人戦犯への虐待 - YouTube https://www.youtube.com/watch?time_continue=662&v=WWYTvmrcCNI米国は、日本国が国際法に則り、今でも米国に対して二発の原爆を投下できる権利を持っている事をしっているのか!? 日本国政府は、その事には外交の場で一言も公言しないが、日本人が忘れる事は決して無い!! 少なくとも、私の一族は決して忘れず受け継いで行く!! 戦後、同盟国として、友好を誓い合った以上、口に出して米国を非難する事は日本人として人の道に反するため行わない。 日本人は「水に流す」事が得意だが、それは事と次第による。 正々堂々の戦いにより軍が攻められたなら恨みは残らないが、戦に関係の無い婦女子や老人を無差別に殺戮されたら、しかも人道に反する大量殺戮兵器の実験材料として殺されたら許す事は出来ない!! 更に、戦後の日本人の捕虜に対する非人道的な処遇は、原爆投下と同じ「人種差別」以外の何ものでも無い!! ーーーーーーーーーーーーーーーー ■遺体を損壊する行為 日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、 死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、 戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、 米国民の間で戦時中からよく知られていた。 日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、 ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。 「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、 それを頂いてネックレスでも作るかな 」と一人が言う。 「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」ともう一人が宣言する。 「 塩漬けにしてな」。( ガダルカナル日記、1942年 ) 戦後出版された水兵の日記の1944年( 昭和十九 年)7月の記述に、 すでに 17個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、 その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、 ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、 と事もなげに述べられている。 ( 容赦なき戦争、ジョン・ダワー著 ) ーーーーーーーーーーーーーーーーー 【サイパン】米兵、婦女子らに残虐行為 昭和19年7月9日、元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の 田中徳裕(のりすけ)氏らが山の中腹の洞窟から眼下の バナデル飛行場で繰り広げられた惨状を証言 『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』田中徳裕著(立風書房 昭和58年) http://amzn.to/1czuIJ9 昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、 約3個師団と推測される敵兵が上陸してきた。 そこからサイパン島の陸上戦が始まった。 当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、 民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。 7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり 掃討戦の様相をあらわしてきた。 敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し 投降を促す放送を流し始めた。 日本軍は組織的な抵抗は捨て、 洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。 米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、 隠れている日本人に投降を勧めました。 「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も充分に与えます。 もはや犬死にすることはない、 今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降を待っています」 その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。 これには潜んでいた日本軍も参ってしまった、 その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などが流されたそうです。 「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出て来てください。」 投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、 その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。 投降呼び掛けの放送とはうらはらな、 人道上許し難い残虐な行為をしだした。 日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、 その距離1キロ位先で展開された。 そこへ、三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。 婦女子が全員、素っ裸にされた。 そして、無理やりトラックに積み込まれた。 そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。 婦女子全員が、トラックの上から 「殺して!」「殺して!」と絶叫している。 その声がマッピ山にこだまし、 次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。 なんたることをするのだ、 小銃だけではどうすることもできず、此方の位置も知れてしまう。 この悲劇をただ見守るしかなかった。 (この婦女子はその後一人として生還しなかった) 婦女子が連れ去られたあと、 こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。 ガソリンがまかれ、火がつけられた。 飛び出してくる老人子供たち。 その悲鳴。 「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」 の投降勧告の意味は一体なんだったのか。 常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。 幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。 残虐な行為は凄絶をきわめた。 火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、 ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。 かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、 再び足で蹴り飛ばしたり、 銃で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。 二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに 置き去られて泣いている赤ん坊を見つけ出し、 両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。 「ギャッ」という悲鳴。 人間がまるで蛙のように股さきにされ殺されてゆく。 彼らは、それをやっては大声で笑った。 無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた ーーーーーーーーーーーーー https://www.youtube.com/watch?v=9hkoI_r3MLM異国の丘 https://www.youtube.com/watch?v=mPsozoEC9bEモンテンルンパの夜はふけて ーーーーーーーーーーーーーー 兵藤栄治 8月11日 金曜日 「たとえば第42連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。 兵どもはそれを自慢にしているのだ」 「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。 ところが、捕虜1名に付きシドニーへ2週間の休暇を 与えるというお触れを出さない限り、捕虜が1人も手に入らない。 お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」 「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は1人も入ってこなくなる。 兵どもはただ、1人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。 日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの 話を覚えているかね?あるパイロットなど、僕にこういったものだ。 捕虜を機上から山中に突き落とし、 ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」 「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知っているかね。 わが軍が通り抜けたとき生存者は一人ものこさなかったそうだ」 「ニップスも、われわれに同じことをやってのけたのだからね」 「オーストラリア軍ばかりを責めるわけにはいかない。 性器を切り取られたり、 ステーキ用に肉を切り取られたりした戦友の遺体を発見しているのだ。」 「オーストラリア軍はジャップが 本当に人肉を料理していた場所を占領したことがある。」 ◆8月14日 月曜日 ・・・・戦闘飛行連隊管制班の連中が自発的にパトロールを実施し、 相当数の”ニップス”を殺したと将校達は語る。 そのリーダー格は管制班に所属する チェロキー・インディアンの混血であった。 「連中はちょいちょい、自分たちで殺したジャップの大腿骨を持ち帰り、 それでペン・ホルダーとかペーパー・ナイフとかいったような 品を造っている」 当地の将校達は、P47の行動半径内に 日本軍の抵抗がないと腿肉の嘆をかこっている。 ◆8月27日 日曜日 ・・・・地面の至るところに弾薬箱が散乱し、 アメリカ軍の墓地ができている。白い十字架が立つ墓地もあった。 墓標前の土盛りには海兵隊の鉄兜が置いてある。 日本軍将兵・・・・数千人の墓地には墓標らしきものさえ立っておらぬ。 死体はブルドーザーがさらって穴の中に放り込み、 その同じブルドーザーがかき集めた石灰岩で上から蔽ったのである。 島が小さかったので、敵の死体さえ埋めねばならなかったということだ! ◆9月9日 土曜日 ・・・・アメリカ軍の戦死者は個別的に埋葬されたが、 日本軍の戦死体はトラックに積み込み、 ブルドーザーが掘り返した大きな穴に放り込んだ。 原住民が主として死体の処理に当たり、 彼らは多くの死体を”臭気”で見つけ出したそうである。 将校の話によれば、穴の中の遺体を「ブルドーザーにかける」前に、 何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、 金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。 金歯を仕舞い込む子袋を持っている海兵隊員さえいた。 その将校はさらに耳や鼻を切り落とされている日本軍の 戦死体を幾つか見たとも言った。 「平が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、 乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。 日本兵の生首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。 頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、 悪臭が強くなりすぎたので、首を取り上げねばなりませんでした」 行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ。 ――――――― 戦後GHQの統制で占領軍に不利な記事は 全て封印してきたことが米軍の占領政策を成功に導いている。 しかし日本人は戦争の真実を知らなければならない。 欧米の人種差別がいかにひどかったか。 そして日本人捕虜を犬畜生のごとく扱った事実を知らなければならない。 そこから人間の本質が見えてくる。 ――― 米豪軍の日本兵に対する残虐行為(リンドバーグの衝撃証言から)より http://depot3.blog75.fc2.com/blog-entry-12.html 資料集 2003年5月14日 リンドバーグ日記にみる日本兵と米兵 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/7371/siryou/2003_05_14_siryousyu.html#Lindbergh ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『大和と運命を共にした第2艦隊司令長官』 伊藤整一 著 昭和20年 ( 1945年 )4月7日、 沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ 巡洋艦矢矧 ( やはぎ )など2隻、 駆逐艦3隻が敵の空襲を受けて沈没しました。 「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、 空母を飛び立った米軍戦闘機の群が執拗に来襲しては 情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」 ( 矢矧の原艦長の証言 ) 「 この悲惨な状況をあざ笑うかのように、 米軍機は何時間にもわたって、 無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた 。」 ――――――― 『容赦なき戦い』 ジョン・ダワー著 同様な残虐行為は ニューギニア近海でもおこなわれました。 昭和18年3月3日に起きた ビスマルク海戦 ( 空襲 )の結果、 陸軍の兵士を乗せた輸送船8隻と駆逐艦4隻が 敵機の攻撃により沈められましたが、 沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり 漂流中の千名の兵士達に対して 、 アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、 機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、 映画撮影のカメラマンまで乗せて 何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。 「 決して男らしいやり方ではなかった 」 と 第5爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。 「 隊員の中には気分が悪くなる者もいた 」。 救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えた。 その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが 10年ほど前にオーストラリアの テレビ局から放映されて、 国民に大きなショックを与えました。 「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この動画、出版会社のコマーシャル動画なので最初見たときは鼻についたが、ch桜の著者出演動画を見て、買ってもいいかなと思った。 https://www.youtube.com/watch?v=f18SdNrLlDs ーーーーー さて、シベリア出兵の本質とは何か? 反日プロパガンダの好き勝手な解説しか、日本国民が知らないし、知ろうともしない・・・・。 で、まあ、的を得ていると私が思った書き込みをご紹介致します。→http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n75155 ーーーーーーーー https://www.youtube.com/watch?v=MOwj5i7jlu8 わからなかったことが解ってくる・゚゚・(>_<)・゚゚・ https://www.youtube.com/watch?v=84RDuuPf8yA ーーーーーーーーー http://rekisi.amjt.net/?p=193 分かりやすくいえば、今のテロリストのような卑怯な戦法をしていた英米 ーーーーーーー まったくそんなのは嘘です。こんなことばっかりでした!→http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html 1927年( 昭和 2年 )に チャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、 史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功した。 彼は1944年( 昭和19年 )に ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、 その体験を日記に記して後に 「 第2次大戦日記上巻、下巻 」として出版した。 ――― 1944年( 昭和19年 )6月21日の日記には、 日本人捕虜に タバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、 のどを「 真一文字にかき切った 」というのを、 日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれた ある将軍との会話を要約している。 残虐行為に対するリンドバーグの異議は、 嘲笑と 「 あわれみ 」をもって軽くあしらわれた。 6月26日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、 および パラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。 降伏し捕らえられた2千数百人という日本兵捕虜のうち、 捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か2百人に過ぎなかった 。 残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。 「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が 日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう 」 とリンドバーグは聞かされた。 つまり黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、 余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった。 7月13日の日記では、 「 われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を 射殺することをなんとも思わない。 彼等はジャップに対して、動物以下の関心しか示さない 。 こうした行為が大目にみられているのだ。」と記されていた。 8月30日にリンドバーグは、 中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。 そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、 日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、 尋問に英語で答えられる者だけを残し、 あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。 ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、 後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて 収容施設のある地域に輸送する際に、 彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた 。 そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。 ( 以上、第2次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著 ) ーーーーーーーーーーーーーーー 南太平洋の戦闘では、日本人の、捕虜が極端に、少ない、それは、婦女子、幼児を含めて、皆殺しにしたからで、公式文書も、米軍の、従軍記者の手記として、残る、乳児は生きたまま、米兵が、飛行場で、笑いながら、火の中へ、投げ入れて殺した。戦後まもなく、ニュ一ギ二ィ沖で、日本は、停戦降伏しているにもかかわらず、豪州軍は、日本の。赤十字医療船を、オ一ストラリア空軍の攻撃で撃沈され、海上で助けを求める、多くの日本人将兵、傷病兵総てを、海上機銃掃射で、射殺した、また、キャンベラに有った。カウラ日本人捕虜収容所の、集団脱走で、脱走した、武器すら持たない、全員を、射殺した、寧ろ、わざと、脱走させ、射殺したとみる方が自然、内陸部深いキャンベラ郊外から、逃げ切れる可能性はゼロに、等しく、当時の軍人が、そのような、無謀な計画を立てるはずが無く、とても、不自然、戦後間もないころの為、日本は、何ら、抗議できなかったし、その後の、抗議、調査すら、していない。戦後、在豪日本大使館は、今日に、至も。何もしていない。 ーーーーーーーーーーー 私が学生時代に帰還兵の方から聞いた話。米軍の捕虜となった日本兵は縛られて飛行場に並べられ、そしてブルドーザーでなすすべもなく、みんな轢き殺されていった。どうしてそんな話が伝わったのか?端に転がされていた兵が必死で縄をほどき、ジャングルに逃げ込んでまさに九死に一生を得てこの話を伝えたとのこと。他にも沈没した船から投げ出された日本兵に機銃掃射や爆雷を投げ込んで皆殺しにしたなど、なんら良心の呵責を覚えない一神教の底知れない怖さを感じる。 ーーーーーーーーーーー 子供の頃 捕虜に金平ごぼうを食べさせて 我々に木の根っこなぞ食べさせて と処刑された人のドラマを見て アメリカが大嫌いになった 韓国人を嫌いになる ずっと前からアメリカ人が大嫌いだ! ーーーーーーー また、初めからヤルタ会談での密約の工作活動員として、戦後も暗躍した「瀬島龍三」は伊藤忠商事の会長職にまでなっている。 →http://blog.goo.ne.jp/s6990714726/e/a404d393641ce8045d531d72a050065a http://plaza.rakuten.co.jp/kmrkan55/diary/201308260000/ ーーーーーーーーーー
[スレ主【仁王像】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)論点外れの長文。
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