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「勝利」以外の可能性を論じる軍人は指導部から追放された 保阪正康 日本史縦横無尽
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/251653
2019/04/12 日刊ゲンダイ 東條英機(C)共同通信社 太平洋戦争に入る前の軍事組織は戦争を望んでいたが、それは指導者たちが心の中で「勝利」以外を信じないという決心を固めることでもあった。彼らは勝利以外の可能性を論じる者は敗戦論者だとして指導層から追い払った。昭和16年11月に日米交渉は少しずつ絶望的であることが明らかになったが、戦争を現実に進める段になっても、「勝利」以外は考えていない。 11月の半ばだが、陸軍省軍務課の高級課員で中佐の石井秋穂は、首相、陸相である東條英機から、どのような段階に達したら戦をやめるかを考えるように命じられた。この頃の内閣の起案文書の多くは軍務課の将校たちが下案を作っていた。石井は海軍省軍務課の高級課員の藤井茂と打ち合わせをして、どのような案にすべきかと首をひねった。要するに日本が勝つとはどういうことかを文字にする役割を与えられたのである。 私は、昭和50年代に石井に何度か会って、この頃の下案作りの根拠とはどういうことかを確かめた。「まさかワシントンに日章旗を立てたり、ロサンゼルス市内を行進するのが勝利と考えたわけではないですよね」と尋ねると、石井は苦笑いを浮かべ、「いくらなんでもそこまでは考えないよ」といった。 石井は冷静なタイプで、自らを厳しく律する軍人である。日本が勝つことは軍事的には難しい、なるべく日米戦争は避けたいと考えているのだから、本来なら省部(陸軍省や参謀本部)にいることはできない。東條に追い出されてもおかしくはないのだが、軍務局長の武藤章が彼を手放さなかったためこのポストに就いていた。 軍内では、もし石井が省部を離れたら戦争の合図だと密かに噂されていた。その石井が藤井とともにまとめたのが「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」であった。石井の私への直話によると、アメリカとの戦争に勝てるわけはないので、アメリカが援助しているイギリスや蒋介石政府を屈服させることで、アメリカがどれだけ支援しても意味がないと知らしめることを基本方針としてまとめたというのであった。しかし自分たちの作成した案を基に東條や杉山元、永野修身らの軍事指導者や政治指導者が決めればいいと考えていた。 ではその下案とはどんな内容だったのか、を見ておく必要がある。 保阪正康 作家 1939年、北海道生まれ。同志社大卒。編集者を経て「死なう団事件」でデビュー。「昭和天皇」など著書多数。2004年、一連の昭和史研究で菊池寛賞。
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