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小沢一郎戦記
小沢一郎「幻の大連立」を語る
(5)大連立しても選挙には勝った。政権を取るには行政経験が必要だ
佐藤章(ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長)
朝日新聞社 WEBRONZA 2019年04月08日
より、無料公開部分を以下転載。
■幻の大連立
歴史にイフ(もしも)はない、と人は言う。俗耳に入りやすい言葉だが、このことに関しては私は丸山眞男の考えの方が正しいと思う。歴史というものはたった一つなのではなく、いくつか異なった歩み方もあり得たし、そういう歩み方を様々に考察していた人がいたということの方が大切なんだ、と丸山は言っている。
その貴重な例証のひとつをこの連載の主人公、小沢一郎に求めてみよう。
干支が一回り遡る因縁の2007年参院選。第一次政権を率いていた安倍晋三総裁の自民党は37議席という歴史的な大敗を喫し、小沢代表の民主党が60議席を獲得して参院第一党に躍進した。この選挙結果による衆参ねじれが第一次安倍政権に与えた打撃は大きかった。
2001年の9.11を受け、小泉純一郎政権はアフガニスタン攻撃の米軍を後方支援するため自衛隊艦船をインド洋に派遣していたが、その根拠法となるテロ特措法がちょうど2007年11月に失効することになっていた。インド洋でのこの自衛隊活動を続けようとすれば法改正が必要だが、参院がねじれてしまって改正は壁にぶつかっていた。
小沢は当時の駐日米大使ジョン・トーマス・シーファーを党本部に迎え入れて会談、「日本は国連が認める平和維持活動には参加するが、米国を中心とした活動には残念ながら参加できない」と明言した。
筋を通す小沢のこの姿勢に、対米外交を何よりも最優先する安倍もなすすべがなかった。2007年9月12日、体調不良もあって総理大臣の職を辞した。
安倍の後を継いだ福田康夫にとってもテロ特措法の改正問題は喫緊の課題だった。
10月30日と11月2日の2回、福田と小沢は会談した。会談の経過は、福田が法改正への協力を請い、小沢が拒絶、続けて福田が小沢の意向を全面的に受け容れて、自衛隊の海外派遣は国連総会の決議などを条件とするということで合意した。
そして話し合いは進み、民主党が政権に参加する大連立構想を積極的に進めるところまで行き着いた。ところが、小沢がこの経過を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったところ猛烈な反対にあった。「戦前の大政翼賛会のようになってしまう」という批判があったが、わざわざ大連立をしなくとも、民主党単独で戦後初めて選挙による政権交代を近い将来成し遂げることができるという空気が強かった。
選挙に勝って民意による民主党単独の政権交代という民主主義のカタルシスを得るのか、それとも爆発的なカタルシスを失っても政権参加による行政経験の習熟を得るのか。
外野で見ていた私自身、その時の臨時役員会と同様、前者の民主主義カタルシスを支持した。戦後日本の政治史において、選挙による政権交代を経ることが国民の経験上重要だと私は考えていた。国民の多くもそう考えていたのではないだろうか。
■「大連立をしても選挙には勝った」
しかし、3年余りの民主党政権の経過を振り返る時、この判断が果たして正しかったのかどうか、私には甚だ疑問に思えてくる。そして、小沢自身は臨時役員会の圧倒的な反対を受けて大連立構想を引っ込めるわけだが、ここで現在の人間がきちんと考えておかなければならないのは、歴史のもうひとつの歩み方を構想していた人間がその時存在したという事実だ。
自らの力で政権を勝ち取ったという政治的達成感の経験も大事だが、それ以上に、現実的な行政経験を積み、官僚との協力の仕方を覚えることの方が将来の政権運営のためには重要なのではないか。小沢は独りそう考えていた。まさに丸山眞男の言う、いくつかの歴史の歩み方を読み、その中での軽重を比較判断できる能力と言ってもいいだろう。
「大連立はやった方がよかった。それでも選挙は勝ったと思う」と小沢はいま振り返る。「それどころか余計に勝っただろう。とにかく当時は経験の少ない若い議員が多かったから、少し行政経験を踏んでおいた方がいいだろうと思った。政権を取った時にまるきり素人が行政に入るより多少行政経験を積んでおいた方がいいに決まっている」
こう振り返る小沢の考え方は、自分自身の経験に基づいている。
「自分だって最初からそんなに知っていたわけではない。長年かかっていろいろ経験し、勉強しているから行政のことはいまはよくわかっている。だから、官僚は私の前では生意気なことは言わない。こちらが何か提案すれば『その通りです。じゃあ、実際にそれをするにはどうしたらいいか』という話になるんだ。私は筋道の通らない話はしないし、天下国家のことで自分の利害でものを言ったことがない。だから、役人は反論のしようがない。政治家は自分で勉強しなければならないけれど、やはり経験を積まないと自分の主張に自信がつかないんだ」
小沢のこの言葉は、民主党の政権運営にとっては実に重い意味を持っている。民主党政権の悪戦苦闘の日々を思い出すと、私はそういう感を深くする。
■仙谷由人からの連絡は途絶えた
2009年8月30日、民主党は一政党としては戦後最多となる308議席を獲得して第45回総選挙に大勝、9月16日に鳩山由紀夫内閣が成立した。
民主党内閣成立の数日前、私は、入閣するであろう仙谷由人から再び協力を要請された。1998年の金融国会で協力して以来しばらく離れていたが、政権運営にあたって金融経済方面で人脈を広げ、銀行経営についてより深い知識を得たいという相談だった。
私は取材協力者一人を伴い、ホテルニューオータニに赴いた。ニューオータニクラブの会議室で久しぶりに仙谷に会った私の目には、政権獲得の喜びに浸っているようにはまったく見えなかった。
「あれから10年か。ただ馬齢を重ねてきたような気がするな」
当然謙遜もあっただろうが、その表情には懐かしさと真剣さの中に若干の不安が覗いているような気がした。恐らくは初めて政権を運営していく緊張感もあったのだろう。こんなことも口にしていた。
「いまは干されているがやる気のある官僚もいるんだ。そういう官僚を味方に引き込むんだ」
別れ際、私は仙谷と今後も連絡を取り合っていくことを確認し合った。しかし、鳩山政権が発足し、行政刷新担当相や内閣官房長官などを歴任していく日々の中で、私は仙谷と会うことはなかった。私にとっては意外なことだったが、秘書を通じて何度会見を申し入れても折り返しの連絡が来ることはなかった。
その後生前に衆議院議員会館で偶然すれ違って二言三言言葉を交わしたのは、まさに民主党政権が終わろうとしていた日々の中のことだった。内閣の中枢で政権運営を担う重責は相当に厳しいものがあったのだろう。政権外の時に知り合った一記者などとわざわざ会見する余裕などはなかったのにちがいない。私はそう想像している。
しかし、実を言えば同じころ、仙谷から同じような意外感を味わわされていたひとりの官僚が存在した。
■古賀茂明の登用は消えた
第一次安倍内閣の時から公務員制度改革に取り組んでいた国家公務員制度改革推進本部事務局審議官の古賀茂明だった。公務員制度改革に積極的な民主党が政権に就けば、古賀の本格的な取り組みも前進するにちがいない。古賀は、誕生した民主党政権にこう期待を寄せていたが、その期待は当初当たった。
その経緯を私に語った古賀によれば、鳩山内閣発足の前後3回、それまで面識のなかった仙谷に呼ばれ、大臣補佐官就任まで要請された。3回のうち前の2回の会合では、仙谷は、古賀が発信する改革の提案に大乗り気の様子だった。古賀は当時「干されて」いたわけではないが、強い正義感に貫かれた行動から古巣の経済産業省では異色の官僚と見られていた。仙谷が私にふと洩らしたように、新しい行政刷新担当相はそういう古賀を当初味方に引き入れようとしていた。
しかし、古賀の記憶では9月のシルバーウィーク、つまり20日から23日の間の一日、3回目にホテルニューオータニに呼ばれた古賀は、すっかり消極的な姿に転じてしまった仙谷を見いだした。本格的な公務員改革をはじめとする古賀の改革案はほとんどここで潰えた。
古賀はその後12月に公務員改革事務局幹部全員とともにその任を解かれ、官房付という閑職で経産省に戻された。仙谷の秘書からは「申し訳ありません、申し訳ありません」という謝罪の言葉ばかりで真相は明かされなかった。ただ、「事情は言えないが、こんなくやしい思いをしたのは自分の人生で初めてだ」と秘書は語っていた。
一体、何が仙谷をしてこうまで消極姿勢に変貌させてしまったのか。 ・・・ログインして読む
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