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(回答先: 日本語と日本語教育をどのように守るべきか 言語問題、あなたは「反日」? 人口危機 正視せぬ日本人 投稿者 うまき 日時 2019 年 3 月 11 日 10:44:21)
南京大虐殺の「嘘」はどう作られ世界に広まったか
タウンゼントやホワイトが見抜いた蒋介石や米国人宣教師の虚言
2019.3.11(月) 森 清勇
孫文が眠る南京・中山陵、予約制により混雑緩和
孫文が眠る南京・中山陵(2018年10月2日撮影)。(c)CNS/泱波〔AFPBB News〕
1927年に権力者になった蒋介石は宣教師たちを蔑んでいた。
しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。
ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。
蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。
これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。
宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。
また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の曾虚白をあてる。
国際宣伝処の本部は重慶(南京後の国民政府の首都)に置くが、上海と香港に支部を開設、昆明や米英加豪墨印星(シンガポール)の首都か大都市に事務所を設ける。
特に米国ではワシントンのほかにニューヨークとシカゴにも事務所を構えた(北村稔著『「南京事件」の探求』、以下同)。
国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動する。本部、支部、事務所がそれぞれに刊行物を出し、通信社も設立する。
宣伝に信憑性をもたせるために処長が採用した方策は、「中国人は顔を出さずに手当てを支払うなどの方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的手法」である。
この国際友人として働く中心的な人物が、オーストラリア人の元ロイター通信記者で、当時は英国のマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員のティンパーリー(中国名・田伯烈)である。
蒋介石の国民党・国民政府の顧問になり、「百人斬り競争」の武勇伝や「怒濤のごとく南京城内に殺到した」などと日本の新聞が報じると、これらを取り込み「日本軍の悪行」に歪めて『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)をロンドンで上梓する。
中国語版の『日軍暴行紀実』が同時並行して出る手際の良さは宣伝網が有効に機能していたことを示している。
また、ティンパーリーからの話を受けて、金陵大学教授で安全地帯国際委員会委員でもあったスマイス(中国名・史邁士)が南京戦で日本軍が与えたとする被害状況『南京戦禍写実』(通称「スマイス報告」)を著述する。
いずれも1940年のことで、「両書は一躍有名になった」というが、蒋介石政権の威信をかけた宣伝戦であり、当然であろう。
蒋介石の米国世論操縦策
日中戦争時の1939年4月から12月まで重慶の国民党国際宣伝処で働き、のちにピュリッツアー賞も受賞するセオドア・ホワイト(中国名・白修徳)は回想録『歴史の探求』で、蒋介石の米世論操縦について明かしている。
米国への接近は米国で教育を受けた蒋介石夫人の宋美齢が、夫を説き伏せてメソジストに改宗させたことから始まるという。
そして主要な部長(閣僚)、たとえば財務部長(オバーリン大・エール大卒)、外交部長(エール大卒)、教育部長(ピッツバーグ大卒)、情報部長(ミズーリ新聞学校卒)は米国の大学卒で、政府内の米大学出身者を数え上げたらきりがなかったという。
そうした中でも、各国に派遣された大使の面々は、圧倒的に米国の名門大学卒業生で、ワシントンにはコーネル大・コロンビア大卒、ロンドンにはペンシルバニア大卒、そしてパリにはコロンビア大で3つの学位を取得した顧維鈞を任命していた。
顧維鈞は国際聯盟で日本非難の演説を行った人物で、息子もハーバード大に在籍しているのを自慢にしていたという。
また、中国銀行頭取(ハーバード大卒)、司法院長(コロンビア大・カリフォルニア大卒)、国家保健監督官、海外貿易委員会、塩務署など中央機関のトップも多くが米国の大学出身者が占めていた。
ハーバード大学を1938年秋に最高学位で卒業したホワイトは、世界旅行の給費を受け、ロンドンを皮切りに、パリからスーダンやパレスチナ、インド、シンガポールなどを旅して、39年初めの数カ月間を上海で過ごす。
上海を根城に北京にも出かけ、また日本軍のスポークスマンに取り入り、満州も旅行する。
英米人などに牛耳られた上海では工場労働者の少女たちが日に何人もごみの山に捨てられている状況も見てショックを受ける。
いままでに見たこともない不条理が記者になる決意をさせ、4月から重慶の蒋介石政権の宣伝員に繋がる。
自身のハーバード大の学位はボストンよりも中国でずっと意味があり、「中国ハーバード・クラブを結成したが、会員にはジョン・F・ケネディ(大統領)がワシントンでハーバード・クラブを作ってもこうはなるまいと思えるほど、蒋介石政府高官の割合は大きかった」と述懐している。
米国の学歴を持つ中国高官が多かったのは、ホワイトには「好都合な人脈であったが、中国国民にとっては大いなる悲劇であった」と冷静である。
立派な英語を話す政府高官たちではあったが、「自国の民衆とは異質の存在で、民衆に対する理解を―重慶という古都についての理解さえも―欠いている」ので、「中国で何が起きているのか」さえ知らないと手厳しい。
ホワイトは蒋介石に最初は尊敬と称賛の念をもっていたが、「次第に憐れみを感じ始め、最後は軽蔑するようになった」という。
それでも「私はアメリカの世論を操るために雇われたのだ。日本に敵対するアメリカの支援は、政府が生存を賭ける唯一の希望だった。アメリカの言論を動かすことは決定的(に)必要なのだ」と述べる。
当時のホワイトは、軍国主義日本に対する中国政府は正義という認識に立っており、「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」と明言している。
報道の真実性
ホワイトは国際宣伝処で「自身が脚色した」戦時報道の実例を2つ挙げている。
一つは、日本軍に占領されていた浙江省のある所の劇場で、日本軍兵士が観劇中に蔡黄華(ツアイ・フアン・フー)という中国人女性が手榴弾を投げ込んで数人を殺し、無事に逃げおおせたという中国語の記事を目にしたことである。
ホワイトは文字から忠実に「ミス・ゴールデン・フラワー・ツアイ」とし、「ゲリラの首領、中国抵抗戦士団の巴御前」と英語に翻訳し、少しだけ脚色したというのだ。
すると、ニューヨーク・タイムズ特派員のダ―ディン記者を除き、通信員たちは飛びつき、各通信員の本社からは写真を要求してきたという。
そこで情報部の同僚が、腰に二挺拳銃を下げた若い中国人女性の写真を提供すると、彼女は「二挺拳銃のゴールデン・フラワー嬢」となる。
通信員たちはますます情報を欲しがり、情報部は気前よく彼らの要求に応じ、数カ月のうちに「ゴールデン・フラワー」ツアイは、蒋介石夫人に次ぐ抵抗運動のヒロインになったというのである。
リライトマンの手にかかった彼女の偉業は、米国で伝説となり、ホワイトがタイム誌の極東部長になっていた3年後には、タイム誌で取り上げたらどうかとの提案が持ち上がり、作り話の張本人であったことを白状しなければならなくなったというのである。
もう一つは難民と彼らの苦難についての記事で、1937年から38年の漢口陥落までの14か月間に、国民救済委員会は難民キャンプに2500万食配ったというものである。
ところが「どうしてか間違って」、記事では「統計によると中国が抵抗を始めた最初の数年間に日本軍侵略者の手を逃れてきた人々の数は、2500万人にのぼる」となってしまったという。
数字は海外に伝送され、新聞社の資料に残り、雑誌の記事に使われ、日中戦争の学術的数値となって何度も現われ、「すでに歴史の一部となってしまった」と述べる。
実際は「二百万あるいは五百万だったかもしれない」が、「二千五百万という数字がほとんど全ての歴史書にしっかり残っている」ので、「日本軍による混乱を(正しくは)誰一人知ることはないだろうと悟った」と自省している。
誰も否定できない「嘘」の独り歩きは、「南京大虐殺」の構図を想起させる。
中国における米国人宣教師たち
1931年に上海副領事として赴任し、第1次上海事変を体験した米外交官のラルフ・タウンゼントは、その後福建省副領事となるが33年に帰国すると外交官を辞する。
そして、中国の真実が外部世界に伝わっていないとして著述したのが『暗黒大陸 中国の真実』である。
中国に住んでいる外国人で中国の国情を把握しているのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であるが、宣教師は事実が知られると援助が打ち切られる危惧を持ち、事業家は不買運動を恐れ、政府役人は外交辞令的なことしか言えないわけで、一種の「箝口令ともいうべきものが敷かれる」結果だという。
3年の外交官生活でしかなかったが、新聞記者と大学教授をそれぞれ3年づつ経ての外交官であり、他方で書籍を通しての中国しか知らないで赴任したことや好奇心が旺盛であったことなどから、「中国の真実」が全く伝わっていないことを痛感し、その現実を宣教師と事業家と政府役人の在り様に見つけたのだ。
全10章のうち大部は中国人と中国の実情、そして阿片に費やし、日本(人)と中国の関係などもあるが、中でも宣教師と布教については2つの章を割いて実例を挙げて「糾弾」ともいえる記述をしている。
事業家や政府役人は概ね都市部に所在するが、宣教師は啓蒙などの使命から、辺鄙なところに所在し、危険なところなどにも出かけたりして、中国の実体を事業家や政府役人より詳しく知っているからである。
他方で、米国では富める人も貧乏な人も分に応じた寄付をすすんで行うのは、それが有効に使われているという認識に立っているからであるが、中国での布教は不毛の歴史であったし、いま(当時)の布教活動の実態は国民の期待に沿うようなものではないとバッサリ切り捨てる。
カトリックやプロテスタントを問わず、ミッション・スクールには米国から多大の金が投入されているが、聖職者になるのはほんのわずかでしかない。宣教師が中国人の孤児を育てても、成人して泥棒の親玉になって育てた宣教師を狙う話なども書かれている。
宣教師の敷地を貸したら、ついには住みついて、返却を要求しても逆に損害賠償を請求される状況であるという。
こうした事例をいくつも挙げ、他にも理解できないようなこと、理不尽なことが数え切れないほどあるが、ともかくこうした実態は何一つ本国、なかでも支援者たちに全然伝わっていないし、事実は全く逆のことになっているという。
タウンゼントは上海や福建省で見た宣教師を主体に論述しているが、南京の宣教師たちも日本軍を悪者にする嘘を捏造してでも報告するのが中国(蒋介石政権)を助ける道という意識が通底していたと思われる。
だからこそ、南京の宣教師たちは、日本軍兵士が行ったとする掠奪、強姦、放火(これらも中国敗残兵によるものが多いとみられるが)などを大虐殺に仕立てる蒋介石のプロパガンダ作戦に進んで協力したのだ。
宣教師による米国内の宣伝行脚
国民党・政府の意を受けて大活躍するのはティンパーリーである。
日本の罪行を告発する『WHAT WAR MEANS』を著述する前から、国民党外交の主目的である米国への工作を推進する。
南京安全区国際委員会委員で国際赤十字委員会委員長でもあったアメリカ人のジョン・マギー牧師が撮影した金陵大学病院で治療中の民間人負傷者を示す16ミリ・フィルムが宣伝に活躍されることになる。
ティンパーリーは米国人のジョージ・フィッチが持参したこのフィルムを見て、一計を案じる。フィッチはYMCA理事で、教会の関係者として、またロータリー・クラブの会員など交友範囲が絶大なことから、全米の宣伝マンにする発想である。
「ハル(国務長官)からはきっと会見を申し込まれるだろうし、もしかすると、大統領(ルーズヴェルト)とも会うようなことになるかもしれません。彼のワシントン行きは、将来アメリカの中国政策にとって重大な意義をもつようになるでしょう」(北村著)とまで述べている。
実際にマギーのフィルムをもって渡米したフィッチがたどった道を眺めてみよう。
1938年1月19日、日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに南京から上海へ行く。
このとき、虐殺場面を撮ったとされるネガ・フィルム、8リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)をオーバーの裏地に縫い込んでいたため、「少し気を遣った」という。
上海では直ちに複写するためにコダックの営業所に行き、4セットを作成する。
フィッチは約5週間滞留しており、ティンパーリーに会い、米国での面会者などの根回しをしたに違いないが、ティンパーリーのことも、滞在間に何をしたかについても一切言及していないとされる。
2月25日に上海を立ち、香港を経て広州からハワイに飛ぶ。ホノルルでは「ある中国人グループと食事をし」、次のサンフランシスコでは中国総領事に会い、「中国人の友人」も交えてチャイナタウンで会食する。
さらに「ロサンジェルスなどで持参のフィルムを交えた2、3の講演会を行った」という。
4月18日、ワシントン着。国務長官や大統領には会えなかったが、国民政府の米国大使・王正廷に会い、また旧知のホーンベック国務省次官(彼は反日親中の中心人物)の斡旋で中国に関係の深い米国人の要人たちに面会し、下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者団に件のフィルムを見せている。
その後、ニューヨークに赴き、6月に中西部を経由して7月に再び西海岸に戻り、サンフランシスコで講演する。
このとき、会場にいた唯一の日本人から「脅迫に近い抗議を受けた」とされる。北村氏は、この頃に日本側もフィッチの反日的言動をマークし始めていたとみる。
フィッチはこのあと再びニューヨークに戻るが、やがて体調を崩して入院。11月10日に西海岸のロングビーチから中国への帰途に就く。
「フィッチのアメリカでの活動は文字通りの大旅行であり、多額の資金と周到な計画を必要としていた。これら全てが、国民党国際宣伝処によりアレンジされたことは容易に想像がつく」と北村教授は述べる。
当時の日本側の見方
『スマイス報告』は、昭和15年、興亜院(1938年に設置され、42年に大東亜省に吸収)に勤務していた吉田三郎氏が上海に調査に行き、同所でアメリカ長老教会のミリカン夫人を知り、同夫人から紹介された金陵大学のベイツ教授から説明を受けた時に入手する。北村教授の前掲書中の「『スマイス報告』の徹底的検証」から、当時の日本がどのように見ていたかが分かる。
吉田氏は「こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、いわゆる科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」と報告を見抜く。
その理由として、「南京地方における損害の統計を作る場合に、(中略)火災の場合についていえば、支那軍が逃げる時に放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。・・・これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見た」というように、的確に指摘している。
また、ベイツ教授は「今度の戦争による被害が支那全体でどの位あるかということを書いたものですが、それを是非読んで貰う必要ある」として「WHAT WAR MEANS」を紹介する。吉田氏は上海の書店で入手する。
殺人競争の章を見て、「材料は日本の新聞から取ってありました。何々少尉武勇伝という記事がそのまま載せてあったのであります。そういうように新聞記者が日本の文献その他日本側に不利な情報を編集してできているのがこの本でありまして、かような排日的な宣伝文書は外国人の間に多く読まれている」として危惧する。
ミリカン夫人にこのことを話すと、「ぎょっとして『あれはあまりよい本ではない。あの書物は熱を以て書かれているのだから、歴史家があれをそのまま談じては困る。あなた方は歴史家であるから、もっと客観的にものをみなければならない。・・・ああいうものが全部であると思われては困る』と言って居りました」と、外国人でも疑問視していたことを指摘している。
「その書物を見ますと、日本の官憲の或る部分はこの書物を出すことを支持していると書いてある。・・・恐らくそれは嘘だろうと思います。この書物による利益は皆赤十字社に寄贈すると書いてある。なかなか上手に出来ています。かような種類の本がどんどん売れているのですから全く困ったことです。日本の左翼の人がそれを訳すことを許可してくれといって盛んにミリカンのところへ来る」と聞いたと述べる。
おわりに
当時の日本人の方が賢明ではなかっただろうか。世間の信用をバックに、戦争に伴う「通常の犯罪」(もちろんないに越したことはない)を「大虐殺」に衣替えさせるのに米国人宣教師たちが大いに関係していたのだ。
すべては全世界に巧妙に張り巡らせていた国際宣伝処の仕業であったことが今や明確になってきたのではないだろうか。
日本軍も犯罪は犯した。しかし、それは中国が主張するような人道に悖る何十万人の市民を虐殺するなどではなかった。
中国は依然として「南京大虐殺」を主張し、拡大流布さえしようとしているが、論点のすり替えや証拠資料としていたものの撤去など、綻びも見えてきた。
日本は決然と否定することが大切ではないだろうか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55687
東京大空襲:日本中を震撼させたB29の次もあった!
日本が夢想した超大型爆撃機「富嶽」級を実戦配備させた米国
2019.3.11(月) 渡邊 光太郎
B-29(左)とB-36(右)。戦時中、世界水準を超えた超大型機であったはずのB-29が、B-36の隣にいると小型機に見えてしまう(出所:B-36 Peacemaker Museum)
毎年、3月になると東京大空襲の体験談を目にする機会が増える。昭和20年3月10日、約300機の「B-29」が隅田川両岸の人口密集地を焼き払い10万人の犠牲者が出た。
一般市民が暮らす人口密集地を攻撃目標とする神経も恐ろしいが、何千キロも離れた場所からそれを実行できる米国の国力も恐ろしい。
爆弾6.6トンを積んで、マリアナ諸島から日本まで片道2500キロの距離を往復できる爆撃機を300機揃える――。
そんなことは当時の日本にはとうていできなかったし、押し寄せるB-29から日本を守ることもできなかった。
しかし、日本には太平洋を越えて米国本土を空襲するため、B-29を圧倒的に凌ぐ爆撃機を製造する計画が存在した。
中島飛行機の創業者中島知久平により構想された「富嶽」である。
B-29は当時の最先端の航空機であったが、マリアナ諸島から日本を空爆し戻るのがやっとだった。東北地方や北海道は攻撃圏外であった。
一方、富嶽は日本から離陸し、米国本土を空爆して、そのまま大西洋に抜け、ドイツ占領地域に着陸するというB-29でも不可能な壮大な作戦をすることを想定していた。
現在の大型旅客機でもそれほどの距離を飛べるものは限られる。
富嶽は大日本帝国の妄想に終わる
B-29が2200馬力のエンジンを4基搭載し、航続距離約9000キロ、最高時速は600キロ弱、最大爆弾搭載量9トン、全長は30メートル、全幅が43メートル。
対する、富嶽は5000馬力のエンジンを6基搭載し、航続距離約2万キロ、最高時速780キロ、最大爆弾搭載量20トン、全長は43メートル、全幅が63メートル。
確かに、富嶽が実現すれば、B-29を圧倒する爆撃機になる。しかし、想定数字をあげつらったところで、B-29に対抗する航空戦力も整えられない大日本帝国が実際に作れるわけがなかった。
例えば、5000馬力のエンジンは絶望的であった。
日本も2000馬力級の「誉」というエンジンを完成させ、戦争末期に実践投入まで持ち込んでいる。「疾風」や「紫電改」といった戦争末期に完成した新型戦闘機に搭載している。
小型軽量で大馬力の誉は、確かにカタログ数値では非常に優秀なエンジンだった。
しかし、日本の工業力では安定して量産することができなかった。また、故障多発を克服できなかった。日本の新型戦闘機は、襲いかかる米軍機に対抗できる数が揃うことはなかった。
一方、米国は2000馬力級のエンジンの大量生産に成功したうえ、トラブルも実戦に耐えるほどに抑え込むことができている。
2000馬力級のエンジンを積んだグラマン「F6F」戦闘機は「ゼロ戦」をバタバタ撃墜したし、そんなエンジンを4基積んだB-29の大編隊も実現してしまった。
その米国でも5000馬力のエンジンを実現できていない。
2000馬力のエンジンも十分にモノにできていなかった大日本帝国。それなのに5000馬力のエンジンができるわけがなかった。
エンジンに限らず、当時の日本には質的にも量的にも超大型機を作る能力はなかった。
高空を長距離飛行するのに必要なターボチャージャーや与圧室も作れない、大型機を大量生産するだけのアルミニウムもない、工場のキャパも足りない。航空機のエンジニアは戦争中は仕事が激増し過労死寸前・・・。
実際、日本が実用化できた爆撃機はエンジン2基で与圧装置もなし、マリアナ諸島まで往復できないのでB-29の基地も特攻でしか攻撃できない、爆弾も1トン程度しか積めないというものだった。
富嶽の実現どころかB-29に圧倒的に劣るものであった。そんな質的に劣る爆撃機すら、B-29と同じ数が揃うことはなかった。
日本の航空産業の実力を考えれば、富嶽など絵に描いた餅でしかなかった。
富嶽開発プロジェクトは開始から1年もたたずに断念されてしまう。国家の非常時にこんな妄想膨らませて遊んでいるわけにはいかなかったのだろう。
大日本帝国にとって、富嶽などは、現実逃避的な妄想に過ぎなかった。
米国では富嶽を実現
しかし、日本には妄想に過ぎなかった富嶽。米国は何と実際にそれに匹敵するものを戦争中に開発し、終戦直後に完成させていた。
その名は「B-36」。
B-36は3500馬力のエンジンを6基搭載し、最高時速は後期型では700キロ近くに達し、航続距離1万5000キロ、最大爆弾搭載量32トン、全長49メートル、全幅70メートル。
日本が全くかなわなかったB-29を圧倒的に超えている。妄想計画だった富嶽に対する個々の項目の単純比較では優劣があるが、十分に対抗できそうな内容である。
富嶽は設計すら固まらなかったのに対し、B-36は終戦5日後の1945年8月20日に機体が完成しロールアウトしている。
もっとも、さすがの米国も3500馬力のエンジンは開発に手間取り初飛行は翌年になった。そして、量産に入り1948年から実戦配備をしている。
米国の航空産業は、戦争に勝つために差し迫った開発や生産をこなしたうえで、当時の世界水準を圧倒するB-29すらはるかに超える超大型機の開発を行っていたのだ。
戦時中の日本の航空産業では、性能が向上していく米軍機に対抗する機種の開発、軍からの改造の要望への対応、一機でも多くを生み出すための生産など、大量の仕事に忙殺され、もう限界という状態だった。
当時の体験談を読むと、技術者は過労で倒れることがあり、生産現場は過重労働で疲れ果てていた。
ヘトヘトになるまでの努力をしても、戦闘機のような小型機すら米国の生産数に遠く及ばないし、ゼロ戦の後継機も満足に作れなかった。
大戦末期には米国では標準になっていた2000馬力級エンジンの安定供給も果たせなかった。B-29を防ぐだけの戦闘機も配備できなかった。
現に存在している米国の航空戦力に対抗することすらできていない状況で、とても、富嶽のような米国の水準を圧倒的に超える巨人飛行機の開発まで手が出るわけがない。
一方、米国は単純な数の比較で4倍以上の航空機を製造し、大日本帝国の航空戦力を圧倒した。
米国の航空機生産実績には数千機のB-29を含む、大量の大型機を含むことを考えれば、その差は数の差にとどまらない。
米国はそのうえで、B-36という日本であれば妄想でしかない超大型機を開発する余力を持っていたのだ。恐るべきことである。
こんな国力のある国と戦って勝てるわけがない。3年10か月戦っただけでも立派なものと言えるだろう。
B-36は役には立たなかったが・・・
米国がB-36の開発を始めた理由は、英国がドイツに負けてしまった場合、大西洋を超えてドイツを空爆できる爆撃機が必要になると考えたからだ。
「こんな爆撃機が欲しい」というレベルだった富嶽に対し、米国では超大型爆撃機の実現が、第2次世界大戦初期の一時期においては必達目標だったのだ。
しかし、ドイツはあと少しのところで英国を降伏させることはできず、太平洋戦争が始まる頃にはその心配はほぼなくなっていた。
それでも、B-36は優先順位を下げられつつも開発は継続された。
ここで不要不急として中止にならなかったことも驚きであるが、優先順位が下げられた状態で開発しても、戦争終結後すぐに完成していることはもっと驚きである。
第2次世界大戦後、核兵器の時代になり、米国の勢力圏からソ連を爆撃できるB-36は核戦力の主力として重宝されることになる。
核戦力として活動していた時代のB-36(出所:ロッキード・マーチン)
しかし、戦後すぐに航空機のエンジンはピストンエンジンからジェットエンジンに移り変わる。
B-36は強力なエンジンを持つとは言え、第2次世界大戦の飛行機と同じピストンエンジンのプロペラ機。時速200〜300キロの速度差のあるジェット戦闘機にはすぐに撃墜されてしまう。
結局、B-36は配備されてから約10年経った1959年にはすべて退役してしまう。その間、朝鮮戦争があったが、B-36は一度も実戦に出ることはなかった。
B-36は確かに当時の世界最大の航空機であったし、この飛行機の実現のための技術開発は米国航空産業の資産になっただろうが、決して活躍した航空機ではない。
よって、B-36の知名度はあまり高くない。また、メーカーのコンベアーもジェネラルダイナミクスを経て、ロッキード・マーチンの一部になり、名前が残っていない。
しかし、あまり役に立ったようには見えないにしても、米国版富嶽のB-36は大日本帝国では妄想に過ぎないものを実際に実現してしまう恐るべき米国の底力の象徴ではあった。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55685
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