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高齢住民の孤独死が週1回…公営住宅団地のスラム化が始まっている
https://biz-journal.jp/2019/09/post_120482.html
2019.09.28 文=牧野知弘/オラガ総研代表取締役 Business Journal
「Getty Images」より
ニュータウンという言葉は、1944年、イギリス・ロンドン大学のパトリック・アーバクロンビー教授が作成したとされる「大ロンドン計画」に登場したものだ。
そのなかで、教授は人口が過密化するロンドンを同心円状に中心部から、「内部市街地」「郊外地帯」「グリーンベルト」「周辺地帯」に分け、人口の配置を図った。すなわち、中心市街地である「内部市街地」においては、一定限度においての人口の高密度化は認めるものの、「郊外地帯」では人口の過密化を抑制、都心から20キロから30キロに相当するエリアの「グリーンベルト」では基本的に開発そのものを抑制、そしてそのさらに周辺部を「周辺地帯」として、ここに新たな新都市を構想していこうというものだった。
新都市では、新しい産業を勃興させ、中心市街地とは別の人口集積を行い、かつ独立した都市圏をそれぞれに形成していくことが基本理念だった。
この大ロンドン計画に倣ったのが、1956年に制定された首都圏整備法だといわれている。同法では、東京都区部を中心として周辺7県を広域として、郊外部に新しい都市を形成し、都区部などの中心市街地との間にはグリーンベルトを設置するという意欲的なものだった。
ところが、このグリーンベルトはロンドンでのように開発を抑制するのではなく、建蔽率を低くすることによって緑地を確保することなどが主眼であったために、のちに形骸化し、結果として違法建築が横行することになる。
そこで1968年に制定された都市計画法において市街化区域と市街化調整区域のようなかたちでの緩やかな規制となり、東京郊外にできた多摩ニュータウンや、大阪の千里ニュータウンなどは、大都市に通勤をする人のための「ベッドタウン」としての意味合いを強めていくことになった。
■「下駄履き団地」
では、これまでに日本ではどのくらいの数のニュータウンが建設されてきたのだろうか。国土交通省では、1955年度以降に建設されたニュータウンについてリスト化して公表している。まずニュータウンの定義だが、リストにおいてはその対象を、
(1)1955年(昭和30年)度以降着手の事業
(2)計画戸数1000戸以上または計画人口3000人以上を計画したエリアのうち開発面積が16ヘクタール以上のもの
(3)郊外での開発事業であること
などと定義している。この定義によれば、全国のニュータウンは計画地区数で、2009カ所、面積にして18.9万ヘクタールにも及んでいる。大阪府の面積が約19万ヘクタールであるから、その規模の大きさが想像できる。全国の市街化区域の13%がニュータウンというのが現状だ。さらに驚くべきことに、事業が終了したニュータウンは1828カ所、つまり今でも計画段階のニュータウンが181カ所も存在している。
ところで、ニュータウンの年度別の事業開始地区数の推移をみると、1970年(昭和45年)代前半が供給のピークである。つまり、多くのニュータウンは、現在では築40年以上を経過しており、住民の高齢化も激しく、もはやニュータウンではなく、「オールドタウン」となっていることが伺える。
ニュータウンの特徴としては開発時期に同じような年齢層の住民が一斉に入居することになる結果として、住民の高齢化が一気に進むという特徴がある。また、団地型の住宅が多く、2DKなどの狭小な面積に画一的な間取りのものが多いため、たとえ子供世代が団地に戻ろうと考えたとしても、同居はおろか、そもそも団地内に住むことに躊躇するような仕様であることだ。
ニュータウンはその多くが、戸建て住宅と公営団地が組み合わされたものであるが、公営団地についてはなぜか、駅からは遠い場所に建設されてきた傾向がある。民間が供給するマンションは、駅からの利便性を最優先にするから、基本的には駅から徒歩10分以内程度を立地の基準とする。マンションに住む人たちは、第一に利便性を重視する若い方々が多いという経験値に基づくものだ。
ところが、公営団地の多くがそういった発想には立たずに、駅からしばらくは戸建て住宅、そしてその先に公営団地を設けることが多かった。
この発想の根幹にあるのが、いわゆる「下駄履き団地」という考え方だ。1970年代前半に供給されたニュータウンの多くは、開発面積も広く、とにかく「量」としての住宅の充足を目指すものだった。また、住宅街の整備にあたっては、まだ大型のショッピングセンターを招致するといった発想はなかった。
なぜなら、当時はダイエーやイトーヨーカ堂などのスーパーマーケットはすでに各地に店舗展開を行うようになっていたものの、1973年10月には大規模小売店舗法が制定され、大規模小売店舗の出店については厳しい規制がかかったからだ。また、中小小売業者事業活動の保護にも社会的に大きな関心があったために、この頃開発された多くの団地は、団地の低層部分に中小の小売店舗を誘致するという手法を採用したのだ。
その結果、小売店舗を擁する公営団地はいわば、町の中心になければならない。ということは、公営団地はニュータウンのどこからでもアクセスのよい場所に構える必要性があったのだ。駅近くに立地したのでは、町のはずれから買い物に来るのではさぞや不便であろうと考えたのだ。
この考え方の背景には、当時としては当たり前だった家族構成がある。つまり、駅に出て電車に乗り降りするのは夫が中心。妻はその多くが専業主婦で、家から基本的には出ない。そこで、どの家からも歩いて、または自転車に乗ってアクセスできる、町の中心部に店舗があることが望まれたのだった。
■住宅にも「スラム化」
こうした環境下で建設された公営団地の多くでは、今困った状態に陥っている。住民の高齢化と建物の老朽化だ。公営住宅は低廉な家賃が売り物で、分譲住宅には手が届かない人たちがとりあえずはここに住み、やがて子供の成長ともあいまって、分譲住宅を購入し、転出していく。そのあとに、再び、若い世帯が入居する。こんな人口循環を前提に供給されてきた。
ところが、多くの住民は固定化し、また若い世代がどんどんその数を減少させていくなかで、公営団地の住民は毎年歳を重ね、住民の高齢化の問題が起こってきた。特に分譲された公営団地では、部屋の面積が小さく、若い世帯が入居するには、間取りや住設機器も不十分、ということで、年老いた親だけが細々と住む、そんな構図になっている。
ある公営団地を管理している民間の住宅管理部長の話によれば、公営団地になるほど、修繕維持積立金は枯渇し、管理費をまともに支払うことができない住民も出現、支払いの督促をしても、話の内容をよく理解していないのではないかと思われる高齢者が多いとのことだった。この部長は、私に小声で次のようにささやいた。
「実は最近公営団地の管理はあまりやりたくないのです。これまでせいぜい半年に1人くらいだった高齢者住民の孤独死が、最近では月に1回、いや週に1回くらいのときもあるのです」
寝たきりの高齢者や認知症を患っているとみられる高齢者を抱えながらでは、団地が分譲のものであれ、賃貸のものであれ、なかなか思うように大規模修繕を施すことはできない。ましてや建替えを行うことは至難の業。
その行きつく先は、スラム化である。これまで住宅のスラム化は、どちらかといえば、外国での話と我々日本人は考えてきたが、平成バブルの崩壊から、社会の激しい二極化、「富める者」と「貧する者」の差は開くばかり。そして、良い悪いは別として、日本で働く外国人労働者の増加。今後、日本の住宅にも「スラム化」の波は着実に押し寄せてくることだろう。
築年数が40年を超えてきた多くの公営住宅団地はまさに今、その入り口にあるのだ。
(文=牧野知弘/オラガ総研代表取締役)
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