http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/190.html
Tweet |
ポーランドが自国領内に米国の恒久的な軍事基地を建設するように要請
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201806020000/
2018.06.03 櫻井ジャーナル
ポーランド政府はアメリカ政府に対し、自国の領土内にアメリカ軍の恒久的な基地を建設するように求め、その代償として20億ドルを提供する用意があると提案している。日本のようなアメリカの属国になりたいということのようだ。
ポーランドはウクライナの西部地域と同様、歴史的に反ロシア意識が強く、1904年には反ロシア運動の指導者だったユゼフ・ピウスツキが来日、運動へ協力するよう説得を試みている。反ロシア運動を強化するため、ポーランドでは1925年に「プロメテウス同盟」という地下組織も編成された。ポーランドからウクライナ西部にかけての地域はカトリックの東端で、その東は東方正教会が信じられている地域になる。ピウスツキの後、ポーランドの反ロシア運動で大きな影響力を持つのはウラジスラフ・シコルスキーだ。
かつてカトリック内にはバルト海からエーゲ海まで、つまり中央ヨーロッパの地域をカトリックで統一しようという動きがあり、インターマリウムが組織された。その組織はイギリスやフランスの情報機関から支援を受け、国家間の勢力争いと深く結びつく。
政治の世界では、中央ヨーロッパを統一するためにPEU(汎ヨーロッパ連合)が1922年に創設されている。その中心にはオットー・フォン・ハプスブルク大公がいて、イギリスのウィンストン・チャーチルもメンバーに含まれていた。
第1次世界大戦で負けたドイツは領土を削られ、ドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができ、東プロイセンは飛び地になった。この領土問題を解決しようとドイツはポーランドに働きかけるが、イギリスを後ろ盾とするポーランドはイギリス側の意向もあり、話し合いは進まない。業を煮やしたドイツが軍事侵攻したのが1939年9月1日だ。その2日後にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告するが、戦局が動き始めるのは1940年になってからだった。
その間、シコルスキーはパリへ脱出、1939年9月30日には亡命政権を作り、翌年6月19日にウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束、亡命政権はロンドンへ移動する。
その当時、シコルスキーの側近のひとりだった人物がユセフ・レッティンゲルで、ヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた。戦争が終わった後、1952年にオランダのベルンハルト(ユリアナ女王の夫)に接近し、その人脈を利用してアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながる。レッティンゲルはイギリスの対外情報機関MI6のエージェントでもあった。
こうした歴史を考えると、ポーランドがイギリスと同じアングロ・サクソン系のアメリカに秋波を送っても不思議ではない。アメリカ側が働きかけている可能性もあるだろう。ポーランドからウクライナ西部にかけての地域はヨーロッパを不安定化する出来事を引き起こすかもしれない。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。