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1.日本科学の記念すべき年
今年は、日本の科学にとって、記念すべき年です。それは、今年が、杉田玄白(1733〜1812)、前野良沢(1723〜1803)らによる『解体新書』出版から250年目の年に当たるからです。
『解体新書』は、杉田玄白、前野良沢らが、ドイツの解剖学書
Tabel Anatomiaのオランダ語版を和訳した解剖学書でした。杉田玄白らは、1771年からこの翻訳を開始し、3年後の1774年にこの和訳された『解体新書』の出版に漕ぎつけました。
同書の出版は、日本科学史上の偉業でした。それは、単に、当時の西欧の進んだ医学を我が国に紹介しただけではなく、同書の翻訳によって、日本語による近代科学の発展が進んだからです。
2.『解体新書』が残した物
『解体新書』は、多くの日本語の医学用語を生み出しました。『解体新書』に起源を持つ日本語の医学用語には、膵臓を意味する「大機里児(だいきりる)」の他、門脈、神経、軟骨、盲腸など、が有ります。『解体新書』こそは、今日、私達が普通に使っている解剖用語の生みの親だったのです。そして、『解体新書』が生んだこれらの用語は、単に訳語として有用であったのみならず、当時の日本の医師達の人体についての理解その物を変えたと見られます。
『解体新書』は、「五臓六腑」などと言った解剖学概念を過去の物としました。そして、『解体新書』は、と陰陽などと言う形而上学的概念を医学において無用の物とする上で、大きな役割を果たしたと考えられます。そして、更には、鎖国下の日本において、オランダ語の書物が翻訳、出版されたと言う事が、当時の日本の知識人に、そうした事が許される様になったのだ、と言う社会の変化を感じさせ、他分野におけるオランダ語書籍への関心を高めたであろう事は、容易に想像されます。
3.同じ年に紹介されたコペルニクス説
注目すべき事は、『解体新書』出版と同じ1774年に、日本で初めてコペルニクス(Copernicus)の「太陽中心説(地動説)」を紹介した元木仁太夫良永の著書『天球二球用法』が出版されている事です。
この本の出版は、『解体新書』出版ほどには知られていません。しかし、コペルニクスの「太陽中心説(地動説)」を日本に初めて紹介した書物が、『解体新書』と同じ年に出版されていた事は驚きです。
その後、『解体新書』出版から28年後の1802年、オランダ語の通詞であった志筑忠雄(しづきただお:1760〜1806)が、ニュートン(Newton)の弟子ケイル(Keill:1671〜1721)の著作を翻訳した『暦象新書』を出版します。
『暦象新書』は、江戸時代の日本にニュートン力学を紹介した画期的な科学書で、今日、広く使われてる科学用語である引力、遠心力、重力、真空、分子、天動説、地動説、などの語は、この本を訳した志筑忠雄が作った物だとされています。
4.江戸時代日本の驚くべき宇宙論
又、この本を訳した志筑忠雄は、単にオランダ語の書物を日本語に訳しただけでなく、太陽系の起源について、自ら考察を行ない、その考察を述べてもいます。その内容は、太陽系は、星雲状の物質から誕生したのではないか?と言う仮説で、これは、有名な「カント・ラプラスの星雲説」に良く似た仮説です。志筑忠雄は、この考察を何とそのラプラス(Laplace)とほぼ同時期に、独自に考え出していたとされています。あの鎖国時代に、西欧の科学者と同時期に、この様な宇宙論を考え出した日本人が居たと言うのは、驚くべき事です。
更に、医者であり、天文学者でもあった麻田剛立(あさだごうりゅう:1734〜1799)は、1986年から1797年の間に、『実験録推歩法』と題された自著を出版します。その中で、麻田剛立は、中国大陸における惑星の太陽からの距離の3乗とその惑星の公転周期の2乗が比例している事を発見しています。麻田剛立は、惑星の軌道が楕円である事には気が付いていなかった様ですが、その点を別にすれば、これは、ケプラーの第3法則と同じです。即ち、麻田剛立は、ケプラーの第3法則を独自に発見していた可能性が高いのです。(彼が、惑星の軌道が楕円である事に気がついて居なかった事は、彼が、この法則をオランダ語で読んで知ったのではなく、自身で発見した事の証左です。)
5.『解体新書』と言うビッグバン
この様に、1774年に『解体新書』が出版された後。日本では、鎖国中であったにも関わらず、自然科学に関する出版物が、立て続けに出版されているのです。(医者である私としては、江戸時代のこの時期、日本の天文学と数学が、医学、薬学よりもはるかに進んで居た事を少々寂しく思って居ます。)
こうして振り返ると、18世紀後半から19世紀初頭にかけての日本では、鎖国政策が続いていたにも関わらず、驚くほど高度な科学書の出版が続き、多くの日本人に読まれて居たのです。そして、時系列で見ると、『解体新書』こそは、そうした科学書の出版の始まり(ビッグバン)だったのです。そこに、『解体新書』出版の歴史的意義が有ったと言えるでしょう。
6.日本語で科学を学べる事の意味
こうした江戸時代の日本の科学は、明治維新後の日本の科学に直接つながった訳ではありません。両者の間には断絶が有りました。しかし、江戸時代日本の科学は、日本人が、科学を日本語で書き、発展させた事で、日本の近代化に大きな役割を果たしたと言えます。
明治維新以後、日本が、めざましい発展を遂げた理由のひとつは、日本人の母語である日本語で近代化を推し進めた事であったと、私は思います。そして、それは、特に、科学技術の領域において、そうであったと、私は思います。
アジア、アフリカの多くの国々は、近代科学を導入するに当たって、英語やフランス語で教育を行ない、その英語やフランス語を通じて、西欧の科学を取り入れようとしました。その結果、アジア、アフリカの多くの国々では、先ず、英語やフランス語に習熟しなければ、科学を学ぶ事が出来無い事が、当たり前に成ってしまいました。それに対して、日本では、明治維新以後、多少の紆余曲折は有りましたが、西欧の自然科学を日本語に訳し、「日本語がわかれば科学がわかる」「日本語がわかれば科学を学べる」のが当たり前の事と成りました。それが、学校教育や出版物を通じて自然科学を社会に浸透、定着させる事を容易にしたのです。そして、それが、多くの人材を生み出して、日本の近代化を推進したのです。こうした事は、世界的に見れば、決して「当たり前」の事ではありません。それどころか、前述した様に、アジア、アフリカの多くの国々では、英語やフランス語と言った外国語の習得が、自然科学を学ぶ上での前提に成って居ます。それを考えれば、母国語である日本語で科学の振興と定着を行ない、近代化に成功した日本の事例は、奇跡の様な事例であったと言って、言い過ぎではないのです。そして、こうした文化的土壌は、江戸時代に確立されていたのです。『解体新書』の翻訳、出版に代表される科学の日本語化は、そのその文化的準備だったのです。
7.日本の国際的地位を高める日本語の科学
その『解体新書』出版から250年後の今、一部の人々が、こうした歴史を顧みず、大学教育や学会の場で、日本語の排除とも呼ぶべき事を推進している事には、失望せずに居られません。日本で開かれる学会なのに、日本人しか居ない場で、日本人同士の討論も英語でする事を強制する学会などが有る事は不可解な事です。更には、国が、そうした「日本語の排除」を進めている様に思われる事は、異常な事です。
日本語の科学が存在する事は、日本社会における科学の普及、定着にとって決定的に重要です。同時に、日本語の科学が存在する事は、国際社会における日本語の価値を高め、ひいては日本の国際的地位を高める事にも繋がる物です。それにも関わらず、こうした日本語の排除が横行する状況を、『解体新書』を翻訳、刊行した先人たちはどう思うだろうか?と、思わずには居られません。ノーベル賞も、もちろん良いのですが、国は、日本語の科学をもっと大切にして欲しいと、私は思います。
(2024年10月6日(日))
(終わり)
『解体新書』出版から250年ーー江戸時代日本の科学と現代 : 歴史を考える
西岡昌紀(にしおかまさのり)
1956年(昭和31年)東京生まれ。内科医(脳神経内科)。近著に「短編小説集『桜』2017」(文芸社・2017年)、「三つのチーク県の民謡」(文芸社・2020年)、「オッペンハイマーはなぜ死んだか/長崎に原爆が落とされた謎を解く」(飛鳥新社・2021年)、などが有る。音楽誌「ショパン」に連載記事「リヒテルの栄光と悲劇」を執筆中。
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