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育児中のお母さんたちが抱く、知られざる「不安」とは
かつて「子どもの天国」だった日本は今いずこ
2019.3.5(火) 篠原 信
子育てに寛容で温かだった日本をもう一度。
(篠原 信:農業研究者)
赤ちゃんを抱える多くのお母さんが、感じたことのある「不安」を、皆さんはご存知だろうか。
「赤ちゃんがあんまり泣いていると、虐待だと思われて通報されるかも」
私は、嫁さんがこの不安を感じていたと聞いてビックリした。嫁さんはかなり子どもあしらいがうまく、そんな不安とは無縁の人だと思っていたからだ。だが、たまに「あんまり泣くと、通報されちゃうよ」と語りかけていたのが気にはなっていた。
ある日、「なんでそんなこと言うの?」と尋ねると、「いまのお母さんは、たいがい感じている不安だと思うよ」と答えて、さらに驚いた。育児支援室に嫁さんは通っていたのだが、「赤ちゃんが泣くと通報されるかも」という恐怖は、お母さんたちの話題としてポピュラーだという。
ぜひ、厚生労働省、あるいはマスメディアの方たちは、次のようなアンケートをとっていただきたい。
「赤ん坊が泣いていると、虐待で通報されるかも、と感じたことはありますか」
身近な、赤ん坊を抱えているお母さんたちに聞いてみたが、みな「感じたことがある」という回答であった。どのくらいのお母さんたちがこの不安を抱えているのか、きちんと数字で把握したほうがよい問題だと思う。
お母さんが不安を抱く3つの理由
では、お母さんたちは、なぜそんな不安を抱くのだろうか? 大きく3つ、原因を挙げることができるだろう。
1つ。虐待の通報が激増していること。
児童相談所に寄せられる、虐待に関する通報は、平成29年度には13万件を突破し、さらに増加する勢いを見せている*1。子どもの出生数は、いまや100万人を切っているのだから、その数の多さがよく分かる。
*1:https://www.mhlw.go.jp/content/11901000/000348313.pdf
これだけ通報数が増えているのをみて、お母さんたちは「通報する心理的ハードルが下がっている」と感じているようだ。「虐待と感じたらすぐ通報! それが市民のつとめ!」と、隣に住む人が考えているかも、と疑心暗鬼にならざるを得ない。実際、虐待のニュースが流れて、ネットでその反応を見ると、虐待する親を攻撃する傍ら、「虐待の疑いを感じたら、ためらわずに通報すべきだ」という意見をコメンテーターが口にしていたりする。これでは、お母さんたちが不安になるのも無理はない。
2つめの原因。「子どもの声=騒音」という図式。
最近、保育園を新設しようとすると、住民から反対運動を受けるというニュースがよく流れてくる。子どもの声は、いまや騒音なのだ。身近に子どもがいなくなり、たまに子どもの声が響くと、ほほえましく感じるというより、やかましく感じるようだ。電車に子供連れで乗ると、寝ている乗客が「チッ」と舌を鳴らしたり。新幹線に乗るときなどは、寝ている乗客の邪魔にならないよう、デッキに移動するお母さんたちをよく目にする。
「育児で大変だなあ」といたわる空気より、「赤ん坊連れで新幹線に乗るなよ」というトゲトゲしい空気。子どもの声、特に赤ん坊の泣き声に対して、世間がいかに厳しいかをお母さんたちは感じている。「赤ん坊が泣くこと=ダメ母親」という厳しい見方が社会に蔓延していることを、肌身に感じている。子どもの、赤ん坊の泣き声に、いまの日本社会は非常に不寛容なのだ。
3つ目。「ひものれん社会」。
特に都会のマンション暮らしでは、「隣は何をする人ぞ」状態。いったいどこに勤めていて、何人住んでいるのかも分からない、ということが多い。
隣の家の人との結びつきを、ちょっと考えてみよう。たぶん、全然違う会社に勤めている人だ。自分はたまたま今のマンションに住んでいるだけで、隣とは一切利害関係がない。利害関係といえば、数キロメートル離れた自分の勤める会社の方が強い。隣の人は別の会社に勤めているのだろう。だとすれば、隣の人との利害関係はまったくなく、国に納める税金のところで、かろうじてつながっている程度。国という、抽象的な存在を媒介にしてしか、隣人とのつながりはないわけだ。
私には、日本社会は「ひものれん」に見える。隣のヒモとは接するくらいに近いのに、つながりは、ずっと上の方でしかつながっていない。ぶつかり合うほど近いのに、横のつながりがない。そのくらい、隣人は遠い存在だ。
それと比べたら、児童相談所の役人の方が、隣人より近い存在だ。だって、彼らは税金から給料をもらっているから。隣人よりも、児童相談所の方が、利害関係という意味では、私たちに近い存在なのだ。
虐待を通報する人の「絵」を思い浮かべてみよう。ふだん付き合いがないとはいえ、数メートル離れた、壁一枚しか隔てていない隣の家のドアを叩くより、数キロメートル離れた場所にある、児童相談所に電話するその姿を。
虐待を通報する人にとって、隣人よりも、会ったこともない児童相談所の方が近しい存在に感じる現実があるのは分かる。だが、数メートルしか離れていない人に直接声をかけるのではなく、数キロメートル離れた児童相談所に電話するのって、なんだか、不思議な気はしないだろうか。昭和40年代までの日本人にこの話をしたとしたら、たぶん信じてもらえないだろう。私たちは、何か大きな変化を遂げてしまったのだ。
「余裕」を失った親と社会
このように、児童相談所よりも隣人が心理的に遠い人と感じられる社会では、お母さんたちは、「泣き声を聞けば『虐待だ』と通報するくらい、心理的ハードルは下がっているのではないか」と感じても不思議ではない。
では、こうした不安を感じているお母さんたちは、どんな状態に置かれているのだろうか?
私が個人的に事情をうかがったところでは、「家事がたまり、自己嫌悪に陥り、イライラしやすくなる」のだという。どういうことか。
赤ん坊が泣くと、虐待と思われるかも。通報されるかも。その不安があるから、赤ん坊が泣き出すとほうっておけず、すぐにあやして泣き止ませようとするのだという。しかしそんなことを続けていると、いつまでたっても家事は進まない。
オムツも替えなきゃ、ミルクもあげなきゃ。泣き止ませなきゃ。寝かしつけなきゃ。
シンクにたまる食器。作りかけの料理。汚れだらけの床。たためていない洗濯物。赤ちゃんに授乳しながら、あやしながら、寝かしつけながら、家事がたまっていく家の中の様子を見て、ため息をつき、自己嫌悪に陥る。
「私って、なんて要領の悪い人間なのかしら」
しかし、虐待と思われないようにするためには、赤ちゃんが泣くたびにすぐに家事を中断し、あやさなければならない。自己嫌悪と、家事がうまく進まないことへの不満、本当に母親としてやっていけるのか、という不安が、どんどん増幅してくる。
夫が帰ってくると「うわ! 散らかしっぱなし! なんだよ、一日中家にいるのに、これかよ」と、無理解な言葉を吐く。それどころじゃなかったのよ、と言いたい反面、自分もきちんとしたいという思いがあるから、反論するのも自己弁護に感じ、口ごもらざるを得ず、よけいに深く傷つく。
「どうしてそんなに泣くの? あなたが泣くから、家事がちっとも進まない。ダメな母親だとなじってるの?」。涙がボロボロとあふれてくる。
そんなストレスに満ちた毎日を送っていると、ある日、赤ちゃんが泣き出すと「また! どうして泣くの! どうしたらいいって言うの!」と、パニックに陥ってしまっても、無理はない。
・・・私は、赤ん坊の泣き声への厳しさが、「虐待(通報数)」を増やしている原因ではないか、と感じている。そして、その厳しさは、お母さんたちを確実に追い詰め、苦しめている。
「虐待をなくすため、積極的に通報しましょう。ひどい親から引き離し、子どもを守りましょう」
・・・うーん。ひどい親は、いるにはいる。だが、大多数の親は、「余裕」さえあれば、子どもを可愛がれる。「余裕」を奪っているのは何かを、真剣に考えたい。
お母さんたちが育児を楽しめる「余裕」が、いまの日本社会には乏しすぎる。もし、社会に「余裕」があれば、お母さんたちはもっとゆとりをもって赤ちゃんに接し、優しくもなれるはずなのだ。
「子どもの天国」だった日本
イノッチこと井ノ原快彦氏が、「あさイチ」という番組で、「ひよこボタン」という興味深い発言をしていた。
飛行機や電車に赤ん坊連れで乗ると、泣き声に舌打ちをするサラリーマンがいたりする。それを気遣って、お母さんたちは立ったまま、デッキで赤ん坊をあやしていることが多い。
その状況を憂えたイノッチは、
「飛行機とか電車とかに、“ひよこボタン”というものを設けておくんですよ。子供が泣いたら、みんな“ひよこボタン”を押すんすよ。ピヨピヨ、ピヨピヨって。それはもう、『ぜんぜん大丈夫よ』というしるし。『どんどん泣きなさい。子供は泣くのが仕事ですよ』というボタン」
と発言。
この発言は大変話題となり、つい最近も、電車に乗って困っているお母さんたちに届け、と、スマホにインストールしておいた「ひよこボタン」を押した人の話が、ツイッターで話題になった*2。
*2:https://twitter.com/ralph_1101/status/1090184650226511872
日本は本来、子育てに非常に寛容な社会だ。貝塚の発見でも有名なモースは、著書で次のように述べている。
「いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が1人残らず一致することがある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子ども達は親切に取り扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子ども達よりも多くの自由を持ち、その自由を乱用することはより少なく、気持ちの良い経験の、より多くの変化を持っている。」(E・S・モース『日本その日その日』)
江戸末期や明治期の日本人を見て、外国人は、日本人がいかに子どもを可愛がり、大切に思っているかに驚きの目をみはっている。
実は、西洋人は子どもに対して非常にシビアな接し方をしてきた歴史を持つ。子どもは「小さな大人」としか見ず、子どもっぽい振る舞いを可愛いと思うのではなく、「キリスト教徒にあるまじき振る舞い」として、ムチで教育してきた。
変化が起きたのは、ルソーの『エミール』が出てきてからだ。ルソーは、子どもをムチで育てるべきではなく、自ら学び、自ら成長するのを手助けしてやるのが望ましい、という、それまでの西洋人の教育観を根底からひっくり返す提案をした。厳しくなんか育てなくても、子どもは自ら学び取るから、それを信じればよい、という、それまでにない発想を提案した。
西洋人はこの最新の教育論を受け入れ始めてはいたが、まだまだムチで厳しく育てる必要を手放せなかった。ところが日本に来てみると、最先端の教育観を、すでに日本人は自然に実践しているではないか! 日本を訪れた西洋人が驚くのも、無理はなかったろう。
そんな、子育てに寛容で温かだった日本が、いったいぜんたい、どうしてしまったのだろう? もう一度、「子どもの天国」を取り戻したいものだ。
子育てを楽しめる環境に
筆者から、ひとつ提案がある。イノッチの「ひよこボタン」のような、ちょっとした手助けをしてみてはどうか、ということだ。
子どもが生まれると、親子を支援する制度が自治体によっては存在する。しかしスタッフは、あくまで「親子」としか接触しないのが普通だ。
そこで、赤ちゃんが生まれたら、保護者、できれば父親も一緒に、スタッフが同伴して、ご近所に挨拶に回るのはどうだろう。
「このたび、赤ちゃんが生まれまして。初めての子育てなのでうまくいかず、泣き声でやかましいかもしれません。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうか温かい目で見守ってやってもらえませんか」
そう、スタッフが語りかけ、後ろの親子が頭を下げたら、ずいぶん様子が変わってくるのではないか。中には、「いいよいいよ、子どもは泣くのが仕事!」と言ってくれる人もいるだろう。
子どもが生まれれば、ご近所の理解が大切、ということを、親御さんたちにあらかじめ伝えておくのもよいだろう。「ひよこボタン」のような、温かなメッセージが隣人からかけやすいよう、アイスブレーク(氷を溶かす)するのだ。
児童相談所の現在の機能は、虐待の「事後」対応のみだ。それも欠かせない機能ではあるのだが、私は何らかの形で、「事前」の強化をもっとしていただきたいと思う。そしてその「事前」の対応とは、親子に厳しい視線を送る(虐待しないか監視する)のではなく、子どもの泣き声に寛容になり、地域全体で子どもを温かく見守る空気を作る、アイスブレークの役割だ。
これは一案に過ぎない。ただ、本稿でどうしても申し上げたいことは、お母さんたちをこれ以上追い詰めないでほしい、温かい目で見守り、子育てを楽しむことができる環境をできるかぎり広げてほしい、ということだ。
そのため、イノッチの「ひよこボタン」に負けない知恵を、どんどん出していただきたい。本稿が、そのきっかけになれば幸いだ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55644
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