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地域社会を再生させるための2つの劇薬
「余裕」と「利害」が隣人への関心を呼び戻す
2019.2.13(水) 篠原 信
地域のつながりの崩壊は、何をもたらすのだろうか。
(篠原 信:農業研究者)
地域社会が、崩壊の極に達しようとしている。最後に残っていた地域社会の「残滓」まで、崩壊しようとしている。残滓とは、自治会、PTA、子ども会。
報道では、自治会の負担に耐えかねて脱会を申し出ると、ゴミの集積所にゴミを捨てるのを許されなくなったなど、村八分にされたという話。同じことがPTAや子ども会でも起きており、役員の負担に耐えかねて脱会すると、子どもが通学班に入れてもらえないという仲間外れの扱いを受けたという。
私は、どちらの側にも同情せずにいられない。自治会やPTA、子ども会を機能させるには、どうしても持ち回りで役員を引き受けざるを得ない。もしそうした組織がなくなると・・・ということは、後述したいが、地域が機能不全になり、結局、地域全体が損をすることになる。
他方、自治会やPTA、子ども会の役員は負担が多すぎてとても引き受けられない、という悲鳴も、決して身勝手だとは言えない。本当に無理なのだ。仕事で忙しく、とても役員を引き受ける余裕がない。誰かもう少し、余裕のある人にお願いできないだろうか・・・そう思うのは、自然なことだ。
では、地域に余裕のある人がいるかというと・・・いない。誰もが、余裕のないギリギリの中で、自治会、PTA、子ども会といった、地域社会に最後に残された「残滓」を必死になって維持してきた。だが、特に都会では、その維持が大変難しくなってきている。
精神的に追い詰められる母親
どうしたわけか、まだ調査もされていないようだが、現在の母親たちが次の強い不安を持っていることを、みなさんはご存知だろうか。
「あんまり子どもが泣き続けると、虐待じゃないかと疑われ、児童相談所に通報され、子どもが連れて行かれるのでは」
赤ちゃんや幼いお子さんを抱えている母親に、尋ねてみられるとよい。ほとんどがそうした不安を覚えたことがあり、「早く泣き止ませなくちゃ!」と必死になる。それが、母親たちから精神的な余裕を奪ってしまう。「泣き止ませなきゃ!」という強迫観念があるから、泣くとすぐに家事の手を止めてあやす。すると家事がどんどん溜まり、それをこなせない自分に自己嫌悪し、それがさらに精神的余裕を奪い・・・という悪循環を招く母親が多い。
児童虐待の通報件数が増加の一途をたどっている。2017(平成29)年には、13万3778件(速報値)に至っている*1。しかしこの報道、単純に受けとめる気に、私はなれない。
*1:https://www.mhlw.go.jp/content/11901000/000348313.pdf
幼稚園や保育園から聞こえる子どもの声がやかましい、と、ご近所からクレームが来る、という報道をよく聞く。待機児童の問題を解決しようと、保育園を新設しようとしたら、子どもの声を「騒音」と捉え、建設反対をする地域の話も報道されている。
いまの母親たちは、そうした報道を耳にし、子どもの泣き声に対して社会が非常に厳しいと感じている。そんな世の中で、少しでも子どもが長く泣いたり、頻繁に泣いたとしたら。すぐに虐待だと通報されるかも。母親たちは、そんな不安を抱えている。
ここで、私は奇妙な感覚になる。虐待じゃないか、と児童相談所に通報している人の「絵」を思い浮かべてみよう。
お隣の赤ちゃんの泣き声は、壁を隔てていても数メートルの距離。かたや、児童相談所は、数キロメートル先。すぐそばなのに、すぐ隣なのに、何キロも離れた人間を呼びつける、この奇妙な構図。なんだか、おかしい気はしないだろうか。
「ヒモのれん」化した日本
私は、現代の日本社会が、「ヒモのれん」のように見える。ヒモがたくさん上からぶら下がった、あのヒモのれん。ヒモとヒモとはすぐ隣り合っているのに、横のつながりがまったくない。つながりを求めたら、上へ上へとたどらなければならない。隣とのつながりは、ひどく遠い。
「隣は何をする人ぞ」と言われるが、都会では、隣人はとてつもなく遠い存在だ。ほとんどの場合、隣の人は別の会社に勤めている。横の利害関係がまったくない。自分と利害関係があるのは、電車で何駅も離れた会社。会社は国に税金を納め、隣人もどこかの会社に勤めて、国に税金を納めているだろう。「国」という、実に抽象的な存在のところでだけ、かろうじてつながっている。隣人との利害関係は、ほぼないに等しい。
血縁の近さを表現するのに、「親等」という単位がある。親なら1親等、兄弟姉妹なら2親等。経済的なつながりの単位を「金等」と呼ぶことにしたら、隣の人とは、いったい何金等になるのだろう? むしろ、児童相談所に勤める公務員の方が、税金で雇われている分、「金等」は近い。
現代の日本社会では、わずか数メートルしか離れていない隣の家の扉を叩くより、数キロ離れたところにある児童相談所の方が近しい存在なのだ。児童相談所に勤める公務員の方が、隣人よりも「利害」という点で、近しく感じる。「税金」でつながっているから。しかし隣人は、何の利害でもつながっていない。
そう、地域から「利害」が失われている。何の利害関係もない人間同士がたまたま同じ地域に住んでいるだけのこと。自治会やPTA、子ども会の役員を務めると、働く人間にとっては負担が非常に大きいのに、大した利益が感じられるわけでもない。狭い地域に大勢がひしめく中で、たまたま自分に順番が回ってしまった不運を嘆くか、役員を断るために思い切って脱会を申し出るしかない、というところに追い詰められている。
自営業と「利害」の減少
地域社会が元気であった時代を考えてみよう。なぜ自治会やPTA、子ども会がしっかり機能できていたのだろうか? 私は、自営業が多かったからではないか、と推測している。
昔はもっと小店舗の小売店が多かった。本屋さん、パン屋さん、文房具屋さん、散髪屋さん、うどん屋さん、酒屋さん、八百屋さん、魚屋さん、肉屋さん。地域の人たちに商品やサービスを提供し、地域の人たちと直接的な「利害」を持っていた人たちが多かった。こうした人たちは、自治会などの地域社会を維持する仕事を進んで引き受けたほうが、ひいては地域のお客さんに喜んでもらえると考えることもできた。
もっと昔、江戸時代くらいになれば、同じ地域に住むことは、同じ「会社」に勤めているのと同じくらい、経済的に密接につながっていた。自分が地域のために働くことは、いずれ自分に跳ね返ってくる。「お互い様」という感覚が持てたのだろう。
おそらく、こうした感覚は昭和に入っても、色濃く残っていた。同じ地域に住むということは、利害をも共有するということ。だから、地域に貢献することは、めぐりめぐって自分に戻ってくるのだ。
「情けは人のためならず」の本意は、「人に情けをかけたら、めぐりめぐって自分に戻ってくる。だから自分のためだと思って、人に情けをかけなさい」というものだ。今は「情けをかければ甘やかし、その人の自立を妨げるから、情けをかけるべきではない」と解釈する人が多いそうだが、昔は、このことわざの原義どおり、情けを人にかければ、いずれは自分が情けをかけてもらえる、という、利害の循環を実感できたのだろう。
ところが。現代の日本では、同じ地域に住む人同士に、利害はほとんどない。まったくの赤の他人。まさに「隣は何をする人ぞ」。地域社会が崩壊したのは、地域から「利害」が失われたためだろう。
地域社会崩壊の原因
地域から利害が失われた原因は、なんだろうか。私は、「24時間営業」が原因のひとつではないか、という仮説を持っている。
小さな個人商店では、24時間営業はとても実施できない。ある程度規模の大きい店舗を構え、たくさんの従業員を雇うところだけだ。結果、大規模スーパーや大きなファミリーレストランが24時間営業をする中、小さな小売店は成り立たなくなってしまった。
小さな自営業が成立しなくなると、就職=サラリーマンになった。事実、自営業者は1990(平成2)年に1395万人であったのが、2011(平成23)年には711万人(家族従業者含む)と、半減している*2。地域社会と利害を共有する人が、それだけ減少したことになる。
*2:平成23年度 年次経済財政報告(https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je11/h03_01.html)
地域の繁栄は、自身の繁栄につながる。そんな感覚は、勤め人にはない。利害はあくまで勤める会社にだけ存在するもので、地域が繁栄しようが没落しようが、自分の利害とは直接関係がない。そんな状況で、地域社会は成り立つだろうか。
「地域社会なんて崩壊してかまわない」という考え方もできる。しかし、それはおそらく現実的ではない。経済的コストが見合わなくなっているからだ。
上述したように、社会全体が赤ん坊の泣き声を「騒音」と捉える時代。赤ちゃんが泣き続ければ虐待と思われ、通報されるのではないかとビクビクしながら子育てする母親たち。そんな精神状態に追い詰められ、余裕を失ってしまったがために、「どうしてそんなに泣き続けるの? どうしたら泣き止んでくれるの?」とノイローゼになり、ネグレクトに近い状態に陥っているケースがあると私は見ている。これは、育児の問題に取り組んでいる専門家も共有している問題意識だ。マンガやエッセイでこうした状況を表現する作品も出てきた。
地域に「利害」が失われ、「ヒモのれん」社会になっていることを、知人は「アウトソーシング社会」と呼んだ。私は、言いえて妙だと思った。自分自身で取り組むのではなく、児童虐待の問題でも、道路のネコの死体を片付けるのも、「税金」という名の委託費を払って、解決してもらおうと、私たちは考えている。お金で万事片付けようとする、アウトソーシング社会になっている。
だが、カネで解決するアウトソーシングも限界に来ている。児童相談所は、もうパンク状態だ。国も地方自治体も財政が逼迫する中で、増員することは難しい。私たちにもそんな金銭的余裕はない。アウトソーシング社会、ヒモのれん社会は、究極のところにまできてしまったのではないだろうか。
地域社会の再生が叫ばれるようになったのは、阪神大震災がきっかけだ。神戸では安否確認がなかなか進まなかったが、震源に近い淡路島では、数日で安否確認が終わってしまった。地域社会がしっかり生きており、どの家に何人の人が住んでいるのかをみなが把握していたし、場合によっては家のどの部屋に寝ているかも知っていたから、安否を速やかに確認できた。
しかし、神戸では「隣は何をする人ぞ」だったため、果たして隣に何人住んでいるのかもよく分からなかった。安否確認が遅れ、その分、復旧活動も停滞した。その反省から、地域社会の再生が叫ばれるようになった。
ところが、その掛け声とは裏腹に、冒頭に申し上げたように、地域社会の最後の残滓である自治会、PTA、子ども会まで崩壊しようとしている。地域社会は、もはや瀕死の状態といってよいだろう。
24時間営業の弊害を予見していたスウェーデン
では、どうしたら地域社会を再生できるだろうか。私は、2つを提案したい。
ひとつ。「24時間営業をやめること」。
40代以上ならご記憶だと思うが、昔はどこのお店も夜7時か8時になったら閉店したものだ。コンビニもないので、晩御飯を作るには、会社を定時で終えて、急いで帰途につき、スーパー(当時は規模も小さかった)や小売店で買い物を済ませなければならなかった。
現代は、24時間営業のコンビニや大型スーパーがあるものだから、会社も平気で残業を課す。深夜まで残業に及んでも、開いているスーパーやコンビニがあるものだから、買い物ができないとは言い訳ができない。しかしもし、夜7時、8時とは言わないまでも、夜9時に閉店するようになったら、どうだろう。
どこの会社も、無理な残業を課すわけにはいかなくなる。残業はほどほどにして、社員が帰途につくのを引き止めるわけにいかなくなる。24時間営業をやめ、夜9時までに閉店すれば、みな、体力に余裕のある時間のうちに、家に帰れるのだ。そうすれば、気持ち的にも、自宅で過ごす時間でも、余裕が生まれる。地域の活動をするだけの余裕が生まれる。
現代の日本社会は、24時間営業があるために、会社は体力のギリギリまで従業員をこき使うことができる。これが、国民から余裕を奪い、地域社会を崩壊させ、社会コストを増大させている原因になっていると思われる。
2005年にスウェーデンへ赴いたところ、ストックホルムで唯一の24時間営業のコンビニに案内された。
ツアーの案内人は、「私たちは24時間コンビニを容認するかどうか、かなり議論を重ねた。確かに便利だけれど、野放図に許したら、私たちは疲弊しきってしまう。いざとなったら頼る場所はあるけれども、それが社会のスタンダードにならないように、ということで、1店舗だけ容認することに決めた」と言っていた。
その後、どうなったかは知らないが、24時間営業が野放図に広がれば、労働者を疲弊させ、結局は国民が疲れ切ってしまうことを、スウェーデンの人たちは予見していた。
日本でも、24時間営業を続けていたファミリーレストランが、少子高齢化で人材不足であることもあって、深夜営業を見直し始めている。この動きは、24時間営業を続けているスーパーやコンビニにもいずれ広がるだろう。どうせなら、こうした動きがもっと加速することを願う。
「害」でも「無関心」よりマシ
もうひとつ。「地域に利害をもたらすこと」。
あえて分かりやすくするため、極端な思考実験にお付き合いいただきたい。
「もし犯罪が起きたら、その地域で刑務所を用意しなければならない」としたら。牢屋を作るコストは? 犯罪者に食事を提供するコストは? その負担を地域住民で負担したら、いったいどのくらいの負担になる? そんな「利害」が地域に発生したとしたら、そのコストを低減すべく、必死になって自分たちの地域に犯罪が起きないように努めるだろう。
もちろん、刑務所を地域ごとに作るというのは極論でしかない。実現性も全然ない。ただ、地域の問題を「自分ごと」として捉えるためには、地域に「利害」が発生するのが一番だ。
たとえば、学校の先生が誰になるかを、地域の人が決められるとしたら。我が子を指導する先生が誰になるかは、親としては必死になるだろう。投票権が地域の人に公平に配られたとしたら、親は必死になって、「あの先生に投票して!」と運動するだろう。そうした利害が、地域の中での横のつながりとなる。ネットワークになるのだ。
利害が絡めばケンカも起きるかもしれないが、私は、ケンカを必ずしも否定的に捉えていない。こんな研究があるからだ。
農業用の水路で、最新の設備を導入したところと、昔どおりの水路のままのところとで、比較研究したものだ。最新設備では、水の配分が自動的に行われ、水のことで農家が思い煩う必要がないように設計されていた。他方、旧来の水路のままのところは、水路の底に溜まった泥をかき出したり、両脇の草を刈ったりなど、面倒なことこの上ない。
そして、10年後。最新型の水路を導入した地域では、水路が機能しなくなってしまった。自動でやってくれるものだから誰も関心を持たなくなり、自分ごとでなくなって、水路がどんどん壊れていっても誰もそれを自分から改善しようとは言い出さなかったからだ。
他方、旧来の水路を維持し続けた地域では、「あいつの草刈りはいい加減だ」とか、言い合いもあるかもしれないけれど、水路という共通の利害に関心を持ち続けた。自分ごととして関心を持ち続けたから、水路はずっと昔どおりに維持されたのだ。
日本では、「和をもって尊しとなす」という考え方がある。ケンカを和の対立概念と捉えてしまい、ケンカを排除してきた。だが、ケンカは和のひとつの形態だと捉えるべきではないか。現代の私たちには考えにくいかもしれないが、かつては男の子だと、ケンカがきっかけで友情が芽生えるということはよくあった話だ。
「仲良くケンカしな」というのは、「トムとジェリー」というアニメの主題歌の言葉だが、日本にあるべき「和」は、ケンカも包摂した、大きな概念だと考えるべきだろう。
「家庭菜園」というのがあるが、あれは境界線を引いて個々の縄張りに分かれているという点で、隣との交流は生まれない。それよりは、揉めることも交流のひとつと捉えて「地域菜園」を作るのもよいかもしれない。みんなで種まきし、みんなで草刈りし、みんなで収穫し、みんなで食べる。共同で作業することを前提とした、地域交流を目的とした菜園も、利害を共有する場としてよいのではないか。
以上、ずいぶん長くなってしまったが、24時間営業をやめて、働く私たち自身に余裕を取り戻すこと、その上で地域に「利害」をあえて設定し、それを共有することで、地域社会の再生を目指すこと。それが、私の考える、地域再生策だ。
働き方改革は、地域社会を再生することにも密接につながる。どうか、政策立案者は、そのことを念頭に入れていただきたい。母親たちが、笑顔で育児にいそしむ社会を取り戻すには、働き方改革がぜひとも必要なのだ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55433
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