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2018年12月24日 「ジャーナリスト同盟」通信
<憲法の象徴に徹した平成天皇に感動>
昨日は、朝陽区の義母の介護に奮戦、70キロ以上の大柄な94歳の元八路軍兵士を、床に両足で立たせることに成功した。暗闇の6時過ぎに戻ったのだが、東の上空に、それは大きな大きな太陽のような月が、煌々と照っていた。本日未明には、唯一の西側のカーテンのない窓から、同じ月が、小さな部屋を明るく照らし出していた。ちょうど85年前の皇居で誕生した平成天皇は、歴史の教訓と平和憲法に徹した国事行為を愚直にこなしてきた、その思いを2018年12月23日に語っていた。帰宅してネットを見て知った。会見の様子と発言内容に感動したのは、この30年の間、初めてである。慟哭寸前の天皇会見を目撃したのだから。
<憲法破壊の安倍・日本会議・自公内閣に痛撃>
戦後73年にして、それまでと同様に憲法尊重と擁護に徹してきた平成天皇は、敗戦時の昭和天皇、いわんや国民の大半が知らない、謎だらけの明治天皇との落差が、余りにも大きいことを悟った。
歴史の教訓に徹してきている明仁天皇は、徹底した護憲リベラルの人だったし、今後も変わらない。皇太子も秋篠宮も同じ思いであろう。
過去30年の思いを心底語った天皇発言は、主権者である国民を十分に納得させるものだった。苦しみや悲しみを語る場面では、声を震わせた。涙声になった。
筆者は、ことし6月26日に木更津市の介護施設「中郷記念館」で母を亡くした。100歳の坂を超えた時点で、息絶えた。原因は、疥癬(かいせん)というダニにむしばまれていて、寿命を縮めてしまったものだ。
同市には、やくざが営業する介護施設もある。そこで美人栄養士は、強姦・性奴隷を強いられ、逃げ出そうとして殺害された。
母の葬儀での弔辞を読む下りで、絶句・声が詰まり、震えて涙声になった。明仁天皇会見からも、やや同じ様子を感じて、北京の空で一人感涙にむせんでしまった。94歳の元八路軍兵士の平成天皇の採点は申し分ない。
天皇発言は、日本会議に牛耳られる安倍・自公内閣の憲法破壊政治への痛撃である。それは政治無関心層・5割の無党派層にも理解できるものだった。
米産軍体制と共演しながらの、軍国主義に突進する財閥傀儡政権への否定である、とも断言できる。極右の悲願とする天皇元首論を真っ向拒絶するような平和発言が続いた内容だった。
<退位を強いられても屈しない天皇・皇太子・秋篠宮>
この時点で分析出来ることは、退位は憲法破壊に抵抗する皇室への、日本会議の反撃だった可能性が高い。
先に秋篠宮発言で判明した皇位継承における宗教儀式は「血税投入はおかしい」とする反対にしても、これは政教分離に忠実な皇室の意思なのであろう。政教分離違反の安倍・自公批判だ。そこから宮内庁の混乱・動揺をみてとれる。
皇室に寄り添うグループと、安倍・日本会議の官邸よりのグループの対立も、抜き差しならぬ所へとはまり込んでいるのかもしれない。
<憲法・沖縄・被害者に寄り添う姿勢に、それ以前天皇との落差歴然>
発言を細部にわたってなぞっていくと、天皇の国事行為を定めた日本国憲法に忠実に実践しようとしてきた愚直な努力、それをそばで必死に支えてきた皇后の姿も垣間見えてくる。
太平洋戦争の最大の被害は、広島・長崎に次いで、沖縄の惨状も言葉にはならないほど大きかった。その沖縄への思いは、自公による金力選挙を排した知事選、それでも辺野古への新基地建設に突進する安倍・自公内閣という現状を踏まえた発言は、沖縄への「負けるな」との思いをにじませていた。
明治になって、京都から引き抜かれて江戸城に入り込んで以来の天皇家の史実は、多くがいまだ蓋をかけたままである。しかし、それでも平成の象徴天皇は、まともで正しい。戦前派を排して、戦後の民主派に寄り添った正義の歩みである。
<150年前に引き戻そうとする田布施の野望に屈しない日本国民>
それは、日本国民と共に歩むとの皇室の決意をも、読み取れるだろう。150年前に引きずり込もうとするZOMBIE政治に屈してはならない、との強力なメッセージを感じないわけにはいかない。
謎だらけの「田布施」の政略に屈するな、である。それを新聞テレビにも強く発信しているようにも受け止められる。
米国第一級の日本研究者のハロルド・スヌー博士の「戦前派が米国の軍と連携すると、再び同じ過ちを犯す」との予言めいた分析がちらつく中での明仁天皇の、国民に向けた畢生の叫びを、2019年政局に生かせる国民でありたい。
今日は、わがパートナーの誕生日でもある。
2018年12月24日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)
天皇陛下の記者会見 全文
2018年12月23日 1時10分
(宮内記者会代表質問)
天皇陛下として迎えられる最後の誕生日となりました。陛下が皇后さまとともに歩まれてきた日々はまもなく区切りを迎え、皇室は新たな世代が担っていくこととなります。現在のご心境とともに、いま国民に伝えたいことをお聞かせ下さい。
(天皇陛下)
この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。
新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。
ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。
天皇の望ましい在り方を求める日々
今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
第二次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。
しかし、その後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。
戦後の道のり
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。
終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。
それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。
昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。
そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。
平成に起きた災害
次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。
ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。
障害を抱える人に
障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。
障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。
海外と日本
今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。
そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。
日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。
また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。
皇后陛下
明年4月に結婚60年を迎えます。
結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。
天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。
そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。
今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。
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