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「華氏119」が語りかける重い課題 ― 「民主主義は再生できるか」
http://article9.jp/wordpress/?p=11387
2018年11月4日 澤藤統一郎の憲法日記
話題の一作、マイケル・ムーアの『華氏119』を観てきた。日本での公開が今月(11月)2日だから、比較的早い時期の観客となったわけだ。旧作『華氏911』は、「9・11後」のアメリカを描いて話題になっが、今回の題名の「119」は、トランプ当選の2016年11月9日後の、分断され荒廃したアメリカを描いたもの。事態はさらに深刻になっている。 中間選挙を目前の封切りは、一見「トランプ弾劾・民主党支持」キャンペーンの意図を感じさせるが、その程度の軽い内容ではない。これは、一面本質的に資本主義の本質を抉る過激な主張がなされていると同時に、民主主義に未来はあるのか、という深刻な問いかけがなされている。いや、既にトランプとその支持者は民主主義を破壊した。正確には、「民主主義は再生できるか」と言うべきだろう。絶望が主調で気が滅入るが、希望の芽を若い世代と女性の行動に見出そうとしている。 最後に印象的なナレーションがある。「ここまで事態を悪化させたのは『希望』だ。憲法があるのだから『希望』はある。選挙に事態を改善する『希望』がある。民主党に、オバマに、司法に、民意に、理性に、文明に、まだ事態を改善する『希望』が残されている。人々が、こう考えている内に、事態は後戻りできない寸前まで悪化してしまっている。今求められているのは、『希望』を語ることではない。『行動』を起こすことだ」という。正確な言葉の再現はできないが、趣旨はそういうことだ。 この映画は訴える力を持っている。このように編集されて事実を突きつけられれば、トランプという存在が、邪悪そのものであることが深い確信にまで至ることになる。しかし、その邪悪は、「11・9」に突然躍り出たものではない。それが、マイケル・ムーアの主張となっている。 トランプ前のミニ・トランプとして、オバマ政権時代のスナイダー・ミシガン州知事の邪悪ぶりが取りあげられている。その典型が、GEの城下街フリントでの水道管鉛中毒事件。(フリントはマイケル・ムーアの出身地でもある)。そのウソとごまかし・隠蔽体質は、アベ政権もかくやと思わせる悪辣さ。住民の抗議が高まるなか、大統領オバマが現地に入る。住民は、ヒーローが住民を助けに駆けつけにきたと涙の大歓迎をするが、…彼は窮地の知事の側に立って住民を宥めるだけ。鉛入りの水道水をほんの少し舐めるだけの演技をしてみせだけで、結局何もしない。オバマが、住民に与えたものは、無力感と政治への絶望とだった。 邪悪なトランプの登場を準備したのが、ビル・クリントンであり、オバマであり、ヒラリーであった。これがこの映画の筋立てである。言わば、トランプこそが邪悪のスーパースター、大悪魔。それと対立するように見えながらも、同じ魔界に、民主党も、ビル・クリントンも、オバマも、ヒラリーもいる。これまでは、小悪魔どもが跳梁していたが、いよいよ邪悪の権化である大悪魔が登場してきたのだ。 邪悪の本質は、飽くなき利潤追求を是認し、巨大企業や大富豪がさらに肥え太る基盤整備を最優先して、圧倒的多数者の貧困も環境破壊も人権も意に介さないということにある。この点において、民主党もトランプと変わりがないではないかという、厳しい批判がなされている。 もう一つの邪悪は、多数派の人々の中にある差別や偏見に自制を求めるのではなく、これを煽り、自らもその先頭に立つことによって支持と票を獲得し、政治的基盤を築こうという手法。トランプは、徹頭徹尾この手口で今のところ成功してきた。民主主義の負の側面を見せつけられる思いである。 マイケル・ムーアの観る社会と政治の構造はこうなっているに違いない。 一方の極に、一握りの大企業・大富豪がいる。他極に圧倒的多数の民衆がいる。そして、その間に今は少数となった中間層がある。格差は無限に広がりつつあり、大企業・大富豪の富の蓄積は経済的・社会的・政治的支配力となっている。中間層は、富豪層に取り入った下僕として民衆支配の道具になり下がり、圧倒的多数の民衆の生活状況は極端に追い詰められている。 この三極の構造を頭に置いて、民主党の立場とは、誰の利益の代弁者であるか。明らかに大富豪層の利益を代弁してきたではないか。クリントンも、オバマも、ヒラリーも、ウォール街から巨額の献金をえて、その見返りの政策を実行してきたではないか。これがこの映画の最も言いたいこと。だからヒラリーは選挙に負けた、だけでなくトランプ登場の舞台を掃き清めたのだ。トランプは、ヒラリーを「ウォール街の代弁者」と攻撃して、票を積み上げたのだから。 ナレーションに幾度となく、「リベラル」が出て来る。あるいは、「既成のリベラル派」。否定的な存在として語られている。ニューヨークタイムズもCBSも、である。所詮、民主党を支持しトランプの野蛮を批判していた彼らも、富豪層に取り入った民衆支配の道具ではないか。 共和党も民主党もトランプも、大多数の民衆の代弁者となっていない。マイケル・ムーアの希望は、予備選でヒラリーに勝っていたはずの、サンダース支持層に向けられる。これまで無名の市井の人が、中間選挙に立候補を表明して素人っぽく、政治活動を始めた姿が映し出される。彼ら彼女ら(多くは女性)が、「民主党を乗っ取る」という姿勢が好もしい。 マイケル・ムーアは、「この国(アメリカ)は本来左派の国」だという。一般の民衆の意見は、すべてのテーマについて、圧倒的に「民主社会主義」的だとも。ところが、議会がそうなっていないのは、選挙制度の問題と、人々のあきらめが問題だという。「『希望』を語るのではなく、行動を」。財界からカネをもらわない、民主党内の新興勢力に温かい目が注がれている。 もう一つの希望は、若者たちである。銃規制に立ち上がった高校生の運動は、本来政治的なものではなく、政治思想とも無縁だ。しかし、彼らは同級生が銃で殺されたことから、行動に立ち上がり多くのことを学んだ。「デモを止めて学校に戻りなさい」という校長の言い分に何の根拠もないこと。「校則違反というけど、全員退学なんてできっこないでしょう」という勇気を。そして、この銃規制が実は政治問題であることも。 彼らはよく分かっているのだ。政治が、多額の献金をしている全米ライフル協会の意向で動いていることを。共和党の議員が、その手先となっていることも。その行動力が、明日への希望である。 マイケル・ムーアは、最後に過去のナチスの画像を映し出して、ヒトラーとトランプとを重ねている。何とまあ、よく似た主張、よく似た政治手法。「最も先進的なドイツ。最も民主的で文化的で科学的なその国で、ファシズムが成立した」「誰もが、その直前まで、そんなことは予想もしなかった」という警告が耳に残る。 若者よ。学生よ。高校生よ。ぜひとも、あなた方にこの映画を観ていただきたい。強くお薦めする。この映画を観て、思うところを語り合ってもいただきたい。この映画に、民主主義先進国アメリカの実態が映し出されている。なぜこうなっているのか。日本とは、どこが同じでどこが違うのか。ナチスドイツが、国会議事堂放火の謀略で緊急事態を自ら作り出し、共産党を弾圧して独裁を達成したことが語られている。米・日とも、そのような事態への警戒は不要だろうか。なによりも、民主主義は正常に機能しているだろうか。漫然と投票しているだけで、よりよい社会が作られていくだろうか。民主主義を健全に機能させる条件とはなんだろうか。いま、トランプのアメリカにも、アベ政治の日本にも、その条件が欠けてはいないだろうか。 トランプの差別容認に苦しめられている人々は、「憲法があるのに負けた」と語っている。憲法はあるだけでは紙に書いた文字に過ぎない。この理念を活かす行動が必要ではないか。この映画に出て来る、「行動に立ち上がった」人々のなんと生き生きとした表情。マイケル・ムーアは、素晴らしい映画を作った。もちろん、「民主主義を再生する」ために、である。 (2018年11月4日)
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