谷間の百合氏は、GHQ管理下「大本営発表」のレベルから抜け出ていないようですね。 ま、お仲間であれば当然ですよね。鴻毛として野垂れ死にを強いられた民草でないならね。__ 一将功成りて万骨枯る、 財閥富を重ねるも 民草の屍 異国にて朽ち果てる ___ 汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く 権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし ___________________________________________ >http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/256.html 日本人はみんな,天皇家は精神薄弱の家系で昭和天皇も自分では何一つ決められない意志薄弱の知恵遅れだと思い込まされてきた.しかし,それは世を欺く仮の姿だったのだ: ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。 「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。 私は裕仁を子供の頃から存じている。 彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。 しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm 昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。 「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。 ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。 ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」 「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。 終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。 戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。 大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。 ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。 だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。 佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、 「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。 これは当時としては真実である。 しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。 それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。 キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。 みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だった。 天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。 佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、 「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。 これは当時としては真実である。 しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。 責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。 大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。 ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。 だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」 太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。 元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。 また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。 「吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。 吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。 吉田茂の養父である吉田 健三。 吉田 健三(吉田茂の養父)は帰国後、横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。 ジャーディン・マセソン商会はロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。 富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。 そして吉田茂の妻となった牧野雪子。 牧野雪子はアリスを通じてモルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。 在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。 このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。 吉田茂は妻となった牧野雪子により、天皇ともつながりを持つようになる。 吉田茂ー牧野雪子ーキャボット=アリスー九条節子(昭和天皇・裕仁の母)=天皇 吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。 麻生の正体 太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」こと吉田茂は、今の自民党総裁選の本命=麻生太郎の祖父だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」上p403、成甲書房)。 その功績で、トルーマン米大統領と占領軍最高司令官Dマッカーサーの決定で、吉田茂が戦後最長の長期政権の首相になった。 麻生一族は、明治期に天皇が50万人の日本女性を拉致・連行して欧州へ女郎として売り払った時の石炭会社と石炭船運行会社のオウナーだった。それで儲けた麻生の会社は資本蓄積して発展した(「オルタナティブ通信)。http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/456.html 昭和20年8月15日には、実は広島にあった陸軍の半分を指揮する第二総軍司令部は、8月6日の原爆で既に壊滅していた。だからクーデターは起こせない状況にあった。天皇一派は、陸軍による戦争継続を求めるクーデターを一番警戒していた。そのために終戦決定に当たっては、陸軍の叛乱が絶対に起きないように手を打っておかねばならなかった。 広島にあった陸軍の第二総軍司令部が原爆で壊滅したのは、偶然ではなかったのだ。 天皇一族は、なんと昭和20年6月の時点で(!)ヨハンセングループを通じて、原爆投下の情報を実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていた。ヨハンセングループとは、米国機密文書に出てくる秘密名の日本側組織であり、参加者は、牧野伸顕・吉田茂・樺山愛輔・岡田啓介・米内光政たちであった。このグループは、当然ながら戦犯に指定されていない。 スティムソン陸軍長官からグルー駐日米大使、さらにヨハンセングループへとルートがあり、そのルートを通じて天皇一派は戦時中も米英勢力と繋がっていたのである。 昭和天皇は20年6月にスティムソン側から、原爆投下の場所と日時を決めるよう要請を受けた。そして広島に、8月6日午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ。その仲介をしたのがヨハンセングループであった。 つまり天皇は敗戦によって自分の生命と財産が保全されることが連合軍に保障されたので、ポツダム宣言受諾という形で敗戦を決めたが、それを陸軍に邪魔されたくなかったので、米軍に頼んで広島の陸軍司令部を叩き潰してもらったのであり、広島市民40万人はその犠牲にされたのである。 当時の陸軍大臣阿南惟幾は8月15日未明に割腹自殺を遂げているが、その直前に部下に「米内(海相)を斬れ!」と言い残している。阿南陸相は一連の原爆攻撃から終戦工作の経緯を知っていたのかもしれない。 ヨハンセングループの連中は、戦後、口を揃えて、原爆投下は終戦のための「天啓」だったなどとヌケヌケと発言したのであった。 それにしても、天皇やヨハンセングループが原爆投下の場所・日時を指定していたことは、ソ連参戦をも承知していたのであろう。ソ連軍が満州に侵攻する準備が整うまで、戦争を引き延ばしていたとも取れる。 http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6670188e626bc9a6e9269a37b1c57f5e
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