建前の価値はそこにある 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明 2018年8月24日(金) 小田嶋 隆 複数の省庁が障害者の雇用率を水増ししていたことが発覚した。
報道によれば、水増しは複数の省庁で42年間にわたって行われていた大掛かりなものであったのだそうだ(こちら)。 「久しぶりに出くわしたとんでもないニュースだ」 と言いたいところなのだが、残念なことに、ニュースの受け手としての私のとんでもなさへの感受性は、順調に麻痺しつつある。 私は驚かなかった。 「まあ、そういうこともあるのだろうな」 と思いながら記事を読み終えた。 そして、その自分自身のクールな受け止め方と不人情さに、いくばくかの後ろめたさを感じている次第だ。 42年間にわたって、複数の省庁が障害者雇用率の数値を偽って報告していたことは、これは、何度強調しても足りないことだが、実にとんでもない驚天動地の醜行だ。 が、その一方で、私たちは、その、おそらくかなり数多くの関係者が感知し得ていたはずの事実について、ずっと知らん顔をしていた当事者でもある。 42年間も発覚しなかったということは、「巧妙に隠蔽されていた」とか、「関係省庁が全力を挙げて秘密の保持に心を砕いていた」というようなスジのお話ではない。この間の経緯は、どちらかといえば、「公然の秘密」として見てみぬふりをされてきた前提だったことを物語るもので、つまるところ、われわれは、その種のごまかしを半ば「常識」として容認してきたのだ。 実際 「そりゃ、お役所だって、きょうびそんなにのんびりした職場じゃないわけだしさ」 てな調子で「冷徹」な見解をツイートする匿名の論客が活動しはじめている。 そういうふうに「残酷」に受け止めてみせるのが、普通の人間の普通の感覚だと、彼らはテンから信じてやまない。 彼らにしてみれば、障害者の排除に憤ってみせている「自称リベラル」こそが、「偽善者」の「お花畑」の「素敵なポエムを唱えていれば世界が素敵なファンタジーランドに変貌すると思い込んでいる夢想家」だというお話になる。 彼らが想定している「あたりまえな世間」では、中学校の公民の教科書に載っているテの話をわざわざ持ち出すタイプの人間は、この世界のリアルと、教科書が教えていたお上品な建前の区別をつけることができない低能ぐらいな扱いになる。あるいは「おリベラル」「おサヨクさま」といった調子の尊称まじりの呼びかけ方で揶揄する対象に過ぎない。いずれにしても、マトモな人間としては扱われない。 「あんたたちが学校の教室で吹き込まれてきた理念だの理想だのは、校門の外に出たら通用しないんだぜ」 「な、いいかげんに学習してくれよ。学校の教室で勉強ができたという君たちのその栄光の物語は、卒業した時点でとっくに終わってるんだから」 「そんなわけなんで、あんたらのその人権アヒャアヒャ踊りの輪は、どうか仲間うちだけで静かにやってくれるとうれしい。当方からは以上だ」 ネット上に盤踞する冷笑系の空論家でなくても、われら一般国民にしたところで、役所の人事採用が額面通りに障害者に門戸を開いていないことに薄々気づいていながらそれを黙認していた人間たちではあるわけで、つまるところ、われわれは、駅のベンチにうずくまって苦しんでいる人のそばを通り過ぎる通勤客みたいな調子で、知らん顔をしていたのである。 そういう意味でも、お役所の罪は深い。 「過酷な市場競争にさらされていないお役所にしてからが、障害者を事実上排除してるのに、どうしてオレら一般企業がお国の指示に従って、雇用率を守る義理があるんだ?」 「つまり、障害者雇用率とかいうおためごかしの取り決め自体が、どうせ集票目的の宣伝活動に過ぎなかったってことだわな」 「生産性だとかいう言葉を使ったカドで非難されてた政治家がいたけど、少なくとも役人は彼女を責めるわけにはいかないだろうな。それともアレか? 口から出る言葉として生産性という用語を使うのはNGだけど、不採用通知を通じて特定の相手に思い知らせるのはOKだってことなのか?」 てな調子で、官公庁が「建前」を守らないことは、おそらく一般企業の詐欺的採用やブラック雇用への追い風になる。 特段に強欲な経営者でなくても 「結局この世界の唯一のルールは『適者生存』に尽きるってことだよ」 式の市場原理主義的な信念に共感を寄せる人は少なくない。 してみると、「リアル」であることを自負する新自由主義的な企業家にとって、障害者雇用率なる枠組みは、制度的な偽善である以上に経営への過度な介入であり、結論としては、彼ら自身の人間観を否定する古いドグマだ、ってなことになるのだろう。 毎日小学生新聞によれば、障害者雇用における水増し発覚のケースは、中央省庁のみならず、自治体の採用にも及んでいる(こちら)。 読者の環境(契約の有無とか)によって、リンク先の記事が読めるかどうかちょっと私の方からはわからないのだが、最近、私は、この種の、社会の成り立ちの根本にかかわるニュースは、いっそ小学生新聞で読むのが適切なのではないかと思い始めている。 実際、リンク先の記事は、要点をおさえつつ、シンプルかつ明快に事態を伝える素晴らしい記事だ。 今回発覚した事態は、障害者雇用という社会的包摂のうちの最も大切な部分で、模範を示すべき官庁ならびに自治体が、自ら率先して障害者差別を実行していたことを示唆している意味で、大変に深刻だ。 こういう話題に関して、報道機関は、思い切り建前寄りの記事を配信せねばならない。 でないと、「リアルな欲望」や「めんどうくささの回避」に流れがちな「現実」とのバランスがとれなくなる。 毎日小学生新聞は、先日の杉田水脈議員の「生産性」発言の折にも、8月9日付の記事で、ほかの日本中の大人向けの新聞が避けていた真正面からの論評をあえて試みている(こちら)。 記者は、 《 −略− 国会議員(こっかいぎいん)は差別解消(さべつかいしょう)のために働(はたら)く立場(たちば)にありますが、杉田議員(すぎたぎいん)は、子(こ)どもを産(う)むかどうかで人(ひと)の価値(かち)を判断(はんだん)し、その誤(あやま)った評価(ひょうか)で社会(しゃかい)の支援(しえん)を受(う)けられるかどうかを決(き)めるという間違(まちが)った考(かんが)えを主張(しゅちょう)しました。 −略−》 と書いている。 ここまではっきりと水田議員の主張を否定し去った記事が、ほかにあっただろうか。 シンプルな間違いに対しては、シンプルな論評記事を書くべきだという、考えてみれば新聞社として当然の取り組み方を、われわれは小学生向けの新聞から教えてもらわなければならない時代に生きている。 なんとも、不思議ななりゆきだ。 財務省による行政文書の改竄が発覚して以来、この社会を成立たらしめていると考えられていた根本的な倫理観が実は既にして崩壊しておりましたという感じのニュースが続いていて、こっちの現実感覚がいまひとつ正常に機能しなくなっている。 裏口入学などという昭和の時代にすっかり滅亡したはずの醜悪な不正が行われていたことに驚いていたら、なんと同じ大学で、今度は入学試験の点数データが改竄されていたことが発覚してしまう。 ちなみに申し上げれば、裏口入学が、入試制度の片隅に小さな穴があいていたことを物語る例外的な不祥事であることに比べて、試験データの改竄は、入学試験というシステムの前提が真っ赤なウソであったことを意味する、より根源的で致命的なスキャンダルだ。2つの事件を同一の基準で語ることはできない。お釣りをごまかした店員の事件と、組織的な偽造紙幣の流通の経済へのインパクトの大きさを同列に並べることができないのと同じことだ。 行政文書や大学入試の点数は、この世界の公正さを担保している「基準」というか、「スタンダード」そのものだ。 偽造された人事採用資料をもとに運営されている役所が信頼できないのは、デタラメな強度計算をもとに設計された橋が安心して渡ることのできない建築物であるのと同じで、われわれは、自分たちが依って立つ基盤となるデータについてはどこまでも厳密に構えなければならないはずなのだ。 こういうものが書き換えられると、社会の前提が崩壊する。 たとえばの話、紙幣の額面が消しゴムで消して書き換え可能になったら、私たちの信用経済はその日のうちに崩壊することになると思うのだが、お役所が決裁した文書や、入試問題の答案の点数が自在に改竄可能な設定になったら、われわれの社会を下支えしている、人間の知的能力への信奉や、文書記録への信頼といった、ホワイトカラーの信仰は崩壊に瀕する。 でもって、今度は、国家公務員の採用にあたって、お国が採用基準をごまかしていることが発覚してしまった。しかもその採用不正はどうやら複数の省庁で42年間にわたって続けられてきた、お役所ぐるみというよりは、全国民が共犯だったと言っても良い規模での日常的な不正だった。 これは、単に書類をごまかしたというだけの話ではない。 記録という公務員にとって命の次に大切なはずのデータを冒涜していたというだけの問題でもない。 具体的な次元では、障害者の雇用機会を奪い、本来なら雇用されて報酬を得るはずだった何千人何万人の人間から生活の基盤と社会的評価の基礎を不当に奪い去っていたということだ。 しかも、この官公庁による人事採用思想は「生産性」という呪いの言葉に強い説得力を与えてしまっている。 個人的には、この点が最もひどいと思っている。 つまり、この度の公的な機関による組織的な障害者排除事案は、杉田議員がうっかり漏らした「生産性」という言葉が、彼女の個人的な妄言ではなくて、より広範な人々によって共有されている21世紀の時代思潮の顕現であり、40年以上も続くわが国の伝統的な人事管理思想の根本を説明する用語であることを証拠立てる出来事だったということだ。 われわれは、「生産性」によって人間を評価し、雇用し、管理し、場合によっては排除し、廃棄排斥することを厭わない考え方に基づいて、集団を指揮し、企業を運営し、国策を立案し、憲法を改定しようとしている。 このことに私は恐怖感を覚えている。 それ以上に私が不気味さを感じているのは、「生産性」という言葉や考え方に、なんらの不自然さを感じない人々の数が増えていることだ。 最近読んだ、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(吉川浩満著、河出書房新社)という本の中にちょっとおもしろい話が出てくる。 第二章の「生きづらいのは進化論のせいですか?」というインタビュー記事の中で、著者の吉川氏は、質問者に答える形で、こんな話をしている。以下、要約する。 ビジネス書や処世術の本では、「弱肉強食」の価値観を標榜するものがよくみられる。 いわゆる「進化論」を肯定する人々の中には、弱者や無能者が優遇されすぎている世の中への違和感を語る人々がいて、その彼らは競争の正しさを裏打ちする理論として進化論を援用している。 この世界を適応して生き残る者と、適応できずに死んでいく者に分類する考え方として、進化論を認識している人々は、勝ち組/負け組、モテ/非モテのような文脈にも進化論を適用する。 世間に流通している俗流進化論の大筋は、「生物の進化には目的がある」とする考え方から「発展的進化論」を展開したフランスの博物学者ラマルクの思想をもとにしているケースが多い。 そのラマルクの発展的進化論を人間社会に適用した、英国の思想家ハーバート・スペンサーの思想が、後に「社会ダーウィニズム」として一世を風靡し、優生学的な態度を広めた。 その、スペンサー主義ないしは社会ラマルク主義と呼ばれるべきものの考え方が、社会の中での競争と適応を絶対視し、弱者の滅亡を正当化する競争万能思想に影響を与えている。 と、以上の前提を踏まえた上で、吉川氏はこう言っている。 《 −略− 適者生存の原理は、「適者は生存する」という法則ではありません。「生存する者を適者と呼ぶ」という約束事であり、そこから仮説を作るための前提です。 たとえばケプラーの法則は、実験や観察によって真偽を検証することができます。でも適者生存の原理は真偽を検証できるようなものではありません。「結婚していない者を独身者と呼ぶ」と同じように、適者の意味を定義しているに過ぎないのです。 −略− 》 なんと、われわれは、前提と結論を取り違えているようなのだ。 で、実際の進化がどのように起こるのかについては、これは、ほとんど「偶然」と「運」に依存している。ある種の「能力」と呼べる資質が生存に関与することはあるが、どの能力がどんなタイミングで生存に寄与するのかということが「運」と「偶然」に左右されている以上、「能力」は、そんなに重要な変数ではないということらしいのだが、このあたりの詳しい内容については、同じ著者の前著『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社)に詳しい。興味のある向きは読んでみてほしい。 ポイントは、「進化論」(ラマルク+スペンサーから借用してきた俗流進化論)が「競争の効用」や「市場原理の正しさ」や「社会の進歩」を言い立てる人々にとっての「お守り」として利用されているということだ。 われわれは、社会的弱者を見捨てたり、貧困に苦しむ人々を放置するにあたっての、科学的裏付けというのかアカデミア発の許認可証みたいなものを求めている。 でもって、自分がその種の「科学」の立場に則ってものを言っていると思っているからこそ、自信満々で無慈悲な断言を発することができる。 「かわいそうだけど、社会の進歩のためには仕方がないよね」 「だって、弱者を擁護すれば、それだけ全体が弱体化するわけだから」 「強い麦を育てるということは、有り体にいえば弱い麦を踏み殺すことだからな」 「まあ、インテリの先生方は摘果しないで育てた小粒の痩せたリンゴ畑みたいな社会がお望みだってことで」 実際のところ、役所が障害者を雇用することは、業務の効率を妨げ、行政サービスを低下させ、税金の無駄遣いを招き、弱者利権を恒久化する事態を招くのだろうか? 私は必ずしもそうは思わない。 実際に、私は自分が出入りしている自治体で、車椅子で勤務している職員による行政サービスを受けているが、何ら不都合は感じなかった。 それどころか、障害を持った職員が働く姿は「すべての人間は果たせる役割を持っている」という、ごく当たり前の観察をPRする意味で、有効だと思っている。 「役に立たない人間は排除しなければならない」 という生産性万能の思想は、あるタイプの限られたメンバーを想定して作られた組織ではそのとおりかもしれないが、すべての人間を含む「社会」を舞台に、その考えは通用しない。 人間の社会では、むしろ逆に 「社会はすべての人間にしかるべき役割を割り振るように設計されていなければならない」 という原則で考えられなければならない。 狭い市場で利益を生むべく生成された企業は、特定の条件を満たす人間を募集して雇用するものなのだろう。 が、「特定の条件を持って生まれた人間の能力を活かすべき機会と現場を作り出さなければならない」という発想から生まれる仕事だってあって良いはずだし、もしかしたら、この先の世界でものを言うのは、そういう場面から生まれた仕事であるのかもしれない。 お花畑だと思う人はそう思ってかまわない。 私は、自分がどちらかといえば肥溜めよりはお花畑の方を好む人間であることを恥だとは思っていない。 (文・イラスト/小田嶋 隆) (編注:文中の「障害者」の表記は弊社の編集ルールに従ったものです) 「生存する者を適者と呼ぶ」。そして、適者か否かは大半が「運」 長寿コラムの当欄担当の私は、幸運なんでしょうか。うーん……。 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。 なぜ、オレだけが抜け出せたのか? 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。 なぜ人は、何かに依存するのか?
『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』 > 告白 一日目 アル中に理由なし 二日目 オレはアル中じゃない 三日目 そして金と人が去った 四日目 酒と創作 五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」 六日目 飲まない生活 七日目 アル中予備軍たちへ 八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威 告白を終えて 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす! (本の紹介はこちらから) このコラムについて 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明 「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
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