http://www.asyura2.com/18/senkyo247/msg/165.html
Tweet |
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52216980.html
2018年06月30日 「ジャーナリスト同盟」通信
<平和主義を貫いた苦労人の母>
沖縄の戦没者慰霊祭で活躍したのは、地元の中学3年生の女子だった。安倍晋三・好戦派首相の存在はかすんでしまっていた。同じころ、我が家の閣下が100歳2か月で、苦難の人生にピリウドを打った。房総半島の一部では、母親のことを閣下と呼んでいる。とても偉い人物の意である。上州・群馬県では「カカア」とか「かかあ天下」だ。ついでに言うと、この辺では、二人称の「あなた」を「おめえ」と発音する。御前と、これも丁寧・敬語だ。「にし」とも。中国語の「ニーシー」(あなたは)に似ている。それはそれとして、私の閣下は2018年6月26日午後8時、特養老人ホーム「中郷記念館」で、息子らが見守る中で、骨と皮だけ残して、静かに息を引き取った。遺産ゼロ・誇れるものは、平和主義を貫いた一生だった点である。
本日午後6時から、袖ケ浦市の東清会館で通夜、7月1日が永遠の別れとなる告別式である。父親の時は、話の途中、感極まって、声が詰まって、不覚にも涙を流してしまった。今回は100歳の閣下のために「告別の辞」文を用意して、朗読しようと考えている。もう閣下を知る者は、ほとんどいない。昨日は90歳になる石橋さんが、車で送り迎えされて、線香をあげに来てくれた、と長兄が言っていた。彼の名前が平和の和と一、和一であるが、閣下みつと父「おとっちゃん」喜平が、平和を祈って付けた名前であろう。小生は二郎、どうでもよかったらしい。閣下24歳の時に生まれた。
ちなみに、閣下は田中角栄、中曽根康弘と同年である。馬喰の倅はロッキード事件の陰謀にはめられたが、材木屋の「やっちゃん」は、まだ健在のようだ。因果応報も作動しない。人生にバランスは作用していない。
<初めて死に目に逢えた幸運?>
東芝病院で急死した2010年4月7日の次男・正文の時は、死に目に逢うことが出来なかった。心労と介護疲れで後追いした妻の2013年11月23日の時も、最期の別れが出来なかった。今回、初めて閣下の手を握りしめながら、その瞬間を看取ることが出来た。
週に1回か2回の昼食の介護で、なんとなく分かっていたので、涙は出てこなかった。
昼食介護で分かったことは、施設に預けられた老人の多くが「姥捨て山」同然の生活を強いられるということらしい。嘆かわしい21世紀の日本である。
先日、東芝の洗濯機が壊れて、中国製のハイアールに切り替えた。これで東芝製品が我が家と、永遠に決別したことになる。反省がないのだから、恨みが消えることはない。隣国からだと、歴史を直視しない安倍・自公内閣を、心から許すことはない。中国人や韓国朝鮮人に申し訳が立たない。人間の約束事は、つまるところ、人間性である。
<4か月後の再会に驚愕>
昨年の12月からおよそ4か月北京に滞在、帰国して間もない3月26日に閣下と再会して、腰を抜かしてしまった。
意識の低下は否めなかった。それどころではなかった。手足がひどくむくんでいた。こんな無様な閣下の姿を想定できなかったものだから、不肖の息子もうろたえてしまった。何よりも驚いたことは、左手の甲が、蜘蛛の巣のようにばい菌で白く覆いつくされていたことだった。
これが特養なのか。放置された老人である。機転を利かせて病院に送り出さないのか。それが全くない特養だった。「あとが待っている。早く死んで」という対応であろう。
右手で「かゆい」といって体をかきむしっているではないか。なんと首から胸あたりが、爪で掻いた傷で充血していたのである。悲惨・残酷な閣下の容態に驚愕した。それでも、丁重に対応するのが、家族の務めという。丁重に、文書で申し入れると、左手のZOMBIEのような手は、手当てを受けたらしく、ややまともな手に戻った。
この時点で、閣下の誕生日の5月2日まで持つまい、と判断せざるを得なかった。
木更津随一の規模を誇る特養も、このレベルなのだ。家族が時々、看ていないと、入所者の扱いは厳しい。いまの反省点は、なぜ入院をお願いしなかったのか、無念の極みである。
<14歳で上京、蒲田駅前の食堂での親子どんぶり>
思い出すまでもなく、敗戦後遺症で地方の生活は恵まれていなかった。中学3年で就職を決断、親元を離れた。閣下は、閣下の姉の嫁ぎ先の羽田へと息子の私を連れて行った。
当時、貧しい農家の子供たちは、東北地方に限らず、全国から東京に集中していた。私もそんな一人だったのだが、この時、閣下は蒲田駅前の小さな食堂に案内して、昼ご飯を御馳走してくれた。閣下の接待は、後にも先にもこれ一度だ。閣下は親子どんぶりを注文した。
そのころのおいしい料理というと、ラーメン(支那そば)が最高だったものだから、白いご飯の上に乗った卵とわずかな肉がとろけるように腹に染み渡った。おいしかった。この親子どんぶりこそが、その後の人生のエネルギーとなった。
北辰電機で働きながら都立大学付属高校定時制、ついで中央大学法学部夜間部、そして大学3年生の時、昼間部に編入することに成功した。学費の節約のため、故郷の馬来田から2年間、片道3時間かけてお茶の水まで通学したことが、わが人生の絶頂期だった。
久留里線の一番列車に乗る息子のために、閣下は4時ごろ、かまどで木を燃やして、ご飯を炊いて送り出してくれた。この御恩を忘れることはない。学校からの帰りの列車で眺めた東京湾の夕日が美しかった。海苔採取の小舟が、ノリ養殖のための竹竿とよくかみ合って、近くでぽっかり浮かんでいるのも素晴らしい景色だった。今はない。
<閣下に一度叱られる!>
閣下に迷惑をかけてきた我が人生において、息子を叱るということはなかった。ただ一度だけだ。それはアフガン・イラク戦争の時だった。小泉内閣である。
「戦争をやめさせてくれ」が、閣下の切なる叫びだった。無念にも小泉には届かなかった。細いペンと新聞やテレビでのコメントで警鐘を鳴らすしかなかった。一人小泉批判本「純ちゃん、間違っていませんか」(データハウス)を書いて抵抗した。
彼の結婚式に出た筆者だ。進次郎はその後に、世の中に出たことになる。玄関に小さな粗末な置時計が、その時の引き出物で、今も動いているから不思議だ。
<平和主義に徹した戦争遺児の友子ちゃん>
閣下の体力が落ち込んだころ、よく産婆さんの娘の友子ちゃんが、姿を見せてくれた。閣下も「友子ちゃん、友子ちゃん」といって大歓迎していた。戦争遺児の友子ちゃんは、美人の栄養士で知られていた。
3人の息子・娘を立派に育て上げたあと、戦争未亡人の母親・産婆さんの実家に戻って来ていたからである。彼女の訪問に、閣下がどれほど助けられたか、それは平和主義者同士の同志的結びつきだったからだろう。
閣下は、4年前の4月28日にやくざにかまれて殺害された友子ちゃんのことを知らない。教えなかった。認知症も災いしていた。「戦後70年を生きて迎えられなかった戦争遺児」である。
彼女が一番手に「太田ショウコウは裏切り者だ」と断罪して、その直後にやくざにかみ殺されてしまった。「木更津レイプ殺人事件」である。友子ちゃんの信仰はさておいて、彼女の平和主義は本物だった。生まれた時には、父親は戦場で亡くなっていたのだから。戦争を憎み、靖国を呪って生きていた。彼女の太田批判はまともである。
信濃町に真っ当な執行部が誕生すれば、必ず友子ちゃんは顕彰されるだろう。やくざを極刑にして、地獄から救い出す義務もあろう。閣下の悲願・遺言に違いない。
沖縄での元米海兵隊員のレイプ殺人に対して、裁判所は日米地位協定に配慮してか、終身刑を言い渡した。木更津のやくざ・浜名は死刑が相当であろう。
親孝行一つできなかった不肖の息子の出来ることは、平和主義のペンを、さらに鋭くさせることだろう。
2018年6月30日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK247掲示板 次へ 前へ
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK247掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。