まじぽニュース GHQの内部はアメリカではなくてコミンテルンだった 投稿日:2017年11月12日 更新日:2017年11月13日 http://majipo.com/jonen/ghq-is-the-comintern/ (動画 ★削除) (上念司&大高未貴氏の解説、書き起こし) 上念:日本共産党の成立と朝鮮総連の成立は一卵性双生児ですからね。歴史的に。これは彼らも認めてますからね。もともと共産党員はほとんどが在日の人で帰国事業で帰ってしまって勢力が減るっていやがっていた。 ミキティ:アメリカも意図的に赤を育てた。 上念:民政局(GHQ内部の組織)の連中ですよね。GHQはソ連ですからね。アメリカ人だけど、ソ連のスパイがやっているのが GHQなんです。 GHQがアメリカだと思っちゃダメですよ。ソ連ですから。コミンテルンですから。詳しくは江崎道朗さんの本を読んで頂ければ。 ミキティ:あれいい本ですねー 上念:すごい売れてるみたいです。コミンテルンの謀略と日本の敗戦でしたっけ。 引用先:YouTube 『【DHC】11/10(金) 上念司・大高未貴・居島一平【虎ノ門ニュース】』 by DHCニュース、59分55秒からの解説 (DHCテレビの YouTube での配信期間は二週間です)
(★動画削除)https://www.youtube.com/watch?v=3HHajHDT9G8&feature=youtu.be&t=59m55s) −−−−−−−
しばやんの日々
日本共産党が在日朝鮮人と連携し武装闘争に走った時代を忘れるな http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-450.html
前回の記事で、昭和20年10月に再刊されたばかりの日本共産党の機関紙『赤旗』第一号の『人民に与う』という論文で、米占領軍を「解放軍」と賛美していたことを書いた。そして翌年2月の第5回日本共産党大会では、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の党の綱領的方針として採択されている。
その当時のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)にはソ連に繋がるスタッフが数多くいて、わが国を共産国化させるプログラムが裏で進行していたのだが、1948年9月には朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立し、翌1949年10月には毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。そして1950年2月には中ソ友好同盟条約が調印されて、いよいよ朝鮮半島全体の共産化が実行に移されようとしていた。 (本の表紙画像) 元日本共産党員の兵本達吉氏の著書『日本共産党の戦後秘史』に当時の興味深い新聞報道が紹介されている。 「それは、1950年2月15日付のパリ発、ニューヨーク・タイムズ特派員ザルツバーガー記者の特電と、同日付のワシントン発、APのハイタワー記者の特電である。サザルツバーガー記者は、スターリンと毛沢東がモスクワで会談し、『中ソ友好同盟条約』を結んだこと、そしてその秘密のメモランダムをスクープした。AP通信のハイタワー記者は、米政府筋の情報として、中ソ両首脳が、朝鮮半島ないしは台湾海峡での有事を視野に入れて、日本共産党を武装させる合意に達したと伝えている。 そして1950年3月、金日成が訪ソしてスターリンから南朝鮮への侵攻への同意を得た。」(『日本共産党の戦後秘史』p.81-82) 日本共産党史に詳しい宮地健一氏のホームページによると、ソ連崩壊後に発掘されたソ連共産党秘密文書などでスターリンは日本共産党に対し、以下のような指令を出しているという。その内容は 「(1)表面は、野坂参三を名指しにした占領下の平和革命論批判であり、そこには、武装闘争指令文言はない。しかし、(2)その裏側の狙いは、ソ連NKVD工作員野坂参三だけが判読できる暗号を含んでいた。その暗号内容とは、ソ連スパイ野坂にたいし、日本共産党を、朝鮮侵略戦争加担武装闘争路線へまるごと転換させよという指令だった。アメリカ占領軍も、この暗号内容を正確に読み取っていた。」 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/busotoso1.htm#m41
このようなスターリンの指令のあと、さらに中国共産党も日本共産党の「占領下平和革命論」を批判したことから、日本共産党は武装闘争に進むかどうかで意見が真っ二つに割れることとなる。
(マッカーサー写真) 一方、マッカーサーは5月3日に、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突する事件がおきている(人民広場事件)。 そして6月6日に、マッカーサーは日本共産党中央委員24人の公職追放を指令し、その政治活動を禁止(レッドパージ)するなど、それまでのGHQの日本共産党に対する施策を急変させている。 そして朝鮮半島では、6月25日に北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されて朝鮮戦争が始まり、一方わが国では7月には政府の出頭命令を拒否した9人の日本共産党幹部に対し逮捕状が出され、徳田球一、野坂参三らは中央委員会を解体し、意見の異なる宮本顕治ら7人の中央委員を排除して非合法活動に移行し、中国に亡命して9月に「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部を残している。 翌年の昭和26年(1951)2月に党分裂のまま開催された日本共産党第4回全国協議会(四全協)で、日本の暴力革命と朝鮮戦争下端武装闘争が決定し、その後反徳田派の首領であった宮本顕治は、スターリンの圧力に屈して派を解散し、主流派に復党したことで日本共産党は統一を回復した。 そして10月に開かれた第5回全国協議会(五全協)では、スターリン執筆の51年綱領と武装闘争方針が採択され、以後日本共産党は「軍事方針」と呼ばれる武装闘争路線を採ることとなり「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られたのである。
Wikipediaに、五全協で発表された、『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』という文章の一部が紹介されている。 「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B8%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A (新聞紙面写真)
●それから後日本共産党は、わが国の各地で列車を爆破したり、交番を焼き討ちしたり、警察官へのテロ行為を実行に移したのだが、このような共産主義国や共産主義者にとって都合の悪い歴史は、今の日本人にはほとんど知らされていないと言って良い。 (新聞紙面写真) 次のURLに日本共産党がこの時期にどのような活動をしていたかを伝える朝日新聞と日本経済新聞の9本の記事の紙面画像が紹介されているのだが、新聞の日付が明記されていないのが残念だ。いずれも1950年代前半の記事だと印されているが、これらの記事は日本共産党によるテロ事件のごく一部にすぎない。 http://ameblo.jp/gofujinnaidoru/entry-12160283566.html
次の『武闘の系譜』というサイトに日本共産党に関わる事件が約50件ほど記載されているが、これだけ多くの事件を起こしたことから、日本共産党は短期間で国民の支持を失うこととなる。 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/9729/butou.htm 上記サイトで記されている事件に一通り目を通すと、在日朝鮮人が日本共産党と同様なテロ事件を多数起こしていることがわかる。その関連をいろいろ調べていくと、在日朝鮮人が日本共産党と連携していたことが見えてくる。 (「日本に潜る赤い朝鮮人」と題された新聞記事写真)
上記画像は昭和27年(1952)3月30日の読売新聞の記事だが、ここには怖ろしいことが書かれている。文中の「日共」は「日本共産党」、「祖防」は「祖国防衛隊」(在日朝鮮人団体)の略語である。 (若き日の金日成と思しき人物の写真) 「…北鮮政府主席金日成が、『在日朝鮮人は今後日共指揮下に行動すべし』との密令を出し…、その後共同闘争の建前をとったことは各地の日共関係暴力事件に朝鮮人が加わっていることからも明らかであり、『われわれが入らねば日本革命の武装蜂起は日共党員、労働者のみでは成功しない』と自負しているという。 1月23日名古屋で行われた中部日本祖防隊長会議では『防衛隊は日共の新綱領を大衆に浸透させ、日共のスローガンの下に行動し、在日朝鮮人60万は日本民主革命の先鋒たれ』と決議、また昨年11月の長野における祖防委員会の席上では『金日成は在日朝鮮人を敵陣地に降下させた落下傘部隊であると激励した』と述べられたといわれる。 …人員は20代の青年約3万人からなっており、行動隊としてのテロの最先端分子、日共の中核自衛隊と同じように『祖防隊』などをもっているがこの『祖防隊』は中央総本隊、地方県本隊、支部支隊、分隊、班に分かれ、日共の五全協の軍事方針に従い共闘を行なっている。…」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%A1%9B%E9%9A%8A_(%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%9B%A3%E4%BD%93) ジャーナリストの林 玲氏が「『日本共産党史』から消された『朝鮮総連』結成秘話」という興味深い論文を書いておられる。次のURLに引用されているが、重要な部分を紹介しよう。 http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid289.html 「戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。」 このように日本共産党には戦前から多数の朝鮮人が加わっていて、終戦後に党が再建される際には、必要な資金の大半を当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供し、昭和21年2月に開かれた第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だったという。 昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、その翌年に在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成されているのだが、この民戦は共産党の民俗対策部の指導下にあり、在日朝鮮人は1951年2月の4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立たされることとなる。 ではなぜ、在日朝鮮人は日本共産党の武装闘争に積極的に加わったのだろうか。
その点については林 玲氏は 「実は、4全協では在日朝鮮人を、戦時下の日本政府にならったのかどうか、<日本のなかの少数民族>と規定したのである。 この規定では、在日朝鮮人は外国人ではないことになる。つまり日本革命をなし遂げることなくしては、在日問題は何一つ解決しない、とされたのである。」 と書いているのだが、この解説はわかりにくい。 わが国の政府では昭和22年(1947)5月の外国人登録令で在日朝鮮人は外国人と見做されるようになり、昭和27年(1952)4月に発効するサンフランシスコ講和条約と併せて外国人登録法が施行され、在日朝鮮人は日本国籍を有しないこととされた。 (写真)【保導連盟事件:韓国軍と警察による処刑を待つ政治犯】
外国人と見做されれば朝鮮半島に送還されることになるのだが、この半島は1950年6月以降、韓国と北朝鮮の間で主権を巡る戦場となっており、しかも韓国の李承晩は反共主義者で、1950年6月に南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に及ぶ民間人が裁判なしで虐殺されている。(保導連盟事件) また、その2年前の1948年4月には、南北統一国家樹立を訴えるデモを行っていた済州島の島民に警察が発砲し島民6人が殺害されたことに反発して、南鮮労働党が島民を中心とした武装蜂起を起こしたことから韓国本土から陸軍が派遣されることとなり、島の人口の2割にあたる6万人の住民が虐殺される事件も起きている。(済州島4.3事件) このような半島の情勢から多くの朝鮮人がわが国に密航してきたのだが、敗戦国であるわが国は武装が出来ず、一方朝鮮半島からの密航者は武装していたことから、密航船の検挙率は2割程度にすぎず、●また韓国政府はわが国が摘発した朝鮮人密入国者の受け入れを拒否したという。
共産主義を奉じる在日朝鮮人の多くは、わが国で「外国人」とされて戦場の朝鮮半島に帰されるよりも、「日本の中の少数民族」とされて日本に残りながら、祖国の共産主義革命を支援しようと考えた。 彼等は日本共産党とともに、日本各地で韓国向けの輸送の妨害などを起こして北朝鮮が朝鮮半島で勝利することを導き、さらに日本の共産主義革命に協力し勝利に導けば、わが国で権力の一端を担うことも可能だと考えたのではないか。
(写真)【血のメーデー事件】
ではこの時期にどんなテロ事件が起きたのか。再び林氏の論文を引用する。 「共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた。 1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙した。 ●この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者(1232名中130名)が出た。●広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日だったといわれる。 その年、大阪で起きた吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕者が出た。吹田事件の在日の逮捕者は250名中92名。大須事件では、269名中150名が在日だった。 こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判する。第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だった。 一方、日本共産党は、12月中旬になっても全国軍事会議を開催し、武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険主義は改めそうになかった。」. このように日本共産党は在日朝鮮人とともに武装蜂起し、「火炎瓶闘争」と呼ばれる暴力革命闘争を実施し多数の警察官が死傷したのだが、1952年に破壊活動防止法が施行されて、非合法闘争に対する当局の対策・取締まりが強化され、1953年に朝鮮戦争が停戦となり、日本共産党の徳田球一書記長も北京で病死して、非合法活動は次第に下火となっていく。 その後1955年1月1日に日本共産党は、ようやく機関紙『アカハタ』で「極左的冒険主義と手を切る」ことを表明する。それに伴い在日朝鮮人は路線を転換することとなる。 林氏はこう記している。 ●「1955年5月25日、…民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。 ●同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。 ●戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない」
●このように「朝鮮総連」は、もともとは日本共産党に所属していた在日朝鮮人が結成した団体なのだが、戦前から続いている日本共産党と在日朝鮮人との深い関係が「朝鮮総連」が出来て消滅したのではなく、両者が「反日」で共闘している今は、その関係がむしろ強まっていると感じるのは私だけではないだろう。 −−−−−−−
戦後70年
GHQ・もう一つの「検閲」とマッカーサーの素顔 『月刊正論』 2015年6月号 https://ironna.jp/article/1819 細谷清(近現代史研究家)
日本を占領した連合国軍の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、米バージニア州ノーフォーク市のマッカーサー記念館に眠る。ノーフォークは彼の母の故郷であり、世界最大の海軍基地がある。海軍兵学校のあるアナポリスも近い。
記念館は、そんなノーフォーク市の中心部にあり、元市庁舎だという建物はなかなかの威容であった。彼の名を冠した広場にあり、付設の図書館と訪問者センターもある。センターには、入口に彼が使った実物の車が置かれ、映画上映室や書籍や土産物を売るコーナーがあった。
記念館はマッカーサーの事績が展示されているが、彼の生涯最大の誇りであったであろう日本占領の歴史で、書かれていないことがあった。「検閲」と「親共産主義」である。 (略) このマッカーサー検閲規則にはもう一つ看過できない問題がある。それは、(三)にある中華民国を見放したとも取れる親共産主義と親中共(中国共産党)の姿勢である。 支那大陸ではこれより一カ月前に、国民党の蒋介石と中共の毛沢東の会談があった。この動きに合わせたかのように、中共や国内の共産主義者が国民党を批判することは許したのに、共産主義や中共への批判については言及していない。つまり許可されなかったのだ。 マッカーサー自身は反共主義者と言われ、占領直後のGHQの容共・親共産主義的な政策は、主にGS(民政局)に潜り込んだニューディーラーやソ連のエージェントらによるものと考えられてきたが、この検閲規則をマッカーサーが知らなかったはずはない。彼はこの時点では寧ろ共産主義者に大甘だったのだ。 (次ページに続く) −−−−−−−
弥栄の会
【WGIP】日本の共産化を進めたマッカーサー政策 http://www.yaei-sakura.net/index.php?society_h0055 日本にとっての第二次世界大戦(大東亜戦争)は、欧米列強による世界植民地政策から日本とアジアを守る戦いだった。
大東亜戦争の原因は何だったのか?その経緯を追う マッカーサー しかし、1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏文書に署名することになる。 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の本来の役割は、ポツダム宣言を執行するための連合国軍機関である。しかし、実質は占領政策をアメリカ大統領に一任されていたマッカーサーによる独裁支配機関であった。 占領政策の中で、マッカーサーは、WGIP(War Guilt Information Program/ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を実施した。 これは、日本人に罪悪感を植え付け、戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させて、日本人から愛国心と自信を奪い取るプログラムである。 --------------------------------------------------------------------------- ルーズベルト米大統領のブレーンの多くは共産主義者だった ●終戦を迎える以前の1943年から、アメリカにはOSS(Office of Strategic Serevices/戦術局)かあった。 そこでは、日本が敗戦した後に、どのように日本を支配していくかを話し合っていた。 ●OSSの中心的な構成員は、ドイツから亡命してきたマルクス主義を基にするフランクフルト学派のユダヤ人達であった。彼らは日本をマルクス主義の実験場にしたかったのではないかと言われている。 東西冷戦が起きたのは戦後である。当時のアメリカにとってソ連は日本・ドイツ・イタリアを共に攻める同盟国であったため、社会主義国に対する警戒意識は当時まだ持っていなかった。 ●ルーズベルト大統領も左翼思想の持ち主であったと言われ、彼のまわりは左翼思想家ばかりであった。 --------------------------------------------------------------------------- ●GHQは、外国から日本へ届く郵便、国内郵便、国内電報、放送番組、映画など、しらみつぶしに検閲を行った。 ●その結果、ほとんどの日本人は、戦争の責任はアメリカにあり、天皇陛下には罪が無いという考え方を持っていることに驚愕する。 ●そこで日本の国力が再び強くなったら困ると考え、1万項目以上の命令を出して日本人弱体化計画を強めていったのである。
(本の表紙写真「真相はかうだ!」) ●日本人に対して日本国が間違っていたと刷り込むために、GHQは命令によって「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換えさせ、アメリカ側に都合の良い太平洋戦争史を創作して、それを日本のすべての新聞に掲載させた。 ●国営ラジオ局だったNHKには「真相はこうだ!」という番組を作らせて、満州事変から終戦までの日本軍国主義の蛮行ストーリーを「真相」として国民に宣伝した。 ●このような過程で「南京虐殺」も捏造されたのである。 ●GHQは、それらをすべて日本人が自分の意思で報道しているように見せ掛けて、洗脳計画を進めていったのである。その思惑通りとなり、次第に日本国民は、実はそういうことが真相だったのだと思い込むようになっていった。 ●GHQが意図していたのは日本国民の分裂計画である。国民は善良であったが政治家と軍人達が極悪非道だったと刷り込み、国民と政治家や軍人が分裂するように仕掛けたのである。 ●アメリカに都合の悪い書物もすべて廃棄させた。約8000冊が姿を消したと言われている。ポツダム宣言に書かれていた言論の自由は実際には認められなかったのである。 --------------------------------------------------------------------------- ●マッカーサーは個人的に日本を酷く恨んでいた マッカーサーの父は、60万人の地元の人々を虐殺したと言われているアメリカ植民地時代のフィリピンのトップに立つ軍人であり、彼自身もフィリピンで大きな利権を持つ軍人で富豪であった。 ところが、マッカーサー率いる15万人の軍隊は、戦時中に入ってきた3万5千程の日本軍により、たったの45日間で壊滅されてしまうという屈辱を味わう。 その時にマッカーサーは、戦っている部下達を置き去りにし、側近を引き連れてオーストラリアへ逃亡する。その時、米国傀儡政権のフィリピン大統領を脅迫して、逃亡資金として50万ドルを自己の口座に振り込ませたと言われている。 このフィリピン攻略戦を指揮した本間雅晴陸軍中将は温厚な性格であったと言われているが、後の戦犯裁判により処刑された。 この時にマッカーサーと共にオーストラリアへ逃げた側近の軍人達が、後にGHQの中心的なメンバーになったのである。 そのメンバーの一人であり、終戦後南朝鮮に設置された軍政庁で軍政長官を務めたホッジ中将は、仁川(インチョン)で「朝鮮を日本の奴隷状態から解放する」といった内容の演説をした。これが現在の従軍慰安婦問題の発端となっている。 元文科相・中山成彬氏による従軍慰安婦に関する国会答弁 (http://kurasu.biz/index.php?ian_01) --------------------------------------------------------------------------- (写真)ベアテ・シロタ・ゴードン
●GHQから提示された「日本国憲法」の原案は、通訳だった当時23歳の素人女性が、たったの9日間で作成したものである。彼女もウクライナ系ユダヤ人の両親を持っていた。 彼女の原案には、「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は良きにつけ悪しきにつけ、国全体に浸透する。」などという文面もあり、当時の日本の専門家達はそれを読んで「憲法のイロハも知らないのか、こんなの作ったらGHQが世界に笑われるぞ」「中学生の落書きだ」「センチメンタルな少女が書いた共産主義の作文だ」と批判したという。 ●アメリカが特に恐れたのは日本の神道であった。アメリカは日本との戦いでヨーロッパ戦線の10倍の兵士を失った。その要因となった日本人の固い絆と強固な精神は神道によるものだと考えたのである。 そのため、GHQは日本人の精神文化を骨抜きにするために神道の破壊を画策し、神道指令を発し国家神道を廃止させた。 そして公職追放を行う。正しい日本の歴史を知っている人、日本国に対して誇りを持っている人、天皇陛下を尊敬する人、神道や日本神話(古事記、日本書紀)、大和魂や武士道を教える人々を教育界、財界、政界から片っ端から解雇したのである。 (毎日新聞写真「神道と国家を分離 マッカーサー司令部指令」) 日本人は神道と共に生きてきた民族である。人々は神社へ集まり、神主といろいろな相談をし、祭りの段取りや村の自治などについて話し合っていた。 人々は鎮守の森を守り、子供達は神社で遊び、そこから自然の大切さを学んできた。 しかし、GHQは人々が神社に集まる代わりに公民館を作った。神社ではなく公民館に集まって、これからは国の事なんか考えずに個人の権利と自由のことだけを考えなさいと指導した。こうして、多くの鎮守の森は荒れ果て日本人の心は歪められていったのである。 (以下略)
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