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社会主義の20世紀 おしつぶされた改革 〜プラハの春・ドプチェクの証言〜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/794.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 09 日 12:07:50: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 社会主義はそんなに悪いか 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 31 日 13:57:07)

社会主義の20世紀 第06回|おしつぶされた改革 〜プラハの春・ドプチェクの証言〜

 

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コメント
1. 中川隆[-14741] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:16:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1701] 報告
映画『存在の耐えられない軽さ』

1) Two Guitars (Две гитары)
http://www.youtube.com/watch?v=t2-T5DrTWoU&feature=related
The Unbearable Lightness of Being ~ Tomas, Tereza & Sabina Coda
http://www.youtube.com/watch?v=OaHS8CnKhFo


irina slutskaya March 2006, Moscow, Evgeny Pluschenko & Edvin Marton Ice Show
http://www.youtube.com/watch?v=FCCHS5oABus

Two Guitars by Paul Mauriat
http://www.youtube.com/watch?v=4L47R2LH0CA
http://www.youtube.com/watch?v=fB9rYzsLo4s&feature=related

две гитары HQ dve gitary дина дурбин deanna durbin
http://www.youtube.com/watch?v=0Zhmyl1Wk7Y

Валентина Пономарева - Две гитары
http://www.youtube.com/watch?v=a2YNWI1nN0U

Russian Gypsy music - Two Guitars" - "Две гитары
http://www.youtube.com/watch?v=D2JEz0VqHac

TWO GUITARS - Noy Gorodinsky
http://www.youtube.com/watch?v=_338SHdoxYA&feature=related

_______


ジプシーの娘(Цыганочка)
http://saison-nouvelle.homeip.net/tsuiganka.pdf
русская народная песня
слова... неизвестный автор
музыка... неизвестный автор

ロシア語ではジプシーを‘цыган’と言い、女ジプシーを‘цыганка’と言います。Цыганочкаは、その指小形です。
ロシア民謡をアレンジしたポール・モーリア(Paul Mauriat)の古いアルバム(日本フォノグラム、1966)の解説によると、

「ロシアには多くのジプシーが住んでおり、街頭でギターをひいたり踊りをおどったりするほか、トランプ占いなどで生計をたてていますが、これはそのジプシーの歌の一つで、『黒い瞳』と並んで世界中に知られた民謡曲です。何ともいえない悲しみをたたえて流れる2つのギターの調べ──それは、若い男女のやるせない愛情を象徴しているのです。」

 ポール・モーリアの作品──彼が日本で有名になる前の作品ですので、チェンバロとトランペットを多用した例のややマンネリ化した演奏ではありません──この作品を聴いてみますと、確かに叙情的なもの悲しい雰囲気に浸れます。

しかし、10年程前にロシアでリリースされた、『魅力的な目』というアルバム(Очаровательные Глазки, студия“Союз”, 1996)に収録されている“Цыганочка”(ジプシーの娘)という曲のイメージは、聊か異なります。
アルバムに添付されている歌詞には書かれていないのですが(別のテキストには書かれています)、この曲には一種の掛け声のようなコーラスが用いられています。それは、ウォッカを呷るときの掛け声ではないですか。そうであるとすると、この曲は宴会の席で余興にうたわれる歌ということになります。
 ロシア人は動物の脂身をつまみにして、小さなコップでグィッ、グィッと何杯もウォッカを呷るのだそうです。因みに、ウォッカはводкаと表し、「水のような酒」という意味になります。「水」を意味するводаは、英語のwaterに対応します。

古い歌で、作詞も作曲も「不詳の作家」となっていますので、全文を訳出してみます。

Если б я была цыганка,
もしもあたしが女ジプシーで、

Да притом красивая,
おまけに美しかったら、

Что бы стала со мной делать
あたしに何をしはじめるだろうか

Маменька родимая.
あたしを生んだ母さんは。

Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз.
続けて一杯、もっともっと。

За цыгана выйду замуж,
あたしはジプシーに嫁ぐ、

Хоть родная мать убей,
実の母があたしを殺そうとも、

Карты в руки, шаль на плечи –
手の中のカードが、肩に掛かったショールが、

И обманывать людей.
人を騙すんだ。

Ты цыган и я цыганка,
あんたはジプシー、あたしは女ジプシー、

Оба мы цыгане,
うちら2人ともジプシーなの、

Ты воруешь лошадей,
あんたは馬を盗み、

а я ворую сани, ох-ох-ох-ах.
あたしは橇を盗む、おほほほ。

Ой, девчоночки, беда
ああ、お嬢ちゃんたち、困ったな

Да куда мне деваться,
おらは何処へ隠れていようか、

По колено борода,
ひげが接吻する2人の口元に

Да лезет целоваться.
覆い被さっているではないか。

У милёночка мово,
あたしのカレシは、

Да волосы волнистые,
髪がウェーブしてんの、

Я его не заменю
あたしは彼を取り替えないわ

На горы золотистые.
いくらお金を積まれても。

Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз.
続けて一杯、もっともっと。

В поле ветер, огоньки,
草原に風が、炎が、

Дальняя дорога,
長距離の旅、

Сердце бьётся от тоски,
哀しくて心臓が鼓動する、

А в душе тревога.
そして心には不安がある。

Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз.
続けて一杯、もっともっと。

Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много-много раз.
続けて一杯、もっともっと。
http://saison-nouvelle.homeip.net/gypsy.htm

2. 中川隆[-14740] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:20:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1700] 報告
2) 映画『存在の耐えられない軽さ』_ ヘイ・ジュード

存在の耐えられない軽さ
出演: ダニエル・デイ・ルイス, ジュリエット・ビノシュ, レナ・オリン
監督: フィリップ・カウフマン

「人生は私にはとても重いのに、あなたにはごく軽いのね。私、その軽さに耐えられないの」

一人の男と二人の女。彼らは"プラハの春"を生きた---。
1968年のプラハ。国内外に民主化の風が吹き荒れる中、有能なる脳外科医トマシュは自由奔放に女性と付き合い、人生を謳歌していた。そんな彼の生活が、出張先で立ち寄ったカフェでウェイトレスをしていたテレーザと出会ったことで一変する。テレーザはトマシュのアパートに押しかけた挙句、同棲生活を始めると言い出したのだ。女性と真剣に付き合ったことのないトマシュは困惑しつつも承諾するが、以前から付き合っている画家のサビーナとの関係も終わらせたくない。こうして一人の男と二人の女の微妙な三角関係が始まった---。
"プラハの春"を生きた三人の男女を描いたミラン・クンデラの同名ベストセラー小説を名匠フィリップ・カウフマンが映像化。

_______


もう今から15年近く前でしょうか、当時付き合っていた女性が観たいと言って付き合いがてら映画館に入りました。いわゆる自称アート系文化人を気取った(当時はそんな言葉はまだ無かったが)連中が観にいきそうなこの手の映画(と決め付けていた)で正直あまり気は乗りませんでした。上映開始後、30分、1時間、2時間・・・「長げぇなー」と正直少々退屈したりもしていたのですが、

主人公2人が死んだと知らされた後のラストシーン、ダニエル・デイ・ルイスがビノシュから、

「今何考えているの?」
と聞かれ、
「How Happy I am」

と答え、物語は終わり、エンドロールが静かに流れ始めてから・・・ポロッ、ポロポロッ、と涙が静かにこぼれ始め、暫く止まらなくなり、なかなか席を立てなかった事を、今でも鮮明に覚えてます。

_______

画面に漂うアンニュイと哀しみが印象的な映画でした。「あのラストは何だろう」という感想を目にしましたが、この映画の結末は(ゲーテの)『ファウスト』第一部の結末とオーバーラップしています。因みに「むく犬」や「メフィスト」という名の豚などが出てきました。それを思い合わせると、いろいろなことが考えられるでしょう。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005R236/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4087603512&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0BJ7FT9YMKB5NS5T8D5R


The Unbearable Lightness of Being

http://www.youtube.com/watch?v=E57_BJ1dbzE
http://www.youtube.com/watch?v=iJHVryYwIaM
http://www.youtube.com/watch?v=ifd_aR25QPE
http://www.youtube.com/watch?v=dQ75t1hAh70
http://www.youtube.com/watch?v=fltp_2tDZlc
http://www.youtube.com/watch?v=x5YXj8Mkxtg
http://www.youtube.com/watch?v=AmQBpXtXXsc
http://www.youtube.com/watch?v=wMdJV5G1y0U
http://www.youtube.com/watch?v=TBkWDeioaos
http://www.youtube.com/watch?v=et4uxZL2U5E
http://www.youtube.com/watch?v=DOhI0uJU0OA


たぶん20年以上前に劇場公開されたカウフマン監督・製作の映画。原作はミラン・クンデラの同名小説。当時、まだ新人だったジュリエット・ビノシュとダニエル・デイ・ルイス主演で、プラハの春前後のチェコが舞台。全編にわたってヤナーチェクの音楽が使われている。
この映画は、劇場公開の時に見て、ストーリーは面白く、映像も綺麗だったけれど、なにより印象に残ったのがヤナーチェクの音楽。全く聴いたことがない音楽だったけれど、とにかく旋律と響きの美しい曲ばかりだった。
それに”プラハの春”でソ連軍が戦車でプラハに侵攻してくるシーンで、ビートルズの「ヘイ・ジュード」が流れていたのもしっかり覚えている。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-1188.html

もう一つの「ヘイ・ジュード」
1989年のチェコスロヴァキアのビロード革命の折に、1960年代のチェコの歌手マルタ・クビショヴァーによる、チェコ語でのカバー曲が、民主化運動を行う民衆を励ます曲として、「マルタの祈り」と共に民衆によって歌われた。
クビショヴァーによる「ヘイ・ジュード」は、1968年にチェコにソヴィエト軍が侵攻し、いわゆる「プラハの春」を弾圧した事件に抵抗する為に「マルタの祈り」等と共にレコーディングされていたのであった。
なお、チェコ語版の歌詞においては「ジュード」は女性という事になっている。

The Beatles, in Hey Jude
http://www.youtube.com/watch?v=QQ7ssWOufCg

Hey Jude -- by Marta Kubišová
http://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw
http://www.youtube.com/watch?v=SfU5wdoBpGM

Marta Kubišová - Modlitba pro Martu (1968)
http://www.youtube.com/watch?v=S3UaBQSYQCU&NR=1

3. 中川隆[-14739] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:21:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1699] 報告

3) 映画『存在の耐えられない軽さ』_ ヤナーチェクの音楽

これはCD盤サントラ。管弦楽・合唱曲以外のヤナーチェク作品で有名な曲が収録されている。

収録曲

1. 「おとぎばなし」〜第3楽章
http://www.youtube.com/watch?v=LO0pXCJJJbE&feature=related
2. フリーデックの聖母マリア〜ピアノ組曲「草かげの小径にて第1集」より
http://www.youtube.com/watch?v=UXvFHQyL-4g&feature=player_embedded#at=33
3. 「霧の中で」〜第2曲
http://www.youtube.com/watch?v=qFkLUxyPERM&feature=player_embedded#at=144
4. ヘイ・ジュード
5. ヨーイ,ヨーイ,ヨーイ
6. 弦楽四重奏第2番「ないしょの手紙」〜第4楽章
http://www.youtube.com/watch?v=1jh7aXjRj08&feature=related
7. ヴァイオリン・ソナタ〜第4楽章
http://www.youtube.com/watch?v=CVXopT58dP4&feature=related
8. 病気の鳥はなかなか飛ばない〜ピアノ組曲「草かげの小径にて第2集」より第4曲
http://www.youtube.com/watch?v=oe_Wd60IBow
9. 弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」〜第3楽章
http://www.youtube.com/watch?v=T51LNetyAUw&feature=player_embedded#at=30
10. 飛んでいった木の葉〜ピアノ組曲「草かげの小径にて第1集」より
http://www.youtube.com/watch?v=OsmmbUqwydA
11. おやすみ〜ピアノ組曲「草かげの小径にて第1集」より
http://www.youtube.com/watch?v=PlNugjlcNLA
12. 弦楽のための牧歌〜第5曲アダージョ
http://www.youtube.com/watch?v=kBMW1NBO11o

http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-1188.html
http://ameblo.jp/sepharad/entry-10275254941.html

_______


Leoš Janáček - In the Mists/Firkušný
http://www.youtube.com/watch?v=2EnEL7Bq9QA
http://www.youtube.com/watch?v=GwD97I13u9A


Leoš Janáček - On the Overgrown Path /Firkušný
http://www.youtube.com/watch?v=y_SxMhX-1_g
http://www.youtube.com/watch?v=_CY-ajcev2c
http://www.youtube.com/watch?v=dseSjmX3a2Y
http://www.youtube.com/watch?v=RQFgz4ipiqg
http://www.youtube.com/watch?v=XQLokcVzBEo

Janáček - Radoslav Kvapil - Po zarostlém chodníčku - La vierge de Frydek
http://www.youtube.com/watch?v=iFxNqnyCLDI

Janacek - Josef Páleníček (1943)- On the Overgrown
Bk1 - 1 Our Evenings
http://www.youtube.com/watch?v=zf9e02OVAQs
Bk1 - 2 A Blown Away leaf
http://www.youtube.com/watch?v=OsmmbUqwydA
Bk1 - 3 Come With Us!
http://www.youtube.com/watch?v=3Wy7EcxZXOM
Bk1 - 4 The Madonna of Frydek
http://www.youtube.com/watch?v=7zn1Vqu9KZs
Bk1 - 5 They Chattered Like Swallows
http://www.youtube.com/watch?v=ZBRvpl8BELg
Bk1 - 6 Words Fail!
http://www.youtube.com/watch?v=RPoK_RSqn10
Bk1 - 7 Good Night!
http://www.youtube.com/watch?v=PlNugjlcNLA
Bk1 - 8 Unutterable Anguish
http://www.youtube.com/watch?v=CZ-I6r3mfzA
Bk1 - 9 In Tears
http://www.youtube.com/watch?v=JoR3fJDlLbw
Bk1 10 The Barn Owl Has Not Flown Away!
http://www.youtube.com/watch?v=LBZJa-AoSsM

4. 中川隆[-14738] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:22:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1698] 報告
ヤナーチェク

The Unbearable Lightness of Being ~ Tomas, Tereza & Sabina Coda
http://www.youtube.com/watch?v=OaHS8CnKhFo

Janacek- String Quartet No. 1/Alban Berg Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=Z81FjYsizec
http://www.youtube.com/watch?v=qJcrZiupxPI
http://www.youtube.com/watch?v=ae_k1OsCv20
http://www.youtube.com/watch?v=sXASQGRLRMc

Leoš Janáček / The Janáček Quartet, 1966: String Quartet No. 1 - "Kreutzer Sonata" – Complete
http://www.youtube.com/watch?v=1HomVPLyZCo

Janacek- String Quartet No. 2
http://www.youtube.com/watch?v=qPWn7W4fK8M
http://www.youtube.com/watch?v=CtCq6BitlkE
http://www.youtube.com/watch?v=8-Mf1_hOvwY
http://www.youtube.com/watch?v=r0_fAN3gT5E

Leoš Janáček / The Janáček Quartet, 1966: String Quartet No. 2 - "Intimate Letters" – Complete
http://www.youtube.com/watch?v=NYmMDDLPy20

Mackerras/Leoš Janáček 'Sinfonietta'
http://www.youtube.com/watch?v=zyY55_KNZPc
http://www.youtube.com/watch?v=0toF0rucTnc
http://www.youtube.com/watch?v=xqoR_LH5XqY
http://www.youtube.com/watch?v=DcUf1xdsUe4
http://www.youtube.com/watch?v=X2GlzDCpqlQ


5. 2020年1月09日 12:23:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1697] 報告
ヤナーチェク


Kubelik/Janacek Sinfonietta
http://www.youtube.com/watch?v=o3p2XxjuV0Y
http://www.youtube.com/watch?v=U_arJEcvh1o
http://www.youtube.com/watch?v=yjz8VzyzPqc

Klemperer conducts Janáček's Sinfonietta
http://www.youtube.com/watch?v=Z-JYly_pfYY
http://www.youtube.com/watch?v=_KDSVkEULwo
http://www.youtube.com/watch?v=Ja8wqxuiDjg

Karel Ancerl/Janacek : Sinfonietta
http://www.youtube.com/watch?v=H3RKqvknVYc
http://www.youtube.com/watch?v=ByT-oO2qPg0&playnext=1&list=PL56C846689A12F0DC
http://www.youtube.com/watch?v=ubqSnAc0itg&playnext=1&list=PL56C846689A12F0DC

Leoš Janáček: Taras Bulba
http://www.youtube.com/watch?v=2gqYxveDh2M
Leoš Janáček - 'Taras Bulba' I The Death of Andrij
http://www.youtube.com/watch?v=7XVtz5OcYQg
Leoš Janáček - 'Taras Bulba' II The Death of Ostap
http://www.youtube.com/watch?v=NbUW3BVswTA


Janacek : Taras Bulba/Karel Ancerl
http://www.youtube.com/watch?v=ZoGEbV_yPt8&playnext=1&list=PL3A763866E172D1C5
http://www.youtube.com/watch?v=jUj0pSKfnI0&playnext=1&list=PL3A763866E172D1C5
http://www.youtube.com/watch?v=BQiejZqh94k&playnext=1&list=PL3A763866E172D1C5

Leoš Janáček - 'Příhody lišky bystroušky' (The cunning little Vixen) Prelude
http://www.youtube.com/watch?v=b7hPZza8nNc
Leoš Janáček ; 'The Cunning Little Vixen' - Aria of the Gamekeeper
http://www.youtube.com/watch?v=ibRovhJINAQ
The Cunning Little Vixen – Janacek
http://www.youtube.com/watch?v=21xJwJqXlg8


Leos Janacek - Glagolitic Mass
http://www.youtube.com/watch?v=eWeGY_XYdfs
http://www.youtube.com/watch?v=PdyR9EABbXk

6. 中川隆[-14737] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:25:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1696] 報告

ヘイ ジュード

Hey Jude / Marta Kubišová, recitál Proudy, FSB 1969
http://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw

Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
Hey Jude, don't be afraid
You were made to go out and get her
The minute you let her under your skin
Then you begin to make it better
And anytime you feel the pain
Hey Jude, refrain
Don't carry the world upon your shoulders
For well you know that it's a fool who plays it cool
By making his world a little colder
Hey Jude, don't let me down
You have found her now go and get her
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
So let it out and let it in
Hey Jude, begin
You're waiting for someone to perform with
And don't you know that it's just you
Hey Jude, you'll do
The movement you need is on your shoulder
Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her under your skin
Then you'll begin to make it better

7. 中川隆[-14736] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:26:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1695] 報告
存在の耐えられない軽さ  日本語字幕
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6115433
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6119205
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6120939
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6124704
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6124920
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6125874
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6127818
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6128180
8. 中川隆[-14735] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:27:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1694] 報告
片足走者の長距離レース〜クンデラの「めぐり逢い」を読む

クンデラの父、ルードヴィクはヤナーチェクに師事した音楽学者だった。そんな縁もありヤナーチェクの死の翌年にブルノで生まれたクンデラは幼少より彼の音楽に馴染んでおり、本書でも「最初の愛」と題された章においてヤナーチェクの音楽こそが自分の芸術上の原点であるとして、2編のエッセイ(「片足走者の長距離レース」、「最もノスタルジックなオペラ」)を寄せている。
クンデラは、機会あるごとにヤナーチェクについて触れており、邦訳されたものにはエッセイ集「裏切られた遺言」に納められた「一家の嫌われ者」があった。本書の「片足走者の長距離レース」は、「一家の嫌われ者」と通じる内容で、いかにヤナーチェクが誤解され、現代音楽としての真価が認められていないかについて語っている。
クンデラは、亡命先のフランスで、ヤナーチェクについてラジオで語る機会を何度か得て、その後は音楽誌にCD評を寄せるようになった。しかし、満足できる演奏が少なく、その原因は技術的な問題というより作品の独自性への無理解にあるという。そして、ヤナーチェクは、その作風が長く誤解され、彼を理解する擁護者も少なかったと述べ、そうしたハンディを背負った苦しい戦いを「片足走者の長距離レース」に喩える。
クンデラはヤナーチェクへの無理解はいまだにあると嘆き、CDのライナーノートに
「スメタナの精神を受け継ぐ者※」という記述を見つけては腹を立て、有名なラルース大辞典(Larousse)の項に
「彼は民謡の体系的な収集を行い、その成果は彼の作品と政治意識全般に影響を与えた。」
「(彼の作品)はきわめて愛国的で民俗色が濃い」
「(彼のオペラ)は社会主義的なイデオロギーに裏打ちされている」という記述を拾っては、「ありえない戯言」、「現代音楽の国際的文脈外におく言い草」、「まるでナンセンス」と痛罵している。
また、この辞典に初期作品『シャールカ』は記されているのに、晩年の傑作『死者の家から』の記述がないことに強い不満を示している。
クンデラが評価する数少ない例外は、録音ではアラン・プラネスによるピアノ曲集(HM)とアルバン・ベルクSQの弦楽四重奏曲(EMI)、その他、演奏家ではマッケラスやブーレーズである。
私からみるとクンデラのヤナーチェク観は少々脱チェコ音楽に傾きすぎているように思える。どこまで意図的なのかわからないが、ヤナーチェクとドヴォジャークの強い繋がりや、民謡への傾倒、チェコの演奏家については触れていない。また、クンデラほどの大作家が、なにもライナーノートや辞典の記述にそんなに目くじらを立てなくても良いのにとも思う。
チェコを代表する作家といえば多くの方がクンデラの名を挙げるだろうが、彼としては祖国に対し少々複雑な思いがあるのだろう。実際、チェコ国内ではクンデラに対し外国に逃げて成功した作家という妬みの混じった評価もあると聞く。クンデラがチェコ音楽を越えた現代音楽の文脈にヤナーチェクの独自性を位置づけることに拘るのは、多分に個人的な思いも含まれているのかもしれない。

※スメタナ、ドヴォジャーク、ヤナーチェクはチェコの国民楽派として一括りにされるが、スメタナは当時国際的な主流だったワグネリズムから国民音楽を創造しようとし、ドヴォジャークやヤナーチェクは独自路線を歩んだ。そのため、ドヴォジャークやヤナーチェクはスメタナ派から激しく攻撃されたという背景がある。


クンデラの最新エッセイ集「めぐり逢い」の中のもう一編、「最もノスタルジックなオペラ」では、『利口な女狐の物語』の幾つかの場面を例に、ヤナーチェクがオペラ作品においてどのように音楽に主導的な役割を与えたのかについて論じられている。
その場面とは、序曲の冒頭や、2幕で泥酔した校長先生が想いを寄せる女性と間違えてヒマワリを口説くシーン、3幕、居酒屋で森番と校長先生、パーセクのおかみさんがしんみり語り合うシーン、そして森番が回想するラストシーンである。いずれもオペラの筋に大きく影響しないがユニークが音楽が付けられているところだ。
少し長いが当会対訳解説書からヒマワリの場面のセリフを引用する。

校長(小道を歩みながら)
 わしの重心が動いてるのかな,
 それとも地球が西から東へ回ってるのかな。
 今日は何かおかしい。
 ・・・・
 ありゃりゃ!(倒れる)
(ビストロウシカがヒマワリの後ろに入りこむ)
(校長はびっくり眼でヒマワリをみつめる)
 スタッカート!【校長の心の中で音楽が鳴る】
(ぎくっとして人差指を高くあげる)
 フラジオレット!
【お気に入りのコントラバスのように,杖の首根っ子をなでる】
(一陣の風,ヒマワリは妖しげに震える)
(校長は驚いて目を上げる)

 ああ,テリンカ! 君にここで会えると分かってたら,
 あんな酔っ払い二人ととっくに別れてたのに。
 わたしを愛してる? さあ,言ってくれ!

(謎の存在は頭を振る)

 わたしはもう長いことあなたを愛してる,
 わたしの運命は君の手中にある,そして答えを待ってる!
 恋の炎に燃える,か弱き男を許してくれ!
 わたしは君についてく。この腕に君を抱きしめたい!
(ヒマワリは垣根からお辞儀する)
http://members3.jcom.home.ne.jp/janacekjapan/vixen.htm


クンデラは、太字のセリフについて手描きの譜例を添え、この短く何気ない音楽にもストラヴィンスキーばりのどきりとするような不協和音が含まれていることを指摘し次のように述べる。
これが老いたヤナーチェクの智恵なのだ。彼は感情のおける馬鹿げた要素に芸術性が乏しいわけではないことをよく分かっている。校長先生の情熱が真剣で偽りないほどに、この場面はいっそうコミカルで、また物哀しいものになる。(この点、このヒマワリの場面に音楽がないことを想像してみるがいい。滑稽なばかりだろう。薄っぺらで滑稽だ。音楽があってこそ隠された痛みが示されるのだ。)
ヒマワリへの恋歌についてもう少し考えてみよう。このわずか7小節ばかりは反復も回帰もされず長引かされることはない。これは、長い旋律を深め拡げることにより単相の感情状態を増幅させるワグネリアンの主情主義と対極にあるものだ。ヤナーチェクとって感情は強調されるのではなく高度に集中すべきもので、だからこそ短くなる。この世は回転木馬のようなもので、感情は通り過ぎ、回転して、飛び散り、はじけていく。そして、その矛盾にもかかわらず、しばしば間髪入れず手応えを感じさせるだろう。これこそがヤナーチェクの音楽全てに独特な緊張感を与えているのだ。
(Kundera:Encounter 137-138p)


そして、気怠くノスタルジックなモチーフとスタッカートのモチーフがぶつかる序曲の冒頭を例に、整合しない感情的要素が重ね合わされる効果を指摘する。
また、森番にカエルが語りかける幕切れを例に、ヤナーチェクが19世紀のロマンチシズムから脱していることを指摘し、次のように書いている。
19世紀において中欧はバルザックもスタンダールも産まなかった一方、オペラを崇めた。中欧以外では見られない程にオペラは社会的、政治的、国家的役割を果たした。そしてオペラにまつわる諸々、その精神、人口に膾灸した大言壮語は偉大なモダニストたちに皮肉な苛立ちを巻き起こした。例えばヘルマン・ブロッホにとって、ワーグナーのオペラはその虚飾性と感傷性、非リアリズムからキッチュの典型の最たるものだった。
その作品の芸術性において、ヤナーチェクは中欧の偉大な(そして孤立した)反ロマンチシズムの星座に位置していた。彼は生涯をオペラに捧げたが、オペラの伝統や慣習、身振りに対する考えはブロッホと同様に批判的なものだった。
(Kundera:Encounter 141p)

このエッセイは、いささか老いの繰り言めいた「片足走者の長距離レース」よりもずっと面白かった。といっても、ここでクンデラが指摘したことはヤナーチェク好きなら皆感じていることだろう。しかし、クンデラは、それらを明晰な言葉にしてヤナーチェクの芸術を中欧の文化の文脈に位置づける。そこが刺激的だった。「ヤナーチェクとって感情は強調されるのではなく高度に集中すべきもので、だからこそ短くなる。」というのは、まさにこの作曲家の本質だと思う。
ヤナーチェクのオペラを愛する人なら誰でも、ささやかなフレーズに心揺さぶられる思いをしたことがあるだろう。
例えば『利口な女狐の物語』の3幕パーセク亭での校長先生の一言。

パーセク夫人
 うちの人に手紙をよこしたわ。淋しいって・・・
森番(不意に)
 勘定だ,わしは帰る。
校長(驚き,優しい口調で)
 こんなに早くどこへまた?
(歌劇『利口な女狐の物語』)

例えば『マクロプロスの秘事』の第2幕で若い二人を横目に「あの二人、もう寝たのかしら」という会話。人生に倦み果てた337歳のヒロインが漏らす一言。

エミリア
 いずれそうなるってことよ。そんなのとるに足らないことよ。
プルス
 じゃあとるに足るというのはどういうこと。
(歌劇『マクロプロスの秘事』)

確かに、このような味わいは、この作曲家ならではだ。そして、このような箇所を聴きこむほどに発見するのも、ヤナーチェクのオペラを聴く醍醐味といえるだろう。

http://pilsner.blog100.fc2.com/blog-entry-133.html
http://pilsner.blog100.fc2.com/blog-entry-136.html


まあ お国自慢はともかく、クンデラが愛したヤナーチェクの“重い音楽”より酒場でジプシーが歌っていた“軽い音楽”Two Guitars の方が遥かに名曲でしたね(wwwwwwwww

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4) 重さの霊

いっさいの重いものが軽くなり、いっさいの肉体が舞踏者に、いっさいの精神が鳥になることが、私のアルファであり,オメガなのだ。
見よ、上もなく、下もない。おまえを投げよ、まわりへ、かなたへ、うしろへ。
おまえ、軽快なものよ。歌え、もはや語るな。
――ことばはすべて重い者たちのためにつくられたものではないか。軽やかな者にとっては、ことばはすべて虚言者なのではないか。歌え、もはや語るな。――

わたしの弁舌は――民衆のそれである。わたしは絹毛の兎に聞いてもらうには、あまりに乱暴に率直に語る。そしてわたしのことばはすべてのインキ魚(いか)とペン狐にとっては、いっそう耳慣れぬものとして響く。
わたしの手は――落書き好きの阿呆の手である。すべての机と壁、また阿呆の装飾癖とぬたくり書きの癖をそそる余白をもっているものは、災難である。
わたしの足は――駿馬の足である。この足でわたしは広野をまっしぐらに、また縦に横に十文字に走る。そしていつも疾駆の喜びに夢中になる。
わたしの胃は――鷲の胃であろうか、子羊の肉を最も好むから。いずれにせよ、それは空飛ぶ一羽の鳥の胃である。.
とるに足りない物をわずかの量だけ摂ることで身を養い、いつも飛ぼう、飛び去ろうという気短な身構え、これがわたしの性癖だ。それは鳥の性癖をもっているとは言えないだろうか。
そしてとくに、わたしが重さの霊の敵であること、これこそ鳥の性癖である。まことにそれは不倶戴天の敵、宿敵、根本の敵である。おお、わたしのこの敵意はすでに八方にむかって翼をふるったのだ。
それについてわたしは一篇の歌曲をうたうことができるくらいだ――そしていまそれを歌おうと思う。もっともわたしは森閑とした家にただひとりいて、それを自分自身の耳に歌って聞かせるほかはないのだが。
もちろん、ある種の歌い手たちは、会場が満員になってはじめて、その喉はやわらかになり、その手は能弁になり、その目は表情をまし、その心はいきいきとしてくる。――わたしはそういう歌い手ではない。

将来いつの日か人間に飛ぶことを教える者は、いっさいの境界石を移したことになる。かれにとっては境界石そのものが、いっせいに空に舞い上がったも同然である、大地にかれは新しい名を与えるだろう――「軽きもの」と。.

駝鳥は、最も速い馬より速く走る。しかしその駝鳥も、重い大地に頭を重々しく突き入れる。まだ飛ぶことのできない人間もそうである。
かれは、大地と生を重いものと考える。重さの霊がそう望むのだ。だが、重さの霊に抗して軽くなり鳥になろうと望む者は、おのれみずからを愛さなければならない――それがわたしの教えである。

もちろん病患の者たちの愛で愛するのではない。病患の者たちにおいては、自愛も悪臭をはなつ。
人はおのれみずからを愛することを学ばなければならない、すこやかな全き愛をもって。――そうわたしは教える。おのれがおのれ自身であることに堪え、よその場所をさまよい歩くことがないためにである。
こういう、よその場所をさまよい歩くことが、「隣人愛」と自称しているのである。このことばで、今までに最もはなはだしい嘘がつかれ、偽善が行われてきた、ことに世界を重苦しくしてきた者たちによって。
そしてまことに、おのれを愛することを学びおぼえよという命令は、きょうあすに達成できるようなことではない。むしろそれは、あらゆる技術のうちで、最も微妙な、最もこつよ忍耐を必要とする、最終的な技術である。
という意味はこうである。真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。
ほとんど揺籃のなかにいるときから、われわれは数々の重いことばと重い価値とを持ち物として授けられる。「善」と「悪」――これがその持ち物の名である。この持ち物をたずさえているのを見とどけて、人々はわれわれにこの世に生きることを許すのである。
また人々が幼子たちを引き寄せて愛護するのは、幼子たちがおのれみずからを愛するようになることを早い時期から防ぐためなのだ。こういうことも重さの霊のせいである。
そしてわれわれは――人々から持たされたものを、忠実に運んで歩く。こわばった肩にのせ、険しい山々を越えて。われわれが汗をかくと、人々はわれわれに言う、「そうだ、生は担うのに重いものだ」と。

だが、重いのは、人間がみずからを担うのが重いだけの話である。そうなるのは、人間があまりに多くの他者の物をおのれの肩にのせて運ぶからである。そのとき人間は、駱駝のようにひざまずいて、したたかに荷を積まれるままになっている。
ことに、畏敬の念のあつい、重荷に堪える、強力な人間がそうである。かれはあまりに多くの他者の重いことばと重い価値の数々を身に負う。――そのとき生はかれには砂漠のように思われるのだ。
だが、まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだ――。
ところが、しばしばこういうことも起こる。貝殻がみずぼらしくて、悲しげで、あまりにも貝殻そのものであるために、人間のもつさまざまの特質が見すごされるのである。こうして多くの隠された善意と力がついに察知されることがなく、このうえもない美味が、その味わい手を見いださない。
女たち、この、最も外見の美しいものたちは、その消息を知っている。もう少し太りたいとか、もう少し痩せたいとかが、彼女たちの苦心である。――おお、どんなに多くの運命の転変が、このようにわずかなことにかかわっていることか。
人間は、その真相を見つけだすことがむずかしい。ことに自分が自分を見つけだすことが、最もむずかしい。しばしば精神が魂について嘘をつく。これも重さの霊のなすわざである。
しかし、次のような言を発する者は、自分自身を見つけだした者である、「これはわたしの善であり、悪である」と。これによって、かれは、もぐらと侏儒の口をつぐませたのだ。もぐらどもはこう言うのである。「万人にとっての善、万人にとっての悪」と。
まことにわたしは、すべてのことをよしと言い、さらにはこの世界を最善のものと言う者たちをも好まない、この種の人間をわたしは、総体満足家と呼ぶ。
あらゆるものの美味がわかる総体満足、それは最善の味覚ではない。わたしは、強情で、気むずかしい舌と胃をたっとぶ。それらの舌と胃は、「わたし」と「然り」と「否」ということばを言うことを習得しているのである。
それに反してあらゆるものを噛み、あらゆるものを消化すること――これはまさしく豚の流儀だ。いつも「イ・アー(然り)」としか言わないのは、驢馬と、驢馬的精神をもつものだけである。――

深い黄と熱い赤。わたしの趣味はそれを欲する。――わたしの趣味は、すべての色に血を混ぜるのだ。だが、おのれの家を白く上塗りする者たちは、白い上塗りの魂をさらけだしているのである。

ある者たちはミイラに惚れこみ、また別のある者たちは幽霊に惚れこむ。両者ともにいっさいの肉と血に敵意をもっている、――かれらはわたしの趣味に反する。わたしは血を愛する者だ。
みんなして痰やつばを吐き散らすところに、わたしは滞在しようとは思わない。わたしの趣味から言えば――それよりはむしろ盗賊や偽誓者のあいだで暮らすほうがましだ。そういうところには口に金をふくんでいる者は一人としていないのだから。

だが、それよりもわたしに厭わしいのは、ひとのよだれをなめるおべっか使いだ。そしてわたしが見いだした最も厭わしい人間獣に、わたしは寄生虫という名をつけた。この生き物はひとを愛しようとはしないが、愛してもらって生きようとしているのである。
悪い動物となるか、悪い動物使いとなるか、この二つのうちの一つを選ぶことしか知らない者たちを、わたしはあわれな者と呼ぶ。こういう者たちのいる場所には、わたしは小屋を建てようとはしないだろう。

また、いつも待っているほかに能のない者たちをも、わたしはあわれな者と呼ぶ、――これらの者もわたしの趣味に反する。収税吏、小商人、王や国々の番人、店の番人などはこれである。

まことに、わたしも待つことを学びおぼえた。しかも徹底的に学びおぼえた。しかし、わたしが学びおぼえたのは、ただわたし自身を待つことである。しかも、何にもまさってわたしの学びおぼえたことは、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることである。

すなわち、わたしの教えはこうだ。飛ぶことを学んで、それをいつか実現したいと思う者は、まず、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることを学ばなければならない。
――最初から飛ぶばかりでは、空高く飛ぶ力は獲得されない。縄梯子で、わたしはいくるかの窓によじのぼることを学んだ。敏捷に足をうごかして高いマストによじのぼった。認識の高いマストの上に取りついていることは、わたしには些細ではない幸福と思われた。――

――高いマストの上で小さい炎のようにゆらめくことは、わたしには些細でない幸福と思われた。なるほど小さい光ではあるが、座礁した船の水夫たち、難船者たちには一つの大きい慰めとなるのである。――

わたしはさまざまな道を経、さまざまなやりかたをして、わたしの真理に到達したのだ。この高みにいて、わたしの目は、目のとどくかぎりの遠方へと遊ぶが、ここまで至りついたのは、かぎられたただ一本の梯子をよじのぼって来たのではない。

そしてわたしがひとに道を尋ねたときは、いつも心が楽しまなかった。――それを聞くことはわたしの趣味に反した。むしろわたしは道そのものに問いかけ、道そのものを歩いてためしてみたのだ。

わたしの歩き方は、問いかけてためしてみるということに尽きていたのだ。――そしてまことに、人はこのような問いかけに答えることをも学びおぼえなければならぬ。それは、――「わたしの趣味」と答えることである。

――よい趣味でも、悪い趣味でもない。ただわたしの趣味なのだ。この趣味をわたしはもはや恥じもしなければ、かくしもしない。
「さて、これが――わたしの道だ――君らの道はどこにある?」「道はどこだ」とわたしに尋ねた者たちにわたしはそう答えた。つまり万人の道というものは――存在しないのだ。
http://togetter.com/li/49200

9. 中川隆[-14734] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:28:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1693] 報告
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫) ミラン・クンデラ (著)

原作を読んだものの立場からだと・・・。, 2006/9/16 By gizaemon -

 小説と、それを基にした映画はまったく違うものであり、異なる評価をすべきという意見もあるだろうが・・・。

 まず、映画版ではかなりのシーンがカットされている。テレザの母親とのかかわり、フランツとサビナとの「理解されなかったことば」のほぼすべて、ペトシーンの丘のくだりなど。
それがいけないのではない。だが、フランツとサビナのすれ違い感を知ることなしには、なぜサビナが「軽く」振舞ったのかよくわからないし、テレザの母親との関係を知らずして、なぜ彼女が「重く」あろうとしたのかがよくわからない。プロットは同じでも、その内実が少々浅いように思えてしまうのである。
永遠回帰的なテーマ性も含ませていない(それなくしては「重さ」「軽さ」いずれかをえらぶかという必然性が生まれないのでは?)。どうも映画のほうはよくある表層的なストーリーとして捉えられてしまうような気がして少々さびしく感じる。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005R236/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4087603512&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0BJ7FT9YMKB5NS5T8D5R

重さと軽さをめぐる万華鏡, 2001/7/15 By uno

重さと軽さという「もっともミステリアスでもっとも多義的」な対立をめぐり、クンデラお馴染みの小説的思弁が繰り広げられる、面白くて仕方がない「哲学的」小説。映画も評判だったが、原作の方が遥かに面白い。それも当然、この小説でクンデラがラブストーリーに託して展開する考察、時にはエッセイにまで逸脱して行く考察は、はじめから映像化不能なのだ。
重さと軽さをメインテーマに、心と身体、偶然、キッチュなもの、等々を語るクンデラの口調は軽やかで優雅、時にはアイロニックで、深い洞察に満ちているが決して難解ではない。面白いばかりでなく、哲学や思考が美しいポエジーになることをこの小説は確信犯的に証明してくれる。
「存在の耐えられない軽さ」とは、トマーシュが浮気性で「軽い」ためにテレザが苦しむ、などどいうつまらない意味ではない(映画だけ観た人、そう思ってませんか?)。
愛とは宿命的な(重い)ものなのか、それともたまま偶然に発生した置換可能な(軽い)ものなのか? 物語の進行とともにクンデラの「軽さ」はネガティブにポジティブにとその色合いを変え、読者を幻惑する。そしてそれらの「小説的思考」を従えて展開するラブストーリーの深さと美しさは、巷にあふれる恋愛小説の比ではない。この哀切かつ美しい結末を見よ!時には時間が入れ替わり、作者が顔を出し、メタフィクショナルな遊びや洒落っ気にも事欠かず、これはとことん優雅で楽しめる知の饗宴です。

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Unique, 2009/9/19 By DESIRE

私にとってのこの小説のいう「軽さ」は、私たちは本来ひとりひとりまったく異なったUniqueでかけがえのない(重い)存在である筈が、国にとって(特に共産国では)、社会にとって(今や日本では特にそうであろう)、また愛しい恋人にとって、簡単に取り替えの効く居なくなっても大して影響のない「軽い」存在なのだという視点です。

テルザの母親は、その美しさから自分を「かけがえのない、誰よりも幸せを手にする権利を持つ者」から、どこにでもいる中年女へと転落し、娘を初めからどこにでもいるありふれた小娘とみなして育て、娘のユニークな美点を認めなかった。
テルザは自分を「かけがえのない取り替えのきかない存在」と認めてくれる他者が必要な娘に育ち、「どの女も違う(Unique)」ことを正当に評価するからこそドンファンであるトマーシュと出会う。しかし彼にとって、自分がやはり簡単に取り替えの効く軽い存在であるかも知れないことに苦しみ続ける。
トマーシュの外に自分のUniqueを見つけ出そうとして挫折し、その結果選択する行動がトマーシュを成功=自己実現から遠ざけてしまう。常にトマーシュに苦しめられていると思いこんでいた彼女が「自分が大きな愛で彼をみていたら彼を不幸にしなかっただろう」と気づくところがとても哀しく、自分のもたらした今の不幸について彼に確かめたとき、トマーシュが「テルザが幸福であれば自分は幸福なのだ」のように応える。きっとトマーシュは同じことを何度もテルザに伝えていたであろうに、テルザは自分と同じように他の女を抱くトマーシュばかり見ていて気づかなかったのだろうと思います。救いは二人が幸福のうちに死んだであろうことです。
一方「トリスタン(ひとりの女を愛し抜いた人物)として死んだトマーシュ」と受け止めたサビナの心を考えると、息苦しくなります。トマーシュは求めるまま「自分」として生き、その結果は「重さ」に行きついた。サビナもまた「キッチュなもの」=ステロタイプを敵とする「個」として生き抜き、死後は風葬されることを望み、限り無く「軽さ」へと向かう。サビナの孤高さと強さが、テレザの孤独と弱さを対比させ、登場人物の持つ個性がもたらす必然(重い)としての死(軽い)は衝撃的です。
テルザのように恋人のハンティング・ゲームの的になる夢は、恋愛における女性の苦しみの典型だと思います。そして、人生に同じことは2度なく、常に私たちは未経験の選択にさらされていること。私たちには過去の経験はなく、今の自分にとって必然の選択を、間違っているかもしれないとしても選ぶ。 読後に息苦しさを覚えるほど感動したのは久々です。ギリシャやヨーロッパの神話が挿入され、相当に読みにくい本でありながら、生涯読み続けたい本です。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E8%80%90%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E8%BB%BD%E3%81%95-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9/dp/4087603512

暗く悲惨な体験だからこそ、軽く羽のように書きたい。

『存在の絶えられない軽さ』の原著は1984年。まさにクンデラがチェコスロバキアからパリに脱出し、チェコスロバキアの国籍も剥奪された時期の発表なんだ。それにしてもクンデラは、プラハの春が蹂躙されるように終った後で、占領軍の政府に運命をさんざん翻弄され、悲惨な体験をかいくぐったはずなのに、この文体の軽さはどうだろう。この(意地でもの)軽さにこそ、クンデラの真骨頂がある。おれはそこに、「暗く悲惨な体験だからこそ、軽く羽のように書きたい。」というクンデラの意思を感じる。
小説『存在の絶えられない軽さ』は、一方で、ドンファンで女たらしの男とおぼこで嫉妬深い女の悲恋、そしてそのドンファンと芸術家肌の美女との三角関係、(いや、正確にはもうひとりサビナの愛人で学者のフランツが出てくるから、四角関係)を描いたものである、と同時に、それは「プラハの春」とその終りを描いたレクイエムでもある。
この小説は、書き方が凝っているから、一回読んだだけでは、かなりとっつきにくいだろう。しかし、2度めに読み返してみると、不思議なことに、物語がぐいぐい胸に染み込んでくる。あるいは、一度読んだ後で、映画版を見るのもいいだろう、
(クンデラはこの映画版を不快におもったらしいだけれど、しかし)、無防備に横たわる女優レナ・オリンは伝えてくれる、サビナのお尻の夢のような美しさを。そしてその映像は、あなたをふたたび小説の世界へと連れ戻すだろう。
読み進んでゆくと、物語はけっこうイイ感じなんだ。女好きでドンファンで次から次へと女とやってる遊び人の外科医が、ちょっとした気のゆるみで、ほんらいだったらゼッタイ恋愛対象に入らないような、おぼこで純情な田舎のウェイトレスのねえちゃんに、憐憫の情と愛情と性欲の入り混じったパッションを萌えあがらせちゃって、そこから人生を狂わせてゆくわけよ。
お、いいじゃない、そうこなくっちゃねぇ。この遊び人外科医の名前は、トマーシュ、これまでの人生でざっと200人の女とセックスを重ねてきた。(がんばるね)。かれは3の規則を遵守してきた、

「同じ女と短い間隔で会ってもいい、
ただし3度以上はだめだ。
その女と長期にわたって何度つきあってもかまわない、
ただしデートのあいだには少なくとも3週間の間隔を置くこと。」

こうしてこれまでかれは軽く、軽く、人生を楽しみ続けてきた。ところがあるとき、なんの気の迷いか、その、おぼこで純情な田舎のウェイトレスに、ちょっとした憐憫の情を寄せてしまう。さぁ、たいへん、彼女はかれを追って、かれの住む都会まで追いかけてきて、なんとかれの「おしかけ女房」になってしまうのだった。
その田舎のウェイトレスだった彼女の名前は、テレザ。 テレザにとって、トマーシュは救いの神だった。なぜって、そもそもテレザは自分の母親との関係に厄介を抱えていたからね。
だって彼女のママは(2度の結婚に失敗し、人生の夢破れ)、いつのまにか、品のない女になり果てていてね。窓の外の人目も気にしないで裸になったり、恥ずかしげもなくおならをぷーぷーするような下品なおばちゃんなんだ、いわばね。テレザはそんな母親を嫌だなぁ、っておもってるわけだけれど、でもその他方で、娘である自分自身が、ママの失敗した結婚の、負の遺産なのね、なんておもっちゃって、いわれのない負い目も感じてもきた。
テレザ、かわいそうでしょ、けなげだよね。しかも彼女は15歳のときからウェイトレスをして働いて、稼ぎはママに渡してきた。そりゃテレザはママとの暮らしが息苦しかったろう、でも、テレザは逃げ出すことができなかった。そんなときテレザは、トマーシュと出会ったってわけ。テレザにとってトマーシュこそが、まさに、それまで甘んじてきたみじめな牢獄かから、文化の香りのする高い世界へ、「わたし」を救い出し、「わたし」を向上させてくれさせてくれる、そんな救世主のような存在だっておもったわけ。
そんなふうにふたりの暮らしが始まったものの、しかしトマーシュのドンファン・ライフはいっこうに収まらない。そりゃそうだよね、女好きとか尻軽とか、たいてい一生治らない。あるときテレザはサビナという名の女からのトマーシュへのラヴレターを発見して、しかもそれが自分と付き合いはじめてからのものだったから、もう嫉妬の炎が燃え上がっちゃって、たいへん。いつしかテレザは、世界中の女が潜在的なトマーシュの女、って疑心暗鬼になっちゃって、すべての女に警戒心を抱くようになってゆく。怖いですねぇ、超怖い。そんなかテレザはおもいがけず写真家になってゆく。
他方、もちろんトマーシュにはあいかわらずたくさんの恋人がいる、モテるのよ、トマーシュはほんっと女たちを惹きつけるフェロモン出してる。そしてそんなトマーシュにとって心が休まるのが、絵描きのサビナ。映画版ではレナ・オリンが演じていたね。
サビナはいたって気も軽く、しかも尻も軽い。その上、トマーシュの魂に美質さえ見てくれる。しかもサビナは(トマーシュに紹介されてテレザと知り合い)、実はテレザはサビナに嫉妬を抱いてるのに、テレザからの要望に応じて、彼女のヌード写真のモデルを務めさえするわけ。ちなみにここは映画版だと、テレザ役のジュリエット・ビノシュがニコンのカメラのファインダー覗きながら、横たわるサビナ(レナ・オリン)の美しい背中を舐めるように眺めたあげく、なにか決心したようにひとおもいに、サビナのパンティを引き摺り下ろし、桃のように美しいお尻を露わにする場面がある。フィルムは即座にカットアップして、サビナのぎょっとした表情に繋いだっけ。(いやぁ、生きてて良かったっておもったよ)。

さて、そんななかソヴィエトの軍隊がチェコに侵入して来る。この事件はむろん悲劇なんだけれど、ただしクンデラはそれを
「たんに悲劇であったばかりでなく、不思議な幸福感に満ちた憎悪の祭典であった」
なんて書くわけ。こういうとこがクンデラの文学者としての凄みで、表現の奥行きを感じる。
さて、テレザはこの歴史的瞬間の写真を大いに撮りまくる。こうして、ドンファン男と嫉妬深い妻の物語は、そして気の軽い絵描きの美女の、奇妙な三角関係の物語は、政治の惨劇とともに、おもいがけない方向へと転調し、それぞれの人生は、風にもてあそばれる木の葉のように変転してゆく。社会主義国家、怖いね。もっとも、運命がおもいがけない偶然に左右されるのは、われわれだって一緒だけれど。
http://bookjapan.jp/search/review/200805/002/01/review.html
http://bookjapan.jp/search/review/200805/002/01/review2.html

10. 中川隆[-14733] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:29:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1692] 報告
存在の耐えられない軽さ  日本語字幕
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6115433
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6119205
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6120939
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6124704
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6124920
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6125874
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6127818
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6128180
11. 中川隆[-14732] koaQ7Jey 2020年1月09日 12:36:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1691] 報告
ロシア民謡「二つのギター」(ДВЕ ГИТАРЫ)

ギターのかき鳴らす音色に心もかき乱されるまま酒に酔いしれる歌。
作詞:А.グリゴーリエフ /  作曲:И.ヴァシーリエフ
1857年成立

Two Guitars - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Two+Guitars+&sp=mAEB
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%94%D0%B2%D0%B5+%D0%B3%D0%B8%D1%82%D0%B0%D1%80%D1%8B&sp=mAEB

Occhi chorni (Очи Чёрные) on accordion (Russian Gypsy music) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MkUOxJv4jmA  
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【ロシア音楽】二つのギター (Две гитары) (日本語字幕) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UEGU-1gOPWE

ポール・モーリアの編曲や、シャンソン歌手のシャルル・アズナヴール(Charles Aznavour)によるカバー(Les Deux Guitares)でも知られる、ロシア・ジプシー民謡。映像は1999年、ロシアのテノール歌手、オレグ・ポグディン(Олег Погудин)による歌唱。

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Irina Slutskaya Gipsy - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=u2NEzk4Jgp4
https://www.youtube.com/results?search_query=Irina+Slutskaya+Gipsy+
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The Unbearable Lightness of Being  存在の耐えられない軽さ  
https://www.youtube.com/watch?v=t2-T5DrTWoU&feature=related
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6128180
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Occhi chorni (Очи Чёрные) on accordion (Russian Gypsy music) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MkUOxJv4jmA  

____

ジプシーの娘 Цыганочка - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%A6%D1%8B%D0%B3%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D1%87%D0%BA%D0%B0

▲△▽▼

『Две гитары』はロシアの歌曲です。
作詞はロシアの詩人アポロン・アレクサンドロヴィチ・グリゴーリエフ(Аполлон Александрович Григорьев、1822年〜1864年)、
作曲はイヴァン・ヴァシーリエヴィチ・ヴァシーリエフ(Иван Васильевич Васильев、1810年代〜1870年代)がロマ民謡を元として執筆したものです。
当初は「Цыганская венгерка(ジプシー風ハンガリー舞曲)《の題で1857年に発表されました。
 この歌は、フランスのシンガーソングライターのシャルル・アズナヴール(Charles Aznavour、1924〜存命)のフランス語詞歌唱や、フランスの作曲家・指揮者のポール・モーリア(Paul Mauriat、1925年〜2006年)によってアレンジされたバージョンでも知られています。  
http://ezokashi.opal.ne.jp/russiaframe.html

二つのギター(ジプシーの娘)

『二つのギター』は、作詞・作曲者不詳のロシア民謡・ジプシー音楽(ロマ音楽)。
歌詞は存在するが、YouTube動画などで検索してみると、歌ありバージョンよりは、ギターやバイオリン(ヴァイオリン)などの歌なし器楽曲(インストゥルメンタル)として人気があるようだ。

特に、『二つのギター』という題名だけあって、二人でギター合奏(デュエット)する動画もよく見られる。ギター独奏曲としても親しまれ、各種アレンジされた楽譜も一般的に市販されている。
ジプシーダンスの曲としても人気
なお、『二つのギター』と同じメロディがジプシーダンス・舞踊のための楽曲として用いられる場合は、『ジプシーの娘 Цыганочка』と題された別の歌詞が用いられる。ただ、こちらも歌詞あり版はあまり用いられないようだ。
YouTubeで『ジプシーの娘』を検索してみると、タイトル通り、比較的若い女の子がジプシー系の衣装を身にまとってジプシーダンスを披露する動画をいくつか見つけることができる。
ポールモーリアのアレンジで世界的に有名に
『二つのギター』が世界的な知名度を獲得した背景には、フランスの作曲家ポール・モーリア(Paul Mauriat/1925-2006)による1960年代から70年代頃のイージーリスニング版カバー『Les deux guitares』の存在が非常に大きいと思われる。
同カバー版を収録した音源の解説には、「2つのギターの調べ」が奏でられるロシア民謡曲であることが説明されている。
「ロシアには多くのジプシーが住んでおり、街頭でギターをひいたり踊りをおどったりするほか、トランプ占いなどで生計をたてていますが、 これはそのジプシーの歌の一つで、『黒い瞳』と並んで世界中に知られた民謡曲です。 何ともいえない悲しみをたたえて流れる2つのギターの調べ──それは、若い男女のやるせない愛情を象徴しているのです。」
なお、このポール・モーリアによるイージーリスニング版が発表される以前に、『二つのギター』と呼ばれるロシア民謡・ジプシー歌曲が存在したのかどうか、また、ジプシーダンスに用いられる『ジプシーの娘 Цыганочка』とはどういう関係にあるのか、等の詳しい経緯については定かではない。
http://www.worldfolksong.com/songbook/russia/two-guitars.htm

▲△▽▼

1.
ギターが二丁、壁の向こうで
せつなげに嘆きはじめた…
幼い頃からの忘れがたい節回し、
愛する人よ、君なのかい?
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!

2.
これは君だ、と僕にはわかったよ
ニ短調で弾く君の弾き方と
素早い爪弾きかたでやる
君のメロディーの出し方で
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!

3.
どうして僕には君のことが分からないんだろう?
君の周りを悲しさが取り囲んでいる
情熱的な朗らかさの〔悲しさが〕
猛烈な二日酔いの〔悲しさが〕
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!

4.
君のことさ、がっつり飲むんだ
パンチ酒のそばにゃ、湯たんぽと
ハンガリー風モチーフの
きみのメロディーがある
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!
5.
ああ痛い、ああ痛い
二日酔いのせいで頭が…
さあ飲もうよ、僕らはこれから飲むんだ
一週間ずっと!
さあ一度、もう一度
それから何度も、何度でも!
http://ezokashi.opal.ne.jp/russiaframe.html

12. 中川隆[-14078] koaQ7Jey 2020年2月02日 22:44:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-759] 報告



ラファエル・クーベリック指揮 スメタナ 連作交響詩「わが祖国」

Rafael Kubelík & Česká filharmonie - Opening Concert of 1990 Prague Spring Festival




The opening concert of 1990 Prague Spring International Music Festival on 12th May 1990 at Smetana Hall in Prague.

Bedřich Smetana (1824-1884):
Fanfares from the Opera "Libuše"

National Anthem of Czechoslovakia (combination of Kde domov můj (Czech) and Nad Tatrou sa blýska (Slovak))

Bedřich Smetana:
Má vlast (My Country)
1. Vyšehrad
2. Vltava (Die Moldau)
3. Šárka
4. Z českých luhů a hájů
5. Tábor
6. Blaník

Česká filharmonie (Czech Philharmonic)
Rafael Kubelík


 この曲はなんと言ってもクーベリックでなくては!
 「モルダウ」のメロディなどちょっと速いのでは、という気がするかもしれない。しかし、これは甘ったるくメロディを聴かせる曲ではないのだ。そのことは「プラハの春」のLDを見ればわかる。

チェコ・フィル
スプラフォン。1990年5月12日、スメタナ・ホールにおける、チェコ民主化の翌年の「プラハの春」音楽祭オープニングコンサートのライヴ。

クーベリックも楽団員も全員「市民フォーラム」のバッジを付けている。
冒頭、スメタナ作のオペラ「リブシェ」よりファンファーレが奏され、ハヴェル大統領夫妻がバルコニー席に登場する。続いてチェコスロヴァキア国歌。ここまでで会場の熱気は最高潮に達する。それを冷ますかのように、しばらく間をおいてから、ハープでヴィシェフラドのテーマが奏される..。2曲目のモルダウへの移行はアタッカに近い。最後の2曲は、まさに民族独立運動叙事詩というにふさわしい。
http://classic.music.coocan.jp/orch/smetana/mavlast.htm#moldau


Smetana: "Ma Vlast" / Kubelík Czech Philharmonic Orchestra (1990 Movie Live Outdoors)


Rafael Kubelík
Czech Philharmonic Orchestra
1990:6.9 Live

_____

Smetana: Má Vlast / Kubelík Czech Philharmonic Orchestra (1991 Movie Japan Live)


Rafael Kubelík
Czech Philharmonic Orchestra
1991.11.2 Tokyo.Japan Live

Altus(写真左)。1991年11月2日、サントリーホールでのライヴ録音。NHKによる録音である。
HMVのサイトでは、前年の「プラハの春」の演奏よりも良い、との評判である。
私の感想は、両者優劣つけがたいが、場の熱気というものは「プラハの春」ライヴに譲るのではないか、と思う。当盤は、NHK録音を用いているならば、もっと音が良くてもよいのではという気もする。演奏が素晴らしいのは言うまでもない。

2008年、ついにNHK CLASSICALからDVDが発売された(写真右)。NHKのカメラワークが自然なため、どアップ連続の「プラハの春」盤よりも客観的に演奏が聴ける。
終演後何度も舞台にアンコールで呼び出されるクーベリックを最後まで映し続けているのは、この演奏がクーベリック最後の演奏会だったからということもある。
http://classic.music.coocan.jp/orch/smetana/mavlast.htm#moldau


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スメタナ 連作交響詩「わが祖国」
http://classic.music.coocan.jp/orch/smetana/mavlast.htm#moldau

 この曲集は、長年ドイツ人に支配されてきたチェク人の思いがこめられた曲である。
次の6曲からなっている。

1.「ヴィシェフラド(高い城)」
2.「ヴルタヴァ(モルダウ)」
3.「シャールカ」
4.「ボヘミアの森と草原から」
5.「ターボル」
6.「ブラニーク」

 第1曲と第2曲、第5曲と第6曲はそれぞれ1セットと考えられている。
しかし、第3曲と第4曲の組だけは、あまりセットらしくない。よって、コンサートで全曲演奏するときは、3曲目と4曲目で休憩することが多い。クーベリックの「プラハの春」コンサートもそうだった。

 特に、第5曲と第6曲は、フス派のコラールがテーマとなっており、チェク人のドイツ人に対する独立闘争の歴史の重みを感じさせる素晴らしい曲である。
(フスは、ルターに先立つこと100年前のベーメンの宗教改革者。コンスタンツ公会議で火刑となったが、フス派の一揆は、神聖ローマ帝国に対するチェク人の独立運動のはじまりでもあった。)

 1989年末のチェコ民主化の運動において、ノイマン指揮チェコ・フィルは社会主義政府に対してはストライキをする一方、市民フォーラムの応援のためにこの2曲を何度も演奏したらしい。
(しかし、運動の締めくくりには「第9」を演奏したのであった。その第9はCD化されている。)

 第2曲「モルダウ」のメロディは特に有名であるが、むしろ主題的には第1曲「ヴィシェフラド」冒頭のハープで奏されるテーマが重要である。このテーマは第6曲の最後で、全曲の締めくくりに、金管が奏するフス派のコラールと対位法的に弦パートによって演奏されるのだ。

 なお、モルダウとは、プラハ市内を流れるヴルタヴァ川のドイツ語名である。民族主義的なこの曲の名としてはチェコ語の「ヴルタヴァ」のほうを何としても用いるべきであろう。(ちなみにヴルタヴァはその下流(北方)のドイツにおいてエルベ川に合流するのであるが...)
http://classic.music.coocan.jp/orch/smetana/mavlast.htm#moldau


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わが祖国 (スメタナ)

『我が祖国』(チェコ語: Má Vlast)は、ベドルジフ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩。

第2曲『ヴルタヴァ(モルダウ,バルタバ)』が特に著名である。

各楽曲の初演は1875年から1880年にかけて、別々に行われており、全6作通しての初演は1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島(チェコ語版)にある会場において、アドルフ・チェフの指揮の下で行われた。

スメタナは1856年から1861年まで、故国ボヘミアを離れてスウェーデンのヨーテボリでピアニストおよび指揮者として活動していたが、この時期にリストの影響を受けて『リチャード三世』作品11(1857年 - 1858年)、『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858年 - 1859年)、『ハーコン・ヤール』作品16(1861年 - 1862年)の3曲の交響詩を作曲している。これらはスメタナの作品の中ではあまり知られていないが、それぞれシェイクスピアの戯曲、三十年戦争を扱ったシラーの戯曲、中世のノルウェー王ハーコン・シグルザルソンを題材としたもので、いずれも特に国民主義的な作品ではない。

チェコ国民音楽として記念碑的な作品を交響詩の連作の形で創作しようとスメタナが考えたのは、オペラ『リブシェ』を作曲していた1869年から1872年の間のことであると言われる。当初は「ジープ」(Říp )、「ヴィシェフラド」、「ヴルタヴァ」、「リパニー」(Lipaný )、「ビーラー・ホラ」(Bílá hora )の 5つの地名を各曲の題名として構想していたが、最終的には『ヴィシェフラド』、『ヴルタヴァ』、『シャールカ』、『ボヘミアの森と草原から』、『ターボル』、『ブラニーク』の 6曲が作曲された。

作曲は『リブシェ』の完成後すぐに着手され、第1曲『ヴィシェフラド』が1874年に完成した。これと前後してスメタナは聴覚を失っているが、作曲活動は続けられ、最後の第6曲『ブラニーク』は1879年に完成した。

当時の聴衆にとって「交響詩」がなじみの薄いジャンルであったことに配慮して、スメタナは自ら解説を書いて楽曲の意図が理解されるよう努めた。さらに楽譜にも、標題のページだけでなく楽曲の各箇所に注釈が記されている。

楽器編成

ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、トライアングル(第5曲を除く)、大太鼓(第2曲のみ)、シンバル、ハープ(第1曲:2、第2曲:1)、弦楽合奏(チェロが2部に分かれており、全体で6部になっている)

曲の構成

第1曲:ヴィシェフラド 原題:Vyšehrad
1872年から1874年の間に構想され、1874年9月末から11月18日にかけて作曲された。6曲のうちで唯一、スメタナが失聴する前にかなりの部分が出来上がっていた。初演は1875年3月14日。変ホ長調。この曲はプラハにあるヴィシェフラド城を題材としている。ヴィシェフラドは「高い城」を意味し、そのように題名が訳されることもある。この城は、ボヘミア王国の国王が居城としていたこともある城であったが、戦乱によって破壊され廃墟となった。

1874年夏の間にスメタナの聴力は徐々に衰えるようになり、それから間もなく完全に失聴してしまう。スメタナは、仮劇場の支配人であるアントニーン・チーセック(チェコ語版)へ宛てた辞表の中で、段階的だが急速な失聴について述べている。全ての音から隔絶された状況が続く(完全失聴)なか治療が行われたが、結局成功することはなかった[1]。

曲は、吟遊詩人(Lumír)のハープで始まり、この詩人が古の王国の栄枯盛衰を歌う、というのが内容である。冒頭のハープの音色のあと、城の工廠の響きに転換する。この部分で現れる主題は『わが祖国』全曲を通じて繰り返し用いられる。4つの音で構成される主題(B♭-E♭-D-B♭)がヴィシェフラド城を示しており、第2曲『ヴルタヴァ』の終わりと第6曲『ブラニーク』の終わりにも提示される。この主題の最初の部分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭[注釈 2])が音として刻まれている。

冒頭のアルペッジョでは、2台のハープが必要とされる。属七の和音のあと、管楽器が主題を引き継ぎ、弦楽器がそれに続いて、やがてオーケストラの全楽器によるクライマックスに達する。次のパートでは、スメタナは速いテンポを用いて城の歴史を呼び覚まし、これは行進曲に発展する。表面上は明るいクライマックスは、城の衰退を描写する下降パッセージで中断され、音楽は静かになる。そして、冒頭の主題が再び提示され、現在では廃墟となってしまった城の美しさを再び奏でる。音楽は静かに終わり、城の下を流れるヴルタヴァ川の描写に続く。


第2曲:ヴルタヴァ (モルダウ) 原題:Vltava
1874年11月20日から12月8日の間に作曲され、初演は1875年4月4日にアドルフ・チェフの指揮で行われた。ホ短調。

『モルダウ』(ドイツ語: Die Moldau、英語: The Moldau)の名でも知られる。『バルタバ』とも表記する。

この楽曲でスメタナは、ボヘミアの大きな川の一つの音を呼び起こすためにトーン・ペインティングを用いた[2]。スメタナは、以下のように述べている。

この曲は、ヴルタヴァ川の流れを描写している。ヴルタヴァ川は、Teplá Vltava と Studená Vltava と呼ばれる2つの源流から流れだし、それらが合流し一つの流れとなる。そして森林や牧草地を経て、農夫たちの結婚式の傍を流れる。夜となり、月光の下、水の妖精たちが舞う。岩に潰され廃墟となった気高き城と宮殿の傍を流れ、ヴルタヴァ川は聖ヤン(ヨハネ)の急流 (cs) で渦を巻く。そこを抜けると、川幅が広がりながらヴィシェフラドの傍を流れてプラハへと流れる。そして長い流れを経て、最後はラベ川(ドイツ語名:エルベ川)へと消えていく。

この曲は 6曲中にとどまらず、スメタナの全楽曲の中でも最も有名なもので、単独で演奏されたり録音されることも多い。

最初の主題は歌曲や合唱曲に編曲されて歌われたり、ジャズやロックへとアレンジして演奏されることもある。

最初の主題には、15世紀から16世紀にかけてイタリアで活動したテノール歌手ジュゼッペ・チェンチ作の『ラ・マントヴァーナ』に由来するメロディが改変されて用いられている[3]。

同曲はモルドバ(モルダヴィア)などにも伝わり、民謡の一節に流用され、イスラエルの国歌『ハティクヴァ』のメロディの基礎ともなっている。スメタナの祖国ボヘミアにおいても、民謡"Kočka leze dírou"に用いられている。

スメタナはこの『ラ・マントヴァーナ』に由来する祖国の民謡のメロディを、第1主題として採り入れたものと思われる。

楽曲の最終部分には、第1曲『ヴィシェフラド』の主題も組み込まれている。
その他、ヨーゼフ・ランナーの『旅の行進曲』(作品130)のメロディが一部引用されている[4]。


第3曲:シャールカ 原題:Šárka
1875年2月20日に完成した。初演はアドルフ・チェフの指揮で行われたが、日付については2説あり、1876年12月10日[5]もしくは1877年3月17日[6]とされる。
シャールカとは、プラハの北東にある谷の名であり、その由来は男たちと女たちが死闘を繰り広げたというチェコの伝説『乙女戦争』に登場する勇女の名である。

ある日彼女は、自分の体を木に縛りつけ、苦しんでいるように芝居をする。そこにツチラトとその配下たちが通りかかる。ツチラトによって縄をほどかれたシャールカは、助けてもらったお礼にと酒をふるまう[7]。すっかり彼らの気が緩んだ頃、シャールカは角笛を吹いて味方の女戦士たちを呼ぶ。ツチラトは捕虜となり、彼の配下は皆殺しにされる[7]。

これが物語の大筋であるが、スメタナが作曲した音楽にはこの物語の様子をファゴットで男たちのいびきを表現したり、金管楽器がシャールカの吹く角笛の音を表すなどの工夫がされており、大変迫力のある劇的なものになっている。

第4曲:ボヘミアの森と草原から 原題:Z českých luhů a hájů
1875年10月18日に完成し、初演はそれから約8週間後の同年12月10日に行われた。この曲は、チェコ(ボヘミア)の田舎の美しさを描写しており、鬱蒼とした深い森を思わせる暗い響きで始められる。何かの物語を描写しているわけではないが、曲が進むと夏の日の喜び、収穫を喜ぶ農民の踊り、祈りの情景、喜びの歌が繰り広げられる。そして後半は、チェコの国民的舞踊でもあるポルカが盛大に続けられる。


第5曲:ターボル 原題:Tábor
1878年12月13日に完成し、初演は1880年1月4日に行われた。この曲と次の『ブラニーク』は、15世紀のフス戦争におけるフス派信徒たちの英雄的な戦いを讃えたものである。ターボルとは南ボヘミア州の古い町で、フス派の重要な拠点であった。ボヘミアにおける宗教改革の先駆者ヤン・フス(1369年 - 1415年)は、イングランドのジョン・ウィクリフに影響を受け、堕落した教会を烈しく非難して破門され、コンスタンツ公会議の決定で焚刑に処せられた。しかしその死後、その教理を信奉する者たちが団結し、フス戦争を起こす。この戦いは18年にも及ぶものであったが、結果としてフス運動は失敗に終わる。しかし、これをきっかけにチェコ人は民族として連帯を一層深めることなった。フス派の讃美歌の中で最も知られている『汝ら神の戦士(チェコ語版)』が全篇を通じて現れ、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。


第6曲:ブラニーク 原題:Blaník
1879年3月9日に完成し、第5曲『ターボル』と共に1880年1月4日に初演された。スメタナは両曲を一緒に演奏することを望んだ。

ブラニークは中央ボヘミア州にある山で、ここにはフス派の戦士たちが眠っており、また讃美歌に歌われる聖ヴァーツラフの率いる戦士が眠るという伝説もある。伝説によれば、この戦士たちは国家が危機に直面した時、それを助けるために復活する(しばしば、全方位からの4つの敵国軍の攻撃に対してとも述べられる)。

音楽的には、『ターボル』から切れ間なく演奏される。全曲から持ち越された主題は、まるで戦いの直後の中にいるかのように演奏される。

そのため、この第5曲と第6曲は、第1曲と第2曲のようにペアとして扱われる。

ヴルタヴァ川の旅の最後(第2曲『ヴルタヴァ』の最終部)で現れる『ヴィシェフラド』の主題は、『ブラニーク』の最後部にも再現する。『ターボル』にも使われたフス教徒の讃美歌『汝ら神の戦士』が高らかに響き、希望に満ちた未来を暗示しながら、連作の最後を飾るのに相応しく勇壮なクライマックスをもって曲を閉じる。この讃美歌におけるオリジナルの詞は、「最後には彼とお前が常に勝利と共にある」であり、チェコ国家の最終的勝利を映し出している。

編曲
スメタナ自身による、ピアノ4手連弾版の編曲が『わが祖国』全6曲に存在する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/わが祖国_(スメタナ)

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