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中島貞夫 あゝ同期の桜 (東映 1967年)
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投稿者 中川隆 日時 2019 年 12 月 25 日 00:45:07: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 太平洋戦争 投稿者 中川隆 日時 2019 年 12 月 23 日 00:40:24)

中島貞夫 あゝ同期の桜 (東映 1967年)


監督:中島貞夫
脚本:須崎勝彌、中島貞夫
原作:海軍飛行予備学生第14期会編『あゝ同期の桜・帰らざる青春の手記』(毎日新聞社刊)
音楽:鏑木創
撮影:赤塚滋
配給:東映
公開:1967年6月3日



キャスト


白鳥少尉:松方弘樹
半沢少尉:千葉真一
南条少尉:夏八木勲
不破少尉:蟹江敬三
由井少尉:村井国夫
藤井少尉:島田景一郎
福島少尉:沢登護
島田少尉:五十嵐義弘
滝:金光満樹
白鳥礼子:藤純子
南条則子:佐久間良子
夕子:三島ゆり子
大沼上曹:山本麟一
風間大尉:脇中昭夫
土井中尉:小沢昭一
通信科教員:川浪公次郎
松本上飛曹:宮城幸生
石川一飛曹:名護屋一
軍医:波多野博
大岡大尉:小池朝雄
A少尉:結城哲也
B少尉:野口泉
片倉参謀:高橋昌也
松田大佐:天津敏
久保大尉:唐沢民賢
菊池二飛曹:宮土尚治
白鳥仙蔵:石山健二郎
白鳥貞子:三益愛子
花田一水:西村晃
間宮軍医長:天知茂
千田少尉:穂高稔
剣持大尉:高倉健
陣之内大尉:鶴田浩二



海軍飛行予備学生第十四期会編の『あゝ同期の桜・かえらざる青春の手記』を原作に、若き学徒兵の遺書・遺稿・日記・手記を完全映画化。日本の敗色が濃厚となってきた頃、定められた死を目前とした若者たちの苦悩と誇りに満ちた短い青春を神風特攻隊の全貌とともに描いた[3][4]。


日本ではテレビドラマが放映されている期間中の1967年6月3日に公開。本作は『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』『あゝ予科練』と並ぶ『東映戦記映画三部作』の1作目と位置付けられている[5]。


当時東映は岡田茂京都撮影所所長(のち、社長)が仕掛けた任侠映画など、不良性感度の高い映画で当てていたが、その任侠映画のプロデューサー・俊藤浩滋が中島貞夫に「どや、これ」と『あゝ同期の桜』の遺稿集を差し出した[3][6]。中島は『あゝ同期の桜』の手記を書いた一人である和田稔の妹と同級生で、高校時代の休学中に手紙を渡されたことがあり、この遺稿集に特別な思いがあり映画化を熱望した[3][6]。

しかし東映本社では、「戦争映画なんていまさらそんなもの」と、けんもほろろで、大川博社長も猛反対したが、中島と俊藤は、かつて周囲の猛反対を押し切って『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を製作した岡田所長に頼めばできると考え懇願に行ったら、岡田所長の政治力によって製作が決定した[3][6][7][8]。


脚本は14期飛行学生だった須崎勝彌と中島貞夫の共同執筆[3]。14期飛行予備学生だった鶴田浩二や松方弘樹・千葉真一・高倉健らオールスターキャスト[3]。

映画は完成したが、各部署から編集で「ここを切れ、あそこを切れ」という声が多数出た。大川社長からは「反戦的過ぎる」とラストシーンまで削れと命令された。ラストシーンは中島の閃いた渾身の場面であった。「もう監督辞める」と駄々をこねたが岡田所長に説得され「ラストシーンだけは残して下さい。あとはどこを切ってもいいです」と言う妥協案を提示し、岡田所長の深夜に及ぶ説得によってラストシーンだけは残ったという[3][6]。映画は予想に反して大ヒットした[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/あゝ同期の桜
 

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コメント
1. 中川隆[-15014] koaQ7Jey 2019年12月25日 17:54:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2046] 報告
「同期の桜」は、日本の軍歌。太平洋戦争(大東亜戦争)時、好んで歌われた歌である。華々しく散る姿を、桜花に喩えた歌である。大村能章作曲。原詞は西條八十による(後述するように直接作詞したわけではない)。この歌が転じて「同期生」を表す言葉になった。

原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部」に発表された西條の歌詞が元になっている。直接の作詞は、後に回天の第1期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉が、海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」というクラブにあったレコードを基に替え歌にした[1]とも、同じく潜水艦乗員であった槇(旧姓岡村)幸兵曹長[2]とも言われていた。

1984年(昭和59年)5月5日、当時呉軍楽隊に勤務していた谷村政次郎(後に海上自衛隊東京音楽隊長)が金本クラブを訪れ、割れてはいたが「戦友の唄」のレコードが見つかり(現在は江田島市ふるさと交流館1階に展示)、帖佐の証言が正しいことが証明された[3]。ただし、5番まである歌詞のうち、3番と4番は帖佐も作詞していないと証言しており[3]、人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在することから、真の作詞者は特定できない状態にある。

同期の桜事件

1980年(昭和55年)、ある元潜水艦乗組員である山下輝義という人物が「同期の桜は自分の作った『神雷部隊の歌』の複製である」として、レコード会社6社を訴えた事件が発生した。しかし流行歌研究家の長田暁二がこのレコードの存在について東京新聞の並木智彬記者に話し、彼自身が埼玉で、前述の「戦友の唄」(樋口静雄歌唱)を収録したレコードが発見されて訴えは棄却された(同期の桜事件:東京地方裁判所判決昭和58年(1983年)6月20日)。


演出

時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず、特に末期の特攻隊員に大いに流行した。日本軍を代表する軍歌ともいえ、戦争映画等ではよく歌われる。また、この歌詞にも、当時の軍歌ではよく現れた「靖国神社で再会する」という意の歌詞が入っている。

その一方で、戦争映画でみられる兵士が静かに歌うシーンは実際にはなかったという説もある[3]。兵学校71期生の卒業間際に、指導教官が「死に物狂いで戦っている部隊で歌われている歌」として紹介して以来、教官の間で広まっていき、大戦末期に海軍兵学校から海軍潜水学校で一気に広まったとされており、兵学校に在学していても、戦後まで全く知らなかった人物も多い[3]。

1945年(昭和20年)6月29日と同年8月4日のラジオ番組で、内田栄一によって歌われているのが、この曲に関する最も古い記録といえる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/同期の桜

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