山本五十六の真実G吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令・文麿編 http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/768.html 山本五十六のプロパガンダを解明するために、絡まった糸を一本一本解きほぐす作業を続けています。もう暫くお付き合いください。 まず訂正事項があります。前回、第二総軍を原爆投下の真下におびき寄せるシナリオを、昭和天皇に指示された畑俊六が前夜松本重治の別邸に避難した、という記述は松本俊一の間違いです。お詫びして訂正します。
それからデイヴィッド・バーガミニ著『天皇の陰謀』から原田熊雄の資料を孫引して、山本五十六が述べた以下の“黙示録的セリフ”についての考察も、お詫びして撤回します。
『私の考えでは、米国と闘うためには我々は殆ど全世界に挑戦する用意がなければならない。・・・私は最大限を尽くす覚悟でいるが、私の旗艦、戦艦長門の甲板上で死ぬつもりだ。そのような最悪の日々、東京は少なくとも三回は焦土と化すだろう。結果は人民の長い苦悩である。そしてあなたや近衛、その他の人たちは、考えるだけでも哀れなことだが、おそらく大衆によって八つ裂きにされるだろう。それは実に混乱した事態だ。我々は逃れられない運命として、このような道を通らなければならない。』
尚、これについての詳細は本文で述べます。
以下本文です。 近衛文麿は内閣首班として、日中戦争の拡大・泥沼化、大政翼賛会結成によるファッショ化、三国同盟締結、南進策と武力発動の国策要綱を決定した汚名を、山本五十六は連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃奇襲による日米開戦とミッドウエー海戦敗戦を初めとする拙策で海軍を破滅に導いた汚名を被せられている。そして共に歴史の闇に葬り去られている。最近は近衛文麿は共産主義者、山本五十六はフリーメーソンの売国奴という新たなプロパガンダも登場し、これでもかとバッシングしている。その一方で昭和天皇、吉田茂、伊藤博文らを持ち上げるプロパガンダ本が刊行され、白洲次郎ブームなる現象も起きている。そしてこのバッシングやプロパガンダが史実になりつつある。 例えば山本五十六が近衛文麿に日米開戦の不可なることを明言したセリフも、わざと曲解され色々な尾ひれが貶める材料として使われるようになっている。
『それは是非にやれといわれれば初め半年や一年の間は、ずいぶん暴れてご覧にいれます。しかしながら二年三年となると全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなりましては日米戦争を回避するよう極力御努力を願いたい』
五十六の注進の意味は、プロパガンダ作家たちによってズラされてきた。五十六は“半年一年暴れてご覧に入れます”とハッタリをかました。五十六がはっきり戦争は出来ないと言わなかったから、優柔不断な近衛が迷って戦争が回避されなかったのだ。等々。
中田安彦の『ジャパンハンドラーと国際金融』に至っては、五十六のセリフ自体が改変されている始末である。中田くんの『私の仮説』によると、五十六は“二年三年は暴れてご覧にいれます”と言ったことになっていて、その理由はアメリカ駐在大使付武官時代のポーカー人脈を使って早期和平に持っていく自信があったからだという。
中田君は問題外としても、五十六の言わんとするところは故意に捻じ曲げられてきた。『半年一年は暴れてご覧にいれる』というのは、『二年三年となるとまったく確信が持てません』の前置きに過ぎない。『開戦を極力回避していただきたい』と明確に答えている。五十六の結論ははっきりしているのだ。近衛自身も日米開戦を阻止すべく孤軍奮闘していた人物として、五十六の意図を正確に理解している。そして何度も昭和天皇に戦争を回避するよう上奏している。それが五十六は強引に真珠湾攻撃をし、近衛は責任回避したことになっている。近衛文麿と山本五十六は逆情報活動によって抹殺され続けている。近衛文麿のプロパガンダは五十六のそれよりもはるかに巧妙で徹底している。
我々はこう思わされている。近衛文麿という人間は優柔不断で粘りがなく、肝心な時に政権を投げ出す情けない奴だ。近衛こそは日中戦争を泥沼化し、蒋介石政権との和平工作を潰した張本人なのだ。それなのに近衛上奏文では全てを共産主義に責任転嫁し、ひたすら国体護持を唱えた。そして戦後マッカーサーに近づき、新憲法起草責任者になった。しかし戦犯指名されると、巣鴨に出頭する期日の前夜、屈辱に耐え切れず自殺した。
白洲次郎が「どうも近衛が自殺するらしい」と電話をかけてきたので、松本重治と牛場友彦が駆けつけ、近衛に翻意を促したが「このわがままだけは許してくれ」と言い張って服毒自殺したという。松本重治はその後もくりかえし近衛の自殺前夜の様子を語った。「近衛公は天皇さまよりプライドが高かったから、勝者の裁きを受けることは耐え難かった。近衛公は天皇さまを守るため出頭を拒否した」。天皇さま云々はともかく、裁判を受けることを断固拒否する態度は、確かに近衛文麿の『遺書』の内容と合致する。だから『史実』として定着している。 しかし私は次のように結論する。 ◎近衛文麿は服毒自殺ではなく薬殺された。
◎指令を出したの吉田茂と昭和天皇である。 ◎近衛文麿は出頭してすべてを話す決意を固めていた。 ◎近衛家は篤麿、文麿、文隆の三代に渡って暗殺されている。 ◎近衛文麿を破滅させるシナリオは、15年戦争ぐるみの壮大なものである。 ◎近衛文麿が首相になった直後に、盧溝橋事件を起こす計画だった。 ◎近衛文麿が首班の時に、日中全面戦争の拡大化を図るシナリオだった。 ◎近衛文麿が首班の時に、三国同盟締結、大政翼賛会結成、 汪兆銘傀儡政権、武力発動の帝国要綱が作成決定されるシナリオだった。 ◎近衛文麿に関する史料はほとんど全て改竄されている。 ◎『近衛上奏文』も『近衛・マッカーサー対談』の外務省史料も、 『近衛文麿の手記』も『失われた政治』も捏造である。 近衛文麿が創設した近衛家の史料を収めた陽明文庫も盗掘されているだろう。 ◎近衛文麿による画期的な新憲法起草案は、御用学者によってわざと曲解されている。 ◎藤原菊と山本ヌイの手記は捏造である。 ◎近衛文隆は吉田茂の指令によってソ連に抑留され、日ソ国交回復と同時に薬殺された。 ◎鳩山一郎は、吉田茂に動かされていた駒に過ぎない。 ◎鳩山一郎による日ソ国交回復も、吉田茂のシナリオである。 ◎近衛文麿暗殺の主役は松本重治と牛場友彦、共演者は風見章、岸道三、後藤隆之助、山本有三。友情出演G2チャールズ・ウイロビー、ソ連代表部テレビヤンコ。 ◎野坂参三は吉田茂と共謀していない。(吉田茂が嫌い) ◎野坂参三は独自のルートで昭和天皇のために尽くした。 ◎尾崎秀実が一番信頼していたのは野坂参三である。 ◎野坂参三は田布施村王朝に恩義を感じ、昭和天皇のために尾崎秀実を使い捨てにした。 ◎伊藤博文、吉田茂、昭和天皇は近代史上不世出の三悪人である。 ◎防衛庁に職員として潜入していた秦のように、田布施村王朝の草が逆情報活動している。 山本五十六と近衛文麿の暗殺は連動している。二人は2・26事件直後に、吉田茂と昭和天皇のデス・ノートに記名されたと思われる。近衛抹殺指令には朝日新聞の緒方竹虎と嘉治隆、NHK、白洲次郎、松本重治、牛場友彦、岸道三、風間章、後藤隆之介、山本有三らは、全員がグルになって協力している。近衛を追い詰めた上で『自殺する』という風評を流し、近衛が周囲の制止を振り切り我意を通して『自殺した』、というシナリオを演じている。近衛の家族を除く全員が共犯者、謂わばアガサ・クリステイ―の『オリエント急行殺人事件』状態である。中でも主役を演じた松本重治は、晩年になってしつこいくらいに偽証している。 松本重治『わが心の自叙伝』聞き手・加固寛子 1992年初版 講談社より
以下抜粋。 『近衛さんが自殺されたのは、昭和20年12月16日。近衛さんはプライドというか、矜持が高かった。マッカーサーにだまされたということで、縄目を受けることはたえられなかった。それにもました「巣鴨」に行き戦犯として法廷に立てば、戦争責任の塁が天皇様に及ぶ危険がある。それを防ごうとされたのかもしれない。いろいろ考えて死を選ばれたのであろう。』 『私は近衛さんがなくなる前日、近衛さんのところに行って二時間ほど二人で話した。恥をしのんでも、近衛さんが法廷に立って天皇さまを守らねばならないと言っても、「木戸がいるではないか、最後のわがままだ、勘弁してくれ」と言われると、なんともしようがなかった。自殺をするという噂があったので、翌日京都大学時代の親しい友人、後藤隆之助とか山本有三も顔を見せていた。今から思えばお別れに来ていたのだ。近衛さんは集まっていた人みんなにウイスキーをついでまわっていた。”別れの杯”のつもりだったのだろう。人びとが帰ってしまって、友さんと私は近衛さんの隣の部屋で寝た。翌朝六時ごろ、千代子夫人が友さんを呼んで「やっぱりやりましたよ」と言った。死に顔は安らかであった。』
松本重治『昭和史への証言』聞き手 國弘正雄 2002年初版 たちばな出版より 以下抜粋。 『松本 近衛さんはプライドが非常に高かった。プライドが高い点では、天皇さま以上ではなかったでしょうか。そういう近衛さんにとって、マッカーサーにだまされたということ、縄目を受けることは、たえられなかった。それより死んだほうがいい、という気持ちになったのです。プライドが高いから執着心がないわけです。私は近衛さんがなくなる前日、近衛さんのところへ行って二時間ほど二人で話をしました。近衛さんに、恥を忍んでも天皇さまを守る人がいなければ駄目ですよ、といったのです。木戸(幸一)がいるではないか、と近衛さんがいうので、私は木戸さんは内大臣としてはまだ新しいから、あなたが天皇さまのそばにいて下さいと頼んだのですが、近衛さんは、松本君のいうことはわからんことはないけれども、このわがままだけは許してくれないか、といわれるのです。最後のわがままだ、勘弁してくれ、といわれると、なんともしようがなかったのです。』
『−そのとき、先生が近衛さんのところに行かれたのは、自殺の決心を変えさせようと思われてのことですか。』
『松本 近衛さんが自殺するという噂があったのです。だから、後藤隆之介とか山本有三、二人は同級なのですが、あの二人がお別れに来た、とかいって、近衛さんの顔を見に来たくらいです。』
『−近衛さんと二時間話をされたのは、自決を思いとどまってほしいということに費やされたのでしょうか。』
『松本 そうでした。私は、近衛さんに、あたなが亡くなったら、天皇さまがお気の毒ではないか、といったのです。天皇さまが本当に信頼しているのは近衛さんだ、と私は思っていましたからね。近衛さんは、日独伊三国同盟をつくったとき、「おまえはどこまでも私についてきてくれるか、助けてくれるか」と天皇さまに頼まれたのですが、考えてみると、天皇さまに「お前頼むよ」といわれたのは、近衛さんと牧野伸顕くらいではないでしょうか。その牧野伸顕にしても、近衛さんより年齢はずっと上ですからね。』
昭和天皇と近衛文麿のこのエピソードは捏造であると私は思う。近衛がこれを閣議で披露し、松岡が号泣したという逸話も作り話だと思う。天皇さまが本当に信頼しているのが近衛のはずがない。近衛文麿こそは田布施王朝の不倶戴天の敵である。文麿はすでに少年の頃から田布施王朝を忌避していたのだ。昭和天皇と近衛文麿の間に心の交流など、ただの一瞬もなかったはずだ。私は昭和天皇は近衛文麿を憎悪すらしていたと思う。 『−近衛さんは先生に遺言のようなことはいいませんでしたか。』
『松本 何もなかったですね。近衛さんの気持ちは遺言にある通りです。グルーは自分の気持ちをわかってくれた。時がたてば、本当のことは全部わかる。いまは終戦のどさくさだ。みんな異常な心理だから、間違いも多く、誤解も多い。そういう客観情勢の下で勝ちおごった者から裁かれたくない−と。近衛さんは、それは悠々としていました。この最後のわがままを許してくれ、なんて言葉は余裕がなければとてもできませんよ。私たちは水割りのウイスキーを飲みました。それから、私はどんぶりものを食べて寝たのです。翌朝六時ごろ、千代子夫人が牛場友彦を呼んでいいました。「友さん、やっぱりやりましたよ」。前の日には、シーツを真新しいものに代え、寝衣から何から全部、新しいものを用意して近衛さんを寝かしたのです。千代子夫人はなかなか勘のいい人でした。』
現存する近衛の『遺書』は、偽造史料だと私は確信する。吉田茂の側近、おそらく『近衛上奏文』を創案したり、講和条約締結でも同行した外務省の吉田コネクションのによるものと思う。千代子夫人の冷淡な言動は松本や牛場の捏造である。文麿と千代子夫人は夫婦円満であった。藤原菊と山本ヌイとの一時的な関係はあったと思われるが、彼女たちが近衛の死後にマスコミに出した手記内容や子どもを為したことについては私は虚偽だと考えている。今後、関係者に調査したいと思う。
『−そういう話を伺っていると、とくに最後の近衛さんのせりふなどに、いかにも東洋的な感じを受けます。近衛さんの父君は東亜文書院の設立者ですが、近衛さん自身の中にも東洋への親しみといいますか東洋的なものを感じられましたか。』 『松本 それはありました。近衛さんには男の子が二人いましたが、とくにシベリアに連れていかれた長男の文隆を非常にかわいがっていました。ゴルフがうまく、からだも強く将来を待望していました。二男の通隆のほうは、からだも割合細くて、道楽してしようがないんですよ。それで、近衛さんが叱ったころがある。道楽してもかまわんが、しかし、それ以上大事なことを忘れるな−と。そこらへんも東洋的なんですよ(笑)。』
◎通孝は真面目な学者タイプ。道楽してしょうがなかったのは、長身ハンサムなモテ男文隆である。
『−死の前日まで、ずっと身近に近衛さんを見守ってこられた先生の近衛評は全体としてどういうことになるのでしょうか。』 『松本 非常に大事な時に、重大な正しい決意をされるけれども、粘着力が足りないのです。粘っこい点がないんですよ。うまくいかないと、やめちゃおうという気になるのです。(後略)』
『−それは、近衛さんの育ちのよさにもよるのでしょうか。』
『松本 まあ、そうもいえますがね。(中略)貴族意識とか、五摂家の筆頭の家柄である、といった意識はありませんでした。ただ、なんとなしに、天皇さまへの親近感はもっていました。』
『−近衛さんが自裁したとき、天皇がどう反応されたか、ということはもれ承るよしもないのですが・・・。』
『松本 私も聞いたことはありませんが、本当にがっかりされたと思います。』
以上抜粋。 松本重治『近衛時代』1986年初版 中公新書より以下抜粋。 『先日、近衛さんの長女の昭子さんにお会いできて、いろいろと話を聞いたが、その中で昭子さんによると、このソ連行きの際、近衛さんが、小さな小瓶を旅行カバンにいれているのをみて、「これはなに」とたずねたところ、はっきり「青酸カリ入りの小瓶だ」といわれたそうで、後日近衛さんが自殺に使われたのは、そのときの青酸カリだった、ということである。』
◎松本重治は白洲次郎から青酸カリを渡されて持参したので、入手経路について非常に気にしている。近衛の長女昭子を使って誘導尋問して喋らせている。 『日本最後の「公家」−愛娘野口昭子さんに聞く』 『野口 そのときに、父の部屋に行きましたら、こんな小瓶の青酸カリを持ってたんですよ。私あのときから、どっかから入手したのかと思うんですけどね。いざっていうときは、これを飲むんだよって、私に見せたことがあります。だから、あのとき手に入れてるから、自殺のときまでどこに隠してたのか分らないんです。あの場に及んで、その瓶をくださいなんて誰にいったって、くれやしないと思うし・・・。でも、その瓶が、父が亡くなるときに置いてあったの、空になって。コーヒーの中に・・・。それは、ソ連に行くっていうときに、もうすでに持ってたんですよ。』 ◎次の二つは彼らのシナリオの定番ネタである。
『終戦連絡局にいた白洲次郎君からの電話で、「近衛さんはどうしても巣鴨プリズンに行くようすはない。自殺するのかな。」という。それで、私は牛場友彦君を誘い、二人して泊り込みのつもりで荻窪の荻外荘に急いだ。応接間に先客がいるらしかった。あとになってわかって、なあんだあということになったんだが、後藤隆之助さんと山本有三さんの二人だった。ともかくそれで、私たちは近衛さんを別室に呼んできてもらい、主に私からだが、二時間くらい「自殺反対論」をぶった。その甲斐はなかった。』
『最近友さんは、「あのときの重ちゃんの説得力には、ちょいと驚いたよ。もの凄く迫力があったからね」と、次のように話してくれた −重ちゃんが、「近衛さん、あんたが(巣鴨に)行ってくれなければ、陛下が危ない」というと、近衛さんから、「それは木戸がいるから大丈夫です」という答えだった。しかし最後に、近衛さんは、「松本君、ねえ、もう話は分ったけれど、最後の私のわがままを聞いてくれ」といった− こういわれてしまえば仕方がなかった。夜が明け、友さんと一緒に近衛さんの寝室にいってみれば、すでに幽明界を異にしていた。こうして、私らと近衛さんとの絆は、永久に断ちきられたのであった。』 『誤解された近衛−牛場友彦君に聞く』 『牛場 吉田(茂)さんなんかも引っ張られたでしょう。僕だったら絶対あれはしないと、近衛さんいうんですよ。通隆君と僕で、”じゃ、どうするんですか、まさか立ち回りするわけにいかんでしょう””それは手があるさ”とうそぶいているんだな。あのときもう青酸カリを用意していたんですね。たとえば近衛さんがスパイの容疑やなんかで憲兵隊へ引っ張られるというはめになったら、そのときやっていますね、もう。絶対そういうことを許さないという気なんだから。だから通隆に書いた遺書でも”神の裁きを受ける”と書いているでしょう、最後にね。戦勝国の勝ち誇った裁きなんか、受けてたまるかという、裁きを受けるということは、絶対、近衛家の自分としては許さないという。」』 ◎牛場友彦が言っているのは嘘八百である。トモは通隆をダシに使ってデタラメこいている。通隆は何も言わないだろうと踏んでいるのである。近衛の遺書も通隆の前で書いたものと、近衛の遺書として公開されているものとは別物である。これは松本がうっかり喋っている。
『牛場 さて僕が近衛さんとはじめて会ったのは、重ちゃんの話した通りで、昭和9年5月半ばのことだ。近衛さんが四十三のときですよ。僕が三十三、そのときの近衛さんの印象は、なんと眉目秀麗なハンサムな人だなと思った。実にスーッとしててね、実に親しみを感ずるんですよ、はじめからね。満州事変をその二年後に控えた年ですから、そのときは非常に騒然としてきた時期に近衛さんとお会いした。近衛家のことなんかぜんぜん知らなければ、近衛文麿という人もぜんぜん・・・そういうことはいっさいわからずに、いきなり二ヶ月間、アメリカ旅行のお供をしたわけなんです。あとで、牛場君は変ってるねって。何が変っているのかと思ったら、そういうことでぜんぜん・・・さもなきゃそんな機会を与えられたら絶好のチャンスなんですね。たとえば友達の尾崎秀実だとしたら、たいへんだったと思うんですよ。食いついてね。日本の政治の中まで入ろうとしてたいへん。』
◎牛場友彦は自分が無欲であることを誇示して尾崎秀実を貶めようとしているが、そもそも尾崎秀実を近衛父子に食いつかせたのは牛場友彦自身である。牛場友彦は書記官長の風見章と共謀して尾崎秀実を『朝飯会』に入れたり、近衛内閣の嘱託として首相官邸に一室を与えて、そこに文隆を出入りさせていた張本人である。尾崎秀実だけでなく、ゾルゲまで文隆に近づけたのも牛場友彦である。 牛場は前掲書の中で『昭和9年の8月にアメリカから帰ってきて、それから太平洋問題調査会のヨセミテ会議が11年かな。この会議の準備に忙殺されて、近衛さんのコの字も忘れていた。全然連絡なかった。そこへ昭和12年に近衛さんが組閣した。そうしたら突如として組閣本部へ来てくれっていうんで、なにごとかと行ってみたら、秘書官をやれって。』と証言している。このヨセミテ会議に出席した尾崎秀実の助手に文隆をくっ付けたのが牛場である。牛場は近衛内閣の秘書官になるとさらに文隆に貼り付いて政治志向を植え付け、やがて父親と一蓮托生の罠を仕掛けた。そのために尾崎とゾルゲを利用したのである。
IPRが謀略の巣窟であることはつとに知られているが、牛場友彦の片割れである松本重治はIPRでの人脈を最大限に生かす人生を送っている。ジョン・D・ロックフェラー三世と共謀して国際文化会館を創設したばかりでなく、IPRで知遇を得たロイターのアジア支局長チャンセラーの紹介で、ジャーデイン・マセソン商会のケジャック兄弟と懇意になり、戦後は同商会の顧問を務めている。松本重治は国際弁護士として同商会の他にも、多くの外資系企業の進出の便宜を図った。松本重治はさらにチャタムハウス(RIIAイギリス王立国際問題研究所)のようなものも日本には必要だ、と提言している。松本重治と白洲次郎はまるで双生児のように良く似ている。
『いつだったろうか、正確な日時はみんな忘れてしまったが、牛場君が私に、「近衛さんが会っていて、気を置かずに話しのできる人は、ほんの二人か三人だ。その一人が、重ちゃん、君だよ」といったことがある。そこまで近衛さんが私を気に入ってたとは、友さんにいわれるまで、私は気づかなかった。』
◎人を中傷しながら自分ボメするのは、白洲次郎&松本重治&牛場友彦トリオの得意技である。
『歴史とはこういうものです』
『松本 近衛さんが自殺したときね、前の晩に、隆さん(後藤隆之介)と山本の有さん(山本有三)の二人で、近衛さんのところにお別れにといって来たでしょ。あのとき、なにか自殺するとかしないとか、話はあったの?自殺するなっていう・・・。』
『後藤 自殺って言葉は使わないけど、あったんだ。』
『松本 そのとき、近衛さんの親類の人とかなんか、巣鴨へあした行っちゃうので、会えないかもしれんというので、お別れのあいさつに来た人が、随分いたね。近衛さんはひとりひとり応対しておられた。』
『後藤 そう、そうだったかな。だが自殺すると思っておった者は、少なかったろうね。』
◎後藤がつい本当のことを言ってしまったので、松本が軌道修正する。
『松本 僕は近衛さんと議論したから覚えている。』 ◎後藤は松本に注意されたのだろう。やおら芝居を始める。 『後藤 僕、山本がちょっとというから、外へ出た。ところが、「近衛は向こうへ行かないそうだ。君ひとりがそれに賛成しているそうじゃないか」と山本がいうから、「へえ、どうして?」って、僕はそういったんだ。ハハアと思ったんだ、僕は。 実は14日に、僕が近衛に会いたいといったら、運転手が迎えに来たよ。14日の4時ごろだったと思うよ。そしたら、近衛は、いつになくまじめくさった顔して、「今日来てもらったのは、自分はこんど−」あれは、軽井沢に僕らと一緒におるときは、刑は重くないと思っておったし、ぼくらもそう思っておった。ところが東京へかえってみたところが違う、重くなりそうだという気配がしてきた。アメリカは罪を軽くはしない。大物主義できてるから重罪を免れないということを観念しておったね。しかし、極刑にはならないと思うが、重罪は免れまいということを言っておった。そういう前提があった。 それでもなおかつ、僕は巣鴨に行くことを勧めたぐらいだからね。だが勧める前に彼は、「自分は重罪は免れない。日華事変以後、自分は失敗の連続であった。失敗ばかりしていた。しかし、志すところは別にあったんだということだけは後日明らかにしてもらいたい、それを頼みたいと思って来てもらった」と、こういうことを言った。 ははあ、これは遺言めいたことを言うなと思って、「それは承知しました。尚その他、公私を問わず、言うことがあれば承りますれば、何でも私の出来ることは致します」 それから僕も、巣鴨へ行くものと思ってさ、「ふとん1枚ぐらいだと寒いらしいぞ。ふとん二枚を重ねて1枚にして、さらに1枚上にかぶせて二枚を1枚にして・・・」といっても、近衛は聞こえたような、聞こえんような顔をしておったが、僕が行くことをすすめたぐらいだから行く気がなかったんだね。』 ◎後藤隆之介には、己れの悪事に耐えられない良心がわずかながら残っているのだろう。日本語になっていないような証言が延々と続く。後藤に修辞文法の学習能力が無かった訳ではない。彼は篤志家が学資を出したくらいの秀才である。後藤隆之介は松本重治のように、とことん恥知らずで悪達者な芝居を演じることができないのだ。
『後藤 15日になって、近衛に会って聞こうじゃないかと(山本有三が)いうから、聞こうと荻窪に行って、近衛の部屋にいったら、いないけど待っておったんだ。ここに待ってりゃきっと来るって、で、来たよ。二、三十分してきた。今まで医者にかかっておったっていう。山本が医者はなんていったと聞いたわけだ。・・・診断書を書けといえば書きますということを、二人の医者が引き受けたわけだ。それは彼の周囲の者が、それをするために医者に来てもらったわけだから。 ところが、近衛はそのことについて「私は断った」というから、山本が「なぜ断ったのです」と、こう聞いたわけだ。「東京裁判を拒否する」という一言を言ったんだ。ピシッときたね、僕は。「行かない」という言葉なら穏当だが、「拒否する」という言葉は、ハハアと思ったね。「裁判は拒否する」と。そうすると山本は、「侯爵は最悪の場合をお考えになっておられやしませんか」と、こうきたんだ。それはね、山本だからああいうふうに婉曲なことをいえるんだよ。死ぬ気かと、僕なら言っちゃうところだが、そう言ったら「いいえ」と、首を横に振った。だけども、僕が聞いておって反対の・・・。 それから初めて僕が発言するんだよ。「こういう際に法廷に立って、ペタン元帥のように堂々と初心を披歴して、皇室のために盾になっていくのが近衛公のなすべき道ではないか」と言った。そうしたところが、彼は、初めて本音を吐いたですわ。 「自分がこんど、巣鴨に呼ばれておるのは、日華事変が根本です」と。「日華事変のことを追及していけば、これは軍のやったことである。政治家たる近衛の責任じゃなくて、むしろ軍の責任である。軍の責任であるということを追及していけば、統帥権問題に帰着する。そうすると結局陛下の責任だということになります。だからそうなれば、近衛の責任は軽くなります。私は、そういうことをはっきりと、所信を披歴することは出来ません」 だから法廷には立たないということなんだが、そう言われたので、頭の悪い僕も、もう一言もいえなくなっちゃったよ。「なるほど、そうだろう」。こう思ったから、仕方ないと。』 ◎「」内の近衛のセリフは、松本重治が近衛から聞いたというセリフとほぼ同一である。これは打ち合わせ済み事項なのだ。後藤はそれをオウムのように口真似する役だから、ここだけスラスラ理路整然と喋っている。
『後藤 そこで、これは自殺するなと思ったから、立派に死ねといおうと思ったら、僕の後ろに千代子夫人と通隆が立っているんだ。僕は気がつかなかった。山本ははやく気がついたもんで、いくらかたじろいだらしい。僕は二人が後ろに立っているのを見て、少し、意気阻喪したわけじゃないが、なんだか言いにくくなったね。
だけどこんなことで、言うべきことを言わずにおるわけにはいかないので、こういう時こそ、自分のいうべき時だ、ほかの誰もが言いにくいことを、僕が言わなきゃならん、という自負心が若干あったので、「東条のような、ぶざまなことはしてくれるな」と、ことばはそのとおりである、ぶざまといったよ。死に損ないだな、ぶざまなことをしてくれるなと、こう大きな声でやったよ。そうしたら、その一言を聞いたとき、近衛の顔がぐっと変わった。青白く、目の色が変わったね、唇の色が変わったね。僕は、ああいう時に目の色が第一に変わることは知っているんだ。僕は以前に、彼に目の色を変わらした経験があるんだ。目の色が変わりました、唇も変わった。鼻をつき合わしたような近いところで言っているわけだから。ぶざまなことをしてくれるな、といったら、顔の色が変わって、そして後黙っちゃった。 あと、何もいわないわな、誰も。そしたら、山本がまた、「ひとつ、書き残せるだけ書き残してもらいたい」ということを言いだしたよ。「ほほう、さすが文士だな、抜かりはねえな」と僕は思った。僕の気がつかないようなことだもの。書き残せるだけ書き残してもらいたいと。あ、いいことに気がついた、と僕は思ったら、「いや、書いてある」と、こうきた。それで僕は、「それは君、三国同盟とか日華事変とか、対米交渉とか、そういうことだろう?」といったら、「そうだ」と。 「山本君がここで、書き残せるだけ書き残してくれというのは、そういうことではないんだ。なぜ死んでいくか、死んでいく理由をはっきり、書き残せるだけ書きのこしてもらいたいということなんだよ」と言ったんだ。そしたら黙っちゃった。何にも言わないんだ、それっきり。 それから僕は「中野正剛って男は、雄弁で口八丁であったが、死ぬ間際には、“淡々たる心境で”なんていう言葉をもって、自分の心境を表現しておったようだが、中野としては不似合なことだと思う。もっと、言うべきことがあったでしょう。それを言い切らずに死んでいったということは、不似合なことであると今でも思っている」と、こう言ったんだ。「君に対しては、なぜ死んでいくかということを、はっきりと書き残してもらいたい、というのが、山本君のいっていることであり、われわれのいっていることはそれなんだ」と。そしたら、しいんとしちゃって。…』 ◎中野正剛は東条の指示で憲兵隊に暗殺されたと言われている。しかし私は東条の指示ではなく、吉田茂と昭和天皇の指令によると思う。
『松本 いや、それでね、ウイスキーをみんなで飲んでさ、それからちょっと、二十分ぐらいしてから隆さんと山本さんと、二人が次の部屋で立って近衛さんと別れておられたよね。それで背丈の低い隆さんが、下から近衛さんを見上げてつくづくと眺めていたね。で、僕は、「あ、これでもう決まった」と、思ったんだ。』
◎松本重治は脚色が上手い。さすが国際文化会館の創設者である。この松本重治の誘い水で、後藤隆之介も俄然調子に乗る。
『後藤 山本は、あの時の僕のことをお別れをするとはいいながら、今は別れる時に、あれほどじろじろと人の顔を、自分には到底見られない、というておった、帰りに。僕は、あれが最後の別れと思うておったから、見忘れないように、じろじろと見た。』
『松本 見ていたよね。』
『後藤 うん、見た。ああなってくると、僕は肚が決まっているからね、真剣にぶつかったね。だから僕は、平素はろくろくものが言えないんだけれど、あんな時になると、遠慮ということを知らない男だから、言うべき時に言わずに別れるぐらい、あとで気持ちの悪いことはねえもの。ああいうことは、一生に何遍もないからね。』
『松本 そりゃないよ。僕、自殺する人の隣の部屋に寝ていたなんていうの、ないね。空前絶後。』
『後藤 あそこへ泊ったのか。』
◎後藤はギョッとしている。暗殺現場に立ち会ったのか?と驚いたのだ。
『松本 泊まったよ。牛場の友さんと二人で泊まったよ、あの部屋に。』
『後藤 ああ、そうか。あなたがたは、まだ、僕と山本とは違って、ああいう場面で一応やったのと、やらずに想像しておったのと、少し違いがあったね。』
◎後藤隆之介が山本有三宅に泊まって、『やらずに想像しておった』時分、松本重治と牛場友彦は『ああいう場面で一応やった』。松本と牛場は残って、近衛の暗殺を幇助したのである。後藤はまざまざと暗殺現場を想像して動揺しているようだ。それを察知した松本はこれはマズイと思って、すかさず話題を自殺反対論に持っていく。
『松本 いや、僕は自殺反対論を相当ぶったの。二時間ほど。』
『後藤 あ、そうか。あのあとで?』
『松本 いや、その前に。昼、日中だ。』
『後藤 あ、そうか。反対論ていうのは、どういうの?』
『松本 いや、自殺しちゃいかんというの、僕は。なんかね、白洲次郎さんだか友さんだか、僕が同盟通信にいたら、どうも近衛さんは、何か決心しているようだといって、僕に電話がかかってきたんだよ。で、僕は、さっとわかったものだから、「じゃ、すぐに荻窪に行くよ」って、それで行ったんだ。
二時間話したかな。友さんも傍らにいたよ。僕は、「この際は恥をしのんで巣鴨に行ってください。極刑にはならないんだと思うから」といったら、やっぱり、木戸がいるからいいっていうんだよね。「天皇さまのためには木戸がいるから大丈夫だ」と。だから僕は、木戸一人じゃ危ない。あなたが生きてなきゃだめなんだと、いうことを言ったんだよ。そしたら最後にね、「松本君ね、もう話はわかったけれど、最後の私のわがままを聞いてくれ」こういううんだよ。ま、そういわれると仕方がないから、それ以上言うのを諦めたんだ。しかし最後に近衛さんが僕に言ったのは、遺書に書いてあったと同じことを言ったのだ。』 ◎ “どうも近衛さんは、何か決心しているようだ”と白洲次郎が風聞を流した。確かに近衛は決心をしていた。近衛が決意したのは自殺ではなく捨て身の闘いである。近衛は所詮は無責任な公家のボンボンと云われているが、近衛が起こそうとしたいくつかの行動や一切の言い訳をしない態度には、命を惜しまない勇気と責任感そして不器用さを感じる。むしろ古武士を髣髴とする。
近衛のいい加減さで尻切れトンボに終わったとされる政治資料は、かなりの部分が粉飾されていると思う。後述するが、外務省に保管されている近衛とマッカーサーの会談の史料も、会談の通訳を務めた奥村勝三外務次官が改竄していると思う。奥村勝三は真珠湾攻撃を騙し討ちにする工作をした、吉田茂と昭和天皇のコネクションである。彼は戦後も近衛とマッカーサー会談の内容を改変し、昭和天皇とマッカーサー対談は美化するなど、八面六臂の活躍ぶりである。この奥村勝三の片割れが、元駐米大使館員にして二重スパイ、昭和天皇御用掛・寺崎英成である。奥村勝三と寺崎英成は外務省のシゲ&ジローといったところか。寺崎英成の兄・寺崎太郎も、陸軍中将・辰巳栄一とともに吉田茂のロンドン・コネクションとして有名である。 『後藤 あの遺言はやっぱり言い尽くしているね、全部を。思うことはみな、あそこに書かれておるね。また、あのとおりになったね、事態が−。やっぱり、近衛らしい遺言であった。山本が、書き残せるだけ書き残してくれといって、あれを要求したからね。重ねて僕も。だからああいう遺言が出来たとも思うね。』
『松本 それはそうかもしれない。』
『後藤 なぜ死ぬかを書いてくれないと困るということを僕は・・・。山本もそれを言いたいんだけれど、山本はそういうことになると、そこまで露骨にには言えないたちですわ。だけど、それ以外にいうことないよ、僕は。やっぱり率直にいったのが近衛の−近衛という人間があの最後の遺言に全部出てる。』
『松本 あれはね、次男の近衛通隆君に会って、一時間ぐらい話したんだよね。それから、通隆君を部屋から外へ出さしといて、あと自分で書いたんだな、遺言は。そんな気がする。』
『後藤 そうかあ?』
『松本 うん。遺言を通隆君に渡したわけじゃないんだもん。』
『後藤 ああ、そうか。』
◎松本重治は遺言について重要なことを語っている。通説にないことを語る必要はないのに、これでもかと偽証を重ねているうちについ口を滑らしたのだろう。重大な証言だ。『近衛の遺言』として後に公表されたものは、通隆が退室した後に書かれたものだというのだ。つまり近衛が通隆の眼前で書いたものとは別物である。近衛文麿の本物の遺言は表に出ていないのだ。
後藤隆之介と松本重治は、戦犯指名された近衛を小心翼々とした人物に描いている。しかしこの時期、近衛の長男・文隆はソ連に抑留され消息を絶っている。最愛の長男の所在も生死も定かではない時に、私はもはや近衛が自分の運命を気にかけていたとは思えない。苦汁を嘗めつくしてきた近衛が、今また息子の命を人質に取られたのである。そういう時に、近衛が重罪であるとか極刑を免れないとか苦にしたとは思えない。近衛は四面楚歌の中でついに闘いの矛を取って立ったと思う。近衛は明治憲法を完全否定する民主的な改憲起草案を奉答し、同日栄爵拝辞している。
もし近衛気に懸けることがあるとすれば、残された家族に塁が及ぶことだけだ。文麿の通隆への真実の遺書は「自分は家族に塁が及ばないようにしたが、まさかの時は口を閉ざして母親を守れ」というものではないか。隣に松本と牛場が聞き耳を立てていたから、紙片に書いたのだ。それをいいことに、松本は昭和を偽証し続けた。松本は白洲次郎と同じ才能を持っている。見てきたようなウソをつくのが上手い。白洲はまたネタを創るのが上手い。松本はその白洲を上回る。これは松本重治のネタである。
松本と牛場は何か異変があれば即座に飛び込めるように、近衛の寝室の隣の部屋でまんじりともせず様子を伺っていたという。翌朝まで何の物音もしなかったのだが、近衛は死んでいたという。松本と牛場は近衛が殺害される一部始終を見ていたのである。松本重治はまた、野口昭子が青酸カリについて言及するまで延々と色々なことを喋らせ、ついでのように青酸カリの小瓶の話が出たように書いている。誘導尋問をしている箇所は省いているのだ。昭子が目撃した『コーヒーの中に・・』というのは、牛場友彦あたりが現場を偽装したのだと思われる。千代子夫人は不眠症になっていた近衛のために、毎晩水差しを用意していた。安定剤を服用するためである。彼女は松本らの偽証によって、青酸カリ服毒のための水差しを積極的に用意したことになっている。
近衛抹殺を実行したのは吉田茂の配下の工作部隊である。吉田茂は諜報機関も憲兵隊も自在に動かす。吉田自身をスパイさせ国家反逆罪で逮捕させ、しかる後に40日で釈放させることが出来る。吉田茂は白洲次郎を使って、ソ連に抑留させた近衛文隆を始末することも出来る。
鬼塚氏によると、アヴェレル・ハリマンは、1921年にレーニンからジェルジェンスキーを紹介されている。ジェルジェンスキーは、スターリンに任命されて、秘密情報機関チェーカを創設した人物である。モスクワのルビヤンカ通りにある本部には、対情報工作部と経済情報工作部がある。
ハリマンはそのジェルジェンスキーと組んで、ソ連とウオールスとリートのパイプを作った。ここにジミー・ウオーバーグが参入する。白洲次郎はこのジミーとパイプを持っている。ハリマンはスターリンの恩人であり、二人で『高度の政治的決定』が出来る立場にある。マッカーサーはその決定に逆らう権限を持っていない。文隆の命運は吉田茂の掌中に握られていた。
引き続き松本重治『近衛時代』より、文隆に言及した箇所を抜粋する。
『牛場 ああいうおかあさんの血を受けて呑気だった文隆君でも、モスクワの近くのシベリアの収容所での態度は、実に見事なものだったそうですね。自分は近衛文麿の息子だと、うしろ指さされることはいっさいしないと、帰国した人がみんな賛嘆してたものな。後藤隆之助なんかにいわせたら、あれは謀殺されたんだというけどね。・・・やはりソ連はずいぶん利用しようとしたんだろうというんですね。憶測ですがね。どうしても”ぼんち”(文隆の愛称)はなびかなかったんだな。そういう点は一貫してあるんですね。公家の血ですよ。これはほんとうに常人と違うからな。それは冷酷なこと、とことん冷酷、ひがみが強いという点もありますよ、それは。あんちきしょうなんて・・・あの目がいかん、近衛さんの目が、ヘビのような目ですよ、あれね。実に威厳のあるそれはいい顔をしているけど、目はやっぱ・・・』
『松本 ヘビの目をした近衛さんに友さんが傾倒したのはどういう点かね。』
『牛場 いや、非常にもうなんか感じのいいひとなんですよね、一緒にいて。またなかなか人を信用しないんだな。寂しい人ですよ。』
◎ヘビの目をしているのは、牛場、お前自身のことだ。ヘビのように執念深く文隆にまとわりついていたではないか。近衛は殺される直前に、自分が秘書官に選んだ牛場という男の正体を思い知っただろう。この対談も牛場の性格が良く出ている。褒め言葉の合間に猛毒を入れ、サブミナル効果を出している。こんな男を首相官邸や自邸に出入りさせ、文隆に貼り付かせていた近衛はあまりに迂闊であった。
この牛場友彦とクリソツなのが里美クである。里美クは白洲次郎と懇意で、次郎所有の山小屋に泊りがけでスキーをする程の仲である。里美は白洲に頼まれて山本五十六のプロパガンダ小説を書いたり、原田熊雄の日記を編集して発刊したり、せっせとガセネタを巷に流している。それでいて『私は嘘いつわりが嫌いである』と自己PRしている。 『里美ク伝 馬鹿正直の人生』を書いた小谷野敦によると、里美クには『まごころ哲学』なるものがあり、『嘘を許さない、何より自分に嘘をつかない』のがその眼目だという。里美クという人間は傍迷惑なほど『馬鹿正直』であり、小谷野が伝記を書きたいと強く思った理由は、里美クのこうした『正直病』に共感したからだという。私には里美という人間は『大ウソつき病』で、人にも自分にも平気で嘘をつく卑劣な男に見える。
里美クは原田熊雄と親戚関係にある。白洲次郎(ジロー)松本重治(シゲちゃん)牛場友彦(トモ)もお互い縁戚関係にある。3人とも田布施村王朝の薩摩閥である松方正義・樺山資紀・川村純義の子孫である。その内訳は、シゲちゃんは松方正義の孫、シゲちゃんがそっこんの恋女房・花子は松方直系の孫、ジローは樺山愛輔の女婿、その愛輔自身も川村の女婿、そしてトモは松方家と親戚でシゲちゃんともども松方ハルと近縁である。
後年松本重治は才能を見込まれて、吉田茂と樺山愛輔に愛顧される。松本重治が国際文化会館の館長に就任した経緯には、ジョン・D・ロックフェラー三世だけでなく、この松方ハルが絡んでいる。松方ハルはライシャワーと結婚して、ハル・ライシャワーとなったのだ。田布施村王朝の世間は狭いのである。
近衛文麿の死の直前の言動についての松本重治の偽証は、『近衛上奏文』を下敷きにしている。近衛文麿とマッカーサー対談といわれるものも、近衛の遺言とされるものも、『近衛上奏文』下敷きにしている。『近衛上奏文』は吉田の側近が創案したものである。近衛直筆とされる上奏文や遺言の筆跡鑑定をしてもらいたい。近衛は10月22日に新憲法起草案を奉答、同日栄爵拝辞している。改憲起草案の骨子は、明治憲法の完全否定、すなわち田布施王朝による国体護持に真っ向から対立するものである。私はこれは近衛が昭昭和天皇に突き付けた果たし状であると思う。そのように腹を括って闘おうとしていた人間が、勝者の裁きを受けたくないと言って自殺する訳はないのだ。まして軍部赤化に責任を転嫁しひたすら国体護持と財閥勢力の温存を唱える対談を、マッカーサーとする訳はない。
冒頭で撤回した山本五十六の黙示碌的セリフも、山本五十六と近衛文麿の暗殺を偽装するための、原田熊雄の後知恵である。原田熊雄は住友の社員から西園寺公望の私設秘書になり、吉田茂の指令を中継する立場にあった(原田の家は吉田邸の真ん前にある)。住友財閥は原田を丸抱えして、東京本社の一室と資金を与えていた。原田熊雄が書いた『西園寺公と政局』は、証拠隠滅工作あるいはプロパガンダのための偽書である。
原田が書いた山本五十六のセリフを、私は最初、戦争回避のための黙示録として読んだ。しかし鬼塚氏の本を今一度仔細に読んで気が付いたが、バーガミニは資料の真偽を何と秦郁彦に依頼しているではないか。なるほどバーガミニは、五十六と河合千代子のガセネタを信じ込まされている。五十六関係者によると、『海軍省の部下が五十六の所在を知りたければ河合千代子の妾宅に行ったものだ、そこに行けばドテラ姿の五十六が出て来るからだ』という風聞を流していたのは海軍省の身内だという。海軍のガセネタを、秦郁彦は本物だとバーガミニに吹き込んでいたのだ。
前回シリーズで投稿した『鬼塚氏が発見した日本の秘密』には、秦郁彦が電話をかけてきて延々とイチャモンをつける逸話がある。そして最後に秦自身が田布施村出身であることを告げるに至り、鬼塚氏が合点するのである(ああ、この人は歴史を捏造するために近代史家になったのだなあ)と。事実、秦郁彦は、バーガミニの『天皇の陰謀』を偽書として告発し近代史を捏造している。その経緯を鬼塚氏は次のように述べている。
鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』成甲書房より以下抜粋。 『私はバーガミニの本が偽書扱いされる過程を調べて、日本の現状から見て納得した。この本ほど膨大な資料を駆使して書いた日本現代史は存在しない。日本の学者はバーガミニほど勉強していないし、その歴史の背後に蠢くものを追及しようとする者一人もなしである。では、どうして偽書よばわりされていったのかを見よう。』
『バーガミニの天皇伝を酷評し続けたのは、元駐日大使のエドウイン・O・ライシャワーである。この元駐日大使はたびたび昭和天皇と会い、天皇崇拝者へと変貌した。ここに彼の文章を紹介するまでもない。しかし、ライシャワーの天皇賛美の本は、アメリカでは逆に偽書扱いされだした。』
『エドワード・ベアーが「ヒロヒト−神話の裏側」を1989年に出版し、バーガミニの歴史的立場を支持した。スターリング&ペギー・シーグレーヴは「ヤマト・ダイナステイ」」(1999年)「ゴールド・ウオリアーズ」(2001年)を世に問い、バーガミニの立場から新しい日本現代史を書いた。シーグレーヴの本を読むことをすすめたい。たしかに、小さなミスはある(バーガミニもそうである)。しかし、シーグレーヴの本には、日本人のほとんどが知らされていなかった皇室の秘密が書かれている。』
『日本人の学者もジャーナリストもほとんどがバーガミニの本を無視し続けいる。この本を紹介した本について書く。1984年、松浦総三の「松浦総三の仕事」が出た。引用する。「この書物には、私たちの知らなかったことが実に多く出ている。それは、占領軍が接収した日本の資料をほとんど見ていることと、この本を書くのに10年近くかかっている努力と執念の結果であろう。」』
『私はバーガミニに関する日本人学者やジャーナリストの論評または引用について調べたが、松浦以外は見つけることができなかった。否、これは間違いである。強烈な批評の書を見つけたのである。それは前述した秦郁彦の「昭和史の謎を追う」の上巻に書かれていた。バーガミニは日本の資料を集め、整理するために、当時防衛庁の文官であった秦郁彦の世話になった、ということを書いた。たぶん、バーガミニは自分の資料の不確かさを秦郁彦にチェックしてもらっていたはずである。』
『バーガミニは秦郁彦の助言を受け、大いに感謝している。しかし、秦はバーガミニの本を偽書と決めつけるのである。どうしてか。この点を追及していくと現代の日本の学者たちの立場が見えてくるのである。1993年に“ついに出現した決定版昭和史”の惹句を付して、「昭和史の謎を追う」(上・下)が出た。その上巻の第一章に「“天皇の陰謀”のウソ」というタイトルで、延々とこれでもかと、秦はバーガミニを追及している。秦はこのバーガミニという男にまんまと欺されたという風に書いている。そしてバーガミニの履歴を書き、「まずは一流の経歴だが、ライフの科学記者として著書も何冊か出していたバーガミニが、日本の近代史に着目した理由はわからない」と記すのである。私には秦が書いている意味が分からない。科学記者は、科学の本だけを書けといいたげである。』
◎バーガミニは本書の冒頭で『著者から読者へ』と題して、天皇の陰謀を書くに至った理由を述べている。それは凄まじいまでの動機である。日中戦争のさなか、まだ少年だった彼は父親とともに南京の聖山の山頂で日本軍の蛮行を目撃した後、捕虜として拘留され1945年2月5日に処刑される予定だったが、アメリカ軍が侵攻してきて九死に一生を得たのである。
『秦は書いている。「真珠湾コンプレックスの強い米人読者を意識してか、“天皇は開戦11か月前に真珠湾攻撃の成否の検討を杉山参謀総長に命じていた”という“新事実”が、原書房から刊行されたばかりの“杉山メモ”で判明した、とバーガミニは強調しているが、筆者が何度調べても該当の箇所は見つからなかった。何かの錯覚と思われるが、仮に事実だとすれば検討を命じられるのは陸軍ではなく、海軍の軍令部総長でなくてはならぬ、という初歩的常識を筆者・訳者ともに持ち合わせてないようだ。」』
『私はこの秦の書いた文章を読んで、ほんとうにあきれた。「杉山メモ」をよく読めといいたい。秦がこの程度の知識しか持っていなかったのかと、ただただ、あきれた、とのみここでは書いておく。真珠湾攻撃はもっとずっと前から、裕仁が机上作戦に熱中していたのを知らないらしい。』
『彼は得意げに書いている。
「“悪書は良書を駆逐する”好例だが、そのバーガミニも1983年、53歳に若さで没したと聞く。死してなお偽書は千里を走る。“歴史とは意見の一致したウソを集めたものにすぎない”とうそぶく、歴史の偽造者たちの哄笑が聞こえてくるようだ」 私は秦郁彦のほうが、歴史の偽造者仲間の一人にちがいない、と思っている。』 ◎私は秦の文章を読んで慄然とした。秦の哄笑の声が聞こえてくるようだ。私はバーガミニは、原爆投下を阻止しようとしたフォレスタル海軍長官のように暗殺されたのだと思った。激しい動機に突き動かされ、我々に真実を差し出して見せてくれた彼は、非業の死に襲われたのだ。
『もう一人のバーガミニの批判者を紹介する。その人は色川大吉である。彼はバーガミニが気に入らないらしい。彼は秦郁彦と同じ問題を論じるのである。「ある昭和史」から引用する。
「バーガミニによると、こんどの戦争は想うだに胸が悪くなるほどに醜悪な“天皇の秘密閥”によるアジア制服の大陰謀の結果であったという。書名どおりの“天皇の陰謀”を実現する“秘密閥”が成立したのは、皇太子裕仁がヨーロッパ旅行に出かけた1921年に夏のことであったというから驚く。天皇自身が“皇祖皇宗の遺訓”や“万民の敬愛”という幻想の領域に深く捉えられ、そのために彼の主体的行動も制約されて、混濁し、あるいは複合人格たらしめられてきた、そう私たちが考えているのに対して、バーガミニはそうした非合理的な態度をしりぞけ、天皇幻想の衣装をはぎとり、裕仁を一個の醜悪な野心家として通常世界史の帝王の系列のかなに据えおこうとする。」』 『私は色川大吉や秦郁彦のような天皇にたいする“幻想”をも持たない。秦郁彦や色川大吉にお願いしたい。あなたたちが、バーガミニの本を偽書扱いするならば、それは認めよう。私はあなたたち以上に彼の本の中の記述の間違いを発見できる。ならばあの“某中佐”が登場する場面を、どうか偽書であるとどうか証明してほしい。あなたがたの本の中に、一字たりとも某中佐は登場しないのだから。重箱の隅をほじくるような真似をやめて、堂々と“某中佐”の存在について書かれよ。その勇気があれば、日本の近現代史を大きく転回する契機の一つとなりうるであろう。』 ◎秦郁彦も天皇に対する”幻想”を持っていない。彼は田布施村に生い育ち、長じて確信犯の歴史家になったのである。その秦が狙い撃ちにしたバーガミニは、日本近現代史に対する自身のアプローチを次のように明らかにしている。
『私は、天皇裕仁の行為と、後年彼についていわれている言葉との間には大きな懸隔がある、という結論を得た。私は史料の記録を読んで取ったノートを読み返し、考察し直して、第二次世界大戦以降に提示された日本現代史は、戦争末期に、一部は参謀本部の逆情報活動専門家たちによって、一部は行為の侍従たちによってつくられた、巧みに仕組まれた虚構である、と確信するに至ったのである。』 かくのごとく真摯なバーガミニを秦郁郁彦はまんまと嵌めたのである。秦のケースと異なり、G2のゴードン・プランゲと千早正隆の協力関係の場合は断然うまくいった。プランゲは千早と共に山本五十六のプロパガンダ本の決定版を作成した後は、アメリカにごっそり資料を持ち帰りゾルゲのプロパガンダ決定版も書いている。省庁に潜入している逆情報活動工作員は秦や千早のほかにもウジャウジャいるだろう。
再び鬼塚氏の前掲書抜粋の続き。
『私はこの惨殺事件(注 某中佐による8・15偽装クーデターでは、リアル感を出すために森近衛師団長を惨殺した)を調べてきて、ひとつ気になることがあった。それは井田正孝中佐である、彼は後に岩田姓を名乗る。塚本憲兵大佐が戦後電通に入社すると、磐田は電通に迎えられる。1965年、塚本は「社長室長」になり、岩田は「総務課長」になる。後に二人は電通社内で出世していく。』
『「日本のいちばん長い日」は一面、日本憲兵隊の物語である。塚本と井田(後の岩田)は、あの日の演出家から大きな役割をふりあてられていた。その二人は、戦後も、その演出家の庇護のもとで、日本最大の広告代理店・電通の力を最大限に駆使して、この「日本のいちばん長い日」の物語が大宅本の範囲を超えないように、絶えず監視の目を光らせていたのではなかったか、と思うようになったのである。』
◎「日本のいちばん長い日」とは、8・15宮城クーデターを描いた一群の本の題名である。半藤一利が決定版と言われるものを書いている。鬼塚氏によると半藤一利はクーデターに疑問を投げ返かける本が出た後、『都合のいいように、読者には分からないように文章を巧みに入れ替えて、ついに決定版とする』。鬼塚氏は半藤一利が近衛師団兵たちの真情を斬って捨てている態度に怒りを示している。半藤一利の歴史観は田布施村王朝のプロパガンダの域を半歩も出ようとしない。ヤラセに利用された近衛兵たちの気持ちを理解しようとしない。いやできない。『半藤一利にはまことに申し訳ないが、あなたの書く文章は全編、この調子である。そこには“情”の一片さえない。私はこれ以上の評をしない。』と。
私は半藤一利という作家は何の苦悩も葛藤もなく近現代史を書いている人だと思う。そこにはただお気楽さがあるだけである。山本五十六の「述志」が発見されたという触れ込みで、半藤一利と保坂正康の対談が載せられている。この二人が語る五十六の「述志」は、田布施村王朝のプロパガンダそのものである。私は「述志」の真贋自体を疑っている。
半藤一利監修・原作による「山本五十六60年目の真実」という映画も観たが、陳腐なだけでどこにも『60年目の真実』などなかった。ただ役所広司が入魂の凄い演技をしていたのでもったいないと思っただけだ。事実関係で間違いがあることにも気が付いた。例えば五十六の傍を片時も離れずに世話をしていた渡辺安次参謀が、なぜか三宅義勇(みやけよしたけ)参謀になっていた。これは三和義勇の間違いである。おまけに三和義勇が五十六と一緒に撃墜される場面がクライマックスになっていた。三和義勇はマラリアに罹って入院していたので、当日は五十六に同行していない。
確かに三和義勇は五十六の数々の重要なシーンに立ち会っている。だから貴重な歴史の証言者として捉えられている。しかし私は三和義勇は偽証をしていると考えるようになっている。三和義勇は数々の偽証をした後、始末されたと思う。私が三和義勇の偽証を信じて引用したことを訂正してお詫びしなければならないが、詳細は次回以降明らかにしたい。尚、黒島亀人も「わがまま、気まぐれ」から、五十六の偵察に同行しなかった。黒島亀人は三和義勇と組んで偽証している。黒島は戦後、宇垣纏の日記を遺族から借り出し、重要な箇所を破り捨てて証拠を隠滅している。
山本五十六と近衛文麿の名前は、吉田茂と昭和天皇のデス・ノートに記名されていた。その時期は2・26直後で、理由は2・26で松平恒夫に協力したからである。今回は近衛文麿父子に焦点を絞っている。近衛父子と山本五十六の抹殺工作には、類型が見られるからだ。二つの抹殺工作は、周囲全員が共犯して行われた。では引き続き近衛父子のケースを見ていこう。
鬼塚氏は近衛文麿が暗殺されたことを、次のように示唆している。
『松本重治が神戸一中の五年生のとき白洲次郎は二年生。神戸一中の同窓生である。松本は同盟通信で有末精三中将のアメリカ向け謀略放送の仕事に専念していた。その松本を吉田茂の依頼で終戦連絡事務局に誘ったのが白洲次郎である。二人はもっぱら民生局長ホイトニー(マッカーサー司令部のナンバー2)と交渉した。従って、あの日本赤十字社の「原爆被害者見殺し宣言」も、彼らの交渉の結果に他ならないのである。どうして、謀略放送を流し続けた松本重治がアメリカの代理人となって、近衛元首相を自殺(?)に追い込む役割を演じたかも、この一件の中に見えてくる。』(鬼塚英昭氏『昭和天皇は知っていた原爆の秘密 国内編』成甲書房より) ◎松本重治と牛場友彦は近衛文麿に自殺を強要した。彼らは近衛を2時間あまり脅し、服毒自殺を迫った。しかし近衛は頑として拒否したため、吉田茂の暗殺工作部隊が薬殺した。白洲次郎が松本に持参させた青酸カリは、牛場友彦が犯行現場を細工するために使われた。青酸カリの小瓶をコーヒーカップの中に入れた。それで近衛の長女明子は、父親がコーヒーの中に青酸カリを入れて飲んだと信じた。吉田茂とウイロビーが組んでいたので、現場検証はおざなりで済ませられた。家族を除いて全員が共犯者だったので問題はなかった。 近衛文麿抹殺工作が秒読み段階に入った昭和20年10月22日の前後の事情を見ていこう。近衛は田布施王朝を完全否定する新憲法起草案を奉答、同日栄爵拝辞してルビコン川を渡った。吉田茂と昭和天皇は東京裁判を待たずに殺害を決意する。まず吉田はマスコミを使って近衛を追い詰める世論操作をする。朝日新聞とNHKを組ませ、近衛に戦争責任を帰し、激しい人格攻撃を加えさせる。
朝日新聞昭和20年10月27日社説『近衛公ついに栄爵拝辞』より以下抜粋。
『自ら常に問題を蒔き、世間からも終始問題にせられていた近衛文麿公もついに栄爵を拝辞するの決意を表明した。さきに総理大臣の前官待遇を拝辞した事実に接した時その態度があまりに小出し的な責任逃れの観があるというので、国民の中にはその良心の健在を疑った向きもあった。ことに日本人として軽々しく口にすべからざる天皇御退位の問題を無考えに内外の新聞に公表して見たり、これを取り消して見たりする癖のあるのは、心ある人々をして困ったものだと思わせるに十分なものがあったといってよかろう。』
『マッカーサー元帥の勧めであるとか、陛下の思し召しによるとかいうのは、今の場合、確かに一つの根拠になり得るには相違ない。しかし国民の真情は、むしろ最高指揮官や至尊からいかなる事柄が洩らされたという点よりは、夫子ら自身が過去に対する責任をどう取るつもりかという点に集中せられているのである。換言すれば、外からの声、上からの声に対してどう振舞うかというよりは、自己内心の声をいかに忠実に聞くか、自らの政治的良心をいかに素直に働かせ、そしていかに道義的行動に出るかを国民は固唾を呑んで見守っているのである。』
『支那事変への責任、三国同盟への責任、そしてまた大東亜戦争への責任等々どれ一つとって見ても、若しあの時、近公にして今一段の勇断ありせばの嘆きを抱くものひとり吾人のみに限らないであろう。』
『しかしながら、社会的進化は、絶えず並々ならぬ犠牲を必要とすることを思えば、外よりこの犠牲を求められるに先立って、自発的にこれを提供する場合の歴史的意義こそ一層大きい事実の前に何人も頭を下げねばならないのである。犠牲は避けがたいが、それは務めて最小限に止められるべきであり、それがためには、各自が自発的に、迅速に棄つるべきものを棄つるべきである。明治維新の先ジュウが何よりもこのことを証明している。』
以上抜粋。 『ことに日本人として軽々しく口にすべからざる天皇御退位の問題を無考えに・・・』という箇所は、朝日の編集主幹にこれを書かせた吉田茂の本音が良く表れている。吉田茂は昭和天皇を掌中の玉と操ってこそ、権力の頂点を狙えるのである。
退位は東大総長南原繁も勧めていた。昭和天皇のために命がけで高木八束らと終戦工作に尽力した後、南原は次のような意味の講話をした。今次大戦の道徳的倫理的な責任は天皇にある。それは天皇自身が一番痛感しているはずだ。だから退位した方が気持ちが安んじるだろう。天皇は日本の道徳の体現者である。天皇が退位してこそ我が国の倫理道徳は廃れない。吉田茂は南原繁を『曲学阿民』として唾棄した。正しく『曲学阿世』と言えなかったのだ。孫の麻生太郎も踏襲を『フシュウ』と言った。
それにしても朝日新聞のオトボケはたいしたものだ。自分たちこそ戦争を鼓舞し煽っていた当事者である。いったい戦時中に何を書いていたのか、朝日新聞こそ『自己内心の声を忠実に』聞いて見たらどうなのだ。最後の部分などは、田布施王朝の走狗そのものである。こういうのが朝日新聞の真骨頂なのだろう。
生き残った国民はすでに夫や息子の命を棄てさせられている。彼らは疲弊し飢餓線上にある。それをさらに速やかに棄つるべきを棄てろという。兵役を忌避しフルコースを食べている連中の手先が言いそうなことである。
1946年5月12日、『米よこせ世田谷区民大会』の諸団体が天皇の居城に向った。栄養失調の母親、赤ん坊、子ども、老人も加わっていた。「今や我々は餓えている。昨日も今日もこの瞬間も我々の兄弟はバタバタと栄養失調で倒れている。生き抜かんとする人民大衆はいまや暴動化の一歩手前にある。宮城内の隠匿米を開放せよ」
「諸君、日本歴史はじまって以来、 初めてこの門の中へ俺たち人民の赤旗が進むのだ。俺たちは貧乏人だ。だが秩序正しく、ガッチリ腕を組んで、 胸を高く張って、堂々と行進しようではないか」
「天皇よ、あなたがあなたの言う通り、本当に我々人民大衆と信頼の絆でつながっているなら、聴けわれら人民の声を。」
人民大衆は緊急動議を発令した、「天皇の台所を見せてもらいたい」。宮廷官吏「いくら何でも天皇のはヤバいから、皇族のでいいにしてくれ」。ということで民草は、皇族用の台所と冷蔵庫を見学させてもらうことになった。
当時人民大衆は皇族から民草と呼ばれていた。戦後ずいぶん経っても、三笠宮ェ仁は民草と呼称していた。その民草が皇族用の冷蔵庫を開けると、ブリ、ヒラメ、鯛などの高級魚と牛肉が詰まっていた。食べたことはおろか、姿さえ拝んだことのない高級食材に民草は圧倒された。しかも傍らにある皇族用のゴミ箱には、何と大量の残飯があふれているではないか。だが民草を決定的に打ちのめしたのは、皇族用献立評を見つけてしまったことだった。
皇族用献立表
○お通しもの 平貝 キウリ 海苔 酢の物 ○おでん 種物 マグロ ハンペン ツミレ 大根 わさび ○さしみ マグロ ○からあげ ヒラメ ○御煮付け 竹の子 ふき みそおでん ねぎ さといも ○他二品 さらに毎日千葉県三里塚の牧場から、
○バター45貫 ○豚2頭 ○卵1200個 ○鶏40羽 ○牛肉・牛乳 が届けられていた。 当時、民草は二合一杓の配給米さえ遅配されていたのである・・・。
実はこの『米よこせ世田谷区民デモ』には、裏がある。信じがたいことだが、昭和天皇の策略だったのだ。区民デモのリーダーたちを抱き込んで皇居に突入させ、皇族の冷蔵庫を見させ、皇族たちに注目を集めさせる。それによってごく潰しの皇族たちを整理する。という一石二鳥の作戦である。昭和天皇の脳みそは常時謀略のためにフル回転している。
民草よ想起せよ。父、息子、夫、兄弟の命が、赤紙一枚で使い捨てにされていたことを。少年航空兵がトンボ(練習機)で沖縄の空に飛び立って行ったあの時期、皇太子明仁は軍服も着ないで疎開先の那須でテニスやスキーに興じていた。敗戦のシナリオは予め決定済みである。だから民草は使い捨てにされ、皇太子は無傷で温存されたのだ。
優秀な学徒兵たちにも爆弾を抱えさせ、人間兵器に仕立てて大量殺戮した。田布施村王朝の将来の敵になるかもしれない奴らである。始末しておくに如くはない。第二総軍の頭上に原爆を投下させたのもその事例の一つだ。日米戦争は優秀な民草の種を絶やす絶好の機会なのだ。
今も昔も田布施王朝の敵は日本国民である。田布施王朝はGHQの諜報部を自在に駆使して旧右旋回を謀った。G2のウイロビーの元には、旧右旋回のための旧日本軍参謀たちが集結している。河辺虎四郎(陸軍中将・対ソ戦エキスパート)、辰巳栄一(陸軍中将・吉田のロンドン大使時代以来のコネクション)、下村定(陸軍大臣)、有末精三(陸軍中将・情報畑)、芳仲和太郎(陸軍中将・海外)。吉田茂は辰巳を通じてウイロビーと共謀していた。
辰巳はかの有名なパケナム邸の『夕食会』にも出席している。ニューズ・ウイークの東京支局長パケナムが、ジョン・フォスター・ダレスを主客に、宮中のスポークスマン松平康昌を招いて開いたものである。朝鮮戦争のヤラセを直後に控えた状況で、日本の再軍備が検討されたのだ。この『夕食会』に辰巳が参加しているのである。
ニューズ・ウイーク編集局長ハリー・カーンを通じて、パケナムに『夕食会』を開かせたのはアヴェレル・ハリマンである。吉田はマッカーサーをバイパスして『高度の政治的決定』を仰ぐことが出来た。昭和天皇も松平康昌を通して、ダレスと直接交渉するようになる。御用掛・寺崎英成に託して口頭メッセージを送る。『主権を残すというフィクションのもとに長期に渡って沖縄を占領してほしい』有名な沖縄メッセージである。天皇のこれ以上はないくらい好意的な戦略的メッセージを受けて、米国務省の政策課長は感激した。ジョージ・F・ケナン、冷戦を演出したハリマンの使い走りである。
マッカーサーはこれら『高度の政治的決定』に従う立場にある。近衛文麿はマッカーサーから憲法作成を依頼されていたが、依頼は無かったことになり、戦犯パージを受けた。当時、戦犯を検察局に密告するルートは2つあった。昭和天皇のルートと吉田茂のルートである。昭和天皇による密告は、御用掛・寺崎英成を通じて行われた。
寺崎は国際検察局課長のロイ・モーガンとは旧知の仲である。寺崎が駐米大使館員だった時に、モーガンはFBI捜査課長時代だった。寺崎英成はFBIにも内通していた二重スパイである。日米開戦前夜、寺崎英成の送別の酒宴が設けられ深更にまで及んだ。翌日の出勤が大幅に遅れた奥村勝三は、東京から送られてくる電文を、同僚の助けを拒んで一人で人差し指一本を使って雨だれ式にポツポツ打った。奥村が全てをタイプし終わって野村大使に手渡したころ、大日本帝国連合艦隊は真珠湾をほしいままに蹂躙している真っ最中だった。昭和天皇は真珠湾攻撃騙し討ちの功労者寺崎英成と奥村勝三を嘉し、戦後マッカーサー対談の通訳としてリサイクル活用した。
俗に『東京裁判史観』なるプロパガンダ用語がある。東京裁判は『勝者による復讐裁判』であり戦犯は復讐の犠牲にされたのだという史観である。実のところ東京裁判は、田布施王朝が存続するために催された裁判ショーである。そのために市ヶ谷陸軍省は大改修され、ヤラセにふさわしい舞台に生まれ変わった。昭和天皇と吉田茂が『高度の政治的決定』者の承認を得て、キャステイングを担当した。
マッカーサーはもちろん、裁判長にも検察官にも権限はなかった。頑強に逆らっていたウエッブ裁判長は、本国に呼ばれてお説教された。キーナン検事長は素直にヤラセに協力した。東条が開戦に至る真相を話し始めると急遽裁判を中止し、田中隆吉と松平康昌を使者に立て、巣鴨にぶち込まれている木戸に東条を説得させた。再開された法廷で東条は前言を撤回し、昭和天皇と戦争は無関係であると偽証した。
かくのごとく東条は昭和天皇命の単細胞だったが、近衛は決定的に違った。近衛は五摂家の筆頭の家系に生まれついたというだけでなく、すでに少年期に父・篤麿から田布施村王朝の秘密を知らされていた。五摂家も始祖である藤原鎌足までさかのぼれば、同じような怪しい素性なのである。近衛文麿は青年のころから栄爵拝辞を考え、明治天皇の拝謁を拒絶した。
後年、政治の表舞台に引きずり出され内閣首班になってからも、直立不動で硬直し上奏する臣民の中にあって、ひとり近衛だけはゆったりとイスにすわり、その長い足を組んで天皇と対等に話した。彼は田布施村王朝の天敵である。昭和天皇は戦前にも天敵近衛の暗殺を試みている。辻政信を通じて児玉誉士夫に近衛爆破命令を下した。児玉は近衛を殺すのが偲びなかったので未遂に終わった。
近衛文麿は文隆をソ連に抑留され、自身は戦犯に指名されいよいよ覚悟を決めた。彼は真実を話すと明言した。出廷したら本当に真実を話しただろう。近衛はすでに10月22日、田布施王朝を完全否定する新憲法を奉答、同時に栄爵拝辞し敢然と戦闘状態に入っている。近衛が命運を賭して奉答した近衛改憲草案とは、どのようなものだったのか。
近衛忠大『近衛家の太平洋戦争』NHK「真珠湾への道」取材班より以下抜粋する。
『肝心の近衛案は新聞に報道されるなどしたものの、その後は行方不明となってしまった。それが1961年になって内閣官房参事官室の金庫から偶然発見された。佐藤達夫氏が内容を確認し、初めて近衛案の全貌が明らかになった。近衛案は奉答された後に幣原首相に「お下げ渡し」され、やがて封筒に密封されて金庫の奥にしまわれてそまったのだった。幣原首相は当然ながらこの近衛案を見て検討しただろう。しかし、結局のところ近衛案は幣原内閣の改憲草案にはほとんど影響を与えなかったといわれているから、金庫の奥に「お蔵入り」という「冷遇」もうなずかれよう。』 幣原喜重郎はさぞかし仰天して、直ちに吉田茂と昭和天皇に報告しただろう。しかし金庫なんぞに後生大事にしまいこんで、焼却しなかったのはくれぐれも迂闊であった。近衛が何をしようとしていたかの歴然とした証拠を白日のもとに晒してしまった。
○天皇の統治権行使は万民の翼賛に依る。 ○天皇大権を制限する。 ○議会は自らの解散提議権を持つ。 ○緊急命令は事前に憲法事項審議会にかける ○宣戦、講和、条約締結には議会か、緊急の場合は憲法事項審議会にかける。 ○他の大権事項も議会の協賛を必要とする。 ○軍の統帥及び編成も国務に属する。 ○臣民の自由を尊重する。 ○非常大権(戒厳宣告)の削除を考究する。 ○国務大臣の地位を明確化し、議会も天皇同様国務大臣の責任を問う。 ○議会の予算審議権を尊重する。 ○皇室経費も議会の権限とする。 ○予算審議権の衆議院優位。 ○改憲発議は議会もできる。国民投票も考究する。 近衛が振り捨てた栄爵は、田布施村王朝の瞞着の象徴である。田布施王朝の栄爵は、版籍奉還と廃藩置県で従来の公家・諸侯を廃止して公家と武家の区別をなくし、まとめて華族とした上で与えられたものである。田布施村王朝はここに身内や仲間をすべり込ませ、彼らにも公・侯・伯・子・男の爵位を授けた。白洲正子が伯爵令嬢である仕掛けはここにある。明治維新とともにウンカのように湧いて出てきた皇族も似たようなものである。 『侯爵の地位や華族制度そのものにまで疑問を投げかけるようになった近衛は、栄爵を拝辞して哲学を本気で専攻し、学者になろうと考えたりもしていた。とりわけ周囲を困惑させたのは、宮中に対して彼が率直になれなかったところだった。 それは明治43年7月8日のことである。明治天皇が本郷の前田家へ行幸する運びとなった。前田家では光栄のきわみであり、送迎には前田家だけでなく姻戚関係にある近衛家としても参列するのが礼儀だった。近衛の実母、継母ともに前田家の出である。兄弟たちは皆揃って行ったが近衛だけは行かなかった。遅れて十日、同じく皇后の行啓があったが、これにも参列しなかった。 さらに翌年44年10月20日、この日近衛は20歳を迎え天皇から杯を賜り、従五位に叙せられることになっていた。当然、宮中に参内しなければならない。彼は何日か前から日光へ行っており、帰郷するよう催促を受け前日東京へ帰った。しかし、馬鹿馬鹿しいと考えたか近衛は遂に参内しなかった。』(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』より) 工藤美代子の前掲書には、近衛文麿の父・篤麿の臨終の模様も詳しく書かれている。篤麿は牛や馬にしか存在しない菌によって体中に腫物ができ、手術で切り刻まれた末、『心臓麻痺』で急死している。享年41才。日露戦争開戦の40日前のことである。この篤麿の急死には西園寺公望が関与していると私は考えている。
鬼塚英昭氏によると、西園寺公は若いころフランスに遊学していた時、女関係のゴタゴタでヒドイ目に合わされ、それを脅しのタネにされてコンプラドールになったようである。西園寺公望は田布施村王朝の協賛メンバーでもある。近衛文麿を政界に引きずり出す役目を仰せつかった西園寺は、しかし悪人になりきれなかったのだろう。暴走する日本を憂いた西園寺は、日米開戦前夜に排除されている。西園寺暗殺には養子の八郎が関与していると思われる。
近衛篤麿、文麿、文隆も抹殺されねばならなかった。文麿はそのために首相に担ぎ出され、文隆には尾崎秀実とゾルゲが近づけられた。近衛内閣発足の一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発したのは偶然ではない。最初から近衛を日中戦争の泥沼の中に放り込む筋書きである。息子の文隆多も、首相秘書官を務めたにもかかわらず異例の召集を受けた。しかも予備役に編入された直後に、またも臨時招集という理由で呼び戻された。文隆を敗戦まで満州にくぎ付けにし、ソ連に抑留させるためである。
昭和天皇は文隆を罠にかけるためには、義理の姪を利用することさえ辞さなかった。天皇の命令で皇后良子(ながこ)の姪・大谷正子と文隆は見合い結婚する。これは天皇命令であったあろう。媒酌人を務めたは木戸幸一は、文隆と正子の結婚式が挙げられた満州くんだりまで出かけている。父親である近衛文麿は、多忙を理由に欠席している。サイパンが陥落し敗戦色濃厚な時期、正子は満州とソ連との国境の近くに赴き、文隆と短いが幸福な新婚生活を送ったのだ。この正子のひたむきな思いが、文隆を陥れる罠として使われるのである。敗戦の混乱状況に正子を囮に使って、文隆を捕まえたのである。ソ連に抑留された文隆は、近衛上奏文の反共的な内容のせいで禁固25年を言い渡される。
『近衛上奏文』の仕掛け人は吉田茂である。吉田は近衛に上奏させるために、歴代首相をダシに使って参内の機会をつくった。『近衛上奏文』は徹頭徹尾、田布施村王朝の存続のテーマで貫かれている。全文これ昭和天皇と吉田茂のシナリオを反映したものである。田布施村王朝の真実を告げようとしていた近衛が、こんなアホくさい上奏をすることは絶対にない。世上『近衛上奏文』として伝えられるものは、改竄された資料である。昭和天皇や現場証言者のセリフも全て偽証である。近衛文麿の女婿であり秘書である細川護貞さえ、偽証に協力している。彼の日記にも記載された“近衛直筆による上奏文の写し”というのはガセだ。おそらく本物はどこかに保存されている。近いうちに必ず出てくるだろう。
吉田茂と昭和天皇に追い詰められた近衛は、『僕は運命の子だよ』と通隆に呟いた。私は近衛文麿は『藁の女』だと思う。近衛は『藁の女』という推理小説の主人公と同じ運命をたどった。破滅に至る罠を予め仕掛けられた上で、完全犯罪に利用されたのだ。吉田茂と昭和天皇が仕組んだ完全犯罪である。
近衛文隆は塁が及ばないように家族に何も知らせていないから、家族は松本と牛場を信頼して後事を託した。近衛は松本と牛場が来た時点で覚悟を決めただろう。親孝行をろくにしなかったことを詫びた通隆に、「親孝行っていったい何だい?」とそっけなく問い返している。お前の親はもうすぐ殺される。お前の兄も生きては帰ってこない。親孝行っていったい何だい?
一人になった近衛に、松本が青酸カリを服毒するよう強要した。しかし近衛は拒んだ。そこで吉田茂の秘密工作部隊の登場である。松本と牛場の手引きにより家屋に浸入して待機していた彼らは、抵抗する近衛を取り押さえ静脈注射をして薬殺した。近衛の死に顔は安らかだったと松本が回想している。『自殺しようとする人間の隣の部屋で寝たのは、後にも先にもあれがたった一度きりだった。死に顔が安らかなのが何よりだった』と。
GHQはろくな検死もせず、青酸カリ服毒自殺だと認定した。服毒自殺の状況証拠を捏造するために、松本以下共犯者全員が口裏を合わせた。後藤隆之助は近衛内閣の書記官長だった人物である。山本有三は『路傍の石』を書いた作家である。両者とも近衛とは一高以来の友人である。この二人が近衛暗殺のスタンド・プレーヤーを演じたのだ。近衛文麿は孤独だっただろう。
松本重治は晩年になるにつれ、偽証をくり返し聞き書きさせている。死んだ後の自己保身も忘れないセコイ奴だった。往々にして犯人は凶器の入手経路から割り出されるという。だから松本はしつこいくらい青酸カリの入手経路を脚色している。また犯人は犯行現場に戻るというのが通説らしい。なるほど吉田茂は家人に頼んで近衛の寝室に宿泊している。吉田はさぞかし満足感にひたって眠りについたことだろう。
白洲次郎は文隆の抹殺工作にも暗躍した。白洲次郎はOSSのジュームズ・ウオーバーグと秘密のルートを持っていた。ジミー(ジェイムズ)・ウオーバーグはポール・ウオーバーグの長男。白洲次郎はポールの長兄アビーの庶子。ジミーと次郎は従兄弟同士である。(ただし白洲はアビーが父親であることまでは分らなかったと思われる。弟たちは長兄アビーを、フロイトの怪しげな薬物投与で早死にさせているようだ)
白洲次郎は英米の諜報機関と深い関係にある。渡英の際はニューヨークにしばしば出没している。文隆はプリンストン大学留学時代にニューヨークに足を伸ばして遊んでいたが、しばしば白洲次郎が出没していたこと、いかがわしいユダヤ人ジャーナリストたちが出入りする酒場に自分を誘ったこと、そこで共産スパイの未亡人とFBIの間諜に近づきになったことなどを、ソ連抑留時代に周囲の者にせがまれて語っている。白洲次郎が英米の諜報機関と深く繋がる人物であること、ニューヨーク時代から文隆にまとわりついていたことが分かる。
白洲次郎は吉田茂に命じられて、御前会議クラスの国家機密情報をジミー・ウオーバーグに流していたが、ケンブリッジ時代に次郎を取りこんだのは、ウオーバーグ本家のジークムントである。ジークムントは生涯にわたって、次郎と個人的親交を結んだと言われている。ジークムント・ウオーバーグは、スイスに所有している製薬会社にLSDを製造させ、ジミー・ウオーバーグはLSDを使ったマインド・コントロールをプログラミングした。OSSの後身CIAで実験されていた悪名高きMKウルトラである。白洲次郎はジークムントに取り込まれる際、このMKウルトラを受けていた可能性が高い。
自殺者や廃人が続出したMKウルトラを作成したジミーは、タビストック研究所にも資金提供しフロイトの理念を実践させた。(アビーはフロイトの治療を受けているがどうも実験台にされたようだ)このジミーの父親が、ポール・ウオーバーグ。ポールはドイツ諜報機関のトップとしてアメリカに渡りFRBを創設した。これは何を意味するのか。英米諜報機関は、ドイツ諜報機関の支配下にあるということではないのか。
OSSはルーズヴェルト大統領の命令で、ウイリアム・ドノヴァンが創設したことになっているが、実のところアヴェレル・ハリマンが血族のドノヴァンに作らせたものである。ジミーはOSSに入いると、ドノヴァンから可愛がられ特別な任務を与えられた。一方アヴェレルはソ連に利権を開拓し、ジミーはそれにも参入していた。
OSSはソ連情報部にせっせと機密情報を流していた組織である。マッカーサーも、OSSはナチスより危険だと認識している。ジミー・ウオーバーグはそういうOSSを体現する人物である。経済活動においても諜報活動おいても、ポールの血筋を引いた一流のやり手なのだ。白洲次郎はこういう男とパイプを持っていたのである。ソ連に抑留された近衛文隆の命は風前のともし火であった。
吉田茂は近衛文麿抹殺を完了すると、息子の方はゆっくり料理することにした。父子が連続して死んでは不審を抱く向きもあるだろう。文隆をじわじわと虐待した。文隆は白洲や松本と違って徴兵を忌避せず、1940年から敗戦まで兵役を務めた男だ。生かしておいては親父の復讐をすることは必定である。吉田茂が政権にある間、文隆は収容所をたらい回しされていた。文隆ほど引きずり回された人物は他にいないという。11年後、吉田は鳩山一郎が政権を取りソ連との国交回復調印に松本重治を同行させ、文隆の始末してくるよう命じた。松本重治は近衛父子抹殺に立ち会った重要参考人物である。
山本五十六と近衛父子抹殺工作の総指揮を執った吉田茂は、伊藤博文の再来である。伊藤博文は、孝明天皇・睦仁父子を抹殺しクーデターを成就させた、田布施王朝の始祖である。貧困のどん底にあった田布施村ゲットーの人々は、解放されるやいなや保守反動に突っ走った。クーデターは山間の不毛な地に押し込められていた彼らを、広大で肥沃な関東平野にある将軍の居城へといざなった。大室虎之祐は千代田城のあまりの広さと豪華さに驚き、歓声を上げて走り回った。彼らは新しいゲットーに日本の粋を集め、これでもかと豪華絢爛な装飾を施した。それはお召列車の過剰装飾にまで及んだ。
ムシロ一枚で外気を防ぐようなどん底の生家に生まれ育った人々は、権力の座に座るとある者は個人財閥となり、ある者は広大な別邸を複数所有した。彼らは広大な大名屋敷をより取り見取りで物色した。それらは華族令によって伯爵邸や男爵邸と呼ばれるようになった。そして彼らは食い詰めた武士や元旗本の見目良い娘たちを、千代田城に連れてきて慰み者にした。
大室寅之祐の息子の大正天皇の妃がここかから誕生した。貞明皇后はこの『千代田遊郭』に騙されて連れて来られ、ひどい目に遭わされて以来、田布施村ゲットーを不倶戴天の敵として憎悪した。彼女は西園寺八郎に無体なことをされたときに悟った。こいつらにとって自分は道具なのだ。もうこいつらをやるか、自分がやられるかそのどちらかしかない。そして彼女は第二の戊辰戦争を画策する。結果、敗れた貞明皇后は、戦後間もなく亡くなっている。昭和天皇のデス・ノートに、『謀反人の朱貞明は戦後に心臓麻痺で急逝する』と書かれていたのである。『朴重徳は秘密財産隠匿工作の後、獄中死』とも書かれていただろう。
『鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田(かせだ)市金峰(きんぽう)町というけれども、ここは昔田布施村といった。小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は状況して小泉又二郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を継いで代議士となった。小泉純也は朝鮮の姓を持つが、この結婚により日本国籍を得た。長州の田布施と薩摩の田布施、直近二台の首相が同じ田布施一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう。』(鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』より)
鬼塚氏によると、鹿児島には田布施村のほかに遺棄された朝鮮の人々の村があるという。苗代川というその村に、東郷重徳は朴茂徳として生まれ、5歳のときから東郷重徳を名乗るようになったという。
『私はどうして終戦時の外相、東郷重徳をここに登場させたのか。その理由は三つある。その一つは、あの明治10年(西南戦争があった)のあわただしさの中で、アーネスト・サトウがパークスの命令とはいえ、朝鮮人の被差別部落の調査報告書を作成しているということである。サトウは日本の国土の中に朝鮮系の人々が多数いて、差別されているのを見た。西南戦争は被差別部落の問題が大きく影を落とした戦いである。 もうひとつは、終戦内閣にどうして東郷重徳が外相として迎えられたか、というのが二つ目の理由である。それは、終戦にあたり、昭和天皇が最も信頼できる人物を内閣に入れたことにある。東郷重徳は、明治天皇=大室寅之祐と同じ出自を持つと考えられたのではなかったか。 さらにもう一つ、東郷重徳を起用した理由がある。それは天皇の財宝を隠ぺいする役を東郷重徳に命じた点にある。天皇はいちばん大事なことをするのに、日本人よりも朝鮮人を信用したといえる。』(鬼塚氏の前掲書より) 鬼塚氏は8月14日〜15日までの内閣を見るとき、大分県出身の大臣や軍人の多さに注意を喚起している。阿南惟幾(陸軍大臣)、梅津美治朗(陸軍参謀総長)、豊田副武(海軍軍令部総長)、重光葵、池田純久らである。大分県の国東半島沿岸部と田布施や曽根が昔から盛んに交流し、その交流の中から血族関係が生まれ田布施ゲットーの底辺を広げていった。 『天皇制を悠久の昔からのものと考えることは出来ない。天皇家と天皇制はひとつにして見るべきではなかろう。天皇制は近代百年の政治的創作で、新しいわれわれと同時代のものである。ある日、総理大臣吉田茂が、突如昔のように天皇に対して臣茂と言いはじめ、人びとを驚かしたが、昭和のはじめ、わたしの子どもの頃には、昼間の銭湯には、伊藤博文がはじめて臣博文とやらかした時のことを、覚えている老人たちが集まっていた。禁裡様から天子様、天皇陛下へ移り変わったことをかれらは知っていて、天皇ファンが多かったが、大した出世をしたものよ、と感心されてもいた。一代の成り上がり者明治天皇を偉いとほめ、皇子の大正天皇の精神異常のエピソードをさまざまに公言する老人たちの寄合は、数年後にはもう銭湯からも姿を消した。安政・万延・文久生まれが急速にいなくなったからである』(益田勝美『天皇史の一面』を鬼塚氏の前掲書より孫引き) 貞明皇后は田布施ゲットーが苦心して創作した体制を、本気でぶっ壊そうとした最悪の強敵である。2・26は貞明皇后が導火線を引き発火させた。彼女は最愛の息子秩父宮に、田布施ゲットーに滅ぼされた会津藩主の孫娘・松平勢津子(本名は貞明と同じ節子)を娶わせた。これで松平容保の四男・松平恒雄が秩父宮の岳父になった。そうして貞明皇后は松平恒雄に辰戦争の雪辱戦を開始させたのである。これに山本五十六と近衛文麿が陰で支援していた。 しかし肝心の秩父宮が途中でビビって昭和天皇側に寝返った。行き場を失った青年将校たちに、秩父宮は使者を遣わして「こうなった以上は、お前たちは死に方をきれいにしろ」と命じさせた。貞明皇后の血を分けた3人の息子たちはそろって意気地なしの小者である。彼らは束になってかかっても昭和天皇に太刀打ちできない。昭和天皇は田布施ゲットーが生んだ空前絶後の怪物である。吉田茂はこの怪物を掌中の玉として操った化け物である。
1919年パリ平和会議は、吉田茂と近衛文麿の運命の岐路であった。アメリカ全権大使のハウス大佐の傍らにはグルー特命大使もいた。ハウス大佐はシナリオの主役を選出する権利を持つ人間である。
『12才のときにエドワード・マンデル・ハウスは脊椎髄膜炎に冒され、のちにはさらに熱射病で不具になった。彼は半病人となり、病気は彼を風変わりな東洋人のような風貌にしてしまった。どのような職業にも就かなかったが、父の資金を使ってテキサス政界の黒幕となり、1893年から1911年までのあいだに5人の知事を当選させることに成功した。1911年、ハウスはウイルソンを支援しはじめ、大統領候補の指名権を確実なものとするために決定的なテキサスの代議員団を彼へと投入した。ホワイトハウスへ行きウイルソンに会って3万5000ドル渡した、とハウスはヴィーレック(『歴史に残るもっとも奇妙な関係−ウッドロー・ウイルソンとハウス大佐』の著書)に語った。この金額は、バーナード・バルークがウイルソンに5万ドルを与えるまで超えられることはなかった。』(ユースタス・マリンズ『民間が所有する中央銀行』より)
このようなハウス大佐は、実はポール・ウオーバーグの代理人であった。 『1912年12月19日、私は通過改革にかんしてポール・ウオーバーグと電話で話をした。私はワシントンへ旅行し、そこで作業手順を整えるために行ったことを話した。上院議員と下院議員はウオーバーグが希望することを行うのを切望しているように見え、当選した大統領ウイルソンはその問題にかんして変更なしに行うことを考えているようだと、私はウオーバーに伝えた。』(マリンズ氏の前掲書の中に引用されている『ハウス大佐の親書』より)
太田龍が監訳したユースタス・マリンズの複数の著書を読むと、ポール・ウオーバーグがドイツ諜報機関のトップとしてFRBを創設し、そのFRBによって必要な時にドルを創造し、世界大戦を創出する主要な役割を果たしていたことが見えてくる。ポールがFRBを創設する以前には、米国の債務はほとんど存在しなかった。ロンドン・シテイ―もFRBが創造した巨額なドル取引によって、初めて国際金融同盟足り得たのである。FRBによって、『アメリカの独立はひっそりと、だがどうにもならない状態で英国の勢力範囲に奪回』された。 ウイルソン大統領が主催した1919年パリ平和会議で、第二次世界大戦のシナリオが検討された。そこにはウイルソンの顧問ハウス大佐と書記官グルーがいた。後の駐日大使ジョセフ・グルーである。ハウス大佐はすでに、若き海軍次官フランクリン・D・ルーズヴェルトを見出している。当時ルーズヴェルトはアポロンのようなスポーツ万能の美青年だった。ハウス大佐は、ルーズヴェルトが小児麻痺に罹患して下半身不随になってから、ニューヨーク州知事にそして大統領へと押し上げる。
ハウス大佐を背後で動かしていたのはウオーバーグである。フーヴァー大統領もポール・ウオーバーグの力で大統領になった。ポールはフーヴァーの選挙資金を賄って政権を取らせると、フーヴァー・モラトリアム(ドイツ債務繰り延べ)を実施させた。世界を動かしていたのはロスチャイルド家の五人兄弟ではなく、ウオーバーグ家の五人兄弟なのかもしれない。世界五人会議もあるいは見せかけかもしれない。20世紀のファウストは表舞台で活躍していたアヴェレル・ハリマンではなく、諜報コネクションを持っていたヴィンセント・アスターかもしれない。
アヴェレル・ハリマンは死後、全ての財産を回収されている。再婚相手のパメラ・ハリマンが回収したのである。彼女はロスチャイルドと組んでいる。アヴェレルとパメラは元不倫関係にあった。ハリマンが第二次世界大戦のヤラセ工作に奔走していた頃、パメラはチャーチルの息子ランドルフの嫁であった。二人の不倫関係は短期日で終わりを告げる。パメラはほどなくランドルフと離婚してフランスに渡り、社交界で華やかな浮名を流したが、ギイ・ド・ロスチャイルドに取り込まれた。
その後30年の時を隔てて高齢のアヴェレルと再婚した彼女は、アヴェレルの死後、財産強奪に成功した。これを幇助したのが、ヒラリー・クリントンである。ヒラリーは駆け出しのころでさえ全米弁護士トップ100人の中に入る精鋭で、ニクソン大統領の弾劾裁判に若手弁護士として選ばれている。強奪に成功したパメラはビル・クリントンのパトロネスとなる。クリントンがウインスロップ・ロックフェラーの落胤であり、ローズ奨学金を受けたバリバリのエージェントであることは周知の通りである。
ハウス大佐の続きに戻る。
『連邦準備制度は、1914年に業務を開始し、連合国に250億ドルの貸付を行うようアメリカ国民に強要した。かなりの利息がニューヨークの銀行家たちに支払われたが、貸付金は返済されなかった。アメリカ国民は狩り立てられ、ドイツ国民と戦争を起したが、われわれにはドイツ国民に対して政治的あるいは経済的に反目する理由がまったく思い及ばなかった。あまつさえ合衆国はドイツ人で構成される世界最大の国家となっていた。また半分近くの市民がドイツ出身であり、わずかな票差でドイツ語を国語とする議案を否決したこともあったのである。』(ユースタス・マリンズ『民間が所有する中央銀行』より)
ポールの操り人形だったハウス大佐は、『半人間』であった。ハウス大佐が操り人形に選んだルーズヴェルトも『半人間』であった。ルーヴェルトが選んだ最側近も『半人間』であった。みんな大病を患い異様な風貌をしていた。ハウス大佐には、日本からも『半人間』を選出する任務があった。
彼は候補者をパリ平和会議に出席させるよう、旧知の仲の牧野伸顕に依頼した。牧野は女婿の吉田茂を随行し、西園寺公望には近衛文麿を随行させるように取り計らった。西園寺公望はずいぶんシブったという。彼はフランスに遊学していた若いころ、女関係の罠に引っかかってヒドイ目に遭わされ、それを脅しのタネに使われてコンプラドールにされた人間である。牧野に説得されてパリ平和会議日本全権として出席したが、会議に出席する以外はホテルから一歩も出なかったという。当時の情景が頭の中でフラッシュバックしていたのかも知れない。さぞかし怖かっただろう。
さてハウス大佐はパリで近衛文麿と吉田茂を面通しした。そして1930年代、再度アメリカで両人と面談し再確認している。『半人間』の資質を持ち合わせているのは吉田茂であると。吉田茂は『半人間』どころか人非人であった。
『外務省の裏街道に追いやられていた吉田は、ここに来て表舞台への飛躍を画策した。パリ講和会議が間もなく開催され、牧野伸顕と西園寺公望の名が全権大使として取りざたされている情報を知った彼は、岳父の力を借りてでも外交の表舞台に立つ腹を決めた。雪子と結婚してから岳父の牧野に一度たりとも猟官運動のようなことをしたためしはなかった。寺内首相からの秘書官の誘いをも蹴った男だ。それが吉田の意地でもあったし、自負でもあった。だが、ここにきてはじめたこうした内容の手紙を書こうとした心境を自分で書き残している。
「パリ会議と聞いては、たとえ外交官の末端とはいいながら、これに列席し得るのは、千載一遇の好機ともいうべきであるから、さすがの私もこの時は猟官運動をせざるを得なかったのである」(「回想十年」第四巻) パリ講和会議のメンバーを眺めれば、いかにその後の日本外交の主軸を揃えて臨んでいたかがよく分る。このパリで吉田と近衛はなじめての挨拶を交わした。タフなネゴシエーターとしてアメリカ側の若き随行員だったジョン・フォスター・ダレスと顔を合わせたことが、吉田の最大の収穫となったかもしれない。吉田はまもなく41歳、ダレスは31歳であった。』(工藤美代子『カクヤクたる反骨 吉田茂』より) ハウス大佐のお眼鏡にかなった吉田茂の元へ、エージェントが送り込まれる。ジョセフ・グルー駐日大使である。グルーの駐日大使着任は1932年6月6日、ノルマンデイー上陸と同じ6月6日に、モルガン財閥の刺客を日本に上陸させたというシャレなのかもしれない。ザ・オーダーはシナリオの細部にまでこだわり、舞台設定にも手を抜かないという。彼らはマメで凝り性なのである。
果たしてグルーの妻アリスは、黒船に乗って幕末日本に恫喝外交に来たペリー提督の子孫である。彼女はペリー提督の兄の曾孫で、ベンジャミン・フランクリンの直系の子孫でもある。しかも父親トマス・サージャントペリーは慶応義塾の英文学の教授だったので、子どものころ一緒に来日していたアリスは日本語ぺらぺらである。そういう妻を同伴したグルーの日本上陸には、まさにノルマンデイー上陸の観があった。
上陸したグルーに早速接近してきたのが、モルガン商会と懇意な樺山愛輔である。
『天皇謁見が14日に決まると、樺山愛輔伯爵がそれに先立って会いたいとグルーに面会を申し出てきた。深い親交を結ぶことになる二人の最初の出会いである。薩摩の樺山資紀の息子である樺山愛輔は、宮中関係にも通じており、また、グルーの出身地であるボストンを州都とするマサチューセッツ州内陸にある名門アマースト大学で学んで英語も堪能で(注 後のクーリッジ大統領とモルガン商会のラモントは同級生)、アメリカの事情にも通じていた。』(廣部泉『真の日本の友 グルー』ミネルヴァ書房より)
しかしグルーにとって最重要人物は牧野でも樺山でもない。ハウス大佐のお眼鏡にかなった吉田茂である。その吉田は戦後『回想十年』の中で、グルーに『日本の真の友』という賛辞を捧げている。吉田茂とグルーはヤラセのシナリオの『真の友』となったのだ。
『1939年2月末、駐英大使を辞して帰国した吉田茂はたびたびグルーを訪問するようになっていた。日米関係が悪化してから、多くの日本人がグルーを初めとするアメリカ人と一緒にいるのを見られるのを避けるようになっていたが、吉田は、樺山愛輔の娘・正子の夫、白洲次郎とともにグルーを誘ってよくゴルフに出かけた。
吉田茂との付き合いは家族ぐるみとなり、グルーの妻アリスはよく吉田の雪子夫人に誘われて歌舞伎に出かけた。牧野伸顕の長女として生まれた雪子は、父牧野がイタリヤやオールトリア公使時代に同行し、欧米の社交術を学んでおり、また、努力家で英語を初めとする外国語も相当なものであった。グルーは雪子のことを「アリスの日本人で最も親しい友人」と日記にしるしている。』(廣部泉前掲書より) しかしグルーの回想記には、『真の友』としての吉田茂は全削除されている。廣部泉は『日本の真の友』を副題にしながら、その辺の事情には触れない。触れたらプロパガンダが崩壊するからである。廣井泉の後書きには次のようにある。 『本書執筆中に東日本大震災が起きた。日ごとに明らかになる震災の甚大さに呆然としていたとき、グルーの言葉を思い出した。戦中グルーは全米で講演をする際、日本人はどれほど困難な戦争を前にしても「道徳的にも心理的にも経済的にも倒れない」「ベルトの穴を一つきつく締め直して、食事を米一杯から半杯に減らし、最後の最後まで戦うだろう』と日本人の強靭さを訴えつづけていた。むろん、これは戦争における日本人観である。しかし、グルーが見出した日本の強さは、その軍事力や技術力ではなく、日本国民の精神力であった。震災からの復興というとてつもない大きな戦いを前にして、敵国人にもかかわらず「日本の真の友」であった親日家グルーが最後まで信じ続けた日本人の計り知れない底力がいまこそ発揮されることを、我々日本人自身が信じるべき時がきたのだと私は感じている。』 「日本の真の友」を演じ続けたグルーが、その実モルガンのエージェントであり、ヨハンセン・グループとステイムソンの間に立って原爆投下に協力したことを考えると、廣部のこの後書きはブラック・ジョークを超えてもはやシュールである。 副島カルトビジネスの右腕・中田安彦は、自分のブログを利用してプロパガンダ本を宣伝する一方、中田君の見解は岩波文化人には理解できないと言って、岩波をバカにしている。しかし岩波には往々にして掘り出しものがある。グルーの日記の原本と『滞日十年』を比較して、吉田茂の暗躍を検証した素晴らしい本がある。
中村政則『象徴天皇制への道−米国大使グルーとその周辺』岩波新書より以下抜粋。 『序 「滞日十年」の成立事情』 『1979年3月から80年12月まで、私は米国ハーバード大学東アジア研究センターに籍をおき、「1930、40年代のアメリカの対日認識」をテーマに留学生活を送った。研究テー眼の関係からしても当然とはいえ、私はこのグルーの存在には強い関心をよせた。さいわいハーバード大学には稀こう書・貴重資料のコレクションで、世界的にも名高いホートン・ライブラリーがあり、グルー文書もその一つとして所蔵されている。グルー文書は大別すると、日記・手紙・演説・会談・電文類・新聞雑誌切抜き・個人メモ・断簡などに分類・整理されており、個人文書としては第一級の質量を誇っている。なかでもグルー日記と手紙はグルーの日本観、対日政策の特徴などを知るうえで最も貴重な資料であり、これを抜きにしてグルーを語ることはできない。』
前述の廣部泉も東大教養学部を卒業した後、ハーバード大学大学院博士課程を修し、歴史学のPh.D.を取得している。『日本の真の友 グルー』の前書きに、”『滞在十年』に収録されていない箇所については日記原本から訳出した”とはっきり書いてあるように、ハーバード大学で原本に目を通していたお方なのだ。そういう立場にありながら廣部泉はプロパガンダ本を書くことを選択した。廣部泉のグルー評伝は10月20日に第2刷が出版され、最新刊として公共の図書館に並べられている。ネット対策の一環として、田布施王朝のプロパガンダ本が公共図書館を席捲しているのを感ずる。彼らはいよいよは人海作戦に出たもようである。 『グルー文書の中で最も重要な日記と手紙を検討するにあたって、まず注意しなければならないことがある。第一は公刊された”Ten Years in Japan”とその邦訳本『滞日十年』は、グルー日記の原本のすべてをふくむものではなく、その分量は、原本のわずか十分の一にしかすぎないという事実である。約十分の九を、なんらかの事情でグルーは公表しなかったのだ。この点についてグルーは『滞日十年』の序言で次のように書いている。「・・・これは内密な、非公式な日記なので、私は多数の同僚、その他の個人の名前を発表することをさし控えねばならなかった。名前が知られるとそれらの人々が迷惑したり一身上の後累を被るようなことが起こるかもしれないからである」。』 『事実、日記原本と公刊本とを比較すると、グルーが実に多くの事実をスペースの関係で削除したり、あるいは意図的に隠したりしたことがわかる。グルーは何を公表し、何を隠したのか。とまれグルーは、先の序言引用につづけて、「しかし主要な物語は、この種の省略によって損なわれてはいない」と述べているが、それを額面どおりに受け取ることは危険だ。これが、第一に指摘しなければならない点である。第二に、われわれは「滞日十年」の刊行目的と刊行の時期に細心の注意をはらわなければならない。グルー日記を公刊する動きは、グルー帰国後まもなく始まったようだ。グルーは、このころ国務省顧問という公的な地位にあり、国家機密に属する事項をそのままの形で公表することは許されていない。さらに43年7月10日付けのサイモン社あての手紙を見ると、「滞日十年」を出すにあたって、グルーが1ページ1ページ注意深く原稿の削除、訂正をおこなっていることがわかる。』 『1944年1月15日、アメリカ国務省に極東局が設置され、中国派のスタンレー・ホーンベックが局長に就任する。しかし、ホーンベックは三ヶ月半で辞任、かわってグルーが極東局長のポストについた。いまやグルーを先頭とする日本派の発言権は強まり、彼らは国務省の対日政策に大きな影響力を行使するようになった。グルーの最大の関心事は、日本の降伏条件をいかに規定し、それをいかに日本政府に受諾させるかに移っていた。「日本版のために」を引用すると、「1944年合衆国での本書の出版は、二重の目的を持っていた。その一つは、1941年の戦争勃発を導くにいたった日本の趨勢と各方面の進展を明瞭にすることであり、その二は、米国の公衆に日本と日本人のより深く、精しい心象をあたえようと務めたことであった」とグルーは記している。「滞日十年」が出版されると、それは大きな反響をまきおこした。なぜならば、同書は個人日記の範囲を超えて、まさにアメリカの、来るベき対日政策の基本、とくに天皇問題に触れるテーマを提出していたからである。』 『X 穏健派とは何か−牧野伸顕・樺山愛輔・吉田茂−』
『グルーの外交スタイルは、ひとこといってしまえば宮廷外交であった。東京滞在中、彼は日本の著名人をアメリカ大使館での晩餐会に招待したり、逆に、日本人の友人から夕食会や葬儀に呼ばれている。グルー日記に登場するそれらの人々を列記すると、牧野伸顕、樺山愛輔、近衛文麿、松平恒雄、広田弘毅、吉田茂、出渕勝次、幣原喜重郎、重光葵、新渡戸稲造などの名前をあげることができる。そのほかに、三井・住友などの財閥系の指導的実業家や海軍将官がグルーとの接触を保っていた。なかでも重要な情報源は、宮中側近グループであった。彼らはいずれも欧米に留学あるいは勤務した経験があり、品位と威厳をそなえ、謙虚で強要の高い紳士であるというのがグルーの穏健派イメージであった。』
『グルー日記を読むかぎり、彼が穏健派のなかでも最大の信頼を寄せていたのは、牧野伸顕(1861−1949年)であった。「滞日十年」には、牧野に対する賞賛の言葉がしばしば出てくる。グルーは天皇を穏健派の頂点に立つ人物と見ていた。牧野伸顕と並んで、グルーの信頼をかちえていたのは樺山愛輔(1865−1953年)である。当時、樺山はいく人かの日本人にとってあまりにも親米的すぎるといわれ、またアメリカ外交官からは「国際的お愛想屋」とか、「救いようのないおせっかい屋」と評されていたという。グルーは、そんな評判を知っていたが、むしろ黙認していた。樺山はアメリカ大使館にひんぱんに出入りし、グルーのよき情報源となり、また宮中派との接触を仲介したのである。』 『グルーが吉田茂の名前を徹頭徹尾隠そうとしたことはのちに述べるが、樺山もまたグルーにとって秘匿を要する人物であった。なぜなら、樺山は、グルーと宮中派をつなぐ仲介人と自他ともに任じており、事実、機密を要する情報あるいは高度な政治判断をくだすに必要な情報をしばしばグルーのもとに届けていたからである。「滞日十年」には、氏名を伏せて、「完全に信頼すべき情報源」、「著名なる日本の自由主義者」、「私の通報者」が語るところによると・・・と記している箇所がいくつかあるが、それは樺山をさしている場合が少なくない。』 『「樺山伯爵がやってきて、長時間話す。彼は私がアメリカへ発つ前に、現情勢にかんする直接のメッセージを届けるために首相と会ってきたところだった。樺山は国内政治について多くを語り、現在の日本で最も影響力のある人物は西園寺公と牧野伯爵であるといった。そしてこの二人は、他のいかなる先帝よりも穏健な考えの持ち主である現天皇の絶対的な信頼を得ているとも語った。(1935年7月5日付け)」』 『牧野といい、樺山といい、これら宮中派は、終始、天皇=平和主義者というイメージをグルーに植えつけ、穏健派こそが日本政治の安定をもたらす真の政治勢力であり、かつ平和的な日本外交の推進者であると力説した。それにしても牧野、樺山はいずれも高齢であって、グルーはいつまでも彼らに頼るわけにはいかなかった。日本の次の世代を背負う穏健派的人物、彼らとの継続的な接触をグルーは望んだ。その一人が牧野伸顕の女婿、吉田茂(1878−1967年)であった。』 『その頃、吉田は駐伊大使であったが、駐伊大使辞任の意向を持って日本に帰国したばかりであった。初対面以来、吉田はグルーに対して自己を英米派、穏健派の一人として位置づけ、その立場から日本を取り巻く内外情勢を率直に語った。また、日本の政界上層部とグルーとのパイプ約を買って出てもいる。初対面から約二週間後の1932年10月24日の日記に、グルーは早くも樺山愛輔と吉田茂の斡旋で幣原喜重郎と会見することができたと記している。さらに33年9月39日の項には、吉田の仲介でグルーは広田弘毅外相と親密な個人的関係をつくりあげることができたこと、会見の場所は外務省のかわりに広田の私邸をえらぶことにしたと書いている。しかしながら、右の事実は公刊本の「滞日十年」ではいっさい削除されている。グルーは、「吉田は率直に物がいえる数少ない友人の一人」とか「アメリカのよき友人で、私の良き友人」であると書いているが、その背後には右のような内密な情報ルートが設定されていたのであり、やがて吉田の存在はグルーノ日本での外交活動にとって不可欠のものとなっていくのである。』 『グルーが吉田とひんぱんに接触を保っていたのは、1932年10月から36年4月までと、39年1月ころから41年秋までであった。中間の36年から38年末まで、吉田は駐英大使としてロンドンに赴任していた。従って、この期間は、日記原本にも吉田の名前はほとんど出てこない。この全期間をつうじて吉田茂は樺山愛輔らとともにグルーと日本の政界上層部とのパイプ役を演じつづけた。日記原本を読むと、右の二人がグルーにとっていかに重要かつ信頼すべき情報源ないし仲介者となっていたかがわかる。』 『事例1−晩餐会のあとの長時間の談話の中で、吉田は近衛公が元老として西園寺公爵のいあとをつぎ、天皇・政府の緊密な助言者としての地位につくことになろうと語った。今回の近衛の合衆国訪問の主たる目的は、彼がいずれ埋めることになるであろう重要な政治的立場の準備のために、アメリカ的な思考や制度に慣れ親しむことにある、と吉田は私に語った。近衛は”親善使節”として、あるいは日本の宣伝のために行くのではない、自分の勉強のために行くのだ。したがって近衛の合衆国訪問の印象が楽しいものになることは最重要のことになるとも吉田はいって。この話を聞いて、これは政界最上層からの直接のメッセージであり、私が近衛のワシントン訪問の途を開いてあげれば、彼らはよろこぶに違いないと判断した。当然にも、吉田は著名な岳父牧野伯爵の考え方や、時によっては伝言をそれとなく示す。牧野伯は天皇に非常に近い人だ。さっそく、ハル国務長官に一部始終を書き送った。(1934年4月2日付日記)』 『事例2 前駐英大使吉田夫妻と松方翁、白洲次郎氏、ピアソン夫人、マックス・シュミットが晩餐会にやってきた。夕食後、吉田・白洲と、日本に対するアメリカ世論の動向とその理由について長時間話し合った。彼らはこの件をすべて首相(安部信行)に話すようにすすめた。会合の準備は二人がするという。それに対し、私は外務大臣の頭越しにそのようなことをやりたくないが、もし安部首相が望むのなら、もちろん、よろこんで首相に会い、すべてを率直に話すと答えた。さらに吉田と白洲は現内閣の組閣にあたって影響力を行使したとみなされる近衛公との会談をおこなうようすすめた。(1939年10月13日付日記)』 『穏健派』とは何者か。敵対国に国家最高機密情報をせっせと流す行為を、『リベラルな平和主義』と自称する究極の自己チュー集団である。多大な人命の犠牲の上に優雅な生活を送る人非人集団である。あるいは田布施村王朝の権益とそのおこぼれに与ることを最優先するエゴ集団である。シゲちゃんも終生、オールド・リベラリストを自認している。
『穏健派』とは何者か。秘密裡の和平工作と併行してヤラセ工作をしていたマッチ・ポンプ集団である。その中心人物は吉田茂と昭和天皇、日本史上不世出のコンビ、謀略の天才二人組である。
昭和天皇に上奏させたかの有名な近衛上奏文の仕掛け人は吉田茂である。歴代首相の上奏は、近衛に上奏させるためのダシに過ぎない。その後吉田は憲兵に自分を逮捕させ、40日で無罪放免させる。『穏健派』リベラリストという免罪符を自分に与えるためである。 『穏健派』とは何者か。ロンドン・シテイ―に巣食う連中と連携することを、穏健・平和主義・リベラルと称する者たちである。彼らは自分たちを押込め抑圧してきた世界に復讐をしているのだ。彼らにとって田布施王朝は絶対正義である。牧野伸顕は熱涙とともに田布施王朝の正当性を語っている。しかしこの絶対正義には隠さねばならない秘密が多すぎた。その秘密を守らされるために、民草が払った代償はあまりに大きなものであった。もうこの辺で手打ちにしてもらえないだろうか。
最後に近衛の致命的な失策とされる『国民政府を対手とせず』声明について、実際に近衛のために草案を書いていた中山優の説明を添付する。近衛文麿への追悼の文章からの抜粋である。
中山優『近衛家の悲劇』より以下抜粋。
『私が近衛公を間近く見たのは昭和12年の夏の頃、虎ノ門の霞山(かざん)会館においてであった。…私の同窓の先輩が、公のまえに鞠躬如(きっきゅうじょ)としている姿を見て、むしろ苦々しくすら感じたものである。また公爵その人が、いつも湯上りみたいな端麗な顔立ちで、何か天皇陛下の次といった超然たる態度であるのを見て、そもそもわれわれとは人種の違うような気持ちで何の関心も起こる余地はなかった。満州事変以来、中日領国の間には緊張のとけた日はなく、その間二回、私は二か月ずつくらい満州から北京、上海と廻って、現地の容易ならぬ雰囲気は体験していたことだし、当時外務省の情報部の嘱託をしていながら、外交関係の座視には評論めいたものを寄稿していた。』
『そういう頃のある日、近衛公が霞山会館で中国通を集めて忌憚のない意見を聴きたいということで私も呼ばれた。尾崎はどうしたものか、その日は卑屈に映ずるくらいに近衛公の前では精彩を欠いた話しぶりであった・・・私は何を言ったかはいまは思い出せぬ。しかし、絶えず中国問題を注意していた者には、すでに病膏肓に入っていることはよくわかっていた。何よりも禍根は日本政府の不統一にある。政府は軍部に引きずられ通しであるが、その軍部の内部が色々に分立し、したがってその頃になると、私のような者ですら、日本側の発表をそのまま信用することは出来ず・・・歴代も内閣が持て余したままの懸案を、如何に盛名に富んではいるにせよ、この45歳の貴紳に押しつけるというのは言語道断の無責任であると思っていたので、自然近衛公の立場の苦しさにも同情的気持ちが自然に出た点もあるかと思われる。この間近衛公は木像のように一語も発せずに聞いていた。』
◎軍部=昭和天皇として読んでほしい。吉田茂も軍部に強力なコネクションを持つ。
『とにかく、第一次近衛内閣時代に関する限り、私は数回、公のために草稿を書かされた。その一つに問題になった「近衛声明」がある。これについてはいまなお世間に誤解があるようであるから、私の記憶の許す限り真相を伝えておくことも無意味でないと思う。近衛公の対中国政策に関する重要な声明は二つある。その一つは昭和13年の1月8日に出された、「蒋介石を対手にせず」のあれである。あれは、その前の年、12年の暮れに、南京陥落の直後、ドイツの駐中大使トラウトマンが仲に立って中日両国間に和平交渉が行われた。その交渉が駄目になったときの用意にと言って半枚足らずの簡単な覚書程度のものを、秘書官が持ってきて字句を修正してくれということであった。』
◎「対手にせず声明」は単独に用意されたものではなく、トラウトマン工作失敗の時の用意として覚書程度のものがあった。修正を中山氏に依頼した秘書官というのは、内閣書記官長・後藤隆之介である。
『後日出た本で風見氏は、その原案は陸軍省が作ったと言っているし、矢部氏は外務省の起案で、後の北支臨時政府の王克利の要望により、陸軍が、これに便乗したものと書いているが、いずれにせよ、当時の空気では、陸軍・外務の間で打ち合わせたものであったに相違ない。それはどう考えても閣内会議rの申し合わせで、総理大臣が、正式に外に向かって発表するという文体のものではなかった。老練な広田外相の目の届く下で、そつがあろうとは思わなかった。当時まだ私は外務省にいたが、あれが発表されたときはハッとした。陸軍の主流の圧力がどんなに強かったにせよ、近衛公ほどの人が、あの一貫して中日間の親善を心から希望した人が、このような粗笨な発表をしたということは、抗すべからざる時の勢いというものであろうか。如何にも残念で、これが結局近衛公の命取りの種となった。近衛公を弱いという人は、何よりもこの問題を取り上げるであろう。』
『石原莞爾もその一人である。しかし、その強い石原氏でも、当時の圧倒的な陸軍の大勢を左右することは出来ず、かえって満州に左遷(?)されたことを思えば、近衛公だけを責めるわけにはいかない。否、たとえ辞句だけにせよ、私も、それを事前に見た一人である。多年中国問題に従事している一人として、私はもっと敏感にその機微を把握し、命がけででも、それを阻止するべきであったのである。当時の私は、それほど自ら任ずるものがなかったことを、いまにして自ら鞭打たざるを得ぬ。しかしこれやいわゆる近衛声明ではない。不用意に出されたこの対手にせずの声明を一年がかりで訂正したのが翌年12月の近衛声明である。とにかくそれから内閣改造が行われ広田外相が退陣し、宇垣一世老が外務大臣に就任した。私もそのころ外務省に行き詰まりを感じ、退職して浪人していた。』
『13年の3月頃には新京に建国大学が創立され・・・石原氏あたりの肝いりで私に教授としての招聘が来た。東京に未練がないこともないが、反面中国問題で日本の運命が決しようとするとき、半生を中国問題ですごした私としては、筆を捨てて、職場に実践せんとする意欲も動いてきた。私の担当は東亜政治論というのであった。大学の教授と言っても私には中日問題の解決に応分の寄与をする以外に専門の学も、また目的もない。・・・尾崎君が朝日をやめて内閣の嘱託となったのはこの前後と思う。10月になると、総理の代理として令息の文隆君が大陸の前線を慰問するから東道の役を引き受けてくれという依頼が電報で公から来た。』
『それとほとんど同時に、また航空便が来て、11月の明治節の頃に漢口が陥落する。中国の政局にも重大な変化が起こる可能性がある。そのとき総理の名で重大声明をやるから目を通してくれといって、簡単な要領が封入してあった。その他にまた、この趣旨に従って11月3日の明治節に日比谷の公会堂でやる総理の演説の草稿を思い切ってこれは自由に書けという依頼であった。この11月の正式声明及びその夜のラジオ放送は一言にして言えば、近衛内閣の癌となっていた「対手にせず」の声明を訂正し「日本の目的は日支満三国の提携による東亜新秩序の建設にあり、日本の精神を理解し、人的要素を新たにして来たり投ずるにおいては、重慶の国民政府といえども拒否するものにあらず」という筋のものであった。』
『この声明で「新秩序」という語句を使ったのは、前年近衛公が渡米したとき、第一次大戦当時のウイルソンの顧問であったハウス大佐が「日本がワシントン会議の体制を否定するなら、それに代わるわれわれの納得するようなニュー・オーダーを提示すべきだ」と言ったことにヒントを得たわけである。近衛公のための案文を私が書いたのは第一次近衛内閣の期間だけであって、その間このことは、誰にも知らさなかった。中野正剛氏は私のもっとも親しい先輩であったが、これにも黙っていたら、中野さんは知っていた。「どうして知られましたか」と尋ねたら「近衛さんが言っていましたよ」ということであった。』
◎ここに驚くべき『新秩序』のルーツが明かされている。中山優はもちろん近衛文麿は直に会っていたくせにハウス大佐が何者かも知らずに、『ニュー・オーダー』の何たるかも知らずに、言われたままをヒントにして『東亜新秩序』を掲げたのだ。
『旅行中、文隆君が上海で毎日の高石真五郎氏に出会ったら、「英国大使のカーが、誰か日本人の有力者に重慶を見せて日本人の認識を改めたい。安全は英国国旗で保証するから行かぬか、と言うが、僕にはその勇気がない、文隆さんが行かぬか」と勧められた。文隆君は捕虜になる覚悟で行こうと主張するのを、私は役目がら、ようやく引っ張って日本に帰った。あの時、侯爵夫妻も私の案内役を喜ばれたが、あのとき、もし文隆君の主張に従って二人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異なったものが出来たかもしれぬ。』
『私には公爵は淋しい人に思われた。公の周囲にはいわゆるブレーンなるものがあり、昭和研究会関係がそれを占めていた。私はブレーンの中には入らなかった。私の関係は、むしろ文隆、護貞両君を挟んで個人的であった。敗戦後の21年春に上海から帰国した私は、それでも公の一年祭には出席した。礼儀の正しい千代子夫人は、わざわざ私の草蘆にも回礼に立ち寄られた。そして門の側に咲いていた冬のサフランの花を珍しいと言って、株を分けて行かれた。悲しみの影だに外面に出されぬことがかえって私を暗然たらしめた。』
◎この時文隆の消息も途絶えていたことを考え合わせると、中山優が千代子夫人の淡々といた挙措にかえって暗然たる思いを抱いたことに、中山のまともさを感じる。松本重治と牛場友彦の証言による千代子夫人の言動はあまりに冷酷で言葉を失う。松本重治と牛場友彦の対談もまったく非道である。
『皇室以外の特権階級が消滅するのは、歴史の当然の発展であろう。私は一度も、いわゆる上流の生活を美しいと思ったこともないし、終戦後の不如意にかまけて、毎年12月の慰霊祭にも、その後は失礼を重ねている。しかし、残された近衛家の人たちの幸福を祈る心は常にいっぱいである。』
私は皇室も例外ではないと考える。天皇も五摂家も田布施王朝も権力者による創作である。太田龍は縄文人の魂が好きだと言う。私も縄文人は素晴らしいと思う。そして太田龍は倭姫も孝明天皇も縄文魂を持っているという。しかし私は縄文魂と特権階級を作ることは矛盾すると思う。リチャード・コシミズも縄文時代が好きだという。ザ・オーダーに都合の良い情報操作をするRK先生は、原発利権のために全国を公演して回っているようだ。彼は前置きにご当地ネタと縄文時代の考古学的なスライドを見せ、そうやって聴衆を信用させてから、やおら低線量放射能は健康に良いというトンデモをぶつ。ウラン水を毎朝飲んでいると言って実演もして見せている。もはや問題外である。
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