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ルキノ・ヴィスコンティ『異邦人 Lo Straniero 』 1967年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/646.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 27 日 10:39:26: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ルキノ・ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 1943年 投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 26 日 19:05:23)

異邦人 Lo Straniero

監督 ルキノ・ヴィスコンティ

原作 アルベール・カミュ

脚本
スーゾ・チェッキ・ダミーコ
エマニュエル・ロプレー
ジョルジュ・コンション

音楽 ピエロ・ピッチオーニ
撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ

配給 パラマウント映画

公開 1967年10月14日
製作国 イタリア フランス アルジェリア
言語 イタリア語 フランス語


動画
https://www.youtube.com/watch?v=Jc3oQ20ZoOA


キャスト

マルチェロ・マストロヤンニ:アーサー・ムルソー
アンナ・カリーナ:マリー
ベルナール・ブリエ:弁護人
ジョルジュ・ウィルソン:予審判事
ブリュノ・クレメール


第二次大戦前のアルジェ。平凡な一市民であり、サラリーマンであるムルソーの母が養老院で死んだ。

養老院は、アルジェから六十キロほど離れたマレンゴという町にある。暑い夜だった。ムルソーは母の遺骸のかたわらで通夜をしたが、時間をもてあまし、タバコを喫ったり、コーヒーを飲んだりした。養老院の老人たちが、悔みの言葉を述べにきたが、ムルソーには、わずらわしかった。養老院の主事が最後の対面のために棺を開けようといったがムルソーは断った。

その日葬式をすませ、彼はアルジェに帰って来た。翌日はかつて同じ会社にいたタイピストのマリーと会いフェルナンデルの喜劇映画をみて一緒に帰宅した。毎日、単調な生活をくり返しているムルソーにとって、唯一の変っていることといえば、レイモン・サンテとのつきあいだ。彼は売春の仲介をやっているという噂もある評判のよくない男だが、だからといってムルソーには、この男とのつきあいをやめる理由はない。

ある日、レイモンが自室でアラビア娘をなぐる、という事件が起きた。警官が来て、ムルソーはレイモンに言われた通り質問に答えた。一方、マリーはムルソーと逢びきを続けていたがある日、結婚してほしいと言った。ムルソーは、どちらでもいい、と答えるのだった。

ある日曜日、ムルソーとマリーは、レイモンと一緒に彼の友人が別荘を持っている海岸に出かけた。三人が海岸を散歩している時、三人のアラビア人に会った。そのうちの一人は、かつてレイモンに殴られた娘の兄だ。けんかが始まりレイモンは刺された。ムルソーは、彼を病院に運び再び海岸にもどった。暑さが激しく、太陽がまぶしかった。

そこへ再び、さっきのアラビア人がきた。ムルソーは、あずかり持っていたピストルに手をかけ、二発、三発…。太陽が、ことさらに強い、夏の日のことだった。

ムルソーは捕えられた。予審判事の尋問に、ムルソーは母の死んだ日のことからすべてを正直に話した。法廷でも、葬式の翌日、喜劇映画を見たことや、マリーと遊んだことを話した。検事も陪審員も、母親の死直後の彼の行動を不謹慎と感じたのだろう。絞首刑の宣告をした。

獄舎にもどったムルソーは神父の話を聞くことを拒んだ。神の言葉が一体なんなのだろう。母の死が、アラビア人の死が一体なんなのだろう。誰れもがいつかは死ぬ−−彼はそう叫んだ。ムルソーは、こうして死を受け入れることによって、自由な存在の人間になったのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%82%A6%E4%BA%BA_(%E6%98%A0%E7%94%BB)


『異邦人』(いほうじん、仏: L'Étranger)は、アルベール・カミュの小説。1942年刊。人間社会に存在する不条理について書かれている。カミュの代表作の一つとして数えられる。1957年、カミュが43歳でノーベル文学賞を受賞したのは、この作品によるところが大きいと言われる。

日本語訳としては、新潮文庫版の窪田啓作訳が広く知られ、冒頭1行目の「きょう、ママンが死んだ。」という訳も有名である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%82%A6%E4%BA%BA_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)  

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コメント
1. 中川隆[-11131] koaQ7Jey 2019年9月27日 15:38:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1679] 報告

アルベール・カミュ (窪田啓作:訳) 『異邦人』 (1954/09 新潮文庫)

ルキノ・ヴィスコンティ 「異邦人」 (67年/伊・仏・アルジェリア) (1968/09 パラマウント)
http://hurec.bz/mt/archives/2009/01/1071_195409_196.html


従来の文学作品の類型の何れにも属さず、かつ小説的濃密さを持つムルソーの人物造型。

1942年6月に刊行されたアルベール・カミュ(Albert Camus、1913‐1960/享年46)の人間社会の不条理を描いたとされる作品で、「きょう、ママンが死んだ」で始まる窪田啓作訳(新潮文庫版)は読み易く、経年疲労しない名訳と言えるかも(新潮社が仏・ガリマール社の版権を独占しているため、他社から新訳が出ないという状況はあるが)。

Albert Camus『異邦人 (新潮文庫)』['54年]
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4102114017?ie=UTF8&tag=hurecbz-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4102114017

 養老院に預けていた母の葬式に参加した主人公の「私」は、涙を流すことも特に感情を露わにすることもしなかった―そのことが、彼が後に起こす、殆ど出会い頭の事故のような殺人事件の裁判での彼の立場を悪くし、加えて、葬式の次の日の休みに、遊びに出た先で出会った旧知の女性と情事にふけるなどしたことが判事の心証を悪くして、彼は断頭台による死刑を宣告される―。

仏・ガリマール社からの刊行時カミュは29歳でしたが、この小説が実際に執筆されたのは26歳から27歳にかけてであり(若い!)、アルジェリアで育ちパリ中央文壇から遠い所にいたために認知されるまでに若干タイムラグがあったということでしょうか。但し、この作品がフランスで刊行されるや大きな反響を呼び、確かに、自分の生死が懸かった裁判を他人事のように感じ、最後には、「私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけ」を望むようになるムルソーという人物の造型は、それまでの文学作品の登場人物の類型の何れにも属さないものだと言えるのでは。1957年、カミュが43歳の若さでノーベル文学賞を受賞したのは、この作品によるところが大きいと言われています。

 カフカ的不条理とも異なり、第一ムルソーは自らの欲望に逆らわず行動する男であり(ムルソーにはモデルがいるそうだが、この小説の執筆期間中、カミュ自身が2人の女性と共同生活を送っていたというのは小説とやや似たシチュエーションか)、また、公判中に自分がインテリであると思われていることに彼自身は違和感を覚えており(カミュ自身、自らが実存主義者と見られることを拒んだ)、最後の自らの死に向けての"積極"姿勢などは、むしろカフカの"不安感"などとは真逆とも言えます。


サルトルは「不条理の光に照らしてみても、その光の及ばない固有の曖昧さをムルソーは保っている」とし、これがムルソーの人物造型において小説的濃密さを高めているとしていますが、このことは、『嘔吐』でマロニエの樹を見て気分が悪くなるロカンタンという主人公の"小説的濃密さ"の欠如を認めているようにも思えなくもないものの、『嘔吐』と比較をしないまでも、第1部の殺人事件が起きるまでと第2部の裁判場面の呼応関係など、小説としてよく出来ているように思いました。
 

異邦人QP.jpg ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti、1906‐1976/享年69)

監督がマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni、1924‐1996/享年72)を主演としてこの『異邦人』を映画にしていますが('67年)、テーマがテーマである上に、小説の殆どはムルソーの内的独白(それも、だらだらしたものでなく、ハードボイルドチックな)とでも言うべきもので占められていて、情景描写などはかなり削ぎ落とされており(アルジェリアの養老院ってどんなのだTHE STRANGER (LO STRANIERO)s.jpgろうか、殆ど情景描写がない)、映画にするのは難しい作品であるという気がしなくもありませんでした。

それでもルキノ・ヴィスコンティ監督は果敢に映像化を試みており、当初映画化を拒み続けていたカミュ夫人が原作に忠実に作ることを条件として要求したこともありますが、文庫本に置き換えるとほぼ1ページも飛ばすことなく映像化していると言えます。

第2部の裁判描写はともかく、第1部での主人公とさまざまな登場人物とのやりとりが第2部の裁判場面の伏線となっている面もあり、その第1部のさまざまな場面状況が具体的に掴めるのが有難いです


松岡正剛氏はこの映画を観て、ヴィスコンティはムルソーを「ゲームに参加しない男」として描ききったなという感想を持ったそうで、これは言い得ているのではないかという気がします。原作にも、「被告席の腰掛の上でさえも、自分についての話を聞くのは、やっぱり興味深いものだ」という、主人公の冷めた心理描写があります。一方で、ラストのムルソーの司祭とのやりとりを通して感じられる彼の「抵抗」とその根拠みたいなものは映画ではやや伝わってきにくかったように思われ、映像化することで抜け落ちてしまう部分はどうしてもあるような気がしました。だだ、そのことを考慮しても、ルキノ・ヴィスコンティ監督の挑戦は一定の評価を得てもいいのではないかとも思いました。


この世の全てのものを虚しく感じるムルソーは、自らが処刑されることにそうした虚しさからの自己の解放を見出したともとれますが、ああ、やっぱり死刑はイヤだなあとか単純に思ったりして...(小説は獄中での主人公の決意にも似た思いで終わっている)。ムルソーが母親の葬儀の翌日に女友達と海へ水遊びに行ったのは、彼が養老院の遺体安置所の「死」の雰囲気から抜け出し、自らの心身に「生」の息吹を獲り込もうとした所為であるという見方があるようです。映画を観ると、その見方がすんなり受け入れられるように思いました。
http://hurec.bz/mt/archives/2009/01/1071_195409_196.html

2. 中川隆[-11129] koaQ7Jey 2019年9月27日 16:36:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1681] 報告

509夜『異邦人』アルベール・カミュ松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0509.html


新潮文庫 1954
Albert Camus L'Etranger 1942 [訳]窪田啓作


 早稲田ではカミュはちょっとした英雄だった。

 そのころ早稲田のキャンパスには学生劇団があふれていて、早稲田祭のときで100をこえ、ふだんでも15をこえる劇団があったとおもうのだが、そのため1年中キャンパスのどこかでカミュの『正義の人びと』や『カリギュラ』の立て看が見えていたものだった。どんなふうにだかは知らないが、ときには『異邦人』を翻案して舞台にのせているところもあった。ついでにいえば、当時の早稲田にはチェホフ、ブレヒト、サルトル、ベケット、福田善之、イヨネスコが多かった。

 そのカミュをぼくは敬遠していた。

 食わず嫌いになっていた。だいたい「きょう、ママンが死んだ」で始まって、太陽のせいで殺人を犯した青年の話など、読めたものじゃないと思っていた。

 カミュは読まなかったが、サルトルは無理やり読んでいた。けれども、カミュ嫌いはサルトルのせいではない。サルトルがカミュを批判したことそのことにすら、興味をもてなかったからだ。

 ところが、何かのきっかけでカミュがジャン・グルニエの影響をうけていたことを知った。

 グルニエは『孤島』を読んで、こんなふうに思索のつれづれを言葉にできたらいいなとぼくが思っていた哲人で、当時の気分でいえば、ジョン・クーパー・ポウイスとともに気にしていた哲学仙人にあたっていた(その後、グルニエの『地中界の瞑想』『人間的なものについて』『存在の不幸』も翻訳され、人知れずというふうに言うのがふさわしいとおもうのだが、含読した)。そのグルニエがカミュの高等中学校上級時代の哲学教授だった。

 ふーん、そうかと思った。

 急にカミュに対する見方が変わり、機会があればいよいよ読もうと決めた。最初は『反抗的人間』だったろうか。まさにグルニエに捧げられていた。『ペスト』はダニエル・デフォーが好きだったので読んだ。たいそう緻密なものを感じた。それでも『異邦人』だけは放ってあった。やっぱり「きょう、ママンが死んだ」が嫌だったのだ。

 そのうち『裏と表』を読んだ。カミュの少年時代のことが三人称で綴られていた。父親のいない5人暮らし。「息子は唖に近く、娘は病身で何も考えることができない」とある。家族を仕切っていたのは70歳になる祖母で、家族は地中界の太陽だけがおいしかったと書いてあった。

 カミュはアルジェリアのモンドヴィで、葡萄酒輸出業者に勤める父のもとに生まれている。

 すぐ戦争で父を亡くし、アルジェ市の場末で暮らした。三つの部屋に5人がひしめく日々。母親はほとんど耳が聞こえなかったという。サルトルも幼年時代に父を亡くしているが、サルトルは祖父の庇護をうけて、どちらかといえば書斎に育った。カミュはそうではなく、アルジェの道端や海岸を走りまわり、サッカーのゴールキーパーでならした。

 そのカミュの『異邦人』なのか。ぼくは今度はやけに謙虚な気持ちでこの作品を読むことにした。読む前にこんなに気持ちを整えた青春文学なんて珍しい。

 読んでみて、なぜこの作品が爆発的に話題になったのかが、やっと了解できた。いま思い出しても、ムルソーこそはやがて世界の消費都市を覆うことになる青年の名状しがたい「きしみ」の感覚を象徴していたからだ。

 その予告が描かれていた。『異邦人』は1942年の作品だから、まだアルジェリアも戦火の中にある。そのなかで、ムルソーは養老院で死んだ母の通知をうけ、何にも刺激を感じられないままに、仕事の事務所に通い、日曜日はバルコニーから通行人か「空」を眺めるだけである。

 もっともここまでならアントワーヌ・ロカンタンだ。2階から眺めていたマロニエの根っこを見て吐き気を催す『嘔吐』の青年である。ところがムルソーにはそういう感情もない。外のどんな出来事もリアルには映らない。そこには社会に反応する実存主義的な心というものもない。

 そのムルソーが酷暑のなかでアラブ人たちの喧嘩に巻きこまれ、殺人を犯す。ナイフをふりかざして襲ってきたアラブ人にピストルの弾を四たび撃ちこんだ。

 太陽がギラギラ照りつける海岸である。ムルソーは仲間と遊んでいただけだった。しかも直前までは、「笛を吹いているやつの足のゆびが、えらくひらいている」のを見ていたりした。友人のレエモンが「やるか」とけしかけたときも、ムルソーは「よせ」と言っていた。レエモンがピストルを渡したときも、まるで時間が停止しているかのようなだけだったのだ。

 けれども殺人がおこる。そして、「すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った」。

 ここから『異邦人』は第2部に入り、ムルソーの監獄生活と裁判が描かれる。検事の言葉や証人の態度が淡々と綴られ、何度も御用司祭の訪問を断るムルソーの「やる気のなさ」が、申し訳なさそうに挿入される。ムルソーにとって、自分の味方のはずの弁護士をふくめ、裁判のすべては自分抜きですすんでいる。存在抜きなのだ。こうして検事の次の言葉が、ムルソー的なるもののすべてが今後の社会で誤解されつづけるだろうことを告知する。「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴にゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」。

 カミュは第2部でのちに批評家に絶賛される「社会の不条理」を抑制をきかして書いたのだ。が、不条理というより「きしみ」なのである。その「きしみ」のためにカミュは用意周到に文体を練っている。

 ところでムルソーは、裁判のなかで自分がインテリだと思われていることを知って、釈然としなくなっていく。その平凡な町の強靭な「知」は、ムルソーの僅かに悟りきったような言葉の端々に見える「知」を見抜いて、その虚妄を暴こうとしたのである。

 これはカミュが共産党に入りながら、その僅かな言葉の使い方によって、その"真意"を問われ、やがて除名されていったことをおもうと、まさにカミュが知っていた社会のおかしさというものだったろう。社会や集団というものは、いったんその個人が異質な言動をとったとたん、その個人の言葉づかいのどんな細部にも異質なものを発見しようとするものなのだ。ムルソーはそのことによって異邦人にさせられたのだった。

 なるほど、早稲田でカミュがちょっとした英雄だった理由はよくわかった。
 そのころ早稲田も、日本も、すでにアルベール・カミュのように不条理を語る能力が失われていたということなのだ。「きしみ」はあったのに、「きしみ」を昇華できなかったのだ。そこでせめてカミュを借りて世の中に文句をつけたくなっていた。しょせんは、そういうことだったのだろう。

 その後、『異邦人』をめぐって三つばかりの感想をもった。

 ひとつは日本の文壇では、昭和26年に広津和郎と中村光夫のあいだで『異邦人』論争が交わされていたということで、少し覗いてみてギョッとしたのは、日本ではムルソーの犯罪と裁判を借りてしか日本の社会の議論をできなかったのかということである。

 二つ目はルキノ・ヴィスコンティがマルチェロ・マストロヤンニをつかって『異邦人』を映画にした。それを新宿で見ながら、そうか、ヴィスコンティはムルソーを「ゲームに参加しない男」として描ききったなという感想をもった。

 三つ目の感想は、カミュが46歳で死ぬ前に、グルニエゆかりの南仏ルールマランに家を購入し、最後の手紙をグルニエに出していたということを知ったとき、なんだか胸がつまったという、それだけのことである。

 ぼくはカミュの良い読者ではなかったようにおもうにもかかわらず、このように、しだいにカミュについて付け加えたいことがふえていったのだった。

 とくに『カミュの手帖』を読んでから、ぼくの中のカミュはしだいに膨らんでいった。1935年から1960年に死ぬまで、カミュは大学ノートに日記(カイエ)をつけていたのだが、なんともせつない日記であった。そして、なんとも告発的な日記であった。『異邦人』についても、発表直後にこんなことを綴っている。

 『異邦人』で問題になるのは芸術的な手法であって結末ではないことを述べたあと、こうつぶやくのである。「この本の意味はまさに第1部と第2部の並行関係のなかにある。結論はこうだ、社会は母親の埋葬に際して涙を流す人たちを必要としている。人は自分に罪があると思うことによっては決して罰せられない。他にも、私にはさらに十くらいの結論が可能である」(大久保敏彦訳)。

 ところで話は変わるが、二年前のこと、ぼくが主宰している未詳倶楽部ではいちばんフランスに近い高野純子に俳号を贈るとき、彼女がオトグラフのコレクターでもあって、ぼくの知らないフランスをぼくにもたらそうとしてくれているのを感じて、カミュの音をひそめた「紙由」(しゆう)という号を思いついたことがあった。そのとき、ぼくの感覚には、実は次のような文字と音とが交差していたものだった。

 Mersault(ムルソー)は、ひょっとしてmer(海)とsol(太陽)なのではなくて、"meurt"(死ぬ)と"seul"(ひとり)だったのかもしれない、というふうに。

https://1000ya.isis.ne.jp/0509.html

3. 中川隆[-13217] koaQ7Jey 2020年3月02日 23:35:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[312] 報告

内田樹 「なぜ人を殺してはいけないのか?」
20世紀の倫理−ニーチェ、オルテガ、カミュ - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/520.html

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