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イタリア半島の人口史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/624.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 15 日 11:43:49: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

2019年09月15日
イタリア半島の人口史
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_38.html


 イタリア半島の人口史に関する研究(Raveane et al., 2019)が公表されました。現代ヨーロッパ人は、旧石器時代〜中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民、アナトリア半島起源の新石器時代農耕民、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきたヤムナヤ(Yamnaya)文化集団を代表とする遊牧民集団の混合により形成されました

(関連記事)青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html


この草原集団は、ヨーロッパ東部およびコーカサスの狩猟採集民とイラン新石器時代農耕民系統の混合として説明されてきました。しかし、ヨーロッパ南東部の古代DNA分析では、コーカサス集団からの追加の遺伝的影響の存在が識別され、ヨーロッパ人のより複雑な系統構成を示唆します。イタリア半島のような地理的交差点の人口集団は、大陸の多様性を要約すると予想されますが、これまで体系的には研究されてきませんでした。そこで本論文は、イタリアの全20行政区から1616人と、140以上の世界規模の人口集団からの5192人の現代人標本で構成される包括的な一塩基多型データセットを分析し、それに古代人の利用可能なゲノムデータを追加して比較しました。

 現代イタリア人は遺伝的に大きく、サルデーニャ島と北部(北部および中央部北部)と南部(南部および中央部南部とシチリア島)の3集団に区分されます。現代イタリア人は、複数の古代系統の混合です。その基礎的な古代系統はおもに、アナトリア半島新石器時代農耕民(AN)・ヨーロッパ西方狩猟採集民(WHG)・ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)・コーカサス狩猟採集民(CHG)・イラン新石器時代農耕民(IN)です。これらの基礎系統の混合の結果、より新しい派生的古代系統である、ヨーロッパ早期新石器時代集団(EEN)、青銅器時代草原地帯集団(SBA)、青銅器時代アナトリア半島集団(ABA)が形成されます。現代イタリア人に占める基礎的な古代系統では、ANがおおむね56〜72%と最多の比率を占め、サルデーニャ島では80%以上の高い比率を示します。ANの比率はイタリア南部よりも北部の方で高くなっており、AN以外はおおむねWHG・CHG・EHGで占められます。INはイタリア南部のみで検出されました。

 派生的な古代系統では、イタリア南部および北部で高い比率のABAとSBAが検出されました。ABAは南部で、SBAは北部で高い傾向を示します。この南北の違いについて、古代DNAから形成過程が推測されました。紀元前3400〜紀元前2800年頃となるイタリアの人類のうち、レメデッロ(Remedello)個体といわゆるアイスマンは、それぞれANが85%と74%を占めていました。イタリア北部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団の紀元前2200〜紀元前1930年頃の個体群は、ABAおよびANとSBAおよびWHGの混合としてモデル化されます。一方、シチリア島(南部集団)の鐘状ビーカー文化集団の紀元前2500〜紀元前1900年頃の個体群は、SBAが5%未満で、ほぼABAで占められるとモデル化されました。イタリア半島南北のABAとSBAの比率の違いは、青銅器時代にまでさかのぼる、と推測されます。こうした古代の混合が起きた推定年代は、イタリアではおもに2000〜1000年前頃で、ヨーロッパの他地域では2500年前頃です。

 本論文は、現代イタリア人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響も検証しました。非アフリカ系現代人のゲノムにはおおむね同じような比率でネアンデルタール人由来の領域が見られますが、地域による違いもあり、アジア東部はヨーロッパよりも有意に高い、と明らかになっています。さらに、ヨーロッパ内でも有意な違いが報告されており、北部は南部よりも高い、と示されています。シチリア島(イタリア南部集団)で確認されているように、ヨーロッパ南部では北部よりも強いアフリカからの遺伝的影響が見られるので、それがネアンデルタール人の遺伝的影響の違いに反映されているのかもしれません。しかし、アフリカ系統を有する個体群の除外後も、この点に関してイタリアとヨーロッパの他地域との違いが確認されました。この一因として、ネアンデルタール人の遺伝的影響を全くあるいは殆ど受けなかった出アフリカ系現生人類集団である、「基底部ユーラシア人」の遺伝的影響が指摘されています(関連記事)。本論文の再検証でも、基底部ユーラシア人の遺伝的影響の可能性が依然として示唆されました。

 本論文は、表現型との関連でもネアンデルタール人の影響を検証しています。ネアンデルタール人の遺伝子の中には、表現型との関連が明らかなものもあります。たとえば、精巣や日光暴露の遺伝子発現量の増加関連遺伝子(IP6K3とITPR3)や、心血管と腎臓疾患の感受性関連遺伝子(AGTR1)や、脆弱角膜症候群関連遺伝子(PRDM5)などです。これらの中には、一部の現代人に継承されているものもあり、ホスホリパーゼA2受容体と関連しているPLA2R1遺伝子では、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの比率が、ヨーロッパ北部で少なくとも43%、ヨーロッパ南部ではほぼ35%となります。全体として、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの比率には地域的な違いが見られ、たとえば、アジア東部で低くヨーロッパで高いものがあります。またヨーロッパ内部では、北部で高く南部で低いものや、その逆もあります。これは、何らかの選択が作用した可能性を示唆します。

 上述のように、現代イタリア人の間の遺伝的な地理的パターンは、南部・北部・サルデーニャ島で3区分され、その遺伝的構造はヨーロッパの他地域と同様に、先史時代以来の人口集団移動に続く孤立と、歴史時代のヨーロッパ他地域からの混合を反映しています。古代および現代の遺伝的データの分析からは、イタリア人集団では、CHGとEHGに関連する系統が少なくとも2つの起源から派生している、と示唆されます。その一方はSBA系統で、ポントス-カスピ海草原からの遊牧民集団と関連していま。上述の鐘状ビーカー文化集団の事例で示されているように、SBA系統はヨーロッパ本土からイタリア半島に、遅くとも青銅器時代には到達していました。

 他方はCHG系統と関連しており、おもにイタリア半島南部に影響を及ぼしています。CHG系統の起源はまだ不明ですが、イタリア南部において青銅器時代に存在した可能性があります。CHGの比率はサルデーニャ島とイタリアの古い個体群でたいへん低いのですが、現代のイタリア南部集団で見られることから、相互に排他的ではない複数の可能性が想定されます。それは、イタリアの早期狩猟採集民において、CHGとの遺伝的類似性の異なる集団が複数存在した可能性や、新石器時代にイタリア半島に遺伝的影響を及ぼした複数の集団でCHG系統の比率が異なっていた可能性や、新石器時代以後にCHG系統が増加した可能性や、歴史時代のヨーロッパ南東部からイタリアへの人類集団の移動に影響を受けた可能性です。CHG系統がアナトリア半島とヨーロッパ南東部において後期新石器時代から青銅器時代にかけて一時的に出現することから、本論文は新石器時代以後の流入を示唆しますが、これは古代DNA標本の追加分析により明らかにされる問題だ、とも指摘します。

 歴史時代では、ローマ帝国末期の「大移動」期と、1300〜1200年前頃となる、アラブ勢力のヨーロッパ南部への拡大が、イタリア半島の人口構造形成に役割を果たした、と本論文は推測します。とくにアフリカからの流入は、イタリア南部とサルデーニャ島において検出された多様性に寄与したかもれません。サルデーニャ島はヨーロッパの早期農耕民と遺伝的に最も密接に関連する人口集団と確認されているにも関わらず、両集団の間の単一の遺伝的継続性の証拠はありません。サルデーニャ島集団は完全には孤立しておらず、イタリアの他地域のように、遺伝子流動の歴史的事象を経験し、古代の系統とアフリカ系も含む他の構成要素の影響を受けた、と本論文は推測します。

 非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の地域的違いの理由については、ユーラシア西部集団における上述の基底部ユーラシア人の影響や、アジア東部系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との追加の交雑などが提示されています。本論文は、ネアンデルタール人由来のハプロタイプの頻度に地域差があることから、何らかの選択が生じた可能性を指摘します。この問題も、今後の古代DNA研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。

 ポントス-カスピ海草原からヨーロッパへの青銅器時代の遊牧民の移住は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの到来と関連しています。本論文は、おそらく青銅器時代に到達したイタリアにおける追加の系統を識別し、ヨーロッパ大陸へのインド・ヨーロッパ語族集団による複数の移住の波の可能性を提示します。これと関連して本論文は、たとえばエトルリア語のようなイタリアにおける非インド・ヨーロッパ語族が歴史時代にも存続したいたのは、イタリア半島におけるSBA系統比率の減少と関連しているかもしれない、と指摘します。ただ、これらの関連性は魅力的ではあるものの、適切な調査と検証には専門的で学際的な方法が必要になる、本論文は指摘します。


参考文献:
Raveane A. et al.(2019): Population structure of modern-day Italians reveals patterns of ancient and archaic ancestries in Southern Europe. Science Advances, 5, 9, eaaw3492.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw3492

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_38.html
 

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コメント
1. 中川隆[-13303] koaQ7Jey 2019年11月09日 15:10:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-405] 報告

2019年11月09日
長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html

 長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷に関する研究(Antonio et al., 2019)が報道されました。日本語の解説記事もあります。紀元前8世紀、ローマはイタリア半島の多くの都市国家の一つでした。1000年も経たないうちに、ローマは地中海全域を中心とする古代世界最大の帝国の首都となる大都市に成長しました。イタリア半島の一部として、ローマは独特な地理的位置を占めています。北はアルプス山脈により部分的に隔てられ、言語・文化・人々の移動にとって自然の障壁となります。またローマは、とくに青銅器時代の航海の大きな発展後は、地中海市周辺地域と密接につながるようになりました。ローマの歴史は広く研究されてきましたが、古代ローマの遺伝学的研究は限られています。

 本論文は、ローマの住民の遺伝的構成とその変遷の解明のため、ローマおよびイタリア中央部の29ヶ所の考古学的遺跡から127人の全ゲノムデータを生成しました。年代の推定は、直接的な放射性炭素年代測定法(33人)と考古学的文脈(94人)により得られました。DNAは内耳錐体骨の蝸牛部から抽出されました。内耳錐体骨には大量のDNAが含まれています。ゲノム規模解析の網羅率は平均1.05倍(0.4〜4.0倍)です。この個体群は時系列的には、中石器時代の狩猟採集民、新石器時代〜銅器時代農耕民、鉄器時代〜現代の個体群という遺伝的に異なる3クラスタに分類されます。

 より詳細な時代区分では、紀元前10000〜紀元前6000年頃となる中石器時代が3人、紀元前6000〜紀元前3500年頃となる新石器時代が10人、紀元前3500〜紀元前2300年頃となる銅器時代が3人、紀元前900〜紀元前27年となる鉄器時代が11人、紀元前27年〜紀元後300年となる帝政期が48人、紀元後300〜紀元後700年頃となる古代末期が24人、紀元後700〜紀元後1800年頃となる中世〜近世が28人、現代が50人です。なお、紀元前2300〜紀元前900年頃となる青銅器時代の標本はありません。

 歴史時代の個体群は、地中海およびヨーロッパの現代人集団(人口)と近似します。129人のうち最古の個体は紀元前10000〜紀元前7000年頃となる、中石器時代のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民3人です。この3人は、同時代のヨーロッパの他地域の狩猟採集民(ヨーロッパ西部狩猟採集民、WHG)と遺伝的に近接しています。この3人はヘテロ接合性が近世イタリア中央部集団より30%低く、以前のWHGに関する推定と一致します。人口が少なく、遺伝的多様性が低かったことを反映しているのでしょう。この後、新石器時代にヘテロ接合性は急増し、その後は小さく増加していき、2000年前頃には現代人の水準に達します。

 ローマおよびイタリア中央部住民の最初の主要な遺伝的構成の変化は紀元前7000〜紀元前6000年頃に起き、新石器時代の開始と一致します。ヨーロッパの他地域の初期農耕民と同様に、イタリア中央部の新石器時代集団はアナトリア半島農耕民と遺伝的に近接しています。しかし、イタリア中央部新石器時代集団には、アナトリア半島北西部農耕民系統だけではなく、新石器時代イラン農耕民系統とコーカサス狩猟採集民系統(CHG)も少ないながら見られ、前者はやや高い割合になっています。これは、おもにアナトリア半島北西部系統を有する同時代のヨーロッパ中央部およびイベリア半島集団とは対照的です。さらに、新石器時代イタリア農耕民集団は、5%程度の在来狩猟採集民と、追加のコーカサス狩猟採集民系統(CHG)もしくは新石器時代イラン農耕民系統を有する95%程度のアナトリア半島もしくはギリシア北部新石器時代農耕民系統との混合としてモデル化できます。これらの知見は、ヨーロッパ中央部および西部と比較して、イタリアの新石器時代移行に関する異なるもしくは追加の集団を指摘します。後期新石器時代および銅器時代には、低い割合ながらWHG系統が次第に増加していき、同時期のヨーロッパ他地域と同じ傾向が見られます(関連記事)。これは、新石器時代にもWHG系統を高水準で有し続けた集団との混合を反映しているかもしれません。

 ローマおよびイタリア中央部住民の第二の主要な遺伝的構成の変化は紀元前2900〜紀元前900年頃に起きましたが、青銅器時代の標本が得られておらず、空白期間があるため、その正確な年代は特定できません。この期間に、主要な技術的発展により集団の移動性が増加しました。近東およびポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の戦車(チャリオット)と馬車の発展により、陸上での移動が可能となりました。また青銅器時代には航海技術が発展し、地中海全域の航海がより容易になって航海を促進し、後期青銅器時代と鉄器時代には、地中海を越えてギリシア・フェニキア(カルタゴ)植民地が拡大していきました。

 紀元前900〜紀元前200年となる共和政期を含む鉄器時代では11人のゲノムデータが得られました。鉄器時代の個体群の遺伝的構成は銅器時代と明らかに異なっており、草原地帯系統の追加と、新石器時代イラン農耕民系統の増加として解釈されます。青銅器時代〜鉄器時代にかけて、イタリア中央部集団は、ポントス-カスピ海草原起源の遊牧民集団より30〜40%程度の遺伝的影響を受けたとモデル化でき、これはヨーロッパの多くの青銅器時代集団と類似しています。鉄器時代のイタリアの草原地帯関連系統の存在は、直接的な草原地帯起源集団の遺伝的影響ではなく、中間的集団との遺伝的交換を通じて起きた可能性があります。さらに、複数の起源集団が、鉄器時代以前の遺伝的構成の変化に、同時にまたはその後に影響を及ぼしたかもしれません。遅くとも紀元前900年までに、イタリア中央部集団は現代の地中海集団と遺伝的に近接し始めました。

 国家としてのローマの起源に関する直接的な歴史学的もしくは遺伝学的情報はありませんが、考古学的証拠からは、ローマは前期鉄器時代には近隣のエトルリア人やラテン人の諸勢力の間に位置する小規模な都市国家だった、と示唆されます。ローマとギリシアやフェニキア(カルタゴ)の植民地との接触は、象牙・琥珀・ダチョウの卵殻など地元では入手できない物質や、ライオンなど地元には存在しない動物のデザインからも明らかです。鉄器時代の11人はひじょうに多様な系統を示し、鉄器時代にイタリア中央部へ移住してきた複数の起源集団を示唆します。この11人のうち8人は銅器時代イタリア中央部集団と草原地帯関連集団(24〜38%)の混合としてモデル化できますが、他の3人には当てはまりません。この3人のうちラテン人の遺跡の2人は、在来集団と古代近東集団(最良のモデルは青銅器時代アルメニア集団もしくは鉄器時代アナトリア半島集団)との混合としてモデル化されます。エトルリア遺跡の1人は、顕著なアフリカ系統を有し、それは後期新石器時代モロッコ集団から53%程度の影響を受けている、とモデル化できます。

 これは、エトルリア人(3人)とラテン人(6人)の間のかなりの遺伝的異質性を示唆します。ただ、F統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、以前もしくは同時代のあらゆる集団と共有するエトルリア人とラテン人のアレル(対立遺伝子)の間の顕著な遺伝的違いは見られませんでした。しかし、小規模な標本では微妙な遺伝的違いの検出には限界があります。先史時代の個体群とは対照的に、鉄器時代個体群は現代のヨーロッパおよび地中海の個体群と遺伝的に類似しており、イタリア中央部が交易・植民地・紛争の新たなネットワークを通じて遠距離共同体とますます接続するようになるにつれて、多様な系統を示します。

 紀元前509〜紀元前27年の共和政の後、ローマは帝政に移行します。本論文は、紀元前27年〜紀元後300年までを帝政期とし、その後は700年までを古代末期(関連記事)としています。ローマの海外拡大は、紀元前264〜紀元前146年のポエニ戦争に始まります。この拡大はその後300年の大半にわたって続き、ブリタニア・モロッコ・エジプト・アッシリアにまで及びました。ローマ市の人口は100万人を超え、ローマ帝国全体の人口は5000万〜9000万人と推定されています。ローマ帝国は、交易ネットワーク・新たな道路・軍事作戦・奴隷を通じて、人々の移動と相互作用を促進しました。ローマ帝国は、領域外のヨーロッパ北部・サハラ砂漠以南のアフリカ・インド・アジア全域との長距離交易も行ないました。これらの史料はよく残っていますが、その遺伝的影響についてはほとんど知られていません。

 帝政期48人の最も顕著な傾向は、地中海東部系統への移行と、ヨーロッパ西部系統の少ない個体群が存在することです。帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。この移行には新石器時代イラン農耕民系統の割合のさらなる増加が伴います。鉄器時代個体群と比較して、帝政期個体群は青銅器時代ヨルダン人とより多くのアレルを共有しており、青銅器時代レバノン人や鉄器時代イラン人と同様に、帝政期個体群では混合の顕著な遺伝子移入兆候が示されます。帝政期の個体群は、前代の集団と他集団との単純な混合としてモデル化されるよりも、まだ特定もしくは研究されていない起源集団を含む複雑な混合事象だった、と示唆されます。

 帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240〜630年)の4人と重なります。さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30〜50%有するとモデル化できます。

 平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語やヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)にあります。

 一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定的だった、と示唆されます。この理由として、地中海西部よりも東部の方が人口密度は高い、ということが考えられます。アテナイ・アンティオキア・アレクサンドリアなど、帝国東部には大都市が存在しました。また、直接的な移民に加えて、東方系統は、ギリシア・フェニキア(およびカルタゴ)のローマ帝国拡大前の地中海全域への拡散により間接的にもたらされた、とも考えられます。

 ローマに到来する人や物資の大半は海上経由で、ローマの主要港の居住者はイソラサクラ(Isola Sacra)墓地に埋葬されました。本論文で分析対象となったイソラサクラ遺跡の9人は、近東系の遺伝的影響と個人間の多様性の両方を表しています。この9人のうち、4人は近東クラスタ、4人は地中海東部クラスタ、1人はヨーロッパクラスタに分類されます。酸素同位体分析では、この9人全員が地元育ちだと示され、ローマにおける多様な系統を有する人々の長期的居住が示唆されます。ただ本論文は、類似した同位体比の他地域出身の可能性も除外できない、とも指摘しています。

 本論文では紀元後300年頃からとされている古代末期に、ローマ帝国西方は衰退・崩壊していき、帝国の比重はローマからビザンティウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)へと移っていきます。古代末期の24人の平均的な系統は近東系から現代のヨーロッパ中央部集団へと移行していきます。具体的には、帝政期の住民とバイエルンもしくは現代バスクの個体群からの後期帝政期個体群(38〜41%)との混合としてモデル化できます。ただ、ほとんどの同時代の古代集団のデータが欠如しているため、起源集団と混合の正確な識別は断定的に述べられません。

 こうした系統の変化は、近東クラスタの大幅な減少、地中海東部および中央部クラスタの維持、ヨーロッパクラスタの顕著な拡大に反映されています。この移行は、紛争や伝染病によるローマの人口の劇的な減少(100万人以上から10万人未満)により促進された、地中海東部との接触の減少と、ヨーロッパからの遺伝子流動により起きたかもしれません。以前にはローマへと集約されていた交易や統治のネットワークはコンスタンティノープルにおいて再編され、人々の移動に影響を及ぼしました。さらに、いわゆる大移動の時代には、ヨーロッパ北部からイタリア半島へと集団が到来し、イタリア半島を征服しました。こうした人口減少や人々の移動経路の変化が、古代末期におけるローマの遺伝的構成の変容をもたらした、と考えられます。

 帝政期におけるローマの高度な個人間の異質性は古代末期でも続きます。古代末期の個体群は、地中海東部および中央部とヨーロッパのクラスタにほぼ三等分されます。一方で、遺伝的にサルデーニャ人に類似している1個体と、現代ヨーロッパ人と重なる2個体も確認されました。古代末期にも続くローマの遺伝的多様性は、継続する地中海西部との交易や大移動とともに、帝国期の交易・移住・奴隷・征服を含むいくつかの起源の結果かもしれません。この時期のイタリア北部のランゴバルド人のゲノムはすでに解析されていますが(関連記事)、本論文は、ランゴバルド人の影響がローマに及んだ可能性を指摘しています。本論文で調査対象とされた、ランゴバルド人関連の装飾品の発見された墓地では、7人のうち5人がヨーロッパクラスタに分類され、先行する帝政期の集団と、イタリア北部のランゴバルド人関連墓地の個体群との混合としてモデル化できます。

 中世と近世のローマおよびイタリア中央部住民においては、主主成分分析ではヨーロッパ中央部および北部系統への移行が観察され、近東および地中海東部クラスタが消滅します。中世の集団はほぼ現代のイタリア中央部集団に重なります。中世と近世のおよびイタリア中央部住民は、ローマの古代末期集団とヨーロッパの追加集団の双方向の組み合わせとしてモデル化でき、ヨーロッパ中央部および北部の多くの集団を含む潜在的な起源が推定されます。その候補として、ハンガリーのランゴバルド人、イングランドのサクソン人、スウェーデンのヴァイキングなどが挙げられます。

 この移行は、中世のローマとヨーロッパ本土との間の関係の進展と一致します。ローマはヨーロッパ中央部および西部の大半にまたがる神聖ローマ帝国に組み込まれました。ノルマン人はフランス北部から多くの地域へと拡大し、その中にはシチリア島やイタリア半島南部も含まれ、1084年にローマは略奪されました。さらに、ローマは神聖ローマ帝国と時には敵対しつつ密接な関係を維持し、カトリック教会の中心的位置としてのローマの役割は、ヨーロッパ全体、さらにはヨーロッパを越えた地域からイタリアへの人々の流入をもたらしました。ローマおよびイタリア中央部住民の遺伝的構成の変化は

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https://science.sciencemag.org/content/sci/366/6466/708/F2.large.jpg


 イタリア中央部集団は、農耕を導入した新石器時代と、鉄器時代以前(銅器時代〜鉄器時代の間)の2回、遺伝的構成が大きく変化し、その後に現代の地中海集団と近似し始めました。過去3000年、帝政期における近東からの遺伝子流動や、古代末期以降のヨーロッパからの遺伝子流動は、ローマの政治的立場の変化を反映しています。さらに、各期間内で、個体群は近東・ヨーロッパ・アフリカ北部など多様な系統を示しました。これら高水準の系統多様性はローマ建国前に始まり、帝国の興亡を通じて続き、ヨーロッパと地中海の人々の遺伝的十字路としてのローマの地位を示しています。


参考文献:
Antonio ML. et al.(2019): Ancient Rome: A genetic crossroads of Europe and the Mediterranean. Science, 366, 6466, 708–714.
https://doi.org/10.1126/science.aay6826

https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html

2. 中川隆[-4322] koaQ7Jey 2021年6月09日 13:47:59 : 7yttxBnFTc : U1o3RXhZZ2pndkE=[21] 報告
雑記帳
2021年06月08日
イタリア北部の16000年前頃の人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_8.html


 イタリア北部の16000年前頃の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究(Bortolini et al., 2021)が公表されました。イタリアのヴェネト州のリパロ・タグリエント(Riparo Tagliente)遺跡は、南アルプス山脈の斜面における人類居住の最初の証拠を表しますが、この地域で主要な氷河が交代し始めたのは17700〜17300年前頃なので、この時期の人類の移動の影響に関する疑問を解決するのに重要です(図1A)。以下は本論文の図1です。
画像

 リパロ・タグリエント遺跡の標本抽出された個体の生物学的背景を評価するため、人類学的および遺伝学的分析が行なわれました。局所的なセメント質骨異形成症が見られる左側下顎骨(図2)は、その年代と、部分的に保存された埋葬から発掘された頭蓋後方の遺骸(タグリエント1号)との同時代性を独自に確認するため、直接的に年代測定されました。このタグリエント2号(Tagliente2)遺骸の左側第一大臼歯(LM1)の歯根の直接的な放射性炭素年代は16980〜16510年前(以下、年代は基本的に較正されています)で、文化区分では後期続グラヴェティアン(Late Epigravettian)と確認されました。これは、タグリエント1号の16130〜15560年前と近く、同じ文化背景となります。以下は本論文の図2です。
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 下顎および歯から採取された5点の標本でDNAが抽出され、X染色体と常染色体の網羅率の比率からタグリエント2号は男性と推定され、これは形態学的分析と一致します。タグリエント2号のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2'3'4'7'8'9で、他にもヨーロッパの旧石器時代の個体で見られ(図3A)、15500年前頃のリグニー1(Rigney 1)洞窟の個体および13000年前頃のパグリッチ・アクセッソ・サラ(Paglicci Accesso Sala)の個体により共有されています。タグリエント2号のY染色体ハプログループ(YHg)はI2a1b(M436)で、14000年前以前のヨーロッパにおけるYHgの多様性の大半を占めていました(図3B)。この期間の年代測定されたほんどの標本は、単一のmtHg-U5bおよびYHg-I2の系統に分類され、単一の創始者人口集団から拡大した、と推定されています。以下は本論文の図3です。
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 人口集団の観点から、外群f3距離(図4A)に基づくMDS(多次元尺度構成法)分析が実行され、タグリエント2号はより広範なヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の範囲内に収まると明らかになり、以前に報告された14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるクラスタとの類似性が示されます。このヴィラブルナ集団は、少なくとも14000年前に以前のヨーロッパ狩猟採集民をほぼ置換した個体間の遺伝的類似性に基づいて定義されています(関連記事)。

 ヴィラブルナ集団は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)やチェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群など、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)までヨーロッパに存在していた狩猟採集民集団からの遺伝的寄与の痕跡を殆どもしくは全く示しません。ヴィラブルナ・クラスタを定義する特徴の一つは、それ以前の旧石器時代ユーラシア西部人により示される遺伝的構成要素よりも、近東集団とのより高い類似性です。

 f4検定でも、タグリエント2号がヴィラブルナ・クラスタと遺伝的特徴を共有しており、それ以前のヨーロッパ狩猟採集民の遺伝的背景との不連続性が確認されました。タグリエント2号とXとYとムブティ人によるf4検定で、この観察結果がさらに調べられました。Yは対象集団、Xは14000年前頃のヴィラブルナ個体もしくは13700年前頃のビション(Bichon)遺跡個体もしくは中石器時代となる11900年前頃のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民です(図4B)。

 遺伝子型決定戦略(キャプチャ法のヴィラブルナ個体とショットガン法のビションおよびコンティネンツァ個体)による潜在的な偏りを制御するため、独立したWHGの3標本が選択され、データを比較するとじっさいに小さな不一致が見つかりました。この影響を最小限に抑えるため、ショットガンの結果の解釈に重点が置かれました。タグリエント2号と比較した場合、ヴィラブルナ個体やイベリア半島狩猟採集民など後のWHGとのコンティネンツァ個体とビション個体の遺伝的類似性は高く、これは、タグリエント2号のより古い年代により説明できるか、コンティネンツァ個体とビション個体が少なくとも14000年前頃までにヨーロッパ中央部に到達した祖先系統とより密接であることで説明できるかもしれません。

 あるいは、より新しいWHG標本群の間で現れるより高い類似性も、新たに到来したタグリエント2号に代表される個体群と、先住のドルニー・ヴェストニツェもしくはGoyet Q116-1的な遺伝的集団との間の、その後で起きた混合に起因するかもしれません。これは、ルクセンブルクの中期石器時代となる8100年前頃のロシュブール(Loschbour)遺跡個体ですでに報告されています。次に、タグリエント2号の系統樹内の位置がモデル化され、ヴィラブルナ系統内に収まると明らかになり、以前の結果が確認されます。以下は本論文の図4です。
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 本論文では、イタリア半島北部における早くも17000年前頃となるヴィラブルナ構成要素の存在が、ゲノムと片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)と年代測定の証拠により裏づけられました。17000年前頃には、この地域も含めて大きな文化移行が起きました。続グラヴェティアンの前期から後期への移行は急激ではなく、アドリア海とティレニア海の間の地域化および環境/文化的違いの出現にも関わらず、人工物の様式や石器縮小戦略の相対的頻度、原材料獲得と居住パターンの変化が、17000年前頃以降に記録されています。14000年前以後、幾何学的細石器への依存度の高まり、線刻や着色された骨、線形や幾何学模様や動物や擬人化を描いた石のより強い存在により、もっと顕著な不連続性が証明されます。

 続グラヴェティアンの前期から後期の移行は、アルプス山脈の氷河が26000〜24000年前頃に最大に達した後の顕著な後退、および16500年前頃以降の海面の急速な上昇とほぼ同時です。これらの過程は、アルプス山脈の地形に大きな変化をもたらし、大アドリア海・ポー平原の広範な表面を安定させました。アルプス山麓の急速な森林再拡大は17000年前頃に始まり、それは15000〜13000年前頃となるボーリング-アレロード(Bølling-Allerød)間氷期の温暖化のずっと前でした。アルプス山脈の麓は、開けた植生が遠方で発達した間、カバノキとカラマツのある(開けた)松林となりました。

 LGM末には、局所的な動物の利用可能性は限定的で、ほぼ開けた環境に適応した種で構成されており、そうした環境では、アルプスの野生ヤギのアイベックス(Capra ibex)やリス科のマーモット(Marmota marmota)のように温暖化する亜間氷期により高い場所に移動するか、好適な微気候の地域に退避することにより、最適な気候条件を見つけられました。ヨーロッパ中央部のほとんどの寒冷適応の大型動物種は、LGM開始の前にスロベニア回廊を通ってイタリア半島北部へと侵入しており、これはアドリア海全域で獲物を追って居住したグラヴェティアン期狩猟採集民と同じです。

 LGMにおいては、これら大型哺乳類の新たな到来と北方への移動の両方が妨げられ、それらは局所的に消滅するか、短いLGM亜間氷期と関連して絶滅しました。たとえば、ホラアナグマは24200〜23500年前頃に絶滅しました。寒冷期の森林被覆の減少は、ポー平原の中核地域とベリチ丘の両方における、アイベックスやヤギ亜科のシャモア(Rupicapra rupicapra)やマーモットの存在により確認されます。同じ地域では、考古学的記録が、現在では北半球の高緯度地域でのみ見られる旧北区の鳥の存在を示しています。

 まとめると、本論文の結果は、相互に排他的ではないものの、二つの異なるシナリオを支持します。一方は、LGMおよびその直後に地中海とヨーロッパ東部をつなぐ退避地の広範なネットワークを含みます。このネットワークは、黒海からイベリア半島に至る文化的および遺伝的情報両方の段階的な交換を通じて、長距離の伝播を促進した可能性があります。現時点では利用可能な証拠で検証できないこのシナリオは、標本の年代、その場所、比較的豊富な近東現代人と共有されるヴィラブルナ遺伝的構成要素との間の関係を予測するでしょう。文化的観点からは、ヨーロッパ南部における前期および後期続グラヴェティアン物質文化の発展は、急速で千年規模の気候事象によっては直接的には駆動されず、人口移動を伴わない収束と局所的適応と文化的融合から生じた可能性があります。この場合、遺跡間の距離も石器群の類似性を予測するでしょう。

 もう一方のシナリオは代わりに、人口移動と置換、より急速な遺伝的交替、地理的勾配では充分に予測されない遺伝的および文化的両方の類似性の分布を示唆します。この人口集団の変化はLGMに起きた可能性があります。つまり、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolni Vestonice)遺跡で発見された1個体のような遺伝的構成要素がまだイタリア南部のオストゥーニ(Ostuni)に存在した27000年前頃以後から、17000年前頃以前のことです。ヴィラブルナ系統を有する集団は、スロベニア回廊と海面の低下したアドリア海の沿岸を用いて、ポー平原までのイタリア半島アドリア海地域に居住し、その後ようやくアルプス山脈前方の渓谷に再居住したかもしれません。このモデルによると、27000年前頃以後、イタリア半島およびその後でのみ現在のフランスやスペインで見つかる遺伝的系統は、ヴィラブルナ・クラスタと、mtHg-U2'3'4'7'8'9および/もしくはYHg-I2・R1aに分類される片親性遺伝標識系統のどちらか、もしくは両方を示すはずです。このモデルによると、続グラヴェティアン全期でイタリアにおいて記録された文化的変化は、少なくとも一部は人口集団の置換と関連する過程により引き起こされた可能性があります。

 文化的観点から、利用可能な考古学的記録の偏った時空間的分布は、これら二つのモデル間の直接的識別に用いることはほとんどできず、イタリア半島全域の後期続グラヴェティアン開始の根底にある時間的動態には依然としてかなりの不確実性があります。18000〜17000年前頃以降、ヨーロッパ南西部におけるソリュートレアン(Solutrean)からマグダレニアン(Magdalenian)への物質文化移行と、ローヌ川からロシア南部平原にいたる広大な地域における続グラヴェティアンの前期から後期への物質文化移行の証拠があります。環境圧力はLGMにおける大型動物の移動を条件付け、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部をつなぐ回廊への人類集団の移動を制約しました。

 この期間に、ヨーロッパ南部の人類集団はヨーロッパ中央部および北部の他地域と比較して、限定的な生態学的危険性に曝されていました。イタリア南部のプッリャ州(Apulia)のパグリッチ洞窟(Grotta Paglicci)出土の個体群のストロンチウム同位体組成の変動は、グラヴェティアンと前期続グラヴェティアンの狩猟採集民間の居住移動性パターンと適応的戦略の顕著な変化を示します。気候変化のあらゆる背景となる証拠が欠如していることを考えると、これらの違いは文化的要因が理由で、続グラヴェティアンの初期段階ですでに起きていたかもしれない人口集団置換と関連している可能性があります。

 他方、イタリア半島とバルカン半島との間の人工物様式の分布における類似性は、東方・スロベニア経路でのヨーロッパ中央部からの技術複合拡大の可能性を裏づけ、続グラヴェティアン狩猟採集民の長距離移動性を示唆します。しかし、同じパターンは、社会的ネットワーク仮説を支持して、この見解に異議を唱えるのに用いられてきました。バルカン半島とイタリア半島の状況の間の類似性は、グラヴェティアン期から中石器時代まで記録されており、接触には、石材や海洋性軟体類や装飾品のビーズや粘土の小立像や装飾モチーフや石器技術が含まれます。同時に、人類の移動・相互作用の代理としての、有鋌石镞(shouldered points)など一部の文化的指標の信頼性が、最近では疑問視されています。

 片親性遺伝標識は、この提案された二つのシナリオの解明に役立つ可能性があります。確かな遺伝的および年代的根拠に基づいてヴィラブルナ・クラスタに区分される標本の大半(図3)は、mtHgとYHgの限定的な数の系統を共有しています。片親性遺伝標識のヴィラブルナ系統内での多様性低下は、ネットワークを中断するボトルネック(瓶首効果)、もしくは人口集団移行のより広範なシナリオにおける創始者事象と一致します。この片親性遺伝標識は、アドリア海全域の切れ目のない文化的交換、および東方のゲノム構成要素との増加する類似性と組み合わされて、遺伝的置換を本論文の結果への最も可能性の高い説明とします。

 ヴィラブルナ母系内の18500年前頃となるパグリッチ系統の存在からは、イタリア半島南部における18500年前頃もしくはそれ以前の創始者事象と、氷河後退の始まりにおけるイタリア半島北部での後の拡大が主張されます。この観点から、タグリエント2号は南アルプス地域にほぼ居住していたと考えられ、その基底部のmtDNA系統を説明します。南方回廊を通じてのヨーロッパ東西間のより早期のつながりの可能性は、拡大LGMネットワークの形態、もしくはヨーロッパ西部におけるヴィラブルナ的個体群の早期の到来として、ゴイエット2(Goyet-2)的祖先系統とヴィラブルナ・クラスタと関連する祖先系の混合を示す、イベリア半島北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の18700年前頃の個体によっても裏づけられます(関連記事)。

 この新たな遺伝的シナリオの最も節約的な解釈からは、LGM末からヤンガードライアス末(11700年前頃)にかけてヨーロッパ南部で観察される累積的な文化的変化は、少なくとも部分的には、南東部の退避地からイタリア半島への遺伝子流動により引き起こされた、と示唆されます。この過程はその初期段階およびアルプス山脈以南では、後のボーリング-アレロード事象とは独立しており、イタリア半島全域およびそれ以外でLGM以前の祖先系統の漸進的な置換に寄与しました。しかし、この仮説を検証するには、27000〜19000年前頃のヨーロッパ南部のさらなる遺伝的証拠と、イタリア半島と人口移動の推定起源地との間の文化的類似性の分析が必要となるでしょう。

 結論として、タグリエント2号は全てのヨーロッパ人の遺伝的背景に強く影響を及ぼした主要な移動が、以前に報告されていたよりもかなり早くヨーロッパ南部で始まり、LGMの最盛期後の寒冷期にはすでにヨーロッパ南部で起きていた、という証拠を提供し、それはおそらく氷河の段階的縮小とボーリング-アレロード期の急速な温暖化に先行する森林拡大により支持されます。この段階で、ヨーロッパ南部とバルカン半島とヨーロッパ東部およびアジア西部は、LGMにおける潜在的退避地の同じネットワークへとすでに接続されており、遺伝的および文化的両方の情報を交換し、観察された人口集団置換の基礎を示します。この知見は、ヨーロッパ南部の同時代の物質文化の経時的変化における妥当な人口構成要素に関する以前の議論をさかのぼらせ、この過程を続グラヴェティアンの前期と後期の移行期に時間的に位置づけますが、あるいはその過程は続グラヴェティアンの最初期に位置づけられる可能性さえあります。


参考文献:
Bortolini E. et al.(2021): Early Alpine occupation backdates westward human migration in Late Glacial Europe. Current Biology, 31, 11, 2484–2493.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2021.03.078


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_8.html

3. 2021年10月03日 14:02:02 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[7] 報告
雑記帳
2021年10月03日
古代ゲノムデータに基づくエトルリア人の起源と後世への影響
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_3.html


 エトルリア人の起源と後世への影響に関する研究(Posth et al., 2021)が公表されました。エトルリア文化(本論文では「civilization」が用いられていますが、以前の記事で述べたように、当ブログでは基本的に「文明」を用いないことにしていますので、以下訳語は「文化」で統一します)は鉄器時代にイタリア半島中央部の広範な地域を占めており、トスカーナやラツィオやウンブリアが含まれ、その存続期間にはイタリア半島の近隣地域にも局所的に拡大しました(図1A)。エトルリア文化は、冶金学における卓越した技術や、その洗練された文化的表現や、まだ完全には理解されていない非インド・ヨーロッパ語族の消滅言語により有名です。

 エトルリア文化を同時代の近隣地域の文化と区別する独自性のため、エトルリア文化と関連する人口集団の地理的起源については、二つの主要な競合する仮説とともに、古代にまでさかのぼる激しい議論が長く続いてきました。一方の仮説は、古代ギリシアの作家であるヘロドトスとレスボス島のヘラニコスにより示唆されたように、アナトリア半島/エーゲ海地域起源説を提案しています。この仮説は、紀元前8〜紀元前6世紀のいわゆる東方化期の、エトルリアにおける古代ギリシア文化要素の存在により裏づけられます。

 もう一方の仮説は、ハリカルナッソスの歴史家ディオニュシオスにより紀元前1世紀に記述されたように、在地発展が主張されています。この仮説によると、エトルリア集団は紀元前900年頃となる後期青銅器時代の(祖型)ヴィッラノーヴァ文化(Villanovan culture)と関連する人々から地元で生まれました。考古学者間の現在の合意は後者の仮説を支持しますが、ラテン人などインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派話者集団に囲まれて孤立した非インド・ヨーロッパ語族の持続可能性は興味深く、依然として未解明の現象で、さらなる考古学と歴史学と言語学と遺伝学の調査が必要です。

 4世紀以上にわたる広範な地域開発の後、エトルリア文化は紀元前4世紀に、紀元前264年に終わった一連のローマ・エトルリア戦争を通じて共和政ローマに同化され始めました。この変化期間にも関わらず、エトルリア文化とその宗教的伝統はその後の数世紀にわたって、紀元前27年以後にローマ帝国の第七行政区にエトルリアが編入された後でさえ存続しました。いわゆる大移動期と紀元後5世紀の西ローマ帝国崩壊後に、この地域は短期間東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に組み込まれました。その後イタリア半島の大半は、中世初期にランゴバルドとして知られるゲルマン関連集団により征服されました。紀元後6世紀後半に設立されたランゴバルド王国および諸公国は、2世紀以上にわたってイタリア半島を支配しました。ランゴバルド王国は紀元後774年にカロリング帝国(フランク王国)に継承され、フランク王国は後に神聖ローマ帝国へと発展しました。

 上述の期間の個体の古代DNA分析は、これらの歴史的に記録された事象が、移住もしくは高い移動率に起因する人口集団水準の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)パターンの変化と関連しているのかどうか、これらの変化がイタリア人の現代の遺伝的景観にどの程度の影響を与えたのか、調べる直接的方法を提供できます。エトルリア史研究の遺伝的分析の寄与の可能性は、過去10年間、議論され調査されてきました。

 トスカーナ現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)は、現在のアナトリア半島人口集団との関係を示し、これはエトルリア人の最近の近東起源の証拠として解釈されてきました。対照的に、エトルリア関連個体群のmtDNAに関する初期の研究では、エトルリア人と同地域の現代人との間の遺伝的連続性の証拠が見つからず、例外はトスカーナのいくつかの孤立した場所でした。イタリア半島の古代ゲノム研究は非常に限られており、イタリア半島全体で、新石器時代からローマ共和政期の利用可能なデータは僅かしかありません(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 鉄器時代とローマ共和政期(紀元前900〜紀元前27年)におけるローマおよびその周辺の古代都市の個体群は、青銅器時代以降のほとんどのヨーロッパ人を特徴づける、顕著なゲノム構成要素を有しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。さらに、そのうち3個体はアフリカと近東からの最近の遺伝的影響を有すると明らかになり、鉄器時代にまでさかのぼる地中海全域でのローマの広範なつながりをさらに示します。意外なことに、ローマ帝国の首都の近くでは、後の帝政期の個体はほぼ全て、地中海東部祖先系統の大きな割合を有しており、この祖先系統は後に古代末期と中世初期において減少しました(関連記事)。しかし、これらの変化がイタリア半島の他地域全体で起きた過程を表している程度は、大都市のローマおよびその古代都市圏以外の個体群では明らかにされていません。

 本論文は、エトルリアにおけるエトルリア文化関連個体群およびその後の集団の遺伝的歴史を、時代区分された70個体の古代ゲノムを通じて調べます。これらの個体は12ヶ所の遺跡に由来し、そのうち46個体では紀元前800〜紀元後1000年とほぼ2000年にわたる直接的な放射性炭素年代が得られています(図1B)。さらに、バジリカータ(Basilicata)州にある「ヴェノーザ(Venosa)の公衆浴場」遺跡の紀元後8世紀と放射性炭素年代が得られている16個体のゲノム規模データが生成され、イタリア半島の中央部および南部の中世初期の個体群の遺伝的構成が比較されました(図1)。

 これらのデータはともに、エトルリア文化関連集団の遺伝的起源とその同時代および後世の人口集団との関係に関する重要な問題を解決します。さらに、エトルリアにおけるローマ帝国の成立などの重要な歴史的事象の遺伝的影響が評価され、イタリア半島の中央部および南部全域の中世初期個体群の遺伝的構成が特徴づけられ、これら過去の文化と現代の人口集団間の遺伝的連続性の水準が明らかにされます。以下は本論文の図1です。
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●分析結果

 86個体の側頭骨の錐体部と歯からDNAが抽出されました。側頭骨の錐体部はDNAの保存状態が良好とされています(関連記事)。品質管理により、三つの時代区分にまとめられた82個体の最終標本セットが得られました。内訳は、紀元前800〜紀元前1年(鉄器時代およびローマ共和政期)が48個体、紀元後1〜紀元後500年(ローマ帝政期)が6個体、紀元後500〜1000年が28個体(イタリア半島の中央部が12個体で南部が16個体)です(図2B)。

 鉄器時代およびローマ共和政期と関連する個体のうち、大半(48個体のうち40個体)は「イタリア中央部エトルリア文化(C.Italy_Etruscan)」という名前の遺伝的まとまり(以下、CIE)を形成し、ヒト起源データセット(Human Origins dataset)のユーラシア西部人口集団で構築された主成分分析では、現代のスペイン人と重なります(図2A)。紀元前800〜紀元前1年となる鉄器時代およびローマ共和政期全体では、主成分分析の外れ値の3集団が特定されます。つまり、アフリカ北部人口集団へと動く4個体(CIE.Afr、以下CIEA)と、ヨーロッパ中央部人口集団へと動く3個体(CIE. Ceu、以下CIEC)、近東人口集団へと動く1個体(C.Italy_Etruscan_MAS001、以下CIEM)です。

 イタリア半島中央部および南部人口集団の遺伝的まとまりをさらに詳しく調べるため、遺伝的に関連する個体群を除外した後、71個体で教師なしADMIXTUREが実行されました(図2BおよびC)。CIE個体群は、アナトリア半島新石器時代農耕民とヨーロッパ狩猟採集民とポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の青銅器時代牧畜民と関連した、3つの遺伝的祖先系統を有しています。CIECは「草原地帯関連祖先系統」をより高い割合で有していますが、CIEMはイラン新石器時代農耕民で最大化された遺伝的構成要素を示します。イラン新石器時代農耕民で最大化された遺伝的構成要素は、前期新石器時代モロッコ集団で特定された祖先系統構成要素に沿って、CIEA個体群にも存在します。以下は本論文の図2です。
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 後期新石器時代と前期青銅器時代における草原地帯関連祖先系統の拡大はインド・ヨーロッパ語族の拡散と関連づけられてきており(関連記事)、「草原地帯」故地の言語学的証拠と一致しているので、非インド・ヨーロッパ語族のエトルリア語と関連すると推定されるエトルリア文化個体群における、草原地帯関連祖先系統の割合が推定されました。まず、CIEクラスタから年代測定され遺伝的に無関係な21個体がまとめられ、ロシア西部のサマラ(Samara)地域の青銅器時代牧畜民(ヤムナヤ文化)により表される草原地帯関連祖先系統と、イタリア半島の新石器時代もしくは銅器時代人口集団との混合として、qpAdmでモデル化されました。この分析は、そうした遠方の草原地帯関連祖先系統供給源からの約25%の祖先系統を示し、比較対象の人口集団をヤムナヤ(Yamnaya)文化集団よりも時空間的にイタリア半島により密接な人口集団、たとえばヨーロッパ中央部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)集団に帰ると、約50%に達しました(図3B)。

 さらにCIEは、イタリア半島北部のより早期の鐘状ビーカー集団やヨーロッパ南部の鉄器時代人口集団(イベリア半島やクロアチアやギリシア)のような他のヨーロッパ人口集団に完全な祖先系統が由来するものとして、モデル化に成功できます。主成分分析は、ローマの古代都市を含めてトスカーナとラツィオの鉄器時代とローマ共和政期の個体群間の完全な重なりを明らかにし、草原地帯関連祖先系統のかなりの水準が、鉄器時代までにイタリア半島中央部全域でインド・ヨーロッパ語族話者と非インド・ヨーロッパ語族話者両方を含むと知られている複数の文脈において、広範に拡大して均質化されていた、と示唆されます。

 本論文で特定された他の同時代の祖先系統集団が、小数の個体により表されているものの、この全体像に詳細さと複雑さを追加しています。CIECの無関係な2個体(VET005とCAM002)は、ヤムナヤ関連祖先系統のより高い割合(40%)により特徴づけられ、草原地帯関連祖先系統を高い割合で有するヨーロッパ中央部および南部両方の銅器時代もしくは青銅器時代人口集団に由来することと一致します(図3AおよびB)。この兆候は、f4統計(オンゲ人、検証集団;CIEC、CIE)により確認され、検証集団がヤムナヤ関連祖先系統の約半分を表すヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)で構成される場合、有意に負の値となります。これは、主要なCIEクラスタよりもCIECとのEHGの高い類似性を示唆しますが、検証集団が草原地帯関連祖先系統を有さないヨーロッパ南部新石器時代集団に限定されると、逆の結果が観察されます。

 次にCIECが在来の祖先系統との混合兆候を有するのかどうか、検証されました。f3(CIE、検証集団;CIEC)統計では、CIECがCIEと本論文のデータセットにおける255のあらゆる古代人検証集団との間の混合から派生した、という証拠は明らかになりません。さらに、qpAdmにおいてCIECをエトルリア文化関連個体群とヨーロッパの鐘状ビーカー個体群との間の混合としてモデル化することは可能ですが(図3B)、CIECを参照セットに移動させて新石器時代集団に置換すると、そのモデルは依然として維持され、局所的に混合しなかった北方祖先系統の流入と一致します(関連記事)。

 ソフトウェアDATESを用いて、CIEC個体群の混合年代が推定されました。VET005は実行不能な年代(負の値)をもたらしましたが、CAM002は19.7±8.6世代前の混合年代を提供し、CAM002の年代(紀元前7世紀)の572±249年前に相当します。これらの結果は、検証されたCIECの2個体が、最近の在来の混合の結果ではない、流入してくる祖先系統を表している、と示唆します。この2個体は2ヶ所の遺跡に由来し、放射性炭素年代はCAM002が紀元前7世紀、VET005が紀元前3世紀です。したがって、この明確な祖先系統特性は、数世紀にわたる持続ではなく、北方地域からイタリア半島中央部へ複数の時期に独立して到来したかもしれません。以下は本論文の図3です。
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 遺伝的外れ値1個体を除外してCIEAでまとめられた3個体は、新石器時代関連ヨーロッパ祖先系統と青銅器時代関連ヨーロッパ祖先系統との間の混合としてモデル化できません。この3個体の年代は紀元前300年頃で、100km以上離れた2ヶ所の遺跡、つまりタルクイーニア(Tarquinia)とウェツロニア(Vetulonia)で発掘されました。f3統計(CIE、X;CIEA)とf4統計(オンゲ人、X、CIE、CIEA)は、CIEAが、エトルリア文化集団と、アフリカ北部もしくはサハラ砂漠以南の祖先系統をより高い割合で有する古代もしくは現代(代理として)の個体群との混合である証拠を示します。qpAdmを用いると、供給源の一つとしてCIEを含む全ての混合モデル化は却下されました。しかし、同年代のアフリカ北部の個体のゲノムの限定的な利用可能性を考えると(関連記事)、この地域の追加のデータが利用可能になれば、祖先系統の割合がより正確に推定される可能性に要注意です。

 青銅器時代シチリア島と鉄器時代サルデーニャ島の以前に報告された知見(関連記事1および関連記事2)とは異なり、2000年以上前のイタリア半島中央部の個体群ではイラン関連祖先系統の証拠は見つかりません。新石器時代イラン個体群をqpAdm の参照セットに入れた場合でも、CIEとCIECを遠方の3供給源、つまりアナトリア半島新石器時代農耕民、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)、ヤムナヤ文化サマラ個体群の混合としてモデル化できます。これは、考古学的記録で観察される相互作用の特徴的な範囲により確認されるように、青銅器時代と鉄器時代におけるシチリア島民とサルデーニャ島民の遺伝的歴史が、イタリア半島本土の人口集団とはかなり異なっていたことを示唆します。

 CIEM個体(MAS001)は本論文のデータセットで単一の例外を表し、主成分分析空間では紀元前200年頃の近東人口集団への移動を示します(図4A)。f統計はCIEクラスタとの祖先系統の連続性を有意には却下しませんが、新石器時代関連祖先系統と草原地帯関連祖先系統との間の混合モデルは、MAS001の遺伝的特性に合致しません。代わりに、CIEMはCIEクラスタと青銅器時代アルメニア人のようなコーカサス人口集団との間の混合としてモデル化でき(図4B)、少なくとも紀元前2世紀までのエトルリアにおけるイラン関連祖先系統の散発的存在を示唆します。

 紀元後千年紀前半には、分析対象の全個体の近東勾配に向かっての主成分分析空間における顕著な移動が観察され、現代のヨーロッパ南東部人口集団に占められる遺伝的空間全域に分布します(図4A)。紀元後1〜500年の外れ値ではない個体は「C.Italy_Imperial」クラスタとまとめられます(以下、CII)。f4検定では、イランやアフリカや近東の古代人集団との比較で、CIIはCIEよりも高い類似性を示す、と明らかになりました。

 次にqpAdmを用いてこの集団の祖先系統構成要素が定量化され、CIIはCIEと既知のヨーロッパおよび近東の青銅器時代および鉄器時代の158個体の混合としてモデル化されました。結果として、データに最適だと分かったモデルは、レヴァントもしくはアナトリア半島人口集団から、在来の/既存のCIE遺伝子プールへの38〜59%の寄与でした(図4B)。地中海東部からのかなりの遺伝子流動も、帝政期ローマの古代人で報告されています(関連記事)。紀元後1〜5世紀のデータポイント数が限定的であるにも関わらず、本論文の結果から、ローマにおける外来祖先系統の寄与はエトルリアよりも大きかった、と示唆されます(図4A)。しかし、ローマ帝政期における流入集団のこの大規模な遺伝的影響は、ローマ周辺の大都市圏だけではなく、本論文で検討された近隣およびより遠方の地域にも拡大していました。以下は本論文の図4です。
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 本論文の古代ゲノム時代区分の最終期間となる紀元後500〜1000年に関しては、「C.Italy_Early.Medieval」クラスタ(以下、CIEM)にまとめられる個体群が、CIEと比較してヨーロッパ中央部集団に向かって遺伝的に動いており、ほぼイタリア半島中央部の現代人集団と重なります(図5A)。f4検定を用いると、この移行がCII と比較して地中海東部人口集団へのCIEMの類似性減少により確認される、と示されます。

 さらに、CIEMクラスタはqpAdmでは、先行するCII集団(60〜90%)とヨーロッパ北部および東部の古代末期もしくは中世集団(10〜40%)との混合として、モデル化に成功できます。とくに、最も支持されるモデルには、ハンガリーのランゴバルド墓地と関連する個体群とイタリア北部個体群を特徴とするものがあります(関連記事)。具体的に、それら混合されていないヨーロッパ北部遺伝的祖先系統を有するランゴバルド関連個体群(Piedmont_N.Longobard)に分析を限定すると、CIEMクラスタへの20%程度の寄与が得られます(図5B)。この知見は、ランゴバルド王国期のイタリア半島中央部におけるヨーロッパ北部祖先系統の遺伝的流入と一致します。しかし、東ゴートのようなイタリア半島における他のゲルマン部族の影響も、観察されたゲノム変化を強化したかもしれません。

 イタリア半島中央部の現代人は主成分分析空間ではCIEM個体群と重なっているので(図5A)、CIEM個体群に由来するイタリア半島中央部の現代人の一貫性が検証されました。解像度を高めるため、qpAdmは参照セットの現代の世界規模の人口集団で実装されました。現代のイタリア半島人口集団はCIEMクラスタからの派生と一致しませんが、トスカーナの高網羅率のゲノム配列の個体群(Tuscan.DG)は、遺伝的連続性の強い却下の根拠を示しませんでした。これは、現代のイタリア半島中央部人口集団の遺伝的構成が、紀元後1000年までにほぼ形成されたことを示唆します。

 類似の全体像がイタリア半島南部の同時代の個体群で観察されるのかどうか調べるため、バジリカータの中世初期ヴェノーザ遺跡のデータが同様に分析されました。VEN002個体を除いて、ヴェノーザ遺跡個体群(S.Italy_Venosa)は主成分分析空間では現代のイタリア半島南部人口集団と広く重なっており、qpAdmでは祖先系統の同じ流れに由来するものとして共同でモデル化できます(図5AおよびC)。主成分分析空間では、ローマのほとんどの中世および近世個体群は、トスカーナとバジリカータの中世初期集団間の中間に位置します(図5A)。したがって、この分布は地理を反映する現在の南北勾配と一致しており、イタリア半島はヨーロッパと地中海東部との間の遺伝的間隙を架橋します。以下は本論文の図5です。
画像

 これらのゲノム変化における性的偏りの影響の可能性を調べるため、経時的な片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の頻度が計算されました。mtDNAの多様性は、紀元後1年の前後で実質的に変化していないようです。対照的に、紀元前800〜紀元前1年の新たに報告されたイタリア半島中央部個体群は、Y染色体ハプログループ(YHg)R1bが75%の頻度を示し、ほぼYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)とその派生のR1b1a1b1a1a2b1(L2)に表され、これは鐘状ビーカー複合との関連で草原地帯関連祖先系統に沿ってヨーロッパ全域に拡散しました。これは、YHg-R1b系統が青銅器時代に草原地帯関連集団の移動とともにイタリア半島に拡大したことを示唆します。紀元後千年紀には、YHg-R1bの頻度は40%程度と減少し、YHg-Jのような近東関連Y染色体系統がより高頻度となります。かなりの女性の移動の可能性を除外できませんが、YHg頻度における顕著な変化は、ローマ帝政期移行に観察された遺伝的置換において男性の移動が重要な役割を果たした、と示唆します。


●考察

 トスカーナとラツィオとバジリカータの2000年にわたるイタリア史の古代人82個体のゲノム分析は、遺伝的変容の大きな事象を明らかにしてきました。本論文のイタリア半島中央部の時代区分の第一期(紀元前800〜紀元前1年)全体では、ほとんどの個体は均質な遺伝的まとまりを形成し(CIE)、他地域にたどれる祖先系統を有する個体の孤立的存在は実質的な地域的遺伝的影響を残さなかった、と示唆されます。とくに、以前の提案とは逆に、エトルリア人関連の遺伝子プールは近東からの最近の人口移動に起源があったわけではないようです。

 エトルリア人とラテン人との間の文化および言語の違いにも関わらず、エトルリア人はローマやその周囲のラテン人など他の近隣人口集団と共有される地域的な遺伝的特性を持っています。CIEの遺伝的特性の大部分は草原地帯関連祖先系統に由来する可能性があり、ほとんどの他のヨーロッパ地域で観察される傾向を確認します。この遺伝的構成要素は青銅器時代にイタリア半島中央部にも到達していましたが(関連記事)、それはサルデーニャ島よりも早かったと推測されています(関連記事1および関連記事2)。

 イタリック祖語とその派生語(ラテン語やオスク語やウンブリア語)との間の分岐は紀元前二千年紀に起きたと推定されているので、イタリア半島におけるイタリック祖語の存在は、草原地帯からのヤムナヤ文化関連集団の少なくともそれより千年早い移動と直接的に相関することはあり得ません。代わりに、流入してくる草原地帯関連集団がヨーロッパにおけるインド・ヨーロッパ語族の最初の到来をもたらしたと仮定すると、イタリック語派を含むインド・ヨーロッパ語族のより派生的な形態が、イタリア半島全域で後の段階に拡大したかもしれません。

 これまでにゲノムデータが得られている紀元前2000年頃のイタリア半島北部の鐘状ビーカー複合関連遺骸は3個体だけで、草原地帯関連祖先系統の非遍在的存在を明らかにしており(関連記事)、混合過程が進行中であることを示唆します。エトルリアにおける非インド・ヨーロッパ語族であるエトルリア語の歴史的記録の持続から、エトルリア語話者共同体が大規模な混合にも関わらず維持された、と示唆され、この状況は、非インド・ヨーロッパ語族が現在でも持続しているイベリア半島のバスク地域と類似した状況です(関連記事)。

 この言語の持続性は、遺伝的置換と相まって、「遺伝子=言語」という過度に単純化された仮定に疑問を提起し、おそらくは紀元前二千年紀の長期的な混合期間にエトルリア語話者共同体による(初期)イタリック語派の同化を伴ったかもしれない、というより複雑な想定を示唆します。この想定は、イタリア半島中央部における早くも紀元前1650年頃の草原地帯関連祖先系統の最近の発見と、その後のこの構成要素の経時的な増加により(関連記事)、さらに妥当なものとなりました。

 エトルリア語はローマ帝政期までイタリア半島中央部で存続した消滅言語とみなされていますが、孤立していませんでした。代わりにエトルリア語は、アルプス東部で記録されており、古代の歴史家がポー川流域から移住してきたと主張している人口集団の言語であるラエティア語と、エーゲ海の古代リムノス島で話されていたと推定されているレムニア語の両方と関連しているようです。これにより、これらの謎めいた「ティルセニア(Tyrsenian)」語族が地中海東部からの海路での拡大と何らかの関係があるのかどうか、という疑問が残ります。しかし、CIEにおけるイラン関連祖先系統の欠如は、地中海全域の密接な言語の類似性がイタリア半島からの人口移動を表している、という可能性も示唆しているかもしれません。

 本論文のデータセットで外来の遺伝的兆候を有する最初の個体(CAM002)は、放射性炭素年代で紀元前7世紀となり、ヨーロッパ中央部の遺伝的特性を示します。前期鉄器時代には、ケルト関連集団と関連するハルシュタット(Hallstatt)文化がアルプスの北部地域に存在しました。エトルリア文化と紀元前8世紀の北方文化集団との間の商品や技術の交換の考古学的証拠はありますが、広範な直接的接触が後になってやっとラ・テーヌ(La Tène)文化期に報告されており、この頃にはケルト関連集団がエトルリア人との境界となるイタリア半島北部へと拡大していました。本論文で提示されたデータセットでは、放射性炭素年代で400年の違いにも関わらず、CAM002個体と重なる遺伝的特性を有する、放射性炭素年代で紀元前3世紀の別の個体(VET005)が見つかりました。これは、ハルシュタット文化期からラ・テーヌ文化期のエトルリアで見つかる、ヨーロッパ中央部の遺伝的祖先系統の供給源における継続性を示唆します。

 紀元前4〜紀元前1世紀には、それ以前の4世紀間よりも、近東およびアフリカ北部個体との最大の類似性を示す、外来の遺伝的祖先系統を有する個体群の割合が高いと特定されます。これは、エトルリアと他地域との間の相互作用の増加により説明できますが、港と関連する社会だけではなく、後背地の社会にも当てはまります。そうした大陸間接続の象徴的事例は、ウェツロニアのサン・ジェルマーノ(San Germano)遺跡で観察され、同じ墓の内部でさえ、紀元前8〜紀元前6世紀の在来の遺伝的特性から紀元前4〜紀元前3世紀のヨーロッパ中央部およびアフリカ北部関連祖先系統への明確な遺伝的移行があります。紀元前4〜紀元前3世紀には、類似のアフリカ北部の遺伝的兆候が、遠く離れたタルクイーニア遺跡の別の2個体で観察されます。これらの発見が一般的な現象を表しているのかどうか決定するには、この時期のより多くのデータが必要ですが、この祖先系統が地中海全域のカルタゴ帝国の拡大により影響を受けた可能性はあります。

 しかし、紀元前千年紀の個体群の大半は、ヴィッラノーヴァ文化期間からローマ共和政期末までの800年以上、高水準の遺伝的継続性を示します。エトルリアではヨーロッパ中央部祖先系統への類似性増加は検出されませんが、混合がラテン人関連集団など類似の遺伝的特性の人口集団間で近隣地域全体において起きた可能性を除外できません。しかし、エトルリアにおけるほぼ千年にわたる顕著な遺伝的安定性は歴史的記録と一致しており、エトルリアの共和政ローマへの同化は人口統計学的過程というよりもむしろ政治的だった、と記述されており、それは何世紀もこの地域でエトルリアの文化と言語が維持されたことによりさらに証明されます。

 対照的に、ローマ帝政期と古代末期(紀元後1〜500年)の全ての分析された個体は、地中海東部の人口集団に向かって祖先系統で顕著な動きを示します。この変化の強さは集団間の火葬や土葬などさまざまな埋葬習慣の経時的頻度変化に影響を受けた可能性がありますが、上向きもしくは下向きの社会経済的および地理的移動性の増加期において、人々の大規模移動にさいしてのローマ帝国の役割を明確に示します。

 ローマ周辺を含むイタリア半島中央部では(関連記事)、これまでに検出された流入してくる祖先系統はおもに、ローマ帝国の他地域よりもむしろ近東由来でした。先行するエトルリア人関連遺伝子プールの最大50%の遺伝的置換は、奴隷と兵士の移動により影響を受けた可能性が高く、地中海東部からイタリア半島へのヒトの移動のより大きなパターンに沿っています。ローマ帝国での市民権は、212年に全自由民に付与することとしたカラカラ帝の勅令が出るまでに、より多くの自由民階級に次第に拡大され、拡大された市民権は、在来集団と他の集団との間の混合を促進した可能性が高そうです。エトルリアからの本論文の新たなデータは、近東祖先系統の流入がより大きな首都圏自身を超えて拡大した、と示しており、人口移動のこのより広範なパターンがイタリア半島の大半に影響を与えたかもしれない、と示唆します。

 中世初期(紀元後500〜1000年)へのゲノム時代区分へと続くと、ヨーロッパ北部関連祖先系統の拡大を通じて、以前のエトルリア地域の一部における追加の遺伝的移行が観察されます。混合モデルは、ランゴバルド文化と関連する既知の個体群からもたらされたこの遺伝的構成要素と一致しますが、他の文化集団が同様に寄与した可能性もあります。したがって、西ローマ帝国の崩壊とランゴバルド王国成立後のイタリア半島の大半に拡大した移民は、イタリア半島中央部の遺伝的景観に追跡可能な影響を残したかもしれません。最後に、本論文の分析は、トスカーナとラツィオとバジリカータにおける中世初期と現在との間の広範な人口集団連続性を特定しており、イタリア半島中央部および南部の現代人の主要な遺伝子プールが少なくとも1000年前頃にはほぼ形成されていた、と示唆されます。

 結論として、本論文はイタリア半島の人口史の五つの主要な側面に光を当てています。第一に、エトルリア文化と関連する個体群は、非インド・ヨーロッパ語族言語を話しているにも関わらず、草原地帯関連祖先系統を高い割合で有していました。エトルリア語がじっさいに青銅器時代の拡大に先行する残存言語だったならば、広範な遺伝的不連続性にも関わらず言語が継続した稀な事例の一つを表していることになるでしょう。エトルリア人の草原地帯関連祖先系統は青銅器時代イタリック語派話者、おそらくは部分的な言語的移行をもたらした長い混合過程を通じて媒介された可能性があります。第二に、青銅器時代の混合後、エトルリア人関連の遺伝子プールはほぼ800年にわたって、近東とアフリカ北部とヨーロッパ中央部起源の可能性が高い個体の散発的な存在にも関わらず、一般的に均一なままでした。第三に、地中海東部祖先系統が、ローマ帝政期にエトルリア人関連の遺伝的特性の大部分を置換しました。第四に、ヨーロッパ北部祖先系統からのかなりの遺伝的流入が、中世初期におそらくはゲルマン部族のイタリア半島への拡大を通じてもたらされました。第五に、イタリア半島中央部および南部の現代の人口集団の遺伝的構成は、紀元後千年紀の末までにほぼ形成されました。

 上記の結論を立証するには、イタリア半島全域の古代DNAのより広範な地理的分析が必要となりますが、トスカーナとラツィオ北部では、ローマおよびその周辺市で報告された祖先系統の変化とひじょうに類似した祖先系統の移行が観察されており、紀元後千年紀の歴史的事象がイタリア半島の広範囲で大規模な遺伝的変化を決定した、と示唆されます。イベリア半島では、鉄器時代と現代の人口集団間で類似の置換が観察されています(関連記事)。これは、ローマ帝国がヨーロッパ南部の人々の遺伝的特性に長期の人口統計学的寄与を残した、と示唆しており、ユーラシア西部の遺伝子地図におけるヨーロッパと近東の人口集団間の間隙を架橋します。ローマ帝国の他の領域からの追加の考古遺伝学的データセットが、流入集団の遺伝的起源をより正確に特定し、混合の地域的に固有のパターンを識別するうえで重要です。


参考文献:
Posth C. et al.(2021): The origin and legacy of the Etruscans through a 2000-year archeogenomic time transect. Science Advances, 7, 39, eabi7673.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi7673


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_3.html

4. 中川隆[-10809] koaQ7Jey 2024年4月26日 09:41:01 : JptZAinZdg : YTc2Uzhob2xSQ1U=[4] 報告
<■57行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
【アメリカ】ローマ帝国と現代アメリカの意外な関係!ローマ滅亡の本当の原因からアメリカの未来を考える
世界史解体新書
2024/04/25
https://www.youtube.com/watch?v=C-xB7QmTjGA

本日のテーマは「古代ローマ帝国の滅亡」でした!


ローマの歴史を一本にまとめたぜ! 人の全てがここにある
俺の世界史ch
2023/03/04
https://www.youtube.com/watch?v=amNQaM-Xoh0&t=0s

00:00 王政ローマ(前編)
10:53 王政ローマ(後編)
19:06 カミルス
23:44 サムニウム戦争
31:13 ピュロス戦争
41:26 第一次ポエニ戦争
56:03 ハンニバル戦争
1:15:46 スキピオVSハンニバル
1:38:02 第三次ポエニ戦争
1:52:38 グラックス兄弟の改革
2:17:08 マリウスとスッラ
2:44:28 第一次三頭政治
3:15:26 共和政ローマの終焉
3:31:16 元首政ローマ
3:43:20 ユリウス・クラウディウス朝の成立
3:58:20 ユリウスクラウディウス朝の破滅
4:27:33 四皇帝時代
4:41:14 フラウィウス朝
5:05:46 ネルウァ&トラヤヌス(五賢帝時代の始まり)
5:33:17 ハドリアヌス
5:58:41 二人のアントニヌス
6:28:46 コンモドゥス
6:54:05 五皇帝時代
7:08:05 カラカラ帝
7:34:12 ヘリオガバルス
8:00:06 ユリア・メサ
8:22:11 軍人皇帝時代
8:39:24 テトラルキア
8:55:07 コンスタンティヌス帝
9:11:43 背教者ユリアヌス
9:28:11 ローマの東西分裂
9:39:14 ホノリウス
10:16:56 西ローマ帝国の滅亡

王政ローマ前編が公開されたのが2020年の2月15日、この時はまだチャンネル登録者数1000人に到達していなかったんだぜ

*オクタヴィアヌスは2023年現在の教科書でオクタウィアヌスとなっているなど、ラテン語は濁音を表記しないのが2023年現在の主流となっています。動画ではネルヴァなど濁音を表記していますが、試験などの際には教科書の表記通りに書きましょう。

小学生でもわかる古代ローマの歴史【西洋史第2弾】
2020/02/26
https://www.youtube.com/watch?v=2fB67WNYB-M&t=64s

古代ローマの歴史です。超古代文明って感じです。裕福な人が貧乏人から搾取するのを国が干渉して抑えるぞ的な、近現代の資本主義っぽい具合の感じにもなってます。中国の国共内戦とかにも似てます。もう少し条件が揃っていればもうこの時代から軍事革命や産業革命が起きてたかもしれません。まさに文字通りロマンです。古代ローマはあらゆる点において完璧すぎるのでツッコミどころがほとんどなく、ネタっぽい風味を出す隙を与えてくれなかったのが少し残念でしたが、それでこそ古代ローマ文明だとも思いました。

・その他用語
帝国になる前の古代ローマ・・・共和制ローマ
偉い人たちが集まった中央政府・・・元老院
アフリカ側の国の名前・・・カルタゴ
ポエニ戦争後に土地を占有して裕福になった人たち・・・ラティフンディア
貧困層助けようぜグループの名前・・・ポプラレス
貧困層助けねえよグループの名前・・・オプティマテス
アウグストゥスの皇帝になる前の名前・・・オクタウィアヌス
アウグストゥス(オクタウィアヌス)のライバル・・・アントニウス
一回目の時の中東のデカイ王国・・・パルティア
二回目目の時の中東のデカイ王国・・・ササン朝
北方の謎の異民族・・・ゲルマン人
ヤバイ皇帝・・・コンモドゥス帝
ダメな皇帝・・・カラカラ帝
ローマ帝国を半分に分けた皇帝・・・ディオクレティアヌス

【2ch歴史】ローマ帝国が滅んだ理由がヤバすぎるwww
2chで世界史学ぶ民
2023/06/09
https://www.youtube.com/watch?v=GGA0IAkM5I4&t=6s

5. 中川隆[-10568] koaQ7Jey 2024年5月19日 09:28:47 : Jph8KZqLro : d0RON2Fyc2czaVU=[12] 報告
<■206行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年05月18日
宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%AE%E5%B5%9C-%E9%BA%BB%E5%AD%90/dp/4065350220


 講談社現代新書の一冊として、講談社より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はローマが帝国となっていく過程を検証し、おもにローマが大国化していく紀元前3世紀末からアウグストゥスの頃までを対象としていますが、それ以前の地中海地域の一都市国家だった時代も取り上げられています。確かに、ローマ帝国の成立において、規模や勢力の点で地中海に多数存在した都市国家と変わらなかった頃の歴史は、ローマの覇権を可能としたのが何だったのか、解明するうえで重要になると思います。

 都市国家ローマの起源は曖昧としていますが、紀元前8世紀頃に現在のローマ市の中心部にラテン人と呼ばれる人々の一部が集まり、都市の原型が建設されたのだろう、と推測されています。本書は、都市国家だった頃のローマ人にとって、精霊により守護され、神々の特別の恩寵を受けた都市こそが国の本質で、周囲の土地はそれに付随するものにすぎなかった、と指摘します。初期のローマの特徴は王が存在したことで、10人の王のうち最後の3人はラテン人とは異なるエトルリア人だった、とされています。ローマで王が追放されたのは紀元前509年と言われており、共和政が始まります。共和政の当初は、全市民が平等だったわけでも、国政に携わったわけでもなく、王政期以来の少数の貴族(パトリキ)がいました。共和政当初の貴族は、元老院の議席と政務官を独占していました。政務官の権限は行政のみならず軍事と司法と宗教行為にまで及び、とくに執政官(コンスル)と法務官(プラエトル)は戦地で軍の命令権など、絶大な権限を有していました。平民は政治決定機関の民会には出席できましたが、民会も貴族が議決を左右できました。しかし、エトルリアなど周辺勢力との戦いが相次ぎ、度々危機に陥る中で、戦力として重要な役割を果たしていた庶民が権利拡大を訴え、紀元前494年には平民の利益を代表する護民官が設置され、平民のみが参加し、護民官が主宰する平民会も設立されます。紀元前367年には、リキニウス=セクスティウス法により、二人いる執政官のうち一人は平民が就任することになります。紀元前287年のホルテンシウス法では、平民会の議決には貴族も従わねばならない、と定められました。

 こうして政治および社会的には、貴族と平民との間の格差は解消されていきましたが、経済的格差の解消はさほど進まなかったようです。本書は、都市国家時代のローマが元老院と政務官と民会の三機関の相互補完と牽制で成り立っていたことを指摘します。ただ、平民から執政官に一人選出されるとはいっても、一部の富裕な家系が独占するようになり、元老院の政務官への「助言」が実質的に「命令」になるなど、共和政とはいっても現実には寡頭政だった、と指摘されています。身分闘争後に権力を有した貴族は、旧来の貴族(パトリキ)と区別して、ノビレス(貴顕貴族)と呼ばれます。しかし、平民がこうした寡頭政に本格的に抵抗するようになるのは紀元前2世紀半ば以降でした。当時のローマ人にとって市民は全員自由で平等ではあるものの、それは能力や立場に応じて権力や権威を備えている状態と考えられていた、と本書は指摘します。これは、富裕市民が祭りや娯楽を主催したり、食料を市民に施したりといった、富裕者の義務という強い観念につながっていきます。相対的な関係において、有力者(パトロヌス)が弱者(クリエンス)を庇護するわけで、この関係はパトロネジと呼ばれ、通常は特定の二者間で結ばれ、世代を超えて継承されたようです。

 上述のように地中海の一都市国家だった共和政ローマは当初から周辺勢力と戦い、他の都市国家の併合などで領域を拡大していき、紀元前3世紀半ば頃までにはイタリア半島のほぼ全土を支配化に起いて、紀元前3世紀後半にはイタリア半島外にも支配領域を広げます。ただ本書は、この時点でのローマを帝国とは評価しておらず、ローマによる「支配」の実情を検証します。ローマに敗北した都市国家の市民が、それまでの市民としての権利を奪われた代わりに、ローマ市民権を与えられたり、戦後にローマ市民の一部が移住した都市もあったり(コロニア)、ローマに敗れるか従属した後でも、自立した国や共同体であり続けたりしました。ローマは支配化の各国と条約を締結し、同盟関係となりました。そうした国々がローマに逆らうことは難しく、その意味ではローマの支配下にあったものの、法的な意味では自立していた、というわけです。ローマが支配域を拡大していく過程で奴隷も増えたようで、そうした奴隷が解放されると、ローマ市民となり、解放奴隷には制約があったものの、その子供の世代以降にはそうした制約がありませんでした。こうした奴隷出自の人々は、実際にはさまざまな面で差別を受けやすく、比較的差別を受けにくい大都市に集まる傾向があったので、ローマでも一定の影響力を有するようになっていきます。

 こうして、ローマは支配域の拡大とともに、社会が膨張して複雑化していきました。こうした状況で、紀元前3世紀半ばに起きたのが第一次ポエニ戦争(紀元前264〜紀元前241年)です。第一次ポエニ戦争は長引き、ローマもカルタゴも疲弊したものの、ローマに有利な和平条件だったことから、ローマの勝利と評価されています。ローマは第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、その後の混乱の中でコルシカ島とサルデーニャ島をカルタゴから奪い、海外支配が始まります。この海外支配は、イタリア半島の支配とは明らかに異なっており、属州とされました。属州民はローマの構成員ではあるものの、国政に参与できなかったり、ローマの裁判を受けられなかったりと、ローマ市民と同じ権利を有していないにも関わらず、納税や軍役などの義務が課せられ、税負担はローマ市民より重く、軍役では危険な任務を課せられました。属州を統治した総督はローマ市から派遣され、行政権と司法権のみならず軍権も掌握し、属州法に基づいて統治したものの、実質的に総督の裁量権はほぼ無制限でした。ただ、シチリア島のローマによる統治は当初、まだ属州法がなく、執政官も法務官もシチリア島で任務に就いていたわけではなく、後の属州の在り方とは大きく異なっていたようです。また、この時点では国内の政治体制が大きく変わったわけでもなく、本書は、ローマが本格的な帝国となっていくのは、紀元前2世紀初頭にイベリア半島に二つの属州が設置されて以降と評価しています。

 ローマの帝国化が本格的になっていく重要な契機が、第二次ポエニ戦争(紀元前218〜紀元前202年)でした。紀元前216年のカンナエの戦いでローマは大敗し、当初はカルタゴの呼びかけに応じなかったローマの同盟都市の中で、カルタゴへの寝返りも見られるようになります。しかし、カルタゴ側への寝返りはイタリア半島南部以外の地域にまで広がらず、イベリア半島のカルタゴ勢力が紀元前206年に駆逐されたこともあり、カルタゴは劣勢となり、紀元前202年にザマの戦いでローマに敗れ、アフリカ外での戦争放棄およびアフリカ内でのローマの承認なしの戦争放棄や高額な賠償金など、過酷な和平条件を受け入れることになります。ただ、カルタゴは政治的にも経済的にも文化的にも自立を維持できました。第二次ポエニ戦争の結果、ローマのイベリア半島支配は確たるものになり、二つの属州が設置されますが、その直後から、先住民集団とローマとの戦いが激化します。イベリア半島の先住民は、カルタゴがイベリア半島から駆逐され、自立できると思っていたところに、ローマの強い支配下に置かれることになったので、放棄したようです。イベリア半島でのローマの属州支配は、ローマから派遣される統治官(総督)の人気がないなど、柔軟なものでしたが、それが共和政の権力構造の基盤となっていたさまざまな原則や縛りからの解放になっていたことを、本書は重視します。こうした例外的措置が常態化していくことで、共和政の骨幹が揺らいでいった、というわけです。イベリア半島での先住民とローマ側との戦いは断続的に続き、大カトのように明らかに先住民に対して優越的態度を示し、「奴隷状態に置く」ことを考えた有力者もいましたが、紀元前171年の「条約」により、「ローマ人の友」としての立場が確立します。しかし、属州総督による搾取はより体系化して強化され、こうしたイベリア半島における属州の在り様は、拡大していった帝国としてのローマの属州を先取りするものでもあったようです。

 一旦は安定したかに見えたローマのイベリア半島支配は、紀元前150年代以降、再び動揺し、先住民とローマとの間で激しい戦いが続きます。ローマは先住民側に度々敗れながらも、最終的にはイベリア半島の属州統治を確立しますが、イベリア半島には多様な先住民集団が存在し、その一部はすでにローマとの間に安定した関係を築いて、属州民としての立場を受け入れており、ローマとイベリア半島先住民との間の関係は多様だったようです。イタリア半島を境に地中海は東西に区分でき、いわゆるヘレニズム時代以降の東側はギリシア語世界圏になっていった、と言えそうですが、帝国化していくローマは、地中海東部でも勢力を拡大し、ヘレニズム諸国の君主の中にも、ローマの権威により自分たちの立場を守ろう、との動きが見られるようになります。ただ、ローマがヘレニズム世界に属州を設置したのは起源2世紀中頃以降で、イベリア半島よりかなり遅れました。本書はローマ史における転機として紀元前2世紀中頃を重視しますが、その背景として属州での経験を挙げます。属州とされたイベリア半島がローマに莫大な富をもたらしたことなどにより、ローマの対外姿勢は変化し、「国益」のため他者と戦うことを躊躇わなくなった、と本書は推測します。本書はこうした観点から、ローマ帝国の形成を紀元前2世紀中頃と評価します。

 ローマにとって明確な被支配者である属州の拡大は、ローマ社会の変容とも関わっています。ローマの社会は肥大化し、その構造は複雑化して、さまざまな立場の人々が関わるようになります。帝国となったローマを牽引する元老院は、ローマ市民だけではなく、属州の有力者などさまざまな立場の人々の利害に配慮せねばならなくなり、さらには中小農民の没落もあり、ローマ市民のさまざまな要請にも対処する必要が出てきました。さらに、戦争とその結果として設置される属州の富が膨大なものとなったため、元老院内でも権力闘争が激化していきます。これが、「内乱の一世紀」と呼ばれるローマの危機的状況の出現の前提となりました。中小農民の没落などローマ社会の変容に対して、復古を訴えるだけではなく、現実的な改革を求める政治が登場し、グラックス兄弟はとくに有名です。ただ本書は、困窮したローマ市民の救済という点では共通しつつも、兄のティベリウスとは異なり、弟のガイウスは元老院統治体制の弱体化を意図していた、と指摘します。この「内乱の一世紀」の中で、同盟市戦争の結果としてイタリア半島の全自由人がローマ市民権を獲得し、これによりローマの都市国家としての性格は焼失した、と本書は評価します。

 ローマ共和政の根幹だった元老院統治体制はこの「内乱の一世紀」の中で紀元前1世紀中頃までに揺らいでいき、単独で権力を掌握した有力者による統治へとつながり、ついには皇帝と呼ばれる単独の権力者が出現します。この過程での重要人物は、当然カエサルとオクタウィアヌスで、まずカエサルは任期が半年の独裁官をいったん辞任した後で再任し、その後はずっと在職しました。さらに、カエサルは紀元前48年以降、紀元前47年を除いて執政官にも就任し、民会と護民官の権限を縮小しました。帝国に変質したローマではもはや共和政は機能せず、ローマ市民のみならず属州と帝国周辺の広大な地域の人々の支持が帝国の統治に必要となる、とカエサルは理解していたようです。そのカエサルが殺害されたのは、それでも共和政の存続を求める人々がローマ社会の上層に少なからずいたことを示唆しているようです。

 カエサルの没後の権力闘争を勝ち抜き、「内乱の一世紀」を終結に導いたのは、カエサルから後継者に指名されたオクタウィアヌスでした。ただ、紀元前31年にオクタウィアヌスがアントニウスを破り、実質的に単独政権を樹立しても、帝政の開始はもう少し先だった、と本書は指摘します。この時点でオクタウィアヌスの権力は、公式に帝国を統治できると認められる性格のものではなかったからです。本書は、紀元前27年に、オクタウィアヌスが内戦以降に保持していた全権と軍を元老院と市民団に返上する、と宣言し、元老院と民会によりオクタウィアヌスにアウグストゥスの添え名が贈られたことを、本書は重視します。アウグストゥスは紀元前27年に全権と軍を返上すると宣言したさいに、元老院から属州統治を要請され、とくに情勢が不安定な属州の統治を引き受け、10年間の執政官格命令権を得て、後には繰り返し延長され、最終的に無期限とされました。この過程で、不安定な属州の統治との名目でローマ軍の大半を掌握し、その後、護民官職権や上級執政官格権限や大神官職を得るなどして、紀元前2年には元老院と市民団から「国父」の称号が贈られました。この結果、政治と軍事と宗教も含めてローマ帝国全域での全権をアウグストゥスは掌握することになりました。これらの権限には、新たに創設されたものはなく、全て共和政期から存在しました。オクタウィアヌスはローマ市民と最も権威ある者として「第一人者(プリンケプス)」と呼ばれ、オクタウィアヌスを「元首(プリンケプス)」、オクタウィアヌスにより始まった政治体制を元首政と言う人もいます。本書は、こうしてオクタウィアヌスにより始まった政治体制を共和政の再建とは評価していません。それは、これらの官職の条件だった任期などの制約がもはや失われていたからです。こうした帝政もしくは元首政の成立は、ローマ帝国の誕生の結果であり、その逆ではない、と本書は指摘します。
https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_18.html

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