日ロ領土問題と平和条約交渉について 森・プーチン会談と「イルクーツク声明」は何を示したか 2001年4月13日 日本共産党 政策委員会、同 国際局 森首相とプーチン大統領との日ロ首脳会談は、「イルクーツク声明」(三月二十五日)を発表して終わりましたが、両国間の領土問題について、な んらの具体的な前進がなかったばかりか、いっそうの困難をつくりだすものとなりました。日本の各紙も、「依然隔たり大きい日ロ平和条約交渉」、「かすむ 『領土』 日本苦渋 日露交渉進展せず」などと、きびしい見方を示しています。
いったい、このゆきづまりを打開する道はどこにあるのでしょう。そのためにも、あらためて、日ロ間の領土問題の原点はどこにあるのか、自民党外交のどこに問題があるのか、日本共産党はどう考えているのか――について明らかにしておくものです。 一、日ロ領土問題の原点と解決の基本方向は (1)歯舞、色丹と千島列島全体が日本の歴史的な領土 政府もマスコミも、ロシアとの領土問題というと「北方領土」という言葉を使います。「北方領土」という場合、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の四島のことをさしています。 しかし、日本の歴史的な領土は、この四島だけではありません。歯舞と色丹は、もともと北海道の一部です。国後と択捉は、千島列島のなかの南千 島部分だけです。本当は、その北にある得撫(うるっぷ)から占守(しゅむしゅ)までの北千島までを含む千島列島全体が、日本の歴史的な領土なのです。 このことが確定したのは、幕末から明治にかけての十九世紀後半のことでした。 それまでは、千島列島と樺太(サハリン)島がどの国の領土であるかは確定しておらず、千島列島の南からは日本が、北からはロシアが、それぞれ 進出し、利害が衝突したところでは紛争が起こるという具合でした。それが、千島は日本の領土、樺太はロシアの領土となったのは、二つの条約が結ばれたこと によってでした。 一つは、徳川幕府と帝政ロシア政府との間に結ばれた、一八五五年(安政元年)の「日魯(にちろ)通好条約」です。伊豆の下田で結ばれたこの条 約によって、択捉島と国後島の南千島は日本領、得撫島から占守島までの北千島はロシア領とし、択捉島と得撫島のあいだの海峡を日ロ間の国境とすることが決 まりました。しかし、樺太島については、両国間の境界を決めず、従来どおり日本人もロシア人も自由に活動できる“雑居の地”とされました。 もう一つが、その二十年後、一八七五年(明治八年)にロシアの首都サンクトペテルブルクで結ばれた「樺太・千島交換条約」です。この条約に よって、樺太全島をロシア領とするかわりに、北千島を日本領としました。この結果、千島列島全体が最終的に日本の領土となったのです。この点では、日露戦 争の結果、日本がロシアから奪いとった南樺太とは根本的に異なります。 このように千島列島は、日本が暴力や戦争で他国から奪った領土ではなく、平和的な外交交渉によって日本への帰属が最終的に確定したものであ り、日本の歴史的な領土を問題にするなら、一八七五年の樺太・千島交換条約で画定した国境が、日本とロシアとのあいだの歴史的な境界線となるべきことは、 日ロ外交史が示す自明の結論です。 (2)日本の歴史的領土を奪ったスターリンの大国主義的誤り その千島列島や北海道の一部である歯舞、色丹が、どうして旧ソ連、現在のロシアの領土にされてしまったのでしょう。それは、第二次世界大戦の 最終段階に、ソ連の指導者だったスターリンが、日本の歴史的領土である千島列島の併合を対日参戦の条件として強引に要求し、しかも平和条約の締結もまたず に併合を実行してしまったからです。 もともと、第二次世界大戦の戦後処理については、ソ連が支持した「大西洋憲章(英米共同宣言)」(一九四一年)でも、ソ連ものちに加盟した 「カイロ宣言」(一九四三年)でも、連合国側は「領土不拡大」を最大の原則として確認していました。「大西洋憲章」には、「両国は領土的その他の増大を求 めず」と明記され、カイロ宣言は「右同盟国は自国のために何等の利得をも欲求するものにあらず。また領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」と強調し ていました。 ところが、第二次世界大戦末期の一九四五年二月、クリミア半島のヤルタでおこなわれた米英ソ三国首脳による秘密会談でスターリンは、対日参戦 の条件に日本の正当な領土である千島のソ連への「引き渡し」を要求し、アメリカ、イギリスともこれを認めてしまったのです(「ヤルタ秘密協定」)。スター リンは、この会談で「ソ連が対日戦争に参戦するためには、ソ連が極東で欲している一定の利権が認められることが肝要である」とのべ、「利権の譲渡」を強く 要求したのです(当時の米国務長官ステティニアス著『ルーズベルトとロシア人』)。スターリンの要求は、「領土不拡大」というソ連も参加していた連合国の 戦後処理の原則を乱暴に踏みにじるもので、なんらの国際的道理ももたないものでした。 しかもソ連は、千島列島だけでなく、ヤルタ協定で言及されなかった北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事占領し、戦後まもない一九四六年に、平和条約も問題にならないあいだに、千島列島と歯舞・色丹のソ連領への「編入」を一方的に強行してしまいました。 その後、一九五一年にサンフランシスコ平和条約が結ばれた時、日本は、この条約の領土条項で、千島列島にたいする「すべての権利、権原および 請求権を放棄」すること(第二条C項)を強要されました。これは、この条約の起案者であるアメリカが、一九四五年のヤルタ協定の内容を不当にもちこんだも のでした。しかし、日本はヤルタ協定の当事者ではなく、そこでの秘密の取り決めに日本国民が拘束される理由は、どこにもありません。 日ロ間の領土交渉にあたっては、「領土不拡大」の原則を乱暴にふみにじったスターリンの横暴、大国主義的な領土拡張主義にこそ、今日の日ロ両国間の領土問題の根源があることを、しっかり見定めなければなりません。 ロシア連邦の政府自身が、旧ソ連の国際的地位を継承したものとして、スターリンのこの重大な誤りを正す責任を負っていることは、当然です。 (3)ロシアに領土返還を要求する日本国民の大義は、 スターリンの大国主義的な誤りの是正にある 日本国民がロシアに領土返還を要求する根拠は、スターリンの大国主義的な誤りを正して、日本の歴史的な領土の回復を求めるという点にあります。そこに、領土問題の解決にあたっての、日本国民の側の大義名分があるのです。 領土交渉にあたっては、米英ソ三国のヤルタ協定はもちろん、サンフランシスコ平和条約の「千島放棄条項」にも拘束されないで、歴史的な領土の 回復を要求するという、日本側の大義を明白にすることが、重要です。このことを抜きにしては、日ロ交渉のなかでも、また国際世論の前でも、日本の領土返還 要求の正当な根拠を明らかにすることはできません。 ところが、歴代自民党政府は、平和条約の「千島放棄条項」を絶対化し、この条項を不動の前提とするという立場で、ソ連およびロシアとの領土交 渉にあたってきました。つまり、スターリンの大国主義の誤りを是正するという根本問題を、自民党政府の対ソ・対ロ外交の内容から、完全に欠落させてしまっ たのです。 その結果起こったことは、日本が領土交渉において、国際的に通用する大義を失ってしまうという、重大な事態でした。 (4)領土返還要求の大義を失った自民党外交 自民党政府が、領土返還要求の唯一の国際法的な根拠としたのは、サンフランシスコ条約での「千島放棄条項」を認める、しかし、択捉、国後、歯 舞、色丹の四島は千島列島には含まれないのだから、日本に返還すべきだという主張、すなわち、“南千島は千島にあらず”という主張でした。 これは、きわめて無理な主張でした。 歯舞、色丹は、歴史的にいって、北海道の一部であり、千島列島には含まれません。しかし、択捉、国後は千島列島の一部であり、だからこそ、南 千島と呼ばれてきたことは、日本と世界の常識でした。だから、“千島でないから返せ”という主張は、歯舞、色丹の二島については成り立ちますが、択捉、国 後については成り立ちません。 そして、国後、択捉が南千島であり、したがって千島の一部であることは、その放棄条項を決定したサンフランシスコ会議でも、当然の解釈とされ ていました。アメリカ代表も、その趣旨で発言していました。日本政府代表として出席した吉田首相も、放棄した千島列島には歯舞、色丹が含まれないことを主 張しましたが、択捉、国後については何の異論もとなえず、当時、「千島南部の二島、択捉、国後両島」という発言をしています。また、この条約を批准した一 九五一年の国会での政府の答弁は、「千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含む」(外務省西村条約局長)という答弁で一貫していました。 日本政府は、その五年後の一九五六年に、にわかにその立場を変更して、“南千島は千島にあらず”と主張しはじめたのです。それが、国際的に通 用しない、あとからのこじつけであったことは、当時、サンフランシスコ会議の参加国として、日本政府から見解を問われたイギリスやフランスの政府が、“南 千島は千島にあらず”という見解に同意することをきっぱり拒否したことにも、明確に示されました。 自民党政府が、こうして、スターリンの大国主義の誤りを是正するという大義ある立場を投げ捨て、領土返還要求の根拠を、サンフランシスコ平和 条約の勝手な「解釈」論だけに求めるという道を選んだことは、ソ連およびロシアとの領土交渉における日本政府の立場をきわめて脆弱(ぜいじゃく)なものに しました。 日本政府が“南千島は千島にあらず”と言い出してから、すでに四十五年という月日が経過しました。その間に、形だけの交渉は断続的におこなわ れましたが、交渉の内容――日本側が何を根拠にして領土返還を要求しているのか、ソ連あるいはロシア側がそれを拒否しているとしたら、どんな根拠をもちだ しているのか、そして日本側はそれにどのように反論しているのか等々については、日本国民も日本の国会も、政府から中身のある説明を受けたことは一度もあ りません。それは、日本政府の領土交渉の無力さを示すものです。 領土交渉のこうした状態の根底には、日本政府が、スターリンの誤った領土拡張主義を正すという国際的な正義の立場を捨て、「千島放棄条項」の 枠内での領土返還要求というごまかしの道を選んだという、外交上の根本問題が横たわっていることを、いま、あらためて指摘せざるをえません。 二、領土問題での一方的譲歩を表明した「イルクーツク声明」 自民党政府の領土交渉のこうした弱点は、今年三月二十五日、日ロ首脳会談で発表された「イルクーツク声明」のなかに、集中的な形で示されまし た。そこには、領土問題の根本にかかわる、三つの重大な問題点が含まれており、そのすべてが、領土問題での日本側の一方的な譲歩を表しているのです。 (1)北千島は最初から放棄 「イルクーツク声明」(以下、「声明」)の第一の問題点は、領土交渉の対象を、択捉、国後、色丹、歯舞の四島に限定し、得撫以北の北千島については最初から放棄することを、あらためて確認したことです。 「声明」は、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属にかんする問題を解決することにより、平和条約を締結」するとしています。この 「四島返還」論は、一九九三年の細川首相とエリツィン大統領との間の「東京宣言」でも明記され、一九九七年の橋本首相とエリツィン大統領との間の「クラス ノヤルスク合意」でも確認されてきたものです。 「東京宣言」の際、わが党は当時不破哲三委員長の談話で、この立場は「北千島を最初から領土返還交渉の枠外におくと同時に、択捉、国後の南千 島についても領土返還要求の国際法上の根拠を失わせるものである」(「赤旗」一九九三年十月十四日付)と指摘しました。それは、この立場が最初から北千島 を放棄するというだけにとどまらず、“南千島は千島にあらず”という国際的に通用しない立場と一体のものだからです。 日本が、ロシアに領土返還を要求する最大の論拠は、千島列島全体が日本の歴史的領土であるにもかかわらず、第二次大戦後の不公正な処理によっ てロシアに引き渡されたものだからです。それが、北千島は最初から領土返還交渉の枠外に置くというのでは、南千島の国後、択捉の返還要求も根拠がないとい うことになってしまうからです。 (2)歯舞、色丹の早期返還の道を閉ざす 「声明」の第二の問題点は、歯舞、色丹の早期返還の道を閉ざしてしまったことです。 歯舞、色丹は北海道の一部であり、もともと千島放棄条項の対象とはなりえない島々です。この点については、サンフランシスコ条約批准国会で日 本政府自身が、「色丹島および歯舞島が北海道の一部である事実は連合国の絶対多数の承認を得ておるところ」(西村条約局長)、「千島列島の中には歯舞、色 丹はこれは全然含まれない」(草葉外務政務次官)と明言しています。 ですから、歯舞、色丹は、問題の性格からいって、平和条約の締結を待つことなく、その速やかな返還を要求して当然なのです。現に、日本共産党 は、旧ソ連の時代に、政権党であったソ連共産党と領土交渉をおこなったさい、平和条約の締結にいたる以前に、日ソ間で中間的な条約を結び、歯舞、色丹の二 島をまず返還すべきだと提案し、ソ連側に迫りました(一九七九年)。 この点で、「声明」が、一九五六年の「日ソ共同宣言」を、「平和条約締結にかんする交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」と確認 したことは、重大です。その「宣言」では、歯舞、色丹の日本への「引き渡し」について、両国間の「平和条約が締結された後」と明記されているからです。こ れを、領土交渉の出発点を設定した「基本的な法的文書」として扱うということは、日本側にとっては、平和条約以前に歯舞、色丹の返還問題を解決する道を閉 ざすという意味をもつものです。それはまた、ロシア側には、歯舞、色丹の返還を領土交渉の終着駅にしようとする思惑に有力な根拠を与えることになります。 政府は、この部分を含む「宣言」の“有効性”を初めて両国の共同文書に明記したことを今回の首脳会談の大きな“成果”としていますが、成果どころか、平和条約締結以前の二島返還への道を閉ざしてしまったものであり、重大な後退というべきです。 (3)国後、択捉についても施政権の放棄という日本の譲歩だけが残った 国後、択捉についても今後の交渉への新たな具体的手がかりはなんら得られませんでした。そればかりか、一方的な譲歩だけが残りました。 日本政府は一九九八年の川奈での日ロ首脳会談のさい、択捉と得撫のあいだを想定した「国境線の画定」だけの合意で平和条約を締結し、国後、択捉の「施政権」はロシア側に残してよいという一方的な譲歩の提案をおこないました(橋本首相の「川奈提案」)。 しかし、「施政権」問題の解決は先送りするといっても、いったん平和条約を結べば、戦後国境・領土問題は最終的に解決したと見なされ、施政権 の返還の保証はどこにもありません。これは事実上の放棄論に等しいものです。この川奈提案は今なお当時の両国首脳会談の記録に残っています。それどころ か、昨年十一月のブルネイでの日ロ首脳会談のさい、森首相は「川奈提案は今でも最良の案だと考えている」とのべて、それまで非公開の交渉で内々の提案とさ れていたものをみずから公表し、再確認してしまいました。こうして、ロシア側は何らの譲歩もしないのに、日本側が施政権放棄という一方的な譲歩の言明をお こない、その言明だけが日ロ交渉の記録に既定事実として残るという、重大な事態を招いてしまったのです。 この足元を見すかされたのが、今回のイルクーツク会談です。日本側は、「日ソ共同宣言」を“初めて公式文書で明記したことにより歯舞、色丹の返還は法的に確認された。今後は国後、択捉の帰属問題の交渉をおこなう”などといっています。 しかし、ロシア側の解釈はそうではありません。対日交渉を担当しているロシュコフ外務次官は四月四日、「宣言」にもとづいて歯舞、色丹を「引 き渡す」場合、残りの国後と択捉の帰属にかんする交渉を継続することは意味がなくなるとの立場を示しました。もし歯舞、色丹を返還したら、もう国後と択捉 の帰属問題は交渉しないというのです。 このように、ロシアへの日本側の譲歩につぐ譲歩というのが、森・プーチン会談の実質だったのです。 結論 一方的譲歩や小手先の外交では前進できない 「イルクーツク声明」にいたる領土交渉の全経過が示しているのは、一方的な譲歩や小手先の対応だけの外交では、領土問題は解決できない、ということです。 日本政府は近年、対ロ交渉のゆきづまりから抜け出そうとして、国民に真実を隠した密室交渉を進め、北千島放棄を確認するだけでなく、四島につ いても一方的な譲歩を重ねてきました。自民党の内部には、歯舞・色丹の返還だけで平和条約を結んではどうかといった声もあると伝えられています。この点で は、前述のロシュコフ発言と一致します。 もう一つが、経済援助を領土問題打開の梃子(てこ)にしようとしたり、首脳間の個人的な“友好”関係に頼ったりすることでした。こうした小手先の対応では、積極的な結果をもたらすどころか、問題をいっそう複雑にするだけというのが、この間の教訓です。 「イルクーツク声明」発表後、森首相は記者会見で、「これまでの交渉の姿を明確な形で総括した」とのべましたが、たしかに国際的大義をもたな い自民党の無原則外交のもとでは、領土返還が前進するどころか、一方的譲歩と後退しかもたらさないことを証明したという点で、自民党外交の破綻(はたん) を「総括」するものといえるでしょう。 自民党の領土返還交渉がなんらの大義もなしにおこなわれていることは、三月二十七日、衆院本会議でのわが党の山口富男議員の質問でも鮮明にな りました。森首相は、山口議員が「いったいどういう根拠と大義を示してロシアとの領土交渉にあたったのか」と質問したのにたいし、なにひとつ大義を示すこ とができず、北千島を最初から放棄した一九九三年の「東京宣言」など日ロ間の合意事項を交渉指針としていると答えるだけでした。ロシアとの領土交渉にあ たって、そのロシアとの合意事項を指針にするなどとは、外交とは何であるかも知らないものの議論としかいわざるをえないものです。 結局、自民党外交がもたらしたものは、北千島は完全放棄、国後、択捉が返還される可能性は限りなく小さい、歯舞・色丹の「引き渡し」は前途遼遠(りょうえん)――ということでしかありません。 三、問題解決への道を切り開くために 日本共産党の立場と見解 では、どうすれば領土問題を解決することができるのでしょうか。 日ロ間の領土問題は、前述のとおり、第二次世界大戦終結のさいスターリンが「領土不拡大」の原則を破り、千島と歯舞、色丹を一方的にソ連に併 合したことから起こったものです。したがって、問題解決の基本は、この大国主義的、覇権主義的な誤りを是正することにあります。そのためにも、一国の正当 な歴史的領土を他国が併合することは許されないという、二十世紀が到達した国際法の根本原理にたって、今後の交渉にあたることです。この立場から、わが党 は、領土 交渉にあたる基本的な態度として、次のことをあらためて提案するものです。 (1)ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」や サンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提としないこと 対ロ領土交渉にかんする日本政府の立場は、サンフランシスコ条約の千島放棄条項の絶対化です。ここから、“南千島は千島にあらず”という国際的に通用しない無力な奇弁も出てくるのです。これを根本から正すべきです。 ソ連がヤルタ会談で対日参戦の条件の一つとして千島列島のソ連への「引き渡し」を要求したこと、それに米英が応じたことは、ともに「領土不拡 大」という戦後処理の原則に明白に背反する行為でした。その後、サンフランシスコ条約にアメリカの要求で「千島放棄条項」が入れられたことは、ヤルタ協定 での不公正な密約を具体化するものでした 問題の公正な解決には、戦後処理のこの不公正を国際的な民主主義の道理にたって是正することが欠かせません。そのためには、ヤルタ協定やサンフランシスコ条約の千島関連条項を日ロ交渉の不動の前提としないことです。 サンフランシスコ条約の個々の条項に明記された内容がその後、条文の公式な取り消しなしに、実際に変更された事例はあります。たとえばアメリ カは沖縄の施政権を確保しましたが、一九七〇年代はじめに、米軍基地の問題は残されたものの、施政権は返還されました。沖縄の祖国復帰が沖縄県民をはじめ とする国民的な強い要求と運動によってかちとられたことは、周知のとおりです。 日本は、ロシアの世論にたいしても、世界の世論にたいしても、歯舞、色丹と千島列島が日本の歴史的領土であること、そのロシアへの併合が国際 道理に照らして不公正なものであり、それをもたらしたのがスターリンの大国主義的誤りであったことなどを正面にかかげ、訴えることこそ必要です。 (2)基本に十九世紀後半の日ロ両国政府間の 平和的な領土交渉の到達点をおくこと 日ロ両国が、近代国家形成の過程で、戦争などの手段に訴えることなしに国境を画定しあった十九世紀後半の平和的な領土交渉の到達点を、両国間の国境画定の出発点、基準とすることが、強く求められています。 この時期の国境画定にかんしては、すでにのべたように、一八五五年の日魯通好条約と一八七五年の樺太・千島交換条約があります。日本共産党 は、領土問題解決の歴史的な基準としては、当時の領土交渉の最終的な到達点である一八七五年の樺太・千島交換条約にもとづくべきだと主張してきました。平 和的な交渉の結果、同条約によって最終的に全千島列島が日本の領土と決められたのですから、全千島を返還の対象として平和条約締結交渉を進めることには、 十分な根拠があります。 (3)必要なら段階的な返還のための交渉をおこない、 平和条約は領土問題が最終的に解決されたときに締結すること 歯舞、色丹は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島には含まれていないのですから、日ロ平和条約締結を待たず、早期の返還を要求すべきです。そのさい、必要なら、両国間で中間的な条約を結ぶことも可能です。 日ロ交渉は国家間の交渉であり、領土返還要求のすべてを一挙に実現できない場合もありうることです。戦後五十六年間の経過や現状を考えれば、なおさらそうです。 その場合でも、段階的な返還ということで交渉に臨むべきであって、合意できなかった部分の放棄を安易に宣言すべきではありません。ましてや、日本政府が、すでに指摘したような一方的な譲歩を提案することは、絶対に容認できないことです。 そして平和条約は、領土問題が最終的に解決され、日ロ両国間の境界が最終的に画定されたときに締結するべきです。 さらに、外交交渉にあたって、日本側が、返還されるべき島々については、非軍事化すること、自然環境を保全すること、現在の住民が返還後もそ こでの定住を希望すれば彼らの生活と権利を保障するための措置をとることを、今から明らかにしておくことは、重要な意味をもつと考えます。 このような立場を確立してこそ、真剣な領土交渉もできるし、ロシアの世論や国際世論にも訴えることができます。 日本共産党は、これらの提案の実行をめざし、日ロ領土問題の公正な解決のために、今後も全力を尽くすものです。 https://www.jcp.or.jp/web_policy/2001/04/post-296.html ▲△▽▼ 共産党だけが北方4島ではなく全千島列島返還を主張中 2016.10.06 【返還を求めるのは北方4島だけでない?(外務省HPより)】 12月のロシア、プーチン大統領の訪日を控え、北方領土返還交渉に日ロ間で進んでいる。「まず色丹・歯舞の2島を返還させるのか」「まず4島についての日本の主権をロシアに認めさせるのか」に注目が集まるなか、“異色の主張”を掲げているのが日本共産党だ。
日本の主要政党のなかで唯一、共産党だけはカムチャツカ半島のすぐ南にある占守島以南の「全千島列島」の返還を要求している。同党HPに志位和夫・委員長名で公表された文書には〈全千島列島が返還されるべき正当な根拠をもった日本の領土〉とある。 1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄しているが、なぜ共産党はそれを丸ごと取り返すという「大きな要求」を掲げるのか。党本部の担当者はこう説明する。 「千島列島は歴史的にも日本の領土で、先の戦争で武力によって奪われた。ロシアと平和条約を締結するのであれば、4島のみならず千島列島の全島返還を求め、戦争前の状態に戻すことが正しい筋道でしょう」 この話は、前提に微妙な食い違いがある。日本政府の立場は〈そもそも北方四島は千島列島には含まれません〉(外務省HPより)というもの。 一方の共産党は、放棄した千島列島に択捉・国後が含まれていたとする立場だ(歯舞・色丹は北海道の一部)。 たしかに1951年の講和条約批准にあたっての国会審議で外務省の担当局長は“千島列島に択捉・国後が含まれる”という旨の答弁をしている。共産党は、政府が1955年からの日ソ国交正常化交渉のなかで、〈突然それまでの立場を変え、「国後、択捉は千島列島ではないから返還せよ」と主張〉(同党HP)したと批判している。いったん放棄したものの一部を“やっぱり放棄していない”と言を翻したりするから、交渉が進まない──というのが共産党の主張である。 では、今回浮上した「歯舞・色丹の2島引き渡し」については、どうみるか。この2島が千島列島ではなく北海道の一部、という点は、政府も共産党も一致している。 「まだ政府がその通り交渉をするかわからないのでコメントは控えたいが、国境を曖昧にしたまま、“まず2島返還で合意”などというやり方は、後世に火種を残す可能性が高い。そんな交渉で国民は納得するか疑問だ」(前出の党本部担当者) 共産党は「全千島列島返還」を求め続けるようだが、その実現のハードルが高いことは間違いないだろう。 ※週刊ポスト2016年10月14・21日号 https://www.news-postseven.com/archives/20161006_453465.html ▲△▽▼
党略で樺太を投げ棄てた日本共産党 ロシアを利するおかしな領土解釈 別冊正論25号『「樺太−カラフト」を知る』より 篠原常一郎(元日本共産党国会議員秘書) https://ironna.jp/article/2786?p=1 返還要求を「広さ」で競う? もう三十年くらい前だ。私が駆け出しの「職業革命家」(日本共産党の専従職員を指す党内用語)だったとき、衆議院議員候補者の秘書をさせられ、党中央委員会の幹部でもあった候補者の会話をごく間近で聞くことができた。中選挙区制度下での解散・総選挙を受けて選挙区内を朝から晩まで共に駆け回り、様々な階層の人たちを集めた小集会や演説会を日に何件もこなしていた。
ソ連邦が崩壊するより何年も前で、「ソ連に奪われた北方領土の返還にどう道筋をつけるか」という問題について、集会に出席した人からよく質問が出た。そんなとき、党機関紙「赤旗」の外信部記者として海外駐在経験もある候補者氏はうれしそうにこう説明したものだ。 「ソ連から戦争で奪われた領土を取り返すことでは、日本共産党が主張しているやり方が一番筋の通ったものです。『北方領土』の四島返還だけではなく、全千島の返還を主張しています。これは歯舞、色丹、択捉、国後などの四島以外の放棄を決めたサンフランシスコ条約第二条C項の廃棄を通告すれば可能です」 「日本共産党は、日露戦争でロシアから賠償として奪った南サハリン(樺太)を除き、日露間の正常な交渉で平和的に画定した領土である全千島列島の返還を求めます。どの政党よりも一番広い範囲の返還をソ連に求めていることになるのですよ」 質問者は「へえ、それはすごいね。共産党だからソ連の仲間だと思ったのに、そこまでものをいうんだね」「そんなに大きな広さの返還を求めているなんて、知らなかった」などと驚いていたように思う。
すると、候補者氏、さらに喜んでこう付け加えたものだ。
「日本共産党は自主独立の党で、ソ連でもアメリカでも中国でも、どんな大国に対してもきっぱりものを言ってきましたから」
平成初頭までの党最高権力者、宮本顕治が打ち出していた「自主独立路線」と結びつけて、ソ連からの領土返還論を日本共産党は語っていたのだ。この「自主独立」は、不破哲三など党最高指導者が懐柔され、中国共産党政権の海洋覇権追求のような対外膨張主義にも一切もの申さなくなった最近の日本共産党が、口にしなくなって久しい。
私が候補者氏から「要求面積が最も広い返還」論を聞いた昭和六十年前後から、日本共産党は「四島返還を求める立場にも柔軟に対応する」と称し、毎年二月七日の「北方領土の日」の「北方領土返還要求全国大会」に参加するようになった。
その一方で、相変わらず「日本政府は、千島の南半分の国後、択捉と、千島に含まれない歯舞、色丹のみ返還を求めています。これは日本政府が、一九五一(昭和二十六)年に各国と結んだサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄するという重大な表明をおこないながら、五六年になって『国後、択捉は千島に含まれない』との見解を出し、歯舞、色丹と合わせ『北方領土』として返還を求め始めたからです。この立場は国際的には通用せず、日ロ間の交渉の行き詰まりと迷走の一因」(平成二十二年一月二十七日付赤旗「千島問題をなぜ『北方領土問題』と呼ぶ?」)など、「全千島返還」論を唱える自党のみの正しさを言い続けている。
選挙目当てのご都合主義
当時、若さゆえに党の路線と「科学的社会主義」(マルクス・レーニン主義の言い換え)に頭をしばられていた私は、こうした日本共産党のやり方に疑問は持たなかった。しかしその後、国会論戦や政策準備のため、政府側のレクチャー(担当省庁職員による説明)聴取や資料調査を長期にわたって経験し、さらに党から離れるに至る中で見方が変わった。 自分なりの判断として「全千島返還」論など日本共産党の領土問題への主張と対応は「選挙目当てのご都合主義」にすぎないもの、と考えるようになったのである。
理由の第一は、平和条約締結へ向けたソ連・ロシアとの領土返還交渉の経過と到達点を全く無視した、非現実的な議論であることだ。
宮本顕治元党中央委員会議長(右)と不破哲三前党中央委員会議長 宮本顕治元党中央委員会議長(右)と不破哲三前党中央委員会議長(左) ソ連時代、さらにソ連崩壊後はロシアのエリツィン、プーチン政権との交渉で、ともかくも昭和三十一年の日ソ共同宣言を出発点に領土返還交渉を行うという認識が、日露両国で共有されたのが到達点である。平和条約締結に向けて歯舞、色丹の「二島返還」は最低ラインで、後の問題は協議していくというものだ。 日本共産党の「全千島返還」論は、この到達点を帳消しにして一から交渉し直せというものに等しい。現段階では北方四島を含め全千島、南樺太を不法占拠ながら実効支配するロシアがこんな議論に応じることは、現実的にまったく考えられない。
日本政府が旧島民を含む国民世論を背景に交渉してきた到達点(不十分なものにせよ)に冷水をぶっかける議論が「全千島返還」論だ。こんな乱暴な主張は、政治的にどちらの国を利するものか明白である。
理由の第二は、日露間の領土形成の歴史的事実を覆い隠し歪めた議論が「全千島返還」論の底流にあることだ。まず、「南サハリン(樺太)は戦争でロシアから奪ったもの」とする解釈が、樺太をめぐる我が国とロシアの歴史の事実をまったく無視したデタラメである。
さらに「千島列島全体が一八五五年に江戸幕府と帝政ロシアが結んだ日魯通好(和親)条約と、七五年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約とにより、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」(同)という説明は、幕末―明治初期の日露の力関係や帝政ロシアの帝国主義的ふるまいに目をつぶったもので不正確きわまりない。これらについては、後述する。
北方領土をめぐる見解について説明する日本共産党のホームページ 北方領土をめぐる見解について説明する日本共産党のホームページ 結局、日本共産党の「全千島返還」論は、歴史の事実の中から選挙目当ての自己宣伝に都合のよいものを拾って、単純な理屈になるようつなぎ合わせたものとしかいいようがない。不勉強な候補者や議員でも有権者に説明しやすく加工した子供だましの「日露外交」論なのだ。 まあ、共産党員の身内で何を信じようが勝手だが、これをデマゴギーよろしく有権者の間へ広範に流布し、国政に影響を与えることは日露交渉に有害な影響を与えかねないし、現実にそうだったのではないかと、私は危惧している。
樺太の開拓に先んじた日本
樺太という名前は、かつて東北地方から北海道、千島列島、樺太全域、カムチャツカ半島に至るまで分布・居住していたアイヌ民族の言葉でこの地を呼んだ「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」(神が河口部に作った島)の中の「カラ・プト」が起源だ。 一方、ロシア側が現在用いている地名「サハリン」は、同地を清王朝時代にツングース系の満洲語で呼んだ「サハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ」(黒龍江河口の対岸の島)の最初の部分から来ている。これは、十八世紀に清朝がイエズス会修道士に命じて黒龍江沿岸を測地測量させた際に命名されたもので、「黒龍江(アムール川)河口にある島」という意味では、アイヌ語と共通だ。
南北約千`にわたり面積は北海道より小さい樺太は、もともと周辺国(大陸や半島の歴代王朝)には地形的つらなりから「倭・日本の一部」として認識されていた。日本による同地の活動で最も古くは、飛鳥時代に斉明天皇(五九四―六六一)が阿倍比羅夫(あべのひらふ)に行わせた蝦夷征伐に続く粛慎(しゆくしん)(黒龍江沿岸から樺太周辺にかけて生活していたツングース系狩猟民族)討伐とする説がある。
https://ironna.jp/article/2786?p=3 「正保御国絵図」には樺太(上)や千島(右)などが書き込まれている
十三世紀は、モンゴル帝国(元)と樺太の原住民、それに日本(鎌倉幕府が蝦夷(えぞ)管領(かんれい)を配置し対応)が同地を軸に覇権を争った。一二六四年に元が樺太に軍勢を派遣し、彼らが「骨嵬(クギ)」と呼ぶ現地民を征服したが、八四年には「骨嵬」側が反乱。九七年には蝦夷代官(管領)の安藤氏が樺太原住民(アイヌ民族など)に加勢し、彼らを率いて大陸の黒龍江沿岸まで攻め入って元軍と交戦した。 結局、十四世紀になって「骨嵬」が元に朝貢するようになったが、その後も蝦夷地(北海道)を経由して日本との交流が継続された。
ロシアでの統一帝国(ロマノフ朝)成立が一六一三年であり、樺太周辺での日本の活動の起点を粛慎討伐に置くなら、これより千年近く先んじている。ロシア帝国がその勢力圏を黒龍江河口周辺に届かせ始めたのは一六四四年、同地に辺境討伐のコサック先遣隊が到達してからだ。
江戸時代に入っていたこの時期、松前藩が樺太について幕府に蝦夷地の北にある大きな島として地図を提出。これを含め各藩から提出された地図を基に幕府がまとめた日本全図「正保御国絵図」に樺太は描き込まれていた。
以後、松前藩を軸とした開拓の拠点づくりが進み、一七五二年には樺太での商取引から租税徴収を行う樺太場所(場所請負制度=米を作れない蝦夷地特有の租税徴収システム)が設けられた。一方、北海道太平洋岸と千島は、幕府直轄領とされたので、樺太は松前藩の領地経営の上で、重要な位置づけのものとなった。
以上の経過を見るなら、ロシアはもとより、周辺国よりも先駆けて日本は樺太の開拓に着手していたことがわかる。
間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力
ロシア帝国が樺太に対して領土的野心を示し始めたのは、十九世紀に入ってからだ。十八世紀後半にはヨーロッパの大国に数えられるに至ったロシア帝国は、シベリア開発に本腰を入れると共に太平洋岸への進出を図った。 その中で、鎖国政策をとっていた日本に開国と通商を求めるようになったが、文化三(一八〇六)年から四年にかけて、外交官ニコライ・レザノフ(一七六四―一八〇七)配下のロシア海軍艦船と将兵は、通商を日本から拒絶された報復として幕府直轄領の択捉島や松前藩領内の礼文島、樺太の留加多(るうたか)を武力攻撃した。
これを受けて、幕府は蝦夷地や千島、樺太(北蝦夷地)全体を直轄領とし(その後、文政四=一八二一=年に一旦すべてを松前藩に返還)、その防備のために秋田藩、弘前藩、仙台藩、会津藩への出兵を命じた。
一八〇八〜〇九年には、ロシア海軍の礼文島襲撃の際に同地に幕吏として赴任していた間宮林蔵(一七八〇―一八四四)が樺太全域と黒龍江下流域の探検調査を実施。伊能忠敬(一七四五―一八一八)から測量技術を伝授された間宮は、享和三(一八〇三)年から伊能と共に蝦夷の測量・地図作製に参画した。その経験を生かして樺太の探検に取り組み現地の地勢を正確に把握するとともに、最北端までの全域踏破により樺太が完全な島であることを確認した。
この探検の際、間宮らは樺太最西端のラッカ岬に「大日本国国境」と刻んだ国標を設置している。これらは、本来、樺太に関する日本の領土的主張の歴史的根拠として不足のない事績であり、間宮の歴史的功績というべきものだ。
また、文化元(一八〇四)年以降、幕府は北蝦夷地のアイヌの住民数を把握(同年で二千百人)。以後明治八年まで、住民数は幕府・明治政府が掌握するに至っている。
幕末期が近づく十九世紀半ばには、東アジア進出へのロシア帝国の野心がいっそう強まり、引き続き江戸幕府への開国要求の機会を狙うとともに東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ(一八〇九―八一)は、海軍に樺太調査を命じ、一八四八年に初めて艦船によるタタール海峡(間宮海峡)の通航を実施。ムラヴィヨフは、樺太領有をめざす対日強硬論者で、その後も軍事力をちらつかせながら日本側に譲歩を迫り続けた。
ニコライ・ムラヴィヨフ ニコライ・ムラヴィヨフ 安政元(一八五五)年末に日露和親条約が下田で締結された。千島については択捉島と得撫島の間に国境線が引かれ、樺太については「界を分かたず是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)」とした。幕府は「これまでどおり日本領であり、国境を設けるようなことはしない」という認識で、ロシア人の居留も黙認した。このため安政六(一八五九)年にムラヴィヨフ自ら七隻の海軍艦隊を率いて江戸・品川に来航し、幕府との交渉で樺太はロシア領であると強硬に主張した。 以上のように、ロシア帝国は十九世紀の初めから後半にかけて執拗に日本側に軍事力を背景にした圧力をかけ続け、樺太をわがものとし、さらにそこを足場に日本本体にも進出する野心をあらわにしていた。
江戸まで押し掛けたムラヴィヨフの横柄な要求を、幕府は退けた。しかしながら、ロシア以外にも中国大陸や東南アジアに西欧列強(英、米、仏など)が帝国主義的に進出し、日本にも開国を迫る中、長い治世を鎖国状態で推移した江戸幕府は、あまりに非力であった。
こうした圧力下、樺太ではロシアの武力による支配が着実に広がり、日本側との摩擦が強まったので、慶応三(一八六七)年に幕府が国境画定交渉をロシアにもちかけるが、逆にロシアの新規進出を認めてしまう内容の「仮規則」を結ばされてしまう。これでロシアの支配が一層強まり、明治八(一八七五)年、樺太・千島交換条約で日本は樺太を放棄せざるを得なかったのである。
日露講和会議が行われたアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠 日露講和会議が行われたアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠 当時の日本としては、自分のものである大きな島を、元々は自分のものだった小さな島と引き換えに泣く泣く手放したという感が強かったとされる。明治政府内も「北辺の樺太を手放して、北海道開拓に力を集中することが長期にわたる国益につながる」とする黒田清隆(開拓次官)らの「樺太放棄・北海道防衛」論と「日露が住み分ける国境を樺太に画定すべし」という副島種臣外務卿(外相)らの「住み分け」論に割れていた。加えて「征韓論」を主張する重鎮たちが下野するなど、新政府として基盤が安定しておらず、大国ロシアに屈せざるを得なかった。 これが、日本共産党の言うところの「戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」した樺太や千島に関する日露両国の経過だ。「平和的な交渉」が大国ロシアの軍事恫喝を背景にしていたことは、歴史の事実をたどれば誰にでもわかる。
「南樺太割譲」は過小な失地回復 樺太、千島をめぐる日露間の領土、国境変更がなされる次の機会は、明治三十八(一九〇五)年の日露戦争終結にともなうポーツマス講和条約だ。日本はロシアより北緯五十度を境に樺太南部の引き渡しを受けた。 日本勝利が確実となった同年六―七月にかけて陸軍第十三師団が樺太全域を占領した。これが八月からアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠で開始された講和会議で日本側有利をもたらす力のひとつとなった。それは元々日本が開拓した土地を取り戻したとして、日本史上初の近代戦に疲弊した国民を一面で喜ばせた。
ところが、同九月五日に調印された講和条約では「朝鮮での日本の優越権の承認」「ロシアが保有する東清鉄道の南満州支線及び租借地・炭鉱の日本引き渡し」「ロシアが清より与えられた関東州(遼東半島南部、旅順・大連など)の租借権の日本引き継ぎ」「日本による沿海州漁業権獲得」が南樺太回復以外の成果すべてであった。「戦争に勝ったというのに賠償金もとれず、元々日本のものであった土地の一部を返されただけだ」と、多くの日本国民が失望。「日比谷焼き討ち事件」の暴動にも発展した。
覇権国家による戦争や侵略を防ぐための安保法制を「戦争をするための法律」とすり替える日本共産党。樺太を「戦争でロシアから奪った」と歪曲するのと同じだ(同党ホームページ) 覇権国家による戦争や侵略を防ぐための安保法制を「戦争をするための法律」とすり替える日本共産党。樺太を「戦争でロシアから奪った」と歪曲するのと同じだ(同党ホームページ) 講和による日本の獲得要件が、国民の希望とかけ離れていたのは、陸軍の奉天会戦や旅順攻囲戦、海軍の日本海大海戦など劇的な勝利とは裏腹に、武器弾薬確保や戦費調達に汲々として、これ以上の継戦は難しいというタイミングだったからだ。強気で要求を百%ロシアに呑ませられる状況ではなかった。 こうした中で樺太回復が南部にとどまったことが、国民に相当なマイナス意識を抱かせたことは、樺太千島交換条約から三十年の時点では間違いないだろう。
歴史歪曲は国民的議論で克服を 日露戦争の終結と講和まで俯瞰すれば、日本が「樺太の一部をロシアから戦争で奪った」といえる実態がないことは自然な歴史的理解だといえる。日本共産党の言い分は、樺太をめぐる日本とロシアの歴史に目をつぶるデタラメきわまるものだ。 その後、第二次世界大戦末期にソ連軍が「火事場泥棒」的に南樺太、全千島列島と北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事侵攻して占領した昭和二十年までを見ても、南樺太の 領有が日本と帝政ロシア・ソ連との国家関係を阻害したことは一度もない。一九一七(大正六)年の社会主義革命でソヴィエト・ロシア共和国が成立し、日本は米英仏などと軍事干渉してシベリアに出兵したが、ソ連邦成立後の一九二二年までに撤兵。尼港(虐殺)事件の賠償保障で占領した樺太北部からも大正十四年の日ソ国交樹立に伴い撤退した。
以後、日本は昭和十年から満洲や朝鮮においてソ連やその衛星国(モンゴル人民共和国)が絡んだ国境紛争に何度か関与したが、樺太国境で武力紛争は生じなかった。それどころか、尼港事件の賠償として日ソ基本条約で取り決めた北樺太石油利権獲得で、日本はオハなど油田開発に資金をつぎ込んで事業を展開した。
日独伊三国同盟成立時にソ連側サボタージュで石油の積み出しが妨害されるなど紆余曲折があったものの、昭和十六(一九四一)年の日ソ中立条約締結を機に、油田と附帯施設すべてをソ連側に譲渡した。
以後、ソ連の日ソ中立条約廃棄通告が誤解に基づくと判明しながら、その有効期限内の昭和二十年八月九日に条約違反の対日宣戦を行ったことが決定的だった。日本が降伏条件を定めたポツダム宣言を受諾し、米戦艦ミズーリ号上で日本とソ連を含む連合国の各国代表が降伏文書に調印(九月二日)後も、ソ連は九月五日まで、最高指導者スターリンが宣言した「日露戦争の報復」を掲げた南樺太、千島列島、歯舞・色丹への軍事侵攻を停止しなかった。
結果として、樺太での真岡郵便通信局での九人の女性交換手自決や三船殉難事件(樺太からの婦女子避難船三隻がソ連潜水艦の攻撃で沈没)などをはじめ、南樺太で生活を営んできたアイヌ民族を含む日本国民は多くの死傷者を出した上に故郷を追い立てられたのである。
以後、樺太はソ連によってサハリン州とされた。日本政府は、公式にはソ連を引き継ぐロシア連邦との平和条約締結がされない限り、北方四島は日本固有の領土であり、樺太南部や千島列島(北千島)は帰属が画定していない地域としている。ただ、千島列島と南樺太はサンフランシスコ条約で放棄したとして、昭和三十一年の日ソ共同宣言以降、ソ連・ロシアとの返還交渉の対象にしたことはない。
しかし「南樺太は日本がロシアから戦争で奪った」とする日本共産党の言い分は、樺太開拓に命をかけた先人の事績に泥を塗り、存命者のある南樺太出身者(多くは北海道各地に避難し、再出発した)の心を傷つけるものだ。こんな虚偽の前提に立つ「全千島返還」論は、国民的議論の中で克服されなくてはならない。
歴史の事実の中での樺太をめぐる経緯、国民生活史の中での位置づけを明確にしてこそ、仮に返還交渉の焦点が北方四島であったにしろ、日本の歴史的主張の正当性を、ロシアを含め国際的に広く知らしめ交渉妥結へ進める道が拓かれるはずだ。 篠原常一郎(元日本共産党国会議員秘書) しのはら・じょういちろう 昭和三十五年東京生まれ。五十九年立教大学文学部卒業。 臨時教員などを経て六十年日本共産党職員に。平成七年党中央委員会に移り、党政策委員長で参院議員だった筆坂秀世氏ら三人の国会議員公設秘書を務める。KSD(中小企業経営者福祉事業団)事件や国後島「ムネオハウス」事件、川辺川ダムなど公共事業問題、沖縄の米軍射撃演習問題などの調査、論戦準備に従事した。十六年に党の査問を受けて除籍された後、政治評論や共産党批判を展開。主な著作に『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』(徳間書店)など。ソ連、中国その他旧社会主義国の政治外交・軍事史や共産主義理論の研究・批判も続けながら国会・地方議員のアドバイザー、海外事業コンサルタントとしても活動している。
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