孫 正義(そん まさよし[1]、1957年8月11日[2] - )は、日本の実業家であるソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長やヤフー取締役、スプリント会長、アーム会長、アリババ取締役[3]、福岡ソフトバンクホークス取締役などを務める。ソフトバンクグループの筆頭株主である。 家族・親族 系譜 孫正義は一直孫氏である。一直孫氏の始祖は朝鮮の土着民である荀凝で、元々名字は荀であった。荀凝は高麗時代に名前を孫凝に変えた。[61] ∴ 鐘慶 ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 三憲 某 某 某 女 女 真太郎 ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 正明 正義 正憲 泰蔵 実家
祖父と祖母は漁船の底に潜り込んで日本に入国したという[62]。 在日二世である父親の孫三憲は佐賀県鳥栖市に生まれ2017年現在福岡県で暮らしている[63]。子供の頃に父親の故郷である韓国の大邱に渡るも仕事が無く密入国の形で再び日本に住んでいる。一時期金融業や密造酒を家業としていた[5][64]。孫家は父親の方針の下、将来は韓国大統領を目指すよう教育されるなど非常に勉強熱心な家風であった[5][65]。「足が汚水につかるような場所で苦学して」部落を出て成功した。孫正義が中学生の頃に病気で倒れ、孫正義の1歳年上である兄の孫正明は高校を1年生で中退して家計を支えた。 15歳年下である末弟の孫泰蔵は実業家である。 在日韓国人実業家の二男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に出生。4人兄弟であった。いわゆる通名は「安本正義」[4]。 孫は佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で幼少期を過ごし、差別も経験する[5]。豚や羊と一緒に生活する非常に貧しく不衛生な場所であったが、「今だから言えるが密造酒も家で作っていた」と佐野眞一のインタビューで述べるとともに、父親の三憲が密造酒製造販売と消費者金融・パチンコ業で大成功し、長じてはパチンコ店数十店舗を所有し、高級車を何台も保有するほどの裕福な時期もあったことも明らかにしている[5][6]。 緑ヶ丘・第二幼稚園から北九州市立引野小学校に入学、福岡市立城南中学校に転入後、1973年に久留米大学附設高等学校に入学。 アメリカ時代 高校入学後、家庭教師に薦められた司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を愛読し、脱藩に憧れて渡米を決意し、夏休みを利用して米国カリフォルニア州にて語学研修のため4週間の短期留学。1974年に久留米大学附設高等学校を中退し、渡米(2月)。米国ホーリー・ネームズ・カレッジ(英語版)の英語学校 (ESL) に入学。米国サンフランシスコセラモンテ高等学校の2年生に編入。3年生、4年生へと飛び級。高校卒業検定試験に合格したため、高等学校を3週間で退学(10月)。翌1975年に米国ホーリー・ネームズ・カレッジに入学。 1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入。さらに1979年、シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に[7]、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。インベーダーゲーム機を日本から輸入。結婚。1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士。日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市博多区雑餉隈に事務所を構えた。 実業家 1981年、福岡市博多区に事務所を移し、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を、そして福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。1983年における慢性肝炎での入院をきっかけに社長職を退き会長へ。この時、「お金じゃ無い、地位や名誉でもない、ばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえることに、貢献できたら幸せだ。どこか、名前も知らない、小さな女の子に“ありがとう”と言ってもらえるような、そんな仕事がしたい」と思い、今に至る。「おばあちゃんは、いつも、人さまのお陰だ、と言っていたことから、人を恨んだりしてはいけない」とも語っている。その後、1986年をもって社長職に復帰、パソナの南部靖之、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄とともにベンチャー三銃士と称された[8]。1990年をもって日本に帰化。 1990年、ソフトバンク株式会社に社名変更。 1994年にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。 1996年には米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。 同年、衛星放送プラットフォームの運営会社としてジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)をルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資により設立、マードックが会長、自らは社長に就任。この際、旺文社より全国朝日放送(現テレビ朝日ホールディングス)の株式21%を取得するも、翌1997年3月に当時第3位株主だった朝日新聞社に全株式を譲渡して撤退。JスカイBは1997年にソニーとフジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)がイコールパートナーとして資本参加した。 1998年にはパーフェクTV!を運営する日本デジタル放送サービス(現スカパーJSAT)と合併、スカイパーフェクTV!(スカパー!)として放送を開始した。 1999年、証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資しナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。翌2000年には大阪証券取引所とナスダック・ジャパンプランニング株式会社にてナスダック・ジャパン市場を開始。 ソフトバンク株式会社が東京海上火災保険、オリックスとともに、日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の株式を取得。取締役に就任した。 NTTドコモの第一期アドバイザリーボードのメンバーを1年程務める[注 1]。 2001年からヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo! BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。 2002年、ナスダック・ジャパン株式会社が業務を停止。大阪証券取引所によりヘラクレスとして改組された。 2003年にあおぞら銀行の株式をサーベラス・キャピタル・マネジメント社に売却。 2004年には日本テレコム株式会社 (現ソフトバンクテレコム株式会社) を買収し、同社代表取締役会長に就任。2006年10月には同社の代表取締役社長に就任した。 さらに福岡ダイエーホークスと福岡ドームをダイエーから買収し、福岡ソフトバンクホークスのオーナーに就任。 続けてボーダフォン株式会社(現ソフトバンク株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任した。 2011年に東日本大震災が発生すると、義援金として個人で100億円および2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明し2011年7月14日100億円の寄付が終了した[10]。さらに福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立[11][12]。『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立[13]。 2015年4月1日、ソフトバンクモバイルの代表執行役社長から代表取締役会長に異動した(ソフトバンクモバイルは、同時に、ソフトバンクBB、ソフトバンクテレコム、ワイモバイルの3社を吸収合併)[14]。 2017年には海外の大物経営者が名を連ねている中国の清華大学経済管理学院顧問委員の一人となった[15][16]。 2017年12月14日、MLS参入を目指すデビッド・ベッカムの投資家グループへの参加が承認された。[17] ソフトバンクの創業 設立経緯 自分で考案した「音声機能付き他言語翻訳機」[18]を当時シャープ専務の佐々木正に約1億円で売り込み、大銀行の紹介・融資の手引きをされて1億円の融資を手に入れた[19]。 その資金を元に米国で事業を起こし、1981年には福岡で不動産・産廃業を営む母方の親戚の在日韓国人から1億円の出資を受けて日本で起業する[5][20]。佐野眞一は創業時に1億円を投じた在日韓国人の親戚が個人株主としては現在も最大の株主であるとしている[20]。(ただし、孫自身を個人株主に含めれば孫が最大の株主となっている)。 電話の際に自動的に安い回線を選ぶ「NCC BOX」(いわゆるLCR)をフォーバルの大久保秀夫とともに開発した(その関係で、日本におけるLCRの基本特許は孫が保有している)[21]。大久保秀夫との交流は以後も続き、BBフォン、おとくラインの販売など、ソフトバンクグループの法人向けの営業では常にフォーバルと協力体制を取ってきた。 ソフトバンクの前身 自動翻訳機の売込みで得た資金(1億円)を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。日本で、流行していた「スペースインベーダー」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大きな利益を得た[要出典]。 「日本ソフトバンク」名義の会社を設立したのは1981年(昭和56年)であるが、孫自身は事あるごとに「私は、福岡の雑餉隈ざっしょのくまで、アルバイト社員二人とソフトバンクを始めました」と話している。雑餉隈の雑居ビルに存在した会社は、ソフトバンクの前身にあたる「ユニソン・ワールド」という会社であったが、孫自身はこの「ユニソン・ワールド」がソフトバンクの起業だと考えていることがこの言葉から分かる。孫は同社員の前で、立ち上げた会社を「10年で年商500億の会社にする」と豪語したが、これを聞いた二人は孫の可能性を信じることが出来ず非現実的な法螺話と受け取り、彼の力量を見限って辞めてしまったという話がある[22]。 通名ではなく本名で起業 ソフトバンクの前身であるユニソン・ワールドを起業する際、日本名である「安本」ではなく韓国名の「孫」の名前で会社を興すことを決め、そのことを一族に伝えた[23]。しかし親や親戚からは、在日が日常生活で差別されることはかなり減ったが、就職では間違いなく差別され銀行も絶対金を貸さない、お前の認識は甘い、ハードルは十倍あがる、わざわざ好んでその難しい道を行くのか、と猛反対された[23]。それに対して孫は「たとえ十倍難しい道であっても、俺は人間としてのプライドを優先したい、俺はどれだけ難しい道だって堂々と正面突破したいんだ」 と答えた[23]。一族からは「お前は青い」とも言われたが、父親は何も言わず黙って孫の話を聞いていたという[24]。 孫の名前にこだわった理由はもう一つあり、それは渡米する際に心に決めた志と通名による起業が矛盾するということであった。孫は佐野眞一に対して「何十万人といる在日韓国人が、日本で就職や結婚や、それこそ金を借りるとき差別を受けている。でも在日韓国人であろうが、日本人と同じだけの正義感があって、能力がある。それを自分が事業で成功して、 証明しなきゃならないと思ったんです。これからの在日の若者に、それを背中で示さなきゃいけないのに、俺が 本名を隠してこそこそやったんじゃ、意味がなくなるじゃないか、アメリカに行った目的が達成できないじゃないか。あとから、あの事業を興したのは、実は孫でしたと言ったって……」[25]と述べている。 震災やエネルギー分野での取り組み 東日本大震災復興資金の寄付 2011年4月3日、東日本大震災の被災者支援と復興資金として個人で100億円を寄付すると発表した[26]。また、2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額も、震災で両親を亡くした孤児の支援として寄付するとも発表した[27]。ソフトバンクも企業として東日本大震災に対し10億円の寄付を決定している。孫は3月22日福島県の避難所を訪れ、被災者数万人への携帯電話の無償貸与に加えて、震災孤児対象に18歳までの通信料の完全無料化を表明している。 2011年5月16日、寄付金の配分を発表した[28]。内訳は、日本赤十字社・中央共同募金会・岩手県・宮城県・福島県に各10億円、日本ユニセフ協会などの「震災遺児への支援を行う公益法人」に6億円、茨城県・千葉県に各2億円。40億円は、孫と自治体が共同で設立、孫自身が会長を務める東日本大震災復興支援財団[29]に託す。 2011年6月11日までに、財団分を除く60億円の寄付が各所に行われた[30][31]。 2011年7月14日に、東日本大震災復興支援財団に残りの40億円が寄付として渡され、全100億円分の寄付が完了した[32]。この寄付金は、10年以上の継続支援ができるよう、被災地の子どもたちを中心とした支援のみに100%使われていくという[33]。 日本での脱原発と再生可能エネルギー推進、韓国での原発推進[編集] 孫は福島第一原子力発電所事故後、元ソフトバンク社長室長で元民主党衆議院議員であった嶋聡の民主党人脈を使って、当時の菅直人首相とともに、再生可能エネルギー(「自然エネルギー」)の普及と脱原発を掲げて活動を始めた。菅首相が政府委員や公職者でもない孫の意見にエネルギー政策を頼っため、孫の個人的な持論が民主党政権の政策に反映された、と批判されることもある[34]。 2011年4月には発電コストについてはアメリカにおいて補助金の助けで風力発電と原子力発電のコストが2010年に逆転したとし、再生可能エネルギーの方が原子力より安価であるとの考えを表明して、日本で自家発電などで生産された再生可能エネルギーを電力会社が買い取る固定価格買取制度を導入することに期待感を示していた[35]。また、孫は「電力会社は悪なので、発送電分離によって解体すべき」「太陽光発電に支援を」「再エネ補助金を優遇せよ」「(固定価格)買い取り保証は超長期で」「原発はゼロに」と主張していたという[34]。 孫はエネルギー間のバランスを考えず[注 2]、再生可能エネルギーに偏重した政策を実施させ、しかもその後、自身が再生可能エネルギーで巨大ビジネスを展開したため、孫の動きを震災に便乗した補助金ビジネスとして「政商」と批判する声がある[36][37]。実際に、民主党政権による固定価格買取制度の導入に際して、孫は菅直人首相に強く働きかけて同制度を成立させている[注 3][38]。その際、孫は参考人として呼ばれた政府の委員会において、太陽光発電は造成コスト等も含めるとコストが非常に高く、最低でも40円/kWhの高い買取価格が必要だと主張した(孫はこのとき、太陽光発電は40円/kWhでは9割の地点で採算が合わず、本来は更に高い42〜45円/kWhが必要であるが、「消費者への負担とのバランスを考えると」最低でも40円/kWhが必要だと主張した)[注 4][39]。 そして実際に2012年、孫の希望通り、メガソーラー(大規模太陽光発電所)で「最低限の」40円/kWh、住宅用太陽光で42円/kWhで固定価格買取制度が開始した。これは太陽光発電を特に集中的に優遇し、申請時点の買取価格をプラント建設後20年間まで保証するというもので、この日本の太陽光発電買取価格は世界で最も高く[34]、他の先進諸国に比べても2倍以上と、異常に高い[40]。この制度によって日本国民が負担する賦課金額は、2016年時点で既に、年間2兆円という巨額に達しており[41]、最終的には累計53〜85兆円(廃炉・事故処理・賠償等を含む福島原発事故の被害総額(2016年推計)[42]のおよそ2.5〜4倍)程度に及ぶ、と試算されている[40]。 固定価格買取制度が開始した2012年以降、孫の率いるソフトバンク・グループは初期参入を果たして、国内各地に数多くのメガソーラー(大規模太陽光発電所)を建設し[43]、ビジネスを展開した。 また、この制度により、太陽光パネルの設置バブルが発生したと非難する声もある[44]。すなわち、固定価格買取制度に補助を受けた太陽光ビジネスは、上記の政府委員会での孫の主張とは裏腹に、年利回り8%以上、日照がよい場所なら10%以上の極めて魅力的なビジネスであり、しかも設置の小分けが出来るようにしたことで投資家が群がった。日照の良い一部の地域ではビジネス優遇のため、ドイツのような設置への規制を設けなかったため、自治体のレベルで差がついた。森林伐採や日射被害、土砂崩れなど、景観や住環境の破壊が進み、住民からの反対運動も生じるようになった[45][46]。 孫を取材し尊敬していたという旧知の堀義人も孫をツイッター上で「政商」だと批判し、その批判から孫と討論会を実施する運びとなった[47]。民主党の原口一博は孫の立てた大規模太陽光発電所(メガソーラー)構想に対して「太陽光か原発かという選択肢ではありません。『大規模・独占・集中・排除』か『小規模・分散・自立・共同』で選択しないといけない」と忠告したという[48]。 なお、孫の脱原発運動は日本限定の活動であり、訪韓して李明博大統領と会談した際には「脱原発は日本の話。韓国は地震が多い日本とは明らかに異なる」「安全に運営されている韓国の原発を高く評価している」と韓国の原子力発電所を高く評価しているという。また、再生可能エネルギー分野でも日韓協力の体制を敷くことに前向きなコメントを残している[49]。 データセンターの韓国設置について 東日本大震災を受け孫が経営するソフトバンクは電力供給と料金面で有利な韓国にデータセンターを立ち上げることでKT社と合意した。孫は韓国にデータセンターを置く利点として、「近い」「安い」「高いICTの先進性」の3点を挙げ、「韓国は非常に『近い』外国であり、産業用電気料金が日本の半額で『安い』」ことを挙げている[50]。 堀は上述の産経新聞記事にて、この件を原子力発電で電力を賄っている韓国に産業を移転し日本の産業を空洞化させるものとして批判している他、池田信夫はニューズウィーク日本版の連載コラムにて「メガソーラーで日本の電気代を上げて他社のコストを圧迫する一方で、ソフトバンクは韓国の原発でつくった安い電気を使ってもうけようというわけだ」という批判を紹介し「彼の挑戦がもう少しツボにはまれば、霞ヶ関にも応援団はかなり出てくるだろう」と評している[51]。 エピソード・人物[
好きな企業家 「最も好きな起業家」は本田宗一郎である[52]という。 将来計画 孫は19歳の時に「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという[要出典]。 小学生時代のエピソード 小学生時代の夢は画家で、好きな画家はゴッホ[注 5]。 孫の父・三憲は小学生の正義に対し「今度お父さんが出す新製品に、何か言いたい事はあるかな」と問い、子ども扱いせずに関係者の一人として意見を聞いていた[5]。こうした体験が後に経営者としての手腕に繋がって行った。また「お前は在日朝鮮人だから、普通の日本人より頑張らないと出世出来ないぞ」と語っていた[5]。 藤田田を訪問 高校時代、藤田田の『ユダヤの商法―世界経済を動かす』という書籍(KKベストセラーズ、1972年)を読んで感動し、面会するために藤田の会社に行く。最初は門前払いを受けるが、何度も訪れて根負けした藤田についに社長室に通されたという。そこで「今度渡米するのだが、アメリカで何をすべきか」と尋ね、コンピューター関連を学ぶように助言された。その後成功した孫は藤田を食事に招待し、藤田はあの時尋ねてきた高校生が孫正義だったかと驚き、非常に感激し、孫の会社に自社パソコン300台を発注したという[54]。 大学検定試験のエピソード この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年10月)
カリフォルニア州での大学の検定試験の際に「この問題は日本語ならば必ず解ける」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出た。試験官は、自分の上司にあたる人間に相談。さらにその上司は、自分の上司に相談。そうこうしているうちに、最後は州知事にまで孫は電話で交渉して、「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」をのませたという。
さらに、州知事との交渉において知事は「厳密な終了時間」を決めておらず、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という結論が出されたことから、無期限の時間延長と孫は独自解釈して、最後までテストを受けて合格したという。 著名な発言 将来はヤフーを子会社化孫は2005年に雑誌の取材で「近い将来アメリカのヤフー本社も買収して子会社化しようと思う」と話している。[要出典]もっとも米国のYahoo!はかつてソフトバンクが筆頭株主だった[55]。噂にはコメントしないソフトバンクの新機種発表会で、「iPhone 3Gの発売はソフトバンクからか」と質問された時の発言。「iPhone 3GS」の発売前にも、同じコメントを残していた。首相四年連続辞任時に「日本の不幸」2010年、Twitterユーザーから首相辞任にコメントを求められた際に、「4人の首相[注 6]の任期が1年程度。民間会社ですら社長任期が1年では大きな事は成し得ない。日本の不幸」と述べた[56]。 在日割引デマ 2010年7月19日、週刊新潮に取り上げられていた「在日割引[注 7]」の存在について、一般ユーザーからの「ソフトバンクがそのような割引をしているのはデマか?」との質問に対し、直接の返答と詳細な経緯の説明を行った。これによれば、「この割引プランはデマ。2008年に代理店がソフトバンクの許可無く販売したが、ソフトバンク側が認知した後に書面で通知し、当該の割引営業行為を停止させた」と発言した[57][58]。ソフトバンクモバイル広報室は「この割引プランは、弊社の代理店が民団と勝手に取りまとめたもので、弊社サービスではありません」と発言した。 特許
スクリーンゴルフの周囲に空気ダクトを設置し風を送ることで臨場感を増した『ゴルフシミュレーションゲーム環境装置』を特許出願(特許4041197)しており[59]、自宅の地下に設置しているとされる[60]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A3%E7%BE%A9
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