オルタナティブ通信 昭和天皇による日米戦争策謀論 2「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。 木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。 二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行のスイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツの信用を付け、天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。 占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」 私が書いた赤十字と天皇の秘密は、このマニングの本で真実であることが理解できよう。 日本赤十字社は、現在でも、皇室が支配的立場にあることを知らねばならない。この赤十字組織が、世界を支配する勢力の一支部なのだ。マニングの本には、天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだかの詳細な内容も書かれている。 もう少し具体的に、赤十字国際委員会(ICRA、本部ジュネーブ)について書くことにしよう。では、アダム・レポーの『ヒットラーの秘密銀行』から引用する。 「赤十字国際委員会が各国諜報機関から、スパイを潜入させる標的として狙われたのは当然のことだった。大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、救援活動ができる国際的組織だったからだ。また、情報収集も任務のひとつで、職員たちは双方の捕虜や軍指導者たちに対する質問権を与えられていた。」 『ヒットラーの秘密銀行』から、もう一つ引用したい。ナチス資産について書かれているが、ドイツの枢軸国日本の姿もみえてくる。 「英米仏三国は1945年8月、スイスに預けられているナチスの資産の所有権を主張するもスイス政府の対応ぶりは相変わらずのものだった。三国の主張はどんな法律を根拠とするものか理解に苦しみ、また連合国によるドイツ占拠の事実は『ドイツ国境を越えて法的効力を持つことはほとんどない』という言い逃れに終始した、とSNBの報告書は記している。 「スイスに預けられたナチス資金」を「スイスに預けられた天皇の秘密資金」と置き換えるならば、私が書いてきたことが事実であることが理解できよう。『ヒットラーの秘密銀行』には、スイスの銀行について書かれている。日本に関係する記事に触れておこう。国際決済銀行(BIS)がスイスにある。この銀行が、ナチスと日本と戦争中も取引を続けた。では引用する。 「BISの総裁はアメリカ人トーマス・マッキトリック、ゼネラル・マネージャーはフランス人ロジェ・オボワン、ゼネラル・マネージャー代理はドイツナチ党員のパウル・ヘクラーだった。大戦中の理事には、ライヒスバンク副総裁で後に戦死とされたエミール・プール、同総裁のヴァンター・フンク、その他ロンドン、ブリュッセル、ローマ、日本から派遣された銀行家たちが顔を揃えていた。(略)ベルリンにとっては好都合なことに、戦時中のBIS総裁は、ナチスの略奪金塊の主要ルートだったスイス国立銀行の総裁エルンスト・ウェーバーだった。(略)第一次世界大戦の敗戦国ドイツが連合国に対して負っていた賠償金をヤング案に基づいて回収することを目的に、数カ国の中央銀行が1930年5月に設立した銀行だったのである。ニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行など世界の主要金融機関が共同出資し、これらの国々および日本が理事を送り込んだ。(略)BISの設立資本金は五億スイスフランで、ベルギー国立銀行、イングランド銀行、フランス銀行、ライヒス・バンクという中央銀行五行によって保証されることになった。これに日本の代理を務める日本銀行団、およびモルガン銀行、ファースト・ニューヨーク銀行、ファースト・シカゴ銀行から成る米国銀行団も参加した。」 ここまで書いてきて、戦争というものが、金融と深く結びついていることが理解できたはずである。BISとスイス国立銀行は深く結びついている。私の推測の域を出ないが、 天皇はスイス国立銀行に「皇后名」で、BISに「天皇名または仮名」で、最低二口の秘密口座を持っていたと思われる。マニングの推定「35億ドル」以上ではなかろうか。35億ドルでは少な過ぎる。 <中略> 日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイス、バチカン、スウェーデンの銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略) 内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。 そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室とバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」 濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない」には全く賛成できない。私は昭和天皇が戦後も、マニングが書いているように蓄財作戦に熱中していたと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人々を悩ませたのである。 計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。 それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。 「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」 この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。 天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。 天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。 これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。 それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも、広田弘毅のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828 天皇一族は売春業者
19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。 英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。 マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。 日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。 しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。 貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。 天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。 天皇一族の財産はこうして作られた。 http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html 日本の天皇家は古代からただひとつの家系がつながってきた。これは世界に類を見ない。また昭和天皇は敗戦の時にマッカーサーに対して、「全ての私財と自分の命をも放棄する。国民を救って欲しい。」と言い、マッカーサーはこれに感動したと学校では習ってきた。
ところがこれらは全くの創作のおとぎ話であった。私達は米軍の策略にまんまと騙されてきたのだ。 昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ。それを米軍は日本支配の道具として位置づけることで国民の洗脳に成功した。 結局、学校教育は米軍の指図による創作だ。さらに右翼などは天皇システムを保護する事で米軍の日本支配に貢献してきたのだ。見事な策略と言うほかは無い。 立ち直る見込みのない、無能そして国賊的日本政府のていたらくは、殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである。 1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社 日本郵船が創立される。 明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、 欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、 欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。 そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを 公然許可すべき」という指示を天皇に与える。 賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に 「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、 天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。 (福沢諭吉全集 第15巻) 1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い 仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で 大々的に行われた。 日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は 天皇の言葉を信じた。 天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」 日本人女性の数は数十万人。 大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は 「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の 売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で あれば10数年分の給与を手に入れていた。 その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族の サギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、 大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。 天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性を だまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。 天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の 売春業者であった。 天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」 された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に 売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。 初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。 数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。 これが従軍慰安婦の原型である。 日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。 この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、 三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、 全額三菱財閥の出資で建設する。 渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の 新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を 「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する 「売春業参加のお礼」として建設された。 (山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。 また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と 協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が 蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた 米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で 1億ドルを超えると記録されている。 国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、 女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、 ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。 戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で 「無給」で重労働を行っていた。 そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって 戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく 自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。 また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し 略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に 運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」 という巨大な壷に蓄財された。 中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。 この問題を調査したエドワード・ベアは、 「天皇一族は金銭ギャングである」 と吐き棄てるように語っている。 (エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社) 1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、 海外に蓄財を「逃し」始める。 天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、 スイスに850万ポンド、 ラテンアメリカに1004万ポンド等、 広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、 天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。 この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した 蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。 (マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。 広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本を どのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、 天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金 を繰り返していた。 日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が 日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そして スイス銀行まで遠路運搬されていた。 中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた 日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されて いる最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路 アルゼンチン、スイス等に運び出していた。 天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など 何も考えていない事は明白である。 (ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。 なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた 商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の 対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは 何故なのか? 敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が 「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員 であったのか? 天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を 借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、 港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、 莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。 天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の 金融ビジネスマンである。 そしてここでも「何故か」CIAと天皇は 「共同経営者」である。 天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を 「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが 虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのも スイス銀行であった。 天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に 「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族 の蓄財を隠していた。 天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪 ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。 (アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。 1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。 日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い 女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が 社会問題化し、それを禁止した法律であった。 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」 (藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の 「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、 1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。 「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった。」 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。 日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇 の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し 米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。 天皇一族は神でも「象徴」でも無く、 人間のクズの集団である。 追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る のがジャーナリストの仕事である。 天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の 無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607 1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。 『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。 実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。 いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。 効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。 中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4) 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5) 1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【原文ではclanつまり悪党集団:訳者】の手下であった。 パールハーヴァーの『だまし討ち』(6)は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。 フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【原文は英語Yokohama Specie Bank:訳者】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。 憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。 [黄金の百合からブラックホールの資金へ] ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。 それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。 1943年には、米国が効果的な海上封鎖体制を確立したため、そのような方法は取れなくなった。財宝はマニラの波止場で山のようになりだした。秩父宮はそこで地下壕建設のための特殊な技師の集団を作り、分捕り品を地下に隠す作業を始めた。マニラではかつてスペインの町であったイントラムロスの地下が使用され、巨大な収容能力を持つ場所を提供できた。 品物を慎重に移送できる一つの通路が波止場とイントラムロスの間を直接に結びつけた。秩父宮は歴史的な場所や教会、大学など、爆撃がほとんど無いあらゆる場所をつなぐように選んでいった。 マニラの北で竹田宮が洞窟を使って地下壕の網の建設を監督した。専門家たちが恐ろしいほど効果的な大量のワナの兵器を仕掛けた。爆発物、毒ガスのカプセル、水や砂を使ったワナ。南京虐殺の実行者の息子であるもう一人の皇族の朝香宮孚彦【原文ではTakahitoとなっているが「たかひこ」の誤り:訳者】親王と、シンガポールのヒーローであり差し迫った米軍の攻撃に立ち向かうためにフィリピンに派遣された山下将軍が、この地下での作戦に加わった。技師たちと奴隷たちは組織的に生きながら地下に埋められた。 マッカーサーがフィリピンを再征服し始めたとき、皇族たちは急いで未だ地下に入れることができなかった財宝を隠そうとした。黄金を積んだ船が船員を乗せたまま沈没させられた。日本の敗戦はマニラ市民の虐殺と占領を終わらせたが、その後に皇族たちは潜水艦で逃亡した。 1945年から米国の諜報機関が黄金の百合の存在に気付いた。諜報員であるジョン・バリンジャー(John Ballinger)は、漁民に変装して黄金をいっぱいに入れた箱が病院船に積み込まれるのを観察することができた。マッカーサーは彼のライバルである山下を逮捕し、彼の腹心をこの日本の将軍のお抱え運転手である小島老人に対する尋問官とした。 そのセベリノ・ガルシア・サンタ・ロマナは山下の行動に関する膨大な情報を手に入れ、隠匿場所の正確な数をつきとめることができた。『サンティ』【サンタ・ロマナの別称と思われる:訳者】はこうして『山下の財宝』の守り手となった。彼は、OSSの元局員であり最近までウイロウビィ(Willoughby)将軍(8)の特務機関G−2と協力していた謎の男エドワード・ランドセイル(Edward Landsale)(7)が作戦の指揮をとるまでは、ずっとマッカーサーの命令の下にとどまった。 トルーマン大統領にこの件が任されて以来、掘り出された分捕り品はブラック・ホールと呼ばれる対共産主義の戦いの資金として使用されることになった。あるロウズベルトの顧問に認知されたこの計画は、ドイツ、イタリア、日本によって盗まれた黄金を親米政権の財源として使い、次に、『危険なアカ』の脅威にさらされる多くの『民主国家』の深奥でこの資金により選挙を操作することから成り立っていた。 ロバート・アンダーソンの助けを受けてあるスペシャリストが資金を洗浄した。サンティが探し出した黄金は42カ国の170の口座に納められた。CIAの銀行口座ネットは、東南アジアから盗まれた富を隠し、金の値段を米国の経済的利益にとって都合の良いあるレベルで維持することを可能にした。(9) 財産は日本に戻ってくる 米国当局によって押収された分捕り品は当初3つの異なった財源を潤した。四谷資金は、マッカーサーの秘密の右腕であるG-2の長官チャールズ・ウイロウビィの活動を支えた。彼はフランコ将軍とファシスト警察の手法の賛美者である。第2の資金は、日本におけるニュルンベルグ裁判に匹敵する東京裁判の判事ジョセフ・ケーナンの名前が付けられたのだが、非常に明確な機能を持っていた。共産主義に対するマッカーサーの戦いの同盟者へと変身した帝国のメンバーを免責するために証人たちを買収することだった。 東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。最も戦略的な資金は、疑いも無くM資金である。それは日本で共産主義者や社会主義者が権力を握ることを妨げる戦いのために運用された。戦後、つかの間の社会主義政権は、M資金投下のおかげで米国好みの吉田茂によって、失墜させられたようである。この資金は敗戦日本の公式な歴史に出資するためにも利用された。 児玉誉士夫が「私は敗北した」という文章を出版したのはこれである。この本は、CIAを通してM資金をつぎ込まれたものであるが、笹川良一や岸信介などの将来の日本の大物、つまりマッカーサーによって称揚された国粋主義者たちを免責するのに役立った。 1951年に講和条約が締結された。その第14条で、日本はその犠牲者に対して補償するための必要な手段を整える必要のないことが規定された。ブラックホールへと転換された黄金の百合は秘密のままにしておかねばならなかった。 1952年以来、CIAと日本の特務機関に率いられた一つの組織がM資金を担当した。この資金は、満州での略奪の責任者であり東条の戦争内閣の閣僚であった岸信介の首相選出を許した。アイゼンハワー政府はこの極端な反共主義者である戦犯を好んだ。 M資金は、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一などの多くの首相に財源を提供した。田中は、ニクソンがM資金の引出権を彼に約束したのだが、これを選挙資金と汚い工作のために頻繁に運用した。 黄金の百合の一部は日本でこのように投資され、自由民主党の母胎から誰が将来の首相になるのかを決める者たちによって浪費させられた。 http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html 日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、占領地の宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。
一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。 略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった. どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。 日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。 日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか? 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。 日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。 日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。 わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。 http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html 日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「着服」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「共同名義」の口座であった。 ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、共に「私腹を太らせていた」。 ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「決済口座」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「共同名義」になっていた。 第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。 戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「独占」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。 http://alternativereport1.seesaa.net/ 1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。
天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。 この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5〜10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。 広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。 日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。 天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか? 敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか? 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。 天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。 そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。 天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。 「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。 日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。 天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。 http://alternativereport1.seesaa.net/ 1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。
今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。 渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに 対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。 明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。 しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に 戦争資金を貸し付けていた。 ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。 日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。 この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。 ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。 天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。 日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。 なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。 http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。 天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「天皇個人の財産」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。 天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。 天皇と同じ会社ディロンで「働く」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「天皇の同僚」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。 http://alternativereport1.seesaa.net/article/59498275.html
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