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施 光恒 : 「グローバル化」とは「多国籍企業中心主義化」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/397.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 30 日 21:22:27: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 多文化共生は大量殺人を引き起こす 投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 25 日 10:21:26)


施 光恒 :「グローバル化」とは「多国籍企業中心主義化」

「日本の未来を考える勉強会」
ーポストグローバル化に向かう世界とナショナリズムの意義ー平成31年3月27日 
講師:九州大学准教授 施 光恒氏 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=helG4ohheTM  

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コメント
1. 中川隆[-10364] koaQ7Jey 2019年5月10日 20:01:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1741] 報告


2019年5月10日 令和と「日本語のこころ」
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/economy/13601


「令和」とは、外務省の対外的説明によれば「beautiful harmony」、つまり「美しい調和」を表すそうです。「令和」時代は、その理念を国内的にも国際的にも実現するような時代にするよう努めたいものだというような内容です。

「令和」の典拠は万葉集ですが、それも「美しい調和」を表していますよね。私は、もうだいぶ以前の本メルマガですが、評論家の故・渡部昇一氏の議論を引きつつ、次のような文章を書いたことがあります。

【施 光恒】「日本の平等」(『「新」経世済民新聞』2013年2月22日)
https://38news.jp/archives/01383

渡部氏は、『日本語のこころ』(講談社現代新書、1974年)という著書の中で、日本文化には「和歌の前の平等」という感覚が伝統的にあるとかつて論じました。

西洋の平等観の基礎には、「神の前の平等」や「法の前の平等」といった理念があると言われます。他方、渡部氏によれば、日本人の平等の感覚の基礎にあるのは、神や法の前での平等ではなく「和歌の前の平等」です。

それがよく表れているのが万葉集です。万葉集には、皇族や貴族だけではなく、農民や防人や遊女の歌も収められています。

渡部氏は次のように書いています。少し長いですが引用します。

「……誰でもしっているように、『万葉集』全二十巻、長歌や短歌など合わせて約四千五百首、その作者たちは上は天皇、大氏族の長から、下は兵士、農民、乞食、遊女まで含み、男女の差別もない。地域的にいっても中央に限らず、東国、北陸、中国、九州の各地方にまたがっており、まごうことなき国民歌集である。

このように全国民が身分や性別に関係なく参加できるものとしては、近代になっての選挙、あるいは義務教育による学校制度ぐらいのものであろう。その選挙ですら最初は貴族や上流階級にしか参加権はなく、国民一般に及んだのは十九世紀末、しかも女性に及んだのは第一次大戦後である。日本では第二次大戦後である。そこでようやく「法の前に平等」ということから、女性も投票や立候補ができるようになった。

しかし八世紀の『万葉集』には下層階級の女性も参加しているのだから、これはどうしても日本人は「和歌の前に平等」であると言わなければなるまい」(同書、50頁)。

渡部氏は、『日本語のこころ』のなかでさらに興味深い点についても触れています。
万葉集も、それよりも時代が後になりますが古今集などの勅撰和歌集も、ほぼ大和言葉だけで書かれています。外来語である漢語はほとんど出てこないのです。

古今集の時代(おそらく万葉集の時代も)、当時の貴族などの上層階級には、漢文の素養のある人々はたくさんいました。

例えば、小野篁(おののたかむら、802〜853年)は、当代きっての漢学者として知られた人物でした。もちろん、漢詩もたくさん残しています。

ですが、古今集に収められている小野篁の和歌にはやはり漢語はひとつもでてこないのです。例えば、以下の歌です。

花の色は 雪にまじりて 見えずとも 香をだににほへ 人の知るべく
(白い梅の花は雪にまじって見分けがつかないけれども、香りだけでも放ってほしいものだ、どこに咲いているかわかるように)

渡部氏は、このような和歌は当時の上層階級、知識階級の者たちだけではなく、一般庶民でも(たとえ文字の読めない人々であっても)、わかったのではないかと指摘しています。漢籍に通じた学者でも、和歌には漢語を使わなかったというのは、日本人ならだれでもわかるということを重視したからではないかと述べるのです。

私もそうではないかと思います。古今集のような勅撰和歌集、あるいは万葉集のような和歌集が編纂されたのは、やはり当時の日本の人々の連帯意識の表明という側面があったのではないでしょうか。

つまり、貴族だろうが、庶民だろうが、大和言葉を話す我々は、皆、仲間である。身分の差、貧富の差、男女の別などがあったとしても、もののあはれを知るという根本的な面では、同じなのである。そういういわば国民的連帯の表明が、万葉集には込められていたのでしょう。

ちなみに、小野篁の上記の歌は、約1200年も後の時代に生きる私にもわかります。おそらく、中学生以上ぐらいであれば、現代の日本人のほとんどの人がわかるでしょう。大和言葉を用いた和歌は、世代を超える力を持つと言えます。世代を超えた連帯の表明でもあるといえるかもしれません。

「上級国民」「老害」といった国民の分断、世代の分断を表す嫌な言葉が最近、よく使われるようになっています。

「令和」は、こういう言葉が生まれてこないまさに「美しい調和」が日本で回復される時代になってほしいものです。
https://38news.jp/economy/13601

2. 中川隆[-10555] koaQ7Jey 2019年10月26日 11:42:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2314] 報告

2019年10月25日
「グローバル化」と「国際化」の区別を
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

少し前ですが、先日、『産経新聞』の「正論」欄に次のようなコラムを書きました。
https://special.sankei.com/f/seiron/article/20191002/0001.html

上記コラムで言いたかったことは、「グローバル化」(グローバリズム)と「国際化」(国際主義)を区別すべきだということです。

記事中にも書きましたが、「グローバル化」(グローバリズム)とは、一般的に次のように規定されます。

「国境の垣根をできる限り引き下げ、ヒト、モノ、カネ、サービスの流れを活発化させる現象、およびそうすべきだという考え方」です。国家の役割を最小限にし、各国の文化や制度の相違をなくし、画一的なルールの下、世界を統合していこうとするものです。

他方、「国際化」(国際主義)は、各国の文化や制度の相違を安易になくそうとはしません。文化や暮らしを守るために国家の役割も重視します。各国の文化を尊重し相違を認めつつ、そのうえで積極的に交流し、互いの国をよりよくしていこうとする考え方だといえるでしょう。

私がまずいと思うのは、現在、一般的には、「グローバル化」と「国際化」がごっちゃにされているということです。

日本人の多くの人々は、「国際化」や「国際交流」はいいことだと思っています(私自身もそうです)。

例えば、開催中のラグビーのワールドカップに関連して、北九州の人々が、ウェールズ語でウェールズの国歌や聖歌を歌い、ウェールズ代表のチームをもてなしたということがニュースになっていました。

「英国も注目!北九州で1万5000人の日本人がウェールズ国歌を熱唱!」
https://www.japanjournals.com/uk-today/13590-190930-3.html

「ウェールズを歓迎 北九州少女の“可愛すぎる聖歌”に英ファン感激「本当に感動的だ」」
https://the-ans.jp/rugby-world-cup/83239/3/

ウェールズのメディアも注目していました。

「日本のファンがウェールズ国歌を斉唱」“Fans in Japan sing the Welsh national anthem | Rugby World Cup 2019” 『Wales Online』
https://www.youtube.com/watch?v=M-eyTr0njmo

この動画のコメント欄には、北九州市民の歓迎ぶりに感謝し、喜ぶウェールズの人々の声があふれています。

「他の国でこんなことをするとは思えないよ。いままでで一番のワールドカップになるんじゃないか」

「すばらしい!なんで日本人は我々ウェールズ人にこんなに親切にしてくれるんだ。…」

「故郷ウェールズから5000マイルも離れたところに住んでいるので、ウェールズ国歌を耳にするとだいたい泣けてきてしまう。だけど、北九州のこれはほんと特別だよ。ディーオルク(ウェールズ語でありがとう)、アリガトウ」。

これらの動画、私も結構、じんわりきました。相手の国や文化、伝統、言語に敬意を表し、尊重する。こういう交流は、世界の人々の感動を幅広く呼ぶのだと思います。

こうした付き合い方は「グローバル化」という言葉でくくるべきではないでしょう。「グローバル化」は、個別的な文化や伝統、歴史を尊重しません。国境線や国籍、国民意識といった偏狭で時代遅れなものをなくし、世界を統合しよう。そういうものをより「合理化」し、共通化(画一化)しよう。そう考えてしまいます。

例えば、「グローバル化」という掛け声のなかで結ばれていくTPPなどの自由貿易協定では、各国の商慣習や特有の文化的ルールや言語などは尊重されません。同じく、「グローバル化」の旗印の下、日本の教育界で進められているのは「英語化」です。

産経の拙コラムのなかでも指摘しましたが、近年、欧米を中心に「グローバル化」の生み出す害悪が数多く指摘され、トランプ大統領の選出やブレグジット、欧州諸国のいわゆるポピュリスト政党の躍進など、反グローバル化の社会的動きが強くなっています。

しかし、いわゆる「知識人」やマスコミの間では、欧米でも日本でもそうですが、グローバル化を批判する言論はなかなか主流になりません。

そうならない理由の一つに、「グローバル化」と「国際化」が概念的にきちんと区別されていないことがあると思います。

「グローバル化」と「国際化」がごっちゃにされているので、「グローバル化」を否定すると「国際化」まで拒むということになります。「グローバル化」を批判すると、「鎖国主義者」「孤立主義者」などという非難を受けることになってしまいます。ひどいときは「排外主義者」「極右」扱いされます。

そう非難されるのがいやなので、なかなかグローバル化批判を口に出せないのです。

私のみるところ、欧米などで強まっている反グローバル化の動きの大半は、「鎖国主義」「孤立主義」「排外主義」ではありません。

例えば、ブレグジットを主導した英国の市民団体が望んでいたのは、自分たちのことは自分たちで決めたいということでした。つまり、国民主権(自己決定権)の復活、英国という政治的まとまりの復権ということでした。彼らは、他国と付き合うことは別に否定していません。ただ、交流(貿易、外国人労働者や移民の受け入れなど)の条件を、EUではなく、自分たち自身で決めたいということでした。

現在のところ、残念ながら、「グローバル化」の反対概念は一般に、「孤立主義」「鎖国主義」「排外主義」だと思われています。これを改めるべきです。「グローバル化」と対置されるべきは「国民主権」の復権や「国際化」であると、人々の認識を変えていく必要があるのではないでしょうか。

各国は、自分たちの文化や伝統、言語を大切にし、国をしっかり作っていく。そして、他国の文化や伝統、言語も尊重する。互いを尊重し、相互に学び合いつつ、各々の国をよりよきものにしていく。多様な文化や伝統をそれぞれ大切にする多くの国からなる世界を作る。それによって、各国の普通の人々がそれぞれ豊かに安心して暮らせる世界を作る。

ある意味、月並みですが、「グローバル化」でおかしくなった世界をまっとうにしていく。そのための第一歩として、「グローバル化」と「国際化」をまず概念的に区別していくことが必要ではないかと思います。
https://38news.jp/politics/14818

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