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ロマ(ジプシー)が嫌われる理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/324.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 06 日 08:17:13: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


ロマ(ジプシー)が嫌われる理由


ロマ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%AD%E3%83%9E
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC


The Life of Roma in Serbia - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=K2Sv-uWMEig

#Who Am I Talking Roma in France Life Links - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jG9c9cxCBww


▲△▽▼

根深いロマへの嫌悪。ロマに対する嫌悪や排斥はこれからも続く理由とは2019.04.06
https://blackasia.net/?p=12458

2019年3月。フランスの首都パリで、少数民族「ロマ」に対する攻撃が相次いで、警察はロマを襲撃したフランス人を20人逮捕するという事件が起きていた。

何があったのか。SNSで「白いバンに乗ったロマのヤツらが、若い女の子や子供たちを誘拐している」という根拠のないデマが瞬く間に広がり、このデマを信じた一部のフランス人が、怒り心頭に発してロマを襲撃したのだった。

「ロマ」とは、私たちがかつて「ジプシー」という言い方をしていた民族のことを指している。彼らはヨーロッパの大地を、国境を無視して流れ流れてあちこちの国に住み着いては移動するライフスタイルを取っている。

独自の文化があり、決してその国や地域と交わらず、子供たちも学校に行かずにストリートで物乞いや泥棒をしている。

ヨーロッパでは大勢の子供たちが観光客に群がってカバンやリュックから勝手にモノを盗んでいく子供たちの集団がいるのだが、こうした泥棒をしている子供たちの多くはロマであることから、地元民からも観光客からも激しく嫌われている。

だから、SNSで広がったデマは「ロマのヤツらの日頃の行いを見ると信憑性がある」と多くの人たちが思い、それが事件になっていったのである。(鈴木傾城)

さらに嫌われるようになっているロマ

フランスは「自由・平等・博愛」を旗印にして多文化共生を国是としてきた国だった。しかし、大量の移民・難民が中東からやってくると、国民感情は一変した。

イスラムの移民・難民たちはフランスの文化を尊重することもなければ従うつもりもなく、自分たちの文化・宗教・戒律・服装をそのまま定着させて、それを権利として認めろと叫び出した。

「ブルカを認めろ、豚肉料理はフランスから排除しろ、イスラムは容認しろ、ユダヤは出て行け」と彼らは自らの主張を押し通すばかりで、フランスの文化などまるっきり尊重しなかったのである。

こうした現状を見て、フランス人は「多文化共生など一部のお花畑のリベラルが考えた机上の理想主義である」というのをようやく悟って、「移民・難民は出て行け」という巻き返しが起きるようになっている。

こうしたイスラムの移民・難民に隠れて影が薄くなっているのだが、その裏でロマに対しても激しい嫌悪がフランスでも渦巻いていた。

ロマは、今も昔も他所(よそ)からやってきて、勝手に住み着いてゴミをまき散らして去っていく。突如としてやって来れば、公園や道路わきや広場を不法占拠し、子供たちがあちこちで泥棒や万引きを始め、勝手に大集会をして、地元のギャングたちと衝突を起こし、ドラッグを販売する。

もともと良く思われていないロマは、フランスに大量の移民・難民が入り込むと、さらに嫌われるようになってきているのである。

フランスだけではない。オランダ、フランス、スイス、イタリア、ベルギー、果てはウクライナでも、ロマの排斥を叫ぶ声が大きくなってきている。

イタリアでは2018年6月にサルビーニ内相が、「東欧から移住したロマの人口を調査する」と言って波乱を呼んだのだが、なぜこれが問題だったのか。それは、人口調査して「こんなにもロマが勝手にやって来ていた、排除すべきだ」という論点につなげようとしていたからだ。

イタリアでも「ロマには出て行って欲しい」と考える人が大勢いるのだが、EU(欧州連合)のマスコミは徹底した「多文化共生」「グローバル主義」なので、多文化共生を受け入れない政党・政治家は徹底的に糾弾される仕組みとなっている。

苦々しく顔をしかめる人が大勢

ロマは決して少ない民族ではない。ヨーロッパ全土で合わせると約600万人以上もの人たちがいる。これらの人々の全員「盗人」ではないし、「悪人」でもない。

しかし、彼らの少なからずが強盗・万引き・ドラッグ売買に関わっているのは否定できない。「すべて」がそうではないのだが、現地の法などまったく守らず、イメージ通りの悪行を働く人間が多い。

ロマの集団は、誰の許可もなく勝手に広場を不法占拠して暮らし始めるのだが、彼らが「そこにいる」というのがそもそも不法であり、彼らはいる間は地元の人々や行政と常に緊張状態にある。

だから「ロマ」と聞いただけで、苦々しく顔をしかめる人が大勢なのだ。

さらに、ロマが嫌われる理由のひとつとして、流浪文化を持つ彼らのほとんどが「極貧」であることもある。

ロマの中には移動するのをやめてヨーロッパのどこかの国に定住する人たちもいるが、まだまだ方々を移動して回っているロマも多い。その多くが極貧の中にある。

定住しないで移動して回るのだから「蓄積」ができない。移動するということは、「必要最小限のものしか持てない」ということでもある。

物も人間関係も、すべてが必要最小限にとどめられる。なぜなら、物が増えると移動ができなくなるし、人間関係が増えると抜けられなくなるからである。放浪重視の結果として貧困に落ちる。

これが、放浪民族としてのロマの構造的な弱点になる。

だからこそ、ロマの人々の間で、不法占拠や、泥棒や、万引きや、ドラッグ売買や、恐喝などの犯罪が増えていく。

それがますますロマの迫害と偏見につながる。そして、迫害されるとまた去ってどこかで同じことをする。この繰り返しがロマのライフスタイルである。

2019年3月にパリで起きたロマ襲撃事件は、デマを信じてロマを襲撃した側をマスコミは激しく糾弾しているのだが、こうした事件は総合的に見ないと何が起きているのか分からない。

ヨーロッパは何百年もロマの問題を解決できていないのだ。

今もなお解決できていないというのが露呈したのが2019年3月にパリで起きたロマ襲撃事件であるとも言える。ロマに対する嫌悪や排斥はこれからも続くのだろうか。歩み寄りがない以上、続いていくのは間違いない。(written by 鈴木傾城)
https://blackasia.net/?p=12458  

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コメント
1. 中川隆[-10897] koaQ7Jey 2019年4月06日 08:22:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1132] 報告

Flamenco Dance
https://www.youtube.com/watch?v=xqxJMCQxb_Q


2015-06-09
1000年も「ロマ」と共生できないのに多文化主義など絵空事
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150610T0603560900.html

ヨーロッパは日本のように島国ではないので、様々な民族が国境を越えて行き来する。多くの民族は土着して、その国の「国民」となっていくのだが、中には定住するのを拒絶し、旅の生活を続ける民族も出てくる。

ヨーロッパではその最大勢力が「ロマ」である。単純な強盗や万引きなどの事件には、流れ者の民族であるロマも関わってくることが多い。

もちろんロマの人たちが全員「盗人」ではないが、やはり彼らの一部が強盗・万引き・麻薬売買に関わっているのは否定できず、ありとあらゆる場所で嫌悪されている。

この「ロマ」はヨーロッパに約1000万人いるというのだから、尋常ではない。国を持たず、流浪する民族が1000万人と言えば、さすがに目立つ。

このロマが定住する最大の国がルーマニアなのだが、ルーマニアもひどく貧しい国であり、そんな貧しい国に定住しているロマはどん底の貧しさであると言われている。


人種も、文化も、宗教も、気質もまるで違っている

ロマがルーマニアに200万人近くいて、人口の一割を占めているとは言っても、この1割のロマが受け入れられているというわけではない。

受け入れられているというよりも、やはりルーマニアでも嫌われていて、「泥棒」の代名詞となっている。

ロマが嫌われるのは、4つの理由があるというのは、以前にも書いた。

(ヨーロッパで、ロマ(ジプシー)が凄まじく嫌われる4つの理由)
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20101126T0324000900


彼らは、人種も、文化も、宗教も、気質も、何もかもヨーロッパとは違っている。時には言葉すらも通じない。

それでいて忽然と現れて、好きなところに「勝手に住み着く」のだから、地域住民から見たらまさに不法侵入者でしかない。しかも、この民族の子供たちは「万引き」をするために他人にまとわりつく。

「ロマの子供たちは学はないが、泥棒の仕方だけは親に学ぶ」

ヨーロッパの多くの国の観光地で、窃盗・万引き・置き引きが毎度のように発生するのは、ロマの子供たちがいるからであると言われている。

彼らはその街や村にやって来ると、そこの原っぱのようなところで誰の許可もなく勝手にキャンプを張る。

そして、ガラクタにしか見えないものを持ち込み、ゴミも周辺に放り出してゴミ山を作り出す。環境が手に負えなくなったら、ゴミ山を残してさっさと移動していく。これでは地域住民に好かれるわけがない。

そんな民族が1000万人もいる。だから、ヨーロッパではそれこそ1000年も昔からロマは頭痛の種だった。彼らはヨーロッパ中をさまよい歩き、今もその流浪と独自性で嫌悪と拒絶の対象になっている。


ガラクタにしか見えないものを持ち込み、ゴミも周辺に放り出してゴミ山を作り出す。環境が手に負えなくなったら、ゴミ山を残してさっさと移動していく。これでは地域住民に好かれるわけがない。


文化は受け入れられても、民族は排除されてしまった

ロマはロマの文化がある。彼らは以前は「ジプシー」と呼ばれていたが、流浪の民の文化は一部では崇拝を呼ぶほど信奉者も多い。

彼らは陽気で歌や踊りが大好きだ。その中で、最もよく知られているのはジプシー特有のけたたましい音楽だろう。

女性がスカートをなびかせ、足を踏み鳴らし、激しく踊るその様は見ている者を陶酔すら呼び起こすものである。

このジプシーの文化は、やがてヨーロッパ中の音楽にも取り入れられ、その踊りもまたヨーロッパ人に大きな影響を与えた。特に大きな影響を与えたのはスペインだ。

スペインに流れ着いたジプシーたちが、その土着の音楽と自分たちの音楽を融合させて生まれた独特の音楽は「フラメンコ」と呼ばれるようになった。

フラメンコは15世紀にはすでにスペインで定着していたわけで、その歴史は相当古い。まさに歴史的音楽であると言える。

とは言っても、この「ジプシー」がスペインで受け入れられたというわけではなく、やはり忌避されていたのである。

フラメンコという文化はスペインの文化になったが、皮肉にもそれを伝えた「ロマ」は相変わらず嫌われて、スペインのどこに言っても迫害され続けていた。

ジプシーと言えば、「占い」もまたひとつのビジネスだが、この占いもまたキリスト教徒から見れば「悪魔の業(わざ)」のように見えたわけで、キリスト教徒から見て不吉なものでもあった。

リタ・ヘイワースがジプシーの女を演じた映画『カルメン』でも、ジプシー女性がやたらと独自の因習を信じているのが描かれていた。

「黒猫は不吉な存在で、それが目の前を通ると誰かが死ぬ」というようなものだ。


リタ・ヘイワースがジプシーの女を演じた映画『カルメン』でも、ジプシー女性がやたらと独自の因習を信じているのが描かれていた。

Flamenco Dance
https://www.youtube.com/watch?v=xqxJMCQxb_Q


「多文化主義」など絵空事であると誰もが知っている

ロマの流浪と文化は本当に異質であり、泥棒文化が嫌われ、何度も何度も地域住民と衝突して、今もヨーロッパはロマとどのように折り合いを付けたらいいのか分からないまま、困惑し、嫌い、排除しようとしている。

もっとも、そのロマも流浪する生活を頑なに守る人々が減っており、そのほとんどが定住するようになっているという。

ところが、定住しても独自文化を守ろうとして、地域の教育も無視するので、どこの国でもロマの人々は極貧の生活を強いられているようだ。定住はしたものの、地域と同化したわけではないということである。

ロマを支援する人々は、支援も理解も足りないと訴えるのだが、当のロマ自体が支援も理解も拒絶して自分たちの独自文化の中に引きこもることもあり、問題の解決は容易ではない。

また、地域に同化させようと努力するロマや、それを支援する人たちがいる一方で、逆にロマを強制的に排除して国から追い出してしまおうとする動きも巨大だ。

イタリアは、ロマの人たちが公営住宅に入れないように、政府が自らロマ排除に動いていたし、スロバキアでも機動隊を投入してロマのキャンプを叩き潰して追い出した。

ロマが200万人も定住するルーマニアでも、ロマは政府と国民に就職も住居も結婚も一般国民と交わらないように「積極的排除」されている。

ヨーロッパでは「多文化主義」など絵空事であると誰もが知っているのは、誰もがロマの問題を解決できないことを知っているからである。


地域に同化させようと努力するロマや、それを支援する人たちがいる一方で、逆にロマを強制的に排除して国から追い出してしまおうとする動きも巨大だ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150610T0603560900.html

2010-11-26
ヨーロッパで、ロマ(ジプシー)が凄まじく嫌われる4つの理由
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20101126T0324000900

スリランカ・シンハラ系民族の女性に惹かれて付き合っていたことがあるのだが、それが自分の美の概念を根底から変えてしまった。

あっという間にインド・アーリア系の女性の美しさに魅せられ、悩まされ、そして当惑させられ(Bewitched, Bothered and Bewildered)、今でも、世界で一番美しいのはインド女性だと信じて疑わない。

あの瞳、あの笑み、時に甘美で、時に凶暴で、全体的に力強く、視線の強さや、横顔の端正なシルエットは他のどの民族からも受けないインパクトがある。

カルカッタでも、ムンバイでも、そしてスリランカでも、バングラデシュでも、はっとするような女性があちこちに存在する。その美しさに心を揺さぶられる。


ロマが、インド系の民族だというのを知って仰天

だから、アフガニスタンのヘロインがヨーロッパに到達するルートを調べてバルカン半島にまで知識の探究が辿り着いたとき、たまたまロマ(ジプシー)が、インド系の民族だというのを知って仰天した。

子供の頃から、ハイエナはずっとイヌ科の動物だと思っていたのに、実はネコ科のほうだと分かったとき以来の驚きだったかもしれない。

いや、それよりも数倍インパクトが強い。何しろ、ハイエナに恋焦がれたことはないが、インド女性には何度も恋焦がれている。関心の度合いが違う。

ロマ(ジプシー)の存在は私の中では非常に影の薄いものであったが、彼らがインド圏であるというのであれば話は別だ。

アジアは私の最大の関心であり、ましてインド女性は私がもっとも惹かれる民族なのだから、ロマという民族がその血を受け継いでいるのであれば、関心を持たないほうがどうかしている。


ロマ(ジプシー)の少女

今年9月からアジアに流通する麻薬に興味を持って調べていたのだが、トルコからバルカン半島まで入ったところで、関心がロマにそれた。それもまた一興なのかもしれない。

それから急いで数冊の本を買って、時間のあるときに読み耽っているのだが、以前から知っていた何人もの人物が実はロマ(ジプシー)出身だと知ったり、その凄絶な歴史を知ったりして興味深い。

たとえば、ユル・ブリンナーという古い俳優がいたが、彼がロマ(ジプシー)出身だったとは知らなかった。世界ロマ連盟の初代会長がユル・ブリンナーだった。


ユル・ブリンナー

イギリスで「ブレイク・アウェイ」等のヒットを飛ばした女優・歌手のトレイシー・ウルマンという女性もまた母方がロマ出身だったというのも知らなかった。


トレーシー・ウルマン

チャーリー・チャップリンもロマ出身だ。ロマと言えばヨーロッパでは極貧の民族の代表になっているが、チャップリンもまた幼児期を極貧の中で暮らして、その映画もまたコメディにも関わらずそこに流れているのは極貧の描写である。


チャールズ・チャップリン

チャップリンが貧しい人たちと、虐げられている人たちの中に自分の役柄を置いた根源的な由来が、彼の血がロマ(ジプシー)の出だということで分かったような気がした。

ロマ(ジプシー)は今でも虐げられ、ヨーロッパ全土で差別の対象になっている。


ヨーロッパ人が排除したい民族

スイスと言えば、美しいアルプスの山脈と素朴に暮らす人たちの光景が思い浮かぶ。あるいは、時計職人、銀行家というイメージも別にある。

そのどれもが保守的で物静かな感じを受けるのだが、ロマの歴史からスイスを見たとき、スイス人はとても残酷な歴史を隠蔽している民族なのではないかという疑念がふつふつ湧いてくるようなものもある。

たとえば、スイス政府の認定を受け、閣僚も名を連ねる「青少年のために(Pro Juventute)」という組織の十数年にも渡って続けてきた行為などは、私が想像に描いていたスイス人のイメージとは違う。

この団体は、「ロマの子供を両親から引き離し、ロマ民族と文化を殲滅する」というスローガンを抱えて、実際にロマの子供たちを誘拐し、強制収容し、ロマの言葉や文化を一切教えず、暴行や性的虐待を繰り返してきたという。

これが、政府公認だった。誘拐されたのは分かっているだけでも、1,000人を越えており、意味もなく電気ショックを与えていたり、殴りつけていたという。

スイスだけではない。チャウシェスクはロマ民族を毛嫌いしていて、ルーマニア民族優等主義を標榜してロマを迫害・排除に動き、財産や職を取り上げた上で強制隔離してしまった。

ルーマニアではロマ人の隔離された場所をゲットーと呼び捨てていたようだが、ゲットーとはドイツ人がユダヤ人を強制隔離した場所を指す言葉ではなかったか。それと同じ目をロマの人々は味わされていた。

今でもルーマニアではロマ人を差別しており、その差別の内容も一方的で容赦がない。ロマ人に対する、虐待・集団暴行・レイプが今もルーマニアで横行しているという。

では、ゲットーという概念を作り上げたドイツではどうだったのかというと、やはりロマは排除の対象だったようだ。いや、排除ではなく、虐殺の対象だと言うべきだろう。

ナチス・ドイツはドイツ・アーリア人の優等主義を打ち出していて、そこから漏れる民族は片っ端から「強制収容所」に送り込んでいた。ユダヤ人がその最大の被害者だったが、そこにロマ人も含まれていたのである。

アウシュビッツで死んだのはユダヤ人ばかりではなく、ロマ人もまた含まれている。その数は約二万人だと言われており、スイスの「青少年のために(Pro Juventute)」とはケタ違いに被害が大きい。


アウシュビッツのロマの少年少女。アウシュビッツで殺されたのは、ユダヤ人だけではなかった。


迫害される要素をすべて持つロマ(ジプシー)

ヨーロッパのありとあらゆる国で迫害を受けてきたロマだが、どの国の迫害を見ても分かるのは「凄まじく嫌われている」ということだ。

嫌われ、迫害される主な理由が4つほどある。

・流れ者の民族で文化が違う。
・キリスト教徒ではない。
・コーカソイド(白人系)ではない。
・個人主義で、決して地域に同化しない。

要するに彼らは異質であり、異教徒であり、異端だった。地域に同化しない人間というのは得てして目立つ。そして、その非協調性によって排斥される。

宗教が違うというのも、また広い意味で、非協調性だと思われるものがあるだろう。つまり、同化しない人間は地域社会から許しがたい存在である。

おまけに肌の色が違ったら、ますます異端者扱いされる。「他所者だ」と思われて、頭から拒絶されるのである。

ヨーロッパでロマという民族は何か得体の知れないものであり、理解できないものであり、地域の秩序を乱すものだと捉えられた。

まして、彼らは一箇所に定住せず、適当な場所に勝手に泊まり、身なりは汚いことが多く、子供たちは平気で物をたかったり盗んだりする。言葉は通じないことも多いし、動物を引き連れていて不気味な集団なのである。

ロマ(ジプシー)という民族を調べながら、私が思ったのは、ここに迫害の要素がすべて詰まっていることだった。

「文化が違う、宗教が違う、人種(国)が違う、個人主義」というのは、迫害される要素の最大のものだ。

ロマは不幸なことに、そのすべてを兼ね備えてヨーロッパを徘徊している。だから、彼らは今もヨーロッパと共存できていない。

(1000年も「ロマ」と共生できないのに多文化主義など絵空事)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150610T0603560900.html


ふと、そのような要素を持つ人間が個人にいることも気がつくが、そういう人は大抵、嫌われ者だ。「他人と違う」というのは、往々にして、そういう悪感情を他人に呼び起こす。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20101126T0324000900


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2018年03月23日
ララ・クロフトの素性はどこにあるのか? / スウェーデンにおけるジプシー
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68707220.html


二番煎じのシリーズ映画
Alicia Vikander 10Alicia Vikander 3
(写真 / 「ララ・クロフト」を演じたアリシア・ヴィキャンデル)

  ハリウッドは新しいネタ不足なのか、やたらとヒット作のシリーズ化やスピン・オフの制作、リメイク版での再稼働で儲けることばかり考えている。ディズニー社は映画『スター・ウォーズ』を3セットの三部作で終わらせず、アニメ化やスピン・オフ作品を展開させ、向こう百年先まで稼ぐつもりだ。マーヴェル・コミックを原作としたヒーロー映画も同じで、キャプテン・アメリカやスーパーマン、アイアンマン、ワンダーウーマン、超人ハルク、マイティー・ソーなどはバラ売りされたり、セット商品として利用され、配給会社のドル箱になっている。

Angelina Jolie 22(左 / アンジェリーナ・ジョリー )
  今年公開された『トゥーム・レイダー / ファーストミッション(Tomb Raider)』も、アンジェリーナ・ジョリー主演でヒットした『ララ・クロフト / トゥーム・レイダー(Lara Croft : Tomb Raider)』の改新版(reboot)である。2001年の第一作と2003年の続編はパラマウントが配給会社となっていたが、同じタイトルでも2018年度版はワーナーブラザーズへと変わっていた。そして主人公の「ララ・クロフト」役もアンジェリーナ・ジョリーから、スウェーデン出身女優のアリシア・ヴィキャンデル(Alicia Vikander)に交替している。同じシリーズでも役者が変わると、批評家と観客の賛否が分かれ、「以前の女優の方が良かった」とか、「今度の役者も中々いい」、「主役が代わっても同じだ」など、意見が様々だ。

Tobey Maguire 6Andrew Garfield 2Tom Holland 1

(左: トビー・マグワイアー / 中央: アンドリュー・ガーフィールド / 右: トム・ホランド )

  シリーズ物で観客の意見が割れるのは珍しくない。例えば、映画『スパイダーマン』では主役のピーター・パーカー役がトビー・マグワイアー(Tobey Maguire)からアンドリュー・ガーフィールド(Andrew Garfield)、トム・ホランド(Tom Holland)に替わっていたし、映画『バットマン』になると、一作ごとに主役が替わっていたのだ。最初は、マイケル・キートン(Michael Keaton)で、次がヴァル・キルマー(Val Kilmer)、三番目がジョージ・クルーニー(George Clooney)で、その後にクリスチャン・ベール(Christian Bale)が起用されて、やっと落ち着いたという感じである。007シリーズは今のところダニエル・クレイグ(Daniel Craig)で続行しそうだ。

Michael Keaton 2Val Kilmer 1George Clooney 1Christian Bale 11

( 左: マイケル・キートン / ウァル・キルマー / ジョージ・クルーニー / 右: クリスチャン・ベール )

  役者を変えて失敗した例も幾つかある。有名なのは『ターミネーター』シリーズだ。アーノルド・シュワルツネッガーがカルフォルニア州知事になってしまったので仕方がないが、第4作目でサム・ワーシントン(Sam Worthington)が「ターミネーター」役になったが、これといったインパクトが無く凡庸な作品となってしまった。そして、第5作目でシュワルツネッガー復帰となった訳だが、残念ながら脚本が殊のほか酷く、見るに堪えない代物だ。筆者も期待を膨らませて劇場に足を運んだが、肩すかしを食らったような気分だった。だいいち、初老のターミネーターなんて冗談みたいな設定である。蛇足だが、「ジョン・コナー」役の交替も酷かった。名作の「T-2」ではエドワード・ファーロング(Edward Furlong)が好評だったのに、続編の「T-3」ではニック・ストール(Nick Stahl)が演じることとなり、ファンは「えぇ〜ぇ、何これ?」と唖然としたものだった。ニックには悪いが、美少年が数年後に劣化したという感じが否めなかった。誰か別の二代目が見つからなかったのか、と疑問に思う。

Arnold Schwarznegger 1Sam Worthington 1Edward Furlong 4Nick Stahl 3

(左: アーノルド・シュワルツネッガー / サム・ワーシントン / エドワード・ファーロング / 右: ニック・ストール )

  その他にも主役を変えて駄目になった作品は多い。例えば、人気TVドラマの『24』である。このシリーズはキーファー・サザーランド(Kiefer Sutherland)が「ジャック・バウアー」を務めるから成り立つ作品なのに、スピン・オフのような『24 Legacy』では、事もあろうに黒人俳優のコリー・ホーキンズ(Corey Hawkins)を主役に抜擢してしまったのだ。制作陣は「ジャック・バウアー」の代理を黒人俳優にしてヒットするとでも思ったのだろうか? 筆者は最初から興味が無かったので観なかったが、案の定、日本でも米国でも人気沸騰とならず、シーズン1で打ち切りだ。まぁ、当然だろう。いくら凄い経歴のキャラクターに設定しようが、アフリカ系の「ジャック・バウアー」なんて、ブロンクスかデトロイトのチンピラ黒人を見ているようで不愉快だ。

Kiefer Sutherland 4Corey Hawkins 1


(左: キーファー・サザーランド / 右: コリー・ホーキンズ)

  脱線したので話を戻す。再始動となった『トゥーム・レイダー』の評価は微妙だ。「スリリングなアクション映画に仕上がっていて良かった」と褒める批評家もたいが、「まるで『インディアナ・ジョーンズ』シリーズの『失われたアーク』みたいだ」と酷評する観客もいたそうだ。筆者も予告編の宣伝映像を観たとき、「あれっ、何かハリソン・フォードのインディアナ・ジョーンズをパクった映画みたいじゃないか ?」と思ったものである。映画のストーリーは、主人公のララ・クロフトが亡き父の残したプロジェクトを引き継ぐという内容だ。彼女の父リチャード・クロフトは日本近海に浮かぶ「ヤマタイ島」を探っていた。(映画の中でララが広げた地図によると、「ヤマタイ島」は四国の近くにある。だが、日本人の我々には馴染みがない、というより聞いたことがない。) このミステリアスな島には、「ヒミコ」の墓があり、その石棺の中には世界を変える不思議な魔力が秘められているという。リチャードはこの謎を追っている途中で亡くなってしまったのだ。

  リチャードの娘ララは「クロフト・ホールディングズ」ビルを訪れ、父のビジネス・パートナーであるアナ・ミラーに会う。ララは父が遺した「カラクリ(karakuri)」という仕掛け箱を渡され、ルービック・キューブのように捻っていると、偶然その箱から写真と鍵を手にすることが出来たのである。彼女は「エンデュアランス」号の船長ルー・レン(Daniel Wu)を連れ、「ヤマタイ島」を目指す。(ここでも“やはり”人種的配慮を示し、アジア系男優をセッティングして、マイノリティー観客にアピールだ。本当に、イヤらしい胡麻スリである。) 彼女を待ち構えていたのは「トリニティー」という組織と、悪党のマティアス・ヴォーゲル(Walton Goggins)であった。驚いたことに、父のリチャードは生きていた。ヴォーゲルは捕まえたララにヒミコの墓暴きを命じる。しかし、日本の女王が眠る棺の中には、財宝といった素晴らしいものではなく、人間を一瞬にして殺してしまう恐ろしいウィルスだった。このウィルスを拡散させぬために、リチャードは自らの命と共に爆薬で破壊してしまうのだ。

Daniel Wu 2Harrison Ford 3

(左: ダニエル・ウー / 右: ハリソン・フォード)

  ララが墓の洞窟に侵入して色々な罠や仕掛けをかいくぐるシーンは、ハリソン・フォードが演じたインディアナ・ジョーンズとソックリだ。コンピューター・グラフィックスを駆使して豪華にしているが、肝心の脚本が凡庸なので、あまり感心するようなオリジナルティーは無い。「お決まり」のスリルと派手なアクションで画面を飾っているだけ。これならアメリカ人の観客が「なぁ〜んだ、この程度か !」と呆れてしまうのも無理はない。(もっとも、アメリカ人の観客はこういった単純明快なアクション映画が好きなので、もしかしたら続編も有り得る。) 映画の質はさておき、ヴィキャンデルの評価は高く、まあまあの好感度を得ている。アンジェリーナ・ジョリーほどのセクシーさを持っていないが、クラシカル・バレーをやっていただけのことはあって、均整の取れた肉体を持っていて素晴らしい。以外と「ララ・クロフト」役に合っているのかも知れない。

Alicia Vikander 14Alicia Vikander 12


(写真 / 地肌のアリシア・ヴィキャンデル)

  でも、一つだけ気になることがある。アリシア・ヴィキャンデルはスウェーデン出身なのに、どうも北歐人に見えない。どちらかというと南米に住むヨーロッパ系女優みたいだ。筆者は最初に彼女を目にしたとき、「あれっ、ペルーかブラジル出身のヨーロッパ系モデルかな?」と思ったほどである。彼女自身が認めている通り、その皮膚はユリのように白い肌というより、ちょっと日焼けした感じの小麦色であった。映画やドラマに出演しているときは、白粉を塗って色白にしているという。彼女の両親は共にスウェーデン人である。母親のマリアは女優で、父親のスヴァンテは精神科医であるそうだ。マリアの家系にはバルト系フィン人やドイツ人がいても基本的にはスウェーデン人であったし、スヴァンテの家系も代々スウェーデン人であるという。アリシアは対談番組の中で、どうして自分の肌が小麦色なのか不思議であると語っていた。彼女は「スウェーデン人がみんな色白なんて単なる先入観だわ」と述べていたが、たぶんそれは事実だろう。

異民族の血が混じっていたスウェーデン人

  人間の遺伝子というのは複雑怪奇で、生まれてきた子供は基本的に両親の面影を宿すが、祖父母の肉体を再現する場合もある。いわゆる「隔世遺伝」というのがあるから、両親とはちょっと違った容姿を持つ赤ん坊が生まれてしまうケースが稀にあるらしい。とりわけ、米国オハイオ州で生まれた双子のケースは刮目に値する。男の子のガブリエル(Ghabriael)は青い目と金髪を持って生まれたのに、女の子のトリニティー(Trinity)はくすんだ色の肌に、黒い瞳と黒い縮れ毛を持っていた。彼らの両親は異人種カップルで、父のチャールズ・カニンガム(Charles Cunningham)は黒人。一方、母のクリスティー(Khristi Cunningham)は白人女性だ。ただし、息子のガブリエルは白人でも顔附きはアフリカ人に近く、その金髪は縮れている。ABCテレビがこの家族を取材し、報道番組で支那系局員のジュージュー・チャンが紹介していた。この番組はいかにも極左放送局が作ったという内容で、人種平等のイデオロギーに凝り固まっている。

Cunningham, Ghabriael 1Cunningham, Trinity 1Cunningham twins

(左: ガブリエル・カニンガム / 中央: トリニティー・カニンガム / 右: 二人で一緒に撮影された写真 )

  もっと驚くのは、1955年に南アフリカで生まれたサンドラ・ラング(Sandra Laing)のケースである。彼女の父アブラハム・ラング(Abraham Laing)と母サニー(Sannie Laing)は共に白人で、彼女の弟はややくすんだ肌ではあるが「白人」と見なされたので差別されずに済んだ。興味深いことに、サンドラの祖父母や曾祖父母も白人であったのだ。ところが、彼女だけ黒人の肉体に生まれてしまったのである。サンドラの先祖に黒人はいないとの話だったが、もしかしたらムラート(mulatto / 白人と黒人との混血児)がいたのかも知れない。アフリカ系混血児と結婚する白人は、セックスで自分の容貌が変形・変色する訳じゃないから以外と無頓着だが、妊婦から生まれてくる赤ん坊には黒人の遺伝子が優性となる可能性が高いのだ。たとえ息子や娘に浅黒い子供が生まれなくても、孫や曾孫の代に黒い子供が誕生する虞(おそれ)がある。それにしても、数世代を経て黒人の遺伝子が子孫に現れてくるんだから、肉体を形成する塩基配列とは不思議なものだ。

Sandra Laing & her motherSandra Laing & brother & motherAbraham Laing 1


(左: サンドラ・ラングと母親のサニー / 中央: 母と弟と一緒に写っている幼い時のサンドラ / 右: 父親のアブラハム・ラング)

  アリシア・ヴィキャンデルは自分の血統について詳しくは知らない、と語っていたが、もしかしたら祖先の誰かに有色人種、もしくは非北歐系の混血児がいたのかも知れない。筆者は彼女のケースについて何も言えないが、スウェーデン国民の中にはジプシーの血が混ざっている人がいるので、数世代を経てアジア人的容貌を持つ人が現れたりする。つまり白人なんだけど、骨格とか人相、皮膚の点で北歐人らしからぬ人が居るということだ。日本人でもちょっとアフリカ人的な容貌を持つ人がいて、髪が太くて縮れていたりする。また、ある人はタイ人とかベトナム人みたいな顔附きなりで、友達からアジア系混血児と誤解されて憤慨したりすることもあるらしい。最近は、フィリピン人とかタイ人の母親を持つ幼稚園児が増えたので、従来の日本人とは違った子供が珍しくない。

Gypsies in SwedenGypsies 4


(写真 / ヨーロッパにやって来るジプシーたち )

  北歐人らしからぬ国民がなぜいるのか、という謎を解く鍵がスカンジナヴィアの歴史にある。実は、1512年頃にジプシーがスカンジナヴィア半島にやって来たのだ。スウェーデンの年代記『En Swensk Cröneka』によれば、大天使の聖ミカエルを祝う9月29日にエジプトの方から旅行者の一団が上陸し、彼らはアントニウス伯爵に伴う取り巻き連中であった。古文書の中では、「放浪者(zigeunae)」とか「タタール(tattare)」と呼ばれているが、要するにジプシーのことだ。人権屋が「ロマ」と呼ぶ浮浪者どもは、オリエントからやって来た野蛮人のように見えたから、誤って「タタール」と呼ばれてしまったのだろう。ジプシーの民族的起源は定かではないが、ある学説によるとインドから各地に散らばった流浪民らしい。現在、ジプシーはフランスとかブリテンにも住んでいるけど、元々はバルカン半島やアナトリア地方をうろついていた人々である。随行者としてスウェーデンにやって来たジプシーだが、現地人からは歓迎されなかったようで、1637年7月28日の勅令で、「タタール」の追放が決まったそうだ。そして、1914年から1954年の間、ジプシーのスウェーデン入国は禁止されていたのである。

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(左: 北歐系の女性 / 中央: ゲルマン人の子供 / 右: スカンジナヴィア系の男性 )

  ナチス・ドイツによる対ジプシー政策は悪名高いが、スウェーデンにも人種や民族に関する暗い過去がある。日本ではほとんど知られていないのだが、スウェーデン政府はジプシー達の個人情報を“こっそり”集め、違法なデータベースを作っていたのだ。この機密ファイルは2013年、スウェーデンの報道機関にリークされ、一般国民に知られるようになった。人種を基本にした最大のジプシー登録ファイルには、4029名の個人情報が記載され、そのうちの842名が10代の少年達で、52名が赤ん坊であったという。(Mattias Gardnell, "Sweden's dirty little secret", Open Democracy, 9 October 2013) 発覚当初、スウェーデンの警察当局はファイルの存在を否定したが、このデータベースの作成は通常行われる情報収集の一環であると、仄めかしたそうだ。まぁ、手癖の悪いジプシーによる犯罪は結構多いから、警察としては防犯対策と犯罪捜査を兼ねた極秘資料であったのだろう。

  ジプシーの入国が禁止されていた1920年代に、政府当局は残存していたジプシー達をどう扱うべきか頭を悩ませていたらしく、治安担当者はジプシーとスウェーデン人を統合することは無理と考え、彼らを「解決不可能な問題」と見なしていたそうだ。それゆえ、この問題を解決できるのはただ一つ、彼らをスウェーデンから追い出すことであった。政府当局者はジプシーの国内移住に制限を設け、勝手気ままに放浪できぬようにすることで、彼らがスウェーデンを“自主的”に去るよう仕向けたのである。ジプシーは自由を奪われることが嫌いで、好きな時に好きな事をする性分だから、スウェーデンが「居心地の悪い土地」になれば、自然と居なくなるという訳だ。

  それでも、国を去らずに居坐る者がいたので、スウェーデン政府は個別にジプシーを尋問し、一人一人に「Zナンバー」を割り振り、彼らの性格を詳しくファイルに書き留めたのである。例えば、Aというジプシーは「狡賢い」とか、「怠惰である」、「暴力的だ」などと記載したそうだ。ところが、このプロファイリングは単なる人別帳に留まらなかったから問題になった。というのも、当時は「優生学」が全盛期の時代だ。歐米諸国では何処でも健全な社会を目指していたから、少しでも社会の負担となる犯罪者や精神異常者、福祉依存者、厄介者を減らそうとしていた。その一環として「断種」という手段もあったのだ。学会では悪質な性格は遺伝すると考えられていたので、その「悪循環」を断ち切るためにも、あるタイプの女性たちに不妊手術を施していたのである。

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(左: スウェーデン人の女性たち / 右: ジプシーの親子)

  スウェーデン政府はジプシーを劣等民族と見なしていたので、彼らの悪質な特性が広まらぬよう、つまり彼らがスウェーデン社会で繁殖しないよう、ジプシー女性を掻き集め、「断種」に同意するよう強制したのだ。もし、彼女達が拒否すれば、その子供を取り上げて引き離すぞ、と脅したらしい。「Zファイル」に登録された賤民は、「国民」に属さなかったから、当然、スウェーデン国民の権利も無かった。1960年代半ばまで、ジプシーたちは完全な公民権を持たず、投票権も無かったらしい。参政権というのは正式な国家の成員に対して付与される特権だから、浮浪者のジプシーに渡すなど狂気の沙汰だ。現在では各方面から糾弾されているが、スウェーデン政府の方針は間違っていないと思う。

  しかし、人権団体や左翼活動家にとっては許しがたい暴挙だ。とりわけ、この「Z登録書」が非難されるのは、ナチスによるユダヤ人認定と似ていたからだろう。少なくとも1996年まで、「Zファイル」に登録されたジプシーは、血統的に「完全」「半分」「4分の1」と分類されていたそうだ。さらに、この登録書にはジプシーの評価も記されていたそうで、「単純な性格だが、まあまあ良い」とか「陽気だが、大した知能は無い」、「暗愚である」「知恵遅れ」といった観察結果が附け加えられていたという。でも、こうした人物評定は如何にも北歐のヨーロッパ人らしく、厳格なゲルマン人の精神科医とか文化人類学者、ないしは動物学者の鑑定を偲ばせる。歴史に無知なアメリカ人だと、正義漢ぶって高飛車に非難するが、第二次大戦前はアメリカ人も似たようなもので、優生学がアカデミック界で流行っており、断種強制も珍しくなかった。優生学や人類学に関する米国史を述べると長くなるので割愛するが、アメリカ人はドイツ人を糾弾できるほど清廉ではなかった。人種差別に関しては似たり寄ったりである。

ジプシーの母を持っていた喜劇王

  同種族が多数派の日本だと、「ジプシー」と聞いても、いまいちピンとこない。せいぜい、音楽や映画で耳にする程度なんじゃないか。例えば、日本の人気ロック・バンド「アンセム」が奏でる名曲「Gypsy Ways」とか、英国の「ディープ・パープル(Deep Purple)」でお馴染みの曲「The Gypsy」とかである。筆者はジプシーに関して二つ挙げたい。一つは子供の頃に観たアラン・ドロンの映画『ル・ジタン(Le Gitan)』である。日本ではあまり話題とならなかったが、ドロンがジプシーの血を引く犯罪者を演じており、世間から蔑まれる「よそ者」が妙に似合っていたのを覚えている。たぶん、ドロンにも人に隠しておきたい過去があったから、警察に追われる犯罪者で流浪民の「ジタン」を上手く演じることが出来たのだろう。単なる子供に過ぎなかった筆者だが、アラン・ドロンの哀愁を帯びた表情が印象的で、今でも記憶に残っている。

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(右: 私生活でのアラン・ドロン / 右: 「ル・ジタン」に出演したアラン・ドロン)

  もう一つは、チャーリー・チャップリンがジプシー系英国人であったことだ。喜劇王チャップリンは、その類い希なる才能ゆえに、「もしかしたらユダヤ人じゃないのか?」と囁かれていた。チャップリン本人は「ユダヤ人」という噂を否定していたので、筆者も「たぶん違うんじゃないか」と思っていた。そうしたところ、2010年頃になって、ようやくチャップリンの親戚が認(したた)めた手紙が表に出て来て、彼の母親がジプシー藝人であることが判ったのである。("The secret letter that claimed Charlie Chaplin was the son of a gypsy queen", Daily Mail, 21 February 2011) チャーリーの母ハンナ・チャップリン(旧姓 / Hannah Hill)は旅藝人の役者で、「リリー・ハーレー(Lily Harley)」という藝名で通っていた。ところが、息子が3歳の時に夫のチャールズと別れてしまったという。チャーリーは大人になっても母親をいたく慕っており、その優しさを忘れられなかったのか、愛する女性にも亡き母の面影を求めていたらしい。ただし、母親の素性に関しては固く口を閉ざしていたから、ジプシーの血筋だけは絶対に明かしたくなかったのだろう。「サー(Sir)」の称号をもらった名優が、ジプシーの倅(せがれ)だなんて、恥ずかしくて人に言えないじゃないか。(これは筆者の勝手な推測だが、チャップリンが左翼思想のを持っていたのは、人間を家系や種族で差別する西歐人が赦せなかったからだろう。)

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(左: チャーリー・チャップリン / 中央: 母親のハンナ・チャップリン / 右: 父親のチャールズ・チャップリン)

  ちなみに、チャップリンの母親は三人の子宝に恵まれたけど、その人生は悲惨なものだった。二番目の夫チャールズに出逢う前、彼女はシドニー・ホーク(Sydney Hawke)という男に惚れてしまい、一攫千金を夢見る夫に従って南アフリカにまで移住したのだが、その地で亭主から売春を強要されてしまったのだ。恐らく、この商売が原因で、彼女は梅毒に罹ったのだろう。ハンナはこの“碌でなし”との間にシドニーという長男を出産し、二番目の夫であるチャールズとの間に次男のチャーリーをもうけている。ところが、間もなくチャールズとも離婚。この再婚相手と別れた後、ハンナはレオ・ドライデン(Leo Dryden)という役者と恋に落ち、彼との間に三男のウィーラー・ドライデンを産んだという。しかし、梅毒のせいで精神に異常をきたし、衰弱したハンナはやがて息を引き取る。後に、恋多きコメディアン、我らがチャーリー・チャップリンが女性と寝るとき、矢鱈と神経質で性病に感染するのを極度に恐れたのは、母親の病気が深く心に刻み込まれていたからだろう。それにしても、有名な喜劇王がベッドに入る前、股間に沃素(ようそ)を塗るなんて、ちょっと哀しくて笑う気になれない。

  人間の種類を区別する際に、どれが良くてどれが悪いと決める基準は無い。アフリカの部落では黒人が普通で、たまにアルビノ(突然変異で肌が白い子供)が生まれたりするけど、大半はアフリカ人の容姿を素晴らしいと思っている。この大陸を侵略するヨーロッパ人なんか白い悪魔に過ぎない。一方、ゲルマン種族が住む北歐では白い肌の人間が普通で、アフリカ人と違った容姿の者が美しいと評されている。北歐人は黒い縮れ毛よりも、ゆるやかに波打つ栗色の毛や直毛の金髪を尊ぶ。鼻の形もユダヤ人のような鉤鼻とか、アフリカ人のような獅子鼻を嫌い、鼻孔が狭く筋の通った細い鼻を良しとする。日本のテレビや雑誌は理想的なアーリア人を採用するが、白人の中にも様々なタイプがいるから、全員が美男美女という訳ではない。各民族はそれぞれ独特の美意識を持っているので、「ミス・ユニバース」や「ミス・インターナショナル」みたいに世界基準を設けようとするのが、そもそもの間違いの素である。

  スウェーデンの世論は「Zファイル」を糾弾するが、ジプシーに関する議論が白熱することを望まない人々が居ることも確かだ。なぜなら、スウェーデンにはジプシーの血統であることを恥じる人々がいるので、自分の祖先を他人に知られたら一大事。就職や結婚、住宅購入の際にどんなトラブルが起きるか分からない。もし、「Zファイル」の情報が世間の注目を浴びれば、隠していた個人の秘密が“ひょんな事”でバレる恐れもある。人権屋とか大学教授は「民族差別はけしからん !」と大騒ぎするが、一般人は綺麗事で暮らしていないから、やはり穢らわしい血筋を隠そうとするし、理屈はどうあれ内緒にしようとするのは人情だ。日本でも朝鮮人の家系を恥じる在日鮮人や帰化鮮人がいて、1980年代くらいまでは必死に隠そうとする人が多かった。現在では朝鮮人の出自を明らかにする人が増えたけど、できれば闇に葬りたいと願う人もいるはずだ。

kids in thai 2Filipino children 3

(左: タイ人の子供たち / 右: フィリピン人の子供たち)

  最近の日本では多民族共生とか国際化時代と叫んで、大いにアジア人やアフリカ人との結婚を祝福しているが、本当に問題が無いのか日本人はよく考えるべきだ。例えば、黒人と結婚する日本人女性も増えたが、彼女達は子供や孫の感情を考えたことがあるのか? 確かに、アフリカ人留学生とか米軍の黒人兵と恋に落ち、結婚をして妊娠するけど、生まれてくる赤ん坊は母親と違った人種になるし、通常は黒人の遺伝子が優性となる。また、もしも、実家の両親が生まれたての初孫を見れば、「えっ、この子が?!」と驚きの表情となるだろう。自分の娘が産んだ子供とは思えないから、かなりのショックを受けるはずだ。祖父母としては動揺を隠せない。なぜなら、たとえ自分達が納得したとしても、隣人や友人、後輩、同僚といった第三者がどう思うのか不安だからだ。表面上、笑顔で孫を受け容れてくれたとしても、他人が心の奥底でどう受け止めるのか判らない。詮索好きな近所のオバちゃんたちは、ファミレスか病院の待合室に集まり、あれこれ陰口を叩くから、やはり世間の目が気になる。

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(左: 白人と黒人のカップルとその子供 / 右: 混血児の子供)

  悲劇はまだ続く。こうした混血児が物心をつく年齢になれば、周りの子供と自分が肉体的に違う、と厭でも気付くだろう。その時、日本人の姿をした母親は、どのように子供と向き合うのか? もし、幼稚園や小学校で馬鹿にされた息子が、「ママ、どうしてボクだけみんなと違うの?」とか、お洒落に目覚めた娘が「私、パパみたいな顔じゃイヤだ。ママみたいになりたい !」と泣き出したら、出産した責任のある母親は何と答えるのか? 「そんなの気にするんじゃない !」とか、「差別する友達の方が悪いのよ !」と言い聞かせても無駄である。たとえ幼くても子供は現実を解っている。恋愛時代には気付かなかった重大事項を、育児になって気付く日本人女性は少なくない。日本人は自分がしっかりすれば、困難を克服できると信じる傾向がある。だが、遺伝子だけは自分の努力ではどうにもならない。自分の容姿に劣等感を持つ娘が、その腹癒せに学校でグレ出したら、母親は通常通りに叱る事ができるのか? もし母親から怒られた娘が、「じゃあ、日本人の体にしてちょうだい !」と反撃したら、普通の日本人女性は言葉を失ってしまうだろう。

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(左: アフリカ人の少女たち / 右: 黒人と朝鮮人の家族)

  一般の日本人は我が子を可愛がり、その子の将来を考えて一生懸命に働く。しかし、黒人と結婚した場合の悲劇は考えない。浅黒く生まれた息子や娘から責められるのは辛いものである。が、その孫からも責められればもっと辛いだろう。もし、アフリカ人の形質を受け継いだ孫から「お婆ちゃんが黒いお爺ちゃんと結婚したからだ !」と責められたとき、日本人の祖母はどう答えるのか? 「あたしゃ知らないよ !」と逃げる手もあるだろう。だが、大抵の祖母は「済まないねぇ。赦しておくれ」としか言えないんじゃないか。優生学を学校で習わなかった日本人は、結婚するとき「子孫への配慮」など考えない。相手がどんな素性・容姿であれ、惚れたから夫婦(めおと)になる、というのが一般人の行動パターンだ。教科書では「人種平等」とか「人類兄弟」、「多民族共生」と書いてあるから、多数派の国民はそれを鵜呑みにしてしまうが、現実社会は違うぞ。他人事なら仙人ヅラできるけど、自分の事となれば大変だ。

  最近のテレビ局は、異常なほど外国人をバラエティー番組に招いて喋らせたり、日本に暮らすアジア人やアフリカ人を取材し、無防備な視聴者をターゲットにして東南アジア人や北アフリカ人、南米人などに親しみを持つよう刷り込んでいる。つまり、「今や、様々な外国人があなたのご近所に住んでいるんですよ」と言いたい訳だ。伝統的な日本社会をぶっ壊したい左翼制作者は、内部から徐々に、しかも着実に破壊しようと企む。同質的な素晴らしい共同体を崩壊させるには、日本人の質を変えてしまうことが最も合理的である。手間暇掛けて日系人に反日思想を植え付けるより、最初から“日本人ではない”外国人の子供を増やす方がたやすい。ある個人の肉体に、アジア人やアフリカ人の遺伝子が50%含まれ、次の世代で75%に上昇し、三世代目で87%くらいまで増加したら、もう自分が日系日本人であるとの意識は無くなるだろう。こうした「日本国民」は単なる「島民」に過ぎない。やがて日本は「よそ者」が群がる雑居ビルとなるから、国民同士の連帯は消え失せ、天皇陛下も江戸城に住む「知らない外人」となってしまうだろう。

  アリシア・ヴィキャンデルの話からだいぶ逸れてしまったけど、我々は今「静かな」変質の時代に生きているというこだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68707220.html

2. 中川隆[-10895] koaQ7Jey 2019年4月06日 08:37:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1134] 報告

ロマ(ジプシー)の世界


チャップリン キッド The Kid (1921年)

監督 チャーリー・チャップリン
脚本 チャーリー・チャップリン
音楽 チャーリー・チャップリン(1971年サウンド版)
公開 1921年1月21日

上映時間
オリジナル版/68分
1971年サウンド版/53分

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=The+Kid+1921&sp=mAEB
https://www.nicovideo.jp/search/Chaplin%20The%20Kid%E3%80%80(1921%E5%B9%B4)?ref=watch_html5


キャスト

放浪者:チャールズ・チャップリン
捨て子の少年:ジャッキー・クーガン
捨て子の母親:エドナ・パーヴァイアンス
芸術家の男:カール・ミラー
木賃宿の男:アルバート・オースチン
スラム街の看護婦:ネリー・ブライ・ベイカー
興行主、木賃宿の管理人:ヘンリー・バーグマン
自動車泥棒・客・夢の中の悪魔(三役):ジャック・クーガン・シニア
夢の中で放浪者を誘惑する天使:リタ・グレイ
医師:ジュール・ハンフト
芸術家の友人:グランヴィル・レッドモンド
エドナのメイド:メイ・ホワイト
警官:トム・ウィルソン
街の乱暴者:チャールズ・F・ライスナー

慈善病院を出たある婦人(エドナ)は、車の中に自分が産んだ赤ん坊を置き去りにする。一方、放浪者(チャーリー)はその車の持ち主が途中で捨てていった赤ん坊を見つけて可愛そうに思うあまり、育てようか悩んだ挙句、通りがかった警官や乳母車を担いだ余所の婦人ににらまれた末、赤ん坊のそばにあったエドナの置手紙を見たことにより、自分の家でその赤ん坊を育てることにした。

五年後、育ったキッド(ジャッキー)とともに、チャーリーはキッドにいたずらでガラスを割らせる一方でガラスの修理を行い、被害者から修理代をいただき、生計を立てていた。キッドはいたずらで石を投げようとするところを警官に見つかり、石を放り出して逃げていった。

その後慈善活動として子供と親しむようになっていたエドナは偶然成長したキッドと再会し、キッドはエドナからおもちゃをもらう。ある時、キッドは街のいじめっ子に出会い、けんかになるところをチャーリーは見かねてキッドを助けに行こうとするが、いじめっ子の兄がやってきたため、決闘沙汰になる。結局兄は引き下がったが、エドナが熱を出したキッドを担いでチャーリーの元に駆け込む。

呼ばれた医師が見つけた「この子をよろしくお願いします」というエドナの手紙により、キッドが孤児であると発覚すると、孤児院の職員がキッドを孤児院に連れていこうとするが、チャーリーはキッドと組んでこれを拒む。宿屋でチャーリーと泊まったキッドを見た宿主はエドナが新聞に懸賞金付きで投稿したキッドを探し出す旨の記事を見つけ、眠っていたキッドを連れ出した。

キッドがいなくなったことに気づいたチャーリーは必死でキッドを探し出そうとするが、エドナが訪れた警察署で匿われたキッドを保護する一方、チャーリーはキッドを探し疲れて眠りにつき、天使や悪魔、そしてキッドが現れる夢を見た。そして警官に起こされてエドナの邸宅に連れていかれ、キッドとの再会を果たした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%89_(1921%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)  

3. 中川隆[-10894] koaQ7Jey 2019年4月06日 08:39:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1135] 報告

ロマ(ジプシー)の世界 _ 2


独裁者 The Great Dictator


監督 チャールズ・チャップリン
脚本 チャールズ・チャップリン
音楽 メレディス・ウィルソン
撮影 カール・ストラス
配給 ユナイテッド・アーティスツ
公開 1940年10月15日

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%8B%AC%E8%A3%81%E8%80%85?ref=watch_html5

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キャスト

トメニア国の独裁者アデノイド・ヒンケル、ユダヤ人の床屋:チャールズ・チャップリン
ハンナ:ポーレット・ゴダード
バクテリア国の独裁者ベンツィーノ・ナパロニ:ジャック・オーキー
内相兼宣伝相ガービッチ:ヘンリー・ダニエル
シュルツ中佐:レジナルド・ガーディナー
戦争相ヘリング元帥:ビリー・ギルバート
ジェケル:モーリス・モスコヴィッチ
ジェケル夫人:エマ・ダン
マン:バーナード・ガーシー(英語版)
アガー:ポール・ワイゲル
ナパロニ夫人:グレイス・ヘイル
バクテリア国大使:カーター・デ・ヘイヴン
ユダヤ人の床屋の客:チェスター・コンクリン
総統付床屋:レオ・ホワイト
突撃隊員:ハンク・マン、パット・フラハティ
ヒンケルの秘書:フローレンス・ライト
コンパクトパラシュートの開発者:シグ・アルノ
ユダヤ人の果物屋:ハリー・シーメルス
彫刻家:ジーノ・コラード
床屋の客:トーベン・マイヤー
刑務所の衛兵:リチャード・アレクサンダー


映画は第一次世界大戦における戦場の場面から始まる。チャップリンは、架空の国トメニアの陸軍重砲部隊に所属する無名の二等兵(以下、役名を「床屋のチャーリー」とする)として登場する。前線で味方とはぐれた床屋のチャーリーは負傷した士官のシュルツを救出するとともに、シュルツが所持している重要書類を本国に届けるべく飛行機で飛び立つが、二人の乗った飛行機は燃料切れにより墜落してしまう。墜落を生き延びた二人は友軍に重要書類を届けようとするも、トメニアがすでに降伏していたことを知り大いに悲しむ。


一方、床屋のチャーリーは墜落のショックで記憶を失い、以後の20年を病院で過ごすことになる。この20年の間にトメニアは政変が起こり、アデノイド・ヒンケル(チャップリン:一人二役。なお、床屋のチャーリーと顔が似ているのは「偶然」である)が独裁者として君臨し、内務大臣兼宣伝大臣ガービッチ(ヘンリー・ダニエル)と戦争大臣ヘリング元帥(ビリー・ギルバート)の補佐を受けつつ、自由と民主主義を否定し、国中のユダヤ人を迫害した[3]。

床屋のチャーリーは病院を抜け出し、ゲットーにある自宅に戻ってくる。しかし、本人は20年の時間の経過を理解しておらず、ほこりが積もった理髪店のありさまに呆然とする。彼はヒンケルの手先である突撃隊が自分の店の窓にペンキで塗った「ユダヤ人のレッテル」を消そうとして、突撃隊に暴力を振るわれる。現在の政治状況について何も知らない床屋のチャーリーは突撃隊に反抗したところ、大勢の突撃隊に私刑を受け、吊るし首にされようとしたが、かつて命を助けたシュルツが偶然に通りかかる。


シュルツはヒンケルの信頼も厚く、今では突撃隊長となっていた。床屋のチャーリーがユダヤ人と知って驚いたシュルツであったが、以前助けられた恩から、突撃隊に床屋のチャーリーと彼の恋人であるハンナに手を出さないよう部下に命じた。

ヒンケルはオーストリッチ[4]侵略を企て、ユダヤ系の金融資本から金を引き出すため、ユダヤ人への抑圧政策を緩和した。急に「人間らしく」なった突撃隊員たちを目の当たりにして、ゲットーの住人はヒンケルが自分たちに市民権を返してくれるのではないかという淡い期待を持った。しかし、資金援助を断られたヒンケルはユダヤ人に対して怒りを露わにし、シュルツにゲットーを襲うように命令する。これに対し、シュルツはユダヤ人迫害は党の利益にならないと反対したため、ヒンケルは落胆しつつも彼をすべての役職から解き、強制収容所にぶち込んでしまう。そして、ラジオ放送においてユダヤ人への怒りを露わにした演説(?)を行い、ユダヤ人迫害を再び強化する。

シュルツが失脚したことを知った突撃隊は、床屋のチャーリーのせいだと思い込んでゲットーへの襲撃を行い、床屋のチャーリーの店は破壊されてしまう。これらを受け、ハンナは隣国オストリッチへの亡命を思い立つ。強制収容所から脱出したシュルツはゲットーに逃げ込み、ヒンケル体制の転覆を計画したが、事前に発覚して床屋のチャーリーとともに捕まり、また強制収容所に送り込まれてしまう。また、ハンナと彼女の両親ら床屋のチャーリーの近所の人たちはオストリッチへ亡命同然に避難をし、オストリッチでヒンケルに迫害されない新たな生活を迎えようとしていた。


ヒンケルとナパロニは、オーストリッチ侵攻で争い、激しい交渉を繰り広げる。
しかし、世界の皇帝として君臨する野望を抱くヒンケルはオストリッチへの侵略を諦めていなかった。ヒンケルのオストリッチ侵略計画は、近隣国バクテリアの独裁者であるベンツィーノ・ナパロニ[5]によって反対され、2人の独裁者の間で激しい交渉(および食べ物を使った喧嘩)があり、両者はいったん妥協するが、ヒンケルは妥協を反故にして遂にオストリッチ侵攻を決行した。オストリッチに脱出していたハンナたちは再びヒンケルの支配下に置かれ、深い悲しみと絶望の淵に追い込まれることになった。


シュルツと床屋のチャーリーはトメニアの軍服(ナチスの鉤十字に似せた双十字が特徴。英語の"double cross"には「裏切り」の意味がある)を着て、強制収容所から逃げ出した。このとき、床屋のチャーリーの外見がヒンケルにそっくりだったこと、かつてヒンケルに重用されていたシュルツを従えていたことから、将兵たちは床屋のチャーリーを本物のヒンケルと間違えてしまった。


逆にヒンケルは侵攻に備えて、狩猟旅行を装ってオストリッチ国境付近で単身待機していたところを、脱走した床屋のチャーリーと間違えられて配下の兵士に逮捕されてしまう。

床屋のチャーリーはヒンケルと間違えられたまま、トメニア軍に占領されたオストリッチの首都へ連れていかれる。ガービッチが演説を行い、言論の自由や民主主義を否定し、ユダヤ人や黒人は劣った民族であるとして「ヒンケル」にただ服従せよと迫る。

それに続いて演台に立った床屋のチャーリーは、自由と寛容、人種の壁を越えた融和を訴え、ガービッチとは全く逆のヒューマニズムに基づく演説を行う。兵士たちの拍手喝采の中、チャーリーは絶望に泣き崩れるハンナにラジオを通じて語りかける。希望を感じさせながら映画は幕を閉じる。


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チャップリンが、当時のドイツ国の指導者で、オーストリア併合やポーランド侵攻、ユダヤ人虐待などを行ったアドルフ・ヒトラーの独裁政治を批判した作品で、近隣諸国に対する軍事侵略を進めるヒトラーとファシズムに対して非常に大胆に非難と風刺をしつつ、ヨーロッパにおけるユダヤ人の苦況をコミカルながらも生々しく描いている。

1940年10月15日にアメリカ合衆国で初公開された。当時のアメリカはヒトラーが巻き起こした第二次世界大戦とはいまだ無縁であり、平和を享受していたが、この映画はそんなアメリカの世相からかけ離れた内容だった。

またこの作品は、チャップリン映画初の完全トーキー作品[2]として有名であり、さらにチャップリンの作品の中で最も商業的に成功した作品として映画史に記録されている。

アカデミー賞では作品賞、主演男優賞、助演男優賞(ジャック・オーキー)脚本賞、作曲賞(メレディス・ウィルソン)にノミネートされ、ニューヨーク映画批評家協会賞では主演男優賞を受賞した。また、1997年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

初公開当時にドイツと同盟関係にあった日本では公開されず、日本初公開は第二次世界大戦の終戦から15年、サンフランシスコ講和条約締結から8年後の1960年であった。しかし、日本でもヒットし興業収入は1億6800万円を記録、この年の興業収入第4位となった。


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設定

ナポロニとヒンケル、ファシストの先輩であるムッソリーニと後発のヒトラーがモデル
映画に登場するゲットーの街の看板などは基本的にエスペラントで書かれ、さらに本来のエスペラント表記にはない符号が文字の上にところどころ付けられて、それがドイツ語風あるいはポーランド語風に見えるようにアレンジされている。これは、エスペラントの考案者ザメンホフがユダヤ人であることや、当時ヒトラー政権下のドイツにおいてエスペラントが弾圧されていたことと関連がある。

それぞれ演じられているトメニアの独裁者とその側近などはドイツのナチス党の幹部の名前をイメージさせるものにしてあり、アデノイド・ヒンケル(Adenoid Hynkel)は総統のアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)、内相兼宣伝相ガービッチ(Garbitsch)[6]は宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)、戦争相ヘリング元帥(Herring)[7]は空軍総司令官兼航空相ヘルマン・ゲーリング国家元帥(Hermann Göring)のもじりである。また、ベンツィーニ・ナポロニはイタリア首相ベニート・ムッソリーニのもじりである[8]。


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製作

もともとチャップリンは、『モダン・タイムス』の次回作として女密航者を主人公にした映画(ポーレット・ゴダード主演。1967年制作の『伯爵夫人』の原案となる)、ついでナポレオン・ボナパルトを主人公にした映画を構想していた。後者においては、ナポレオンが影武者と入れ替わってセントヘレナ島を抜け出し、市井の教師ナポレオンとなって革命に参加するも、島に残した替え玉が死んで、最後は悲劇的な結末を迎えるというものであった。どちらも、時勢に鑑みるとあまり適当でない作品と考えられた。

そこで現代に即し、ナポレオンをヒトラーに代えて映画を作ることとなった。チャップリンは例によってこの映画の脚本・監督をつとめ、チャップリン・スタジオに加えて、ローレル・キャニオンなどロサンゼルス近郊の各所で撮影された。なお、チャップリンは『街の灯』以降自分で音楽も作曲していたが、今回に限っては気に入らないところの撮り直しもあって時間的に作曲の時間が立てられず(クランクアップ後、たっぷり時間をかけて作曲と編集に集中するのがチャップリンのパターンであった)、作曲のほとんどはメレディス・ウィルソンに委ねられた。

もちろん、この映画のアイデアは『チャップリンの放浪者』とヒトラーとのキャラクター上の類似から発展したものである。ユダヤ人の友人や同僚から聞き及んだ、1930年代を通じてエスカレートするドイツのユダヤ人迫害もモチベーションとなった。最終的に制作を決断したのは、アレクサンダー・コルダのプランを受け入れてからであった。

チャップリンは1938年から1939年にかけてストーリーを制作し、1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻して始まり、祖国のイギリスも参戦した第二次世界大戦勃発後の2週間後から撮影を開始した。撮影を終了した6ヶ月後にはフランス第三共和政がドイツ軍によって陥落し、次いでイギリスへのドイツ軍の上陸が行われると言われていた。制作中に起こったヨーロッパでの戦争が、賛否両論を生んだ終盤のスピーチを挿入する動機となった。

チャップリンは後世、自伝において「ホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれない」と述べている。なお、映画の撮影当時はドイツによるユダヤ人に対する迫害政策と、ゲットーへの強制移送はドイツ国内とドイツ軍の占領地で実施されていたが、ユダヤ人に対する大量虐殺はまだ行われてはいない。なお、ホロコーストという状況の中でユーモアを導入する試みは、ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』までの半世紀の間は見られない。

当初、独裁者の最後は戦争が終わり、ユダヤ人と兵士が手に手を取って踊りを踊り、また中華民国と戦争をしていた日本も爆弾の代わりにおもちゃを落とし、戦争を終えるという設定をしていた。しかし、チャップリンはこれでは独裁者に対する怒りを表現できないとして台本を変え、最後の6分間の演説シーンとなった。この6分間の演説についてアメリカなどの右翼勢力は「共産主義者の陰謀である」として強く反発した。また、1929年の世界大恐慌によって黒人やユダヤ人を迫害するKKKを中心とした右翼がアメリカをはじめ先進諸国で台頭したため、そのことも『独裁者』に対する反発を促進させることとなった。

一部のチャップリンの評論では「『殺人狂時代』がアメリカ追放の原因である」と論評しているものがあるが、チャップリンに対する政治上の反発は『モダン・タイムス』の頃、もっと遡れば第一次世界大戦の頃から上がっており、また以上にあるように最大の収益を上げた『独裁者』に対しても政治的圧力や反発があった。

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公開

この映画の製作は、世界状況の緊張と軌を一にしている。『独裁者』だけでなく、『The Mortal Storm』や『Four Sons』(どちらも日本未公開)のような他の反ファシズム映画は、アメリカとドイツが微妙な関係にありながら中立状況を保っていた中ではリリースできないだろうと予測されていた。そんな中、チャップリンは財政的にも技術的にも他のスタジオから独立していたため、大々的に作品の製作を行うことができた。

だが一方では、『独裁者』がリリース不可能になれば、150万ドルを個人資産から投資していたチャップリンは破産する、という状況でもあった。結局、『独裁者』は1940年の9月にニューヨークで封切られ、10月にはアメリカ国内で拡大公開され、11月にはイギリスで公開された。パリの解放後間もない1945年4月にはフランスでも公開された。

アメリカとドイツはまだ開戦していないものの(ドイツがアメリカと開戦するのは1941年12月になってからである)、映画の内容から、当事国であるドイツはもちろん、ポーランドやオーストリアなどのドイツの占領下、影響下にある地域、ドイツと同盟関係にあった日本やイタリア、またアルゼンチンやチリなど、ドイツ系移民が多く親独政権が多かった南米諸国や、中立政策を採っていたアイルランドでは上映禁止となった。(これらの地域での封切り年は次のとおりである。イタリアとアイルランド:1946年、ドイツ:1958年、日本:1960年)高見順は1941年12月にジャワ島で、小林桂樹は陸軍兵士としてイギリスが植民地支配していたシンガポールに駐屯した際、イギリス軍からの押収品の中に『独裁者』のフィルムがあり、それを見たという。

『独裁者』は、発表と同時にアメリカで大人気となった。批評家の反応は様々で、特に終盤のチャップリンのスピーチを「容共的」、「左翼的」として批判する者も多かった。喜劇化された突撃隊を、ナチスの恐怖を大っぴらに誇張していて不謹慎だとする意見もあった。だが、ユダヤ系の観客はユダヤ人のキャラクターとその絶望に深く感動した。当時のハリウッドでは、ユダヤ人に関することはタブーであったのだ。

盗作訴訟[編集]

チャップリンの友人コンラッド・ベルコヴィチは、『独裁者』を盗作であるとチャップリンを訴え、チャップリンサイドに500万ドルを要求した[9]。チャップリンサイドは最終的に9万5千ドルを支払うことになった[10]。

前作『モダン・タイムス』はドイツの映画会社トビス社から訴訟を起こされた(1937年と1947年の計2回)。チャップリンサイドは、『モダン・タイムス』への訴訟(2回目)を、『独裁者』への報復であるとみている[11]。

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チャップリンとヒトラー

チャップリンとヒトラーとの間にはいくつかの共通点があり、チャップリンは1889年4月16日生まれなのに対し、ヒトラーは1889年4月20日とわずかに4日違いである。またトレードマークが口ひげであり、チャップリン自身ヒトラーの口ひげは自分のオリジナルキャラのチャーリーを下品にしたようだというイメージを持っていた。

また、チャップリンはロンドンの貧しい家に生まれ、生活に苦労し、ヒトラーは生まれた家は中産階級で豊かだったものの青年期において公共独身者合宿所で生活しているということ(これについては近年『我が闘争』でヒトラーが誇張したものであって、実際の施設である公共独身者合宿所は必要最低限の生活ができる施設であったという説が有力である)、また両人に一時ユダヤ人説が流れていたことで共通項が多いと見る向きもある。なお、ヒトラーが本作を見たかどうかについて、チャップリン研究者の大野裕之は2015年の著書で、ドイツ政府が収集した映画作品のリストに含まれているが、ヒトラーの鑑賞については不確かな証言が複数あるものの明確に裏付けられる資料はないとしている[12]。2001年に製作されたBBCドキュメンタリー作品『放浪者と独裁者』"The Tramp and the Dictator"では、「ヒトラーは実際にこの映画を観た」というヒトラーの元秘書による証言が残っている。Internet Movie Databaseによれば、チャップリンはこの証言を聞いて、「なんとしても感想を聞きたいね」と答えたという。

また、ヒトラーは政治キャリアの初期においてすでに、映画界におけるチャップリンの人気に目をつけていたとする意見もある。“チャーリー”のキャラクターとヒトラーの類似はたびたび語られるところである。つまり、自らの知名度を上げるために、チャップリンと同じ四角い口ひげを生やしていた、というのである。

実際のヒトラーの最期は映画『独裁者』の終わり方のような希望であるよりむしろ絶望であり、長年のパートナーエヴァ・ブラウンと正式に結婚して数十時間後、総統地下壕の一室でエヴァとともに非業の死を遂げた。


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フリーメイソンリー


ヒトラーは反ユダヤ、反フリーメイソンであった。フリーメイソンはナチス党率いる当時のドイツ政府による弾圧の対象であり、ドイツ警察に収監され獄死したフリーメイソンたちがいる[13]。

映画『独裁者』の中盤、地球儀が大きな音を立てて破裂し、場面が理髪店に移りラジオから流れる音楽は、フリーメイソンの音楽家ヨハネス・ブラームス[14]の『ハンガリー舞曲 第5番』(管弦楽版)である。

チャップリン映画の常連でフリーメイソン[15][16]のチェスター・コンクリンが前作『モダン・タイムス』に続いて本作『独裁者』に出演した。

「欧州統合の父」でパン・ヨーロッパ連合主宰者リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、ヒトラーの政治上の敵であり、チャップリンと共同で『独裁者』の配給元ユナイテッド・アーティスツを設立したダグラス・フェアバンクス(1925年にフリーメイソンリーに入会)や[17]、出演者のチェスター・コンクリンらと同様、クーデンホーフ=カレルギー伯爵もまたフリーメイソンである(1922年に入会)[18][19]。

クーデンホーフ=カレルギーのアメリカへの亡命劇が比喩的に描かれているワーナー映画『カサブランカ』(1942年)もまた反ナチス映画であり、ワーナー四兄弟の中にフリーメイソンリーのメンバーがいる(少なくともハリー、サム、ジャックの3人はフリーメイソンである[20])。

チャップリンと女優ポーレット・ゴダード(ハンナ役)は公私にわたるパートナーであった。クーデンホーフ=カレルギーのパートナーもまた女優であり、ヨーロッパの三大女優(四大女優)イダ・ローラン(en:Ida Roland)である。ポーレット・ゴダードとイダ・ローランはユダヤ系である。ポーレット・ゴダードはまたパラマウント社の女優であり、パラマウントの前身「フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー」を設立したアドルフ・ズーカー(en:Adolph Zukor)は、フリーメイソンである[21]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E8%A3%81%E8%80%85_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

4. 中川隆[-10893] koaQ7Jey 2019年4月06日 08:39:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1136] 報告

ロマ(ジプシー)の世界 _ 3

モダン・タイムス Modern Times

監督 チャールズ・チャップリン
脚本 チャールズ・チャップリン
音楽 チャールズ・チャップリン アルフレッド・ニューマン
撮影 ローランド・トザロー アイラ・モーガン
配給 ユナイテッド・アーティスツ
公開 1936年2月5日

動画
https://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9

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キャスト

工員:チャールズ・チャップリン
浮浪少女:ポーレット・ゴダード
キャバレーの主人:ヘンリー・バーグマン
工場の技師:チェスター・コンクリン
製鉄会社社長:アラン・ガルシア
ビッグ・ビル(チャップリンと同じ工場で働く工員、後にデパートの強盗):スタンレー・サンドフォード
強盗:ハンク・マン、ルイ・ナトー
少女の父:スタンリー・ブリストーン
工員と同房の服役囚:リチャード・アレクサンダー
牧師:セシル・レイノルズ
牧師夫人:マイラ・マッキニー
カフェーの給仕:フレッド・マラテスタ
タービンの交換手:サミー・スタイン
流れ作業の工員:チャールズ・コンクリン
流れ作業の職長:ウォルター・ジェームズ
工員:ボビー・ワーカー、C・ハミルトン、ジャック・ロン
囚人:フランク・モラン
少女の妹:グロリア・デ・ヘイヴン
造船会社の労働者:フランク・ハグニイ
警官:パット・ハーモン
医師:エドワード・キンボール
デパートの売り場主任:J・C・ニュージェント
ウエイター:ジョン・ランド

ストーリー

大きな製鉄工場で働くチャーリーは、スパナを手にひたすらベルトコンベアーを流れる部品にねじを回し続けるという単純作業を繰り返していた。その様子はテレビモニターで監視され、休む暇もなく働かされていた。ある日、チャーリーは労働者の食事時間を節約するために作られた自動給食マシーンの実験台にされ散々な目に合わされる。その後も仕事を続けていく内にチャーリーは発狂し、トラブルを起こして精神病院送りになってしまう。ようやく退院を迎えた日、トラックから落ちた赤旗を拾い運転手に返そうと追いかけていく内にいつの間にかデモ隊の先導をきってしまい、そのリーダーと間違われて捕まって拘置所に入れられてしまう。脱獄囚を撃退した功績で模範囚として放免され造船所の仕事を紹介されるものの、上手くいかず辞めてしまい、あてもなく街をうろつく生活に陥ってしまう。


拘置所が恋しくなったチャーリーはわざと無銭飲食をして捕まえられるが、護送車の中でパンを盗んだ浮浪少女(ポーレット・ゴダード)と出会う。護送車が急カーブで横転し、外へ投げ出されたチャーリーと少女は逃亡。少女と意気投合したチャーリーは、2人のために家を建てるという夢を胸に一念発起とばかり働き出す。デパートの夜回り、工場の技師の助手と仕事を獲得するものの結局上手くいかず、2件とも警察沙汰になるという不運な結果に終わってしまう。その後少女が勤め始めたキャバレー[3]のウェイターの職を得る。見世物の「ティティナ」を歌って大成功したが、少女の微罪のため、そこも追われてしまう。やっとの思いで手に入れた幸福すらも失い悲しみに打ちひしがれる少女を、チャーリーは力強く励ます。

そして、二人は未来に希望を見出し、現代社会の冷たさと束縛に囚われない自由な生活を求めて共に旅立っていくのだった。

音楽

ティティナ

前述した「ティティナ」は(YouTube「Projeto Abridor de Cabeças」では1:15:56から)、1917年にフランスの作曲家レオ・ダニデルフ(英語版)によって "Titine Je cherche après Titine" というタイトルで作曲され、本作で使用されて世界的に有名なメロディとなった。


スマイル

本作のラストシーンで印象的な「スマイル」は、チャップリンが作曲したもので、彼が作曲した音楽の中では特に有名である。喜劇映画にあってコード進行は暗い(ニ短調)。


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資本主義社会や機械文明を題材に取った作品で、労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現している。自動給食マシーンの実験台にされるシーンや、チャップリンが歯車に巻き込まれるシーン、ラストのチャップリンとヒロインが手をつないで道を歩いてゆくシーンなどが有名である。


この作品は前作の『街の灯』(1931年)に続いてのサウンド版で、一部にセリフが入る以外は音楽の伴奏と効果音のみによるサイレント映画となっている。また、チャップリンが初めてスクリーンで肉声を発した映画であり、キャバレーでインチキ外国語(一説にはフランス語風と言われる。また、「taxi」と聞き取れる部分がある)による「ティティーナ」を歌うシーンで、チャップリン自身の歌声を聴くことができる。自作の映画音楽も映像にのせており、前述の「ティティーナ」とラストシーンで印象的な「スマイル」を作曲し、その音楽的才能も開花させている(後述)。公開当時はすでにトーキー映画が普及していたため、この作品は「時代遅れ」と呼ばれて、あまり高い評価は得られなかった。

公私にわたるチャップリンのパートナーで、本作でヒロインを務めたポーレット・ゴダードは、チャップリンによる次作で反ナチス・ドイツ映画の『独裁者』(1940年)においてもチャップリンと共演している。他キーストン時代からチャップリンと共演しているチェスター・コンクリンが出演し、キーストン社時代に演じた「ウォルラス氏」の扮装で登場した。

本作はルネ・クレール監督作品『自由を我等に』と内容が酷似している(ベルトコンベアが走る流れ作業、それから起こるドタバタ騒ぎ、ラストの野原の直線道路を行く構図などが似ているといわれる)。そのため『自由を我等に』のドイツの製作会社・トビス社(Tobis Film)はチャップリンを著作権侵害で告訴しようとした。しかし、証人に立ったルネ・クレールは、「もし『モダン・タイムス』が自分の映画からヒントを得ているならば、光栄に思う」と証言したため、告訴は取り下げられている(1937年)。

しかし、第二次世界大戦後1947年にトビス社は再び訴えを起こし、それをうっとうしく思ったチャップリンサイドは、僅かばかりの支払いをした。ドイツの映画会社トビスによる(二度目の)訴えについて、チャップリンサイドは反ナチス・ドイツ映画『独裁者』への報復であろうと確信している[1]。チャップリンは『独裁者』で、チャップリンの友人コンラッド・ベルコヴィチから盗作訴訟を起こされた[2]。

作品は資本主義を批判していることから、作品を「共産主義的である」と非難した評論家もいたという。そのため当時ファシズム政権にあったドイツなどの国家では、作品が共産主義的であるとみなして、上映を禁止されていた。

日本では1938年2月に封切られており、同年度のキネマ旬報ベストテン第4位にランクインされている。


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評価

本作はチャップリンの作品の中でも特に傑作と呼ばれ、『黄金狂時代』『街の灯』『独裁者』と並ぶチャップリンの代表作と称される。

1989年にはアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

ランキング

「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会発表)※10年毎に選出

1982年:「映画批評家が選ぶベストテン」第21位
1992年:「映画批評家が選ぶベストテン」第41位
1992年:「映画監督が選ぶベストテン」第6位
2002年:「映画批評家が選ぶベストテン」第40位
2012年:「映画批評家が選ぶベストテン」第63位
2012年:「映画監督が選ぶベストテン」第22位

「AFIアメリカ映画100年シリーズ」 1998年:「アメリカ映画ベスト100」第81位
2000年:「コメディ映画ベスト100」第33位
2007年:「アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)」第78位

2000年:「20世紀の映画リスト」(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)第67位
2008年:「史上最高の映画100本」(仏『カイエ・デュ・シネマ』発表)第65位

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9
 

5. 中川隆[-10892] koaQ7Jey 2019年4月06日 08:40:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1137] 報告

ロマ(ジプシー)の世界 _ 4


街の灯 City Lights


監督 チャールズ・チャップリン
脚本 チャールズ・チャップリン
音楽 アルフレッド・ニューマン チャールズ・チャップリン
撮影 ローランド・トザロー ゴードン・ポロック
配給 ユナイテッド・アーティスツ
公開 1931年1月30日


動画
https://www.nicovideo.jp/tag/%E8%A1%97%E3%81%AE%E7%81%AF


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キャスト

放浪者:チャールズ・チャップリン
盲目の花売り娘:ヴァージニア・チェリル
花売り娘の祖母:フローレンス・リー
富豪:ハリー・マイヤーズ
富豪の執事:アラン・ガルシア
市長、花売り娘の階下の住人:ヘンリー・バーグマン
放浪者の相手のボクサー:ハンク・マン
迷信のボクサー:ヴィクター・アレクサンダー
医師:T・S・アレクサンダー
警官:ハリー・エイヤース
道路清掃夫、強盗:アルバート・オースチン
レフェリー:エディ・ベイカー
レストランの女性:ベティ・ブレア
禿げたパーティーの招待客:バスター・ブロディ
新聞の立ち売りの少年:ロバート・パリッシュ、マーガレット・オリヴァー
花屋のアシスタント:ミセス・ハイアムズ
葉巻を拾おうとした浮浪者:ジョン・ランド
背の高いパーティーの招待客:ジャック・サザーランド
アートショップの前のエレベーターの男:タイニー・ウォード
葉巻の上に座るレストランの客:フローレンス・ウィクス

その他、レストランのシーンでは、ブレイク前のジーン・ハーロウも出演している。

主人公は浮浪者の男である。男はある日、街角で盲目の花売り娘と出会い一目惚れしてしまう。彼女は落とした花を拾ってくれた男がタクシーで去っていったと勘違いし、その男が金持ちの紳士と思い込む。その夜、浮浪者の男は妻と別れ自殺しようとした富豪を助け、友達になる。しかしこの富豪は酔っぱらった時には浮浪者のことを思い出すが、素面の時は忘れてしまう。

浮浪者の男は花売りの娘から花を買って紳士を装っていた。いつの間にか娘にとって、男はただのお金持ちではなく、それ以上の人物となっていった。男は病気の彼女のために働き出し、彼女の家へ通い詰めできる限りの献身をするのだった。ある日、娘とその祖母が家賃を滞納し立ち退きを迫られていることを知った男は、娘を助けるためにお金を工面しようとする。しかし遅刻で仕事をクビになり、途方に暮れていたところに、八百長ボクシングへの出場を持ちかけられた。ところがその試合の寸前になって相手は逃亡し、やむを得ず強力な相手と試合をする羽目に。あの手この手で攪乱しつつ必死で戦うが、あえなく敗れる。

浮浪者の男は途方に暮れていると、街で偶然酒に酔った富豪と再会し、彼の家に行き娘の事情を話すと1,000ドルもの大金を援助してくれた。しかし運悪く、室内には2人組の強盗も居合わせており、頭を強打され倒れた富豪を見て浮浪者は大慌てで警察を呼ぶ。警官が到着した時には強盗は逃げてしまい、意識を取り戻した富豪の酔いもすっかり覚めていた。警官に疑われた浮浪者は富豪の家から逃走する。翌日、浮浪者の男は花売りの娘に家賃と目の手術代として1,000ドルを手渡しその場を立ち去った。その帰りに男は無実の強盗容疑で捕まってしまう。

時は流れ、刑務所から出た浮浪者の男が街をとぼとぼと歩いていると目の治った花売り娘と再会した。娘は1,000ドルを自分に渡した恩人は金持ちの紳士だと思い込んでいるので、まさかこの浮浪者が恩人だとは思いも寄らない。そのまま立ち去ろうとする浮浪者の男に彼女は哀れみから一輪のバラと小銭を手渡そうとする。その時、男の手を握った娘はこの浮浪者こそが恩人であることに気付くのだった。男は困惑しながらも、かつての優しい微笑みを浮べた。


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本作はトーキー映画反対論者であったチャールズ・チャップリンが、基本的にサイレントだが伴奏音楽と音響が入ったサウンド版として製作した初めての作品である。ある浮浪者が盲目の花売り娘の目を治すためにあれこれ奮闘する物語で、ユーモアとペーソスが織り交ぜられたコメディ映画となっている。現在もチャップリンの代表作として高く評価されている。1991年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

1928年5月に準備が行われ、同年12月に撮影が開始された。しかし、1929年6月に水に飛び込もうとする富豪役を演じていたヘンリー・クライブが水に飛び込むことを躊躇したため、チャップリンは彼を解雇し、代わりにハリー・マイヤーズを立てて登場シーンの撮り直しが行われた。さらに同年11月、盲目の花売り娘を演じていたヴァージニア・チェリルが「美容院に行くから」と言って撮影を早退したため、チャップリンは激怒し彼女を解雇した。代わりに『黄金狂時代』でヒロインを演じたジョージア・ヘイルが盲目の花売り娘を演じることになったが、側近の忠告で10日後にヴァージニアを復帰させることになった。

完璧主義者のチャップリンは、ヴァージニア演じる花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)に342回のNGを出し、1年以上かけて撮り直しされた(撮影日数534日のうち、このシーンの撮影だけで368日をかけている)。喜劇映画研究会の新野敏也は、「【オープニング・タイトルのCITY LIGHTとクレジットされる夜の街】と【オープニング・シークエンスで彫像の除幕式が行われる朝の街】は同じセットでほぼ同じカメラ・アングルながらも、【オープニング・タイトル】では題名に合わせて街路灯が左端に配置されている」、「オープニング・シークエンスの彫像で繰り広げられるチャップリンのパントマイムでは、足捌きに合わせて靴裏のあたる彫像の部位が削られ微調整されている」などの事例を挙げて、この画面構成を「数限りなくリハーサルや撮り直しを繰り返した事が推察され、商業映画の製作コストをまるっきり無視した、完璧以上を求める天才ぶり」と表現している[要出典]。結局撮影を完了したのが1930年10月5日のことで、2年以上の月日が費やされた。さらに編集と作曲作業に3ヶ月をかけ、翌1931年1月30日にロサンゼルスの劇場でプレミア公開された。その際チャップリンの隣りにはアルベルト・アインシュタインが座っていた。

同年2月6日に封切られ、映画は大ヒット。興収は500万ドルに達した。 1934年1月13日には日本でも封切られ、人気作となった。同年度のキネマ旬報ベストテンでは第10位にランクインされた。


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ランキング

「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会『Sight&Sound』誌発表)※10年毎に選出

1952年:「映画批評家が選ぶベストテン」第2位
1962年:「映画批評家が選ぶベストテン」第14位
1982年:「映画批評家が選ぶベストテン」第21位
1992年:「映画批評家が選ぶベストテン」第17位
2002年:「映画監督が選ぶベストテン」第19位
2012年:「映画批評家が選ぶベストテン」第50位

「AFIアメリカ映画100年シリーズ」 1998年:「アメリカ映画ベスト100」第76位
2000年:「アメリカ喜劇映画ベスト100」第38位
2006年:「感動の映画ベスト100」第33位
2007年:「アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)」第11位

2000年:「20世紀の映画リスト」(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)第38位
2008年:「史上最高の映画100本」(仏『カイエ・デュ・シネマ』誌発表)第16位
2010年:「エッセンシャル100」(トロント国際映画祭発表)第29位

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%97%E3%81%AE%E7%81%AF

6. 中川隆[-10889] koaQ7Jey 2019年4月06日 15:53:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1140] 報告

ジプシー音楽 _ 1


「黒い瞳」(ロシア語: Очи чёрные、オーチ・チョールヌィエ)


feodor chaliapin - black eyes - dark eyes - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=b3nOBw2UlkI


Очи чёрные - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%9E%D1%87%D0%B8+%D1%87%D1%91%D1%80%D0%BD%D1%8B%D0%B5+

▲△▽▼

タイトルの「黒い瞳」という言葉はここではロマ(ジプシー)の女性の煽情的な魅力の象徴として用いられており、その魅力に取り憑かれた男性の苦悩と激情がこの歌の主題である。旋律もロマの音楽に特徴的なハンガリー音階に基づいており、ロシアのジプシー歌謡を代表する曲として親しまれている。

しかし後述のように民族的な出自からいえば、実際にはウクライナ人とドイツ生まれのロシア人の手になる作品である。


「黒い瞳」は初め1843年1月17日に「Литературная газета」(文学新聞)に詩として発表された。作者はウクライナの作家、詩人のイェウヘーン・フレビーンカ(ロシア語の発音ではエヴゲニー・グレビョンカ)である。フレビーンカはポルタヴァ州の貴族の出身で、古典的なジプシー歌謡の作者の多くがそうであるように、教養のある人物である。フレビーンカによる初稿は、区切りのようなものも設けられていない実質3連程度の作品で、わずかにロマンティシズムの香りが漂うだけの簡素なものだった。

この詩が最初に歌曲として発表されたのは、1884年3月7日のことだった。これはフレビーンカの詩をС. ゲルデリがフローリアン・ヘルマン作曲のワルツ「Hommage」(オマージュ)にあてはめたものである。ヘルマンはロシア化したドイツ人であり、この有名なロシアのジプシー歌謡は実際には、ウクライナ人とドイツ生まれのロシア人によって作られたことになる。

この歌を世界的に有名にしたのは、バス歌手のフョードル・シャリアピンである。シャリアピンはこの歌に自ら詩を書き足してレパートリーに加え、革命後の1922年に出国して事実上の亡命者となってからは世界各地の公演で披露した。これにより「黒い瞳」は、世界で最も有名なロシアの歌の一つとなったのである。


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歌詞 フレビーンカによる初稿

黒い瞳、情熱的な瞳
燃えるような、そして美しい瞳
何と私はお前を愛していることか、何とお前を恐れていることか
きっと私は悪い時にお前と出逢ってしまったのだ

おお、深淵よりもなお暗いのにはわけがある
それは私の魂への喪服なのだ
それは私の哀れな心を焼き尽くす
勝利の炎なのだ

だが私は悲しくはないし、みじめでもない
この運命は私には慰めなのだ
神が与えたもうた全てのよきものは
その燃えるような瞳に生け贄としてくれてやった


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シャリャーピンによる補作


黒い瞳、燃えるような瞳
情熱的な、そして美しい瞳
何と私はお前を愛していることか、何とお前を恐れていることか
きっと私は悪い時にお前と出逢ってしまったのだ

黒い瞳、焼けつくように燃え盛っている
それは遠い異国へといざなっている
愛の統べるところ、安らぎの統べるところ
苦しみはなく、憎しみの禁じられるところへと

お前と出逢っていなければこんなに苦しむこともなかったろうに
微笑みながら人生を過ごせただろうに
黒い瞳よ、お前は私を破滅させた
私の幸せを永遠に奪い去ったのだ

黒い瞳、燃えるような瞳
情熱的な、そして美しい瞳
情熱の瞳よ、お前は私を破滅させた
私の幸せを永遠に奪い去ったのだ…

黒い瞳、燃えるような瞳
情熱的な、そして美しい瞳
何と私はお前を愛していることか、何とお前を恐れていることか
きっと私は悪い時にお前と出逢ってしまったのだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%81%84%E7%9E%B3

7. 中川隆[-10888] koaQ7Jey 2019年4月06日 16:25:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1141] 報告

ジプシー音楽 _ 2


二つのギター(ジプシーの娘)

【ロシア音楽】二つのギター (Две гитары) (日本語字幕) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UEGU-1gOPWE


ポール・モーリアの編曲や、シャンソン歌手のシャルル・アズナヴール(Charles Aznavour)によるカバー(Les Deux Guitares)でも知られる、ロシア・ジプシー民謡。映像は1999年、ロシアのテノール歌手、オレグ・ポグディン(Олег Погудин)による歌唱。


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Irina Slutskaya Gipsy - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=u2NEzk4Jgp4
https://www.youtube.com/results?search_query=Irina+Slutskaya+Gipsy+

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The Unbearable Lightness of Being  存在の耐えられない軽さ  
https://www.youtube.com/watch?v=t2-T5DrTWoU&feature=related
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6128180

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Occhi chorni (Очи Чёрные) on accordion (Russian Gypsy music) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MkUOxJv4jmA  


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ジプシーの娘 Цыганочка - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%A6%D1%8B%D0%B3%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D1%87%D0%BA%D0%B0


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二つのギター(ジプシーの娘)


『二つのギター』は、作詞・作曲者不詳のロシア民謡・ジプシー音楽(ロマ音楽)。

歌詞は存在するが、YouTube動画などで検索してみると、歌ありバージョンよりは、ギターやバイオリン(ヴァイオリン)などの歌なし器楽曲(インストゥルメンタル)として人気があるようだ。

特に、『二つのギター』という題名だけあって、二人でギター合奏(デュエット)する動画もよく見られる。ギター独奏曲としても親しまれ、各種アレンジされた楽譜も一般的に市販されている。

ジプシーダンスの曲としても人気

なお、『二つのギター』と同じメロディがジプシーダンス・舞踊のための楽曲として用いられる場合は、『ジプシーの娘 Цыганочка』と題された別の歌詞が用いられる。ただ、こちらも歌詞あり版はあまり用いられないようだ。

YouTubeで『ジプシーの娘』を検索してみると、タイトル通り、比較的若い女の子がジプシー系の衣装を身にまとってジプシーダンスを披露する動画をいくつか見つけることができる。

ポールモーリアのアレンジで世界的に有名に

『二つのギター』が世界的な知名度を獲得した背景には、フランスの作曲家ポール・モーリア(Paul Mauriat/1925-2006)による1960年代から70年代頃のイージーリスニング版カバー『Les deux guitares』の存在が非常に大きいと思われる。

同カバー版を収録した音源の解説には、「2つのギターの調べ」が奏でられるロシア民謡曲であることが説明されている。

「ロシアには多くのジプシーが住んでおり、街頭でギターをひいたり踊りをおどったりするほか、トランプ占いなどで生計をたてていますが、 これはそのジプシーの歌の一つで、『黒い瞳』と並んで世界中に知られた民謡曲です。 何ともいえない悲しみをたたえて流れる2つのギターの調べ──それは、若い男女のやるせない愛情を象徴しているのです。」

なお、このポール・モーリアによるイージーリスニング版が発表される以前に、『二つのギター』と呼ばれるロシア民謡・ジプシー歌曲が存在したのかどうか、また、ジプシーダンスに用いられる『ジプシーの娘 Цыганочка』とはどういう関係にあるのか、等の詳しい経緯については定かではない。
http://www.worldfolksong.com/songbook/russia/two-guitars.htm


▲△▽▼

ジプシーの娘 (Цыганочка)
http://saison-nouvelle.homeip.net/gypsy.htm

今回は、ロシア民謡から“Цыганочка”という歌を取り上げます。 ロシア語ではジプシーを цыган と言い、 女ジプシーを цыганка と言います。 Цыганочка は、その指小形です。

ロシア民謡をアレンジしたポール・モーリア (Paul Mauriat ) の古いアルバム(日本フォノグラム)の解説によると、この歌は「世界中に知られた民謡曲」だそうです。 そのアルバムでは、この曲は“Les deux guitares”(2つのギター)という曲名で紹介されています。まずはその解説を引用させて戴きます。

「ロシアには多くのジプシーが住んでおり、街頭でギターをひいたり踊りをおどったりするほか、トランプ占いなどで生計をたてていますが、 これはそのジプシーの歌の一つで、『黒い瞳』と並んで世界中に知られた民謡曲です。 何ともいえない悲しみをたたえて流れる2つのギターの調べ──それは、若い男女のやるせない愛情を象徴しているのです。」

ポール・モーリアの作品──彼が日本で有名になる前の作品ですので、チェンバロとトランペットを多用した例のややマンネリ化した演奏ではありません── この作品を聴いてみますと、確かに叙情的なもの悲しい雰囲気に浸れます。

しかし、10年程前にロシアでリリースされた、『魅力的な目』(Очаровательные Глазки) というアルバムに収録されている“Цыганочка”(ジプシーの娘)という曲のイメージは、聊か異なります。 アルバムに添付されている歌詞には書かれていないのですが (別のテキストには書かれています) 、この曲には一種の掛け声のようなコーラスが用いられています。 それは、ウォッカを呷るときの掛け声ではないですか。そうであるとすると、この曲は宴会の席で余興にうたわれる歌ということになります。

ロシア人は動物の脂身をつまみにして、小さなコップでグィッ、グィッと何杯もウォッカを呷るのだそうです。 因みに、ウォッカは водка と表し、「水のような酒」という意味になります。 「水」を意味する вода は、英語の water に対応します。

古い歌で、作詞も作曲も「不詳の作家」となっていますので、全文を訳出してみます。 尚、MIDIに就きましては、こちらのページのものを利用させて戴きました。

Если б я была цыганка,
もしもあたしが女ジプシーで、

Да притом красивая,
おまけに美しかったら、

Что бы стала со мной делать
あたしに何をしはじめるだろうか

Маменька родимая.
あたしを生んだ母さんは。


Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз.
続けて一杯、もっともっと。


За цыгана выйду замуж,
あたしはジプシーに嫁ぐ、

Хоть родная мать убей,
実の母があたしを殺そうとも、

Карты в руки, шаль на плечи –
手の中のカードが、肩に掛かったショールが、

И обманывать людей.
人を騙すんだ。


Ты цыган и я цыганка,
あんたはジプシー、あたしは女ジプシー、

Оба мы цыгане,
うちら2人ともジプシーなの、

Ты воруешь лошадей,
あんたは馬を盗み、

а я ворую сани, ох- ох- ох- ах.
あたしは橇そりを盗む、おほほほ。


Ой, девчоночки, беда
ああ、お嬢ちゃんたち、困ったな

Да куда мне деваться,
おらは何処へ隠れていようか、

По колено борода,
ひげが接吻する2人の口元に

Да лезет целоваться.
覆い被さっているではないか。


У милёночка мово,
あたしのカレシは、

Да волосы волнистые,
髪がウェーブしてんの、

Я его не заменю
あたしは彼を取り替えないわ

На горы золотистые
いくらお金を積まれても。


Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз.
続けて一杯、もっともっと。


В поле ветер, огоньки,
草原に風が、炎が、

Дальняя дорога,
長距離の旅、

Сердце бьётся от тоски,
哀しくて心臓が鼓動する、

А в душе тревога
そして心には不安がある


Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз.
続けて一杯、もっともっと。


Да, эх, раз, еще раз,
さあ、さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз,
続けて一杯、もっともっと、

Эх, раз, еще раз,
さあ一杯、もう一杯、

Еще много - много раз.
続けて一杯、もっともっと。

http://saison-nouvelle.homeip.net/gypsy.htm

8. 中川隆[-10887] koaQ7Jey 2019年4月06日 16:37:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1142] 報告

ジプシー音楽 _ 3


ヨハネス・ブラームス 『ハンガリー舞曲集』( Ungarische Tänze)


Brahms - Hungarian Dances n°17, n°1, n°3 & n°10 - New York / Walter
https://www.youtube.com/watch?v=otpoMv9tgS4

____


Fritz Kreisler (1875-1962) Brahms Hungarian Dance nr.5 rec.1911
http://www.youtube.com/watch?v=N_So6tUlhe8

WE15B:Fritz Kreisler/Brahms-Hungarian Dance in G Minor
http://www.youtube.com/watch?v=WxLNDqu5Lg0

Kreisler plays "Hungarian Dance" by Brahms/Joachim. Acoustic
http://www.youtube.com/watch?v=0iCQjr1Ycxs

Kreisler plays Brahms' Hungarian Dance # 17, f minor
http://www.youtube.com/watch?v=FCeo0gFVYAA


WE15B:Mischa Elman/Brahms-Hungarian Dance No.7
http://www.youtube.com/watch?v=-o-9JTWl8B0

Mischa Elman plays Brahms - Hungarian Dance No. 7
http://www.youtube.com/watch?v=GSlI6cNtkqg


Toscha Seidel - Brahms Hungarian Dance No 1
http://www.youtube.com/watch?v=bPC6tMoXcMI
http://www.youtube.com/watch?v=OEaTf3LHd48
http://www.youtube.com/watch?v=46udyPpFP8g
http://www.youtube.com/watch?v=dD6miHPisVM


Joseph Joachim - Brahms' Hungarian Dance No.2 (1903) (RARE!)
http://www.youtube.com/watch?v=lV_YXtUs_Ow&list=PLADA8A356988FD2E5


Ysaye plays Hungarian Dance No.5 on Columbia
http://www.youtube.com/watch?v=Z02qvRpiRRk

「ハンガリー舞曲 第5番」 Eugène Ysaÿe HMV model156 蓄音機
http://www.youtube.com/watch?v=5O7Nm2y0ojg


___


Brahms Plays His Hungarian Dance No.1 (Excerpt), 1889
http://www.youtube.com/watch?v=BZXL3I7GPCY
http://www.youtube.com/watch?v=H31q7Qrjjo0


Wilhelm Backhaus plays Brahms Hungarian Dances No. 6 and No. 7 rec.1934
http://www.youtube.com/watch?v=1i2iMU3O2QM

Rubinstein, Brahms, Hungarian Dance No.4 in f-sharp minor & Cradle Song op. 49 No. 4 .wmv
http://www.youtube.com/watch?v=sIzpGBNNDHc


▲△▽▼


『ハンガリー舞曲集』(ドイツ語: Ungarische Tänze)WoO.1 は、ヨハネス・ブラームスがハンガリーのジプシー(ロマ)音楽に基づいて編曲した舞曲集。

オーケストラでの演奏が広く知られているが、最初はピアノ連弾のために書かれ、爆発的な人気を博した。全部で21曲あり、それぞれの長さは1分程度のものから4分程度のものまでとまちまちである。中でも、管弦楽用に他者によって再編曲された第5番がとりわけ有名である(曲自体はケーレル・ベーラ(英語版)のチャールダーシュ "Bártfai emlék" による)。

ブラームスは1850年代の前半に、エドゥアルト・レメーニの伴奏者としてドイツの各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからジプシー音楽(ロマの民族音楽)を教えられて魅了された。それ以来ブラームスは、それをハンガリーの民族音楽と信じて採譜を続け、1867年に出版社のジムロックに最初の6曲を送ったが、その時は拒否されている。結局それらを含む第1、2集が1869年に出版されると大好評となり、1880年に第3、4集が刊行された。

『ハンガリー舞曲集』に作品番号は付いていない。これが自作ではなく、伝統音楽の編曲にすぎないことをブラームスが慮ってのことであった(とはいえ、第11曲、第14曲、第16曲の主題は、完全にブラームスの創作であったらしい)。のちにレメーニは『ハンガリー舞曲集』の成功を知ると、これが盗作であるとしブラームスを相手に訴訟を起こした。結果はブラームスが「作曲」ではなく「編曲」としておいたことが幸いして、ブラームスが勝訴した。

ブラームスは自分の『ハンガリー舞曲集』の成功に自信を得て、アントニン・ドヴォルザークに『スラヴ舞曲集』を作曲して収益を得るように助言している。もっともドヴォルザークは編曲ではなく、民族舞曲の性格と特徴を取り入れ、自作の主題によって曲集をまとめ上げた。なおドヴォルザークは、『ハンガリー舞曲 第4集』を管弦楽用に編曲している。

ピアノ独奏用の編曲に、モーリッツ・モシュコフスキやジョルジュ・シフラによるものなどがある。

第1集 第1番の冒頭の一部は、ヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ『とんぼ』とともに、1889年12月2日にトーマス・エジソンの代理人の依頼で、ブラームス自らのピアノ演奏で蓄音機に録音された。これは、史上初のレコーディングとされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%88%9E%E6%9B%B2

9. 中川隆[-10884] koaQ7Jey 2019年4月06日 16:50:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1145] 報告

ロマ音楽


ロマ音楽は、西アジアやヨーロッパなどで移動型の生活を送る、あるいは送っていたロマ民族(ジプシー)を中心に発達してきた音楽。


ロマは北インドに起源を持つ移動型の民族であり、中近東、北アフリカ、ヨーロッパなどで生活している。ロマは西暦1000年以前には北インド、ラジャスタンを離れ、放浪生活に入っていったと考えられている。一方、現在もラジャスタンで演奏家や旅芸人として生活しているロマもいる。

ロマは各地を放浪し、音楽の演奏やダンスなどを行う旅芸人として生計を立ててきた。彼らによってもたらされた音楽は、現地の音楽に影響を与え、また影響を受け、相互に発展してきた歴史がある。ロマは北インドをたった後、イラン、イラク、アルメニア、その他中近東に現れるようになった。西暦1050年頃には既に、コンスタンティノポリスで音楽の演奏をしていたと考えられている。15世紀ごろにはエジプト、スーダン、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ギリシャ、クロアチア、マケドニア、セルビアなどへと居住地を拡大、やがてヨーロッパ全域へと広がっていった。スペインのフラメンコの原型もロマの音楽とダンスであったと考えられるなど、彼らは放浪先の中近東やヨーロッパ各地の音楽文化に強い影響を与えてきた。

ロマの音楽の大きな特徴として、テンポや強弱の激しい変化や交替、細やかなリズムや奔放な修飾[1]、ソウルフルなヴォーカル、そして音高をすべるように移動するグリッサンドの多用などが挙げられる。音階の上では、和声的短音階の第4音を半音高くして二つの増二度音程を持つ独特の音階(ハンガリー音階などと呼ばれる)が用いられることが多いのも特徴である[1]。


各地のロマ音楽

インド

インド北部のラジャスタン地方はロマの故地であり、現在でもロマが音楽やジャグリングなどのショーをする旅芸人として住んでいる。

トルコ

トルコは西暦1000年ごろからロマが住んでおり、さまざまな音楽が生み出されてきた。こんにち、トルコのロマの音楽はベリーダンスの音楽としてよく知られている。

ファスル(Fasıl)は軽快な伝統音楽で、主にクラリネット、バイオリン、ダラブッカ、カーヌーン(qanún)などが使用される。

チフテテリは、激しいベリーダンスと比べて、よりスローテンポでゆったりとしたダンスである。古代アナトリア半島に起源を持つといわれているが、その発展には多くのロマが関わっている。

ベリーダンスやファスルのショーはレストランやナイトクラブで披露される。


マケドニア

チョチェクは、ブルガリアではキュチェクと呼ばれ、サクソフォンやクラリネット、そして第一次世界大戦以降盛んになったブラスバンド形式の演奏、およびダンスである。チョチェクの音楽は9/8拍子を大きな特徴とする躍動感のあるもので、マケドニア共和国からは多くの世界的に有名な奏者を輩出している。代表的な音楽家には、女性歌手のエスマ、ブラス・バンドコチャニ・オーケスターがいる。


アルバニア

アルバニアでは、ロマの音楽と現地の音楽がむすびつき、タラバと呼ばれるジャンルを形成している。タラバは中東の影響を濃く受けついた特徴的な音楽で、ドラムス、そしてダフが使用される。タラバはロマのみならず非ロマ系のミュージシャンも多く、アルバニアでは人気のある音楽となっている。


セルビア

セルビアのロマは主に南セルビアに多く住み、オスマン帝国の軍楽隊の音楽に由来する、ブラスバンド形式の音楽で知られている。主な奏者としてBoban Markovićが知られている。( [1][2][3] "Kecarac kolo" "Sunen romalen, sunen cavalen")


ギリシャ

ギリシャはオスマン帝国支配下でトルコと共通の文化圏に属しており、ギリシャのロマの音楽にはトルコからの影響の要素が強い。希土戦争の影響でアナトリア半島のイズミルからギリシャ本土に移ったギリシャ人によってもたらされたチフテテリなどが有名。


ルーマニア

ルーマニアのロマ音楽奏者はラウタリと呼ばれ、そのバンドはタラーフ(taraf)と呼ばれる。タラーフの主な構成はフィドル、ツィンバロム、アコーディオン、コントラバスなどからなる。Taraf de Haidouks、ファンファーレ・チョカルリア (Fanfare Ciocărlia)などのバンドは国際的に知名度がある。

マネーレはロマ音楽の影響を受けた現代の音楽としてルーマニアはじめバルカン半島で盛んになっているジャンルである。

著名なロマのミュージシャンには、次のような人物がいる。
Romica Puceanu 女性歌手
Nicolae Guţă 男性歌手
Sandu Ciorba 男性歌手。ほとんどの楽曲をロマ語で歌う。


ブルガリア

多くのロマ人口を抱えるブルガリアでは、ロマの音楽は大変盛んであり、パーティーや結婚式などでたびたび演奏される。ロマの演奏するキュチェクは、チャルガの起源としても知られている。

ハンガリー

ロマの音楽の影響力は特にハンガリーにおいて顕著であり、人口の上では多数派であるマジャル人を差し置いて、ロマの音楽がハンガリーの代表的な音楽と見做されるに至っている。ヨーロッパでは“ハンガリーの音楽”という言葉がロマの音楽と混同して用いられる傾向さえある(リストの「ハンガリー狂詩曲」やブラームスの「ハンガリー舞曲」などはそうした例である)。特にチャールダーシュと呼ばれる舞曲がハンガリーのロマを代表する音楽として親しまれている。

しかし近年、音楽家の登録にクラシックの試験が課せられるようになってからロマ音楽家は減っており、ロマ音楽が必要なイベント(結婚式など)では隣国のルーマニアからミュージシャンを招いてまかなっているという側面がある。バイオリニストの ロビー・ラカトシュ、ヤーノシュ・ビハリなどの奏者が知られている。


ロシア

ロシアの音楽においてもロマは重要な役割を果たしてきた。ロマがロシアに移住するようになったのは15〜16世紀頃といわれている。エカチェリーナ2世の時代に大きく発達し、彼らの楽団は町のレストランなどにも出演するようになった。19世紀にはより洗練されたものに進化し、モスクワやペテルブルクで持て囃されるアンサンブルも出現した。七弦ギターやフィドルの伴奏にのせて野太い声でソウルフルに歌うスタイルを特徴とする。ロシア革命までは大きく栄えたが1930年代になるとソヴィエト政府の方針によりロマの音楽は排斥されるようになった[2]。

Jean GoulescoやPyotr Leshchenkoなどの奏者が知られている。

スペイン

スペインのロマ音楽は、その人気が一般化したフラメンコ音楽によって広く世界的にしられている。フラメンコはスペイン南部のアンダルシア地方で生まれ、ロマの文化と関連づけられてとても良く知られている。スペインのロマはヒタノ(Gitanos)と呼ばれ、多くの有名なフラメンコ・アーティストを生み出してきた。しかし、実際にはフラメンコは純粋なロマの音楽というよりは、アンダルシア地方の土着音楽に由来するところが大きい。もっとも、その発展には多くのロマのアーティストたちが関わってきてはいる。

フランス

フランスのロマは、スペイン由来のグループ(ルンバ・ヒターナ rumba gitana) と、マヌーシュ、あるいはドイツ起源のグループに分けられる。前者にはジプシー・キングス、後者にはジャンゴ・ラインハルトが有名である。


クラシック音楽への影響

ロマの音楽はヨーロッパのクラシック音楽にも大きな影響を与えてきた。特にロマン派以降の作曲家にロマの音楽に触発された作品が多く見られる。代表的な作品として以下のようなものがある。

ハンガリー狂詩曲(フランツ・リスト)
ハンガリー舞曲(ヨハネス・ブラームス)
ツィゴイネルワイゼン(パブロ・デ・サラサーテ)
チャールダーシュ(ヴィットーリオ・モンティ)
ツィガーヌ(モーリス・ラヴェル)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E9%9F%B3%E6%A5%BD

10. 中川隆[-10883] koaQ7Jey 2019年4月06日 17:00:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1146] 報告

ロマ(ジプシー)民族の Y-DNA「H」はインド起源

多民族国家 インドの Y-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm


インド 主要 Y-DNA「R1a」と「H」

  インドはY-DNA「G」〜「T」までの新興遺伝子全てが古代遺伝子の一つのY-DNA「F」から分化した、近代国家の故郷の亜大陸になります。 このためインド亜大陸はあらゆる新興遺伝子が分布しておりこのため何と2000以上の民族/部族/集団があると言われています。 その中でも公式に認定されている民族/部族だけでも700以上になると言うなんとも遺伝子の混沌な土地です。

  州ごとの人口データ(下左図)はありましたが、民族別の人口データは見つかりませんでした。 民族の多さもさることながら言語族と宗教に加えカーストまである3重構造になっているため、インド政府も統計には容易に出せないようです。 言語族分布図(下右図)がありましたのでご紹介します。

  さすがにY-DNA「G」以降の全ての新興遺伝子の親遺伝子の古代遺伝子Y-DNA「F」が分化した新興遺伝子の故郷インド亜大陸です、 混沌としているのは当然なのでしょう。 と言う訳でインドの民族毎の遺伝子調査はギブアップしますが、4大言語族のY-DNA頻度データが入手できましたのでご参考にアップします。 おまけに縄文人の代表のY-DNA「D2」の祖形のY-DNA「D*」と弥生人のY-DNA「O2b」の祖形の「O2a」の情報も追記します。

     カーストは部外者にはわかりにくいのですが遺伝子頻度調査で浮かび上がったのは予想通り、上流カーストは支配階級の「R1a」頻度が高く、 下層カーストは「H」頻度が高いことです。これが「H」がジプシー化した根本原因ではないかと推察出来ます。 本来なら少数民族として定着をするのでしょうが、「R1a」の支配の抑圧を嫌い定着を拒んだのかもしれません。 しかし基本的には入り混じっているので新興勢力「R1a」と先住勢力「H」の遺伝子間の交配はかなり進んでいるようです。

1. インド亜大陸で最も古い遺伝子は全新興遺伝子の親の古代遺伝子Y-DNA「F」です。古代遺伝子「C」と「F」は 出アフリカ後の中東地域でネアンデルタール人と交配しネアンデルタール人が数十万年かけて獲得したエピジェネティクス形質を 一気に手に入れたようです。 赤毛碧眼・金髪・彫深顔・色白肌・大柄等々は全てネアンデルタール人のオリジナル形質と思われます。

2 「F」の長男遺伝子のY-DNA「G」はコーカサス遺伝子と呼ばれるようにインド亜大陸には留まらずコーカサス一体に移動をしたようです。 コーカサスの高原・山脈地帯が好みだったようです。

3. 二男遺伝子の「H」はインドの重要な遺伝子として今も残っていますが、その後のインダス文明人やインド・アーリア人の興隆で インド亜大陸の主役ではなくなりました。一部は定住できずに放浪するジプシー民族となりました。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

11. 中川隆[-10863] koaQ7Jey 2019年4月07日 09:49:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1167] 報告

ジプシー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC


ジプシー(gypsy)は、一般にはヨーロッパで生活している移動型民族を指す民族名。転じて、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっている。外名であり、当人らの自称ではない。

名称について

ジプシーは「西暦1100年にアトスに現れた」とする記録が最古のものとされる。ドイツでジプシーを確認している最古の記録は1407年のものである。1427年にフランスのパリに現れた彼らは、「自分たちは低地エジプトの出身である」と名乗った。ここから「エジプトからやって来た人」という意味の「エジプシャン」の頭音が消失した「ジプシー」 (Gypsy) の名称が生じたと言われる[1]。

近年の日本においては、「ジプシー」は差別用語、放送禁止用語と見做され、「ロマ」と言い換えられる傾向にある[2]。しかし、「ジプシー」には「ロマ」以外の民族も含まれているので、これは他のジプシー民族を無視することになる。

明治時代の日本の新聞ではジプシーが「西洋穢多」と報じられたことがあるが[3]、ジプシーの居住圏は西洋だけにとどまらない上、生活様式は日本ではむしろサンカに近い。

ジプシーに分類される諸民族


主にインドが起源と考えられている諸族


ロマ
北インド・パキスタンに起源を持つインド・アーリア人系の移動型民族
ロマ語を話し、欧州における「ジプシー」の最大勢力である。


ロミ
19世紀に現代のルーマニアに当たる地域で奴隷とされたロマニ系の人々
独自の文化や慣習を固守し、キング(王様)も存在する。
ルーマニア、ルーマニア語圏に居住するロマニ系の民族。


アッシュカリー、またはエジプシャン
コソボ及びその周辺諸国(旧ユーゴスラビア)に居住するロマ系の民族
当人たちは「ロマと異なるアイデンティティーを持つ」としているが、ロマ及び居住地域のその他住民からはロマの一部とみなされることが多い。


ロム (Lom people)
南コーカサス(アルメニア等)とアルトヴィン(トルコ)に居住する民族。
欧州方面へ移動するロマの集団から別れ、11世紀頃の当地に留まった人々が先祖と考えられている。


ドム
主に中東のイスラム圏に居住するインド・アーリア人系の民族。
彼らの話すドマリ語(Domari language)はロマ語と密接な関係にあると考えられている。


リューリ
中央アジア及びロシアに居住するドムの亜集団。
バンジャラ (Banjara)インド及びパキスタン各地に居住し、ラージャスターン語系統のバンジャリ語(Banjari language)を話す民族。


スリランカ・ジプシー (Sri Lankan Gypsy people)
スリランカに居住し、主にテルグ語を話す民族。
スリランカの主要言語であるシンハラ語では ahikuntaka と呼ばれている。

インド以外が起源と考えられている諸族

もともと欧州における「ジプシー」には、ロマ以外の移動型民族を含む場合があった。

イェニシェ

アイリッシュ・トラヴェラー

スコティッシュ・トラヴェラー (Scottish Travellers)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC

12. 中川隆[-10862] koaQ7Jey 2019年4月07日 10:05:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1168] 報告

ロマ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E


ロマ(Roma、単数はロム)は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である[1]。

移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり[2]、ロマでない集団との関係は不明である。



世界各地で流浪の民族史を重ねてきた経緯から、彼らはそれぞれの国で様々な外名 (exonym) で呼ばれてきた。

大きく分けて2つの系統があり、

ひとつは「ヒターノ(スペインジプシー)」「ジプシー」など「エジプト人」に由来する呼称。

もうひとつは「ツィンガニ」「ツィガーニ」などの系統の言葉であり、ドイツのカスパー・ポイサーによりビザンチン時代のギリシア語 Ατσίγγανοι (Atsinganoi) から Αθίγγανοι (Athinganoi)「不可触民、アンタッチャブル」へと遡れる言葉であるとされた[3]。


「ロマ」という自称

ロマの祖であるロマニ系の人々は複数の経路で度々インド方面からヨーロッパへ移動してきたと考えられる。

14世紀から19世紀に現代のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた集団がルーマニア語の影響を受けたヴラハ系方言を話し言語学的にロマに近いと考えられている[3]。一方で東欧を迂回し中欧にたどり着いた集団はルーマニア語の影響のない非ヴラハ系方言を話していると考えられている[3]。


1971年の第1回世界ロマ会議以降[2]は、よりポリティカリー・コレクトな名称として、多くの集団の自称である roma[5] 「ロマ」を呼称とすることが提唱された。EU はじめ各国の行政などもこの名称を採用している。

ただし、この名は本来彼ら全体を代表するものではなく、この名を使わないグループも多数存在し、彼らの中には「ロマ」とは異なるアイデンティティをもち、「自分たちはロマではない」と主張する者もいる。

ロマの間ではロマ以外の人間をガージョと呼ぶ[8]。


ロマの系統上の分類[編集]

人種

ロマの人種的分類については、現在でも定説が存在しないため、厳密にどの人種に分類できるかは、いまだに判明していない。

歴史的経緯をたどると、ロマは西暦1000年頃に、インドのラージャスターン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いたとされる。旅に出た理由は定かではないが、西方に理想郷を求めた、などの説がある。彼らがヨーロッパにおいて史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなる。ただしユダヤ人ほどこの事実は強調されていない。

最新の遺伝子研究ではインド先住民のドラヴィダ人との類似性が示唆されてきている[9]。

ロマの中にも12の種族があり、エリー、カルデラーシュ、ジャンバジ、ロワリ、アラバジ、コバチ、トパナなどの名称があり、種族により異なったロマ語を話している[10]。

これらの種族の起源は職業集団に始まっている[11]。すなわち、

トパナはトルコ語のトップ(大砲)に由来し、14世紀にトルコの兵士としてバルカン半島に移住し軍隊で大砲を造っていたロマの末裔[11]。

ジャンバジはギリシアから来た商人[11]。アラバジはルーマニアの馬商人[11]。

エリーはアーリア人に由来するという[11]。


言語

詳細は「ロマ語」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E8%AA%9E


インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派中央語群のロマ語を主に使う。

ロマ語の特色として、即物的な語彙が多く、精神的・抽象的な語彙が少ないことが挙げられる[12]。

ロマ語には東欧の「ロム」、ポーランド経由でドイツに入った「シンティ」、フランスの「マヌーシュ」など3つの大きな流れと13の言語グループがあり、系統が違うと同じロマ語でも意思疎通が難しいとされる[13]。また、定住した各土地の言葉や、各地の言語を多く取り入れたクレオール言語を使っているグループもある[14]。

このため1990年4月にワルシャワで開かれた第4回世界ロマ会議で標準ロマ語が制定され、マケドニアのスコピエで話されるエリー語が標準語となった[14]。


宗教

かつてはヒンドゥー教だったと考えられているが、定住した土地での主流の宗教に改宗していることが多い。すなわち、東ヨーロッパでは東方正教会、カトリックまたは少数のイスラム教、西ヨーロッパではカトリックかプロテスタントである。

独特の神秘主義的な風習はあるが、それは宗教とは別と考えられている。

歴史


ロマの起源

ロマ出身のロマ研究家で人権活動家のグラタン・パクソンによると、ロマの起源は5世紀に遡る[15]。サーサーン朝ペルシアのバフラム5世(別名ベラム・グール、在位420年-438年)がムルタン(当時はインド、現在のパキスタン)からロマの祖先1万人をペルシアに連れて行った[15]。ロマは当時、ルリーと呼ばれていた[15]。

8世紀には、ムルタンの近くのシルマン山にヤットという名称のロマの集団が住んでいた[15]。彼らはインドの支配から独立を望み、アラブによるインドへの侵攻時にアラブと手を組んだ[15]。ところがアラブがインドに敗北してしまったため、714年、退却するアラブの軍勢とともに西へ移動した[15]。これがロマの起源であるとパクソンはいう[15]。このパクソンの説を裏付ける記述が、フェルドウスィーの詩書『シャーナーメ』や、イスパハンのハムザという歴史家の950年の著作に登場する[16]。それによると、バフラム5世はインドのシャンガル王に使いを送り、リュートの演奏に巧みな男女1万人(あるいは1万2000人)をペルシアに呼び寄せた[16]。その子孫がロマではないかといわれている[16]。

また、ロマ出身のロマ語学者シャイプ・ユスフォフスキーによると、ロマの祖先はインドのラージャスターン州に住んでいたが、タタール人に追われたのと食料不足とで5世紀に1万2000人が故郷を捨てて旅に出た[17]。さらに10世紀にも西に集団移動し、バルカン半島に入ったという[17]。伊藤千尋はユスフォフスキーの説を「より真実味が深い」と評し、この説におけるタタール人を、中央アジアのイラン系遊牧民エフタル族(別名「白フン族」。5世紀半ばにインド北西部に侵入)と同定している[17]。

さらに、言語学の観点からロマの祖先は紀元前300年以前にイラン語地域に入ったと分析する説もある[7]。紀元前327年のアレクサンダー大王の北西インド侵入に伴ってロマの移動が始まったとする説もある[7]。

一方、現代のヨーロッパのロマはインドを10世紀以降に出発したと述べる言語学者もいる[7]。このため、ロマの起源は一様ではなく、長期間にわたり複数の集団が何度もインドを出発したとも考えられている[18]。


ヨーロッパ全土への拡散

11世紀にセルジュクトルコが勢いを伸ばすと小アジアのロマがバルカン半島に移り住み、ビザンチン帝国の支配下に入ってアツィンガノイと呼ばれた(ドイツ語でロマを指すツィゴイナーの語源)[19]。14世紀にはクレタ島などギリシアの島々でロマの集落が確認されている[19]。

1416年にはハンガリーに到達[19]。1418年にはスイスに到達[19]。

1422年にイタリアのボローニャに到達したロマの集団は100名ばかりで、アンドレア公爵を詐称する首領が「我々はキリスト教を捨てたため、所有地をハンガリー王に没収されたが、キリスト教徒に復帰するため4000人の仲間とともに洗礼を受けた。そして今はハンガリー王からの命令でローマ法王のもとへ懺悔に行くところである。今はこのために巡礼の旅をしているが、この旅の期間は盗みをしても罪に問わないとハンガリー王からお許しが出た」と虚偽の申し立てをした[20]。

1427年8月17日にフランスのパリに到達したロマの集団は12名だったが100人以上の仲間を郊外に待たせ、やはり貴族を自称し「我々は低地エジプト出身の善良なキリスト教徒だが、サラセン人の侵攻で一度キリスト教を捨て、懺悔してローマ法王の許しを得た。しかし法王のご命令で7年間の巡礼の旅をしている。我々に食事を世話し、巡礼の資金を恵むことはキリスト教徒の義務であるとの法王のお達しだ」との虚偽の申し立てをした[19]。

1447年にはスペインのバルセロナに到達[19]。1505年にはイギリスへのロマの到達が記録されている[19]。


神聖ローマ帝国に現れたロマ

15世紀になって今日のドイツ地域にロマが初めて姿を現した。彼らは当初低地エジプト出身の巡礼者であると名乗っており、それから80年ほどは、彼らは各地で「聖なる人」として親切に受け入れられた。しかし、一向にヨーロッパを去ろうとしない彼らに対して、徐々に不信の目が向けられ、トルコやタタールのスパイであるというような風説が飛び交うようになった

初期のロマは、神聖ローマ皇帝ジギスムントにより巡礼者として帝国全土の自由な通行を許可されたと称し、いわゆる『皇帝ジギスムントの特許状』[21]を保証として各地を放浪した。しかし15世紀中頃には彼らに対する蔑視が始まり、特にユダヤ人と彼らを同類とする風説が現れ、18世紀に至るまで広く流布した。1500年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世によって『皇帝ジギスムントの特許状』は無効であるとされ、ロマを殺しても基本的には罪に問われないこととなった。ロマが放浪する犯罪者の温床と考えられ、都市では彼らが現れたら教会の鐘を鳴らして合図し排撃した。

1499年にはスペインがロマの入国を禁止し、国内のロマは4日以内に退去するか、60日以内に定住して主人に仕えなければ鞭打の刑にして追放するとの勅令が出た[22]。

16世紀半ばにはイギリスの各地の地方自治体もロマに退去命令を出した[22]。

1561年にはフランスのシャルル6世がロマを2ヶ月以内に領土から追放するよう命令を出した[22]。この命令に従わないロマは頭髪を剃り落とされ、罪人として晒し者にされ、ガレー船の漕手として3年間の重労働に服さなければならなかった[22]。

1596年にはイギリスで放浪中のロマ196人が捕縛され、うち106人が死刑の宣告を受けた[23]。このうち9人が実際に死刑となり、残りは出身地に連れ戻された[23]。

1714年にはドイツでマインツの大司教がロマに対して裁判抜きの処刑・鞭打・追放・重労働を命じた[23]。

領邦権力による定住化政策

1761年、オーストリアではマリア・テレジアとヨーゼフ2世の近代化政策の一環として、ロマの定住化が図られた[24]。ロマの青年に対して徴兵や職業訓練をおこなうとともに、領主への従属や納税の義務を課し、ロマ同士の結婚を禁じ、ロマの子はロマではない家庭に入れて育てることとした[25]。これらは啓蒙主義に影響された、ある意味でロマへの差別をなくすことを目的とした人道的な同化策だった[26]が、定住や(ヨーロッパ人の考える)文化的な生活の押し付けとなり、ロマたちの拒否するところとなった。1773年にプロイセンのフリードリヒ大王がロマを隔離して定住させようとしたが、結局失敗している。

一方、ポルトガルは1647年にはアフリカの植民地に、1686年には南米の植民地ブラジルにロマの開拓団を送った[27]。イギリスも植民地のアメリカやジャマイカにロマの開拓団を送っている[28]。

ドイツによる絶滅政策

ドイツにおいては、ナチス党が自由選挙で国民の支持を受けて政権を獲得した後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行された。ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。当時のドイツ政府は、ロマがアーリア系であることは知っていた。「アーリア主義」を掲げるナチス党政権がロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、「アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚される」と考えたためである。

第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ドイツは再び多数のロマを抱えこむことになった。当時のドイツ政府が「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。これはポライモスと呼ばれている。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ドイツ政府による被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。

戦後のロマ

第二次世界大戦までの多くのヨーロッパ諸国では、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていた。このため、伝統的に鍛冶屋、金属加工、工芸品、旅芸人、占い師、薬草販売等に従事していた。現在も基本的に移動生活を続けているロマは多く、移動手段として自動車を用い、これに伴って職業も以前の馬の売買から、自動車の解体・中古車のあっせんなどに変化してきている。1971年にはインド政府と世界教会協議会の支援を受けてヨーロッパ諸国のロマを集めた世界ロマ会議が結成された[29]。

第二次世界大戦前から1945年までのドイツ政府による迫害によって、ロマの人口は減少した。社会主義体制となった東欧とソ連圏では、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定された(ソ連1956年〜ポーランド1964年)。これらはロマに定住を求める同化政策であり、その後議員となったロマも存在した。西欧諸国ではロマへの同化政策は採用されなかったが、国内のロマを少数民族とみとめて権利を与えることはなかった。例外的に社会主義国のユーゴスラヴィア(1974年)とハンガリー(1979年)が、ロマを少数民族と認定した。戦前に対して安定した生活が保証されたこれらの社会主義国が崩壊して資本主義国となってからは職を失い、無料の住宅や学校がなくなったとして不満を持つロマも少なくない[30]。

スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」(de)が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりした[31]。ドイツでは1995年に、ドイツ国籍をもつロマを少数民族と認定している。グローバリゼーションや大量生産大量消費文化(安価な製品を使い捨てる消費行動への移行)、情報化社会や物流の高速化など戦後の経済変動のなかでロマの生業は成立しなくなり、ロマの経済的な困窮は一段と進んだ。テロリズムへの懸念などから国の保安の意識が高くなったことで国境を越えた自由な移動がし辛くなり定住するようにとの圧力が掛かっている事もあって伝統的な生活を放棄する者も多い。


各国のロマ

欧州連合の行政府・欧州委員会によると、

欧州に暮らすロマの人口は推定1000万〜1200万人。

欧州評議会の各国別推計によると、

ルーマニア185万人、
ブルガリア75万人、
スペイン72万5000人、
ハンガリー70万人、
スロバキア49万人、
フランス40万人、
ギリシャ26万5000人、
チェコ22万5000人、
イタリア14万人


マケドニアのシュトオリザリ(英語版)には2万6000人のロマが定住し、マケドニア人の家は10戸しかなく、他にトルコ人などもいるものの、全人口の95パーセントはロマである[33]。旧ユーゴスラビアには100万人、マケドニアだけで20万人のロマがいるが[34]、ロマにはホームレスが多いため、みずからの出自を恥じてトルコ人やセルビア人、マケドニア人などと詐称するロマが多く[10]、統計上は旧ユーゴスラビアのロマの数は10万人にとどまっている[34]。なおマケドニアからはロマ出身の国会議員(ファイク・アブディ(マケドニア語版))が出ており[35]、ロマ語を公用語にする運動を進めていた[34]。

文化

若いハンガリーのロマが伝統的なダンスを踊る様子タロット(タロー)と呼ばれるカードを使った占い。但しタロットのロマ起源説は一部の神秘主義者が主張するだけであり、裏付けに乏しい。なお神秘主義者の間ではタロットの起源についてエジプト、ヘブライ、ケルトなどさまざまな説があるが、現在ではイタリアで玩具として考案されたのが始まりとする見方が有力である。


フラメンコの原型とも言われる、独自の音楽、踊り。

鋳掛屋、旅芸人として重宝された。

ブルガリアやセルビアなどでは、出生・洗礼・誕生日・聖名祝日 (Именден)・結婚式などに際して、ロマが呼ばれて演奏する。

チョチェク - バルカン半島で、ロマが結婚式などに演奏する音楽

ポップフォーク - セルビアをはじめとするバルカン半島で、チョチェクなどロマの音楽の影響を強く受けて発達した流行音楽のジャンル。

ボスニア・ヘルツェゴビナなど、一部のロマ人社会では一夫多妻制の風習が残っていることがある[40]。

全ての財産は共用物である、という考えが根強く、財産の個人所有という考えが乏しい者が多い、とされる。

ロマの音楽

ロマの文化(芸能・生活)の一部であるロマ音楽は、現地の文化と相関関係にあり、歴史的に大きな貢献をしている。ルーマニア・ハンガリー文化圏、スペインなどの文化が際立って有名。

ロマン派の作曲家の中にはロマ音楽に触発されて曲を書いたものもいた。リストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」(発表当時は編曲とされ、またハンガリー古来の音楽と混同された)、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」などである。

砂漠祭り

毎年2月の満月の3日間、ロマ人の出身地とされるインドのジャイサルメールで行われるロマの祭典である。色々な旅芸人などが集まる。

ロマの有名人(異説や遠祖を含む)


西欧

カルメン・アマヤ(1913年11月2日 - 1963年11月19日)- フラメンコダンサー、歌手
ジャンゴ・ラインハルト(1910年1月23日-1953年5月16日)- ベルギー出身のジャズギター奏者。
チャールズ・チャップリン - 俳優。自伝My Autobiographyによると、母方の祖母がロマの血を半分引いている。「浮浪者」のキャラクターは、ロマを観察して創り出したとの説もある[41]。
ボブ・ホスキンス - 俳優。母方はドイツのシンティ[42]。
マイケル・ケイン - 俳優。父方の祖先は南ロンドンのロマの馬喰である[43]。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) - 作家。母方がキプロスのロマ。父方は英国のロマのハーン(ヘロン)一族[44]。ただしElizabeth StevensonはThe Grass Lark: A Study of Lafcadio Hearn(Transaction Publishers, 1999)p.7で「彼ら(ハーン一族)は、自分たちにジプシーの血が流れているという無邪気かつ検証できない信念を愛していた」と述べており、ロマの子孫というのが単なる言い伝えに過ぎないことを暗示している。
ラモン・モントヤ Ramón Montoya - ギタリスト。
リカルド・クアレスマ(1983年9月26日 - )- ポルトガル出身のサッカー選手。父方の家系がロマ。

ドイツ・チェコ・オーストリア

ジプシー.cz - チェコのラップ・グループ
ミラン・バロシュ - チェコのサッカー選手。
ヨハン・シュトラウス二世 - 父方がカトリックに改宗したハンガリー系ユダヤ人の家系、母方がロマといわれる。

オランダ
マリスカ・ヴェレス - 歌手(ショッキング・ブルー)。父がハンガリー出身のロマ。

スペイン
アントニオ・カルモーナ - 歌手、「ケタマ」メンバー
ロラ・フローレス - ロマの血を引くスペインの歌手・ダンサー・俳優。(1923年1月21日 - 1995年5月16日)

ハンガリー・ルーマニア
ピシュタ・ダンコー
ジョルジュ・シフラ
ツィンカ・パンナ(1711年-1772年)- 女流ヴァイオリニスト。 [2]
フロリン・チョアバ - 自称「全世界のロマ民族の王」。
ビハリ・ヤーノシュ(英語版)
ベルキ・ラースロー(ハンガリー語版)
ボロシュ・ラヨシュ
ロビー・ラカトシュ - ハンガリーのヴァイオリニスト[3]
ユハース・ミズラ・モーニカ - ハンガリーの歌手
カイ・ヤグ(英語版)(黒い炎) - ハンガリーのバンド。[4]
カモロ - ハンガリーのバンド
ライコー Rajkó Zenekar(ジプシーの子供たち) - ハンガリーのオーケストラ。[5]
イオン・ヴォイク - ルーマニアのヴァイオリニスト。
ファンファーレ・チョカルリア - ルーマニア北東出身の世界最速を誇るジプシー・ブラスバンド。
タラフ・ドゥ・ハイドゥークス - ルーマニアのバンド。

バルカン
イヴォ・パパゾフ(1945年 - )- ブルガリアのクラリネット奏者。トルコ語を話すジプシーの出。
アジス (Azis) ブルガリアのポップフォーク歌手。
レイハン (Reyhan) ブルガリアのポップフォーク歌手。
エスマ・レジェポヴァ - マケドニアの歌手
コチャニ・オルケスタル - マケドニアのチョチェク・バンド

アメリカ
ビル・クリントン - 政治家。ロマの指導者チャールズ・ブライズ(1847年に英国のカークイェットホルムで「スコットランドのジプシーの王」として戴冠した)の兄弟アンドリュー・ブライズの子孫。アンドリューの息子アンドリュー・ジェファーソン・ブライズ(1860年死去)がクリントンの高祖父にあたる[41]。
フレディ・プリンゼ・ジュニア - 俳優。父がハンガリーのロマの子孫[42]。
リタ・ヘイワース - 俳優。父方の祖父アントニオ・カンシーノはロマのフラメンコダンサーであった[45]。

ブラジル
ジュセリーノ・クビチェック - 第22代ブラジル大統領(1956年〜1961年)。ブラジリア首都移転を強く進めたとされる。1902年生まれ、1976年死去

その他

ユル・ブリンナー - 俳優。母方ロマと自称するも彼自身が申し立てた伝記的事実には偽りが多く、1989年に彼の息子が出版した伝記によると、ブリンナーは父方がモンゴルとスイスの混血で母方がユダヤ系ロシア人の医者の娘だという。
アンディ・マッコイ - フィンランドのロックバンド、ハノイ・ロックスのギタリスト。
ジプシー・キングス - 1980年代後半に一世を風靡したワールドミュージックの第一人者。日本では発泡酒のCMに使われた「ボラーレ」や時代劇「鬼平犯科帳」のEDテーマに使われた「インスピレイション」が有名。
トニー・ガトリフ - 映画監督。父方フランス人、母方ロマ。
フェアルザ・バルク - 米国出身の女優。父方ペルシア人、母方ロマ。
ソフィア・サンティ - カナダ出身のポルノ女優。父親の祖先がトランシルバニア山脈出身のロマであるという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E

13. 2021年9月20日 07:04:30 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[9] 報告
ロマ問題は1000年も解決しない。ローマ教皇が「対話と融和」と言っても無駄
2021.09.18
https://blackasia.net/?p=1699


ヨーロッパは偉そうに「多文化共生」など言っているが、流浪の異民族ロマにやっていることはまったく「多文化共生」ではない。いまだにローマ教皇が「ロマとの対話と融和」を訴えていること自体が、多文化共生という机上の空論の「底知れぬ空虚さ」を示している。(鈴木傾城)


ロマは欧州のどこの民族とも価値観を共有しない民族
ローマ教皇は2021年9月14日にスロバキア東部のコシツエという街で、ロマ共同体を訪れて交流を行ったことが「VATICAN NEWS」で報道されている。

ヨーロッパは日本のように島国ではないので、様々な民族が国境を越えて行き来する。多くの民族は土着して、その国の「国民」となっていくのだが、中には定住するのを拒絶し、旅の生活を続ける民族も出てくる。

ヨーロッパではその最大勢力が「ロマ」である。単純な強盗や万引きなどの事件には、流れ者の民族であるロマも関わってくることが多い。

もちろんロマの人たちが全員「盗人」ではない。真面目な人や正業で成功した人もいる。しかし、彼らの一部が強盗・万引き・ドラッグ売買に関わっているのは否定できず、ありとあらゆる場所で嫌悪されているのが実情だ。

スロバキアにもロマが流れ込んでいるのだが、その一部がこの国に定住し、コシツエで大きな共同体を形成している。

このコシツエのロマ居住区は電気こそ通っているものの、ガスや水道は一日数時間ほどしか利用できないようなエリアで、まさに貧困地区である。スロバキアのスラムエリアと言っても過言ではない。ロマ人の「ゲットー」である。

ローマ教皇はここで「偏見から対話へ、閉鎖から融合へと移ることが必要」と説いた。しかし、言うのは簡単だが現実は壮絶なまで大きな溝が横たわっている。

ロマは欧州のどこの民族とも価値観を共有せず、帰属意識も持たず、それが今も続いている。現地の法も守らない人が多い。だから、スロバキアの人々のみならず、欧州全体でロマは激しく嫌われ、避けられ、排除され続けているのだ。


忽然と現れて、好きなところに「勝手に住み着く」
この「ロマ」がヨーロッパに約1000万人いるというのだから、尋常ではない。国を持たず、流浪する民族が1000万人と言えば、さすがに目立つ。

ロマが定住する最大の国はルーマニアなのだが、ルーマニアもひどく貧しい国であり、そんな貧しい国に定住しているロマはどん底の貧しさであると言われている。

ロマがルーマニアに200万人近くいて、人口の一割を占めているとは言っても、この1割のロマが受け入れられているというわけではない。受け入れられているというよりも、やはりルーマニアでも嫌われていて「泥棒」の代名詞となっている。

ロマは、人種も文化も宗教も気質も何もかもヨーロッパ人とは違っている。時には言葉すらも通じない。

それでいて忽然と現れて、好きなところに勝手に住み着くのだから、地域住民から見たらまさに不法侵入者でしかない。しかも、この民族の子供たちは万引き・置き引き・窃盗をするために他人にまとわりつく。

ヨーロッパの多くの国の観光地で、窃盗・万引き・置き引きが毎度のように発生するが、ロマの子供たちがやっていることが多い。「ロマの子供たちには学はないが、泥棒の仕方だけは親に学ぶ」とヨーロッパ人は吐き捨てるように言っている。

さらに彼らはその街や村にやって来ると、公園やら原っぱのようなところで誰の許可もなく勝手にキャンプを張る。

そして、ガラクタにしか見えないものを持ち込み、ゴミも周辺に放り出してゴミ山を作り出す。環境が手に負えなくなったら、ゴミ山を残してさっさと移動していく。これでは地域住民に好かれるわけがない。

そんな民族が1000万人もいる。だから、ヨーロッパではそれこそ1000年も昔からロマは頭痛の種だった。ロマはヨーロッパ中をさまよい歩き、今もその流浪と地域社会との軋轢で嫌悪と拒絶の対象になっている。

文化は受け入れられても、民族は排除されてしまった
もちろん、悪い話ばかりではない。ロマはロマの文化がある。彼らは以前「ジプシー」と呼ばれていたが、彼らの文化は一部では崇拝を呼ぶほど信奉者も多い。

彼らは陽気で歌や踊りが大好きだ。その中で、最もよく知られているのはジプシー特有のけたたましい音楽だろう。女性がスカートをなびかせ、足を踏み鳴らし、激しく踊るその様は見ている者を陶酔すら呼び起こすものである。

このジプシーの文化は、やがてヨーロッパ中の音楽にも取り入れられ、その踊りもまたヨーロッパ人に大きな影響を与えた。特に大きな影響を与えたのはスペインだ。

スペインに流れ着いたジプシーたちが、その土着の音楽と自分たちの音楽を融合させて生まれた独特の音楽は「フラメンコ」と呼ばれるようになった。

フラメンコは15世紀にはすでにスペインで定着していたわけで、その歴史は相当古い。まさに歴史的音楽であると言える。私自身も、フラメンコは情熱的で素晴らしい音楽であり、踊りであると思っている。

とは言っても、このロマ自身がスペインで広く受け入れられたというわけではなく、やはり忌避されていたのである。

フラメンコという文化はスペインの文化になったが、皮肉にもそれを伝えた「ロマ」は相変わらず嫌われて、スペインのどこに言っても迫害され続けていた。

ジプシーと言えば、「占い」もまたひとつのビジネスだが、この占いもまたキリスト教徒から見れば「悪魔の業《わざ》」のように見えたわけで、キリスト教徒から見て不吉なものでもあった。

占いと言えば、日本でもタロットカードの占いは有名だが、このタロットカードはジプシー文化から生まれている。


「多文化共生」など絵空事であると誰もが知っている
ロマの流浪と文化は本当に異質であり、泥棒文化が嫌われ、長い歴史の中で何度も地域住民と衝突して、今もヨーロッパはロマとどのように折り合いを付けたらいいのか分からないまま、困惑し、嫌い、排除している。

もっとも、そのロマも流浪する生活を頑なに守る人々が減っており、そのほとんどが定住するようになっているという。

ところが、定住しても独自文化を守ろうとして、地域の教育も無視するので、どこの国でもロマの人々は極貧の生活を強いられている。定住はしたものの、地域と同化したわけではないということである。

ロマを支援する人々は、支援も理解も足りないと訴えるのだが、当のロマ自体が支援も理解も拒絶して自分たちの独自文化の中に引きこもることもあり、問題の解決は容易ではない。

また、地域に同化させようと努力するロマや、それを支援する人たちがいる一方で、逆にロマを強制的に排除して国から追い出してしまおうとする動きも巨大だ。

イタリアは、ロマの人たちが公営住宅に入れないように、政府が自らロマ排除に動いていた。今回、ローマ教皇が対話と融和を訴えたスロバキアでも、政府当局は繰り返し機動隊を投入してロマのキャンプを叩き潰して追い出している。

ロマが200万人も定住するルーマニアでも、ロマの排除は徹底的だ。政府は国民に対してロマと距離を置くことを勧めており、就職も住居も結婚もロマとは交わらないように積極的排除している。

ヨーロッパでは表では「多文化共生」など絵空事を言っているが、ロマにやっていることはまったく「多文化共生」ではない。結局のところ、それは無責任が理想主義者が言っている絵空事に過ぎないのである。

そもそも、ローマ教皇が今のこの時代になっても人々に「ロマとの対話と融和」を訴えていること自体、多文化共生が実現できない空虚な理想であることを示している。


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