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アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 05 日 21:26:10: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 05 日 11:48:55)

アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜


チャンネル桜では

アイヌ人は先住民ではない。 日本人は単一民族だ。
アイヌ人は日本人と遺伝子が同じで、DNA鑑定ではアイヌ人かどうかは わからない

と言っています:

◆チャンネル北海道公式HP
http://ch-hokkaido.jp/
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93

【ch北海道】北海道が日本で無くなる日〜中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠[H31-3-22] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=NC6rdT4WmW0

2019/03/22 に公開

北海道 心はひとつ 私の心 みんなの心  
チャンネル北海道は、正直で元気な北海道情報をまるごとお送りしています!

講師:小野寺まさる(前北海道議会議員)

「正論を聞く集い」
北海道が日本で無くなる日〜中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠

平成31年3月18日 サンケイプラザ(東京都千代田区大手町)

1 北海道における中国資本による買収
2 アイヌ政策と日本分断活動の歴史
3 アイヌと中国共産党の繋がり
4 アイヌ新法の危険性
◇質疑応答




もちろん大嘘です。 チャンネル桜を信用すると豪い目に遭います。

詳細は


北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない _ アイヌが北方領土の先住民
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html


日本人はこうやって千島アイヌを民族浄化した _ とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/231.html


▲△▽▼

縄文人の多様性と特殊性−篠田謙一氏講演「日本人の起源」レポート 2017-12-21
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/


12月8日(金)、本学第14講義室で、DNA分析による日本人起源論の第一人者、篠田謙一氏(国立科学博物館・分子人類学)の講演会「ここまでわかった! 日本人の起源」がおこなわれました。講演の前座として、主催側の浅川滋男教授(本学環境学部・建築考古学)も「古墳時代前期の大型倉庫群−松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から」と題するミニ講演をされました。広報期間が2週間弱と短いなか、学内外から約50名の聴衆が集まり、最新の人類学・考古学の成果に耳を傾けられました。

ここまでわかった! 日本人の起源

日本人の起源論については、埴原和郎氏による「二重構造説」がよく知られています。縄文時代の日本列島にひろく拡散していた古モンゴロイドと、主として弥生時代以降に朝鮮半島から渡来した新モンゴロイドの混血として現代日本人を理解する考え方です。こうした二重構造説は人骨を対象とする形質人類学の研究によって導かれましたが、篠田氏はミトコンドリアDNAの系統解析をもとに新たな成果と視点を続々と呈示されています。講演の構成は以下のとおりです。

1.はじめに  2.日本人の起源  3.ミトコンドリアDNAの系統
4.ミトコンドリアDNAから見た日本人  5.縄文人のミトコンドリアDNA
6.縄文人と弥生人のゲノム解析

【講演要旨】 日本人の有するミトコンドリアDNAのハプログループは、朝鮮半島や中国東北部の集団と共通している。これらは弥生人にも共有されていることから、現代日本人のもつ多くのハプログループは、弥生開始期以降に稲作農耕とともに列島にもたらされたと推測できる。ミトコンドリアDNAの分析結果は埴原氏の「二重構造説」を概ね支持する結果となったが、北海道の先住集団であるアイヌは沿海州の先住民と共通のDNAをもっていることも判明しており、沖縄や北海道を本土日本の周辺地域としてみるのではなく、それぞれを独自の成立史をもつ地域として捉える複眼的な視座が求められている。一方、縄文人の系統には地域差があることがわかってきている。とくにミトコンドリアDNAのM7a系統では地域差が顕著であり、均一な縄文人像は見直す必要がある。2010年以降、古人骨に含まれる核のDNAの分析も可能になっており、そのゲノム解析から、縄文人は現代の東アジア人と大きく異なっていることが明らかとなったが、その特殊性については未だ定説がない。この問題を解決するためには、縄文相当期の東アジアの古人骨を調べるとともに、一万年以上続いた縄文時代の各地の人骨から得られたゲノムを丹念に解析していく必要がある。

オホーツク文化とアイヌ、ニブヒの関係

以上の講演に対して、青谷上寺地遺跡出土人骨から採取したサンプルの位置づけの予想やDNAサンプル採取方法について質問がありました。最後に浅川教授から「北海道アイヌの文化は擦文文化(蝦夷 えみし?)とオホーツク文化(粛慎 みしはせ?)の融合として成立したと考えられるが、その一方で、オホーツク文化の担い手をニブヒ(別名ギリヤーク:アムール下流域・樺太に分布する古アジア系民族)の祖先として理解する説があるけれども、人類学的にはどう理解されているか」という質問がありました。篠田氏はニブヒ、コリヤーク、チュクチなど極北の古アジア系民族は遊牧エヴェンキ(新モンゴロイド系)に攪乱され、さらにロシア化も進んでいるため、残念ながら、現状では固有のDNAを抽出しにくいと答えられました。
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/

アイヌ人も日本人も縄文人の遺伝子を受け継いでいるのですが、

アイヌ人の先祖の縄文人はアイヌ語を話し、食べていたのは栗・木の実、サケ

日本人の先祖の縄文人は日本語を話し、食べていたのは焼き畑作物、魚

なので、同じ縄文人と呼んでいても、全くの別民族なのです:


東北と関東の縄文人は系統が別・・DNAを読む 2014-04-30
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8


朝日新聞「日曜版」・「日本人の起源」2011・05・01の記事です。

前にご紹介したマレーシアのニア洞窟探訪の記事の続きです。

             ・・・・・

「骨をよむ手がかりはDNA」


マレーシアから東京に戻った私は、国立科学博物館を訪ねた。

篠田謙一の研究室に向かう。

積み重ねられている大きなプラスチックのケースの中味は、江戸時代の人骨だという。


篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人。

富山市の小竹貝塚の縄文人。

東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち。


「私はよく“骨を読む”と言います。

骨からは、実にたくさんのことがわかる。

形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」。

篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。

わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。

ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学会に大きな一石を投じることもある。


たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつては「南方からやって来たほぼ均質な集団」というのが定説だった。

全国で出土した骨を元に、縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。


ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

2006年、篠田や山梨大教授らは北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。

その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人のデータと比べてみた。


北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。

このグループはサハリンなど、現在の極東ロシアの先住民に目立つ。

2番目と3案目に多いグループも、カムチャッカ半島などの先住民に多い。

東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。


対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々、中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。


「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた。

浮かびあがるのは、そんなストーリ―だ。


縄文時代、様々な人々がいろいろなルートで日本列島に入ってきたらしい。

アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。

日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。

いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が次第に明らかになりつつある。

篠田は言う。「私たちは、どこから来た何者なのか。それを知ることで、自分達がどこへ向かおうとしているかを確かめたい」


                       ・・・・・

{}「トヤマ・ジャストナウ・2014・02・05 小竹貝塚」

富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所は、日本海側最大級の貝塚である小竹貝塚(富山市呉羽町北・呉羽昭和町地内)の調査結果を発表した。

出土した人骨は91体。縄文時代前期の人骨が見つかった国内の遺跡の中では最多。

DNA鑑定で、南方系と北方系の異なる起源を持つ人たちが一緒に暮らしていたことがわかった。

多くの遺物によって、縄文人のルーツや生活ぶりを探る、大きな手がかりに!


小竹貝塚(おだけかいづか)は富山県のほぼ中央部、呉羽丘陵と射水平野との接点に位置する。

北陸新幹線建設に先立ち、平成21・22年度に発掘調査が行われ、大規模な貝塚とともに、埋葬人骨や竪穴住居などが出土している。

貝殻のカルシウム成分によって、土壌がアルカリ性を保ち、通常の遺跡では酸性土壌で腐ったり、溶けてなくなったりしてしまうような骨、木器などが残る。

古の人たちの暮らしぶりを伝えるタイムカプセルといってもいいようだ。


小竹貝塚は、約6,750〜5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。

遺跡範囲は東西約150m、南北約200m。

埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。

貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。


墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。

そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。

死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。

身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。

女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。

 国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。

縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。

一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。

人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。


小竹貝塚からは、埋葬されたとみられるイヌが21体見つかり、縄文人の墓のそばに丁寧に葬られていた。

狩猟犬、愛玩犬として縄文人と一緒に生活し、丁寧に扱われていたことを示している。

現代のようにペットとしてイヌを可愛がっていたとは驚き。愛犬と仲良く暮らす縄文人の様子が目に浮かんできそうだ。


縄文土器・土製品は約13トン分が出土。

関東地方や近畿地方、東北地方で作られたとみられる土器があり、他地域との交流を物語っている。

石器は約10,000点出土しており、糸魚川周辺で採取されたとみられるヒスイを使った作りかけのペンダントが発見されている。

縄文時代前期のヒスイ製品としては国内で最古級だ。

骨角貝製品(こっかくかいせいひん)では、釣針、刺突具(しとつぐ)、針、装身具など約2,300点が出土。

装身具の中には、九州や伊豆諸島以南でしか採取できないオオツタノハという貝で作られた貝輪1点が見つかった。

太平洋沿岸の縄文遺跡では見つかっているが、日本海側では初めて。

ブレスレットとして、現代人が身に付けてもいいほど、素敵なデザインだ。

縄文時代にすでに釣針や針、ブレスレットやイヤリングが作られていたとは驚き。形も現代のものと大差ない。

タイの歯が象嵌(ぞうがん)された漆製品もあり、縄文人の工芸の技を垣間見ることができる。

当時の女性たちもお洒落をしていたと思うと、親近感も湧いてくる。


富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所では、

「小竹貝塚では、南方系と北方系にルーツを持つ人たちが一緒に暮らしていたことがDNA分析から明らかになった。日本海側の真ん中に位置するからだろうか。縄文人を語るうえで欠くことのできない重要な遺跡だ。
また、広範囲の地域との交流を物語る品々が出土した。日本海側の他の地域の遺物と比較し、小竹貝塚の特徴をより調べていきたい」

と話している。


wikipedia「白保竿根田原洞穴遺跡」より

白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、沖縄県石垣市(八重山列島石垣島)にある旧石器時代から断続的に続く複合遺跡である。

新石垣空港建設前まで、同地はゴルフ場内にあたり盛土されていたため、地下にこのような洞穴があることは、把握されていなかった。

長大な洞穴の洞口が最初に見つかった、白保側(現在の遺跡の場所よりも北側)の小字名がそのまま遺跡名として利用されている現状がある。

白保竿根田原洞穴遺跡は2007年に新石垣空港予定地で見つかった遺跡で、NPO法人沖縄鍾乳洞協会によって、洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。

このうち、状態のよい6点について同協会、沖縄県立埋蔵文化財センター、 琉球大学、東京大学等の専門家チームが放射性炭素年代測定を行ったところ、

そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。

さらに国立科学博物館が、これらの人骨10点の母系の祖先を知る手掛かりとなるミトコンドリアDNA分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち、2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来のDNAタイプであることが明らかとなった。

これまで、直接測定による日本国内最古の人骨は、静岡県浜北区の根堅洞窟で発見された浜北人の約1万4千年前であった。

なお、人骨そのものではなく、周辺の炭化物などから測定した日本国内最古の人骨は沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見された山下町洞穴人の約3万2千年前のものである。

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8





 

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コメント
1. 中川隆[-10455] koaQ7Jey 2019年4月30日 20:41:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1632] 報告

アイヌ新法の何が画期的なのか?〜「アイヌ否定」歴史修正主義の終えん。平成の最後にアイヌ復権への第一歩
古谷経衡 | 文筆家/著述家 4/29(月) 23:58
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/



さっぽろ雪まつりでアイヌ装束を着るアイヌの人々(写真:つのだよしお/アフロ)


1】法律に初めてアイヌの先住性を明記

アイヌの伝統的狩猟対象である鮭(photAC)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/


 4月19日、「アイヌ新法」が参議院で可決、成立した。この新法のもっとも画期的な部分は、我が国の法律史上、はじめてアイヌを「先住民族」と規定したことにある。ではこれまでの国のアイヌ民族の先住性に対する考え方はどのようなものであったのか。

 1997年(平成9年)、「北海道旧土人保護法」が廃止され、代わりに同年施行された「アイヌ文化の振興並びにアイヌ民族の伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(旧アイヌ法)では、アイヌを初めて「民族」と認めたことが画期的であったが、アイヌの先住性までは言及されなかった。

 これに先立つこと1995年、村山富市内閣は内閣官房長官の私的諮問機関として「ウタリ(アイヌ語で”同胞”の意)対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置し、1996年には同懇親会から「中世末期以降の歴史の中で見ると、アイヌの人びとは当時の”和人”との関係において北海道に先住していたことは否定できない」等の報告書が提出された。

 また旧アイヌ法の制定を受け、衆議院と参議院内閣委員会では、「アイヌの人びとの『先住性』は、歴史的事実であり、この事実も含め、アイヌの伝統等に関する知識の普及並びに啓発の推進につとめること」とする付帯決議が盛り込まれている。また2008年には衆参両院本会議は、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択した。

 しかしながら、このような国のアイヌ文化振興への取り組みのなかでも、アイヌ民族の先住性が法律に書き込まれたことは一度もなかった。

 日本は単一民族国家ではなく、アイヌがかつて現在の東北からサハリン、千島などにかけて広範に先住していたことは自明であったが、法律に「先住民族」を明記したことは、上記のような経緯からアイヌにとっても悲願であり、また先住民族の権利擁護や文化復権を求める国際的な潮流にようやく日本が追いついたことの証左であり、重ねて画期的といえる。

2】歴史修正主義者たちから沸き上がったアイヌ否定論

”デマ”のイメージ(pfotoAC)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 しかし、このようなアイヌに対する「先住性」「民族性」を真っ向から否定する歴史修正主義の動きが、2008年ごろから沸き起こる。これがいわゆる「アイヌ否定論」であり、この論の骨子は、1)「アイヌ民族は存在しない」、2)「アイヌ民族は先住民族ではない」という何ら歴史学的根拠に基づかないトンデモな主張であった。

 この「アイヌ否定論」の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのり氏である。小林氏は漫画という媒体を用いて、「アイヌ否定論」をぶちあげた。小林氏は取材の中でアイヌ文化研究家の河野本道氏なる人物と知己となり、河野氏の「アイヌ否定」説に全面的に依拠して、「アイヌなどいない」「アイヌは先住民族ではない」という、歴史学会では歯牙にもかけられていない「珍説」を紙面上で訴え続けた。

 この小林氏の珍説に明らかに影響されたとみられるのが、北海道札幌市議会議員(当時)であった金子快之(やすゆき)氏である。金子氏は2014年8月11日、自身のツイッター上で「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいがアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不条理。納税者に説明できません」とつぶやき、一斉に非難を浴びた。

 金子氏は2014年9月、このツイッター上での差別発言を理由に、所属していた自民党札幌支部連合会を除名され、市議会が辞職勧告決議を出したが辞職しないまま、2015年4月12日投開票の札幌市議会議員選挙(15年統一地方選挙)で落選した。

 ところが金子氏は、つい先般行われた2019年4月24日投開票の渋谷区議会議員選挙(19年統一地方選挙)で政治団体「NHKから国民を守る党」から出馬し、当選して議員に返り咲いている。

3】アイヌ否定から沖縄ヘイトへ

 もう一例は北海道議会議員(当時)であった小野寺秀(まさる)氏である。小野寺氏は、アイヌの先住性に疑問を投げかける見解を2014年に道議会で提起した。当時の紙面から抜粋する。

北海道議会の最大会派「自民党・道民会議」の小野寺秀(まさる)議員(51)=帯広市選出=が11日の道議会決算特別委員会で、「アイヌが先住民族かどうかには非常に疑念がある。グレーのまま政策が進んでいることに危機感を持っている」と発言した。(中略)毎日新聞の取材に小野寺氏は「アイヌ民族の存在は否定しないが、北海道と本州の間は昔から多くの人が往来している。北海道がアイヌだけの島だったことは誰も証明できない」と主張。決算委では「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない。そういう自虐的な歴史を北海道で植え付けるのはいかがなものか」とも述べた。

出典:毎日新聞(2014.11.12)、強調筆者

 小野寺氏は、自民党の議員でありながら、すでに述べた通り、2008年に衆参両院本会議で、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択したことを無視する意見を公に表明したことで大きな問題とされた。この小野寺氏は2015年の北海道議会選挙において改選を迎えたが出馬せず、政界を引退した。現在では主に右派系ネット番組等に精力的に出演を続けている。

 この両氏は、前後の文脈から総合的に考察しても、明らかに歴史学の「いろは」にすら接触しておらず、体系的な日本史知識というものが全く欠落していると推量される。両氏の主張は既出の小林よしのり氏による「アイヌ否定」というトンデモ論のコピーであることは自明で、この他にも北海道在住の自称アイヌ研究家などが小林氏の影響を受けて盛んな「アイヌ否定論」「アイヌ利権の危険性」等を繰り返した。

 しかし、にわかに2014年〜15年にかけて最盛を迎えるかにみえた「アイヌ否定論」は、その後、ネット右翼や中央の保守論壇の間では爆発的には浸透せず、代わりに彼らのデマ・トンデモ・憎悪の矛先は南方に転じて、沖縄における反基地活動家・普天間基地辺野古移設反対派への呪詛、翁長雄志前沖縄県知事らへの周到で執拗なデマ攻撃へと転換していった。

 ではなぜ「アイヌ否定論」は、ネット右翼や中央の保守論壇に於いて決定的な盛り上がりに欠けたのだろうか。

4】歴史修正主義「アイヌ否定論」の終わり

 その理由は、簡単に述べると以下のようになる。

1)アイヌの存在と先住性があまりにも明白で揺るぎようのない事実であること

2)ネット右翼や中央の保守論壇の中で、北海道(北方問題)への興味・関心が薄いこと

3)小林よしのり氏らが最前衛となった「アイヌ否定論」が、歴史学的な検証に耐えられるものではないトンデモ論であったために、南京大虐殺否定や従軍慰安婦への日本軍関与の否定など、同様の歴史的問題(…こぞって保守系言論人がそれを追検証するような事態)と違って「アイヌ否定論」に追従する中央の保守系言論人や研究者がいなかったこと

4)「アイヌ否定論」と対にして語られた「アイヌ利権」なるものが、まったく確認されていないこと

5)そもそも日本政府が「アイヌ民族」の存在を認めていること

 などである。そして最大の理由は、

6)「アイヌ否定論」の最前衛となった小林よしのり氏が、従前から「反米保守」「アンチ・ネット右翼」の立場を採っていたことで、ネット右翼や中央の保守論壇に対する影響力をこの段階(2014年〜15年時点)で著しく喪失していたこと。またそれと同様に、小林よしのり氏の漫画の商業的停滞が続いていたため、全般的な影響力が限局したものにとどまったこと

 である。

 こうして一時期盛り上がった「アイヌ否定論」はすぐに鳴りを潜めたが、漠然とした「アイヌ否定」「アイヌ利権」という、ネガティブなイメージがネット空間に広がったことは確かだった。しかし今回の「アイヌ新法」の成立によって、国が初めてアイヌを「先住民族」と認めたことで、こういった歴史修正主義者たちのトンデモ論は最終的かつ不可逆に葬り去られたことになった。

 だが、小林よしのり氏が盛んに唱えた「アイヌ否定論」が、北海道の地方議員やその支持者たちに広がり、「なんとなくアイヌってその存在自体が怪しいし、弱者利権のにおいがする」というイメージを植え付け続けたという時点で、小林氏の責任は重いものと言わざるを得ない。「アイヌ新法」の成立によって、ネット空間に漠然と伝播されたアイヌに対するネガティブイメージが、徐々にであっても希薄化していくことを願うものである。

5】アイヌ民族史概説〜中世から幕末まで〜

筆者作成
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 さて本稿後半では、駆け足ではあるが「アイヌ民族はいない」「アイヌは先住民族ではない」という「アイヌ否定論」がいかにトンデモであるかを歴史的に振り返りたい。

 アイヌ民族が日本(和人)の記録に初めて登場したのは14世紀の室町時代である。『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)によると、

 アイヌ民族を記した本州の最初の資料は室町初期の1356(延文元)年に、諏訪(小坂)円忠を発願者として成立した「諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」である。(中略)東北の大海の中央に「蝦夷カ千島」があり「日ノ本(ひのもと)」「唐子(からこ)」「渡党(わたりとう)」の三類の蝦夷が群居する。「日ノ本」と「唐子」は外国に連なり、風貌は夜叉(やしゃ)のようであり、禽獣(きんじゅう)・魚肉を食として農耕を行わない。そして、言葉はまったく通じない。

 一方「渡党」は和国の人に似て、言葉も大半は通じるが、髭面多毛な人という。また霧を起こす術を心得ていたり、山野を獣のように走ることができ、毒矢を用いて武器にしたり、木を削って幣帛(へいはく=神に奉献する供物)のようなものをつくる。「宇曽利鶴子洲」(現在の函館、または下北半島)、「万当宇満伊犬」(現在の松前)という小島があり、「渡党」は多く「津軽外が浜」に往来し交易していると記されている。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P26-27、浪川健治、山川出版社、強調筆者

 という。この事から、室町時代の日本人には、蝦夷=アイヌが少なくとも三分類あり、また地理的な事実誤認はあるものの下北半島より北(要するに北海道やサハリン、千島)に居住する「異国人」として認識されていたことがわかる。

 応仁の乱に端を発した戦国期になると、北海道南部にも和人が進出し、紆余曲折の末、松前氏(蠣崎氏から改名)が現在の函館を中心とした渡島半島南部に和人のコロニーを建設する。戦国期が終わり、徳川幕藩体制が確立されると、松前藩が成立して18世紀に大名(石高のない1万石扱い。参勤交代は遠隔地特例で6年に1回)となり、アイヌとの交易で富を蓄えた。

 しかし、松前藩とアイヌとの間には交易をめぐるトラブルが多発した。その多くの原因が松前(和人)側の強権的な交易比率の改悪等であった。これが原因で17世紀中葉には最大の反和人蜂起といわれる「シャクシャインの戦い」(寛文蝦夷蜂起)、18世紀後半には「クナシリ・メナシの戦い」が現在の道東・国後島を中心として起こった。

 基本的に江戸幕府は、海禁政策(鎖国)を維持しつつも、外国との接触点、つまり国境をあいまいな形にしておき、交易や通信を直接行うのではなく、特定の大名に一任し、日本周辺の異民族を服属させているという図式をとることによって、間接的に幕府の「御武威・御威光」を内外に誇示した。幕府は特定の大名に交易を独占させる特権を与える一方、そこから得られた外国情報を江戸に集約させ対外情勢の分析にあたった。

 この体制を「日本型華夷秩序(にほんがたかいちつじょ)」と呼ぶ。この「日本型華夷秩序」の中で、事実上ロシアと国境を接する蝦夷=アイヌとの交易・通信を任されたのが松前藩であった。

 しかし19世紀初頭になると外国船の来航が頻繁となり、幕藩体制は動揺する。特にロシア船が根室に来航し通商を要求。これを幕府側が拒否した報復として樺太や国後島等がロシア軍船の砲撃を受ける文化露寇(1806年、1807年)が起こると、応戦した松前藩、津軽藩、南部藩らの諸兵がロシア軍の圧倒的な火力の前に敗北を喫した。

 このような情勢の中、幕府は1799年、蝦夷地を直轄地として蝦夷地奉行を置き(のち箱館奉行と改名)、ロシアの南下に対抗するべく軍備拡充とアイヌの同化政策を強化する。具体的にはアイヌに対し農業耕作を推奨し、日本語使用を推奨、日本服着用の許可、儒教徳目による教化、日本風の名前への改名などであった。

 結局、江戸幕府の蝦夷地直轄は、一時期の松前藩への返還(1821年〜1854年)を挟んで幕末まで続いた。しかしこういったアイヌへの同化政策は、幕府が滅び明治へと世が変わる時代と比べれば、まだしも穏やかな部類であった。

5】アイヌ民族史概説〜アイヌへの完全な日本同化政策〜

筆者作成
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

 明治政府は、1869年(明治2年)、開拓使を設置し「蝦夷」の呼称を「北海道」に改名した。北海道の誕生である。また四民平等の原則に基づき、1871年(明治4年)、アイヌは「平民」に編入することが布告された。

 しかし日本人平民と区別するために1878年(明治11年)、アイヌは「旧土人」と呼称することが正式に決定され、公の呼称ではアイヌは「旧土人」と位置付けられ、なんとこの露骨な差別的呼称が、本稿冒頭における1997年(平成9年)の「北海道旧土人保護法」の廃止まで使用され続けたのである。

 明治政府によるアイヌへの日本同化政策は、それ以前の幕府時代と比べて極めて苛烈で、そして近代的国民国家の形成に即した急激なものであった。明治政府が実行したアイヌへの苛烈な同化政策は以下の通り。

(明治)維新政府は、アイヌの人びとを「開明の民」とするためにアイヌ民族古来の風俗や風習を一方的に禁止する。(中略)女子の入墨、男子の耳輪を禁止し、違反者は「厳重ノ処分」を行うとした。(中略)さらに、経済的基盤としての生業についても、1871(明治4)年には根室地方の鮭の種川とされていた西別川での流し網を禁止し、1874(明治7)年には豊平川とその支流での引き網・ウライ猟(アイヌの伝統的な漁業方法)を制限した。

 1876年以降になると、西別川では一漁場、猟一統に制限し、乱獲防止を名目に禁漁に等しい厳しい制限を強いた。また同年、アイヌの伝統的狩猟法の一つである仕掛弓や毒矢の使用を「獣類生息ノ妨害」を理由として禁止し、「新業(主に農業)ニ移シ、又ハ猟銃ヲ貸与」することをはかっただけでなく、「免許鑑札」を受けた者以外の鹿猟を禁止するにいたる。近代国家によって、アイヌ文化とその継承はすべての面において否定され、「臣民」化が生活の窮迫とあいまって進行した。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P.87〜88、浪川健治、山川出版社、カッコ内一部筆者、一部言いかえをした箇所あり、強調筆者

 このように明治政府が推進したアイヌへの日本同化政策は、蝦夷を北海道と改名し、開拓使を設置しただけではなかった。アイヌ民族の精神的アイデンティティを奪いつくし、経済的にも圧迫(慣れない農業への強制転換など)し、アイヌを完全に日本帝国の内側に取り込もうとした究極の同化政策を行ったのである。

 前述した小野寺道議の「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない」という発言は、このような歴史的経緯に照らし合わせてみても、まったくのデタラメであり歴史修正主義であることが分かる。

 そしてこの同化政策は、あろうことか平成の時代まで「北海道旧土人保護法」という名の下で事実上、続いていたのである。

 平成が終わり令和の時代が到来するいま、「アイヌは我が国における先住民族である」と法律で明記されたことは、明治以来進められた近代国家の負の遺産の清算、およびアイヌ民族の誇りを取り戻す積極的動きが、ようやく平成の最後にその第一歩を記したという意味においても画期的なものなのだ。(了)

*参考図書:『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)、『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田晃、マーク・ウィンチェスター 編、河出書房新社)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

2. 中川隆[-9549] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:00:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2921] 報告
真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html
3. 中川隆[-9241] koaQ7Jey 2019年6月29日 14:37:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3281] 報告

長浜浩明のアイヌ人のシベリア起源説は間違い


【我那覇真子「おおきなわ」#75】
長浜浩明〜遺伝子が証明! アイヌ人は元の時代にシベリアから北海道に移住して縄文人の子孫を滅ぼした[桜R1-6-28] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BezxJ6uRi1g


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真実は

日本人の遺伝子の 90% は朝鮮からの渡来人で、縄文系は僅か10%
アイヌ人の遺伝子の 70% は縄文系


縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。


国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万〜4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


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縄文人の多様性と特殊性−篠田謙一氏講演「日本人の起源」レポート 2017-12-21
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/


12月8日(金)、本学第14講義室で、DNA分析による日本人起源論の第一人者、篠田謙一氏(国立科学博物館・分子人類学)の講演会「ここまでわかった! 日本人の起源」がおこなわれました。講演の前座として、主催側の浅川滋男教授(本学環境学部・建築考古学)も「古墳時代前期の大型倉庫群−松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から」と題するミニ講演をされました。広報期間が2週間弱と短いなか、学内外から約50名の聴衆が集まり、最新の人類学・考古学の成果に耳を傾けられました。


ここまでわかった! 日本人の起源


日本人の起源論については、埴原和郎氏による「二重構造説」がよく知られています。縄文時代の日本列島にひろく拡散していた古モンゴロイドと、主として弥生時代以降に朝鮮半島から渡来した新モンゴロイドの混血として現代日本人を理解する考え方です。こうした二重構造説は人骨を対象とする形質人類学の研究によって導かれましたが、篠田氏はミトコンドリアDNAの系統解析をもとに新たな成果と視点を続々と呈示されています。講演の構成は以下のとおりです。

1.はじめに  2.日本人の起源  3.ミトコンドリアDNAの系統
4.ミトコンドリアDNAから見た日本人  5.縄文人のミトコンドリアDNA
6.縄文人と弥生人のゲノム解析


【講演要旨】 日本人の有するミトコンドリアDNAのハプログループは、朝鮮半島や中国東北部の集団と共通している。これらは弥生人にも共有されていることから、現代日本人のもつ多くのハプログループは、弥生開始期以降に稲作農耕とともに列島にもたらされたと推測できる。ミトコンドリアDNAの分析結果は埴原氏の「二重構造説」を概ね支持する結果となったが、北海道の先住集団であるアイヌは沿海州の先住民と共通のDNAをもっていることも判明しており、沖縄や北海道を本土日本の周辺地域としてみるのではなく、それぞれを独自の成立史をもつ地域として捉える複眼的な視座が求められている。一方、縄文人の系統には地域差があることがわかってきている。とくにミトコンドリアDNAのM7a系統では地域差が顕著であり、均一な縄文人像は見直す必要がある。2010年以降、古人骨に含まれる核のDNAの分析も可能になっており、そのゲノム解析から、縄文人は現代の東アジア人と大きく異なっていることが明らかとなったが、その特殊性については未だ定説がない。この問題を解決するためには、縄文相当期の東アジアの古人骨を調べるとともに、一万年以上続いた縄文時代の各地の人骨から得られたゲノムを丹念に解析していく必要がある。


オホーツク文化とアイヌ、ニブヒの関係


以上の講演に対して、青谷上寺地遺跡出土人骨から採取したサンプルの位置づけの予想やDNAサンプル採取方法について質問がありました。最後に浅川教授から「北海道アイヌの文化は擦文文化(蝦夷 えみし?)とオホーツク文化(粛慎 みしはせ?)の融合として成立したと考えられるが、その一方で、オホーツク文化の担い手をニブヒ(別名ギリヤーク:アムール下流域・樺太に分布する古アジア系民族)の祖先として理解する説があるけれども、人類学的にはどう理解されているか」という質問がありました。篠田氏はニブヒ、コリヤーク、チュクチなど極北の古アジア系民族は遊牧エヴェンキ(新モンゴロイド系)に攪乱され、さらにロシア化も進んでいるため、残念ながら、現状では固有のDNAを抽出しにくいと答えられました。
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/


アイヌ人も日本人も縄文人の遺伝子を受け継いでいるのですが、

アイヌ人の先祖の縄文人はアイヌ語を話し、食べていたのは栗・木の実、サケ

日本人の先祖の縄文人は日本語を話し、食べていたのは焼き畑作物、魚

なので、同じ縄文人と呼んでいても、全くの別民族なのです:


東北と関東の縄文人は系統が別・・DNAを読む 2014-04-30
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8


朝日新聞「日曜版」・「日本人の起源」2011・05・01の記事です。

前にご紹介したマレーシアのニア洞窟探訪の記事の続きです。

             ・・・・・

「骨をよむ手がかりはDNA」


マレーシアから東京に戻った私は、国立科学博物館を訪ねた。

篠田謙一の研究室に向かう。

積み重ねられている大きなプラスチックのケースの中味は、江戸時代の人骨だという。


篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人。

富山市の小竹貝塚の縄文人。

東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち。


「私はよく“骨を読む”と言います。

骨からは、実にたくさんのことがわかる。

形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」。

篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。

わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。

ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学会に大きな一石を投じることもある。


たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつては「南方からやって来たほぼ均質な集団」というのが定説だった。

全国で出土した骨を元に、縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。


ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

2006年、篠田や山梨大教授らは北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。

その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人のデータと比べてみた。


北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。

このグループはサハリンなど、現在の極東ロシアの先住民に目立つ。

2番目と3案目に多いグループも、カムチャッカ半島などの先住民に多い。

東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。


対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々、中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。


「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた。

浮かびあがるのは、そんなストーリ―だ。


縄文時代、様々な人々がいろいろなルートで日本列島に入ってきたらしい。

アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。

日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。

いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が次第に明らかになりつつある。

篠田は言う。「私たちは、どこから来た何者なのか。それを知ることで、自分達がどこへ向かおうとしているかを確かめたい」


                       ・・・・・

{}「トヤマ・ジャストナウ・2014・02・05 小竹貝塚」

富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所は、日本海側最大級の貝塚である小竹貝塚(富山市呉羽町北・呉羽昭和町地内)の調査結果を発表した。

出土した人骨は91体。縄文時代前期の人骨が見つかった国内の遺跡の中では最多。

DNA鑑定で、南方系と北方系の異なる起源を持つ人たちが一緒に暮らしていたことがわかった。

多くの遺物によって、縄文人のルーツや生活ぶりを探る、大きな手がかりに!


小竹貝塚(おだけかいづか)は富山県のほぼ中央部、呉羽丘陵と射水平野との接点に位置する。

北陸新幹線建設に先立ち、平成21・22年度に発掘調査が行われ、大規模な貝塚とともに、埋葬人骨や竪穴住居などが出土している。

貝殻のカルシウム成分によって、土壌がアルカリ性を保ち、通常の遺跡では酸性土壌で腐ったり、溶けてなくなったりしてしまうような骨、木器などが残る。

古の人たちの暮らしぶりを伝えるタイムカプセルといってもいいようだ。


小竹貝塚は、約6,750〜5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。

遺跡範囲は東西約150m、南北約200m。

埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。

貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。


墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。

そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。

死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。

身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。

女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。

 国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。

縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。

一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。

人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。


小竹貝塚からは、埋葬されたとみられるイヌが21体見つかり、縄文人の墓のそばに丁寧に葬られていた。

狩猟犬、愛玩犬として縄文人と一緒に生活し、丁寧に扱われていたことを示している。

現代のようにペットとしてイヌを可愛がっていたとは驚き。愛犬と仲良く暮らす縄文人の様子が目に浮かんできそうだ。


縄文土器・土製品は約13トン分が出土。

関東地方や近畿地方、東北地方で作られたとみられる土器があり、他地域との交流を物語っている。

石器は約10,000点出土しており、糸魚川周辺で採取されたとみられるヒスイを使った作りかけのペンダントが発見されている。

縄文時代前期のヒスイ製品としては国内で最古級だ。

骨角貝製品(こっかくかいせいひん)では、釣針、刺突具(しとつぐ)、針、装身具など約2,300点が出土。

装身具の中には、九州や伊豆諸島以南でしか採取できないオオツタノハという貝で作られた貝輪1点が見つかった。

太平洋沿岸の縄文遺跡では見つかっているが、日本海側では初めて。

ブレスレットとして、現代人が身に付けてもいいほど、素敵なデザインだ。

縄文時代にすでに釣針や針、ブレスレットやイヤリングが作られていたとは驚き。形も現代のものと大差ない。

タイの歯が象嵌(ぞうがん)された漆製品もあり、縄文人の工芸の技を垣間見ることができる。

当時の女性たちもお洒落をしていたと思うと、親近感も湧いてくる。


富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所では、

「小竹貝塚では、南方系と北方系にルーツを持つ人たちが一緒に暮らしていたことがDNA分析から明らかになった。日本海側の真ん中に位置するからだろうか。縄文人を語るうえで欠くことのできない重要な遺跡だ。
また、広範囲の地域との交流を物語る品々が出土した。日本海側の他の地域の遺物と比較し、小竹貝塚の特徴をより調べていきたい」

と話している。


wikipedia「白保竿根田原洞穴遺跡」より

白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、沖縄県石垣市(八重山列島石垣島)にある旧石器時代から断続的に続く複合遺跡である。

新石垣空港建設前まで、同地はゴルフ場内にあたり盛土されていたため、地下にこのような洞穴があることは、把握されていなかった。

長大な洞穴の洞口が最初に見つかった、白保側(現在の遺跡の場所よりも北側)の小字名がそのまま遺跡名として利用されている現状がある。

白保竿根田原洞穴遺跡は2007年に新石垣空港予定地で見つかった遺跡で、NPO法人沖縄鍾乳洞協会によって、洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。

このうち、状態のよい6点について同協会、沖縄県立埋蔵文化財センター、 琉球大学、東京大学等の専門家チームが放射性炭素年代測定を行ったところ、

そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。

さらに国立科学博物館が、これらの人骨10点の母系の祖先を知る手掛かりとなるミトコンドリアDNA分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち、2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来のDNAタイプであることが明らかとなった。

これまで、直接測定による日本国内最古の人骨は、静岡県浜北区の根堅洞窟で発見された浜北人の約1万4千年前であった。

なお、人骨そのものではなく、周辺の炭化物などから測定した日本国内最古の人骨は沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見された山下町洞穴人の約3万2千年前のものである。
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8


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日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.3 2018/7/29
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm

  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。


核DNA解析でたどる 日本人の源流 – 2017/10/21 斎藤 成也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%A0%B8DNA%E8%A7%A3%E6%9E%90%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E6%88%90%E4%B9%9F/dp/4309253725


その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

 ・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

 ・シ−ラカンス古代亜型のY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った 集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

 ・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから 出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。


2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」はかなり遅れて進化したと考えられていた様だが、 最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。
 Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、

 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、

 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離したが、

    この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。

    これは恐らく中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

    この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデルタール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではないプロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。


4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島(Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。

カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。


  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として混在して来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。


5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内のから生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。


6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。

  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本と朝鮮及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきたY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンのY-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。

西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも遺伝子が繋がっているのだから。 恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm

4. 中川隆[-9240] koaQ7Jey 2019年6月29日 14:41:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3282] 報告

チャンネル桜関係者が盲信している長浜浩明と田中英道のインチキ学説について詳細は

チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html


西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html


5. 中川隆[-9249] koaQ7Jey 2019年6月30日 07:20:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3300] 報告

右翼がその論拠にしている自称専門家まとめ


チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

自ら 映画『主戦場』 を宣伝してくれる右派出演者たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/486.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

自称 中国・朝鮮問題の専門家 加瀬英明 : 慰安婦問題の最高権威 吉見義明のことは「知りません」、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』は「読んだことない」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/488.html

チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

日本の右翼のバイブル _ ニセユダヤ人 モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html

6. 中川隆[-8951] koaQ7Jey 2019年7月20日 15:37:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3747] 報告

2019年03月11日
アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した?
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html

 表題の呟きがTwitter上で流れてきました。全文引用すると、


DNA解析により、アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来したのが判明!
北海道の縄文人には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNAのハプログループYがない。
よって、アイヌ民族は北海道先住民族ではない と北海道庁ご認定していた:そよ風
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html


となります。その根拠として、

「アイヌ民族は北海道先住民族ではない」と題するブログ記事
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51838956.html


が挙げられています。

では、その根拠が何なのかというと、遺伝学的には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループY(Y1)が北海道の「縄文人」にはない、ということです。上記ブログは、「北海道の縄文人とアイヌは全く関係ないと言える」と断定しています。以下、基本的には

近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ajpa.23338

に依拠して述べていきます

(関連記事)2019年01月24日 近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html


 確かに、現代アイヌ人のmtDNAハプログループに占めるY1の比率は19.6%で、比較的高いと言えそうです。また、北海道の縄文人ではY1は確認されていません。上記ブログは、江戸時代以降の日本人にもmtDNAハプログループY1が見られるので、江戸時代以前に倭人が北海道に多数いた、と推測しています。しかし、Y1が現代の「本土日本人」に占める割合は0.5%程度で、Y1はオホーツク集団由来と推測されています(オホーツク集団では43.2%)。

 また、現代アイヌ人にも近世アイヌ人にもN9bやG1bといった北海道縄文人のmtDNAハプログループは継承されており、現代アイヌ人では25%以上、近世アイヌ人では30%弱となります(M7a2も含めると30.9%)。もちろん、これは基本的には母系遺伝となるmtDNAのハプログループなので、核DNA解析ではまた違った割合になるでしょうが、少なくとも母系において、現代および近世アイヌ人は遺伝的に北海道縄文人と一定以上のつながりがある、と言えるでしょう。

 そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではない、という観点が上記ブログには欠けています。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。アイヌ人を遺伝的に云々といった見解の多くでは、論理の倒錯が見られるように思います。

 前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能です。

 そうした前近代の「民族的集団」の中には、民族は遺伝的に定義できる、といった単純素朴な観念が通用しない事例も報告されています。たとえばスキタイ人は遺伝的に、東方系がヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と、西方系が中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です

(関連記事)
2018年10月07日
青銅器時代〜鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_11.html

青銅器時代のコーカサス地域のマイコープ(Maykop)文化集団は、山麓地域と草原地域とで遺伝的構成が明確に異なっており、遺伝的に異なる在来集団による共通の文化の形成・受容が想定されます

(関連記事)
2019年02月07日 コーカサス地域の銅石器時代〜青銅器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_10.html

 もちろん、スキタイ人のようなユーラシア内陸部の遊牧民集団と、遊牧民が存在しなかったと言っても大過はないだろう日本列島の人類集団とを単純に比較できませんが、民族を遺伝的に定義することは基本的に間違っていると思います。民族はあくまでも文化的に定義された集団であり、任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、必然的に遺伝的構成が異なる、というだけのことです。これを倒錯させて、遺伝的構成の違いから民族集団を定義することはできません。

 本題に戻すと、上記ブログでは、アイヌ民族が12世紀頃に樺太から北海道に南下してきてオホーツク集団を滅ぼした、と主張されています。その根拠となる、アイヌ民族は北海道縄文人と(遺伝的に)まったく関係ない、との見解が間違いであることは上述したので、それ話は終わりです。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していた可能性も指摘されていますので、これを過大評価というか歪めて解釈して、アイヌ人が12世紀頃に北海道に侵略してきた、との与太話が今後拡散されるかもしれません。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後のシベリア先住民集団の北海道集団への遺伝的影響は、母系ではせいぜい6.4%程度で、大きな影響があった可能性はきわめて低そうです。

 なお、上記ブログでは、平取町からは正倉院御物と同じ組成の奈良時代の青銅器が発見されており、奈良時代にすでに天皇の力が北海道にも及んでいた、と主張されています。平取町の青銅器の話についてはよく知りませんが、仮にそうだとして、アイヌが北海道の先住民族だという前提は物的証拠によって完全に覆されている、との評価は的外れでしょう。確かに、正倉院御物と同じ組成の青銅器が北海道にあることを、天皇の「力が及んでいた」と解釈することは、定義次第ではあるものの、できなくもありませんが(かなり無理筋ではありますが)、それを言うなら、弥生時代や古墳時代の「日本」には、もっと強く「中国」の「力が及んでいた」と解釈すべきでしょう。

平安時代の日本の知識層の領域観念(関連記事)
2018年08月29日 佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』(前編)
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_51.html

からも、奈良時代の日本人には、北海道を「日本」に含めるような概念はなかっただろう、と思います。

 それにしても、与太話にすぎない上記の呟きがリツイート1300以上・いいね1600以上とは残念です。もちろん、リツイートやいいねが賛同を意味するとは限りませんが、多くの場合は賛同だと思います。これを呟いた城之内みな氏のフォロワーは約26000アカウントで、フォローは1674アカウントですから、相互フォローでフォロワーを増やしていったのではなく、呟きの内容でフォロワーを獲得したのでしょう。その意味で、かなり影響力の強いアカウントなのでしょうが、こんな与太話にすぎない呟きにも多数のリツイートやいいねが集まるとは、残念というだけではなく、脅威と考えねばならないようです。


参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338


https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html

7. 中川隆[-8846] koaQ7Jey 2019年7月25日 16:39:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3868] 報告
2019年06月01日
北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html


 北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)が公表されました。

この研究についてはすでに報道されていました(関連記事)。


https://sicambre.at.webry.info/201905/article_24.html


この研究はオンライン版での先行公開となります。現代日本人は大きく、アイヌ集団・「本土」集団・琉球集団に区分されます。現代日本人の起源は人類学・考古学・遺伝学で長く議論されており、縄文人が共通の祖先集団となっていることについては、おおむね共通認識になっている、と言えるでしょうが、縄文人と縄文時代以後の渡来集団の現代人への遺伝的影響度合など、これらの集団はそれぞれ異なる形成史を有する、と推測されています。

 さらに、縄文人の起源についても、形態学ではアジア北東部説と南東部説が提示されており、明確ではありません。20世紀第4四半期以降、縄文人のDNA解析も進められ、まずミトコンドリアDNA(mtDNA)で始まり、その後は核DNAも対象となり、ゲノム規模のデータも報告されています(関連記事)。しかし、高品質とは言えないのでその網羅率は高くなく、縄文人の遺伝的特徴を理解するのに充分ではありませんでした。これまで、縄文人の遺伝的特徴に関しては、本土集団よりも縄文人の遺伝的影響を強く保持していると推測されてきた、アイヌ集団と琉球集団から間接的に推測されてきました。

 本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800〜3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました(DNA配列の深度のピークは、F5が1倍、F23が48倍です)。DNA解析からF5は男性、F23は女性と推定され、これは形態学的所見と一致します。この船泊縄文人のゲノムデータは世界各地の現代人および古代人と比較され、縄文人の遺伝的特徴がじゅうらいよりもずっと詳細に明らかになりました。

 F5もF23もmtHg-N9b1で、以前の研究と一致します。ただ、両者ともN9b1のサブグループであるN9b1a・N9b1b・N9b1cには分類されませんでした。F5はYHg-D1b2bで、これまで「縄文系」のYHgで詳細に分類できていた個体は全員D1b2aだったので(関連記事)、縄文系としては初めて確認されたD1b2bということになりそうです。いずれにしても、縄文系のYHgでは、現代日本人のYHg-Dにおいて多数派となるD1b1(32.7%、その他のD1bは6.1%)はまだ確認されていないことになります。この問題は最近取り上げましたが(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1が縄文人由来なのか、それとも弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団由来なのか判断するには、日本列島も含めてユーラシア東部の古代DNA研究の進展が必要だと思います。

 F23のゲノムから表現型も推測されています。F23の血液型は、ABO式ではA(AO)、Rh式ではRhD+です。ただ、ABO式血液型のAx02のアレル(対立遺伝子)では、縄文人のAx0201とAx0202は現代日本人も含む他集団では稀です。シャベル状切歯の程度はわずかで、歯冠サイズは中間的と推定され、これまでに報告されてきた縄文人の特徴と一致します。ただ、F23に切歯は残っていないので、じっさいに形態と一致するのか、確認できませんでした。F23の髪は細いと推測されています。F23の耳垢は湿性で、これは縄文人も含むアジア北東部集団において多数派だったと考えられています。F23のアルコール耐性は高く、肌と虹彩の色は中間程度の濃さと推定されています。F23の身長型スコアはやや低く、アジア東部の現代人集団と比較して身長が低い、と示唆されます。これらのF23の特徴は、形態学からしてきされていた、低身長、弥生時代以降の農耕民より小さな歯、現代アジア東部集団と比較しての非シャベル状切歯頻度の高さなどといった縄文人の特徴とよく合致しています。

 F23の色素関連遺伝子(MC1R)の多様体からは、ソバカスや深刻なシミ(日光黒子)の危険性の高さが推測されています。また、F23は心筋症や統合失調症と関連した多様体を有していました。F23がホモ接合型で有している、CPT1A遺伝子の多様体(p.Pro479Leu)はF5でも見られます。CPT1A遺伝子は脂肪酸代謝に必須で、F23の多様体は、ケトン性低血糖症や乳幼児死亡率の高さといった疾患、インシュリン抵抗性の低下、身長や体重など体格の低下と強く関連しています。この多様体は北極圏の先住民集団では70〜90%と高頻度で見られますが、他集団ではほぼ見られません。これは、高脂肪食や寒冷環境への適応と関連しており、脂肪の豊富な海生哺乳類を主要な食資源としていたことを反映しているのではないか、と推測されています。じっさい、同位体分析により、船泊縄文人は陸生および海生動物を食べていた、と推測されています。ただ、この多様体の起源がどの集団にあるのか、また北東部縄文人に共通しているのか、まだ明らかではありません。

 F23は現代人と比較してヘテロ接合性が低く、ホモ接合性が高い、と明らかになりました。これは、F23の遺伝的多様性の低さを示します。しかしF23は、長いホモ接合性領域が近親婚による個体と比較して少なく、直近世代での近親婚はなかっただろう、と推測されています。形態学的類似性と抜歯のような共通習慣から、北海道の最北部と南西部では文化的・遺伝的交流があったと推測されており、近親婚が避けられていた、と考えられます。F23の遺伝的多様性の低さと関連して、船泊縄文人集団系統の人口規模は小さく、次第に有効人口規模が小さくなっていったのではないか、と推測されます。具体的には、7700世代よりも前には20000人、7700世代前には10000人、2500世代前には5000人、100世代前には200人と減少していった、と推定されています。1世代を20〜30年と仮定すると、50000年前頃以降に顕著に有効人口規模が低下していったと推測され、これは現生人類(Homo sapiens)のアフリカから世界各地への拡散に伴う創始者効果と対応しているのでしょう。

 船泊縄文人(F23)は三貫地縄文人(関連記事)と同じく、アフリカ人・ヨーロッパ人・サフルランド(更新世寒冷期に陸続きになっていてたオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島)人・アメリカ大陸先住民よりも、ユーラシア東部集団と遺伝的に密接でした。アジア東部集団との比較では、船泊縄文人は他の現代ユーラシア東部集団とは異なっており、現代日本人は船泊・三貫地・伊川津の縄文人とユーラシア北東部集団との間に位置します。船泊・三貫地・伊川津の縄文人は、他の集団との比較で遺伝的に相互に密接な関係にあります。

 船泊縄文人系統は、パプア系統とユーラシア東部系統が分岐し、次に4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性(関連記事)系統と他のユーラシア東部系統が分岐した後、ユーラシア東部系統とアメリカ大陸先住民系統が36000±15000年前頃に分岐する前に、ユーラシア東部系統と分岐した、と推定されています。ただ、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。漢人と船泊縄文人との分岐は、38000〜18000年前頃と推定されており、この期間に船泊縄文人系統は他のユーラシア東部系統と分岐したのでしょう。なお、アメリカ大陸先住民は、ユーラシア東部系統と田园系統が分岐した後のユーラシア東部系統だけではなく、ヨーロッパ系統と近縁なシベリア南部中央系統(古代ユーラシア北部集団)の強い遺伝的影響を受けています(関連記事)。

 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な地域集団は、現代人ではアムール川下流域のウリチ人(Ulchi)・韓国人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・イゴロット人(Igorot)などのフィリピン人・日本人で、古代人では7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)です。いずれもアジア東部沿岸圏に存在します。船泊縄文人との遺伝的距離では、漢人は日本人・韓国人・台湾先住民よりも遠く、YHgでは船泊縄文人および日本人と密接なチベット人も、ゲノム解析では他のアジア東部集団と比較して、とくに船泊縄文人と近縁というわけではありませんでした。漢人など多くのアジア北東部集団よりも船泊縄文人と遺伝的に近い現代人集団の中では、日本人が最も近く、ウリチ人がそれに続き、その後が韓国人・アミ人・タイヤル人です。

 注目されるのは、F23が他のほとんどのアジア東部集団よりもオーストラリア大陸先住民と多くのハプロタイプを共有していた、と推定されたことです。アマゾンの一部アメリカ大陸先住民集団にはオーストラレシア人の遺伝的影響が指摘されていますが(関連記事)、船泊縄文人とほとんどのアジア東部集団は、このアマゾンの祖先集団とは近縁ではない、と推測されています。この問題は謎めいており、解明には現代人と古代人のゲノムデータのさらなる蓄積が必要となるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と現生人類(Homo sapiens)との交雑はすでによく知られているでしょうが(関連記事)、F23のゲノムへのネアンデルタール人およびデニソワ人の影響は、アメリカ大陸先住民集団やアジア東部集団とほぼ同じです。

 上述のように、船泊縄文人ではmtHg- N9b1とYHg- D1b2bが確認されています。mtHg- N9bとYHg- D1bはいずれもほぼ日本列島にのみ存在し、共通祖先の推定年代は、前者が22000年前頃、後者が19400年前頃です。現代のユーラシア東部集団に遺伝的影響を残していない新石器時代ユーラシア東部集団が日本列島に拡散し、船泊縄文人も含む北部縄文人の祖先になった可能性もありますが、本論文は、北部縄文人を日本列島の更新世集団の子孫という見解を支持しています。

 上述のように、船泊縄文人は、アジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁です。これはゲノムデータだけではなく、mtHgでも同様です。これに関しては、アジア東部沿岸地域への最初の移住集団を共有しているか、縄文人系統が他のアジア東部集団と分岐した後の遺伝子流動が考えられます。上述した日本人とウリチ人の船泊縄文人との遺伝的近縁性の高さと、ウリチ人の祖先集団と考えられる悪魔の門集団と船泊縄文人との遺伝的類似性の低さからも、両者の間の遺伝子流動が支持されています。しかし、韓国人やアミ人やタイヤル人に関しては、どちらの仮説がより妥当なのか、判断は困難で、もっと多くのゲノムデータが必要と本論文は指摘します。

 上述のように、船泊縄文人は漢人よりも日本人やウリチ人や韓国人や台湾先住民といったアジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁なのですが、漢人よりもさらに遠い関係にあるのが、タイなどのアジア南東部集団です。船泊縄文人と漢人やアジア南東部集団との関係について本論文は、(1)未知の集団とアジア南東部祖先集団との交雑、(2)船泊縄文人系統と漢人関連古代集団との間の分岐後の遺伝子流動、(3)船泊縄文人およびアジア北東部大陸集団の共通祖先とアジア南東部集団との分岐後に、古代アジア南東部集団が大陸部アジア北東部集団と交雑した、という可能性を想定しています。本論文は、カンボジア人における遺伝的にヨーロッパ集団ともアジア東部集団とも等距離にある未知のユーラシア集団からの16%ほどの遺伝的影響から、(1)を支持しているものの、その他の2仮説のさらなる検証の必要性も指摘しています。

 現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9〜15%、琉球集団では27%です。

 じゅうらいの諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。これらのシベリア北東部集団は、現代人ではアムール川下流域の集団と近縁と推測されていますが、アイヌ集団の形成過程のより詳細な解明も、アジア北東部の古代DNA研究の進展が必要となります。アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが(関連記事)、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

 本土集団と琉球集団は、先住の縄文人と後に渡来した人々との混合と考えられます。この後に渡来した集団は、おそらく弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した農耕民で、現代人では韓国人や漢人と遺伝的に近縁です。もちろん、現代の韓国人や漢人も歴史的に形成されてきたわけで、紀元前9世紀〜紀元後6世紀にかけて日本列島に到来したアジア東部集団の遺伝的構成が、そのまま現代の韓国人や漢人と同じというわけではありません。本土集団における縄文人の遺伝的影響は高くとも15%程度と本論文では推定されていますが、この数字が独り歩きすることは懸念されます(関連記事)。上述したYHg-D1b1の問題からも、縄文人は均質的でありながらもある程度の地域差があり、本土集団に大きな影響を残しているのは西日本の縄文人とも考えられるからです。現代日本人の起源については、日本列島のみならずユーラシア東部の古代ゲノムデータの蓄積が必要で、日本人の私は今後の研究の進展をたいへん楽しみにしています。


参考文献:
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science.
https://doi.org/10.1537/ase.190415


https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

8. 中川隆[-8842] koaQ7Jey 2019年7月25日 18:48:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3872] 報告
2019年01月24日
近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html


 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)が公表されました。現代アイヌ人(と呼ぶと人間人のような意味となって不自然とも言えるかもしれませんが)の形成に関しては、現代日本人起源論との関連で議論されてきました。現代日本人起源論では、二重構造モデルが有力な仮説として認められてきました。更新世の日本列島最初の人類集団は東南アジア起源で、そこから縄文集団が形成され、弥生時代以降の北東アジアから移住者と在来の縄文集団との融合により現代日本人が形成された、と考えられています。

 これはおもに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」での過程で、沖縄地域と北海道では、縄文集団の遺伝的影響が日本列島「本土」より強く残った、と想定されています。その結果、沖縄でも北海道でも日本列島「本土」とは大きく異なる文化集団が形成されました。これは北海道ではとくに顕著で、日本列島「本土」集団たる「日本人(もしくはヤマト人)」とは言語も含めて文化の大きく異なるアイヌ人が形成された、との理解が一般的です。アイヌ人と日本人とは異なる民族と考えるのが妥当でしょう。文化的観点では、アイヌ的な文化はおおむね紀元後13世紀に確立した、と一般的に考えられています。

 二重構造モデルでは当初、とくに北海道では、前近代において縄文集団の子孫と他地域集団との遺伝的混合はほとんどなかった、と想定されていました。しかし、その後の形態学および遺伝学的研究では、オホーツク文化集団がアイヌ集団の形成に影響を及ぼした、と推測されています。オホーツク文化集団はユーラシア北東部から拡散してきたと考えられており、紀元後5〜13世紀に北海道北部および北東部沿岸やサハリン南部に存在していましたが、北海道では本州の影響を受けた擦文文化の拡散に伴い急速に衰退し、10世紀初めまでにはほとんど消滅しました。オホーツク文化は擦文文化の影響を受けてトビニタイ文化へと変容し、13世紀に始まるアイヌ時代まで続きます。オホーツク文化集団の遺伝的影響とは、具体的には、北海道縄文集団には見られないmtDNAハプログループA・C・Yで、これらはオホーツク文化集団と現代のシベリア先住民集団に見られます。

 これまでのアイヌ人に関する遺伝研究の問題点は、現代人のDNAのみが解析されていることです。そのため、前近代の日本列島「本土」集団(以下、本土集団と省略)からの遺伝的影響の評価はできませんでした。また、これまでの研究の問題点として、対象地域が限定的もしくは不明であることが挙げられます。ほとんどの研究は北海道の平取町の51人の遺伝的データに基づいています。近世アイヌのDNA研究もありますが、標本の地域は明らかにされていません。そのため、これまでの研究ではアイヌ集団の遺伝的地域差の評価ができませんでした。本論文は、北海道全域のアイヌ集団の遺骸からmtDNAを解析しました。全標本の年代は江戸時代(近世)に収まり、通説では、本土集団の大規模な遺伝的影響は報告されておらず、本土集団のアイヌ集団への強い遺伝的影響は、明治時代以降の「開拓」に始まる、と想定されていました。

 本論文は、近世アイヌ集団115標本のうち94標本の配列に成功しました。江本論文は、近世アイヌ集団で観察されたハプログループの地域差を明らかにするために、次の4タイプに分類しました。それは、北海道縄文型(北海道縄文集団で見られるハプログループ)、オホーツク型(オホーツク文化集団に見られ、北海道縄文集団には存在しないハプログループ)、本土型(北海道縄文人とオホーツク文化人には存在せず、現代の本土日本人には現代のシベリア先住民集団よりも高い頻度で見られるハプログループ)、シベリア型(北海道縄文集団とオホーツク文化集団には存在せず、現代の本土日本人よりも高い頻度で現代のシベリア先住民集団に見られるハプログループ)です。

 mtDNAでも、北海道縄文集団と近世アイヌ集団との遺伝的連続性が確認されました。北海道縄文集団の中で最も高頻度のハプログループN9b1は、近世アイヌ集団でも比較的高頻度で見られます。Y染色体DNAでも、この連続性が確認されています。北海道縄文集団と近世アイヌ集団との違いは、北海道縄文集団に見られるmtDNAハプログループN9b4・N9b*・D4h2・M7aが近世アイヌ集団には確認されていない一方で、北海道縄文集団では確認されていない19のハプログループが近世アイヌ集団には見られることです。

 本論文は、この違いが何に起因するのか検証するため、近世アイヌ集団と、東アジアとシベリアの古代および現代の14集団を比較しました。以前の研究では、アイヌ人は北海道縄文集団とオホーツク文化集団を含むアムール川下流域集団との中間に位置します。これは、アイヌ人が北海道縄文集団とオホーツク文化集団との混合により成立した、との見解を支持します。しかし、近世アイヌ集団に見られるmtDNAハプログループの中には、M7a1などのように、北海道縄文集団にもオホーツク文化集団にも見られないものがあります。これは、北海道縄文集団とオホーツク文化集団以外にも、アイヌ人の遺伝的集団が存在することを示唆します。本論文は、本土集団とシベリア先住民集団も近世アイヌ集団に遺伝的影響を及ぼしている、と明らかにしました。

 近世アイヌ集団における各集団のタイプのmtDNAハプログループの割合は、オホーツク型で35.1%、北海道縄文型で30.9%、本土型で28.1%、シベリア型で7.3%となります。オホーツク型の割合の高さも注目されますが、何よりも注目されるのはオホーツク型・北海道縄文型とさほど変わらない本土型の割合で、前近代においてすでに、アイヌ集団と本土集団との混合がかなり進展していた、と示唆されます。シベリア型の存在は、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していたことを示唆します。

 北海道の近世アイヌ集団を南西と北東で区切ると、北海道型・オホーツク型・本土型・シベリア型の比率には、顕著な地域差が見られました。たとえば、北海道型の比率は北東アイヌ集団の方が高い一方で、本土型の比率は南西アイヌ集団の方が高くなっています。これについては地理的要因が考えられ、形態学的研究とも一致します。オホーツク型とシベリア型の比率に関しては、近世アイヌの両集団間で大きな差はありません。したがって、オホーツク文化集団の遺伝的影響は北海道全域の祖型アイヌ集団に急速に拡散した、と考えられます。

 このように、近世アイヌ集団は複数の起源集団を有しているわけて、アイヌ人もまた「交雑する人類」の例外ではなかったわけです(関連記事)。ただ、例外も報告されているとはいえ(関連記事)、mtDNAは基本的に母系遺伝です。そのため、mtDNAに基づく集団の歴史の解釈には慎重でなければならない、と本論文は指摘します。近世アイヌ集団における、各地域集団の遺伝的影響の比率やその歴史的経緯に関しては、やはり中世と古代までさかのぼって核DNAを解析し、周辺の各集団と比較していかねば、詳細は分からないのでしょう。今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338


https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html

9. 中川隆[-8851] koaQ7Jey 2019年7月28日 18:35:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3868] 報告
アイヌ民族の復興を 松浦武四郎を記念して

 松浦武四郎は1818年、今から、ちょうど200年前、松阪市に近い、一志郡須川村の郷士、松浦家に生まれた。
 先祖は、平戸の松浦一族であり、中世に伊勢国に移住したことになっている。

 実家の一志須川(松阪市小野江町)は、伊勢宮街道沿いであり、松浦武四郎記念館から徒歩数分の位置にある。
 私は、大台ヶ原の歴史を調べるなかで、松浦武四郎という偉大な存在に触れて、何度も通った。近くには、幕末から近世現代に導いたといわれる本居宣長の居宅もある。
 http://tokaiama.minim.ne.jp/tokaiama/oma-3.htm

 武四郎が、生涯を旅に明け暮れた理由も、おそらく全国から伊勢参りの参拝者が押し寄せてくる土地であり、自らのルーツも長崎県にあることを知り、広く全国に開かれた情報の大量に錯綜するなかで、自分の目で世界の真実を確かめようとしたのであろう。

 武四郎の功績は多岐にわたるが、不滅の業績といわれるものが、樺太や択捉島にまで及んだ北海道探索の情報公開である。
 武四郎は、信義に厚い優しい性格で、北海道に渡っても、決してアイヌを見下したりせず、兄弟のように接し、アイヌの利益を擁護しようとした。
 http://www.pref.mie.lg.jp/DOKYOC/HP/20454021135.htm

 武四郎は、寝食を共にしながらアイヌ人の協力を得て、まだ未開だった、道内の地図を作成するために全道に分け入った。

 六回に渡って渡航し、アイヌの生活、民俗、地誌を記録し、紀行文にして出版した。
 数十年間にわたる北海道探検のなかで、武四郎は、松前藩による植民地政策、アイヌ人の奴隷的使役に対して激しく憤っていた。

 内地人は、アイヌを「土人」と見下し、彼らの土地を強奪し、奴隷として使役した。
 松前藩による「場所請負制度」と,江戸幕府による「撫育同化政策」が、どれほどアイヌの人権を侵害し、苦しめているかを広く訴えようとした。

 北海道では寒冷な気候から米が育ちにくかったが、海産物が豊富であったため松前藩は当初アイヌの人びととの交易を松前城下で独占的に行っていた。

 やがて,松前藩はアイヌの人びとの自由な交易を制限し,蝦夷地の海岸線に交易をする場(商場)を設けていった。

 そして、家臣に「商場」を知行地として与え、商場を与えられた家臣は現地のアイヌの人びとと交易をおこない、交易品を本州の商人などと取引をして利益を得ていた。

 この「場所請負制度」により、商人は利益を増すためにアイヌ民族を労働力として確保するために自由な移動や結婚を禁じ、強制的に酷使する奴隷的な扱いをするようになった。

 一方、幕府の「撫育同化政策」は、独自の文化を持つアイヌ民族に対し、本州と同じような暮らしを強要するものだった。

 幕府はロシアの南下政策に対して、蝦夷地は日本の領土であることを主張し、文化の異なるアイヌ民族を、日本人として見せかけるための文化を強要したのである。

 武四郎は,アイヌ民族は独自の文化を持っていて、尊重されるべきことや、アイヌ文化への正しい理解を求めて、幕府へ切実に訴えている。

 大久保利通は、松浦武四郎の活動を高く評価し、北海道開拓庁が設立されると、開拓判官という上級役職に推薦したが、明治政府の姿勢も、松前藩と変わらぬアイヌへの見下し、人権軽視と利用主義が見られることに激怒し、職を去って故郷に帰った。

 アイヌ民族が確認されたのは中世以降で、その居住範囲は、千島列島全域、樺太、北海道全域、青森県・岩手県・秋田県の一部を含むが、歴史文献によれば、「蝦夷毛人」の国として、新潟県や長野県の内陸部も含まれている。

 日本列島に最初に登場したのは、10000年も前のことで、縄文人の一角をなしている明確な日本先住民である。おそらく南方の海洋族が黒潮に乗って、琉球列島を経て北上したのではと推理されている。琉球古代人とアイヌ古代人は、同じ遺伝的先祖を持っている。

 したがって、日本列島には、地名や民俗など、アイヌ文化=縄文文化が広く浸透していて、地名でもアイヌ語が極めて多い。
 関東以北で、語尾にナイ(小河川) ベツ(大川)がつく地名は大半がアイヌ語である。マッカリという地名も「奥で曲がる川」という意味を持つので、飛騨白川村にまで及んでいることになる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E

 つまり、アイヌ民族は、明確に日本先住民であり、異民族ではなく、我々の先祖でもある。

 私事で恐縮だが、私は、瞳の色が澄んだ鳶色で、ずいぶん他人と異なる。自分が他人と違うことで、ルーツを調べてゆくと、母方の祖先が、新潟で北前船交易を主宰していたことが分かった。

 これは渡島半島で採れた昆布を、新潟・下関・瀬戸内経由で大阪まで運んだ交易船である。船員たちは、渡島のアイヌ女性に子を産ませることが多かったと記録されている。

 ということは、私の血筋にアイヌの血が含まれていても何の不思議もない。
 またアイヌも古くからロシア人との交易の歴史があったので、ロシアの血も入っているかもしれない。

 縄文人=アイヌ人の民族学的特徴として、

@目鼻立ちが大きい A毛深い B手足が長い C二重瞼 D水耳垢 E感受性が強い F足指が長い

 などがある。このうち毛深いのと手足が長い以外は、全部当てはまるので、自分がアイヌの血を引いていることを確信するようになった。


 これが、秦氏のような高句麗女真族は、寒冷刺激を受けたツングース族の特徴を持っていて、

@のっぺりした顔立ち A一重瞼 B乾燥耳垢 C感情の抑制力が強い D騎馬文化を持つ 

などの特徴があり、南方の海洋族が北に移住してきたアイヌ民族とは本質的に異なる。

 日本は多民族国家である。アイヌはじめ、高句麗ツングース、中国蘇州由来の弥生人など、たくさんの民族が交雑して成立している。

 中曽根康弘が、1986年に「日本は単一民族国家」と発言して、国際的な問題に発展した。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E7%9A%84%E6%B0%B4%E6%BA%96%E7%99%BA%E8%A8%80

 中曽根は、日本にアイヌ民族という先住民が居住していることさえ知らなかったのである。

 中曽根の先祖は、群馬足利氏=北条氏と思われるが、彼らが高句麗・百済から渡来して日本人になったことも知らなかったのだろう。

 松浦武四郎の時代、松前藩も明治新政府もアイヌを「土人」と蔑称し、彼らの先祖代々の土地を強奪し、現在の王子製紙などに売り飛ばした。
 アイヌの聖地中の聖地、平取の二風谷は、勝手に売り飛ばされ、ダムの底に沈んだ。アイヌの先祖を奉った墓地から北大や京大の学者が無断で骨を持ち出し、今だに完全な返却も、まともな謝罪もしていない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E9%AA%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 アイヌの人口推移
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-820.html


200年前、アイヌ人は、北海道人口の84%を占めていた。ところが、1993年には、わずか0.4%にも落ちている。

 これは、どれほどアイヌ人が、人間扱いをされず、民族としての継承を弾圧されていたかの反映である。

 我々は、アイヌ民族の復活を要求し、民族としての独自の発展を保証するべきだと考える。

 オホーツク一帯に数十万人の文化圏を構築していたアイヌ民族は、1855年、ロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定し編入した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。

 2018年12月、ロシアのプーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した。
 これは、ロシアが千島北方領土を完全に自国領に編入するための手続きではあるが、こんなことになったのも、日本政府が、アイヌ民族の人権を軽視し、土人扱いして彼らの先祖代々の土地を奪うことしかしてこなかったせいである。

 これから必要なことは、日本人の多くに、私のようにアイヌの血が含まれている事実を国際的に明らかにすることであろう。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-820.html

10. 中川隆[-8793] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:25:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3949] 報告

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

11. 中川隆[-8483] koaQ7Jey 2019年9月09日 07:51:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4294] 報告
2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

 恥ずかしながら、3ヶ月近く前(2019年6月19日)に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂していた、と先週(2019年9月第2週)知りました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派のYHg- D1b1がD1a2aに変更されています。「縄文人」で確認されているD1b2はD1a2bに変更されています。なお「縄文人」では、現代日本人で多数派のD1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。これは、現代日本人のD1a2aが弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。もちろん、現時点では東日本の「縄文人」でしかYHgは確認されていないので、今後西日本の「縄文人」でD1a2aが確認される可能性は低くないでしょう。しかし現時点では、現代日本人のD1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。

 このように変更された理由は、今年6月10日に公開された研究(Haber et al., 2019B)で、じゅうらいはYHg-DE*とされていたナイジェリア人の系統が、YHg-D0と新たに分類されたためだと思います。新たに提唱された分類名なので、既存の分類名を優先して整合的な分類とするため、D0と提唱された系統はD2にされたのだと思います。この研究は、じゅうらいのYHg-Dの名称を変更せずにすむように、D0という分類名を提案したので、そのままにしておけばよいのではないか、とも思うのですが、門外漢の私が的外れなことを言っているだけかもしれませんので、抗議するつもりも、否定してじゅうらいの分類名を使い続けるつもりもありません。


参考文献:
Haber M. et al.(2019B): A Rare Deep-Rooting D0 African Y-Chromosomal Haplogroup and Its Implications for the Expansion of Modern Humans out of Africa. Genetics, 212, 4, 1241-1248.
https://doi.org/10.1534/genetics.119.302368

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

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日本人のガラパゴス的民族性の起源 Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 mtDNAハプロタイプ 2019年5月取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 2018/10/18 日本人の源流考 v1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

12. 中川隆[-11056] koaQ7Jey 2019年10月04日 07:02:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1767] 報告

Ishii_nobutake氏によるアイヌヘイトツイート

Ishii_nobutake氏によるアイヌヘイトツイートが一部で噴出している。アイヌについても学んでいる私としても看過できない問題である。専門分野の方へのFACTチェック用も兼ねて、まとめサイトを作成してみた。
https://togetter.com/li/1355366

nobutake_Ishii‏ @nobutake_Ishii
これは擦文人との関係ではなくオホーツク文化人のハプログループY遺伝子を引き継いでいるという記事です。つまりオホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明。すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されているのでアイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね。
3:58 - 2019年10月2日
https://twitter.com/nobutake_Ishii/status/1179349880860549121


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2019年10月03日
オホーツク文化人のハプログループY遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html


 一定以上の有名人の発言でも、イランは「広義のアラブ」というような、どうにも拡散・定着しそうにない馬鹿げたものを揶揄するように取り上げる(関連記事)のは時間の浪費だと考え、当ブログでわざわざ言及することはやめよう、と最近では心がけています。しかし、現代日本社会において、一定以上の比率で存在するだろう特定の政治的志向の人々の間でもてはやされ、定着しかねない与太話に関しては取り上げる価値があると考えているので、Y染色体について検索していて見かけた、以下に引用する表題の発言について私見を述べます。


___

Ishii_nobutake
これは擦文人との関係ではなくオホーツク文化人のハプログループY遺伝子を引き継いでいるという記事です。つまりオホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明。すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されているのでアイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね。

___

 まず、「ハプログループY遺伝子」という用語からして不適切です。ハプログループとは、類似したハプロタイプの集団のことです。ハプロタイプとは、両親からヒトのような二倍体生物では、単一の染色体上のアレル(対立遺伝子)の組み合わせです。ハプログループとは特定の遺伝子のことではなく、ハプログループの分類名の後に遺伝子をつけるような用語は不適切です。

 次に、上記発言は、2009年の北海道新聞の記事を引用したブログ記事


オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー
http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html


に基づいており、そこでもすでに「Y遺伝子」とありますが、これはおそらく、紀元後7〜13世紀のオホーツク文化集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)を解析し、そのハプログループ(mtHg)を決定した研究(Sato et al., 2009)

Mitochondrial DNA haplogrouping of the Okhotsk people based on analysis of ancient DNA: an intermediate of gene flow from the continental Sakhalin people to the Ainu
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase/117/3/117_081202/_article


に基づいていると思います。この研究は、北海道「縄文人」にはmtHg-Yが見られないのに対して、現代アイヌ集団には20%弱存在することから、現代アイヌ集団は北海道の続縄文時代および擦文時代の集団とオホーツク文化集団との混合により形成された、と推測しています。つまり、「オホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明」となる研究ではありません。上記発言では「すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されている」とありますが、それがこの研究を指しています。

 おそらく上記の発言主は、「ハプログループY遺伝子」とあるので、Y染色体ハプログループ(YHg)についての研究だと誤認したのでしょう。ちなみに、現時点でもYHgの分類名でまだYは割り当てられていません。率直に言って、この程度の認識で「アイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね」と発言するのは、たいへん恥ずかしいことだと思います。


以前当ブログでもこの問題を取り上げましたが

(関連記事)アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html


実は5年近く前(2014年11月18日)に、的場光昭氏でさえ、

「アイヌ民族の特徴であるY遺伝子がない。」は、体細胞核にあるY染色体と混同される恐れがあるので、誤解を招きます。
ミトコンドリアDNAのハプログループYと訂正お願いします。

と懸念を表明していたくらいでした。上記発言は、的場氏の懸念が杞憂ではなかったことを証明してしまいました。率直に言って、アカウントを削除してもおかしくないくらいの失態だと思うのですが、こういう発言をする人は多くがふてぶてしいので、今後もアイヌ問題関連で遺伝学的研究を都合よく理解して、というか誤認して恥ずかしい発言を続けるのでしょう。なお、検索してみたところ、すでに北海道新聞の記事で「ハプログループY遺伝子」となっており、上記のブログ記事や発言主にも多少は同情の余地があるかもしれませんが、遺伝学的観点からアイヌの由来を語っているわけですから、やはりアカウント削除級の恥ずかしい間違いとの私見は変わりません。


参考文献:
Sato T. et al.(2019): Mitochondrial DNA haplogrouping of the Okhotsk people based on analysis of ancient DNA: an intermediate of gene flow from the continental Sakhalin people to the Ainu. Anthropological Science, 117, 3, 171–180.
https://doi.org/10.1537/ase.081202

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html

13. 中川隆[-11055] koaQ7Jey 2019年10月04日 07:31:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1768] 報告

アイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ

D2 80%: 縄文系
D2a1 5%: 縄文系
C3c 15%: オホーツク文化人系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-1.htm

14. 中川隆[-10732] koaQ7Jey 2019年10月18日 22:09:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2122] 報告



2016年2月18日
的場光昭『アイヌ民族って本当にいるの?』を批判的に読む
引用文とその解釈に注意して読んでみましょう。



的場光昭著『アイヌ民族って本当にいるの?』とは?

著者は「アイヌ民族否定論」の理論的な柱の一人である。この本は『アイヌ先住民族、その不都合な真実20』の続編であり,金子やすゆき札幌市議(当時)が市議会での差別的な発言によって議員辞職を勧告されたことに対する緊急出版であるとのこと。

以下のツイートは,「アイヌ民族は北海道の縄文人の子孫ではない」とするために的場氏が著書のなかでDNAによる分子人類学の結果を用いて議論している箇所に対する批判である。


忽然朔風 @kotnei 的場著『アイヌ民族って本当にいるの?』のトリックを図で示した。pp.60-61に篠田著『日本人になった祖先たち』を引用したあとで、その内容に含まれない独自の解釈を、そうとはわからないように付け足しているのだ。 pic.twitter.com/yyOG1wLmYF


2016-02-17 21:30:51
忽然朔風 @kotnei @kotnei 分子人類学のバックグラウンドがない人がこれを読むと、DNA解析によって「アイヌはオホーツク文化人を滅ぼしました」ということが判明したように誘導されてしまう。こんなことは原典(篠田説)には全く書かれていない。


2016-02-17 21:37:02
ふにくり @hunikura1 分子人類学の下地がなくても論理的飛躍があるのがわかる・_・ twitter.com/kotnei/status/…


2016-02-17 21:45:11
忽然朔風 @kotnei @kotnei 原典をよく読むと「オホーツク文化人は忽然と姿を消しましたが」とだけしか書いていないのに、これが的場の解釈で「アイヌはオホーツク文化人を滅ぼし」たことに捻じ曲げられてしまっているのに気づくだろう。北海道からを姿を消した理由まではDNAには書かれていない。


2016-02-17 21:47:46
忽然朔風 @kotnei @kotnei 次のページも同様のトリック。篠田説を紹介したすぐ後に自説で上書きしている。本来の主張、アイヌに縄文人の祖先ではない(人がいる)というカッコの中を意図的に言及していない。 pic.twitter.com/buyG2vBEEr


2016-02-17 22:06:05
忽然朔風 @kotnei @kotnei DNAの研究は近年とても進んでいるので、できるだけ新しい書物を読んだ方が良い。篠田先生の『DNAで語る日本人起源論』(岩波現代全書)をぜひ参照してほしい。p.167の図8-6に現在考えられるシナリオが図示されている。 pic.twitter.com/33t1ly7WI8


2016-02-17 22:09:53
j_ou no @repunkuratuy そしていちばん的場の言説がイタいのは、異民族に支配されると、男は皆殺しにされて子孫が残せず、女だけが子孫を残す、という、アホみたいな妄想をなんの根拠もなく繰り返してるところ。異民族支配への何か肥大した妄想があるんだよね。 twitter.com/kotnei/status/…


2016-02-17 22:11:49
忽然朔風 @kotnei @kotnei これを見ると、ハプログループN9bを持つ人は、縄文時代から近世アイヌ、現代アイヌに至るまで連続して存在することがわかるだろう。的場説は全く成立する余地がない。


2016-02-17 22:22:19
忽然朔風 @kotnei @kotnei この本『アイヌ民族って本当にいるの?』の他のページの記述については、別の人が批判してくれるだろう。少なくとも、DNAに関する話にはこれだけの意図的な歪曲を混ぜ込んたものを「科学的証拠」と称している。医師が偽科学に加担するのは倫理的にいかがなものか。


2016-02-17 22:28:39
KotanX @AinuIpetam2 文脈より、的場は故意にアイヌ其のもの、歴史、考古学をも捻じ曲げ、アイヌ差別の正当化、歴史修正を図る為に此の様な悪意に満ちた、嘘と妄想の著書をリリースしたのが伺える
#日本会議と在特会 twitter.com/kotnei/status/…


2016-02-17 22:32:09
丹菊逸治 @itangiku こういうデマ本などを研究者が放置すればアイヌ民族は遺伝子研究、自然人類学に一切協力しなくなるだろう。これまでもそういう傾向はあったが今後は完全に不可能になるだろう。>連続RT


2016-02-17 23:16:43
matu @matu6809 この話題については何も知らないのだけど、画像で示されている部分を見て、どこが引用か判りづらい書き方だと思った。普通は何文字か下げるだろう。気の効いた本なら線で囲ってあったりする。あと、引用元のページ数を括弧内に示したり、注にしたり。 twitter.com/kotnei/status/…


2016-02-18 00:14:01
忽然朔風 @kotnei この図は,T. Jinam et al. J. Human. Gen. 57, 787 (2012)という論文で提案されているアイヌ,本土日本人,琉球人の成立過程を表したものです。横軸が時間,縦軸が集団間の影響を表します。 pic.twitter.com/K5sE4SyIB2


2016-02-18 09:00:12
忽然朔風 @kotnei @kotnei しかし的場は学術的な結果を曲解して,アイヌが和人の一種である(つまり(先住民族はない)という結論に結び付けようとしています。そのトリックを赤字で示しました。 pic.twitter.com/NJ2ZYmjkGl


2016-02-18 09:02:08
忽然朔風 @kotnei @kotnei 学問上の論争であれば,それが所定の手順に従っている限りどのような意見を言おうとも自由です。しかし,このように,政治的な主張(アイヌは先住民族ではない)という結論に誘導するために学術的な成果の一部だけを恣意的に利用するのは許されません。


2016-02-18 09:08:54
追記1
岡和田晃_新刊「ナイトランド・クォータリー」Vol.18 @orionaveugle @kotnei お疲れ様でした。『アイヌ民族否定論に抗する』内でのほかに、市民講座でも東條慎生さんが的場光昭本の批判をやってくださっておりますので、こちらもまとめに加えていただけましたらありがたいです。d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall…




追記2
忽然朔風 @kotnei 引用に注目する。「当たり前ですが現代アイヌとよく似ています。…一つの遺跡で分析しているので少し問題がありますが、N9bというタイプが非常に多くあり、…おそらく本土日本人の影響を受けているのだと思いますが、そういう形になっています。」 pic.twitter.com/7bmqdIv1Bu


2016-02-28 16:32:36
忽然朔風 @kotnei @kotnei この文章をいくら「要約」しても、「アイヌは北海道の縄文人の子孫ではない。」という結論はでてきません。そのことを、引用元の『縄文人はどこからきたか』の該当部分を見て考えていきます。 pic.twitter.com/VkicoQCDhh


2016-02-28 16:40:19
忽然朔風 @kotnei @kotnei 引用された部分のすぐあとに「縄文人にはN9bが非常にたくさんありますが」と書かれていて、N9bを縄文人の特徴としてとらえていることがわかります。一方、的場説では「和人に一般的なN9bというDNAが江戸時代のアイヌに入っていた」と、これを和人の特徴としています。


2016-02-28 16:48:25
忽然朔風 @kotnei @kotnei 的場本の引用のしかたをよくみると、「…」として省略している部分があることがわかるでしょう。原文には「M7aは3〜4%です。Gタイプも当然両方に出ていて、現在になるとDが少し多くなります。」という説明が入っていました。もう、的場が使ったトリックが分かったと思います。


2016-02-28 16:51:39
忽然朔風 @kotnei @kotnei 原文では、N9b,M7a,G,Dの分布の特徴について「おそらく本土日本人の影響を受け」たと分析していたのに対して、的場は意図的にその一部を引用せず、N9bを「和人に一般的」であることに文意を曲げ、それを根拠に縄文人とアイヌの間の連続性を否定したのです。


コメント


自由アイヌ協会 @aynuitak_jiji 2016年2月25日
もう今日から君も騙されない!痛い病院の的場君のペテンの手口を懇切丁寧に解説。


自由アイヌ協会 @aynuitak_jiji 2016年2月28日
的場の名はもはや捏造の代名詞。ネトウヨの聖典を暴く第三弾。



喜喜快快 @dragoon_3 2016年3月13日
僕大学生時代に卒論書きましたが、引用するときはページまできちんと書けと言われてました。的場ってどういう教育を受けてたんですか。授業さぼってばかりいたんでしょうか。
https://togetter.com/li/939720

15. 中川隆[-10731] koaQ7Jey 2019年10月18日 22:12:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2123] 報告
的場 光昭(まとば みつあき、1954年(昭和29年)6月19日 - )は、日本の医師。医療法人健光会理事長。


1954年(昭和29年)6月19日 北海道上川郡愛別町字中央に、父 孝(たかし)・母 文子(ふみこ)の三男として生まれる。

地元の愛別町立中里小学校 - 愛別町立愛別中学校 - 北海道旭川東高等学校を経て、北海道大学経済学部3年[要出典]中退、旭川医科大学卒業。

日本麻酔学会指導医[要出典](後に専門医、60歳で返上)。
日本ペインクリニック学会専門医。

西部邁事務所『発言者』・月刊誌『正論』などに主として保守的立場から原稿を寄せている。

2008年(平成20年)6月、衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択されると、歴史を全く無視した暴挙であるとしてこれに反発し月刊誌『正論』に投稿を寄せている。

また北海道各地に自治体を巻き込んで建設が予定された朝鮮人強制連行碑≠ノついて、その推進母体が朝鮮総聯・韓国政府・アイヌ団体・共産党・革マルなどの過激派集団であることを暴き次々に建設中止や撤去に追い込んだと主張している[要出典]。

美瑛町で行われた慰霊祭については、法医学的見地から発掘された墓穴が偽物で人骨までもが捏造だったことを暴いたとしている。その結果この慰霊祭を大々的に報じた北海道新聞旭川支社長は指定席であったにもかかわらず取締役になることができなかったと述べている。

また猿払村に建てられた慰霊碑を撤去させたことに対するニューヨークタイムズ記事『Pressure in Japan to Forget Sins of War 2014.10.29(戦争の罪を忘れさせようとする日本国内の圧力)』に対しても、記事が安倍政権を貶めるために事実と全く逆のことが書かれて世界に配信されたとして抗議し、その抗議文は日本女性の会「そよ風」≠ノよって英訳され本社に届けられて、結局マーチン・ファクラーは東京支局長を辞めざるを得なくなったとしている。北海道新聞やニューヨークタイムズとのやり取りは著書『反日石碑テロとの闘い』(展転社、2015年)に詳しく収録されている。

投稿

規制撤廃が侵す日本国民の健康と農業 - 『発言者』Vol.108(2003年4月)
アイヌ先住民族決議の背後にある日本悪しかれ史観の嘘(西村慎吾との共著) - 『正論』(2008年8月)
ムネオ氏にモノ申す 北海道開拓民の魂を売るなかれ - 『正論』(2008年10月)
「単一民族」否定論の押しつけに異議あり - 『正論』(2008年12月)
天皇謝罪を求めたアイヌ先住権運動の暴走 - 『正論』(2009年9月)[2]
法治を歪める国家賠償の暴走 - 『正論』(2012年1月)[3]
奇々怪々 北の大地に建つ売国の碑 - 『正論』(2013年4月)[4]
朝鮮人「人骨」騒動の呆れた顛末- 『正論』(2013年11月)[5]
反日勢力がガン首揃える北海道「石碑テロ」を許すな - 『正論』(2014年3月)

他、地元紙『北の発言』、『北海道経済』などに多数寄稿。

著書

「アイヌ先住民族」その真実(展転社、2009年)ISBN 978-4886563392
自殺するのがアホらしくなる本(展転社、2011年)ISBN 978-4886563606
アイヌ先住民族、その不都合な真実20(展転社、2012年)ISBN 978-4886563729
アイヌ民族って本当にいるの?―金子札幌市議、「アイヌ、いない」発言の真実(展転社、2014年)ISBN 978-4886564108
改訂増補版 アイヌ先住民族、その不都合な真実20(展転社、2014年)
反日石碑テロとの闘い(展転社、2015年)ISBN 978-4886564139
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E5%A0%B4%E5%85%89%E6%98%AD

16. 中川隆[-10730] koaQ7Jey 2019年10月18日 22:14:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2124] 報告

的場光昭 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%9A%84%E5%A0%B4%E5%85%89%E6%98%AD

amazon.co.jp 的場 光昭 本
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E7%9A%84%E5%A0%B4-%E5%85%89%E6%98%AD/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E7%9A%84%E5%A0%B4+%E5%85%89%E6%98%AD

17. 中川隆[-10705] koaQ7Jey 2019年10月19日 21:01:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2151] 報告

アイヌ新法の何が画期的なのか?〜「アイヌ否定」歴史修正主義の終えん。平成の最後にアイヌ復権への第一歩
古谷経衡 4/29
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/



アイヌの民族文様(ペイレスイメージズ/アフロ)


1】法律に初めてアイヌの先住性を明記

アイヌの伝統的狩猟対象である鮭(photAC)


 4月19日、「アイヌ新法」が参議院で可決、成立した。この新法のもっとも画期的な部分は、我が国の法律史上、はじめてアイヌを「先住民族」と規定したことにある。ではこれまでの国のアイヌ民族の先住性に対する考え方はどのようなものであったのか。

 1997年(平成9年)、「北海道旧土人保護法」が廃止され、代わりに同年施行された「アイヌ文化の振興並びにアイヌ民族の伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(旧アイヌ法)では、アイヌを初めて「民族」と認めたことが画期的であったが、アイヌの先住性までは言及されなかった。

 これに先立つこと1995年、村山富市内閣は内閣官房長官の私的諮問機関として「ウタリ(アイヌ語で”同胞”の意)対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置し、1996年には同懇親会から「中世末期以降の歴史の中で見ると、アイヌの人びとは当時の”和人”との関係において北海道に先住していたことは否定できない」等の報告書が提出された。

 また旧アイヌ法の制定を受け、衆議院と参議院内閣委員会では、「アイヌの人びとの『先住性』は、歴史的事実であり、この事実も含め、アイヌの伝統等に関する知識の普及並びに啓発の推進につとめること」とする付帯決議が盛り込まれている。また2008年には衆参両院本会議は、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択した。

 しかしながら、このような国のアイヌ文化振興への取り組みのなかでも、アイヌ民族の先住性が法律に書き込まれたことは一度もなかった。

 日本は単一民族国家ではなく、アイヌがかつて現在の東北からサハリン、千島などにかけて広範に先住していたことは自明であったが、法律に「先住民族」を明記したことは、上記のような経緯からアイヌにとっても悲願であり、また先住民族の権利擁護や文化復権を求める国際的な潮流にようやく日本が追いついたことの証左であり、重ねて画期的といえる。

2】歴史修正主義者たちから沸き上がったアイヌ否定論

”デマ”のイメージ(pfotoAC)
”デマ”のイメージ(pfotoAC)

 しかし、このようなアイヌに対する「先住性」「民族性」を真っ向から否定する歴史修正主義の動きが、2008年ごろから沸き起こる。これがいわゆる「アイヌ否定論」であり、この論の骨子は、1)「アイヌ民族は存在しない」、2)「アイヌ民族は先住民族ではない」という何ら歴史学的根拠に基づかないトンデモな主張であった。

 この「アイヌ否定論」の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのり氏である。小林氏は漫画という媒体を用いて、「アイヌ否定論」をぶちあげた。小林氏は取材の中でアイヌ文化研究家の河野本道氏なる人物と知己となり、河野氏の「アイヌ否定」説に全面的に依拠して、「アイヌなどいない」「アイヌは先住民族ではない」という、歴史学会では歯牙にもかけられていない「珍説」を紙面上で訴え続けた。

 この小林氏の珍説に明らかに影響されたとみられるのが、北海道札幌市議会議員(当時)であった金子快之(やすゆき)氏である。金子氏は2014年8月11日、自身のツイッター上で「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいがアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不条理。納税者に説明できません」とつぶやき、一斉に非難を浴びた。

 金子氏は2014年9月、このツイッター上での差別発言を理由に、所属していた自民党札幌支部連合会を除名され、市議会が辞職勧告決議を出したが辞職しないまま、2015年4月12日投開票の札幌市議会議員選挙(15年統一地方選挙)で落選した。

 ところが金子氏は、つい先般行われた2019年4月24日投開票の渋谷区議会議員選挙(19年統一地方選挙)で政治団体「NHKから国民を守る党」から出馬し、当選して議員に返り咲いている。

3】アイヌ否定から沖縄ヘイトへ

 もう一例は北海道議会議員(当時)であった小野寺秀(まさる)氏である。小野寺氏は、アイヌの先住性に疑問を投げかける見解を2014年に道議会で提起した。当時の紙面から抜粋する。

北海道議会の最大会派「自民党・道民会議」の小野寺秀(まさる)議員(51)=帯広市選出=が11日の道議会決算特別委員会で、「アイヌが先住民族かどうかには非常に疑念がある。グレーのまま政策が進んでいることに危機感を持っている」と発言した。(中略)毎日新聞の取材に小野寺氏は「アイヌ民族の存在は否定しないが、北海道と本州の間は昔から多くの人が往来している。北海道がアイヌだけの島だったことは誰も証明できない」と主張。決算委では「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない。そういう自虐的な歴史を北海道で植え付けるのはいかがなものか」とも述べた。

出典:毎日新聞(2014.11.12)、強調筆者

 小野寺氏は、自民党の議員でありながら、すでに述べた通り、2008年に衆参両院本会議で、アイヌ民族を先住民族と認定することを求める決議を全会一致で採択したことを無視する意見を公に表明したことで大きな問題とされた。この小野寺氏は2015年の北海道議会選挙において改選を迎えたが出馬せず、政界を引退した。現在では主に右派系ネット番組等に精力的に出演を続けている。

 この両氏は、前後の文脈から総合的に考察しても、明らかに歴史学の「いろは」にすら接触しておらず、体系的な日本史知識というものが全く欠落していると推量される。両氏の主張は既出の小林よしのり氏による「アイヌ否定」というトンデモ論のコピーであることは自明で、この他にも北海道在住の自称アイヌ研究家などが小林氏の影響を受けて盛んな「アイヌ否定論」「アイヌ利権の危険性」等を繰り返した。

 しかし、にわかに2014年〜15年にかけて最盛を迎えるかにみえた「アイヌ否定論」は、その後、ネット右翼や中央の保守論壇の間では爆発的には浸透せず、代わりに彼らのデマ・トンデモ・憎悪の矛先は南方に転じて、沖縄における反基地活動家・普天間基地辺野古移設反対派への呪詛、翁長雄志前沖縄県知事らへの周到で執拗なデマ攻撃へと転換していった。

 ではなぜ「アイヌ否定論」は、ネット右翼や中央の保守論壇に於いて決定的な盛り上がりに欠けたのだろうか。

4】歴史修正主義「アイヌ否定論」の終わり

 その理由は、簡単に述べると以下のようになる。

1)アイヌの存在と先住性があまりにも明白で揺るぎようのない事実であること

2)ネット右翼や中央の保守論壇の中で、北海道(北方問題)への興味・関心が薄いこと

3)小林よしのり氏らが最前衛となった「アイヌ否定論」が、歴史学的な検証に耐えられるものではないトンデモ論であったために、南京大虐殺否定や従軍慰安婦への日本軍関与の否定など、同様の歴史的問題(…こぞって保守系言論人がそれを追検証するような事態)と違って「アイヌ否定論」に追従する中央の保守系言論人や研究者がいなかったこと

4)「アイヌ否定論」と対にして語られた「アイヌ利権」なるものが、まったく確認されていないこと

5)そもそも日本政府が「アイヌ民族」の存在を認めていること

 などである。そして最大の理由は、

6)「アイヌ否定論」の最前衛となった小林よしのり氏が、従前から「反米保守」「アンチ・ネット右翼」の立場を採っていたことで、ネット右翼や中央の保守論壇に対する影響力をこの段階(2014年〜15年時点)で著しく喪失していたこと。またそれと同様に、小林よしのり氏の漫画の商業的停滞が続いていたため、全般的な影響力が限局したものにとどまったこと

 である。

 こうして一時期盛り上がった「アイヌ否定論」はすぐに鳴りを潜めたが、漠然とした「アイヌ否定」「アイヌ利権」という、ネガティブなイメージがネット空間に広がったことは確かだった。しかし今回の「アイヌ新法」の成立によって、国が初めてアイヌを「先住民族」と認めたことで、こういった歴史修正主義者たちのトンデモ論は最終的かつ不可逆に葬り去られたことになった。

 だが、小林よしのり氏が盛んに唱えた「アイヌ否定論」が、北海道の地方議員やその支持者たちに広がり、「なんとなくアイヌってその存在自体が怪しいし、弱者利権のにおいがする」というイメージを植え付け続けたという時点で、小林氏の責任は重いものと言わざるを得ない。「アイヌ新法」の成立によって、ネット空間に漠然と伝播されたアイヌに対するネガティブイメージが、徐々にであっても希薄化していくことを願うものである。

5】アイヌ民族史概説〜中世から幕末まで〜

筆者作成
筆者作成

 さて本稿後半では、駆け足ではあるが「アイヌ民族はいない」「アイヌは先住民族ではない」という「アイヌ否定論」がいかにトンデモであるかを歴史的に振り返りたい。

 アイヌ民族が日本(和人)の記録に初めて登場したのは14世紀の室町時代である。『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)によると、

 アイヌ民族を記した本州の最初の資料は室町初期の1356(延文元)年に、諏訪(小坂)円忠を発願者として成立した「諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」である。(中略)東北の大海の中央に「蝦夷カ千島」があり「日ノ本(ひのもと)」「唐子(からこ)」「渡党(わたりとう)」の三類の蝦夷が群居する。「日ノ本」と「唐子」は外国に連なり、風貌は夜叉(やしゃ)のようであり、禽獣(きんじゅう)・魚肉を食として農耕を行わない。そして、言葉はまったく通じない。

 一方「渡党」は和国の人に似て、言葉も大半は通じるが、髭面多毛な人という。また霧を起こす術を心得ていたり、山野を獣のように走ることができ、毒矢を用いて武器にしたり、木を削って幣帛(へいはく=神に奉献する供物)のようなものをつくる。「宇曽利鶴子洲」(現在の函館、または下北半島)、「万当宇満伊犬」(現在の松前)という小島があり、「渡党」は多く「津軽外が浜」に往来し交易していると記されている。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P26-27、浪川健治、山川出版社、強調筆者

 という。この事から、室町時代の日本人には、蝦夷=アイヌが少なくとも三分類あり、また地理的な事実誤認はあるものの下北半島より北(要するに北海道やサハリン、千島)に居住する「異国人」として認識されていたことがわかる。

 応仁の乱に端を発した戦国期になると、北海道南部にも和人が進出し、紆余曲折の末、松前氏(蠣崎氏から改名)が現在の函館を中心とした渡島半島南部に和人のコロニーを建設する。戦国期が終わり、徳川幕藩体制が確立されると、松前藩が成立して18世紀に大名(石高のない1万石扱い。参勤交代は遠隔地特例で6年に1回)となり、アイヌとの交易で富を蓄えた。

 しかし、松前藩とアイヌとの間には交易をめぐるトラブルが多発した。その多くの原因が松前(和人)側の強権的な交易比率の改悪等であった。これが原因で17世紀中葉には最大の反和人蜂起といわれる「シャクシャインの戦い」(寛文蝦夷蜂起)、18世紀後半には「クナシリ・メナシの戦い」が現在の道東・国後島を中心として起こった。

 基本的に江戸幕府は、海禁政策(鎖国)を維持しつつも、外国との接触点、つまり国境をあいまいな形にしておき、交易や通信を直接行うのではなく、特定の大名に一任し、日本周辺の異民族を服属させているという図式をとることによって、間接的に幕府の「御武威・御威光」を内外に誇示した。幕府は特定の大名に交易を独占させる特権を与える一方、そこから得られた外国情報を江戸に集約させ対外情勢の分析にあたった。

 この体制を「日本型華夷秩序(にほんがたかいちつじょ)」と呼ぶ。この「日本型華夷秩序」の中で、事実上ロシアと国境を接する蝦夷=アイヌとの交易・通信を任されたのが松前藩であった。

 しかし19世紀初頭になると外国船の来航が頻繁となり、幕藩体制は動揺する。特にロシア船が根室に来航し通商を要求。これを幕府側が拒否した報復として樺太や国後島等がロシア軍船の砲撃を受ける文化露寇(1806年、1807年)が起こると、応戦した松前藩、津軽藩、南部藩らの諸兵がロシア軍の圧倒的な火力の前に敗北を喫した。

 このような情勢の中、幕府は1799年、蝦夷地を直轄地として蝦夷地奉行を置き(のち箱館奉行と改名)、ロシアの南下に対抗するべく軍備拡充とアイヌの同化政策を強化する。具体的にはアイヌに対し農業耕作を推奨し、日本語使用を推奨、日本服着用の許可、儒教徳目による教化、日本風の名前への改名などであった。

 結局、江戸幕府の蝦夷地直轄は、一時期の松前藩への返還(1821年〜1854年)を挟んで幕末まで続いた。しかしこういったアイヌへの同化政策は、幕府が滅び明治へと世が変わる時代と比べれば、まだしも穏やかな部類であった。

5】アイヌ民族史概説〜アイヌへの完全な日本同化政策〜


 明治政府は、1869年(明治2年)、開拓使を設置し「蝦夷」の呼称を「北海道」に改名した。北海道の誕生である。また四民平等の原則に基づき、1871年(明治4年)、アイヌは「平民」に編入することが布告された。

 しかし日本人平民と区別するために1878年(明治11年)、アイヌは「旧土人」と呼称することが正式に決定され、公の呼称ではアイヌは「旧土人」と位置付けられ、なんとこの露骨な差別的呼称が、本稿冒頭における1997年(平成9年)の「北海道旧土人保護法」の廃止まで使用され続けたのである。

 明治政府によるアイヌへの日本同化政策は、それ以前の幕府時代と比べて極めて苛烈で、そして近代的国民国家の形成に即した急激なものであった。明治政府が実行したアイヌへの苛烈な同化政策は以下の通り。

(明治)維新政府は、アイヌの人びとを「開明の民」とするためにアイヌ民族古来の風俗や風習を一方的に禁止する。(中略)女子の入墨、男子の耳輪を禁止し、違反者は「厳重ノ処分」を行うとした。(中略)さらに、経済的基盤としての生業についても、1871(明治4)年には根室地方の鮭の種川とされていた西別川での流し網を禁止し、1874(明治7)年には豊平川とその支流での引き網・ウライ猟(アイヌの伝統的な漁業方法)を制限した。

 1876年以降になると、西別川では一漁場、猟一統に制限し、乱獲防止を名目に禁漁に等しい厳しい制限を強いた。また同年、アイヌの伝統的狩猟法の一つである仕掛弓や毒矢の使用を「獣類生息ノ妨害」を理由として禁止し、「新業(主に農業)ニ移シ、又ハ猟銃ヲ貸与」することをはかっただけでなく、「免許鑑札」を受けた者以外の鹿猟を禁止するにいたる。近代国家によって、アイヌ文化とその継承はすべての面において否定され、「臣民」化が生活の窮迫とあいまって進行した。

出典:『アイヌ民族の軌跡』P.87〜88、浪川健治、山川出版社、カッコ内一部筆者、一部言いかえをした箇所あり、強調筆者

 このように明治政府が推進したアイヌへの日本同化政策は、蝦夷を北海道と改名し、開拓使を設置しただけではなかった。アイヌ民族の精神的アイデンティティを奪いつくし、経済的にも圧迫(慣れない農業への強制転換など)し、アイヌを完全に日本帝国の内側に取り込もうとした究極の同化政策を行ったのである。

 前述した小野寺道議の「我々の祖先は無謀なことをアイヌの人たちにやってきてはいない」という発言は、このような歴史的経緯に照らし合わせてみても、まったくのデタラメであり歴史修正主義であることが分かる。

 そしてこの同化政策は、あろうことか平成の時代まで「北海道旧土人保護法」という名の下で事実上、続いていたのである。

 平成が終わり令和の時代が到来するいま、「アイヌは我が国における先住民族である」と法律で明記されたことは、明治以来進められた近代国家の負の遺産の清算、およびアイヌ民族の誇りを取り戻す積極的動きが、ようやく平成の最後にその第一歩を記したという意味においても画期的なものなのだ。(了)

*参考図書:『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)、『アイヌ民族否定論に抗する』(岡和田晃、マーク・ウィンチェスター 編、河出書房新社)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/

18. 中川隆[-10655] koaQ7Jey 2019年10月21日 19:45:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2204] 報告

恨むなら「気候」を恨め。鼻が低いのは高温多湿な土地で育ったから 2016/09/04
https://tabi-labo.com/277304/humannoses

クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていた──。とは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの有名な言葉。けれど、実際のところ彼女の鼻の高さで歴史が変わることは、どのみちなかったようだ。

というのも鼻の形状(高い低い)は、暮らしている地域の気候ごとに進化したものなんだとか。

鼻の形状は、
緯度によって変化する


欧米人の鼻の高さに比べてアフリカ系の人々、さらには我々日本人も含むアジア人の鼻が低い。ほとんど万人が抱いている共通認識。これには、ちゃんとした裏付けがあった。

人間の鼻の形は、それぞれの地域で自然環境に順応するために、最適な形状へと進化したもの。

2016年6月「American Journal of Physical Anthropology」に掲載された、ノーステキサス大学ヘルスセンターの研究者らによる論文によると、北欧など高緯度の地域に暮らす人ほど、高くすらっと細い鼻の持ち主。これに対し、赤道に近い場所で生活している人の鼻は平たく幅が広いことが結論付けられた。

この鼻の形状を定義するのが、地域ごとの温度や湿度、つまりは自然環境が大きく影響を与えているということだ。


温度、湿度に適応する

重要な役割が鼻腔にあり


ではなぜ、地域によって鼻の高低差がついたのだろうか?この研究の詳細を報じた「Mental Floss」は、寒冷の北欧に暮らすヨーロッパ人の細い鼻は、低温で乾燥した空気を加熱、加湿する役割があるとする専門家の意見を紹介している。

曰く、吸い込んだ冷たい空気が鼻腔(鼻の穴)を通るとき、鼻粘膜によって湿気が加えられ、粘膜へ流れてくる血液により温められているそう。これは、冷たい空気が直接肺に入ることを避けるための機能。鼻腔が狭くなれば、その分鼻も大きくなることから、緯度の高い(寒冷地)の人の鼻ほど細く高くなるというロジック。

いっぽう、熱帯地域の人々は高温多湿なため、すでに周りの空気が十分に湿気を含んでいる。暖かく湿った空気は、直接鼻腔の奥へととどくため、鼻の果たす役割も少なくて済む訳だ。


113年分の気候データから検証

幅広の鼻は体温を下げる役割


ところが、今回の研究において指揮をとった人類学者のスコット・マダックス博士は、低く幅広な鼻も北欧ヨーロッパの人々と同じように、「多湿に耐えうる進化だ」と主張する。

同博士らは、1901年から2013年までの世界の年間平均気温、相対湿度、絶対湿度をベースに、膨大な気候データを分析しビッグデータを再構築。その後、世界147カ国、15,000人以上の鼻を計測した1923年のデータと比較することで、熱帯地域に暮らす人々の鼻も、高温多湿に合わせて進化を続けてきたことを証明してみせた。


高温多湿になればなるほど

日本人の鼻は低くなる!?


「2016年7月は観測史上最も暑かった」とNASAが発表したように、世界の平均気温は20世紀より1.57℃上昇しているという。それは日本でも。長期的には100年あたり1.16℃の割合で上昇しており、1990年以降、高温の年が頻発している、ことが気象庁のデータからも見てとれる。

このまま高温多湿が襲うようだと、未来の日本人の鼻は必然的に低く幅広になるということか。これはもう、気候を恨むほかない。

温度、湿度と鼻の進化の関係性。クレオパトラが仮に北欧生まれでもない限り、彼女の鼻の高さも、歴史も、やっぱり変わることはなかったのでは。

https://tabi-labo.com/277304/humannoses

19. 中川隆[-10652] koaQ7Jey 2019年10月22日 08:26:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2208] 報告

江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、
天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。

なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、
「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、
または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人
というように定義している。

また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。

1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。
日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある。


要するに、日本人や朝鮮人と結婚して日本人になりすましているアイヌ人は20万人いるけど、アイヌとしてはカウントされていない。
自称アイヌ人は 23,782人で、遺伝子調査では縄文人の直系の子孫だと確認されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

▲△▽▼

現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ

D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系

現代琉球人 Y-DNAハプログループ比率

D1a2--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a) :長江系稲作民


現代日本人 Y-DNAハプログループ比率

D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが否定された、四川省の焼畑農耕民の可能性が高い
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---20%(旧表記O3):漢民族系
C2----6% :縄文系
C1----5% :縄文系
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1% : 長江系稲作民
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度

O2: 43.3% : 漢民族系
O1:30.0% : 長江系稲作民
C2: 11.3% : モンゴル・ツングース系

現在の台湾の先住民系民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度

O2 11.7% : 漢民族系
O1 :80.3% : 長江系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

20. 中川隆[-10651] koaQ7Jey 2019年10月22日 08:37:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2209] 報告

現在の中国の自称漢民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度

O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm

21. 中川隆[-11336] koaQ7Jey 2019年11月03日 19:52:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1558] 報告

九州地方におけるアイヌ語系地名の残存の可能性-福岡県「志登」地名を事例として 菊地 達夫 2015 北翔大学

抄録
本研究は,九州地方におけるアイヌ語系地名の残存の可能性について,福岡県の「志登」地名を事例として,若干の考察を行うものである。

具体的には,先行研究の成果を述べ,地図,景観写真,文献資料の情報をもとにアイヌ語系地名の可能性について検証した。

志登は,アイヌ語地名の可能性が高いと考えられる。

その理由として,アイヌ語説の意味となる「峰」や「舌状丘陵」の双方の可能性を含む点を挙げることができる。加えて,志登一帯は,交易地であり,他地域からの文化的要素を流入しやすい地理的環境も有していた。

他方,日本語説で考えた場合,志登は,「湿地」や「川の下流」の意味としても一致する。よって,福岡県の志登は,語源をアイヌ語説から日本語説に転化となった地名の可能性がある。
https://hokusho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1497&item_no=1&page_id=13&block_id=17

22. 中川隆[-11335] koaQ7Jey 2019年11月03日 19:53:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1559] 報告

九州地方におけるアイヌ語系地名の残存の可能性-福岡県「志登」地名を事例として-(2015)
https://i.imgur.com/9d0SOxY.jpg
23. 中川隆[-11389] koaQ7Jey 2019年11月04日 14:37:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1505] 報告

2019年11月04日
注目が高まるY染色体
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_13.html


 皇位継承をめぐる議論でY染色体への関心が高まっているように思いますが、それ以前より、皇位継承とは関係なく、現代日本人の遺伝的構成の特異性を強調する観点から、Y染色体は注目されていたように思います。そうした言説では、現代日本人男性において3〜4割を占めるY染色体ハプログループ(YHg)Dが韓国人や漢人ではほとんど見られないことから、日本人は韓国人や漢人といった近隣地域の人類集団とは遺伝的にはっきりと異なる、と強調されます。これはかなり偏った見解で、父系遺伝となるY染色体限定ではなくはるかに情報量の多いゲノム規模データでは、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。また、Y染色体DNAと同様に情報量はゲノム規模データよりずっと少ないものの、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)でも、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。DNA解析技術が飛躍的に進展したこともあり、近年では、ゲノム規模データによる人類集団間の比較が主流になっています。

 しかし、これはY染色体DNAやmtDNAの解析が無意味になったことを意味しません。どちらも、ある集団の社会構造や形成史を推測するうえで重要な手がかりになります。人類史において移住・配偶の性的非対称は珍しくなく(関連記事)、それがY染色体DNAとmtDNAにはっきりと反映されている場合もあります。たとえばラテンアメリカでは、父系ではユーラシア西部系が、母系ではアメリカ大陸先住民系が多数派を占める傾向にあり、15世紀末以降、ヨーロッパ系の男性が主体となったアメリカ大陸の侵略を反映しています。こうした偏りは、常染色体だけでは解明しにくいと言えるでしょう。また、中国のフェイ人(Hui)の事例は、外来の少数男性がフェイ人(回族)の文化形成に重要な役割を果たした、と示唆します(関連記事)。父系社会の多い現代人において、情報量の多い常染色体DNAデータだけでは分からない歴史をY染色体が提供することも珍しくないだろう、と期待されます。

 とはいっても、当然Y染色体だけで文化や民族を解明できるわけではなく、そもそも民族を遺伝的に定義できるわけではありません。最近では、古代DNA研究の飛躍的な進展とともに、ある文化集団を遺伝的に均一と考える傾向について、懸念が呈されています(関連記事)。この点には注意が必要で、ある地域集団における文化変容・継続と遺伝的構成の関係はかなり複雑なものだった、と考えられます(関連記事)。同じ文化集団だから遺伝的に類似しているはずだ、という見解は問題ですが、一方で、遺伝的継続性が低いから先住集団の文化はほとんど継承されていないはずだ、との見解もまた問題で、たとえば日本列島における縄文時代から弥生時代への移行についても、慎重に検証していかねばならないでしょう。

 具体的には、「縄文人」の遺伝的影響が本州・四国・九州を中心とする現代日本の「本土」集団では低そうなので、縄文文化はその後の「本土」文化にほとんど影響を与えていないとか、「縄文人」や「弥生人」、とくに後者について、均一な遺伝的構成を想定する(関連記事)とかいった主張です。縄文時代から弥生時代への移行の解明に関しても、古代DNA研究が大きく貢献すると期待されますが、そのためには、日本列島だけではなく、広くユーラシア東部圏の古代DNA研究の進展が必要となるでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_13.html

24. 中川隆[-15021] koaQ7Jey 2019年11月11日 09:23:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2123] 報告

2019年11月11日
大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)に所収されています。

公式サイト
http://paleoasia.jp/

にて本論文をPDFファイルで読めます(P11-16)。
http://paleoasia.jp/wp-content/uploads/2019/04/B01_Annual-Report218.pdf


この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 アイヌ民族・文化の形成過程は、日本列島だけでなくアジア北東部を対象とする歴史学や人類学にとって主要な研究課題の一つとなっています。この問題に関しては、これまで考古学・歴史学・民族学・自然人類学などさまざまな分野において取り組まれてきました。アイヌ民族の起源に関しては、縄文時代の集団に直接的にさかのぼり、アイヌ民族は北海道「縄文人」の「直系」で「純粋な子孫」である、というような説が、一般層に浸透しているだけではなく、学界でも一定以上の支持を得てきました。しかし、こうしたアイヌ民族・文化の起源に関する言説は、遺伝学や自然人類学などにより今では否定されています。中世併行期の北海道には、遺伝的にも文化的にも異なる系統の集団によって担われていた、擦文文化とオホーツク文化が並存していました。これらの文化の考古資料の性格はひじょうに異なり、それぞれの担い手の集団も遺伝的に異なっていた、とすでに1930 年代には指摘されていました。そのため、これらの異系統集団・文化が、中世併行期以降のアイヌ民族・文化の形成にどのように関連しているのか、注目されてきました。

 本論文はこうした点を踏まえ、おもに考古学と民族誌のデータを用いて、アイヌ民族・文化の形成過程を検証しています。具体的には、擦文文化とオホーツク文化が次の中世併行期のアイヌ民族・文化の形成にどのような関係・貢献を果たしたのか、ということです。本論文はとくに、中国大陸や本州以南など外部社会からの影響によって引き起こされた擦文文化とオホーツク文化の接触・融合により、中世併行期のアイヌ文化が形成されてゆく過程に焦点を当てています。それにより、これまで往々にして縄文文化・時代から直接的かつ単線的に説明されてきたアイヌ民族・文化の形成史を再検討し、新たな展望を提示する、というわけです。本論文は、こうした視点が同時に、狩猟採集社会における二つの異系統集団の接触・融合を理解するための事例研究にもなるだろう、と指摘しています。

 北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。ただ本論文は、中世以降の「アイヌ期」という用語について、アイヌ民族・文化が中世になって形成された、と誤解させかねず、これは考古学上の用語の問題にすぎず、中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されている、と指摘しています。

 北海道と「本土」の歴史的展開の違いについて本論文は、さまざまな要因の関与のなかで生起しているため、単一要因で容易に説明できないものの、基本的には自然生態環境の違いや近隣社会との関係に起因する、と概括的にまとめています。ただ本論文は、北海道史の最大の特徴として、近代になって開拓移民が押し寄せるまで、社会や文化は「本土」の多数派集団とはエスニシティを異にするアイヌの人々によって担われていた、と指摘します。しかし、アイヌは無文字社会だったので、自らの歴史を記録することはありませんでした。そのため北海道の時代区分は、基本的に考古学などの調査研究に基づいて構築されたものです。

 上述のように、中世アイヌ期の前後で、人間集団の連続性が指摘されています。しかし本論文は、少なくとも物質文化の側面では、数多くの大きな相違が確認できる、と指摘します。上述のように、中世アイヌ期の前には、擦文文化とオホーツク文化という考古資料の大きく異なる2文化が並存し、それぞれの担い手は遺伝的系統が異なっている、と指摘されています。そのため、遺伝的にも文化的にも系統を異にする擦文文化とオホーツク文化が、次の中世アイヌ期の形成にどのように関係しているか、ということが重要な研究課題となります。

 擦文文化は、紀元後700〜1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。ただ、その文化複合は、本州北部の強い影響や類似性が認められることから、本州北部からの集団移住が同文化の形成に関与していた可能性も指摘されています。

 オホーツク文化は、北海道だけでなく日本列島でも最も独特な文化の一つです。オホー ツク文化は、紀元後600〜1000年頃にサハリン南部・北海道北東部沿岸・千島列島に分布していました。その生計戦略に関しては、顕著な特徴として海浜での漁撈や海生哺乳類の狩猟、また沿岸域に形成される集落や居住パターンなどがから、徹底した海洋適応に基づいていた、と想定されています。オホーツク文化の出土遺物組成は、擦文文化と比較すると、石 器・骨角器・金属器などの多様な原材料から製作された、さまざまな道具一式から構成されています。またオホーツク文化でも、自から製作したわけではないものの、数種類の鉄器が使用されていました。これらの鉄器は、アムール川流域の大陸側で生産され、北方経路からサハリン経由で導入されていた、と推測されています。さらに、この経路に関しては、鉄器にとどまらず、数々の文物や情報などをオホーツク文化にもたらしていた可能性が指摘されています。オホーツク文化集団は、擦文文化を含む北海道在来の人々とは遺伝的系統が異なる、と推測されています。オホーツク文化集団の系統に関しては、形質的・遺伝的特徴から、アムール川流域やサハリンのアジア北東部集団との近縁性が指摘されています。そのため、オホーツク文化に関しては近年まで、アイヌ民族・文化の形成には直接関係がない、との認識が定着していました。

 擦文文化とオホーツク文化は、700〜900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。

 一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。

 まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。

 こうした歴史展開を踏まえると、北海道におけるオホーツク文化集団もまた、アイヌ文化形成の潮流に関与している、と理解できます。なぜならば、「原アイヌ期」とされる擦文文化期から中世アイヌ期への移行は、「本土」における交易ネットワークと地域分業への統合過程に起因すると想定されるからです。つまり、遺伝的・文化的に擦文文化集団と異なる系統とされるオホーツク文化集団の消長もまた、アイヌ文化形成の展開のなかの一潮流に統合される、という理解が可能となるわけです。

 本論考は最後に、アイヌ文化形成におけるオホーツク文化の役割について考察しています。オホーツク文化のなかには、中世以降のアイヌ文化形成において重要な関与を果たし、現在までのアイヌの文化遺産として引き継がれている要素が少なからず指摘されています。その最も顕著な事例の一つとして、イオマンテと呼称されるクマの送り儀礼が挙げられます。この儀礼は、アイヌ社会において最も重要な文化的実践とみなされています。しかし、現在まで擦文文化には、クマ送り儀礼の痕跡と言えるような考古資料はきわめて限定的にしか確認されていません。これに対してオホーツク文化の遺跡からは、クマなど動物の送り儀礼に関連すると推察される遺物や遺構が数多く検出されています。この他、アイヌ民族・文化の言語や象徴実践などにも、オホーツク文化に由来すると推察される痕跡が少なからず指摘されています。

 こうした事例から、オホーツク文化集団は、遺伝的にも文化的にもアイヌ民族・文化のもう一つの源流である、と理解できます。この見解は、従来、縄文文化・時代から直接的かつ単線的に語られてきたアイヌ集団の歴史に対する再考と新たな展望を開くものとなるだろう、と本論文は指摘します。さらに本論文は、資料的に限定された先史考古学にとっても、時間的に限定された民族誌調査にとっても、アプローチが困難な異系統集団の接触・融合の仮定と要因を追究する上で、擦文文化とオホーツク文化は有用な参照事例となるだろう、との見通しを提示しています。


参考文献:
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16


https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html

25. 中川隆[-14878] koaQ7Jey 2019年11月16日 16:51:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1969] 報告
2019年11月16日
考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することは難しい
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_31.html


 文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係については、1年近く前(2019年11月25日)にも述べました(関連記事)。その時からこの問題に関していくつか新たな知見を得ることができましたが、私の見解はほとんど変わっておらず、両者の関係は実に多様なので、考古学的研究成果から担い手の人類集団の変容と継続の程度を一概には判断できない、とさらに確信を強めています。そのため、この問題を現時点で再度取り上げる必要はほとんどないのですが、最近のやり取りで、アイヌは「縄文人」の末裔ではない、という言説の根拠として考古資料が持ち出されたので、改めてこの問題について短く触れておきます。
 古代DNA研究が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。これについては以前の記事で、(1)担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容、(2)担い手の遺伝的継続を伴う文化変容、(3)担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続、の3通りに区分して具体例を挙げました。もっとも、これは単純化しすぎた分類だと今では反省しています。とはいっても、これらを的確に再整理して提示できるだけの準備は整っていないのですが、とりあえず、(4)類似した文化が拡大し、拡大先の各地域の人類集団の遺伝的構成が一定以上変容しても、各地域間の遺伝的構成には明確な違いが見られる、という区分を追加で提示しておきます。具体的には、紀元前2750年に始まり、イベリア半島からヨーロッパ西部および中央部に広く拡散した後、紀元前2200〜紀元前1800年に消滅した鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の担い手においては、イベリア半島とヨーロッパ中央部の集団で遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした(関連記事)。また、鉄器時代にユーラシア内陸部で大きな勢力を有したスキタイも遺伝的には多様だった、と明らかになっています(関連記事)。

 以前の記事の後に当ブログで取り上げた関連事例では、ヒマラヤ地域が(2)によく当てはまりそうです(関連記事)。一方、中国のフェイ人(Hui)の事例(関連記事)は分類が難しく、(1)と(2)の混合と考えています。フェイ人(回族)は遺伝的には多数の人口を有する漢人などアジア東部系と近縁ですが、父系ではユーラシア西部系の影響が見られ、漢人とは異なる多くの文化要素を有しています。フェイ人においては、全体的にアジア東部系の遺伝的継続性が見られるものの、ユーラシア西部に由来する父系の影響も一定以上(約30%)存在し、ユーラシア西部から到来した男性がフェイ人の文化形成に重要な役割を果たした、と考えられます。フェイ人の場合、基本的には集団の強い遺伝的継続性が認められるものの、父系では一定以上の外来要素があり、文化変容に貢献した、と言えそうです。

 このように、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は多様なので、ある地域の文化変容を単純に集団の遺伝的構成の変容、さらには置換と判断することはできません。これを踏まえて「考古資料から集団置換が起きたか否かを判断するのは容易ではないというかほぼ無理で、古代DNA研究に依拠するしかない」と述べたら、「遺伝子研究では縄文人とアイヌ民族を結びつけることは出来ないということで大変参考になりました」と返信されて、あまりの読解力の低さにうんざりさせられました。

 北海道の時代区分は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ(ニブタニ)文化期と変遷していき、続縄文時代後期〜擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。この間の文化変容と「遺伝的証拠」から、アイヌは「(北海道)縄文人」の子孫ではなく、12世紀頃に北海道に到来した、というような言説(関連記事)もネットの一部?では浸透しているようです(アイヌ中世到来説)。もっとも、こうしたアイヌ中世到来説やそれに類する言説を主張する人は、上述のやり取りから窺えるように読解力が低すぎるのではないか、との疑念がますます深まっています。

 それはさておくとして、考古学的には、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期、さらには近現代のアイヌにわたる人類集団の連続性を指摘する見解が主流で、アイヌ中世到来説はまともな議論の対象になっていない、と言えるでしょう(関連記事)。また考古資料から、縄文および続縄文文化を継承した擦文文化の側が主体となってオホーツク文化を吸収し、アイヌ(ニブタニ)文化が形成された、との見解も提示されています(関連記事)。アイヌ中世到来説論者に言わせると、こうした評価は適切ではない、ということになるのでしょうが、上述のように文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではありませんから、置換があったと断定することはとてもできません。もちろん、考古資料だけを根拠に、縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を断定することもまたできません。もっとも、考古資料も縄文時代からアイヌ(ニブタニ)文化期までの人類集団の強い遺伝的継続性を示唆している、と私は考えていますが。

 古代DNA研究も含めて現時点での遺伝学の研究成果からは(関連記事)、アイヌが「(北海道)縄文人」の強い遺伝的影響を受けている可能性はきわめて高い、と言えそうですが、この問題の解決には古代DNA研究の進展を俟つしかないと思います。ただ、日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究はヨーロッパを中心とする西部よりもずっと遅れているので、現時点でのヨーロッパと同水準にまで追いつくのには時間がかかりそうです。ただ、古代DNA研究には「帝国主義・植民地主義的性格」が指摘されており、日本でもこの問題が解決されたとはとても言えないでしょう(関連記事)。古代DNA研究の大御所と言えるだろうウィラースレヴ(Eske Willerslev)氏が中心となってのアメリカ大陸先住民集団との信頼関係構築は、日本においても大いに参考になるでしょうが、歴史的経緯が同じというわけではないので、単純に真似ることは難しいかもしれません。古代DNA研究は倫理面でも大きな問題を抱えていますが、それらを克服しての進展が期待されます。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_31.html

26. 中川隆[-15225] koaQ7Jey 2019年12月05日 12:46:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2292] 報告

【ch桜北海道】キャスター特別討論!「北海道が一番危ない!」[R1/10/1]



◆キャスター特別討論!「北海道が一番危ない!」

◇水島 総(一般社団法人 北海道歴史伝統文化環境保全機構理事・映画監督)
◇沢田 英一(一般社団法人 北海道歴史伝統文化環境保全機構理事)
◇本間奈々(国守衆北海道代表)
◇川田ただひさ(札幌市議会議員)

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【桜便り】違法アイヌ集団告発記者会見 [桜R1/12/5]


キャスター:水島総・水野久美
27. 中川隆[-15224] koaQ7Jey 2019年12月05日 12:49:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2291] 報告

【ch桜北海道】キャスター特別討論!「北海道が一番危ない!」[R1/10/1] へのコメント
https://www.youtube.com/watch?v=61ofXH7g1Eo


77 7
アイヌ人が仇敵の和人の勝手に作った法律に従う必要はない

明治以降、アイヌ人がどれ位日本人に迫害されてきたかを思い出せ
日本政府のアイヌ民族浄化政策でアイヌ語とアイヌ民族は滅ぼされた
和人に北海道をすべて乗っ取られ、鹿も鮭も捕獲できなくなった

これは本にもなったアイヌ語学者の浅井亨さんの講演
北方の古代文化 (1974年) 浅井亨 言語から見た地域集団

で有名になったのですが、日本政府は千島アイヌをシコタン島のアウシュビッツの様な収容所に押し込めて強制労働させた為に、若い男はすべて衰弱死し、千島アイヌは存続できなくなったのです。


中国が今ウイグルでやってるのと同じ事を日本政府は100年前にアイヌに対して行った
千島アイヌは日本政府の民族浄化政策で絶滅した

日本政府は千島アイヌを集めてシコタン島に強制移住させて、強制労働させてほぼ絶滅させた

更に沖縄戦の最前線に残った千島アイヌを送り込んで玉砕させた
それで千島アイヌは絶滅して、民族浄化は完了した

中国が今ウイグルでやってるのと同じ事を100年前にやっていたんだ

千島アイヌの強制移住による民族浄化

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、

「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。

アイヌ人が仇敵の和人の勝手に作った法律に従う必要はない
明治以降、アイヌ人がどれ位日本人に迫害されてきたかを思い出せ

▲△▽▼

『なぜアイヌ人や琉球人や被差別XX民は北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』

北海道も畿内も沖縄も最初はアイヌ語を話す先住の縄文人が住んでいたんですね。

畿内の縄文人は神武東征後に征服・虐殺され、運良く生き延びた縄文人が今の被差別xx民

沖縄の縄文人の子孫は10世紀に征服・虐殺され、運良く生き延びた縄文人の子孫が今の琉球人

北海道の縄文人の子孫は明治時代に征服・迫害され、運良く生き延びた縄文人の子孫が今のアイヌ人

半島人は日朝併合で米を日本に飢餓輸出され・農地をタダ同然で日本人に奪われ、日本に移住しないと食べていけなくなった

要するに、日本人に征服・虐殺・迫害された民族が団結しただけでしょう。チュチェ思想というのは単なる共闘のシンボルとして使っているだけで、思想の中身はどうでもいいのです。

北朝鮮は今の世界で悪の帝国アメリカを戦っている唯一の国なので、チュチェ思想を悪の帝国アメリカと闘う為の象徴として奉っただけでしょうね。


▲△▽▼

xx人が反日になった理由

1.飢餓輸出させた
2.農民の土地を奪った
3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた
4.朝鮮の財産をすべて奪った
5.朝鮮女性を性奴隷にした

__________


77 7
「北海道が一番危ない!」ではなく「今も迫害されている最後の縄文人と死語になりつつある縄文語が一番危ない!」

アイヌは先住民で縄文人の最後の生き残り、日本人は半島からの渡来人で縄文人の子孫ではない、というのは学会の定説です。 このまま日本政府がアイヌ人の浄化を進めれば、渡来人の日本人が先住の縄文人と縄文語を完全に滅ぼす事になるのです。

縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、
縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万〜4万年前とみられることがわかったと発表した。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。
最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。
特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、
縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。
3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

_

世界のあちこちの現代人ゲノムと比較したところ、福島県新地町の三貫地貝塚出土縄文人がもっとも近縁であったのは、東ユーラシアの現代人集団だった。さらにくわしく調べたところ、縄文人にもっとも近いのは、アイヌ人だった。この結果は、二重構造モデルを支持している。


ゲノムDNAでさぐる日本列島人の由来(斉藤) 交詢雑誌2019年11月搭載
http://www.yaponesian.jp/userfiles/koujyunzashi_NOV2019.pdf

これはちょっと複雑な系統ネットワークですが、沖縄から見ると九州が一番近いです。地理的にも当然です。

数字を見ていただくと、沖縄から見ると、九州が二八二三という数字で沖縄と東北、沖縄と近畿よりも小さい。これは当然予想されます。
ところが、その次は東北なんです。近畿のほうが地理的には近いのに、沖縄と東北のほうが三二八二とちょっと小さい。

これが驚きであります。あたかも北のアイヌの人々と沖縄の人々に共通性があったと同じように、今度は東北人と沖縄の人にちょっと共通性があることがわかったわけであります。

沖縄----------------------------九州----東北--近畿
https://i.imgur.com/uD4xj8i.png

28. 中川隆[-15223] koaQ7Jey 2019年12月05日 12:56:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2290] 報告
討論会 アイヌ新法はなぜ問題か? 札幌講演会 2019/11/30 にライブ配信

29. 中川隆[-15222] koaQ7Jey 2019年12月05日 13:02:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2289] 報告

討論会 アイヌ新法はなぜ問題か? 札幌講演会 2019/11/30 へのコメント
https://www.youtube.com/watch?v=9Ci0YUrdy8A


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日本政府のアイヌ民族浄化政策でアイヌ語とアイヌ民族は滅ぼされた

これは本にもなったアイヌ語学者の浅井亨さんの講演

北方の古代文化 (1974年) 浅井亨 言語から見た地域集団
https://www.amazon.co.jp/%E5%8C%97%E6%96%B9%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%8C%96-1974%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E9%87%8E-%E7%9B%B4%E5%90%89/dp/B000J9G3KS

で有名になったのですが、日本政府は千島アイヌをシコタン島のアウシュビッツの様な収容所に押し込めて強制労働させた為に、若い男はすべて衰弱死し、千島アイヌは存続できなくなったのです。


中国が今ウイグルでやってるのと同じ事を日本政府は100年前にアイヌに対して行った
千島アイヌは日本政府の民族浄化政策で絶滅した

日本政府は千島アイヌを集めてシコタン島に強制移住させて、強制労働させてほぼ絶滅させた

更に沖縄戦の最前線に残った千島アイヌを送り込んで玉砕させた
それで千島アイヌは絶滅して、民族浄化は完了した

中国が今ウイグルでやってるのと同じ事を100年前にやっていたんだ

千島アイヌの強制移住による民族浄化

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、

「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。

アイヌ人が仇敵の和人の勝手に作った法律に従う必要はない
明治以降、アイヌ人がどれ位日本人に迫害されてきたかを思い出せ


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古是三春_篠原常一郎
悪意を感じますね。浅井亮、ですか?


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有名な言語学者だった浅井亨先生は疾うに亡くなっていますが、

アイヌの霊の世界 (小学館創造選書 56) – 1982/12 藤村 久和 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%AE%E9%9C%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%89%B5%E9%80%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-56-%E8%97%A4%E6%9D%91-%E4%B9%85%E5%92%8C/dp/4098200562

でもアイヌ文化研究者の藤村 久和 さんが、日本の過去のアイヌ学者が如何にアイヌ人から貴重な文物を騙し取ったかを書いています。

アイヌ人が信用したアイヌ研究者は 浅井亨さんと 藤村 久和 さんの二人だけだったのですね。 それ以外は金田一京介、河野常吉、河野広道も含めて全員が詐欺師でした。

因みに、最新のDNA解析でアイヌ人が縄文人と遺伝子が一致するのがわかる遥か以前から、アイヌが縄文人に一番近いというのはすべての研究者の一致した意見でした:

アイヌ―シンポジウム その起源と文化形成 (1972年) 埴原 和郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E2%80%95%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0-%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E5%BD%A2%E6%88%90-1972%E5%B9%B4-%E5%9F%B4%E5%8E%9F-%E5%92%8C%E9%83%8E/dp/B000J9H27Q

でも参加者全員がアイヌは縄文人の子孫だと言っています。

それからアイヌ語の地域差は津軽弁と秋田弁の違い程度で単なる方言差です。そもそもアメリカ・インディアンやニューギニア原住民の様な原始民族は狭い地域でも何百・何千もの言語に分かれています。

基本的に住んでいる川筋が違えば言葉が違うのが普通なのです。
アイヌ語の地域差を別言語だと考えている言語学者は一人もいません。

アイヌ語はツングース語ともニヴフ語とも全く違うので、アイヌ人がシベリアから来た可能性は完全にゼロです。
7世紀の蝦夷(エミシ)はアイヌ語を話していた
現代の東北のマタギの言葉もアイヌ語
島根や九州にはアイヌ語地名が沢山ある

日本語は系統的孤立言語の一つとされていますが、ユーラシア大陸圏における10近い系統的孤立言語の半数近くが日本列島とその周辺に集中している、と本論文は指摘します。日本語以外では、アイヌ語・アムール下流域と樺太のギリヤーク(ニヴフ)語・朝鮮語です。本論文は、こうした系統的孤立言語の系統関係を明らかにするには、伝統的な歴史・比較言語とは別の手法が必要になる、と指摘します。歴史言語学で用いられる、おもに形態素や語彙レベルの類似性に基づいて言語間の同系性を明らかにしようとする手法では、たどれる言語史の年代幅が5000〜6000年程度だからです。つまり、たとえば日本語とアイヌ語の共通祖語があったとしても、少なくとも6000年以上はさかのぼる、というわけです。

ユーラシア大陸圏の言語はまず内陸言語圏と太平洋沿岸言語圏に分類され、さらに太平洋沿岸圏を南方群(オーストリック大語族)と北方群(環日本海諸語)に分類します。系統的孤立言語とされる日本語・アイヌ語・ギリヤーク語・朝鮮語は北方群に分類されています。

アイヌ語は地域差が有っても一つの言語であるというのが言語学の定説です。

______

77 7
自称専門家の的場光昭さんの学説はどこが間違っているか:

アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した?

DNA解析により、アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来したのが判明!
北海道の縄文人には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNAのハプログループYがない。
よって、アイヌ民族は北海道先住民族ではない

自称専門家の的場光昭さんの学説の根拠が何なのかというと、遺伝学的には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループY(Y1)が北海道の「縄文人」にはない、ということです。的場光昭さんのブログは、「北海道の縄文人とアイヌは全く関係ないと言える」と断定しています。以下、基本的には
近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ajpa.23338
に依拠して述べていきます
 確かに、現代アイヌ人のmtDNAハプログループに占めるY1の比率は19.6%で、比較的高いと言えそうです。また、北海道の縄文人ではY1は確認されていません。上記ブログは、江戸時代以降の日本人にもmtDNAハプログループY1が見られるので、江戸時代以前に倭人が北海道に多数いた、と推測しています。しかし、Y1が現代の「本土日本人」に占める割合は0.5%程度で、Y1はオホーツク集団由来と推測されています(オホーツク集団では43.2%)。
 また、現代アイヌ人にも近世アイヌ人にもN9bやG1bといった北海道縄文人のmtDNAハプログループは継承されており、現代アイヌ人では25%以上、近世アイヌ人では30%弱となります(M7a2も含めると30.9%)。もちろん、これは基本的には母系遺伝となるmtDNAのハプログループなので、核DNA解析ではまた違った割合になるでしょうが、少なくとも母系において、現代および近世アイヌ人は遺伝的に北海道縄文人と一定以上のつながりがある、と言えるでしょう。
 そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではない、という観点が上記ブログには欠けています。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。アイヌ人を遺伝的に云々といった見解の多くでは、論理の倒錯が見られるように思います。
 前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能です。
 そうした前近代の「民族的集団」の中には、民族は遺伝的に定義できる、といった単純素朴な観念が通用しない事例も報告されています。たとえばスキタイ人は遺伝的に、東方系がヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と、西方系が中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です青銅器時代のコーカサス地域のマイコープ(Maykop)文化集団は、山麓地域と草原地域とで遺伝的構成が明確に異なっており、遺伝的に異なる在来集団による共通の文化の形成・受容が想定されます もちろん、スキタイ人のようなユーラシア内陸部の遊牧民集団と、遊牧民が存在しなかったと言っても大過はないだろう日本列島の人類集団とを単純に比較できませんが、民族を遺伝的に定義することは基本的に間違っていると思います。民族はあくまでも文化的に定義された集団であり、任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、必然的に遺伝的構成が異なる、というだけのことです。これを倒錯させて、遺伝的構成の違いから民族集団を定義することはできません。
 本題に戻すと、上記ブログでは、アイヌ民族が12世紀頃に樺太から北海道に南下してきてオホーツク集団を滅ぼした、と主張されています。その根拠となる、アイヌ民族は北海道縄文人と(遺伝的に)まったく関係ない、との見解が間違いであることは上述したので、それ話は終わりです。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していた可能性も指摘されていますので、これを過大評価というか歪めて解釈して、アイヌ人が12世紀頃に北海道に侵略してきた、との与太話が今後拡散されるかもしれません。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後のシベリア先住民集団の北海道集団への遺伝的影響は、母系ではせいぜい6.4%程度で、大きな影響があった可能性はきわめて低そうです。
 なお、上記ブログでは、平取町からは正倉院御物と同じ組成の奈良時代の青銅器が発見されており、奈良時代にすでに天皇の力が北海道にも及んでいた、と主張されています。平取町の青銅器の話についてはよく知りませんが、仮にそうだとして、アイヌが北海道の先住民族だという前提は物的証拠によって完全に覆されている、との評価は的外れでしょう。確かに、正倉院御物と同じ組成の青銅器が北海道にあることを、天皇の「力が及んでいた」と解釈することは、定義次第ではあるものの、できなくもありませんが(かなり無理筋ではありますが)、それを言うなら、弥生時代や古墳時代の「日本」には、もっと強く「中国」の「力が及んでいた」と解釈すべきでしょう。

平安時代の日本の知識層の領域観念(関連記事)

2018年08月29日 佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ
からも、奈良時代の日本人には、北海道を「日本」に含めるような概念はなかっただろう、と思います。

30. 中川隆[-15221] koaQ7Jey 2019年12月05日 13:29:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2288] 報告
【くにもり】反日アイヌから国を護る覚悟[桜R1/12/5]



出演:
 水島総(国守衆 評議会議長)
 本間奈々(国守衆 北海道代表)
 ゆう子(国守衆サポーター)
 えり(国守衆サポーター)
31. 中川隆[-15082] koaQ7Jey 2019年12月21日 10:21:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2123] 報告
北海道に移住した樺太アイヌの形質人類学的研究*
小浜基次・加藤昌太良・欠田早苗
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja


樺太アイヌ成人に関する計測学的研究としては、小金井(1894)、古屋(1937)の業績がある。

われわれは1951〜62年、北海道各地のアイヌコタンを訪ね、現代アイヌの人類学的調査を行っていたが、この間、北海道に移住した樺太アイヌや千島アイヌの資料を追加することができた。

樺太アイヌの第1回集団移住は、北千島樺太交換条約(1875)によったものであり、はじめ北海道宗谷地区に移住し、翌年より石狩地区に定住していた。日露戦争後(1905)にはふたたび樺太に復帰し、さらに第2次世界戦争後(1945)に再度北海道に移住したものである。

アイヌの純血度を判定することは、研究の本質上重大な問題であるが、アイヌは古くより和人と混血し、純血を保つものはきわめて少ない。多方面よりの聞込みによって家系図を作製して判定の資料とするのであるが、実際にははなはだ困難であり、真の純血を決定することは不可能に近い。従来、われわれの資料に純アイヌとしているものも「比較的に純粋なアイヌ」と解釈すべきものであろう。

樺太アイヌは明治初年以来、
樺太→ 北海道→ 樺太→ 北海道
とたびたび移動している。移動には同族の分散も多いし、現在形成されている集落も各地からの寄合い世帯の様相を示しているから、聞込みは一層困難である(北海道日高沙流川流域のように定住する同族集団では、5〜6代にさかのぼる家系の聞込みも可能である)。しかも第1表に示すように、稚咲内の現情は和人のほか北海道アイヌ、朝鮮人と通婚しているものも少なくない。この研究では現代樺太アイヌに残された特性を追究しようとしたので、資料のうち明らかに混血と判定されたものは除外したが、前述のような現況よりみて、この資料の性格は原樺太アイヌよりもかなり混血化が進んでいるものとみなすべきであろう。われわれと同一資料について趾指紋を調査した島(1959)も、この資料と集団は体質的には樺太混血アイヌとするのがむしろ妥当であると述べている。


資料と調査地概要

樺太アイヌを対象としてとくに調査した地区は、天塩郡豊富村稚咲内、常呂郡常呂町、斜里郡斜里町ウトロ、広尾郡広尾町である。そのほか各地のアイヌ部落で少数ではあるが、樺太アイヌを追加しえた地区は、釧路地方では白糠町、弟子屈町屈斜路コタン、日高地方では平取町ペナコレ、浦河町入船、ほかに名寄市内淵である。十勝地方の大津にも2,3世帯が在住するので訪ねたが、出稼のため調査不能であった。そのほか釧路市内、網走市内などにも移住している。

豊富村稚咲内(第1図):天塩サロベツ原野の東方海岸地帯で利尻島の対岸にあたる。


宗谷本線豊富駅前からバスの便がある。樺太在住当時の漁業組合員が協力してこの
地に開拓漁民として入殖したものである(1950)。

樺太西海岸の多蘭泊在住者がもつとも多く、ほかに久春内、智来、少数の東海岸白浜も含まれている。1952年の部落構成は第1表の通りである。

第1表 天塩郡豊富村稚咲内
第1図 北海道天塩郡豊富村稚咲内
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja


この部落の三分の一が樺太アイヌ系であって、移住樺太アイヌの集落としてはもつとも大きい。大部分は漁業を専業とするが、漁閑期には農業や出稼をする。生活程度は全般的にやや良好である。

常呂町:住居は常呂町市街に散在するが、引揚者住宅に住むものが多く、漁業または日雇に従事する。和人の家族を含めて世帯数19、人口106人、生活程度は低い。

斜里町ウトロ:オヅペ附近の海岸に、漁業または日雇として6世帯が居住する。
広尾町:広尾町市街に約6世帯が移住しているが、少数を除き調査対象とすることは困難であった。
調査対象はアイヌ成人、児童のほか、とくに稚咲内地区では部落内の和人(一部はアイヌの配偶者)も含めたので計300人以上に達したが、この研究の対象に該当する樺太アイヌ成人は男子14人、女子15人にすぎなかった。ただし耳垂の形態、味盲については児童も含めた。
資料の年令構成はやや高年に偏している。


研究方法

生体計測は MARTIN(1957)および文部省科研の日本人の生体測定班(1949〜53)の協
定によった。計測者による個人差をさけるために、一般計測は小浜が担当し、従来と同一手法によった。計測項目と指数は成績表に示す通りであり、特殊な項目については表の脚註に説明を加えた。


鎌田(1958)のプロフィル計はわれわれの試作したものであり、基準軸を両側外耳孔に挿入して、ゴム帯によって計器を頭頂部に牽引固定する。基準軸上縁は外耳孔上縁(Tragionにほぼ一致する)に接して固定される。正中面において軸中心より顔面各点の長さとその角度が計測できる。
耳垂形態の分類は上田ら(1957)の基準によった。
味盲の検出に使用した P.T.C.(Phenylthiocarbamide)は1/40モルのアルコール溶液とし、これを濾紙に浸して乾燥したものである。判定には充分の時間をかけて味わせ、苦味を訴えないものを味盲とした。

この研究では樺太アイヌ成人男女の特性を追究するとともに、小浜ら(1951〜)によつて調査された北海道純アイヌ(*153、♀252人)、混血アイヌ(*132、♀185人)および樺太和人(樺太アイヌと同一部落に居住し、一部はアイヌの配偶者となっている。東北、北陸出身者が多い)と比較した。そのほか古屋(1937)、横尾(1939)、須田(1942)による樺太在の ギ リヤ,ーク、 オロッ コ と も対 比 した 。 そ れ ぞ れ の 測 度 、 指 数 を 比 較 す る と と も に、 平 住均比法1/SΣ|M1-M2|δ に よって 各 集 団 間類 以 度 を 数 量 的 に検 討 を 加 え た。

I)体部の計測について(第2表、第2図)
1)身長

樺太アイヌの身長(*159.74、♀148.49cm)はやや低いようであるが、資料が高年に偏しているから、これを修正(小浜1954)すれば、男子は160cmを突破し、北海道アイヌ男子(160.12cm)とも大差なく、また一般日本人平均(160.24cm)にも劣るものではなかろう。


2)下肢長、〓幹長、上肢長とその比例値

これらの測度は身長に相関が高く、
計測値は身長に比例することが多い
が、われわれがさきに指摘したよう
に、アイヌは日本人よりも比下肢長が
大きく、比〓幹長が小さい特徴をもつ
ている。その傾向はとくに北海道純ア
イヌに著しく、混アイヌは和人との中
間にある。樺太アイヌの比下肢長(*
54.94、♀55.28)、比〓幹長(*25.47、
♀25.05)は両性ともに北海道純アイ
ヌに近い。比上肢長もアイヌは一般に
すぐれているが、樺太アイヌも同様に
大きく、とくに女子は北海道純アイヌ
を凌駕する。
樺太アイヌの体部の特性は北海道純
アイヌにもつとも近く、ついで北海道
混アイヌであり、樺太和人とはかなり
(26)
北海道に移住した樺太アイヌの形質人類学的研究 27
第2表 樺太アイヌ体部(測度はcm)
(下肢長は腸骨上前棘高を代用、〓幹長は胸骨上縁高より腸骨上前棘高を引いた測度)
離れている。和人は東北、北陸系であり、畿内系日本人との差異はさらにはなはだしい。
)頭 部 の 計 測 につ いて(第3表 、 第3図) II

第3表 樺太アイヌ頭部(測度はmm)
(頭耳高は間接法による)

第3図 男子頭部の比較
1)頭長、頭巾、頭長巾指数
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja


アイヌ頭部のもつとも著しい特徴は
頭長の大きいことである。日本人のう
ちでは東北、裏日本系が畿内系に比し
頭長は大きいが、アイヌには及ぼな
い。混血アイヌはその中間に位する。
樺太アイヌ男子(194.08mm)は北海
道純アイヌ(197.65mm)よりは小さ
く、日本人としては大きい部類に入る
樺太和人(192.36mm)よりは大きく、
混アイヌ(194.73mm)に近似する。
頭巾は樺太アイヌ(151.85mm)と北
海道アイヌとの間に大差を認めない。
樺太アイヌ女子の頭長(189.60mm)、
とくに頭巾(147.47mm)は北海道ア
イヌよりも大きい。

樺太アイヌ男子の頭長巾指数(78.28)は中頭の中位にあり、北海道純アイヌ(76.55)より大きく、混アイヌ(78.03)に類似している。古屋による樺太アイヌはわれわれの成績よりも頭長(196.9mm)は大きく、頭長巾指数(76.73)は小さく、一層アイヌ的な特性を示し、とくに樺太東海岸に顕著な傾向を認める。樺太アイヌ女子の頭長(189.60mm)とくに頭巾(147.47mm)は北海道アイヌ(188.85,145.19mm)よりも大きく、頭長巾指数(77.85)は北海道純アイヌ(76.91)と混アイヌ(78.38)との中間にあり、樺太和人女子はさらに大きく79.77である。

第4図に示すように、アイヌは長頭または中頭の下限にあるが、頭長はもつとも大きく、頭巾は中等度であり、図の右上方に特異のサークルを形成している。

ミクロネシヤやメラネシヤの一部にも指数として長頭はあるが、頭長、頭巾の絶
対値においてアイヌとは著しい差異を認め、アイヌと同族とは解しがたい。

混血アイヌは日本人の東北・裏日本群と純ア第4図 頭長頭巾よりみた樺太アイヌと近隣種族との関係イヌの中間にある。

樺太アイヌを図上にプロットすると混血アイヌ群の右上に位している。

樺太在住のギリヤーク、オロッコはアイヌとは遠く離れ、短頭または超短頭であり、ツングス 、 蒙 古人サ ー クル に入 り、 ア イ ヌ とは 著 し くへ だ たって い る 。 ー


2)頭耳高、頭長高指数、頭巾高指数

樺太アイヌ男子の頭耳高(128.85mm)は北海道アイヌ(130.52mm)よりやや小さく、長
高指数(66.39)では大差ないが、巾高指数(84.88)ではやや小さい。樺太アイヌ女子の頭耳高(122.40mm)、長高指数(64.56)、巾高指数(83.08)は北海道アイヌよりは小さい。

樺太アイヌの頭部はアイヌ的特性を示すが、北海道純アイヌよりも混血アイヌに類似する。

日本人のうちでは、樺太和人などの東北・裏日本系に近く、畿内日本人やギリヤーク、オロッコとは著しくへだたっている。


)顔 部 計 測 に つ い て(第4表 、II第I 5,6図)

1)頬骨弓巾、頭巾頬骨弓指数(頭顔指数)

平井(1927)は樺太アイヌの頭蓋骨を研究し、顔頭蓋の特徴として、頬骨弓巾、顔面高が北海道アイヌに比し著しく大きいことを報告している。樺太アイヌ女子の頬骨弓巾(137.60(28)


第4表 樺太アイヌ顔部(測度はmm)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja

1)形態顔面高、鼻高Iの計測点は Supraorbitale と正中線の交点、鼻高IIは鼻背最凹点。

2)下顎角巾の計測は Gleitzirkel により両側 Gonion を下方より測る。この方法によれば咬筋附着部の厚さが加わらない。 Tasterzirke1 による従来の計測法は過大である。

第5図 男子顔部の比較(I)

は北海道アイヌ(136.61mm)よりも
大きいが、男子(143.62mm)は北海
道純アイヌ(145.08mm)よりもむし
ろ小さく、指数(94.63)も同様であ
り、混アイヌ(94.95)に近い。女子
は頭巾も大きいから、指数(93.39)
は北海道純アイヌ(94.07)よりも小
さく、混アイヌ(93.39)に近似する。
2)下顎角巾、下顎指数
樺太アイヌ男子の下顎角巾(97.67
mm)、下顎指数(67.84)はともに北
海道アイヌ(98.99mm,68.23)より小
さい。樺太アイヌ女子も同様である。
3)顔面高、顔面指数
樺太アイヌ男子の容貌顔面高(192.64
mm)、形態顔面高(137.67mm)はと
もに北海道アイヌ(191.46,135.43mm)
のそれを凌駕する。指数(134.81,
96.09)においても同じ傾向を認める。
女子についても容貌顔面高(182.31

形態顔面高(130.23mm)は北
海道アイヌ(180.22,126.89mm)より
大きいが、女子は頬骨弓巾も大きいか
ら、容貌顔面指数(132.99)は大差な
いが、形態顔面指数(94.97)では大き
い。樺太アイヌの顔面高は生体におい
ても明らかに大きく、前述の頭蓋(平
井)の特徴を裏がきしている。


4)鼻高、鼻巾、鼻高巾指数
北海道アイヌは和人に比し鼻高は小
さく、鼻巾が大きいことをすでに指摘
したが、樺太アイヌにおいては男子鼻
高I(61.43mm)とくにII(49.50
mm)は北海道アイヌ(59.43,46.30
mm)より大きく、鼻巾(37.50mm)
は北海道純アイヌ(38.51mm)よりは
小さく、混アイヌ(37.20mm)とは大
差ない。従って、樺太アイヌの鼻指数
(61.11)、II(76.04)は 明 らか にI北海道純アイヌ(64.97,83.61)より小さい。女子の鼻高I(57.67mm)、II(44.20mm)は北海道純アイヌ(56.03,41.94mm)よ
り大きいが、鼻巾(36.13mm)もまた大きく、鼻指数I(62.83)では北海道純アイヌ(62.57)と大差なく、II(82.33)では北海道純アイヌ(83.70)と混アイヌ(80.89)との中間にある。

樺太アイヌは両性ともに北海道純アイヌに比し、鼻高IIがとくに高く、鼻背最凹点は上位にあることがわかる。このことはプロフィル計の成績によく示されている。

5)耳長、耳巾、耳長巾指数

樺太アイヌ男子の耳長(66.57mm)は北海道純アイヌ(66.96mm)と大差なく、耳巾
(37.00mm)はやや大きいから、耳指数では樺太アイヌ(55.79)が大きい。女子の耳長(64.
31mm)は大きく、耳巾(35.00mm)は北海道アイヌに近いから、指数(54.42)としては
小さい。
樺太アイヌの顔部の特徴は、北海道アイヌに比し顔面高、鼻高の大きいことである。樺太アイヌの顔部は北海道純アイヌよりも混アイヌ、ついで和人に類似する。
)平 均 偏 差 比 に よ る類 似 度 の 検 討 IV
樺太アイヌ男子平均値を基準として、北海道純アイヌ、混血アイヌ、樺太和人との関係を偏差折線で図示した(第7図)。またこの関係を平均偏差法によって総合し、相互間の類似度を数量的に検討した。体部、頭部、顔部の特性のうち比較的相関の低い項目を選んだ。

体部:身長、比下肢長、比〓幹長、比上肢長
頭部:頭長、頭巾、頭長巾指数、頭耳高、頭長高指数、頭巾高指数
顔部:頬骨弓巾、頭巾頬骨弓指数、下顎角巾、下顎角指数、容貌顔面高、容貌顔面指数、


第7図 樺太アイヌを基準とした偏差折線

HA は北海道純アイヌ、HM は北海道混血アイヌ、SJ は樺太和人
形態顔面高、形態顔面指数、鼻高II、鼻巾、耳長、耳巾、耳長巾指数
樺太アイヌ男子に対するそれぞれの平均偏差比はつぎの通りである。
平均偏差比に示されるように、樺太アイヌは体部については北海道純アイヌ(0.106)にもつとも近似し、ついで混アイヌ(0.243)、和人(0.532)とはかなり離れている。頭部については北海道混アイヌ(0.150)に類似度高く、和人(0.208)これにつぎ、北海道純アイヌ(0.377)とは類似度がやや低い。ギリヤーク(1.795)、オロッコ(1.997)は1σ 以上の偏差を示し、遠く離れている。

顔部については北海道混アイヌ(0.242)に中等度近似し、和人(0.284)
これにつぎ、北海道純アイヌ(0.445)はややへだたっている。

総合類似度からみれば、樺太アイヌは3者のうち北海道混血アイヌ(0.212)にもつとも折い関係を示している。

V)側面観について(第5表、第8図)

第8図は男子について樺太アイヌと北海道日
高アイヌ(池田ほか1956)の側面観を重ねて作
図したものである。われわれのプロフィル計器
の軸は外耳孔上縁に固定され、ほぼ Tragion

第5表プロフィル計による樺太アイヌ側面観の計測
V は耳眼水平面においてOより鉛直な頭頂部の点
は鼻背最凹点 n
第8図 顔部側面観
樺太アイヌと北海道アイヌの比較*
第6表 耳垂型
第6図 味盲率の比較

に一致しているが、池田らの計器の軸は外耳孔
下縁に固定されているから、これを修正して比
較したものである。
樺太アイヌは北海道アイヌに比し Vertex は
低く、 Trichion,Glabella,Nasion (鼻背最凹
点)は高く、しかも後退している。従って樺太
アイヌ頭蓋(平井)の研究に示されているよう
に、前頭側面角は北海道アイヌより小さい。ま
た樺太アイヌ鼻高が大きいことも明らかに認め
られる。 Pronasale,Subnasale より Gnathionまでの各点はやや突出している。
この側面観によって樺太アイヌ顔部の特性が明らかに示されている。

)耳 垂 の 形 態 に つ い て(第6表) VI
北海道純アイヌの耳垂分離型は高率であり96.2%に達する。樺太アイヌは72.59%でやや低いが、和人59.3%よりは高率である。


)味 盲 に つ いて(第9図) VII

アイヌの P.T.C. 味盲については近藤(1951)、吉井・上森(1956)の研究がある。北海道純アイヌの味盲率(3.94%)は低いが、樺太アイヌは5.26%を示してこれに近く、日本人(10〜15%)よりは低率である。


要約
樺太アイヌは、はじめ1875年に北海道に移住し、1905年に樺太に復帰、1945年にふたたび北海道に移住して今日に至っている。したがってその純血度を追求することは、はなはだ困難である。

現代樺太アイヌの形質のうちで原樺太アイヌの特徴として残されている形質は、顔高と鼻高の大きいことである。そのほかの諸特性は認めがたく、恐らくは混血によってその特性を失ったものであろう。

現代樺太アイヌの諸形質を総合すれば、北海道混血アイヌにもつとも近似する。
体部は北海道純アイヌにやや近く、樺太和人とは遠いが、頭部、顔部は北海道純アイヌよりも和人に接近し、ギリヤーク、オロッコとはもつとも離れている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja

32. 中川隆[-15000] koaQ7Jey 2019年12月30日 11:14:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2020] 報告
愛知県田原市伊川津町の2500年前頃の「縄文人」個体(IK002)に 41264ヶ所の一塩基多型を用いると、IK002は現代の北海道アイヌと強い遺伝的類似性を示し、アイヌは縄文人の直接的子孫という以前からの説が支持されます。

IK002は現代の北海道アイヌを除いて、ユーラシア東部および日本列島の現代人集団とはわずかに異なります。IK002系統は、アジア東部系統とアメリカ大陸先住民系統とが分岐する前に、これらの共通祖先系統から分岐したと推測されます。

これらの知見は、縄文人と弥生時代以降にユーラシア東部から日本列島に到来した集団との融合により「本土日本人」が形成され、アイヌは「本土日本人」よりも縄文人の遺伝的影響を強く受けている、との古典的仮説を強く支持します

2019年06月04日
愛知県の「縄文人」のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_9.html

 愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2019)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、興味深い内容なので取り上げます。伊川津縄文人のゲノム解析結果については、すでにアジア南東部の現代人の形成過程を検証した研究で取り上げられていましたが(関連記事)、本論文は伊川津縄文人(IK002)と古代および現代の各地域集団とのより詳しい関係を検証しています。

 本論文はIK002のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAの解析結果を報告しており、その平均網羅率は、ミトコンドリアが146倍、常染色体は1.85倍です。最近公表された北海道の礼文島の船泊遺跡の縄文人のような高網羅率(関連記事)ではありませんが、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の縄文人の部分的なゲノム解析では網羅率が0.03倍以下でしたから(関連記事)、高温多湿な気候で、火山が多く強い酸性土壌のため、古代DNA研究に適していない日本列島の古代人のゲノムデータとして、たいへん貴重だと思います。IK002のmtDNAハプログループ(mtHg)はN9b1で、現代日本人では2%以下と稀ですが、縄文人では典型的です。本論文は、IK002のゲノムデータと、おもにユーラシア東部の古代および現代の人類集団と比較し、縄文人の起源および現代人への遺伝的影響を検証しています。

 化石とゲノムデータの証拠から、アジア東部現代人集団と関連する系統は、4万年前頃にはアジア東部に存在していた、と考えられています。これは4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性のゲノムデータに基づいています(関連記事)。アフリカからユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散経路としては、ヒマラヤ山脈の北方もしくは南方が想定されています。現代人のゲノム解析では、アジア東部集団の南方経路起源を支持する研究があります(関連記事)。IK002と8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民との遺伝的類似性からも、アジア東部集団の南方経路起源が支持されます(関連記事)。

 考古学的記録では、ユーラシア圏東端の日本列島において38000年前頃以降の石器が確認されており、シベリア中部のバイカル湖周辺地域に由来すると思われる細石刃が、北海道では25000年前頃以降、本州・四国・九州の日本列島「本土」では20000年前頃以降に見られます。しかし、日本列島では更新世の人類遺骸はほとんど発見されていません。この後、日本列島では16000年以上前に土器の使用が始まり、土器の使用としては世界でも古いと言うるでしょう。土器の使用以降を、狩猟・漁撈・採集で特徴づけられる縄文時代と定義する時代区分区もあります(関連記事)。考古学的証拠では旧石器時代から縄文時代への継続性が指摘されており、縄文人がおそらく最終氷期極大期末まで日本列島で孤立したままの旧石器時代集団の直接的子孫である、という仮説が提示されています。そのため、縄文時代のさまざまな分野の研究は、アジア東部集団の起源と移住の理解に重要となります。

 IK002と世界各地の古代および現代の人類集団とのゲノムデータの比較の結果、IK002は現代のアジア南東部および東部集団と4万年前頃の華北の田园男性系統との間に位置する、と明らかになりました。41264ヶ所の一塩基多型を用いると、IK002は現代の北海道アイヌと強い遺伝的類似性を示し、アイヌは縄文人の直接的子孫という以前からの説が支持されます。IK002は現代の北海道アイヌを除いて、ユーラシア東部および日本列島の現代人集団とはわずかに異なります。IK002系統は、アジア東部系統とアメリカ大陸先住民系統とが分岐する前に、これらの共通祖先系統から分岐したと推測されます。

 より詳しく述べると、ユーラシア集団が東西に分岐した後、ユーラシア東部系統では田园男性系統が分岐します。その後、ユーラシア東部系統はアジア東部・アジア北東部およびシベリア東部集団(NS-NA)系統とアジア南東部系統に分岐します。この後、36000±15000年前頃にアジア東部系統とNS-NA系統が分岐する前に、IK002系統が分岐します。なお、アジア東部系統とNS-NA系統の間には、36000±15000年前頃に分岐した後も、25000±1100年前頃まで遺伝子流動があり、アメリカ大陸先住民系統はアジア北東部およびシベリア東部系統と22000〜18100年前頃に分岐した、と推測されています(関連記事)。IK002系統は36000±15000年前頃よりも前にアジア東部・NS-NA系統と分岐したと推測されるので、縄文人系統は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解を本論文は支持しています。この系統関係は、以下に引用する本論文の図4で示されています。


 IK002系統のアフリカからの拡散経路については、シベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃の少年のゲノムデータ(関連記事)との比較から推測されました。マリタの少年(MA-1)を北方経路の古代ユーラシア北部集団と仮定すると、ユーラシア西部集団にも遺伝的影響を及ぼした古代ユーラシア北部集団から、NS-NA系統およびそこから派生したアメリカ大陸先住民系統への遺伝子流動は確認されたものの、IK002を含む古代および現代のアジア南東部および東部集団への遺伝子流動はなかった、と明らかになりました。これは、アジア東部集団がアフリカから南方経路でユーラシア東部へと拡散してきたことを示唆します。

 IK002系統がアジア東部系統と基底部で分岐していることから、現代のアジア東部集団へのIK002(縄文人)系統の影響はわずかと予想されます。しかし現代人では、日本人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・ロシアのオホーツク海沿岸〜沿海地域の少数民族は、他のアジア東部集団と比較してIK002と顕著に多くのアレル(対立遺伝子)を共有しており、これは7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)も同様です。一方、ユーラシア東部内陸部集団にはIK002との遺伝的類似性は見られず、8000年前頃には、ユーラシア東部内陸部のIK002関連系統は、完全ではないとしても、おおむね後の移民により置換されたか、そもそも存在しなかった、と示唆されます。IK002との遺伝的類似性は、ユーラシア東部圏沿岸地域集団のみで見つかっており、古代および現代のユーラシア東部内陸部集団では見つかっていません。ユーラシア東部圏沿岸地域集団のうち、台湾先住民のアミ人およびタイヤル人とフィリピンのイゴロット人(Igorot)はオーストロネシア系で、台湾先住民はユーラシア大陸東部から13200±3800年前頃に到来したと考えられていますが、イゴロット人の起源はまだよく分かっていません。

 IK002との遺伝的類似性がアジア東部内陸部より沿岸部で顕著なのは、アジア東部への現生人類の最初の移住の波が、南方からの沿岸経路による北上だったことを示唆します。あるいは、最初の移住の波は沿岸経路だけではなく陸路もあったものの、最初の移住の波の遺伝的構成が、内陸部では北方から南方への逆移動などにより消滅した、とも考えられます。アジア東部に限らず、初期現生人類の拡散経路として沿岸は注目されており、舟による海上移動もあったのではないか、と推測されています。しかし、更新世の舟は考古学的証拠として残りにくい、という問題があります。それでも、オーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニア島・タスマニア島と陸続きでサフルランドを形成していました)のようにユーラシアからの移住にさいして渡海が必要な地域もあることから、更新世の現生人類が航海をしていたことは確実だと思います。

 これらの知見は、IK002系統も含めてアジア東部集団がアフリカから南方経路でユーラシア東部へと拡散してきて、IK002系統およびその近縁系統はおもにユーラシア東部沿岸を北上してきた、と示唆します。しかし上述のように、北海道の旧石器時代集団では25000年前頃、日本列島「本土」では20000年前頃以降に、シベリア中央部のバイカル湖周辺地域起源と考えられる細石刃技術が確認されています。古代ユーラシア北部集団の遺伝的影響が、IK002系統も含む古代および現代のアジア南東部・東部集団で見られないことと、日本列島における25000年前頃以降のバイカル湖周辺地域起源の細石刃技術の存在をどう整合的に解釈するのかは、難しい問題です。本論文は、古代ユーラシア北部集団が細石刃技術を開発した集団ではない可能性と、古代ユーラシア北部集団の遺伝的影響を受けたNS-NA集団からの文化伝播の可能性を想定しています。この問題の解明には、バイカル湖周辺地域とロシアのオホーツク海沿岸および沿海地域の、細石刃技術を有する集団のゲノムデータが必要になる、と本論文は指摘しています。

 また、これらの知見は、縄文人と弥生時代以降にユーラシア東部から日本列島に到来した集団との融合により「本土日本人」が形成され、アイヌは「本土日本人」よりも縄文人の遺伝的影響を強く受けている、との古典的仮説を強く支持します。IK002系統からの遺伝的影響の推定は難しく、かなり幅があるのですが、本論文は、「本土日本人」に関しては8%程度の可能性が最も高い、と推定しています。一方、アミ人へのIK002系統からの遺伝的影響は41%と「本土日本人」よりずっと高く、統計量で示された、「本土日本人」の方がアミ人よりもIK002と遺伝的類似性が高い、との結果とは逆となります。これは、アミ人がIK002系統から早期に分岐した異なる集団からの強い遺伝的影響を受けたからではないか、と本論文は推測しています。これは、IK002系統がホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民系統と近縁な系統から遺伝的影響を受けて成立したこと(関連記事)とも関係しているのではないか、と本論文は指摘しています。

 本論文の見解は、福島県の3000年前頃の縄文人の部分的なゲノム解析(関連記事)や、最近公表された北海道の縄文人の高品質なゲノム配列(関連記事)とおおむね合致するものだと思います。その意味で、縄文人は独自の遺伝的構成の集団であると、改めて示されたと言えるでしょう。本論文が指摘するように、ユーラシア東部集団の移住史を理解するには、古代ゲノムデータはまだ不足しています。それだけに、今後大きな発展が期待されます。今後、縄文人とより遺伝的に類似した古代ユーラシア東部集団か確認される可能性は高いと思いますが、遺伝的に既知の縄文人の範囲内に収まる集団が日本列島以外で発見される可能性はきわめて低いと思います。縄文人の現代「本土日本人」への遺伝的影響については、まだ推定の難しいところだと思います。今後、西日本の縄文人のゲノムデータが蓄積されていけば、縄文人の現代「本土日本人」への遺伝的影響は、北海道や伊川津の縄文人(IK002)から推定されているよりも高くなるのではないか、と予想しています(関連記事)。

参考文献:
Gakuhari T. et al.(2019): Jomon genome sheds light on East Asian population history. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/579177

https://sicambre.at.webry.info/201906/article_9.html

33. 中川隆[-14999] koaQ7Jey 2019年12月30日 11:44:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2019] 報告

本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800〜3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました。
現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9〜15%、琉球集団では27%です。

 従来の諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。

アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

2019年06月01日
北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

 北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)が公表されました。この研究についてはすでに報道されていました(関連記事)。この研究はオンライン版での先行公開となります。現代日本人は大きく、アイヌ集団・「本土」集団・琉球集団に区分されます。現代日本人の起源は人類学・考古学・遺伝学で長く議論されており、縄文人が共通の祖先集団となっていることについては、おおむね共通認識になっている、と言えるでしょうが、縄文人と縄文時代以後の渡来集団の現代人への遺伝的影響度合など、これらの集団はそれぞれ異なる形成史を有する、と推測されています。

 さらに、縄文人の起源についても、形態学ではアジア北東部説と南東部説が提示されており、明確ではありません。20世紀第4四半期以降、縄文人のDNA解析も進められ、まずミトコンドリアDNA(mtDNA)で始まり、その後は核DNAも対象となり、ゲノム規模のデータも報告されています(関連記事)。しかし、高品質とは言えないのでその網羅率は高くなく、縄文人の遺伝的特徴を理解するのに充分ではありませんでした。これまで、縄文人の遺伝的特徴に関しては、本土集団よりも縄文人の遺伝的影響を強く保持していると推測されてきた、アイヌ集団と琉球集団から間接的に推測されてきました。

 本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800〜3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました(DNA配列の深度のピークは、F5が1倍、F23が48倍です)。DNA解析からF5は男性、F23は女性と推定され、これは形態学的所見と一致します。この船泊縄文人のゲノムデータは世界各地の現代人および古代人と比較され、縄文人の遺伝的特徴がじゅうらいよりもずっと詳細に明らかになりました。

 F5もF23もmtHg-N9b1で、以前の研究と一致します。ただ、両者ともN9b1のサブグループであるN9b1a・N9b1b・N9b1cには分類されませんでした。F5はYHg-D1b2bで、これまで「縄文系」のYHgで詳細に分類できていた個体は全員D1b2aだったので(関連記事)、縄文系としては初めて確認されたD1b2bということになりそうです。いずれにしても、縄文系のYHgでは、現代日本人のYHg-Dにおいて多数派となるD1b1(32.7%、その他のD1bは6.1%)はまだ確認されていないことになります。この問題は最近取り上げましたが(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1が縄文人由来なのか、それとも弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団由来なのか判断するには、日本列島も含めてユーラシア東部の古代DNA研究の進展が必要だと思います。

 F23のゲノムから表現型も推測されています。F23の血液型は、ABO式ではA(AO)、Rh式ではRhD+です。ただ、ABO式血液型のAx02のアレル(対立遺伝子)では、縄文人のAx0201とAx0202は現代日本人も含む他集団では稀です。シャベル状切歯の程度はわずかで、歯冠サイズは中間的と推定され、これまでに報告されてきた縄文人の特徴と一致します。ただ、F23に切歯は残っていないので、じっさいに形態と一致するのか、確認できませんでした。F23の髪は細いと推測されています。F23の耳垢は湿性で、これは縄文人も含むアジア北東部集団において多数派だったと考えられています。F23のアルコール耐性は高く、肌と虹彩の色は中間程度の濃さと推定されています。F23の身長型スコアはやや低く、アジア東部の現代人集団と比較して身長が低い、と示唆されます。これらのF23の特徴は、形態学からしてきされていた、低身長、弥生時代以降の農耕民より小さな歯、現代アジア東部集団と比較しての非シャベル状切歯頻度の高さなどといった縄文人の特徴とよく合致しています。

 F23の色素関連遺伝子(MC1R)の多様体からは、ソバカスや深刻なシミ(日光黒子)の危険性の高さが推測されています。また、F23は心筋症や統合失調症と関連した多様体を有していました。F23がホモ接合型で有している、CPT1A遺伝子の多様体(p.Pro479Leu)はF5でも見られます。CPT1A遺伝子は脂肪酸代謝に必須で、F23の多様体は、ケトン性低血糖症や乳幼児死亡率の高さといった疾患、インシュリン抵抗性の低下、身長や体重など体格の低下と強く関連しています。この多様体は北極圏の先住民集団では70〜90%と高頻度で見られますが、他集団ではほぼ見られません。これは、高脂肪食や寒冷環境への適応と関連しており、脂肪の豊富な海生哺乳類を主要な食資源としていたことを反映しているのではないか、と推測されています。じっさい、同位体分析により、船泊縄文人は陸生および海生動物を食べていた、と推測されています。ただ、この多様体の起源がどの集団にあるのか、また北東部縄文人に共通しているのか、まだ明らかではありません。

 F23は現代人と比較してヘテロ接合性が低く、ホモ接合性が高い、と明らかになりました。これは、F23の遺伝的多様性の低さを示します。しかしF23は、長いホモ接合性領域が近親婚による個体と比較して少なく、直近世代での近親婚はなかっただろう、と推測されています。形態学的類似性と抜歯のような共通習慣から、北海道の最北部と南西部では文化的・遺伝的交流があったと推測されており、近親婚が避けられていた、と考えられます。F23の遺伝的多様性の低さと関連して、船泊縄文人集団系統の人口規模は小さく、次第に有効人口規模が小さくなっていったのではないか、と推測されます。具体的には、7700世代よりも前には20000人、7700世代前には10000人、2500世代前には5000人、100世代前には200人と減少していった、と推定されています。1世代を20〜30年と仮定すると、50000年前頃以降に顕著に有効人口規模が低下していったと推測され、これは現生人類(Homo sapiens)のアフリカから世界各地への拡散に伴う創始者効果と対応しているのでしょう。

 船泊縄文人(F23)は三貫地縄文人(関連記事)と同じく、アフリカ人・ヨーロッパ人・サフルランド(更新世寒冷期に陸続きになっていてたオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島)人・アメリカ大陸先住民よりも、ユーラシア東部集団と遺伝的に密接でした。アジア東部集団との比較では、船泊縄文人は他の現代ユーラシア東部集団とは異なっており、現代日本人は船泊・三貫地・伊川津の縄文人とユーラシア北東部集団との間に位置します。船泊・三貫地・伊川津の縄文人は、他の集団との比較で遺伝的に相互に密接な関係にあります。

 船泊縄文人系統は、パプア系統とユーラシア東部系統が分岐し、次に4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性(関連記事)系統と他のユーラシア東部系統が分岐した後、ユーラシア東部系統とアメリカ大陸先住民系統が36000±15000年前頃に分岐する前に、ユーラシア東部系統と分岐した、と推定されています。ただ、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。漢人と船泊縄文人との分岐は、38000〜18000年前頃と推定されており、この期間に船泊縄文人系統は他のユーラシア東部系統と分岐したのでしょう。なお、アメリカ大陸先住民は、ユーラシア東部系統と田园系統が分岐した後のユーラシア東部系統だけではなく、ヨーロッパ系統と近縁なシベリア南部中央系統(古代ユーラシア北部集団)の強い遺伝的影響を受けています(関連記事)。

 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な地域集団は、現代人ではアムール川下流域のウリチ人(Ulchi)・韓国人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・イゴロット人(Igorot)などのフィリピン人・日本人で、古代人では7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)です。いずれもアジア東部沿岸圏に存在します。船泊縄文人との遺伝的距離では、漢人は日本人・韓国人・台湾先住民よりも遠く、YHgでは船泊縄文人および日本人と密接なチベット人も、ゲノム解析では他のアジア東部集団と比較して、とくに船泊縄文人と近縁というわけではありませんでした。漢人など多くのアジア北東部集団よりも船泊縄文人と遺伝的に近い現代人集団の中では、日本人が最も近く、ウリチ人がそれに続き、その後が韓国人・アミ人・タイヤル人です。

 注目されるのは、F23が他のほとんどのアジア東部集団よりもオーストラリア大陸先住民と多くのハプロタイプを共有していた、と推定されたことです。アマゾンの一部アメリカ大陸先住民集団にはオーストラレシア人の遺伝的影響が指摘されていますが(関連記事)、船泊縄文人とほとんどのアジア東部集団は、このアマゾンの祖先集団とは近縁ではない、と推測されています。この問題は謎めいており、解明には現代人と古代人のゲノムデータのさらなる蓄積が必要となるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と現生人類(Homo sapiens)との交雑はすでによく知られているでしょうが(関連記事)、F23のゲノムへのネアンデルタール人およびデニソワ人の影響は、アメリカ大陸先住民集団やアジア東部集団とほぼ同じです。

 上述のように、船泊縄文人ではmtHg- N9b1とYHg- D1b2bが確認されています。mtHg- N9bとYHg- D1bはいずれもほぼ日本列島にのみ存在し、共通祖先の推定年代は、前者が22000年前頃、後者が19400年前頃です。現代のユーラシア東部集団に遺伝的影響を残していない新石器時代ユーラシア東部集団が日本列島に拡散し、船泊縄文人も含む北部縄文人の祖先になった可能性もありますが、本論文は、北部縄文人を日本列島の更新世集団の子孫という見解を支持しています。

 上述のように、船泊縄文人は、アジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁です。これはゲノムデータだけではなく、mtHgでも同様です。これに関しては、アジア東部沿岸地域への最初の移住集団を共有しているか、縄文人系統が他のアジア東部集団と分岐した後の遺伝子流動が考えられます。上述した日本人とウリチ人の船泊縄文人との遺伝的近縁性の高さと、ウリチ人の祖先集団と考えられる悪魔の門集団と船泊縄文人との遺伝的類似性の低さからも、両者の間の遺伝子流動が支持されています。しかし、韓国人やアミ人やタイヤル人に関しては、どちらの仮説がより妥当なのか、判断は困難で、もっと多くのゲノムデータが必要と本論文は指摘します。

 上述のように、船泊縄文人は漢人よりも日本人やウリチ人や韓国人や台湾先住民といったアジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁なのですが、漢人よりもさらに遠い関係にあるのが、タイなどのアジア南東部集団です。船泊縄文人と漢人やアジア南東部集団との関係について本論文は、(1)未知の集団とアジア南東部祖先集団との交雑、(2)船泊縄文人系統と漢人関連古代集団との間の分岐後の遺伝子流動、(3)船泊縄文人およびアジア北東部大陸集団の共通祖先とアジア南東部集団との分岐後に、古代アジア南東部集団が大陸部アジア北東部集団と交雑した、という可能性を想定しています。本論文は、カンボジア人における遺伝的にヨーロッパ集団ともアジア東部集団とも等距離にある未知のユーラシア集団からの16%ほどの遺伝的影響から、(1)を支持しているものの、その他の2仮説のさらなる検証の必要性も指摘しています。

 現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9〜15%、琉球集団では27%です。

 じゅうらいの諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。これらのシベリア北東部集団は、現代人ではアムール川下流域の集団と近縁と推測されていますが、アイヌ集団の形成過程のより詳細な解明も、アジア北東部の古代DNA研究の進展が必要となります。アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが(関連記事)、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

 本土集団と琉球集団は、先住の縄文人と後に渡来した人々との混合と考えられます。この後に渡来した集団は、おそらく弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した農耕民で、現代人では韓国人や漢人と遺伝的に近縁です。もちろん、現代の韓国人や漢人も歴史的に形成されてきたわけで、紀元前9世紀〜紀元後6世紀にかけて日本列島に到来したアジア東部集団の遺伝的構成が、そのまま現代の韓国人や漢人と同じというわけではありません。本土集団における縄文人の遺伝的影響は高くとも15%程度と本論文では推定されていますが、この数字が独り歩きすることは懸念されます(関連記事)。上述したYHg-D1b1の問題からも、縄文人は均質的でありながらもある程度の地域差があり、本土集団に大きな影響を残しているのは西日本の縄文人とも考えられるからです。現代日本人の起源については、日本列島のみならずユーラシア東部の古代ゲノムデータの蓄積が必要で、日本人の私は今後の研究の進展をたいへん楽しみにしています。


参考文献:
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415

https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

34. 中川隆[-14970] koaQ7Jey 2020年1月01日 16:07:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1984] 報告

2019年10月03日
オホーツク文化人のハプログループY遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html

 一定以上の有名人の発言でも、イランは「広義のアラブ」というような、どうにも拡散・定着しそうにない馬鹿げたものを揶揄するように取り上げる(関連記事)のは時間の浪費だと考え、当ブログでわざわざ言及することはやめよう、と最近では心がけています。しかし、現代日本社会において、一定以上の比率で存在するだろう特定の政治的志向の人々の間でもてはやされ、定着しかねない与太話に関しては取り上げる価値があると考えているので、Y染色体について検索していて見かけた、以下に引用する表題の発言について私見を述べます。

これは擦文人との関係ではなくオホーツク文化人のハプログループY遺伝子を引き継いでいるという記事です。つまりオホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明。すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されているのでアイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね。

 まず、「ハプログループY遺伝子」という用語からして不適切です。ハプログループとは、類似したハプロタイプの集団のことです。ハプロタイプとは、ヒトのような二倍体生物では、単一の染色体上のアレル(対立遺伝子)の組み合わせです。ハプログループとは特定の遺伝子のことではなく、ハプログループの分類名の後に遺伝子をつけるような用語は不適切です。

 次に、上記発言は、2009年の北海道新聞の記事を引用したブログ記事に基づいており、そこでもすでに「Y遺伝子」とありますが、これはおそらく、紀元後7〜13世紀のオホーツク文化集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)を解析し、そのハプログループ(mtHg)を決定した研究(Sato et al., 2009)に基づいていると思います。この研究は、北海道「縄文人」にはmtHg-Yが見られないのに対して、現代アイヌ集団には20%弱存在することから、現代アイヌ集団は北海道の続縄文時代および擦文時代の集団とオホーツク文化集団との混合により形成された、と推測しています。つまり、「オホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明」となる研究ではありません。上記発言では「すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されている」とありますが、それがこの研究を指しています。

 おそらく上記の発言主は、「ハプログループY遺伝子」とあるので、Y染色体ハプログループ(YHg)についての研究だと誤認したのでしょう。ちなみに、現時点でもYHgの分類名でまだYは割り当てられていません。率直に言って、この程度の認識で「アイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね」と発言するのは、たいへん恥ずかしいことだと思います。以前当ブログでもこの問題を取り上げましたが(関連記事)、実は5年近く前(2014年11月18日)に、的場光昭氏でさえ、

「アイヌ民族の特徴であるY遺伝子がない。」は、体細胞核にあるY染色体と混同される恐れがあるので、誤解を招きます。
ミトコンドリアDNAのハプログループYと訂正お願いします。

と懸念を表明していたくらいでした。上記発言は、的場氏の懸念が杞憂ではなかったことを証明してしまいました。率直に言って、アカウントを削除してもおかしくないくらいの失態だと思うのですが、こういう発言をする人は多くがふてぶてしいので、今後もアイヌ問題関連で遺伝学的研究を都合よく理解して、というか誤認して恥ずかしい発言を続けるのでしょう。なお、検索してみたところ、すでに北海道新聞の記事で「ハプログループY遺伝子」となっており、上記のブログ記事や発言主にも多少は同情の余地があるかもしれませんが、遺伝学的観点からアイヌの由来を語っているわけですから、やはりアカウント削除級の恥ずかしい間違いとの私見は変わりません。


参考文献:
Sato T. et al.(2009): Mitochondrial DNA haplogrouping of the Okhotsk people based on analysis of ancient DNA: an intermediate of gene flow from the continental Sakhalin people to the Ainu. Anthropological Science, 117, 3, 171–180.
https://doi.org/10.1537/ase.081202

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html

35. 中川隆[-14313] koaQ7Jey 2020年1月20日 18:12:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1215] 報告
麻生太郎の“単一民族”発言への擁護とアイヌヘイトが跋扈するなか、アイヌのアイデンティティを描いた『熱源』が直木賞を受賞!
https://lite-ra.com/2020/01/post-5215.html
2020.01.20 麻生太郎“単一民族”発言もアイヌを描いた『熱源』が直木賞受賞 リテラ

       
       アイヌを描いた直木賞受賞作『熱源』


 麻生太郎財務相が13日、「日本は2000年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない」と発言し、大きな批判の声があがっている。言うまでもなく、日本は単一民族国家ではない。沖縄はかつて琉球王国だったし、日本列島にもたとえばアイヌなどの先住民族がいた。アイヌが先住民族であることは学術的に議論の余地のない事実であり、政府も昨年5月に施行した「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(いわゆる「アイヌ新法」)で明確に認定している。

 ところが、SNSではネトウヨたちが麻生太郎の「単一民族」発言に同調している。昨日19日放送の『サンデーモーニング』(TBS)で青木理氏が麻生氏の発言の間違いと差別性を指摘したところ、ネットは青木氏への攻撃で溢れ返った。

 さらにネトウヨたちは「アイヌは先住民族ではない」「アイヌは存在しない」「アイヌへの差別はなかった」「アイヌは嘘をついて特権を享受している」なるデマまで盛んに吹聴している。この“アイヌヘイト”とも呼ぶべき状況は、とりわけ、アイヌが先住民族であることを明記した「アイヌ新法」成立後に加速している。北海道新聞1月18日付によれば、政府が昨夏おこなったアイヌ新法施行に伴う基本方針案のパブリックコメントに寄せられた6305件のうち大半がアイヌ民族を否定するなどの差別的な表現で占められていたという。

 こうしたゆゆしき状況のなか、アイヌを否定するレイシズムと歴史修正主義に真っ向から対峙した小説が注目を浴びている。今月15日、半期恒例の芥川賞と直木賞の受賞作品が発表され、樺太のアイヌたちを中心に描いた『熱源』(川越宗一/文藝春秋)が直木賞に輝いたのだ。

 作者の川越宗一にとって第二作目にあたる『熱源』は、日本発の南極探検隊に参加したアイヌの一人として知られるヤヨマネクフ(和名・山辺安之助)と、ポーランド共和国の初代国家元首の兄で文化人類学者のブロニスワフ・ピウスツキという、実在した二人の人物が主人公。純粋なノンフィクションではないが、巻末の主要参考文献には様々な史料が並べられており、読後感は重厚な歴史小説のそれだ。

 ヤヨマネクフとブロニスワフという同世代の二人を中心として、物語は明治初期から第二次世界大戦までの極東とヨーロッパを股にかける。ロシアから独立を果たしたポーランド共和国“建国の父”ユゼフ・ピウスツキや、大隈重信、二葉亭四迷、金田一京助らが絡んで織りなすスケールは圧巻。導入だけでも紹介しておこう。

 物語は西暦1880年代後半、明治初期から始まる。ヤヨマネクフは樺太(サハリン)生まれのアイヌ。日本とロシアが1875年に締結した樺太千島交換条約で、樺太はロシア領となっている。ヤヨマネクフは9歳のときに北海道へ渡らされ、同じ樺太アイヌの親友・シシラトカ(和名・花守信吉。のちに南極探検隊に参加)や、和人とアイヌの血を引く千徳太郎治(のちに『樺太アイヌ叢話』などを著す教育者)ら仲間とともに、対雁の開拓地で青年期を過ごす。だが、その対雁と来札のアイヌ集落を疫病が襲う。ヤヨマネクフは、ある思いを胸に故郷である樺太へ帰還する。

 一方のブロニスワフは現在のリトアニア生まれ。リトアニアは中世に隣国・ポーランドと連合したが、戦争によって18世紀末にポーランド・リトアニア共和国は解体。大部分がロシア帝国の領土となっている。ポーランドの独立・革命志向を持つ大学生のブロニスワフは、アレクサンドル・ウリヤノフ(レーニンの兄)らとロシア皇帝暗殺を計画した罪で樺太へ流刑となる。入植囚として労役するなか、現地のニヴフ(ギリヤークとも。少数民族)の人々との交流を始めるブロニスワフ。あるきっかけから、樺太アイヌら少数民族を研究する学者となる。

 この“故郷”を求める二人が、20世紀始めの樺太で邂逅する。そこから、大国ロシアと新興国日本に翻弄されるアイヌたち少数民族の人々の生活を中心に、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と年月を重ねながら、まるで運命の歯車とでも呼ぶべき物語が本格的に始動していくことになる──。

■『熱源』が描く、帝国主義、優生思想、レイシズム、そして少数民族のアイデンティティ

 詳しくはぜひ『熱源』の小説世界を体験してほしいが、とりわけ、読む者の胸を打つのは、世界的な近代化の流れのなか、日本やロシアという“文明”や“帝国主義”に押しつぶされそうになるマイノリティが、葛藤しながら、自分たちの「アイデンティティ」を取り戻そうとする姿だ。

 そもそも、現在の北海道や千島、樺太などで狩猟採集生活を営んでいたアイヌは、日本語とは異なる独自の言語や信仰、文化、生活様式を持つ少数民族である。ところが明治維新以降、日本政府は「蝦夷地」と呼んでいた地域を北海道と改称し、本州の和人による移住・開拓が強行される。政府は同化政策を強行し、富国強兵の「臣民化」の流れで、アイヌは住む場所や文化・生活を奪われていった。和人はアイヌら北方の少数民族を「土人」などと呼び、差別的に扱っていた(そのことは、1899年制定の「北海道旧土人保護法」の名称にも表れている)。

 世界的な帝国主義の潮流に遅れを取るまいとする明治維新後の日本政府は、アイヌたち少数民族を怠惰で非文明的な「土人」と捉えて、日本語を教え、日本式の風習を叩き込み、「立派な日本人」に同化させようとした。それは、「先進国」であるヨーロッパの大国が、非ヨーロッパの人々を「野蛮人」とみなし、「啓蒙」によって支配下に置こうとする構図の再生産だった。

 作中では、ヤヨマネクフとブロニスワフが樺太で初対面するシーンで、こんなやりとりがなされる。ロシア領の樺太で、少数民族のための識字教室を開きたいと言うブロニスワフ。「ロシア語なんか覚えてどうする。俺たちに、ロシア人になれってのか」と訊くヤヨマネクフ。通訳をする太郎治が、和人はアイヌの窮乏と減少に「アイヌは劣っているから滅びる定めの人種」などという「優勝劣敗」の道理を持ち出すと説明する。ブロニスワフはこう語る。

〈「外国人や異民族を蔑む風習は古今東西を問わずにありますが、優劣のある人種というグループ間で生存競争が続いているというのは、欧州で生まれた学説です」
「あんたも欧州の学者だろう。そう思っているのかい」
 対雁・来札の光景を思い起こした。あれが道理だとすると、やりきれない。
「学者だから言うのですが、その学説は誤解されています。私はその誤解を解くために、学問をしているようなものです」
「どうして誤解と言える」
「劣っている人など、見たことがないからです」
 学者の表情は微笑んだままだが、声には強い確信があった。
「私が生まれた育った国はロシア帝国に呑み込まれ、ロシア語以外は禁じられています。国の盛衰はともかく言葉を奪われた私たちはいつか、自分が誰であったかということすら忘れてしまうかもしれません。そうなってからでは、遅いのです」〉(『熱源』)

 当時、最新の学説だった進化論は、”優秀な種が劣等な種を滅ぼす弱肉強食の原理”と曲解され、ナチスの優生思想へと結びついた。こうしたレイシズム(人種主義)あるいはエスノセントリズム(自民族優越主義)のモチーフは、作中で繰り返し描かれる「強者が弱者を支配する」という帝国主義の論理と重なり合う。『熱源』は、日本やロシアという帝国の都合で故郷・文化を奪われつつある樺太アイヌを描くことを通じ、娯楽時代小説の枠を超えた「アイデンティティ」という文学的主題を浮かび上がらせているのだ。

■麻生批判は切り取りではない。異なる民族、文化、アイデンティの同化強制だ

 今回、「日本は単一民族国家」発言で問題になった麻生太郎財務相は、批判を受け、「誤解が生じているなら訂正してお詫びする」などと述べたが、2005年にも「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言している。反省しているとは到底思えない。

 しかも、麻生発言が強く批判されて当然なのは、単に明治新政府による“神話”を鵜呑みにしたデマであるからということではない。この発言が、明らかに日本民族の優位性を喧伝し、外国人や少数民族の同化を肯定する文脈で出てきたものだからだ。

 あらためて確認しておくが、発言が飛び出したのは今月13日、麻生が地元の福岡県直方市で開いた国政報告会でのことだ。「発言の全容」を報じたFNNは、〈去年のW杯での日本代表の活躍を契機としたラグビー人気向上に触れた上で、「インターナショナル化する中での日本」について、聴衆に語った〉として、このように伝えている。

「インターナショナルになっていることは間違いない。そして、それが力を生んでいるんだから。我々はそこが大事なんだから。純血守って何も進展もしないんじゃなくて、インターナショナルになりながら、きちんと日本は日本を大事にし、日本の文化を大事にし、日本語をしゃべる。そしてお互いにがんばろう、ワンチーム。日本はすげーというのでやって、それで世界のベスト8に残った。いいことですよ。私はそういった意味では、ぜひ日本という国がこれからもインターナショナルな世界の中で、堂々と存在感を発揮して、やっぱり日本という国は偉え……。だから2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてくれと。ヨーロッパ人の人に言って誰一人反論する人はいません。そんな国は他にない」

 ネトウヨたちは、「やっぱり悪意ある切り取られ方をしていた」とか「全文を読めば何も間違ってない」などと嘯いているが、なにを言っているのだろうか。麻生財務相が得意げに語っているのは、ダイバーシティの尊重でもなんでもない。むしろ真逆だ。

 麻生の「日本は単一民族国家」発言は、「日本はすげーというのでやって」「やっぱり日本という国は偉え」という“日本礼賛”に続いて出てきたものだ。多様性を「偉い日本」に無理やり収斂させて、異なる国籍や民族、文化、アイデンティの同化を肯定しているとしか言いようがない。そのうえで、アイヌら少数民族の存在を完全に無視して、「2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝」は「ここしかありません」「いい国なんだ」と宣うのは、戦中の「天皇を中心とした神国日本」「万邦無比の神の国」なる虚妄と同根である。

 敗戦までの大日本帝国は、台湾や朝鮮の人々を天皇の「臣民」として同化することで、戦争に動員した。アイヌたち少数民族もそうだ。「インターナショナル化」でも「ワンチーム」でもなんでもなく、実際には差別し、文化や言語を収奪し、強制的に「日本人」に組み込んだのである。しかも、麻生の発言からは、「優れた民族が劣った民族をとりこんで当然」という優生思想的な感覚すら漂っている。それこそまともな民主主義先進国であれば一発で首が飛ぶ問題発言だ。

 麻生太郎はこれまでも問題発言を何度も繰り返してきた。だが、いつのまにかそれが「当たり前」かのように受け取られるようになり、本人も安倍首相も平然としている。こうした剥き出しの差別思想がスルーされる状況が、ネトウヨたちにお墨付きを与え、レイシズムと歴史修正主義を増長させてきたのではないか。

 「アイヌは存在しない」などというヘイトがはびこり、政治家がそれを増幅させているいまだからこそ、多くの人に『熱源』という作品を読んでもらいたい。そして、この差別と抑圧の根源がどこにあるのかをあらためて考えてほしい。

36. 中川隆[-13115] koaQ7Jey 2020年4月02日 12:16:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1791] 報告
関東人と関西人は遺伝子から違う?日本人は8つの遺伝的グループに分かれているという研究 2020/03/31
https://nazology.net/archives/55425


私たち日本人は8つの遺伝的な亜集団にわかれていることがわかった/Credit:Nature Communications
point

日本人は8つの遺伝的に異なる亜集団にわかれている
地域的な遺伝差は身長や薬の効き目に影響する
8つの亜集団の全てが沖縄にルーツを置いている

これまでの研究によって、人種間の遺伝子には少なくない違いがあることが明らかになってきました。

熱さへの耐性、寒さへの耐性、渇きへの耐性、低酸素環境への耐性など、様々です。

医薬品の効き目などもその一つであり、人種によってかなり効果が異なることが明らかになりつつあります。

しかし最近の研究により、同じ国に住む同じ民族でも、地域によって薬の効き目などが異なることがわかってきました。
そのような地域差は文化に由来するものだと考えられてきましたが、十分な科学的根拠は存在しませんでした。

そのため今回、日本人の研究者によって国内における、大規模な地域間の遺伝子の差が調べられることになりました。

予想が正しければ、地域間の遺伝子差は(人種程ではないにしても)身体的な差にも大きく影響しているはずです。

ただ地域差は人種差に比べて違いがわずかであり、これまでのような人間の認識力だけでは区別できません。分析にあたってはAIによる機械学習を応用することになりました。

その結果、日本人は遺伝的に8種類に及ぶ多様な遺伝的グループに分かれていることが判明しました。

日本人は思ってたよりずっと、単一ではないようです。
研究内容は大阪大学の坂上沙織氏らによってまとめられ、3月26日に権威ある学術雑誌「nature/communications」に掲載されました。

Dimensionality reduction reveals fine-scale structure in the Japanese population with consequences for polygenic risk prediction
https://www.nature.com/articles/s41467-020-15194-z

AIによって判明した8つのグループ

関東人と関西人は微妙に遺伝的に異なっているが、沖縄人との違いはさらに際立っている/Credit:Nature Communications

私たち人類はアフリカで誕生した後に、地球上の様々な場所に移住し、その地域にあわせた遺伝的特質を獲得してきました。
そのため、ある人種に効果があった薬が別の人種では効果が薄い、ということが少なくない頻度で起こりました。

しかし近年になって、日本の中でも薬の効果が地域によって僅かに異なることがわかってきました。

これまでは、そのような些細な地域間の医療効果の差は、主に食文化をはじめとした文化的な要因のためとされてきました。

ですが今回、17万人にもおよぶ遺伝データを、AIによる機械学習を応用して調べた結果、同じ日本人の中にも8つの異なる亜集団が存在すると判明したのです。
またこれらの差を二次元の画像に落とし込んで可視化した結果、九州と北海道の一部、及び沖縄の方々の遺伝子が、特にユニークな遺伝子集団を築いていることが判明しました。

地域的な遺伝差が身長差と同じ比率で影響を与えている/Credit:Nature Communications

さらに遺伝的な差が身体においてどのように影響するかを測定した結果、遺伝的な地域差が平均身長の地域差とも一致することがわかりました。
地域の遺伝子の差は確かに僅かですが、それでも身長差のような明白な違いをもたらしていたのです。

このことから、疾患リスク及び薬の効き目の違いが必ずしも、文化的な影響に支配されているのではなく、地域ごとの遺伝的な差にも影響されていることが示唆されました。

日本人の起源解明:8つのグループが全て沖縄の島々に濃縮されていた

沖縄人の詳細な分析を行った結果、8つのグループ全ての遺伝痕跡が内包されていた/Credit:Nature Communications
また、さらに詳細な分析を沖縄グループに対して行った結果、8つのグループの全てが、沖縄の島々に濃縮されていることがわかりました。
これは日本人の8つのグループ全てが、何らかのルーツを沖縄に持つことを示唆します。

これは既存の説、つまり、まず縄文人が南アジアを経由して日本に入り、その後、弥生人が入って全国に拡散したとの説と矛盾しません。
私たち日本人は複数のルーツと、その後の遺伝的な適応の結果、さらに複数の亜集団にわかれていきました。

これらの遺伝的な差は、地域に住む人々の気質にも影響している可能性があります。

関東人と関西人のノリが合わなかったり、旅先でアウェーになったりするのも、遺伝子の違いによる気質差が混じっているのかもしれませんね。

https://nazology.net/archives/55425

37. 中川隆[-11650] koaQ7Jey 2020年8月27日 06:33:46 : 84g9nuhfWg : cVpXQXpGOS9odDY=[5] 報告
2020/08/25
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
覚張 隆史(金沢大学人間社会研究域附属 国際文化資源学研究センター 助教)
太田 博樹(生物科学専攻 教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/

発表のポイント

伊川津貝塚(注1)遺跡出土の縄文人骨(IK002)の全ゲノム配列を解析し、アフリカ大陸からヒマラヤ山脈以南を通り、ユーラシア大陸東端に到達した最も古い系統の1つであることを明らかにした。
本州縄文人(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列の詳細な解析から東ユーラシア全体の人類史の新たなモデルを示した。
縄文人ゲノムは、東ユーラシアにおける現生人類集団の拡散及び遺伝的多様性を理解するのに不可欠であり、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表概要
アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、ユーラシア大陸の東端まで如何に到達したかは、いまだ明らかではなく、ヒマラヤ山脈以北および以南の2つのルートが考えられている。東アジアに最初にたどり着いた人々は、考古遺物から北ルートと想定されてきたが、最近のゲノム研究は、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々が南ルートであることを示している。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教は、コペンハーゲン大学やダブリン大学と国際研究チームを結成し、この矛盾の解決に取り組んだ。

古くから縄文遺跡として知られる伊川津貝塚遺跡から出土した女性人骨(図1)の全ゲノム・ドラフト配列を詳細に解析し、縄文人骨(IK002)のゲノムは、東ユーラシアのルーツともいえる古い系統であり、南ルートに属し、北ルートの影響をほとんど受けていないことを明らかにした。

図1:左の写真は、伊川津貝塚出土人骨(女性)IK002。右の写真は、側頭骨錐体という頭蓋骨の一部をダイヤモンドカッターで切断している様子。

このことは、縄文人が東ユーラシアで最も古い系統の1つであることを示唆する。現在の東ユーラシアの人々の遺伝的ランドスケープを理解するためには、より高精度の縄文人ゲノム解読が不可欠であり、今後、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表内容
研究の背景・先行研究の問題点
近年の研究から、ホモ・サピエンスはいまから約7〜6万年前に、アフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡散したことが明らかになっている。ユーラシア大陸の東側、すなわち東南アジア、東アジア、北東アジアへは、約5〜4万年前までにホモ・サピエンスがたどり着いていたと考えられている。しかし、どのような経路(ルート)を通って到達したかは、いまだ定説はない。

アフリカ大陸からユーラシア大陸の東端までのホモ・サピエンスの拡散は、後期旧石器時代に相当する。石器など考古遺物はヒマラヤ山脈以北および以南どちらからも見つかるので、拡散の経路として北と南の2つのルートがあったはずだ。ただし、南北で石器の特徴は異なり、東アジアから北東アジアにかけては、北ルートの特徴をもつ石器が主に見つかる。このため、日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスは、北ルートを通ってやって来たと考えるのが自然だ。ところが、近年劇的に蓄積されている人類集団ゲノム情報を解析すると、現在ユーラシア大陸の東側に住んでいる人々は、南ルートで来たことを示す。つまり、考古遺物から考えられてきた人類史とは異なるストーリーであるが、この矛盾はこれまであまり議論されてこなかった。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教らの研究グループは、縄文人(ここでは“縄文文化をもった人々”と定義する)の骨からDNAを抽出しゲノム解読するプロジェクトを約10年前から進めてきた。そして2018年、コペンハーゲン大学を中心とする国際チームが解析した東南アジアの古い人骨のゲノム配列データとともに、伊川津貝塚遺跡から出土した縄文人骨(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列を発表した(McColl et al. 2018)。この論文では、約2千500年前の本州日本に住んでいた女性IK002が、ラオスで出土した約8千年前の狩猟採集文化を伴う人骨(La368)と、東南アジア・東アジア各地に現在住む人々の誰よりも、遺伝的に近縁であることを報告した。

今回、太田博樹教授と覚張隆史助教は、ダブリン大学トリニティー校の中込滋樹助教、コペンハーゲン大学のマーティン・シコラ准教授らとともに国際チームを結成し、伊川津縄文人(IK002)を主役とした論文をCommunications Biologyに発表した。この新たな論文(Gakuhari & Nakagome et al. 2020)では、(i) IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫か否か?(ii) IK002は南ルートの子孫で北ルートでやってきた人々の遺伝的影響はないのか?の2つを明らかにする目的で詳細な全ゲノム解析をおこなった。

研究内容
過去から現在の東ユーラシア人類集団のゲノム情報をもちいて系統樹を構築した。この系統樹では、ラオスのLa368(約8千年前)とバイカル湖近くのマルタ遺跡出土人骨(MA-1:約2万4千年前)を南北の指標として含めた。もしIK002が北ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、“樹”でIK002はMA-1の近くの“枝”に位置するだろう。反対にIK002が南ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、La368の近くに位置するはずだ。結果は後者であった。MA-1とLa368が分岐した後、La368の枝のすぐ内側で中国東部の田園洞人骨(約4万年前)が分岐し、つづいて現代のネパールの少数民族・クスンダが分岐し、その次にIK002が分岐した。現代の東アジア人、北東アジア人、アメリカ先住民は、さらにその内側で分岐した。この結果は、IK002のみならず、現在の東アジア人、北東アジア人およびアメリカ先住民が、南ルートのゲノムを主に受け継いでいることを示している。IK002の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の“根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった。そして、IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫である可能性が高いことが判明した。

また、先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。

さらに、IK002と現在および過去の東ユーラシア人へのマルタ人骨(MA-1)からの遺伝子流動(集団間の交雑)の痕跡をD-testと呼ばれる統計解析で検証した。これまでの研究から、現在の北東アジア人およびアメリカ先住民へは、MA-1からの遺伝子流動が有意な値で示されてきている(Raghavan et al. 2014)。しかし、本解析では、現在の東アジアおよび東南アジア人類集団へのMA-1からの遺伝子流動はほとんど検出されず、IK002へもMA-1からの遺伝子流動の統計学的に有意な証拠は示されなかった。すなわち、北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は、IK002のゲノムで検出されなかった。

社会的意義・今後の予定
本研究の成果は、日本列島・本州に約2千500年前に縄文文化の中を生きていた女性が、約2万6千年前より以前に、東南アジアにいた人類集団から分岐した「東ユーラシア基層集団(東アジア人と北東アジア人が分岐する以前の集団)」の根っこに位置する系統の子孫であることを明らかにした(図2)。

図2:東アジア人類集団の形成史をモデル化した図

すなわち、縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統であることを意味し、延いては、縄文人ゲノムが現在のユーラシア大陸東部に住む人々のゲノム多様性を理解する鍵を握っていることを示している。

ただ、本研究はIK002という1個体の詳細なゲノム解析であり、したがって、これらの結果はIK002という個体について言えることで、すべての地域・時代の縄文人について言えるわけではない。たとえば、本研究では「北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は検出されなかった」と結論づけているが、これはIK002についての結論であり、別の個体では北ルートのゲノムが検出されるかもしれない。さらに、大陸から日本列島への移住ルートについては、今後、列島内のさまざまな地域の縄文人骨を分析することによって解明されてくるもので、いまは分からないことは注意すべき点である。

今後、(I) 個体数を増やすこと、(II)より高精度のゲノム解読をおこなうことの2つが近々の課題である。太田博樹教授らのグループは既に愛知県田原市・伊川津貝塚遺跡から出土した他の5個体や千葉県市原市から出土した縄文人9個体の高精度ゲノム解析を進めている。

参考文献
・McColl et al. (2018) The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science 361:88-92.
・Kanzawa-Kiriyama et al. (2019) Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science 127: 83-108.
・Jinam et al. (2012) The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyuan populations. Journal of Human Genetics 57: 787-95.
・Raghavan et al. (2014) Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505: 87-91.

なお、本研究は次ぎの文部科学省及び日本学術振興会の研究助成補助金、25284157 (山田)、16H06408、17H05132、23657167、17H03738(石田・埴原・太田)、16H06279『ゲノム支援』(豊田)、及び『金沢大学超然プロジェクト』(覚張)、『九州大学生体防御医学研究所共同研究プログラム』(柴田)の助成を受け完遂されました。

発表雑誌
雑誌名 Communications Biology
論文タイトル Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations
著者 Takashi Gakuhari#, Shigeki Nakagome#, Simon Rasmussen, Morten E. Allentoft, Takehiro Sato, Thorfinn Korneliussen, Blánaid Ní Chuinneagáin, Hiromi Matsumae, Kae Koganebuchi, Ryan Schmidt, Souichiro Mizushima, Osamu Kondo, Nobuo Shigehara, Minoru Yoneda, Ryosuke Kimura, Hajime Ishida, Tadayuki Masuyama, Yasuhiro Yamada, Atsushi Tajima, Hiroki Shibata, Atsushi Toyoda, Toshiyuki Tsurumoto, Tetsuaki Wakebe, Hiromi Shitara, Tsunehiko Hanihara, Eske Willerslev, Martin Sikora*, Hiroki Oota*
DOI番号 10.1038/s42003-020-01162-2
アブストラクトURL https://www.nature.com/articles/ s42003-020-01162-2

用語解説
注1 伊川津貝塚
愛知県田原市伊川津町にある縄文後・晩期を代表する大規模な貝塚遺跡。1918年に最初の発掘が行われて以来、多くの考古学者、人類学者によって発掘がおこなわれてきた。叉状研歯を伴う抜歯の痕跡が見られる人骨が見つかっていることで有名である。今回の全ゲノム解析に用いられたIK002は、2010年に本論文の共著者・増山禎之らによって発掘された6体中の1体である。壮年期女性の人骨で、腹胸部に小児(IK001)を乗せていた。IK002の頭部に縄文晩期後葉のこの地方の典型的な土器である五貫森式土器が接し発掘されている。 ↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/

38. 中川隆[-15919] koaQ7Jey 2021年10月21日 09:59:39 : Lvflp4LPmM : bXYvdHNvRFNWMkk=[2] 報告
雑記帳
2021年09月26日
オホーツク文化人のゲノム解析とアイヌ集団の形成過程
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_28.html

 オホーツク文化人のゲノム解析結果を報告した研究(Sato et al., 2021)が公表されました。古代ゲノム学は、過去の人口史の遺伝的特徴の片鱗を捉えることのできる強力な手法です。最近の古代ゲノム研究は多くのアジアの旧石器時代人と新石器時代人のゲノムを報告しており、ユーラシア東部におけるヒトの移住過程への新たな洞察を提供してきました(関連記事)。とくに、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)と、シベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡(関連記事)の少年個体(MA-1)と、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体(関連記事)の古代ゲノム研究は、ユーラシア東部の初期人口史を理解するうえで重要です。

 系統樹では、田園個体はパプア人およびユーラシア東部人口集団と一まとまりを形成しますが、MA-1とヤナRHSの2個体(ヤナUP)はユーラシア西部人口集団と遺伝的に密接です。詳細な経路はまだ議論の余地がありますが、これら古代人のゲノムは、ユーラシア東部への2回の過去の移住を示唆しています。一方は南方経路で、ユーラシア大陸南岸地域に沿って拡散し、もう一方の北方経路は、おそらくシベリアも含めてユーラシア中緯度の草原地帯を通って拡散しました。南方の移住の波は、アジア東部(本論文では、現在の中国と日本と朝鮮とモンゴルと台湾を含む地域として定義されます)および南東部の局所的人口集団に分化していったようです。北方の移住の波は南方の移住の波とおそらくはシベリアで混合し、チュクチ・カムチャッカ(チュクチ半島とカムチャッカ半島、図1a)の人口集団とアメリカ大陸先住民の起源となりました(関連記事)。さらに、新石器時代と青銅器時代以降の古代人ゲノムを分析したその後のいくつかの研究では、半島アジア大陸における新石器時代後の人口動態が明らかにされてきました(関連記事1および関連記事2)。

 日本列島に関しては、完新世人口集団である「縄文人」のゲノムが報告されており(関連記事1および関連記事2)、南方移住の波系統からの深い分岐が示唆されています。しかし、新石器時代以後の日本列島の人口集団の遺伝的歴史は、この期間の古代ゲノムデータの不足ため、依然として不明です。いくつかの以前の研究では、現代日本列島の人口集団はアジア東部大陸部人口集団および/もしくはアジア北東部(本論文ではロシア極東に相当します)人口集団からの遺伝子流動の影響を受けたものの、その詳細な起源と移住の仮定は不明なままと示唆されています(関連記事)。したがって、そうした過去の移住の遺伝的特徴の解明も、日本列島周辺の人口史の理解の向上に重要です。考古学的証拠で示唆されているように、新石器時代後に日本列島に起きたように見える過去の主要な移住事象の一つは、先史時代オホーツク人による日本列島北部での定住です。

 高度な海洋漁業と狩猟技術を有する先史時代狩猟採集文化であるオホーツク文化は、紀元後5世紀〜13世紀まで、オホーツク海の南部沿岸地域に分布していました(図1a)。オホーツク文化の最も重要な特徴である海洋資源への依存は、以前の動物考古学および同位体研究により明らかになりました。じっさい、オホーツク文化の遺跡の分布は明らかに沿岸地域に限られています(図1a)。この特徴は、日本列島における先住の縄文文化(紀元前14000〜紀元前300年頃)やその後の続縄文時代(紀元前3世紀〜紀元後7世紀)や擦文時代(紀元後8〜14世紀)とは大きく異なります(図1a)。

 アジア北東部におけるオホーツク文化とその近隣古代文化との間の関係の観点では、オホーツク文化の遺跡から発掘された土器や鉄器や青銅器の一部が、ロシアのプリモルスキー(Primorski)地域で発展した、紀元後6〜9世紀となるモヘ(Mohe、靺鞨)文化(図1a)遺跡で発見されたものと類似しています。さらに、オホーツク文化の遺跡から発掘されたセイウチの牙製の彫像や釣針は、オホーツク文化と紀元後5〜17世紀となる古代コリャーク(Koryak)文化(図1a)との間の相互作用を示唆しており、それはセイウチが現在では北極海とベーリング海にしか分布していないからです。しかし、考古学的遺物のこれら文化間の共通性がヒトの移住と移住なしの交易のどちらに由来するのかは、不明なままです。

 オホーツク文化人の起源は、考古学者と人類学者により長く議論されてきました。オホーツク文化人の骨格遺骸の形態学的研究は、アムール川流域周辺およびサハリン北部の現代人集団との類似性を示唆してきました。さらに、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析の結果は、形態学的証拠を裏づけます。mtDNAハプログループ(mtHg)Y1とG1bとN9bはアムール川下流人口集団間において高頻度で共有されており、オホーツク文化の骨格遺骸でよく検出され、オホーツク文化人のアムール川下流地域起源を示唆します。しかし、オホーツク文化人の包括的なゲノム規模データが欠けているため、最終的な結論にはまだ達していません。したがって、この研究の主な動機は、ゲノム規模データ分析に基づいてオホーツク文化人の遺伝的起源を理解することです。

 考古学的証拠に基づくと、オホーツク文化は紀元後13世紀頃に消え、その原因は依然として不明です。これと関連して、オホーツク文化とその後のアイヌ文化との間の関係が調べられてきました。考古学者たちは、アイヌとフィン人とニブフ人とサーミ人などユーラシア北部の民族集団間で広く観察される宗教的慣行である熊崇拝もオホーツク文化人により共有されていた、と考えてきました。他方、そうした宗教的慣行の痕跡は、アイヌ文化期より前の縄文時代と続縄文時代の遺跡では発見されていません。アイヌ文化の熊崇拝はイオマンテで見られ、これは熊を犠牲にしてその精神をカムイ(アイヌ文化の神聖な存在)の世界に送る儀礼です。オホーツク文化では、ヒグマの安置された頭蓋骨がいくつかの住居遺跡で発見されており、熊崇拝と関連した宗教的慣行が示唆されます。

 これは、オホーツク文化がアイヌ文化の形成に寄与したことを示唆します。いくつかの頭蓋学およびmtDNA研究は、アイヌとアジア北東部人口集団との間の遺伝的類似性を示唆してきました。頭蓋測定に基づく統計分析では、アジア北東部人がオホーツク海沿岸に居住するアイヌにわずかな遺伝的影響を残した、と示唆されました。アイヌ現代人のmtDNAとY染色体DNAの分析は、ニブフ人とアイヌとの間の母系および父系遺伝子プールの類似性を示唆します。これらの知見は、アジア北東部から(北海道を中心とする)日本列島北部への遺伝子流動の可能性として解釈されてきました。さらに、古代のmtDNAと頭蓋非計測的変異の研究は、オホーツク文化人とアムール川下流人口集団との間の密接な関係と、アムール川下流人口集団からアイヌへのオホーツク文化人経由の遺伝子流動を示唆しており、これはオホーツク文化人がアイヌ文化の確立に寄与した、との考古学的仮説を裏づけます。

 しかし、これらの研究の形態学的もしくは遺伝学的指標は少なく、オホーツク文化人のアイヌへの遺伝的寄与について最終的な結論を提供できません。それは、こうした研究が統計的に人口集団の混合を評価できないからです。対照的に、統計的に人口集団の混合を評価できる現代人の最近のゲノム規模一塩基多型分析は、アムール川下流人口集団からアイヌへの遺伝子流動を検出していませんが、これはオホーツク文化人がアイヌに遺伝的に寄与したならば、予測されることです。したがって、さまざまな手法を用いた多くの研究がアイヌ集団の形成過程を解明する目的で行なわれてきましたが、オホーツク文化人がこの過程に遺伝的に寄与したのかどうかは不明なままです。

 オホーツク文化人の形成過程と、アイヌへの遺伝的および文化的寄与を調べるため、国際的な学際的調査団が、北海道の礼文島の浜中2遺跡の発掘に着手しました(図1a)。2013年に、重度の骨肥厚症の成人女性のよく保存された骨格遺骸(NAT002)が、オホーツク文化期の最終段階となる貝塚の上部表面で回収されました(図1b・c)。NAT002の較正放射性炭素年代は紀元後1060〜1155年(68.2%)と推定され、骨肥厚症は皮膚科学的観察なしの滑膜炎と痤瘡と膿疱症と骨肥厚症と骨炎(SAPHO)症候群と診断されました。

 本論文は、NAT002の全ゲノム配列結果を報告し、オホーツク文化人の起源に関する問題と、アイヌ集団への遺伝的寄与に関する問題を解決します。本論文はNAT002のゲノムをアジア東部および北東部の現代の人口集団および最近報告されたアジア北東部古代人と比較します。この古代人には、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(関連記事)や、プリモルスキー地域の新石器時代後個体群(関連記事)や、礼文島の浜中2遺跡に近い(図1a)船泊遺跡(関連記事)の縄文時代の女性個体(F23)が含まれます。また本論文は、NAT002の一部の骨で観察されたSAPHO症候群的骨肥厚症の遺伝的背景の特定も試みます。

 NAT002のDNA保存状態は良好で、平均深度35.03倍のゲノム配列が得られました。これは埋葬と寒冷な環境と比較的新しい年代(紀元後11〜12世紀)に起因すると考えられますNAT002はX染色体とY染色体にマップしたリード数の比から女性と推定され、これは形態学的およびアメロゲニン遺伝子に基づく以前の性別判定と一致します。以下は本論文の図1です。
画像


●NAT002と隣接集団との間の遺伝的関係

 アジア北東部人口集団に対するNAT002の遺伝的類似性を評価するため、49079ヶ所の一塩基多型で外群f3統計が計算されました。f3(ムブティ人;NAT002、X)では、NAT002は近隣地域のニブフ人とアイヌとウリチ人とF23に密接に関連しており、それに続いて密接なのが、イテリメン人(Itelmen)やコリャーク人(Koryak)を含むカムチャッカ半島人口集団、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人、オロチョン人(Oroqen)やダウール人(Daur)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)を含むアムール川上流人口集団です(図2)。以下は本論文の図2です。
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 49079ヶ所の一塩基多型に基づく主成分分析(図3)も、NAT002が遺伝的にニブフ人およびウリチ人と密接であることを示唆し、以前の形態学的およびmtDNA研究を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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 ADMIXTURE が2〜10の系統構成要素(K=2〜10)で実行されました(図4)。最小交差検証(CV)誤差はK=5の時に観察されました。NAT002は4つの遺伝的構成要素で混合された個体として表されました(図4)。緑色の構成要素(24.6%)は、広くアジア北東部人口集団で共有されています。青色の構成要素(15.8%)は、アジア東部人で広く共有されています。濃紺色の構成要素(33.2%)はF23とアイヌにおいてほぼ100%で観察されます。黄色の構成要素(26.4%)はイテリメン人およびコリャーク人に高い割合で共有されています。NAT002の構成要素の割合は、ニブフ人やウリチ人などアムール川下流人口集団と似ています。以下は本論文の図4です。
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 次に、NAT002とアジア北東部人との間の系統発生関係を推測するため、NAT002とF23とSGDP(サイモンズゲノム多様性計画)標本で観察される2556493ヶ所の多様体に基づくTreeMixが実行されました。NAT002とニブフ人とウリチ人は単系統性の一まとまりを形成し(図5a)、主成分分析およびADMIXTUREの結果と対応しています。2回の移住事象を想定した場合、遺伝子流動はF23からNAT002とニブフ人との間の共通祖先で観察されました(図5a)。

 F23とウリチ人との間、およびNAT002とイテリメン人との間でも大規模な残余が観察され、それらの間の遺伝子流動が示唆されます(図5b)。ウリチ人と「縄文人」/アイヌとの間の遺伝的類似性は以前に報告されていました(関連記事)。さらに、NAT002とアジア北東部の前期新石器時代人の悪魔の門個体群との間の遺伝的類似性が、外群f3(ムブティ人;悪魔の門個体群、X)の計算により調べられました。検証人口集団間で、NAT002はニブフ人に次いで2番目位に高いf3値を示しました。この結果は古代人のゲノム間で共有された偏りの影響を受けた可能性がありますが、古代人のゲノム間の遺伝的類似性のそうした過大評価は、おもに配列の短さや死後の損傷の高頻度や比較された古代人2個体の不充分な深度に起因する可能性が高そうです。

 悪魔の門個体群のゲノムにおける参照の偏りの程度は、低い網羅率のため比較的強くなるでしょう。しかし、NAT002ゲノムにおける参照の偏りは、本論文の遺伝子型コール閾値として用いられた、選別の水準0および1の現代日本人のゲノムの30倍の網羅率よりもさほど強くありませんでした。したがって、悪魔の門個体群とNAT002との間の観察された類似性は、大幅に過大評価される可能性は低そうです。f3(ムブティ人;悪魔の門個体群、NAT002)の高い値は、オホーツク文化人の起源がアムール川流域周辺にある、との仮説を裏づけます。他方、F23は低いf3値を示しており、日本列島北部からアムール川流域への「縄文人」系統の移住はおもに新石器時代後に起きた、と示唆され、ウリチ人における以前の混合年代を裏づけます。以下は本論文の図5です。
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 系統樹の接続形態を考慮すると(図5a)、f3(ムブティ人;NAT002、X)により示されるアムール川流域人口集団とNAT002との間の類似性は、密接な系統発生関係として解釈できます。これらの示唆された混合事象を確認するため、49079ヶ所の一塩基多型に基づくD(ムブティ人、X;ニブフ人、NAT002)検定が実行され、F23とアイヌとイテリメン人は有意な正の値を示しました(図6a)。古代人のゲノム間の共有された偏りのため、D(ムブティ人、F23;ニブフ人、NAT002)で観察された兆候の過大評価の可能性も考慮されねばなりませんが、F23とNAT002の参照の偏りは現代日本人の網羅率30倍のゲノムと比較してさほど強くないので、過大評価の程度はそれほど深刻ではないでしょう。混合兆候はD(ムブティ人、F23;アムール川流域集団、NAT002)とD(ムブティ人、イテリメン人;アムール川流域集団、NAT002)でも観察されました。この場合のアムール川流域人口集団とは、ウリチ人とオロチョン人とホジェン人とダウール人とシボ人(Xibo)です(図2)。これらの知見から、NAT002は3祖先的系統(アムール川流域集団、チュクチ・カムチャッカ集団、「縄文人」)間の混合個体だった、と示唆されます。

 次にqpAdmモデルを用いて、NAT002と関連する過去の混合事象についてのこの仮説が検証されました。オロチョン人とイテリメン人とF23が、それぞれアムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団と「縄文人」の供給源人口集団の代表として用いられました。完全ランク付けモデルに対する提案された混合の尤度比検定(LRT)のP値は有意ではなく(P=0.14)、NAT002のゲノムはアムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団と「縄文人」の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の混合として説明できます。アムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団と「縄文人」の推定された祖先系統は、それぞれ64.9±8.0%、21. 9±6.4%、13.2±4.3%です(図6c)。

 アムール川流域集団とチュクチ・カムチャッカ集団からの推定される祖先系統の割合の比較的大きな標準誤差は、これら供給源人口集団間の密接な関係に起因するかもしれません。じっさい、ADMIXTURE分析(図4)で観察された黄色と赤色の構成要素は、チュクチ・カムチャッカ人口集団(イテリメン人とコリャーク人とエスキモーとチュクチ人)間で支配的ですが、ニブフ人やウリチ人やオロチョン人やホジェン人やダウール人やシボ人などアムール川流域人口集団でも広く観察されます。構成要素のこの共有は、アムール川流域人口集団とチュクチ・カムチャッカ人口集団との間の混合か、両者の間で部分的に共有される遺伝的浮動の結果のようです。さらに、入れ子モデルへのLRTでは、あらゆる2方向混合モデルがNAT002ゲノムを適切に説明できない、と示唆されます。以下は本論文の図6です。
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●在来祖先系統と混合年代の推定

 アムール川流域集団と「縄文人」とチュクチ・カムチャッカ集団の系統間の混合事象の順番を決定するため、NAT002ゲノムの在来祖先系統が推測されました。本論文の在来祖先系統推定は大陸内規模(つまり、アジア東部と北東部全参照人口集団)で行なわれましたが、NAT002ゲノムの大半は0.9以上の事後確率を有する3つの祖先的ハプロタイプの一つに分類できました。在来祖先系統の割合から計算された世界規模の祖先系統の割合は、アムール川流域集団が83.6%、チュクチ・カムチャッカ集団が10.0%、「縄文人」が6.4%です。

 ADMIXTURE(図4)とqpAdm(図6c)の結果を考慮すると、「縄文人」とチュクチ・カムチャッカ集団の祖先系統の堀合は過小評価されているようで、おそらくは参照人口集団における「縄文人」とチュクチ・カムチャッカ個体の標本規模の小ささに起因します。「縄文人」は1個体(F23)のみで、チュクチ人やエスキモーなどチュクチ人口集団の5個体とともに、チュクチ・カムチャッカ参照人口集団におけるカムチャッカ人口集団の代表としてイテリメン人1個体のみが含まれています。

 本論文は、3系統間の混合年代を推測するため、単純な波動移住モデルを想定しました。アムール川流域系統の移住年代はNAT002の22世代前と推定されました(図7)。1世代30年と仮定し、NAT002の放射性炭素年代(900年前頃)を考慮すると、アムール川流域関連祖先系統の移住は1600年前頃に起きました。これは、以前の考古学的証拠により示唆されるように、オホーツク文化の始まりと正確に対応していますが、本論文の混合年代は1個体のみの祖先系統の領域の長さに基づいています。

 チュクチ・カムチャッカ系統と「縄文人」系統間の混合はNAT002の35世代前(1950年前頃)と推定され、縄文時代の後の続縄文時代(紀元前3〜紀元後7世紀)と対応します。本論文が把握している限りでは、その期間のカムチャッカ半島から日本列島北部へのヒトの移住を示す考古学的証拠は提示されていませんが、以前の古代DNA研究は縄文時代標本と続縄文時代標本との間のmtHg特性の変化を報告しています。カムチャッカ半島人口集団においてひじょうに高頻度で観察されるmtHg-G1bは、続縄文時代の標本の15.0%で検出されますが、縄文時代標本では検出されません。さらに最近の研究では、千島列島南西部に位置する択捉島のタンコウォイェ1(Tankovoye 1)遺跡(図1a)の続縄文時代標本と、イテリメン人やコリャーク人などカムチャッカ半島現代人集団との間の遺伝的類似性が報告されました。これらの知見は、続縄文時代における千島列島を経由してのカムチャッカ半島から日本列島北部への移住の波を裏づけます。

 本論文は、混合していないアイヌの10個体を参照「縄文人」に追加することにより、類似の混合年代測定を実行しました。この場合、NAT002における「縄文人」祖先系統の割合は増加し、アムール川流域祖先系統が64.4%、チュクチ・カムチャッカ祖先系統が9.8%、縄文人祖先系統が25.8%と推定されました。しかし、推定された混合年代は、アムール川流域関連祖先系統の移住についてはNAT002の17世代前(1410年前頃)、「縄文人」系統とカムチャッカ系統との間の混合についてはNAT002の37世代前(2010年前頃)と大きくは変わらず、本論文の混合年代は中程度の堅牢性を有する、と示唆されました。以下は本論文の図7です。
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●アイヌ集団に対するオホーツク文化人の遺伝的寄与

 アイヌ集団の形成過程は長く議論されてきました。しかし、アイヌと縄文時代個体群との間の遺伝的類似性は以前の研究で確認されてきましたが(関連記事)、新石器時代後の人口動態に関する決定的な結論には至っていません。F23と比較して主成分分析では、アイヌ個体群はわずかにアジア北東部人に影響を受けていると示唆されますが(図3)、ADMIXTURE分析の結果では、アイヌ個体群はほぼ単一の祖先系統で表される、と示唆されます。
 したがって、縄文時代後のアジア北部人口集団からの遺伝的影響を確かめるため、D(ムブティ人、X;F23、アイヌ)検定が実行されました。その結果、アジア北部人口集団は有意に正の値を示しました。とくに、イテリメン人やコリャーク人などカムチャッカ半島人口集団と、ホジェン人やオロチョン人やシボ人やダウール人などアムール川流域人口集団は強い兆候を示しました。以前の研究では、アイヌとカムチャッカ半島人口集団との間の遺伝的類似性が報告されました。

 アイヌ集団の形成過程をモデル化するため、qpGraphを用いて混合図が作成されました。まず、NAT002やF23やSGDP標本群を含む混合図が作成されました。アムール川流域系統と「縄文人」系統とカムチャッカ半島系統の間の混合事象の順序は、混合年代の結果にしたがって決定されました。図における最低のf4統計のZ得点は-2.1でした。次に、足場図(scaffold graph)にアイヌを追加することにより、アイヌ集団の形成過程が検証されました。アイヌは「縄文人」とオホーツク文化人と「本土」日本人の間の混合人口集団と仮定したモデルが、検証されたモデルの中で最適でした(図8a)。

 しかし、オホーツク文化人からアイヌへの遺伝子流動を仮定しない別のモデルも許容されました(図8b)。最低のf4統計を考慮すると、オホーツク文化人からアイヌへの遺伝子流動を仮定する最初のモデル(図8a)が最も可能性の高いシナリオですが、混合図の枠組みでは2番目のモデル(図8b)を明示的に却下できませんでした。この二つのモデル間の顕著な違いの一つは、「本土」日本人からアイヌへの混合割合で、最初のモデルでは29%、二番目のモデルでは44%でした。以前の研究はmtHg頻度に基づいて、近世アイヌ集団における「縄文人」とオホーツク文化人と「本土」日本人の混合割合が推定されました(関連記事)。その研究では、アイヌへの「本土」日本人の遺伝的寄与は28.1%と推定され、本論文の最初のモデルと近くなっているので、最終的な結論には至りませんが、本論文の最初のモデルが最も可能性の高そうなシナリオとして支持されるようです。以下は本論文の図8です。
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●HLA型とNAT002の骨肥厚症への遺伝的感受性

以前の研究では、HLA(ヒト白血球型抗原)B遺伝子、とくにHLA-B*27アレル(対立遺伝子)が、SAPHO症候群と強く関連している、と報告されました。したがって、以前の研究によりSAPHO症候群として推測されたNAT002の骨肥厚症への遺伝的感受性を調べるため、HLA-VBSeqとHLA EXPLORE を用いてNAT002のHLA型が決定されました。HLA-VBSeqでの型別における上位2つの平均深度はHLA-B*40:02:01(平均深度22.93倍)とHLA-B*40:06:01:01(平均深度12.57倍)で、NAT00がB*40:02:01とB*40:06:01:01の異型接合体だったことを示唆します。しかし、B*40:06:01アレル特有の配列はTARGTとHLA EXPLOREでは検出されませんでした。おそらく、HLA-VBSeqで識別されたB*40:06:01:01はHLA-C遺伝子座に由来するリードのミスマッピングで、それは、HLA-Bエクソン3におけるB*40:06:01特有の置換部位を含む100塩基対配列が、IMGT/HLAデータベースのリリース3.43.0におけるHLA-C配列とひじょうに高い同一性を示すからです。

他の古典的なHLA遺伝子も、HLA-VBSeqとTARGTとHLA EXPLOREで分類されました。HLA-VBSeqの結果から、NAT002はA*02:01:01(平均深度30.74倍)とC*15:02:01(平均深度33.33倍)とDQB1*05:03:01(平均深度35.07倍)の同型接合体で、DRB1*14:05:01(平均深度7.36倍)とDRB1*14:54:01(平均深度12.93倍)の異型接合体と示唆されました。しかしHLA-DRB1については、DRB1*14:05:01アレルはTARGTとHLA EXPLORE分析では検出されませんでした。これも、HLA-VBSeqのミスマッピングの結果と推測されます。

HLA 領域でNAT002の同型接合体と異型接合体を確認するため、NAT002配列データの別のアレル頻度が調べられました。HLA領域を含む約1000万塩基対におよぶ領域で、中間的な別のアレル頻度の明らかな欠如が観察され、ROH(runs of homozygosity)が示唆されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています。

6番染色体上でROHが観察される領域と他の領域との間の類似した配列深度を考えると、アレルの脱落である可能性は低そうです。HLA-DRA・DRB1・DRB5・DRB6を含むHLA-DR領域(参照ゲノムhs37d5では、HLA-DRB3・DRB4が含まれません)における比較的多い部位は、HLA-VBSeq分析でも示唆されているように、この領域におけるNAT002の異型接合体を示唆している可能性が高そうです。しかし、これらの部位の配列深度は他の部位よりも顕著に高く、この領域への配列のミスマッピングを示唆します。したがって最終的に、NAT002はA*02:01:01とB*40:02:01とC*15:02:01とDQB1*05:03:01の同型接合体と結論づけられますが、HLA遺伝子座で1個体が同型接合体であることは一般的に稀です。

本論文が把握している限りでは、SAPHO症候群とHLA-B*40アレルとの間の関連は充分には解明されていませんが、以前の研究では、SAPHO症候群の日本人患者6人のうち3人でHLA-B61(B*40:02やB*40:03やB*40:06などいくつかのHLA-B*40アレルを含む血清型)が検出されました。さらに、HLA-B*40アレルは、強直性脊椎炎や反応性関節炎や未分化脊椎関節症の危険性アレルの一つと報告されてきました。これらの疾患はSAPHO症候群と類似しており、骨肥厚症を伴う疾患でもあります。したがって、HLA型はNAT002における骨肥厚症への遺伝的感受性を部分的に説明できるかもしれません。ニブフ人ではHLA-B*40アレルが高頻度(1998年の研究では25.5%、現在のアレル頻度データベースでは31.2%)です。

NAT002とF23との間では、共有されるHLAアレルは観察されませんでした。F23では、A*24:02:01とB*15:01:01とC*03:03:01が同型接合体です。したがって、HLA遺伝子の観点では、同じ礼文島で発掘されたNAT002とF23との間の遺伝的関係を議論できません。しかし、NAT002とF23は両方、HLA 領域では同型接合体とみなされました。これは、おそらくNAT002とF23が小さな人口規模しか維持できなかったひじょうに小さな島で暮らしていた、という事実に起因するかもしれません。


●アジア東部/北東部人において高頻度で観察される形質の推定表現型

アジア東部/北東部人口集団と他の人口集団との間で顕著に異なる頻度を示す形質と関連するいくつかの一塩基多型について、NAT002の遺伝子型に基づいてNAT002の表現型が推測されました。NAT002は、耳垢の表現型を決定するABCC11遺伝子の一塩基多型(rs17822931)でAアレルの同型接合体を有しており、乾燥した耳垢だったと示唆されます。以前の研究では、オホーツク文化標本では乾燥した耳垢が高頻度(83.9%)と報告されました。

NAT002はADH1B遺伝子の一塩基多型(rs1229984)とALDH2遺伝子の一塩基多型(rs671)でGアレルの同型接合体を有しており、それぞれアルコールとアセトアルデヒドの代謝率と関連していて、アルコール耐性が示唆されます。アルコール不耐性のアレルは、アジア東部新石器時代農耕民に遺伝的影響を受けた人口集団において、シベリア人を含む他の人口集団よりも高頻度を示します。NAT002の推定されるアルコール耐性は、アジア東部農耕民よりもシベリアの狩猟採集民において高頻度で観察される表現型と関連しているようで、アジア北部人口集団とのNAT002の遺伝的類似性に対応しています。


●まとめ

 北海道の礼文島の浜中2遺跡の先史時代オホーツク文化個体である、NAT002の高網羅率ゲノムが得られました。本論文の集団遺伝学的分析の結果から、NAT002と、ニブフ人やウリチ人などアムール川下流人口集団との間の密接な関係が示唆され、以前の形態学的およびmtDNA研究の結果を裏づけます。系統樹におけるNAT002への外部分枝の長さ(図5)は、現代のニブフ人およびウリチ人と同等で、死後損傷もしくは不充分な深度に起因する本論文の配列データの間違った遺伝子型呼び出しの小さな影響を示唆します。

 NAT002のゲノムは、日本列島北部周辺の3系統(アムール川集団、「縄文人」、カムチャッカ半島集団)間の過去の混合事象を裏づけます。これらの混合事象で最古となるのは、「縄文人」系統とカムチャツカ系統との間だったようです。混合年代測定に基づくと、「縄文人」系統とカムチャツカ系統との間の混合は続縄文時代となる2000年前頃に起きた、と仮定されます。本論文が把握している限りでは、続縄文時代におけるカムチャッカ半島から日本列島北部への移住を示唆する考古学的証拠は報告されていませんが、本論文の結果は以前の遺伝学的研究と一致します。さらに、歯冠測定に基づく以前の形態学的研究も、続縄文時代におけるアジア大陸部から日本列島北部への移住を示唆していますが、移住の起源はカムチャッカ半島ではなくアムール川流域と推定されました。この混合事象を明らかにするには、続縄文時代標本のさらなるゲノム研究が必要です。

 アムール川関連祖先系統の移動は、以前の考古学的証拠により示唆されたように、オホーツク文化の始まりに相当する1600年前頃に起きた可能性があります。本論文のゲノム研究は、アムール川流域からの移住の波が北海道におけるオホーツク文化開始の契機だった、との仮説を裏づけます。他方、アイヌ集団の形成過程へのオホーツク文化人の遺伝的寄与に関しては、最終的な結論には達しませんでした。

 本論文の限界の一つは、オホーツク文化期の1個体(NAT002)のみに由来するゲノムデータに依存し、NAT002が先史時代のオホーツク文化人を代表できると仮定していることで、NAT002が他地域からの移住個体である可能性を完全には排除できません。炭素と窒素の同位体比からは、NAT002が同じ遺跡で発掘された先史時代オホーツク文化個体群の変異内に収まり、NAT002が礼文島のオホーツク文化の一般的な食習慣だった、と示唆されます。しかし、この事実はNAT002がこの地域で生まれたことを証明できません。以前の研究では、女性のコラーゲン代謝回転率が、思春期には0.060±0.040で、成長停止後は0.041±0.010だった、と報告されています。したがって、NAT002が移民だとしとても、移住後に充分な時間が経過した場合には、炭素と窒素の同位体比で移住前の食習慣が反映されないでしょう。

 ストロンチウム同位体分析はNAT002の出生地を明らかにできるかもしれませんが、日本列島北部周辺のストロンチウム同位体の地理的分布図は利用できません。NAT002が先史時代オホーツク文化人を代表できるのかどうか調べる別の方法は、オホーツク文化個体の多くの標本を分析することです。したがって、複数のオホーツク文化標本を用いてのさらなるゲノム研究が、環オホーツク海地域周辺の人口史を明らかにするには必要です。さらに、本論文は特定の偏りのない混合年代測定において単一波動の移住モデルを想定しました。将来、オホーツク文化期のさまざまな時間区分の時点の複数個体のゲノムが、その詳細な移住様式(たとえば、単一、複数、継続)を明らかにできるかもしれません。環オホーツク海地域周辺の人口史についての提案に加えて、本論文は1000塩基対より長いDNA分子が特定の理想的な条件下でほぼ千年残存することも示唆しており、古代DNA研究への追加の洞察を提供できるかもしれません。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、オホーツク文化遺跡の1個体(NAT002)の高品質なゲノムデータを報告しており、たいへん意義深いと思います。本論文が指摘するように、NAT002がオホーツク文化集団を表しているとは断定できないものの、その可能性は高そうです。オホーツク文化集団は、続縄文時代集団とカムチャッカ半島集団との混合集団と、アムール川流域集団との混合により形成された、と推測されます。続縄文時代集団とカムチャッカ半島集団との混合は、考古学的裏づけはまだないようですが、mtDNA研究ではその可能性が示唆され、今後の古代ゲノム研究の進展が期待されます。続縄文時代集団とカムチャッカ半島集団との混合集団と、アムール川流域集団との混合は、オホーツク文化が始まった1600年前頃に起きたと推定されており、オホーツク文化が遺伝的に異なる集団間の混合により形成されたことを示唆します。もちろん本論文が指摘するように、こうした混合事象が1回だけではなく、複数回起きたり継続的だったりする可能性も考えられます。

 オホーツク文化集団とアイヌ集団との遺伝的関係については、本論文では決定的な結論には至りませんでしたが、アイヌ集団の形成において、オホーツク文化集団が一定以上の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。本論文で提示された最も可能性が高い混合モデルに従うと、遺伝的にほぼ「縄文人」の構成の擦文文化集団(69%)とオホーツク文化集団(31%)が混合し、この混合集団(71%)と「本土」日本人集団(29%)が混合したことにより、現代アイヌ集団が形成されました。江戸時代のアイヌ集団94標本のmtDNA分析によると、「本土」日本人型は28.1%を占めます(関連記事)。これは、江戸時代においてアイヌ集団と「本土」日本人集団との混合がすでにかなり進んでいたことを示唆します。

 擦文文化集団が遺伝的にほぼ「縄文人」で、本論文のモデルが妥当だとすると、江戸時代アイヌ集団のゲノム構成は、単純計算で50%弱が擦文文化集団に由来することになります。以前の研究では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」構成要素の割合は66%と推定されていますが(関連記事)、その10〜15%はオホーツク文化集団と「本土」日本人集団に由来するかもしれません。その意味でも、遺伝的にアイヌ集団を「縄文人」の単純な子孫と考えることはできず、「縄文人」以外の遺伝的影響はかなり大きかった、と考えるべきでしょう。

 また、本論文でも改めて指摘されているように、アイヌ集団の重要な文化要素と考えられる熊崇拝の痕跡が、縄文時代と続縄文時代で見られないことも、オホーツク文化がアイヌ集団の形成に及ぼした重要な影響を示唆します。アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係を検証した最近の研究でも、音楽でアイヌとコリャーク人とが比較的近いと示されており、アイヌ集団にアジア北東部集団が文化的影響を与えてきた、と示唆されます(関連記事)。アイヌは非縄文文化から多くの影響を受けて成立したのでしょう。

 しかし、まだ擦文文化集団の古代ゲノム研究が進んでいないとはいえ、本論文の結果からは、擦文文化集団がアイヌ集団の最も重要な祖先となった可能性が高いと考えられ、文化的にも、オホーツク文化およびその後継のトビニタイ文化の消長からも、オホーツク文化集団に対する擦文文化集団の優位が示唆されます(関連記事)。その意味で、アイヌを遺伝的にも文化的にも単純に「縄文人」の子孫とは言えないとしても、アイヌは鎌倉時代に北海道に侵略してきた外来集団といった、現代日本社会の一部?で根強く支持されているかもしれない言説(関連記事)は的外れだと思います。

 「縄文人」は、今ではアイヌなど一部の集団にしか遺伝的影響を残していないため、本論文の系統樹(図5a)で示されているように、アジア東部現代人集団との比較では特異な集団に位置づけられます。しかし、「縄文人」はユーラシア東部の人類集団間の複雑な相互作用により形成されたと考えられ、当時は「縄文人」のようにアジア東部現代人集団とは遺伝的に大きく異なる複数の集団が存在した、と考えられます(関連記事)。最近、「縄文人」に関する研究が大きく進展しており(関連記事)、今後は「縄文人」の時空間的にさらに広範囲の古代ゲノムデータが蓄積されていき、アイヌ集団との関係など日本列島も含めてユーラシア東部の人口史の解明が進むことを期待しています。


参考文献:
Sato T. et al.(2021): Whole-Genome Sequencing of a 900-Year-Old Human Skeleton Supports Two Past Migration Events from the Russian Far East to Northern Japan. Genome Biology and Evolution, 13, 9, evab192.
https://doi.org/10.1093/gbe/evab192

https://sicambre.at.webry.info/202109/article_28.html

39. 2021年11月15日 02:55:23 : EkLZD15jVs : TW11R2FxYmtrdUE=[707] 報告
380ニューノーマルの名無しさん2021/11/15(月) 01:01:13.47ID:QDHqYpbl0

【アイヌ利権】「アイヌになぜか朝鮮人が混ざってる」

awabi.5ch.net/test/read.cgi/news4plusd/1408497333/

窮民革命論
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AE%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%AB%96
> 窮民革命論(きゅうみんかくめいろん)とは、日本の新左翼の政治思想の一つ。

> 日本解体計画
> 太田竜らは当時結成されたばかりのアイヌ解放同盟や琉球独立党を嗾けて、
> 「アイヌ独立」や「琉球独立」を煽った。


【慰安婦問題】杉田水脈・前議員、「怖かった今回の国連」 スイスに100人を超す左翼が集結 チョゴリやアイヌ衣装のおばさんまで[2/17]
yomogi.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1455713874/


韓国人「アイヌ語はカナでは無くハングルを使ったほうが正しく表記できる」
h ttp://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1541659098/

h ttps://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1636869120/380

40. 中川隆[-12079] koaQ7Jey 2023年12月04日 09:21:26 : eYMkL26uaI : NU01RXVNaDgwalE=[6] 報告
<■221行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
チャンネル桜、DHC…右派系ネット動画が「激戦区」になったワケ
2020-11-29
https://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/9cb9fe32d60c447de25bdc3cda67a994

 2000年代から2010年代の日本のネット言論で大きな存在感を放ち、世論にも大きな影響を与えた「ネット右翼」。その通史を描き出す、文筆家・古谷経衡氏による野心的連載「ネット右翼十五年史」が2年の時を経て掲載再開!  今回分析するのは、右派メディアの中でも強い波及効果を持つ「動画メディア」の栄枯盛衰である。
ネット右翼の主軸は「アラフィフ」へ
図は筆者作成
 2002年に勃興したネット右翼の主要な「情報源」は当時から現在まで一貫してネット動画である。安倍内閣の継承を旗印にした菅内閣に交代しても、この傾向は全く変わらない。
 第二次安倍政権下、およびそれ以前の民主党政権下では、いわゆる「保守系雑誌」の隆盛が囁かれた。WAC社の『WiLL』が代表的だが、この雑誌は第二次安倍政権下の2016年春に事実上分裂し、元『WiLL』編集長の花田紀凱氏が飛鳥新社に移籍して『HANADA』を創刊する。一方、編集長が空席となった『WiLL』にはWAC社が刊行する『歴史通』編集長であった立林昭彦氏が就任した。
 『WiLL』分裂当初、「保守分裂」の様相を呈した二誌は読者を二分すると観測されたが、多少の振幅はあるにせよ、その後両者は産経新聞社の『正論』と合わせて、今や保守系雑誌の三巨頭として並び立っている。『WiLL』分裂によって保守系読者は細分化するどころか、これらのは却って市場を拡大したと思われる。
 ただし、ネット右翼は『WiLL』『HANADA』そして『正論』の三誌を併読しているとされがちだが、それは誤解である。1973年に創刊した『正論』の購読層は、古参の伝統的保守派で概ね60〜70代以上。後発の『WiLL』『HANADA』はそれよりも読者年齢は低いが、おおむね50〜60代以上が主軸となっている。
 2013年に私がネット右翼に大規模調査を実施した結果、ネット右翼の平均年齢は約38歳とでた。それから7年余りがたち、新陳代謝がほぼないネット右翼業界はさらに高齢化が進んでその平均年齢は45歳前後となっている。現在、彼らの主力はアラフィフである。
 しかしすでに述べた通り、『正論』『WiLL』『HANADA』の三大保守雑誌の購読者年齢に、ネット右翼のそれは一歩届かない「ヤング層」である。保守層やネット右翼の中で、これら三大保守雑誌を読んでいる者は少数である。それはすでに本連載で述べた通り、ネット右翼の構造的性格が起因している。
 ネット右翼は既存の保守系言論人の言説を「オウム返し」のように真似るだけの存在であり、より平易に言えば、いわゆる保守系言論人のファンにすぎず、彼らを宿主にしてその言説に寄生する存在だからである。もともと読書習慣が薄く、月刊誌を購読するという習慣そのものが希薄なネット右翼は、表紙や目次を見ることはあるかもしれないが、実のところ三大保守雑誌の主力行読者層とはなっていない。
 彼らの情報源は、保守系言論人が「動画」と「SNS」によって垂れ流す言説がほとんどすべてである。7年8か月続いた第二次安倍政権が終わり、菅内閣が発足したばかりであるが、実はこの間、ネット右翼の最大の情報源たる「右派系ネット動画」の世界は、代り映えのしない政界をよそに激変した。本稿ではその変遷を解説する。
チャンネル桜の成功
 まずネット右翼が好む右派系ネット動画の開祖は、2004年8月に開局した日本文化チャンネル桜(以下チャンネル桜)であった。
 チャンネル桜は、後述するDHCテレビよりは後発にスタートしたCS(衛星)放送局であるが、様々な経営努力の結果、おおむね2006年頃から日本で勃興しだしたYouTubeに目を付け、CS放送で流した番組内容の一部ないし全部を同サイトに転載する形で、一躍ネット右翼から注目を集めるようになった。さらに、ほぼ同時期にニコニコ動画(ドワンゴ)への転載も開始している。
 チャンネル桜の出演者陣は、それまで産経新聞と雑誌『正論』だけに自閉していた高齢の保守系言論人が主力で、ネットとの親和性は低いと思われていた。しかし、チャンネル桜はその古色蒼然たる保守系言論人の言説をそのまま動画としてアップロードし、これがかえって全く新しい手法として新鮮に受け止められた。
当初はそれほど「嫌韓」ではなかった
 いまでこそ右派系動画チャンネルは百花繚乱の勢いだが、ゼロ年代後半にこういった右派系オピニオンを、動画媒体に組織的に転載したのはチャンネル桜だけといってよい。こうして、高齢保守系言論人のオピニオンがそのままインターネットの世界に「輸出」される格好となり、彼らに無批判に寄生するネット右翼のオピニオンもまた、彼らと全く同じものに変質していった。
 その内容は「大東亜戦争肯定―反東京裁判史観」「対米追従」「嫌韓・反中・親台湾」「靖国神社参拝支持」「朝日新聞批判」「テレビ局批判」など、現在でも変わらず繰り返されているフレーズのオンパレードである。
 しかし、チャンネル桜草創期のメンバーは産経新聞・正論界隈出身の論客が多く、韓国に対しては比較的ではあるが融和的であった。これは、戦後の日本の保守が「反共」を旗印に韓国軍事政権と連携し、日本の保守系言論人の少なくない部分が大学生時代などに韓国に留学した経験を持つなど、韓国の保守派と交流を持っていたためである。
 実際、初期のチャンネル桜は「反中・親台湾」は旺盛でも「嫌韓」色はそこまで強烈という程ではなく、歴史修正的価値観に重きが置かれていた(もっとも、元在特会会長の桜井誠氏を繰り返し出演させるなど、「嫌韓」の定石を一応抑えることにも余念がなかった)。
 チャンネル桜が黄金時代を迎えたのは民主党政権時代の2009〜2012年で、当時は他に競合動画が殆どなかったことから、その再生回数は月間で数百万回を軽く数えた。
 この頃、保守界隈もそれに寄生するネット右翼も、麻生政権の下野と民主党政権誕生によって、「反民主党」という共通目的のもと大同団結し、西部邁氏的な「反米・反グローバリズム保守」から、産経系の親米保守、経済右翼、ビジネス保守、ネット右翼、果ては事件師的性格を持つ怪しい輩も多数同局に集結した。
内輪揉めと崩壊
 私がチャンネル桜に初出演したのは2010年で、ちょうどネット右翼の黄金時代に重なる。彼らは政治団体をも包摂し、デモ活動や抗議活動をニコニコ動画やUSTREAM(2018年に無料プランを終了)で中継し、録画編集したものをYouTubeに転載するという手段で、雪だるま式に視聴者数を倍加させていった。
 2012年の自民党総裁選で町村派(当時呼称・清和会)の安倍晋三氏が「憲法改正」「尖閣諸島への公務員常駐」などタカ派路線を鮮明にすると、保守界隈もネット右翼界隈も安倍支持一色となった。
 とりわけチャンネル桜は安倍支持を強烈に打ち出し、この時期の「安倍待望論」を全面的にリードした。安倍氏が総裁選で石破茂氏を破って総裁になり、2012年12月の総裁選挙で政権を奪還すると、チャンネル桜はいよいよ「安倍応援団」の最大勢力のひとつとしてネット右翼に絶大な影響を与えた。しかしチャンネル桜の隆盛はおおよそこのあたりが絶頂であった。2014年2月の東京都知事選挙で、所謂「内輪揉め」が発生したのである。
 チャンネル桜中枢とその支持者は、同都知事選に立候補した元航空幕僚長・田母神俊雄氏の実質的な選対事務所を一手に引き受けた。同氏が奮闘したとはいえ主要四候補(舛添要一、宇都宮健児、細川護熙、田母神俊雄)の中で最下位の61万票に終わり、同年の衆院総選挙で次世代の党(当時)から立候補して落選するや、都知事選時に集めた寄付金の使途で揉め、チャンネル桜は田母神批判を先鋭にした。田母神氏自身は2016年4月に公職選挙法違反で逮捕された(翌年起訴され、2018年に一審を経て二審の懲役1年10か月・執行猶予5年の判決が確定)。これによりチャンネル桜と田母神氏の対立は決定的となった。
 この頃から、逮捕・起訴された側の田母神氏支持者とチャンネル桜中枢との対立が激化し、少なからぬ視聴者がチャンネル桜から離れたともされる。
台頭する「DHCチャンネル」
一方、第二次安倍政権が長期政権の様相を呈し始めるや、新しい大きな動きが活発化した。DHCチャンネルの隆盛である。
 DHCチャンネル自体は2004年に開局したチャンネル桜よりもはるかに早い1996年に開局していたCS局であったが、開局当時は保守系のオピニオンは少なく、自社製品の広報やカルチャー番組、政治的には無色のエンタメ番組が主力であった。それが第二次安倍政権誕生以降とりわけ急速に保守化し、CS放送局の中ではチャンネル桜と勢力を二分するまでに成長した。
 とりわけDHCチャンネルでヒットしたのは、2015年から放送が開始された『虎ノ門ニュース』(番組名には変遷がある)と『ニュース女子』である。後者はTOKYO MXや地方局の枠を買い取る形でも放送されたため、加速度的に視聴者数が増えた。
 チャンネル桜とDHCチャンネルの最大の違いは、バックにある資金力の違いであった。チャンネル桜は開局当初、有料チャンネルでの放送という形をとっていたが、それは創設者で現社長の水島総氏の私財を投じる形で行われていた。よってたちまち資金難に陥ると、視聴者からの寄付に頼る「二千人委員会方式」に切り替えた。
 「二千人委員会」とは、視聴者の中うち篤志家が1万円/月の寄付会員(年額12万円)になり、それを二千人集めることによって放送を続行するというもので、これにより放送自体はストリーミング放送等を除いては無料で行われた。
 一方、DHCチャンネルは母体が日本有数の化粧品会社であり、潤沢極まりない予算編成が可能である。無論、予算の多寡が番組の質を決定するものでは無いが、豪華なキャストやセットはそれまでの「手作り感」あふれるチャンネル桜と比べると斬新と映り、これによって2016年頃にはネット右翼の最大人気番組は『虎ノ門ニュース』となった。
 これと肩を並べる人気番組であった『ニュース女子』は、2017年1月に放送した沖縄の基地反対派に関するデマ報道でBPOから重大な倫理違反の指摘を受ける(2017年12月)と、翌2018年3月末にはTOKYO MXでの放送を終了した。これにより、ますます『虎ノ門ニュース』の比重は高まることになった。
このころ、チャンネル桜もDHCチャンネル(一部を除く)も、CS放送から続々と撤退する。まずDHCチャンネルが2017年3月にCS放送から撤退すると、チャンネル桜も同年10月に撤退した。これにより、両局は完全なYouTube動画放送局となったが、これはCS放送よりも、YouTubeにおける再放送や転載での視聴者が圧倒的に多かったためと推測される。右派系動画番組はYouTube専売で放送するのがもっとも商業的成果を挙げるという構造が、2017年には確立されたのである。
右派動画チャンネル乱立の時代へ
 ここから、雨後の筍の如く右派系YouTube動画局が誕生した。まず2017年2月に『文化人放送局』が開局すると、同年10月には『林原チャンネル』が開局。林原チャンネルはDHCチャンネル元社長の浜田マキ子氏が独立して開始したものである。
 2020年10月末現在、右派系動画チャンネルの登録者数トップはDHCチャンネルの約71万人、次いでチャンネル桜が50万人、そして後発の文化人チャンネルが約35万人で、個人チャンネルを除けばこの3つが右派系動画放送局の三巨頭となる(これ以外にも、株式会社ON THE BOARDが主催する個人チャンネルが2つと、櫻井よしこ氏が事実上の主宰となる言論チャンネルがあるが、後者については有料放送なので視聴登録総数は不明)。ネット右翼はこうした動画チャンネルを常に重複、並立して視聴しており、どれかを単独を視聴する事は少ない。
 第二次安倍政権下でこれら右派系動画群は一貫して「安倍応援団」の一翼を担った。とりわけ2015年頃を境に、DHCチャンネルの人気や登録者数がそれまで右派系動画放送局群で首位を堅守していたチャンネル桜を上回ると、DHCチャンネルのレギュラー出演者は元来ネットの外側で実績・人気のあった作家などで固められるようになり、さらにはその出演者の多くが安倍首相主催の『桜を見る会』などに招待されるなど、政治的発言力も増大していった。一方、チャンネル桜の出演者は同会に呼ばれないなど、2015年以降は右派系ネット動画の首位がチャンネル桜からDHCチャンネルに大きく交代し、業界の勢力図は激変して今に至っている。
「反安倍」に舵を切るメディアも登場
 これまで挙げた動画放送局群は第二次安倍政権誕生以降、親安倍で一致していたが、二番手以下に甘んじるようになったチャンネル桜は、概ね2019年頃から「反安倍」への方針転換を顕著にしたことも特徴的である。
 彼らは2012年の時点では「安倍応援団」の最前衛と目されていたが、次第に安倍政権の進めた外国人実習生制度(実質的な移民政策だと彼らは主張する)や、アイヌ政策(そもそもアイヌ民族は存在せず、それがゆえにアイヌの文化振興等は”利権”であると彼らは主張する)、規制改革などを批判し、反安倍・反グローバリズム保守に転換した。もっともその背景には、チャンネル桜が開局草創期から西部邁氏などの所謂「反米保守・反グローバリズム保守」などの出演者を包摂してきたからという理由もある。あるいは「反安倍→反菅の保守」という、ネット右翼においてはマイノリティの視聴者を引き付ける役割を担う、マーケティング上の要請もあるのかもしれない。
 概ね2015年以降、DHCチャンネルの「一強」が続く中、保守系言論人の多くがDHCチャンネル内での著書の宣伝に躍起となっており、この傾向はますます続くものとみられる。一方、2019年からは『WiLL』が独自に動画チャンネル『WiLL増刊号』を開設し、2020年10月時点で登録者数約18万人に達するなど、新興勢力の勃興も見られる。
 誰しもがYouTubeチャンネルを開設できるようになり、右派系ネット番組はまさにレッドオーシャンの時代を迎えている。以前の寄稿で示した通り、ネット右翼の実数は全国でおよそ200万人、最大でも250万人程度の規模とみられる。その全員が動画を見るわけではないため、せいぜい動画視聴者数の天井は7掛けの150万人程度、という市場規模であろう。
「内輪受け」追求の末に……
 新陳代謝のないネット右翼の総数は増えない。しかし、ネット右翼には中小零細企業の経営者や下級官吏、大企業の管理職、開業医などの中産階級も多く、ひとり頭の購買力は旺盛なので、各社はこぞってこのレッドオーシャンに参入し、それを雑誌・著書の購読に結び付けようと躍起になっている(――ただしすでに述べた通り、ネット右翼には読書習慣が希薄なためこの行為は著効していない)のがここ数年の状況である。全体のパイは広がらず、またアニメや漫画と違って海外市場というものが望めないので、畢竟各動画チャンネルの中では出演者の取り合いと対立が起こる。
 民主党政権という「巨大な共通の敵」を失って以降、保守業界、ネット右翼業界では数々の内紛や民事裁判が起こってきた。その都度、ネット右翼は対立するどちらかの側につき、敗れた側は保守業界から消えていった。前述の田母神氏がその典型である。まさに関ヶ原における西軍諸将の敗行軍が、保守業界のいたるところで発生している。彼らは保守業界、ネット右翼業界以外に通用する普遍的な言説を持たないため、ここから追放されることは即商業的恩恵の終焉を意味するのだ。
 こういった保守業界の興味深い内紛の実態は別稿に譲るとしても、右派系動画番組の生き残りをかけた戦いは、今後もますます熾烈の度を増していくものとみられる。
古谷 経衡(文筆家)
https://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/9cb9fe32d60c447de25bdc3cda67a994

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