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(回答先: 中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 05 日 07:22:24)
論語と儒教は無関係である
特別番組「なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか」
石平 倉山満【チャンネルくらら・3月16日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=97lnyaSszUs
特別番組「孔子の教えを最も実践している国は?〜なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか」
石平 倉山満【チャンネルくらら・3月23日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CjciO6zwxJY
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なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書) – 2019/3/16
石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%96%84%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%80%81%E5%84%92%E6%95%99%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%82%AA%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E4%B8%AD%E9%9F%93%E3%80%8C%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%BF%83-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%B3%E5%B9%B3/dp/4569842771
内容紹介
論語はすなわち儒教のことである――日本人の多くにとっての「常識」であろう。ところが、実はそうではない。
子供のころ、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。
実際の孔子は「聖人」であったのか?なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか?
御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、
なんと「論語は儒教ではない」というものだった。
曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。
目次:
序章 私の『論語』体験と、私が見た「儒教の残酷さ」
第1章 定説や通念を覆す──孔子とは何者か、『論語』とは何か
第2章 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子
第3章 朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇
第4章 朱子学を捨て、『論語』に「愛」を求めた日本
最終章『論語』はこう読もう
論語はすなわち儒教のことである―日本人の多くにとっての「常識」であろう。ところが、実はそうではない。子供のころ、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。実際の孔子は「聖人」であったのか?なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか?御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、なんと「論語は儒教ではない」というものだった。曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。
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waka
論語と儒教は無関係である 2019年3月19日
著者の石平氏は、文化大革命の最中だった幼少時代、祖父から毎日「論語」の言葉を何百回も書き写しさせられた。当時、中国では、孔子の思想は徹底的に糾弾され、発覚したら命すら危ないくらいだったが、漢方医だった祖父は医術伝授の前段階の基礎教育として「仁術」を身に着けさせるために、「論語」の言葉を教えたのだった。これが石平氏と「論語」との出会いだった。
その後、石平氏は北京大学生だった時、「節婦」と「烈婦」の存在を友人から聞かされて激しい衝撃を受ける。礼教(南宋時代以来の新儒教)が支配する明朝や清朝の時代、女性が結婚して夫に先立たれた場合、再婚が許されなかった。跡継ぎの息子がいる場合、嫁ぎ先の家に残って子供を育て上げなければならない。それが「節婦」である。跡継ぎがいない場合、未亡人は殉死を強要される。それが「烈婦」である。そんな残酷なことが、明清時代の500年以上に渡って中国全国のあちこちで起きていたと思うと、憤慨を覚えざるを得なかった。そして「礼教殺人」と言う言葉が戦慄するほどのリアリティーを持つようになったという。
同時に、一つの大きな葛藤を抱えることになった。礼教は儒教の一種であり、「論語」は儒教の始祖だと言われている。だとすれば、「論語」と孔子の思想は、儒教・礼教と当然繋がっており、共通した理想理念があるはずなのに、石氏が教わった「論語」の言葉の数々には、礼教の「殺人思想」と繋がるような要素は何一つなかった。
孔子が「論語」の中で語っているのは「愛」や「恕(思いやりの心)」や、親の気持ちを大事にする意味での「孝」といった人間的暖かみのあるもので、礼教の残酷さはない。「論語」と礼教の間には、何の共通点もないはずである。「論語」が語る「礼」と、後世の礼教が重んじる「礼」とは、本質的に別々のものではないのかと思ったのである。
「論語」と礼教とは、やはり別のものであると石氏が確信するに至ったのは、日本に来てからだった。留学の保証人になってもらった日本人の家を訪問した時、夫人が極めて礼儀正しく丁重に迎え入れてくれ、石氏は思わず感涙をこぼしたほどだった。文化大革命が吹き荒れた時代の中国では、「礼」の具体的な形を見たことは一度もなかったという。
更に数年後、大学院でフランスの近代社会学者デュルケームの「社会儀礼論」を学んでいた時、石氏が「さすがにフランスの社会学者ですね」と言ったところ、指導教官から「何を言っているのか。最初に考えたのは君の祖先だよ」と言って、「論語」の一文を出してきた。石氏はこれにより、「論語」の奥深さと「論語」の語る「礼」の本質について理解ができたという。
中国伝統の礼教と礼教の作り出した社会は、心の暖かい「礼」と「和」とは無縁な世界であり、過酷さと残忍さを基調とする世界だった。「論語」の精神と考えは、後世の中国伝統の礼教とはまったく正反対のものである。
「論語」と儒教は無関係である。このような視点は、学問上の定説および歴史上の一般的な通念とは相反している。石氏はこれまで数十年に渡って、この問題意識を念頭に置き、「論語」関係、儒教関係の学術書や文献を読んで、探求を深めてきた。そして最近やっと自信を持って、「論語」と儒教を同一視するこれまでの学術上の定説と歴史上の通念は間違っていると堂々と言えるようになった。
「論語」の精神と考えには、普遍的な価値のあるものが多く含まれているので、「論語」は大いに読まれるべきである。しかし、儒教とは過去からの負の遺産であり、廃棄物として捨てておくべきものであると、石氏は主張する。
儒教と礼教が支配していた中国と朝鮮でも、いわゆる読書人階層は「論語」を一応は読んでいたはずだが、彼らは「論語」の心を理解しようとせず、「論語」の精神を実践に移すこともなかった。結局、中国と朝鮮が儒教と朱子学によって支配されたのに対し、日本人は昔から自分たちの好みで「論語」を愛読し、「論語」の精神を心得ている。そして、まさにその重要な違いから、日本人と中国人・韓国人との「道徳格差」が生じてきたのだろうと述べている。
- 中国では、法律は、皇帝の命令である。だから、皇帝は、法律に従わなくていい。 中川隆 2019/9/09 17:50:30
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