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エイゼンシュテイン イワン雷帝 (1944年,1958年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/266.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 23 日 11:41:59: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: エイゼンシュテイン 戦艦ポチョムキン (1925年) 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 22 日 12:27:01)


エイゼンシュテイン イワン雷帝 Иван Грозный (1944年,1958年)


監督 セルゲイ・エイゼンシュテイン
脚本 セルゲイ・エイゼンシュテイン
音楽 セルゲイ・プロコフィエフ
撮影 アンドレイ・モスクヴィン エドゥアルド・ティッセ
公開 1944年12月30日(第1部)、1958年月日不明(第2部)
上映時間 99分(第1部)、88分(第2部)

動画

イワン雷帝 第1部(1944) – gloria.tv
https://gloria.tv/video/8GCpNUsA3CsmD9XbbD1gW2X9T

イワン雷帝第2部貴族の陰謀=エイゼンシュテイン日本語終わり25mは幻の第3部未公開あり - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dl5OskTEFBE


▲△▽▼


キャスト

イワン4世:ニコライ・チェルカーソフ
エフロシニア・スタリツカ:セラフィマ・ビルマン
ウラジーミル公:パーヴェル・カドチニコフ
アナスタシア皇妃:リュドミラ・ツェリコフスカヤ

第1部(1944年)
16世紀半ば、帝位に就いたイワンはロシアを強力な統一国家にすべく邁進するが、それを快く思わない伯母のエフロシニアは、彼の愛する妃アナスタシアを毒殺してしまう。悲嘆にくれたイワンは退位して田舎に引きこもるが、民衆の熱い要請を受けて、再び帝位に返り咲く。

第2部(1946年)
民衆の熱い要請を受けて再び帝位に返り咲いたイワンであったが、宮廷内では依然としてエフロシニアを中心とする反イワン派の抵抗を受けていた。イワンはこの状況を打開すべく大粛清を決行する。

『イワン雷帝』(イワンらいてい 原題:Иван Грозный)は、1944年から1946年にかけて制作されたソ連映画。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督。

“イワン雷帝”ことイヴァン4世の生涯を描いた作品。
全3部構成で制作される予定であったが、第1部は時の権力者ヨシフ・スターリンから高く評価されたものの、第2部はスターリンを暗に批判した内容であったため上映禁止となり[1]、第3部は完成されなかった。第2部のラスト数分がカラー映像になっている。


エイゼンシュテインは1928年にモスクワで行なわれた2代目市川左團次の歌舞伎初の海外公演を観劇し、大いに感銘を受けた。その影響から、第1部ではクローズアップ・ショットで主人公に見得を切らせるという、歌舞伎的な様式の演出を用いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E9%9B%B7%E5%B8%9D_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

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『イワン雷帝 第一部』(1944)歴史映画しか撮らせてもらえなかった、かつての巨匠の晩年。 2006/10/30
https://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/200610/article_12.html


 映画史上、とりわけ制作における重要な理論であるモンタージュ理論とその効果的な実践で、社会主義陣営のみならず、全世界の映画界、なかでも制作者全体に多大なる影響を与え、革命を巻き起こしたのはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督でした。

 彼の代表的作品である『戦艦ポチョムキン』ではモンタージュはもちろん、シンメトリー的配置の美しさ、遠近法の利用、図形イメージの連動と象徴性などにより観客の感情を意図的にコントロールして、自らの望むとおりに政治的に誘導していくプロパガンダとしての巧妙さも手伝い、全世界的に物議を醸した作品に仕上がりました。

 それは1925年であり、彼が世界で最も重要な映画人となった時代でした。しかし時代は常に動いているのです。この後には『ジャズ・シンガー』に代表されるように、トーキー革命の波がサイレント映画と映画界全体を呑み込み、サイレント映画では重要であったモンタージュ的な手法、演劇的な大げさな演技しか出来ず、声に魅力の無い俳優たちをも一気に飲み込んでいきました。

 映画界のみならず、政治的なトレンドも20年代と40年代では全く違ったものになりつつありました。米ソを代表とする連合国対日独伊枢軸国の対立構造から、アメリカに代表される自由主義連合対プロレタリア独裁制のロシアに代表される共産主義連合に移っていきました。

 まだ戦争は終わってはいませんでしたが、余力のあった米ソにとっては「来たるべき日」に備えた準備が水面下ではしっかりと進められていました。この頃の映画を観ても解るように、アメリカ映画では日本やドイツよりもソ連を恐れていたような台詞を多く見かけます。

 こういった状況の中ではかつての世界的革命家であるエイゼンシュテイン監督は浦島太郎的な時代遅れの映画人になりつつありました。完成した作品を見ても、『戦艦ポチョムキン』並みに成功した作品は皆無であり、『十月』は酷評されました。

 またスターリン体制下での弾圧も行われていったために、のちに撮った作品の多くは歴史物になってしまい、彼が撮りたかったであろう現代劇はただの一本も撮れませんでした。

 さらに追い討ちをかけたのが『メキシコ万歳』『ベージン草原』などの度重なる制作途上での作品の撮影中止と制作そのものの中止でした。『メキシコ万歳』は70年代後半になってようやく陽の目を見ることになりました。この『イワン雷帝』にしても第二部が公開されたのはスターリンの死後でした。当然ながらエイゼンシュテイン監督も既に鬼籍に入っていました。

 では一体巨匠の最後となってしまったこの『イワン雷帝 第一部』及び第二部はどのような内容だったのでしょうか。今日は一部についてのみの記述となります。

 光と影、とりわけ影が作品に与える劇的効果の力強さは圧倒的であり、その美しさもまた健在でした。莫大な予算と人件費を惜しげもなく使いまくる凝りに凝ったセット、俳優達が着ていた豪華絢爛な衣装の美しさにも目を奪われる。

 こうした煌びやかな衣装やセットをソビエト時代の現代劇では見れないので、ロシア映画界が持っていた実力と映画への意気込みを見るには最適なサンプルかもしれません。しかし国民全体が対独戦線の状況に緊張感を持って身構えている時に、金貨で行水を受けるような冒頭の戴冠式やふかふかのベッドは嫌味でしかない。

 『アレクサンドル・ネフスキー』のような民族的かつ肉体的な美しさを表現した映画ではなく、権力側の裏切りや腐敗などをテーマに語っていくこの作品は誰に向けて制作されたのかが非常に微妙な作品でもあります。

 芸術家が監督した時代劇、それも時間と予算を湯水のように使ったそれである。過去を描いたはずのこの作品が体制固めに躍起になっていたスターリンを刺激し、エイゼンシュテイン自身が弾圧されていくのはなんとも皮肉な話である。

 この第一部での見所は前述したように影と遠近法を最大限に利用した人物の配置、シンメトリーを強く意識した構図、迫力ある城郭攻防戦などのロケ・セットと爆破、そして豪華な衣装
などが挙げられる。

 演技面ではサイレント時代の名残りのような大げさな演技を見ることになる。目で演技する俳優たちの感情表現の巧みさには恐れ入るが、歌舞伎を見るような見得の切り方には違和感がありました。サイレントならばとても解りやすい良い演技であるとは思うのですが、これはトーキー映画なのです。

 説明的な台詞がなくとも大いに楽しめるエピック映画ではあるのですが、わざとらしいクロース・アップの多用は反って興を削ぐ。派手なシーンだけではなく、このような謀略を暗示させるシーンがあることにより、作品の質と奥行きが大きく、そして深いものになっているのは承知しています。でもわざとらしい。

 一部と二部をまとめて見ても十分に楽しめる作品であることも間違いない。本来は第三部まで制作する予定だったそうですが、エイゼンシュテイン監督の死亡のためについに制作されることはありませんでした。なんやかんや言いましたが、まあ結局、僕はエイゼンシュテイン監督作品が大好きなんですよ。『戦艦ポチョムキン』も合わせて、劇場で三本まとめて一日で観てしまうくらいですから。また観たい。今度は『ベージン草原』も観たい。
https://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/200610/article_12.html

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「ひどい代物だ!」 なぜスターリンはエイゼンシュテインの『イワン雷帝』の続編を容認できなかったか 2018年1月10日
https://jp.rbth.com/history/79540-iwan-raitei-eiga

 セルゲイ・エイゼンシュテインによる最後の映画イワン雷帝の二部作は、スターリンの要請で制作されたが、それぞれ異なる運命をたどった。有名な『戦艦ポチョムキン』も手掛けたこの監督は、第一部で最高の国家賞を受賞したが、第二部は当時非常に恐ろしかったスターリンその人から激しく批判された。ロシア・ビヨンドが、エイゼンシュテイン生誕120年の前夜にこのお話を皆さんにお届けしよう。


 「…エイゼンシュテインのイワン雷帝、第二部。あなた方の中に見た者がいるかどうか知らないが、私は見てきた。あれはひどい代物だ!」ソビエトの指導者ヨシフ・スターリンは1946年8月の共産党幹部会でこう言った。エイゼンシュテインの映画の第一部が第一級のスターリン国家賞を受賞してまだ一年も経っていない時だ。映画を注文したスターリンは、ロシアの第一代ツァーリの姿が映るその映画を楽しんだ。

 第一部はイワン4世の治世の始まりを描いている。支配者が実際に雷のごとき恐ろしさを露呈し、高位の貴族層から現実の敵と潜在的な敵とを排除する残酷な政策を始めるより前の時期である。第一部では、イワンは国を偉大にすることを誓い、内外の敵と戦う。これは政治的不安定さが去った後に必要となる行動計画だった。強く自信に満ちたツァーリは彼の公約を実現させていく。国外では長年の宿敵タタール人を破り、国内では皇帝の権力を強めようとする間に貴族たちの陰謀に遭う。

“優柔不断なイワン雷帝”


 ここまではスターリンにとって何の問題もなかった。ところが、第二部では貴族たちの反対勢力の伸長が描かれ、イワンの治世中最も論争のある時期であるオプリーチニナ、つまり貴族に対する恐怖政治の時期が扱われている。エイゼンシュテインはスターリンの期待に沿う形でそれを描くことができなかった。また監督はツァーリの人格の描き方を誤ったとして嵐のような批判の矢面に立った。

 しかしイワンの表象のどこに問題があり、なぜ世界初のプロレタリア国家の指導者にとって中世ロシアの支配者を描き出すことが重要だったのか。答えのいくつかは、監督とスターリン、その他何人かのソビエト高官が出席した1947年2月の会議の議事録に見出すことができる。

 「ツァーリ・イワンは偉大で賢明な支配者だった。彼の賢明さは、彼が国家的観点に立ち、外国人を国内に入れなかったという点に表れている。...イワン雷帝はとても残忍な人物だった。彼を残忍な人間として描くことはできるが、彼がなぜ残忍でなければならなかったのか説明しなければならない。イワンに関する誤解の一つとして、彼は五大封建領主の家族を完全に虐殺してはいない。...それなら後で問題もなかったろう。...彼はもっと決断力のある人物だったはずだ。」スターリンはこう述べ、エイゼンシュテインのイワンは「優柔不断でハムレットを思わせる」と指摘している。会議に同席した有名なソビエト高官のアンドレイ・ジダノフによると、監督はツァーリを“ノイローゼ患者”にしてしまった。

中世ロシアのクー・クラックス・クラン


 ツァーリの人格の他に、エイゼンシュテインは貴族との彼の戦いについても異なる見方をしていた。スターリンによれば、イワンが敵と戦うために編成した近衛兵による連隊、オプリーチニキは“正規軍”で“先進的な軍”だった。「あなたはオプリーチニキをクー・クラックス・クランのように描いている。」スターリンはこう言って監督を叱責した。

 議事録から読み取れる限り、会話の中には珍しい一場面もある。エイゼンシュテインが、皮肉とも取れる風にソビエトの指導者に反論しているのだ。監督は、クランのメンバーが白いフードをかぶっているのに対し、映画の登場人物は黒のフードをかぶっていると答えている。

 概してスターリンは、イワンの恐怖政治に対するエイゼンシュテインの否定的な態度に賛同することができなかった。彼は、恐怖政治は当時国を強くするのに役立ち、国をばらばらにしようと画策する封建領主たちから国を守った進歩的な方策だったと主張した。


スターリンと映画

 このエピソードから、スターリンが映画に対して特に注意を払っていたことは明らかだ。「スターリンは[他のいかなる芸術形態より]映画の制作を計画することに傾いていた。彼は、現代のイデオロギー闘争という当時の政治状況の観点から特に都合の良さそうな歴史上の既成の人物像を利用するのが常だった。」有名なソビエトの作家コンスタンティン・シモノフは、スターリンの映画に対する態度をこのように説明している。よって、常に心理的な思索に耽る、弱く決断力に欠ける支配者の像は、何のプロパガンダ的役割も果たし得なかったため、スターリンにとっては全く不必要だったのだ。

 イワン雷帝の第二部の場合、監督のツァーリとその政策の描き方がスターリンの気に入らなかったのは、この映画がスターリン自身の行いを思わぬ方向に描き出していたからだと推測されることが多い。「この映画を見た人は誰でもツァーリとスターリンとを重ね合わせただろう。スターリンにとっては当然、全くもって受け入れられないことだった。」モスクワ映画博物館の元館長、ナウム・クレイマンはそう主張する。スターリンは明らかに、当時彼の肖像に使われたような、強い支配者の像を好んでいた。イワンによる弾圧も敏感な話題だった。1930年後半にスターリンの承認によってソ連中で粛清の嵐が吹き荒れ、かくも多くの犠牲者が出ていたからだ。

 この映画に関して言えば、エイゼンシュテインはそうした“誤り”を正そうとしたと言われている。しかし彼は間もなく亡くなってしまい、彼の映画の第二部は1958年になってようやく、それもディレクターズ・カット版で上演された。
https://jp.rbth.com/history/79540-iwan-raitei-eiga

 

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コメント
1. 中川隆[-12958] koaQ7Jey 2020年4月25日 19:35:26 : FuTo4WIpwQ : NS43QlNVSjRVTUE=[11] 報告
あらゆる困難にもめげず 大祖国戦争の中、ソ連はいかにして名作映画を生み出したか
2020年04月22日
https://jp.sputniknews.com/75-victory/202004227386793/

1941年から1945年の大祖国戦争は、ソ連映画業界が発展を遂げる中で特別な時期だ。飢餓に資源や人手不足などの苦難にもかかわらず、この恐ろしい戦争時にソ連の映画製作者たちは100本以上の劇映画を制作した。これらの作品はソ連人の精神を高揚させ、のちに愛される名作となった。スプートニクは、ソ連映画がいかにして戦争の時代を生き抜いたのか、また、どのようにして世界の文化遺産に貢献したのかを詳しくお伝えする。


ソ連の有名な映画スタジオ「モスフィルム」

ロシアの有名な映画スタジオ「モスフィルム」の歴史が始まったのは、1924年1月とされている。この映画スタジオがモスフィルムと命名されたのは1936年。30年代初頭、モスクワの雀ヶ丘(モスクワ国立大学の向かい)に新しいモスフィルムのスタジオが建設された。

戦前のこのモスフィルムでは、若き巨匠セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の白黒映画『戦艦ポチョムキン』などの傑作が生まれた。この作品では白黒映画なのにも関わらず、旗だけを赤く着色するという革新的な手法が使用された。


『戦艦ポチョムキン』

さらに、この映画の撮影と編集にかかった時間はわずか3ヶ月だった。米国の映画芸術科学アカデミーでは『戦艦ポチョムキン』が1926年のベストフィルムと認定され、パリ万国博覧会では最高賞の「スーパーグランプリ」を受賞した。

飢餓と手近な素材で作られた撮影装置 後方での映画製作者たちの苦労

大祖国戦争最初の年の1941年、「モスフィルム」と、包囲されたレニングラード(現サンクトペテルブルク)のライバル社「レンフィルム」の全部門は、カザフスタンのアルマトイに疎開し、一部のスタッフは志願兵として前線に赴いた。雀ヶ丘の「モスフィルム」の建物では小型軍艦や砲弾の部品の生産が始まった。
国の指導部は、戦時中の映画製作者の仕事の思想的価値が極めて大きいことを理解していた。そのため、映画はモスクワから遠く離れた場所でも制作され続けた。そして両スタジオの制作チームは、まるで今までずっと一緒に映画を作っていたかのように作業に取りかかった。アルマトイでは中央合同劇映画製作所が組織された。戦時中にソ連で制作された映画の80%がこのスタジオの作品だ。

映画スタジオは疎開先に機材をほとんど持ち込めなかった。常設の撮影スタジオを構築するのには問題があり、舞台装置は手近な素材で作られた。当時の人々によると、飢えでふらつく俳優たちに食べさせる十分な食料すらなかった。

そんな状況にも関わらず、疎開前から制作が始まっていたイワン・プィリエフ監督のカルト的人気を誇るコメディー映画『豚飼い娘と牧童』が戦時中に完成した。また、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の超大作『イワン雷帝』の第一部が完了した。

ソ連を代表する戦争映画『イワン雷帝』

古代ロシアの恐ろしい支配者(イワン雷帝)の強力な手で国を統一するというアイデアは、戦時中に非常に重要であり、スターリンの好みに合った。そして高額な製作費がかかった第一部の作業は完了し、さらに第二部の撮影を開始することができた。

しかし、イワン雷帝が怪しくて残酷な人間として描かれている第二部をスターリンが快く思わず、上映は禁止され、エイゼンシュテイン監督は第3部を制作することができなかった。


『イワン雷帝』を撮影するセルゲイ・エイゼンシュテイン監督
1946年には戦後の困難な状況にも関わらず映画『石の花』も公開された。この作品はカンヌ国際映画祭で色彩賞を受賞している。

ソ連の映画産業は発展しただけでなく、制作ジャンルも変化した。終戦に向けてロマンティック・コメディやミュージカル・コメディが登場した。1944年にはイヴァン・プィリエフ監督の『戦後の晩六時』、1945年にはセミョン・ティモシェンコ監督の『空ののろま』が公開された。

また、人々にはおとぎ話も必要だった。1942年には映画『王子と乞食』が撮影され、戦後直後の1946年にはナジェージダ・コシェヴェロワ監督の『シンデレラ』が公開された。『シンデレラ』は、史上最も残忍で最も多くの血が流された戦争を生き抜き、そのあらゆる苦難を背負った世代の象徴となった。

戦火のなかで

大祖国戦争が始まった当初、映画制作者らには軍と国民の士気を高め、勝利への自信を植え付けるというイデオロギー的な任務が与えられた。映画制作者らの第一の任務は戦争の経過、後方の仕事、戦時中の国の生活などを伝えるニュース映画の撮影だった。最前線で活動する映画撮影班が結成され、戦いや兵士の生活を記録した。

前線でカメラマンを務めたセミョーン・シコリニコフ氏は「最前線で活動する映画カメラマンは252人おり、バレンツ海から黒海まで大祖国戦争の大規模な全ての前線で撮影した。戦場では5人に1人が戦死した。生存者のほぼ全員が、負傷あるいは打撲傷を負い、時に1度だけでは済まなかった。前線で撮影したフィルムの長さは、350万メートル」と当時を振り返っている。

1942年、大スケールのドキュメンタリー映画『モスクワ近郊におけるドイツ軍部隊の壊滅』が公開された。この作品の監督はイリヤ・コパリンとレオニード・ヴァルラモフ。両氏は15人の前線カメラマンが撮影した映像を一つの作品にまとめた。この作品は1943年、米国で『モスクワの反攻』というタイトルで公開された。米国の映画芸術科学アカデミーはこの作品に関心を示し、ソ連のドキュメンタリー映画が初めて『アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞』を受賞した。

戦後の平穏なモスフィルム

戦後数年間、映画はあまり制作されなかったが、50〜60年代には本格的な映画ブームが訪れた。このブームは「モスフィルム」に若い映画監督が入ってきたことに関係している。

この時代には全てのソ連人とロシア人が子どもの頃から大好きな映画が制作された。

『戦争と貞操』
『人間の運命』
『車にご注意』
『僕の村は戦場だった』
『砂漠の白い太陽』
『コーカサスの女虜』

これ以外にもソ連の映画スタジオによる多くの名作が残されている。
第二次世界大戦をテーマにした映画は今でも人気があり、ロシアで制作された作品に加えて(世界で最も人気のあるロシア映画の1つとなった『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』など)、ハリウッドの監督も第二次世界大戦をテーマにした映画を撮影しており、最近の作品では『ダンケルク』や『プライベート・ライアン』、その他にも壮大な作品が数多く存在する。なお、これらの映画の役目は現在変化した。これまでのように英雄的行為に駆り立てるのではなく、戦争とはいかに恐ろしいものであるかを現代の人々に伝えようとしている。

https://jp.sputniknews.com/75-victory/202004227386793/

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