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イングマール・ベルイマン ペルソナ (1966年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/253.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 18 日 07:52:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: イングマール・ベルイマン 第七の封印 (1957年) 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 18 日 07:42:31)


ペルソナ Persona(1966年)


監督 イングマール・ベルイマン
脚本 イングマール・ベルイマン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
音楽 ラーシュ・ヨハン・ワーレ

仮面/ペルソナ - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%EF%BC%8F%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A?ref=nicotop_search

キャスト

Nurse Alma ビビ・アンデショーン
Actress Elisabeth Vogler リヴ・ウルマン
Woman Doctor マルガレータ・クルーク
Mr. Vogler グンナール・ビヨルンストランド


映画のストーリー

エリザベート・フォグラー(L・ウルマン)は、今や舞台女優として確固とした地位を築き、家庭生活においても善良な夫(G・ビヨルンストランド)と可愛い息子に恵まれ、至極幸福であった。ところがある日、彼女は舞台で「エレクトラ」に出演中、突然セリフが喋れなくなってしまった。

それはほんの一瞬間の出来事だったから、別に大したこともなく無事演技を終えたのだったが、数日後、その発作が再発、彼女は言葉を失うと同時に、身体の動きをも失ってしまった。まる三カ月の精密検査にもかかわらず、精神的にも肉体的にも何ら欠陥をみつけ出せなかった。そこで担当の女医はエリザベートに、バルト海に面した自分の別荘への転地療養をすすめた。

エリザベートはつきそいの看護婦アルマ(B・アンデルソン)がひどく気に入った。そしてアルマも言葉にならぬエリザベートの意志をたちまち理解出来るほどになった。ある日アルマは聞き上手なエリザベートにせがまれて、過去におかしたいまわしい自分の誤ちを話した。エリザベートにとって、健康でたくましいアルマの肉体はまぶしく、その上アルマの官能性が自分にのり移ってくるように感じられた。

アルマはある日、女医あてのエリザベートの手紙をぬすみ見て驚いた。そこにはアルマが名前も素姓も分らぬ男たちと戯れた白昼の浜辺の出来事、そのあげく妊娠してしまい、同棲していた医学生に堕胎医を探してもらった思い出話−−が、細かに書かれていた。

アルマは怒った。二人の仲は裂かれた。その頃から夢ともうつつともさだかならぬ状態の中で、エリザベートとアルマの肉体は入れかわり始めたのだ。やがてエリザベートは再び口がきけるようになった。彼女は幼い息子のことを得々とアルマに語り、一方アルマは耐えられぬ吐き気に悩まされた。それはエリザベートが息子をみごもった時の苦しみが、アルマの肉体に移ったのであった。

エリザベートとアルマの入れかわりはそればかりでなく、エリザベートは夫との交わりにおいても、アルマの肉体を感じた。しかし危機はやがて去った。エリザベートは女優として華やかにカムバックし、アルマは病院に帰った。
https://movie.walkerplus.com/mv13755/
 

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コメント
1. 中川隆[-12098] koaQ7Jey 2019年2月18日 12:25:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告
2016年8月25日
後世に多大な影響を与えた映画〜イングマール・ベルイマン「仮面/ペルソナ」からミュージカル「エリザベート」へ
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-93aa.html


後世に多大な影響を与えた(追随者/信奉者を産んだ)映画がある。

例えば1932年にアカデミー作品賞を受賞した映画から名付けられた「グランド・ホテル」形式は後の「ポセイドン・アドベンチャー」「タワーリング・インフェルノ」「大空港」「有頂天ホテル」「さよなら歌舞伎町」を産んだし、

オーソン・ウェルズ「市民ケーン」(デヴィッド・フィンチャー「ソーシャル・ネットワーク」は21世紀の「市民ケーン」だ)、ウォルト・ディズニー「ピノキオ」(→スティーブン・スピルバーグ「未知との遭遇」「A.I.」)、

ウォルト・ディズニー「ファンタジア」(スティーブン・スピルバーグ「ジュラシック・パーク」、コリン・トレボロウ「ジュラシック・ワールド」、ティム・バートン「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」)、

黒澤明「七人の侍」「隠し砦の三悪人」「用心棒」(ジョン・スタージェス「荒野の七人」、ジョージ・ルーカス「スター・ウォーズ」、セルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」、ジョン・ミリアス「風とライオン」、ウォルター・ヒル「ラスト・マン・スタンディング」、ピーター・ジャクソン「ロード・オブ・ザ・リング/2つの塔」)、

黒澤明「天国と地獄」のパートカラー(スティーヴン・スピルバーグ「シンドラーのリスト」、アカデミー短編アニメーション映画賞を受賞したディズニーの「紙ひこうき」)、ビリー・ワイルダー「サンセット大通り」(デヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」、サム・メンデス「アメリカン・ビューティ」)、

ビリー・ワイルダー「アパートの鍵貸します」(三谷幸喜脚本「今夜、宇宙の片隅で」、マーティン・スコセッシ「ウルフ・オブ・ウォールストリート」、ディズニー短編アニメ「紙ひこうき」)、

スタンリー・ドーネン「恋愛準決勝戦」(スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」、デヴィッド・クローネンバーグ「ザ・フライ」、スティーヴン・スピルバーグ製作・原作・脚本「ポルターガイスト」)、

アルフレッド・ヒッチコック「めまい」(ブライアン・デ・パルマ「愛のメモリー」、デヴィッド・フィンチャー「ゴーン・ガール」、大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」)、

スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」、ピクサー・アニメ「ウォーリー」、クリストファー・ノーラン「インターステラー」ほか多数)、

ジョン・ランディス「サボテン・ブラザース」(三谷幸喜脚本「合い言葉は勇気」、本広克行「踊る大捜査線」シリーズ)、

大林宣彦「時をかける少女」(本広克行「幕が上がる」、細田守「時をかける少女」)、

大林宣彦「HOUSE ハウス」(三木孝浩「陽だまりの彼女」、高橋栄樹【AKB48 MV】「永遠プレッシャー」)

等が代表例だろう。


スウェーデンのイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」(1966)もそんな映画だ。長らく観ることが難しい作品だったが昨年HDリマスター版DVDが発売され、現在はTSUTAYA DISCASで借りることも可能となった。


仮面/ペルソナ [DVD]
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%AE%E9%9D%A2-%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A-DVD-%E3%83%93%E3%83%93%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/dp/B00006GJEP

Persona

舞台(古代ギリシャの仮面劇「エレクトラ」)出演中に失語症に陥った女優と、海に臨む島の別荘(サマーハウス)で彼女の治療のために共同生活を送る看護師の物語である。やがてふたりの人格は融合し始める。これは片方がもう一方のドッペルゲンガー(分身/二重身/自己像幻視)であるという解釈も可能だ。では女優と看護師のどちらが本体でどちらが分身かというのが問題になってくるが、看護師の名前がアルマであることから正解が判る。"alma"とは「魂」の意味で、ラテン語ではアニマ(女性名詞)/アニムス(男性名詞)となる。

キリスト教的価値観/倫理観(蜘蛛の糸=神が支配する手)に絡め取られ、失語症に陥った女優は自分の性的願望を抑制し、欲しくもない子供を堕胎することすら叶わなかった。一方、彼女の心の深層に形成された影(=生きられなかった反面)であるアルマは奔放な女で、堕胎も厭わない。そして最終的に両者は同一化することに成功し、新たな自己を形成する。因みにベルイマンの父親は牧師であり、その厳格で冷たい人間性に反発した彼は「神の沈黙」三部作を撮った。

実はアニマ、アニムスはユング心理学の用語である。ペルソナ(仮面)もユングが用いた言葉で、私達は1人の人間でも実に様々な「顔」を持っている。会社での「顔」、家族と接するときの「顔」、幼なじみと酒を飲み交わす時の「顔」。その場その場に応じて別の「仮面」を付け、「役割を演じている」のである。僕が強く印象に残っているのは、上方落語の「爆笑王」こと故・桂枝雀が、よく「本来私は陰気な性格で、舞台では”笑いの仮面”を付けているのです」と語っていたことだ。

「難解」と言われるベルイマン映画だが、ユング心理学を抑えておくと理解し易い。興味がある方には臨床心理学者・河合隼雄の著書「無意識の構造(影/ペルソナ/アニマ/アニムスについての解説あり)」「コンプレックス(ドッペルゲンガーについて言及あり)」「昔話の深層」などを読まれることをお勧めしたい。平易な文章で書かれており、すらすら読める。

またシナリオ段階でベルイマンは「映画」というタイトルを考えていたという。全篇喋り通しのアルマは自己を語るベルイマン=映画であり、黙ってそれを聴く舞台女優=スクリーンを見つめる観客、と見立てることも可能だろう。つまり映画を観るという行為は、新たな仮面を得ることに等しいというわけだ。

本作はブラッド・ピット主演、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイトクラブ」(1999)に多大な影響を与えた。物語の構造自体もそうだし、「ファイトクラブ」のラストシーンで勃起したペニスの映像がサブリミナル効果として挿入されるのは「仮面/ペルソナ」冒頭部の再現である。

また、デヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」(2001)は明らかに「サンセット大通り」と「仮面/ペルソナ」を足して2で割ったようなものだ。ちなみにマルホランド・ドライブもサンセット・ブルーバードもロサンゼルスを並走する道路の名称である。

ウディ・アレン「私の中のもうひとりの私」(1988)はベルイマンに私淑する彼なりの「仮面/ペルソナ」であり、ご丁寧に同作の撮影監督スヴェン・ニクヴィストをスウェーデンから呼び寄せている。ダーレン・アロノフスキー「ブラック・スワン」(2010)にも本作が濃い影を落としている。

「仮面/ペルソナ」最初の6分間は非常にアヴァンギャルド(前衛的)なモンタージュが続く。1960年代はポップ・カルチャー、アンダーグラウンド映画が花盛りで、その気分を見事に反映している。フィルムが燃えるショットなどは後の大林映画「HOUSE ハウス」等に影響を与えたのではないかと推察される。

また本作の舞台女優と息子の、絆が「切れた」関係はウィーン・ミュージカル「エリザベート」のシシィとルドルフそっくりだなと想った。オマケに女優の名前はエリザベートだし。そこでハッとした。ミュージカルの作詞・台本を手掛けたミヒャエル・クンツェが「仮面/ペルソナ」を強く意識しているのは間違いない。やはりクンツェが台本を書いたミュージカル「モーツァルト!」には主人公ヴォルフガングとその分身アマデが登場する。アマデはドッペルゲンガーであり、「影を逃れて」というナンバーもある。アマデがヴォルフガングの腕にペン先を刺して、その血で譜面を書く場面が第1幕フィナーレだが、これも「仮面/ペルソナ」でエリザベートがアルマの腕から流れる血に吸い付く場面(女吸血鬼を描くロジェ・バディム「血とバラ」を彷彿とさせる)に呼応する。

「仮面/ペルソナ」ほど影響力を持った映画は滅多にない。未見の方は是非一度、ご覧になることをお勧めしたい。
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-93aa.html


2. 中川隆[-12097] koaQ7Jey 2019年2月18日 12:47:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告

自己と演技。人は常に自己を演じているのか?2008年12月7日

ペルソナとはユングが考え出した心理学の概念で、
自分の外的側面を言います。
人間関係に適応しようと、ペルソナを被るわけです。
普通の人であれば何らかのペルソナを被っていると
言わざるおえませんが、
それが度を越すと、自分は二重人格ではないかとか、
人と接する時の自分と、一人で居るときの自分のギャップに悩み、
病気になってしまいます。
また、一方であまりに自分に正直で周囲との摩擦を生み、
周りの人間や自分自身をも苦しめることがありますが、
これもペルソナと言います。
男性は男性らしさ、女性は女性らしさということで
一般的にはペルソナが表現されます。
女性の場合ペルソナが女性らしさであれば、
内面的側面は男性的で、
これはアニムスと呼ばれています。
また、ペルソナは自分の夢の中では起こらず、
一般的には、衣服などの
自分の外的側面で表現されることが多いと言われています。
さて、心理学の勉強はここまでにして、

この映画は舞台女優ウルマンの映画デビュー作で、
ベルイマン自ら彼女を見出し、
彼女とアンデルソン二人のために
ベルイマンが自ら脚本を書きました。

ウルマン演じる舞台女優のエリザベートは、
失語症になり、入院をします。
入院をしても一向に言葉が戻らないエリザベートを見て、
医者は自然の中での静養を進めます。
エリザベートは、アンデルソン演じる看護婦と一緒に、
別荘に行って静養をすることになります。
そこで、明らかになっていくのが、
エリザベートは舞台の上だけではなく、
人生の全てを演じていたと言うこと、、
妻であり母であることの幸せを演じていたと言うことです。
これがエリザベートのペルソナです。

本当の自分は、母性も愛情もない、
全く違う人格であるにもかかわらず。
これがエリザベートのアニムスです。

失語症で全く喋れないエリザベートと、
喋り捲る看護婦、「沈黙」と「喋り続ける」という対比を使い、
二人きりの閉鎖的な長い共同生活の中で、
精神的なカオスが生れ、自己と他者の区別が無くなり、
「沈黙」を「喋り続ける」が代弁することで、
ペルソナとアニムスの解明がされていきます。

物事の表裏、鏡像といった、
ドッペンヘルガー現象を上手く使い、
エリザベートと看護婦が同一人物の表裏であるかのごとく、
モンタージュされていきます。
事実、エリザベートと看護婦は、
外見的には、それ程似ているわけではないのですが、、
顔半分がモンタージュされた時には、
目鼻口眉の位置が全く同じでびっくりしました。。
同一人物になってしまったのではないか?
と思えるほどです。

冒頭に現れる子供が母を求め
母の映像が次第に鮮明になっていく、
一方で最後に現れる子供が母を求めているにもかかわらず、
母の映像が次第に希薄になっていく。
これは、ある意味女優が自己を見つけることが出来た
という象徴なのかもしれません。。
うがった見方をすれば、、
ベルイマンとであったことで、
本当の自分が見つかったという
ウルマンの姿なのかもしれません。

カメラワーク、構図、ライティングが素晴らしく、
無論秀逸な脚本もあり、他に類を見ない傑作になりました。
設定は超リアルですが、お話がメタファーで、
とても不思議な映画です。

タルコフスキーっぽいなと思う方もいると思います。
事実、タルコフスキーはこの映画から
多大なる影響を受けているのです。

そして、ウルトラセブン世代だったわたしは、
監督の実相寺昭雄さんは、
ベルイマンが好きだったと確信を持ちました。
現実味を含んだ夢幻なのか、
幻想のような現実なのかカオス的な世界を舞台にした話が多く、
構図やライティングが似ているからなのです。
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%AE%E9%9D%A2-%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A-DVD-%E3%83%93%E3%83%93%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/dp/B00006GJEP

3. 中川隆[-12096] koaQ7Jey 2019年2月18日 13:26:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告

ペルソナと分身。『複製された男』に至る創作の歴史を紐解く
2018.02.20高森郁哉
https://cinemore.jp/jp/erudition/189/article_200_p1.html


「ペルソナ」とユングの概念


 ほとんどすべての映画がそうであるように、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『複製された男』(2014年)も過去の創作物から影響を受けている。前回の記事では考えられる4通りの解釈を示したが、本稿ではそれを引き継いで、「ペルソナ」や「分身」を扱った映画を中心にその歴史を紐解いていこう。


 重要な作品の1つとしてイングマール・ベルイマン監督の『仮面/ペルソナ』を取り上げるが、その前に、「ペルソナ」という用語に関する予備知識を簡単に示しておきたい。


 時代は紀元前1世紀のギリシャにまでさかのぼる。当時の演劇では、大きな野外劇場でも観客が登場人物を識別できるよう、さかんに仮面が用いられた。この仮面をギリシャ語で「ペルソナ(persona)」と呼んだ。役者が舞台に出てくるたびに別のキャラクターを演じる場合は、そのつど別の仮面をかぶって登場したという(ここに多重人格との類似がみられる点も興味深い)。

 スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは20世紀半ば、こうした古代ギリシャ演劇における仮面の役割を踏まえ、「人間の本来的な内面に対する外的側面」を表す概念として「ペルソナ」という言葉を用いた。

ベルイマンの『仮面/ペルソナ』

 ユングが提唱したこの概念を作劇に活かしたのが、スウェーデンの名匠イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』(原題Persona、1966年)だ。映画は冒頭、強烈だが一見脈絡のなさそうな複数のイメージをモンタージュで示した後、有名な舞台女優エリザベート(リヴ・ウルマン)が失語症になるところからストーリーを紡ぎ始める。入院した女優の世話を任されたのが看護婦アルマ(ビビ・アンデショーン)。転地療養先の別荘にも付き添ったアルマは、沈黙するエリザベートに向かって一方的に語り続け、堕胎を含む過去の身の上を打ち明ける。


 エリザベートとアルマの関係性を示唆する重要な場面がある。エリザベートの夫が見舞いに訪れ、最初に出てきたアルマをエリザベートと認識して話し始める。アルマが人違いだと言っても夫は聞き入れず、さらにはすぐ近くに姿を見せたエリザベートに気づかないのだ。この出来事から、エリザベートとアルマは実は同じ人物の二面性を示しているという解釈が可能になる。役割に照らして考えると、舞台で役を演じる女優は外的側面=ペルソナであり、心にしまっていた過去の秘密を打ち明ける看護婦は「内面」だろう。


 ジョゼ・サラマーゴの小説『複製された男』(2002年)でも、瓜二つの男のうち1人の職業は俳優だった。もう1人は歴史の教員であり、過去に起きたことを語るという点では『仮面/ペルソナ』の看護婦アルマに対応すると言えよう。


 原作小説に見いだされる『仮面/ペルソナ』的要素を、さらに補強したのがヴィルヌーヴ監督と脚本家ハビエル・グヨンのコンビだ。先述した『仮面/ペルソナ』冒頭のモンタージュは、明示的ではないがエリザベートの心象と解釈することが可能であり、映し出される映像には蜘蛛も含まれている。蜘蛛=懐胎=母性の象徴として、映画化に際して蜘蛛のイメージを追加し、繰り返し強調したことがまず一点。また、俳優のアンソニーがフルフェイスのバイクヘルメット――これも素顔を隠す仮面だ――をたびたびかぶるのも、アンソニーが外的側面=ペルソナであることを示唆しているのではないか?

『分身』から『ふたりのベロニカ』へ

 分身あるいはドッペルゲンガーを扱った創作の歴史もたどってみよう。後世の作品に影響を与えた有名な古典として、ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『分身』(1846年)を挙げないわけにはいかない。下級官吏のゴリャートキンが、上級官吏の娘との結婚と出世の夢に破れ、自らの分身である“新ゴリャートキン”との対面と対立を経て狂気を募らせていくというストーリーだ。ロシア語原題の『Двойник』(ドゥヴォイニク)はドイツ語の「ドッペルゲンガー」と同じ意味で、英訳版では『The Double』と題された。


 ベルナルド・ベルトルッチ監督は1968年の『ベルトルッチの分身』で、ドストエフスキーの小説を換骨奪胎し、主人公が融通のきかない真面目な青年と破壊的な殺人者という二つの人格に引き裂かれていくさまを描いた。

 一方、リチャード・アイオアディ監督、ジェシー・アイゼンバーグ主演(二役)の『嗤う分身』(2013年)は、舞台を近未来的世界に置き換えながらも、ドストエフスキーの『分身』に比較的忠実な筋となっている。ちなみに、本作の原題は原作小説の英題と同じ『The Double』。従って2013年から2014年の英語圏では、ドストエフスキーの小説を映画化した『The Double』と、サラマーゴの小説『The Double』(『複製された男』の英題)を映画化した『Enemy』(映画のオリジナルタイトル)が相次いで公開されるという紛らわしい状況になっていた。分身と対面するという内容を共有し、いわば双子のように似通った2本の映画が時を同じくして世に送り出された点に、奇妙なシンクロニシティーを感じずにはいられない。


 『複製された男』との接点がうかがえるもう一本は、クシシュトフ・キェシロフスキ監督、イレーヌ・ジャコブ主演(二役)によるフランス・ポーランド合作映画『ふたりのベロニカ』(1991年)。ポーランドで生まれ育ち、ステージデビューを間近に控えた歌手のベロニカは、外出先の広場で自分そっくりの女性を目撃する。その女性は、フランスで小学校の音楽教師をしているベロニカ。たまたま観光でポーランドを訪れたのだ。同じ名前、同じ容姿、同じ才能を持つ2人のベロニカは数奇な運命をたどることになる……。歌唱を通じて(本来の内面ではない)歌詞の世界を表現する歌手も、「舞台に立つ演者」という点で役者と共通する。演者と教師という役割が、『ふたりのベロニカ』のドッペルゲンガーにも振り分けられているのだ。ストーリーにはほかにも『複製された男』との共通点があるのだが、どちらの作品にとってもネタバレになるので言及は控えよう。


 『仮面/ペルソナ』の女優と看護婦。『ふたりのベロニカ』の歌手と音楽教師。これらの卓越したキャラクターの対置が、2002年にサラマーゴが発表した『複製された男』にインスピレーションを与えたことは想像に難くない。


傑作揃いの“関連作品”

 解離性同一性障害(多重人格)を扱った作品についても取り上げたかったのだが、長くなるのでまたの機会に改めたい。いずれにせよ、ペルソナ、分身、あるいは多重人格を扱う(またはそのように解釈できる)映画は、そうした要素をミステリーの仕掛けに使っていることも多く、具体的に言及するとネタバレの危険が増す。その一方で、こうしたカテゴリーに収まる映画に紹介したい傑作が目白押しなのもまた事実だ。映画ファンなら観賞済みであろうメジャーな作品がほとんどだが、未見の方に配慮した苦肉の策として、大雑把に“関連作品”というくくりでリストアップするのみにて今回の締めくくりとしよう。


アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958年)、『サイコ』(1960年)

ブライアン・デ・パルマ監督『レイジング・ケイン』(1992年)、『ファム・ファタール』(2002年)

デヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』(1999年)

デヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』(2001年)

ジェームズ・マンゴールド監督『アイデンティティー』(2003年)

黒沢清監督『ドッペルゲンガー』(2003年)

ダーレン・アロノフスキー監督『ブラック・スワン』(2010年)

クァク・ジェヨン監督『風の色』(公開中)

文: 高森郁哉(たかもり いくや)

フリーランスのライター、英日翻訳者。主にウェブ媒体で映画評やコラムの寄稿、ニュース記事の翻訳を行う。訳書に『「スター・ウォーズ」を科学する―徹底検証! フォースの正体から銀河間旅行まで』(マーク・ブレイク&ジョン・チェイス著、化学同人刊)ほか。

4. 中川隆[-12095] koaQ7Jey 2019年2月18日 13:29:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告

2019-01-07
イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 1 〉
http://mythink.hatenablog.com/entry/2019/01/07/055734

監督 : イングマール・ベルイマン

公開 : 1967年

撮影 : スヴェン・ニクヴィスト

出演 : ビビ・アンデション       ( アルマ )

   : リヴ・ウルマン         ( エリザベート・フォグラー )

   : マルガレータ・クルーク     ( ドクター )

   : グンナール・ビヨルンストランド ( エリザベートの夫 )

この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 仮面 / ペルソナ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事をしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。


【 1 】 仮面とは何か?


a. この映画を哲学的に考える上で、避けて通れないのは "仮面" について解釈でしょう。その時、まず気になるのは映画のタイトル『 ペルソナ 』の邦題表記の『 仮面 / ペルソナ 』が果たして正しいのだろうかという意見がたまに見受けられる事です。その意見は、看護師のアルマと女優のエリザベートの2人の人格が入れ替わる、あるいは融合するかのような内容を見て、ペルソナの別の表現である "人格" の方がふさわしいのではないかという疑念から来ている訳です。


b. もちろん、ここで "ペルソナ=仮面" という表現が心理学者ユングのものである事を知っている人ならば、"仮面=人格" であると理解して『 仮面 / ペルソナ 』というタイトルに疑問を抱く事はないでしょう。ところが、ここで注意しなければならないのは、ユングはこのペルソナを人間の外的側面だというのですが、これをそう実感する人がいるのだろうかという事です。外的側面という表現が意味するのは、ペルソナが他人との人間関係、つまり社会的なものへの適応機能を担うという事になるのですが、そのように理解した人でもペルソナが自分の外部にあると言われピンと来るのでしょうか。

c. 何が言いたいかというと、心理学の概念に反して、実際の私達は "人格" が仮面として外側にあるのではなく、自分の "内部" にあると漠然と感じているという事です。つまり、ここにあるのは "仮面と人格の解離" なのです。1−a. で示した『 仮面 / ペルソナ 』というタイトルに疑問を抱いて "人格" を持ち出す人はユングの概念に反しているように見えるがあながち的外れではありません。

d. そんな "仮面と人格の解離" から読み取れるのは、社会へ適応する機能を担うものは "人格" という表現よりは "仮面" という表現の方がしっくり来るだろうという事です。仮面はあくまでも外側に対して演じられるから仮面なのであって、人格はやはり内部にあるものだという訳です。

e. そのような事態の深刻さについて考えるには、仮面の裏に抑圧された "本当の自己" があるという危険な考えにどれほど多くの人がとりつかれているか ( セラピストや心理学者でさえ ) を思い起こす必要があるでしょう。何が危険かというと、 "本当の自己" という擬似人格的なものが、実は表現を変えた "仮面" に過ぎないからです。仮面の裏に "本当の自己" があるのなら、人々は人生の様々な場面においてもっと自分に自信を持てるはずでしょう、自分の内奥の揺るぎない自己を確信しながら。しかし自信を持てずに抑圧されていると感じるのは、"本当の自己" などない、つまり実は人格が内部的なものではない、からなのです。

f. にも関わらず、"本当の自己" という考えに頼るのは "表現を変えた仮面" を人格的なものと錯覚して自分の中にさらに押し込む事になる、つまり、それこそユングが危険視した "仮面との同一化" に他ならないという訳です ( 皮肉を込めて言うなら、本当の自己とは仮面との同一化が最も成功した例だといえるでしょう )。そして、そのような "人格" が自分の内部にあると漠然と感じるのは、もうそこには抑圧ではなく、仮面によって人々の内部が既に浸食されている事を示しているといえるのです。という事は仮面=人格 ( ペルソナ ) であるというユングの考え方は間違っていないのであり、問題なのは、仮面と人格が解離していると感じる ( 本当の自己があると思い込む ) 私達自身の方だという事なのです。


g. では仮面の裏側はどうなっていると考えるべきなのか。そこが仮面によって浸食されているのなら、なおさら・・・。それについてはこの映画の解釈を進めると共に明らかにしていきましょう。

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【 2 】 仮面から顔へ・・・

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a. 映画の冒頭で流れる様々なカットの連続・・・、陰茎 ( ほんの一瞬なので気付かないかも )、映写機とフィルム、蜘蛛、血抜きされる羊、釘を打ち込まれる手。一体これをどう理解すべきでしょうか。シュールレアリスム的であり、ゴダール的でもあるこの前衛性は、理解せずにそのまま放置しておくべきベルイマンの遊びだとすべきでしょうか。

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b. しかし、多くの人がこれらの映像に対して解答する事が出来ていないという事実が、 ここで哲学的に解釈する事に価値を与えると考えられるでしょう。そのためのヒントをベルイマンは与えてくれています。シーン 1~6. に続く以下のシーン 7~8. について考えていきます。

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c. 女優エリザベートの息子が目の前のスクリーンに大きく写しだされた母親らしき人物の顔を確かめるように触る。皮肉なのは、視力の悪い息子が眼鏡をかけても母親の顔がはっきりと見えない事。母親であるエリザベートの顔は一瞬くっきりとする ( シーン 9. ) がすぐにぼやけて、エリザベートと似たアルマの顔が浮かび上がり、やがて2人の顔が重なっていく。


d. これについては、息子が母親の "顔" を認識出来ないという事態からエリザベートが母親としての役割を止めている事を示していると解釈出来ますね。そしてこの後、エリザベートがアルマと同一化していくような流れがある事を予告しているともいえるでしょう。これが普通の人の解釈だと思います。しかし、この後のシーン13. によってさらに解釈を哲学的に深めていく事が可能になるのです。

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e. エリザベートとアルマが二重写しになったスクリーンが真っ白になり、そのままタイトルである『 PERSONA 』が現れる ( シーン 13. )。この白い画面をタイトルを示すための背景だと思っていてはそれ以上解釈を拡げる事は出来ない。この白い画面をシーン 7~12. から意味が続く一連のものと考えるならば、ベルイマンは "仮面" という言葉に "顔" のイマージュを与えて、無意識的に解釈の拡がりを狙ったといえるのです。


f. ここで上で述べた、仮面と人格の解離という現象を思い起こすならば、ベルイマンの無意識的試みは、分離した仮面の状態を、"顔" のイマージュで説明しようとしていると言い換える事が出来るのです。普通の人は、顔とは特定の個人を識別するための重要な要素と考えるでしょう。極端に言うなら、顔それ自体が、個人そのものだと言えます。しかし・・・それは仮に人格が同じでも顔が違えば、その個人は誰だか特定されなくなってしまう事態が起きるという事でもあるのです。それこそが、この映画のストーリーにも繋がっていく話なのですが、もはや"顔" は人格を表すものではなく、たんなる "イマージュ" に過ぎない事をベルイマンは無意識的に示唆していると考えられるのです。


g. そのイマージュこそが、シーン 1~6. で示された脈絡のないカットなのですが、私達がそれを見て無意味なものの寄せ集めだと思う時、それは実は、人間主体をイマージュの視点から捉えた時の、真実の姿に他ならないのです。"顔" はまさにその真実を示すイマージュなのであり、その時、"顔" とは私達が通常考えるような顔では全くなくなっている。人間主体を構成する幾つもの人間的ではないようなイマージュが、その "顔" の元に集合していると理解しなければならない訳です。そう考えなければシーン 1~6. を解釈する事は到底出来ないでしょう。


h. そして次に大切な事は、顔の元に様々なイマージュが集まる様子を、ベルイマンは顔を白い画面に変移させる、つまり映画のスクリーンそのものに準える事によって示そうとしている。なので正確に言うなら、顔とはイマージュである事に留まらずに、自らをスクリーンそれ自体であるホワイトウォールとしながらも、あたかも顔のパーツを構成するかのごとく抽象的かつ非人間的なイマージュを引き寄せるブラックホールにもなるという事になるのです。

i. このホワイトウォールとブラックホールの組合せに言及した哲学者こそドゥルーズ=ガタリに他なりません。『 ペルソナ 』が公開された1967年から約13年後の1980年、ドゥルーズ=ガタリは『 千のプラトー 』の7章、"零年ー顔貌性" においてホワイトウォールとブラックホールの組合せ概念を示します ( 言うまでもなくこの概念は映画通の哲学者であるドゥルーズのアイデア )。

" 顔は、少なくとも具体的な顔は、ホワイトウォールの上にぼんやりと描かれ始める。ブラックホールの中にぼんやりと現れ始める。" p194.【 ※1 】

" 顔はまさに抽象機械に依存しているからこそ、頭部を覆うことにはとどまらず、身体の他の部分や、必要に応じて、いかなる相似点もない事物にまでも働きかける。" p196. 

" 粗雑に誇張されたクローズアップ、突飛な表現、等々。人間の中にある非人間的なものとして、顔とは最初から非人間的で、生気のない白い表面と輝くブラックホール、虚ろさと倦怠をともない、そもそもクローズアップである。" p196.

" 顔、何とおぞましいものだろう。それは本来的に月面の風景に似ており、数々の毛孔、面と面、くすんだ部分、輝く部分、白い広がりと穴をともなう。クローズアップにするまでもなく顔は本来的に非人間的である。もともと顔はクローズアップであり、もともと非人間的でグロテスクな頭巾なのだ。" p216.

イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 2 〉へ続く。

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【 ※1 】
これらの引用は、邦訳『 千のプラトー 』河出書房新社ハードカバー版 ( 1994年初版 ) からのもの。現在では河出文庫版『 千のプラトー ( 上・下 ) 』の入手が容易になっています。
http://mythink.hatenablog.com/entry/2019/01/07/055734

5. 中川隆[-12094] koaQ7Jey 2019年2月18日 13:32:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告
2019-01-07
イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 2 〉
http://mythink.hatenablog.com/entry/2019/01/07/060728

【 3 】 演技の虚構性

a. このへんで映画のストーリーの方に立ち戻ってみましょう。女優のエリザベートは舞台で突然沈黙してしまう。その理由は笑いそうになったからという。ほとんどの人は、この理由は見過ごしてしまうでしょうが、シーン14~17. に続く失語症に陥った彼女が入院先のシーン18~23. においても彼女はラジオから流れる女優の芝居に対して笑っているのです。つまり、この笑いは見過ごすべきものではなく、何かしら解釈の必要があるという事ですね。


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b. アルマとのやり取りの後、こちらをじっと見つめるエリザベートの顔のクローズアップが続きます ( シーン24. )。これによって彼女の沈黙の理由となった笑いの原因について推察する事が出来るでしょう。つまり彼女は舞台での自分の客観的姿に笑いそうになったのです。舞台での演技は共演者とのやり取りによって進んでいくのですが、実際は彼女の演技は共演者に向けられたものではなく、観客に向けられたものなのです。

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c. これを演技とはそういうものだろうと常識的にしか考えられない人は、それ以上解釈を深める事は出来ないでしょう。ここから読み取るべきなのは、共演者と交わす直接的コミュニケーションがその相手ではなく、関係のない第三者に向かってしまっているという演技の虚構性に彼女が気付いてしまったという事なのです。つまり彼女は、自分は誰と一体しゃべっているのか、目の前の相手に自分は話しかけているのに本当はそうではないのだから自分は何をやっているのだろうという具合に、奇妙な "現実" に気付いて笑ってしまうという訳です。

d. ここでベルイマンは、演技の本当の対象である観客には "間接的行為" しか提示できない ( 言い換えれば舞台上の共演者としか直接的にはやり取りするのが出来ないという事 ) 演技の必然的虚構性を、エリザベートがクローズアップであたかも "直接的に" こちら ( つまり観客に対して ) を見ているかのようなシーン24. に重ね合わせるという演出をしているのですね。だからこのシーンによって観客はあたかも彼女と "直接的にやりとりしている" かのような錯覚を覚えて不安定な印象を受けるのです ( 演技者と観客を媒介するはずの "間接的行為" が欠如しているのに無意識的に気付くから )。


e. エリザベートは、この演技の虚構性を日常にまで持ち込んでしまうが故に、しゃべれなくなってしまう。看護師であるアルマはエリザベートと話をしようとする。しかしエリザベートはアルマと向き合って話そうにも、そのコミュニケーションがアルマをすり抜けて別の第三者に向かってしまう演技になってしまうのではないかという思い込みに囚われて話す事が出来ないのです ( 言い方を変えれば、何をしようと彼女は常に誰かを演じていることになるのを自覚している )。

f. ここでエリザベートの中では、"現実" とは一体何かという不安が湧き上がります。その事を示すのがシーン25~30. 。僧侶が政治的抗議として焼身自殺する映像を見てエリザベートは驚くのですが、これは単に彼女がショックを受けているなどと単純に思うべきではないでしょう。彼女は焼身自殺した僧侶と自分を重ね合わせているのです。僧侶も自分と同様に演技しているのなら、自殺してしまう程の演技とは一体何か、そして自分の演技も僧侶と同じく自らを死のような "現実" へと至らせるようなものなのか、という思いがこの驚きには込められていると解釈出来る訳です。

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g. このシーンの前後あたりから舞台的な要素が強くなっていきます。看護師のアルマ、女医、らが正面に向かって語りかけるシーンが多くなるのですが、それは時に顔のクローズアップと共に私達の視線をそこに固定させ、私達との擬似直接感を引き起こし距離感を撹乱させるものになっている。
http://mythink.hatenablog.com/entry/2019/01/07/060728

6. 中川隆[-12093] koaQ7Jey 2019年2月18日 13:34:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告

2019-01-07
イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 3 〉
http://mythink.hatenablog.com/entry/2019/01/07/061615


【 4 】 顔からの解放

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a. おそらく、この映画でのベルイマンの狙いとは、舞台における演技者同士のやり取りの本当の対象が第三者の観客であるならば、そのやり取りがどのようなものであれ第三者に届くという舞台あるいは映画における鑑賞の必然的形式に揺さぶりをかけるというものでしょう。そして、この実験的試みに賭けられたものが "仮面=顔" という事なのです。


* エリザベートが女医への手紙の中で自分の秘密話 ( かつて少年達と乱交した時の生々しい話 ) を暴露したことにアルマは怒りを覚える。エリザベートを尊敬の眼差しで見ていたアルマの中で何かが壊れることを表すシーン。ガラスが割れるかのようなシーン43~45. から彼女の顔に穴が開くという実験的なシーン46~47. が続き、白い画面へと至る。

* このシークエンスの細かい解釈。憧れのエリザベートに興味を持ってもらおうと昔の乱交話までしたアルマが、もはやエリザベートの対象になろうとはせず怒りで彼女を逆に非難するという攻撃的主体になった事が示されている。アルマがエリザベートの退屈を紛らわす都合のいい対象であるのを拒否した事が、顔がないという事で現されてる訳ですね。ここから人格的な顔は常に誰かの "対象" であるのが分かるわけですが、逆にいうと、人格的であるのを止めた顔は、誰かの思い通りにはならない自由を手に入れる事になるのです。これこそが人格的な顔からの解放なのです。


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b. さて4−a. からの続きですが、ベルイマンは観客である私達に自分は一体誰を、いや何を見ているのかと撹乱させる事によって、顔=人格という無意識的思い込みによる同一性を解体しようというのです。注意しなければならないのは、"顔" それ自体が悪いわけではありません。まずいのは、顔にその人間の人格を含めたあらゆるものを統合するかのような象徴的機能を付与する事なのです。顔がその人間の全てを統合してしまう事は、その人間自身が違う要素の方へと向かう事を封じてしまう、それは自分のキャラには似つかわしくないという具合に。

c. 母親である事、女優である事、その狭間で悩むエリザベートは顔にこだわりすぎていたのです。顔に人格を込めすぎていたのです。そのような人格的な顔に固執して、母親の顔であり、同時に女優の顔を持とうとするのは自分に無理強いする事にしかならない。必要なのは、自分ではない別の誰かになるというような幾つかの顔を持つ事 ( 別の誰かに方に逃げるというアリバイ作りでしかない ) でもなければ、仮面の裏に隠された本当の自分をさらす ( そのようなものはないのだから ) というような事ではありません。そうではなく、"【 3 】演技の虚構性 " で述べたように "顔" を映画のスクリーンであるかのようにホワイトウォール、ブラックホールという抽象機械と化して、あらゆる要素 ( シーン1~6. のような非人間的なものを含めて ) が混ざった "風景" を自分の中から映し出していく事が重要なのです。あらゆる経験、あらゆるイマージュ、あらゆる感情、が詰まった人生の風景・・・、その風景が織り重なって作られる自由な世界を見せていく事こそが大切なのであって、それは少なくとも "顔" の上では可能になるのです。

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【 5 】 仮面の裏側・・・

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a. さて最後に "【 1 】仮面とは何か " で残した問題、仮面の裏側について考えておくべきでしょう。仮面の裏側に、本当の自己などないのならば、そこには何があるのか。答えは、何も無い。言い換えると、"無" があるのです。こう言うと、元も子もないように聞こえるかもしれませんが、それは絶望でも何でもありません。無であるからこそ、人はそこに、本当の自己、想像的自我、小人などという擬似人格的な表現で示されるものを押し込む事が出来るのです。

b. そして注意すべきなのは、私達がそのような擬似人格的なものを自分の内側に定立しようとするのも、そこに主体による定立化の行為の自由があるからこそなのです。その主体行為の自由を可能にしてくれているものこそ、"無" に他ならない。もし "無" がなく、人格的なものが本当に私達の内部の玉座に固定されていたら、私達は日常生活において出会う咄嗟の場面 ( ゆっくりと考えることの出来ない ) において主体的な行為が出来なくなってしまうでしょう。まず主体の自由に動ける "無" があるからこそ、その結果、擬人化の作業も可能になるという訳です。

c. この映画においても、ベルイマンは、仮面との同一化に悩むエリザベートをアルマに諭させる形で人間の内奥の "無" について最後に語らせていますね。
http://mythink.hatenablog.com/entry/2019/01/07/061615

7. 中川隆[-12092] koaQ7Jey 2019年2月18日 13:39:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告
仮面 / ペルソナ 怪奇!恐怖の深層心理学 2017/04/01
http://2015omanjuuumai.blog.fc2.com/blog-entry-176.html


『キングコング: 髑髏島の巨神』('16)に『ブレイブハート』('95)…。
脳が溶けそうな小学生映画のレビューばかり続いた本ブログですが、たまにはお文芸な作品を。

今回は、難解映画としても名高い『仮面 / ペルソナ』のレビューを。

難しい難しいと聞いていましたがこの映画、マジで難しい。
アヴァンギャルドな映像に、脳天から?マークが連発する奇作でした。


監督はスウェーデンが世界に誇る大巨匠、イングマール・ベルイマン。
神や宗教を扱って鬼難解な作品を作ってきたベルイマンなのですから、シンプルな訳ゃありません。

で、神を論じてきた大作家ベルイマンが本作で語るのは何か?
タイトルからお察しの通り、見えて来たのはユングの深層心理学!
分かるかそんなもん!

…いや、待てよ…。
この映画、実はもっと怖いお話だったりして…。


あらすじ

一人の女優が失語症に陥った。

女優の名前はエリーサベット(リヴ・ウルマン)。
舞台女優である彼女は、公演中に突然セリフが喋れなくなったという。
その後、日常生活でも言葉を失った彼女は、病院へと送られて来たのだった。

彼女を見守るのは、看護士のアルマ(ビビ・アンデショーン)。
彼女は、エリーサベットの看護を続けていくうちに、訳もなく胸騒ぎを覚えていく。


ある日、エリーサベットの主治医が決断を下す。
このまま入院していても、病状は改善しないだろう。
主治医は、彼女の気分転換も兼ねて、別荘での保養を勧める。
同行するのはアルマだ。


かくして、別荘での2人の共同生活が始まることとなる。

暮らしは順調。
女優であるエリーサベットに憧れるアルマは、自らの胸の中を彼女に明け透けに話す様になる。
エリーサベットは相変わらず言葉は発しないものの、彼女との暮らしに満足そうだ。

「まるで姉妹みたい…。」
次第に、アルマはエリーサベットに強い親近感を抱くようになっていく。


しかし、そんな暮らしに波風が立ち始める。
不意にアルマは、エリーサベットの書いた手紙を盗み見てしまうのだった。


世紀の名画は謎だらけ

アヴァンギャルドな演出!斬新な映像!実力派女優の熱い演技合戦!
…とか書けば映画ブログっぽいんでしょうが、ここは正直にいきましょう。
この映画、サッパリ意味が分かりません。


監督はスウェーデンが誇る名匠イングマール・ベルイマン。
監督作品では、本ブログでは『第七の封印』('57)などの作品を扱っています。
『第七の〜』は超オススメ!筆者のオールタイムベストの一つです。

本作で主演を張るのは、ビビ・アンデショーンとリヴ・ウルマンの2人。
物語は、実質この2人だけで進んでいくこととなります。


さて、映画についです。
ただでさえ難解といわれるベルイマン映画。本作は、のっけから訳が分かりません。

ファーストカットはカラカラと回るフィルム。
奇怪な金属音とともに、カトゥーンアニメとカウントダウンが入れ替わりに映ります。
回る映写機、屠殺される羊、天を這う蜘蛛。
様々なイメージが現れては消えていきます。

そして、かの有名なサブリミナルのポコ○ン。
冒頭シークエンスで男の魚肉ソーセージが一瞬だけ映し出されるのです。
この演出は、『ファイトクラブ』('99)に影響を与えたと言われています。

その後映し出されるのは1人の少年。
少年は、真っ白なスクリーンに映し出される2人の女の顔に手をかざしています。
そして、ようやくタイトルの『仮面』の文字が映し出されます。

ぎえ〜ちょ〜アヴァンギャルドぉ〜!


さて、ここからは(一応)劇映画が始まります。

主人公は2人の女。
リヴ・ウルマン扮する失語症に陥った女優エリーサベットと、ビビ・アンデショーン扮する看護婦のアルマです。

『第七の〜』では旅芸人の肝っ玉母さんを演じていたアンデショーンですが、本作で演じるのは天真爛漫な看護婦。
天真爛漫が故に、アルマからは脆さも感じさせます。

一方のエリーサベットは、貝の様に心を固く閉ざした女。
リヴ・ウルマンのクールな出で立ちが、彼女の心の壁の厚さを物語っています。


劇中前半では、エリーサベットの入院生活が描かれます。
頑なに口を開かないエリーサベット。
アルマはそんな彼女への看護に不安を感じています。
何故か、エリーサベットの存在自体がアルマの不安を掻き立てるのです。

この病院での一連のシークエンスも、どこか不気味です。
病院のセットは不自然なほどシンプル。女優2人の顔が極端なアップに、息が詰まりそうになります。

特に、死体の様に身じろぎしないリヴ・ウルマンの不気味さ!
全く瞬きをしないウルマンを長回しで映し出すシークエンスなんかは震え上がります。


さて、物語は前半で早くも核心に迫ります。
エリーサベットの主治医の女医が、彼女の失語症の原因を看破するのです。

「本当のあなたは、全てさらけ出したいと激しく願っている。でもそんなことは出来ないから、演技をするより他はない。
あなたが本当に安心できるのは、黙っている時だけなのよ。」

ここで、早くもエリーサベットの失語症の原因が明らかになります。
自らの本心をひた隠しに生きていたエリーサベット。
自分と他人を偽って生きて来た彼女の心は遂に限界を迎え、そのために彼女は沈黙を始めたのでした。


ありゃ?なんだか早くも物語にオチがついてしまったかの様です。
いやいやとんでもない。ここからが本番です。

舞台は主治医の別荘へ。
エリーサベットは保養のためにこの別荘へ移ることとなります。同行するのはアルマ1人。
ここから、2人の奇妙な共同生活が始まります。
日々を重ねるうちに、アルマはエリーサベットに心酔していくのです。


この別荘のシークエンスは、前半とは違った意味でまた前衛的です。

閉ざされた別荘で、1人猛然と喋り続けるアルマ。その様子はまるで一人芝居の舞台劇。
舞台演出でも名を馳せることとなるベルイマン監督の手腕が光ります。

エリーサベットは相変わらず貝のごとく押し黙るばかり。しかし、微笑を浮かべアルマを見つめる姿は超然としていて、やはり不気味さを感じます。


そして劇中中盤、アルマはエリーサベットに過去の恥部を明かしてしまいます。

彼女はかつて少年達と行きずりに乱行し妊娠、その末に堕胎した経験があったのでした。

自らの恥部を自ら暴露したアルマ。
夢かうつつか、明くる朝に肌を重ねる2人。
うほほ〜いエロい!!
…のですが、これまたどこか怖さを感じるシークエンスです。


この辺りからでしょうか、物語は急速におかしくなっていきます。

ある日アルマは不意に、エリーサベットの手紙を盗み見てしまいます。
手紙の中でエリーサベットはアルマの過去を主治医に密告し、さらには「彼女は私を崇拝している。」と書いていたのでした。

怒り心頭のアルマ。
次第に彼女はエリーサベットに辛く当たるようになっていきます。
反発と仲直りを繰り返すうちに、次第に2人の心が共鳴していきます。
画面をよく観ていくと、着ている服まで同じ。2人はひどく混乱していきます。


さて、ここからが急転直下。
以下は、本作の重大な核心に触れていきます。
未見の方は、本ブログを読むのをやめ、実際に作品をご覧になることを強くお勧めします。

劇中後半、ついに別荘にエリーサベットの夫がやってきます。
彼女の身を案じる夫。
「僕が悪かった…。
君が思う様に暮らしていこう、エリーサベット!」
そう語る先に居るのは、エリーサベットではなくアルマでした。

抱き締め合うアルマと夫。
その姿を、エリーサベットは身じろぎもせず見つめています。

2人は同一人物だったのか!?


ビビる僕らをよそに、アルマとエリーサベットはついに対決します。
エリーサベットを責め立てるアルマ。
彼女は、エリーサベットしか知り得ない"息子を愛せないトラウマ"を非難します。
そして、2人の顔が映し出されると…!


2人は一体なんなのか?
様々な謎を抱え、映画はラストに向けて疾走していくこととなります。

伝説の名画と言われるだけのことはあります。
同一人物とおぼしきアルマとエリーサベット。現れては消えていく謎。アヴァンギャルドに過ぎる演出。
名匠ベルイマン監督の手によって、僕らの脳ミソはぐわんぐわんに揺さぶられます。


そんな難解映画である本作は、いくらでも解釈の仕様があります。
さて、次の章では筆者の解釈を書いていこうと思います。

長くなるけどついてきて!


恐怖!深層心理おじさん

本作は、長きに渡って映画ファンの間で議論が交わされてきた作品です。
前述してきた様に作品は超難解。筆者もサッパリ意味が分かりません。

そんな『仮面』論争にオレみたいなニワカが参加するのもおこがましいですが、これから筆者の本作の考察を書いていこうと思います。

結論から書くと、本作は「ベルイマンが恐怖を語った映画」である様に思います。


その"恐怖"を語る前にまず、本作がユングの深層心理学に着想を得た作品であることを押さえておく必要があると思います。

これは、"ペルソナ"と読ませるタイトルやエリーサベットが失語症を発症することから明らかです。
言うまでもなくペルソナとは深層心理学の大家、カール・グスタフ・ユングが提唱した概念。
人間が外界に向けて装う顔・性格・人格を意味しています。


女優という職業から明らかな様に、エリーサベットは【ペルソナ】を象徴しています。

劇中前半での主治医のセリフによれば、エリーサベットは自分と社会とのギャップに深く悩んでいました。
「外界から自分を守るために演技をせずにいられない。」と主治医から指摘されたエリーサベットの人格は、ユングの提唱するペルソナを感じさせます。

では、一方のアルマは何を象徴しているのか?
彼女は、ユングの深層心理学でいうところの【影】を象徴している様に思います。
影とは、その人にとって"認めたくない本当の自分""本当はこうありたかった・あったかもしれない自分"を指す概念です。

仮面(ペルソナ)を被り社会に素顔を明かしてこなかったエリーサベットと違い、アルマは天真爛漫に全てを喋ってしまいます。
さらには、自分で自分を性的に抑圧してきたエリーサベットと違い、アルマは少年達との放埓なセックスを経験していました。
まさにアルマはエリーサベットにとって"認めたくない影"なのです。

つまり、エリーサベットとアルマは、同一人物の人格に宿った【ペルソナ】と【影】なのではないでしょうか。


こうして考えると、冒頭の前衛的なシークエンスもいくつか説明が付きます。

映し出されるペニスはエリーサベットの潜在的な性欲を現し、磔のイメージはペルソナが抑圧する本音とも受け取れます。
そして2人の女を見つめる少年は、エリーサベットが忌み嫌う彼女の息子であり、アルマが堕胎した子どもである様に思います。


この様に、本作にはユングの深層心理学との深い結びつきを感じさせます。
この辺りは世評とも一致しているところではないでしょうか。

…が、本稿ではここからもう一歩踏み込んで考えたいと思います。
本作のストーリーは確かにユング的です。
しかし、ストーリーが語る映画のテーマは、もっと違ったものなのではないでしょうか。

筆者が感じる本作のテーマ、それこそが"恐怖"です。
本作は、ベルイマンが語る"オレの恐怖映画"なのではないでしょうか。


1965年、ベルイマンは大型企画『人喰いたち』の製作に向けて動いていました。
しかしその年の夏、企画は頓挫します。
ベルイマン監督が病を得て入院してしまったのです。

およそ二ヶ月の入院生活で暇を持て余していた監督は、降って湧くイメージを常にノートに書き記していました。
こうしてノートに記されたイメージを見直した監督は、はたと気が付きます。
「これ、映画になるぞ!」

そして監督は、『人喰い〜』のために契約していたビビ・アンデショーンとリヴ・ウルマンをそのまま起用することを思い立ちます。
2人の顔が似ていることが、監督に新たなインスピレーションを与えたのです。
("似ているけれど確実に異なる顔"という奇妙な違和感は、本作のクライマックスでまさに再現されることとなります。)

かくして、本作『仮面 / ペルソナ』は産声を上げるのでした。


そして、本作の公開の後、監督は『狼の時間』('66)を発表。
主演は、本作から引き続きリヴ・ウルマンが勤めることとなります。
リヴが演じる女主人公の名前は、アルマ・ヴォグレル。

ん…アルマ…?
そう、『仮面』で"エリーサベット"を演じたリヴは、直後の作品でアルマと名付けられた女を演じているのです。
そして、エリーサベットのラストネームもまた"ヴォグレル"でした。

後のインタビューで、ベルイマン監督はこう語っています。
「役名から分かる通り、『仮面』と『狼の〜』は二つで一つの作品だ。」


おう!『仮面』を紐解く鍵が見えて来ました。

監督の解説によれば、『狼の〜』役名のヴォグレルとは"鳥"を現しています。
そして、"鳥"は、監督にとって恐怖の象徴である様です。
さらには、『狼の〜』ではマックス・フォン・シドウ扮する画家の男が悪魔に付きまとわれます。
悪魔の名前は"人喰い男"。

ついにピースが繋がりました。
『仮面』の前に監督が撮るはずだった『人喰いたち』。
"人喰い"とは恐怖の象徴でした。
そして、"人喰い"の現れる『狼たち〜』と『仮面』はヴォグレル(鳥)というこれまた恐怖を示す記号で繋がっています。

従って、『仮面』もまた恐怖をテーマにした作品であると考えるのは、決して強引ではない様に思います。


作品内にもそれを裏付ける描写がある様に思います。
例えばエリーサベットは、焼身自殺するはベトナムの僧侶の映像や、ナチに追われるユダヤ人少年の写真に対して、明らかに怯えた反応を示します。
これは、外界への恐怖を現しているのではないでしょうか。

そういえば、宗教映画であるはずの『第七の封印』でさえ、監督は核兵器や朝鮮戦争への拒否感を露わにしていました。

風雲急を告げるベトナムや、ホロコーストの影に怯えるユダヤ人少年。
世界歴史の暗部に怯えるエリーサベットは、そのままベルイマン監督の恐怖を代弁しているとも取れます。


『狼の〜』のインタビューで、ベルイマン監督はこう語っています。
「長い間、私自身も"狼の時間"に実際に付きまとわれてきた。
それ以来私はこのテーマに取り憑かれていたのだ。」

監督がここで語る"狼の時間"とは、不安や恐怖のことである様に思います。


本作は、当時の監督が取り憑かれていた恐怖を、深層心理学をモチーフに描いた作品なのではないでしょうか。


難解映画は止まらない。

長々と本作の考察を書いてきました。
本作は、ベルイマンが考える恐怖の物語であると筆者は考えています。

…考えているのですが、やっぱりこの映画訳わからん!


物語のテーマは恐怖である!と大上段に語ったところで、まだまだ説明出来ない演出が数多くあります。

冒頭のシュールな映像群の真意とは?
ラストで映し出されたカメラの意味とは?
そもそも、本当にアルマとエリーサベットは同一人格なのか?
謎はまだまだ未解決です。


本作のインタビューで、ベルイマン監督はこんなことを言っています。
「この映画について解説するのは、オレにはマジ無理。」
ズコココーッ!作ったのアンタだぜ!

こうして謎は残されるばかり。
映画史きっての謎解きは、きっと今後も続いていくのです。
http://2015omanjuuumai.blog.fc2.com/blog-entry-176.html

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