仮面 / ペルソナ 怪奇!恐怖の深層心理学 2017/04/01 http://2015omanjuuumai.blog.fc2.com/blog-entry-176.html 『キングコング: 髑髏島の巨神』('16)に『ブレイブハート』('95)…。 脳が溶けそうな小学生映画のレビューばかり続いた本ブログですが、たまにはお文芸な作品を。
今回は、難解映画としても名高い『仮面 / ペルソナ』のレビューを。 難しい難しいと聞いていましたがこの映画、マジで難しい。 アヴァンギャルドな映像に、脳天から?マークが連発する奇作でした。 監督はスウェーデンが世界に誇る大巨匠、イングマール・ベルイマン。 神や宗教を扱って鬼難解な作品を作ってきたベルイマンなのですから、シンプルな訳ゃありません。
で、神を論じてきた大作家ベルイマンが本作で語るのは何か? タイトルからお察しの通り、見えて来たのはユングの深層心理学! 分かるかそんなもん! …いや、待てよ…。 この映画、実はもっと怖いお話だったりして…。 あらすじ
一人の女優が失語症に陥った。 女優の名前はエリーサベット(リヴ・ウルマン)。 舞台女優である彼女は、公演中に突然セリフが喋れなくなったという。 その後、日常生活でも言葉を失った彼女は、病院へと送られて来たのだった。 彼女を見守るのは、看護士のアルマ(ビビ・アンデショーン)。 彼女は、エリーサベットの看護を続けていくうちに、訳もなく胸騒ぎを覚えていく。 ある日、エリーサベットの主治医が決断を下す。 このまま入院していても、病状は改善しないだろう。 主治医は、彼女の気分転換も兼ねて、別荘での保養を勧める。 同行するのはアルマだ。
かくして、別荘での2人の共同生活が始まることとなる。
暮らしは順調。 女優であるエリーサベットに憧れるアルマは、自らの胸の中を彼女に明け透けに話す様になる。 エリーサベットは相変わらず言葉は発しないものの、彼女との暮らしに満足そうだ。 「まるで姉妹みたい…。」 次第に、アルマはエリーサベットに強い親近感を抱くようになっていく。 しかし、そんな暮らしに波風が立ち始める。 不意にアルマは、エリーサベットの書いた手紙を盗み見てしまうのだった。
世紀の名画は謎だらけ
アヴァンギャルドな演出!斬新な映像!実力派女優の熱い演技合戦! …とか書けば映画ブログっぽいんでしょうが、ここは正直にいきましょう。 この映画、サッパリ意味が分かりません。 監督はスウェーデンが誇る名匠イングマール・ベルイマン。 監督作品では、本ブログでは『第七の封印』('57)などの作品を扱っています。 『第七の〜』は超オススメ!筆者のオールタイムベストの一つです。
本作で主演を張るのは、ビビ・アンデショーンとリヴ・ウルマンの2人。 物語は、実質この2人だけで進んでいくこととなります。 さて、映画についです。 ただでさえ難解といわれるベルイマン映画。本作は、のっけから訳が分かりません。
ファーストカットはカラカラと回るフィルム。 奇怪な金属音とともに、カトゥーンアニメとカウントダウンが入れ替わりに映ります。 回る映写機、屠殺される羊、天を這う蜘蛛。 様々なイメージが現れては消えていきます。 そして、かの有名なサブリミナルのポコ○ン。 冒頭シークエンスで男の魚肉ソーセージが一瞬だけ映し出されるのです。 この演出は、『ファイトクラブ』('99)に影響を与えたと言われています。 その後映し出されるのは1人の少年。 少年は、真っ白なスクリーンに映し出される2人の女の顔に手をかざしています。 そして、ようやくタイトルの『仮面』の文字が映し出されます。 ぎえ〜ちょ〜アヴァンギャルドぉ〜! さて、ここからは(一応)劇映画が始まります。
主人公は2人の女。 リヴ・ウルマン扮する失語症に陥った女優エリーサベットと、ビビ・アンデショーン扮する看護婦のアルマです。 『第七の〜』では旅芸人の肝っ玉母さんを演じていたアンデショーンですが、本作で演じるのは天真爛漫な看護婦。 天真爛漫が故に、アルマからは脆さも感じさせます。 一方のエリーサベットは、貝の様に心を固く閉ざした女。 リヴ・ウルマンのクールな出で立ちが、彼女の心の壁の厚さを物語っています。 劇中前半では、エリーサベットの入院生活が描かれます。 頑なに口を開かないエリーサベット。 アルマはそんな彼女への看護に不安を感じています。 何故か、エリーサベットの存在自体がアルマの不安を掻き立てるのです。
この病院での一連のシークエンスも、どこか不気味です。 病院のセットは不自然なほどシンプル。女優2人の顔が極端なアップに、息が詰まりそうになります。 特に、死体の様に身じろぎしないリヴ・ウルマンの不気味さ! 全く瞬きをしないウルマンを長回しで映し出すシークエンスなんかは震え上がります。 さて、物語は前半で早くも核心に迫ります。 エリーサベットの主治医の女医が、彼女の失語症の原因を看破するのです。
「本当のあなたは、全てさらけ出したいと激しく願っている。でもそんなことは出来ないから、演技をするより他はない。 あなたが本当に安心できるのは、黙っている時だけなのよ。」 ここで、早くもエリーサベットの失語症の原因が明らかになります。 自らの本心をひた隠しに生きていたエリーサベット。 自分と他人を偽って生きて来た彼女の心は遂に限界を迎え、そのために彼女は沈黙を始めたのでした。 ありゃ?なんだか早くも物語にオチがついてしまったかの様です。 いやいやとんでもない。ここからが本番です。
舞台は主治医の別荘へ。 エリーサベットは保養のためにこの別荘へ移ることとなります。同行するのはアルマ1人。 ここから、2人の奇妙な共同生活が始まります。 日々を重ねるうちに、アルマはエリーサベットに心酔していくのです。 この別荘のシークエンスは、前半とは違った意味でまた前衛的です。
閉ざされた別荘で、1人猛然と喋り続けるアルマ。その様子はまるで一人芝居の舞台劇。 舞台演出でも名を馳せることとなるベルイマン監督の手腕が光ります。 エリーサベットは相変わらず貝のごとく押し黙るばかり。しかし、微笑を浮かべアルマを見つめる姿は超然としていて、やはり不気味さを感じます。 そして劇中中盤、アルマはエリーサベットに過去の恥部を明かしてしまいます。
彼女はかつて少年達と行きずりに乱行し妊娠、その末に堕胎した経験があったのでした。 自らの恥部を自ら暴露したアルマ。 夢かうつつか、明くる朝に肌を重ねる2人。 うほほ〜いエロい!! …のですが、これまたどこか怖さを感じるシークエンスです。 この辺りからでしょうか、物語は急速におかしくなっていきます。
ある日アルマは不意に、エリーサベットの手紙を盗み見てしまいます。 手紙の中でエリーサベットはアルマの過去を主治医に密告し、さらには「彼女は私を崇拝している。」と書いていたのでした。 怒り心頭のアルマ。 次第に彼女はエリーサベットに辛く当たるようになっていきます。 反発と仲直りを繰り返すうちに、次第に2人の心が共鳴していきます。 画面をよく観ていくと、着ている服まで同じ。2人はひどく混乱していきます。 さて、ここからが急転直下。 以下は、本作の重大な核心に触れていきます。 未見の方は、本ブログを読むのをやめ、実際に作品をご覧になることを強くお勧めします。
劇中後半、ついに別荘にエリーサベットの夫がやってきます。 彼女の身を案じる夫。 「僕が悪かった…。 君が思う様に暮らしていこう、エリーサベット!」 そう語る先に居るのは、エリーサベットではなくアルマでした。 抱き締め合うアルマと夫。 その姿を、エリーサベットは身じろぎもせず見つめています。 2人は同一人物だったのか!? ビビる僕らをよそに、アルマとエリーサベットはついに対決します。 エリーサベットを責め立てるアルマ。 彼女は、エリーサベットしか知り得ない"息子を愛せないトラウマ"を非難します。 そして、2人の顔が映し出されると…!
2人は一体なんなのか? 様々な謎を抱え、映画はラストに向けて疾走していくこととなります。
伝説の名画と言われるだけのことはあります。 同一人物とおぼしきアルマとエリーサベット。現れては消えていく謎。アヴァンギャルドに過ぎる演出。 名匠ベルイマン監督の手によって、僕らの脳ミソはぐわんぐわんに揺さぶられます。 そんな難解映画である本作は、いくらでも解釈の仕様があります。 さて、次の章では筆者の解釈を書いていこうと思います。
長くなるけどついてきて! 恐怖!深層心理おじさん
本作は、長きに渡って映画ファンの間で議論が交わされてきた作品です。 前述してきた様に作品は超難解。筆者もサッパリ意味が分かりません。 そんな『仮面』論争にオレみたいなニワカが参加するのもおこがましいですが、これから筆者の本作の考察を書いていこうと思います。 結論から書くと、本作は「ベルイマンが恐怖を語った映画」である様に思います。 その"恐怖"を語る前にまず、本作がユングの深層心理学に着想を得た作品であることを押さえておく必要があると思います。
これは、"ペルソナ"と読ませるタイトルやエリーサベットが失語症を発症することから明らかです。 言うまでもなくペルソナとは深層心理学の大家、カール・グスタフ・ユングが提唱した概念。 人間が外界に向けて装う顔・性格・人格を意味しています。 女優という職業から明らかな様に、エリーサベットは【ペルソナ】を象徴しています。
劇中前半での主治医のセリフによれば、エリーサベットは自分と社会とのギャップに深く悩んでいました。 「外界から自分を守るために演技をせずにいられない。」と主治医から指摘されたエリーサベットの人格は、ユングの提唱するペルソナを感じさせます。 では、一方のアルマは何を象徴しているのか? 彼女は、ユングの深層心理学でいうところの【影】を象徴している様に思います。 影とは、その人にとって"認めたくない本当の自分""本当はこうありたかった・あったかもしれない自分"を指す概念です。 仮面(ペルソナ)を被り社会に素顔を明かしてこなかったエリーサベットと違い、アルマは天真爛漫に全てを喋ってしまいます。 さらには、自分で自分を性的に抑圧してきたエリーサベットと違い、アルマは少年達との放埓なセックスを経験していました。 まさにアルマはエリーサベットにとって"認めたくない影"なのです。 つまり、エリーサベットとアルマは、同一人物の人格に宿った【ペルソナ】と【影】なのではないでしょうか。 こうして考えると、冒頭の前衛的なシークエンスもいくつか説明が付きます。
映し出されるペニスはエリーサベットの潜在的な性欲を現し、磔のイメージはペルソナが抑圧する本音とも受け取れます。 そして2人の女を見つめる少年は、エリーサベットが忌み嫌う彼女の息子であり、アルマが堕胎した子どもである様に思います。 この様に、本作にはユングの深層心理学との深い結びつきを感じさせます。 この辺りは世評とも一致しているところではないでしょうか。
…が、本稿ではここからもう一歩踏み込んで考えたいと思います。 本作のストーリーは確かにユング的です。 しかし、ストーリーが語る映画のテーマは、もっと違ったものなのではないでしょうか。 筆者が感じる本作のテーマ、それこそが"恐怖"です。 本作は、ベルイマンが語る"オレの恐怖映画"なのではないでしょうか。 1965年、ベルイマンは大型企画『人喰いたち』の製作に向けて動いていました。 しかしその年の夏、企画は頓挫します。 ベルイマン監督が病を得て入院してしまったのです。
およそ二ヶ月の入院生活で暇を持て余していた監督は、降って湧くイメージを常にノートに書き記していました。 こうしてノートに記されたイメージを見直した監督は、はたと気が付きます。 「これ、映画になるぞ!」 そして監督は、『人喰い〜』のために契約していたビビ・アンデショーンとリヴ・ウルマンをそのまま起用することを思い立ちます。 2人の顔が似ていることが、監督に新たなインスピレーションを与えたのです。 ("似ているけれど確実に異なる顔"という奇妙な違和感は、本作のクライマックスでまさに再現されることとなります。) かくして、本作『仮面 / ペルソナ』は産声を上げるのでした。 そして、本作の公開の後、監督は『狼の時間』('66)を発表。 主演は、本作から引き続きリヴ・ウルマンが勤めることとなります。 リヴが演じる女主人公の名前は、アルマ・ヴォグレル。
ん…アルマ…? そう、『仮面』で"エリーサベット"を演じたリヴは、直後の作品でアルマと名付けられた女を演じているのです。 そして、エリーサベットのラストネームもまた"ヴォグレル"でした。 後のインタビューで、ベルイマン監督はこう語っています。 「役名から分かる通り、『仮面』と『狼の〜』は二つで一つの作品だ。」 おう!『仮面』を紐解く鍵が見えて来ました。
監督の解説によれば、『狼の〜』役名のヴォグレルとは"鳥"を現しています。 そして、"鳥"は、監督にとって恐怖の象徴である様です。 さらには、『狼の〜』ではマックス・フォン・シドウ扮する画家の男が悪魔に付きまとわれます。 悪魔の名前は"人喰い男"。 ついにピースが繋がりました。 『仮面』の前に監督が撮るはずだった『人喰いたち』。 "人喰い"とは恐怖の象徴でした。 そして、"人喰い"の現れる『狼たち〜』と『仮面』はヴォグレル(鳥)というこれまた恐怖を示す記号で繋がっています。 従って、『仮面』もまた恐怖をテーマにした作品であると考えるのは、決して強引ではない様に思います。 作品内にもそれを裏付ける描写がある様に思います。 例えばエリーサベットは、焼身自殺するはベトナムの僧侶の映像や、ナチに追われるユダヤ人少年の写真に対して、明らかに怯えた反応を示します。 これは、外界への恐怖を現しているのではないでしょうか。
そういえば、宗教映画であるはずの『第七の封印』でさえ、監督は核兵器や朝鮮戦争への拒否感を露わにしていました。 風雲急を告げるベトナムや、ホロコーストの影に怯えるユダヤ人少年。 世界歴史の暗部に怯えるエリーサベットは、そのままベルイマン監督の恐怖を代弁しているとも取れます。 『狼の〜』のインタビューで、ベルイマン監督はこう語っています。 「長い間、私自身も"狼の時間"に実際に付きまとわれてきた。 それ以来私はこのテーマに取り憑かれていたのだ。」
監督がここで語る"狼の時間"とは、不安や恐怖のことである様に思います。 本作は、当時の監督が取り憑かれていた恐怖を、深層心理学をモチーフに描いた作品なのではないでしょうか。
難解映画は止まらない。
長々と本作の考察を書いてきました。 本作は、ベルイマンが考える恐怖の物語であると筆者は考えています。 …考えているのですが、やっぱりこの映画訳わからん! 物語のテーマは恐怖である!と大上段に語ったところで、まだまだ説明出来ない演出が数多くあります。
冒頭のシュールな映像群の真意とは? ラストで映し出されたカメラの意味とは? そもそも、本当にアルマとエリーサベットは同一人格なのか? 謎はまだまだ未解決です。 本作のインタビューで、ベルイマン監督はこんなことを言っています。 「この映画について解説するのは、オレにはマジ無理。」 ズコココーッ!作ったのアンタだぜ!
こうして謎は残されるばかり。 映画史きっての謎解きは、きっと今後も続いていくのです。 http://2015omanjuuumai.blog.fc2.com/blog-entry-176.html
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