タルコフスキー、ソラリスを語る スタニスワフ・レムの『ソラリス』の映画脚本をつくろうと決めたのは、SFに興味があったからではなかった。
一番大切な理由は、『ソラリス』でレムは、私が身近に感じることが出来る道徳的な問題を取り上げたということだった。 レムの小説のより深い意味は、SFの限界内に収まっていない。 文学形式だけを論じるなら、問題を制限することになる。 この小説は、人間理性と知られざる者との衝突を扱っているだけでなく、新しい科学の発見によって生み出された道徳的葛藤をも扱っている。 『進歩の代償』と呼ばれる痛々しい経験の結果として生じる新しい道徳性を扱っている。 ケルヴィンにとってその代価は、物質形態で自分自身の良心の呵責に直接対面せざるをえないということだ。 ケルヴィンは自分の行動原理を変えない。自分自身にとどまる。 それこそ彼の悲劇的なジレンマの根本であるのだが。 ________________________________________
一体全体なぜ、私が見たSF映画のすべてで、監督は観客に未来の物質的な細部をじっくり見せようとするのか?
なぜ彼らはースタンレー・キューブリックがそう称したようにー自作を予言的と称するのか? 専門家にとって『2001年』が多くの事例で食わせ物だ、芸術作品とはとても言えないと言うつもりはない。 私は、『ソラリス』を観客に異国情緒を味わわせることがないように、撮影したいと思う。 当然、テクノロジーの領域での異国情緒という意味だ。 例えば、電車に乗る乗客を撮影して、私たちが電車について何も知らないとしたらーそう仮定しましょうー以前電車を見たことがなかったからです、そのとき私たちは月に着陸する宇宙船のシーンでキューブリックがやったのと類似の効果を獲得するでしょう。 言い換えると、停車場で普通に撮影するやり方で宇宙のシーンを撮影する限り、何もかも上手く行くでしょう。 このように私たちは登場人物を、異国趣味のシーンではなく、リアルなシーンに置く必要があります。 なぜなら映画の登場人物が現実を知覚することによってのみ、観客が理解できるようになるからです。 だから、未来の科学技術を細々と見せると、映画の情緒的な基礎が壊れてしまいます。 ________________________________________
肝心なのは、その「科学技術」の、と言っておきましょう、その発達の各段階で人間は、霊的なエントロピーのようなものと、道徳的価値の拡散と、戦わねばならないということだと思います。
一方で、人間性は自らをあらゆる道徳から解放しようとします。 その一方で、道徳を創造しようとする。 このジレンマが、個人の生においても一般社会の生においても、並はずれて劇的な緊張に満ちた状況を生み出すものになります。 この劇的な解放と、それと同時に、精神的理想の探求は、人間が自らをもっぱら道徳的な問題に捧げることが出来る発達段階に到達するまで続くことでしょう。 人間が絶対的な外的な自由を獲得する段階、それを社会的な自由と呼びましょう、そこで人間は日々の糧に、雨露をしのぐ場所に、子どもの未来を確保することに、いちいち心を惑わす必要はないことでしょう。 そこで、人間はかつて外的自由に捧げた同じエネルギーで、自己の内部深くに降りていくことが出来るでしょう。 私にとってハリーとケルヴィンの間で宇宙ステーションで生じたことは、人間の自分の良心に対する関係が問題なのです。 […] 映画は奴隷のように本に忠実に従うことは出来ない。 レムの足跡をたどることは、作家と本に対する背信行為になるでしょう。 私は、『ソラリス』の私の個人的な読み方を映像にしようとしました。 作者に忠実であるために、私は時々、ある種のテーマに対する視覚的等価物を探して、小説から逸脱しなければならなかった。 私には対比として地球が必要だった、もっともそれだけのためではありませんが… 私は、地球を観客の心の何か美しいものと等価のものにしたかった。 人の憧憬を表すものです。 だから、ソラリスの神秘的な幻想的な雰囲気に飛び込んだ後、突然地球を一瞥したときに、彼は再び正常に、くつろいで、感じる。 その結果彼はこの平凡さへの憧憬を感じ始める。 言い換えると、彼はノスタルギアの有益な影響を感じる。 結局、ケルヴィンは人間としての自分の義務であると見なす実験をするために、ソラリスに残る決心をする。 このように私は、観客がさらに十全に、さらに鋭敏に、彼の決心の劇的な意義のすべてを実感できるように、地球を必要としたのでした。 私たちの根源的な故郷であった、今も故郷である惑星に帰ることをこのように断念する、そのことの意義が実感できるように、です。 ________________________________________
スタンレー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を最近見ました。 人工的なものの印象が残りました。
最新科学技術の業績を見せる博物館にいるかのようでした。 キューブリックはそういうことに酔いしれて、人間のことを、人間の道徳の問題を忘れています。 それがなければ、真の芸術は存在できません。 映画の描写の最大限の直接性に私は信頼をおいています。
この映画でも私はギミックなしで、最も素朴な手段を用います。 今日流行の「スペクタクル」の類は避けています。 確かに、映画はカラーになりますが。 最近まで私はカラー映画に絶対反対でした、しかしどうすればいいのでしょうか、今日ではカラーを避けるのは不可能です。 何とかこの技術を最善のかたちで利用しようと苦心しています。 リアリズムの領域の中でしっくりしたものになるようにです。 SF映画のリアリズム? ええ、可能だと思います。 私たちはこの想像世界を出来るだけ具体的なものにしています。 特にその純粋に外的な現れで、です。 『ソラリス』で示されるリアリティは物質的に経験可能なもの、ほとんど手で掴むことが出来るものになるはずです。 装飾のテクスチャーによって、ワディム・ユーソフの映画スタイルによって、それを実現します。 私たちの映画には、本にない地球上のシーンがあります。 対比のために地球が必要なんですが、それだけではありません。 私は観客に私たちの惑星の美に気づいてもらいたいと思います。 そうすればー調べようもない、神秘的な事柄をはらんだ雰囲気に包まれていたのでーもっと気持ちを込めて、地球に帰ってくるでしょう、その平凡さを自由に喜ばしく呼吸することでしょう。 この映画を見る方にホームシックの苦さを理解してもらいたいと思います。 結局クリスはソラリスにとどまる決心をします。 なぜならそれは科学者としての彼の使命が要求することだからです。 プロジェクトの監督を彼に託した人々に彼が負う責務が求めるからです。 この状況で、地球のイメージは観客の心理的な反応の触媒として作用し、クリスの決定に隠された意味を十分に、明確に見て取ることができるはずです。 ________________________________________
私はSFは好きじゃない。
いやSFが基づくジャンルが好きでない。 テクノロジー、いろいろな未来論的なトリックや工夫が凝らされたああいうゲームが好きでない。 いつでも人工的だ。 でもファンタジーから引き出せる問題には興味がある。 人間と彼が抱える問題、人間の世界、人間の不安。 平凡な生もまたファンタジーにあふれている。 人生そのものがファンタスティックな現象です。 フョードル・ドストエフスキーはそのことをよく知っていた。 だから生そのものに、毎日の生、平凡な生そのものに焦点を定めたいのです。 その中では何だってあり得るのですから。 私の『ソラリス』は結局、サイエンスフィクションではありません。
その文学的な先駆者もそうではない。 ここで大切なのは、人間だ。その人格だ。 惑星地球と結んだ彼の非常に執拗な絆だ。 彼が生きる時代に対する責任感だ。 典型的なSFは好みでない。 私には分からないし、信じてもいない。 実際、『ソラリス』に取り組んでいるとき、私は『ルブリョフ』と同じテーマと取り組んでいた。 人間存在だ。 この2作はアクションが生じる時によって切り離されているにすぎない。 ________________________________________
『ソラリス』は私の映画で一番成功しないものになった。
なぜならSFの要素を避けることが出来なかったからです。 スタニスワフ・レムは脚本を読んで、私がSF要素を排除しようとしているのに気づいて、不愉快になった。 脚色許可を取り消すと脅しました。 私たちは新しい脚本を用意しましたが、そこからは撮影中にこっそり逸脱することが可能だったのです。 そのつもりでした。しかしこの意図は十分には果たせなかったのです。 ________________________________________
スタニスワフ・レムの証言
私にはこの脚本に根本的な留保点がいくつかある。
まず第一に、惑星ソラリスをこの眼で見たかったと思うのだが、監督は不幸なことに、作品が映画的に静かな作品になるべきであるとして、私を拒否した。 第2に、私たちのごたごたの1つでタルコフスキーに言ったことだが、彼は『惑星ソラリス』をまったく製作しなかった。 彼は『罪と罰』を創ったのだ。 フィルムになったのは、この忌まわしいケルヴィンが可哀想なハリーを自殺に追い込んで、それから良心の呵責にさいなまれたが、彼女の出現、奇妙な理解不能な出現によって、ますますひどく苦しむことになる様子だ。 ハリーの出現のこの現象は私には、カントその人から得られる概念を規範とするものだ。 なぜなら物自体、到達不可能なもの、もの自体、浸透不可能な彼岸が存在するからだ。 しかし私の小説でこれは別のやり方で、明白にされ、構成されている… しかし、第2部の20分を除けば、映画の全編を私は見たことがないことを明らかにしておかねばならない。 脚本はとてもよく分かっているのだが。 なぜならロシア人は原作者に特別に1部を作成する習慣があるからだ。 どうしようもなくひどいことがある。 タルコフスキーは映画にケルヴィンの両親を登場させている。 叔母すら出てくる。 しかし一番ひどいのは母親だ。 なぜなら母親はmat' である、mat' は Rossiya, Rodina, Zemlya [ロシア、母国、大地] であるからだ。 これだけで私は怒り心頭だ。 この瞬間に私たちは馬車を反対方向に引っぱろうとする2頭の馬のようなものだった。 […] 私のケルヴィンは何の希望もなく惑星にとどまる決心をする。 一方タルコフスキーは島のようなものを出現させ、その島に小屋があるイメージを創造した。 小屋と島のことを聞いたとき、私はいらだちで気も狂わんばかりだった… こんなものは情緒的なソースにすぎない。 そこにタルコフスキーは彼のヒーローたちをどっぷり浸けたのだ。 科学的な景色を彼は完全に切断して、その代わりに私には我慢ならない奇妙なものをたっぷり導入したことは言うまでもあるまい。 http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/solaris.html タルコフスキーのストックホルム・インタビュー
Q:なぜスタニスワフ・レムの『ソラリス』に基づいてなぜ映画を創られたのか、話してもらえますか? 何があなたをあの小説に引きつけたのですか?
私はスタニスワフ・レムを非常に高く評価していて、彼の作品は非常に好きです。
いつでも読めるときに読みます、読めるものは何でも読みます。 彼の散文も好きですが、たまたまーこんなことを言うのは残念なのですがー彼は映画というものをあまり好きじゃない、分からない。 それで、一緒に仕事をしているとき、私たちは不平等なパートナーでした。 私は彼の本をどうしようもなく愛していましたが、彼のほうは私の映画にまったく無関心でした。 彼はいつも作家として考えていました、まず文学だと-。 Q:文学が一番大切なものだった。 さあ、どうでしょう? 一番大切じゃなくーとにかく文学が存在していた、事実として。音楽、詩、絵画が存在しているように。
しかし彼は映画を理解できなかった。 今でもそうですよ。彼は、映画とは何であるのか、分かっていない。 たくさんいますよ、非常に頭のいい人たちで、文学、詩、音楽は熟知しているのに、映画は芸術だと思わない人がね。 映画はまだ誕生していないと考えるか、映画を感じられないのです。 森の木を見ることは出来ない、本物の映画と商業映画を区別できないという意味です。 明らかにレムは映画を芸術として真剣に扱わない。 だから、脚本でも自分の小説に忠実であるべきだったと彼は信じているのです、それを絵にするだけで良かったと。 私にはそんなことは出来ない。 その場合、彼は私ではなく、「イラストレーター」である監督に近づくべきだった。 Q:そういう監督なら「動く絵」が作れる。
ええ、よくいるタイプです。
Q:たいてい、死んだ絵しかつくらない。
そんな監督がいます、作家に綿密に従って、作品を例示する人たちです。
このタイプの映画はたくさんありますが、たいてい同じように見えます。 単なるイラストだから、みんな死んでいる、生命が何もない。 それ自体、そして当然ながら、芸術的な価値は全くない。 単なる写し絵です。 文学の原典に従属する副次的なものです。 そういうのをレムは期待していた。 もし本当に彼がそう期待していたなら。私には理解できないことです。 彼がこの手の期待をしていたと考えるのは非常に奇妙なことですが、映画芸術に対する彼の姿勢こそ、まさにこの結果、イラストを期待する人間の位置に彼を置いたのです。 もしかするとそんなことは全然望んではいなかったのでしょうが。 しかし、私たちの脚本が小説の正確な描写からはずれる部分があれば、彼は必ず反対したものでした。新たな道筋を工夫したらいつでも彼は憤然としていました。 あの時私にはとても気に入った脚本の異稿がありました。 その場合、アクションのほぼすべてが地上で起きるのです、その半分以上が、つまり、ハリーをめぐる過去のすべてでした。 なぜ彼女がはるか宇宙の彼方のソラリスで「生まれた」のか。 『罪と罰』を想い出させるものでした。 もちろんレムのオリジナルの理念とは真っ向から衝突しました。 なぜなら私は内面生活の問題、いわば精神的な問題に興味があったからです。 一方彼のほうは人間と宇宙の衝突に興味があった。 括弧付きの「未知なるもの」に興味があった。 これこそ彼の興味を惹くものだった。 言葉の存在論的な意味において、認識の問題とこの認識の限界という意味でーそういうものに興味があった。 人間性が危機にさらされているとすら言ってました、人間が感じないときに認識の危機があると。 この危機は増加している、雪だるまのように、それがさまざまな人間の悲劇のかたちをつくり出している、科学者が経験する悲劇も、です。 そのすべてが熟して一種の爆発を起こす、前進をもたらす、すべてが未来に向かって行進する、などなど。 爆発ーそれはいいでしょう、私も否定しない、しかし私はそんなことにまったく興味がない。 この小説に惹かれたのは、生まれて初めて私がこう言える作品と出会ったから、それに尽きるのです。 つまり、贖い、それは贖いの物語なのです。 贖いとは何か?ー 良心の呵責。言葉の直接的な古典的な意味でー過去の過ち、罪、の記憶が実在になるとき、にです。 私にとってこれこそあの映画を作った理由なのです。 一方、未知との遭遇の問題を語るべきならーその場合も、存在論的な側面は私には重要でなかった。
そうではなく、ある人間の心理状況の再創造だった。 その魂に何が起きているのかを示すことこそ重要だった。 もしその人間が人間であり続けるならー私にはそれが最もかけがえのないことだった。 私の映画の主人公が心理学者であることは偶然ではありません。
レムの小説の主人公も心理学者ですが。 彼は平凡な都市生活者です、俗物です、そう見えます。 私には、彼がそんなふうであることが重要でした。 彼は精神的な幅のかなり限られた人間であるべきです、月並みな人間ですーこの精神的な闘いを、恐怖を経験できるためにです。 苦痛に捕らえられて、自分に何が起きているのか理解できない動物のようにではなく、この精神的な闘いを経験できるためにです。 私に重要であったのは、人間は無意識に自分自身に人間的であることを強制するということです。 無意識に、そしてその精神的な能力が許す限り、人間は野蛮さに反抗します。 人間的であり続ける限り人間は非人間的なものすべてに抵抗します。 そして結局、彼はー少なくともそう見えるでしょうー徹底的に月並みな奴であるにもかかわらず、彼は精神的に高いレベルに立ちます。 まるで自分を断罪するかのようです。 この問題の内側に入り込み、自分を鏡の中に見たかのようです。 結局、彼は精神的に豊かな人間ですー
先に見たように、見かけは知的に限界があるにもかかわらずです。 父親と話すとき彼はどうしようもない俗物です。
バートンと話すとき、月並みな凡庸さで、知識について、道徳について語ります。 凡庸な話をします。 自分の思念を形成し始めると途端に彼は凡庸になる。 しかし何かを感じ始めると、あるいは苦しみ始めると、途端に人間になる。 で、レムはこのことにまったく無感動だった。まるっきり無感動だった。 私はこのことに深く心動かされた。 カンヌで映画が賞を受けて、誰かが彼におめでとうと言ったとき、レムは訊いた。
「で、私はどうしたらいいんだ?」 彼は恨みを込めてそう言ったー しかし別の見方をしてこう訊けるでしょう。 「確かに。彼はどうしたらいいのだろう?」 もし彼が映画を芸術として扱ったなら、映画というものは、スクリーンに合わせたものは、いつも、いわば作品の廃墟から生じるのだと分かったでしょうに。 しかし彼はそんな風には映画を見なかった。 しかし私は、共に過ごし語り合ったあの日々のことを彼に限りなく感謝しています- 彼はきわめて興味深い人物です。とても楽しい人です。 だから、私が少し苦い思いをしたなら、それは、彼が私と私の映画をあんな風に扱ったからではなかったー映画を一般にあんな風に扱ったからなのです。 ところで、彼によろしくと、私の心からの感謝と敬意を彼に伝えるようにお願いできますか? 私はいつまでも感謝と共に一緒に仕事をして過ごした時を想い出すでしょう。
しかし、私が先に述べたことは、少なくとも、客観性のために述べておく必要があったのです。 Q:2つの別の問題ですね。
そうです。
ここで私たちはある争点に触れています。 これは、いつも私に問題を提起する。 ええ、こんなことが以前ありました。 誰かに会う。とても知的な人です。 読書家で、詩、絵画、音楽などを知っていて。知識人です。 で、彼は私の新しい映画が好きだと言う。偉大な映画だと言う。 そして「おお、私はうれしい、ありがとう、ありがとう」と言う。 で、彼に話し始めると私は彼が何も理解していないことに気づく。 これはひどい。これはまったくひどい。 これは私がさっき話していたことの逆です。 まあ似たようなーその人は言う 「そうです、そうです、映画、私には分かります」ー しかし実は映画を理解していない。 映画が何であるか、映画をどのように扱うべきか、映画から何が期待できるかー 映画から何を期待してはいけないか、何を期待すべきか、分かっていない。 これは一体どういうことか?
詩、絵画、文学、音楽に関しては水の中の魚のように、自由自在なのに、映画のことになると全くの素人だ。 映画に関する議論も話し合いも全然出来ないー自分はその気になっているのに、ですよ! これは非常に奇妙なことだ。 私にはこちらのほうが、誰かにこう言われるよりずっと辛いことです。 「ええ、私にはあなたの映画が分からない。 私の意見ではそれは戯言だ。馬鹿馬鹿しい、もったいぶった戯言だ。 政府の金がこんな映画に費やされるのは理解できない。」 こういう手紙を受け取ったこともありますよ。
『ルブリョフ』で大騒ぎしている頃、KGBに直接手紙を送った奴がいた。 「タタールの国家に反対する映画を作るためにタルコフスキーが政府の金を使えないように、タルコフスキーをまっとうに更正させなきゃいかん」 と書いてよこした。 Q:タタール人?!
信じられますか?
私はただ- 「戦争中タタール人はロシアの兄弟と一緒に、共通の理想のために血を流したのだ。 それなのにタルコフスキーは反タタール映画を作っている。」 分かりますか?
「反タタール映画を作る気なら、タルコフスキーには二度と何も撮らせるな。」 それだけじゃない。こういう人たちは実は自分たちの歴史を知らなかった。 このタタールの人たちは、自分が『ルブリョフ』で描かれたタタール=モンゴル人とはまったく別であることを確かに知らなかったのです。 2つのまるっきり違うことなんです。 彼らは自分の歴史すら知らない。 カザンにいたときそこで私は同じ話をしました。 私はその手紙を読んで、言いました。 あなたがたはタタール人としての国家の尊厳を言われるが、そういうあなたがたの誰ひとり、知らないー自分が何者であるのかまるっきり分かっていない。 あなたの父祖が誰なのか、覚えてもいない。 あなた方は他の国家と混じり合っている。 ええ。こんなふうにいろんな手紙をたくさん受け取りましたよ、時には侮辱的なものも。 そういう手紙を受け取っても、何とも感じないものですよ。 なぜなら一般にどうしようもない無知な手紙ばかりですからね。 しかし突然誰かに出くわしたら、例えば誰か以前なら文化的な動向に立派な意見を持っていたとしましょう。 その彼が突然、あなたがやったことについてナンセンスなことを話し始めたらー 彼がまったく無理解であることを暴露するならーこれはさらにつらいものですよ。 賛成されるかどうか分かりませんが、例えば1冊の本を読むなら、例えば、何か文学作品を読むなら、読んでいる人と同じ数だけ本もあるんです。 読者のひとりひとりが自分で創造したイメージを見ています。 自分の体験に基づいて作りあげたイメージです。 文学は描写が中心で、映画は例証が中心だから、余計そうです。 でも、映画も個人のヴィジョンを受け容れます。 このことを私はとびきり貴いものだと考えています。 もしそれが文学で可能なら、なぜ映画ではそれと戦わなければいけないのですか? その逆のー一般に当てはまることだけを考慮する、すべての特徴にあてはまるだけを考える、普遍的に受容されことだけ考える? 私にはこういうことはまったく理解できない。 これは差別だと思います。 芸術作品は観客、聴衆、読者によって創られると私は信じます。 個人の知覚の可能性を許さないなら、芸術は芸術ではないでしょう。 もちろん、或る程度準備をしておかなければならない。 しかし、一番大切なのは、準備、教育ではなく、むしろ精神的なレベルです。 これが受容なのです。理解というよりむしろ受容です。 もしあなたが受け容れる、受けとめるなら、あなたには理解できるでしょう。 あなたが理解できる日が来るでしょう。 だから、文学作品がその性質固有のやり方で状況を示し、解釈できるなら、なぜ、他のジャンルが、例えば映画作品が、自分のやり方でそれを出来てはいけないのでしょうか? そうでしょう? そうであるべきだと私は思いますよ。 http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html タルコフスキー『惑星ソラリス』 映画の中の恋愛というのは、往々にして世界との関係の隠喩でもある。
多くの映画の主人公は、ラストで抱えていた問題が一掃されると同時に、パートナーを手に入れる。 まあこれだけだと、単なるそこらの色と出世のサクセスストーリーだが、もうちょっと気取った映画となると、何らかの理由で世界から孤立して暮らしている人物がいて、その人の前にふとした偶然で相手があらわれる。 それが、世界の差し出してくれた関係修復のための蜘蛛の糸になる――そんな映画はたくさん思いつく。 たとえば『ブレードランナー』なんかを考えてもらえばいい。 もちろんこれも一歩間違えると、自分では何もしない怠惰なおたくのところに、労せずして美少女が勝手に宅配されてなついてくれるという、ただの卑しい願望充足話になってしまうので、それを避ける工夫は必要なのだけれど。 その一つのやり方は、そこで登場する蜘蛛の糸たる相手を、何か受け入れがたい変なものに仕立てることだ。 『ブレードランナー』はそれを、自分の倒すべきネクサス6型アンドロイドにしたことで実現した。 あの映画の長期的な価値は、その仕掛けがきわめて上手に構築されたことからもきている。 そしてタルコフスキー監督の『惑星ソラリス』では、その相手はかつて自殺した妻の複製品だ。
知性を持つらしき惑星ソラリスの海は、近くにやってきた人間が内心に抱いている世界との断絶の根本にあるものを探り出しては再現するという性質を持っている。 主人公の場合、それは自殺した妻だった。
そうやって世界が、考えもしなかったような形で差し出してきた存在に対して、主人公はどう振る舞っていいかわからない。
いまでも奥さんのことは忘れられないけれど、でも一方で彼女の自殺の原因は自分にあるので、彼女の姿は傷口に塩をすりこまれるような苦痛だ。 耐えきれずに一度はそれを殺してみるし、またどうも自分が変な存在でうとましがられているのに気がついた当の複製奥さんも、自殺を試みるけれど、生き返ってしまう。 『惑星ソラリス』は、そんな変な生き物とゆっくりと折り合いをつける過程の話となっている。
そこにある逡巡やとまどい、葛藤――それはまさに恋愛で、『惑星ソラリス』はそこにあまりロマンチックな要素を持ち込まないことで、逆に精神的な深みを出し仰せていた。 いたんだが……『惑星ソラリス』はその最後の最後のところで、あさっての方向を向いてしまう。
主人公の脳内情報を投射されたソラリスの海は、奥さんもどきをあっさり消してくれて、かわりに昔の家とお父さんを復活させ、再会ごっこまで演じさせてくれる。 この時点ですでにソラリスの海は、おたくのビデオデッキまがいの都合のいい妄想再生実現マシーンになってしまっている。 その奥さんもどきをどうするか? そこにこそ、その恋愛――そしてそれまで映画が積み重ねてきた問いかけ――の意味があったはずだったのに。 それはまた、タルコフスキーが常にやってきたごまかしでもある。
NHKがタルコフスキーについてのドキュメンタリーを放送したことがあって、そこにかれの妹が登場した。
そして、お兄さんの映画についてどう思うかと尋ねられたとき、彼女は吐き捨てるようにこんなことを述べたのだ。 「大嫌いです。 冷たくて人工的で。
だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、 実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。 あんなの全部、口先だけのインチキです」 ぼくはこれを聞いて、タルコフスキー映画を見る目が一気に変わってしまった。
かれの描いていた家族への郷愁がまがいものなら、かれが晩年になってますますしつこく押しつけがましく描くようになってきた神だの世界の救済だのといったものも、やっぱりまがいものでしかないんじゃないか。 それはかれが現実の家族をまったく顧みずに脳内家族に萌えていたのと同様、本当の神様でも本当の世界でもない、脳内の物欲しげな妄想でしかないんじゃないか。 そしてそれはかれの恋愛の描き方にも出ている。
『ノスタルジア』でもそうだ。 主人公は世界のさしのべてくれた実物の愛を無視して、世界を救うとかいう妄想への耽溺を選ぶ。 それはたぶん、世界の頭でっかちたちの間でのタルコフスキーの評価を高めた選択でもあるんだろう。 でもそれは、結局かれが各種の愛や、世界との和解を手に入れられなかった原因でもあるんじゃないか。
だがそもそも、かれは現実にそれを求めていたんだろうか。 http://cruel.org/other/esquiresolaris.html Marina Tarkovskaïa raconte Andreï Tarkovski http://www.youtube.com/watch?v=Y4VZ-keEdfY&feature=related
________________ タルコフスキーの評価は厳しかったが、それでも映画の場合は、実に数多くの作品を彼は見たのだった。
彼がもっともよく話題にした創造的な精神は、ブレッソン、アントニオーニ、フェリーニ、黒澤、ワイダ、ザヌーシ、ベルイマンだった。 これと関連して、私は1985年11月の出来事を思い出す。 アンドレイと私はストックホルムの映画博物館で映画ポスター展を見ていた。 私はベルイマンの姿を見つけた。 ベルイマンとタルコフスキーはお互い会いたがっていたが、一度も会ったことがなかったのだ。 ベルイマンは博物館の中の劇場のひとつから出てきたところだった。 このチャンスに、出会いは実に自然で、ほとんど避けがたいと思われた。 2人はおよそ15メートルの距離でお互いを認めることが出来た。 次の瞬間、私は仰天した。 2人ともくるっと踵を返した。 まるで厳しい軍事演習に加わっているかのように。 そして別々の方向に歩いていった。 2人は二度と会わなかった。 こうしてこの世界の2人の偉人は触れあうことなくすれ違ったのである。 http://homepage.mac.com/satokk/mihal/mihal.html 「惑星ソラリス」 原作はスタニスラフ・レム。
その「惑星ソラリス」というと最近リメイクされたようですね。 リメイク版の監督さんは、確か賞味期限切れとして名高い?ソダーバーグさん。
ソダーバーグのデビュー作「セックスと嘘とヴィデオテープ」は確かに見事な作品でした。 現代における宗教的なマターを、あるいは、芸術家としてのあり方を、現代的に扱って「大したモンだ!スゴイ!!」と思ったものです。 今でも様々な俳優や映画スタッフは「セックスと嘘とヴィデオテープ」について、「ソダーバーグ監督はデビュー作であの力量なんて・・・スゴイ!!」と言っているようです。 まあ、逆に言うと、その賛辞こそがソダーバーグの現状を語っていると言えるわけですね? デビュー作の「セックスと嘘とヴィデオテープ」以降の作品は「語られない」わけ。 本来なら、俳優とか同じ映画業界の人間なら、最新作について語るものでしょ? いつまで経っても、「デビュー作はスゴかった!!」ではねぇ・・・ このように賛辞を語ることによって、否定的な見解を表明する。 意図的にやっているかはわかりませんが、よくある話です。ホメ殺しみたいなものでしょうか? さて、さて今回の本題であるタルコフスキーによる本家の「惑星ソラリス」。
私はソダーバーグのリメイク版は見ていませんが、リメイクを作りたくなる、プロデューサーの、心境は理解できなくもありません。 タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」は、 1.セリフがロシア語である。 ・・・・この点は、当然のこととして、アメリカの観客には不利ですよね? 2 通常のSF映画の「売り」であるはずの未来風景がショボイ。 ・・・最新技術を使えばもっとハデな未来風景が作れるはずです。
ということで、リメイク版を作ろうと思ったのでしょう。 しかし、どのみちねぇ・・・ 確かにアメリカ人は字幕がキライでしょう。 しかし、スタニスラフ・レム原作の「惑星ソラリス」を見るような観客は、いくらアメリカ人だってそれなりの水準の人でしょうから、本来は字幕には抵抗がないはずです。 「字幕は絶対にイヤ!!」という観客は、そもそも「惑星ソラリス」なんて理解不能でしょ? あと、「未来風景がショボイ」・・・これだってねぇ・・・ 「惑星ソラリス」は未来世界がテーマである作品ではないのだから、未来風景なんてどうでもいいことですからね? ハデハデな未来風景を楽しみにするような人には、どのみち「惑星ソラリス」なんて無関係の作品ですよ。 というわけで、「惑星ソラリス」のリメイク版を製作することは理解できなくもないけど ・・・無意味なことは確実ですよ。 大体、リメイクって・・・
タルコフスキー監督の作品を手直しする・・・という発想自体ぶっ飛んでいますよ。 まあ、ソダーバーグもよく引き受けたものだと感心いたします。 さて、この「惑星ソラリス」ではバッハのコラール・プレリュードが使われています。
というか一般的な呼び名では「オルガン小曲集」の中のBWV639「われ汝に呼びかけん、主イエス・キリストよ」です。 まあ、そのコラールのタイトルは映画そのものには、登場しません。 この「惑星ソラリス」はソ連映画なので、SFであれば共産党政府も問題にはしなかったでしょうが、「キリスト」を連想させるような宗教的なものは「慎重」に扱う必要があったはずです。 当時のソ連では、あまりおおっぴらにキリストなんて扱えませんよ。 ちなみに、バッハのオルガン小曲集ですが、これらのオルガン曲は、コラール(プロテスタントにおける会衆歌)の伴奏として使われた曲なんだと思いますが・・・ ということで、タイトルだけでなく歌詞もあるわけです。 大体の大意は下記のようなものらしい。 「わたしはあなたに呼びかけます、イエス・キリストよ!
私の嘆きに耳を傾け、この時に恩寵をおあたえください。 どうか私がひるまぬようにしてください。」 バッハの音楽になじんでいる人だったら、ここで言われる「恩寵」が、「死」を意味しているのは簡単に読み取れるでしょう。
「死による救済を憧れる。」 バッハの音楽にはよく出てくる感情です。 有名な82番のカンタータの「我は満ちたれり。」なんて、そのものズバリの曲ですし。
しかし、タルコフスキーでこの曲を使った意図は、死を求めるというよりも、 「自分の嘆きに耳を傾け・・・恩寵を与えて欲しい。」ということなんでしょう。 この「惑星ソラリス」では、映画の中でも「嘆き」や「恩寵を求める渇望」が顕著です。 そもそも、バッハのオルガン音楽だって、この曲以外にも、他にいくらでもあるわけです。 例えばBWV605は「かくも喜びに溢れる日は」とおめでたいタイトルがついています。 BWV645は有名な「目覚めよと呼ぶ声あり」ですよね? タルコフスキーは多くのバッハの音楽から、「深い嘆き」と「恩寵への渇望」の音楽を「選択」しているわけです。 では、タルコフスキーの抱える「嘆き」とは?
タルコフスキーの渇望する「恩寵」とは? イタリアの監督パゾリーニは「映画作家はどの作品でも、同じことを言っているだけ。」と言っています。 作品によって、多少スタイルが違っていても、「言わんとする」ことはいつも同じというわけ。 映画作家の代表例のタルコフスキーも「いつも同じこと」を言っているわけです。 タルコフスキーはルネッサンスに懐疑のまなざしを向けていたのは確実でしょう。
「ノスタルジア」では反ルネッサンスの修道士サヴォナローラを連想させる人間を登場させているでしょ? 「サクリファイス」だって、昔の世界への憧れがでてきます。 昔に製作された地図などを喜んで見たりして。地図というのは一種の世界観ですからね。 他にも、アンドレイ・ルビリョフのイコンがルネッサンスの人間中心主義から遠いのは自明ですし。 その他の作品だっていわずもがな。 神から人類を解放したはずのルネッサンスが、本当に人類を解放したのか?
神を放逐した後の、人類のみの世界の代表例が、ソビエトの共産社会でしょ? 現実の共産社会が、人類の解放からもっとも遠かったのは言うまでもないことでしょう。 ちなみに、ヨーロッパの美術において、ルネッサンス以前と以降で随分違います。 単に表現技法の問題だけではありません。
ルネッサンス以降、画家は自画像を製作し、絵にサインを入れるようになりました。 絵画における遠近法だって、ある意味において、神の視点から人間の視点への変更です。 つまり芸術は芸術家のものになったわけです。 それ以前は「神」のものだったわけです。 だからこそ、自画像は作らなかったし、サインも入れなかった。 芸術家はただ神の代理にすぎなかったわけです。 ルネッサンス以降、芸術は芸術家の創造物ということになった。 それが本当にいいことなのか? 創造という神の領域に人間が踏み込んでしまって・・・ 人間はそれに値する存在なのか? あるいは人間の創造した芸術など、神の創造したものに比べれば、取るに足らぬものではないのか? 人間タルコフスキー、別の言い方をすると芸術家タルコフスキーが創造した映画は、このような人間の「創造」に対する懐疑の念が付きまとっています。 逆説的な存在なんですね。 神を放逐した後で、創造を行う人類・・・ そして映画を創造しているタルコフスキー本人。 タルコフスキーの映画は「人類の創造への懐疑に満ちた創造物」という逆説的存在と言えるように思います。 だからこそ、タルコフスキーとしては、創造することへの「嘆き」は、まさに「汝に呼びかけん!!」と言いたいところでしょう。
人間の創造のむなしさを知り抜いていながら、自らの創造意欲から創造せざるを得ない。 そしてその嘆きから解放されるには、神の恩寵が必要となる。 ・・・だから「イエス・キリストよ!」というわけですね。 別にタルコフスキーがキリスト教的な救済を意図していたわけではなく、もっと普遍的な絶対的な存在としての神を考えているわけです。
人類にとってルネッサンスとは? それは人類の歴史の上では脇道に過ぎず、単なる放蕩ではなかったのか? 20世紀にもなって、そして、よりにもよって当時のソ連で「主イエス・キリストよ!」と呼びかけることは、ルネッサンスの否定に繋がっていくわけです。
この世界を人類のものから、神のものへ返上すること。
それこそが、「放蕩息子の帰還」のラストシーンに繋がるわけです。 御丁寧に犬までがんばっている。 放蕩息子の帰還のシーンに犬はお約束ですからね。
自らの願いがすべてかなうソラリスという場にあって、人間が望むことは、父なる神への帰郷なんだ。 ルネッサンスという人類の放蕩を反省し、父なる神に帰還する。
最後のシーンやバッハのオルガン曲は、父なる神の世界への帰郷への渇望を意図しているんだろうと思います。 ちなみに、私はこの「惑星ソラリス」のヴィデオを持っています。 このヴィデオでの解説は・・・・なかなか・・・何と言うかぁ・・・ まあ、タルコフスキーの作品を解説するというドン・キホーテ的な行為は賞賛に値するかも・・・その点は、私も人のこと言えませんし・・・そういえば、「惑星ソラリス」では、ドン・キホーテも引用されていたっけ・・ そのヴィデオでの「解説」で、タルコフスキーがバッハの曲を使ったのは、バッハの宗教性がタルコフスキーになじみがあったから・・・と「解説」されております。 まあ・・・ただ・・・タルコフスキーが育った共産主義社会において、宗教がなじみとは言えないことは、多少知識がある人は御存知のはず。 またバッハのコラールというのは基本的にプロテスタントのものですよね。 ロシア正教では使わないんじゃないの? まあ、昔のソ連の音楽家によるバッハの録音なんて、ヴァイオリンとかの器楽曲ばかりでしたものね。ソ連の音楽家による宗教曲のレコードなんて聴いたことないなぁ・・・ それにバッハの曲といっても、器楽曲から宗教曲まで色々とあるでしょ? それに宗教性ということを言いたいのなら、別の作曲家でもいいのでは? ハインリッヒ・シュッツとか、あるいはもっと地味な宗教音楽家の作品の方が、そのシーンの宗教性を表現できますよ。 その「選択」からタルコフスキーの意図も見えてくるわけ。 タルコフスキーが持っていたパレットを想定した上で、その選択の意図も見えてくるわけです。 タルコフスキーはバッハの曲というと、この曲しか知らない・・・というわけではないし、宗教音楽というと、この曲しか知らないというわけでもない。 ロシア人はヨーロッパ人だから、バッハの宗教性となじんでいるはず・・・というのは、日本人の主食がキムチというくらいトンチンカンな話。 多分DVDだと、その解説も直っているとは思うんですが・・・ まあ、ルネッサンス的英知であるDVDという媒体で、「ルネッサンス否定」の作品を見るのもオツなものですね。 http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/03-12/03-12-23.htm
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