『僕の村は戦場だった』戦争を「沼」で描くタルコフスキー Wed, February 17, 2021 https://ameblo.jp/madamezelda/entry-12656412114.html 戦争映画はアクション映画。全てがその図式にあてはまるわけじゃありませんが、戦争映画ファンの多くが期待するのはそこじゃないでしょうか。戦闘機に戦車、兵器、軍装!それぞれの出来栄えを論評するのもお楽しみのひとつでしょう。 しかしタルコフスキーは、そんな戦争映画ファンの期待にこたえてくれるほど甘くはありません(笑) 『惑星ソラリス』が世界三大SFの1つに数えられながら、宇宙らしい絵ヅラのシーンは殆どなくて、「SF??」な作品であるように、『僕の村は戦場だった』も、アクション要素は皆無。軍用車両と言えばジープくらい、戦闘機も飛ばず、地上戦の映像もありません。 宇宙が舞台であろうが、戦争の時代であろうが、タルコフスキーが描くのはいつも同じ、人間の内面にある心象風景。「写真」よりも「絵」に近い、一旦タルコフスキーの中をくぐりぬけたイメージです。 本来他人には見えないはずの心の世界を映像詩として現出させるのがタルコフスキーであり、それが彼の作品が常に唯一無二である理由。だから、戦車や機関銃のディテールのような三次元的リアリティは、タルコフスキーの映画には不要。それどころか、世界観を損ねるものですらあるのかもしれません。 母が殺された時、少年の心も死んだ(ネタバレ) 冒頭、美しい夏の森で、少年(イワン)が楽し気に戯れています。 そこに水桶を抱えた母親(イルマ・ラウシュ:当時のタルコフスキーの妻)が現れ、少年は嬉しそうに駆け寄って、母の水桶から思う存分に水を飲みます。 「ママ、郭公が鳴いてるね!」 水桶から顔を上げて母を見上げる少年の笑顔! 母がいて、母が汲んだおいしい井戸水があって、森の木々がそよぎ、野生の鳥が鳴いている。それが少年の欲しいもの全て。喉を潤した彼は満ち足りて幸せそうです。 しかし次の瞬間、母を異変が襲います。地面に倒れる母。少年の叫び声・・・何が起きたのかは分からない、ただ、少年の母親が命を奪われたという事実だけが伝わります。 そして場面が変わり、舞台は闇に包まれた戦場へ。照明弾の光が不気味に閃く川の対岸の敵地から戻ってきたのは、冒頭の少年・イワン。ずぶ濡れの体で歩いているところを味方の兵士に怪しまれ、尋問されます。 この場面で、観客はイワンの変貌ぶりに驚かされることになります。 さっき母親に甘えていた無邪気な少年と同じ少年とは思えないほどやつれ、子供らしさが消えた彼の顔。もはや戦い以外の生きる目的をすべて削ぎ落してしまったような、ある種老成しきった少年の佇まいに、何か鳩尾がひんやりするような感覚をおぼえます。 尋問する将校が、 「俺に、命令する気か!」 と怒り出すほど淡々とした横柄な口調で、司令部に連絡すればわかる、連絡しないと責任問題になるぞ、と繰り返すイワン。彼が連絡先として伝えた電話番号は、将校が普段かけることを許されていない番号。しかしイワンに脅されて連絡をした結果、ポーリンという大尉が車でイワンを迎えにやってきます。イワンの話は本当でした。 大尉の姿を見て、 「ポーリン!」 と抱きつき、何度もキスを交わすイワン。イワンはいわゆる「連隊の子供」。自ら申し出て司令部の斥候として働いていたのです。 イワンは司令部の面々に可愛がられていて、彼らはイワンの安全のために幼年学校に入学手続きをしますが、イワンは頑なにそれを拒否し、復讐のために前線で戦うことを選びます。 どうやら母親だけでなく妹も殺され、父親は戦死したらしいイワン。母親や妹がいた幸福な時代の夢ばかり見る彼にとって、家族をうしなった世界で生きる意味もないのかもしれません。 或る日、いつものように偵察に出て、そのまま戻らなかったイワン。戦後、ポーリンはイワンの消息を最悪の形で知ることになります。 原作はウラジーミル・ボゴモーロフの小説。 タルコフスキーは戦場も平和も命も、水で表現する (これは平和な時代。水辺で妹と追いかけっこをする少年イワン)
卒業制作の『ローラーとバイオリン』(1961年)から一貫して、水を演出に取り入れているタルコフスキー。長編デビュー作となった1962年の本作でも、それは変わりません。 彼の描く戦場は、美しい白樺が林立する沼地や、対岸に敵陣がある川辺。敵は姿を現さないものの、身を隠す場所のない川面をボートで敵陣側へと渡る危険、いつ泥に足をとられるかもわからない冷たい沼地を照明弾の光に怯えながら前進する困難、そういう形でタルコフスキーは戦場の厳しさ・命の瀬戸際を表現しています。 さらに言えば、本作の中での水は、命そのもののシンボルでもあります。 少年イワンが母親の夢を見る時、母はいつも井戸水を汲んでいます。イワンを夢から目覚めさせるのは、母が倒れ、井戸水がこぼれる瞬間。母親の命の理不尽な蹂躙が、こぼれた水で表現されているんです。 その井戸は、イワンと家族にとって命の井戸だった。母との思い出もそこには詰まっていました。美しい母と、母が汲んでくれるおいしい井戸水がある幸福な日々の夢は、それをすべて失った今のイワンの心の空洞を、否が応でも見せつけてきます。 彼はその空洞を復讐心で埋め尽くした。まだあどけない少年の中に漲る憎悪は痛々しく、そのまま戦争の悲惨さとして胸に迫ります。 逆光の十字架の不吉さ
「水」に加えて本作で巧みに使われているのが逆光の効果。 独軍の爆撃を受け、無残に傾いた教会の屋根の十字架を、タルコフスキーは逆光の中で黒く浮き上がらせます。爆撃シーンに実際の爆撃映像はなく、そこは爆撃音だけで流すのですが、爆撃機が去った後の焼け野原に焼け残った十字架を逆光が照らすこの映像だけで、戦争の禍々しさ、悲惨さが映像から噴き出してくるようです。 絵画による伏線 (デューラーの『ヨハネの黙示録の四騎士』。左下が死の騎士)
名画も、タルコフスキーが作品内で多用するアイテムの1つですよね。 『惑星ソラリス』にはブリューゲルの『雪中の狩人』が、『鏡』にはダ・ヴィンチの画集をめくる場面が、『ノスタルジア』にはピエロ・デッラ・フランチェスカの『出産の聖母』が、といった具合い。そこには深い意味が込められているようでもあり、単にタルコフスキー自身の記憶の一片のように見えることもある・・・ただ、タルコフスキーがそれらの名画に対して特定の強いイメージを抱いていたことは間違いない気がします。 もっとも本作では、とても分かりやすい意図をもってデューラーの『ヨハネの黙示録の四騎士』が使われています。 イワンが基地にあるわずかな本の中から見つけ出したデューラーの版画集。独軍からの戦利品らしいその画集をめぐりながら、イワンは『ヨハネの黙示録の四騎士』に目を留め、中でも「死」の化身である老騎士に興味を抱きます。 「この男に似たドイツ兵を見たことがある」 まさか! こんな骨と皮の老人が戦場に?と思ってしまうのですが、敵味方誰もが死相をひっさげ、殺意をギラギラさせながらうろついている戦場のこと、「死の騎士」に似ている男がいたとしてもおかしくはありません。 この「死の騎士と出会った」というイワンの言葉は、彼の辿る運命の伏線でもあります。 美少年と大人の友情
それにしても本作で少年イワンを演じているニコライ・ブルリャーエフの美少年ぶり! タルコフスキーの作品には殆どの作品で少年が登場しますが、その中でも自らの意思を持って行動し、観客を共感の渦に巻き込む吸引力では、イワンがダントツ。彼がとびきりの美少年であることも、その吸引力の源泉になっていることは間違いないでしょう。 タルコフスキーはニコライ・ブルリャーノフを次作『アンドレイ・ルブリョフ』(1966年)でも起用しています。お気に入りだったのかもしれないですね。 面白いことに、『ローラーとバイオリン』でも本作でも、タルコフスキーは青年と少年の友情を描いています。しかも、その男同士の友情と対比するかのように、男女の恋愛も描かれているのですが、どちらのケースも男女の恋愛は浅いものとしてしか描かれていません。 本作の中で、イワンをとてもかわいがっているポーリン大尉が、女性の看護中尉・マーシャを森に誘い出し、誘惑しようとする場面があります。 ただ、マーシャのほうがその気になろうとすると、ポーリンのほうは引いてしまいます。どうやらポーリンは、マーシャに気があるらしい将校にちょっと嫌がらせをしたかった風情。本気で彼女と付き合う気持ちはなかったようです。 初期のタルコフスキーの作品には、恋に恋する女心に対する嫌悪感のようなものが感じられる気がするのは気のせいでしょうか? 逆に、男同士の友情、それも年長の男性が少年を対等の存在として尊ぶ関係性に美しさを見出していた。 タルコフスキーの父親は、家族を捨てて別の女性と生活していたようですが、父に対する思い、父を奪った女性への思いも、彼がこういう構図にこだわった背景の1つなのかもしれません。 タルコフスキー的美意識から乖離したゲッベルス一家の遺体 戦闘機も戦車も使わず、戦争のリアリティーを映像に持ち込むことを嫌ったかのように見えた本作ですが、終盤突如様相が変わります。 というのは、本作にはベルリンが陥落して独ソ戦が終結した後の描写があり、そこで自決したナチ幹部の遺体を写した映像が挿入されているのです。その中にはゲッベルス夫妻と幼い6人の子供たちの遺体もあります。 タルコフスキーは後年『鏡』でも戦時中の記録映像を挿入していますが、そこで映し出されているのは、広大な沼地(ここでも「水」!)を、兵士たちが筏に乗せた戦車を押しながら行進していく様子。戦闘や人の死を映し出すものではありませんでした。 本作が作られた1962年は冷戦の真っただ中。ソ連を代表して国際映画祭に参加した本作に、当局の息がかかっていないはずはない。当局の指示でこうなったのか、タルコフスキー自身が敢えてそれをしたのか、たしかなことは言えませんが、それまでのテイストとは打って変わって、突如映像に生々しさが注ぎ込まれる違和感からみても、前者だったのではないかという推測もあながち間違いではないのかもしれません。 クライマックスは爆撃ですっかり破壊されたナチの収容所。残された書類によって、そこで連合国側の捕虜の処刑が行われていたことが判明します。 ジュネーブ条約はどこへ行った?という話ですが、同時に、「カティンの森は・・・」とつい言いたくなってしまう。 このあたり、冷戦時代の西の教育を受けた私としては、どうしても違和感を持ってしまうんですよね。それもまた一種のバイアスなのですが。 結局、両者同じことをしていた。 戦争になったらルールは無意味になってしまう。子供の無邪気さも、命も奪ってしまう。 戦争だけは、嫌ですね。 https://ameblo.jp/madamezelda/entry-12656412114.html
|