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北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 21 日 12:52:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

北方領土をロシア領と認めることが・・・ ロシア外相(18-12-18) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=wd10h3bCtdk

ロシアのラブロフ外相は、日本側が北方領土は第2次大戦の結果、ロシア領になったと認めなければ平和条約締結交渉は進展しないという認識を示しました。


ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 北方領土交渉の経緯からみる 1/20
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-wordleaf-pol



 北方領土交渉の進展が期待される1月22日の日露首脳会談ですが、北方領土をめぐっては、歯舞群島(はぼまいぐんとう)と色丹島(しこたんとう)の返還を軸とした「2島返還プラスアルファ」論も報じられるようになってきました。しかし、軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は「ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない」と指摘します。それはどういうことなのか。これまでの北方領土交渉の経緯を振り返りながら、黒井氏が解説します。


【地図】突然の北方領土占拠 “千島”がほしいソ連に口実を与えた「ヤルタの密約」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-00000006-wordleaf-pol.view-001

[地図]北方領土周辺の地図
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-wordleaf-pol.view-001

[表]北方領土4島の比較
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-wordleaf-pol.view-002


ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 北方領土交渉の経緯からみる



返還を期待させる日本メディアの報道は「不思議」

「なぜ日本政府はいつも島のことばかり言うのですか? ロシアの領土を私たちが渡すわけがないじゃないですか。形だけでも交渉してくれと日本の外務省が頼んでくるので、何も約束しない範囲で付き合っていますけど、これいつまで続けるつもりなのですかね」

 これは1990年代のエリツィン政権時代に、プライベートで交流があったロシア外務省の日本担当者が私に言った言葉です。

 私はかつてモスクワに2年ほど住んだことがあり、北方領土問題についてロシア側を取材していたことがあります。日本では1991年4月のゴルバチョフ初来日の前あたりから、日本の経済協力と引き換えにロシア(ソ連)が北方領土を返還する可能性があると度々報じられてきました。日露交渉はエリツィン時代も続き、「交渉進展か」との観測記事も頻繁に報じられてきました。それはプーチン政権になっても同様で、今日まで続いています。

 ところがこの28年間、1ミリたりとも領土は返ってきていません。つまり、繰り返されてきた領土返還を期待させる報道は、すべて「誤報」だったわけです。

 この日本メディアの報道を私は不思議に思っています。というのも、ロシア側からは28年間、領土返還への取り組みを示す情報が一切、出てきていなかったからです。ロシア側の政官界を取材して私が最初にこの問題の記事を書いたのは、前述したゴルバチョフ初来日の直前で、「最弱の支配者ゴルバチョフでは北方領土は還らない」という週刊誌記事でした。その後、エリツィン時代も同様の記事を発表してきました。

 プーチン政権になってからはこの問題で現地取材はしていませんが、特にロシア側の情報を細かくチェックしています。日本メディアが「交渉進展か」と報じる度、その根拠が「日本側の関係者がそう言った」以外にファクトが一切存在していないことを確認しています。

2001年に日ソ共同宣言を法的文書と確認したが……

 では、実際にどのような動きがあったのでしょうか? リアルな交渉の経緯を列記してみます。(肩書き等はいずれも当時)

1991年3月
 ソ連経済が崩壊し「カネで領土が買える」論が日本で浮上。特に同年4月のゴルバチョフ初来日の前に期待値は最大になります。日本では自民党執行部に怪しい領土返還話が持ち込まれ、大蔵省に資金支出も根回しをした上で、3月に小沢一郎幹事長が訪ソしてゴルバチョフ大統領と会談しました。が、まったく相手にされずに終了。

1992年3月
 コズイレフ外相と渡辺美智雄外相の会談の際、同席していたクナーゼ外務次官が非公式に「平和条約締結と2島引き渡し」に言及しました。ただし、ロシア政府が承認した公式提案ではなく、あくまでクナーゼ次官個人の行動でした。ロシア側では一切検討もされていません。

1993年10月
 東京宣言。初めて領土問題の存在が確認されました。日本側では「交渉進展」と盛り上がりましたが、返還への文言は一切盛り込まれていません。

1997年11月
 クラスノヤルスク合意。「2000年までに平和条約締結を目指す」と合意され、日本側でだけ「交渉進展」と盛り上がりました。

1998年4月
 川奈提案(※)。国境を4島の北に定めるかわりに、施政権をロシア側に残すことを日本側が提案。日本側関係者からは「エリツィン大統領は乗り気だったように見えた」との証言がありますが、実際にはロシア側は拒否しています。検討していたという情報も一切ありません。(※川奈は首脳会談が行われた静岡県伊東市の地名)

2001年3月
 イルクーツク声明。1956年の日ソ共同宣言を「交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」とすることが確認されます。この共同宣言には、平和条約締結後に2島を引き渡すことが明記されています。このため、日本側では「プーチン大統領は2島返還で決着したがっている」との憶測が定説化しました。しかし、プーチン大統領本人もプーチン政権当局者も「2島なら引き渡してもいい」とはこの時も、それ以降現在に至るまでも、1度も発言していません。

 ロシア側からすれば、共同宣言が「交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」だとしても、あくまで出発点であり、プーチン政権としてその通りに進めると約束したことにはならないという考え方です。同声明にはまた、両国の交渉で目指すべき目的を「相互に受け入れ可能な解決」とする文言もあり、意図的に過去経緯に縛られない曖昧さが織り込まれています。

2012年3月
 プーチン首相が各国メディア幹部との会見の席で「引き分け」発言。これを日本側は「2島返還で決着したがっている」と受け取っていますが、ロシア側は一切、そんな説明はしていません。

2013年4月
 首脳会談で、経済協力を進めて平和条約交渉を加速することが合意されます。しかし、領土返還には一切触れられていません。日本メディアは「交渉進展」と大々的に報道しています。

2016年12月
 首脳会談で領土返還については一切進展がありませんでしたが、日本側の巨額投資を中心とする経済協力を進めることが合意されます。

2019年1月14日
 外相会談でラブロフ外相が「日本は4島がロシア領土だと認めよ」「北方領土という用語を使うな」と要求します。

ロシア側は「返還する」と一度も明言していない

 以上のように過去の経緯を俯瞰して見れば、「1島たりとも」ロシア側が返還するなどと一度も明言していないことが明白です。明言しないということは、言質をとられないように注意していることを意味します。つまり、2島返還で決着「したがっている」わけではないことが証明されていることになります。

 この点、日本側には自らの願望によって相手の意図を誤認識する傾向が強くみられます。特に2001年のイルクーツク声明では日本政府もほとんどの日本メディアも「2島返還で決着したがっている」と誤認識しました。しかし、仮にそうであれば、これまでロシア側が一度もその意思に言及してこなかったことの説明がつきませんし、さらに今回のように、わざわざラブロフ外相が「まず4島のロシア領を認めよ」などと発言して交渉のハードルを上げ、2島返還決着の機運に水を差すこともないでしょう。

 さすがに最近は日本側でも「2島すら返す気はないのではないか」とのメディア解説が増えてきましたが、別に最近になって急にロシア側の態度が硬化した、ということではなく、ロシア側には最初から返還の意思はなかったといえます。

 今回、ラブロフ外相は平和条約締結を進めたいとすると同時に、日本側の事情が1956年の共同宣言時とは、60年の日米安保条約改定で大きく変化していることを指摘しています。つまり、現行の日米安保条約による日米同盟の現状、あるいは在日米軍の存在などを口実に、今後も2島引き渡しを拒否していくことを、事実上、宣言したようなものです。日本が現行の日米安保条約を解消する可能性は考えられませんから、ロシアは仮に平和条約が締結されても、2島引き渡しにはすんなり応じないと見るべきです。

 結局、ロシア側は1島すら返還する気はないと考えざるを得ません。1月22日には安倍首相とプーチン大統領の首脳会談が行われますが、北方領土返還に道が開ける可能性は、残念ながらまったく見えません。
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■黒井文太郎(くろい・ぶんたろう) 1963年生まれ。月刊『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長等を経て軍事ジャーナリスト。著書・編書に『イスラム国の正体』(KKベストセラーズ)『イスラムのテロリスト』『日本の情報機関』『北朝鮮に備える軍事学』(いずれも講談社)『アルカイダの全貌』(三修社)『ビンラディン抹殺指令』(洋泉社)等がある

 

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コメント
1. 中川隆[-12828] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:24:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

2015年9月7日
じつは日本でもロシアのものでもなかった?江戸期の北方領土
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:whiqw9WQ9-4J:www.kigyoujitsumu.jp/business/topics/8287/+&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

水産資源に恵まれ、豊かな自然が残る千島列島。日本とロシアが互いに領有権を主張して譲らないこの島々に、いちばん最初に暮らしていたのは誰だったのか。北方領土問題をその原点の江戸時代にまでさかのぼってみると…。

じつは日本でもロシアのものでもなかった?江戸期の北方領土
画像提供:「露天風呂マニアの温泉探索記」

最初に暮らしていたのはアイヌ民族

 1643年、オランダのド・フリーズを船長とする東インド会社探検船が国後島、択捉島、得撫(うるっぷ)島を発見した。ときに徳川3代将軍家光の時代。このときフリースは得撫島に上陸して領有を宣言し、コンパニーランド(会社の島)と命名した。

 この歴史的事実を尊重すれば、オランダ人も「返せ!北方領土」である。

 その6年後、ロシアのコサック太平洋遠征隊が、千島を発見した。

 日本人も千島列島を知らなかったわけではない。それは松前藩が幕府に差し出した地図に、「くなしり(国後)」、「えとろほ(択捉)」、「うるふ(得撫)」など千島列島の名が記されていたことからもわかる。

 北方領土はもともとオランダのものなのか、ロシアか、それとも日本のものなのか?

 正解はどれでもない。千島列島の千島という名はアイヌ語のチェプカに由来する。ロシア語の呼び名クリルもアイヌ語の「人間」から派生している。
 その地には数千年前から千島アイヌが、漁撈をしながら、毛皮を周辺民族と交易して生活していた。

 北方領土を発見したのはアイヌ民族で、領有権は彼らのものだったのである。

ロシア人の南下を警戒し、田沼意次が北方に調査隊を派遣

 千島列島や樺太の領有権争いが日露の間で始まるのは、江戸時代も後期。ロシア人が毛皮を求めてカムチャツカ半島から千島列島を南下してからである。

 1761(宝暦3)年、ロシアのチョヌルイは、アイヌ人が捕獲したラッコなどの毛皮を武力で奪い、得撫島の女性たちを掠奪してハレムまで作った。毛皮を求めてロシア人が進出したカムチャツカ周辺では、19 世紀の間に原住民が 2 万人から 1,500 人に激減したというから、その激減ぶりは想像を絶する。

 こうしたロシア人の千島列島南下を深刻に受け止めたのは老中・田沼意次である。1784(天明5)年、初の調査隊を北方に送り込んだ。

 賄賂の問屋などといわれ評判の悪い田沼だが、外交問題には先見の明のある有能な政治家だった。

 調査隊の使命は、ロシア人の占領している島に最も近い島まで行くことで、一行中の最上徳内は国後島、択捉島を経て得撫島に渡り、そこにロシア人居住地を発見。これを皮切りに日本の北方領土への進出が始まる。

日本とロシアの領土争いの狭間で

 1800(寛政12)年、近藤重蔵の一行が小舟で択捉に渡り、その地に「大日本恵登呂府」と書いた柱を建てた。隣の得撫島にはロシア人が住んでいたので、択捉島を日本の最北端の領土としたのである。

 その前年には、国後島に南部藩の警備部隊が詰め、択捉島には南部藩と津軽藩の勤番所が設置されている。
 駐屯費用は南部藩だけで年間 1 万 4,000 両。米価換算で12億円以上になる。それに酷寒で病死者も続出したという。

 この多大な犠牲を払って、これより択捉島以南、樺太南部が日本の領土とされた。

 一帯は日本の商人によって漁場が開かれ、地元のアイヌと交易しながらの生活が始まったが、その地の生活ぶりはどうだったか?

 幕末に北方一帯を旅した松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』は択捉島について、こう証言する。

「日本の悪徳商人によってアイヌたちは昼夜の別なく酷使された。夫たちが仕事に出た後は、妻や娘たちが乱暴された。これを嫌がる者があれば氷雪の山に追いやるか、荒れ狂う海に船を出させて殺した。女は妊娠しても流産し、男は病にかかるとすぐ死んだ」

 日本の商人もロシアの毛皮商人と変わらず暴虐だった。わずか30年で択捉島のアイヌ人口は 2,000 人から 439 人に激減したという。

 領土争いでいつも被害者となるのは、そこに生活する人々である。

恐露病のもとを作った間宮林蔵

 最初の北方領土紛争は 1806(文化3)年、ロシアの樺太南部襲撃で始まった。ロシアの海軍士官フヴォストフ中尉率いる船が、樺太のクシュンコタンを襲い、放火と掠奪をし、その翌年の4月には択捉島に来襲した。

 このときの交戦の模様は南部藩士木村治五平が『私残記』に詳細に記録している。

 択捉島のシャナに2隻の船でやってきたフヴォストフの部隊は、まず艦砲射撃を加えた。迎え撃つのは幕吏戸田又太夫以下の南部・津軽両藩の部隊。すでに樺太襲撃の報を受けているので、南部・津軽両藩士は、さっそく攻撃をしようとするが、その場に居合わせた間宮林蔵がおしとどめた。
 ご存知、樺太を単独で探検し、間宮海峡を発見したあの間宮林蔵である。

 間宮によれば、

「ロシア側の大砲は上陸する際の礼法でござる」

 で、間宮の指示で白旗を揚げた使者が海岸に向かって歩いたが、使者はロシア兵の銃弾に内股を射抜かれてもんどりうった。それを見た日本の武士は蜘蛛の子を散らすように逃げた。完敗である。

「間宮殿が知ったかぶりの無駄口をいわなければ、水際でロシア人を攻撃して、追い返せたのに!」

 と木村治五平は悔しそうに書く。

 上陸してきたロシア人は20名程度、迎え撃つ日本側は 100 人以上だったから、間宮林蔵の知ったかぶりで出端を挫かれなければ撃退も可能だったかも知れない。以後、フヴォストフの一隊は1か月半も周辺を遊弋(ゆうよく)して、掠奪の限りを尽くした。

 歴史家は、この敗退が日本人の恐露病形成に大きな影響を与えたという。すると英雄・間宮林蔵は、その軽口で恐露病を生み出した人ということになるのである。

*本記事に掲載している択捉島の画像は、

「露天風呂マニアの温泉探索記」さま
https://blog.goo.ne.jp/akkii83/c/b6e7470b37abca10256ee6706b20ac22


のご厚意により使用させていただいております。

2. 中川隆[-12827] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:27:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

アイヌが北方領土の先住民
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Naiyou/Senjuuminn.htm

 アイヌのガラス玉

 ガラス玉はアイヌ女性のネックレス(タマサイ)に使用された。樺太経由で伝来したもの、日本経由で伝来したものがある。大正時代に日本でアイヌブームが起こると、観光土産用に作られるなど、近年に作られた参考品も多い。
 


北海道ウタリ協会(アイヌの団体)

 アイヌは北方領土の先住民です。アイヌの団体である北海道ウタリ協会は、アイヌが千島・北海道の先住民であることを、日本政府は明確にすべきであるとしています。北海道ウタリ協会の決議を記載します。


「北方領土」問題に関する基本方針 (1983年総会において決議)       

 北海道ウタリ協会は、昭和57年度総会において、千島列島における先住民族としてのアイヌの権利を留保する旨決議したが、本日の総会において同問題に関する次の基本方針を確認する。

1.政府及び道は、徳川幕府による開発以前の全千島における先住者であるアイヌ民族の地位を再確認すること。

2.政府及び道は、「北方領土」に関連し、北海道についても先住者がアイヌであったという厳然たる歴史的事実を明確にすべきこと。

 北海道ウタリ協会は、アイヌが千島列島の先住者たることを、ここに資料を持って立証する。

日本政府の説明

 日本政府は、北方領土問題に於いて、アイヌの存在を無視する傾向が強い。たとえば、日本政府外務省発行「われらの北方領土」では、アイヌの言及は無い。また、アイヌの代表が北方領土交渉にはいることを容認していない。


(日本政府外務省発行 われらの北方領土 2005年版から)

 択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は、我が国民が父祖伝来の地として受け継いできたもので、いまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土です。

 我が国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、既に一六四四年には、「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島等の地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。我が国の松前藩は、十七世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。


 政治家も、アイヌの存在を無視した発言をしている。


中曽根康弘首相「日本は単一民族だから高い教育水準を保つことが出来る(1986年10月)」

伊吹文明文部科学相「日本は大和民族が歴史的に統治してきた(2007年2月25日)」

麻生太郎総務大臣「(日本は)一国家、一文明、一言語、 一文化、一民族。ほかの国を探してもない(2005年10月15日)」

平沼赳夫経済産業相「小さな国土に、一億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。日本が世界に冠たるもの(2001年7月2日)」

鈴木宗男衆議院議員「北海道にはアイヌ民族というのがおりまして、・・・、今はまったく同化されている(2001年7月2日)」

(肩書きは発言当時のもの)

ロシアの博物館展示

 現在、ロシアでは、北方四島の先住民について、博物館等で展示している。ロシアは多民族国家なので、先住民族の評価が日本と全く異なります。



択捉島 クリリスクの博物館展示 択捉島 クリリスクの博物館展示 国後島 ユジノクリリスクの博物館展示


サンクトペテルブルグのロシア民族博物館は、22コレクション2600点のアイヌ資料を収蔵している。この多くは、V.N.ヴァシーリエフが1912年に北海道や樺太で収集したもので、多くは収集地が判明している。

 平成17年これらの収蔵品の一部が札幌(4月22日〜6月19日)、川崎(7月2日〜8月28日)で展示された。左図は、このときの図録です。(クリックすると拡大します。)

 ロシアでは、北海道・樺太・千島の先住民は、日本民族とは異なるアイヌ民族であることが知られています。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Naiyou/Senjuuminn.htm

3. 中川隆[-12826] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:32:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

アイヌ民族は「ロシアの先住民族」 プーチン大統領が認定方針 2018/12/19
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/259605


 【モスクワ小林宏彰】ロシアのプーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した。11日にモスクワで開かれた人権評議会で参加者から提案があり、プーチン氏は「同意する。正しいことだ」と述べた。

 評議会では、人権活動家のアンドレイ・バブシキン氏が「ロシアは多民族国家だが、国が認めていない民族もいる。その一つが極東の島々の最も古い民族であるアイヌ民族だ」と指摘。ロシアの先住民族として認めるよう提案し、プーチン氏は支持を表明した。バブシキン氏は、現在のロシアのアイヌ民族について「カムチャツカ地方に105人しかいない」と説明した。

 ロシアは旧ソ連時代を含め、アイヌ民族の存在を公式には認めてこなかった。一方、日本国内には、日本の先住民族であるアイヌ民族が北方四島に住んでいたことから、四島は歴史的にも日本固有の領土だとする考え方もある。

 プーチン氏がアイヌ民族をロシアの先住民族として認める考えを示した背景には、日本側のこうした主張をけん制する狙いがある可能性もある。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/259605

4. 中川隆[-12825] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:44:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

佐々木史郎「アイヌ文化と北方世界」
開催日:平成24年 10 月 6 日(日)/開催場所:東京国際フォーラムホール
https://www.frpac.or.jp/about/files/H24%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%80%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%8C%B2%EF%BC%88%E6%9D%B1%E4%BA%AC%EF%BC%89%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%8F%B2%E9%83%8E%EF%BC%88%E5%9B%B3%E7%89%88%E7%84%A1%EF%BC%89.pdf

みなさん、こんにちは。国立民族学博物館の佐々木と申します。これから一時間ほど宜しくお願い致します。私の今日のお話は「アイヌ文化と北方世界」とタイトルを付けました。内容的には、アイヌ文化がどの程度北の世界に適応したものであるのか、それから、アイヌの人々が暮らした北の世界にはどういう歴史があったのかということを中心にお話していきたいと思います。私の専門はシベリアあるいは極北地方ですので、私の専門としている地域からみますと、アイヌの人々が暮らしている北海道というのは南の世界になってしまいます。ですから、アイヌの人たちの生活がどこまで北方的だったのかという疑問を抱いて研究してまいりました。そこで、今回のお話は次の三つの点についてお話していきたいと思います。


1)アイヌ民族文化のうち、北方的な要素に焦点を当てて、彼らの文化がどのように寒冷地に適応していったのかを明らかにする。

2)アイヌ民族が暮らしてきた地域と同じ気候帯(亜寒帯)にあり、同様の生態系の中で暮らしてきた周辺民族との交流を明らかにする。

3)近世以降アイヌの地に進出(侵略)した、日本、中国、ロシアの3国の動向をアイヌ民族の視点から見直してみる。


1つめのアイヌの人たちの文化がどういう面で北方的なのか、どういう面で北方的ではないのかということをお話ししたいと思います。アイヌの人たちは、孤立してアイヌの人たちだけで暮らしてきたわけではないし、南にいる日本人とだけ接触していたわけではありません。アイヌの人たちよりも北に住んでいる人たちとも、密接な接触関係を持ってきておりました。さらに、現在アイヌの人たちの大半がこの日本という国に住んでいますけれども、実は面積的には彼らが住んでいた土地の半分近くが、現在ロシア領になっています。そのために日本人と並んで、ロシア人とも頻繁に接触しています。また以前には中国とも関係を持っていました。そのような、我々日本人があまり知らない歴史についても触れていきたいと思います。

まず、アイヌの人たちの本来の居住地、つまり、日本、ロシア、中国などといった国が北海道の周りの土地を国境という線で切り刻んでいく前、具体的にいえば江戸時代より前の時代にアイヌの人たちはどういうところに住んでいたのでしょうか。今の研究では、アイヌ語でアイヌモシリとよばれたアイヌの人たちの住んでいた地域というのは、南は東北地方の一番北の端、つまり津軽・下北半島の先端が含まれます。そして北は、現在のサハリン、昔日本では樺太と呼ばれた大きな島の中ほどまで。西は北海道の渡島半島から東はカムチャツカ半島の先端まで。この範囲にアイヌの人々が暮らしていたというふうに考えられています。いつの時代からこれだけの範囲に住み始めたのかというのははっきりしませんが、少なくとも日本の江戸時代、1603年に徳川家康が征夷大将軍になってから1868年に江戸幕府が崩壊するまでの間、この範囲にアイヌの人々が住んでいたというのは確実視されています。

それで、みなさんすぐ気付かれたと思いますが、北海道アイヌの範囲がエトロフ島まで入っています。ここはいわゆる北方領土ですよね。何かの政治的な判断かと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、歴史的事実としてエトロフ島あるいはウルップ島もちょっと入っていたかもしれませんが、その辺りまでは北海道アイヌの人たちが住んでいたのです。もっと詳しくいえば、彼らは道東アイヌ、つまり北海道の東側、現在の釧路とか根室を中心とした道東のアイヌの人たちと同じグループに属する人たちでした。それに対して、いわゆる千島アイヌと呼ばれます、千島列島にいたアイヌの人々の本当の中心というのははるか北の、シュムシュ島、パラムシル島、オンネコタン島、そしてもう少し南のラショワ島、こういった島々にありました。エトロフ、ウルップというのは、大きい割には人が住みづらい島だったようで、住み着く人は少なく、道東のアイヌと北千島にいたアイヌのちょうど境目といいますか、狩りや漁労をする時の勢力圏の境目にあたっていたようです。それが大体今から200年から前、つまり18世紀末から19世紀初め頃の状況といわれています。1855年の日本とロシアとの間の国境交渉の時にウルップ島と択捉島の間で国境線がひかれますが、その国境線の背景にこういったアイヌの人たちの間の地域集団間の勢力分布が実は裏側にはあったようです(実はすでに18世紀末に幕府がクナシリ、エトロフのアイヌにウルップへの渡航を禁止していたために、このような住み分けが成立したという事情があります)。
ではアイヌモシリの周りにはどういう人たちが住んでいたのでしょうか。100年から150年位前の状況を想定していますが、まず、ツングース語とよばれる日本語に非常に近い言葉を話す人々が多数いました。現在彼らはウイルタ、ウリチ、ナーナイ、オロチ、ウデヘ、ネギダール、エヴェンキなどの諸民族に分類されています。また、樺太の北とアムール川の河口周辺にはニヴフ(旧称ギリヤーク)、カムチャツカ半島にはイテリメン(またはカムチャダール)と呼ばれる、言語系統がよくわからない独自の言葉を話す人々もいました。そして、多数派の民族、例えばロシア人、中国人、朝鮮人、それから日本人等が取り巻いていました。現在はこのような多数派民族の勢力争いの結果、かつてのアイヌモシリとその周辺地域は日本、ロシア、中国、韓国・朝鮮と国境で切られていますけれど、国境が確定する以前はこういった人たちが棲み分けをしたり共存したりしながら暮らしていたのです。つまり、アイヌモシリの北の地域にたくさんの多様な言語や文化をもつ人たちが住んでいた。そしてこの人たちはアイヌの人たちと直接接していましたし、文化的に大きな影響を与えあっていました。
第一点目のお話しに入りたいと思います。アイヌ文化とは本当に北方文化であったのか。北方文化であったということはどういうことかといいますと、北の寒い環境にどの程度適応していたのかということになります。この点に関しまして、二つの大きなポイントからお話したいと思います。一つは、一番寒い厳冬期での寒さへの対応。それは衣服の問題であるとか住居の問題になります。それからもう一点は北方の寒い地域では独特の生態系への適応。北方の生態系には比較的広い範囲で共通した特徴があります。そういった生態系にどこまでアイヌの文化が適応していたのかという点についてお話ししていきたいと思います。


まず、文化的な問題として、衣服の問題を考えていきたいと思います。こちらの会場でも二人の女性がアイヌ衣装の紹介をしていたと思いますけれども、みなさんどういう印象を持たれましたか。私などは「あれ、こんなに薄い布の服で北海道みたいな寒いところで暮らしていけるのかな」と思います。実はアイヌの人たちというのは、この東アジアにおいては糸から布を織りだす最北の民族です。アイヌモシリの周りには数々の民族が住んでいますが、この中で糸から布を織りだして衣服を作る人々というのは実はアイヌが最北です。それより北、例えばニヴフとかウリチと呼ばれる民族、イテリメンとかエヴェンキと呼ばれる民族がおりますが、彼らには布を織る文化、布を織る技術はありません。一方、南隣の日本、韓国・朝鮮、中国には布を織る技術があります。したがって、この点ではアイヌの人たちの文化というのは南方的であるといえます。ただし、使っている布に織る糸は、いわゆる樹皮の裏側の薄皮を細く裂いて作ったものです。これは靱皮(じんぴ)といいますが、この靱皮を割いて細い糸にします。それをつないで作った糸で織ります。そのような布で作られた衣服のことをアイヌ語でアットゥシといいます。それを織るための道具も入口に展示してありますので後でご覧になってください。このアットゥシという服は実はアイヌの人たちだけに愛用されたのではなくて、明治時代まで日本の船乗りや漁師たちにも愛用されていました。なぜかというと、靱皮は脂分を多く含んでいて水を弾くので、水をかぶるような仕事をしている人達にとっては非常に都合の良い防水衣になったからです。しかも織物ですから通気性があります。いわば自然素材のゴアテックスという感じの衣服として使えるのです。ということで、明治時代の初めには、アイヌの人たちが盛んに日本人用にアットゥシの着物を作っていた時代が、ほんの短い期間ではありました。その後、別の素材が開発されてアットゥシは日本人の防水着から廃れてしまうのですが、そうした時代があったくらい優れた性質を持った衣服だったのです。それから他には、草の繊維で作ったテタラペであるとか、日本や中国から輸入した木綿で作られたルウンペ、チカララカラペなどの衣服が着られてきました。

しかし、寒い冬はどうだったのでしょうか。これらの布製の衣服で十分寒さをしのげたのでしょうか。寒い季節にはやはり動物の皮で作られた衣服を着ました。
小さい島での海辺の生活に適応した千島アイヌの人々はアットゥシや木綿衣とともに、鳥の毛皮をつなぎ合わせて作った外套を着ました。素材はエトピリカのような海鳥で、それ海鳥の毛皮は防寒性と防水性に優れていたようです。

樺太に住んでいたアイヌの人たちは陸上の動物の毛皮(犬やアザラシなど)で作られた衣服を多用しました。また樺太アイヌの間では、アムール川流域の人たちの文化の影響なのですけれども、鮭の皮を乾かしてなめして作った衣服もよく使われました。樺太アイヌの人たちが鮭皮の衣服を使っていたことは、200年前にここを探検した間宮林蔵の記録に残されており、間宮林蔵が村上貞助という絵の上手い学者に頼んで描いてもらった絵が残っております(『北夷分界余話』国立公文書館所蔵)。その絵に描かれている子どもが鮭皮の衣服を着ています。また、アットゥシを着る男性が描かれており、ほかにはテタラペと呼ばれる、イラクサという植物の繊維を割いて作った糸をつなげて作った衣服を着た女性が描かれた絵もあります。

テタラペというのは「白い着物」という意味で「白くて美しいもの」と思われていたのですね。それから青い服も描かれています。これはおそらく中国から輸入された青色木綿で作られた服でしょう。アイヌの人たちの衣文化は実はこのように非常に多彩だったのです。樺太では厳冬期になると犬の毛皮で作られた外套を着ます。樺太は北海道よりもさらに冬が厳しいので。犬の毛皮の外套というのはアイヌの文化というより北樺太に住んでいたニヴフの文化なのですが、その文化を借用して厳しい樺太の冬をやり過ごしていたと考えられます。それから寒い季節には足元の防寒が大事になりますが、樺太アイヌはアザラシの毛皮を胴に使い、おそらく下の方は鮭の皮か鹿の皮を縫い合わせて作った長靴を履いていました。ちなみに、北方の民族は大体そうなのですが、乾燥させた草や苔をよく揉んで長靴の中に詰めて、靴下を着けずに裸足のまま履いていました。それで十分寒さをしのげたのです。
アイヌの人たちの衣服には特徴が三点あります。一つが「一部形式」といいまして、ワンピース状の衣服です。男性の衣服も日本の着物と同じ、つまり、上衣とズボンに分かれていません。こういった点は日本の伝統的な衣服と似ております。北の世界に入りますと「二部形式」といいまして、ズボンと上衣が分かれる傾向が強くなります。一部形式は寒さ暑さ双方に対応できる。つまり、冬の寒さだけでなく、夏の暑さを凌ぐためにも一部形式は使えるわけですけれども、アイヌの人たちの世界もおそらく夏は結構気温が上がっていたと考えられるので、それにも対応できるよう一部形式になっているのです。第二点は「もじり袖」です。これは袖が三角形になっていて袖口のところが、キューっとしまっていて、ある程度防寒性が高まります。日本の和服の場合には「袂」といって四角く開いていまして、通気性を良くしておりますが、アイヌの人たちの着物はここを絞って防寒性を高めています。第三点は「前開き」です。つまり、魚皮の着物も前が開いていますし、博物館に展示されているアットゥシやテタラペも前が開いています。当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、本当に寒いところ、例えば、イヌイットやエスキモーが住んでいるような極北地域あるいはシベリアでも北極海に面しているような地域の人たちは「かぶり式」の外套を身に付けます。なぜかというと、彼らは寒風吹きすさぶブリザードの中をトナカイソリや犬ゾリで何時間もじっとしていなければなりません。そういう人たちにとっては前が開いていたら風が入って寒くてしょうがない。そのために風が入らないようにかぶる形式の外套を着ます。しかし、アイヌの人たちの間にはそういった外套はありません。厳冬期であっても獲物を追って山の中を走ると暑くなります。私にも経験がありますが、ダウンコートを着て山の中を走っていると暑くなって脱ぎたくなります。そういう時に前を開くことで体の熱を開放できる。そしてさっと閉めて体が冷えすぎないようにする。そういう体の熱の放出と遮断を手軽にできるようにするために前開きの方が有利なのです。ということで、アイヌの服というのは前開きなのですね。実はシベリアの中でも本当に寒い、北海道よりももっともっと寒い地域の猟師たちも前開きのコートを着ています。やはり狩りで活動的になる人たちはどうしても、熱をある程度放散する対策が大事になってくるのです。なぜかというと、中で汗をかいてしまうと活動を終えて冷えてきた時に汗が凍って体温を奪われて凍死する恐れがあるからです。ですから、本当に寒い所に行ったらなるべく汗をかかないというのが鉄則なのです。それをきちんと守るためにこういった衣服が必要になるのです。

それからこれは付け足しですが、絵にでてくる男性は裸足で、衣服をいわゆる左前で着用する姿、すなわち左衽(着用者に向かって左側が前になるように襟を合わせる着用の仕方、逆に右側が前になるように襟を合わせる着方を右衽という)で描かれています。その典型的な例は『夷酋列像』といいまして、松前藩の家老で絵師でもあった蠣崎波響が、クナシリ・メナシ戦いがあった翌年の寛政2年(1790年)に描いたアイヌの有力者たちの絵にあります。たとえば、そこに描かれているマウタラケ(麻烏太蠟潔)という人物はウリヤスベツというコタンの「総部酋長」と書かれていますからとても偉い人なのですが、裸足のうえに蝦夷錦の服を左衽で着用するように描かれています。このような描き方は『夷酋列像』に描かれた12人全員に共通です。左衽という着方は中国や東アジアでは死人この世の人ではない者、あるいは野蛮人のものとされています。アイヌの服は、魚皮衣、アットゥシ、テタラペともに左右対称ですから左衽でも右衽でも着用することはできます。しかし、ではなぜあえてこういう描き方をするのでしょうか。これをもってアイヌが左衽だったという人もおりますが、それは一般化することはできません。なぜならば、蝦夷錦の服は左衽で着用することができないように作られているからです。それは本来中国の官僚たちが着る制服でして、中国ではご存じのとおり必ず右衽になるように、つまり、左側の襟が前に出るようなスタイルで作られます。しかも、この蝦夷錦の服はモンゴル、満洲に共通のスタイルでして、着用者から見て右側の半身が短く、左側の半身で前を覆うように作られています。このようなスタイルの服を左衽で着ることは絶対に不可能なのです。それにもかかわらずあえてこういうふうに着せて描かせている。これには作為があると見なければなりません。ですからアイヌの服が写真や絵では左衽で描かれているものが多いのですが、実際にそう着ている人もいたのかもしれませんが、そのほとんどは「野蛮人」あるいは「異界の人」であることを示すための当時の絵画上の技法と考える方がよいと思います。写真の場合には左衽かと思ってよく見てみると裏焼きだったということもあります。絵画や写真であっても色々と手を加えることができますので、十分注意する必要があります。おそらくアイヌの人たちもこんな着方はしていなかったでしょう。

ちょっと衣服の話が長くなりましたけれども、アイヌの人たちにも防寒着があり、毛皮で作った靴やアザラシの毛皮で作った靴、防水着として魚皮の上衣がありましたけれども、アイヌ衣装の基本は繊維製品です。繊維製品といっても、靱皮の糸で作られたアットゥシやテタラペは防水性と通気性を兼ね備えた優れものでした。
次は同じ防寒性として家の話の方に移ります。アイヌの家は、間宮林蔵と村上貞助が編集した蝦夷生計図説に描かれているのが典型的なものです。現在、博物館で復元されている家はほとんどこのタイプになると思います。これは茅葺の住居で屋根や壁を茅で葺いたものです。

この姿で復元されているものが多いのですが、この蝦夷生計図説を見て驚いたのは、葦を使った家、クマザサで葺いた家、白樺の樹皮で葺いた家などがあることです。それぞれに特徴がありますが、これは地方による違いだともいわれています。このクマザサや白樺の樹皮で雨風を防げるのか。あるいは寒いのではないかと思われるのかもしれませんが、これらは非常に優れた素材で、クマザサも一本や二本飾っているわけではなくぎっしり束にして壁に埋め込んでいきます。ぎっちり縛って隙間なくつめていきますので、実際にとても断熱性の高い優れた壁材です。クマザサ葺きの家は旭川の「川村カ子ト記念館」に一軒建っています。それから樹皮葺きの住居。この家は現在見ることはできませんが、この白樺の樹皮も非常に優れた防水性、防寒性をもった素材で、白樺の樹皮はボートが作れるくらい防水性の高いものです。主に道東地方に多かったようですが、どういう場面で作られたのかについて林蔵は書いていないので、地域差によるものなのか住む場所や場面に応じて作られたのかは分りません。

そして、アイヌの家にはその骨組に大きな特徴があります。それは主に棟の支え方です。アイヌの家の棟は柱で支えているのではなく三脚構造で支えられています。日本の、特に神社建築に多いのは棟持柱のある住居です。今はこの棟持柱の代わりに束(つか)といいまして、梁の上に柱を一本乗せるように作ってしまうので、この棟持柱を床から立てるということはまずないのですが、日本の古代、古墳時代であるとか弥生時代にはこういった住居が登場しますし、これは日本だけではなく東南アジアからアムール川流域まで、非常に広い範囲で広がっています。それに対してアイヌの家は根本的に棟の構造が違う。だからこういうところは日本とは違います。実はこの三脚構造というのは北方的だといわれています。なぜかというと、北の狩猟民たち、エヴェンキであるとかエヴェンといった北の狩猟民たちは円錐形のテントで暮らします。円錐形のテントというのは文字通り柱を円錐形にぐるっと立て並べて、毛皮とか白樺の樹皮で覆ったような、本当に円錐形をしたテントですが、その骨組の基本が三脚構造です。すなわち、まず三脚を立て、その頂点に寄りかかるように、柱を立て並べていくのです。

この三脚構造を使って棟を支える、その棟によって屋根全体を支える構造は、もしかすると北方の影響ではないかといわれています。国立民族学博物館には、明治時代に作られたアイヌの家の模型が保管されています。この屋根をよく見ますと三脚構造が浮かび上がってきます。ちゃんと二つの三脚によって棟を支えているのです。この三脚で棟を支えることによって、その下にドームと同じで比較的大きな空間を、柱を立てずに確保することができます。棟持柱になってしまうと部屋のど真ん中に柱が立ってしまうのですが、三脚構造にするとそれを避けることができるので、なるべく広い空間を確保することができます。ではアイヌのこういった人たちの住居がどれだけ寒さに耐えられたのでしょうか。私は本当に寒い地域で−50°まで経験しましたが、さすがに真冬に−50°になるような地域では、こういった茅や笹で葺いたような住居はありません。そういったところにいくと固定家屋は必ず丸太小屋になっています。あるいは、基礎の周囲に土を盛ったり、壁に土を塗ったりして、土壁にしています。

やはり、木や土の断熱性能を使わないと−50°の寒さはしのげないようです。あるいはテントに住んでいる人達、円錐テントに住んでいる人達も冬になると白樺の樹皮ではなく分厚いトナカイの毛皮を巻きます。ですから、そういった面から考えるとアイヌの家というのは極寒に耐えられる構造ではなさそうです。ですが日本の冬を考えてみても、東北地方などでは雪囲いと称して藁や茅で壁を作り、雪を防ぎます。それを家全体にやっていると考えれば良いわけで、かなりの断熱効果はあったのではないかと考えられます。ですから、北海道の寒さであればこれで十分暮らしていける。じゃあそれより寒かった樺太はどうかといいますと、樺太は寒さをしのぐために比較的新しい時代まで竪穴住居を使っています。風が強く圧倒的に寒い、天候が悪い千島列島や樺太では竪穴住居を作って寒さをしのぎました。ですから、アイヌの住居はほどほどの寒さには十分対応できますが、シベリアの奥地のような極寒の地域では対応できなくなるくらいの耐寒性を持った住居だったといえるのではないかと思います。

それから、北方適応の三点目として、北の生態系にどの程度対応していたのかについて触れておきます。日本は春夏秋冬が非常にはっきりした気候条件だといわれています。東京などは温帯の中でも比較的暖かい暖温帯にあるといわれております。植生的には照葉樹林(ツバキ、お茶、シイなど葉の表面がてかてかした樹木が典型的)が卓越しています。ただし、ナラの木、クリの木など秋に葉が落ちてしまう樹木を落葉広葉樹といいますが、東京は落葉広葉樹と照葉樹の両方混ざった境界地域になるのではないかと思います。これが大阪や京都へ行きますと落葉樹が少なくなる。ドングリの木(ナラ)などもないことはないのですが、少なくなって逆に照葉樹が増えてきます。照葉樹林というのは年中青くて落葉せず、葉が常に茂っているので暗いです。対して落葉広葉樹というのは冬になると葉が落ちますから森が明るくなります。そういった大きな違いが、東の森と西の森にはあります。北海道はどうかといいますと、北海道の南半分、南西側は、東北地方からの続きで落葉広葉樹と針葉樹の混合といわれる林層になります。そして東北側は逆にシベリアに近く、針葉樹を中心としたタイガに近い森になっていきます。北海道やそれより北の地域、すなわちアイヌの人たちが住んでいる地域も春夏秋冬がはっきりしています。はっきりしているけれども全体的に気温が低い地域です。

春夏秋冬がはっきりしているということは、得られる食料資源に季節性が表れるということになります。ある資源が特定の季節にたくさん捕れるのですが他の季節になるとぱたっと捕れなくなる。例えば、アイヌの人たちの食料資源の基本だったサケやマスですね。特に秋鮭というのは遡上期間が8月の終わりから10月が最盛期です。その季節を外してしまうと、例えば冬の2月から5月あたりの季節になると、まったく捕れなくなる。こうした季節性のはっきりとした資源が食料資源の基本となっているわけです。これは北海道に限った話ではありません。実はシベリアから北アメリカまで、同じような亜寒帯、冷温帯地域の森林層を持った地域にはすべてに共通する生態系なのです。そういう中でアイヌの人たちは暮らしてきた。アイヌの人たちもしっかり捕れるものは捕れるだけ捕って、後はそれを保存食にして一年間食べつないでいくという食生活だったわけです。

ですから、アイヌの人たちの間では鮭を保存するための技術が発達しています。基本的には乾燥です。「鮭とば」ですね。水気をとばして腐らなくなるので乾燥させます。ただし、乾燥させただけで日持ちはしますけれども、さらに風味を良くするために囲炉裏の上に吊るして燻製にする。そうするとさらに美味しくなるし、日持ちがさらに延びる。そういったサケ類をいっぱい作って家の倉庫に保管して一年間食べつないだのです。こういった生活はシベリアから北アメリカまで共通にみられる、北の世界の人たちの生活です。それから肉類もそうです。シカは年中ある程度獲れるのですけれども獲りやすい期間があります。それは交尾期、発情期で、なぜなら雄は雌を追いかけて夢中になっていますから、他に注意が払えなくなってしまうのです。そういう雄を狙うわけです。シカ笛には色々なパターンがありますが、私が調査したのは大陸にいるアカシカというエゾジカよりもひとまわり大きなシカの例です。アカシカの場合は雄の鳴き声を出す笛を使います。白樺の樹皮を帯状に切って、くるくると丸め、中の方から引っ張り出してラッパ状の筒にして、形が崩れないように外側を留めます。音を鳴らすには細くなった部分を口の端に当てて、息を吸いながら唇を鳴らします。ラッパと同じ原理ですが、息を吸って唇をふるわす点が異なります。ちょうど発情した雄の鳴き声に近い音になります。猟師がこのシカ笛で雄の鳴き声をたてると、ライバルが現れたと思って本当の雄ジカが猟師の方に近づいてくるので、そこを仕留めるのです。そうやって獲るので発情期の今頃がシカ猟の真っ盛りになります。今頃(10月)私の友人のロシアの猟師たちはアカシカを探して森の中を走り回っているはずです。アイヌの世界でもおそらくそういった猟が行われて、シカ笛なども発達しています。ただ、アイヌの人々のシカ笛は、雌の鳴き声をまねて雄をおびき出すように使われたようです。

こうした具合なのでシカ肉のシーズンも限られています。それからクマですが、年中獲れないこともないのですが冬から春にかけての冬眠中に獲るのが一番良いのです。というのは冬眠中のクマは餌を食べていないので、肉に臭みがなくて美味しいのです。さらに、春先に穴から出てきたばかりの熊というのは胆嚢に胆汁が溜まっています。大きなクマの胆が手に入るということで、本当は春先に獲れる熊が一番良いのです。つまり、クマ猟にも季節性があるのです。こういった季節性のあるものを頻繁に使うわけですから、狩猟採集も年中獲物を求めて追いかけ回すのではなく、季節にあわせた獲物を追いかけていくのです。そういった、いつ、どこで何が獲れるかということは、知識がないとできませんから、アイヌの人たちを始め北方の人たちは動物、植物に関しては、動物学者や植物学者よりもはるかに詳しい知識を持っていたのです。そういったことも、アイヌの人たちが北の世界に適応している証拠になるわけです。ですからアイヌ文化に自然を学べということはよくいわれますけれども、そうした伝統をアイヌの人たちが積み上げてきたという背景があるからこその話なのですね。

それからもう一点、北方的なのは農業です。「アイヌって狩猟民族じゃないの」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、実は農耕をやっていたのです。その証拠に間宮林蔵と村上禎助が編集した『蝦夷生計図説』という本には、狩猟や漁労の話がなくて農耕の巻があるのです。

何を作ったのかといいますと、粟や稷といった雑穀やカブなどの野菜類です。収穫風景の絵がありますが、日本のように根本を刈るのではなくて、弥生時代さながらに穂刈りです。貝で作った鎌で穂を刈っていくやり方で粟や稷を収穫していたのです。その伝統は決して新しいものではなく、今から1500年ほど前から始まる擦文時代からの伝統として農耕がありました。ですから、アイヌ文化を現代のイメージだけでとらえてはいけません。どういうところが北に適応しているのか、どういうところが北に適応していないのか丹念に見ていきますと、今まで見落とされていた文化が見えてきますので、今後みなさんアイヌ文化に興味を持たれたら、細かいところまでよく観察してみてください。そうすると、思わぬところに新しい発見が出てくるのではないかと思います。

あと、北方的といわれる要素の中で言及しておかなければならないのが世界観です。アイヌの世界観を説明するとそれだけで何時間もかかってしまうので、詳しい説明はちょっとできませんけれども、一点だけ強調しておきますとクマに対する崇拝が特徴だといわれております。いわゆる「イオマンテ」とよばれるクマ送り儀礼です。これがアイヌの人たちのアイヌたる、アイヌ文化をアイヌ文化にしている一番重要な儀礼だといわれています。20世紀初めに樺太や北海道でアイヌの調査を行ったポーランドの民族学者B・ピウスツキという人が撮影した樺太アイヌのクマ送りの写真と昭和の初めに木下清三という写真家が撮影した白老でのクマ送りの写真があります。両者とも今日では見ることが難しくなった(樺太アイヌのものは見ることが不可能になった)貴重な儀式の写真です。樺太アイヌの場合は、巨大なイナウを立てるのが特徴的です。なんだか諏訪の御柱のようなとてつもない高さです。クマ送り儀礼が北方的だというのはどうしてかといいますと、こちらもシベリアから北アメリカまでの、いわゆる亜寒帯針葉樹林帯に広く帯状に分布しているからです。この地域の人々は、クマを崇拝しクマを獲ってその肉を食べる時には、それを森の特別な人や森の精霊と考え、敬いながらその肉をいただいて、そしてその魂には人間からのお土産(クマ以外の肉や魚、衣服、アイヌの場合にはイナウ)をたくさん持たせてあの世に帰ってもらう。そして、あの世に帰ったらまたそこからクマの服を着て人間世界にやってきて、肉を人間たちにプレゼントしてくださいと願う。この儀礼は実に北半球の北方の亜寒帯針葉樹林帯に広く分布しています。アイヌ文化はその中の一つになるわけです。

ただ、このクマ送り儀礼がアイヌ精神文化の中心を成しているといわれていますけれども、それがアイヌ文化の一部になった時代、アイヌ文化に入った時代というのは、それほど古くはないと推測されます。考古学的にはクマを崇拝する習慣はオホーツク文化にあったといわれています。オホーツク文化というのは、今から1500年ぐらい前、日本でいうと古墳時代の頃、ちょうど北海道の縄文文化が古墳文化の影響を受けて擦文文化へと変わっていく時期に北の樺太の方から南下して道北からオホーツク海沿岸、そして千島列島まで広がった文化だといわれています。担っていたのも縄文人とは形質的、遺伝的に違う人たちでした。

その人たちが熊を崇拝する習慣を持っていた。彼らの竪穴住居には、ある一定の場所から大量のクマの頭骨が出てくるのです。それは、今のアイヌの人たちがクマ送り儀礼が終わった後、頭骨を特別な場所に安置するのと同じようなものではないかといわれています。対して同じ時代にあった擦文文化には(擦文文化の遺跡、住居跡もたくさんあるのですが)その住居跡からはクマの骨は一切出てこない。クマ送り儀礼をやった跡が見つからないのです。それどころか、オホーツク文化の遺跡(礼文島の事例)から出土したクマの骨のDNA分析から、擦文文化人がオホーツク文化人にクマを提供していたのではないかと思われるような結果が、わずかではありますが、出ているのだそうです。おそらく前者が後者に、儀礼用にクマを売るなりプレゼントするなりしたのではないかと想像されています。アイヌ文化に直接つながって行くのは擦文文化の方です。アイヌ文化が成立する以前に、擦文文化がオホーツク文化を吸収していくのですけれども、その過程でクマ崇拝とクマ送り儀礼を取り込み、それからアイヌ文化に変貌していったのではないかという流れが、有力な仮説になりつつあります。オホーツク文化にはシャチのような大型海獣に対する崇拝などの習俗もあり、それもアイヌ文化に取り込まれています。したがって、オホーツク文化がアイヌ文化の形成に非常に大きな役割を果たしたということはいえるでしょう。このオホーツク文化と擦文文化の融合からアイヌ文化が生まれたという話から発展しまして、さらに近隣諸民族との関係、その近隣諸民族を超えて国家がどのようにこの北方世界に関わってきて、アイヌの人たちとどういう関係を結んだのかという話を最後にしたいと思います。

アイヌの周りにはたくさんの民族がひしめいていました。といっても実は人口密度が一平方キロメートル当たり0.1人以下の世界ですから、そんなにぎっしり人がひしめいていたわけではありません。ただ、多様な文化を持つ人々がアイヌの人々をとりまいていたということは事実です。実はアイヌの人たちと周辺民族との関係は、決して平和な関係だったわけではありません。それをちょっと紹介しますと、まず、擦文人とオホーツク文化人。先ほどいいましたように、アイヌ文化が成立する時にオホーツク文化を柱の一つに据えているという話をしましたけれども、この擦文文化人とオホーツク文化人との関係もいろいろ微妙なことがいわれています。結果からいいますと、結局オホーツク文化は擦文文化に吸収されてしまいます。時代的には9世紀から10世紀には、オホーツク文化は擦文文化に吸収されてしまったといわれています。その後、各地にオホーツク文化と擦文文化が融合した文化が生まれています。例えば、今の釧路、根室を中心とした地域にはトビニタイ文化という両方を折衷したような土器が出てきたりもしています。そうした融合文化もあるのですが、大勢としては、オホーツク文化は擦文文化に吸収されてしまうとされています。そこからどういう過程を経てアイヌ文化に至ったのか。
明らかにアイヌ文化であることがわかるような遺跡は、現在発見されているものでは15世紀くらいのものが最も古いようです。そして擦文文化の最も新しい時代の遺跡は12世紀ぐらいに相当します。そして、その間の時代の遺跡がなかなか見つからない。

12世紀から14世紀、日本でいうと平安末期から鎌倉時代、平清盛や源頼朝が活躍し、武家の世となり、鎌倉に幕府が成立し、その一方でモンゴルが西から攻め寄せてくる。そのような時代が、北海道以北では、考古学や歴史学の分野の空白時代となっています。しかし、その間が擦文文化からアイヌ文化へ移っていく一番大事な時代なのですから、まさに隔靴掻痒という感じです。

考古学的にこの時代が空白になってしまう最大の理由は、土器の製作が衰退することと、住居が竪穴住居から平地式住居(掘立柱住居)に変わることにあるようです。土器片は遺跡を見つけるときの一つの目印ですから、それが減ると、遺跡は見つけにくくなります。また、平地式住居は竪穴住居のように明確な痕跡を残しません。土器の衰退は鉄鍋の普及、鉄製の刃物の普及に伴う木器の普及、本州産、中国朝鮮産の陶磁器の普及などが関係しているようです。住居形式の変化も本州や大陸から影響による生活スタイルの変化を示しているのでしょう。この12世紀から14世紀という考古学上の空白時代は、北海道以北の地域、すなわち樺太、アムール川流域でも共通しているようです。ただし、現在ロシア領となっているこれらの地域の場合には、単に研究者に知識と関心がなく、出土している遺物や遺跡を見逃しているだけなのかもしれませんが。

この謎の時代の後半、すなわち13世紀の後半に中国の文献にアイヌと思しき人たちの姿が登場してきます。それが、クギとギレミという人たちの話なのです。この時代になると、東洋史学や考古学の研究で、骨嵬と書いてクギと呼ばれる人たちと、吉烈迷と書いてギレミと呼ばれる人が文献に登場し始めます。クギというのは、樺太の北に住んでいたニヴフがアイヌを指していう呼び名だといわれています。ですから、この骨嵬と書かれた人たちはアイヌの祖先を指すのだろうといわれています。それからこの吉烈迷というのは、ツングース系の人たちがニヴフに対して付けた名称だといわれています。ですから、この吉烈迷というのは今のニヴフの祖先だといわれています。このアイヌの祖先とニヴフの祖先が、樺太を舞台にして紛争を起こました。そして劣勢に立たされた吉烈迷が、当時中国を支配していたモンゴル(元王朝、元寇を起こした王朝です)に救いを求めたのです。それで元軍が松花江からアムール川を下って樺太まで渡り、南から押し寄せてきたアイヌの祖先たちを打ち破ったという記録が「元史」という元王朝の正史(次の明時代に編集)に出てきます。最初の紛争が1264年で、それから1300年代初頭まで軍を派遣した記録が散発的に残っています。元寇の文永の役が1274年、弘安の役が1281年ですから、ちょうど同じ時期にモンゴル軍は樺太でアイヌの祖先たちと干戈を交えていたわけです。元寇の時代に日蓮宗を作った日蓮上人が、北から蒙古(モンゴル)が来るぞということを著作で書いて警告しています。その解釈をめぐっては、歴史学者の間で論争があるのですけれども、北からの元寇というほど大げさなものではないだろうとはいわれています。どうやって日蓮上人が樺太におけるアイヌの祖先と元軍との直接接触に関する情報を得たのか謎は多いのですが、彼は当時の蝦夷地(北海道から東北北部の地域)についての情報をかなり持っていて、北からモンゴルが来ているということを知っていたようなのです。そして彼のいう北からの蒙古襲来というのが、実はアイヌの祖先とモンゴルの間の接触だったわけです。

これが尾を引いているのかどうか分かりませんが、江戸時代の文献によると、アイヌとニヴフ(江戸時代にはスメレンクルやニクブンと呼ばれていました)は仲が悪いということになっています。間宮林蔵が樺太を探検した時、彼はアイヌを先導役にするのですが、その先導役にされたアイヌの人たちが北に行くのをものすごく嫌がるのです。なぜかというと、北にはスメレンクルとか何とかという野蛮な連中がいて、「俺たちが行くと殺される」といって非常に怖がるのです。それを間宮林蔵が「俺がいるから大丈夫だ」とかいってなだめすかして行って、結果的には先導役のアイヌの人たちはみんな無事に帰ってはくるのですが、そんなに樺太の南にいたアイヌの人たちが北にいる住民を嫌がったという歴史があります。考古学者はこれをさらに敷衍しまして、実は骨嵬と吉烈迷の紛争は、擦文人がオホーツク文化を吸収して成立したアイヌの人たちが、その吸収した力を使って北へ進出していったための紛争ではないか、あるいは、擦文人対オホーツク人の対立が樺太にまで持ち越されたのが、この吉烈迷と骨嵬の対立だったのではないかというふうにいう人もいます。そこまでいえるかどうかはわかりませんけれども、13世紀、日本の鎌倉時代にアイヌの人たちが一定のパワーを持って自分たちの居住域を北に広げていったというのは事実だったようです。このアイヌの祖先とモンゴル軍との接触の顛末はどうなったかといいますと、結局アイヌの祖先はモンゴル軍の圧倒的な武力の前に一応恭順の意を示します。初めから戦争というような大げさなものではなかったという話もあるのですけれども、一応恭順の意を示して、元の支配下に入って、毎年毛皮を貢納しますということをいって収まるのです。それが1302年ですから、14世紀の初め、それ以降、このアイヌの祖先たちの話は元史から消えてしまいます。消えたということは平和になって、いつもどおりの話になってしまったので、あえて記録に登場させる必要がなくなったということなのです。おそらく従ったのは樺太に住みついたアイヌだけで、北海道のアイヌが含まれていたかどうかというのは分かりませんが、アイヌの一部が一時期モンゴルの支配下に伏したというのは事実です。

しかし、アイヌの人たちと大陸の人たち、北方の人たちというのは微妙な関係にありました。たとえば、アイヌの人たちと婚姻関係を結ぶような密接なつながりを持った民族というのがほとんどないのです。「サンタン」(山丹、山旦、山靼などとも記される)と呼ばれた人々がいます。現在のウリチと呼ばれる人々の祖先で、ツングース系の民族なのですが、このサンタン人との間にはアイヌ女性との結婚話というのがたくさんあります。それからウリチの中には「実は我々は樺太アイヌだった」という人たちが数多くいます。ですから、サンタンとアイヌとは一定の緊密な関係があったといわれています。ですが、それがいつも友好的であったかというと微妙です。江戸時代の文献には「サンタン人の横暴」という有名な話がしばしば見られます。サンタン人たちは江戸時代、サンタン交易といわれるアムール川と樺太から北海道をつなぐ交易路の中で主導権を握っていました。そのような状況の下で、彼らは樺太アイヌを借金で縛りつけて、傍若無人な振る舞いをしていたという話が最上徳内や松田伝十郎や間宮林蔵など当時の樺太探検者たちの著作の中に出てきます。

それに対して江戸幕府はアイヌの人たちに代わって借金をサンタン人に払って、彼らを借金から解放して、サンタン交易を幕府の公認交易にしてしまうのです。一応日本側の記録はアイヌの人たちを借金から解放したということになっているのですが、実はちょっといじわるな見方をすれば、アイヌの人たちは今まで続けてきた自分たちの独自の交易網から弾き飛ばされてしまったということにもなります。つまり、幕府がやってきて「サンタン人との交易は政府が直接やるからお前らは引っ込んでいろ」といわれて交易からのけものにされてしまったといえなくもないのです。そういう感じで、サンタンとアイヌとの間にはある程度の友好関係と緊張関係がありました。しかし、婚姻関係まであるのはこの人たちだけで、あとその周りの人たち、とくにニヴフの祖先、それから江戸時代にオロツコといわれた今のウイルタと呼ばれる、トナカイ飼育民の祖先とは戦争までしていまして、江戸時代の文献には「婚姻関係はない」とはっきり書かれています。ですから、かなり対立した関係になっていたようです。ただ江戸時代頃になると、こういった世界をロシアや日本や中国といった国がどんどん侵略していくようになります。江戸幕府や松前藩の「蝦夷地支配」はその支配体制が商場知行制から場所請負制に変わって、結果的にアイヌの人たちを不当に搾取していくようになります。明治政府はアイヌの人たちを商人の搾取から解放しますが、同時に、北海道と命名した土地を日本の植民地、つまり開拓地と定めて、農耕できる土地に日本人を植民させて、アイヌの人たちから土地を奪っていきます。そして文化を同化していくという政策がとられていきます。ただ、目を外に向けてみると、この時代には日本以外の国(つまりロシア)もアイヌモシリを植民地化しようとしていたとしていたことは事実です。

アイヌモシリ(アイヌの土地)と国家との関係に話を移しますと、このアイヌモシリの一部、特に樺太にまず領土権を主張したのは中国でした。中国というと現在の中華人民共和国と誤解する恐れがあるので、より正確を期せば、モンゴル人が作った元王朝が樺太のニヴフの祖先、アイヌの祖先を支配下に入れることで、樺太の領有権を得ます。領有といっても、現代的な意味の領有とは異なります。当時の中華王朝にとっては支配下にある住民が住んでいる土地がその勢力下にある領土となるので、現在の近代国家の領土とは一緒にしないでください(その住民が別の国に従えば、一瞬にしてその土地は失われてしまいます。無人の土地はそこに被支配民を入植させてはじめて領土とすることができます)。アイヌを含む樺太の住民に対する支配は、その後漢民族が作った明王朝、満洲人が作った清王朝に受け継がれていきます。しかしそれでも、樺太の南端までは支配が及んでいませんでした。そのために清の時代、中国の人々は樺太と北海道が狭い海峡を挟んで向かい合っているという事実を知らなかったのです。

元王朝と明王朝が樺太を支配する時に役所を置いたのがヌルガンというところで、明の時代にはそこに永寧寺というお寺が建立されました。そのことを記した石碑があります。樺太の住民に対して一番長期的で徹底した支配を行ったのは清王朝で、こちらは間宮林蔵がデレンというところに置かれた清王朝の出先機関を絵に残しています。しかし、清の支配も19世紀初頭には陰りを見せ、その隙を突いて江戸幕府がその支配圏を北上させ、19世紀半ばまでに樺太アイヌのほぼすべてを支配下に収めます。1858年には人口調査(人別)を行い、人口も割り出されています。

その後は1849年からこの地域に勢力を伸ばしてきたロシア(ロシアは17世紀に一度アムール川流域に進出したが、清王朝に敗れて排除されてしまった)と日本との間で国境交渉が行われます。その結果、住んでいるアイヌの人たちの意向を全く無視した状態でアイヌモシリが切り刻まれました。当初はエトロフ島とウルップ島の間に設けられた道東アイヌと千島アイヌの境界に沿って日ロの境界が設けられましたが(1855年の日魯通交条約)、1875年の樺太千島交換条約(サンクト・ペテルブルク条約)では宗谷海峡と千島海峡(カムチャツカ半島とシュムシュ島の間の海峡)に国境がひかれ、日本文化に親しんでいた樺太アイヌがロシア側に取り込まれました。そして逆にロシア文化に同化されつつあった千島アイヌが日本の支配下に入れられ、シコタン島に移住させられてしまいました。そして1905年に一度樺太アイヌの居住地も日本領に編入されましたが、第2世界大戦で日本が敗戦となった結果、樺太南部だけでなく、クナシリ島までの千島列島からシコタン島、ハボマイ諸島までソ連軍に占領され、そのままソ連、ロシアの実効支配が続いています。そして、ソ連に占領された土地からアイヌの人々の大半が脱出ないし追放されてしまいました。

この状況をアイヌモシリという観点に立ってみれば、江戸時代までのアイヌモシリのうち北海道以外の部分が事実上ロシア領になり、そこからアイヌの人々が消えてしまったことになります。つまり、近代国家である日本とロシアがアイヌモシリを舞台に争っている間に北海道以外からアイヌの人たちが消えてしまった。しかも、本来の住民であるアイヌの人々の意向とはまったく関係なく国境や占領地が定められ、本来の住民がその土地を離れざるをえなくなってしまったのです。

これは非常に大きな、深刻な問題ではないかと思います。では消えてしまったアイヌの人はどこへ行ったのか。実は樺太にいたアイヌの人たちと北方四島にいたアイヌの人たちは、ほとんどが北海道に移住しました。そしてその子孫の方々も北海道にいます。千島列島、とくに北千島のアイヌの人たちは、前述のように樺太千島交換条約の後にシコタン島に強制移住させられ、そこで環境不適応をおこして多くの方が命を落とし、独自の文化を持つ文化集団(アイヌの下位集団)としては事実上消滅してしまいます。しかし、その血を引く方々は戦後シコタン島から北海道に移住し、道東方面を中心に暮らしているようです。

ここまでアイヌ文化がどこまで北方世界に適応しているかを中心にお話してきましたが、彼らは北方世界の自然環境には見事に適応しました。

さらに江戸幕府や清王朝、あるいはロマノフ王朝のような前近代的な国家との関係においても見事に適応し、自分たち独自の文化を守り、育ててきました。彼らは前近代国家の支配に甘んじるだけではなく、国家にとって必要不可欠な物資を供給することで、逆にその支配体制に影響さえ及ぼしたのです。歴史研究や歴史小説などでは、江戸時代のアイヌの人々は一方的に収奪される惨めな人々と描かれることがしばしばありますが、それはアイヌの歴史の一面に過ぎません。衣服のところでも触れたように、オヒョウの樹皮の繊維で作られたアットゥシは、その撥水性と通気性がかわれて和人の船乗りや漁師の上着として重宝され、幕末明治期には手仕事でしたが、大量に生産され、本州以南にさかんに販売された時代がありました。アイヌの猟師が北海度や樺太で捕獲したクロテンやギンギツネなどの毛皮は、樺太アイヌやサンタン商人の手で中国に運ばれ、北京の宮廷文化を彩りました。千島でもアイヌたちが捕るラッコの毛皮が帝政ロシアの経済を支えた時代があったのです。アイヌ社会は決して悪徳商人たちの搾取のために崩壊の一途をたどったわけではなく、厳しい状況の中でもそれなりに適応しようとしたのです。

確かに近代国家との関係においては、強力な文化同化政策によって言語は消滅寸前に追い込まれ、狩猟や漁撈、雑穀栽培といった生産活動も自由にできなくなり、非常に厳しい状況におかれるようになったのは事実です。しかし、だからといってアイヌの伝統文化が消滅し、大正時代以後の調査研究は「落ち穂拾い」状況だったという認識は間違っていると思います。21世紀の今日、アイヌの人々の中には生活面で苦しい状況にある人々もいますが、それでも現代の自然環境と社会、経済的な環境に順応しつつ、祖先たちから受け継いできた文化を継承し、発展させています。ただ、今日の社会において、アイヌ文化の継承、発展の問題をアイヌの人々だけのものとして、それ以外の人々が無関心でいるという状況はよくありません。近代以後のアイヌ文化の状況は、実は日本文化の状況と共通する部分もあるのです。自分たちの日常生活を見回してください。「日本文化」なるもの、例えば自分たちの祖父や祖母の世代まで受け継がれてきたものを、私たちはどの程度きちんと保持しているでしょうか。明治以後の近代化の中で、日本文化もその多くが失われたのです。同じ現象は世界中で起きています。つまり、アイヌ伝統文化の継承、発展という課題は日本国民に共通の課題であり、さらにはちょっと大げさに言えば、全人類に共通の課題でもあるのです。自分たちの伝統文化を継承、発展させていくためのアイヌの人たちの活動について、北海道を領有している日本という国家の国民は、自分たちの問題として真剣に考えていかなければいけないと思います。

最後に一言触れておきますが、「北方領土問題」というものは日本とロシアだけの問題ではありません。国家間の問題ではあるのだけれど、その背後にはもう一つ、この地域の本来の住民だった先住民族アイヌという存在を忘れてはいけない。これだけはしっかり頭に入れておいていただければと思います。私の話はこれで終わりにしたいと思います。どうも長時間ありがとうございました。
https://www.frpac.or.jp/about/files/H24%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%80%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%8C%B2%EF%BC%88%E6%9D%B1%E4%BA%AC%EF%BC%89%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%8F%B2%E9%83%8E%EF%BC%88%E5%9B%B3%E7%89%88%E7%84%A1%EF%BC%89.pdf

5. 中川隆[-12824] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:46:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

1789年クナシリ・メナシの戦い 更新日:2018年03月01日
https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/kyoikuiinkai/kyoikushiryokan/siryoukann/rekishinitsuite/tatakai/4719.html

1912(明治45)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、 砂に埋まっている石が発見されました。掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていました。


■横死七十一人之墓

現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられています。この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、文化九年は西暦の1812年ですので、この年の4月に造られたことがわかります。裏には漢文で難しい文章が書かれていますが、現代語訳にすると

「寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」

という意味になります。これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということだけしかわかりません。真実の歴史はどうであったのでしょうか。

横死71人の墓表   横死71の墓裏面

寛政の蜂起和人殉難墓碑(根室市指定史跡)

■ ノッカマップイチャルバ
1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップというところで「イチ ャルパ」(アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われています。寛政元 (1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、アイヌの人たちが中心になって祭事が催されています。

イチャルパの様子

ノツカマップイチャルパの様子

■松前藩
江戸時代の北海道は、蝦夷地と呼ばれていました。蝦夷地は松前の殿様に植民のように支配されていました。当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができませんでした。しかし、松前は蝦夷地の交易による利益で、藩が成立していました。最初は、松前藩主や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交 易していましたが、しだいに商人にまかせるようになりました。交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品、ガラス玉などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは・毛皮・ワシの尾羽(矢の羽に使う)などの産物がありました。

鷲の羽 納沙布岬のラッコ

ワシ類の羽     納沙布岬のラッコ

コタンケシ遺跡出土のガラス玉

コタンケシ遺跡出土のガラス玉

■根室と飛騨屋
根室や厚岸、クナシリ島の交易を最初に行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋の武川久兵衛(たけがわきゅうべえ)という人でした。飛騨屋はもともと材木商でしたが、松前藩に多額のお金を貸し、松前藩はこのお金を返す代わりに、根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたのでした。しかし、根室やクナシリ地方には、強力なアイヌの勢力があって、飛騨屋の交易は順調に進みませんでした。

武川家の墓所

武川家の墓所(岐阜県下呂市)

■ロシアとの関係

このころ、ロシア人は高価な黒テンやラッコの毛皮をもとめて、シベリヤから アリューシャン列島・千島列島に進出していました。1778年にはロシア人が クナシリアイヌのツキノエの案内で、根室のノッカマップに交易をもてめて来航しました。ロシア人は千島列島のアイヌとも交易を行っていて、ツキノエは、ロ シア人商人との結びつきを松前藩や飛騨屋に誇示しました。

■老中田沼意次と蝦夷地
江戸時代の日本は、長崎での中国・朝鮮・オランダ、対馬での中国、琉球での中国貿易、そして松前での中国・ロシア貿易の他は、外国とは交易していませんでした。
当時の江戸幕府は財政的にいきずまっており、蝦夷地での交易の莫大な利益に目を付けたのが、老中田沼意次でした。幕府は蝦夷地に調査隊を派遣しました。ただこの調査で、飛騨屋の経営も調査され、帳簿にも記入しないどんぶり勘定であることがわかり、交易だけでなく、現地でアイヌを使ってかなり強制的に働かせていることも明らかになりました。しかし、途中で田沼が失脚していまい、幕府は蝦夷地に対して何の政策も行いませんでした。


■最初の蜂起
1789年(寛政元)5月はじめ、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞(アイヌ語と日本語の通訳)・番人らを次々に殺害しました。さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加わり、海岸沿いにいた支配人、番人らをも殺害しました。

クナシリ島で蜂起にしたのは、マメキリ、ホニシアイヌら5人が中心となって、合わせて41人が番人らを襲撃しました。彼らはクナシリ島の若きアイヌリー ダーたちで、フルカマップで4人、トウフツで2人、トマリで5人、チフカルベツで8人、ヘトカで3人の合計22人を殺害しました。さらにメナシ地方(標津 ・羅臼付近)では、49人を殺しました。結局クナシリ・メナシ地方合わせて130人が蜂起し、71人の和人を殺しました。このあたりにいた和人で生き残ったものは4人おりましたが、ほとんど全てが殺されました。

クナシリ・メナシの戦い関係地名図

クナシリ・メナシの戦い関係地名図


■蜂起の原因

この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、なぜ蜂起が起きたのか取り調べることになりました。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の実態が明らかになりました。これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるために行われました。また、アイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で、自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものが出る状態でした。次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らが「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しが、現実味を帯びてきました。さらに、女性に対する性的暴力が続出し、それに対する抗議をしても認めるどころか、さらにひどい暴力を受けるという始末でした。


■直接の原因

このようにクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、いつ何が起こっても不思議でない状況となっていました。

1789(寛政元)年になって、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になり、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んだところ、そのまま死んでしまいました。また、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、まもなく死んでしまいました。このような不審な死に方をしたサンキチやマメキリの妻は、普段から毒殺するといって脅かし続けた和人によって、本当に毒殺されたに違いないということになったのです。本当に毒殺であったかどうかは、今となっては真相は分かりませんが、たとえ偶然であったとしても、蜂起に至るのは時間の問題であったのです。


■鎮圧隊の松前出発

この蜂起の事実が松前城下に伝わったのは6月1日でした。すぐに260人の鎮圧隊が組織されました。鉄砲85丁・大砲3挺・馬20頭も準備され、6月11日から19日にかけて、根室のノッカマップに向けて出発しました。


■ノッカマップでの取リ調べ
鎮圧軍は7月8日にノッカマップに到着しました(この年は閏年で、6月が2 カ月ある)。蜂起に関係したアイヌたちをノッカマップに集め取り調べが始まり ました。最初は捕まって殺されるかもしれないという疑いからなかなか集まりま せんでしたが、7月16日までにメナシの183人とクナシリの131人のアイ ヌがノッカマップに到着しました。

アイヌに対する取り調べは、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリの首長ツキノエに行わせました。その結果、クナシリでは41人が、メナシでは89人が、合わせて130人が蜂起し、殺害に加わったことが 判明しました。さらに、なぜ蜂起したかについても詳細に取り調べられました。この内、直接の加害者である37人が牢に入れられました。さらに彼らが持っていた弓などの武器が全て没収されました。

■37人の処刑

7月20日に取り調べが行われ、その日に直ちに37人に対して、重罪であるという理由で死罪が決定しました。

翌21日、本人たちに死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだし、首をはねていきました。次々と首をはね、5人目が終わり、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、大半を殺した後、牢を引き倒し37人全てを処刑しました。その後、処刑した者全員の首をはね、洗って箱に塩詰めにし、胴体は一つずつむしろで包んで大きな穴を掘って埋めたのでした。

ノツカマップイチャルパのヌサ

ノツカマップイチャルパのヌサ(幣)場


7月24日には37人に胴体を埋めた塚に、太さ30センチメートル、長さ3.6メートルの角材の四面を赤く、四角を黒く塗り、ノッカマップ岬の四方から 見渡せるところに建てました。現在はこの場所がどこか不明です。7月27日 には、長老のアイヌたちに、今後二度とこのようなことがないように申し渡して、鎮圧軍はノッカマップを出発しました。37個の首は松前郊外の立石野で首あらためが行われました。

ノッカマップ岬

ノツカマップ岬(ノツカマフ1・2号チャシ跡が所在)

■アイヌと松前藩
この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されましたが、松前藩には何のお咎めもありませんでした。結局、幕府は特にこの戦いに後、新しい政策を打ち出せなく、蝦夷地を黙認したのでした。しかし、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対しては、再度強い関心を示し、幕府の目が北に向くきっかけになったのでした。

■アイヌの勢力
この戦いに敗北した、アイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、さらに、本州から持ち込まれる生活物資無しには、生活できなくなっていて、アイヌ自身による独自の政治勢力が育つ可能性が、非常に弱くなるという道をたどることになります。

アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力をつみ取られ、政治的にも経済的にも従属関係となり、和人支配下で働かされるということが、日常的になっていきました。


■おわりに

1789年はフランス革命が起こった年でもありました。蝦夷地でこのような戦いが起こったことも偶然ではなく、世界史の流れの中でとらえようとする考え方もあります。
この戦いは、決して楽しい歴史ではありませんが、北海道にとっても日本にとっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても、大変重要な出来事でした。そして根室市にとっても忘れてはならない歴史ですので、ここに掲載いたしました。

https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/kyoikuiinkai/kyoikushiryokan/siryoukann/rekishinitsuite/tatakai/4719.html

6. 中川隆[-12823] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:48:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

北方領土を考える その一 北方諸島とアイヌ語の地名 2016年12月16日
http://naritas.jp/wp1/?p=4634


ウラジミール・プーチン (Vladimir Putin)大統領が来日しています。山口と東京における安倍総理との会談がどんな成果を生むかが注目されます。会談の一つに北方問題を取り上げられるようです。日ロの平和条約に関して安倍総理は「新しいアプローチに基づく交渉」とか「特別制度による共同経済活動」とやらで臨んでいるようです。経済協力先行を主張するロシアは領土問題を棚上げしたいのは目に見えています。

国家の主権の大事な要素は領土、そしてそこに住む民族です。領土の帰属を主張する根拠とは、誰が見つけて占有を宣言するかではなく、誰が先住していたかということが20世紀以降の国際通念です。北方領土問題は占有と先住を巡る解釈、そして力関係です。そうたやすく解決する問題ではなさそうです。100年はかかるかもしれません。樺太生まれの北海道育ちの私も日ロの平和条約と北方問題の解決には大いに関心を持っています。

北方領土における千島や樺太、そして北海道にはアイヌ語を語源とする地名などが沢山あります。私が生まれた樺太の真岡は、アイヌ語の「マオカ」で静かな場所、「マ・オカ」という呼び名もあり、これは「川口が入江になっている海岸」という意味だそうです。小さいとき育った美幌はアイヌ語の水多く、大いなる所を意味する、「ピ・ポロ」、稚内はアイヌ語の「冷たい飲み水の沢」を意味する「ヤム・ワッカ・ナイ」、名寄はアイヌ語の渓流に注ぐ口という意味の「ナイオロプト」、旭川はアイヌ語で忠別川を指す「チュプ・ペッ」と呼ばれていました。「チュプ」は「日」、「ペッ」は川の意味でやがて「旭川」となったという説です。
http://naritas.jp/wp1/?p=4634

7. 中川隆[-12822] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:52:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
北方領土の読み方は4島すべて何と言う?四島の語源も!
https://takenori.info/blog/northern-territories/


北方領土4島すべての読み方は何と言うか?

以下に一覧で。↓

•色丹島:Остров Шикотан:シコタン
•歯舞群島:諸島:Острова Хабомаи:ハボマイ
•国後島:Курильские острова:クナシリ
•択捉島:Итуруп:エトロフ

1956年の日ソ共同宣言から言われている
色丹( しこたん )島と、歯舞( はぼまい )
群島・諸島の2島と、国後( くなしり )島と
択捉( えとろふ )島が北方領土の四島である。

各島の語源は次章以降で詳しく解説する。


色丹島の語源はアイヌ語で「 大きな村 」

 ウィキペディアの記述に拠れば、色丹( シコタン )島
は、アイヌ民族が強制的に移住させられた歴史が有るという。

「 色丹島 」より引用↓


1884年( 明治17年 )に占守島や
幌筵島、及び中部千島の羅処和島に
居住していた千島アイヌの人々が
色丹島に強制移住させられた。

【 引用ここまで↑出典:Wikipedia 】

アイヌ語は北海道アイヌ語が消滅の危機に
瀕して居るとされるが、色丹島を含まない
千島列島アイヌ語は、すでに絶滅している。

そのアイヌ語で「 大きな村 」という
意味の語源がシ・コタンとなる。

Малокурильское, o.Шикотан.png


歯舞群島の語源は「 流氷が退くと現れる 」

 歯舞群島もしくは諸島の、ハボマイの由来は
アイヌ語の「 ハ・アプ・オマ・イ 」から来ている。

日本語に翻訳すると、「 流氷が退くと小島が現れる場所 」となる。


Часовня на острове Танфильева.png

ウィキ情報に拠れば、1956年の日ソ共同宣言で締結され
2018年11月14日の日露首脳会談で返還が
検討されている、色丹島と歯舞群島の
2島は千島列島には入らないとしながらも
便宜上、一部として記述するとしている。

ちなみに、歯舞島は群島もしくは諸島なので
その名の通り、大小13の島々で攻勢されている。


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国後島の語源は「 黒い草の島 」が有力?

 2島返還の対象に入っていない北方領土が
択捉( エトロフ )島と国後( クナシリ )島
の2島で、地理的には千島列島に属する。

しかしながら、国後島の語源に付いては
いくつかの諸説があり、明確な由来は不明だ。

「 国後島 」より引用↓


島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ
( 黒い・島→黒い島 )」または「キナ・シリ/
キナ・シル( 草の・島→草の島 )」からであるが、
どちらが本当の由来かは、はっきりとしていない。

この島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で
「 クナシル 」と呼んでおり、日本語名も
ロシア語名も国際標記も、これに起源を持つ。

【 引用ここまで↑出典:Wikipedia 】

つまり、国後島の語源は「 黒い 」か
「 草 」の、どちらかであるという説である。

つまり両者を、かけ合わせると「 黒い草の島 」
か「 草の黒い島 」の、どちらかになる。

Tomari Village in Kunashiri Island.JPG


択捉島の語源はアイヌ語で「 岬の有る所 」

 北方領土の千島列島に属する択捉( エトロフ )島も、
2島返還には含まれていない島である。

択捉島の語源は、アイヌ語で「 エトゥ・ヲロ・プ 」
と発音し、意味は「 岬の有る場所 」だ。

では、その岬とは何か?と言えば択捉島の
最北端の岬である「 カモイワッカ岬 」を指す。↓


カモイワッカ岬.JPG


つまり、カモイワッカ岬の有る島が択捉島だ。

以上が、北方領土4島の「 読み方と語源 」になる。

北方領土の地図を4島すべての場所がどこ?かをGoogleマップで表示

 ロシア側からの色丹島および歯舞群島の2島返還が加速したと報じられている「 北方領土4島 」の場所と位置をGoogl...


つまり北方四島、全ての名前は先住民族である
アイヌ人が命名した、ということになる。

プーチン大統領は今回の2島返還に際し、
日本語で「 引き分け 」だと語った。

シコタン色丹島の人口と居住者数は2018年現在で何人いるのか?

 速報で2018年11月14日、シンガポールにて日露首脳会談が行われ、ロシアのウラジーミルプーチン大統領【 66 】は...


自身が柔道8段を有するプーチン大統領
らしい発言だが今後は、どうなっていくのか?

対する安倍首相は自身が、お得意の
アーチェリー( 洋弓 )で、狙い通りの的に
見事、命中させる事が出来るのかー!?
https://takenori.info/blog/northern-territories/

8. 中川隆[-12821] koaQ7Jey 2019年1月21日 13:58:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

0-0. 日本人の源流考 _ アイヌ人の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

9. 中川隆[-12820] koaQ7Jey 2019年1月21日 14:04:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

千島アイヌ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

千島アイヌ(ちしまアイヌ、アイヌ語: Ruru-tom-un-kuru、英語: Kuril Ainu)とは、かつてウルップ島以北の北千島に居住していたアイヌ系民族である。北海道アイヌや樺太アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られていたが、千島・樺太交換条約締結後の日露両国による強制移住政策によって人口が激減し、現在では千島アイヌの文化は断絶してしまっている。

欧米ではクリルアイヌ、あるいは単にクリル人とも呼称される。


千島列島

「千島アイヌ」あるいは「クリルアイヌ」の名前で知られているものの、厳密に言うと南千島(エトロフ島・クナシリ島等)のアイヌは北海道本島のアイヌと同系統とされ、通常「千島アイヌ」は、ウルップ島以北の北千島の島々にルーツを持つアイヌを指していることが多い。

エトロフ島–ウルップ島間の択捉水道(ロシア語: Пролив Фриза)を境にしてアイヌ民族の文化伝統が異なる事は古くから知られており、近藤重蔵は『辺要分界図考』(1804年)で以下のように述べている。


東海ウルップ島より前路、シモシリ島(新知島)よりカムサスカ(カムチャツカ)地方に至る迄凡十余島、世の所謂千島にして蝦夷人之を称してチュプカと云。チュプカとは日出処の義也。蛮書に之をクリル諸島と云。その島大なる者十六、小なる者無数……。
— 近藤重蔵『辺要分界図考』巻四

同様に、蝦夷通辞の上原熊次郎は以下のような記述を残している。


扠又、当所(静内)よりポロイヅミ(襟裳)辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。則、東のものといふ事。……ビロウ(広尾)より子モロ(根室)領辺迄の蝦夷をシメナシュンクルといふ。則、奥東のものといふ事。エトロフより奥の嶋のものをチウブカンクルといふ。則、日の方のものといふ事……。
— 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』[1]

以上の記述をあわせると、北海道アイヌの間ではエトロフ島・シコタン島といった南千島のアイヌは道東一帯のアイヌと同じグループに分類されており、それ以北のグループがチュプカウンクル(アイヌ語:cupka-un-kur)と呼ばれていたという。ここで言う「チュプカ」とは、「日・の上(=太陽の上がる方向、東)」を意味するアイヌ語cup-kaのことである[2]。

また、1899年の鳥居龍蔵の調査によると、千島アイヌは自身のことを「ルートンモングル(ruton-mon-guru,「西に住まえる人」の意)」、北海道アイヌのことを「ヤムグル(yamu-guru,「南方の人」の意)」、カムチャダールのことを「チュプカウングル(cupka-an-guru,「東方の人」の意)」と呼称しており、ここでも「ルートン(ruton)」はウルップ島〜シュムシュ島の北千島のみを指すものとされている[3]。これらの呼称はより正確には「ルルトムンクル(アイヌ語: ruru-tom-un-kuru,「海中の人」の意)」あるいは「ルットムンクル(アイヌ語: ruttom-un-kuru,「島嶼の住人」の意)」、「ヤウンクル(アイヌ語: ya-un-kuru,「本土の人」の意)」を聞き取ったものと見られている[4]。

なお、カムチャツカ半島南部(ロパートカ岬一帯)にはアイヌ語地名がいくつか残っており、カムチャツカ半島南部も千島アイヌの居住圏であったと見られている[5]。

歴史

「アイヌの歴史」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


千島アイヌの成立は北海道アイヌ・樺太アイヌと比較して遅く、15世紀以後のことと考えられている。これはアイヌ民族以前に千島列島に居住していたオホーツク文化人を漸次同化・征服していったためである。

千島アイヌの産出するラッコ皮は他の地域では得られない稀少品であり、古くから交易によって日本社会に輸入されていた。

一方、千島アイヌが直接和人と交易を行わなかったこともあって、江戸時代末期に至るまで千島アイヌに関して日本ではほとんど知られていなかった。16-17世紀頃の日本では千島方面を漠然と「クルミセ」あるいは「ラッコ島」と呼ぶのみで、千島に関する知識は主に北海道アイヌを介した伝聞に拠っていた。

17世紀末、カムチャッカ半島にまで進出していたロシア人は、18世紀初頭より千島列島に足を踏み入れるようになった。1711年、アンツィフェーロフ率いるコサックは始めて千島列島に進出し、これ以後千島アイヌはロシア人より毛皮税(ヤサーク)を取り立てられるようになった。

19世紀に入ると、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、千島方面における国境画定が問題化してきた。両国の国境確定は明治維新を経た後、1875年の千島・樺太交換条約によって一応の決着を見た。この結果、千島アイヌは3年以内に日露どちらかの国籍を選択することを迫られた。

日本政府は国策として、国防を理由に千島アイヌをシコタン島に強制移住させた。慣れない生活と風土のため、千島アイヌの人口は激減してしまった。更に、第二次世界大戦でソ連が南千島(北方領土)を占領すると、千島アイヌ及びその血縁者は日本各地に移住したため、千島アイヌ文化の伝統は途絶えてしまった。現在、千島アイヌとしての文化的アイデンティティを保持する者は既に存在しないと考えられている[6]。


千島アイヌの竪穴住居

千島アイヌ文化が北海道アイヌ文化と異なる点としてよく挙げられるのが、竪穴住居での生活である。竪穴住居を作る際には、まず長方形の穴を掘った後に柱を立て、板で囲い、急勾配の屋根をつくる。その後、煙出し用の穴を残して干し草・土・泥炭などで蔽い、窓や入り口を整えて完成させた。窓ガラス代わりに海獣の膀胱を広げたものを窓に貼っていたため、室内はとても暗かったという。

ロシア人の進出後、千島アイヌの住居で最も大きく変わったのは風呂を作るようになったことであった。この風呂はロシアの蒸し風呂(バーニャ)をまねたもので、熱した石に水をかけることで蒸気を出す、というものであった[7]。

衣服

作業中の千島アイヌ

近藤重蔵の記録によると、千島アイヌには羽毛(アイヌ語: rap-ur)、犬の皮(アイヌ語: seta-ur)、草を編んだもの(アイヌ語: kera)などを材料とした衣服が存在したという。また、ウシシルのアイヌは雁の羽にアザラシの皮で縁取った筒袖仕立ての衣服を着ていたという。keraはキナという草を用いて作るが、北海道アイヌの作るアットゥシ(attus)は材料となるオヒョウが北千島で育たないため、作られない[8]。

靴としては耐水性の高いトドあるいはアザラシの皮を用いて作った長靴を使っており、冬期には柳で作った樏をつけていたという。以上のような千島アイヌの衣服は18世紀以後かなりロシア化し、ロシア製のシャツや帽子、用いるようになったという[9]。


生活用具

北海道アイヌ・樺太アイヌには見られない千島アイヌ独自の特徴として、遅くとも19世紀前半まで土器作りの文化を保持していたことが挙げられる。しかし、このような文化はロシア人の進出とともに少しずつ廃れてゆき、ロシア製の用具を用いるようになっていった。

千島アイヌを代表する物質文化として、「テンキ」と呼ばれるバスケットが存在する。これはテンキ草(ハマニンニク)を材料に巻き上げ技法(コイリング技法)を用いて作成したもので、アメリカ北西海岸のネイティブアメリカンとも共通する文化である。また、千島アイヌは木製仮面を有していたことが知られているが、これもまたアラスカ・アリューシャン・カムチャッカの北方民族の影響を受けた文化であると考えられている[10]。

言語

「千島アイヌ語」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E


千島アイヌ語についての資料は断片的なものしか残されておらず、その実態には未だ謎が多い。

しかし、クラシェニンニコフは「クナシリ[島]住民の言語は第2島ポロムシル島(幌筵島)で話される言語とほとんど何らの相違もない」というクリル人(アイヌ)の発言を記録しており、国後島を含むをアイヌ語南千島方言と類似した言語であった可能性がある[11]。

コロポックル伝説と千島アイヌ

コロポックルの木彫り人形

詳細は「コロポックル」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB


アイヌ民族伝承の一つとして知られるコロポックル伝説のモチーフが千島アイヌであった、とする説が存在する。

一般的に「アイヌ民族の小人伝承」と言うと「蕗の葉の下の人(korpokkur)」が想像されるが、実は前近代の記録にはアイヌ民族の伝える小人を「トイチセコッチャカムイ(トイコイカムイ、トイチセウンクルとも。竪穴住居に住む人、の意)」或いは「クルムセ(千島の人、の意)」という名称でも記録していた[12]。

例えば、17世紀の『勢州船北海漂着記』には以下のように記録されている。


蝦夷人物語申し候は、小人島より蝦夷へたびたび土を盗み参り候、おどし候へば、そのまま隠れ、船共々見え申さず候由、蝦夷より小人島まで、船路百里も御座候由、右の土を盗みて鍋にいたし候由、もつともせいちいさくして、小人島には鷲多く御座候て、……。
— 松阪七郎兵衛ほか『勢州船北海漂着記』(1662年)[13]

この記述に見られるような、古い時代に記録された小人の特徴を列挙すると、

1.小人と北海道アイヌはコミュニケーションを欠く(=両者は沈黙交易を行う)
2.小人は土鍋製作用の土を取って帰る(=小人は土器製作を行う)
3.小人の島にはオオワシが多い
4.小人は島に住む、船でやってくる

となり、これらの特徴は全て千島アイヌの特徴と一致する[14]。

更に注目されるのは、樺太アイヌ・北海道アイヌ・南千島アイヌといったほぼ全ての地域で伝承される「小人伝説」が、唯一千島アイヌの間でのみ知られていないという点である[15]。

以上の点を踏まえて、瀬川拓郎はアイヌの小人伝説について「……十五世紀に北千島へ進出したアイヌは、その奇妙な習俗によって異人され、15〜16世紀には道東アイヌのあいだで小人として語られることになった」のであり、「19世紀ころには、様々なモティーフを取り込み、他の伝説とも融合して、もはや北千島アイヌの現実の習俗を反映した伝説であったとは思われないほど、小人伝説はアイヌ世界の物語として『成長』を遂げていた」と纏めている[16]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

10. 中川隆[-12819] koaQ7Jey 2019年1月21日 14:09:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

ロシアにおけるアイヌ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

樺太アイヌ(ブロニスワフ・ピウスツキによる撮影)
ロシアにおけるアイヌではロシア連邦の領内における先住民族としてのアイヌ民族の歴史及び現状について記す。

サハリン州、ハバロフスク地方、カムチャツカ地方に居住している。ロシア語ではアイヌ(Айны)、クリル(Куриль)、カムチャツカ・クリル(Камчатские Куриль)、カムチャツカ・アイヌ(Камчадальские Айны)、エイン(Ейны)などと呼ばれ、6つの集団に分けられる。2010年の国勢調査ではロシア国内で自らがアイヌであると回答した人数は100人程度であるが、少なくとも1,000人はアイヌを祖先に持つと考えられている。アイヌを名乗る人数が少ないのは、連邦政府に「現存する」民族集団としての承認を受けられていない結果であると考えられる。アイヌを祖先に持つ人が最も多いのはサハリン州であるにも関わらず、自らをアイヌと定義する人の大多数はカムチャツカ地方に居住している。

集団

ロシア領内に居住するアイヌは6つの集団に分けられ、うち4つは民族集団としては消滅している。

カムチャツカアイヌ

「カムチャツカ・クリル」として知られる。1706年にロシア帝国に敗北したことに加えて天然痘が流行した事により、現在では民族集団としては消滅している。現在では後述の北千島アイヌ、もしくはイテリメン族に同化している。18世紀のロシアの探検家の記録が最後である[1]。

北千島アイヌ


「クリル」として知られる。千島列島は1875年に樺太・千島交換条約が締結されるまではロシア帝国の統治下であった。大多数は占守島に、他は幌筵島に少数居住し、1860年段階で人口は221人であった。彼らはロシア式の名前を名乗り、流暢なロシア語を話し、ロシア正教を信仰していた。日本領になってからは100人以上のアイヌがロシア人と共にカムチャツカに移住した[2]。最近では100人近くがウスチ・ボリシェレツキー地区(英語版)に居住している。日本の統治下に留まった集団は第二次世界大戦後、最後の生存者だった田中キヌが1973年に北海道で亡くなり絶滅した[3]。

南千島アイヌ

詳細は「メナシクル」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%83%AB


18世紀時点では国後島、択捉島、得撫島を中心に約2,000人が居住していたが1884年には500人前後まで減少した。1941年には太平洋戦争開戦に伴い50人(大部分が混血)が北海道に避難した。現在は6人がロシアに居住している。

アムールアイヌ

ブロニスワフ・ピウスツキの調査によると、20世紀初頭に数人がロシア人もしくはウリチ人と結婚していた[4]。1926年のソ連の国勢調査ではニコラエフスキー地区に純血は26人しかおらず、多くはスラブ系民族の中に同化したと考えられる[5]。今日ではハバロフスク地方で自らをアイヌを定義する者は殆どいないが、ウリチ人の相当数がアイヌの血を引き継いでいる[6]。

北樺太アイヌ

1926年の国勢調査では北サハリン州に純血は5人だけであった。ブロニスワフ・ピウスツキの調査によると、大部分の樺太アイヌは1875年に北海道に移住させられ、樺太に留まったごく少数のアイヌはロシア人と結婚したものと考えられる。民族集団としては消滅したが、アイヌの血を引き継いだ人は現在もいると考えられる[7]。

南樺太アイヌ

詳細は「樺太アイヌ」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C


大部分の樺太アイヌがソ連対日参戦後に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていた。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力を掛けた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住している。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識は殆どない。

歴史

カムチャツカ半島のアイヌが最初にロシア人と接触したのは17世紀末である。18世紀にはアムールと北クリルのアイヌが制圧された。アイヌはモンゴロイドの日本人と異なるロシア人を友好関係の対象とみなし、18世紀半ばには1,500人以上のアイヌがロシアへの帰属を選んだ。アイヌ人はコーカソイド的な特徴も持ち合わせていることから、日本人にとってアイヌ人とロシア人の区別は困難であり、日本人が初めてロシア人と接触した時にはロシア人の事を「赤蝦夷」と呼んでいた。19世紀初頭にようやくロシア人はアイヌ人と異なる民族集団であることを認識したのである。その一方でロシア人はアイヌ人の事を「毛深い」「浅黒い」「髪と目が黒い」と記録していた。初期のロシア人探検家はアイヌ人の事を顎髭のあるロシアの貧農、もしくはロマに似ていると記していた。

アイヌ人、特に北千島のアイヌは19世紀の日露間の対立でロシア側を支持した。しかしながら、1905年に日露戦争でロシアが敗北してからは、ロシア人の間でアイヌ人との同盟意識は薄れていった。更に数百人のアイヌが処刑されたり、強制的に北海道に移住させられた。その結果、ロシア人は第二次世界大戦においてアイヌを味方に付ける事が出来ず、ソ連への残留を選択したアイヌは極少数に留まった。90%以上のアイヌは日本への帰属を受け入れた。

カムチャツカへの移住

樺太・千島交換条約の結果、千島列島は日本領となり、そこで暮らすアイヌ人も日本に帰属した。しかしながら、83人の北千島アイヌは1877年9月18日にペトロパブロフスク・カムチャツキーに渡り、ロシアの統治下で生活することを決断した。彼らはロシア当局によるコマンドル諸島への移住の提案は拒絶した。最終的には1881年にヤヴィン村に移ることになった。1881年3月にはペトロパブロフスクを離れ、ヤヴィンまでの徒歩で渡った。4ヶ月後になってようやく新たな居住地にたどり着いた。もう一つの村であるゴリヴィノ村は後から形成された。1884年には9人のアイヌが日本から移住した。1897年の調査では、ゴリヴィノに57人、ヤヴィンに33人のアイヌが居住していた[8]。ソ連体制下では両集落は再整理され、ロシア人が居住するウスト・ボルシェレツキー地区のザポロージエ集落に移住させられた[9]。異民族との通婚の結果、3つの部族はカムチャダールと同化した。

帝政ロシア時代のアイヌは自らを「アイヌ」と名乗ることは禁じられていた。大日本帝国側はアイヌ民族が居住している、もしくは過去に居住していた全ての地域は日本領であると主張していたためである。代わりに「クリル」や「カムチャツカ・クリル」などの表現が用いられた。ソ連時代にはアイヌの姓を名乗る者はしばしば日本人と間違われてグラグや労働キャンプに送られた。その結果、アイヌの大多数はスラブ式の姓に改姓した。 第二次世界大戦後の1953年2月7日には当局によりソ連国内に居住するアイヌに関するあらゆる情報を出版することを禁じられた。この指令は20年後になって取り消された。

最近の動向

北千島アイヌが居住するカムチャツカのザポロージエ集落は現在のロシアにおけるアイヌの部族では最大規模である。父方が南千島アイヌのナカムラ一族は6人であり、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに住んでいる。サハリン島では数十人が自らをアイヌと名乗るが、大部分は片親が他民族であり、アイヌの伝統文化を習得していない。2010年調査では888人の「日本人」が居住しており、その大多数がアイヌとの混血であるが、彼らもまたアイヌの伝統文化を習得していない[10]。同様に、ハバロフスクには片親がアイヌの子孫が居住しているが、アムールアイヌは誰も自らをアイヌと名乗ることはない。なお、カムチャツカアイヌの生存者はいないと言われている。1979年にはソ連政府はロシアの領域から民族集団としてのアイヌが消滅したとして、現存する民族集団から「アイヌ」の項目を削除した。ソ連崩壊後の2002年の国勢調査では調査票に「アイヌ」と記載する者はいなかった[11][12][13]。

アイヌ民族自身は自らは千島列島の先住民であり、日本とロシアの両方が侵略者であると主張してきた[14]。2004年にはカムチャツカ地方の小規模なアイヌ人団体がウラジミール・プーチン大統領に日本との間での北方領土における一連の動きついて再考することを求める手紙を出した。その手紙では日本、帝政ロシア、ソビエト連邦の全てをアイヌ民族の殺害と同化政策を行なったとして糾弾していた[15]。しかしながら、その要請はプーチン大統領に拒否された。その団体はアイヌ民族をめぐる悲劇の規模と激しさはアメリカ先住民が直面したジェノサイドに匹敵すると主張している。2010年の国勢調査ではその集落の100人近くがアイヌ民族と申告したが、カムチャツカ地方議会はそれを拒否してイテリメン族として取り扱った[16]。2011年にはカムチャツカのアイヌ民族団体のリーダー、アレクセイ・ウラジミロヴィッチ・ナカムラがウラジミール・イリューヒン(カムチャツカ地方知事)とボリス・ネフゾロフ(連邦下院議員)に政府の北方・シベリア・極東地方少数先住民族のリストに加えるように要求した。 しかしながらこの提案も拒否された[17]。

サハリン州とハバロフスク地方のアイヌ人は政治的主張を行う団体を結成していない。アレクセイ・ナカムラは2012年時点でロシア領内にアイヌ人は205人しかいない、そのうち2008年段階で自らがアイヌ人であると主張していたのは12人であり、「千島列島のカムチャダール族」と共に少数民族としての認定のために活動していると主張している[18]。アイヌがロシア政府の少数民族の公式リストから外されて以来、彼らは無国籍人、ロシア人、カムチャダール人のいずれかに定義されている[19]。なお、2012年時点では北千島アイヌと千島列島のカムチャダールは共にロシア政府から北方少数先住民族としての漁業権・狩猟権は認められていない[20]。最近になってボリス・ヤラヴォイによってロシア極東アイヌ協会(RADA)が設立された[21]。

人口

2010年のロシア国勢調査では109人のアイヌ人が存在するとしている。このうち94人はカムチャツカ地方、 4人は沿海地方、3人はサハリン州、1人はハバロフスク地方、4人はモスクワ市、1人はサンクトペテルブルク市、1人はスヴェルドロフスク州、1人はロストフ州という内訳である。実際のアイヌ人口は更に多いと考えられるが、サハリンの数百人のアイヌは自らをアイヌと定義する事を否定している。

ロシア政府の見解

ロシア連邦当局の国勢調査ではアイヌ民族はロシア国内では既に絶滅した民族集団とされている。アイヌ民族を名乗る人もアイヌ語を話すことは出来ず、生活における民族の伝統文化の要素も失われている。社会的・風習的には古くから居住するカムチャツカのロシア人と殆ど同一である。それゆえ、イテリメン族に与えられているような少数民族としての権利はカムチャツカのアイヌ人には認められていない。アイヌ語はロシア国内では話し言葉としては既に消滅している。カムチャツカのアイヌは20世紀初頭にはアイヌ語を用いなくなった。1979年時点でわずか3人の流暢なアイヌ語話者がサハリン州にいたのみであり、1980年代には消滅した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

11. 中川隆[-12818] koaQ7Jey 2019年1月21日 14:12:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
第一章 ロシアの東方進出と千島アイヌ
第1節 クリル列島とクリル人
http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm


 露領時代の千島列島はクリル列島と呼ばれ、カムチャツカの南端から蝦夷(北海道)の北岬に延長約1200q、小島を除いて弓状に22の島からなっている。クリルの語源は露語のクーリイチ(燻る)からなまったもので、これは露人が初めてカムチャツカの南端から遙かに千島最北のアライト島を望んだとき、その山頂から火焔が上がるのを見て名付けたためと言われている。しかし、クリルの名称はアイヌ語のクル(人間)に由来する説が今日有力である。日本でも古くは千島のことを「くるみせ」と呼んでいたと言うが、名称については、その地に住んでいた先住民をクリル人、または千島アイヌと呼ぶことにする。

 カムチャツカ・千島が露人の版図となる以前のクリル人については『千島アイヌ』の著者鳥居龍蔵氏、自ら占守島へ渡って千島アイヌを調査した我が正教会の伝教者フェオドル斎藤東吉師によれば次の通りである。

 クリル人は、露人が北千島へ進入する相当以前から首長制の一大部族(一時は300名以上もいた)を形成し、各島を移動する活動的な狩猟民族であった。占守(シュムシュ)・幌莚(パラムシル)・羅處和(ラショワ。現地ではラサワ)島を定住地としながらも、北千島列島間を南は新知(シンシリ)島辺まで移転往来して狩猟をしていたが、古くはカムチャツカ東岸ではほぼアワチンスカヤ湾、西岸ボルシャヤ河を結ぶ一線より南の地帯まで拡がっていたと言われる。

 クリル人は古くから蝦夷アイヌと交易して木綿・鍋釜・刀剣等の鉄器も手に入れて交易的な経済生活をしていた。松前から蝦夷アイヌを通して日本文化の片鱗に触れていたわけである。即ち、蝦夷のアイヌは日本人と交易したこれらの品物をラサワ島まで運び、クリル人の捕獲した物資である鷲の羽やラッコの毛皮などと交換していた。

 『新羅の記録』には、1615年(元和元年)にメナシ地方(今日の根室・目梨地方を中心とする道東の広い地域を指す)からアイヌが数十艘の舟で松前に来てラッコの皮を松前藩主に貢物として持参し、藩主はこれを徳川家康に献上したという記録もある。

 また、1623年(元和9年)、江戸で他の切支丹信徒とともに火刑にされたイエズス会のデ・アンジェリス(イタリア人で再度蝦夷に渡っている)神父の書いた『蝦夷国報告書』(千島列島に関する文献の最古のものである)について、北大教授児玉作左衛門氏は千島先住民に触れて興味ある解説をしている。

 「その当時の藩主は松前志摩守公廣であるが、デ・アンジェリスに語ったことは次のことであった。即ち<ラッコ>は蝦夷地には産しないので、先住民はその皮を買うために、蝦夷の近くにある三つの島へ行く。これらの島の先住民には髭が無く蝦夷人とは全く異なった言語を持っている《 中略 》蝦夷の近くにある三つの島とは、さしあたり国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)・得撫(ウルップ)の三島が考えられるが、或いは国後・択捉は蝦夷地の一部と見なし、その先にある得撫・新知及び他の一島の三つを意味したのであるかも知れない《 後略 》」

氏が述べているように、蝦夷アイヌと異なった民族が既に千島列島の中・南部に進出し、それらの地が彼らの生活圏となっていたのであろう。

 クリル人はいずれの地方から渡来したか、その起源については、アイヌ民族の系統に属することは間違いないが、蝦夷アイヌとは形質上やや異なる千島独特の民族が古くから蝦夷アイヌと交易し、独自な生活環境を築いていたことがうかがわれる。

   


第2節 露人のカムチャツカ進出


 ロシア人の東方進出は天正9年(西暦1581年、以下西暦とする)イェルマークに率いられたコサック兵800人がウラル山脈を越えてシベリアに進出し、1632年にはヤクーツクに城塞を築き、政庁を置き、1646年にはオホーツク海に達し、僅々60余年間でシベリアの大平原を大西洋岸まで横断したのである。また、カムチャツカは1697年から99年にかけてアトラソフ(シベリア大陸の東端ベーリング海のアナジリ湾頭のアナジリ城塞の司令官)によって征服されている。

 当時、この地方には、千島から渡ってきた人々とカムチャダール(カムチャツカの先住民・イテルメン)が混血・雑居していた。アトラソフ自身はカムチャツカ半島の南端をきわめなかったが、南の遠くない会場に島々があることを先住民から聞いている。

 アトラソフは、この地で先住民の捕虜になっている一人の日本人を保護した。この男はアトラソフやコサックと2年間カムチャツカで生活を共にした後、ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)に送られ、ピョートル大帝の命令でロシア語を習得すると共にロシア人の若者に日本語を教えることになった。彼の名は伝兵衛で、ロシア国籍を取得し、ガウリイルの聖名で洗礼を受け、帰国することなく彼の地で永眠している。彼こそ日本人として最初のハリストス正教信徒であろう。
ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞いている。大帝は1702年、勅令を発して日本との通商の可能性を探ることを命じている。その後、ロシア人によりカムチャツカへの航路が開拓され、北千島への進出、更に日本への接近となる。

  


第3節 露人の千島進出


 ロシア人が最初に千島列島に進出したのは、1711年(正徳元年)のことであると言われている。この年、ロシア人のアンツィフョーロフ、コズィレフスキーの両人が反乱を起こし上官を殺害した。彼らはその罪を償うために多くのコサック兵を率い、千島列島伝いに日本に接近することを計画した。カムチャツカのロバトカ岬からカムチャダールの首長を案内役として、小舟と革舟に乗って遂に危険な海峡を突破し、千島第一島の占守島に上陸、有力な火器によって千島アイヌを制圧し、次いで1712年、第二回探検で幌莚島も支配下においた。茲に、これらの島を根拠地として、北はカムチャダール、南方択捉、国後の蝦夷アイヌを制圧した千島アイヌは露国政府の支配下に置かれることになったのである。だが、首長制度は存続し、後には正教会の司祭によってその就任式が挙げられるようになった。

 この時、先にカムチャツカに漂着した日本人捕虜のなかの「サニマ」(三右衛門の訛りか)と名乗る若者を、案内兼通訳として連れてきている。たまたまこの島には、シャタノイという名のアイヌが択捉島から日本の物品を持って交易に来ており、彼からマツマエ島(北海道)に至る14の島とその順番を知ることが出来た。

 サニマはその後、ペテルブルクに送られ、この地で帰化し、ロシア婦人と結婚して男子をもうけた。彼は伝兵衛の助手として日本語を教えたと言われるが、これには確たる証拠がない。ロシア婦人と結婚した事は、当時のロシアでは敬虔な正教徒になった事になる。

 その後、第二次ベーリングの北方大探検隊で日本沿岸の調査を命じられたシュパンベルグは、1738年(元文3年)千島列島を南下し、得撫島まで31の島を数えてこれを海図に記入したが、これは霧のため実際より多い島数であった。この航海では一人の日本人にも出会わなかった。更に、彼は先住民から日本の支配はマツマエ島(北海道)だけであって、他の島々は日本に従属していない事も聞いている。また、彼は1739年の探検では日本の安房、伊豆下田附近にまで入っている。

 ロシアの東方経略の目的は、国家組織による貴重海獣猟であり、また先住民と獣皮等を交易することを基盤として殖民地を獲得することにあった。一方、日本は徳川幕府の鎖国政策下にあり、当時、未開の北の宝庫、蝦夷も南端の小藩松前に委ねられていたに過ぎない。

 ベーリングやシュパンベルグの探検が行なわれていた頃、特にシュパンベルグの第一回探検で、千島列島に日本の主権が及んでいない事実を知ったロシア人は、占守島を根拠地として幌莚島以南、中千島から南千島にも進出した。コサックの百人長イワン・チョールヌイはヤサーク(毛皮貢税)徴収のため1768年に択捉島まで南下した記録がある。

 当時、ロシア人の多くは目前の利益のみ追い、永遠の大計をはからず先住民を虐待し、ために先住民の反感を高め、1770年、1772年、得撫島に出稼したロシア人が千島アイヌや蝦夷アイヌの襲撃を受けて、一時一掃されるような事件も起きている。

 その後、ロシア側は態度を改め、再び来航した時以来、千島アイヌに物品を与えて隔意のないことを示し、ロシア人と彼らとの間に交易が開始され、着々と経営を進め、得撫島に基地の建設を始めた。1820年から30年にかけて露米会社(産業家シェリコフが1798年にロシア=アメリカ会社をシットカを根拠地として設立し、毛皮貿易に大きな役割を果たし、1830年には北・中千島の権益をロシア政府が露米会社に渡した)が新知島と得撫島にアレウト人(アリューシャン列島先住民)を送り込んでラッコの狩猟に当たらせた。

 その後、この北辺で日本とロシア両国間に種々と紆余曲折が生じたが、1855年(安政元年)に伊豆下田に於いて日露通好条約が締結され、択捉・得撫間を両国の国境と定めた。得撫島に露米会社が進出する以前は、古くから得撫島が千島・蝦夷アイヌの自然の境界地であり、共通の狩猟場であったようである。

  


第4節 クリル人と正教


 1747年、カムチャツカの掌院ホコウンチェウスキー師は、修道司祭イオアサフを千島に派遣し、先住民教化に当たらせたと、鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』にある。それによると当時、占守・幌莚島に住んでいた千島アイヌは253名であり、その内、56人に洗礼を授けている。その時、イオアサフ師の持参した金装の聖書は、後の斜古丹聖三者教会の宝物として保管されたと伝えられている。その後、少年子女の為に学校を開設して彼らを教化し、正教の布教も着々と進められていく。

 イオアサフ師はその後、1794年、シノド(聖務会院)からアラスカ正教団の責任者として派遣され、大いに布教効果をあげ、カジャク島(アラスカ、アリューシャンの布教基地)の主教に叙聖されたが(1799年4月、於イルクーツク)、同年5月帰任のためオホーツク海を航行中、その乗船フエニクス号と共に行方不明になった。イオアサフ主教はロシア領時代のアラスカの初代主教となったが、現在、アメリカ正教会ではアメリカの初代主教として記憶されている。

 古来、千島アイヌは各島を移動する活動的な狩猟民族であり、占守・幌莚・羅處和の三島を定住地としていたのであるが、彼らは、この島より彼の島へと妻子と共に海獣を求めて移り歩いていたので、神父もまた彼らの後を追って転々として散在する島々を巡回しなければならず、決して容易な事ではなかったであろう。初期の伝道では言葉の違いをどう克服したのであろうか。神父達が千島アイヌの教化に努力した熱心さには驚かざるを得ない。『千島アイヌ』より引用すると

「1766年(明和3年)ツヱイ氏の調査によれば、一番島(占守)・二番島(幌莚)・十四番島(宇志知。ウシシリ)には男子(男女の誤りであろう)262人の千島アイヌが居り(内121名は貢納す)、1800年には正教を信仰する者は男77名、女87名、合計164人を数えた」

とあり、1800年代には千島アイヌ全員が正教徒となり、尚、択捉島の蝦夷アイヌにも正教を信仰する者が出たと思われる。それは、幕府が1799年、北辺の防備を痛感して千島の直轄に着手した時、島民の持っていた聖像を取り上げ、蝦夷地に施行された最初の成文である三条の法の第一に、

「一 邪宗門にしたがうもの、外国人にしたがうもの、其の罪重かるべし」

と規定したことを見ても、その辺の事情を窺い知る事が出来る。

 かくして、千島アイヌ固有の風俗が失われて、言語・姓名・生活様式も著しくスラブニック化し、深く正教を信仰する北辺の「ハリスティアニン」と変貌していく。1801年、占守島のモヨロップ(片岡)湾頭のコタンヌイの丘に正教の聖堂が完成する。

 明治27年の『正教新報』に1867年、大主教に昇叙され、モスクワの府主教に選立されたインノケンティ師が主教に叙聖される以前、司祭イオアン・ヴェニアミンノフとしてアリューシャン列島・アラスカ・カムチャツカを巡回していた頃、幌莚・占守島に千島アイヌを訪ねた記事が載っている。北川氏寄稿となっている。1830年前後の事であろうが、千島アイヌの性格、篤い信仰をよく表しているので紹介する。

 「イ師が、シベリヤ、アリューシャン列島、アラスカの地方を管轄していた頃、しばしば千島を巡回されたことがあった。《 中略 》千島の土民は夏期に至れば海辺に繁茂する青草の上に天幕を張って住居とし、冬期になれば其の天幕は不潔悪臭に満たされ、イ師が大祭日に諸部落を巡回した時、その悪臭不潔には大いに閉口なさったそうである。島民は殊に信仰厚く、会堂(祈祷所)に参拝して欠席すること無く、又よく家業に励んでいる。土民は一般に外国人に対して何事も隠し立てする。これは生まれつきの卑怯によるものか、また野蛮的な恐怖心によるものか、また狡猾心より出ているものか分からぬが、イ師の語るところによると、生まれつきの臆病から生ずるものであると言う。そのために彼らは痛悔の時にも罪を打ち明けず、神父らもこれにはほとほと困り果てたようである。しかしながら、彼らは朝夕の祈祷・スボタ(土曜日)・日曜日・大祭日の祈祷は欠かしたことが無い。大斎の初週及び終週には魚油を使用しないで、ただ海草或は野菜のみを食べて精進し、仕事に出る時は必ず祝福を受け、また夏期は毎朝夕一箇所に集まって祝福を受け《 中略 》。イ師は或る年に幌莚に行った際、冬期を其処で過ごした。大祭日には雪と雪との中間の凹所に布を張って、雪の上で潔白なツェレラ(千島に産する草の名)及び柏の枝を敷いて奉神礼を執行した。ハリストス復活祭後の一週間は、島民は順番に各自の家に他人を招いて供応するのであった。《 中略 》イ師はその年の5月中旬、土人用のバイダルカ(海獣の皮で作った舟)に乗って占守島へ渡った。この島の土民は巧みに露語を語り、露語を読み、彼らは魚の多く繁殖する川辺に住み、夏期になると隣邦のカムチャツカに行き交易を行なっていた。」


鋳銅製十字架

これは、斜古丹聖三者教会秘蔵の縦26.5p、横12pの鋳銅製の聖十字架である。イグナティ加藤神父がそれに次のような注釈を加えている。
「今を去ること凡そ250年前、現首長ヤコフ師の祖先イオアン・ストロゾフ氏の妻ペラギヤ姉が、偶々ラサワ島山中で発見したもので、累代相伝え秘蔵してきたが、会堂新築の際に聖三者教会に献納し、永く救贖を祈願するものである」

イグナティ加藤神父が根室に在住したのは、西暦1897年(明治30年)から1901年までである。鋳銅製十字架が発見されたのは、1898年を起点とするとそれより250年前、即ち1630年頃となるが、露人の北千島進出は18世紀初期である。正教の弘布の年代から推測すれば、聖十字架は18世紀中期以後のものであろう。聖十字架は推測の域を出ないが、奉神礼用の神父の携帯品でなかろうか。神父がそれを落とすとは考えられない。或は、神父が巡回中に不慮の災難に遭い、十字架を手放す羽目に遭遇したのかも知れない。とすれば、それ自体に宣教の苦闘の汗と血が滲み出ていると思われる。

 近世の植民史上、その初期には目先の利益のみに走り、先住民を酷使虐待し、彼らからすべてを収奪してやまなかった山師や、いかがわしい者が出没、暗躍したことは明らかである。そのために、大きな人類愛によって彼らを庇い、神の恩寵に浴させて彼らを抱擁し、それが為、身の危険を顧みず、殉教致命さえ厭わなかったハリストス正教の神父達の存在も忘れることは出来ない。

 かの鋳銅製の十字架には、これら正教の神父らの熾烈なまでの宣教の歴史が秘められているのではなかろうか。

 これらの正教の神父は、フェオドル、ロマン、アレクセイ、イーゴリ、フィルス、ニコライ、グリゴリイ、セルギイ、マクシム、チレフワシリイ、フェオクティリスト、パウエル、ハララムピイ等の諸神父の方々である。

 以上の神父名は、明治18年にティト小松神父に随行して先住民との通訳に当たったアレクセイ澤邊師の記録で、氏名でなく聖名の呼称である。明治17年にヤコフ首長の住宅(仮会堂であった)が焼失しているので、おそらく先住民からの口碑によるものであろう。

 これらの神父名は、明治39年、40年に色丹に在島した我が正教会の伝教者である斎藤東吉師著の『日本最古の正教島』に詳細に記されているが、前記の神父名とは大分異なっている。


  


第5節 クリル人の色丹島移住


 1875年(明治8年)日本とロシア間に樺太・千島交換条約が締結された。この条約によって日本が樺太の領有権をロシアに譲る代わりに、ロシアは占守島から得撫島に至る18の島を日本に引き渡すことが明記され、日露の国境をカムチャツカのロバトカ岬と占守島間の海峡に画定された。この条約の附属公文には、この地域に住む先住民は、三カ年以内に日露何れかの“臣民”になることを選定しなければならぬと規定されている。そこで、条約の結ばれた年の8月、明治政府は五等出仕時任為基を北千島へ派遣し、この旨を先住民に伝えた。

 当時、北千島には100人を越す先住民が住んでいたが、彼らは既に一世紀以上にわたってロシアの支配下にあり、言語・衣服・宗教などの面でもかなりロシア化されており、その去就とともに数奇な運命に弄ばれることになる。

 ロシア人並びに得撫・新知島に居住していたアレウト人は、条約に定められた期間、即ち3年後の11月までには悉くロシアに引き揚げた。千島アイヌも風俗・宗教等から、ロシアにと願いながらも、丁度、明治9年に出猟した半数の者が帰島しないためその態度を決することが出来ず、やむなく我が国に属することになった。

 占守島にいた首長キプリアンは、条約成立の年、島司インノケンティ・カララウィッチと12人の同族と共に9月15日、当時、他島への出猟中であったアレキサンドル以下22人の同族を置き去りにしてカムチャツカに向かった。日本国籍に入ったのは、このアレキサンドル組と副首長ヤコフ組のラサワ島の千島アイヌである。

 奇しくも、平成4年5月21日付北海道新聞に、ポーランドに子孫がいた!!という見出しで、首長キプリアンと共にカムチャツカにわたった同族の末裔が、現在ポーランドに住んでいる事が報じられている。シャールド・クリルチク氏他三家族である。シャールド氏によると、

「祖先はシュムシュ島に住んでおり、そこが日本領になるとロシア側に行く事を選んだ。大祖父のアドルフ・クリルチクさんら12人は、カムチャツカのシエログラツキに移され《 後略 》。」

とある。アドルフ氏は数奇な運命をたどり、二代、三代目の祖父、父はそれぞれポーランド婦人と結婚し、父は第二次大戦直後、リトアニアよりポーランドに脱出、現在、ポーランドのスープスク市に在住している。

 『フェオドル斎藤東吉自伝』によれば、首長キプリアンとカムチャツカに逃れた同族12人は、ペトロパブロフスク(首都)より「ヤウイン」に移住させられている。明治10年の春、首長アレキサンドルは日用品欠乏のため、獣皮を携え、交換の目的をもって露領「ヤウイン」に渡り、偶然にも前首長キプリアン氏に奇遇し、故山を慕うキプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている。フェオドル師は、「キプリアン氏の組は、露領に移りてより殆ど半数は不帰の客となり、残れるは僅々7名のみ」と自伝の中で記している。ロシア国籍を選んで露領へ渡ったクリル人の数は、北海道新聞とフェオドル斎藤師の記事で共に12人と符節を合わせたように一致している。そうであれば、東吉師の言う「殆ど半数は不帰の客となり」「キプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている」の点については疑問が生ずる。翌日の北海道新聞には「……だが、当時の日本政府の公文書ではシュムシュ島に戻ったのは二家族だけとされており、数家族がロシア側の国籍をとり、残った可能性が大きい」という記事が載っている。

 我が国では明治9年、更に官吏を派遣してその状態を調査し、救育費として三カ年に一回、5000円の政府別途交付金を給付、食料品等の生活必需品の購入に充て、汽船に搭載、彼らにこれを提供し、生活を保障するとともに捕獲した毛皮を集めた。

 しかし、毛皮は年とともに少なくなり、したがって著しい失費を伴い、その上、根室から1200qも離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれもあった。また、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、同化が困難であるばかりでなく、国境を正すことにならないばかりか、むしろ危険にさえ感じられ、日本政府としてもクリル人に対して早急な処置を講じる必要があった。

 彼らをより交通の便利な箇所に移そうとする計画は、既に明治9年以来の計画であり、その度ごとに移住を勧誘してきたが、彼らは永年住み慣れた地を離れ難く、口実を作っては日本政府の勧誘に応じようともしなかった。

 明治15年に開拓使が廃止され、函館・札幌・根室に三県が置かれる。千島は根室県に属し、湯地定基が根室県令に任ぜられた。明治17年、三年ごとの撫育船を派遣する年にあたり、湯地県令は千島アイヌを色丹島に移す計画のもとに、要路の大官と共に占守島に向かい島状を調査した。丁度、その年に出稼に行っていた仲間も悉く同島に集まっていたので一同を諭し、男女97人をその船に乗せ、ただちに色丹島に移住させた。

 同道した参事院議官安場保和の『北海道巡回日記』に往時の状況が詳細に記述されている。

「五日晴。県令着島より船に還らず、懸々接待遂に全島移住の運びとなる。開拓使以来再三の説諭にも頑として服さず、今日此の挙ある時至れるものなりと雖も、県令懇諭(こんゆ)の誠(まこと)切なるを感ずる所ありと言うべし。全村移住に決し家財をまとめ、牛・犬を殺し、日没に至り全員乗船せり」

 即ち、湯地県令は7月1日の占守島に上陸してから約5日間、本船には一度も帰らず、彼らと起居を共にして懇々と移住を勧告したのである。勿論、彼らのうちには絶海の孤島とは言え、長い間住み慣れた故郷を離れ難く幾多の逡巡をみせた者もいたが、日本領になってからは、日本政府に頼るより外に生活の途がたたず、遂に意を決し、20戸97人、そろって移住することに決したのである。一行は7月6日に全員乗船して11日朝、色丹島に到着した。

 ここに、色丹島の北方オホーツク海に面した斜古丹湾頭に斜古丹村が出現し、信仰篤い彼らによって斜古丹聖三者教会が創設され、この後、永く日本正教の一肢体となるのである。首長は、斎藤東吉師によるとアレキサンドル・プリチンとなっているが、明治17年8月の旧戸籍(鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』)によればアレキサンドル・チェルヌイでなかろうか。副首長はヤコフ・ストロゾフである。

 色丹島は根室半島ノサップ岬より73.3qの地点に在り、東南は太平洋に面し、西北は国後島に相対し、南西より北東に至る長さ28キロメートル、幅およそ9qの長方形をなし、面積は約255平方qの島で、当時、色丹島は文化5年以来居住する者が無く、その後、しばしば出稼漁なども試みられたが長続きせず、空しく千島で活躍する外国密猟船の寄港地となっていた。


  


第6節 色丹島移住後のクリル人


 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。


強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、

「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。
http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm

12. 中川隆[-12777] koaQ7Jey 2019年1月23日 21:21:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

日ロ領土問題と平和条約交渉について

森・プーチン会談と「イルクーツク声明」は何を示したか

2001年4月13日 日本共産党 政策委員会、同 国際局


 森首相とプーチン大統領との日ロ首脳会談は、「イルクーツク声明」(三月二十五日)を発表して終わりましたが、両国間の領土問題について、な んらの具体的な前進がなかったばかりか、いっそうの困難をつくりだすものとなりました。日本の各紙も、「依然隔たり大きい日ロ平和条約交渉」、「かすむ 『領土』 日本苦渋 日露交渉進展せず」などと、きびしい見方を示しています。

 いったい、このゆきづまりを打開する道はどこにあるのでしょう。そのためにも、あらためて、日ロ間の領土問題の原点はどこにあるのか、自民党外交のどこに問題があるのか、日本共産党はどう考えているのか――について明らかにしておくものです。

一、日ロ領土問題の原点と解決の基本方向は

(1)歯舞、色丹と千島列島全体が日本の歴史的な領土

 政府もマスコミも、ロシアとの領土問題というと「北方領土」という言葉を使います。「北方領土」という場合、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の四島のことをさしています。

 しかし、日本の歴史的な領土は、この四島だけではありません。歯舞と色丹は、もともと北海道の一部です。国後と択捉は、千島列島のなかの南千 島部分だけです。本当は、その北にある得撫(うるっぷ)から占守(しゅむしゅ)までの北千島までを含む千島列島全体が、日本の歴史的な領土なのです。

 このことが確定したのは、幕末から明治にかけての十九世紀後半のことでした。

 それまでは、千島列島と樺太(サハリン)島がどの国の領土であるかは確定しておらず、千島列島の南からは日本が、北からはロシアが、それぞれ 進出し、利害が衝突したところでは紛争が起こるという具合でした。それが、千島は日本の領土、樺太はロシアの領土となったのは、二つの条約が結ばれたこと によってでした。

 一つは、徳川幕府と帝政ロシア政府との間に結ばれた、一八五五年(安政元年)の「日魯(にちろ)通好条約」です。伊豆の下田で結ばれたこの条 約によって、択捉島と国後島の南千島は日本領、得撫島から占守島までの北千島はロシア領とし、択捉島と得撫島のあいだの海峡を日ロ間の国境とすることが決 まりました。しかし、樺太島については、両国間の境界を決めず、従来どおり日本人もロシア人も自由に活動できる“雑居の地”とされました。

 もう一つが、その二十年後、一八七五年(明治八年)にロシアの首都サンクトペテルブルクで結ばれた「樺太・千島交換条約」です。この条約に よって、樺太全島をロシア領とするかわりに、北千島を日本領としました。この結果、千島列島全体が最終的に日本の領土となったのです。この点では、日露戦 争の結果、日本がロシアから奪いとった南樺太とは根本的に異なります。

 このように千島列島は、日本が暴力や戦争で他国から奪った領土ではなく、平和的な外交交渉によって日本への帰属が最終的に確定したものであ り、日本の歴史的な領土を問題にするなら、一八七五年の樺太・千島交換条約で画定した国境が、日本とロシアとのあいだの歴史的な境界線となるべきことは、 日ロ外交史が示す自明の結論です。

(2)日本の歴史的領土を奪ったスターリンの大国主義的誤り

 その千島列島や北海道の一部である歯舞、色丹が、どうして旧ソ連、現在のロシアの領土にされてしまったのでしょう。それは、第二次世界大戦の 最終段階に、ソ連の指導者だったスターリンが、日本の歴史的領土である千島列島の併合を対日参戦の条件として強引に要求し、しかも平和条約の締結もまたず に併合を実行してしまったからです。

 もともと、第二次世界大戦の戦後処理については、ソ連が支持した「大西洋憲章(英米共同宣言)」(一九四一年)でも、ソ連ものちに加盟した 「カイロ宣言」(一九四三年)でも、連合国側は「領土不拡大」を最大の原則として確認していました。「大西洋憲章」には、「両国は領土的その他の増大を求 めず」と明記され、カイロ宣言は「右同盟国は自国のために何等の利得をも欲求するものにあらず。また領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」と強調し ていました。

 ところが、第二次世界大戦末期の一九四五年二月、クリミア半島のヤルタでおこなわれた米英ソ三国首脳による秘密会談でスターリンは、対日参戦 の条件に日本の正当な領土である千島のソ連への「引き渡し」を要求し、アメリカ、イギリスともこれを認めてしまったのです(「ヤルタ秘密協定」)。スター リンは、この会談で「ソ連が対日戦争に参戦するためには、ソ連が極東で欲している一定の利権が認められることが肝要である」とのべ、「利権の譲渡」を強く 要求したのです(当時の米国務長官ステティニアス著『ルーズベルトとロシア人』)。スターリンの要求は、「領土不拡大」というソ連も参加していた連合国の 戦後処理の原則を乱暴に踏みにじるもので、なんらの国際的道理ももたないものでした。

 しかもソ連は、千島列島だけでなく、ヤルタ協定で言及されなかった北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事占領し、戦後まもない一九四六年に、平和条約も問題にならないあいだに、千島列島と歯舞・色丹のソ連領への「編入」を一方的に強行してしまいました。

 その後、一九五一年にサンフランシスコ平和条約が結ばれた時、日本は、この条約の領土条項で、千島列島にたいする「すべての権利、権原および 請求権を放棄」すること(第二条C項)を強要されました。これは、この条約の起案者であるアメリカが、一九四五年のヤルタ協定の内容を不当にもちこんだも のでした。しかし、日本はヤルタ協定の当事者ではなく、そこでの秘密の取り決めに日本国民が拘束される理由は、どこにもありません。

 日ロ間の領土交渉にあたっては、「領土不拡大」の原則を乱暴にふみにじったスターリンの横暴、大国主義的な領土拡張主義にこそ、今日の日ロ両国間の領土問題の根源があることを、しっかり見定めなければなりません。

 ロシア連邦の政府自身が、旧ソ連の国際的地位を継承したものとして、スターリンのこの重大な誤りを正す責任を負っていることは、当然です。

(3)ロシアに領土返還を要求する日本国民の大義は、
スターリンの大国主義的な誤りの是正にある

 日本国民がロシアに領土返還を要求する根拠は、スターリンの大国主義的な誤りを正して、日本の歴史的な領土の回復を求めるという点にあります。そこに、領土問題の解決にあたっての、日本国民の側の大義名分があるのです。

 領土交渉にあたっては、米英ソ三国のヤルタ協定はもちろん、サンフランシスコ平和条約の「千島放棄条項」にも拘束されないで、歴史的な領土の 回復を要求するという、日本側の大義を明白にすることが、重要です。このことを抜きにしては、日ロ交渉のなかでも、また国際世論の前でも、日本の領土返還 要求の正当な根拠を明らかにすることはできません。

 ところが、歴代自民党政府は、平和条約の「千島放棄条項」を絶対化し、この条項を不動の前提とするという立場で、ソ連およびロシアとの領土交 渉にあたってきました。つまり、スターリンの大国主義の誤りを是正するという根本問題を、自民党政府の対ソ・対ロ外交の内容から、完全に欠落させてしまっ たのです。

 その結果起こったことは、日本が領土交渉において、国際的に通用する大義を失ってしまうという、重大な事態でした。

(4)領土返還要求の大義を失った自民党外交

 自民党政府が、領土返還要求の唯一の国際法的な根拠としたのは、サンフランシスコ条約での「千島放棄条項」を認める、しかし、択捉、国後、歯 舞、色丹の四島は千島列島には含まれないのだから、日本に返還すべきだという主張、すなわち、“南千島は千島にあらず”という主張でした。

 これは、きわめて無理な主張でした。

 歯舞、色丹は、歴史的にいって、北海道の一部であり、千島列島には含まれません。しかし、択捉、国後は千島列島の一部であり、だからこそ、南 千島と呼ばれてきたことは、日本と世界の常識でした。だから、“千島でないから返せ”という主張は、歯舞、色丹の二島については成り立ちますが、択捉、国 後については成り立ちません。

 そして、国後、択捉が南千島であり、したがって千島の一部であることは、その放棄条項を決定したサンフランシスコ会議でも、当然の解釈とされ ていました。アメリカ代表も、その趣旨で発言していました。日本政府代表として出席した吉田首相も、放棄した千島列島には歯舞、色丹が含まれないことを主 張しましたが、択捉、国後については何の異論もとなえず、当時、「千島南部の二島、択捉、国後両島」という発言をしています。また、この条約を批准した一 九五一年の国会での政府の答弁は、「千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含む」(外務省西村条約局長)という答弁で一貫していました。

 日本政府は、その五年後の一九五六年に、にわかにその立場を変更して、“南千島は千島にあらず”と主張しはじめたのです。それが、国際的に通 用しない、あとからのこじつけであったことは、当時、サンフランシスコ会議の参加国として、日本政府から見解を問われたイギリスやフランスの政府が、“南 千島は千島にあらず”という見解に同意することをきっぱり拒否したことにも、明確に示されました。

 自民党政府が、こうして、スターリンの大国主義の誤りを是正するという大義ある立場を投げ捨て、領土返還要求の根拠を、サンフランシスコ平和 条約の勝手な「解釈」論だけに求めるという道を選んだことは、ソ連およびロシアとの領土交渉における日本政府の立場をきわめて脆弱(ぜいじゃく)なものに しました。

 日本政府が“南千島は千島にあらず”と言い出してから、すでに四十五年という月日が経過しました。その間に、形だけの交渉は断続的におこなわ れましたが、交渉の内容――日本側が何を根拠にして領土返還を要求しているのか、ソ連あるいはロシア側がそれを拒否しているとしたら、どんな根拠をもちだ しているのか、そして日本側はそれにどのように反論しているのか等々については、日本国民も日本の国会も、政府から中身のある説明を受けたことは一度もあ りません。それは、日本政府の領土交渉の無力さを示すものです。

 領土交渉のこうした状態の根底には、日本政府が、スターリンの誤った領土拡張主義を正すという国際的な正義の立場を捨て、「千島放棄条項」の 枠内での領土返還要求というごまかしの道を選んだという、外交上の根本問題が横たわっていることを、いま、あらためて指摘せざるをえません。

二、領土問題での一方的譲歩を表明した「イルクーツク声明」

 自民党政府の領土交渉のこうした弱点は、今年三月二十五日、日ロ首脳会談で発表された「イルクーツク声明」のなかに、集中的な形で示されまし た。そこには、領土問題の根本にかかわる、三つの重大な問題点が含まれており、そのすべてが、領土問題での日本側の一方的な譲歩を表しているのです。

(1)北千島は最初から放棄

 「イルクーツク声明」(以下、「声明」)の第一の問題点は、領土交渉の対象を、択捉、国後、色丹、歯舞の四島に限定し、得撫以北の北千島については最初から放棄することを、あらためて確認したことです。

 「声明」は、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属にかんする問題を解決することにより、平和条約を締結」するとしています。この 「四島返還」論は、一九九三年の細川首相とエリツィン大統領との間の「東京宣言」でも明記され、一九九七年の橋本首相とエリツィン大統領との間の「クラス ノヤルスク合意」でも確認されてきたものです。

 「東京宣言」の際、わが党は当時不破哲三委員長の談話で、この立場は「北千島を最初から領土返還交渉の枠外におくと同時に、択捉、国後の南千 島についても領土返還要求の国際法上の根拠を失わせるものである」(「赤旗」一九九三年十月十四日付)と指摘しました。それは、この立場が最初から北千島 を放棄するというだけにとどまらず、“南千島は千島にあらず”という国際的に通用しない立場と一体のものだからです。

 日本が、ロシアに領土返還を要求する最大の論拠は、千島列島全体が日本の歴史的領土であるにもかかわらず、第二次大戦後の不公正な処理によっ てロシアに引き渡されたものだからです。それが、北千島は最初から領土返還交渉の枠外に置くというのでは、南千島の国後、択捉の返還要求も根拠がないとい うことになってしまうからです。

(2)歯舞、色丹の早期返還の道を閉ざす

 「声明」の第二の問題点は、歯舞、色丹の早期返還の道を閉ざしてしまったことです。

 歯舞、色丹は北海道の一部であり、もともと千島放棄条項の対象とはなりえない島々です。この点については、サンフランシスコ条約批准国会で日 本政府自身が、「色丹島および歯舞島が北海道の一部である事実は連合国の絶対多数の承認を得ておるところ」(西村条約局長)、「千島列島の中には歯舞、色 丹はこれは全然含まれない」(草葉外務政務次官)と明言しています。

 ですから、歯舞、色丹は、問題の性格からいって、平和条約の締結を待つことなく、その速やかな返還を要求して当然なのです。現に、日本共産党 は、旧ソ連の時代に、政権党であったソ連共産党と領土交渉をおこなったさい、平和条約の締結にいたる以前に、日ソ間で中間的な条約を結び、歯舞、色丹の二 島をまず返還すべきだと提案し、ソ連側に迫りました(一九七九年)。

 この点で、「声明」が、一九五六年の「日ソ共同宣言」を、「平和条約締結にかんする交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」と確認 したことは、重大です。その「宣言」では、歯舞、色丹の日本への「引き渡し」について、両国間の「平和条約が締結された後」と明記されているからです。こ れを、領土交渉の出発点を設定した「基本的な法的文書」として扱うということは、日本側にとっては、平和条約以前に歯舞、色丹の返還問題を解決する道を閉 ざすという意味をもつものです。それはまた、ロシア側には、歯舞、色丹の返還を領土交渉の終着駅にしようとする思惑に有力な根拠を与えることになります。

 政府は、この部分を含む「宣言」の“有効性”を初めて両国の共同文書に明記したことを今回の首脳会談の大きな“成果”としていますが、成果どころか、平和条約締結以前の二島返還への道を閉ざしてしまったものであり、重大な後退というべきです。

(3)国後、択捉についても施政権の放棄という日本の譲歩だけが残った

 国後、択捉についても今後の交渉への新たな具体的手がかりはなんら得られませんでした。そればかりか、一方的な譲歩だけが残りました。

 日本政府は一九九八年の川奈での日ロ首脳会談のさい、択捉と得撫のあいだを想定した「国境線の画定」だけの合意で平和条約を締結し、国後、択捉の「施政権」はロシア側に残してよいという一方的な譲歩の提案をおこないました(橋本首相の「川奈提案」)。

 しかし、「施政権」問題の解決は先送りするといっても、いったん平和条約を結べば、戦後国境・領土問題は最終的に解決したと見なされ、施政権 の返還の保証はどこにもありません。これは事実上の放棄論に等しいものです。この川奈提案は今なお当時の両国首脳会談の記録に残っています。それどころ か、昨年十一月のブルネイでの日ロ首脳会談のさい、森首相は「川奈提案は今でも最良の案だと考えている」とのべて、それまで非公開の交渉で内々の提案とさ れていたものをみずから公表し、再確認してしまいました。こうして、ロシア側は何らの譲歩もしないのに、日本側が施政権放棄という一方的な譲歩の言明をお こない、その言明だけが日ロ交渉の記録に既定事実として残るという、重大な事態を招いてしまったのです。

 この足元を見すかされたのが、今回のイルクーツク会談です。日本側は、「日ソ共同宣言」を“初めて公式文書で明記したことにより歯舞、色丹の返還は法的に確認された。今後は国後、択捉の帰属問題の交渉をおこなう”などといっています。

 しかし、ロシア側の解釈はそうではありません。対日交渉を担当しているロシュコフ外務次官は四月四日、「宣言」にもとづいて歯舞、色丹を「引 き渡す」場合、残りの国後と択捉の帰属にかんする交渉を継続することは意味がなくなるとの立場を示しました。もし歯舞、色丹を返還したら、もう国後と択捉 の帰属問題は交渉しないというのです。

 このように、ロシアへの日本側の譲歩につぐ譲歩というのが、森・プーチン会談の実質だったのです。

 結論  一方的譲歩や小手先の外交では前進できない

 「イルクーツク声明」にいたる領土交渉の全経過が示しているのは、一方的な譲歩や小手先の対応だけの外交では、領土問題は解決できない、ということです。

 日本政府は近年、対ロ交渉のゆきづまりから抜け出そうとして、国民に真実を隠した密室交渉を進め、北千島放棄を確認するだけでなく、四島につ いても一方的な譲歩を重ねてきました。自民党の内部には、歯舞・色丹の返還だけで平和条約を結んではどうかといった声もあると伝えられています。この点で は、前述のロシュコフ発言と一致します。

 もう一つが、経済援助を領土問題打開の梃子(てこ)にしようとしたり、首脳間の個人的な“友好”関係に頼ったりすることでした。こうした小手先の対応では、積極的な結果をもたらすどころか、問題をいっそう複雑にするだけというのが、この間の教訓です。

 「イルクーツク声明」発表後、森首相は記者会見で、「これまでの交渉の姿を明確な形で総括した」とのべましたが、たしかに国際的大義をもたな い自民党の無原則外交のもとでは、領土返還が前進するどころか、一方的譲歩と後退しかもたらさないことを証明したという点で、自民党外交の破綻(はたん) を「総括」するものといえるでしょう。

 自民党の領土返還交渉がなんらの大義もなしにおこなわれていることは、三月二十七日、衆院本会議でのわが党の山口富男議員の質問でも鮮明にな りました。森首相は、山口議員が「いったいどういう根拠と大義を示してロシアとの領土交渉にあたったのか」と質問したのにたいし、なにひとつ大義を示すこ とができず、北千島を最初から放棄した一九九三年の「東京宣言」など日ロ間の合意事項を交渉指針としていると答えるだけでした。ロシアとの領土交渉にあ たって、そのロシアとの合意事項を指針にするなどとは、外交とは何であるかも知らないものの議論としかいわざるをえないものです。

 結局、自民党外交がもたらしたものは、北千島は完全放棄、国後、択捉が返還される可能性は限りなく小さい、歯舞・色丹の「引き渡し」は前途遼遠(りょうえん)――ということでしかありません。

三、問題解決への道を切り開くために 日本共産党の立場と見解

 では、どうすれば領土問題を解決することができるのでしょうか。

 日ロ間の領土問題は、前述のとおり、第二次世界大戦終結のさいスターリンが「領土不拡大」の原則を破り、千島と歯舞、色丹を一方的にソ連に併 合したことから起こったものです。したがって、問題解決の基本は、この大国主義的、覇権主義的な誤りを是正することにあります。そのためにも、一国の正当 な歴史的領土を他国が併合することは許されないという、二十世紀が到達した国際法の根本原理にたって、今後の交渉にあたることです。この立場から、わが党 は、領土

交渉にあたる基本的な態度として、次のことをあらためて提案するものです。 

(1)ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」や
サンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提としないこと

 対ロ領土交渉にかんする日本政府の立場は、サンフランシスコ条約の千島放棄条項の絶対化です。ここから、“南千島は千島にあらず”という国際的に通用しない無力な奇弁も出てくるのです。これを根本から正すべきです。

 ソ連がヤルタ会談で対日参戦の条件の一つとして千島列島のソ連への「引き渡し」を要求したこと、それに米英が応じたことは、ともに「領土不拡 大」という戦後処理の原則に明白に背反する行為でした。その後、サンフランシスコ条約にアメリカの要求で「千島放棄条項」が入れられたことは、ヤルタ協定 での不公正な密約を具体化するものでした

 問題の公正な解決には、戦後処理のこの不公正を国際的な民主主義の道理にたって是正することが欠かせません。そのためには、ヤルタ協定やサンフランシスコ条約の千島関連条項を日ロ交渉の不動の前提としないことです。

 サンフランシスコ条約の個々の条項に明記された内容がその後、条文の公式な取り消しなしに、実際に変更された事例はあります。たとえばアメリ カは沖縄の施政権を確保しましたが、一九七〇年代はじめに、米軍基地の問題は残されたものの、施政権は返還されました。沖縄の祖国復帰が沖縄県民をはじめ とする国民的な強い要求と運動によってかちとられたことは、周知のとおりです。

 日本は、ロシアの世論にたいしても、世界の世論にたいしても、歯舞、色丹と千島列島が日本の歴史的領土であること、そのロシアへの併合が国際 道理に照らして不公正なものであり、それをもたらしたのがスターリンの大国主義的誤りであったことなどを正面にかかげ、訴えることこそ必要です。

(2)基本に十九世紀後半の日ロ両国政府間の
平和的な領土交渉の到達点をおくこと

 日ロ両国が、近代国家形成の過程で、戦争などの手段に訴えることなしに国境を画定しあった十九世紀後半の平和的な領土交渉の到達点を、両国間の国境画定の出発点、基準とすることが、強く求められています。

 この時期の国境画定にかんしては、すでにのべたように、一八五五年の日魯通好条約と一八七五年の樺太・千島交換条約があります。日本共産党 は、領土問題解決の歴史的な基準としては、当時の領土交渉の最終的な到達点である一八七五年の樺太・千島交換条約にもとづくべきだと主張してきました。平 和的な交渉の結果、同条約によって最終的に全千島列島が日本の領土と決められたのですから、全千島を返還の対象として平和条約締結交渉を進めることには、 十分な根拠があります。

(3)必要なら段階的な返還のための交渉をおこない、
平和条約は領土問題が最終的に解決されたときに締結すること

 歯舞、色丹は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島には含まれていないのですから、日ロ平和条約締結を待たず、早期の返還を要求すべきです。そのさい、必要なら、両国間で中間的な条約を結ぶことも可能です。

 日ロ交渉は国家間の交渉であり、領土返還要求のすべてを一挙に実現できない場合もありうることです。戦後五十六年間の経過や現状を考えれば、なおさらそうです。

 その場合でも、段階的な返還ということで交渉に臨むべきであって、合意できなかった部分の放棄を安易に宣言すべきではありません。ましてや、日本政府が、すでに指摘したような一方的な譲歩を提案することは、絶対に容認できないことです。

 そして平和条約は、領土問題が最終的に解決され、日ロ両国間の境界が最終的に画定されたときに締結するべきです。

 さらに、外交交渉にあたって、日本側が、返還されるべき島々については、非軍事化すること、自然環境を保全すること、現在の住民が返還後もそ こでの定住を希望すれば彼らの生活と権利を保障するための措置をとることを、今から明らかにしておくことは、重要な意味をもつと考えます。

 このような立場を確立してこそ、真剣な領土交渉もできるし、ロシアの世論や国際世論にも訴えることができます。

 日本共産党は、これらの提案の実行をめざし、日ロ領土問題の公正な解決のために、今後も全力を尽くすものです。
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2001/04/post-296.html

13. 中川隆[-12776] koaQ7Jey 2019年1月23日 21:27:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
共産党だけが北方4島ではなく全千島列島返還を主張中 2016.10.06


【返還を求めるのは北方4島だけでない?(外務省HPより)】


 12月のロシア、プーチン大統領の訪日を控え、北方領土返還交渉に日ロ間で進んでいる。「まず色丹・歯舞の2島を返還させるのか」「まず4島についての日本の主権をロシアに認めさせるのか」に注目が集まるなか、“異色の主張”を掲げているのが日本共産党だ。

 日本の主要政党のなかで唯一、共産党だけはカムチャツカ半島のすぐ南にある占守島以南の「全千島列島」の返還を要求している。同党HPに志位和夫・委員長名で公表された文書には〈全千島列島が返還されるべき正当な根拠をもった日本の領土〉とある。

 1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄しているが、なぜ共産党はそれを丸ごと取り返すという「大きな要求」を掲げるのか。党本部の担当者はこう説明する。

「千島列島は歴史的にも日本の領土で、先の戦争で武力によって奪われた。ロシアと平和条約を締結するのであれば、4島のみならず千島列島の全島返還を求め、戦争前の状態に戻すことが正しい筋道でしょう」

 この話は、前提に微妙な食い違いがある。日本政府の立場は〈そもそも北方四島は千島列島には含まれません〉(外務省HPより)というもの。

 一方の共産党は、放棄した千島列島に択捉・国後が含まれていたとする立場だ(歯舞・色丹は北海道の一部)。

 たしかに1951年の講和条約批准にあたっての国会審議で外務省の担当局長は“千島列島に択捉・国後が含まれる”という旨の答弁をしている。共産党は、政府が1955年からの日ソ国交正常化交渉のなかで、〈突然それまでの立場を変え、「国後、択捉は千島列島ではないから返還せよ」と主張〉(同党HP)したと批判している。いったん放棄したものの一部を“やっぱり放棄していない”と言を翻したりするから、交渉が進まない──というのが共産党の主張である。

 では、今回浮上した「歯舞・色丹の2島引き渡し」については、どうみるか。この2島が千島列島ではなく北海道の一部、という点は、政府も共産党も一致している。

「まだ政府がその通り交渉をするかわからないのでコメントは控えたいが、国境を曖昧にしたまま、“まず2島返還で合意”などというやり方は、後世に火種を残す可能性が高い。そんな交渉で国民は納得するか疑問だ」(前出の党本部担当者)

 共産党は「全千島列島返還」を求め続けるようだが、その実現のハードルが高いことは間違いないだろう。

※週刊ポスト2016年10月14・21日号
https://www.news-postseven.com/archives/20161006_453465.html

14. 中川隆[-12775] koaQ7Jey 2019年1月23日 21:36:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

党略で樺太を投げ棄てた日本共産党  ロシアを利するおかしな領土解釈

別冊正論25号『「樺太−カラフト」を知る』より
篠原常一郎(元日本共産党国会議員秘書) 
https://ironna.jp/article/2786?p=1

返還要求を「広さ」で競う?


 もう三十年くらい前だ。私が駆け出しの「職業革命家」(日本共産党の専従職員を指す党内用語)だったとき、衆議院議員候補者の秘書をさせられ、党中央委員会の幹部でもあった候補者の会話をごく間近で聞くことができた。中選挙区制度下での解散・総選挙を受けて選挙区内を朝から晩まで共に駆け回り、様々な階層の人たちを集めた小集会や演説会を日に何件もこなしていた。


 ソ連邦が崩壊するより何年も前で、「ソ連に奪われた北方領土の返還にどう道筋をつけるか」という問題について、集会に出席した人からよく質問が出た。そんなとき、党機関紙「赤旗」の外信部記者として海外駐在経験もある候補者氏はうれしそうにこう説明したものだ。

「ソ連から戦争で奪われた領土を取り返すことでは、日本共産党が主張しているやり方が一番筋の通ったものです。『北方領土』の四島返還だけではなく、全千島の返還を主張しています。これは歯舞、色丹、択捉、国後などの四島以外の放棄を決めたサンフランシスコ条約第二条C項の廃棄を通告すれば可能です」

「日本共産党は、日露戦争でロシアから賠償として奪った南サハリン(樺太)を除き、日露間の正常な交渉で平和的に画定した領土である全千島列島の返還を求めます。どの政党よりも一番広い範囲の返還をソ連に求めていることになるのですよ」

 質問者は「へえ、それはすごいね。共産党だからソ連の仲間だと思ったのに、そこまでものをいうんだね」「そんなに大きな広さの返還を求めているなんて、知らなかった」などと驚いていたように思う。

 すると、候補者氏、さらに喜んでこう付け加えたものだ。

「日本共産党は自主独立の党で、ソ連でもアメリカでも中国でも、どんな大国に対してもきっぱりものを言ってきましたから」

 平成初頭までの党最高権力者、宮本顕治が打ち出していた「自主独立路線」と結びつけて、ソ連からの領土返還論を日本共産党は語っていたのだ。この「自主独立」は、不破哲三など党最高指導者が懐柔され、中国共産党政権の海洋覇権追求のような対外膨張主義にも一切もの申さなくなった最近の日本共産党が、口にしなくなって久しい。

 私が候補者氏から「要求面積が最も広い返還」論を聞いた昭和六十年前後から、日本共産党は「四島返還を求める立場にも柔軟に対応する」と称し、毎年二月七日の「北方領土の日」の「北方領土返還要求全国大会」に参加するようになった。

 その一方で、相変わらず「日本政府は、千島の南半分の国後、択捉と、千島に含まれない歯舞、色丹のみ返還を求めています。これは日本政府が、一九五一(昭和二十六)年に各国と結んだサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄するという重大な表明をおこないながら、五六年になって『国後、択捉は千島に含まれない』との見解を出し、歯舞、色丹と合わせ『北方領土』として返還を求め始めたからです。この立場は国際的には通用せず、日ロ間の交渉の行き詰まりと迷走の一因」(平成二十二年一月二十七日付赤旗「千島問題をなぜ『北方領土問題』と呼ぶ?」)など、「全千島返還」論を唱える自党のみの正しさを言い続けている。

選挙目当てのご都合主義


 当時、若さゆえに党の路線と「科学的社会主義」(マルクス・レーニン主義の言い換え)に頭をしばられていた私は、こうした日本共産党のやり方に疑問は持たなかった。しかしその後、国会論戦や政策準備のため、政府側のレクチャー(担当省庁職員による説明)聴取や資料調査を長期にわたって経験し、さらに党から離れるに至る中で見方が変わった。

 自分なりの判断として「全千島返還」論など日本共産党の領土問題への主張と対応は「選挙目当てのご都合主義」にすぎないもの、と考えるようになったのである。

 理由の第一は、平和条約締結へ向けたソ連・ロシアとの領土返還交渉の経過と到達点を全く無視した、非現実的な議論であることだ。

宮本顕治元党中央委員会議長(右)と不破哲三前党中央委員会議長
宮本顕治元党中央委員会議長(右)と不破哲三前党中央委員会議長(左)

 ソ連時代、さらにソ連崩壊後はロシアのエリツィン、プーチン政権との交渉で、ともかくも昭和三十一年の日ソ共同宣言を出発点に領土返還交渉を行うという認識が、日露両国で共有されたのが到達点である。平和条約締結に向けて歯舞、色丹の「二島返還」は最低ラインで、後の問題は協議していくというものだ。

 日本共産党の「全千島返還」論は、この到達点を帳消しにして一から交渉し直せというものに等しい。現段階では北方四島を含め全千島、南樺太を不法占拠ながら実効支配するロシアがこんな議論に応じることは、現実的にまったく考えられない。

 日本政府が旧島民を含む国民世論を背景に交渉してきた到達点(不十分なものにせよ)に冷水をぶっかける議論が「全千島返還」論だ。こんな乱暴な主張は、政治的にどちらの国を利するものか明白である。

 理由の第二は、日露間の領土形成の歴史的事実を覆い隠し歪めた議論が「全千島返還」論の底流にあることだ。まず、「南サハリン(樺太)は戦争でロシアから奪ったもの」とする解釈が、樺太をめぐる我が国とロシアの歴史の事実をまったく無視したデタラメである。

 さらに「千島列島全体が一八五五年に江戸幕府と帝政ロシアが結んだ日魯通好(和親)条約と、七五年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約とにより、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」(同)という説明は、幕末―明治初期の日露の力関係や帝政ロシアの帝国主義的ふるまいに目をつぶったもので不正確きわまりない。これらについては、後述する。

北方領土をめぐる見解について説明する日本共産党のホームページ
北方領土をめぐる見解について説明する日本共産党のホームページ

 結局、日本共産党の「全千島返還」論は、歴史の事実の中から選挙目当ての自己宣伝に都合のよいものを拾って、単純な理屈になるようつなぎ合わせたものとしかいいようがない。不勉強な候補者や議員でも有権者に説明しやすく加工した子供だましの「日露外交」論なのだ。

 まあ、共産党員の身内で何を信じようが勝手だが、これをデマゴギーよろしく有権者の間へ広範に流布し、国政に影響を与えることは日露交渉に有害な影響を与えかねないし、現実にそうだったのではないかと、私は危惧している。


樺太の開拓に先んじた日本


 樺太という名前は、かつて東北地方から北海道、千島列島、樺太全域、カムチャツカ半島に至るまで分布・居住していたアイヌ民族の言葉でこの地を呼んだ「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」(神が河口部に作った島)の中の「カラ・プト」が起源だ。

 一方、ロシア側が現在用いている地名「サハリン」は、同地を清王朝時代にツングース系の満洲語で呼んだ「サハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ」(黒龍江河口の対岸の島)の最初の部分から来ている。これは、十八世紀に清朝がイエズス会修道士に命じて黒龍江沿岸を測地測量させた際に命名されたもので、「黒龍江(アムール川)河口にある島」という意味では、アイヌ語と共通だ。

 南北約千`にわたり面積は北海道より小さい樺太は、もともと周辺国(大陸や半島の歴代王朝)には地形的つらなりから「倭・日本の一部」として認識されていた。日本による同地の活動で最も古くは、飛鳥時代に斉明天皇(五九四―六六一)が阿倍比羅夫(あべのひらふ)に行わせた蝦夷征伐に続く粛慎(しゆくしん)(黒龍江沿岸から樺太周辺にかけて生活していたツングース系狩猟民族)討伐とする説がある。


https://ironna.jp/article/2786?p=3
「正保御国絵図」には樺太(上)や千島(右)などが書き込まれている

 十三世紀は、モンゴル帝国(元)と樺太の原住民、それに日本(鎌倉幕府が蝦夷(えぞ)管領(かんれい)を配置し対応)が同地を軸に覇権を争った。一二六四年に元が樺太に軍勢を派遣し、彼らが「骨嵬(クギ)」と呼ぶ現地民を征服したが、八四年には「骨嵬」側が反乱。九七年には蝦夷代官(管領)の安藤氏が樺太原住民(アイヌ民族など)に加勢し、彼らを率いて大陸の黒龍江沿岸まで攻め入って元軍と交戦した。

 結局、十四世紀になって「骨嵬」が元に朝貢するようになったが、その後も蝦夷地(北海道)を経由して日本との交流が継続された。

 ロシアでの統一帝国(ロマノフ朝)成立が一六一三年であり、樺太周辺での日本の活動の起点を粛慎討伐に置くなら、これより千年近く先んじている。ロシア帝国がその勢力圏を黒龍江河口周辺に届かせ始めたのは一六四四年、同地に辺境討伐のコサック先遣隊が到達してからだ。

 江戸時代に入っていたこの時期、松前藩が樺太について幕府に蝦夷地の北にある大きな島として地図を提出。これを含め各藩から提出された地図を基に幕府がまとめた日本全図「正保御国絵図」に樺太は描き込まれていた。


 以後、松前藩を軸とした開拓の拠点づくりが進み、一七五二年には樺太での商取引から租税徴収を行う樺太場所(場所請負制度=米を作れない蝦夷地特有の租税徴収システム)が設けられた。一方、北海道太平洋岸と千島は、幕府直轄領とされたので、樺太は松前藩の領地経営の上で、重要な位置づけのものとなった。

 以上の経過を見るなら、ロシアはもとより、周辺国よりも先駆けて日本は樺太の開拓に着手していたことがわかる。


間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力


 ロシア帝国が樺太に対して領土的野心を示し始めたのは、十九世紀に入ってからだ。十八世紀後半にはヨーロッパの大国に数えられるに至ったロシア帝国は、シベリア開発に本腰を入れると共に太平洋岸への進出を図った。

 その中で、鎖国政策をとっていた日本に開国と通商を求めるようになったが、文化三(一八〇六)年から四年にかけて、外交官ニコライ・レザノフ(一七六四―一八〇七)配下のロシア海軍艦船と将兵は、通商を日本から拒絶された報復として幕府直轄領の択捉島や松前藩領内の礼文島、樺太の留加多(るうたか)を武力攻撃した。

 これを受けて、幕府は蝦夷地や千島、樺太(北蝦夷地)全体を直轄領とし(その後、文政四=一八二一=年に一旦すべてを松前藩に返還)、その防備のために秋田藩、弘前藩、仙台藩、会津藩への出兵を命じた。

 一八〇八〜〇九年には、ロシア海軍の礼文島襲撃の際に同地に幕吏として赴任していた間宮林蔵(一七八〇―一八四四)が樺太全域と黒龍江下流域の探検調査を実施。伊能忠敬(一七四五―一八一八)から測量技術を伝授された間宮は、享和三(一八〇三)年から伊能と共に蝦夷の測量・地図作製に参画した。その経験を生かして樺太の探検に取り組み現地の地勢を正確に把握するとともに、最北端までの全域踏破により樺太が完全な島であることを確認した。

 この探検の際、間宮らは樺太最西端のラッカ岬に「大日本国国境」と刻んだ国標を設置している。これらは、本来、樺太に関する日本の領土的主張の歴史的根拠として不足のない事績であり、間宮の歴史的功績というべきものだ。

 また、文化元(一八〇四)年以降、幕府は北蝦夷地のアイヌの住民数を把握(同年で二千百人)。以後明治八年まで、住民数は幕府・明治政府が掌握するに至っている。

 幕末期が近づく十九世紀半ばには、東アジア進出へのロシア帝国の野心がいっそう強まり、引き続き江戸幕府への開国要求の機会を狙うとともに東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ(一八〇九―八一)は、海軍に樺太調査を命じ、一八四八年に初めて艦船によるタタール海峡(間宮海峡)の通航を実施。ムラヴィヨフは、樺太領有をめざす対日強硬論者で、その後も軍事力をちらつかせながら日本側に譲歩を迫り続けた。

ニコライ・ムラヴィヨフ
ニコライ・ムラヴィヨフ

 安政元(一八五五)年末に日露和親条約が下田で締結された。千島については択捉島と得撫島の間に国境線が引かれ、樺太については「界を分かたず是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)」とした。幕府は「これまでどおり日本領であり、国境を設けるようなことはしない」という認識で、ロシア人の居留も黙認した。このため安政六(一八五九)年にムラヴィヨフ自ら七隻の海軍艦隊を率いて江戸・品川に来航し、幕府との交渉で樺太はロシア領であると強硬に主張した。

 以上のように、ロシア帝国は十九世紀の初めから後半にかけて執拗に日本側に軍事力を背景にした圧力をかけ続け、樺太をわがものとし、さらにそこを足場に日本本体にも進出する野心をあらわにしていた。

 江戸まで押し掛けたムラヴィヨフの横柄な要求を、幕府は退けた。しかしながら、ロシア以外にも中国大陸や東南アジアに西欧列強(英、米、仏など)が帝国主義的に進出し、日本にも開国を迫る中、長い治世を鎖国状態で推移した江戸幕府は、あまりに非力であった。

 こうした圧力下、樺太ではロシアの武力による支配が着実に広がり、日本側との摩擦が強まったので、慶応三(一八六七)年に幕府が国境画定交渉をロシアにもちかけるが、逆にロシアの新規進出を認めてしまう内容の「仮規則」を結ばされてしまう。これでロシアの支配が一層強まり、明治八(一八七五)年、樺太・千島交換条約で日本は樺太を放棄せざるを得なかったのである。

日露講和会議が行われたアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠
日露講和会議が行われたアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠

 当時の日本としては、自分のものである大きな島を、元々は自分のものだった小さな島と引き換えに泣く泣く手放したという感が強かったとされる。明治政府内も「北辺の樺太を手放して、北海道開拓に力を集中することが長期にわたる国益につながる」とする黒田清隆(開拓次官)らの「樺太放棄・北海道防衛」論と「日露が住み分ける国境を樺太に画定すべし」という副島種臣外務卿(外相)らの「住み分け」論に割れていた。加えて「征韓論」を主張する重鎮たちが下野するなど、新政府として基盤が安定しておらず、大国ロシアに屈せざるを得なかった。

 これが、日本共産党の言うところの「戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」した樺太や千島に関する日露両国の経過だ。「平和的な交渉」が大国ロシアの軍事恫喝を背景にしていたことは、歴史の事実をたどれば誰にでもわかる。


「南樺太割譲」は過小な失地回復


 樺太、千島をめぐる日露間の領土、国境変更がなされる次の機会は、明治三十八(一九〇五)年の日露戦争終結にともなうポーツマス講和条約だ。日本はロシアより北緯五十度を境に樺太南部の引き渡しを受けた。

 日本勝利が確実となった同年六―七月にかけて陸軍第十三師団が樺太全域を占領した。これが八月からアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠で開始された講和会議で日本側有利をもたらす力のひとつとなった。それは元々日本が開拓した土地を取り戻したとして、日本史上初の近代戦に疲弊した国民を一面で喜ばせた。

 ところが、同九月五日に調印された講和条約では「朝鮮での日本の優越権の承認」「ロシアが保有する東清鉄道の南満州支線及び租借地・炭鉱の日本引き渡し」「ロシアが清より与えられた関東州(遼東半島南部、旅順・大連など)の租借権の日本引き継ぎ」「日本による沿海州漁業権獲得」が南樺太回復以外の成果すべてであった。「戦争に勝ったというのに賠償金もとれず、元々日本のものであった土地の一部を返されただけだ」と、多くの日本国民が失望。「日比谷焼き討ち事件」の暴動にも発展した。

覇権国家による戦争や侵略を防ぐための安保法制を「戦争をするための法律」とすり替える日本共産党。樺太を「戦争でロシアから奪った」と歪曲するのと同じだ(同党ホームページ)
覇権国家による戦争や侵略を防ぐための安保法制を「戦争をするための法律」とすり替える日本共産党。樺太を「戦争でロシアから奪った」と歪曲するのと同じだ(同党ホームページ)

 講和による日本の獲得要件が、国民の希望とかけ離れていたのは、陸軍の奉天会戦や旅順攻囲戦、海軍の日本海大海戦など劇的な勝利とは裏腹に、武器弾薬確保や戦費調達に汲々として、これ以上の継戦は難しいというタイミングだったからだ。強気で要求を百%ロシアに呑ませられる状況ではなかった。

 こうした中で樺太回復が南部にとどまったことが、国民に相当なマイナス意識を抱かせたことは、樺太千島交換条約から三十年の時点では間違いないだろう。

歴史歪曲は国民的議論で克服を


 日露戦争の終結と講和まで俯瞰すれば、日本が「樺太の一部をロシアから戦争で奪った」といえる実態がないことは自然な歴史的理解だといえる。日本共産党の言い分は、樺太をめぐる日本とロシアの歴史に目をつぶるデタラメきわまるものだ。

 その後、第二次世界大戦末期にソ連軍が「火事場泥棒」的に南樺太、全千島列島と北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事侵攻して占領した昭和二十年までを見ても、南樺太の 領有が日本と帝政ロシア・ソ連との国家関係を阻害したことは一度もない。一九一七(大正六)年の社会主義革命でソヴィエト・ロシア共和国が成立し、日本は米英仏などと軍事干渉してシベリアに出兵したが、ソ連邦成立後の一九二二年までに撤兵。尼港(虐殺)事件の賠償保障で占領した樺太北部からも大正十四年の日ソ国交樹立に伴い撤退した。

 以後、日本は昭和十年から満洲や朝鮮においてソ連やその衛星国(モンゴル人民共和国)が絡んだ国境紛争に何度か関与したが、樺太国境で武力紛争は生じなかった。それどころか、尼港事件の賠償として日ソ基本条約で取り決めた北樺太石油利権獲得で、日本はオハなど油田開発に資金をつぎ込んで事業を展開した。

 日独伊三国同盟成立時にソ連側サボタージュで石油の積み出しが妨害されるなど紆余曲折があったものの、昭和十六(一九四一)年の日ソ中立条約締結を機に、油田と附帯施設すべてをソ連側に譲渡した。

 以後、ソ連の日ソ中立条約廃棄通告が誤解に基づくと判明しながら、その有効期限内の昭和二十年八月九日に条約違反の対日宣戦を行ったことが決定的だった。日本が降伏条件を定めたポツダム宣言を受諾し、米戦艦ミズーリ号上で日本とソ連を含む連合国の各国代表が降伏文書に調印(九月二日)後も、ソ連は九月五日まで、最高指導者スターリンが宣言した「日露戦争の報復」を掲げた南樺太、千島列島、歯舞・色丹への軍事侵攻を停止しなかった。

 結果として、樺太での真岡郵便通信局での九人の女性交換手自決や三船殉難事件(樺太からの婦女子避難船三隻がソ連潜水艦の攻撃で沈没)などをはじめ、南樺太で生活を営んできたアイヌ民族を含む日本国民は多くの死傷者を出した上に故郷を追い立てられたのである。

 以後、樺太はソ連によってサハリン州とされた。日本政府は、公式にはソ連を引き継ぐロシア連邦との平和条約締結がされない限り、北方四島は日本固有の領土であり、樺太南部や千島列島(北千島)は帰属が画定していない地域としている。ただ、千島列島と南樺太はサンフランシスコ条約で放棄したとして、昭和三十一年の日ソ共同宣言以降、ソ連・ロシアとの返還交渉の対象にしたことはない。

 しかし「南樺太は日本がロシアから戦争で奪った」とする日本共産党の言い分は、樺太開拓に命をかけた先人の事績に泥を塗り、存命者のある南樺太出身者(多くは北海道各地に避難し、再出発した)の心を傷つけるものだ。こんな虚偽の前提に立つ「全千島返還」論は、国民的議論の中で克服されなくてはならない。


 歴史の事実の中での樺太をめぐる経緯、国民生活史の中での位置づけを明確にしてこそ、仮に返還交渉の焦点が北方四島であったにしろ、日本の歴史的主張の正当性を、ロシアを含め国際的に広く知らしめ交渉妥結へ進める道が拓かれるはずだ。

篠原常一郎(元日本共産党国会議員秘書) しのはら・じょういちろう 
昭和三十五年東京生まれ。五十九年立教大学文学部卒業。

臨時教員などを経て六十年日本共産党職員に。平成七年党中央委員会に移り、党政策委員長で参院議員だった筆坂秀世氏ら三人の国会議員公設秘書を務める。KSD(中小企業経営者福祉事業団)事件や国後島「ムネオハウス」事件、川辺川ダムなど公共事業問題、沖縄の米軍射撃演習問題などの調査、論戦準備に従事した。十六年に党の査問を受けて除籍された後、政治評論や共産党批判を展開。主な著作に『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』(徳間書店)など。ソ連、中国その他旧社会主義国の政治外交・軍事史や共産主義理論の研究・批判も続けながら国会・地方議員のアドバイザー、海外事業コンサルタントとしても活動している。

15. 中川隆[-12759] koaQ7Jey 2019年1月24日 14:30:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2019.01.21
旧ソ連の北方領土占領、米国が軍事支援していた…歴史の定説を覆す発見文=粟野仁雄/ジャーナリスト
https://biz-journal.jp/2019/01/post_26352.html



古釜布の旧集落に建つ、ソ連の国後島占領記念碑(「Wikipedia」より/敷香)

「平和条約へ向けて加速的に」と意気込む安倍晋三首相は21日から訪露する。だが実は北方領土問題において、四島をめぐる現代史が国民には知らされていない。

 2017年12月30日付北海道新聞に貴重な記事が載った。タイトルは『ソ連四島占領 米が援助』。ロシア史の大御所、和田春樹東大名誉教授が「北方四島を含む旧ソ連軍の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本国内ではほとんど知られておらず、発見と言える。四島占領はソ連が勝手に行ったのではなく、米ソをリーダーとする連合国の作戦として行われたということを示している」と談話を寄せた記事を以下に引用する。

「1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による、北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。(中略)振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソは『プロジェクト・フラ』と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。米国は45年5〜9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4〜8月にはソ連兵約1万2000人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという。訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島の作戦に投入された。8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日までに完了した」

 日本のポツダム宣言受諾にもかかわらず、ソ連は日ソ中立条約を破棄し千島列島を南下、米軍がいないのを見計らって択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻し日本人を追い出したという「ソ連軍独断の占領」定説を覆す大ニュースは根室振興局が取り組む北方領土遺産発掘・継承事業の成果。同局の谷内紀夫前副局長は、ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べたイーゴリ・サマリン氏(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の論文などを発見した。

都合がよかった「ソ連の独断占領」


 千島歯舞諸島居住者連盟の河田弘登志副理事長は「千島でソ連と戦った元日本兵は、アメリカの船を砲撃しようとしたらソ連の荷物を積んでいたので撃てなかった、と話していた」をあり得ることと見る。撃てなかったのは日ソ中立条約があったからだろう。同連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かない。そうしたことからも、米国のソ連軍支援は十分考えられる事実では」と話す。

だが、同連盟の宮谷内亮一根室支部長が「驚いた。北方領土のソ連の占領にかかわっていたのならアメリカにも責任があるのでは」と話すように、初耳という元島民が多い。

 日本政府が「米軍の援助」を知らないはずはないが、冷戦下、米国の同盟国として米国に都合の悪い事実は表に出されなかったのだろう。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「当時は連合国の一員、おかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でもソ連軍の四島の占領にアメリカがかかわったという歴史を出さないほうがいい、ということになったのでしょう」と推測する。

あとから出た「北方領土」という言葉


 根釧漁船保険組合元専務理事の足立(あしだて)義明氏(80)は根室青年会議所で活躍していた頃、北方領土問題を研究し講演もした。「決してソ連が独断で決めて占領したのではなく、アメリカが支援していたはずということも話しました」と語る。「ソ連は釧路から留萌を結んだ線から以北をよこせと言っていた。安藤さん(北方領土返還運動の父と呼ばれた安藤石典根室町長)がソ連に対してではなくマッカーサーに占領軍の管理下に置いてほしいということを求めた経緯からも、占領時にも米軍が加担していたとみるほうが自然」とする。45年12月、安藤氏は占領軍のマッカーサー連合国最高司令官に対して、ソ連の不法占拠を訴え、国後、択捉、色丹、歯舞諸島を米国の管理下に置くことを求める直訴状を送った。足立氏は「尖閣諸島とか竹島とか言えばすぐわかるが、北方領土とか北方四島なんて表現して島の名を言わないから国民はわからない。返還運動が国民的に盛り上がらなかったひとつの原因」と指摘する。

 日本は戦後すぐにソ連に「四島を返せ」と主張したわけではない。「北方領土」という言葉も冷戦下、米国の同盟国として「ソ連敵視」の国論を煽るために後年、政府がつくり出したのだ。

「2島返還」でちょうちん行列


 元根室市総務部長の平山芳夫さん(90)は根室半島の歯舞村(現・根室市歯舞)の出身。戦前から村役場に就職し、56年の日ソ共同宣言締結時は20代。「提灯行列となり行燈を担いで納沙布まで行進した」。2島の返還だけでそんなに喜びに沸いたのだろうか。平山氏は語る。

「歯舞諸島は歯舞村の管轄。奪われていた豊富な漁業区域も村に戻ってくることが大きかった。当時、根室には国後や択捉の人はあまり戻っていなかった。住民大会も色丹と歯舞が還れば、という雰囲気。四島全部返せ、では平和条約はないと思っていました。しかし、すぐに国後や択捉出身の人の反発が強まっていったのです」

 平山氏は「もともとは『島を返せ』ではなく『島よ、還れ』だった。いつしか『返せ』という言い方になりました」と回顧する。強い言い回しに変わるのも対米追従が強まってからだ。

16. 中川隆[-12758] koaQ7Jey 2019年1月24日 14:47:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


フランクリン・ルーズベルト大統領は中国を共産化しようとして日本と戦った


[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=dhyXzcOIrwI&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=8&app=desktop


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


2018/04/15 に公開
馬渕睦夫さん 元特命全権大使 駐キューバ 駐ウクライナ兼モルドバ

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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656


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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領である。


進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学(英語版)で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration )において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ(英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。

合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ(英語版)の協力なしには得られなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。

民主党出身の第32代大統領(1933年 - 1945年)


世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される[3]。

ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。

その一方、日独伊の枢軸国勢力を敵視する一方でソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中華民国に対しては、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かったために「中国びいき」と言われた。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。

ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日は、アメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88


 

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アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」…近現代史の裏には必ず彼らがいる!

米大統領のウィルソンやルーズベルトを操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。

社会主義者=国際金融資本家。「東京裁判史観」を打ち破る渾身の一冊!!

アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか?


「東京裁判史観」を正面から打ち破る一冊! !
「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」……、
近現代史の裏には必ず彼らがいる!

ウィルソン大統領やルーズベルト大統領を操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。


日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他

17. 中川隆[-12755] koaQ7Jey 2019年1月24日 21:40:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

「ひとりがたり馬渕睦夫」#13 北方領土交渉の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Y6DLR8GvR34


◉「ひとりがたり」馬渕睦夫 #13
収録:2019年1月16日 時間:34分

2019年の日本人の心構えを冒頭に、今回は北方領土問題を語ります。ニュースでは様々な憶測が飛び交っていますが、馬渕大使流の安倍×プーチン交渉の見方とは?


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<北方領土交渉の行方>

・「【主張】北方領土交渉「2島」戦術破綻は鮮明だ
 日本の立場毅然と表明せよ」
 産經新聞 2019年1月16日掲載 より
https://www.sankei.com/politics/news/...


・入口論をしているロシア(ラブロフ外相)

・安倍政権のやり方に意を反する産経新聞社説(これほどの拒否反応をしたことは今までにあっただろうか?)

・産経は皇室問題の女系天皇容認に舵を切り出した気配もあるが…

・2018年11月シンガポールでの安倍×プーチンの共同宣言と原則的な合意に基づいて進展している(日ソ共同宣言をベースに平和条約交渉を進めるという内容)

・領土問題はボトムアップ方式では上手くいかない、首脳同士での議論が必須

・何らかの原則合意はされているはずであるから、あとは具体的に詰めていくだけ

・4島返還の議論を持ち出すと、一歩も何も進まない

・グローバルな視点と日露関係全体の視点とで北方領土を語らなければならない

・ロシアのラブロフ外務大臣の発言は主として国内向けとも捉えるべき

・メディアの感情的な論説は、日本のメディア全体の北方領土交渉の見方を矮小化してしまう

・何故今、北方領土問題の解決を加速しなければならないのか?
 →国際的な環境、日本国内の情勢が合致しているから

・「”引き渡す”は主権の移動を意味しない」と発言したラブロフ外相ですが、これは一種の軽いジャブであり言葉の遊び。日本は慌てふためく必要はない(反応を見られている)。

・”引き渡す”という言葉の本当の意味を解説

・”引き渡す”と言われた際の言い返し方を伝授

・第二次世界大戦の結果としてロシア領となった、というのはウソ(根拠薄弱)

・「日ソ中立条約」をロシアが不法に破った問題は?
→1941年4月13日締結 有効期間は5年(1946年4月)
ソ連は満了1年前の4月に延長しないことを日本へ通達したが 満了前の8月9日 条約を破り不法に日本へ侵攻した

・「ヤルタ協定(極東協定)」
1945年2月8日ヤルタ会談において ソ連の対日参戦を促すため 千島列島と樺太南部の引き渡し・満洲国の権益確保などを約束した秘密協定

・こういう言葉遊びをやったところで、実益はあまりないが、知っているという了解をお互い得ることはできる

・外務大臣レベルで新たに交渉する項目はない、やるべきことは、日露平和条約に具体的にどう書き込むか、ということ。

・1/22の安倍首相の訪露会談、6月のG20@大阪での首脳会談で、どれだけ具体的に条文の中身が詰められるか?が焦点。

・安倍首相は今年中というより、任期中(2021年9月)での決着を考えているのではないか。

・結論的には、安倍・プーチン両首脳の間では決着している問題(と楽観的に捉えている馬渕大使)

18. 中川隆[-12629] koaQ7Jey 2019年1月28日 22:58:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ロシア77%、領土返還価値なし
対日関係で世論調査 2019/1/28 19:26
©一般社団法人共同通信社


 【モスクワ共同】ロシア政府系「全ロシア世論調査センター」は28日、日本との平和条約締結や関係発展について「南クリール諸島(北方領土)を引き渡して実現するほどの価値があるか」との質問に77%が価値がないと回答し、価値があるとした14%を上回ったとの調査結果を発表した。

 46%が「無条件に価値がない」、31%が「価値がない」と回答した。一方で10%が「価値がある」、4%が「無条件に価値がある」と答えた。

 領土問題での日本との交渉姿勢については51%が「長い時間がかかっても相互が受け入れられる結果に向けて交渉継続」と回答した。

19. 中川隆[-12534] koaQ7Jey 2019年2月01日 16:09:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第3回
「ネオコンが狙う日露決裂とプーチン潰し」[桜H31-1-31] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jWRxVmGJkDo


2019/01/31 に公開


既成概念にとらわれない大きな視座で国際情勢を俯瞰し、ぶれることのない日本の軸を示し続けている馬渕睦夫氏。
閉ざす門を一度解き放つことによって見えてくるものがあるように、物事の本質を見極める言葉と思考を、対談を通じて伺います。

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)

20. 中川隆[-12531] koaQ7Jey 2019年2月01日 17:40:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ロシアが北方領土を「不法占拠」しているという考えは誤り 日本外交と政治の正体
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/246583

2019/02/01 日刊ゲンダイ


北海道・根室半島の納沙布岬(左下)沖に浮かぶ北方領土の歯舞群島(C)共同通信社

 今の日本では、国民が「官僚はウソと詭弁を言うのが当たり前」と思うようになった。例えば、国民が何の疑いも抱かずに信じている「ロシアは北方領土を不法占拠している」というのも「ウソと詭弁」が60年以上続いたことによるものだ。

 国民の反発を買うのを覚悟で説明したい。

 日本は1945年にポツダム宣言を受け入れて戦争を終えた。「ポツダム宣言を受け入れるべきでなかった」という人はほとんどいないだろう。このポツダム宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とある。つまり、本州、北海道、九州及び四国以外の地に対し、「日本固有のものだから我が国のものだ」という主張は放棄したのである。

 日本はまた、1951年にサンフランシスコ講和条約に調印し、独立した。ポツダム宣言の受諾と同様、サンフランシスコ講和条約に調印すべきでなかった、という人はおそらくいない。

 条約には「日本国は千島列島に対するすべての権利を放棄する」と書いてあり、当時の全権代表・吉田茂首相は「国後・択捉は南千島」と演説している。

 つまり、国際法に照らし合わせれば、日本は千島列島を放棄したことに何の疑念もない。

 他方、米英ソ首脳はヤルタ協定で「千島列島ハソ連に引渡サルベシ」と決めた。1945年8月18日、トルーマン米大統領はスターリン元帥に「千島列島の全ての島をソ連に引き渡すことに同意する」と連絡している。

 米国は日本には千島を放棄させる一方、ソ連には千島を渡す、と約束していたのである。

 日本は1956年の日ソ国交回復後、12月に国連加盟し、国連憲章を受け入れた。この国連憲章第107条は次の規定がある。

〈この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない〉

 つまり、国連憲章はソ連が日本から奪ったものでも、無効や排除はしない、としているのである。

 国民の間では、北方領土に対するさまざまな考えがあるだろう。しかし、ロシアが北方領土を「不法占拠」している、という考えは誤っている。

21. 中川隆[-12361] koaQ7Jey 2019年2月07日 11:57:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

「ダレスの恫喝」が北方領土返還をつぶした動かぬ証拠が出た!  
http://www.asyura2.com/19/senkyo257/msg/271.html
http://kenpo9.com/archives/5589

2019-02-07 天木直人のブログ

 きょう2月27日は北方領土の日(ほっぽうりょうどのひ)であるという。

 北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るために、1981年1月に閣議決定されたらしい。

 ロシアとの平和条約締結に前のめりになっている安倍首相は、果たしてきょう、その北方領土の日に出席して、これまで同様に北方領土返還を叫ぶのか。

 それとも、プーチン大統領を刺激しないように、あいまいな言葉でごまかすのか。

 そのことばかりメディアは注目している。

 しかし、そんな問題ではないのだ。

 北方領土はとっくに返って来たはずなのに、米国が反対したから日本の方からあきらめたのだ。

 その事を見事に教えてくれる衝撃的なスクープ報道を、今朝2月7のNHKが早朝のニュースで繰り返した。

 すなわち1956年の日ソ共同宣言をめぐる交渉の過程で、なんとソ連は北方2島を、米軍基地を置かない前提で、日本に返還する事を決めていたというのだ。

 それが書かれているソ連の極秘文書が見つかったというのだ。

 ダレスの恫喝(日本が北方領土返還を受け入れるなら沖縄は返さないという恫喝)に屈したのだ。

 返っていた北方2島すらあきらめたのは、日本政府だったのだ。

 当然プーチン大統領はこの文書の存在を知っている。

 それから60年余りたって、再びプーチン大統領は安倍首相の覚悟を試したのだ。

 もし安倍首相が、この文書の存在を知っていて、プーチン大統領の意図を見抜いていたなら、そしてトランプ大統領を説得する覚悟をしていたなら、2島返還は現実のものとなり、安倍首相は歴史に残る首相になったはずだ。

 しかし、見事に安倍首相は真逆の事をした。

 もはや安倍首相では北方領土は取り戻せない。

 きょう2月7日にあわせてその事を暴露したNHKのスクープを知って、安倍首相は、「NHK,おまえまでもか!」と思ったのだろうか。

 それとも、何も感じないほど安倍首相はおめでたい首相なのだろうか(了)

“2島引き渡し 平和条約交渉急ぐ” 旧ソビエト機密文書
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190207/k10011806551000.html
2019年2月7日 4時43分 NHK


動画→https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190207/k10011806551000.html

日本とロシアの両首脳が平和条約交渉の基礎としている1956年の日ソ共同宣言をめぐって、当時のソビエト指導部は、アメリカとの対抗上、交渉の進展を急ぐ必要に迫られ、早い段階から、北方領土の歯舞群島と色丹島の2島の引き渡しを最大の譲歩案として交渉に臨む方針を固めていたことが、NHKが入手した文書で明らかになりました。2島の引き渡しで最終決着を図ろうとしてきたプーチン大統領の考え方の基礎になる資料として注目されます。

日本とソビエトは、1955年の6月にイギリス ロンドンで、国交正常化に向けた交渉を始め、翌56年に平和条約の締結後、歯舞群島と色丹島を引き渡すことを明記した「日ソ共同宣言」に署名しました。

2島の引き渡しについては、ソビエト側の交渉責任者だったマリク全権が55年8月、非公式の場で、日本側に突然、持ちかけたものですが、その意図は不明でした。

これについてNHKが7日までに入手した当時のソビエト共産党指導部の機密文書では、交渉開始直前の6月2日付けで「両国関係が良好な方向に発展していく場合、歯舞群島と色丹島の引き渡しの交渉を始めることは可能だ」としていて、「外国軍の基地を置かない」ことを条件に、早い段階から2島の引き渡しを最大の譲歩案として交渉に臨む方針を固めていたことが明らかになりました。

その理由として文書では「日本に対する影響力を強め、アメリカの政治的、経済的立場を弱める措置をとる必要があり、その際に日本の経済的、政治的独立性の願望を利用する」と書かれていて、冷戦下のアメリカとの対抗上、交渉の進展を急ぐ必要に迫られていたことが背景にあるものとみられます。

今回の文書についてロシア政治に詳しい法政大学の下斗米伸夫教授は「歯舞・色丹の話が出てくるプロセスが初めて見えてきた。2島を提供するという譲歩で、ソビエトがアジアでの立場を強め、アメリカに対するけん制を強めようとした意図が明らかになった」と指摘しています。

そのうえで「プーチン政権の交渉態度も、当時の文書を基礎に考えている節が見てとれる」と述べていて、日ソ共同宣言に基づいて2島の引き渡しで最終決着を図ろうとしてきたプーチン大統領の考え方の基礎になる資料として注目されます。

ソビエト指導部の方針や経緯明らかに

今回NHKが入手した機密文書によって、日本との国交回復交渉に臨むソビエト指導部の方針や経緯の一部が明らかになりました。

このうち、1955年6月に交渉を開始する前の5月に出されたソビエト共産党指導部の指令文書の草案では「交渉の直接の目的は相互に大使館を設置すること」とされ、領土問題については「検討すべきものではない」と書かれています。

ところが、イギリス ロンドンで日本側との交渉を始める前日の6月2日付けの文書では、ソビエト共産党指導部が方針を大きく変えたことが分かります。文書では「ソビエトは日本に対する影響力を強め、アメリカの政治的、経済的立場を弱める措置を取る必要があり、その際に日本の経済的、政治的独立性の願望を利用する」と書かれていて、冷戦下、日本をアメリカから引き離そうというねらいがうかがえます。

中でも領土問題への対応については「日本が北海道に直接隣接する歯舞群島と色丹島の返還問題を提示する場合、ソビエトは特定の条件の下で検討することが可能だと宣言できる。両国関係が良好な方向に発展していく場合、歯舞群島と色丹島の引き渡しの交渉を始めることは可能だ」として、早い段階から2島の引き渡しを最大の譲歩案として交渉に臨む方針を固めていたことが明らかになりました。

この文書は、保守派と言われた当時のモロトフ外相が作成した案をフルシチョフ第1書記やブルガーニン首相が承認する形となっていて、歯舞、色丹の2島の引き渡しはソビエト政府の一致した考え方だったことが分かります。

その後、1955年7月14日付けの「歯舞群島と色丹島に関する指令の草案」と題された共産党中央委員会の文書には、ソビエト側の交渉団トップのマリク全権への具体的な指示が記されています。

この中では「島を引き渡したあとに軍事基地を設置しないという義務を果たすならば、日本側に歯舞群島と色丹島の引き渡しに合意する用意があると伝えること」と書かれ、交渉開始から1か月後には2島の引き渡しに合意する用意があったことも明らかになりました。

日ソ国交回復交渉から共同宣言署名まで

日本とソビエトの国交回復交渉は1955年6月3日、イギリスの首都ロンドンのソビエト大使館で始まりました。

日本側は松本俊一全権が、ソビエト側はヤコフ・マリク全権が交渉責任者を務めました。

交渉では、北方四島を含む領土問題も議題になりましたが、日本側が「歴史的に見ても日本の領土だ」と返還を主張したのに対して、ソビエト側は「第2次世界大戦の結果、解決された問題だ」として議論は平行線をたどりました。

ところが、松本氏の回顧録によりますと8月5日、ロンドンの日本大使館で松本氏に対してマリク氏が突然「ほかの問題が全部片づけばソビエト側は日本側の要求に応じて、歯舞、色丹を日本に引き渡してもいい」と述べたということです。

松本氏は「最初は自分の耳を疑ったが、内心非常に喜んだ」としています。しかし日本政府としては、国後島と択捉島を含めて4島の返還を求める姿勢を崩さず、ソビエト側も態度を硬化させていきました。

結局、1956年10月、モスクワを訪れた当時の鳩山総理大臣とブルガーニン首相が「平和条約の締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡す」と明記した日ソ共同宣言に署名し、平和条約の締結には至りませんでした。

専門家「プーチン大統領も考え方を参考に」

NHKが入手した当時のソビエト共産党指導部の機密文書について、ロシア政治が専門の法政大学の下斗米伸夫教授は「歯舞群島と色丹島の2島の話が出てくる過程が初めて見えてきた」と評価しました。

具体的には、保守派で対日交渉に消極的とされた当時のモロトフ外相も2島の引き渡しを了承していたことがうかがえるとしたうえで、「最高指導部の決定として比較的最初から合意されていた方針だったことが分かるのではないか」と述べ、2島の引き渡しの方針が共産党指導部内で一致した考え方だったという見方を示しました。

その背景として下斗米教授は、アメリカとの冷戦が続く中で、ソビエトにとってどのようにして日本をアメリカから引き離すかが重要になっていたとし、「歯舞、色丹を日本に提供するという譲歩でソビエトがアジアでの立場を強め、アメリカに対するけん制を強めようとした意図が明らかになった」と指摘しています。

そのうえで「最近、ラブロフ外相が非常に厳しい発言をしているが、プーチン政権の交渉態度も当時の文書を基礎に考えている節が見てとれる」と述べました。具体的に下斗米教授は「小さな島は北海道の先だから平和条約の締結後に引き渡す。ただし国後、択捉は交渉しないということだ」と述べ、プーチン大統領も、北海道に隣接しているという理由で、歯舞群島と色丹島の引き渡しで最終決着を図ろうとした当時のソビエト指導部の考え方を参考にしているという見方を示しました。

22. 中川隆[-11842] koaQ7Jey 2019年2月25日 11:22:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[137] 報告
混迷の北方領土問題 木村汎氏が警戒する「1島マイナスα」 注目の人 直撃インタビュー(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/19/senkyo257/msg/873.html

2019/02/25 日刊ゲンダイ


北大名誉教授の木村汎氏(C)日刊ゲンダイ

 安倍首相が「戦後外交の総決算」と意気込む北方領土問題は混迷を極めている。2016年5月に「新たなアプローチ」と称してロシアのプーチン大統領に経済協力を提案するも、状況は進展せず、昨年9月に「前提条件なしで平和条約締結」を押し込まれた。その結果、日ロ交渉の基礎は1956年の日ソ共同宣言まで後退。4島返還を目指してきた従来の政府方針の大転換を招いた。着地点は「2島プラスα」なのか、「2島ポッキリ」なのか。あるいはロシア研究の第一人者が警戒する「1島マイナスα」なのか。

  ――17日に日ロ外相会談が行われました。昨年12月の首脳会談で外相を平和条約締結の交渉責任者としてから2回目ですが、協議は平行線。ラブロフ外相は北方領土のロシア主権を含む第2次世界大戦の結果を認めるよう求める主張を曲げませんでした。

 平和条約締結交渉の年内進展はないでしょう。安倍首相は6月に大阪で開催されるG20首脳会議のタイミングで条約締結の大筋合意を狙っているようですが、じらし作戦を取るロシアは乗ってこない。そもそも、昨年11月のシンガポールでの首脳会談で56年宣言を基礎とする交渉に合意したのが大ポカだった。許されない大ポカです。

  ――4島返還を目指す政府方針から一転、歯舞群島と色丹島の2島引き渡しに議論は引き戻された。

 プーチン大統領が「前提条件なしで平和条約締結」と言いだした時に、安倍首相は「冗談が過ぎる、話にならない」とバーンと反論すべきでした。ところが、安倍首相は「平和条約締結」という言葉尻を利用し、日本側としては交渉を前進させたかのように56年宣言まで譲歩した。2島引き渡しでよしとするのであれば、60年前の鳩山一郎政権時代に平和条約は締結できたのです。当時の日本はソ連に対して非常に弱い立場だった。シベリアに約60万人が抑留され、常任理事国のソ連の反対で国連に加盟できず、日ソの経済力は雲泥の差でした。日本が一番苦しかった時代にさえのまなかった条件に立ち返るべきではないのです。

■「戦後1ミリも動かなかった」は嘘

  ――現在とは状況が違う。

 安倍首相は歴代首相が絶壁に爪を立てるような思いで積み重ねてきた苦労を一挙に台無しにしてしまった。ロシアは北方4島の帰属問題解決が日ロ交渉のテーマだと認めていた。細川護煕首相とエリツィン大統領による93年の東京宣言、森喜朗首相とプーチン大統領による01年のイルクーツク声明でハッキリしています。安倍首相は「北方領土問題は戦後1ミリも動かなかった」と言いますが、事実に反します。

  ――なぜ安倍首相は日本の主張を反映した東京宣言とイルクーツク声明に目をつぶるのでしょう?

「国際法で通用するのは両国議会が批准した56年宣言だけ」と主張するプーチン大統領の詭弁に反論せず、それをうのみにしたからです。現代の国際法の通説とは異なります。批准の有無は以前ほど重要視されていません。グローバル化が進んで世界の首脳は国内外で毎日のようにトップ会談に臨み、さまざまな文書に署名している。すべてを議会で批准するのは現実的に難しくなったためです。日本の例でいえば、沖縄返還につながった69年の佐藤=ニクソン共同声明も、中国との国交を正常化させた72年の日中共同声明も批准されていません。ロシアもソ連時代の75年に欧米諸国34カ国と調印したヘルシンキ宣言を批准していない。欧州諸国と国境不可侵で合意した非常に重要な協定にもかかわらず、です。安倍首相の国際法不勉強がプーチン大統領の詭弁を認める結果を招いた。

  ――安倍首相は「交渉の経過はつまびらかにできない」と逃げ、方針転換について説明しません。

 交渉中に細かな過程までオープンにするべきではありませんが、根本原則の変更を主権者である国民に何ら説明しないのは道理が通りません。安倍首相はシンガポール会談以降、「北方4島の帰属の問題」を「領土問題」とぼやかし、「固有の領土」を「主権を有する島々」と言い換えている。今月7日の北方領土返還要求全国大会でのスピーチでも、昨年まで「4島の帰属の問題」としていたのを「領土問題」とごまかした。

  ――時事通信の世論調査(8〜11日実施)では、日ロ交渉の主導権を握るのは「ロシア」との回答が70.0%を占めました。世論の懸念に耳を貸さず、なぜ安倍首相は突き進むのでしょうか。

 自己顕示欲でしょう。それに、間違った使命感。安倍首相は「私とプーチン大統領の手で必ず終止符を打つ」と述べますが、思い上がりでしょう。北方領土問題は日本が戦後70年以上、一貫して追求し続けてきた問題です。安倍首相の任期は残り2年半で、プーチン大統領は5年。持ち時間が短い方が交渉期限を区切るのは戦術的にも実に拙いやり方。相手によって当然、足元を見られます。

■禁じ手の「テタテ」で60年前にも河野農相が大失敗

  ――安倍首相はプーチン大統領との「個人的な信頼関係」をテコに交渉を加速させると前のめりで、通訳のみを同席させる一対一の会談(テタテ)を繰り返しています。

 国際法上の交渉研究ではテタテは禁じ手、タブーといわれています。60年前にも日本はテタテで大失敗した。鳩山政権時代の河野一郎農相がモスクワに乗り込み、通訳を連れずにブルガーニン首相とサシで会談したのですが、ロシア側の通訳のみを介した結果、平和条約交渉と漁業権交渉をリンクさせられてしまった。安倍首相が参勤交代のようにロシアに通うのもマイナス。相手の陣地の赴く「アウェー」交渉は「ホーム」に比べて不利になる。

  ――それでも官邸周辺からは「2島プラスα」という楽観論が聞こえてきます。

 論理的にあり得ません。このままいけば、「2島ポッキリ」か「2島マイナスα」です。56年宣言を基礎とすれば、平和条約締結後に2島が日本に引き渡される。その後のロシアは果たして「国後島と択捉島は協議次第で返しましょう」と言うでしょうか? 「α」は何を指すのでしょうか? 国後、択捉両島の共同経済開発です。資金や技術を提供するのは日本です。つまり、ロシア主権下で日本の持ち出し。「マイナスα」なのは明らかです。極論を言えば、「1島マイナスα」すらあり得るでしょう。

  ――1島ですか? 引き渡されるのは住民のいない歯舞群島だけだと?

 56年宣言は2島の引き渡し期限も明記していないとプーチン大統領は主張するでしょう。引き渡しは50年後かもしれないし、99年後かもしれない。移住促進策の成果もあり、色丹島には約3000人の住民が暮らし、返還反対運動を展開している。一方、岩礁の歯舞群島には国境警備隊が配備されているだけですから。


プーチン大統領から平和条約を持ち出され。安倍首相はニタニタ応じた(代表撮影・共同)


大幅譲歩は欧米や中韓との関係悪化を招く

 ――現時点で日本は平和条約を締結する必要性はどれほどあるのでしょうか。

 まったくありません。戦争状態を終結させ、外交関係を回復した56年宣言は、領土問題を除くと平和条約と遜色ない。平和条約をのどから手が出るほど欲しているのはロシアの方です。背景には大国化する中国へのコンプレックスや牽制、クリミア併合に端を発した国際社会による経済制裁を突破したいとの狙いがあります。

  ――日本にはマイナス作用に?

 領土問題で譲歩した平和条約締結は、尖閣諸島や竹島を巡る中国や韓国とのさらなる摩擦を誘因するでしょう。対米関係にも影を落としかねない。プーチン大統領が返還後の北方領土に在日米軍が展開する懸念を指摘すると、安倍首相は「在日米軍はロシアにとって敵対的なものではない」などと述べ、日米安保条約の適用外を示唆した。安保条約の適用範囲を勝手に伸び縮みさせる行動を米国が許すでしょうか。尖閣を狙う中国にも付け入られてしまう。欧州にも呆れられる。彼らはロシアの資源エネルギーに依存せねばならない苦しい状況ですら、国際正義の旗の下、制裁を実施している。翻ってロシアは中国を牽制し、日米関係にくさびを打ち込み、欧州を出し抜く好機と見なしている。

  ――ロシアにしかメリットがない。

 日本はロシアを突き放すべきです。安倍首相が「次期首相に後を継ぐ」とキッパリ伝えて時間軸を広げない限り、日本側には展望がない。誰が後継になるにせよ、ポスト安倍政権は苦労します。ここまで日本の要求水準を下げてしまったら、もう一度引き上げるのは至難の業でしょう。

 (聞き手=坂本千晶/日刊ゲンダイ)

▽きむら・ひろし 1936年生まれ。京大法学部卒、米コロンビア大Ph.D.取得。北大スラブ研究センター、国際日本文化研究センター、拓大教授を経て現職。近著に3部作の完結編「プーチン 外交的考察」。「プーチンとロシア人」など著書多数。

23. 中川隆[-11415] koaQ7Jey 2019年3月17日 14:20:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[582] 報告
北方領土4島返還はありえない〜日本人の知らない歴史的な理由 2019/03/13
http://www.1242.com/lf/articles/164186/?cat=politics_economy&pg=cozy


ニッポン放送「飯田浩司の OK! Cozy up!」(3月13日放送)に数量政策学者の高橋洋一が出演。北方領土問題について、終戦記念日の世界的な史実を交えて解説した。


ロ、在日米軍で回答要求  モスクワで記者会見するロシアのプーチン大統領(タス=共同)=2018年12月20日 写真提供:共同通信社

ロシアが北方領土で軍事演習〜交渉の対象は2島だという意思表示か

ロシア軍は3月12日、北方領土の択捉島と国後島でおよそ500人が参加する軍事演習を開始した。ロシア軍は今月6日にも軍事演習を実施していて、平和条約の交渉を進めるなか、日本側を揺さぶる狙いがあると見られている。

飯田)ロシアの通信社、インターファクス通信が伝えたものだそうです。軍事演習ですよ。

高橋)揺さぶると言うか、交渉を明確にするということだと思いますけれどね。

飯田)交渉を明確にする。

高橋)対象を明確にすると。2島だということです。それ以外はないぞと、そういうことを言って来ているだけのことです。

飯田)そうすると、国後・択捉ではなく、歯舞・色丹だと。


首脳会談を終え、共同記者発表で握手するロシアのプーチン大統領(右)と安倍晋三首相(ロシア・モスクワ)=2019年1月22日 写真提供:時事通信

世界的な常識で終戦記念日は9月2日〜ソ連の日本侵略はそれ以前のこと

高橋)もともと4島は無理筋だということは、日本の国民はあまり言いませんが、外交の専門家であれば「4島は無理です」とはっきり言っています。これは終戦記念日がいつかという話で、私もアメリカに行ったときにこっぴどくやられた経験がありますが、日本人は終戦記念日は8月15日と言うではないですか。でも世界のどこに行っても、終戦記念日は9月2日です。

飯田)9月2日。

高橋)戦艦ミズーリで調印したとき。要するに、8月15日から9月2日の間の話については、日本はやられっぱなし、それだけの話です。

飯田)グレーゾーンではあるけれども、最後に終戦条約にサインをした9月2日までは…。

高橋)OKだということです。

飯田)戦争状態のままだったということが国際法上の在り方だったのですね。

高橋)日本では、終戦記念日以降にソ連が攻め入ってどうのこうのと習いますが、それは世界では通用しません。

飯田)国際社会では通用しないと。

高橋)いくら言っても無理です。他の国では9月2日だろうと、それまでは仕方なかったと言われる。私も多少知識があるから、実は日ソ不可侵条約の後、向こうが通告して来た後に、1年間自動延長という項目もあるのですが、これはEUのときと一緒で「でも協議は整わなかっただろう」と言われてしまいます。協議が整わなかったらおしまいだよ、日本はちゃんとソ連と協議をしたかと。するような状況ではなかったから、していないのですね。結果的にはそれも通用しないのが国際常識ですよ。
こういう常識を日本国民もある程度わからないと、安倍さんが一所懸命やっていることがわからないと思います。終戦は9月2日だから、4島は有り得ない。日ソ共同宣言で、1956年のときに2島の話しか書いていないでしょう。でもこれは、実は合理的なのですよ。4島は有り得ません。
その後なぜ日本が4島と言ったかというと、アメリカのダレス国務長官が4島と言え、と。4島と言わなければアメリカは沖縄を返さないぞと言ったので、日本は仕方なく4島と言わされたのです。4島と言っているうちは、ソ連は交渉しないと知っているから。そうすると日ソは絶対に平和条約を結べないので、わざとダレス氏は言ったのですよ。

飯田)日ソが当時の東西冷戦のなかで接近するのを恐れたアメリカが…。

高橋)絶対に4島と言え、と。4島と言っている間はソ連は絶対に日本と交渉しませんからね。日ソ共同宣言に戻って、2島という本当の真面目な話をすると、国民としては失望感が出て来るのですね。でも4島と言っている間は一切交渉できない。今回初めて2島で交渉するから、ロシアの方もちゃんとした対応をして来ているのです。それだけです。本当にきちんとした交渉をしていると、こういう話になるのです。


2006年11月のAPEC首脳会議にて、日本の首相(当時)の安倍晋三(左)と(ウラジーミル・プーチン – Wikipediaより)

2島が還って来れば100点

飯田)1956年に日ソ共同宣言が出ていますけれど、それを遡った少し前にサンフランシスコ講和条約があった。そこでは千島列島は放棄すると明記している。

高橋)千島に択捉、国後は入るのが普通ですね。

飯田)南列島の千島の部分に国後・択捉は入るから、当時のソ連、現ロシアとしてはそこまでは自分たちのものだと。国際的にもそれは認められているというのが向こうの主張ですね。

高橋)世界ではそうなっています。

飯田)これをひっくり返して行くのは相当難しい。

高橋)無理でしょう。日本だけなのですよ、終戦が8月15日と言うのは。それは事実です。アメリカも絶対に言わないし、他の連合国やヨーロッパも全部9月2日です。

飯田)そうすると、歯舞群島と色丹に関してどうするかが、日露交渉のメイン。

高橋)国際法から見たらそれしかない。2島が還って来れば日本は100点満点です。ロシアのほうは0島でしょうから。

飯田)あとはそこから先も長いスパンで。

高橋)30年、50年かけてプラスがあればいいというレベルです。


http://www.1242.com/lf/articles/164186/?cat=politics_economy&pg=cozy

24. 中川隆[-11379] koaQ7Jey 2019年3月19日 11:19:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[623] 報告
日ロ交渉の真実、日本の一方的勘違いの歴史だった
日本のメディアが報じない「本当の日露交渉史」年表
2019.3.19(火) 黒井 文太郎

 日ロ首脳が会談、北方領土交渉の打開に至らず
ロシアの首都モスクワで行われた日ロ首脳会談の後、共同記者会見のため会場に入るロシアのウラジーミル・プーチン大統領(左)と安倍晋三首相(右、2019年1月22日撮影)。(c)Alexander NEMENOV / POOL / AFP 〔AFPBB News〕

(黒井 文太郎:軍事ジャーナリスト)

3月15日付のロシア大手紙「コメルサント」が、プーチン大統領がロシア財界人との会合で語った内容を報じた。「日本との平和条約交渉の速度が失われている」「日本はまず日米同盟を破棄しなければならない」「日本との対話は続けるが、ひと息つく必要もある」などである。

 ここで最重要なのは「日本はまず日米同盟を破棄しなければならない」だろう。平和条約を締結しても、日ソ共同宣言にある色丹島と歯舞群島の引き渡しには日米同盟破棄、すなわち日米安全保障条約の破棄が条件の1つだとの認識を示しているからだ。日本政府が日米同盟を破棄することはあり得ないから、2島引き渡しの可能性がゼロ%であることは明らかだ。

 これに先立ち、3月12日にはロシア大統領府のべスコフ報道官も会見で、「(日本側と)議論しているのは平和条約締結交渉で、島の引き渡しではない」と発言。ロシア政府が日本側と北方領土の引き渡しについては交渉していないことを明言した。

 対日交渉の責任者であるラブロフ外相も2月24日に「(領土問題を解決して平和条約を締結するとの安倍首相の発言に対して)その確信の理由が分からない。プーチン大統領も自分も、そんな発言の根拠は一切与えていない」と公式に語っている。

 これらロシア側の発言で、事実上の2島返還での平和条約締結を目指していた安倍首相は、完全に梯子を外された格好になった。日本政府からの対露交渉についての情報発信も、ほとんど止まってしまった。

 こうしたロシア側の冷たい態度に「ロシア国内世論の反対で、プーチン政権が態度を硬化させた」というような解説が散見される。しかし、筆者がJBpressへの寄稿記事などで再三指摘してきたように、ロシア側はこれまで一度も「2島なら返還する」などとは発言していない。プーチン大統領が「日米同盟破棄がまず必要だ」と語ったことも、けっして予想できなかったことではない。ロシア側はそうした条件を持ち出す布石を、これでまで着々と打ってきているからだ。つまり、ロシア側はもともと2島を引き渡す意思がなかったのである。

 ところが、これまで日本のメディア各社の多くは、あたかも「領土返還交渉が進展している」かのような報道を繰り返してきた。なぜそうなったのかというと、日露交渉の経緯を、日本側関係者の証言だけに基づいて報じてきたからだ。日本側でだけ報じられてきた日露交渉の経緯は、日本側関係者たちの願望そのもので、事実とはほど遠い。いわばファンタジーのようなものだ。

 では、実際の日露交渉はどういった経緯だったのか? 旧ソ連時代からの流れのポイントを年表形式で示してみよう。

北方領土交渉のこれまでの経緯
【1956年10月 日ソ共同宣言署名】

「平和条約締結後に2島引き渡し」項目が盛り込まれる。ただし、択捉・国後両島への言及がなかったため、日本側が4島返還への協議継続を主張。平和条約には至らず。当時、アメリカも反対。

【60年6月 改定日米安全保障条約・発効】

 ソ連が態度を硬化。「在日米軍撤退」を条件に加える。

【61年9月 フルシチョフ書簡】

 フルシチョフ首相が池田勇人首相に対する書簡で「領土問題はすでに解決済み」。

【90年 ソ連経済壊滅】

 日本側でだけ「カネで領土が買える」論が急浮上する。しかし、ロシア側では一切動きなし。

【91年3月 小沢一郎・自民党幹事長が訪ソ】

 巨額の経済支援と引き換えの領土返還をゴルバチョフ大統領に打診するも拒否される。

【91年4月 ゴルバチョフ訪日。日ソ共同声明】

 海部俊樹首相とゴルバチョフ大統領が会談。領土問題が明記されるが、ソ連側は日ソ共同宣言への言及を拒否(なお、これに先立ち、ソ連政府はイーゴリ・クナーゼらの学者グループに領土問題についての国際法的・歴史的経緯についての検討を指示。ソ連側の正当性を一部疑問視する報告が上げられていた)。

【91年12月 ソ連崩壊】

 ソ連・ロシア経済は困窮を極め、日本側ではますます領土返還への期待が上がる。他方、ロシア側では領土返還に関する議論・検討の動きは皆無。

【92年3月 クナーゼ提案】

 渡辺美智雄外相=コズイレフ外相会談の非公式の場で、同席していたクナーゼ外務次官がいくつかのプランの1つとして「平和条約締結後の2島引き渡し」の可能性に言及。日本側はロシア政府のプランと捉えたが、あくまでクナーゼ次官個人のプランの1つであり、ロシア政府内では検討の形跡はない。

【93年10月 東京宣言】

 細川護熙首相とエリツィン大統領の会談で、ロシア政府の正統性と日露協力を確認。4島の帰属問題が明記され、ソ連時代の条約等も引き継がれることを確認。しかし、ロシア側は返還について触れることは拒否。

【97年11月 クラスノヤルスク合意】

 橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が経済協力プランに合意。2000年までに平和条約締結を目指すことにも合意したが、ロシアは領土返還についての言及は拒否。

【98年4月 川奈提案】

 橋本首相とエリツィン大統領が会談。「4島の北に国境線を引くが、当面の施政権をロシアに認める」との日本側の提案に対し、エリツィン大統領が「面白い」と反応。しかし、ロシア側の大統領補佐官がすかさずエリツィンに耳打ちしたことで、話が打ち切られる。

 一部の日本側関係者は「もう少しで4島の帰属を勝ち取れるところだった」と捉えているが、ロシア側では検討の形跡は一切ない。

【2001年3月 イルクーツク声明】

 森喜朗首相とプーチン大統領が会談。56年の日ソ共同宣言を「平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認」する。また「相互に受け入れ可能な解決に達することを目的として、交渉を活発化」と明記。

 日本側関係者の多くが「プーチン政権は2島返還で決着したがっている」と捉えたが、ロシア側は今日に至るまで、そう明言することを回避している。また、これ以降、日本側では「2島は確実。問題は2島先行か4島一括か?」という論点が中心になるが、ロシア側では2島返還すらも現実的な選択肢としては議論されていない。

【2003年1月 日露行動計画】

 小泉純一郎首相とプーチン大統領が会談。政治・経済・社会の具体的な協力を明記。領土問題に関しても言及があるが、これ以降、ロシア側は4島帰属問題を明記した東京宣言に言及することを拒否するようになる。

【2006年12月 麻生太郎外相「面積2分割論」発言】

 麻生外相が国会で発言。だが、ロシア側ではその発言に対する議論も検討も皆無だった。

【2009年2月 サハリン首脳会談】

 麻生首相とプーチン大統領が会談。ロシア側が「独創的で型にはまらないアプローチ」を提案し、合意する。日本側の一部では領土分割を期待するが、ロシア側にはそんな検討は皆無。

ロシア、北方領土に新たな軍事施設建設
北方領土の国後島を訪問し、ソビエト時代の要塞近くを歩くドミトリー・メドベージェフ大統領(当時)(2010年11月1日撮影、資料写真)。(c)AFP/RIA-NOVOSTI/KREMLIN POOL/MIKHAIL KLIMENTYEV〔AFPBB News〕

【2012年3月 プーチン大統領「引き分け」発言】

 日本側では「2島返還の意味だ」と捉えられたが、ロシア側は一切そうした説明はしていない。

【2012年7月 メドベージェフ首相「わずかでも渡さない」発言】

 プーチン大統領の完全なイエスマンであるメドベージェフ首相が、国後島を訪問した際に発言。

【2013年4月 モスクワ首脳会談】

 安倍晋三首相とプーチン大統領が会談。日本政府関係者から日本のメディア各社に「プーチン大統領が面積折半方式に言及した」とリークされ、「3.5島返還」論などが大きく報じられる。ただし、ロシア側メディアではそうした話は皆無。発言内容が漏れる可能性のある首脳会談でプーチン大統領がそうした発言をすることはほぼあり得ず、おそらく日本政府関係者の誤解もしくは虚偽。

【2015年9月 モルグロフ外務次官「領土問題は70年前に解決済み」発言】

【2016年5月 ソチ日露首脳会談】

 日本側から「新たなアプローチ」提案。以後、日本政府は領土返還要求よりも経済協力を先行させる方針に大きく転換していく。

【2016年5月、プーチン大統領「領土をカネで売り渡すことはない」発言】

【2016年12月 プーチン大統領「領土問題は存在しない」「日ソ共同宣言には2島引き渡しの条件も、主権がどちらになるかも書かれていない」発言】

【2016年12月 山口県で日露首脳会談】

 経済協力推進で合意する。だが、領土返還への言及は一切なかった。

【2018年9月 ウラジオストッで東方経済フォーラム】

 プーチン大統領が「前提条件なしでの同年中の平和条約締結」を提案。

【2018年11月 シンガポール日露首脳会談】

「日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速」合意。これを受けて日本のメディア各社は「2島先行返還で領土返還交渉が進展か」と大々的に報じる。

 しかし、翌日、プーチン大統領が記者会見で「共同宣言には引き渡す条件も、主権がどうなるのかも一切書かれていない」と発言。日本側の期待が一気に萎む。

【2018年12月 日本外務省、日露交渉について一切ノーコメントになる】

【2019年1月 河野太郎外相=ラブロフ外相会談】

 ラブロフ外相が「日本は4島のロシア主権を認めよ」「北方領土という言葉を使うな」「日ソ共同宣言は日米安保条約改定前のもの。状況は変化している」などと発言。ロシア側が2島引き渡しすら考えていないことがほぼ明らかになる。

【2019年1月 モスクワ首脳会談】

 領土問題に触れず、経済協力関係の大幅拡大に合意。

【2019年2月 外相会談】

 一切進展なし。

【2019年6月 大阪G20サミット】

 日露首脳会談予定。

※   ※   ※

 以上が、北方領土問題に関する日露交渉の大まかな流れである。

 これまでどの時点を振り返っても、ロシア側は領土を1ミリでも引き渡すことを明言しておらず、日本側が希望的観測で勝手に期待値を上げてきたことが明らかだ。

 相手は海千山千のロシアである。希望的観測で期待して交渉しても、実は1つも得られまい。まずはロシアの意思を冷静に分析し、認識する必要がある。

 現状がどう進んでいるかというと、2島引き渡しを棚上げされたまま、一方的に4島の領土要求の放棄を公式に迫られている。しかもそれだけでなく、さらなる経済協力だけがどんどん拡大させられようとしている。

 しかし、ロシア側の意思を冷静に認識できれば、ロシアの歓心を買おうと、日本側から一方的に妥協するのは逆効果でしかないことが分かる。ロシアとの交渉はきわめてハードなもので、簡単に相手の妥協は引き出せないが、それでも少しでも日本側の利益を求めるなら、より強い態度で臨むべきだろう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55783  

25. 中川隆[-11334] koaQ7Jey 2019年3月20日 20:44:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[671] 報告

日本の領土問題はすべて分断統治工作


分断統治・分割統治
人々を地域・民族・宗教・身分などで分断・対立させ支配する統治方法
Divide-and-conquer, 2016.5.13, 2018.9.7,
http://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html

分割統治の歴史

 分割統治ともいいますが、他国や他勢力の地域や組織を支配するときに、内部対立を誘発し、支配しやすいいずれかの勢力を支援することで、その地域や組織の全体を支配するという支配方法です。

 歴史的には、ローマ帝国が支配下の都市同士の間に格差を設け、人々の不満を都市同士に向かわせることで、征服した都市同士が連携して反乱することを抑えることに成功した、というあたりが起源のようです。

 19世紀中盤から20世紀中盤まで約90年に渡り、イギリスがインドを支配していましたが、このときも分断統治が使われました。このときはイスラム教とヒンズー教の対立が支配に利用されました。

 イギリスのインド支配以降、分断統治は様々な国家や組織の支配に積極的に利用されるようになり、それが現在まで続いています。

 分断統治は、現在でもテロ・紛争などの宗教や民族対立、また、格差社会という国家内部構造を不満のはけぐちにすることで、国民を支配しやすくするという方法に利用されています。しかしながら、現在では、格差社会は政治の失策という認識が広がっており、人々の不満が政府に向かうことを防ぐことは難しくなってきています。

 人々は政治によって格差社会を是正できると考えるようになってきていますので、実際に格差社会を改善できる可能性は日増しに高まっていると言えるでしょう。2016.5.13

大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

分断や分割、両建の例
 あれもこれも対立誘発作戦だった

 一見すると分からないようになっていますが、分断して対立させコントロールして支配しようという戦略に使われている対立を挙げてみます。私たち一般人や組織同士の対立を誘発する印象操作が疑われる分断は思いのほか多いです。マスコミ報道レベルでは私たちの関心や悪意・善意などを誘導する報道が多くなっています。

ハラスメント・イジメ問題 … 暗黙の分断工作
セクハラ問題 … 暗黙の男女対立
パワハラ問題 … 暗黙の上司部下の対立
他国のイメージダウン報道 … 国家対立
オリンピック … 愛国心の強化 国家対立へ誘導 そもそも国別対抗戦にする必要はない
犯罪報道 … ごく少数の犯罪者と市民の分断 防犯利権のための危険偽装
学歴社会 … 学歴という隠された身分による市民分断
市民監視政策 … 共謀罪・通信傍受法などで監視・被監視という基準で市民を分断
マスコミ報道全般 … 利益誘導のための印象操作が目的 無から利益や必要性という有を生み出す大衆洗脳 対立構造の悪用が多い
右翼左翼 … 保守・革新の政治機能が機能しているという偽装
与党野党 … 左右翼より具体的な政治機能偽装
在日批判 … 日本人・朝鮮人対立
自国や自民族の美化 … 他国や他民族と優劣をつける分断
イスラエルとアメリカのシリア攻撃 … 国家対立・戦争などの誘発
アメリカ・ロシア … 二大軍事国家の対立 軍事危機の偽装 軍需利権の維持拡大
イギリス・フランス … 表世界の支配の実行犯の対立
ユダヤ人批判 … ユダヤ・非ユダヤ人対立
民族批判 … 社会や国家よりも多くの人たちをまとめて対立へ誘導
南北朝勢力 … 日本の分断支配 イエズス会系とメーソン系の分断説も
イエズス会・イルミナティ … 秘密結社対立
陰謀論 … 庶民と富裕層の対立 富裕層は超富裕層の身代わりの悪者役
血統支配 … 限られた血族にだけ富や権力を与え支配者層と市民を分断

大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

民族・国家・大勢力などの広範囲分割と組織内の上下関係を強める小規模分割

 タイトル名とサブタイトル名でほぼすべて説明してしまいましたが、分割統治には大規模な横割りパターンと小規模な縦割りパターンがあります。

 縦割り分割では上下の立場が違う人たちの間では争いが起こりにくいので対立を偽装する分割統治感は弱いので一般的には分割統治には含まれていませんが、支配のために分割していることはたしかですから、分割統治に含めても問題ないだろうとこのサイトでは考えています。

 実際に支配層は縦割り分割も好んで使っていて、イルミナティなどは33階層とも99階層とも言われる細かい階層に分割して支配されています。

 さらに大規模と小規模の間の中規模な分割統治としては、経済格差で序受け関係を作る社会階層や、政治家・軍人・警察官・市民といった職業毎に権力や実力で上下関係を作るというやり方もあります。社会階層や職業毎に生まれる上下関係は自然発生した部分もあるでしょうが、これも支配層が好んで分割統治に使っています。

 少数の特定の民族や部落、血族などをエリートとして特別扱いする代わりに従わせ、さらにそれらの人々を使って一般の人たちを間接支配するというのが分割統治のやり方です。これを社会階層や職業に応用して、一部の階層や職業に過度な特権を与えエリート化し一般人の支配するという支配方法になっています。

 このサイトが追っている集団ストーカー問題でも、同じ仲間だったはずの日本人を加害者・加害協力者・被害者などに立場を分割することで支配しようとしています。

 分割統治や支配層戦略の全体は牧畜がモデルになっています。羊飼いが羊を飼うために番犬を飼って、若いリーダー羊を何頭か残してそれ以外の羊を去勢して管理するような牧畜と同じパターンが私たちの人間の支配に悪用されています。

 支配者と支配される一般人というのは支配や管理のために意図的に作られた強者と弱者であるとも言えます。

 それぞれ分割された勢力は表向きは争ったりけん制しあったりしているように見えます。しかし、分割統治の本質はグループの頂点だけを支配層などの権力ネットワークで支配することで、末端の人たちを権力で従わせる点にあります。

 そのため分割統治の仕掛け人たちは本当はあまり争うことはないとみられています。主に争っている、あるいはそう見えるのは仕掛け人が使っている作業員や一般人である私たちなのです。

 秘密ネットワークを使って隠れて談合し、争わずに楽に支配し富や権力を得るというのが分割統治や支配層戦略のやり方です。2018.5.25

分割統治の目的

 分割統治の目的を簡単にまとめると次のようになります。


対立による社会混乱
 人種・民族・宗教・その他の勢力を対立させ、争わせることで社会を混乱させる。


真犯人の隠蔽
 偽の犯人勢力をあえて作っておくことで、真犯人、真の首謀者勢力の隠蔽を行い、人々の批判の矛先を変える。


反対勢力への監視と統制の強化
 人種や民族、地域などで人々を分断し、互いに争わせることで、互いの監視や各勢力の権力バランスのコントロールを行う。助力がないと活躍できないような小勢力に助力しつつ借金などで支配することで、全体を支配させ利益を得る。2017.5.29, 2018.1.21


選択肢の制限
 政治の左右翼など意図的に分断された、あるいは対立が偽装された勢力が出す意見のどれを選んでも支配層が得をする、あるいはあまり不利益にならないよう選挙などでの人々の選択肢を制限する。2017.5.29, 2018.5.26


社会的なルール変更
 各勢力を争わせた後は、その反省として支配層に都合のよい新たルール作成やルール変更を行い、さらなる利益の拡大を行う。


まとめ
 社会的な混乱は、社会全体のモラルを低下させ支配層である、多国籍型の秘密エリートネットワーク(*1)の得意な詐欺・洗脳犯罪の成功率を高める土壌となります。モラルの低い社会のほうが詐欺洗脳犯罪を行う上での協力者も作りやすくなります。また分断された各勢力は互いに監視し合いますので、エリートネットワークが支援し、利用している勢力やそれに敵対する勢力の情報も手に入れやすくなります。反対勢力だからといってつぶしてしまうよりも残しておいたほうが、友好勢力への監視に使えるというのが支配層戦略です。情報を管理しつつ各勢力へのコントロールを強化し詐欺洗脳犯罪を永続するという戦略です。2017.5.29, 2018.1.21

両建戦略の目的

争いの発生と解決による利権の創造

 両建戦略とは二つの勢力を作り、争い事を起こしたり解決させたりして利権を拡大する支配層戦略(*2)のことです。陰に隠れて他人を動かすことで利益を得るシオニストネットワーク(*1)お得意のフィクサー型支配戦術です。両建戦略と分断統治(戦略)は似ていますが、色々ある分断統治の方法のうちのひとつが両建戦略です。

 両建戦略が行われる理由は、本質的には争い事を意図的に引き起こすこと自体が目的となっています。人は一般的に喧嘩や争い事を起こすものではありますが、自然状態では互いを強く傷付け合うような過剰な争い事は起こさないものです。戦争が代表的な例ですが、特に大きな争い事というものはわざと起こるように仕向けないことには、なかなか起こりません。人間同士は大きなくくりでみれば同属であり仲間ですから自然状態では無闇に殺しあうようなことはしないように出来ているのです。

 それではあまり儲からないので、争い事を意図的に引き起こす、というのがシオニストネットワークの戦略です。社会を混乱させ争いを起こし、そこで利益を得て、争いが終わると自分たちの都合のよいようにルールを変更するというのが、長年行われてきた彼らの詐欺支配戦略です。

両建戦略は継続型分断統治

 分断統治では2大勢力を作り争わせるという方法がよく使われています。歴史的にみればイギリスとフランスが何百年もその2大勢力を演じています。政治の与党と野党なども両建戦略のひとつと見ることが出来ます。その時々の支配層の都合で、利益が出る場合は協力させ、利益に反するときは争わせるということが日本でも何十年も繰り返されています。

 今の社会で起きている出来事、特に政治的な出来事の多くはヘーゲル弁証法の正反合の発展思想に基づいて仕組まれた争い事であって、大きな事件の多くが意図的に起こされた争いだったとみられてます。

 私たちは政府やマスコミが流す情報によって世界が動いているように思わされていますが、実際には結果の決まったお芝居を見させられているような状態にあります。何十年も前にケネディ大統領が“すべてのニュースには流す目的がある”といったことを言っていますが、あの言葉は今も真実を示しています。

 補足しておくと、現在ではマスコミの発信出来る情報量自体が増えてしまっているので、あまり意味のない情報、つまり支配層からするとうまく大衆誘導出来ていないようなニュースも増えているようです。2018.1.21

日本と特亜の分割統治

 大局的にみると、日本の嫌韓思想誘導や韓国の反日教育なども、英米超富裕層などによる日韓支配のための不和や対立構造の意図的な構築であろうことが疑われます。

 日韓はともに海を隔てた外国同士ですから、嫌いになる理由も、好きになるきっかけも、もともとの自然状態ではそれほど存在しません。日韓友好は国益を見込んだ日韓両政府の意向であり、日韓対立はそれを拒む勢力の思惑とみるべきでしょう。

 日中友好に関してもアメリカは以前から強く反発しており、親中政策を打ち出した政治家、田中角栄や小沢一郎などは、政治的失策というよりも、強引な妨害工作によって失脚させられたとみられています。2016.5.13, 2016.5.24

 これに対して米中は友好関係を深めて国益を拡大していますので、直接的にはアメリカ勢力が主導する、日本と特亜(中・韓・北朝鮮)との分断政策が、現在も行われていることが予想されます。2016.5.13

 日本と特亜の不和は、アメリカの都合で、アメリカ主導で行われているマクロ的な分断統治とみられており、日本国民が忌み嫌う核兵器の実験を何度も北朝鮮に行わせている理由もここにあるとみてよいでしょう。

 日本と特亜の友好関係が築かれた後は、ロシアとの関係も改善されることになるでしょう。日本が中東から輸入している石油は、タンカーで運ぶだけでも燃料費が2千万円などと莫大な費用がかかり効率が悪いのですが、ロシアと北海道の間に海底石油パイプラインを通してしまえば、輸送コストは劇的に下がり、エネルギー問題も一気に改善に向かいます。

 ロシアは世界一の石油産出国ですから、価格の交渉もしやすく、安定した供給も見込めます。また、ヨーロッパ諸国の石油の多くもロシアが供給しています。

 ちなみにISISテロが攻撃している地域も石油パイプラインが通っている地域ですので、石油利権をめぐる水面下での様々な戦いが存在することが予想されます。2016.5.13, 2016.5.24

日本の領土問題はすべて分断統治工作、逆に共有化で解決可能

 分断統治の分かりやすい例が領土問題です。北方領土はロシア、尖閣諸島は中国、竹島は韓国、それぞれ日本との間に領土問題という外交問題を発生させ、互いに争わせるという100年の計が実行されています。

 中韓は国策として政府が反日思想誘導を行い、政治に利用していますので、しばらく解決は難しいでしょう。しかし、ロシアであれば、特に反日という訳でもありませんので、比較的解決しやすいでしょう。

 領土問題で問題となっている島は、島自体はどれも大した価値のない島や岩ですので、つまらない紛争のきっかけとして残すよりも、早く分割なり、買取などして決着をつけてしまうほうがよいでしょう。

 理想的な解決策としては、所有権紛争地域(?)は両国共有の自由貿易地域などにすれば、平和的な解決が可能で、さらに両国のさらなる発展も見込めるでしょう。

 レジャー施設を充実させていけば、領土問題解決の成功例として、歴史に輝かしい名を残すことも夢ではありません。日本だけでなく世界の紛争地域も共有地化してしまい、税収や資源などの利益を公平に分配すれば健全な運営も可能となることでしょう。

 インターネットで人々がつながってしまった現在の世界で、その土地がどの国の名義であるかといった問題は、ささいな問題のようにみえます。2016.5.30


< 追伸 2016年10月18日 >

 日本とロシアの領土問題、北方領土問題への解決策として、共有方式の共同統治案が検討されていることが、日経新聞の記事となっていました。

 共同統治案は菅官房長官が否定しているように、現在の日本の政治方針では、表向きは否定されています。政府としては2島返還という2島の譲渡を求める方針で話を進めたいようです。2016.10.18


< 関連 >
新領土問題 日本の土地がイギリスに取られていた
 天皇陛下が危ない! 皇居のとなりのイギリス大使館はイギリスの土地に建っている

コラム : 分断統治は個人でも使えるがリスクが高い詐欺術

 余談ですが、分割統治・分断統治・対立工作などは、ここであげた大きな勢力同士でなくても使うことができます。最少人数はたったの2人です。上司が2人の部下に、それぞれ異なる情報を与えることで対立させ、自分に有利な方向へ事態を変化させるような使い方ができます。

 たとえば、お互いに対して、別の人はもっと頑張っているとか、影であなたの悪口を言っていたとか伝えることで対立させる、自分に有利な状況を作り出すことができます。これは姑が嫁たちに対して使っているというのがフジテレビで放送されていたことから、今後、庶民レベルでも悪用される危険があります。

 分断工作は詐欺洗脳術ですから、本当はこんなことを書くと情報が広まってしまうので、紹介すべきではありません。しかし、そうではありますが、日本も心理戦が家族や交友関係・ビジネスなどでの、人として求められるメインスキルとなるような社会に変わりつつありますので、対処するためにはいたし方ないことでしょう。

 心理戦というのは誰かが始めてしまうと、それに対抗するためほかの人たちも使わざるをえないものですから、偽ユダヤなどが日本に心理戦を持ち込んでしまった以上は、これを理解することで対処していくしかないでしょう。

 対立や争いが起きているとき、これは分断統治や対立工作かもしれない、と考えられる視点を持つことが大切です。

 みなさんは、なるべく悪用しないよう注意してください。分断統治を個人レベルで顔見知りの人たちに行うと嘘がバレやすいうえに、バレてしまったときは自分の信用を大きく傷つけるというたいへんリスクの高い詐欺戦略となっています。

 分断統治や対立工作はあくまで人をだます詐欺術、洗脳術の一種であることをよく心得ておいてください。

 このサイトのテーマとなっている集団ストーカー問題でも、被害者の周囲の人たちへ、被害者の悪評を振りまく風評被害というのがあります。これも分断統治の理論を民間レベルで悪用したかたちになっています。2017.5.29


http://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html

26. 中川隆[-11045] koaQ7Jey 2019年3月31日 10:03:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[978] 報告

「2島返還」は完全に潰えた、代償大きかった対ロシア政策転換
樫山幸夫(産經新聞元論説委員長)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15795


 北方領土の「2島返還」への方針転換が無駄、無益な譲歩であったことがいよいよ鮮明になった。ロシアのガルージン駐日大使は3月28日に東京・内幸町の日本記者クラブで行った会見で、これについて一顧だにしない冷淡な態度を示した。

 「歯舞」「色丹」の2島を平和条約締結後に実際に引き渡すかについても言葉を濁した。「4島返還」という一貫した要求を事実上放擲することで領土問題の決着をめざした日本政府の狙いは潰えた。「4島」はおろか「2島」返還も従来よりむずかしくなったとみるべきだろう。


(laymul/gettyimages)

「引き渡しは善意=v

 ガルージン大使は、日本政府のあらたな方針「2島+アルファ」に対する受け止め方について、「ロシア側はそういう表現を使ったことはない。日本側が時々使っている。どう解釈すればいいかコメントするつもりはない」と無関心、冷淡な姿勢をみせた。

 1956(昭和31)年の日ソ共同宣言にもとづいて、平和条約が締結された後に、歯舞、色丹の返還に本当に応じるかについて念を押され、「ソ連は、日本の利益を考慮して引き渡すつもりだった。善意であったことを理解してほしい」と述べるにとどめた。「プーチン大統領、ラブロフ外相は引き渡し≠ニいう表現を用いている」とも述べ、これら諸島の主権がロシアにあるとの見解を暗に強調した

 「歯舞、色丹島にはロシア軍以外のいかなる軍隊の駐留も受け入れるものではない」として、返還後に日米安全保障条約が適用されて米軍が駐留することへの懸念も示した。

 領土問題を伴う平和条約交渉についてはプーチン大統領が3月15日、ロシア紙「コメルサント」のインタビューで「勢いが失われた」「まず日本が米国との(安保)条約を離脱しなければならない」と強調、北方領土への米軍駐留の可能性除去が交渉の前提との見解を示している。

 プーチン大統領は2016年12月、東京での安倍首相との会談後の記者会見で、同様の見方を示しており、ロシアにとっては従来からの懸念ではある。しかし、日本が2島返還に舵を切って妥結機運を盛り上げている時期にふたたび、この問題を前面に押し出してくるのは、状況に応じて交渉のハードルをあげる旧ソ連の手法そのままにもみえる。

 大使発言はもちろん、プーチン大統領の見解に従ったのものではあるが、一連の発言によって日本のめざした「2島+アルファ」は止め≠さされたというべきだろう。

「2島」で進展に感触あった?

 日本政府が「2島返還」へと方針を転換したのは、昨年11月のシンガポールでの日露首脳会談。戦争状態の終結、国交正常化と歯舞、色丹2島の日本への「引き渡し」が明記された日ソ共同宣言を平和条約交渉の基礎とすることで合意した。安倍首相はその後、国会などで、この合意は従来の国後、択捉をふくめた4島の返還要求から2島返還への転換であることを事実上認めた。 

 首相にしてみれば、70年間要求をつづけてきたにもかかわらず、返還をみなかった厳しい状況を考慮、歯舞、色丹返還に国後、択捉での共同経済活動を加味する「2島+アルファ」で決着を急ぐ方が得策という判断だった。

 日本の方針転換にもかかわらず、ロシアはかたくなな姿勢を崩そうとしなかった。2019年1月、交渉責任者に指名された河野太郎、ラブロフ両外相がモスクワで会談した際、先方は「北方領土は第2次大戦の結果、ロシア領になったことを日本側が認めない限り交渉は進まない」と、自らの不法占拠をタナにあげ、不当な歴史認識を押しつけてきた。

 この直後、安倍首相がモスクワに乗り込んでプーチン大統領と膝詰め談判したものの、事態を大きく打開するには至らず、「戦後70年以上残された問題の解決は容易ではない」ときびしい状況であることを認めざるをえなかった。

 翌2月、ドイツ・ミュンヘンで行われた外相会談の際も、河野外相は「戦後70年かけてやってきていることであり、一朝一夕に解決することではない」とやはり早期解決は困難との見通しを示した。

 シンガポールでの首脳会談の際、首相が「次の世代に先送りすることなく、私とプーチン大統領の手で必ず終止符を打つ」と大見得を切ったのに比べると大きな違いだ。


シンガポール会談で、日本はなぜ方針転換したのか

 あくまでも想像だが、ロシア側から事前に「2島なら解決」という何らかの感触を得ていたのではなかろうか。首相が自信たっぷりのコメントをしたのは、そのためだったのかもしれない。

 年明けの一連の首脳、外相会談でそれぞれ、どんなやりとりがあったのか明らかではないが、浮かれていた日本側を失望させ、再びきびしい認識に戻らざるを得ない何らかのやりとりがあったのだろう。

領土は返さないが経済協力は欲しい

 誠実さをかけらも示さず、ロシアは今後も北方領土で経済開発、軍事基地建設などロシア化≠進め、日本にも協力を求めてくるだろう。

 3月2日づけの産経新聞がロシアの「イズベスチヤ」紙を引用して報じたところによると、ロシアは北方領土と千島列島を対象とした経済特区の拡大、大規模投資などを検討しているという。2月20日づけの日本経済新聞は、ロシアの民間ガス大手が日本企業に対して、北極圏での液化天然ガス事業への出資を要請していると報じた。プーチン大統領も1月の首脳会談で首相に対して、日本企業の早期決断への期待感を伝えたという。この会談で日本側は、貿易額を数年間で1.5倍の300億ドルに拡大することを約束させられている。

 2月20日付けの読売新聞によると、ロシア政府系世論調査機関が北方領土の住民に聞き取りを行ったところ、96%の住民が、島の日本への引き渡しに反対したという。この結果を受けてサハリン州の知事代行は日本との領土交渉を打ち切るよう求め、国営テレビはこの結果を繰り返し報じたという。政府系機関の聞き取り調査に対して、4%の人が少なくとも反対しなかったことは、むしろ驚くべき事ではないかと思えるが、それはともかくとして、ロシアが返還反対の世論情勢工作を盛んに行っていることを示している。

 領土は絶対に返さないけど、経済協力はほしいというロシアの思惑をはっきりと示している。


今後は「2島」がスタートライン

 日本固有の領土である国後、択捉両島を断念して歯舞、色丹の2島で決着することは日本の主権放棄にも等しい。「2島返還」フィーバーが去ろうとしているのはむしろ幸いというべきだろうが、いったん「2島返還」の旗を掲げたからには、今後の交渉は2島返還をあらたなスタートラインにしなければならないだろう。

 本来の4島返還はますます遠のいたとみなければならない。まことに大きな代償だった。「2島返還」という妖怪≠ヘ。

27. 中川隆[-11024] koaQ7Jey 2019年4月01日 21:52:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[999] 報告

ウクライナ人が日本に警告「北方領土の2島返還で笑うのはプーチンだけ」
3/26(火) 11:57配信 PHP Online 衆知(Voice)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190326-00010001-voice-pol

ウクライナ出身のグレンコ・アンドリー氏は安倍政権の対ロシア外交に警鐘を鳴らしている。


<<安倍総理は現在、プーチン大統領との友好関係を深めることで北方領土問題の解決をめざしている。だが、2014年に領土クリミアをあっという間にロシアに奪われたウクライナ人のグレンコ・アンドリー氏は異なる考え方をもつ。新著『プーチン幻想』(PHP新書)より、その理由を明らかにする。>>

※本稿はグレンコ・アンドリー著『プーチン幻想』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです
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じつは「対露国益献上外交」

最初に言っておきたいが、筆者はウクライナ人としてではなく、日本を好きな人間の一人という立場から考えを書くこととする。ウクライナからすれば、日露関係がどうなろうが、日本がどのような対露政策を取ろうが、その結果、日本がどうなろうが、ほとんど影響がないからだ。

だから本稿において、筆者はウクライナ人というより、親日外国人、日本をよくしたいと思い、日本の復活・発展と繁栄を心から望み、自分の将来を日本と結びつけて考える人の立場から、安倍政権の対露政策について考えたいと思う。

さて、安倍晋三総理大臣は20回以上プーチンと会い、友好をアピールしているのだが、総理の目的は何であろうか。総理の言動から判断すると、それはロシアと友好関係を作り、領土問題を解決した上で日露平和条約を結ぶことである、ということになる。

一見もっともらしく映るが、じつは安倍総理の対露外交の本質を表す言葉は「対露軟弱外交」もしくは「対露国益献上外交」である。なぜなら安倍総理の政策は、ロシアが一方的に日本から利益を引き出すだけであり、代わりに日本が得るものは何もないからだ。
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「領土返還」と「領土問題の解決」のすり替え

今まで日本政府は、少なくとも南千島、つまり択捉島・国後島・色丹島と歯舞群島は日本の領土である、という立場を一貫して取ってきた。

しかし、いつの間にか「領土返還」ではなく、「領土問題の解決」という言葉が日本の情報空間に飛び交うようになった。それは何を意味するのか。

「領土返還」という言葉には1つの意味しか含まれていない。しかし、「領土問題の解決」という言葉には2つの意味が含まれている。

「問題の解決」は「領土返還」という形でも「領土放棄」という形でも可能であり、どちらも「領土問題の解決」である。

したがって、領土返還ではなく領土問題の解決を繰り返し述べる日本の政治家やジャーナリストの発言は、「領土放棄という選択を排除しない」ことを意味している。

このように概念をすり替えれば、安倍総理は「実績を残す」ことができる。つまり北方領土を取り返せないが、領土を放棄することによって「領土問題を解決した首相」という「実績」を作ることができる。

そして支持層に対し、巧妙な情報発信で対露敗北を「安倍外交の勝利」と思わせることができる。

実際、総理はロシアが北方領土を返還しないことを分かっているので、「日本の面子が潰れない形で」北方領土の放棄を目指していることは明らかである。日本のメディアにおけるロシアに対する報道、もしくは日露関係に対する報道がそれを物語っている。

たとえばロシアに関する報道では、以下の話題が頻繁に出ている。すなわち「ロシアの美人スポーツ選手」「プーチン大統領は柔道が好き」「プーチン大統領に秋田犬が贈られた」「日本にシベリア猫が贈られた」などである。つまり、全く政治や外交と関係がない。

これはロシアが日本の領土を不法占領している事実から目を逸らすための戦略である、と言わざるをえない。先述のような報道だけを見れば、誰でもロシアによい印象を持ち、親近感が湧く。

日本中にこのようなロシアに対して甘いイメージが広まれば、ロシアに対する大きな譲歩も受け入れられやすくなる。

また、安倍政権が展開している対露外交についてマスコミはほとんど批判せずに、政府の発表をそのまま報道するだけである。

たとえば、日本の高官による「日露新時代」「(領土問題に関する)新しいアプローチ」「落ち着いた雰囲気での交渉」「両国に受け入れ可能な解決」などの表現を報道するだけで、反論は加えられない。

しかし、このような表現は日本の一方的な譲歩を示す婉曲表現にすぎない。このような発表の下で、安倍政権は歴代政権の立場を崩して北方領土を放棄しようとしているが、日本のメディアもそれを容認しているのである。


全島全域返還の前に平和条約を締結してはいけない

さて、安倍政権の対露外交は具体的にどこが間違っているのか。最も大きな間違いは、先述した「領土放棄の容認」である。安倍政権は明らかに「2島返還で平和条約」という解決を目指している。

しかし平和条約を締結すれば、それは事実上、国後島と択捉島のロシア帰属を認めることになる。

だから平和条約締結後、国後島と択捉島の返還を要求できなくなる。要求したとしても、「平和条約の時点で領土問題は解決した」という反論がくる。だから、いわゆる「2島先行返還論」はありえないのだ。

ロシアからだけではなく、第三国から見ても、平和条約締結後の日本の領土返還要求は正当に映らない。だから絶対に、全島全域返還の前に平和条約を締結してはいけないのだ。

ちなみになぜ、筆者は「安倍政権が2島返還を容認している」と断言できるのか。それにはいくつかの理由がある。

1つ目は、先述したメディア戦略である。安倍総理は明らかにプーチンとの個人的な友情をアピールし、日本人にロシアやプーチンに対して好印象を持ってもらいたがっている。

2つ目は、日ソ共同宣言への言及である。日ソ共同宣言は当時、違法にソ連に抑留されていた日本人の帰還のためのやむをえない措置だったかもしれないが、日本人の帰還終了後にこれを即、破棄するべきであった。その内容は大きく日本の国益を損なっているからである。

そして3つ目は、安倍総理は自分の在任中に領土問題を解決し、平和条約を締結する、と言っている。

しかし、安倍晋三総理大臣の在任中に北方領土全島を取り返すことは不可能である。だから「自分の在任中に解決する」と言っている時点で、安倍総理が「2島返還で平和条約」を容認しているのは明らかなのである。
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「在任中に解決」発言が日本の立場を不利にした

また「自分の在任中に解決する」という発言は、安倍政権の対露外交のもう1つの大きな欠陥である。

自分の在任中に解決する、というのは、問題解決に期限を設けることを意味している。

つまり、2021年9月までに北方領土問題を解決しなければならないということだ。それは交渉において、自分の立場を自ら不利にする行為である。

総理の発言のため、日本側には期限が迫っているという焦りが生じる。しかし、ロシアには一切何の期限もなく、時間が無限にある。だからロシアは、日本側に期限が迫るときまで待てばいいだけである。

他方、期限までに問題を解決しなければならない日本は、期限が近付いた頃に仕方なく譲歩せざるをえない。そして、ロシアは待つだけで自国に有利な結果での解決を獲得する。

以上のことから、安倍総理の発言は大きな誤りであり、現在の対露外交は日本の立場を不利にする行為であるので、即刻改めるべきである。

領土問題を始めとする難しい外交的問題において、期限を設けてはいけない。必要なだけ時間をかけて、必要な場合は次の代に解決を先送りすることを覚悟するべきだ。解決を焦ることは、自分の手で自らの首を絞めることである。
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グレンコ・アンドリー(ウクライナ出身)


28. 中川隆[-10505] koaQ7Jey 2019年4月29日 18:50:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1582] 報告

北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾…
粟野仁雄 2019/04/26
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

北方領土と日本の複雑すぎる関係

「今、日本でニュースになっているクリル列島(千島列島)の問題をどう思いますか。日本じゃ北方領土と呼ぶのだけれど……」

 1月末、モスクワでの首脳会談に合わせて旧島民たちの取材に訪れた筆者は、北海道根室市のラーメン店で、隣に座った若いロシア人男性に拙いロシア語でこう尋ねた。サハリンから商売に来ていた体格のよい男は、「北方領土ではないよ。あの島は絶対に我国の『南方領土』なんだ。でも日本はいい国だよ。仲良くしたいね」と笑った。

 安倍首相とプーチン大統領による日ロ首脳会談の度に取り沙汰される北方領土問題だが、3月15日、ロシアの『コメルサント』紙が「大きく交渉スピードが後退した」とプーチン大統領が発言していたことを報じた。足もとでは、5月上旬の対ロ協議を前に、河野太郎外相が国会答弁においてロシア側を刺激しない配慮を見せるなど、交渉の「難しさ」が伝わってくる。

 近づいたとか思うと離れるブーメランのような「北方領土」とは、日本人にとってどんな存在なのか。筆者が若き記者時代から関わったこのテーマについて、まずは地理や歴史などの基本事項を解説したい。

 背の低い白い灯台が立つ根室半島先端の納沙布岬。眼下の岩礁にはかつて作家の三島由紀夫を信奉する国粋主義団体「楯の会」がペンキで描いた「千島を返せ」の文字があったが、積年の波で消えている。沖へ視線をやると、水平線上にまっ平で樹木の1本もない不思議な水晶島が見える。貝殻島の「日本時代」からの古い灯台が見える。右には勇留(ゆり)島。いずれもロシアの実効支配下にある歯舞群島の1つだ。

「うわあ、ロシアが見えるなんて」-――。若いカップルが驚いていたが、寒がって車に引っ込んでしまった。夏のシーズンは濃霧で見にくいため寒い時期がいいのだが、この地域の冬の寒さは半端ではない。見えていた数隻の漁船は、あまりの近さに日本の船かと思いたくなるが、潜水でウニを採るロシアの船である。ここから日露の海上の「中間ライン」(固有の領土、領海を主張してきた国は国境とは言えない)はわずか1.7キロだ。

「ロシア人はウニなんて食べないから、みんな日本に売るんです。この寒いのによく潜るよ」とは食堂兼土産物店「請望苑」を経営する竹村秀夫さんだ。訪問者たちの「北方領土って、こんなに近かったんですか」の言葉に地元民は辟易しているが、北海道旅行も根室まで行く人は少ないから、それも仕方がない。

 北方領土は、北から択捉島、国後島、並列する歯舞諸島と色丹島の「4島」だが、沖縄本島より大きい最大の択捉島と2番目に大きい国後島が、全面積の93%を占める。国後島は根室市からも見えるが、標津町からはより近く、好天なら主峰の爺々岳も見える。

 北方領土をめぐる国際的な取り決めの柱は、(1)1855年の日露通交(和親)条約、(2)1875年の千島樺太交換条約、(3)1904年のポーツマス条約、(4)1951年のサンフランシスコ講和条約、そして(5)1956年の日ソ共同宣言だろう。日ロ間における北方領土を巡るターニングポイントについて、おさらいしてみよう。


開国時にロシアだけは

友好な態度だった

 1855年2月7日、江戸幕府はロシア帝国と「日露通好条約」を結ぶ。「日露和親条約」ともいう。ロシア語では「貿易と国境の条約」だが、日本語では「貿易」も「国境」も消え、和親だとか通好とか、わけのわからぬ言葉になる。

 このとき、ニコライ一世の訓令・プチャーチン提督と対峙したのが、幕府の川路聖謨(かわじ・としあきら)という旗本。NHKの元モスクワ支局長の石川一洋解説委員は、2月に鳥取県倉吉市に招かれた講演会で、川路について「優れた人でしたが、ロシアの交渉団が彼の写真を撮ろうとしたら固辞した。『私のような醜男が貴国に紹介されては日本の恥です』と言ったのです」と素朴な人柄を紹介した。川路は戊辰戦争で幕府軍に殉じて自決した。

 この時期、米国のペリー提督が軍艦を連ねて開国を迫るなど、欧米列強が「鎖国日本」を力でこじ開けようとしたが、石川氏は「ロシアだけは非常に友好的な態度で日本に接してきたのです」と強調した。確かにその通りだ。

 この条約で国境線が得撫(ウルップ)島と択捉島の間とされ、樺太は「日露混住の地」となるが、20年後の1875年、ペテルブルグ(今のサンクトぺテルブルグ)で締結された「千島樺太交換条約」で、樺太は全島がロシア領、千島列島すべてが日本領となる。日本は大政奉還から7年目の明治8年、ロシア側は革命で銃殺されるロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の時代だ。

 20世紀初頭、日露戦争で日本が勝利し、1905年に「ポーツマス条約」で樺太の南半分が日本領となる。これはロシア人にとって大変な屈辱だった。南樺太のロシア人は北緯50度以北へ追いやられ、代わりに日本の開拓団が多数樺太へ移住し、石炭生産、製紙産業、林業、農業、漁業などを繁栄させた。樺太や千島の日本人は、第二次大戦末期に日本本土の人たちが空襲などに苦しんでいた頃も平和を謳歌した。

 それが破られたのが、ポツダム宣言受諾後の1945年8月。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が、満州、樺太、北方領土へ侵攻したのだ。戦闘らしい戦闘もなかった北方領土では、樺太や満州のような悲劇は少ないが、金品を奪うソ連軍との諍いや、本土への脱走時に船が銃撃を受けるなどして、幾人かが命を落とした。

 その後、色丹島などでは2年間ほど日露混住の時代もあった。色丹島の混住時代に小学生時代を過ごした得能宏さん(85)は、「先生は怖がっていたけれど、ロシア兵が黒板のほうに来て、生徒の算数の間違いを直してくれた」と振り返る。

 最終的に4島から日本人すべてが追われた。根室や羅臼などに裸一貫で引き揚げた彼らの戦後の苦労は想像に難くない。


意外に知られていない

サンフランシスコ平和会議での失態

 ソ連の対日参戦は1945年2月の米、英、ソのヤルタ会談で密かに決められた。戦争を早期終結させ、米兵の犠牲を減らしたいルーズベルト・米国大統領の求めによるものだが、スターリン・ソ連書記長の談話録には「問題が起きているわけではない日本と戦争することに国民は納得しない」と、代償に領土拡大を求める巧みな会話が残されている。

 後にスターリンは、釧路と留萌を結ぶライン以北の北海道の北半分までも要求したが、米国が拒否した。実現していたら北海道は今頃、どうなっていたのだろうか。

 1951年、米国との単独講和だったサンフランシスコ平和条約で、日本は「クリルアイランズ(千島列島)」を放棄した。実はこのときに、現在に至るまで禍根を残す失態が生じる。批准国会で野党議員に「放棄した千島に国後や択捉を含むのか」と訊かれた西村熊雄条約局長が、「含む」と答えてしまったのだ。

 外務省はこの大失敗に触れられることを今も嫌がるが、和田春樹・東大名誉教授(ロシア史)は「どんなにつらくとも、放棄したことを認めて交渉すべきだ」と話す。外務省は、「サ条約にはソ連が参加していないから、ロシアのものとされたわけではない」としている。

 1956年、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」が締結された。今、盛んにニュースになっている史実だ。「平和条約締結後に、色丹島と歯舞諸島は日本に引き渡すとされた」が、「引き渡す」(ロシア語では「ペレダーチ」)とは、「返す」ではなく、「私の物ですが差し上げます」というニュアンスだった。

 結局、平和条約を結べないまま、世界は冷戦時代に突入。日本を自由主義陣営に引き込みたい米国のダレス国務長官が、「歯舞・色丹の返還を目指してソ連と平和条約を結ぶなら、沖縄を永久に占領する」とした有名な「恫喝」が大きな楔だった。

 そして、1960年の日米安保条約延長でソ連は態度を硬化し、「領土問題は解決済み」とされる。1973年、田中角栄首相がブレジネフ書記長に「両国間の未解決諸問題」に領土問題が含まれることを認めさせたが、その後進展はなかった。80年代にゴルバチョフ政権が誕生し、91年にソ連が崩壊、続くエリツィン政権ではロシアが一旦態度を軟化させたものの、日本は何度も好機を逃してきた(これについては、後述する)。

 日本人の最も身近にある国際問題の1つ、北方領土問題はこうした経緯を辿って来たのである。


忘れられがちな史実

本当の先住民は誰だったのか

 2月7日、筆者は大阪は中の島公会堂の「北方領土返還要求大会」に出かけた。入り口で「アイヌ民族抜きで交渉を進めることはおかしい」と抗議の横断幕を掲げる人たちがいた。

 北方領土史で忘れられがちなのは、「本当の先住民は誰だったのか」だ。筆者は1980年代、北海道で知り合いのソ連担当の公安関係者から、「ソ連の学者たちが北海道のアイヌ民族の存在を口実に、北方領土が古来、自分たちの領土だったことにしようとしている」と聞いた経験がある。アイヌはロシア側にも居ることをテコに、「日本人より先にロシアのアイヌが千島にいた」として、日本が主張する「固有の領土」を否定しようとし、「AS協会」という組織を立ち上げたと、といった話だった。

 詳細は省くが、国境という観念も希薄だったその昔、千島列島ではアリュート、樺太アイヌ、北海道アイヌら、様々な民族が狩猟生活や物々交換などをしていた。政府は、第二次大戦までは一度も外国の手に渡っていない「固有の領土」と強調している。 


ソ連の北方領土占領に米国が協力

なぜか後追いされない衝撃の事実

 2017年12月30日の北海道新聞に「歴史の常識を覆す」報道があった。タイトルは「ソ連の北方四島占領、米が援助、極秘に艦船貸与、訓練も」というものだ。

 概要は、1945年8、9月に行われた旧ソ連軍の北方4島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたというものだ。大量の艦船の提供だけではなく、ソ連兵の訓練も行ったといい、4島占領の背景に米国の強力な軍事援助があったことを示唆する内容だった。

 ヤルタ会談の直後、連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」という極秘作戦を実施した。米国は45年5月から掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。ソ連兵1万2000人を米アラスカ州の基地に集め、1500人の米軍人が艦船やレーダーの習熟訓練を行った。

 8月28日からソ連兵が攻め込んだ択捉、国後、色丹、歯舞の占領作戦には、米国に借りた艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、4島の占領は9月5日までに完了した。

 記事には、和田春樹・東京大学教授が次のような談話を寄せている。

「北方4島を含むソ連の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本ではほとんど知られておらず、発見と言える。ソ連が勝手に行ったのではなく、米国をリーダーとする連合国の作戦だったことを示す」

 日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後に、ソ連は日ソ中立条約を破棄して千島列島を南下、樺太からのソ連軍は米軍がいないことを確認して、択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻したという「常識」を覆す話だ。

 ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べた、ロシア・サハリン州戦勝記念館のイーゴリ・サマリン科学部長の論文を、同紙根室振興局が入手した。調査を主導した谷内紀夫前副局長は、「ボリス・スラビンスキーの著書『千島占領・一九四五年夏』(1993年)には、この経緯の一端が出ているが、話題にならなかった」と言う。

 記事を見た千島歯舞諸島居住者連盟の宮谷内亮一・根室支部長は、「驚いた。ソ連の占領に関わっていたのなら領土問題はアメリカにも責任がある」と話す。旧島民も初耳の人は多い。一方、連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かないから、米国のソ連軍支援は十分考えられる」と話す。

 日本政府が「米軍の援助」を知らなかったはずはないが、冷戦下、米国とともに反ソ感情を煽るためにも都合の悪い事実だった。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「ソ連は当時、連合国の一員なのでおかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でも、ソ連軍の4島の占領にアメリカが関わった歴史を出さない方がいい、ということだったのでしょう」と推測する。

 事実は北海道新聞の報道後、釧路新聞と根室新聞が報じたが、全国紙は無視した。中央メディアも外務省などに問い合わせはしたはずだ。米国に追従する安倍政権に「忖度」したのなら、情けない話だ。現代史の中で語られる出来事は、今の政治に直結しているケースが多いため、こうしたことは多い。日露首脳会談のときだけ賑やかになる北方領土問題も、その実、4島をめぐる現代史の根本事実すら国民には知らされていない。 


一般人が島へ行くことはできるか?

「渡航禁止」にも矛盾はらむ外務省

 さて、こうした複雑な歴史を持つ北方領土だが、日本人が島を訪れることはできるのか。結論から言えば、行けないことはないものの、一般人が訪れるのはなかなか困難だ。

 時代を遡れば、1989年4月、北海道新聞がメディアとして戦後初めて北方領土、国後島の上陸取材を報じた。まだソ連時代でロシア人でも簡単には入れなかった。歴史的快挙だ。

 当時、筆者が親しくしていた札幌領事館のイワノフという副領事(日本語が堪能だった)は、「あんなところに大した秘密も何もないんです。日本のような発展した国の人に、あんな遅れた場所を見せたくないんですよ」と話した。

 残留日本人や韓国人などの取材でサハリンに通っていた筆者は、自然やロシア人の素朴さには魅かれたが、「何と後れた場所か、1世紀前に戻ったようだ」と感じていた。戦後初めて故郷を再訪した引揚者の女性も、「ロスケ(筆者注:ロシア人。必ずしも蔑称ではない)は何してたのよ。日本時代の方が進んでたわ」と呆れていた。

 ソ連社会の中で、極東地方はモスクワから見放された地域。筆者は「サハリン本島でこれなら、北方領土(同じくサハリン州)なんてどんなに原始的か」と感じていたので、イワノフ氏の話は納得できた。

 1992年に「ビザなし交流」が始まった。4島交流、墓参り、自由訪問などがあるが、誰でも行けるわけではない。元居住者(子孫を含む)、返還要求運動関係者、報道関係者、学者などの専門家に限定される。日本政府は一般人の渡航を自粛するように求めている。「旅券や査証を取っての上陸はロシアの領土であることを認めてしまう」というのが言い分だ。


ソ連に億単位のカネを払って

北方領土の海域で漁をさせてもらう

 とはいえ、北方領土や領海をめぐっては、政府とて「建前と本音」の狭間で矛盾だらけ。たとえば、一時期の中断を含めて1960年代から続く夏場の「貝殻島の昆布漁」は、ロシアに億単位の入漁料を払って北方領土の海域で昆布漁が続く。「日本固有の領土、領海」なら金を払うのは明らかにおかしいが、漁民救済の一助として止むを得ないのだ。

 旅券、ビザで上陸した北海道新聞の記事をきっかけに、1990年代はピースボートなど様々な団体が旅券を取って、サハリン経由で北方領土へ渡っている。政府とて、こうした行為を日本の法律で取り締まることはできない。

 1988年、アイヌ民族の男性が「国後のアイヌと共同事業をする」と言い、北海道水産部の制止を振り切って小舟で国後島へ渡った騒動があった。仲間と「ウタリ合同」というソ連との合弁会社を立ち上げて、色丹島海域で大量のカニを水揚げしてきた。北方領土を外国と認めてしまうことになる。結局、北海道海面漁業調整規則違反に問われ、国内法がソ連の実効支配海域に及ぶか どうかが最高裁まで争われたが、「及ぶ」と認定され、有罪となった。

 検疫も税関も無視だから、戻れば検疫法違反や関税法違反などに問われる可能性があった。しかし、そうすると「北方領土を外国と認めてしまう」ことになるためか、その男性の罪は問われなかった。政府としても「痛し痒し」だったのだ。

 日本人にとって「近くて遠い」北方領土――。返還を唱えるならば、まずはかの地を取り巻く状況がどうなっているのかを、日本人一人ひとりが深く知ることから始めるべきではないか。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%83%BB%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E2%80%A6/ar-BBWikav?OCID=ansmsnnews11#page=2

29. 中川隆[-9334] koaQ7Jey 2019年6月23日 10:17:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3153] 報告

北方領土引き渡し拒否「公約」、安倍政権が招いた結末
2019/6/23 07:03 (JST) ©株式会社全国新聞ネット

 ロシアのプーチン大統領は22日放映のロシア国営テレビの番組で、北方領土でロシア国旗を降ろす「計画はない」と断言、日本への引き渡しを拒否する考えを明確にした。プーチン氏が公の場で、これほど明確に「北方領土を渡さない」と明言したのは、少なくとも、昨年11月のシンガポールでの安倍晋三首相との首脳会談で日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速させることで合意、日本側で領土問題解決への期待が高まってからは初めてだ。交渉担当者のラブロフ外相は強硬姿勢を繰り返してきたが、大統領の発言は重みが違う。

 今回の大統領の発言を受け、いつものようにプーチン氏が「領土問題で日本をけん制」したと報じたメディアもあったが、けん制などという甘いものではない。ロシア国民に対し、金輪際、領土を引き渡すことはないと「公約」したに等しい。

 発言はロシア国営テレビのニュース番組「ベスチ・フ・スボーツ(土曜日のニュース)」でのインタビューで行われた。同番組は日曜日の「べスチ・ニェジェーリ(1週間のニュース)」と並ぶ国営テレビの看板ニュース番組で、著名ジャーナリストのセルゲイ・ブリリョフ氏が司会している。

 同氏はプーチン氏への全面的な支持を公言し、プーチン氏を一度も批判したことがない(当然ながら、だからこそ国営テレビのニュース番組司会者に抜擢された)ことで有名で、べスチ・ニェジェーリのキャスター、ドミトリー・キセリョフ氏と並ぶ「クレムリンのプロパガンジスト」(野党指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏)とも評される人物だ。

 こうした人が司会する国営ニュース番組に出演し、28日から始まる20カ国・地域首脳会議(G20大阪サミット)を前にインタビューで領土問題について話すというのは、それだけで大統領の現時点での考えをできるだけ広範な国民階層に知ってもらいたいというクレムリンの意向があると考えるのが自然だろう。今年3月にロシア経済界との非公開会合で、プーチン氏が日ロ交渉に言及し「テンポが失われた」と発言、有力紙コメルサントがその内容をすっぱ抜いたのとは全く違った次元の話なのだ。

 インタビューは政府発行のロシア新聞を含め多くのメディアが報道。一部メディアは北方領土の引き渡しをしないことを「プーチン大統領が公約」(ブズグリャド紙)、「プーチン氏は領土問題を終わらせた」(ニュースサイト「ガゼータ・ルー」)などと、日本との交渉は終わったかのような見出しで報じた。クレムリンがこうした意思決定をし国営テレビで“声明”を出した以上、「交渉は難航が予想される」どころか、G20大阪サミットの場での大筋合意はおろか、安倍首相の任期中の領土問題での大幅な前進はなくなったと考えるのが常識ではないか。

 日本にとっては厳しい話ではあるが、これも、民族意識の高まりやプーチン氏の支持率低下、外務省をはじめとする抵抗勢力の反対というロシアの国内情勢を甘く見て、拙速に「2島プラスアルファ」との妥協策で戦後未解決のこれほど困難な交渉をまとめようとした安倍政権の政策の当然いきつく結果ではなかったか。そうした動きを背景に、同様にロシア国内の状況を読み間違え領土問題の解決は近い、あるいは少なくとも大きな進展がある可能性を吹聴した報道も多くあった。北方領土問題の解決を外交の主要課題と明言してきた安倍政権は今後、交渉の頓挫を受けて今後、どのような総括をするつもりなのだろうか。

 インタビューで、プーチン氏は「ロシア政府が策定した南クリール諸島(北方領土)を含む極東地域の大規模な開発計画を実現していく」と表明。新しい空港など「インフラも整備していく」とした。ブリリョフ氏がさらに、「ロシア国旗を降ろすことにはならないか」と質問すると、プーチン氏は「そうした計画はない」と否定した。 (共同通信=太田清)

30. 中川隆[-8836] koaQ7Jey 2019年7月27日 18:14:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3883] 報告
あまりに辛辣!ロシア人の「日本人への本音」
7/27 グレンコ・アンドリー :国際政治学者、日本研究者
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190727-00292654-toyo-bus_all&p=1

政府は今年4月、プーチン大統領の6月の訪日に合わせた北方領土問題を含めた平和条約締結の大筋合意を見送った。6月22日にもロシアの国営テレビ番組で「(北方領土を日本に引き渡す)計画はない」と語っている。安倍政権はプーチン大統領と対話を重ね、経済協力を結べば領土問題を解決できる、と考えていたようだが、はしごを外された結果となった。

2014年、ロシアに領土クリミアを侵攻されたウクライナ人のグレンコ・アンドリー氏は、自著

『プーチン幻想「ロシアの正体」と日本の危機』
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E3%80%8C%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/4569842828

で「ロシアとの約束はつねに破られる」と述べている。日本人のロシアに対する誤解について、文化を例にとって本書から紹介する。
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■文化に興味があるから親日とは限らない

 いま日本で広まっている幻想の1つは、「ロシアには日本文化や日本武道が好きな人が多く、彼らは親日に違いない」ということである。

 よく「プーチン自身が日本武道をやっているので、日本の伝統や文化をよく理解している」と言われている。しかし、これもまた現実に基づいた考えではなく、希望的観測である。つまり、「こうあってほしい」という強い願望から「こうに違いない」という錯覚に陥ってしまうのである。しかし現実にはそうなっていない。日本の文化に興味があるという理由で、その人が親日になると思い込んでいる日本人は認識が甘い、と言わざるをえない。
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 その国の文化が好きだから、またはその国に興味があるから、という理由でその国のシンパになるとは限らない。

 確かに日本では、特定の外国の学問分野を専門にする人がその国のシンパになることはよくある。例えば、ロシア文学を専門にする人が親露派(一昔前は親ソ連)になったり、中国哲学を専門にする人が親中派になったりすることは頻繁に聞く話である。また、日本の外務省における「チャイナスクール」「ロシアスクール」「アメリカスクール」は有名であり、日本の外交官であるにもかかわらず、日本の国益ではなく、外務省の中で専門とする国の国益を優先するという悪しき習慣も存在する。


しかし外国、ましてロシアではこのような事例は滅多にない。いずれの分野においても、日本を専門にする人が親日になるわけではない。もちろん、アメリカを専門にするロシア人が親米になることもない。

 むしろ、専門の対象とする国をよく知り、その特徴や弱点を把握することで、当該国に対するロシアの外交を有利に進めることに貢献するのが、外国を専門に研究する人々の目的である。これ自体は批判されるべきことではなく、むしろ普通の姿勢だと言わざるをえない。
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 この姿勢は仕事ではなく、趣味の世界であっても同じである。プーチンにとって日本武道はあくまで身を守る手段であり、闘う方法である。暗殺などを通常手段とするKGB出身のプーチンが、武道をやっているから日本文化を理解していると期待することは、いわゆる「お花畑思想」の類のものであると言わざるをえない。

 日本では、韓流ドラマを見すぎて韓国に憧れるあまり、韓国人になりたいとまで思う日本人はそれなりにいる、と聞いている。また、アメリカンドリームを題材にした映画を見てアメリカ人になりたいと思う日本人もそれなりにいるようだ。しかし、同じように、日本のアニメを好きなことによって日本そのものを好きになり、親日になると考えるのは、先述した「お花畑思想」である。
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■アニメ好きでも、「北方領土は返還すべきではない」

 じつは、筆者自身も日本に興味を持つきっかけの1つは日本のアニメであったので、一時期、日本のアニメをかなり見ていた。またその頃、ロシアのアニメが好きな人たちのコミュニティと交流があった(筆者はロシア語が話せる)ので、彼らが考えていることを直に聞くことができた。

 彼らのなかには、趣味として本当に日本のアニメに熱心な人もかなりいた。アニメグッズの一大コレクションを持ったり、コスプレショーなどのイベントを開いたり、日本への旅行を計画したりする人がいた。一見、まさに「親日」に当てはまる人たちである。


しかし、趣味ではなく現実世界の話になれば、まるで別人のようになる。北方領土のことを聞いたら、たいてい「一島も返すべきではない」「あの土地はわれわれの先祖が血を流して獲得したものだから、返還は先祖への侮辱である」「アニメは大好きだし、日本人とは仲良くしたいけど、なぜ彼らが私たちの領土を狙っているのか理解できない。仲良くしたらいいのに(女の子の場合)」「そんなに領土が欲しいなら、米軍基地を撤退させて空いた土地に住んだらいいじゃないか」「アメリカに支配されているくせに日本人はロシアに文句言うな!」「趣味と国家は別だ」「クリル諸島が欲しいなら、方法は簡単だ。日本列島がロシア領になればいい。それだったら日本人は皆ロシア国民になるので、いくらでもクリル諸島に住める」などである。
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 さらに歴史について聞くと、「日本人はヒトラーの味方だった」「日露戦争でロシアは日本に騙し討ちの攻撃を受けた。ソ連の対日参戦はそれに対する正当な報復だから、文句を言われる筋合いはない」「今の日本人は戦争に負けてから大人しくなったが、昔は残虐だった。731部隊で人体実験をやっていた。捕虜の首を切り、中国人の民間人を大量に殺していた」と言っている。

 強調するが、以上の意見を述べたのは日本のアニメが好きな人たち、つまり最も親日のはずの層である。ましてや、アニメに興味がない一般ロシア人の意識を想像することはさほど難しくないであろう。当時、このような発言を聞いて筆者は驚いたが、よく考えれば、趣味はどうであれ、ロシア人はロシア人なのである。
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 筆者が関わった人の中で、多くはないが一定数、「アニメそのものは好きだが、日本や日本人は大嫌い」という人もいた。本当にごくまれに、北方領土返還を容認し、ソ連の対日参戦を批判する人たちがいた。しかし繰り返しになるが、それはアニメが好きな人の層に限る話なので、ロシア全体で考えれば、その比率はさらに小さい。

■中国と韓国を見れば実証済み

 そもそも、アニメが好きな人が多い国が親日国になるわけではないということはすでに実証されている。世界の中で、日本のアニメファンが最も多い国はどこか。それは中国である。また、日本のアニメが好きな人の比率が最も高い国はどこか。それは韓国である。しかし、両国は親日国だろうか。決してそうではない。

日本のアニメが好きな人という点では、中国は数で、韓国は比率でロシアに勝っている。また日本文化や日本武道に興味のある人の数も、ロシア人より中国人や韓国人のほうが多い。

 しかし、それはまったく親日とは関係ないものである。中国と韓国は世界最大級の反日国家である。この自明な事実を、「アニメが好きなロシア人は親日」というデタラメを流している日本人はなぜ無視しているのだろうか。

 このように、大衆文化や伝統文化、もしくは日本武道への興味が、当該国の人々を政治的な親日にするわけではない。そのようなケースがあるのは事実だが、実際にはまれであり、そうならない場合がほとんどである。同じように、日本文化に興味がある人が多いという事実は、当該の国を親日国にするわけでもない。甘い幻想を捨てて、厳しい現実を認識することが日本の国益のためになるのではないか、と筆者は考えている。
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 ロシアにおいては日本が好きな人であっても嫌いな人であっても、昔の「日本が悪かった」ことと、「南クリル諸島に対する不当な領土的野心」を日本の欠点として取り上げている。

 歴史に関しては、多少、日露関係史に詳しいロシア人であれば、1855年の下田条約(日露和親条約)でロシアは日露友好のためにそれまでロシア領であった南クリル諸島を善意で日本に譲った、と主張している。

 さらに、一部の人は「北海道のアイヌはロシア王朝に朝貢をしており、それはロシア支配を認めていたことを意味する。本来はロシア帝国が北海道を領有するはずだったが、ロシアは日本に配慮して侵攻しなかった」と主張している。それこそがロシアが日本に対して友好的だったことの証しだ、とまで彼らは考えている。そして「ロシア人の寛大さに対して、日本人はロシア皇太子を襲い、だまし討ちで日露戦争を吹っかけた。まったく恩知らずの民族だ」と思っているのだ。
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 さらに、天皇陛下について「ソ連のスターリン崇拝が批判されるが、日本だって皇帝崇拝があったではないか。現在でも、一部の狂った民族主義者が日本の皇帝を崇拝している」と主張する人もいる(筆者からすれば、日本の国体の奥深さや皇室の尊さに対する理解をロシア人から期待することはもちろんできない。だが、それでも世界最古の王朝と1代限りの独裁者を同列に考えるのは、無知や非礼の極みである)。

 だからソ連による対日参戦は、ロシア人からすれば、先述した「ロシアに対する敵対行為への当然な報復」ということだ。したがってロシアは正当に南千島を「取り戻した」のだ、という理屈になる。

■「アメリカに支配されている」と考えている人も

 以上のことを前提として、現代のロシア人は日本のことをどう考えているのであろうか。その答えはもちろん人によってばらばらである。先述した認識はロシア人のほぼ全員が持っているが、それ以外の面では、考え方は人によって異なる。日本が嫌いなロシア人は「日本人はうそつきで本当のことを言わない」「日本は住居や道が狭くて住みにくい」「職場では人間を家畜扱いしているが、それに抵抗しない日本人にはぴったりの扱いだ」「奴隷根性が強い」など。
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 しかし、嫌いな人についてどれほど論じても仕方がない。日本のことが嫌いな人は、どの国でも一定数はいるであろう。重要なのは、「日本のことを嫌いじゃない人」である。彼らは、日本の長所とされる面を指摘する。まず「日本人は勤勉だ」「日本は技術が発展している」「文化が奥深い」「インフラが整っており、社会保障が充実しているので住みやすい」などと言う。だから日本に「住みたい」もしくは「住んでみたい」と言うロシア人もいる。
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 本当に大事なことなので何度も繰り返し言うが、たとえ日本のことが好きなロシア人であっても、「昔の日本は悪かった」「北方領土は一島も返すべきではない」と考えている。それだけではない。たとえ日本が好きなロシア人でも、「今の日本はアメリカに支配されている」と考えている。彼らの頭の中では、アメリカが日本の民族主義者と結託し、存在しない北方領土問題を掻き立て、日露友好を妨害していることになっている。

 基本的に、ロシア人の頭の中で友好とは「ロシアへの服従」を意味している。ロシア人は他国のロシアへの服従は当たり前の自然状態だと考えているので、それに反発が起きることを想定していない。したがって、反発が起きたときはそれを「敵対行為」と認識する。ロシア人は、他の民族には独立意思があるということを理解できない。だからこそ、ロシアへの服従に抵抗を示す民族がいることに対して驚くわけである。日本人の皆さんにはなかなか理解できない感覚だろうが、ロシア人はそういう国民である。

31. 中川隆[-8839] koaQ7Jey 2019年8月15日 18:14:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3901] 報告
2019年08月15日
終戦直前 韓国・北朝鮮を生み出した関東軍とソ連軍の駆け引き

ソ連軍が近づくと関東軍は戦わず、民間人を見捨てて逃げ出した。

画像引用:https://www.jiji.com/news/handmade/topic/d4_mili/sov808-jlp02617204.jpg

瀬戸際の駆け引き

現在の私たちは朝鮮半島の真ん中で北朝鮮・韓国に分かれた地図を当たり前に見ています。

だが1945年夏の朝鮮半島は現在とはまったく違う世界で、その後数が月の偶然によって韓国と北朝鮮が誕生した。

ほんの少し違っていれば半島すべてが共産主義の朝鮮民主共和国になったかも知れないし、一つの大韓民国だったかも知れない。

またソ連の領土の一部や、中華民国や共産中国の「朝鮮自治区」になっていた可能性がかなり在った。

全ては日本陸軍関東軍とソ連軍のかけひきによって進み、たまたま両軍が止まったのが地図上の「38度線」でした。

この38度線も関東軍の将校らが、たまたま地図上の線を目安に、ここを防衛線にしようと決めたのに過ぎませんでした。


始まりは1941年から45年の対米戦で、圧倒的優勢な米軍に対処するため、中国大陸や半島から優秀な将兵を太平洋戦線に移動させた。

優秀な人は太平洋に移動し玉砕したので終戦末期に大陸に残っていた兵士は、あまり戦力にならないと考えられたような人達でした。

こういう事情だったので関東軍上層部はソ連と戦う自信がなく、攻めてきたら逃げるという作戦を立てました。


日本の軍中枢である大本営は敗戦を確実視し、100万人以上いた日本人移民を全員見捨てて、関東軍だけが日本に帰国せよと命令しました。

1945年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、日本軍が居ない場所を狙って前進してきました。

関東軍はあらかじめ少し後退していて、ソ連軍も日本軍が居ない場所だけ前進するという暗黙の合意が成立していました。


全ては僅かな偶然で決まった

ソ連軍はドイツを倒すため欧州戦線に全力を投入していて、極東の日本軍には勝てないとスターリンは考えていました。

欧州戦線のソ連軍を極東に移動させるには数か月かかり、その間日本軍と交戦してはならないと指示していました。

戦力としては極東ソ連軍の方が関東軍より優勢だったが、1939年のノモンハン事件では同じく劣勢だった日本軍に苦戦したからでした。


ノモンハンの戦闘で日本軍は弾薬が尽きても刀や槍で襲い掛かり、兵器や人数では圧倒的に優勢だったソ連軍の方が大きな損害を出していました。

関東軍は安全に撤退するため100万人の日本人移民には「ソ連軍と戦いに行く」と言って騙し、朝鮮半島まで撤退しました。

軍に見捨てられた日本人移民はソ連軍と中国軍らに襲われるのだが、これは本題ではないので省略します。


関東軍は将兵らの動揺を抑えるために、軍人の家族だけをこっそり38度線まで移動させ、8月15日までに主力部隊は38度線まで撤退しました。

関東軍は朝鮮半島南部を最終決戦の地と定め、もしソ連軍が38度線を越えて進軍したら、全軍が民間人とともに玉砕する計画でした。

と同時に関東軍はアメリカ軍が早く上陸するよう催促し、結局米軍は8月25日にソウルに到達しています。


ここで重要なのは「8月15日」は日本軍が勝手に停戦しただけで、ソ連軍が襲い掛かる脅威は続いていたのです。

関東軍はソ連軍を騙す事もしていて、広島長崎の原爆投下後に「日本の半分をソ連軍に引き渡す」という密約をしていました。

この約束は結局果たされず、自分が生き残るために日本を裏切ったのか、ソ連軍を足止めする高度な駆け引きだったのかは不明なままです。


中国や満州や北朝鮮に取り残された日本人100万人以上は、現地で大変な目に遭い、ソ連軍に捕らえられた日本兵のほとんどがなくなりました。

そしてたまたま関東軍が停止した38度線以南を米軍が占領し、そこが韓国になりました。

ソ連は北朝鮮を独立させる気はなかったが、韓国との対抗上なりゆきで北朝鮮を建国した。
http://www.thutmosev.com/archives/80699739.html

32. 中川隆[-8470] koaQ7Jey 2019年9月08日 06:50:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4306] 報告
北方領土 「スターリンが手に入れた」 プーチン氏(19-09-07) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3tqNowVC15M


ロシアのプーチン大統領は6日に北方領土について述べ、第2次世界大戦の結果、ロシアがすべてを手に入れて領有権が決まったと強調しました。 

プーチン大統領:
「それ(第2次世界大戦の結果)に依拠しよう。スターリンがすべてを手に入れた。議論は終わりだ」 

プーチン大統領は6日、ウラジオストクで市民との交流会に参加しました。交流会で、市民から北方領土について「第2次世界大戦終結時の状況からすれば、ロシアの領有権に疑問の余地はない」という意見があり、プーチン大統領も賛同しました。

1855年の日露通好条約を根拠として、領有権を主張する日本政府の立場を改めて否定しました。5日の日ロ首脳会談の後、日本側は平和条約締結に向けて「ロシアと未来志向で作業することを再確認した」と発表していました。

33. 中川隆[-14800] koaQ7Jey 2019年11月20日 20:20:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1886] 報告
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連案!】岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子




2019/11/20 に公開

岡部伸さんがイギリス・ロンドン支局長時代、英国立公文書館で入手した秘密文書から読み解くヤルタ密約の真相。

今まで常識とされてきたヤルタ密約(ヤルタ会談)の詳細がひっくり返ります!!!
ぜひ北方四島交渉にお役立てください!
34. 中川隆[-15091] koaQ7Jey 2019年12月20日 14:28:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2132] 報告
ヤルタ密約 日本はソ連の参戦を知っていた!? 岡部伸 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】

35. 中川隆[-15084] koaQ7Jey 2019年12月20日 15:05:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2125] 報告
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連発案
岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子

36. 中川隆[-12166] koaQ7Jey 2020年7月09日 04:25:25 : Mu0g15Rjmc : aWloQXY0NTNQc0U=[3] 報告
北方領土は返さない! ロシア「反日アイヌ民族」の正体
『中村逸郎』 2019/06/07
https://ironna.jp/article/12726
中村逸郎(筑波大学教授)

 「クリル諸島(千島列島と北方領土)は、私たちのものだ。ずっと住み続けよう」

 これは北方領土に住むロシア人の声だが、プーチン政権は北方領土を支配する正当性を躍起になって主張している。ラブロフ外相は2019年1月17日の年頭会見の席で、「日本が第2次世界大戦の結果を受け入れる」ように強く求めた。さらに「北方領土」という名称を使用することに不快感をあらわにした。このように北方領土に対するロシアの主権をなりふり構わず打ち立てようとしている。

 ラブロフ外相が繰りだす強硬発言に先立つ昨年12月17日、私はロシア国内で報じられたニュースに驚いた。プーチン大統領が「アイヌ民族をロシアの先住少数民族に指定することに賛成した」というのである。プーチン大統領の発言を引き出したのは、ロシア大統領府に設置されている「市民社会と人権擁護評議会」の1人、アンドレイ・バブシキン氏だ。プーチン大統領と面会の際、彼はこう訴えた。

 「ロシア国内に住んでいるすべての民族の権利が認められているわけではありません。クリル諸島と極東のアムール川流域にかつて住んでいたアイヌ民族は、ロシア政府が作成している先住少数民族リストに記載されていません。いまアイヌ民族が暮らすカムチャツカ地方知事に、彼らをリストに追加するように要請してください」

 こうして北方領土交渉でロシア政府が日本への強硬姿勢を崩さないなかで、最近、これまで知られることがなかったロシア国内のアイヌ民族が注目を浴びるようになったのだ。
北方領土引き渡しに反対する集会が開かれ、参加者は「島はロシアの領土だ」などと訴えた=2019年1月20日、露モスクワ(小野田雄一撮影)
 補足しておくならば、先住少数民族に認定されると、さまざまな政治的、経済的な権利が付与される。例えば一定の割合で、自分たちの代表者を連邦機関や自治体に選出できる。民族文化や伝統儀式を守るための支援金がロシア政府から支出される上に、居住圏の天然資源を取得する特権も認められる。プーチン政権の思惑は、優遇措置を講じることで先住民族がロシア人に抱く疎外感を払拭(ふっしょく)し、彼らの存在を政治利用することにあるようだ。

 話を元に戻すと、千島列島と北方領土(日本政府の公式見解にそって北方領土は千島列島に含まれない)のアイヌ民族が知られるようになったのは、17世紀にさかのぼる。当時は千島列島や北方領土だけではなく、北海道、樺太、アムール川下流域にいたる広範囲に住んでいた。北方領土をめぐって日露は互いに領有権を主張しているが、もともと北方領土と千島列島の先住民族はアイヌ民族であり、ラッコの毛皮や海産物などを日本人やロシア人などと交易していた。

でも2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。カムチャツカ半島に開設されている市民団体「アイヌ」の代表はアレクセイ・ナカムラ氏だ。彼のインタビューが、ロシアの通信社が運用するサイト(astv.ru、2017年5月15日)に掲載されている。

 「ロシアのアイヌ民族は、日本がクリル諸島の返還を要求していることに全面的に反対しています。実は、アイヌ民族と日本人との間には悲劇的な歴史があるのです。ずっと昔のことですが、日本人はクリル諸島に住んでいたアイヌ民族を殺害しました。アイヌ民族の釣り道具や漁船を奪い取り、日本人の許可なくして漁業にでることを禁止しました。いわば日本人によるジェノサイドがあったのです。このためにアイヌ民族の歴史は損なわれ、日本と一緒に行動することが嫌になりました」
 
 ナカムラ氏の語意は、日本批判をにじませている。ロシアのアイヌ民族は日本人に財産を略奪され、民族差別を受けたと訴えている。自分たちが先住民族なので、北方領土の返還を求める日本政府に真っ向から反対している。

 歴史をさかのぼると、江戸時代の松前藩は歯舞諸島から色丹島、国後島、択捉島まで本格的に進出し、先住民族のアイヌ民族と接触した。ただナカムラ氏が声を荒げるほどに、日本人によるアイヌ民族への迫害があったのかどうか、真偽のほどは不明な点が多いが、当初、北方領土に約2000人のアイヌ民族が住んでいた。

 いずれにしてもアイヌ民族は、北方領土をめぐる激動の歴史に翻弄された。1855年の日露和親条約で、択捉島と得撫島(ウルップ島)の間に初めて国境線が引かれた。この結果、北方領土のアイヌ民族は日本、得撫島以北のアイヌ民族はロシアの支配権に入った。
アイヌ民族博物館では民族伝承の踊りを披露する=2017年3月7日(川端信廣撮影)
 1875年の樺太・千島交換条約では、千島列島の全域が日本に編入された。得撫島以北のアイヌ民族も日本の支配下に移り、かれらの多くは色丹島に強制移住させられた。ナカムラ氏のインタビューでは、この強制移住を「日本人によるジェノサイドだ」と非難している。ただ、樺太がロシア領土に編入された際に、樺太に住む多くのアイヌ民族が北海道に移住した。

 1905年のポーツマス条約で千島列島に加えて樺太の南部が日本領土になり、北海道に渡ったアイヌ民族の一部は故郷の樺太に帰還できた。でも、第2次世界大戦で侵略してきたソ連軍から逃れるために、ほとんどのアイヌ民族が日本人といっしょに北方領土と樺太から北海道に避難した。このようにアイヌ民族は日露の攻防のなかで居住地の変更を余儀なくされたが、彼らの日本への帰属性は強いのは間違いない。

他方で、第2次世界大戦の直後に少数のアイヌ民族は侵攻してきたソ連側につき、カムチャツカ半島に移り住んだ。だが、戦後のソ連社会で不遇の時代を迎えることになった。彼らは「ソ連人」に統合され、1953年にはソ連の刊行物からアイヌの民族名が消されてしまった。日本に移住した多くのアイヌ民族はソ連を裏切ったと見なされることが多く、ソ連国内にとどまったアイヌ民族はほかの少数民族と結婚するケースが相次いだ。アイヌ民族を名乗る人は減少し、すでに紹介したように109人ほどにすぎない。

 ロシアの市民団体「アイヌ」は北方領土返還を求める日本政府への不信感を強めており、日本国内のアイヌ団体との交流はないようだ。
 
 私が強調したいのは、アイヌ民族をロシアの先住少数民族に加えるプーチン政権の動きは日本政府との北方領土交渉のなかで浮上してきた点にある。ロシア政府の狙いは、領土交渉をより複雑化することにあるのは確かだ。

 ロシア政府は、北方領土に進出した日本人がロシアのアイヌ民族を虐待したと言い立て、ロシア世論を領土返還反対の方向により強硬に誘導したいのだろう。外交的には日本政府が唱える「わが国固有の領土」の見解に対抗するために、ロシアのアイヌ民族を北方領土の先住民族に仕立てようとするもくろみも感じられる。

 だが本来、北方領土は国家主権にかかわる問題であり、日本外務省の指摘するように「今日に至るまでソ連、ロシアによる法的根拠のない占拠が続いている」といえる。領土主権の問題は、プーチン政権が提起する「北方領土の先住民族」のテーマとは根本的に次元が異なる。日本政府は、「北方領土の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という従来の方針(2001年、森喜朗首相とプーチン大統領が合意したイルクーツク声明)を変更する必要はない。
ウラジーミル・プーチン露大統領=2018年10月24日、露モスクワ(タス=共同)
 先住民族と国家主権の問題を絡めて議論すれば、世界各地で主権の獲得にむけて民族紛争が噴出し、収拾のつかない、まさに「パンドラの箱」を開けることになる。

 日本政府はアイヌ民族を先住民族と明記する「アイヌ法案」を成立させた。これにより「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」を目指すことになる。これを契機にアイヌ民族に対する日本世論の関心が高まるだろう。これをテコに、アイヌ民族と元島民が共同して「日本の国家主権」を回復させる北方領土返還運動をより促進すべきである。

37. 2020年7月11日 06:31:39 : jbjSBehaxg : N2k2a0NTeFR0WjY=[1] 報告
フランツ・クリンツェビッチ氏ロシアが日本にクリル諸島を引き渡すことはない=
2020年07月02日

ロシア連邦会議(上院)国防・安全保障委員会のフランツ・クリンツェヴッチ氏は、ロシアが日本にクリル諸島を引き渡すことはなく、このテーマに関する議論は改正されたロシア憲法の発効後、終了するとの見方を表した。

クリンツェヴッチ氏は2日、全国投票でのロシア憲法改正の承認を念頭に置いたクリル諸島に関する今後の議論の見通しについて質問を受け、「このテーマは終了している。今後10年間、20年間、100年間に誰が政権に就こうとも、誰もこのテーマに戻ることはできない。人々がそれを許さない。なぜなら現在の状況で我われが彼ら(日本)に応じた場合、明日そこには米国の基地が設置され、それは必ずや深刻な脅威となるからだ」と述べた。 


改憲案には、ロシア領土の割譲とその呼びかけの禁止も盛り込まれている。
クリンツェヴッチ氏は「以前は(クリル引き渡しの可能性に関するテーマについて)議論することを許したある種の不確実性があった。(だが)もう終わりだ。議論は終了する」と述べた。

また同氏は、日本はロシアとの平和条約締結問題とクリルのテーマを結びつけるべきではないと述べた。

ロシア中央選挙管理委員会は、憲法改正案を巡る全国投票の開票作業を終了した。

中央選管によると、賛成77.92%、反対21.27%だった。

またクリル諸島が属するサハリン州では、賛成74.88%、反対24.04%だった。

ロシア全国投票
ロシアの憲法改正国民投票は4月22日に予定されていたが、新型コロナウイルスの影響から延期された。その後、ウラジーミル・プーチン大統領は、新たな日程として7月1日を指定する大統領令に署名を行った。感染症の拡大状況と国民の安全を考慮する必要性から、ロシア国民は6月25日から7月1日の期間で投票が可能となった。

複数の重要な改正点は以下の通り。

あらゆるロシア連邦の領土の「割譲」は違憲。現職のウラジーミル・プーチン大統領のため、選挙の立候補に関する規制を解除。今後は2期以上の大統領への立候補は禁止。国際法はロシアの国内法より優先されるが、憲法裁判所が、国際機関の決定を「違憲」とみなした場合は、それらの執行を凍結することができる。ロシア民族が国家を形成することを宣言。結婚は男女のみの結びつきとする。憲法で神への信仰を言及。
https://jp.sputniknews.com/russia/202007027580650/

38. 2020年7月11日 06:32:49 : jbjSBehaxg : N2k2a0NTeFR0WjY=[2] 報告
イトゥルプ島ロシア 北方領土の帰属交渉は日本としていない© Sputnik / Tashilin Alexey
2020年07月01日

ロシア上院(連邦会議)国際委員会のコンスタンチン・コサチェフ委員長は、ロシアは日本との平和条約締結の可能性を議論しているものの、クリル諸島の領土帰属に関しては検討すらされていないと述べた。

同委員長は、北方領土の島々(クナシル、イトゥルプ、シコタン、ハボマイ群島)はもともとがロシア領であると述べた。

コサチェフ委員長は「日本と話し合うのは領土問題ではなく、平和条約に関してのみである」と述べ、日本が第二次世界大戦の結果を認めない限り、平和条約は成立しないと指摘した。

コサチェフ委員長は、ロシアの領土の一部が奪取される恐れがある話はいかなる場合でもできないと強調した。

北方領土の帰属問題

露日は20世紀中頃から、第二次世界大戦の結果を受け、平和条約の締結に向けて断続的な協議を行ってきた。平和条約締結の主な障害となったのは、クリル諸島南部の帰属に関する問題だった。1945年にクリル諸島全体がソ連に含まれたが、日本側はイトゥルプ(択捉)、クナシル(国後)、シコタン(色丹)、そして現在は無人の島々(歯舞群島)の帰属に異議を唱えている。ロシア外務省は、これらに対するロシアの主権はしかるべき国際法的手続きを有しており、疑いがないことを繰り返し強調している。

https://jp.sputniknews.com/politics/202007017577847/

39. 保守や右翼には馬鹿し[66] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年3月16日 07:25:14 : q1tc28HPo2 : RDNqRWhrMnNXTVU=[3] 報告
ロシア・ウクライナ関係投稿集
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14038008

【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 安倍晋三回顧録の行間に滲むモノとは?」北方領土問題
https://www.youtube.com/watch?v=FIqtpKqGaqg

北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html

40. 2023年7月29日 16:05:14 : aPKpf984NU : TTNzanNhUjgxMTI=[3] 報告
<■372行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
7/29 現代ビジネス
https://news.yahoo.co.jp/articles/8b5f3161bca07d64f30b075fb693d7976da6a7ed

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日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。

【写真】ヤバすぎる「9つのオキテ」が招いた「日本の悲劇」

*本記事は

矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)
https://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84-%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%A2%E9%83%A8-%E5%AE%8F%E6%B2%BB/dp/4062884399


から抜粋・再編集したものです。


はじめに
 それほどしょっちゅうではないのですが、私がテレビやラジオに出演して話をすると、すぐにネット上で、

 「また陰謀論か」
「妄想もいいかげんにしろ」
「どうしてそんな偏った物の見方しかできないんだ」

 などと批判されることが、よくあります。

 あまりいい気持ちはしませんが、だからといって腹は立ちません。

 自分が調べて本に書いている内容について、いちばん「本当か?」と驚いているのは、じつは私自身だからです。

 「これが自分の妄想なら、どんなに幸せだろう」

 いつもそう思っているのです。

事実か、それとも「特大の妄想」か
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 けれども本書をお読みになればわかるとおり、残念ながらそれらはすべて、複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実ばかりなのです。

 ひとつ、簡単な例をあげましょう。

 以前、田原総一朗さんのラジオ番組(文化放送「田原総一朗 オフレコ!」)に出演し、米軍基地問題について話したとき、こんなことがありました。ラジオを聞いていたリスナーのひとりから、放送終了後すぐ、大手ネット書店の「読者投稿欄」に次のような書き込みがされたのです。

----------
★☆☆☆☆〔星1つ〕 UFO博士か? 
なんだか、UFOを見たとか言って騒いでいる妄想ですね。先ほど、ご本人が出演したラジオ番組を聞きましたが(略)なぜ、米軍に〔日本から〕出て行って欲しいというのかも全く理解できないし、〔米軍〕基地を勝手にどこでも作れるという特大の妄想が正しいのなら、(略)東京のど真ん中に米軍基地がないのが不思議〔なのでは〕? ----------

 もし私の本を読まずにラジオだけを聞いていたら、こう思われるのは、まったく当然の話だと思います。私自身、たった七年前にはこのリスナーとほとんど同じようなことを考えていたので、こうして文句をいいたくなる人の気持ちはとてもよくわかるのです。

 けれども、私がこれまでに書いた本を一冊でも読んだことのある人なら、東京のまさしく「ど真ん中」である六本木と南麻布に、それぞれ非常に重要な米軍基地(「六本木ヘリポート」と「ニューサンノー米軍センター」)があることをみなさんよくご存じだと思います。

 そしてこのあと詳しく見ていくように、日本の首都・東京が、じつは沖縄と並ぶほど米軍支配の激しい、世界でも例のない場所だということも。

 さらにもうひとつ、アメリカが米軍基地を日本じゅう「どこにでも作れる」というのも、残念ながら私の脳が生みだした「特大の妄想」などではありません。

 なぜなら、外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月)のなかに、

 ○ アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる。
○ 日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない。

 という見解が、明確に書かれているからです。

 つまり、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO」ということはできない。

 そう日本の外務省がはっきりと認めているのです。


北方領土問題が解決できない理由


 さらにこの話にはもっとひどい続きがあって、この極秘マニュアルによれば、そうした法的権利をアメリカが持っている以上、たとえば日本とロシア(当時ソ連)との外交交渉には、次のような大原則が存在するというのです。

 ○ だから北方領土の交渉をするときも、返還された島に米軍基地を置かないというような約束をしてはならない。*註1

 こんな条件をロシアが呑むはずないことは、小学生でもわかるでしょう。

 そしてこの極秘マニュアルにこうした具体的な記述があるということは、ほぼ間違いなく日米のあいだに、この問題について文書で合意した非公開議事録(事実上の密約)があることを意味しています。

 したがって、現在の日米間の軍事的関係が根本的に変化しない限り、ロシアとの領土問題が解決する可能性は、じつはゼロ。ロシアとの平和条約が結ばれる可能性もまた、ゼロなのです。

 たとえ日本の首相が何か大きな決断をし、担当部局が頑張って素晴らしい条約案をつくったとしても、最終的にはこの日米合意を根拠として、その案が外務省主流派の手で握り潰されてしまうことは確実です。

 2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」は、大きな注目を集めました。なにしろ、長年の懸案である北方領土問題が、ついに解決に向けて大きく動き出すのではないかと報道されたのですから、人々が期待を抱いたのも当然でしょう。

 ところが、日本での首脳会談(同年12月15日・16日)が近づくにつれ、事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられませんでした。

 その理由は、まさに先の大原則にあったのです。

 官邸のなかには一時、この北方領土と米軍基地の問題について、アメリカ側と改めて交渉する道を検討した人たちもいたようですが、やはり実現せず、結局11月上旬、モスクワを訪れた元外務次官の谷内正太郎国家安全保障局長から、

 「返還された島に米軍基地を置かないという約束はできない」

 という基本方針が、ロシア側に伝えられることになったのです。

 その報告を聞いたプーチン大統領は、11月19日、ペルー・リマでの日ロ首脳会談の席上で、安倍首相に対し、

 「君の側近が『島に米軍基地が置かれる可能性はある』と言ったそうだが、それでは交渉は終わる」

 と述べたことがわかっています(「朝日新聞」2016年12月26日)。

 ほとんどの日本人は知らなかったわけですが、この時点ですでに、1ヵ月後の日本での領土返還交渉がゼロ回答に終わることは、完全に確定していたのです。

 もしもこのとき、安倍首相が従来の日米合意に逆らって、

 「いや、それは違う。私は今回の日ロ首脳会談で、返還された島には米軍基地を置かないと約束するつもりだ」

 などと返答していたら、彼は、2010年に普天間基地の沖縄県外移設を唱えて失脚した鳩山由紀夫首相(当時)と同じく、すぐに政権の座を追われることになったでしょう。


「戦後日本」に存在する「ウラの掟」
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 私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていないそうした「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっています。

 そして残念なことに、そういう掟のほとんどは、じつは日米両政府のあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚のあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。

 私が本書を執筆したのは、そうした「ウラの掟」の全体像を、

 「高校生にもわかるように、また外国の人にもわかるように、短く簡単に書いてほしい」

 という依頼を出版社から受けたからでした。

 また、『知ってはいけない』というタイトルをつけたのは、おそらくほとんどの読者にとって、そうした事実を知らないほうが、あと10年ほどは心穏やかに暮らしていけるはずだと思ったからです。

 なので大変失礼ですが、もうかなりご高齢で、しかもご自分の人生と日本の現状にほぼ満足しているという方は、この本を読まないほうがいいかもしれません。

 けれども若い学生のみなさんや、現役世代の社会人の方々は、そうはいきません。みなさんが生きている間に、日本は必ず大きな社会変動を経験することになるからです。

 私がこれからこの本で明らかにするような9つのウラの掟(全9章)と、その歪みがもたらす日本の「法治国家崩壊状態」は、いま沖縄から本土へ、そして行政の末端から政権の中枢へと、猛烈な勢いで広がり始めています。

 今後、その被害にあう人の数が次第に増え、国民の間に大きな不満が蓄積された結果、「戦後日本」というこれまで長くつづいた国のかたちを、否応なく変えざるをえない日が必ずやってきます。

 そのとき、自分と家族を守るため、また混乱のなか、それでも価値ある人生を生きるため、さらには無用な争いを避け、多くの人と協力して新しくフェアな社会をいちからつくっていくために、ぜひこの本を読んでみてください。

 そしてこれまで明らかにされてこなかった「日米間の隠された法的関係」についての、全体像に触れていただければと思います。


「リアル陰謀論」
 本というのは不思議なもので、書き手としては、自分が大切だと思ったことをいろいろと並べて書いているわけですが、読者の方の興味というのは、かなり特定の問題にピンポイントで集中することが多い。

 そうした読者からの反応を聞いてはじめて、

 「ああ、自分が書いた本の核心はここにあったのか」

 と気づかされることが多いのです。

 私がこれまでに書いた本でいうと、第一章でお話しした「横田空域」と、本章で扱う「日米合同委員会」の問題が、圧倒的にみなさんの関心をひくようです。

 しかし、よく考えてみるとそれも当然の話で、もしも私が数年前に誰かから、

 「日本の超エリート官僚というのはね、実は月に二度ほど、都内にある米軍基地などで在日米軍のトップたちと秘密の会議をしているんだ。それで、そこで決まったことは国会に報告する義務も、外部に公表する義務もなく、事実上ノーチェックで実行することができる。つまりその秘密会議は、日本の国会よりも憲法よりも、上位の存在というわけさ」

 などといわれたら、確実に、

 「コイツはおかしいから、つきあうのはやめよう」

 と思ったはずです。

 「これが陰謀論者というやつか」

 とも思ったことでしょう。

 けれどもそういう「リアル陰謀論」とでもいうべき世界が本当に実在することが、いまでは広く認知されるようになりました。

 それが日米合同委員会です。

米軍の「リモコン装置」
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 日米合同委員会というのは、その研究の第一人者であるジャーナリストの吉田敏浩氏の表現を借りれば、

 「米軍が「戦後日本」において、占領期の特権をそのまま持ち続けるためのリモコン装置」

 ということになります。

 占領時代、米軍の権力はまさにオールマイティ。日本の国内法など、何も関係なく行動することができました。どこでも基地にして、いつでも軍事演習をして、たとえ日本人を殺したりケガをさせても罪に問われない。

 そうした圧倒的な特権を、日本が独立したあとも、「見かけ」だけを改善するかたちで以前と変わらず持ち続けたい──そうしたアメリカの軍部の要望を実現するために、「戦後日本」に残されたリモコン装置が日米合同委員会だというわけです。

 この組織のトップに位置する本会議には、日本側6人、アメリカ側7人が出席します。月にだいたい2回、隔週木曜日の午前11時から、日本側代表が議長のときは外務省の施設内で、アメリカ側代表が議長のときは米軍基地内の会議室で開かれています。

 おそらく横田基地からなのでしょう。木曜日の午前11時前に、軍用ヘリで六本木にある米軍基地(「六本木ヘリポート」)に降り立ち、そこから会議室がある南麻布の米軍施設(「ニューサンノー米軍センター」)に続々と到着する米軍関係者の姿を、2016年12月6日に放映された「報道ステーション」が捉えていました。

日米合同委員会に激怒していた駐日首席公使
 この日米合同委員会でもっともおかしなことは、本会議と30以上の分科会の、日本側メンバーがすべて各省のエリート官僚であるのに対し、アメリカ側メンバーは、たった一人をのぞいて全員が軍人だということです。

 アメリカ側で、たった一人だけ軍人でない人物というのは、アメリカ大使館の公使、つまり外交官なのですが、おもしろいことにその公使が、日米合同委員会という組織について、激しく批判している例が過去に何度もあるのです。

 有名なのは、沖縄返還交渉を担当したスナイダーという駐日首席公使ですが、彼は、米軍の軍人たちが日本の官僚と直接協議して指示を与えるという、日米合同委員会のありかたは、

 「きわめて異常なものです」

 と上司の駐日大使に報告しています。

 それは当たり前で、どんな国でも、相手国の政府と最初に話し合うのは大使や公使といった外交官に決まっている。そして、そこで決定した内容を軍人に伝える。それが「シヴィリアン・コントロール(文民統制)」と呼ばれる民主国家の原則です。

 ですから、スナイダーが次のように激怒しているのは当然なのです。

 「本来なら、ほかのすべての国のように、米軍に関する問題は、まず駐留国〔=日本〕の官僚と、アメリカ大使館の外交官によって処理されなければなりません」
「ところが日本における日米合同委員会がそうなっていないのは、ようするに日本では、アメリカ大使館がまだ存在しない占領中にできあがった、米軍と日本の官僚とのあいだの異常な直接的関係が、いまだに続いているということなのです」(「アメリカ外交文書(Foreign Relations of the United States)」(以下、FRUS)1972年4月6日)

日本という「半分主権国家」
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 このように当のアメリカの外交官にさえ、「占領中にできあがった異常な関係」といわれてしまう、この米軍と日本のエリート官僚の協議機関、日米合同委員会とは、いったいなぜ生まれたのでしょう。

 詳しくは本書の後半でお話ししますが、歴史をさかのぼれば、もともと占領が終わる2年前、1950年初頭の段階で、アメリカの軍部は日本を独立させることに絶対反対の立場をとっていました。すでにソ連や中国とのあいだで冷戦が始まりつつあったからです。

 しかし、それでもアメリカ政府がどうしても日本を独立させるというなら、それは、
「在日米軍の法的地位は変えない半分平和条約を結ぶ」(陸軍次官ヴォーヒーズ)

 あるいは、

 「政治と経済については、日本とのあいだに「正常化協定」を結ぶが、軍事面では占領体制をそのまま継続する」(軍部を説得するためのバターワース極東担当国務次官補の案)

 というかたちでなければならない、と考えていたのです(「アメリカ外交文書(FRUS)」1950年1月18日)。

 この上のふたつの米軍の基本方針を、もう一度じっくりと読んでみてください。

 私は7年前から、沖縄と本土でいくつもの米軍基地の取材をしてきましたが、調べれば調べるほど、いまの日本の現実をあらわす言葉として、これほど的確な表現はないと思います。

 つまり「戦後日本」という国は、

 「在日米軍の法的地位は変えず」
「軍事面での占領体制がそのまま継続した」
「半分主権国家」

 として国際社会に復帰したということです。

 その「本当の姿」を日本国民に隠しながら、しかもその体制を長く続けていくための政治的装置が、1952年に発足した日米合同委員会なのです。

 ですからそこで合意された内容は、国会の承認も必要としないし、公開する必要もない。ときには憲法の規定を超えることもある。その点について日米間の合意が存在することは、すでにアメリカ側の公文書(→72ページ「安保法体系の構造」の日米合同委員会の項を参照)によって明らかにされているのです。

「対米従属」の根幹
 こうして日米合同委員会の研究が進んだことで、「日本の対米従属」という戦後最大の問題についても、そのメカニズムが、かなり解明されることになりました。

 もちろん「軍事」の世界だけでなく、「政治」の世界にも「経済」の世界にも、アメリカ優位の状況は存在します。

 しかし「政治」と「経済」の世界における対米従属は、さきほどの軍部の方針を見てもわかるように、

 「あくまで法的関係は正常化されたうえでの上下関係」であって、
「占領体制が法的に継続した軍事面での関係」

 とは、まったくレベルが違う話なのです。

 私たち日本人がこれから克服しなければならない最大の課題である「対米従属」の根幹には、軍事面での法的な従属関係がある。

 つまり、「アメリカへの従属」というよりも、それは「米軍への従属」であり、しかもその本質は精神的なものではなく、法的にガッチリと押さえこまれているものだということです。

 そこのところを、はっきりとおさえておく必要があるのです。

 私自身、いろいろ調べた末にこの日米合同委員会の存在にたどりついたとき、

 「ああ、これだったのか」

 と目からウロコが落ちるような気持ちがしました。それまで見えなかった日米関係の本質が、はっきり理解できるようになったからです。

「これが法治国家か」
 本当に大切なことは、驚くほど簡単な言葉で表現できる。

 みなさんは、そういう経験をされたことはないでしょうか。

 私はすでにお話ししたとおり、2010年6月に起きた鳩山政権の崩壊をきっかけに、沖縄に渡って米軍基地問題を調べはじめました。

 そのわずか九ヵ月後には福島の原発事故が起こり、沖縄だけでなく、本土でも、

 「これが法治国家か」

 と思うような、信じられない光景をいくつも目にすることになりました。

 20万人もの罪のない人たちが家や畑を失い、避難先の仮設住宅で「これからどうすればいいのか」と悩みつづけている一方で、事故を起こした2011年の年末には、ボーナスをもらってヌクヌクと正月の準備をする東京電力の社員たち。

 不思議だ、不思議だと思いながら、なにをどうすればいいか、まったくわからない日々が続きました。

 そんなある日、耳を疑うような事実を知ったのです。

 それは米軍・普天間基地のある沖縄県宜野湾市の市長だった伊波洋一さん(現参議院議員)が、講演で語っていた次のような話でした。

 「米軍機は、米軍住宅の上では絶対に低空飛行をしない。それはアメリカの国内法がそうした危険な飛行を禁止していて、その規定が海外においても適用されているからだ」


いちばん驚いたこと
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 「? ? ? ? ?」

 一瞬、意味がよくわかりませんでした。

 私は沖縄で米軍基地の取材をしている最中、米軍機が市街地でギョッとするほどの低空飛行をする場面に何度も遭遇していたからです。軍用ヘリコプターが巻き起こす風で、民家の庭先の木が折れるほど揺れるのを見たこともありますし、マンションの六階に住んでいて、

 「操縦しているパイロットといつも目が合うのさー」

 と言っていた人にも会いました。

 実際、丘の上から普天間基地を見ていると、滑走路から飛び立った米軍機やヘリが、陸上、海上を問わず、島の上空をどこでもブンブン飛びまわっているところが見える。

 「それが、米軍住宅の上だけは飛ばないって、いったいどういうことなんだ?」

 しかも伊波氏の話によれば、そうした米軍の訓練による被害から守られているのは、人間だけではないというのです。アメリカでは、たとえばコウモリなどの野生生物や、砂漠のなかにある歴史上の遺跡まで、それらに悪影響があると判断されたときには、もう訓練はできない。計画そのものが中止になる。

 なぜなら、米軍が訓練をする前には、訓練計画をきちんと公表し、環境への影響評価を行うことが法律で義務づけられているため、アメリカ国内では、人間への悪影響に関して米軍の訓練が議論されることはもうないというのです。

 いや、いや、ちょっと待ってくれ。おかしくなりそうだ──。

 どうして自国のコウモリや遺跡にやってはいけないことを日本人にはやっていいのか。

 それは人種差別なのか? 
 それとも、よその国なら、何をやってもいいということなのか? 
 いや、そんなはずはない。

 なぜなら、たとえば沖縄本島北部の高江では、ノグチゲラという希少な鳥の繁殖期には、ヘリパッドの建設工事が数ヵ月にわたって中止されているからだ。

 「日本人」の人権にはまったく配慮しない米軍が、「日本の鳥」の生存権にはちゃんと配慮している。

 これはいったいどういうことなのか……。


ただアメリカの法律を守っているだけ
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 この問題は長いあいだ頭のなかをグルグルまわっているだけで、答えはなかなか見つかりませんでした。しかし、かなりあとになってから、アメリカ国内の米軍基地における飛行訓練の航跡図を見て、

 「ああ、そういうことか」

 と納得する瞬間があったのです。

 つまり、アメリカ国内の米軍基地というのは、たとえばカリフォルニア州のミラマー海兵隊基地などは、沖縄の普天間基地にくらべると約20倍の面積があって、基本的には基地の敷地の上空だけで低空飛行訓練ができるようになっている。しかも、もともと基地自体が山のなかにあるから、住宅地への影響はいっさいない。

 海上に出て長距離の飛行訓練をするときも、もちろん住宅地のうえは避けて、渓谷沿いのルートを海まで飛んでいく。離陸用の滑走路は、そのため渓谷の方向をむいている。

 つまり、われわれ日本人は、

 「米軍住宅の上だけは飛ばないなんて、あまりにもひどいじゃないか」

 と米兵たちに対して大きな怒りを感じるわけですが、それは違っていた。

 彼らはただ、アメリカの法律を守っているだけなのです。

 米軍住宅に住むアメリカ人たちも、環境に配慮した本国の法律によって、海外にいても人権が守られているだけなので、私たちから非難される理由は何もない。しかも、アメリカのそのすばらしい環境関連法は、自国の動植物や遺跡だけでなく、なんと日本の鳥(希少生物)まで対象としているというのだから、徹底している。

 問題は、ではなぜ日本人の人権だけは守られないのか、ということだ。

結局、憲法が機能していないということだ
 そこまで考えてきて思い出したのが、第1章で触れた「航空法特例法」でした。

 「米軍機には、〔最低高度や飛行禁止区域を定めた〕航空法第6章の規定は適用しない」

 という法律です。

 日本には、国民の人権を守るための立派な憲法があり、危険な飛行を禁止する立派な航空法も存在する。しかしそのせっかくの条文が、米軍に関しては「適用除外」になっている。

 もちろん、どんな特例法があろうと、国民の人権が明らかに侵害されていたら、憲法が機能してそれをやめさせなければならないはずだ。ところが現実はそうなっていない。

 つまり在日米軍に関しては、

 「結局、憲法が機能していないということなんだ」。

 そう思った瞬間、それまでまさに混沌状態にあったいろいろな思いが、スッと整理されて、目の前が急に開けたような気がしたのです。

 「憲法さえきちんと機能すれば、沖縄の問題も福島の問題も、ほとんど解決することができるんじゃないのか」

 いま考えると、それは当たり前の話で、どうしてもっと早く気づかなかったんだろうと思うのですが、そのことにはっきり気づくまで、丸々二年かかりました。

 でも、そこからはスラスラと謎が解けていったのです。


人権が守られている人間と守られていない人間
 「Q:米軍機はなぜ、アメリカ人の家の上は飛ばないのか」
「A:落ちると危ないから」
「Q:東京電力はなぜ、東京で使う電力を東京ではつくらなかったのか」
「A:原発が爆発すると危ないから」

 つまり同じ島(沖縄本島)のなかで、人権が守られている人間(米軍関係者)と、守られていない人間(日本人)がいる。

 また、同じ地域(東日本)のなかで、人権が守られている人間(東京都民)と、守られていない人間(福島県民)がいる。

 沖縄の米軍機の低空飛行の場合、その差別を正当化しているのは、航空法の適用除外条項でした。

 そう思って福島の問題を調べていくと、やはりあったのです。「適用除外」条項が。

 日本には環境汚染を防止するための立派な法律があるのに、なんと放射性物質はその適用除外となっていたのです(2011年時点)。

 「大気汚染防止法 第27条1項 この法律の規定は、放射性物質による大気の汚染及びその防止については、適用しない」
「土壌汚染対策法 第2条1項 この法律において「特定有害物質」とは、鉛、砒素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く)(略)」
「水質汚濁防止法 第23条1項 この法律の規定は、放射性物質による水質の汚濁及びその防止については、適用しない」

 これらの条文を読んだとき、私が2年前から疑問に思い続けてきた、

 「なぜ福島で原発被害にあったみなさんが、正当な補償を受けられないのか」

 という問題の法的な構造が、沖縄の米軍基地問題とほとんど同じであることがわかりました。つまり現在の日本には、国民の人権を「合法的」に侵害する不可解な法的取り決め(「適用除外条項」他)が、さまざまな分野に存在しているということです。

 事実、福島県の農家のAさんが環境省を訪れ、原発事故で汚染された畑について何か対策をとってほしいと陳情したとき、担当者からこの土壌汚染対策法の条文を根拠に、

 「当省としましては、この度の放射性物質の放出に違法性はないものと認識しております」

 という、まさに驚愕の返答をされたことがわかっています(「週刊文春」2011年7月7日号)。

41. 中川隆[-12415] koaQ7Jey 2023年7月31日 07:23:04 : oSzJwcsrU6 : MkFubm1jL2daNUU=[1] 報告
瀬島龍三、統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5
42. 中川隆[-11573] koaQ7Jey 2024年2月15日 18:07:33 : 960Uqy8Mcb : SXlRMlhwR2lSVVE=[24] 報告
ほぼ日本なのにロシア語を話す島サハリンとは?
ナオヒロ / Naohiro
2024/02/12
https://www.youtube.com/watch?v=yL_Cqc1X0hg

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