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(回答先: 昔の日本映画は熱かった _ 山本薩夫 皇帝のいない八月 (松竹 1978年) 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 13 日 18:54:07)
成瀬巳喜男 あらくれ(東宝 1957年)
監督 成瀬巳喜男
脚本 水木洋子
原作 徳田秋声
音楽 斎藤一郎
撮影 玉井正夫
配給 東宝
公開 1957年5月22日
動画
https://www.youtube.com/watch?v=tfe9oP_Co3I
キャスト
高峰秀子 - お島
上原謙 - 鶴さん
森雅之 - 浜屋
加東大介 - 小野田
東野英治郎 - お島の父
岸輝子 - お島の母
宮口精二 - お島の兄・壮太郎
中北千枝子 - お島の姉・おすず
坂本武 (松竹) - お島の養父・喜助
本間文子 - お島の養母・おとら
谷晃 - 作太郎
林幹 - 植源の隠居
田中春男 - 植源の隠居の息子・房吉
三浦光子 (東映) - おゆう
千石規子 - 浜屋の妻・お君
中村葉子 - 浜屋の子供・絹子
平兮淳司 - 浜屋の子供・正夫
横山運平 (新東宝) - 浜屋の爺さん
志村喬 - 精米所の主人
清川玉枝 (大映) - おしん
中村是好 - 温泉宿の主人
音羽久米子 - 温泉宿の主人のお上さん・さと
沢村貞子 - お島の伯母
高堂国典 - 小野田の父・金七
賀原夏子 - 印刷屋のお上さん・おとく
丹阿弥谷津子 - お花の師匠
仲代達矢 - 木村
出雲八重子 - 髪結
三浦常男 - 小僧順吉
左卜全 - 駄菓子屋のお爺さん
馬野都留子 - 駄菓子屋のお婆さん
佐田豊 - 芝の店の職人
大村千吉 - 根津の店の職人
沢村いき雄 - 学校の門番
平奈淳司 - お君の子・正夫
中村葉子 - お君の子・絹子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8C_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
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成瀬巳喜男「あらくれ」を観る 「あるがまま」の世界はどう描かれたか
http://kssa8008.hatenablog.com/entry/2017/05/16/001016
高峰秀子が演じるお島は、現在も含めて、日本映画にはまず見当たらないヒロインだろう。お島が、勝気で、行動的で、時に亭主に手が出るほど男勝りだから、ということではない。その無節操、無道徳ぶりが際立っているからである。そういう意味で、このヒロイン像は空前絶後といえるだろう(これは非難しているのではない)。
原作は大正期4年に読売新聞に連載された徳田秋聲の長編小説「あらくれ」。原作とは違う面も多いが、成瀬は原作をよく咀嚼しているのだろう。お島の浮き沈み多い波乱の半生を、成瀬巳喜男は、淡々と、非情に描いていく。
時代は大正期。お島(高峰秀子)は農家の養女として育てられたが、養家の息子との結婚を嫌がり出奔。人の勧めで東京の缶詰問屋の嫁に入るが、夫(上原謙)とも折り合いが悪くなり離婚。雪国の旅館に女中として奉公するうちに、若主人(森雅之)とわりない仲になるが、引き離され上京。洋服仕立て屋で仕事をするうちに、そこの職人(加東大介)と一緒に独立。そこそこの成功を収めるが、夫の浮気などもあって、再び店の職人(仲代達矢)と共に再び独立しようと決意するところで映画は終わる。
一人の女性の流転の半生というと、運命や時代に翻弄される薄幸のヒロイン像を思い浮かべたくなるが、お島にはおよそ薄幸というような言葉は似合わない。次々と男と交渉を重ねていくわけだが、悪女というのも、奔放というのもあてはまらない。お島は、その時々に懸命なだけだ。なんとか人の世話にならないで生きていきたい、すこしでもいい生活をしたいともがく結果がそういうことになる。
彼女にも、もちろん恋愛感情や愛情はあるが、生活が成り立たなければ、常に打算が優先する。結果だけを見れば、無節操・無道徳に男を利用し渡り歩いているようだが、彼女は特に後悔も反省もしない。そうしなければ生きていけないからそうしただけの話だからだ。お島の生きている世界では、実は無節操・無道徳が当然であり、誰もが大なり小なり打算の中で生きているからだ。だから、彼女は、だれからも非難されない。
無節操・無道徳なのは、何もお島だけではない。缶詰問屋の夫(上原謙)は、今度の嫁は丈夫だろう、と聞かれ前の嫁は身体が弱くて往生したのでと笑いながら話す。お島の垢抜けない着物の選択や、締まりのない着こなしに一々注文をつけ、妊娠したお島の子どもが自分の子ではないのでは疑う。その上、昔馴染みの人妻に秋波を送る。
浜屋の若主人(森雅之)は、妻が肺病で療養中。商売の才はなく、母に牛耳られている。いつも静かに書物を読んでいるいわば田舎のインテリなのだが、おずおずとだが自分からお島と関係を持つ。公然の関係になっても母の女主人は特に叱責するでもなく、世間体があるからと、更に山奥の温泉宿にお島を移す。そんなことはよくあるからだ(女主人にも愛人がいる)。若主人は、母に逆らえない。ぐずぐずと未練を残すが妻も家も捨てられない。
お島は、実家の父に引き戻され、再び上京して洋服仕立て屋で働き始めるが、腕のある職人(加東大介)を誘って自立を図る。
「あんたは、あたしがつきあった男の中で一番男ぶりが悪いわ」これが、お島が職人に言うセリフだ。およそ若い男女にありそうな甘い関係はない。
最初は苦労するが、お島の才覚もあって、店はそこそこ繁盛する。夫は商売に飽きて、商売第一な、お島にも辟易して、妾をこしらえる。お島はお島で、上京した浜屋の若主人と逢引をしたりする。
誰もが無軌道で無道徳。ここでは高邁な理想とか浮き立つような夢とかが語られることはない。現実の生活を、自分の身の上を、少しでもよくするために懸命にはなるが、一応の格好がつくとそこで満足して、また下り道に向かう。
お島は、次々と男を変えていくが、普通の恋愛映画などと比べると、どこか根本的に情愛に欠けた女に思えてくる。だが、現実の世界では実はこれが普通で、必要以上にロマンチックでは生きられない。
成瀬巳喜男は、お島に特別な感情移入をしない。善悪の判断もしない。非難も称賛もしない。淡々と、時に冷徹にお島とお島を取り巻く「あるがまま」の生活、「あるがまま」の世界を描いていく。それはまた、徳田秋聲の描いた小説の世界だからである。
この映画を見ていると、今の私たちの生活も世界も、実は少しも変わっておらず、周りには多くのお島が、懸命に、だが無自覚に生き続けているように思えてくる。
この映画、もっととりあげられてもよい秀作なのだが、やっぱり地味すぎるのか。それは、原作が地味だということも影響しているのかもしれない。
徳田秋聲は明治以降最大の作家の一人であるが、最も語られることの少ない作家でもある。自然主義文学の大家とか、私小説の極北とか、いろいろ言われるし、たしかに「あらくれ」のほかにも「黴」「足跡」「縮図」などは文学年表にも載っているだろうが、読んでいる人は少ないだろう。秋聲は多作な作家で(全42巻の全集が刊行されている)、実は多くの長編小説を書いているのだが、もともとストーリーの起伏が乏しいため映画向きではないのだと思う。それでも、随分映画や舞台になった作品もあるようだが(不勉強で調べていない)、成瀬巳喜男による秋聲の映画化作品は「あらくれ」だけのようだ。だが、「浮雲」「めし」などの林芙美子作品の映画化や「流れる」(幸田文 原作)などを見ると、成瀬が秋聲の作品をとりあげた必然性のようなものがあるように思える。
※ 高峰秀子は好演。どこか情に乏しく、男勝り。時には亭主にも亭主の妾にかぶりついていく「あらくれ」た女という設定は意外と柄にあっているのか。
※ この映画を見て、本棚から「あらくれ」を引っ張り出したのだが、秋聲は歳を取ってから読んでも相変わらずなかなか手強い。こちらは感想を書くのにも手がかかりそうだ。
※ 映画に出てくる大正時代の風俗描写もなかなか面白い。最初の頃のお島の着物姿は確かにだらしなくて、チャラチャラした感じだがそれが次第に垢抜けていく様子が映像で見事に示されていく。雪国のモンペ、藁ぐつで 移動する芸者だとか、ドレスのような洋服姿で、自転車にまたがり商売のために街中を駆け巡るお島の姿なども頷かせるものがある。
※ 浜屋の女主人とそのパトロンが花札に興じているシーンがあるが、秋聲 の小説には実に花札をする場面がけっこうあって、男も女も花札をよくやる。花札が日常的に行われている様子がこの映画で見るとよくわかる。
http://kssa8008.hatenablog.com/entry/2017/05/16/001016
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映画「あらくれ」について
今年は、コ田秋声の「あらくれ」が発表されてちょうど百年目に当たる。ということで、前期の文学史の講義で、「あらくれ」を読売新聞の初出形でひたすら読むという授業をして、ささやかなオマージュを捧げた。辛抱強く出席してくれた七、八人の学生のみなさんに感謝する。結局一番為になったのは私自身であり、以前とは違い、「あらくれ」後半の面白さにとても強く印象づけられた。フロベールにとって「ボヴァリー夫人」が特別なテクストであるように、「あらくれ」は秋声の中で特別なテクストである。テーマの切実性では「黴」、純粋な文章の魅力という意味では「足迹」や「爛」、カオスに満ちた異様な怪物性という点では「仮装人物」を挙げるべきだろうが、秋声の作品の中で「あらくれ」は言わば「フィロソフィー」的な意味での特異点として輝いている。
授業の最後の二回を使って成瀬巳喜男の映画「あらくれ」をVHSで見たのだが(まだDVD化していないようだ)、これも新たな発見があって面白かった。成瀬は戦前に既に「あらくれ」の映画化を考えていたが果せず、戦後自由に取材できるようになって、はじめて撮ることができたという。しかし成瀬の意気込みとは逆に、客入りは良くなかった。成瀬映画に対する従来の批評や研究においても、「あらくれ」はあまり評価されてはいない。しかし原作と比べながら見ると、非常におもしろい映画である。
映画では、原作の最初の部分はカットされ、お島と最初の夫の缶詰屋の鶴さんとの夫婦生活から始まる。昔はこのカットが不満だったが、改めて見直すと、これはこれでそういうものとして見れば受け入れられる。原作は、荒川のほとりに始まり、山の温泉で終わるという「水」のイメージの差異的反復がテクストの動力になっているのだが、映画では「水」のイメージは、お島がホースで小野田に水をぶっかける場面と、ラストのどしゃぶりの町の中でお島が去って行く場面(原作にない映画のオリジナルシーン)の2カ所に切り詰められる(浜屋と初めて結ばれた翌朝に現場となった風呂場の水を抜くシーンや、お島が家出をして川のほとりで浜屋と父親に発見されるという原作の一つの山場になっている挿話がなくなったのは残念だった)。また性についての記述も映画では大体カットされ(せりふに幾つか残っているが)、原作の頽廃的で無倫理的な雰囲気は映画にはない(たとえば原作では腕の入れ墨を見せてお島を魅了する若い職人は、映画で仲代達矢が演じるが、入れ墨の場面はなく、もっと健康的で戦後的な好青年になっている)。原作は「明治」から「大正」へと進む時代の流れを背景にしていたが、映画は、「明治」の部分を切り捨て「大正」だけをクローズアップする。そこでは原作における母との葛藤を軸とした家族論的主題は消滅し(お島を流産させるのは原作では母だが、映画では自分で階段から転げ落ちる)、女性の創業物語としての面も希薄となって、水平的な夫婦の関係のみに焦点が絞られる。まさに「戦後民主主義」(大正デモクラシーの反復としての)から見た「あらくれ」と言える。
しかしそのような世界観の矮小化にもかかわらず、「あらくれ」は美しく感動的な映画である。私は原作のせりふが往年の名優たちの口からそのまま語られるだけで感動してしまうので、客観的ではないのだが、配役はかなりうまく行っている気がする。お島役の高峰秀子はもっとドスの利いた迫力があればというところもあるが、美しく撮れているので問題はない。一瞬だけ出てくる作太郎もユニークで、もっと出番があればと思った。上原謙の鶴さん、森雅之の浜屋も良い。特に森は少し爺むさいが、浜屋のアンニュイな雰囲気を良く現している。加東大介の小野田は、達者にうまく演じているとは思うが、私自身はもっと無骨でいかつい感じをイメージしていた。風俗考証は木村荘八ということで、大正時代の雰囲気を手堅く美しく再現しているが、最も印象に残るのはやはり「女唐服」を着たお島が自転車で疾走するところである。わずかな部分だが、この映画のベストショットと言えるかもしれない。
そして今回見直して私が驚いたのは、お島と浜屋が逢引きして「金色夜叉」 の活動写真を見る場面である。そこでは貫一が自分を裏切ったお宮を足蹴にする有名な場面が映画内映画として弁士の語りつきで写される。これは原作にはない場面であるが、それだけに成瀬の批評がここに込められているとも受け取れる。この場面は途中で映画フィルムが焼き切れて中断してしまうのだが、それは尾崎紅葉の文学を否定して成立した秋声の文学を現しているようであり、お宮のような受動的なあり方を拒絶するお島の位相、そして無声映画を否定するトーキーをも同時に示しているのかもしれない。
http://franzjoseph.blog134.fc2.com/blog-entry-66.html
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