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(回答先: 昔の日本映画は熱かった _ 溝口健二 赤線地帯 (大映 1956年) 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 13 日 19:10:41)
溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年)
監督 溝口健二
脚本 依田義賢
原作 井原西鶴
音楽 斎藤一郎
撮影 平野好美
配給 東宝
公開 1952年4月17日
動画
http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?c1=&ch_userid=jpchan04&prgid=46330510
https://www.nicovideo.jp/tag/%E8%A5%BF%E9%B6%B4%E4%B8%80%E4%BB%A3%E5%A5%B3
キャスト
お春:田中絹代
奥方:山根寿子
勝之介:三船敏郎
扇屋弥吉:宇野重吉
お春の父新左衛門:菅井一郎
笹屋嘉兵衛:進藤英太郎
笹屋番頭文吉:大泉滉
菊小路:清水将夫
菱屋太三郎:加東大介
磯部弥太衛門:小川虎之助
田舎大尽:柳永二郎
お局吉岡:浜田百合子
待女岩橋:市川春代
お局葛井:原駒子
老尼妙海:毛利菊枝
笹屋女房お和佐:沢村貞子
松平晴隆:近衛敏明
重役真鍋金右衛門:荒木忍
重役田代甚左衛門:上代勇吉
丸屋主人七左衛門:高松錦之助
用人篠崎久門:水野浩
笹屋の大番頭治平:志賀廼家辨慶
所司代役人:坂内永三郎
老人:玉島愛造
丸屋の番頭:石原須磨男
貸衣装屋:横山運平
お熊:出雲八重子
お杉:平井岐代子
お仙:金剛麗子
待女柚垣:草島競子
中宿の女将:津路清子
扇屋の客:国友和歌子
女乞食:衣笠淳子
丸屋の仲居おきん:林喜美枝
丸屋の仲居おたま:大和久乃
お春の母とも:松浦築枝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%B6%B4%E4%B8%80%E4%BB%A3%E5%A5%B3
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「西鶴一代女」と「ボヴァリー夫人」「女の一生」「居酒屋」
昨日は、ネットの無料動画で、溝口健二監督を世界的に有名にした「西鶴一代女」を観ましたが、酷く暗い映画で落ち込んでしまいました(苦笑)。
昭和27年の作品です。この作品は、ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞し、翌年は「雨月物語」、翌々年は「山椒太夫」でも獲得して、3年連続の栄誉を授かり、すっかり「世界の溝口」の名を不動のものとしました。「3人好きな監督を挙げよ」と聞かれた仏ヌーベルバーグのジャン・リュック・ゴダール監督が「溝口、ミゾグチ、みぞぐち」と答えたことは有名です。
今でも、日本よりフランスの方が溝口健二研究家が多いぐらいですが、これ程、暗い映画をフランス人が好むとは意外でした。
田中絹代主演で、若き三船敏郎も最初に登場します。田中絹代演じるお春は、3万石の殿様の側室となって世嗣ぎを産んで頂点を極めたかと思ったら、運命の悪戯で落魄して、苦界に堕ちて、堕ちて、堕ちまくる話で、これ程ついていない女性もいないぐらいです。そんな女性は、フランスにはフロベールの「ボヴァリー夫人」を始め、モーパッサン「女の一生」のジャンヌ、ゾラ「居酒屋」のジェルベーズと結構多く描かれ、なあんだ、薄幸女性は、フランス人好みだったわけですか。
https://keiryusai.com/archives/2413
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西鶴一代女:溝口健二の世界
溝口健二の映画「西鶴一代女」は、井原西鶴の小説「好色一代女」が原作だ。だが、原作を忠実に再現したものではない。ストーリーがかなり自在に変えられているほかに、作品のテーマというべきものが、まるで違っている。西鶴の小説は、好色女の自由奔放な一代記を描いたものだが、溝口健二の映画の主人公はただの好色女ではない。溝口が描いた女は、ある意味で時代の犠牲者だったのであり、彼女は時代の抑圧に耐えなから、人間的な尊厳を失わずに生きたということになっている。
周知のとおり、西鶴の小説家としての原点は「好色一代男」だ。この小説の中で西鶴は、世之介という架空の男に仮託して、人間の好色な業をえげつないまでに描いたのであるが、「好色一代女」もその延長上にある作品だ。世之介を女にかえただけで、人間の好色の本質を追求しようとする態度は共通している。好色一代女の主人公には、男である世之介とちがって名前はないが、一人の女として存在感を持ち、好色なことにかけて世之介に劣ってはいない。彼女もまた、世之介も顔負けするほど貪欲に性的快楽を追求する人間として描かれている。
西鶴の原作では、名前のない女主人公は、宮中の召使いから始まって、踊り子、大名の妾、島原遊郭の太夫、女郎、寺小姓、坊主の妾、祐筆、商家の女中、歌比丘尼等々を経て最後は尼僧で終わるのだが、その間に経験する境遇は、当時(17世紀の日本)において、およそ女性にとって考えられたあらゆる職業に及んでいると思われる。西鶴の女主人公は、これらの境遇を転々と渡り歩きながら、そのたびに男を誘惑して、性的快楽を謳歌するのである。
溝口健二は、原作の女主人公にお春という名前を与えてやったうえで、そのお春が、宮中の女中勤めに始まって様々な境遇を渡り歩き、最期には尼僧となって遍歴するという筋立てについては、おおむね西鶴の作品に負っている。しかし、西鶴の女主人公と違って、この映画の女主人公は、自分の意思で男を誘惑するのではなく、他人の意思に翻弄されて致し方なく身を売るような羽目に陥り、そのたびに身を持ち崩して最後には夜鷹にまで転落する。それでもなお、人間としての自尊心は失わない。そんな高貴な心性の女性として描き上げるのである。この点、溝口一流の女性賛美のひとつの典型であるともいえる。
映画は夜鷹の集団を映すことから始まる。彼女らの一人お春(田中絹代)が、寺の中の羅漢像の群に目をやるうち、その一つの顔が昔の男の顔に重なる。その男とは、宮中勤めをしていた時に言い寄ってきた男なのであった。西鶴の原作では、主人公の女は羅漢像に重ねて今まで出会ってきた男たちの一人一人の顔を思い浮かべることになっており、その中にこの男の顔は出てこない。だから、この場面は溝口特有の仕掛けなのである。
さて、その男(三船敏郎)とお春とはねんごろな中になったのだが、そのことが、封建時代の世には不届き千万というので、二人はお上に逮捕され、男は打ち首、お春は父母ともども洛外追放の処分に付されてしまう、という理不尽な目に合うのである。
男は打ち首にされる際に、言い残すことはないかと役人に言われて、遺言めいた言葉を残す。それは、「何故、男女慕いあうのが悪いのでございます。何故それが不義なのかわかりませぬ。身分などというのもがなくなって、誰でも自由に恋のできる世の中が来ますように。お春さま、真実の思いに結ばれて生きなされ」というものだった。
17世紀の日本人がこんなことをいうとはとても考えがたく、実際に西鶴の原作にも出てこない。溝口健二が勝手にもち込んだ部分なのだが、彼がわざわざこういう言葉を入れたのには、時代背景も作用していたのであろう。この映画が公開されたのは1952年、日本社会は戦後民主主義が花開こうとしていた時代だった。溝口はそんな時代精神を背景にして、男女の自由恋愛の思想を、場違いなところに織り込んだものらしい。
ともあれ、男の遺言を聞かされたお春は、以後「真実の思いに結ばれて生きて行こう」と決意したが如く、次々と数奇な境遇に身をゆだねていくのである。
お春にとって、次の重大な転機は、さる大名の妾になる事だった。世継ぎが出来ず、お家断絶の危機に瀕した大名家が、家臣に妾を探させる。家臣は、妾になる女の条件を記した紙を持って京都にやって来る。だがなかなか条件にあう女が見当たらない。そこへ、野山の園遊会の席上踊っていたお春が目に留まる。彼女のあらゆる部分が、妾になれる女の条件を備えているというわけなのだ。
こうして、大名の妾となったお春は一人の男子を出産する。しかし世継ぎを生んだお春にはもう用はないというわけで、お春はなんだかんだと因縁をつけられて大名家から追い出されてしまうのである。
この部分は西鶴の原作とは違っている。西鶴の原作では、子どもが生まれるとはなっていない。そのかわりに、大名が日に日に衰弱していく。それは大名が女の色香に惑わされ、あまりにあちらの度を過ごした結果であるとして、追い出されるということになっている。
追い出されて実家に帰ってくると、お前の出世をあてこんで借金が増えてしまったので、それを返すために、島原に行ってくれと父親からいわれる。親の欲のために、身を売れと言われるわけである。しかし、お春は反抗することもなく、いわれるままに身を売るのである。
映画ではこの先、商家の女中となっておかみさんの髪を結ったり、やっと持つことをできたささやかな所帯が、亭主を盗賊に殺されることで失ったり、尼寺に世話になるようになったものの、寺の中でセックスしているところを住職に見られて追い出されたり、商家の丁稚と駆け落ちした途端にその丁稚が連れ去られたりと、数奇な人生を送り、その旅に身を一段下へと持ち崩すうち、ついには乞食の境遇に落ちてしまう。
乞食になったお春が寺の門前で三弦をつま弾いていると、ある行列が通り過ぎる。その行列の中心には、お春の子どもが駕籠に乗っている。無論お春にそんなことはわからぬが、何かにせかされるように、その行列をじっと見つめるのだ。
衰弱しきったお春は、夜鷹の集団に助けられ、それが縁になって自身も夜鷹になる。ここで残酷な場面が出てくる。客だと思って男についていくと、あるところに案内される。そこには複数の男たちがいたのだが、お春を案内した男は彼らに向かってお春の顔を見せ、化け猫には騙されるなと忠告する。それがあまりにも人を馬鹿にした話なので、さすがのお春も逆上する。そして、腹いせに化け猫の真似をしてみせる。しかし、もらった金を放り出すようなことまではしない。いくら気位の高いお春でも、さすがにそこまでする気力は残っていないのだ。
ここで、画面は冒頭のシーンにもどるというわけなのだ。冒頭のシーンに続いて、三船敏郎が「真実の思いに結ばれて生きなされ」といった言葉を、お春は思い出すのだが、果して自分の人生は、この忠告に応えたものとなっただろうか。
ここで画面は更に一転して、お春が息子のいる大名家に召し戻されるという話に変る。この運命の急変に、お春は戸惑いつつも喜ぶのだが、その大名家に行ってみると、過酷な話が待っていた。
自分が召し戻されたのは他でもない。大名の世継ぎの母親が売春をしているということが表沙汰になってはゆゆしきことだ。だから、お前を国元に幽閉するというのだ。だが、その前に一度だけ子どもにあわせてやろう、といわれるが、面と向かっての対面ではない。子どもが邸内を歩いている姿を、庭の一隅から遠目に見るだけだというのだ。
お春が庭の一隅に、大勢の家来に囲まれながらかしこまっていると、目の前を子どもが通り過ぎる。子どもはお春の方に目を向けるまでもなく、スタスタと通り過ぎてしまう。その後をお春が追いかける。周囲の家来たちが制止しようとするが、わたしはあの子の母ですと毅然といって、なおも追いかけると、家来たちはみなその場にかしこまる。
そうこうするうちに、お春の姿はどこかに消えてしまい、彼女を乗せて国元に旅立つはずだった籠だけが、無残な姿で取り残される。
このあたりの場面が、この映画のクライマックスといってよいのではないか。お春はこれまでの生涯にわかって、常に他人の意思に服従して生きてきたが、最期には自分の意思を通すわけだ。たとえ自分の息子であっても、息子のために自分の人生を犠牲にするのはいやだ。せめて人生の最後なりとも、自分の意思に従って、自由に生きてみたい。お春のそんな意思が感じとれるのだ。
ラストシーンは、尼僧となったお春が念仏をあげながら、家々を角付して歩くシーンである。お春が念仏をあげると、家から出てきて、お布施をくれる者もいる。窓を開けて両手を振り、追い払おうとするものもいる。だがお春の心はどんなことがあっても乱れない。いまやこの世のあらゆる束縛から解放されて、ひたすら我が道をゆく。そういう悟りの境地が成立している。それ故、念仏の題目は、「請願成就」と聞こえるのだ。
なお、この映画には、日本の伝統音楽が効果的に使われている。浄瑠璃などがそのままの形で使われているほか、伝統的な日本音楽と西洋音楽とをミックスさせて、独自の音の世界を現出させている。その意味でも、この映画には非常に面白いところがある。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo105.saikaku.html
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凄絶な陶酔の美学 溝口健二 「西鶴一代女」
今晩は、今日も昨日に引き続き溝口健二の作品を紹介しますね。
紹介する作品は「西鶴一代女」です。この作品はまさに天才溝口による凄絶な一作でした。
今日はYou Tubeで映像を見つけることが出来ましたので、それを最後に紹介しますね。
(尚この記事も再投稿になりますので、一度お読みになった方はご了承下さい)
この作品を初めて見たのが18才位の時、幸運にも銀座の『並木座』のスクリーンでした。しかしその映像の凄まじい呪縛力!まさに監督の溝口自身が完全にこの作品に酔っています!!物事に酔う者が、他の者にその素晴らしさを伝えることができる。この映画は当にこの言葉をそのまま実践して出来上がったような見事な作品です。
また主人公「お春」を描く監督溝口のどこまでも厳しいリアリズムの眼!私にとっての陶酔と呪縛の上映時間は瞬く間に過ぎていきました。
周知のように溝口は戦後この作品を制作するまで全くの不調でした。「歌麿をめぐる五人の女」(46年、松竹京都)や「夜の女たち」(48年、松竹京都)で、幾分の立ち直りは見せましたが、やはり戦前の幾多の名作には遠い出来栄えと言わざるを得ませんでした。そこに黒澤明のような新しい才能の台頭や、時代の流れを敏感に感じ取った溝口の焦りや足掻きを感じることも出来ます。しかし監督としての溝口はこの一作で戦前の幾多の名作を凌ぐ傑作を作り上げました。
映画が始まります。斎藤一郎の箏をフューチャーした格調高い音楽が流れ、クレジット・タイトルが現れてきます。この芸術性の高さ!いかにも溝口作品のオープニングです。
映画のファースト・シーンは荒れた奈良の流れ寺の夜、薄曇に浮かぶ月がさっと黒雲に隠れていきます。
すると「にいさん、にいさん、」と言う声が聞こえ、厚化粧の娼婦お春(田中絹代)が客を引いています。しかし、客は一向に付きません。カメラはじっとそのお春を後ろからワン・シーンで捉え続けていきます。この冷徹なまでのカメラ・ワークと人間観察の凄まじさ!
客が付かなかったお春は寺の羅漢堂へと足を運んでいき、羅漢像を一つ一つ見つめていきます。その内、羅漢像にかつて自分と経験のあった男の面影を見つけていくことになります。「ふふ、似てるわ」!
このあたりの溝口の演出の妙。ここにお春の人生とこの映画の主題が総て集約されています!!お春は積年の疲労からかその場に倒れ込んでしまいます。若い頃のお春は御所に勤める女中でした。しかし運命と男に翻弄され続け身を持ち崩し遂には・・・。
田中絹代の体を張ったような体当たりの演技が見事!彼女はここで、18歳から老年した母親の役までを、溝口の演出に応えて見事に演じ切っています。しかし18歳の生娘を演じて何の違和感も感じさせないあたりは完全に舌を巻いてしまいます!!この時彼女は43歳!!
女優には老年すると引退するか、スクリーンに老醜をさらけ出していくかという2種類のタイプがあります。
前者の代表が原節子とするなら、後者の最右翼がこの田中絹代です。しかしこの後半の老いた母の演技は凄まじい。ここでの彼女の演技は時に震撼をも誘います。また娼婦の実情を若い衆に知らせる世話人に買われ、皆の前で老醜を暴露された後に演じる化け猫の演技の凄み!!
原作は井原西鶴の「好色一代女」、溝口と脚本の依田義賢は原作から主人公の好色の部分を取り除き、
男に騙されながらも恨むことのない無垢な女性像を作り上げます。ここではその狙いがまた見事に成功しています。このあたりはあのフェリーニの「カビリアの夜」(57年)を連想させますが、これはそれに先立つ5年も前の作品です。
しかしこの作品での透徹したリアリズムは見事です。ワン・シーン・ワン・カットとリアリズムは本来相反する技法なんですが、溝口はその両者を見事に融合させ芸術の領域にまで昇華させているのはさすがです。
中でも江戸の松平氏の側室探しのシーンはユーモラスで最高です。溝口は大勢の側室候補を通りに一堂に並べてワン・シーンでこの場を描き尽くします。この演出の妙の見事さ!
映画は落ちぶれたお春が、自分の生んだ松平家の幼い嫡男の籠をじっと凝視するシーンで頂点を迎えます!
カメラはお春の前で止まる籠を映し出し、籠が開きお春がわが子の姿を見た瞬間、音声が総て止まります。お春のこの時の表情とそれに続く嗚咽!!そこに尺八の音楽が流れていきます。このシーンの演出はもう溝口の独壇場で、完全に脱帽!!
ラストはどこからともなく声明が聞こえて、諸国を行脚するお春のシーンで終わります。お春の人生は仏教と出会うことで初めて救済されていきます。この宗教=仏教による救済の眼の確かさ!
また夫であった扇屋弥平(宇野重吉)が殺され、老尼(毛利菊枝)の下へ行くあたりから仏教の無常の概念が色濃く描かれていくのもまた出色の演出です。
これぞ溝口作品の真髄!この作品は溝口芸術の粋を凝集した彼の狂気のような傑作です。
私にとっては「近松物語」(54年)と並ぶ戦後の溝口作品のベスト・ワンです!!まだ御覧になっていない方には是非お薦めする作品です!!
余談ですが、この作品の製作者児井英生はそれまで娯楽作品一辺倒の製作者でしたが、生涯に一度だけ赤字になってもいいから芸術作品を作りたいということで、この作品のプロデュースに取り掛かり、溝口に監督を任せたそうです。事実この作品は興行的には振るわず、彼のプロデュースした作品の中で唯一の赤字を記録した作品だったそうです。しかし良くぞ赤字覚悟でこの作品をプロデュースしてくれましたね!!
この作品がヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞して、フランスではこの作品一作で溝口が神格化されたことを考えると一層その感を深くします!!
https://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/35291667.html
溝口健二は極左のマルキストだったのでヨーロッパの映画人に人気が有るのですね。
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