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森田童子 ぼくたちの失敗
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 08 日 03:00:30: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは… 投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 05 日 10:32:22)

森田童子☆ぼくたちの失敗






春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ


君と話し疲れて いつか 黙りこんだ
ストーブ代わりの電熱器 赤く燃えていた


地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた
悪い夢のように 時がなぜてゆく


ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
チャーリー・パーカー 見つけたヨ
ぼくを忘れたカナ


だめになったぼくを見て
君もびっくりしただろう
あのこはまだ元気かい 昔の話だネ


春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ


▲△▽▼


「ぼくたちの失敗」は、日本のシンガーソングライター・森田童子のシングル。レコード盤は1976年発売。1993年にドラマ『高校教師』主題歌に起用され、CDが約90万枚[1]を売り上げる大ヒットを記録した。


森田童子は、1970年代を中心に活動していた女性シンガーソングライターである。その時代のライブハウスや小劇場などのアングラ文化のフィールドで活動していたアーティストであったため、一部には熱烈なファンを持っていたが、一般的・商業的には大ヒットを飛ばすこともなく、1983年に引退した。


もともとこの曲は、1976年にLPレコードとして発表された2ndアルバム『マザー・スカイ』に収録されていたものであり、同年にシングルカットされてEPレコードでも発売されている。


この曲が、1993年の野島伸司脚本によるテレビドラマ『高校教師』の主題歌に使用されたことで、一躍脚光を浴びることとなった。引退して10年後に、そのテーマによって物議を醸したドラマの主題歌となったことで、すでに引退していた森田本人も予想しない形でリバイバルヒットとなった。


このヒットをきっかけにベスト盤の発売が企画され、またオリジナルアルバムもすべてCD化された。1988年に初期の作品4枚は既にCD化されていたが、1993年にはすでに廃盤となっていたため、改めて全作品が再発売された。


1993年のヒットを受けて復帰の要望もあったと言われるが、森田本人にはすでにその意思はなく、取材にもほとんど応じなかったため、結局何の音沙汰もないままヒットしたことが独り歩きした状態となる。


2003年には再び「高校教師」がリメイクされ、同ドラマの主題歌に同じ曲が使われた。ただしその際は東芝EMIにレコード会社を移し、コピーコントロールCDで発売された。


収録曲
全作詞・作曲:森田童子


EPレコード盤
ぼくたちの失敗(編曲:石川鷹彦)
2ndアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』よりシングルカット
ぼくと観光バスに乗ってみませんか(編曲:石川鷹彦)
同じく2ndアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』よりシングルカット
ジャケットイラストは上原徹。


1993年盤
ぼくたちの失敗(編曲:石川鷹彦)
アルバム『マザー・スカイ』収録曲。TBS系ドラマ「高校教師」主題歌。
男のくせに泣いてくれた(編曲:石川鷹彦)
こちらもアルバム『マザー・スカイ』収録曲。同ドラマ挿入歌。
ジャケットイラストは風間完。


2003年盤
ぼくたちの失敗(編曲:石川鷹彦)
TBS系ドラマ「高校教師」主題歌。
蒸留反応(編曲:千代正行)
こちらはアルバム『夜想曲』収録曲。
ジャケットイラストは宇野亜喜良。


プロモーションビデオ
この曲「ぼくたちの失敗」にはライブ映像やオフショットなどで編集されたビデオクリップ(モノクロ映像)が存在している。


これは1980年に東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された森田童子の特集番組の映像を素材として、2003年に東芝EMIが作成したものである。この番組内では「ぼくたちの失敗」は演奏されていないため、ライブシーンに使われた映像は、実は「ラスト・ワルツ」を演奏している映像である。


2003年当時は東芝EMIのホームページで公開されていたが、現在は公開されておらず、DVDなどの発売も無い。 このビデオクリップの素材の一部が、2003年にフジテレビ系「爆笑おすピー問題」で紹介されたことがある。ビデオクリップはモノクロ処理されてしまったが、「爆笑おすピー問題」ではカラーのまま放送された。この映像が流れた際、「映像提供:スポニチクリエイツ」と表示されたため、現在この映像はスポニチクリエイツが所有しているものと思われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%A4%B1%E6%95%97
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-11462] koaQ7Jey 2020年9月08日 03:11:54 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[2] 報告

昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 真田広之・桜井幸子 高校教师 (TBS 1993年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1000.html


▲△▽▼

2020年08月19日
夏休みの個人的ドラマ三昧
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1976656596

で、ダラダラと昔のドラマをみていた。
ひとつは、「やまとなでしこ」の総集編が最近やってた録画。これは押尾学が事件を起こして逮捕されてから再放送がピタッと止まった。
貧乏出身のスッチーが合コンで金持ちと結婚するのを目指すが、誤解から研究者崩れの魚屋と出会う話。

押尾登場部をカットする目的もあって総集編で復活。
昔ほどの感動がないのは、ぶつ切りのせいもあるだろう。

「ビーチボーイズ」、海の民宿に、エリート会社員と元オリンピック代表になりかけた男が迷い込んで働く。大人の夏休み、という話。

で、いまiPadで寝ころびながらみてるのが(画質音質クオリティのこだわりはどうした、流される俺)、「高校教師」、これは自分の青春ど真ん中のヒット作だが、みてなかった。

リメイク版の10年ちかく後のは好きでみてたけれど、オリジナルが好きな大学生が、いかによくなくなったか熱く語っていた。生物学の研究者崩れと、女子高生の恋愛話。

脚本の野島伸司は、自分の文学青年的な資質にはストライクすぎて、悪口しか言いたくない。
作中の同性愛の女子高生が、主人公の少女に不吉な予言をする。
「いつかあなたも、男に幻滅するよ」みたいな。
これはある意味で、野島伸司的な主人公の男性がたどった道のようにも思える。

自己愛的で内向的で、幼児的な母親的理想像を女性に求め、狂気にまで至る。心象は都市に魅せられながらも根本は農村や村落共同体へ帰る願望がある。

こうした男性は、都市化の完成や女性の台頭によって、ただのコミュ障なオタクやひきこもりに転落した。

野島作品も、スランプに次ぐスランプで、やたら刺したり放火したり殴ったりの不自然さしか残らない。

この作品では、家庭環境の複雑さゆえだが、冒頭から一目惚れの女子高生が、一貫して主人公の男の絶対的な味方であり続ける。なんとも都合よく心地よい設定。
しかし旬のよさというべきか、素直な人物たちの心の動きに感情移入できて、とても応援してしまう。

森田童子の、どこまでも暗闇を、ただ暗闇のままに歩いていくような不思議な音楽が、よく似合っている。
変な教訓や、ポジティブへの変容などは要らないのだ。
一般社会的な価値観からは、ただ破滅に向かうだけの姿が潔く、どこか癒される。

考えてみたら、自分の20代は、鬱屈やら不遇感があって、こうしたドラマと自身を重ねてみていたのだ。だからとても個人的な感想だけども、これだけ長く生き残ってまたみることができているのは、普遍的でもあるのだなと。
たいへんな名作たちだと思う。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1976656596


▲△▽▼





高校教师 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%AB%98%E6%A0%A1%E6%95%99%E5%B8%88+%E7%AC%AC+%E9%9B%86


2. 中川隆[-11461] koaQ7Jey 2020年9月08日 03:19:28 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[3] 報告
森田童子 / 小室等の音楽夜話




3. 中川隆[-11460] koaQ7Jey 2020年9月08日 03:28:45 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[4] 報告
追悼:森田童子に思うこと。2018/6/20
https://muuseo.com/muuseo_staff/diaries/61


こんにちは、あゆとみです。

https://muuseo.com/analogrecordfan/items/457




グッドバイ (Good Bye) Front Jacket [森田童子のLP盤] | みんなのアナログレコードコレクション by Muuseo


https://muuseo.com/analogrecordfan/items/457
analogrecordfan


わたしが森田童子を知ったのは、多くの人がそうであるようにドラマ「高校教師」だった。



春のこもれ日の中で
君のやさしさに
うもれていたぼくは
弱虫だったんだヨネ

https://www.youtube.com/watch?v=iER-NZ7GoM8&t=78s





物悲しい声、装飾のないシンプルな音色。

ぼくたちの失敗は、屋根裏部屋から不意にみつけたオルゴールの音色みたいに、ノスタルジックで、同時に妙に新しさもあって、はっとさせられた。

1970年代の曲だったと後で知ることになるのだが、とてもその当時で20年も前の曲とは思えない新しさを感じたのを覚えている。



森田童子の声は可憐な高音で、折れそうに華奢に響く。歌詞はいつもとびきり悲しくて孤独、それでいて不思議な包容力を感じさせる。

どん底まで悲しみを経験した人が到達できる悟りを含んだ優しさというのか。

人が人であるがゆえの弱さ、醜さを受け入れ、それを糾弾せずにそのまま抱きしめてくれるような母性。

清濁飲み込んで浄化するような光。

まるで聖母のごとく・・・

と、ここまで書いて思い出したが、そういえば彼女の唯一のライブアルバムは「東京カテドラル大聖堂録音盤」だそうだ。

まるで聖母のような慈愛を感じさせる彼女の歌を聖マリア大聖堂で聴く体験はさぞや格別なものだったのではないだろうか。

https://muuseo.com/analogrecordfan/items/463




東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤 (Front Jacket) [森田童子のLP盤] | みんなのアナログレコードコレクション by Muuseo


https://muuseo.com/analogrecordfan/items/463
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多くの人が言っていることだが、森田童子ほどミステリアスな歌手は珍しい。

素顔を隠してデビューする歌手は少なからずいるが、大抵は数年後に「実はこんな顔をしていました」とカミングアウトしたり、時が経つと気分が変わって別人のような出で立ちになるものだ。それに人は一度スポットライトを浴びると戻りたくなるというのはよく聞く話だろう。

彼女は違った。

当時熱狂的なファンが数多く存在したにもかかわらず、メジャーデビューを拒んだこと。

常にサングラスにカーリーヘアのまま、素顔を隠し通したこと。(チラ見せ一切なし)

引退して10年経った後に、ぼくたちの失敗の大ヒットで再脚光を浴びても、一切メディアに登場しなかったこと。(大抵は再ブレイクのタイミングでベールを脱いで登場するケースが多い)

ここから感じるのは、彼女のブレない強烈な自我と意思の強さだ。

最後の最後まで素顔を隠し通したことで浮かび上がってくるのは、素顔を隠したのは、ミステリアスを演出するためのパフォーマンスとかイメージ戦略などではなく、ただ本当に世間から顔を隠していたかった、プライバシーを守りたかったからなのだとわかるのだ。

https://muuseo.com/analogrecordfan/items/458




グッドバイ (Good Bye) Back Jacket [森田童子のLP盤] | みんなのアナログレコードコレクション by Muuseo


https://muuseo.com/analogrecordfan/items/458
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彼女が世に残した数少ないヒントからどうやってあの独自の世界観が生まれたのかについて考えてみた。

すると、学園闘争、「きみ」として登場する友達、持病との戦い。

この3つが思い浮かぶ。



森田童子が高校を辞めたきっかけは学生運動をしていた友人が警察に「パクられた」からで、歌い始めたきっかけは友人の死だったらしい。

「ぼく」は彼女自身だ。

なぜ「ぼく」になったのかというと、

「女系家族に育ち、女の嫌な部分、ドロドロした部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった」

(1983年ラジオインタビューより)

のだという。



学園闘争は当時の若者を揺り動かした一大ムーブメントだ。

彼女の「球根栽培の唄」や「みんな夢でありました」は学園闘争を色濃く反映した歌だとされている。

https://www.youtube.com/watch?v=uiXDF4jcZXM




次は「きみ」として登場する人物だ。

これが誰だったかを考えてみると、彼女が高校をやめるきっかけになったとされている警察に逮捕された友人、そして歌を始めるきっかけになったとされている亡くなった友人が同時に候補として思い浮かぶ。それが一人なのか二人なのかはわからない。(同一人物なのかなあ?とは思っている。)

https://muuseo.com/jac-rec1925/items/323




さよならぼくのともだち(森田童子) [昭和歌謡ジャケ&レーベル(昭和50年)] | みんなのアナログレコードコレクション by Muuseo


https://muuseo.com/jac-rec1925/items/323
jac-rec1925
持病との戦いについてだが、彼女は高校を中退して3年間、北海道で療養生活を送っている。のちのラジオで胸を患っていたと話していたらしい。

人は病気になると健康がいかに幸福なことかを思い知らされる。

ただでさえ普通の人よりずっと鋭い感性を持った彼女のような人が、長い療養生活でありとあらゆることを突き詰めて考えていたのは想像に難くない。

ああ、苦しい。

いっそ死んだほうが楽になるんじゃないかな。

死んだらどうなるだろう。

・・・なんて考えが浮かぶのもわかる気がするのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=HjwiEFmwyis





当時のことをラジオで彼女はこう語った。

「わたしは何もできない。動けなかった。わたしの歌は、周囲を見ていた自分の意識の投影なんです。人も風景もどんどん変わって行く。だけど自分だけが同じところにいるような気がして。何もしていなかった時間をどうやって経験してきたか。こうなって欲しかった。多分こうだったんじゃないかという想いがわたしの1つのエネルギーになっているんです。」
さぞや苦しく、もどかしく、やるせない時期だっただろう。

ただ、この時期に動けなかったからこその森田童子なのだとは思う。

彼女はよく「儚い」と形容されるが、今にもこの世から消えてしまいそうなほどの彼女の雰囲気や、歌詞からにじむ孤独と世の中に対する諦観は、この闘病生活から生まれたもののような気がしてならない。



当時の森田童子が映る貴重な映像を見つけた。

1980年の自主フィルムで、彼女が「夜行」という屋外のライブと仲間達と実現する過程を描いたドキュメンタリーだ。

東京のど真ん中の空き地にテントを立ててライブをする。

これは、革命的な挑戦だったに違いない。

動画の中で、バックコーラスの入ってくるタイミングを指示する彼女は、普段のアンニュイなイメージとは別人のように、仕事人としての「生」のエネルギーを放っており、新鮮だった。

https://www.youtube.com/watch?v=tyS0CkPMPxo&t=415s







また、東京が大都会への発展を遂げる過程で失われていくもの、例えば、子供の頃に遊び場だった空き地や路地がどんどん国に管理されて奪われていくことについて彼女がカメラの前で語るシーンには驚かされた。

儚げな声はそのままなのだが、つっかえることなくとつとつと語る彼女は極めて雄弁だ。すごく頭のいい人なのだと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=bTyra-hhNlc&t=2s






彼女の世界観が現れている思ったのは次の言葉だ。

「あと何年か後には東京にテントを立てるということはほとんど不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていく様を見て欲しいと思います。そして私たちの歌が消えていく様を見て欲しいと思います。(中略)1つの終わりの時代に向けて、私たちの切ない夢を見て欲しいと思います。」
移ろっていくもの。なくなるもの。消えるもの。変わっていくもの。終わるもの。

そうしたものに目をそらすのではなく、なくなるまで見続ける。

線香花火が燃え尽きて黒い塊になるまでをじいっと見つめるように。



https://muuseo.com/analogrecordfan/items/460




マザー・スカイ =きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか= (Front Jacket) [森田童子のLP盤] | みんなのアナログレコードコレクション by Muuseo


https://muuseo.com/analogrecordfan/items/460
analogrecordfan
マザー・スカイに収録されている曲「男のくせに泣いてくれた」も大好きな曲だ。

ドラマ「高校教師」でも主題歌に次いで重要なシーンで流れていた。







森田童子さん、かずかずの素晴らしい歌をどうもありがとうございました。

R.I.P.

https://muuseo.com/muuseo_staff/diaries/61
4. 中川隆[-11459] koaQ7Jey 2020年9月08日 03:48:31 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[5] 報告
森田 童子(もりた どうじ、1953年1月15日[1] - 2018年4月24日[2])は、日本の女性シンガーソングライター。本名は非公開[2]。芸名は笛吹童子に由来[3]。


東京都出身[2]
(札幌のコンサート会場で配布されたチラシ「森田童子ラフスケッチ」によると、1952年に青森で生まれたとなっている[4])。

全共闘などの学園闘争が吹き荒れる時代に友人が逮捕されたことをきっかけに、1970年に高校を中退[3][5]。

気ままな生活を送っていたが、20歳のとき友人の死をきっかけに歌い始める[2][5](この亡くなった友人をモチーフにした曲が、デビュー曲となる「さよなら ぼくの ともだち」である)。

ライブハウスデビューは1973年の西荻窪ロフトであった[6]。

1975年10月、シングルレコード『さよなら ぼくの ともだち』で、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック合同会社)よりデビュー。

以後主にライブハウスを中心に活動する。1980年に、ポリドールからワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍。1983年までにアルバム7枚、シングル4枚をリリースし、同年のアルバム『狼少年 wolf boy』と新宿ロフトでのライブを最後に、引退を宣言することなく活動を休止する[5][3]。

レコーディングの編曲は、アコースティックギター奏者の石川鷹彦(元六文銭)などが担当した。その後、イラストレーターとしても活躍したマネージャーだった前田亜土と結婚[7]。

カーリーヘアにサングラス、男性的な服装というスタイルが特徴で、コンサートはもちろんレコードジャケットなどでも素顔を見せることはなかった[5]。

森田童子は芸名であり、本名は非公開。加えて実生活についてもほとんど公表せず、作詞した歌詞の内容もありのままの実体験ではなく願望を投影したものであるとしており、普段も寡黙で、独特の世界観を表現した作品に生活感を滲ませることを避けていた[5]。

活動停止以後
1988年、初期アルバム4作『グッド・バイ』から『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』までが初CD化された。

1989年9月、日本の学生運動と青春と恋をテーマにした、ミニシアター系映画『グッドバイ[1]』に楽曲が使用され、映画での使用曲を集めたサウンドトラックCDも発売された。

1993年・ドラマ『高校教師』以後
一部ではカリスマ的な人気を博しつつも、森田のファンは全国的に見れば少数で[5] 、森田本人がメジャー化を望んでいなかったこともあり[5]、その作品はマスコミなどに表立って紹介されることもなかった。

1993年1月、テレビドラマ『高校教師』の主題歌として1976年発売のシングル『ぼくたちの失敗』が使われ、シングルCDは100万枚に迫る大ヒットとなった[8]。このドラマの脚本を書いた野島伸司は、高校時代に同級生に誘われてライブハウスで歌う森田を知り、強い印象を受けたという[9]。プロデューサーの伊藤一尋とともに森田の楽曲の採用を決定した[10]。

これにともない、同年3月にベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション』が発売された。続けて同年4月には、オリジナル・アルバム7枚がCDで再発売(初CD化3枚)され、活動当時を知らない若い世代を含めて、新たに多くのファンを獲得した。

しかし本人はこのリバイバルブームに対し、マスコミの取材には応じず沈黙を守った[8]。

同年11月には、映画版『高校教師』で「たとえばぼくが死んだら」(アルバム『ラスト・ワルツ』収録)が主題歌として使われ、シングルカットされて発売された。

2003年・ドラマ『高校教師』以後
2003年1月、10年ぶりにドラマ『高校教師』の新作が放送され、再び『ぼくたちの失敗』が主題歌として使用された。

これにともない発売された2003年版のベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』に、「海が死んでもいいョって鳴いている」(アルバム『ラスト・ワルツ』収録)の歌詞を一部変更して、新規に歌唱・録音された「ひとり遊び」が収録され、それが最後の作品となった。

「ひとり遊び」は森田の自宅で、自らのピアノ、ギター、ハーモニカの演奏で20年ぶりに録音された[11]。

2010年5月に記事が掲載された朝日新聞の取材によれば、近しい人物の死去による精神的ショックと、自身の持病により活動が困難な状況であるとしている[5]。夫の前田亜土は2010年に没している[12]。

2015年9月に公開された映画『GONIN サーガ』で、『ラスト・ワルツ』が挿入歌として使用された。

『高校教師』のリバイバルヒットで再発されたCDアルバムもその後廃盤になり、長らく入手困難な状況が続いていたが、2016年7月20日に23年ぶりにCDが再発売された。オリジナルアルバム7作、ベストアルバム2作(うち『友への手紙 森田童子自選集』は初CD化)の計9タイトルが発売。小澤賢太郎(音楽出版ジュンアンドケイ)の企画・監修で、レーベルはユニバーサルミュージック/USMジャパン。オリジナルマスターテープからデジタルリマスタリングされたSHM-CD仕様となっている[13]。

また現在までに、様々なアーティストによって楽曲がカバーされている。リバイバルヒットで代表曲となった「ぼくたちの失敗」は、YMCK、cheeなどによるカバーがあり、mondialitoによるフランス語カバー曲(曲名は「notre echec」)も存在する。「たとえばぼくが死んだら」はeastern youth、山中さわお、中村中によってカバーされている。変わったところではJOJO広重(非常階段)の「スラップ・ハッピー・ハンフリー」によるノイズ系カバーなどもあり、幅広いジャンルのミュージシャンにカバーされている。

2018年4月24日未明、心不全のため自宅で死去[14][15]。65歳没。同年6月1日発行の日本音楽著作権協会(JASRAC)会報に訃報が掲載されたことで死去が明らかになった[2]。音楽活動休止後は主婦として暮らしていたが[16]、音楽関係者の話として体調を崩して2017年から入退院を繰り返し、退院後間もなくして逝去したという[15]。


音楽作品

シングル
発売日 タイトル c/w 形態 規格品番 オリコン
最高位

ポリドール・レコード
1st 1975年10月21日 さよならぼくのともだち まぶしい夏 EP DR-1989
2nd 1976年11月21日 ぼくたちの失敗 ぼくと観光バスに乗ってみませんか EP DR-6060
3rd 1978年3月1日 セルロイドの少女 蒼き夜は EP DR-6184

ワーナー・パイオニア
4th 1981年1月25日 ラスト・ワルツ 菜の花あかり EP L-382A

ワーナーミュージック・ジャパン
(活動停止以降)
5th 1993年1月25日 ぼくたちの失敗 男のくせに泣いてくれた 8cmCD WPDL-4335 5位
6th 1993年10月10日 たとえばぼくが死んだら ラスト・ワルツ 8cmCD WPDL-4363 27位

東芝EMI
(活動停止以降)
7th 2003年2月5日 ぼくたちの失敗 蒸留反応 CCCD TOCT-4444 24位


アルバム

オリジナル・アルバム
発売日 タイトル 形態 規格品番 オリコン
最高位

ポリドール・レコード
1st 1975年11月21日 GOOD BYEグッドバイ LP MR-5071 44位
CT CR-2071
2nd 1976年11月21日 マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか= LP MR-3030 44位
CT CR-2066
3rd 1977年12月10日 A BOY ボーイ LP MR-3085 52位
CT CRF-5038

ワーナー・パイオニア
4th 1980年11月20日 ラスト・ワルツ LP L-12014A 64位
CT LKF-7016
5th 1982年11月20日 夜想曲 LP L-12530
CT LKF-8039
6th 1983年11月30日 狼少年 wolf boy LP L-12547
CT LKF-8083


ライブ・アルバム
発売日 タイトル 形態 規格品番 オリコン
最高位

ポリドール・レコード
1st 1978年11月1日 東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤 LP MR-3145 78位
CT CRF-5071

ベスト・アルバム
発売日 タイトル 形態 規格品番 オリコン
最高位 備考

ポリドール・レコード
1st 1978年 森田童子全曲集 CT CRQ-4036 カセットテープのみのベストとして発売。未CD化。
2nd 1981年9〜10月頃 友への手紙 森田童子自選集 CT LKG-7002 カセットテープのみのベストとして発売。

ワーナー・パイオニア
- 1980年 森田童子の世界 LP LS-110 ポリドール時代の4アルバムの再発に合わせて制作されたプロモーション用非売品LP盤。
『A BOY ボーイ』を除く3アルバムから12曲が収録されている。

ワーナーミュージック・ジャパン
(活動停止以降)
3rd 1993年3月10日 ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション CD WPCL-735 1位
4th 1993年11月10日 たとえばぼくが死んだら 森田童子ベスト・コレクションII CD WPCL-774

東芝EMI
(活動停止以降)
5th 2003年3月5日 ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション CCCD TOCT-24979


サウンドトラック
発売日 タイトル 形態 規格品番 オリコン
最高位

ワーナー・パイオニア
(活動停止以降)
1st 1989年9月10日 映画『グッドバイ』オリジナルサウンドトラック CD 20L2-95
CT

ワーナーミュージック・ジャパン
(活動停止以降)
2nd 1993年10月10日 TBS系全国ネット金曜ドラマ『高校教師 〜禁断の愛と知らずに〜』オリジナル・サウンドトラック CD WPCL-757


タイアップ曲

楽曲 タイアップ 収録作品 時期
さよならぼくのともだち 松竹映画『オレンジロード急行』挿入歌 シングル「さよならぼくのともだち」 1978年
ぼくたちの失敗 TBS系TV『高校教師 〜禁断の愛とは知らずに〜』主題歌 シングル「ぼくたちの失敗」 1993年
TBS系金曜ドラマ『高校教師』主題歌 2003年
東宝映画『SUNNY 強い気持ち・強い愛』挿入歌 2018年
男のくせに泣いてくれた TBS系TV『高校教師 〜禁断の愛とは知らずに〜』挿入歌 アルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』 1993年
たとえばぼくが死んだら 東宝映画『高校教師』主題歌 シングル「たとえばぼくが死んだら」
ラスト・ワルツ 東宝映画『高校教師』挿入歌 アルバム『ラスト・ワルツ』
映画『GONIN サーガ』挿入歌 2015年


未発売曲
ライヴで披露していたが、レコード作品未収録となっている。

曲名 備考
バイバイともだちよ
少年の日
今日は六月一日です
水中花(真夏の夜の夢) 「サナトリウム」(『夜想曲』収録)として歌詞を一部変えて発表。
堕落の春 「自堕落の春」というタイトルで、試聴用サンプル盤LP『昭和57年7月新譜邦楽総合試聴盤』(品番:LS-121/ワーナー・パイオニア発売アーティストの楽曲を全12曲収録)に弾き語り調で収録。
同音源は1982年11月発売のアルバム『夜想曲』には収録されず未発売となり、後に「憂鬱デス」(『狼少年 wolf boy』収録)としてアレンジと歌詞を一部変えて発表。


放送メディアへの出演

テレビ番組
青春の日本列島〜森田童子 ラストワルツ〜 (1980年、東京12チャンネル)

ラジオ番組
若いこだま(1975年、NHKラジオ第1放送)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90

5. 中川隆[-11458] koaQ7Jey 2020年9月08日 03:50:16 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[6] 報告
森田童子さん死去 2018-06-12

森田童子さんが4.24に死去。JASRACの会報に掲載された。

ライナーノートを書かせてもらったことがある。私の演劇「少年極光都市」の音楽もつくってくれた。チラシに推薦文も書いてくれた。

最初、雑誌「音楽全書」にレコード評を書いた。それで交流が生まれた。マネージャーの前田さんと親しくなつたのだ。前田さんは月蝕歌劇団も見にきてくれた。イラストレーダーとして活躍した前田亜土さんだ。先に亡くなった。森田童子さんの夫だった。

森田童子さんは、私の「聖ミカエラ学園漂流記」の出版パーティに来てくれた。
「高校教師」でブレイクした。このドラマはもちろん見ていた。第一回は、私の住んでる町がたくさん出てきた。懐かしい。

全集CDが出て私のライナーノートは再録された。

彼女の歌は素晴らしかった。どこにもない才能だ。センチメンタルなとこがよかった。ともすれば、おセンチとばかにされるところで彼女は闘った。
4.24に知り合いから、亡くなったと聞いたが、にわかには、信じられなかった。本当だった。

お世話になりました。悲しい。哀悼。

https://ameblo.jp/obaqda/entry-12383080386.html

6. 中川隆[-11456] koaQ7Jey 2020年9月08日 04:08:45 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[8] 報告
1976年の荒涼と森田童子

 1976年、ぼくには食事を共にしてくれるガールフレンドもなく、考えて
いることの出口は見つからず、軽い神経衰弱にしてやられながら、ラスコーリ
ニコフのようにうろちょろしていた。春先の風邪を放置したせいで肺炎になり、
この年の後の半分はベッドの上で過ごさざるを得なかった。森田童子の歌をベ
ッドの上で聞いたりしては、ますます荒涼とした場所に落ちていく自分自身を
どうすることもできなかった。

 2・3日前、どこでなのか判らないが、確かに森田童子の歌を聴いた。
 TVでも、この1週間のうちに聴いたような気がする。信じられないけど。
uploading nifty 93.??.??

「高校教師」のテーマソングを何処かで耳にしていた私が、1976年に貴方は何をしていたか、というネット上の質問に回答している。
「高校教師」をロクに知らなかったのは、せっせと 夜学に通っていた からだ。

詩と決別したランボーは砂漠の商人になり、歌と決別した彼女は家庭に落ち着いた。83年にステージから退いたのだから高校生くらいの子供がいたって不思議ではない。
時には子供にハラハラし、時には "Lady Madonna" を口ずさみ、時にはPCに向かって「森田童子」を検索して、びっくりするほどの量が表示されて苦笑したりする。増えてきた白髪は気にせず、週2回は近くのアスレチッククラブに通い、環境保護運動に熱心に関わっている……
という風に、無名市民として穏やかな日々を送っているのだろうか。恙なしや?

この投稿を、森田童子という不世出の個性の為に、ここに掲載した。

記 01-06-15

【追記 10-07-16】

朝日新聞の記事が彼女に触れていた(5月22日)。山坂いくつもあるのが人生だと、ここでも実感させられる。
記事の中の「病」に拘ってみると、彼女は学齢からして在学中に1年の遅れが生じ、更に高校中退後3年ほど北海道で療養生活を送っている。
『さよなら ぼくの ともだち』は友人の死を契機にここで生まれたのだが、してみると、この時期からの長患いの後遺症のようにも思える。最終部分を引用したい。
『ぼくたちの失敗』が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で、「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにはあった。
しかしこの署名記事には、「森田童子」を偽名だとするのが論外だとしても(もちろん戸籍名ではないが、「偽名」とは文章のプロとして気は確かか?)、詰めの甘い箇所が少なくない。例えば「ひとり遊び」のレコーディングとCD制作(2003年)を知らなかったのだろうか。それとも判り易いプロットに当て嵌めるため意図的に無視したのか。後者であれば気持ちは半分だけ判る、といっておこう。

詞の中に飼い馴らしたかの「ぼく」や「きみ」の無数の死も、生身の人生には耐性を育まなかった。あるいは、成熟という名の感受性の劣化をこそ彼女は拒否し続けているのか。


【追記 18-07-02】

古い友人と久しぶりにメールのやりとりをしていたら、彼女の訃報がネットに流れた。私のGメール・アカウントは moritadoji.inochi で、不可思議な符合に驚いたと触れていた。まだ若いのに、と続いていたが、私としては「そうだったのか」と深く寂かに納得するものがあった。

彼女については謎が多い。公表された情報が少ないのだから当然かもしれないが、例えば誕生年や出生地は複数の情報が流れていて、どこからも訂正されず始末が悪い。

私が折に触れて参照したのは次行のサイトで、しかしながら長らく更新されておらず、いわばアーカイブ状態だ。
森田童子研究所:www.gogorocket.jp/doji/h/
また、このサイトで頻繁に登場する「犬のしっぽ」さんのサイトは既に消滅しているが有難い事に次行のミラー・サイトがあって、
「犬のしっぽ」ミラー・サイト:www.minus273.eu/mirrors/douji/
ここから彼女の年表を覘いてみよう。
52年1月15日、東京生まれ
68年、高校入学
なのだが、順当にいけば高校入学は67年だからどちらかが間違っている筈で、そうでなければ入学以前に1年の遅れが生じている。
70年、高校を中退。暇にまかせてふらふらと旅に出る。
とあるが、やはり同じサイトの、雑誌「ラジオマガジン」のインタヴュー記事によると事情は異なる。一部を引用すると、
彼女は高校半ばにして不幸にも胸をやみ,転地治療という形で3年間を北海道で過ごした。その時代,'60年代末期は学園闘争が激しく吹き荒れていた頃だった。
そしてこの記事に従うと、極めてデリケートかつエキセントリックな神経と感受性に言葉を失いそうになるが、自分の過去を捏造するとも、思えない。また、
失われた青春の残像を拾い集めて五線のキャンバスに描き続ける詩織人−森田童子 31歳。
と結ばれていて、83年1月の時点で31歳、つまり誕生年が52年である事を前提にしている。誕生年53年説の元祖は、実は JASRAC 会報に載った訃報(65歳と表示)ではないのかと睨んでいる。
記事の最後にも触れてある80年の黒テント公演はTVドキュメンタリとして放送された。下の静止画はその最終部のものだ。
写真:森田童子(もりたどうじ)、TVドキュメンタリ『夜行』より
私(わたくし)達のコンサートが不可能になってゆくさまを見てほしいと思います。そして、私達の歌が消えてゆくさまを見てほしいと思います。ひとつの時代の終わりに向けて、私達の最後の切ない夢を、見てほしいと思います。
無垢なリリシズムと甘味なセンチメントに包まれた魔法のような世界が、そこには確かにあった。


【追記 18-07-28】

ネット上には、どこからともなく、彼女が著名な作詞家の姪らしいという噂が流布されていた。なかにし礼、という固有名詞を挙げてあるものも最近では少なからず、先日このふたりをキーワードにして検索。その結果から次のふたつに注目してみた。

松風亭日乗:densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html
「なかにし礼」のコメントが作家作詞家なかにし礼本人なのかどうか。別人がそんな事をしてどんな意味があるのか私にも謎だが、ネットは何でもありというのも確かな経験則である。とした上で、「自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてる」 と断定しているのは、上に紹介した10年の朝日新聞の記事内容を踏まえれば首肯できない。
「自殺誘発ソング」の旗手だったとはいえども、近親者(配偶者であるとは後で判る)との死別、自らの病いに苦しむ有様は、バチが当たったと反省しているのではないか、とでも形容されていい状態だったからだ。

永井均 tweet:twitter.com/hitoshinagai1/status/852547262966243328
永井均はヴィトゲンシュタインを読んでいた時にお世話になった。判り易い説明で核心がストンと腑に落ちたという記憶がある。はるか昔の話だ。
スレッドを辿ると愛憎相半ばする書き込みに意表を衝かれるが、「深く深く納得した。事実は小説より奇なり!」という言葉に導かれて、なかにし礼『兄弟』を読む事に。報告は後日。


【追記 18-08-01】

文学作品として鑑賞しようとは思わなかった。私小説形式の自伝として、童子との関連で目を通した。

登場人物名でいうと、兄の次女、中西美以子が童子に該当する。それ以外に年齢的にマッチする近親者はいない。
兄夫婦は小樽、東京、青森と流れ、再び上京して、すぐ次女が生まれる。
特攻崩れを自称する兄は人格破綻者に近くなり、「事業」を目論んでは失敗して借財を膨らませ、弟の禮三(なかにし礼)が作詞家として成功した後は、「家長」として弟の稼ぎを犯罪的な手法で平然と流用する。
なかにしの2度目の結婚を契機に彼らは暮らしを別にするが、これが71年。童子デビューの2年前になる。
この後も、兄の巨額の尻拭いは6年後の母の死を経て更に2年後の訣別まで続く。ざっといえば童子の活動期間とほぼ一致する時期である。

このような係累を持つ人間なら、誰でも秘匿しようとするだろう。
この事はとてもよく判るが、彼女の父親がこの黄金を生む娘をどのように利用したか、あるいは利用しようとしたかについて、『兄弟』は全く触れていない。というよりもその前に、自分の姪が童子である事は、匂わされてもいない。
また、童子がなかにしの姪であるとすれば、阿久悠と並んで稀代の作詞家たる彼の血を引いたと、つい思いたくもなるが、彼自身の作品であるという可能性はないのか。小説より奇なり、とは、実はこのような、あるいは更に別の、この作品から離れた事情を指摘しているのではないか。


【追記 18-08-07】

この歌もそうか、あの歌もそうか、というミューズの化身のような時代が、作詞家なかにし礼には確実にあった。しかしその初期から中期にかけて、恥部とでもいうべきふたつの事件の中心人物として、彼はマスメディアの集中砲火を浴びた。「芸能界相愛図」事件と風吹ジュンへの拉致監禁事件である。いうまでもなく『兄弟』では片鱗も窺う事ができない。
前者はこの文章と関わりを持たないので省略。後者について、最も詳細に説明された記事を次行に紹介しよう。
デジタル鹿砦社通信:《脱法芸能12》風吹くジュン誘拐事件
ここに登場するアド・プロモーション社長前田亜土の名前が、童子のマネージャ兼配偶者として彼女の死後、私たちの聞き及ぶところとなった。
事件とその後の収束期間を考えれば直後といえるような時期に童子はレコード・デビューしているのだが、何故ここに犯罪的なプロダクションの社長が関わってくる事になるのか。浮世離れしたシンガーソングライターの背景に広がる闇の世界、はたまた汚濁の池に咲く白蓮、とでもいうべきだろうか。いやはや何とも。


【追記 18-08-09】

匿名掲示板の「森田童子について語りませんか Part.4」スレから。
森田童子の夫、前田亜土は
森田童子を手掛ける前に
風吹ジュンの事務所社長(アドプロダクション)だった

安月給などの劣悪条件で風吹ジュンを拘束
風吹ジュンが事務所移籍を画策
移籍先の社長を暴行し風吹ジュンを
ホテルに拉致して脅したのが
例のあの風吹ジュン事件

なかにし礼と兄が前田亜土を業界に引き入れた
アドプロダクションはなかにし兄弟が重役

森田童子の事務所、海底劇場は
アドプロダクションの次に作った事務所
事務所自体も同じマンションの部屋を
そのまま使ってた

風吹ジュンからしたら森田童子は
聴きたくない歌手だったろうね(No 564)
という事のようではあるが、
吹雪(ママ)ジュンの件についてどっちが悪かった誰が悪かったとかは別の話だからどうでもいい
問題は前田亜土の妻であった森田童子が中西正一の娘だというのは事実かどうか
もし事実ならなかにし礼の書いた『兄弟』によって森田童子の背景が少しは明らかになる(No 599)
と、理性的な意見交換がされている。好むと好まざるとに関わらず、事実を特定するような「証言」の登場も、おそらくは時間の問題だろう。

http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm

7. 2020年9月08日 04:38:50 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[10] 報告
伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった...親交のあった劇作家が素顔と音楽を語る
リテラ2018年7月4日


リバイバルヒットした森田童子の『ぼくたちの失敗』

       
 4月に亡くなっていたことがわかった森田童子。森田といえば、1975年にファーストシングル『さよなら ぼくの ともだち』を発表して注目を集め、当時の若者からカルト的な支持を受けていたフォークシンガーだが、その素顔は謎に包まれていた。本名は非公開、人前ではサングラスを外さず、アルバム7枚、シングル4枚を発表して、1983年に事実上の引退。1993年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマ『高校教師』(TBS系)の主題歌となり、シングルCDが100万枚近くのリバイバルヒットとなったが、そのときも表舞台に出てくることはなかった。

 そして、森田が伝説のまま逝ってしまったいま、その音楽をリアルタイムで感じたことのある人も少なくなっている。いったい彼女は当時の若者にとってどういう存在だったのか。そして、その素顔は......。森田の歌のファンで彼女と親交があった劇作家の高取英に話を聞いた。

 高取が森田童子と知り合ったのは、森田がデビューしたすぐあと、1976年から1977年のことだったという。

「『音楽全書』(海潮社)という音楽誌で森田童子について書いたのですが、彼女のマネージャーでイラストレーターの前田亜土さんから連絡がありまして。前田さんと親しくなって、それから付き合いが始まったんです。公表してませんでしたが、前田さんは森田童子のパートナー、夫でもあった」

 以後、高取は森田のライブに足しげく通い、ライナーノーツも執筆したり(『森田童子全集V a boyア・ボーイ』などに収録)、森田も高取の演劇の公演に顔を見せるようになった。そして、お互いの音楽、演劇に批評文を寄せ合う関係になったという。

「私が作った芝居『少年極光 (オーロラ) 都市』の音楽を作っていただいたこともあります。僕の詩に曲をつけるのに、『私、人の詩に曲つけたことないんですよねー』って言うから、『好きにしていいですよ』と、彼女のいいと思う形に変えてもらって、3曲作ってもらいました」

 高取は当時、自分たちが森田童子に強く惹かれた理由について、こう分析する。

「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1〜2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」

 全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が"弱さ"に光をあてていたことだった。

「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」

●森田童子引退の理由は? ドキュメント映像で語っていた消えていく覚悟

 また、森田は、当時、まだ根強く残っていた「男は強くたくましく」「女はおしとやかに」という性の固定観念からも解放してくれる存在でもあったという。

「当時はさまざまな価値観が大きく転換し始めた時期ではありますが、まだ、男らしさ、女らしさという意識は残っていました。そんななかで、森田童子の歌の内容は、センチメンタルというか、ある種"女々しさ"と呼ばれるようなものだったかもしれない。でも、その女々しさを堂々と歌い上げたことで、男女の性差を超えて、孤独感のある人、友人をな無くした人、運動に挫折した人、そういう、やさしくて弱虫かもしれないという人たちに響いた。『さよなら ぼくの ともだち』という歌の中にも『弱虫でやさしい静かな君を僕はとっても好きだった』という一説があるんですが、そんなことを歌う人はこれまでいなかったんですよ。強がっている人はたくさんいるけど、強い人なんて実はいない、弱虫であること、それが好きだったといってくれた」

 森田の音楽を"女々しさ"という言葉で説明する高取だが、実は森田の側も高取の作品に同じく"女々しさ"を見ていた。高取の代表作『聖ミカエラ学園漂流記』を批評する文章の中で、森田はこう書いている。

〈『聖ミカエラ学園漂流記』の高取英の劇作法は、拙い少年少女の肉声を惜りることによって、高取英の女々しい反逆の試みは、確かに不思議な説得力を持ち得た〉

 ふたりが表現で深く繋がっていたことを物語るエピソードだが、しかし、その高取も、森田の素顔についてはよくわからないままだったという。

「サングラスを取った素顔は、わたしも見たことがありません。カーリーヘアもおそらくカツラでしょうし、素顔は一切隠してましたね。プライベートなことも一切話さない。前田さんと結婚していることも、本人たちは一切話しませんでした。それに物静かで、とつとつとしか喋らない人なので、感情の動きもよくわからなかったし、曲のイメージそのままでした」

 1983年、彼女が音楽活動を引退する直前には、こんなこともあったという。

「『聖(セント)ミカエラ学園漂流記』(群雄社出版)の出版記念パーティーに来ていただいたんです。それで、『スピーチをお願いできますか?』って言ったところ、彼女はイヤだとははっきり言わないで『え、え......』って。そのあと、3分ほどしたらその場から消えていました。スピーチの話を急に言われてとまどったのでしょう、悪いことしたなって」

 森田らしいエピソードだが、それからまもなくして、森田は本当にすべての表舞台から完全に姿を消してしまった。

「引退の理由を出産とか病気とかいう人もいましたが、そういったことではなくて、音楽活動をするなかで、自分が言いたいことはもう言いつくしたという感じだったんじゃないかな。80年頃、森田童子の屋外ライブの企画から実現までを追った『夜行』というドキュメント映像があるんですが、その中で森田が『私たちの歌が消えていくさまを見てほしいと思います』という言葉を口にしています。やることをやったら消えていく、最初からそういう覚悟があったんでしょう」

 しかし、彼女の歌と記憶はそれから30年以上たったいまも、1970年代に青春を過ごした人々の心の中に強く刻まれている。7月19日には、高取も出演する追悼イベント「夜想忌 〜さよならぼくのともだち〜 追悼 森田童子」が開催される予定だ。(敬称略/高橋南平)

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_4105/

8. 2020年9月08日 05:11:34 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[11] 報告
森田童子さんの死因は?生い立ちが一切不明だったシンガーの素顔について

1976年に「ぼくたちの失敗」が大ヒットし、1970年代からシンガーソングライターとして活躍してきた森田童子。2018年4月24日に亡くなっていたことが分かりました。今回はそんな森田童子の死因を含め、生い立ちが一切不明だったシンガーの素顔について紹介していきます。


森田童子プロフィール

本名: 非公開

生年月日: 1953年1月15日

出身地: 東京都

引退後の森田童子の活動

森田童子は徹底して露出を拒み、本名などプライベートな情報は不明の謎のシンガーで、基本的にライブハウスを中心に活動をしていました。1983年までにシングル4枚とアルバム7枚をリリースし、同年に最後のアルバム「狼少年 wolf boy」を発売するとともに同年に新宿ロフトでのライブを行い、それを最後に音楽界から引退。


引退後の森田童子は結婚して主婦として子育て中心の生活をしていたと言われていますが、プライベートの実生活について徹底して秘密主義を貫いていたため、トレードマークとなっていたサングラスにカーリーヘアー以外に素顔は見られておらず、本名すら明るみに出たことは一度もないようです。

森田童子の結婚情報

森田童子は当時マネージャーを担当していた前田亜土とその後結婚して子供にも恵まれたと言われていますが、旦那は2010年に他界しています。森田童子は音楽界を引退してからは主婦として子育てをしながら生活しており、二度と表舞台には姿を見せませんでした。その理由の1つとして2010年5月に朝日新聞の取材に対し、音楽活動をできない理由として旦那である前田亜土が同年に死去したことによるショックと、持病を抱えているためと明かしています。


森田童子の死因は?

森田童子が2018年4月24日に亡くなっていたことが6月1日に報じられました。享年65歳。森田童子さんの死因は心不全だと報じられていますが、6月1日に発行された「日本音楽著作権協会(JASRAC)」の会報に訃報が掲載されていたことから明らかとなりました。森田童子の亡くなる前の様子を音楽関係者が語っており、2017年頃から体調不良のため入退院を繰り返していたようですが、退院して間もなく心不全を起こして亡くなったそうです。


森田童子の素顔って?

前述の通り、森田童子は常にサングラスにカーリーヘアーの姿を貫いており、素顔を知っているファンは誰もいません。しかしこの写真が森田童子なのではないか?といわれています。


もしこれが森田童子本人だったらかなりの美人だということになりますね。

まとめ

以上、シンガーソングライター・森田童子の死因と素顔について紹介していきましたが、最後の最後まで自身の素性を明かすことなく旅立っていきました。すでに引退しているので当然のことではありますが、訃報を機に彼女の楽曲を聴き始めた人も少なくないようです。ご冥福をお祈りいたします。

https://www.hachi8.me/morita-didoko-die-cause-death/

9. 2020年9月08日 05:42:14 : MV4tui3xYE : aWNpRDBJaUNqV28=[12] 報告
森田童子 - チィチィよ ハァハァよ


10. 中川隆[-11454] koaQ7Jey 2020年9月08日 08:51:41 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[1] 報告
男のくせに泣いてくれた


11. 中川隆[-11451] koaQ7Jey 2020年9月08日 09:00:41 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[4] 報告
森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション





1. ぼくたちの失敗
2. 蒼き夜は
3. 雨のクロール
4. 蒸留反応
5. 哀悼夜曲
6. 孤立無援の唄
7. さよならぼくのともだち
8. 逆光線
9. サナトリウム
10. 男のくせに泣いてくれた
11. 春爛漫
12. G線上のひとり
13. ラストワルツ
12. 中川隆[-11450] koaQ7Jey 2020年9月08日 09:06:42 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[5] 報告
森田童子-さよなら ぼくの ともだち





森田童子さんの1975年のライブ。
13. 中川隆[-11446] koaQ7Jey 2020年9月08日 10:54:52 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[10] 報告
セリフ入り童子


14. 中川隆[-11445] koaQ7Jey 2020年9月08日 11:15:32 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[11] 報告
森田童子 - (5th)夜想曲



15. 中川隆[-11441] koaQ7Jey 2020年9月08日 13:03:15 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[17] 報告

森田童子研究所 笠井嗣夫
http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-han1.html


1

   するとその時 軒先に咲いていた紅椿が 花首を
   析って下降した 流れ水に軽やかに身をゆだね一
   回転するとスイと流れた―真崎・守「落下流水」

〈1980年11月28日夜、北海道教育文化会館大ホール。森田童子コンサート)
 森田童子の歌をはじめて耳にしたのがいついかなる場所であったのか、具体的な情景はまったく気憶にない。気がつくと、『グッドバイ』『マザー・スカイ』『ア・ボーイ』という3枚のアルバムにじっと耳を傾けている自分がいた。おそらくそれまで無我夢中だった私の生にも70年代という時代にも、いいかげん底が見えてきた頃であったとおもう。

 森田童子の歌をはじめて聴いたときのなにか奇妙な印象は、まだはっきりと憶いだすことができる。彼女の歌は、内容も歌い方も他のどんな歌手ともまったく異なる質をもっていた。

 君の好きな強い酒
 あぴるほどに 飲み明した
 長い夜があった
 淋しく二人眠った始発の電車
 ただ陽射しだけが まぶしく
 話す言葉もなかった
 悲しく色あせてゆく青春たち
         (「早春にて」)

 ファースト・アルバムの冒頭の曲はこのように歌いはじめられる。「悲しく色あせていく青春たち」という1行は、歌詞としては平板としかいいようがないにしても、アルバムのテーマの提示としては、これ以外のことばがありえないほどぎりぎりのところで発せられている。みずからの「青春」への別れが、さまざまな具体的情景とともに歌われるのだ。たとえばこのようにやさしく、抒情的に。

 みんな夕方になると 集まった映画館
 すっかりさぴれてしまったけれど
 今夜は久しぶりに 君とロックハドソンの
 ジャイアンツでもしみじみ見たい気持だネ
         (「センチメンタル通り」)

 どこへ行くあてもなくぼくたちは
 よく歩いたよね
       (「淋しい雲」)

 札幌でのコンサート会場で、主催者から渡されたチラシ掲載の「森田童子ラフスケッチ」によると、1952年青森に生まれた彼女は、68〜70年の学園闘争の激しい最中に高校生活を送り、高校を中退。72年夏、「ひとりの友人の死をきっかけに森田童子はめまぐるしく疾風のように通り過ぎていったいくつもの青春たちのかたちを振り返ってひとつづつ思い出すように歌いはじめた」という。

 学園闘争、挫折、友人の死。激しさや深度は異なっていても、60年代半ばや70年代はじめの学生生活を送ったものたちにとって、これらのことがらはきわめて親しい体験であった。具体的な情景をともなってこうした体験が歌われるとき、森田童子の「青春のかたち」は、聴くものたちの青春のかたちと切なく重なりあう。

 玉川上水沿いいに歩くと
 君の小さなアパートがあった
 夏には窓に竹の葉がゆれて
 太宰の好きな君は 睡眠薬飲んだ
 暑い陽だまりの中 君はいつまでも
 汗をかいて眠った

 あじさいの花よりあざやかに
 季節の終りの蝉が鳴いた
 君から借りた 太宰の本は
 淋しいかたみになりました
 ぼくは汗ばんだ なつかしいあの項の
 景色をよく覚えている
       (「まぷしい夏」)

 私は森田童子よつちょうど10年はやく生まれているのだが、時間や場所こそ多少ちがっても、こうした唄はなぜかほとんど私自身の体験と重なってしまうようにおもえる。6畳1間の小さな共同アパート。カバーのとれた太宰治「人間失格」の文庫本。ハイミナールの真っ白な空き穀。そうした情景のなかで、汗をかいて眠る友人のそばにただ黙って座り込んでいた記憶が、蘇る。ひょっとして幻覚なのだろうか。だが、たしかにあれもまた、「暑い陽だまりの中」での情景であった。

 仲間がパクられた日旺の朝
 雨の中をゆがんで走る
 やさしい君は それから
 変ってしまったネ
 さよなら ぼくの ともだち
       (「さよならぼくのともだち」)
 
 けれども、このアルバムでの森田童子の声そのものは、歌詞から受ける印象ほど暗いわけではない。まるで15、6歳の少女に戻ってしまったように、のぴかかに森田童子は歌う。その理由を私は詳らかに語ることはできない。ただ、ひとだけいいえるのは、みずからの経験を唄にするとき、彼女が自を「ぼく」に置き換えているということだ。彼女は決して「私」と発語しない。あるいは発語することができない。「私は」と語りはじめることが不可能ゆえの「ぼく」ヘの仮構。それによって、かろうじて彼女の体験はことぱとなりえた。唄のなかで呼びかけられる「君」のほとんどは、「ぼく」に仮構された私(=少女)の恋人ととることができる。つまり、〈物語〉といってもよいある種の仮構によって、はじめて森田童子は挫折感という「青春たちのかたち」をいくぶん甘美に歌い出すことができたのである。

2

 1975年につくられた森田童子のファースト・アルバムには、『グッドバイ』というタイトルがつけられていた。このことには、すでに過ぎ去ってしまったみずからの「青春のかたち」ヘの彼女なりの決別の意志がこめられているとおもえるのだが、しかし実際にはそうはならなかった。「さよなら ぼくの ともだち」という別れのことばとは逆に、むしろなぞるように、あるいは抱きしめるように森田童子は「ともだち」と過去の体験を、「青春のかたち」と痛みとを歌いつづけた。そのとき彼女の歌声は、みずからの感性や情念の記憶にそって湾曲した暗闇の内側をそっと動いていき、決してそこから遠くへはいかない。

 翌年のセカンド・アルバム『マザー・スカイ』は、すざてゆく時間の形象化をテーマとしている。李節の流れと自己の生との距離感。過去の記憶から現在の時間へと表現がどう渡るか。

 あのドューユワナダンスで 昔みたいにうかれてみたい
 あのドューユワナダンスで 昔みたいにうかれてみたい
        (「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」)

 目にしみるぞ
 青い空
 淋しいぞ
 白い雲
 ぼくの鳩小屋に
 伝書鳩が帰ってこない
 もうすぐ ぼくの背中に
 羽がはえるぞ
 朝の街に
 ぼくの白いカイキンシャッが飛ぶ
 
 母よぼくの鳩を撃て
 母よぼくの鳩を撃て
        (「伝書鳩」)

 過ぎ去った時間はえってこないのだ。「いっしょに踊ろうよ」と声をかけあう友人たちはすでにいない。視えない多くの仲間たちへ向かって飛ぴ立っていったはずの〈伝書鳩〉も、もはや帰ってくることはないだろう。ついに帰ってこないだろうという苦い認識とともに、自分自身が鳩へと変身していく幻想を歌った「伝書鳩」の後半は、『マザー・スカイ』のなかでももっともすぐれた部分だとおもうが、しかしその切ない幻想さえも母という現実によって撃たれることを前提とせざるをえない。いやむしろ、鳩が帰ってこないのは〈母〉によってすでに撃たれてしまっているからである。このとき〈鳩〉とは、未来へ向かう時間ともあるいは希望ともいっていい。青い空が目にしみ、白い雲が淋しいのは、なにかがとっくに終わってしまい、喪失感としてしか残っていないせいだ。

 ところで、森田童子にとっての〈伝書鳩〉の行方について、このあたりで多少ふれておく必要があるだろう。たとえばそれは、次のようなことばと無間係ではなかったにちがいない。

  一切私達の意見あるいは行動というものをくみとることなく生きてきた人間達
  に対して、私達は自らの人間性と感性とそして主体性を奪い返すために断固と
  して斗いい抜いた(中略)。私達はそうした教師に対する反逆として、子供の
  復権をかけて、高校生の主体性の奪還をかけて、そうした腐敗した教師集団に
  対する斗いとしてす青高斗争を斗い抜いたことについて、今の時点ではっきり
  とほこりを持って確認しておさたい。
         (「裁かれるのは教師であり国家権力である」)

 1969年10月21日、東京都青山高校において、「凶器準備集合、公務執行妨害、放火」の罪名で逮捕されたひとりの高校生の、東京地裁での最終陳述の一節である。もちろん、公教育が近代における帝国主義の生み出した馴致と管理の体系である以上、個々の教員・教官が意職するしないにかかわらず、教育が抑圧の場を形成していることは明らかだ。したがってみずからの「人間性」や「感性」や「主体性」をすでに存在しかつ奪われたと認識するかぎり、ここで彼が主張するように、それらを奪い返すために反逆し、たたかうという考え自体は基本的に正しい。

 もちろん事態はそれほど明確なものではない。校舎を封鎖し、屋上を占拠し、機動隊に向かって石や火炎ビンを投げつけることで、人間性や感性や主体性が奪還されうるものでもないだろう。だが、世界とのかかわりを思想体系とも見紛がうある観念に凝縮し、その観念においてみずからの生を生きようとするものにとって、そういう醒めた認識はほとんど意味をなさない。重要なのは、自乙の抱いた観念をあくまでも生き抜いていくことなのだ。観念そのものを生きようとするこうしたラディカリズムは、究極的にはつねに敗北する。そしてそのこと自体も思想的にはさしてもんだいではない、といまの私ならおもう。観念とともに自滅し死ぬのではなく、(それといかに近似していようと)観念とともに生きることなど原理的に不可能なのだから。にもかかわらず私たちとは、不可能を生きようとする夢におもわず突き動かされてしまいうる存在でもあるとするなら、大切なのは、どの時点でいかに敗北を意識し、いかなる方法でどのように敗北を受容していくかということではないか。森田童子が、みずから生きようとしたラディカリズムをどうとらえていたのかはわからない。しかし、『マザー・スカイ』における時間を、敗死のプロセスを反芻する時間としてみることは可能であろう。

 地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた
 悪い夢のように 時がなぜてゆく

 ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
 チャーリー・パーカー 見つけたよ ぼくを忘れたカナ
 
 だめになったぼくを見て 君もぴっくりしただろう
 あの子はまだ元気かい 昔の話だね
        (「ぼくたちの失敗」)

 「ぼくたち」は、戦略や戦術の次元で「失敗」したのではない。観念を生き抜くことに挫析したのだ。ここで観念とは、未来へ向けたひとつの幻想といってもいいし、自己と世界をめぐるひとつの物語といってもいい。仲間とともに生きるはずであった物語の破れ目を現在の時間がなぜてゆき、「ぼくたち」は、「ひとり」ヘと解体されていく。連帯を求めて遠くへと飛ぴ立っていった伝書鳩が、もう決して帰ってこないのだという絶望感の向こうに、母なる空(マザー・スカイ)が日にしみる青さで存在する。

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16. 中川隆[-11440] koaQ7Jey 2020年9月08日 13:05:55 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[18] 報告

笠井嗣夫
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3

 森田童子の幻の鳩が行き着いた場析については、77年のサード・アルバム『ア・ポーイ』の最後でこのように語られている。

 ぼくたちのうちなるやさしさの
 朝明けのアスファルトの上に
 死んだ鳩の首すじの
 やわらかなあたたかさよ
       (「終曲のために第3番「友への手紙」)

 みずからのうちに、〈鳩〉がもはや死んでしまったことをはっきりと見届けながらも、死にゆくものの「やわらかなあたたかさ」をなお生々しく感受しつづけること、ここに『ア・ボーイ』におけるモチーフのひとつがある。

 春はまぼろし
 ふたりは悲しい夢の中
 君といっそこのまま
 だめになってしまおうか
 もどろうか
 もどろうか
 それとももう少し
 このまま君と眠ろうか
       (「蒼き夜は」)

 このアルバムは、メランコリックなトーンでこのように歌い出されており、この曲だけを聴くなら、挫折体験から対幻想へという一時期の学生たちのたどった典型的コースをなぞっているようにもみえる。けれどもほんとうにそうだろうか。各連のおわりが、「そそれとも もう少し/このまま君と眠ろうか」「それともこのまま/君と死んでしまおうか」「それともこのまま/君と落ちてしまおうか」とくり返されるのを耳にするとき、森田童子が単純にみずからの恋愛体験や心中願望のみを歌っているとは、私には受け取りがたい。彼女はいったいどこヘ「もどろう」と逡巡しているのか。
 
明日になれぱ/ぼくたちは/ひとり どうして/生きるだろう/君がいない/この朝は/もっと淋しい/形のない愛は/いつもぼくを/すつぬけて/いつか ひとりで/淋しい風になる
       (「君と淋しい風になる」)

 このニ曲目もまた、恋愛あるいは恋愛の喪失体験を歌っているようにみえる。だが、ファースト・アルバム「グッドバイ』において過去をふりかえったとき、彼女の歌は細部にわたるずっと日常的で実感的なイメージをともなっていたはずであり、このニ曲から受ける抽象的でとりとめのない印象とはかなり異なっている。あえて私は断定してしまうのだが、ここでの「君」とは、あくまでもラディカル(=根源的)なものを求めて生きようとする意志あるいは観念の表象と受け取れないだろうか。そうかんがえたほうが、「蒼き夜は」における、「君といっそこのまま/だめになってしまおうか/もどろうか/もどろうか」以下の歌詞の意味が鮮明になる。
 このアルバムのもつ哀切な情感は、恋愛体験を表層的モチーフとしながら、どうじにラディカリズムという観念との別れあるいは喪失の感情が歌いこまれていることからくる。「明日になれば/ぼくたちは/ひとり どうして/生さるだろう」ということばには、信じようとしたもの(=ラディカリズムとしての観念)と別れて日常へともどっていかざるをえないものの深い喪失感がある。そのとき、「淋しい」かれらに残されているのは、ただ「軽やかに踊る」ことだけだ。70年代検半から80年代前半にかけて活動した森田童子という歌手のもつユニークな位置と、10数年の月日を経た現在において彼女の歌を感受するときのむずかしさの理由とがここにある。
 恋愛の相手である「君」がひとつの観念でもあるということ、いいかえると、ある観念が肉体的な感覚として感受されるという体験がありうること。このことを了解しないかざり、60〜70年代の体験も森田童子の歌も、たんに〈暗い〉という曖昧かつきわめて情緒的なものとしてしか受け止めえない。だが大切なのは、〈暗さ〉の理由なのだ。

  ぶるえているネ

 ぼくの
 てのひらで
 君はぶるえているネ
 ぼくの
 やさしい
 手の中で
 このまま 君は 死ねばいい
 飛べない ぼくの あげは蝶

 以上のことを前提としたうえで,3曲目のこの曲を聴くとき、モチーフは明瞭であろう。ここではすでに「君」とは、恋い人とは関係のない一羽の飛べない「あげは蝶」と変わっている。手のなかの飛べないあげは蝶。生き抜くことのできなかった。ただふるえているだけのみずからの観念。それに向かって、「死ねばいい」とやさしくつぶやくとき、「森田童子」的存在にひとつの結末がおとずれる。青春はおわったのだ。

 海へ行くには
 どう行くのですか
 それから ぼくは
 どう生きるんですか
      (「ぼくを見かけませんでしたか」)

 ある種の観念を身体感覚として感受してしまう性行をもったものにとって。みずからが抱いていた観念の死は、自身の死とほとんどかさなりあう。これ以後の曲で死がより直裁に歌われるようになるのは、いわば必然である。

 夏草の上に
 ねそべって
 いま ぼくは
 死にたいと思う
      (「G線上にひとり」)

4

 けれども、自己のうちなる観念の死を自覚することと、自身の死を望むこととは、順序よくひとを訪れるのだろうか。人間の意識構造は観念と身体との間係においてあまり論理的とはいえない。個の意識にとって可能なかぎり論理的であろうとつとめたとしても、このふたつが時間的な順序を追って自身に継起するとはかぎらない。観念の死を自覚する以前にすでに自己の死は望まれていた、ということだってありえないわけではないのだ。

 淋しい ぼくの部屋に
 静かに 夏が来る
 汗を流して ぼくは
 青い空を 見る
 夏は淋しい 白いランニングシャツ
 安全カミソリがやさしく
 ぼくの手首を走る
 静かにぼくの命は ふきだして
 真夏の淋しい 蒼さの中で
 ぼくはひとり
 やさしく発狂する(「逆光線」)

 たとえばセカンド・アルバム「マザー・スカイ」におさめられたこの曲は、カミソリで手首を切って自死をはかる行為が歌われている。真夏の孤独な部屋のなかでのその光景は、しかし歌として聴くかぎり、「安全カミソリがやさしく/ぼくの手首を走る/静かにぼくの命は/ふきだして・・・」といった部分でさえ、なぜかそれほど凄惨な感じを受けない。むしろいくぶんメランコリックでさえある。メランコリックに、抒情的に、自死のくわだてと発狂とが歌われる。カミソリによる自殺行為の苦痛や悲惨さ、発狂の醜悪さといった具体的な細部をきれいに捨象したままで。この印象から私が感じとるのは、次のようなことだ。つまり、こうした体験を実際に経験したか否かにかかわらず、森田童子にとっては、死も狂気もきわめて観念的な性向を帯ぴたものであり、観念との別れや観念の死が訪れる以前に、彼女の内部には死や狂気がこれまた観念としてあらかじめ育まれていたのだということ。それにしても、ひとはなぜ自分自身の死を望むのだろうか。この世に生をあたえられたものがみずから生の消滅を望むことは、決定的な背理ではないのか。ガリマール版『マラルメ詩集』の序文として書かれた「マラルメ(1842-1898)」におけるサルトルは、この問題について、簡潔ながら根源をおさえた視点を示してくれる。

  有限の存在様態にとっては、世界は不断の出遇い、偶然の不条理な継起のよう なもとのしてあらわれる。もしもこれが真実であるならば、わたしたちの理性の 根拠もわたしたちの心情の根拠と同じくらい狂おしいものであり、わたしたちの 思考の諸原則もわたしたちの行動の諸範疇もぺてんに他ならない。人間とは実現 不可能な一場の夢である。(平井啓之)

 ことさらいうまでもなく、ここでサルトルが前提としているのは、西欧的理性がみずから手を下して殺した神の不在である。もし、「一切を認識する悟性」がいまだありうるとするなら、事態はまったくべつなものとなっていたし、マラルメという詩人の誕生もありえなかったかもしれない。いずれにせよ、神の死あるいは人間の出現によって永遠は時間となり、無限は偶然となった。かくて、私たちの存在が偶然の不条理な継起によるものでしかないとしたら、サルトルがマラルメに寄り添いつついうごとく、「人間とは実現可能な一場の夢」にすぎないだろう。
 サルトルはさらに、マラルメがつねに自殺を考えていたというやや独断的ともいえる断定を持ち出して、この極北の詩人をめぐるサルトルー流の興味深い物語を紡ぎ出すのだが、さしあたってここでは、人間の不可能性という仮説をとりだしておけばそれでいい。私はここで自殺意識にかかわるもうひとつの〈物語〉にふれておこう。
 森田童子の歌声を耳にしながらしばしば私の脳裏に想いうかぶのは、真崎・守の長編劇画『共犯幻想』(原作斎藤次郎)の幾場面かであった。60年代末の闘争の季節に、校舎を封鎖し、時計台を占拠し、最後まで機動隊に徹底抗戦して逮捕されていく4人の高校生とその周辺のひとぴとを描いたこの作品の中心テーマは、この4人が、やがて確実に逮捕され、社会的に困難な状態に追い込まれることは充分に知っていながら、なぜみずからの退路を断ち切り占拠を貫徹しえたかということにある。もちろん作者たちは、あらかじめ4人のヘルメットにそれぞれ異なるマークを描くことによって、セクト的な諸要素すなわち政治路線や組織によって彼らが連帯しているのではないし、その場かぎりの感情につき動かされているのでもないことを示す。
 機動隊の封鎖解除を翌朝にひかえた前夜、4人はそれぞれの過去を語ることによって、行為の根拠をあかそうとする。たとえば、ビアニストをめざす幸夫の指が機動隊のジュラルミンの楯によって切断された経緯を聴いた涼子は、「ちぎれたのは、あたしの指だった。あの時ほんとにあたしの指は、気が遠くなるほど痛んだのよ」と叫ぶのだが、そのとさ幸夫の過去は〈いま)として生成し、個的な体験が痛みをとおして複数の他者と共有されることになる。このように、この作品は4人の高枝生における〈共犯〉の根拠をくまなく探ろうとする。「手錠が4人の手を縛る。8本の手、なぜかその掌はきつく握りしめられている」という逮捕の場面まで。そしてその後もなお。
 けれども、この作品の中の中心となるのは矢吹竜彦の(物語〉である。羽化したキアゲハの翔ぴたつのを見た小学生の竜彦は、とるにたりない卑小な存在にもかかわらず翼をもっているキアゲハの最初の飛翔に荷担することを決意して昆虫採集をやめ、幼虫のうちに、すなわちいちども翔ばないうちに標本にしてしまうようにと教える教育実習生をストックで刺す。これが抗戦前夜の竜彦の語った物語である。だが、やがて少年鑑別所調査官の手によって嘘はあぱかれる。事実は、キアゲハを見たときからこそ竜彦の蝶狂いははじまったのだし、刺した相手は実習生ではなく、おのれ自身なのであった。

 自分たちのひとりひとりが自分という檻に閉じこめられているのだと竜彦はおもう。檻はどこまでいっても檻である。翔ぶべき空はどこにあるのか。翅をもち自由に空を翔ぶことのできる蝶をそのとき奄彦は嫉妬するだろう。森田童子は「伝書鳩」という曲で、視えない仲間たちに想いを伝えるために飛ぴ立っていった行方不明の鳩への変身を幻想した。一方で、竜彦は蝶たちを殺し、自己をも否定しようとする。彼が時計台に立て篭もったのは、塔の上から向こう岸へと跳ぶためである。橋のもつ水平さは向こう岸への最短距離を越えるだけの意味しかないが、塔は向こう岸がないという恐怖をモチーフとして天空に向かう。存在しない向こう岸へと跳ぶとき、〈跳ぶ〉は〈翔ぶ〉になる。これが竜彦のあやうい論理であった。

http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-han2.html

17. 2020年9月08日 13:16:29 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[20] 報告

伊藤重夫/宮岡蓮二 
森田童子との出会い
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伊藤●今日は森田童子について話そうということで、アルバム聴きながらゆっくりやりましょうか。

宮岡●森田童子を聴くのは久しぶりです。以前は毎晩のように聴いていたけどねェ。

伊藤●毎晩ね、たしかに夜聴く歌だよね。それもひとりで。

宮岡●どういう形で話を進めましょうか。今ここで森田童子について語るのは、「いまさら何を」と言われそうですが……

伊藤●というよりも、森田童子について今まで誰もきちんとした形で語っていないうことがまずあると思います。僕は宮岡君と時々話してはいたけど、それすら断片的なその時々の印象について語す程度だった。

宮岡●そうですね、確かに森田童子について誰もちゃんと語っていない。しかし誰もきちんとした評価をしていないということについて怒る、という気はまったくない。それはそれでいいような気もします。ただ伊藤君が今言ったように、森田童子の歌が好きだった僕たちの間ですらちゃんとした話をしていない。それを今できれば、ということですね。

伊藤●では、森田童子との出会いから始めて、なぜ僕たちが彼女の歌にこだわり続けるのかという形で話しを進めましょう。まず、宮岡君の森田童子との出会いから。

宮岡●僕が森田童子を知ったのは何年くらい前だろう、もう15年近くにもなるんだろうね、「ぴあ」で例のサングラス をかけた広告を見て、「これは何だろう」と思ったのが最初の出会いだったように記憶している。

伊藤●僕が初めて森田童子を聴いたのは、たしか大きな古くさい喫茶店の有線でだったと思う。その前から宮岡君に勧められてはいたんだけどなかなか聴く機会がなくてね。流れていたのは「海を見たいと思った」で、それがすごくよかった。今までにない歌だと思った。極めて個人的かつ文学的な歌だなあというのが最初の印象ですね。それと、他のいわゆるシンガー・ソング・ライターとの違いがすごく大きいと思つた。

宮岡●「海を見たいと恩った」は一1枚目の「Good Bye」の中の曲ですね。あの歌を、そんなところで思いがけず聴いたのが初めての出会いとは、うらやましいかぎりだね(笑)、しかし、他の歌い手との大きな違いというのはどういうことなんだろう。森田童子の歌がきわめて個人的といっても、あの当時はみんな個人的なというか、私性 の強い歌ばかり歌っていたわけでしょ

伊藤●たしかに当時の多くのシンガ−・ソング・ラィターが歌っていたのは、私性の強い歌だったけど森田童子とはその内容が明らかに違う。それはさっき宮岡君が言っていたこととつながるんじゃないかと思うけど。その当時、メッセージソングから個人的な歌へという大きな流れがあって、そういった流れに無自覚に乗った連中が歌う「私性」と、現実の自分目身の体験と真撃に向き合わざるを得ないところから歌い出した森田童子の「私性」はまったく質が違う。

宮岡●そうすると、伊藤君も僕も同じようなところで森田童子からショックを受けたことになるね。彼女の「私性」についてはまたあとで触れるとして、音楽的にはどうなんだろう。なにしろ僕は脳の左半球でしか歌を聴いてないと批判されるくらいだから(笑)。

伊藤●音楽的というんじやないけど、彼女の声の質ね、これは他のシンガー・ソングライターと較べてかなりオリジナリティに富んでいたと思うね。

宮岡●声の質ですか……いつか伊藤君は森田童子の声を「これはアグネス・チャンの声だ」と言ったように記情しているんだけど……。

伊藤●そうだったかなあ、そうだ在あ、アグネス・チャンの声です。でも、自覚したアグネス・チャンの声なのですね。

宮岡●「自覚したアグネス・チャンの声」?

伊藤●ここでアグネス・チャンを批判してもしかたないけど、かわいいだけしかとりえがなかったアグネス・チャンと同じような声でありながらどこか違う。それは多分、彼女の詩、曲、歌い方のすべてから来るものだと思います。強いて声だけ取り上げるなら、アグネス・チャンと変わらないけど、その声を必要とするなにものかに、あるいは必然に裏打ちされた声だということです。

宮岡●なるほど。森田童子のかぼそく澄んだ美しい声は、彼女の歌わざるを得ないというギリギリのところから発せられた声だということですね。わかるような気がします。

伊藤●僕たちは若いころ、徴妙なニュアンスの違いを敏感にかぎ分けて音楽を聴いてきたと思うんだよね。それはさっき言ったように詩∴曲、歌い方、声それらすべてをふくめてだったわけだけど、森田童子の歌はその中で決定的に他の誰とも違った、と言えると思います。

宮岡●声が声だけでひとり歩きするのではなく、また同様に詩も曲もすべてがそうであって、それが一体となった時、はじめて歌が力をもつということですね。僕たちは気軽に「あ、これはいい声だな」などと言ってしまいますが、それは単に声だけの間題では在いのでしょうね。伊藤君の言う、微妙なニュアンスの違いを敏感にかぎ分けるというのは、森田童子とアグネス・チャンの場合を考えるとよくわかります。森田童子のあの声は、多分彼女が本来的に持っていた声だろうけど、彼女の体験の中から必然的に「歌声」として再生したのでしょうね。

伊藤●僕はさっき彼女の声がオリジナリティに富むという言い方をしたけど、美しい声というだけではないんですね。「美しい声」だけを間うのであればそんなもの他にいくらでもいるわけです。僕は彼女の「歌声」の中にはらまれているもの、それが間題なのだと恩います。僕も宮岡君も森田童子にこだわらざるを得なかった、いや、いまだにこだわっているというのはそのあたりですよね。

宮岡●そうだと恩います。

森囲童子の歌は友情の歌か
宮岡●森田童子はファースト・アルバム「Good Bye」から七枚のアルバムを出しています。これは余談だけど、この対談にさきがけてアルバムそれぞれをひっぱり出していろいろ調べようとしたんだけど、レコードっていうのは発売日も書いてないんだね。これはぢょっと驚きでした。

伊藤●そういうのってこまるよね。調べようがないからね。

宮岡●それでもなんとか制作の順番はわかったんですが、「Good Bye」に始まって「Mather Sky」(君は悲しみの青い空をひとりで飛べるか)、「ア・ボーイ」、「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音撮ライブ」これは一78年7月29日のライブだとわかっています。そして「ラスト・ワルツ」、「夜想曲」、最後が「狼少年」となっています。「夜想曲」と「狼少年」の間に自選集として「友への手紙」というのがありますが、主要には6枚ということですね。全体を通してみると、徴妙に変わっていっていますね。

伊藤●そうだね、声も曲も詩の内容も……。僕は最初の二枚、「Good Bye」と「Mather Sky」が特に好きなんだ

宮岡●僕もこの二枚は好きですね。それと「東京カテドラル聖マリア大聖堂」のラィブ盤。もっとも他のもみんな好きなんだけどね(笑)。しかし、この最初の二枚に森田童子のすべてがその後の変化の方向性を示唆するものも含めて入っているように思います。

伊藤●確かにそうですね。

宮岡●伊藤君が初めて聴いたという「海を見たいと思った」の詩がここにあります。

     

        注 歌詞カード等で「海を見たいと思った」の詩を見て下さい。
          著作権協会の許可がとれしだい歌詞をアップします。
 

これは恐ろしいほどの絶望の歌ですね。この曲が入っている「Mather Sky」には「僕たちの失敗」に始まって「今日は奇跡の朝です」まで10曲が収録されているのですが、多分この1枚のアルバムだけで森田童子の精神の軌跡がわかると恩います。そういう意味では非常に完成度の高いアルバムではないでしょうか。

伊藤●僕は森田童子の第一印象を文学的と言ってしまったけど、多分この言葉は音楽をやっている人たちにとってはほめ言葉じゃないよね。でも文学的と言わざるを得ないように感じます。

宮岡●どういうことでしょう?

伊藤●詩だけをとりあげても…、僕の気持ちを十分には伝えられないけど、この短い詩の中に、僕は彼女の夢と絶望をあますことなく見ることができます。そしてそれが「歌声」となった時、今までにない歌による感動を呼びおこします。他の歌い手では決して不可能な深い感動です。それはすぐれた文学作品を読んだ時の感動にきわめて近い。

宮岡●ということは、歌の持つ一過性の感動ではなく、文学のもたらす持続的な感動という意味でしょうか。

伊藤●ウーン、ちょっとニュアンスが違うけど……そういう意味もあるだろうね。ちょっと言葉ではむずかしい(笑)。宮岡君はこの「Mather Sky」で、森田童子の精神の軌跡がわかると言いましたね画僕も確かにそう患います。しかし、その前の「Good Bye」こそ宮岡君は問題にしたいんじやないですか。

宮岡●実はそうです。(笑)「Good Bye」は「Mather Sky」のような完成度はないけれど、彼女の歌わざるを得ないという気持ちが切実に伝わってきます。こう言い切ってしまっていいのかどうか、ちょっと蹟踏するんだけど、これは60年代後半から70年にかけの高校生運動の総括ではないか……と

伊藤●言い切っていいんじやないですか(笑)。宮岡君は自分の総括と森田童子の総括を重ね合わせたいと……

宮岡●いや、それは違う,僕はこういった情緒的な総括とは…

伊藤●冗談ですよ、何慌ててんですか(笑)。しかし、今宮岡君は「情緒的な総括」と、否定的なニュアンスで発言しましたね。

宮岡●いや、否定的ということはないですよ、ただ僕の……

伊藤●またムキになる(笑)。正直に話しましょうよ。でも、情緒的だというのはわかります。ぼくもそういう印象を受けました。

宮岡●例えば曲のタイトルをいくつかあげてみましょう。「センチメンタル通り」「淋しい雲」「さよならぼくのともだち」「海を見たいと思った」「男のくせに泣いてくれた」「海が死んでもいいョって鳴いている」……すごく情緒的だよね。

伊藤●その「情緒的」というのはひとまずおいておくとして、森田童子の歌は高校生運動の総括ではないかというところにもどりましょう。

宮岡●詩を読んでいくと、「六月」や「キャンパス通りが炎と燃えた」という言葉にぶつかります。これは60年代後半から70年代前半の状況でしょう。で、いわゆる全共闘運動を歌っているのか、といえば決してそうではないんですね。「六月」や「キャンパス通り〜」という言葉とともに、密度の高い人問関係が見えてくる。それも若々しいというより幼い感じのね。最初に僕は、森田童子は自分たちの闘いが潰されていく中で歌わざるを得なくなったのではないかと言いましたが、闘いが潰されるというのは、白分たちが築き上げてきた、あるいはこうであろうとした、人間と人間の十全な関係が破壊されることに他ならないわけで、彼女はその悲痛な想いを歌っていると思うんです。あるいは、その再生を願って歌っているのかも知れませんが…

伊藤●それはよくわかります。で、それがなぜ高校生運動の総括なんでしょう。ちょっと意地の悪い質間になるけど……

宮岡●たしかに意地が悪い(笑)。多分それは僕の感覚的な問題かも知れない。

伊藤・そこで「情緒的な総括」にもどるけど(笑)、実は宮岡君はそこに高校生運動だという根拠を見たんじゃないかね。もちろんこれは皮肉じやないよ。宮岡君の総括は情緒的なものではなかったかもしれないけど、高校生運動を闘った人たちはそういう総括に至る他なかったんじやないだろうか。当峙、高校生運動が全国的に拡大したとはいえ、大学の全共闘運動の比ではなかった。やはり圧倒的に少数派だったわけでね。

宮岡●その通りです。全共闘運動は大衆運動だったのですね。したがって批判を覚悟寸でいえば、一部を除いてその総括も割合楽だったと思います。

伊藤●今僕の周りを見回しても、けっこういい会社に勤めてて「イヤー、昔はこれでも全共闘やっててね−」なんて連中がいますからね。それだけ楽に変われたんですよ。しかし、高校生の場合はそう簡単じゃなかったと思います。

宮岡●伊藤君が指摘したように、高校生運動が「情緒的な総括」に至る他なかったのは事実だと患います。僕が森田童子の歌を「高校生運動の総括」ではないかと見るのも、恐らく伊藤君の言うとおりその「情緒的」なところに根ざしているのかも知れません。森田童子が高校生運動をやっていたのかどうか、確かなことは本当はわからない。しかし、彼女の歌の中に僕は僕自身が当時感じていたことや考えていたことを、容易に見いだすことができます。だから「高校生運動の総括」ではないかという言い方をしたのですが…。

伊藤●確かに森田童子が高校生運動をしていたのかどうかはわからない。でも、それはどうでもいいと恩います。宮岡君の言うとおり、これが学生運動や全共闘運動の歌ではないことだけは確かです。

宮岡●高校生運動というのは全共闘運動などと比べ、明るさというか解放感はあまりなかったわけで、どちらかというと開塞感が強い。それは伊藤君が言ったように、やはり少数者の運動である他なかったからだと恩います。横への広がりではなく、縦の系列化による(党派による系列化と言ってもいいのですが)開塞感があった。それが密度の高い人間関係として現われてくるだろうし、また反面、全人的な関係のありようへの模素にもつながっていっただろうと恩います。

伊藤●森田童子の歌の原点はそこにあると宮岡君は考えるわけですね。

宮岡●ええ。もちろんそんな窮屈なものだけではないでしょうけどね。

伊藤●とすると、宮岡君が森田童子にこだわるのは、やはり彼女の歌に自分自身の総括を重ね合わせようとしているからじやないですか(笑)。

宮岡●そうかなあ、必ずしもそうだとは思わないけど……。

伊藤●今度はえらく弱気ですね(笑)。それはともかく、僕も宮岡君が言ったことはよくわかります。僕が彼女の歌に惹かれたのも、多少の違いはあってもその辺りが原因だと思います。自分自身の全存在をかけたあの時代の闘いを経て、そのことを正面に見据えて彼女は歌っていたのですから。

宮岡●そういう歌は他になかったもんねえ。ところで、森田童子の歌って暗いんだろうね…

伊藤●な、何ですか突然(笑)。暗いですよ。暗いといえばこれほど暗い歌はない。でもね、うそくさい明るさ、例えば悲しい失恋の歌でさえ明るい声で歌い上げるか、あるいは逆に鼻持ちならないくらいに感傷的に歌う連中ばかりだったのですよ。暗いという批判があるなら、それはあの時代誇っていいことではないでしょうか。

宮岡●たしかにそうですね。

伊藤●宮岡君はさっき「幼い」という言葉を便いましたが、ちょっとニュアンスは違うけど僕もそれに似たことを感じました。

宮岡●どういうことでしょう。

伊藤●森田童子の歌はすべて友情の歌なんですね。

宮岡●友情の歌……。

伊藤●ええ、友情の歌です。これは恋愛の歌ではありませんね。

宮岡●「友情の歌」ねえ……。恋愛の歌もあるんじゃないですか、例えばこの「Mother Sky」の「ピラピタール」。

     

         注 歌詞カード等で「ピラピタール」の詩を見て下さい。
           著作権協会の許可がとれしだい歌詞をアップします。

伊藤●それも友情の歌でしょう。森田童子の詩には「僕」と「君」という言葉がよく出てきますね、彼女が「僕」と言い「君」と語りかける、これはすごく新鮮な響きがあったんですが、その関係のありようがちょっと判然としなくて、理解しにくかったんだけど、「友情の歌」という視点から見るとよくわかるんですね。

宮岡●なるほど。

伊藤●宮岡君は、彼女の歌は失われた十全な人間関係に対する悲痛な想い、あるいはその再生の願いだと言ったけど、その関係自体が僕には友情だと思えるんです。

宮岡●森田童子の歌を「友情の歌」として聴けば、確かにそうですね。すべて「友情の歌」かも知れません。

伊藤●「友情」、それも子供の頃、男の子が持つ理想の友情じゃないでしょうか。

宮岡●ふ−む。そう言われれば思い当たることもあります。僕の友人が、(これはゴリゴリの感派の人間でしたが)森田童子の歌を聴いて、フフンと笑ったことがあります。彼は多分、人と人の関係が友情で成り立つのかと言いたかったんでしょう。そこに友情という言葉は出てこなかったけど、彼はそれを見抜いていたのでしょうね。

伊藤●多分そうでしょう。彼にとって人間と人間の関係とは男と女の関係、すなわち恋愛だったんだろうと思います。それはそれで間違いではないけど、森田童子が人間と人間の関係のありようを「友情」として歌おうとしたということ、それも僕はよくわかるような気がします。

宮岡●男の子の理想の友情、それが森田童子の歌だとしたら、二重の意味で彼女の絶望は大きかったと言わざるを得ませんね。

伊藤●僕もそう思います。森田童子のあの美しい声の裏には、絶望があったのだと思います。

森田童子の精神の軌跡。
宮岡●森出童子がその絶望の果てで歌ったのが、さっき引用した「海を見たいと思った」だったろうと恩います。この歌が入っている「Mother Sky」はさっきも言ったように、彼女の精神の軌跡が、非常によくわかる。最初の曲「ぼくたちの失敗」ではこう歌っています。

 

        注 歌詞カード等で「ぼくたちの失敗」の詩を見て下さい。
          著作権協会の許可がとれしだい歌詞をアップします


この曲に始まって、「今日は奇跡の朝です」で終わるわけですが、このアルバムを聴いて伊藤君はどんな印象を受けました?

伊藤●今詩を引用した「ぼくたちの失敗」ね、これはやはり幼いというか、ういういしい、傷つきやすい感受性のようなものを感じました。すごく繊細な感受性というか……。宮岡君風に言うなら人と人の十全な関係を求めながら、全うできなかった痛みということになるのでしょうが……。

宮岡●そう言うとまるで僕がゴリゴリの理屈だけの人間みたいじやないですか(笑)。

伊藤●そんな意味じゃないけどね。「ぼくたちの失敗」から「今日は奇跡の朝です」に至る過程は、彼女の魂の遍歴と言ってもいいと思います。人間と人間が本当にわかりあえる世界を求め続ける旅と言ってもいいでしょう。もちろんその前に、「君のやさしさにうもれていた弱虫な僕」の自立の旅でもあると思います。

宮岡●確かにそうですね。「ぼくたちの失敗」で歌われているのは、幼い、それゆえにきわめて繊細な心が感じる痛みであったと患います。その痛みに自覚的であろうとすること、それが自立への過程であるだろうし、自分自身が何者であるのかを知ることでもあるだろうと思います。

伊藤●しかし、「海をみたいと思った」ではもっと大きな痛み、もっと深い絶望が歌われています。「僕」とは何者であるのか、あるいは人と人を本当に結び付けるものは何なのかを求めてたどり着いたのは絶望の暗い海でした。

宮岡●「ぼくたちの失敗」で歌われているのは、単純に言えば最初のアルバム「Good Bye」の世界ですね。「Good Bye」が伊藤君の言うように友情の歌であるとするなら、友情として成立した、あるいは築き上げようとした人間関係、それは世界との関係と言い換えてもいいと思うのですが、それが壊されていく中での悲痛な叫び、再生を願う歌として「Good Bye」はあったと思います。彼女が失った世界は、身も蓋もない言い方をすれば、青春の一時期誰もが持つ感情であったかも知れない。でもそれを一過性のものに終わらせない苦闘が、森田童子にとっては歌うことだったのではないでしょうか。その苦闘(この言葉は彼女の歌声に似つかわしくないけど、他に適切な言葉が見つかりません)の結果こそ「Mather Sky」だったと思います。

伊藤●すると宮岡君は、森田童子の本当の苦闘は「Good Bye」以降に始まると恩うんですね?。

宮岡●ええ、そうです。

伊藤●確かにその通りかも知れません。でも、だからといって「Good Bye」が輝きを失うことはないと思いますね。

宮岡●もちろんそうです。

伊藤●「Good Bye」で森田童子が歌った世界、それは青春の一時期の感傷と紙一重のところにあると思います。しかしその差、僕たちが見極められるそのわずかな差は、当峙のほかの歌い手たちと彼女を遠く隔てていると思います。「Mather Sky」で森田童子は魂の放浪とよんでもいい遍歴を歌っています。昔、友情で結ばれていたであろう人たちとの再会と別れ。季節の中でたゆたう自分自身の姿……。確かに苦闘という言葉は似つかわしくないけど、苦闘以外の何物でもないでしょうね。

宮岡●僕はその苦闘こそ評価したいと思います。多分こういう言い方は歌についての発言としては一方的なのでしょうが……。

伊藤●相変らず悩の左半球で音楽を聴いているわけですね(笑)ところで「Mather Sky」の最後の曲「今日は奇跡の朝です」を宮岡君はどう聴きました?

宮岡●ウーン、難しい質間ですね。

伊藤●僕はちょっとわからないところがあるんです。「ラスト・ワルツ」に入っている「グリーン大佐答えてください」もよくわからない。やはり「今日は奇跡の朝です」と同じようなところでひっかかるんですね。

宮岡●誤解を承知で言えば、「今日は奇跡の朝です」も「グリーン大佐答えてください」も何か宗教的なものを感じますね。

伊藤●実は僕もそうなんです。この「Mather Sky」に続くアルバムも東京カテドラル聖マリア大聖堂でのライブですね。

宮岡●他者との十全な関係を求めた苦闘の果て、深い絶望の果てにたどり着いた再生の道が宗教による救済だったのでしょうか……。

伊藤●このことはまた別の機会に考えてみましょう。

最後に
伊藤●長々と森田童子について話してきましたが、僕も宮岡君もまだ相変らず森田童子にこだわっているということが確認できただけの対談になってしまったかも知れません。

宮岡●もしそうだったとしてもそれは仕方のないことかも知れません。僕たちは自分自身の生のありようもまだつかみ切れていないのですから。それがわかったとき初めて森田童子についても語れるのではないかという気がします。もっとも、10年前だったらもっと話すことがあったかも知れない…。

伊藤●そんな淋しいこと一言わないでください(笑)。森田童子にはまた頑張って歌ってもらいたいと思っているんですから。

宮岡●そうですか。でも僕はまた歌ってくださいとは言えないのですが……。

伊藤●僕が彼女にまた歌って欲しいのは、森田童子のような歌い手が青春のある一時期、それも5〜6年しか歌えないということが悔しいからでもあるんです。

宮岡●確かにそうですね。でもまた森田童子の新しい歌を聴くのはちょっと怖いような気もしますね。


 ●この対談「森田童子をめぐって」は森田童子がレコーディング、コンサートの活動をやめて、6〜7年になっていた90年の10月、劇画評論家の宮岡蓮二が、神戸の僕の仕事場ロケット・スタジオにやってきて、森田童子のLP、CDを聞きながら3〜4時間にわたって行いました。。そして北冬書房発行の「夜行」17号に掲載されました。僕はとりとめない話ししか出来なかったのですが、このような対談としてまとめたのは宮岡蓮二のおかげです。今読み返してみると、僕の森田童子の聞き方には、ずいぶん、恥ずかしくなります。とくに「森田童子の歌はすべて友情の歌だ」という強引な主張は、正しくはないのですが、当時の僕の聞き方で僕の漫画のテーマにもかかわることだったので…。(伊藤)

http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-taidan.html

18. 2020年9月08日 13:38:55 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[21] 報告

JOJO広重(ミュージシャン、前衛的パンクバンド「非常階段」)さんによるレコード・レビュー
http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-hirosige.html


日本ロック&フォークアルバム大全1968-1979
銘板100選+アルバム・ガイド650
(1996年 音楽之友社発行 1600円 ISBN4-276-96023-1C9473 P1600E)より


グッド・バイ
森田童子
(原盤ポリドールMR-5071)
収録曲
●早春にて●君は変わっちゃったネ●まぶしい夏●雨のクロール
●地平線●センチメンタル通り●淋しい雲●たんごの節句
●驟雨(にわかあめ)●さよならぼくのともだち

JOJO広重●text by JOJO HIROSHIGE

 友人の自殺をきっかけに歌いはじめたという森田童子は、75年にこの衝撃的なアルバム「グットバイ』でデビユーする。透き通るように清い声、学生運動が敗北した後の時代を生きる「若者」の空漠感を象徴的に描いた歌詞、真っ黒のサングラスと中性的なルックスは、消えゆく70年代の重さと、80年代の空虚な明るさの裏に潜む暗い本質を凝縮したような、聞く者の心に突き刺さる歌と相まって、非常に鮮烈なシンガーとして歴史に名を刻むことになる。 

 このアルバムには、彼女が引退するまでライヴで長く歌われた「地平線」映画『オレンジロード急行』で劇中歌に便用された「さよならぽくのともだち」、故郷を旅立つ者にはあまりに衰しい「センチメンタル通り」等、彼女の歌に魅せられた者なら一生涯忘れ得ない曲が多く収録されている。ある意味で彼女の本質的な孤独、人間の存在自体の淋しさ、郷愁への冷徹な視線が凝縮された作品であると言えよう。早川義夫が日本人男性シンガーの最も重要なキーマンであるなら、女性シンガーの最も重要かつ神聖な位置に森田童子は存在し、このファースト・アルバムは、その基本となる聖書のような作品であった。

 歌の中に心の痛みを歌ったシンガーは多いが、森田童子のように、だれもが若かったことを思い出させるような、心の底の何かを引き剥がす強烈な淋しさを感じさせる歌手は他には存在しない。今生きていることの嘘臭さ、自分という存在の空っぼさ、友人や恋人との別れや喪失感を一度でも感じることの出来た人間なら、森田童子の歌に、自分の内側の大切にしておきたい気持ちの何かを発見することが出来たのである。当時このアルバムを購入した者は、このEマイナーの多いギタ−・アルペジオや、あまりに切ないヴァイオリンの旋律、彼女の声の抑揚まで記憶するほど、それこそLPが擦り切れるまで間いたに違いないのである。ひそしてその哀しさに裏付けされたやさしさ、その重さは、単にフォーク・シンガ−としてではなく自分の青春や気持ちの象徴として彼女をとらえる十二分な理由になったのである。近年テレビドラマで森田童子の歌が主題歌に使われた時、当時のリスナーは誰よりも精神的ショックを受けたはずである。20年前の気持ちを掘り起こされた者にとって、今間く昔の童子の歌ほど、本当に哀しい歌はないからだ。そして、当然のように彼女はマスコミの前に姿を表すこともなく、カムバックすることもなかった。


マザースカイ
=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=
森田童子
(原盤ポリドールMR-3030)
収録曲
●ぼくたちの失敗●ぼくと観光バスに乗ってみませんか
●伝書鳩●逆光線●ピラビタール●海を見たいと思った●男のくせに泣いてくれた
●ニューヨークからの手紙●春爛漫●今日は奇跡の朝です

 JOJO広重●text by JOJO HIROSHIGE

 TVドラマ『高校教師』で有名になった�@を含む、森田童子初期の傑作。ファーストがまだフォーク・シンガーとしての雰囲気を維持していたのに対し、この作品以降はニューミュージック的アレンジを展開する。しかしそれが彼女のセンチメンタリズムをさらに助長して、透明感のある歌の幻想性を高めることに成功している。
 学生連動その後の世代の、挫析感、やりきれなさ、喪失感、孤独など、ネガティヴな精神性が彼女の歌の真髄だが、その空虚な世代のみならず、現代人に共通する空漠感に訴えかける切なさが、このアルバムに収録されだ曲にはまぎれもなく存在している。

ア・ボーイ
森田童子
(原盤ポリドールMR-3085)
収録曲
●蒼き夜は●きみと淋しい風になる●ふるえてるネ●ぼくを見かけませんでしたか
●セルロイドの少女●淋しい素描●ぼくが君の思いでになってあげよう
●G線上のアリア●終曲のための第3番「友への手紙」

JOJO広重●text by JOJO HIROSHIGE

 前作の延長にある、極めて内省的でデリケートな作品集。ここでは初期の彼女の歌詞が持っていた、かなり具体的な言葉はだんだんに影を潜め、孤独のイメージそのものを詩に託す作品が多くなってきている。優しさが若者の携帯する当然の要素となる時代に、その弱さを慰めるのではなく、本質を浮き彫りにする哀しい歌がここにある。この哀しさは、どこか神が人間を哀れむような、そんなまなざしを全編に漂わせているようだ。乱暴な言い方だが『グッドバイ』からこの作品までの三作で、哀しき語り部・森田童子の世界は完結する。彼女の最高傑作であろう(8)に全ての想いは歌い尽くされた、気がするのだ。

この文章は1996年に発行された「日本ロック&フォークアルバム大全1968-1979 銘板100選+アルバム・ガイド650」(音楽之友社1600円)に掲載された、JOJO広重(ミュージシャン、前衛的パンクバンド「非常階段」)さんによるレコード・レビューです。転載にあたってはJOJO広重さんから、転載許可をいただきました。ありがとうございます。

http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-hirosige.html

19. 中川隆[-11439] koaQ7Jey 2020年9月08日 13:41:27 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[22] 報告

Hiromi
http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-bun7.html

 いきなり、すいません。第九話を三度書こうとして、その度に体調を崩し、どうしても書けなくなりました。
 第九話は未完のままに、第十話に突入します。

 もうじき、東京にも桜の花が咲きそうです。今年の二月は精神的にとてもハイで、体調的には最悪でした。どうにか普通の体調に戻り、わりとまともに生活しています。

 で、森田童子ですが、みなさん、知ってますか?

 七十年代を駆け抜けて、八十年代の到来とともに潔く去っていった伝説の「シンガーソング・ライター」です。近いところでは、1993年、野島伸司さんの大ヒットしたTVドラマ「高校教師」の主題歌として、彼女の「ぼくたちの失敗」が、小さな話題になりました。

 彼女は僕が16歳の時に世間的にデビューして、24歳のときに去っていきました。僕より、たぶん十歳くらい年上のはずです。カーリー・ヘアにサングラスというスタイルで、当時、フォークソングの旗手として、絶頂期にあった井上陽水さんと同様に、決してサングラスを外さない人でした。

 ただ違うのは、陽水さんはその後、サングラスを外し、90年代後半にJ-POPの隆盛に合わせて、うたかたの世界に一時的にカムバックしましたが、彼女は決して戻って来なかったということです。森田童子は、ライブ・ハウスを拠点に活動を続け、当時、最盛期を経て、その華やかな成功と同時に衰退の始まりを示していた小劇場運動(寺山修司・唐十郎さんたちですね)に微妙に連動しながら、あくまで自分を貫き通し、去っていきました。
  僕らの原体験は(僕とSuper Tacという意味ですが)、そして、良くも悪くも、その後の人生の進路を決めた作品は、小劇場で見た「つかこうへい」さんの「ストリッパー物語」です。

 つかさんは、当時、寺山さんや唐さんと同じ土俵で勝負しながら、小劇場運動とは、微妙に異なる世界を構築していた別役実さんの影響を強く受け、それをさらに反転して、ぐちゃぐちゃで、しかも、クリアな世界を作り得た奇才です。僕は渋谷のVAN99ホールで、「ストリッパー物語」を、同時代人として見られたことを、いまでも誇りに思っています。
 僕らより若い世代でも、つかこうへいさんのファンの方はたくさんいらっしゃると思いますが、「ストリッパー物語」という作品は、見たことがないと思います。

 つかさん自身も言っていますが、「ストリッパー物語」は「決して台本を残さない」と決意した作品です。「舞台は、消え去るからこそ美しい」という美学を貫くために、そして、劇作家としての矜持を貫くために、さらに、死に物狂いでウケ狙う芝居屋としての究極のパフォーマンスとして、自らの三本指に入る作品を、永遠に封印したのです。
つかさんのプロとしての誇りは「熱海殺人事件」に、そして、プロの劇作家としては収まりきれないすべての思いは、「ストリッパー物語」に封じ込めてあります。そして、「飛竜伝」は、その両者の統合を試みた作品です。
 高校生だった僕たちは、ある先輩に勧められて別々にそのステージを見に行きました。そして、演劇部の部員として、高校の練習用の舞台で再び顔を合わせた瞬間から、「ストリッパー物語」の再演を始めました。
 僕らは、不思議なことに、たった一度見たそのステージのすべてのストーリを覚え、セリフのひとつひとつを暗記していました。それから四半世紀たったいまでも、僕は主役の「冗談シゲさん」の決めゼリフを暗唱できます。
 十六歳の僕らにとって、つかこうへいさんの作品は、自分という存在に対する無限の自信と底知れない不安を、いかに形にして吐き散らし、乗り越えてゆくかを教えてくれたものなのです。
 それから、二年がたち、僕らは高校を卒業しようとしていました。
 Super Tacは家出して、新聞配達のアルバイトをしていました。僕は彼の三畳一間の下宿に(「神田川」の世界ですよね)遊びに行って、森田童子に出会いました。
 Super Tacは、ラジオで流れた彼女のfirst album「マザー・スカイ」をカセットに録音して、ノイズ交じりの音で聞かせてくれました。僕はいいかげんな感想をいって、冷たい心で彼女の曲を拒否しました。
 そして、Super Tacはハワイに逃げ出し、僕は大学で酒を飲んでは暴言を吐いて、人を傷つけ、孤立していきました。大学を卒業して、サラリーマンになり、それでも、酒を飲んでは暴れまくっていた僕は、ある日、ふと、森田童子の歌を思い出しました。

 その何年かの間に、僕らにとって大切だったひとりの女の子が死にました。

 ある日、ハワイに渡ったSuper Tacから、国際電話がかかりました。「おれは、占い師に言われた。俺たちの三人のうちの誰かが死ぬんだ」
 彼はべロベロに酔っ払っていました。その後、彼に確かめても、憶えていないといいます。もしかしたら、それは僕の妄想だったのかもしれません。

 でも、死んだのは彼女でした。

 僕たちは高校時代の三年間、不思議な三角形を作っていました。そして、三角形はばらばらになり、ひとつの頂点が消えました。僕は初めて、「鎮魂歌」という言葉を理解しました。

 森田童子はライブハウスにつめかける観衆を前にして、ただひたすら、ひとりの死んでいった友達のために歌い続けていました。彼女は八年の歳月をかけて、ただひとりの死者のために、歌い続けました。

 そして、彼の魂が「もう、いいよ」といったときに、黙って去っていきました。高校教師がヒットしたとき、ひとりのルポライターが彼女をたずねました。彼女は普通の主婦になっていました。そして、「もう、語ることは何もありません」といったそうです。
 僕は何年もの間、森田童子のCDを探していました。どこにも、ありませんでした。そして、「高校教師」のヒットで再販されたものを、ようやく手にいれました。
 野島伸司は、そのベスト・アルバムの前書きで、高校生だった頃、初めて彼女のライブに行った日のことを語っています。
 秀才だった友達に誘われて、彼女のライブに行き、その翌日に友人は癲癇の発作で倒れます。どこにも隙が無いように見えた友達の弱さと悲しみを、初めて目の当たりにしました。友人はいつでも真っ赤なマフラーをしていました。「あれで唾を拭くんだ」と笑ったそうです。

 僕は高校生の頃、野島さん同じように学生服を着て、客席の一番後から、輝くスポットライトに照らされた「ストリッパー物語」の舞台に見入っていました。

 そして、いま、おじさんになって、ときどき、森田童子のCDを聞いています。もう、昔のように、裂かれるような痛みも、涙が枯れるほど泣くこともありません。きっと、死んだ人たちが、「もう、いいよ」と、いってくれたからだと、思います。
  まだ、何もわからなくて、だから、必死で生きていたあの頃、つかこうへいは僕らの光でした。そして、森田童子は僕たちの影だったと思います。

http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-bun7.html

20. 2020年9月08日 13:45:55 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[23] 報告

森田童子研究所
http://www.gogorocket.jp/doji/h/index.html
21. 2020年9月08日 13:51:23 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[24] 報告
8/1 E.G.P.P.100/step85 森田童子??反転「ガロ」系少女の肖像
2008-07-27
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/79dcd9164ba89ade87cf25fee9b80c33


 70年代中頃の夏だったか、暑さにうだりながら狭い部屋でボクは汗をかいて眠っていた。目の前には、やはり汗で濡れたおんなの裸の背中があった。狭い部屋で壊れかけた1台の扇風機が、うなりをあげて回っていた。
 貧しいだけで、その頃のボクには何の希望もなかった。マンガ家になるというユメは叶ったが、生来の怠け癖で読者に忘れられないために畳み掛けるように、作品を毎月再生産してゆく??ということが、どうしても出来なかった。大家でもない無名のマンガ家なのに、ボクは作品も発表誌も選んで、いつのまにか声もかからなくなった。それにその頃は、政治の季節が内ゲバや武装路線でゆきづまりさらに警察当局のローラー作戦(アパートや貸し家をシラミ潰しに調査すること)で壊滅しつつあった頃で、時代そのものが「暗い時代」であり、ボクらは「暗い時代の人々」(ハンナ・アレント)だった。

 そんな頃に、か細い、今にも消え入りそうな声で「ボク」という一人称で歌うひとりの歌手のうたが聞こえてきた。その歌い手は自作自演のシンガーソングライターだったのだが、どこかその頃の時代の刻印を背負ったかのようなリリックで、ボクの胸に迫った。

 75年にデビュー、その特異な歌詞世界と歌声で冷ややかながらも一部のファンに注目され、わずか8年間の活動でその日常も消息も断ってしまった森田童子。その肖像に『グッドバイ』で打ちのめされた似たもの同士の感性を嗅ぎ付けたものとして、『高校教師』以前の童子を今回step85のテーマとします。

https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/79dcd9164ba89ade87cf25fee9b80c33

22. 2020年9月08日 13:53:25 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[25] 報告

森田童子・論/悲しき玩具(1)
2008-07-28
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/ebeead8f30f47d70bf556c80e349d8d0

 70年代中頃の夏だったか、暑さにうだりながら狭い部屋でボクは汗をかいて眠っていた。目の前には、やはり汗で濡れたおんなの裸の背中があった。狭い部屋で壊れかけた1台の扇風機が、うなりをあげて回っていた。
 貧しいだけで、その頃のボクには何の希望もなかった。マンガ家になるというユメは叶ったが、生来の怠け癖で読者に忘れられないために畳み掛けるように、作品を毎月再生産してゆく??ということが、どうしても出来なかった。大家でもない無名のマンガ家なのに、ボクは作品も発表誌も選んで、いつのまにか声もかからなくなった。それにその頃は、政治の季節が内ゲバや武装路線でゆきづまりさらに警察当局のローラー作戦(アパートや貸し家をシラミ潰しに調査すること)で壊滅しつつあった頃で、時代そのものが「暗い時代」であり、ボクらは「暗い時代の人々」(ハンナ・アレント)だった。

 そんな頃に、か細い、今にも消え入りそうな声で「ボク」という一人称で歌うひとりの歌手のうたが聞こえてきた。その歌い手は自作自演のシンガーソングライターだったのだが、どこかその頃の時代の刻印を背負ったかのようなリリックで、ボクの胸に迫った。

 玉川上水沿いに 歩くと
 君の 小さなアパートがあった
 夏には 窓に 竹の葉がゆれて
 太宰の 好きな君は 睡眠薬 飲んだ
 暑い 陽だまりの中 君はいつまでも
 汗をかいて 眠った
 (「まぶしい夏」)

 その歌い手は性別不明の名前を名乗っていた。「童子」ドウジそれともワラベあるいはドウコと読ませるのか不明だった。そのファースト・アルバムを手に入れて見ると、真っ暗なジャケット写真の中で、丸い黒のサングラスをかけたまま端正な顔だちは隠せず、口元は軽くあいていた。モジャモジャの髪型(のちにカーリーヘアとなる)は、いまにも顔を覆い隠しそうだったし、その歌手が傷つきやすいナイーブなこころと感性をもったシャイで照れ屋の性格をもつ人物のように思えた。さらに、そのファースト・アルバムの歌詞カードは黒のラシャ紙に、銀色のインクで9ポイントくらいの小さな活字で印字されたものだった。それも、今となってはなつかしい邦文タイプを使って印字したものだ。
 抜けの悪い、ところどころ活字が潰れたそのタイプ文字の書体は、画数の多い活字は判読できないほどだった(たとえば、タイトルのB面4曲めの「驟雨」は、「にわかあめ」とその1ケ所だけ同じポイントのルビが振ってあり、それでかろうじて読めるのだった)。

 さらに、奇妙なことにジャケットの裏面もまた「第五福竜丸」だと思われる写真パネルを似たような草原で掲げ持つ歌い手の写真で埋められている(カメラマンは高梨豊。高梨は以後ずっとこの歌手を追い掛ける。ちなみに高梨もまた新宿「風月堂」に出入りしていたカメラマンである)。

 歌い手はその名を森田童子(もりたどうじ)といった。ボクらの世代には子どもの頃に見た東映映画の『笛吹き童子』や『白馬童子』が忘れられない。それらは、勧善懲悪のヒーロー時代劇だったが、どのような「童子」が登場してももはや70年代の大衆は、笛吹けど踊らずの状況であったのは目に見えていた。そのうえ、そのファーストつまりデビュー・アルバムは太宰治のセリフのように「それでは どなたさまも グッド・バイ!」と告げるかのように『グッドバイ』と名付けられていた。森田童子は「別離」を告げながらボクらの前に鮮烈に登場した。その引き際がどんなものになるかは、ボクらには最初から予想ができたはずだ。

https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/ebeead8f30f47d70bf556c80e349d8d0

23. 2020年9月08日 13:54:46 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[26] 報告
森田童子・論/悲しき玩具(2)
2008-07-29
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/a1d4db772240e71450dbae0e8a72cb5e#comment-list


 森田童子がその肌にヒリつくようなリリックに込めたものは、おそらく虚構(フィクション)としての「ある青春譜」だった。童子が色の濃い丸サングラスの下に隠したその素顔を決してあらわにすることがなかったように、童子のリリックも虚実の皮膜におおわれている。
 たとえば、高校を中退した童子が、うたを歌うきっかけになったのが旧友の死を知ってからという伝説がある。しかし、それはどうやら自死のようだとリリックから推測するのみで真意のほどは確かめようもない。彼女自身は高校反戦の闘争に否応なく巻き込まれたようだが、どのようないきさつがあったのか分からぬが、その高校をやめている。学歴は高校中退なのだ。
 しばらく、何もせずブラブラしていたが、彼女の父親は「これからの時代は、余暇や暇な時間をもてあまさず耐えなければならない」と言って、文句も言わずに金をくれたそうだ。童子は毎日のように、仲間が集まるある喫茶店に通っていた。その頃、童子がたまたま行った旅先でJ & Kという音楽出版の面々に偶然に会う。名刺をもらい、すぐ尋ねてゆくという約束をする。しかし、その約束は2年後になり、1975年(昭和50年)約束を果たしにゆくと音楽出版の方は覚えており、すぐさまシングルデビューの話が持ち上がった。童子はよほど、鮮烈な印象をその音楽出版のスタッフに与えたらしい。以後の童子のアルバム制作は、このMusic Pubrishers J & Kがプロデュースしポリドールレコードから発売されることになる(のちワーナー・パイオニアへ移籍し、ポリドール時代のアルバムが「森田童子全集」として再販される)。いわば、シンガー「森田童子」の仕掛人である。
 1976年(昭和51年)1月の「ルイード」から、年間を通してのライブハウス出演の日々が始まる。

 そして、童子は昭和55年頃つまり1980年頃から68/71黒色テントなどの小劇場運動集団(アングラ劇団)とコンサートをともにしてゆくようになる。この頃から、意図的にコンサート会場を早稲田小劇場、池袋文芸坐地下などで連続三日間とか、五日間などの演劇公演のようなスタイルで、敢行することを好むようになっている。
 そして、その「滅びの美学」のようなライブコンサートを「地下室」とか、「夜行」とか「ねじ式/黒テント劇場」とか名付けるのだ。

「いま黒い天幕の中は、色鮮やか??悲しい玩具箱のようです。
都市は密集し、巨大化された私達の街は急速に管理化されています。
……あと何年か後には、東京にテントを建てるという行為は、殆んど不可能になるでしょう。私達のコンサートが不可能になってゆく様を見て欲しいと思います。そして、私達の歌が消えてゆく様を見て欲しいと思います。
……そして、今度のテント劇場は、或る意味で私達のコンサート活動の終末であるといえるかもしれません。
一つの終りの時代へ向けて
今一度、??私たちのせつない最後の夢を見て欲しいと思います。」(森田童子/昭和56年)
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/a1d4db772240e71450dbae0e8a72cb5e#comment-list

24. 2020年9月08日 13:55:37 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[27] 報告

森田童子・論/悲しき玩具(3)
2008-07-30
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/a1e262689774cc9c8196069501ef9d97


 童子の書くリリックはどこか、先のライナーノーツに書かれたような物語性をもった抒情だ。セミ時雨や雨の音が、アルバムの中では効果音として欠かせないものになっている。そして、童子のリリックには、太宰治をはじめ漱石、高橋和己など文学者の名前が散見するが、それ以上にその頃のボクらがそうだったように、童子は『ガロ』や『夜行』のファンだったらしい。『夜行』の発行者で北冬書房主宰の高野慎三(かって『ガロ』の最盛期の編集者であったひと)はその著作『つげ義春1968』の中でこんな思い出を記している。

「70年代中頃に小さなライブハウスで、”ねじ式コンサート””大場電気鍍金工業所コンサート””夜行コンサート”のタイトルで、ひき語りを続ける一般には無名に近いミュージシャンがいた。ある日、突然、一面識もない彼女からりんごが一箱送られてきた。「いつもお世話になってます。勝手にタイトルを使わせてもらって申しわけありません。おわびのしるしです。つげ義春さんにも宜しくお伝え下さい」と書かれた丁寧な手紙が添えられてあった。」(高野慎三『つげ義春1968』)

 なお、調べた限りでは「大場電気鍍金工業所コンサート」という名前をかぶせたライブは存在しないようである。これは高野さんの思い違いのようだが、あれば面白かったろう。いうまでもなく、その作品名もつげ義春が、みずからの少年期をかさねて描いた傑作短編のタイトルである。

 森田童子がつげ義春や「ガロ」系の作家(マンガ家)のファンであろうとボクが気付いたのは、最初のアルバム『グッバイ』に収録されている「雨のクロール」という曲でである。その曲を最初に聞いた時、つげ義春の「海辺の叙景」という作品のラストシーン(見開き2頁のシーン)が思い浮かんできて仕方がなかった。

 雨に君の 泳ぐクロール とってもきれいネ
 雨に君の 泳ぐクロール とってもきれいネ
 (森田童子「雨のクロール」)

 あなたすてきよ
 いい感じよ
 (つげ義春「海辺の叙景」)

 なお、このセリフは雨の降る中、海をクロールで泳いでみせる主人公にビーチで知り合った女性が投げるラストシーンのネームである。ちなみに、このビーチは今ボクにはとても親しい場所である千葉県大原の海岸がモデルになっている。

 また、『ロフト』および『ロフト・プラス・ワン』の経営者である平野氏は、『ロフト』でおこなわれた1983年12月の伝説的な森田童子ラストライブの思い出をロフト関係のフリーマガジンにて回顧していた(『ロフト』が新宿小滝橋通り沿いにあった頃です)。
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/a1e262689774cc9c8196069501ef9d97

25. 2020年9月08日 13:56:34 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[28] 報告

森田童子・論/悲しき玩具(4)
2008-07-31
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/f6cef64f288a1e0b1f8b2eec99d0235f

こうして、森田童子というシンガーはその「滅びの美学」に忠実に従うかのようにそのわずか8年間の音楽活動を自ら終熄させた。そして、その後いっさいの消息をファンやリスナーの前から断ち切った。ふたつの例外を除いては……。

 そのひとつは、1984年3月5日付け(なんと、ボクの36歳の誕生日であった日だった!)『日本読書新聞』に掲載されたつげ忠男(義春の実弟・マンガ家)の作品集『懐かしのメロディ』(北冬書房刊)の書評であって、それは森田童子名義で突然掲載された。

 もうひとつの例外は、2003年2月27日付けのスポーツ新聞に報じられたことなのだが、トレンディドラマ『高校教師』(続編)のヒットで再度発売された『ぼくたちの失敗』CD版ベストコレクションに51歳になった森田童子が「ひとり遊び」を再録音したことである。
 野島伸司が脚本を書いた『高校教師』が話題となり、そのテーマ曲に使われたのが童子の「ぼくたちの失敗」だった(映画化もされた)。ドラマのヒットで、再び森田童子の再登場をファンが望んだ時(そのほとんどは、『高校教師』で森田童子を知った若いファンたちだった)、童子はコメントを残している。それは、現在主婦業に専念しているため、皆さんの前に再登場するつもりはありませんというきっぱりとしたものだったと記憶している。ただ、多くのかってのファンは童子の「主婦業」という言葉に違和感を覚えただろうし、と同時に森田童子の幸せを心から祈ったはずだ。
 かって、童子は自分が極度の人見知りだと告白したことがあり(なんと実の親にさえ人見知りすると!)、神経症的な病をかかえているようなほのめかしをしたことがあったからだ。
 そして、その「病」が生来のものだったのか、それとも後天的なものだったのかは一切ボクらは知ることができない。童子もどうやら好んだと思われる寺山修司にならって言うなら

 森田童子 とは地平線 その上に 浮かぶ巨大(おおき)な クレッションマーク(JUN作)

だったのかも知れない。

 ある日 ぼくの
 コートの型が
 もう 古いことを 知った
 ひとりで 生きてきたことの
 淋しさに 気づいた
 行きどまりの海で
 行きどまりの海で
 ぼくは ふり返る
 (「海を見たいと思った」)

 そう、それは生涯消え去る事のないスティグマ(聖痕)のように、青森県の方言のイントネーションで吃言するかのように立ち止まり堂々めぐりの自省、探求となるだろう。

 ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
 ぼくがぼくで ぼくであろうとし
 ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
 ぼくがぼくで ぼくであろうとし
 (「球根栽培の唄」)

 ぼくが
 ぼくで
 あろうとし
 ぼくが
 どこまでも
 ぼくであろうとし
 ぼくが
 どこへ
 どこまでも
 どこかで
 ぼくで
 あろうとし
 (「ぼくは16角形」)

 結局テロリズムの究極のスタイルが、特攻、自爆テロであったように、自分(まして「ぼく」という一人称男性名詞でだ)のためにだけ歌われるうたは自爆するしかなかったのだ。腹腹時計が、仕掛けられた自らの肉体を吹っ飛ばし、周辺何メートルかの巻き添えをその攻撃対象とするように「球根栽培」は、都市ゲリラの口ごもるだけの教典(マニュアル)となるのだ。
 そして、手にしたものは鮮やかな玩具??時間をマイナスカウントしてゆく時限爆弾としての「うた」だった。

 GOOD BYE! それでは どなたさまも グッドバイ!

※この「森田童子論・悲しき玩具」を書く上で、ネット上にあるふたつのサイト『森田童子研究所』(非公認森田童子ファンWebサイト)と『しっぽのさんぽ』(犬のしっぽさんのWebサイト)を参考にさせてもらいました。長い間のファンでありつづけ貴重な童子資料を万人に公開しているお二人に敬意を表してここに記してお礼申し上げます。

(おわり)
https://blog.goo.ne.jp/angura_1967/e/f6cef64f288a1e0b1f8b2eec99d0235f

26. 2020年9月08日 14:02:12 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[29] 報告
森田童子さん…
https://img.atwikiimg.com/www35.atwiki.jp/presenile/attach/703/10/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90%E3%81%95%E3%82%93%E2%80%A61-144.htm


1 名前:born115 投稿日:2006/10/15 22:00 >>
森田童子さん…
森田童子さんについて教えてください。

伊藤さんの「森田童子研究所掲示板」、tateokunさんの「森田童子が忘れません」、
KIMIさんの「森田童子ML」、犬のしっぽさんの「森田童子掲示板」、
東芝EMIの「森田童子オフィシャルサイト」。 思えば、童子さんの音楽に
ついて語れる楽しい掲示板がいろいろありました……

2 名前:born115 投稿日:2006/10/15 22:36 >>1 born115
急行津軽2号
「6時近くだろうか……」
急行津軽2号は、重たい車体をにぶくきしませながら、
50分ほども雪の中を立往生しながら、
いま新庄を越して、湯沢あたりを走っている(いた)。

私は、寝台車の2段ベッドの上で、
昨夜から、寝汗とひどい悪性の咳に悩まされ続け、
すっかり疲れはててしまっている(いた)。

と外(窓外)に広がる白一色に覆われた単調な雪景色が、
ふいに哀色(暗色)に閉ざされて、
列車はトンネルにはいった。

私は、(軽いめまいの中で、私は吐気しながら)
暗闇を走る列車に身をまかせて、
憂鬱な朝のはじまりを待っていた。

=============================================
ご存じの「海を見たいと思った」の“前語り”です。
童子さんの語りは、詞と同様、“進化”していくものが
結構あるので、この語りについてもずっと確信がもて
なかったのですが、最近、最終的には上の通りで間違い
ないと(自分の中で)結論づけました。

カッコ内は、mcSister77年4月号リレー随筆「夜汽車にて」に
掲載されたものです。

それから…
童子さんがこの詩を書いたのは77年1月末からの10日間の
東北ツアーのとき。
その後ずっと「海を見たいと思った」の“イントロ乗り前語り”
として使った。
しばらくしてから(多分78年に入ってから?)この語りに
SLと汽笛の効果音を入れるようになった。
(スクリーンに、映像も映し出したそうですね?)

不思議なのはカテドラル。
78年6月にも、汽笛入りのこの語りで「海を見たいと思った」を
唄ってます。
それが翌月のカテドラルでは語りではなくて「ドモン」の話。
何故なんでしょう??(ド…ピ…さん、ご存じでしょうか?)

3 名前:born115 投稿日:2006/10/16 22:12 >>1 born115
森田童子さんのポスターは
@グッドバイ 
A同上(グッドバイより一年)
B青春哀歌双六
Cマザー・スカイ
D童子とシェパード
Eセルロイドの少女(?)
Fボーイ
G森田童子全集(ル・ピリエ)
H黒色テント劇場夜行
Iラスト・ワルツ
J黒色テント劇場(赤字)(両国)
K同上     (白字)
L夜想曲
M狼少年

======================================

以上14枚ですべてだと思いますが… 他にもありますか?
年代順に並べたつもりですが、多少の前後はあるかも知れません。
タイトルは適当なものもあります。

@を持ってるひとはすごいなぁ。
Bは、童子さんらしいユニークな作品だと思います。
Dは、写真がポリドールやワーナーで一度も使用されなかった点
で人気があるみたいですね。 京都や名古屋でのコンサートで
チケット用の写真として使われたことがあります。
Eは、童子さんが気に入らないのですぐ回収されたとか…

4 名前:born115 投稿日:2006/10/18 21:42 >>1 born115
MCで語られた森田童子エッセイ
コンサートのMCとして語られたエッセイで、現在判明しているものの
リストです。
【 】内はエッセイに続く“被誘導曲”です。
被誘導曲のアルバム収録順に並べてあります。
( )内は活字で掲載された資料です。

この他にもまだ沢山あるはずなんですが… 教えてくださいませ!

==============================================

1. 教育大の先輩松本さんの話 【君は変わっちゃったネ】
(80年LP全集II:'78年7月29日東京カテドラル製マリア大聖堂にて、&93年CDア・ボーイ)

2. “さらば宇宙戦艦ヤマト”を見て泣いてしまった夫婦の話【君は変わっちゃったネ、海を見たいと思った】
(93年CD東京カテドラル:'80年6月池袋・文芸坐ル・ピリエ) 

3. 亀井くんと市川のアキラくんの話【センチメンタル通り】

4. 弟と二引き鳩の話【たんごの節句】

5. 別れた女の髪の毛をみつけた男のひとの話【驟雨】

6. 沖縄のコンサート屋さんシモンさんの話【ぼくたちの失敗】

7. 久慈高校の前川先生など、地方で出会ういろいろな人々の話【ぼくたちの失敗】

8. 観光バスに乗って時間をつぶした話【ぼくと観光バスに乗ってみませんか】

9. 丸昆レコードの昆さんと鈴木くんの話【ぼくと観光バスに乗ってみませんか】
(93年CD狼少年:'81年12月国鉄両国駅西口構内黒色テントBねじ式)

10. 富良野の斉藤さんの話【ぼくと観光バスに乗ってみませんか】
(83年朝日新聞:たった一人の主催者)

11. 鳩小屋の前でひとり遊ぶ10歳の少年の話【伝書鳩】

12. 自殺に憧れていた男が郵便局員になってしまった話【逆光線】

13. カストロ帽のドモンの話【海を見たいと思った、蒼き夜は】

14. 早川義夫さんの話【海を見たいと思った、ぼくを見かけませんでしたか】

15. 大きなオートバイと赤いダウンパーカーの佐伯くんの話【蒼き夜は】

16. 医大志望で4浪してしまった吉田くんの話【ぼくを見かけませんでしたか】

17. サーカスの団員イワサくんの話【セルロイドの少女】

18. 沖縄のロックバンド紫の話【赤いダウンパーカーぼくのともだち】
(81年新譜ジャーナル:沖縄の熱い砂たちへ)

19. 写真家ダイアン・アーバスの話【ラスト・ワルツ】

20. U少年の話【ぼくは16角形】
(83年朝日新聞:少年U、&83年狼少年創刊準備号、&93年CDラスト・ワルツ)

21. ネコヤマ親分の話【サナトリウム】

22. マチバリの名人島村くんの話【憂鬱デス】

------------------
以下は誘導曲不明です。

X1. 青森タカムラレコードの山ちゃんの話
(80年LP全集I:77年4月1日金沢北国講堂80年、&93年CDグッドバイ)

X2. 秋田明大が逮捕された大雪の日の話
(80年LP全集I:78年12月7日京都会館にて)

X3. 俳人尾崎放哉の話
(80年LP全集II:76年10月10日筑波大学17号棟105号、&93年CDマザースカイ)

X4. 春の雨 (83年朝日新聞)

X5. 大酒飲みの順平さん (83年朝日新聞)

X6. 天井桟敷の人々 (83年朝日新聞、&83年狼少年創刊準備号)

X7. ほおが火照っていた (83年朝日新聞、&83年狼少年創刊準備号、&93年CD夜想曲)

X8. 大声のT君のこと (83年朝日新聞)

X9. 時代屋の気分 (83年朝日新聞)

X10. 野戦の好きな軍曹たち (83年朝日新聞)

X11. さわやかな笑い (83年朝日新聞)


Acknowledgments: Deepest thanks must go to kansukeさん、k_1920さん !!

5 名前:kosumosumirengeso 投稿日:2006/10/19 1:03 >>
み〜つけた!
いつのまにかこんなところに森田童子のトピが立っていました〜!
今日はもう遅いのでとりあえずご挨拶だけ。
また、遊びに来ます。
これからもどうぞよろしくです。

6 名前:nonko551jp 投稿日:2006/10/19 21:30 >>4 born115
み〜つけた!その2
秋田明大が逮捕された話は、ラジオの中でも
印象深いと言っていましたね。

それにしても、ここに登場する人たちって
ほとんどが一般人だったりするのに
ある意味とても有名になってしまった。
童子の印象に残った人たち…
うらやましいな〜なんて思います(笑)。
エッセーを見ても、個々のつながりを大事に
してきたことがよくわかりますね。

kosumosumirengeso さん、HNは
♪コスモス スミレ レンゲソウ〜♪
からですね。

歌詞もこの部分だけが“しりとり”のように
なってて面白いですよね!
意識してなのか、たまたまなのか‥

そこに着目するなんて、センスいいなぁって思いました。

7 名前:ymato_kt 投稿日:2006/10/19 22:02 >>1 born115
Re: 森田童子さん…
born115さん
新トビ開設の日時に感動しました。
10月15日22時00分
(10・15・10)15日う〜〜ん凄い。
本題とは、関係ない話題でしたね(汗)
童子さんの話題について行けるように努力します。

8 名前:ki_la_la_k 投稿日:2006/10/20 2:52 >>1 born115
Re: 森田童子さん…
born115さん

トピ開設おめでとうございます
「森田童子が忘れません」でお世話になりました『きらら☆』です。

kosumosumirengesoさん。のんこさん。
ご無沙汰しております☆
またお会いできてうれしいです^^

私の「森田童子ノオト」も復活です☆

これからもどうぞよろしくお願いします^^♪

9 名前:born115 投稿日:2006/10/20 20:49 >>8 ki_la_la_k
おへんじです
書き込みありがとうございます!
しっかり、刺激をいただきました。

kosumosumirengesoさん!
壁いっぱいに、童子さんのポスターやチラシを飾って、
スクリーンに童子さんのスライドを映しだし、
美味しいコーヒーを飲みながら、
童子さんの曲を聴く、
そんなフィルムコンサートをいつか実現させましょうネ!

nonko551jpさん
「78年12月7日京都会館にて」ですね。
このMCだと童子さんが唄う曲はなんでしょうか?
いつか教えていただいた「死ぬことやめて 帰りきたり」が
出てくる詩、啄木でしたっけ、寺山修司でしたっけ、
もしよかったら詳しく教えてくださいませんか。
それと“畳”の話もありましたよね?

ymato_ktさん
お気づきになりましたか! さすがですね!
10・15は意識しましたが、時刻は偶然なんです(^_^;)
え?ついて行けるように? 何を謙遜されてるんですか!
いつもこちらはタジタジですよ。
ところで、コミュニティー・ブレーンはシモンさんと
いう方だったようです。この人、すごいなぁ。
一週間で5日間も童子さんのコンサートを実現させてる!

ki_la_la_kさん
別におめでたいことではないんですが、ここは
2週間くらい書き込みしなくても消えないみたい
です。 ですから、無理やり“アゲ”る必要は
ない。話がつきたらそれまで! いさぎよく落ちたい
ものです。 とりあえず半年ぐらいは!

10 名前:born115 投稿日:2006/10/21 18:24 >>1 born115
今日はレコードデビュー記念日です
75年の今日10月21日、シングル 
 『さよなら ぼくの ともだち / まぶしい夏』
が発売されました。 童子さん、23歳。

全国のレコード店に初めて童子さんのレコードが並んだ
記念すべき日です。(心の中でだけど、おめでとう!)
ラジオで発売に先がけて流れたはずだから、この日を
待ってレコード店に駆けつけた人もいたでしょうね。

「さよなら ぼくの ともだち」だけの片面アセテート
盤もありました。放送局用の見本盤が間に合わなかった
ということでしょうか。

月刊誌ガッツの12月号に、デビューシングルの広告を
ページ全面で単独掲載してます。 これには
 『LP録音完了:11月21日発売』
と、アルバム発売も予告。
(でも、本が出てるころには、LPはもう発売されてるん
ですよね)
ポリドールで童子さんの当時の担当は、宣伝課の市川さん
という人…。

童子さんのコメント。
「私の歌は、未来への予感を含んだもの。それでいて、
私の歌は生活の実感から出てきたものなんです。
…(原ママ)レコードだって私は出したくって出したん
じゃない。私はいま歌えるだけでいいんです」
(12月の週刊プレイボーイより)

11 名前:kosumosumirengeso 投稿日:2006/10/21 18:31 >>9 born115
Re: おへんじです
born115さん
あぁ、是非是非〜!
フイルムコンサート、その夢の日を楽しみにしていますよ〜。
何故、ジャパニーズポップス>全般 なのかと思っていたら
2週間くらい書き込みしなくても消えないみたい・・そういうことなのですね。

nonko551jpさん
HNってけっこう悩むんですよね〜。他で使われている事も多くって。
Cosmosかな〜とは迷ったんですけど・・・。
なんとなく好きなフレーズだし、実は気に入ってるんです。
えへへ、褒めてもらってちょっとうれしい。
ありがとう〜です。
そうですね。童子の語りにでてくる普通の人たち。
童子と心ふれあうことが出来た人たち。
その一人一人がこちらにもじわ〜っと伝わって忘れられない人になる。
そこが童子の魅力のひとつでもあります。すごいなぁ。
こんなに沢山いるんですね。
それを書き出してくれたbornさんもやっぱりすごいです。

ymato_kt さん
あ〜、私は日付に気がつきませんでした〜!
born115さんの書き込みにはいつも何か遊び(?)が隠れていて
しまった〜!気がつかなかった(≧▽≦)ということもしばしばです。
そしてわたしはちょっとがっかりするんです。
bornさんがもっとがっかりしただろうな〜って。

ki_la_la_kさん☆
ご無沙汰してました〜!
こちらでも楽しみにしています。よろしくお願い致します。

12 名前:nonko551jp 投稿日:2006/10/23 19:21 >>9 born115
Re: おへんじです
bornさん、
使われるとしたら何の曲なのか。
そんな風に想像するのも楽しいですね!
秋田明大のは、『球根栽培の唄』もチラッとよぎったんですが、
キーワードは「雪」なのでイメージとしては
『蒸留反応』がピッタリとくるんですが…
いかがでしょうか?


「死ぬこと やめて 帰りきたり」

大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり


啄木のうたです。

といっても、たまたま寺山修司の歌集を読み返した中で
発見しました。

“畳”の話は

ラジオ、消しゴム、万年筆…

を聞くとき、なぜだか「いつか 畳に うつ俯して」
というイメージが重なってしまうんです。
『憂鬱デス』にも同じ語りが使われたというところで
偶然なのか「畳にうつぶしては‥」というフレーズがかぶってて、
ちょっと面白いなぁ‥と。


ymato_ktさん、
よく気付かれましたね〜。ほんとスゴイです。
最後の時刻は童子さんのレコードデビューの発売月
ということですね?
bornさんの書き込みで、ようやく気付きました。
まだまだですね〜^^;

ki_la_la_kさん、
お久しぶりです。
どんな話が出てくるのか楽しみですね♪
わたしもしっかり勉強させてもらわなくっちゃ!

kosumosumirengesoさん、
>その一人一人がこちらにもじわ〜っと伝わって
忘れられない人になる。

そうですよね。
童子さんの心の中にも、そしてわたしたちの心の中にも!ですね。
わたしの中では、「富良野」と言えば「斉藤さん」なんです(笑)。

13 名前:born115 投稿日:2006/10/24 22:19 >>12 nonko551jp
78年12月7日京都会館にて
のんこさん、こんばんは!
そうですね、イメージとしては確かに『蒸留反応』や
『球根栽培の唄』…
でも、両方ともほとんどありえないと思うんですよ。 
78年のこの頃は、“カテドラル発売記念”ツアーをしてた
時期ですね。 だから「蒸留反応」はまだできてないし、
「球根栽培の唄」も地方のコンサートではたぶん唄わな
かったと思うんです。
このエッセイの最後、

「私は、あの8年前の冬の日の朝の驚きを、
 今も鮮明に覚えています。
 美しい雪の朝は、時には人と時代をも
 変幻させてしまうものなのかもしれません。」

これから推測すると、
「友よ泣かないのか」、「ぼくたちの失敗」、「君は変わっちゃったネ」
あたりかなぁ… 

ところで、あの“東京に大雪が降った日”は70年でしたっけ?
童子さんの言葉を借りると↓ですが。

「私は八年前、高校生だった頃に」(78年12月7日京都会館)
「たぶん15、6年前、高校時代に」(83年2月20日NHKFM)

14 名前:born115 投稿日:2006/10/26 22:25 >>12 nonko551jp
七五調・淋しい素描
> 大といふ字を百あまり
> 砂に書き
> 死ぬことをやめて帰り来れり

> 啄木のうたです。

nonko551jp さん、ありがとうございます。
なるほど… 
読書家の童子さんのことですから、本で読んで
心に焼きついたフレーズが、この曲のあちこちに
ちりばめられているのかもしれませんね、 何か
そんな気がしてきました。

・浅き夢見し 酔(ゑ)ひもせず (いろは歌)
・せきをしても ひとり (放哉)
・死ぬことをやめて 帰り来れり (啄木)

この他にもありそうな、そんな気が… 

15 名前:born115 投稿日:2006/10/26 22:43 >>12 nonko551jp
淋しい素描〜憂鬱デス
この2曲がつながるとは、思ってもみませんでした!

確かに、両方とも “畳にうつぶして” だし、
“ラジオ、消しゴム、万年筆…” の語りも、「淋しい素描」
と「憂鬱デス」に使った…。

もう一つ、両方とも “猫” が出てきますネ!

16 名前:k_1920 投稿日:2006/10/26 23:18 >>4 born115
Re: MCで語られた森田童子エッセイ
born115さん!お久しぶりです
>Deepest thanks must go to kansukeさん、k_1920さん !!
こちらこそ、大変感謝しております。
コンサートで語られたエッセイ・今後出てくるといいですね。

born115さんに刺激されて、当時の資料を調べてましたら
ある地方の新聞記事に「森田童子リサイタル」
の案内記事が載ってました。
しかしその記事の内容には下記の誤りが
※「森田童子初リサイタル」と書かれてましたが
すでに2度もホールでのリサイタルを開催してた。
※「ラジオのリクエストbP曲(さよならボクの友達)」
改めて書くまでも無い、曲名の文字の間違いですが。

この新聞は当時その地方では、購読者数一番の新聞だったのですが
間違いに気づかなかった、記事を書いた記者は勿論の事
この内容に気が付かなかった(多分)ファンも
童子さんに大変失礼な、とんでもない記事を
書いてしまってたものですね。トホホ・・古いフレーズでしたね(笑)
born115さん、こんな間違いて結構有ることでしょうか?
でも、たくさん有っても困りますが。

75年10月21日レコードデビュー、、丁度この季節ですね
うぅ〜感無量。当時その日その時何をしてたのだろうか?
また時々お邪魔します。

17 名前:born115 投稿日:2006/10/27 22:49 >>16 k_1920
Re: k_1920さん
k_1920さん、お久しぶりです!

童子さんのエッセイ、k_1920さんも当時からずいぶん注目されてた
のでしょう! コンサート会場で耳を凝らして聞き入っておられる
お姿が目に浮かびます(微笑み)。

童子さんのエッセイは、次の曲への伏線というか、状況づくりの
ために語られていて、曲そのものに負けないほど重要な意味を持つ
と思うんです。 ですから、できるかぎり記録として残したい…そう
いう気持ちなんです。

k_1920さん、童子さん自身がこういったエッセイを、何かに書き
綴って手元に残してくれてると思われますか? 当時、童子さんは
空で話してたんでしょう? そしたらメモみたいなものは残ってない
んでしょうねぇ。
メモ書きがあったとしても“捨てるためのグラフィティ”だったかも
しれないし。

“エッセイ”と呼んでしまいましたが、何かもっと良い言い方はない
でしょうか? “語り”と区別するための何か手ごろな言葉。
私は今まで“曲前の話”と呼んでたんですが…。

> 童子さんに大変失礼な、とんでもない記事を
> 書いてしまってたものですね。

さすがに、童子さんを思いやるk_1920さんらしいお言葉です!(笑い)

「森田童子初リサイタル」の方は何かの勘違いからでしょうか。
 東京カテドラルのときの、FM東京の番組のタイトルが、確か「初めて
のライブに」でしたね。 まあこれは、“初めてのライブ盤”という意味
だったのでしょうが。

「ラジオのリクエストbP曲(さよならボクの友達)」の方ですが、
一般紙ならしょうがないですかね。 私も一、二度見た記憶があります。
それと、片面のアセテート盤で、手書きですが“さよなら僕の友達”と
書かれたのもありました。 音楽雑誌での間違いは、さすがに無かった
と思います。

18 名前:nonko551jp 投稿日:2006/10/28 22:05 >>13 born115
Re: 78年12月7日京都会館にて
>78年のこの頃は、“カテドラル発売記念”ツアーをしてた
時期ですね。 だから「蒸留反応」はまだできてないし

イメージだけをふくらませて
想像してしまいました〜。
「友よ泣かないのか」雰囲気ありますね。。


>ところで、あの“東京に大雪が降った日”は70年でしたっけ?

「私は、あの8年前の冬の日の朝の驚きを、
 今も鮮明に覚えています。」

調べてみたら、秋田明大が
逮捕されたのは1969年3月12日だったんですね。

>「私は八年前、高校生だった頃に」(78年12月7日京都会館)
「たぶん15、6年前、高校時代に」(83年2月20日NHKFM)

微妙に前後してますね。

19 名前:nonko551jp 投稿日:2006/10/28 22:10 >>15 born115
Re: 淋しい素描〜憂鬱デス
>もう一つ、両方とも “猫” が出てきますネ!

そういえば!

童子さんの唄の中には部屋の中の情景がよく出てきますが、
やっぱり“畳”部屋のイメージが強いです(笑)。
殺風景な感じでちゃぶ台か簡素な机の上に
一輪差しの花がひっそり置かれてあって…
片隅にいつも猫がいる…そんなカンジです。

k_1920さん、お久しぶりです。
貴重なお話、伺えるのを楽しみにしています。

20 名前:born115 投稿日:2006/10/28 23:19 >>1 born115
森田童子の語り・その1
曲のどこで語られたかにしたがって、前語り、中語り、後語りに
分類してあります。 公になったものはカッコ内に記しました。
あらためてこうしてながめてみると、グッドバイの全曲に語りが
つけられたということですね。 でも、このうち2曲だけは
前語りを聞いたことがありません。 とくに「地平線」は、
効果音で始まるか、でなかったら、いきなり “ちへいせんの〜”
のボーカルで始まったと思いますから、前語りはきっと無かった
のでしょうね。

==========================================
G1 早春にて
《黒いトックリのセーターと交換した…》 (中語り)(75LPグッドバイ)

G2 君は変わっちゃったネ  
『あれは金曜日あれは冬の日の午後…』 (前語り)
『仲間が何人も申し合わせたように…』 (前語り)
《あの頃井の頭線の線路ぞいのアパートに…》 (中語り)(78LP東京カテドラル)

G3 まぶしい夏 
『夏休みのとても暑い日でした…』 (前語り)(81LP友への手紙)
『汗をかいて眠っていました…』 (前語り)(76捨てるためのグラフィティ)

G4 雨のクロール 
『雨の降る川の中に女の子は…』 (前語り)
『絵はがきのようなベニスの海…』 (イントロ乗り前語り)(76捨てるためのグラフィティ)

G5 地平線
《ぬけるように青い六月の… ;燃えるように赤い九月の…》 (中語り)(78LP東京カテドラル)

G6 センチメンタル通り
『センチメンタル通りの夜は更けて…』 (前語り)
『ぼくが愛してしまったともだち…』 (前語り)

G7 淋しい雲  
『TシャツにGパン姿のとても仲のよさそうな…』 ((イントロ乗り)前語り)
『あの頃ぼくたちは決して不幸ではなかった…』 (前語り)

G8 たんごの節句  
『幼いお前のひとしずくの涙の裏側に…』 (前語り)

G9 驟雨(にわか雨)  
『ゆううつな冬の風は重たい雲を散らして…』 (イントロ乗り前語り)(76捨てるためのグラフィティ)

G10 さよなら ぼくの ともだち
『君とぼくは同じシ線で結ばれた友だちという…』 (前語り)(78LP東京カテドラル)
『中央線の電車で阿佐ヶ谷付近を通ると…』 (前語り)
『ぼくが愛してしまったともだち…』 (前語り)
『自分の意志で何かをやるということを、私たちは…』 (前語り)

=================================================

21 名前:born115 投稿日:2006/10/29 18:03 >>19 nonko551jp
Re: nonko551jpさん
> 調べてみたら、秋田明大が逮捕されたのは
> 1969年3月12日だったんですね。

ありがとうございます! やはり1969年ですよね。
3月12日でしたか… あの日のことは私も覚えています。
それにしても「8年前」とは、いかにも童子さんらしくて
いいですよね!
当時は、童子さん、高校2年生ですか…

> イメージだけをふくらませて想像してしまい
> ました〜。

その、イメージがふくらんだところでお尋ねしたかったん
ですよ。(笑)
「友よ泣かないのか」は直接的すぎませんか?
「今日は奇蹟の朝です」もありえますか?
やはり「ぼくたちの失敗」かな?

>“畳”部屋、ちゃぶ台か簡素な机、一輪差し、

中央線沿いにあった昔のアパートのイメージですよね?

22 名前:born115 投稿日:2006/10/29 18:17 >>1 born115
森田童子の語り・その2
マザースカイになると、語りを入れた曲は、いっきに減っています。
わずか4曲!
「ニューヨークからの手紙」と「今日は奇蹟の朝です」については
まだ不明ですが、4曲とは少ないですね。
マザースカイはグッドバイに比べて、語りを入れるようなイメージの
曲が少ないってことでしょうか…。

LPに元々入ってる語りは、グッドバイはたったの1曲、マザースカイ
で2曲。 このあたりはアレンジャーの感覚の相違なんでしょうね。
東京カテドラルで初めて、童子さん自身のアレンジによるアルバムが
実現するわけですが、石川さんもすばらしいけど、童子さんのアレンジに
よるグッドバイとかマザースカイのアルバムも見てみたかったですよネ。

==========================================================

M1 ぼくたちの失敗 
『仲間が何人も申し合わせたように規則正しく…』 ((イントロ乗り)前語り)(81LP友への手紙)
『かつて学生運動家、若い芸術家たちで…』 (イントロ乗り前語り)(76捨てるためのグラフィティ)

M2 ぼくと観光バスに乗ってみませんか 
《ぼくの小さな海辺の観光地にもうすぐ冬がきます…》 (中語り)(76LPマザースカイ)

M4 逆光線 
『夏休みのとても暑い日でした…』 (前語り)
『愚かな日々の退屈に、たばこの火で…』 (前語り)

M6 海を見たいと思った 
『6時近くだろうか、急行津軽2号は…』 (イントロ乗り前語り)(77mcSister)
《行く先のない旅の果てにひとり砂浜にねそべって…》 (中語り)(76LPマザースカイ)

==========================================================

23 名前:born115 投稿日:2006/10/29 22:40 >>1 born115
武川雅寛さん
「夜想曲」のとき、弦楽器(バイオリン?)で童子さんを
サポートしたひと。 
さっき、つま恋2006を見てたら、アンコールの「神田川」
のときに出てましたね。 NHKhで放送したときには気が
つきませんでした。

24 名前:k_1920 投稿日:2006/10/29 23:11 >>17 born115
Re: k_1920さん
born115さん楽しませて頂いてます。
貴重なお答えありがとうございました。

>童子さんのアレンジ・・・アルバムも見てみたかったですよネ。
同感ですね!想像するだけでもワクワクします。

>書き綴って手元に残してくれてると思われますか?
>当時、童子さんは空で話してたんでしょう?
そうですね、確かに空で話されてた記憶がありますね
そうすると、残して無いのかも知れませんね。

>できるかぎり記録として残したい…そういう気持ちなんです。
記録しなければ残りませんし、大変重要なことですね!
born115さんそのお気持ちに賛同します。
それにしても、やられてる作業には頭が下がります。
スゴイです!一枚でも多くの記録が残せるといいですね。

>“エッセイ”と呼んでますが、何かもっと良い言い方はない
う〜ん難しいですね・・叙情詩?モノローグ?
born115さん私の頭では、考えれないようです(笑)

「文芸坐ル・ピリエ」のコンサートで
“逆光線”のMCで語った「ダイアン・アーバス」の
話がとても印象的で心に残ってます。
童子さんの語るエッセイには、唄と共にそのエッセイから出てくる
ひふ感とか息ずかい?みたいなものを感じ取れることが出来る
のかも知れませんね、だからとても大切なものなんですよね。
まるで、芝居を見てるかのように・・て思ったりするのですが。
意味不明な内容ですね(苦笑)

nonko551jpさん
こちらも、楽しみにしてます!

25 名前:born115 投稿日:2006/10/30 23:32 >>24 k_1920
Re: k_1920さん
k_1920さん、こんばんは!

ダイアン・アーバスの話は逆光線で…、これ忘れてました(^_^;)。
それと、パブロ・カザルスの話(ぼくたちの失敗)もあったんで
すよね?
「叙情詩?モノローグ?」と言われて思い出したんですが、
狼に育てられた少女アマルとカマルの話もありましたよねぇ。
それから、松本さんの話とドモンの話の“被誘導曲”は、
?マークを入れるべきですよね。 カテドラルのレコードは
けっこう編集されてるから、実際は違ったかもしれないし。

> 童子さんの語るエッセイには、唄と共にそのエッセイから
> 出てくるひふ感とか息ずかい?みたいなものを感じ取れる

それ! それですね、ひふ感と息遣い! しびれます(笑)。

26 名前:nonko551jp 投稿日:2006/11/ 2 0:58 >>21 born115
Re:bornさん
こんばんは。

>その、イメージがふくらんだところでお尋ねしたかったん
ですよ。(笑)

イメージを膨らませすぎて、破裂してしまったようです〜(笑)。
だんだんとわからなくなってきました〜。

>「今日は奇蹟の朝です」もありえますか?

想像もしませんでした!
神秘的な詩ですよね。
「グリーン大佐答えて下さい」もそうですが、
“平和への祈り”みたいなものがこめられているような…。

>中央線沿いにあった昔のアパートのイメージですよね?

ときわ荘ですね!
といいながら中央線…よく知らないんです。
昔の古き良き時代‥憧れます。

27 名前:born115 投稿日:2006/11/ 6 22:10 >>22 born115
森田童子の語り・その3
ア・ボーイでも語りを入れた曲は5曲と、少ないです。
ここでは、童子さんの新しい手法が見られますよね。 後語り!
こういうの、今まで私は聞いたことがなかったです。

「中央線の阿佐ヶ谷駅を降りて…」 は、東京でのコンサートでは
「阿佐ヶ谷駅を降りて…」 となっていたようです。 
つまり、“中央線”は言わずもがなということだったのでしょう。 
バックは、友への手紙では 「終曲のために第3番」 ですが、
コンサートではピアノ演奏だったようです。

=====================================================================
A1 蒼き夜は 
『(中央線の)阿佐ヶ谷駅を降りて小さな店が並ぶ…』 ((イントロ乗り)前語り)(81LP友への手紙)

A3 ふるえているネ 
【ぼくが愛したともだちのそして模型飛行機の…】 (後語り)

A4 ぼくを見かけませんでしたか
『風に一面にひろがる麦畑が波のようにうねって…』 (前語り)
《風に一面にひろがる麦畑が波のようにうねって…》 (中語り)(77LPア・ボーイ)

A6 淋しい素描 
【ラジオ、消しゴム、万年筆、新聞、…】 (後語り)(81LP友への手紙)

A9 終曲のために第3番「友への手紙」
《ぼくが愛したともだちのそして模型飛行機の…》 (中語り)(77LPア・ボーイ)


T6 友よ泣かないのか
『(友よ)ぼくたちは輝く陽射しを目ざすべきでは…』 (前語り=タイトル?)

T10 風さわぐ原地の中に
《俺とお前は幼なじみのようにいつもふたりだった…》 (中語り)(78LP東京カテドラル)

=====================================================================

28 名前:k_1920 投稿日:2006/11/11 0:00 >>27 born115
今日は・・
24年前の今日は「夜想曲」の発売日だったのですね!
このアルバムは、今までにない新鮮さで良く覚えてます。

29 名前:k_1920 投稿日:2006/11/11 0:24 >>28 k_1920
Re: 今日は・・
ありゃ・・先程の書き込み10日中に書いたつもりですが1秒?遅かった(笑)
born115さん「語り」の内容は、凄く興味深く楽しいですね。
「早春にてと地平線」に、前語りがないのはイメージ?と
して納得する気がしますが・・難しいな〜

30 名前:born115 投稿日:2006/11/11 20:36 >>28 k_1920
Re: 今日は・・
11/11 0:00の投稿! 
きれいに数字がそろっていてびっくりしました!(笑)

> 24年前の今日は「夜想曲」の発売日だったのですね!

すっかり忘れていましたよ。
夜想曲、発売日は11月10日だったんですね。
同じ11月でも、ラスト・ワルツが20日で、狼少年が30日、ワーナーの
アルバム発売日はマチマチだったんですねぇ。 
今まであまり意識してなかったですよ!

ところで、夜想曲は発売記念のコンサートがなかったという、以前からの
k_1920 さんのご指摘、今はどのように捉えていらっしゃいますか?
S 村さんがインドに渡ってしまったことも大きな要因だったんでしょうねぇ…
23日(火)に一応、ロフトで「夜想曲」発売記念のライブが催されてはいます
けど… 当時の思い出話など、もしありましたら、お願いしま〜す。

31 名前:k_1920 投稿日:2006/11/14 0:28 >>30 born115
「夜想曲」発売記念コンサート
>きれいに数字がそろっていてびっくりしました!
born115さん視点が違ったようですね〜(笑)
数字ですか・・言われて初めて気がついたしだいです。
>今はどのように捉えていらっしゃいますか?
また〜難しい質問をされますね。
「夜想曲」が発売された年は、コンサートの少ない年でしたよね。
ここらで?“ひと休み”をされたのかも知れませんね?

>当時の思い出話などもし、ありましたら
そうですね〜ロフトでの「夜想曲」発売記念のライブ
このライブは、その当時・・ロフト始まって以来の?伝説になるライブでは?!と、思うほどの凄い人の数でした。満員のため客席の椅子は取り払われ
直接床に座って聴くことになり、身動きが取れないくらい
すごくて、童子さんの唄の心地良さと酸欠状態とで気が遠くなりながら(笑)
聴き入ってました。ステージの周りにも人で一杯でした。
(それだけに!当時我々は童子さんのライブを待ってたのですネ)
ロフトの床で座ってライブを聴くという事がなかったモノで
したから、忘れられないライブになりました。
「夜想曲」のアルバムには、そんな思い出があります。
いい時代でした。。

32 名前:born115 投稿日:2006/11/18 22:27 >>31 k_1920
Re: 「夜想曲」発売記念コンサート
k_1920さん、ありがとうございます!

> 満員のため客席の椅子は取り払われ 直接床に座って聴くことになり、
> 身動きが取れないくらいすごくて、

床に直接座らせるとは、ロフトさんもずいぶん思い切ったことをさせた
ものですね(笑い)。 ロフトは、(童子さんによると)50人ぐらいで
いっぱいになるそうですが、何人ぐらいが入ったんでしょう?
折りたたみ椅子ですよね? 椅子が50ぐらいあったという話なのかなぁ…
ロフトも、ルイードなんかと同じように、ステージの反対側にバーとかが
あって、椅子の列とバーの間が立ち見用のスペースになってるんでしょ?
じゃあ200人ぐらい入れますよね?

で、こんなことがあったので、12月にもういちど発売記念コンサート
(パート2)を開催したのかもしれませんね。

童子さんの話: 私は東京では、ライブハウスといって50人ぐらい
入るといっぱいになってしまうような小さな店で、月に1、2度唄った
りしています。 東京へ出て来ることがあったら聴きに来てください。

33 名前:born115 投稿日:2006/11/19 18:12 >>27 born115
森田童子の語り・その4
「赤いダウンパーカーぼくのともだち」の中語りは注目しています。
「ラストワルツ」の前語りはすっごく素敵ですね。 森田童子の世界!、
というより、森田童子の哲学! みたいなものでしょうか…


=====================================================================
L1 赤いダウンパーカーぼくのともだち 
《弱虫で静かな君をぼくはとっても好きだった…》 (中語り)(80LPラストワルツ)
《あの頃ぼくたちは決して不幸ではなかった…》 (中語り)

L2 菜の花あかり
『夜のなかを夜に溶けて夜を横切って…』 (前語り)(81LP友への手紙)
【夜のなかを夜に溶けて夜を横切って…】 (後語り)
 
L3 海が死んでもいいョって鳴いている 
《ぼくの声に驚いて目を覚ましました…》 (中語り)(80LPラストワルツ)

L6 きれいに咲いた 
《暗闇の中に写しだされた夏休みの幻燈会のように…》 (中語り)(80LPラストワルツ)
『夜空に花火みたいに君とぼくきれいに咲いた』 (前語り=タイトル?)

L8 ラスト・ワルツ
『自分の意思で何かをやるということを私たちは…』 (前語り)
『失われていくひとときはとても美しく思われます…』 (前語り)


Y5 サナトリウム 
【朝方ぼくはよく同じ夢を見ますその夢は…】 (後語り) (LP収録前のバージョン)
【結核前夜のようにぼくはよく同じ夢を見ます…】 (後語り)(82LP夜想曲)

Y6 船がくるぞ
《ああなんて明るいんだ!… ;ああなんて暗いんだ!…》 (中語り)(82LP夜想曲)

Y7 孤立無援の唄 
【葉書きありがとう君といた時間が長過ぎたのかも…】 (後語り)(82LP夜想曲)


O4 151680時間の夢 
【ぼくは昨日の続きの夢を見るそしてまた…】 (後語り)(83LP狼少年)

O5 球根栽培の唄(ときわ荘にて録音) 
《淋しいページの音をめくり長い思想のむなしさを読む…》 (中語り)(83LP狼少年)
『60年代に、空き缶を利用して誰でも作ることができる…』 (前語り)
【淋しいページの音をめくり長い思想のむなしさを読む…】 (後語り)

O7 憂鬱デス
《淋しき夕辺に郷里からの小包を開きひとりサクサクと…》 (中語り)(83LP狼少年)
『ラジオ、消しゴム、万年筆、新聞、…』 (イントロ乗り前語り)

=====================================================================

34 名前:nonko551jp 投稿日:2006/11/20 18:50 >>33 born115
「ラストワルツ」の前語り
>『失われていくひとときはとても美しく思われます…』


いちばん好きな語りなんですよ。
そうですね!哲学といってしまってもいいくらい‥
究極の語りではないでしょうか。

童子さんを理解するうえで、とても重要な意味を持つ言葉
のようにも思います。 

言い過ぎだったら、とめて下さい(笑)。

35 名前:born115 投稿日:2006/11/21 20:38 >>34 nonko551jp
Re: 「ラストワルツ」の前語り
『…今ぼくはすべてが遠くみえます』

> 言い過ぎだったら、とめて下さい(笑)。

いえ、止めません(笑)。
童子さんの実感としてできた詩なのかもしれない、そんな風に私にも
思えてしまいます。
それに、この詩は、そのまま今の私にあてはまってしまうんですよね(笑)。

36 名前:born115 投稿日:2006/11/21 20:48 >>10 born115
今日はアルバムデビュー記念日です
31年前の今日11月21日、グッド・バイが発売されました。
シングル発売からちょうどひと月なんですが、ひと月って
意外と長いですね。 童子さんのこのひと月はいかばかり
だったか…

アルバムを聴いて「アグネス・チャンみたい」と評した
有名な評論家さんがいましたが、どのあたりが似てると
思ったのでしょう。 何年かかっても、こればかりは
理解できないんですよ(笑い)。

37 名前:k_1920 投稿日:2006/11/28 23:55 >>
「夜行」のコンサート
この時期は、黒色テント「夜行」のコンサートを思い出します。
コンサートが終わってテントの中で流れてた「菜の花あかり」が
とても印象的でした。春を待つやさしい気持ちになれて・・
>「ラストワルツ」の前語りはすっごく素敵ですね。
同感致します!泣けます。

38 名前:born115 投稿日:2006/11/30 20:06 >>37 k_1920
Re: 「夜行」のコンサート
> コンサートが終わってテントの中で流れてた「菜の花あかり」が
とても印象的でした。

そうでしたか、「菜の花あかり」がみんなを見送ってくれたんですね。
コンサート後の興奮と熱気が私にも伝わってきました!
黒色テントを目の当たりにした感動を、高橋伴明さんが書いていらっし
ゃったのを思い出します。

   池袋から数分歩いてゆくうちに、右手の向うから、
   すぐ童子が音合せで歌う声が小さく聞こえてきた。
   童子の歌を道標べにして、私の足はだんだん早く
   なっていた。そして、ビルとビルの谷間のふところ
   に抱かれるようにして、ひっそりと童子の黒色テント
   は横たわっていた。    
   (抄)―― 鮮明に焼きつく『春爛漫』(高橋伴明)

「菜の花あかり」は、その後ロフトでも“蛍の光”の役目をしてましたね!
コンサートのオープニングとしても何度も唄われましたし、 自選集
「友への手紙」でも一番初めに入ってるし、ワーナーに移ってからの
最も重要な曲のひとつになったみたいですね。

39 名前:nonko551jp 投稿日:2006/12/ 1 23:24 >>37 k_1920
気になる言葉。
k_1920さん
いつも、興味深く拝見させてもらっています。
「菜の花あかり」で思い出したのですが、
「埋母記」というお芝居?で童子さんのテープ(声)が
流れたそうですね。

かれこれ20数年前の話ですが、童子さんのテープを
聴いていたとき、「劇にでてた」と言った人がいて、
とても驚き興奮したのを憶えています。
結局詳しいことはわからずじまい。

「埋母記」のお話を聞いたときに、ひょっとして、
このお芝居のことだったのかなぁ…なんて憶測していたのですが。
それとも、本当に童子さん自身が何かの劇に
出演されたことがあるんでしょうか?
いろいろとひとり思いをめぐらせてはいますが、
いまだ、謎のままです(笑)。

k_1920さん、何かご存じありませんか?
いまもずっと、あの時聞いた言葉が忘れられずにいます。

40 名前:born115 投稿日:2006/12/ 4 21:09 >>4 born115
時刻表を見て…森田童子エッセイの追加
MCエッセイの追加です。 時刻表を見て楽しんだという童子さんの思い出
話しですが、「センチメンタル通り」の前で語られたものと「海を見たい
と思った」の前で語られたものでは、若干内容が異なっていました。

一つは:
童子さんは、唄い始める前までは、
 『出不精で怠け者で、あまりいろんな所へ出て歩くということはしたこと
  がなかった』
そうです。
 『私の唯一の楽しみというのは、毎月の汽車の時刻表を、夕ご飯が終って
  から、見ながら、あそこへ行くにはこういうふうに行くんだなぁとか、
  頭の中でわりと、旅行しちゃうことが多かった』
そうです。唄い始めて、ほぼ全国をまわったいま、
 『実際に、こう、まわることの味気なさみたいなのを、最近つくづく感じ
  たりしているわけです。センチメンタル通りです。』
と結ばれています。

もうひとつは:
童子さんは、唄い始める前までは、
 『旅っていうのは、ほとんどしたことがなくて、高校のとき、胸を悪く
  して入院したりしているときは、汽車の時刻表を見たりして、あそこ
  にはこうやって行くんだなぁとか、そういうことを考えたりしている
  ときが一番楽し』
かったそうです。唄い始めて、ほぼ全国をまわったいま、
 『旅っていうのは、ほんとに行かない方がいいのかもしれないのにって
  思ったりしています』
と結ばれています。

41 名前:k_1920 投稿日:2006/12/ 4 23:54 >>39 nonko551jp
Re: 気になる言葉。
nonko551jpさんこんにちは
>「劇にでてた」と言った人がいて、、
もしかしたら!?可能性があるのかも知れませんね。

>「埋母記」のお話を聞いたときに、ひょっとして、
この芝居は、80年6月20日〜22日の公演で
童子さんは曲を提供されただけで出演は無かったと思いますが・・
「ル・ピリエ地下室」のコンサートで「菜の花あかり」の唄の時にこの芝居の告知をされたと記憶してます。芝居のメイン?の曲だった気がします。

81年11月の「双頭の歌」のコンサートは、1幕が昭和精吾さんの(劇)
2幕が童子さんのコンサートで「唄と芝居の演出?」が、同時進行のようになってたように思います。
童子さんのコンサートでは珍しいかたち?だった気がします。
当時は、早稲田大学の学祭も開催されてて、構内はにぎやかでした。

>それとも、本当に童子さん自身が何かの劇に
>出演されたことがあるんでしょうか?
上記以外は、芝居に関して詳しいことはわかりません。
もしかすると、born115 さん何かご存じでは?と思いますが。

>k_1920さん、何かご存じありませんか?
nonko551jpさん曖昧な記憶ですのでどうぞご参考までに!

42 名前:nonko551jp 投稿日:2006/12/ 6 22:03 >>41 k_1920
「双頭の歌」
k_1920さん、ありがとうございます。
「双頭の歌」もご覧になられていたのですね!
実はこのコンサートも前からとても気になっていたんですよ。

>「唄と芝居の演出?」が、同時進行のようになってた

どのような構成だったんでしょう?
通常のコンサートとは、なにやら趣が違うみたいですね。
このコンサートのことだった可能性もあるかも‥

「双頭の歌」は、あの寺山修司さんも観に来られていたそうですね。

童子さんは、いろんな演劇関係者と関わりが
あるようですので、そういった意味でも興味深いです。
bornさん、何かご存じでしたらお願いします!

余談ですが、「きれいに咲いた」の語りを聞くとき
暗転の中、スポットライトにつつまれ立ち尽くす童子さんの
姿を思い浮かべてしまうんですよ(笑)。
ちょっとお芝居のセリフみたいな感じがしませんか?

43 名前:kagemusha_hunter 投稿日:2006/12/10 3:44 >>1 born115
Re: 森田童子さん…
はじめまして。
何気なくBBSを探していたらこのページに辿り着きました。
いろいろ当時のことを語っている方がいて、
当時を知らないものとして感激です!

ところで「友への手紙」の発売日って何処を探しても
見つからないのですが、知っていますでしょうか?
前後のアルバムを見ますと年末のようなきがしますが、
過去にあったどこかのBBSで夏に出たっという方もいて
教えて下さい。

44 名前:born115 投稿日:2006/12/10 17:19 >>39 nonko551jp
Re: 気になる言葉。
>「劇にでてた」と言った人がいて、

童子さんが、『舞台を手伝ったことがある』というようなことを
話されてたのは聞いたことがあります。 でもご自身が“出演”
というのは聞いたことがないし、ちょっと考えられません。
ポリドール時代は99パーセント無いと思います。ワーナーに移籍
してからも、k_1920さんが聞いたことがないと仰るなら、やはり
99パーセント無いと思いますよ。

童子さんには映画や演劇関係の知り合いが沢山いて、出ようと
思えばいつでも…という状況だったのでしょうけど。

45 名前:born115 投稿日:2006/12/10 17:26 >>43 kagemusha_hunter
Re: kagemusha_hunter さん
ようこそ、kagemusha_hunter さん。

> 「友への手紙」の発売日って

テープだけの発売でしたので、残念ながら正確な発売日の記載はどこにも
ないと思います。

プロモLPについている“森田童子アルバム目録”に
『昭和五十六年夏 森田童子自選集「友への手紙」(テープ企画全16曲)
を発表する。』
とありますから、81年の夏発売に間違いありません。

同じく“森田童子軌跡”の最後の行に、
『昭和五十六年十月/…「双頭の歌」を五日から八日まで連続四日間…現在
製作進行中です。』
という記載があります。

新譜ジャーナル11月号には、
「森田童子と寺山修司がジョイント」という見出しで、“双頭の歌”を
予告している記事が書いてありますが、その最後に
『「森田童子自選集」が先日発売されている』
という記載があります。

ですから順序として
カセット発売(一部プロモLPも?) → プロモLP → 双頭の歌(10月初め)
となるわけですね。

ですから、遅くとも9月初め、でも、おそらく8月には発売されていたん
じゃないかと思われます。

46 名前:born115 投稿日:2006/12/10 17:36 >>1 born115
森田童子・効果音リスト
曲前の効果音は、洋楽ポップスではよく使われた常套手段でした。
でも曲末・曲後は、童子さんのオリジナルではないでしょうか?
“曲末”に、効果音とか語りを持ってきたのは、童子さんならでは
の手法だったように思われます。

効果音の呼び方については、それが“何の音”なのか、迷うものが多々
ありますが、何人かの意見を聞いて無難なところを書いてみました。

==================================================

G1 早春にて
超特急が過ぎ去る音(曲末) (75LPグッドバイ)

G4 雨のクロール
落雷の音(曲後) (LP未収録)※
  
G5 地平線 
雷鳴と鳥の鳴き声(曲前と曲末) (75LPグッドバイ)
雷鳴と鳥の鳴き声(曲前) (78LP東京カテドラル)
cf. チェンバロ〜雷鳴と鳥の鳴き声(曲前) (LP未収録)※

G6 センチメンタル通り
バイクの音(曲前) (75LPグッドバイ)


M4 逆光線
セミの鳴き声(曲末) (76LPマザースカイ=81LP友への手紙)※

M6 海を見たいと思った 
波の音(曲中) (78LP東京カテドラル)
SLと汽笛(曲前) (LP未収録)※


A3 ふるえているネ
羽音(曲末) (77LPア・ボーイ)

A6 淋しい素描
雨音とネコの鳴き声(曲後) (77LPア・ボーイ)

A7 ぼくが君の思い出になってあげよう
北風の音(曲中) (77LPア・ボーイ)


L4 グリーン大佐答えて下さい
基地のジェット音(曲後) (80LPラストワルツ)
北風の音(曲中) (LP未収録?)

L8 ラスト・ワルツ
古いレコードの音(曲後) (80LPラストワルツ)


Y1 蒸留反応
木枯らしの音(曲中) (82LP夜想曲)

Y2 淋しい猫 
風鈴の音(曲中) (82LP夜想曲)

Y3 ぼくは16角形 
効果音??(曲中) (82LP夜想曲)


O5 球根栽培の唄(ときわ荘にて録音)
雑踏の音(曲末) (83LP狼少年)

O6 ぼくのせいですか
波の音(曲末) (83LP狼少年)


※印=コンサートツアに携帯されたことが確認されてるもの

47 名前:kagemusha_hunter 投稿日:2006/12/10 20:13 >>45 born115
Re: born115 さん
born115 さん
教えていただきありがとうございます!!

発売日等の情報ってなんとかして調べられなんでしょうかね。
発売元のワーナーミュージックとか、
当時の音楽カタログ、雑誌等に告知が載ってるとか
いろいろ考えますけど、カセットという特性上
あまり情報が出回っていないでしょうかね、、、

48 名前:nonko551jp 投稿日:2006/12/14 1:05 >>44 born115
bornさん
ありがとうございます。
童子さんご自身が劇に出演されたことはないようですね。
きっと、「埋母記」か「双頭の歌」どちらかのことだった
んでしょうね。お芝居がらみだし‥。
演じる、というか「淋しい素描」「グリーン大佐‥」での
童子さんの、さりげない演出を楽しんでいます(^^)。

「雨のクロール」の効果音は、“落雷の音(曲後)”ですか!
衝撃的ですね〜〜。
『グッド・バイ』での収録順、「雨のクロール」→「(雷鳴音)地平線」
と続くのも、おもしろいですね。

49 名前:k_1920 投稿日:2006/12/15 0:33 >>42 nonko551jp
Re: 「双頭の歌」
nonko551jpさんこんにちは
>「唄と芝居の演出?」
>同時進行のようになってたように思います。
この文章に、誤解をさせてしまいました・・済みません。
朗読劇と童子さんの唄の1部、2部で同時進行では無いですよね
改めて御免なさい。
このコンサートは覚えてる限りでは、約1時間程で
10曲程度唄ってました。
すごいジョイントで印象的だったのですが・・
大部分忘れてしまいました。としですね〜(笑)
ちなみに最初の曲は「グリーン大佐答えて下さい」でしたよ。
もうヒトツちなみに「埋母記」の挿入歌“菜の花あかり”は
当時まだレコードになってない曲でした。

>「きれいに咲いた」の語りを聞くと
>ちょっとお芝居のセリフみたいな感じがしませんか?
なるほど!迫力がありますしね。
芝居的?な印象は「春爛漫」を唄ってる童子さんの
頭上から降って来た紙吹雪に芝居のシーンを思った事が有ります。

born115 さん
>G1 早春にて 超特急が過ぎ去る音(曲末) 
そうなんですか!ず〜と“飛行機が飛び立つ音”だと
思って聴いてましたよ。思い込みって凄いですね(笑)

50 名前:born115 投稿日:2006/12/15 20:24 >>49 k_1920
Re: 効果音
nonko551jpさん
>『グッド・バイ』での収録順、「雨のクロール」→「(雷鳴音)地平線」
> と続くのも、おもしろいですね。

さすがですね!! さすがによくアルバムを聴きこんでいらっしゃる!
私も、雨のクロール→地平線 の曲順のことが気になっていたんですよ。
効果音つながりで童子さんが意図したものなのか、たまたまそうなった
のか… どちらなんでしょうね。

k_1920さん
> (超特急が過ぎ去る音)そうなんですか!
> ず〜と“飛行機が飛び立つ音”だと思って聴いてましたよ。

いえ、よくわかりません!(笑い)
私も飛行機かなと思ってた時期もあります。
ともかく、“目の前をあっという間に通り過ぎる”音ですよね?
地平線の鳥は“ウミネコ”でいいんですか?

51 名前:born115 投稿日:2006/12/15 21:19 >>42 nonko551jp
「きれいに咲いた」の語り
「きれいに咲いた」は、78年11月にすでにライブで唄われた記録が
あります。 このときは、まだ“中語り”はありませんでした。

ラスト・ワルツのアルバムの中で、アルバム発売(黒色テント夜行)
より前から唄われていた曲は、
「きれいに咲いた」、「グリーン大佐答えて下さい」、「菜の花あかり」
の3曲のようです。

アルバム発売と同じ頃に収録されたNHK-FMのニューサウンズSpで、
生演奏として選ばれた曲が「菜の花あかり」と「きれいに咲いた」の2曲
だったのは、このあたりと関係がありそうですね。

52 名前:nonko551jp 投稿日:2006/12/19 20:59 >>49 k_1920
Re: k_1920さん
k_1920さん、こんばんは。

>「唄と芝居の演出?」
>同時進行のようになってたように思います。
>この文章に、誤解をさせてしまいました・・済みません。


いえいえ〜k_1920さんの仰りたかったことがわかるような
気がします。
きっと2部の童子さんのコンサートでも、1部で観た劇の
余韻が漂っているような‥たとえば、何か趣向が
凝らされていたりとか、なにかしら演出がなされていたの
では‥と想像しています。

ちなみに「埋母記」を公演した劇団の名前は何と言うんですか?

53 名前:k_1920 投稿日:2006/12/24 0:17 >>52 nonko551jp
nonko551jpさん
nonko551jpさん、こんにちは。

当時も今も、演劇関連はあまり詳しく無いのですが
「埋母記」は、童子さんが始めて演劇の音楽を担当されたと
いう事もあり、ワクワクしながら観劇した思い出が有ります。

>ちなみに「埋母記」を公演した劇団の名前は何と言うんですか?
チケットに書かれてる内容ですが。
「劇団“玄洋社”」第2回公演
“夜ノ方カラ近ゾイテモ、コノ町ニ入口ハ見当ラヌ”
場所「早稲田銅鑼魔館」日時80年6月20日〜22日

nonko551jpさんは、演劇詳しそうですね。

54 名前:born115 投稿日:2006/12/24 17:52 >>53 k_1920
Re: nonko551jpさん
k_1920さん、寺山修司の昔のラジオドラマのこと、のんこさんなら
何か面白いことご存じかもしれませんよ〜(^^)v。

55 名前:born115 投稿日:2006/12/24 17:56 >>1 born115
カテドラル・実際の曲順
東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤

1 地平線 ←1
2 逆光線 ←5
3 君は変わっちゃったネ ←2
4 雨のクロール ←8
5 ぼくと観光バスに乗ってみませんか ←9
6 友よ泣かないのか ←11
7 海を見たいと思った ←13 
8 センチメンタル通り ←15
9 さよなら ぼくの ともだち ←ラスト
10 風さわぐ原地の中に ←アンコール

56 名前:born115 投稿日:2006/12/26 19:41 >>1 born115
森田童子軌跡のバージョン
引用は最後の項だけにします。

@バージョン1:1981年LP友への手紙プロモ 
 『▼昭和五十六年十月/…「双頭の歌」…早稲田大学大隈講堂裏特設テントにて現在製作進行中です。
   昭和五十六年11月/恒例の森田童子黒色テント劇場「ねじ式」が予定されています。』
カセットの歌詞カードや、一部の放送局用LPには森田童子軌跡は掲載されていません。 
(歌詞の中に、語りも印刷されてませんよね)
放送関係者の便宜をはかって、8月か9月頃、童子さんが急遽準備されたのではないでしょうか。

Aバージョン2:1982年LP夜想曲プロモ
 『▼昭和五十六年十月/…「双頭の歌」…早稲田大学大隈講堂裏特設テントにて(空白) 
   昭和五十六年11月/恒例の森田童子黒色テント劇場「ねじ式」(空白)』
バージョン1 から2ヶ所を切り取っただけです。

Bバージョン3:1983年狼少年創刊準備号
(「公演軌跡」として。 レイアウトが新聞用のものです)
 『▼昭和五十六年11月恒例の森田童子黒色テント劇場「ねじ式」は両国駅国鉄構内で5日間の公演
  ▼昭和58年「私達の旅するねじ式劇場」は一年がかりで全国をまわりました。
  ▼昭和58年度、最終の公演活動として吉祥寺の前進座にて森田童子「狼少年・連続6日間」を準備中である。』

Cバージョン4:1993年発売の全CD(ベスト・コレクションIIを除く)
 『昭和58年12月/前進座劇場(吉祥寺)連続6日公演
   同  12月/新宿ロフト「死ぬなライブハウス」で森田童子の活動は解散終了した。』
引退後ということもあって、削除や表現の修正がかなり見られます。

Dバージョン5:1993年ベスト・コレクションII
(「森田童子プロフィール」として)
バージョン4 のものから何ヶ所かが省略され、簡略化されてますね。 レイアウトも変わりました。

57 名前:nonko551jp 投稿日:2006/12/30 21:01 >>53 k_1920
寺山修司
k_1920さん、ありがとうございます!
劇団“玄洋社”ですか。
きっと、童子さんと親交のある劇団のひとつだったんでしょうね。

演劇、ぜんぜん詳しくなんてないですよ〜。
寺山修司は、童子さん繋がり?ということもあり
けっこうのめり込んだ時期がありました。
といっても詩歌や映画が中心ですが‥。
bornさん、k_1920さん、ラジオドラマのことは
なにも知らないんです。ご期待に添えずごめんなさい。

そういえば
彼の当時の近況を綴ったものの中に

「最近はじめて森田童子の唄というのをききましたが
気に入ってます。」(1981.5.12)

と書かれてあります。

「双頭の歌」(1981.11)では童子さんの唄を
楽しまれたことでしょうね。

それから1年半ほど経って(1983.5)彼は他界してしまったんですよね‥

58 名前:born115 投稿日:2006/12/31 16:06 >>1 born115
「地平線」について
@効果音について
雷鳴の効果音は、グッドバイでは、曲の前だけでなく曲末にも入っている
のにお気付きでしたか? 大変興味深いと思います。 ライブでは、全く
入れないか、曲の前だけ入れる、そのどちらかだったようです。

A語りについて
中語り 『ぬけるように青い六月の…』 は、77年6月頃のライブから入れた
と思われます。 

B5番について
5番 『地平線の向こうには 愛よりも深い 海がある …』 がライブで
唄われたことは、まだ確認できていません。 77年以降は唄われてない
はずです。

Cキーについて
いつ頃からかわかりませんが、ライブでは、グッドバイの録音より1音ほど
キーが高くなっています。 
童子さんの高い声は大変きれいですから、グッドバイのとき、どうしてキー
を下げて収録したのか、不思議ですね。 グッドバイを聴くたびに惜しまれ
てなりません。

=======================================

童子さんのファンのみなさん、
今年も、いろいろお世話になり、ありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎えください!

59 名前:ki_la_la_k 投稿日:2007/ 1/ 7 2:00 >>58 born115
☆明けましておめでとうございます☆
bornさん、皆さま、ごぶさたしております。

今年もどうぞよろしくお願いいたします^^。
佐久間順平さんに童子のアルバムについて直接お聞きする機会がありました・・。
順平さんが関わったアルバムは「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」以外にあったか・・・。
順平さんは、いきなりだったので首をかしげておられ・・終了となってしまいました。

ちょっと無理がありましたよネ。順平さんにごめんなさいです(笑)

60 名前:born115 投稿日:2007/ 1/10 20:42 >>59 ki_la_la_k
ki_la_la_k さん
> ちょっと無理がありましたよネ。順平さんにごめんなさいです(笑)

返答に困られた順平さんのお顔が目に浮かびます!(笑い)
うかつな返事をされなかったのは、順平さんのお人柄のような気がします。

森田童子の夜想曲C『大酒飲みの順平さん』(83年5月4日朝日新聞掲載)
ですが、
  『自分のギターのサウンドホールの中へ吐いてしまった』
という大酒のみは、故高田渡さんのことだそうです。
 
  『演奏中に「ステージの上で順平は眠ってしまった」』
という箇所も高田渡さんに置き換えれば納得できますよね。
高田渡さんを順平さんにしたてたのは、「童子さんがエッセイを面白く
するためにそう書いたんでしょう」という順平さんのお話でした。

  『順平さんは、ギターにバイオリンにハーモニカと、マルチプレーヤー
   ぷりを発輝して、私のステージをよく盛りたててくれました。』
童子さんがご自分でハーモニカを使われるようになったのは80年以降だと
思うんですが、もしそうだとしたら、順平さんのハーモニカでのサポート
というのは興味深いですね。

  『もしも、気が向いたら吉祥寺の裏通りにあるライブハウスNへ酒飲みの
   順平さんの歌を聴きに行ってみて下さい。』
このライブハウスは“ノラ”というライブハウスだそうです(よね?)。

61 名前:born115 投稿日:2007/ 1/10 21:54 >>1 born115
安全カミソリ
フォーリーブスの北公次さんが唄った、森田童子作詞作曲『安全カミソリ』
がやっと手に入りました。 探し始めたのが2003年10月だから、3年もかか
ったことになります。 前トピで予想したとおりの曲でした。 
北公次さんはいい味出してますね。 ちょっと感動ものです。

62 名前:ki_la_la_k 投稿日:2007/ 1/11 0:34 >>60 born115
bornさん^^
興味深い貴重なお話しありがとうございました!

わぁ〜♪
ものすごく納得しました〜!
故高田渡さんのライブを思い出しました(笑)

bornさん^^童子のエッセイ
これからも紹介して下さいね♪

63 名前:born115 投稿日:2007/ 1/15 7:28 >>1 born115
今日は1月15日
お誕生日、おめでとうございまぁす!

64 名前:ki_la_la_k 投稿日:2007/ 1/15 8:30 >>63 born115
1月15日ですネ☆
童子さん

☆お誕生日おめでとうございます☆


いつも童子さんの唄と一緒にすごしています^^
これからもずっと童子さんとは一緒です☆

65 名前:kosumosumirengeso 投稿日:2007/ 1/15 18:08 >>63 born115
今日は1月15日でした〜!
童子さん、お誕生日おめでとうございます。
そして、ご挨拶遅れましたが、皆様、今年もよろしくお願い致します。

ずっと、掲示板みていたつもりだったんですが、
更新してない事に全然気が付かず、
12月初めから、書き込みがないなぁ〜と淋しく思っていました。
最近疲れてました〜。
今、童子さんのアルバム聞きながら、いつもの自分に戻ろうとしてるところです。
bornさん、ki_la_la_kさん、教えてくれてありがとうございます。
良かった〜!

66 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 1/15 23:15 >>1 born115
祝!1月15日
童子さん、お誕生日おめでとうございます。
きっと、お幸せに暮らしていらっしゃることを
心よりお祈りいたしております。

みなさん、今年もよろしくお願いします。

67 名前:born115 投稿日:2007/ 1/19 20:08 >>61 born115
Re: 安全カミソリ
レーベルの画像を私のプロフィールにアップしておきました。
写真をクリックすれば大きくなります。
歌詞カード/解説書はついていませんので、『安全カミソリ』
に関するcreditはこれのみです。

68 名前:born115 投稿日:2007/ 1/20 20:17 >>1 born115
今朝の新聞から=オオカミ少年
今日の日刊スポーツのニュースから。
『カンボジアで野人発見』という大見出しで、
9歳で18年前に行方不明になった女性(27)が発見され、
保護されたニュースが報道されました。
その記事の中に、過去の長年行方不明からの発見として、
オオカミ少女とオオカミ少年の簡潔な記載があったので
引用します(しても大丈夫かな?)。

(日刊スポーツから抜粋)
◆オオカミ少女
20年、インドでオオカミの巣穴から少女2人が救出された。
妹は約1年で死亡。 姉は約8年生存し、2足歩行と単語などを覚え、
推定17歳で亡くなったとされる。
◆オオカミ少年
76年、インドで推定10歳の少年がオオカミ3匹と一緒に発見された。
マザー・テレサの施設で教育を受け、入浴や服を着ることは覚えたが、
言葉は85年に亡くなるまでしゃべれなかった。

69 名前:k_1920 投稿日:2007/ 1/27 0:57 >>68 born115
Re: 今朝の新聞から=オオカミ少年
born115さん皆さんお久しぶりです。
>『カンボジアで野人発見』という大見出しで
人間の環境順応適応能力の凄さに驚きました。
そして今更ですが、、
「地平線と狼少年・ウルフボーイ」の歌詞について
なぜ「地平線」だったのかと思ったりしました。
「♪狼に育てられたぼくは涙も笑うこともしりません」
狼に育てたられた少年は“お母さんのやさしさ”
を知らない・・
「♪地平線の向こうにはお母さんと同じやさしさがある」
「地平線」の歌詞だからこそでしょうか?
意味不明な内容で分かりにくいですね(スミマセン)
以前にborn115さんが仰られているように「地平線」は
いろんな意味で興味深い曲ですね!

70 名前:born115 投稿日:2007/ 1/31 19:53 >>60 born115
すみません、No.60 の訂正です
みなさんは、とっくにお気づきだったでしょうが、
↓ No.60 の中で一か所、訂正させてください。

このライブハウスは“ノラ”(誤)
このライブハウスは“のろ”(正)

ごめんなさい!

71 名前:born115 投稿日:2007/ 2/ 1 20:43 >>69 k_1920
Re: 今朝の新聞から=オオカミ少年
>「♪狼に育てられた ぼくは涙も笑うことも しりません」

k_1920 さん、こんばんは!
私は今でも “森田童子は地平線で始まり、地平線で終わった” と
信じています。
アルバム狼少年での、書き換えられたこの4番の歌詞は、私にとって
は足を踏み入れることのできないサンクチュアリ、聖域なんですよ。
k_1920 さんもそんな感じがしませんか? 

72 名前:born115 投稿日:2007/ 2/ 1 20:52 >>1 born115
ダミア
オオカミ少年発見が76年ということで、ちょっと気になってダミアを検索
してみたんですが、亡くなったのが1978年、カテドラルの年なんですね。
この年に浅川マキさんが、ご自分で訳詞をつけて “Sombre Dimanche”
(暗い日曜日)のカバーを発表しています。
おそらくこの頃、ダミアは日本でもちょっとした話題になったのではない
でしょうか?

「暗い日曜日」の日本語詞は岩谷時子のバージョンの方が有名らしいです。
↓で見れます。
http://www.duarbo.jp/versoj/v-popular/kurainichiyobi.htm

ダミアの生涯は謎に包まれているそうで、ウィキペディアから引用させて
もらうと…

『十代の頃の彼女には放浪癖が元々あり、15歳のときに父の家を飛び出して
以来波乱と激動に溢れた殆ど極限状態に近い生活を送る。当時の過酷な体験
は後の彼女に深い影響を及ぼした。1911年より歌手として活動。孤独や絶望
をテーマにした作品を数多く歌唱、発表するようになる。第一次世界大戦中
には自ら戦線へ赴き、歌唱で兵士たちを慰問した。』

ということらしいです。
童子さんの唄は、聴く人たちへの影響力が非常に強いという点でダミアの唄
に例えられたのではないかなぁ…と思います。

73 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 2/ 7 19:05 >>72 born115
Re: ダミア
「海で死んだひとは、
 みんなかもめに
 なってしまうのです」

 これは、ダミアの
 古いシャンソンの一節です… 

(寺山修司『かもめ』より)

フランスでは、“かもめ”は死んだ船乗りの魂と
伝えられていたらしく
『死の象徴』だそうですね。


「海で死んだひとは
 みんなかもめに
 なってしまうのです」


わたしの中で何度もぐるぐるまわっています。

74 名前:k_1920 投稿日:2007/ 2/ 8 0:30 >>71 born115
Re: 今朝の新聞から=オオカミ少年
born115さんこんばんは!
>“森田童子は地平線で始まり、地平線で終わった” と信じています。
う〜〜んすごく深いですね〜考えてしまいました。
“地平線”の効果音に関しては曲前と曲末に入ってますし
他の曲にはない手法が使われた事になりますが、地平線以外に有りますか?
コンサートのオープニング曲に時々?唄われたのも“地平線”ですよね。
ちなみみに、初めて行ったコンサートで最初に聴いた唄も“地平線”でした。
その時、初めてお話された童子さんの声の
あまりのやさしさにドキ!とてしまいました。

>アルバム狼少年での・・
>足を踏み入れることのできないサンクチュアリ、聖域なんですよ。
まさしく“聖域”そのものですよね!
この歌詞の持つ大切な部分を改めて感じ取る事が出来ました。

曲名・歌詞・メロディーが換えられた曲を考えて見ました。
「地平線」と「狼少年・ウルフボーイ」
「海が死んでもいいヨって鳴いている」と「ひとり遊び」
この2曲の他に、まだありますか?
「ひとり遊び」では、2番と3番の歌詞が入れ替わってますが
この入れ替わった2番の後に「海が死んでも・・」の“中語り”
が来ると、2番の歌詞との繋がりが出来るのかなと、
勝手に想像してしまいました。
そこで換えられた曲の意味?見たなモノを感じ取ることが
出来るのかも知れれませんね。またまた勝手な想像でした(笑い)

75 名前:born115 投稿日:2007/ 2/12 18:08 >>73 nonko551jp
Re: ダミア
>「海で死んだひとは、
  みんなかもめに
  なってしまうのです」

何か象徴的な一節ですねぇ。
ダミアが寺山修司と結びつくとは思いもしませんでした。
寺山修司さんもダミアの歌に関心を持っていたということ
なんですね?
因みに、『かもめ』という本?は何年の作品なんですか?

76 名前:born115 投稿日:2007/ 2/12 19:17 >>74 k_1920
Re: 今朝の新聞から=オオカミ少年
k_1920 さん、こんばんは!

> “地平線”の効果音に関しては曲前と曲末に入ってますし
  … 地平線以外に有りますか?

曲前と曲末両方に効果音が入ってるのは他に無いと思いますが。
“地平線”もレコードでは確かに曲前と曲末両方に入ってますが、
ライブで曲末に入れたのは聴いたことがありません。 おそらく
レコーディングのときだけだったのではないでしょうか?

> 曲名・歌詞・メロディーが換えられた曲を考えて見ました。
 「地平線」と「狼少年・ウルフボーイ」
 「海が死んでもいいヨって鳴いている」と「ひとり遊び」
 この2曲の他に、まだありますか?

アルバム収録上の変更はこの2曲だけでしょう?
ライブを含めると、サナトリウム、ぼくは16角形、グリーン大佐
答えて下さい、他いくつかありましたよね?

> 「ひとり遊び」では、2番と3番の歌詞が入れ替わってますが

2番 「…夕べあなたの 夢を見ました」 のすぐ後に、
中語り 「…僕は夢の中で 泣いていたようです」 が来ると
意味がつながるということですね?
私は逆に、2番と中語りが離れていたほうが、それぞれの“夢”
という言葉がより印象的に感じられてました。

関連して…
2番の 「初めてタバコを吸いました…」 より、3番の 「声を
出さずに笑うくせ…」 のほうが童子さんはお気に入りだったん
じゃないかなと、個人的に想像しています。
もう一つ…
“僕”という漢字を使ったのは、すべての歌詞の中でこの曲の中語り
のこの一箇所だけなんですね。 ミスタイプだったのでしょうね。

77 名前:born115 投稿日:2007/ 2/12 21:38 >>1 born115
83年7月8日宇都宮
今、ヤフーオークションに興味深い資料が出品されてますね。
83年7月8日宇都宮文化会館小ホールでのコンサートの、
コンサート実現までの記録。 コンサート実行委員会が作成して
当日配布されたものらしいです。

狼少年・創刊準備号に、
   『失なわれた“ボクたちの表現”の復活を求めて――』
    ガリ版刷りのチラシより抜粋 
と、2面をさいて掲載されている記事の元のようです。

童子さんがタウン誌のようなものから引用した例として、
78年12月5日山形市民会館大ホールでのコンサートを特集した
“ロルカ”から『森田童子「ボーイ」の方法』(全集III)があります。 
他にもありましたっけ?

78 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 2/19 18:41 >>75 born115
かもめ
bornさん、こんばんは。
お返事遅くなってしまってすみません。

「かもめ」は青春作品集『時には母のない子のように』
(1984年初版)に収められています。
構成は違ってますが
もとは、For Ladiesシリーズ
『時には母のない子のように』(1969年初版)のようです。

この物語の序章で、寺山修司さんは
“ダミアの好きだったぼくは、
このレコードを大切に持っていました。”
と書いています。

余談ですが
寺山修司さんは「かもめ」という詩を書いていて
浅川マキさんが歌っていらっしゃるんですね。
そして浅川マキさんが歌うダミア‥
なんだか妙につながっていて面白いです。

79 名前:born115 投稿日:2007/ 2/21 21:30 >>78 nonko551jp
Re: かもめ
のんこさん、こんばんは。

> “ダミアの好きだったぼくは、
  このレコードを大切に持っていました。”
> “これは、ダミアの
  古いシャンソンの一節です… ”

寺山修司さんは、この2箇所でダミアについて言及した
ということですね? それも1969年に。

ダミアの死が1978年、浅川マキの「暗い日曜日」も1978年と
いうことで、日本でその名が広まったのはこの頃かと想像
したのですが、寺山修司さんみたいに知る人ぞ知る存在
だったのですねぇ。

私が知ったのは、1年半前なんですよ! それまでダミアの
名前さえ知らなかったです。

80 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 3/ 3 18:29 >>68 born115
Re: 今朝の新聞から=オオカミ少年
遅レスですが‥
ニュースで知ったとき、真っ先に童子さんのことが
頭に浮かびました。
童子さんは、このニュースをどんな風にみてる
のかなぁ‥なんてふとそんなこと考えました。

「狼少年・ウルフボーイ」――タイトルについて

よく、“一匹狼”なんて言い方をするけど、
“狼少年”には、そんな意味合いも含まれているのかなぁ。。
とちょっと思ったりもしました。

81 名前:k_1920 投稿日:2007/ 3/10 2:30 >>1 born115
あの頃
ロフトの開場待ち時間に、地下から流れて来る童子さんの
リハーサルの唄を聴くのが楽しみのひとつになってました。

82 名前:born115 投稿日:2007/ 3/16 23:18 >>80 nonko551jp
“狼少年”の意味
野人発見のニュースで、“オオカミ少年”という言葉が言及されたので、
みなさん、童子さんの“狼少年”を連想されたようですね! 私だけでは
なかったので、うれしくなります。

“狼少年”、世間ではよく、イソップ物語の嘘つき少年の意味で使われます
が、童子さんの“狼少年”は、これとは全く違って、素朴な意味での“狼少
年”に間違いないですネ。 もしかしたら、その上さらに、童子さん独特の、
固有な想いが込められているのかもしれません。 

どんな想いが込められたのか、それを探るヒントが、3つあるかと思います。

 (76年に、インドで“オオカミ少年”がオオカミ3匹と一緒に発見されています)
@ 78年1月  某日刊紙に掲載された“狼少年”という言葉の入ったメッセージ
A 78年11月 FM東京系「森田童子のモノローグ」の中の、アマルとカマル〜手話解説の話    
B 83年11月 「狼少年・ウルフボーイ」、4番の歌詞


上記3つを一つずつ見ていきますと…。

@ 『 …(略) 少年合唱団をバックに 狼少年のように 歌ってみたい 』
(Fさん、一部とはいえ、無断で転載させていただきました。お許しください。)
カテドラルライブにつながるような意味のメッセージ … 私は、そのように
感じています。

Aは、長いので下に記します。 手話解説が、狼に育てられた少女の話の結びになって
いる点に、私は注目しています。

B 『 狼に育てられた ぼくは涙も笑うことも しりません 』
“狼少年”という言葉が、童子さんの心の中で、78年の初頭(あるいはそれ以前)から
83年まで、6年間もあたためられ続けたということになります。 それだけに重みのある
言葉だと思います。

「狼少年」のアルバム(LP)に歌詞カードが無かったことの理由、このアルバムの帯
に書かれた「地下の王様、森田童子のメッセージを、秘密の暗号で きみに送ります」
の意味、その二つが謎とされてきましたが、こうやって、あらためてAのモノローグ
を読み直すと、分かるような気がします。 他にも理由があったのかもしれないですけど…


%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

森田童子のモノローグ 
M2 アマルとカマル〜手話解説の話
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
ずいぶん前に読んだ本で、「狼に育てられた子」という本があります。
それはアマルとカマルの二人の少女が、それは狼に育てられた二人の少女
なんだけれども、穴ぐらで生活しているところを牧師さんに見つけられて、
育てられる記録なんすけれども、人間になつかないそのアマルとカマルと
いう二人の少女が、初めて何日間か人間と生活して、言葉をしゃべるとき
に、普通だったら人間というか、人に話しかけるんだけれども、その二人
の少女は、たどたどしく、薄暗い部屋の中でベッドに話しかけたり、散歩
の途中で木にそっと話しかけたりするわけです。

初めて言葉を話すときに、人に話すのではなくて、動かないベッドや木に、
その二人の少女は話しかけるわけなんだけども、今回、えっと7月の29日に、
私は東京カテドラル教会という所でライブレコーディングをしたんですけれ
ども、そのときに前半の4曲を、ボランティアの横浜ひまわり会という所
から頼んで手話解説をしてもらったわけです。手で話すわけなんだけれども。

で、1曲目が「地平線」という歌で。で、「地平線の向こうにはおかあさん
とおなじやさしさがある」というのを、手でやさしく、こう、話してくれる
わけですネ。 で、私も唄いながらそれを見ていて、口で喋らないという事
は、とてもやさしくて、で、なんていうのかな、やさしすぎて、ほんとに、
こう見ていて、怖いような気がしました。

83 名前:born115 投稿日:2007/ 3/17 18:23 >>81 k_1920
リハーサル
> ロフトの開場待ち時間に、地下から流れて来る童子さんの
リハーサルの唄を聴くのが楽しみのひとつになってました。

k_1920さん、こんばんは!
ロフトのリハーサルは、どんな感じだったんですか?
リハーサルの資料は、ほとんど無いのでよく分かりませんが、
数少ない資料(初期のもの)から私が感じたことに、下記の
ようなものがあります。

・童子さんのMさんに対する信頼がとても大きい
・“語り”はリハーサルしない
・「春爛漫」は念入りにリハーサルする

それに、リハーサルの時間も結構長かったみたいですね?

84 名前:born115 投稿日:2007/ 3/17 18:42 >>56 born115
追加 Re: 森田童子軌跡のバージョン
ひとつ大切なものを、リストに入れ忘れていました。
楽譜集に載っているものです。

A+1 バージョン2':1983年(楽譜集)森田童子全曲集
 『▼昭和56年10月/…「双頭の歌」…早稲田大学大隈講堂裏特設テントにて 
  ▼昭和56年11月/恒例の森田童子黒色テント劇場「ねじ式」』
Aと全く同じ内容ですが、出版社が横書きで新たに活字を組みなおして
います。だから数字もすべて算用数字。

85 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 3/24 21:08 >>82 born115
Re: “狼少年”の意味
bornさん、こんばんは。

当時「狼少年」のレコードに歌詞が入っていなかったのは、
正直いって別の理由を考えてました。
でもAを読むと、なるほど“歌詞がないこと”、
“秘密の暗号”にこめられた想いが理解できるような気がしますね。

“やさしすぎて…、怖い”

bornさんが以前書いてらした童子の「神田川」の話を思い出しました。

「マザー・スカイ」の帯

“やさしさで包装した青春と云う名の凶器を〜”
も象徴的ですが、それぞれ相反するものなんだけど
表裏一体性を感じますね。

今回、童子さんの言葉(想い)として初めて目にしましたが、
うまく言えませんが、そういうところが童子さんらしい感性なのかなって
思います。

86 名前:k_1920 投稿日:2007/ 3/31 2:40 >>83 born115
Re: リハーサル
born115さん、こんにちは!ご無沙汰してます。
>ロフトのリハーサルは、どんな感じだったんですか?
>それに、リハーサルの時間も結構長かったみたいですね?
リハーサルが長引いて開場が1時間以上遅れることも
何度かありましたね。
開場時間までチケットを握りしめて(笑い)よく待ったものでした。
満員のロフトの最前列は、演奏する童子さんの足元あたりで
ドキドキしながら聴いていましたが、今思いますと
あまりの近さで童子さん演奏されるのに大変だったと思います。

>童子さんのMさんに対する信頼がとても大きい
>“語り”はリハーサルしない
>「春爛漫」は念入りにリハーサルする
“語り”はリハーサルしないに関して共感しました。
born115さんの感じられたこと、興味深く謎解きのように
ワクワクしながら考えています。

87 名前:k_1920 投稿日:2007/ 3/31 2:47 >>82 born115
Re: “狼少年”の意味
born115さん「狼少年」について少し分かった気がします。
>「地下の王様、森田童子のメッセージを、秘密の暗号で きみに送ります」
森田童子のモノローグを、読んで納得しました。
>「地平線の向こうにはおかあさんとおなじやさしさがある」というのを、
>手でやさしくこう、話してくれるわけですネ。
手話という表現を使われないところにとても感動しました。
「狼少年」には、いろんな想いが込められていたのですね。

以前に「カテドラル・実際の曲順 」を書かれてましたが
実際にカテドラルは、何曲唄われたのでしょうか?

毎回のことですが、、born115さんの熱い想に感動致します。

88 名前:born115 投稿日:2007/ 4/ 5 22:57 >>87 k_1920
Re: “狼少年”の意味
nonko551jp さん
 > “やさしすぎて…、怖い”
 > bornさんが以前書いてらした童子の「神田川」の話を思い出しました。
 > “やさしさで包装した青春と云う名の凶器を〜”
 > も象徴的ですが、それぞれ相反するものなんだけど
 > 表裏一体性を感じますね。

童子さんが神田川のあのフレーズに心を打たれたこと、完全に忘れて
ました!(^_^;) “やさしさが怖い”、“やさしすぎて怖い”、なるほど
同じですね。
それに、“やさしさで…凶器”も一緒ですか、相反するという点で!
するどい指摘ですねぇ、まいりました。

k_1920 さん
 > 実際にカテドラルは、何曲唄われたのでしょうか?

15曲目の「センチメンタル通り」と「さよなら ぼくの ともだち」の間
が不明なんです。 ですから17曲か、それにプラスアルファということしか
今のところわかっていません。

ついでに狼少年について蛇足です…
シンガー・ソングライターというのは文字通り、詩とメロディ、それに歌唱、
この三つを通して、自分を表現し、聞く人に感動を与えるのが原点だと
思うのですが、童子さんはつねにそこを意識して、新しい手法に取り組ま
れていたように私には思えるのです。

我々が日常的に当たり前だと思っているものをいったん否定してみる、これ
は、童子さんが、ダイアン・アーバスと狼少年に着眼した共通の本質のよう
に思えます。

表現する手段として普通は、音(声)と文字です。 カテドラルと狼少年で
は、そのそれぞれがいったん否定されたところから問題の提起が始まった、
そのように見えるんですね。

童子さんのモノローグは、台本棒読みの国会答弁なんかと違って、言葉を
一つずつ探しながらの生きたモノローグになってますよね。 ですから、
それは知識の伝達ではなくて、気持ちの伝達のように思うんです。
だから、みなさんお気づきのことと思いますが、本質的ではない小さなミス
を童子さんはときどきされてました。
何年前というときの年数とか、地名とか。
こういうミスは、逆に、童子さんの人間らしさが感じられて微笑ましいよう
な気がします。
童子さんのミス、とても微笑ましく思われるんです!

89 名前:k_1920 投稿日:2007/ 4/13 0:17 >>88 born115
否定してみること
born115 さんこんにちは!
カテドラルは、20曲近く唄われた事になるのですね?
実際に演奏された約半分の収録だったのですね。
貴重な情報どうもありがとうございました。

>我々が日常的に当たり前だと思っているものをいった
>ん否定してみる
なるほど!否定してみることから始める。
born115 さんが書かれてる内容とは、少し違う話題
かも知れませんが「否定」から感じた事が有りました。

コンサート会場に関しても否定が有ったのでしょうね。
ホールや劇場などの当たり前の場所を否定してみる。
空き地や教会などの、意外な場所でのコンサート。
>童子さんが、ダイアン・アーバスと狼少年に着眼した
>共通の本質のように思えます。
普段気付かない、ダイアン・アーバスの撮影した人々

♪狼に育てられたぼくは涙も笑うことも知りません
この歌詞はすべての事に繋がってくるのなかな〜
と思ったりしまた。
またもや思いつくまま書いてしまいました(苦笑)

90 名前:born115 投稿日:2007/ 4/14 20:31 >>89 k_1920
Re: 否定してみること
>我々が日常的に当たり前だと思っているものをいった
>ん否定してみる

k_1920 さん、こんばんは!
上記のことばですが、どこかで聞いた覚えはありませんか?
自分で書きながら思ったのですが、童子さんがどこかで話したような気が
してならないのです。 
私の脳みそが、“童子さん化”してしまったのかもしれません。

気になって今日ちょっと調べてみましたが、「日常当たり前」はまだみつ
かっていません。 「否定」は一つみつかりました。 「マザー・スカイ」
発表直後のインタビュー記事でした。

==============================================================
童子さん: 二枚目の「マザー・スカイ」は、そういったわけで、水色の
アサギ色に似た、地平線は母のおもかげ、または、地平線−私
ではなく、私−母親にまで、逆転してしまったわけです。
――――: その中で、一枚目と二枚目のつながりは何処にある訳ですか。
童子さん:「さよならぼくのともだち」から二枚目のアルバム(の)「ぼくたち
の失敗」につづくわけだけれども、私たちの世代の“やさしさ”
への否定という形で……とってもやさしい否定のしかたで、やり
たかったわけです。
==============================================================

それにしても、童子さんのこのお話は、奥が深くて難しいですね。

↓カテドラルの最初の4曲です。
1 地平線
2 君は変わっちゃったネ
3 ぼくを見かけませんでしたか
4 たんごの節句

童子さんの『前半の4曲を、ボランティアの……手話解説をしてもらった
わけです』の話の中の、“前半”の意味をどう解釈したらよいか微妙ですが、
この4曲が手話解説された可能性が高いようですネ。

91 名前:born115 投稿日:2007/ 4/15 19:14 >>82 born115
童子さんの口癖 Re: “狼少年”の意味
ちょっと思ったことですが…。

童子さんのモノローグは、朗読ではなくて言葉を一つずつ捜しながら
話す生きたモノローグですよね。
だから必然として、童子さんの口癖が聞けてると思うんです。

・ っと(えっと) 
・ あの(あのぅ)
・ なんていうのかな…
・ こう… 
・ …わけです

モノローグの中のこういう言葉も、そのときの童子さんの気持ちを
教えてくれる大切な資料なので、なるべく忠実に記録して残したい
ものです。
他にも童子さんの口癖、何かありましたか?

癖といえば、福岡に当時、童子さんの筆跡をまねてたファンのかたが
いましたね、童子さんの“右に流れる”癖を!(^^)v

92 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 4/21 0:11 >>82 born115
Re:アマルとカマル〜手話解説の話
繰り返し何度も読ませてもらってます。
『狼少年』について考えるにあたって、とても貴重なモノローグですよね。

“やさしすぎて…怖い”についても、たいへん興味を惹かれます。
“やさしさ”も突き詰めれば“怖い”という次元のものなのかも知れませんね。
なんだか、わかったようなことを言ってしまいました。スミマセン‥


カテドラルでの「地平線」の手話

“地平線の向こうには おかあさんと おなじやさしさがある”

を見たとき、すでに童子さんのなかで「地平線」の中に“狼少年”
を見いだしていたのかなぁ‥なんて思いました。

「狼少年・ウルフボーイ」を聴くと、ものすごく神聖な
空気につつまれているような気持ちになります。
‥聴くたびにゾクゾクしてしまうんですよね…

93 名前:born115 投稿日:2007/ 4/22 19:42 >>92 nonko551jp
Re:アマルとカマル〜手話解説の話
nonko551jp さん、こんばんは。

> カテドラルでの「地平線」の手話
> “地平線の向こうには おかあさんと おなじやさしさがある”
> を見たとき、すでに童子さんのなかで「地平線」の中に“狼少年”
> を見いだしていたのかなぁ‥なんて思いました。

私もこの手話通訳が、「地平線」と“狼少年”が結びつくきっかけ
だったのではないかと思ってます。
「マザー・スカイ」が出た頃は、↓No.90 の中に引用した童子さん
の話のように、「地平線」はまだ、母との関係だけだったようですね。
それが、

多分1977年に童子さんの中に“狼少年”のイメージが芽生えて …
78年のカテドラルで二つが結びついて …
83年の「狼少年・ウルフボーイ」の
『 狼に育てられた ぼくは涙も笑うことも しりません 』
に帰結された …

というのが、私の推測です。
ついでに私の想像ですが、「狼少年」のコンセプトの詩・曲は童子
さんの中で模索されつづけたのかもしれないですね。 
でも、最終的には、童子さんの原点である「地平線」が最もふさわ
しい曲だった。なんだか、チルチルミチルの“青い鳥”のようですが。

> 「狼少年・ウルフボーイ」を聴くと、ものすごく神聖な
> 空気につつまれているような気持ちになります。

神聖な! そう言われて、はっとしました。
今まで私は、「狼少年・ウルフボーイ」は、どちらかというと、
たんたんと唄われているような気がして、「地平線」に比べて
感情というものを超越してるような感じに受け取っていたの
ですが、なるほど、神聖といわれるとそんな感じがします。
『狼少年』では、“地平線の向こう”から童子さんは歌を届けて
くれたのでしょうか?

94 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 5/ 2 0:02 >>1 born115
たんごの節句
こんばんは〜。
きょうから5月、もうすぐ「たんごの節句」ですね。
カテドラルでは「ぼくを見かけませんでしたか」や「たんごの節句」も
唄われたんですね。
それを知って、ひょっとして楽譜集に載っていたカテドラルでの
ステージの端に写ってるお琴?(和服の女性)は、ひょっとして
「たんごの節句」の時に演奏されたのかな?と瞬間的に思いました。
(和楽器のイメージがあったもので‥)アルバムでは、太鼓?でしたよね。
もし、そうだったとしたらどのようなアレンジだったのか興味があります。

それから、カテドラルでは“ア・ボーイ”からは1曲も唄われていないと
思っていたのですが、収録はされなかったけど1曲でも唄われたことが
わかってうれしかったです。

95 名前:born115 投稿日:2007/ 5/ 9 21:30 >>94 nonko551jp
Re: たんごの節句
のんこさん、こんばんは。

> カテドラルでは“ア・ボーイ”からは1曲も唄われていないと
> 思っていたのですが、

「ぼくを見かけませんでしたか」と「蒼き夜は」、たぶんこの2曲だけ
です。

琴の他に、LPと同様にタイコも使われたのだと思います。
↓をご参照ください。

『とにかく、教会というところ、照明、PAの電源はない。ホールエコー
すらかかる。 シンセサイザー、弦楽四重奏、琴、ピアノ、ギター2本、
タイコのアレンジを5日前になって急遽変更。 その間は1日+数時間
特訓。 初めての試みだけに苦労は多かったようで、いまだに疲れは
抜けてないようだった。 でも、このコンサートを経験し童子は大きく
なった。』

96 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 5/16 0:33 >>95 born115
カテドラルコンサート
bornさん、こんばんは。
そうなんですか、太鼓も。
そういえば「たんごの節句」は尺八?の音色から始まるんでしたね。
いまはそうでもないんですけど、なんというか‥
実を言うと最初聴いたとき、ちょっと照れくさかったんですよ(笑)。

それにしてもいろんな意味でコンサート実現まで大変な苦労があったんですね。
そう思うと、ほんとうに特別なライブアルバムですよね。

ちょっと思ったのですが、LPではB面の1曲目が「友よ泣かないのか」で
鐘の音から始まりますよね。
bornさんの書かれた“カテドラル・実際の曲順 (メッセージbT5)”
では、「友よ…」は11番目ということでコンサートで17〜18曲唄われた
として、憶測ですがプログラム、進行?が前半と後半にわかれていて、
その後半1曲目が「友よ…」で
あの鐘の音は後半に入る始まりのチャイムだったのかな?と…
そんなふうに考えると“アマルとカマル〜”の話の中のカテドラルでの
『前半の4曲‥』の意味が理解できるような……

97 名前:born115 投稿日:2007/ 5/20 21:50 >>1 born115
森田童子・手書き楽譜カット・その1
1. まぶしい夏 /五線譜“まぶしい夏”

『淋しいかたみになりました       
 =遠い夏の日の=ぼくは汗ばんだ
 あのVころのV景色を=今でも=      
 よく覚えている』

淋しいかたみになりました
ぼくは汗ばんだ なつかしいあの頃の
景色をよく覚えている


2. 地平線 /五線譜“君は変(わっ)ちゃったネ”

『地平線の向うには
 血よりも
 赤い =涙の河がある=
     夕焼けがある 
 だから 傷ついた
 戦士のように 故郷を
 思うのです』

地平線の向こうには
血よりも赤い
夕焼けがある
だから傷ついた
戦士のように
故郷を思うのです

98 名前:born115 投稿日:2007/ 5/26 18:43 >>97 born115
森田童子・手書き楽譜カット・その2
3.淋しい雲 /五線譜“センチメンタル通り”

『=いつも君の=
 いつも君のあとから V長い影をふんでV いつも君のあとから
 ついてゆきたい 君はぼくのともだちだから
 Xだから遠くのひとのいる
 やっぱり君と一諸に旅に (注:原ママ)
 出るべきだったX
 どこへ行くあてもなく 
 ぼくたちは よく
 歩いたヨネ』

いつも君のあとから長い影をふんで
いつも君のあとからついてゆきたい
どこへ行くあてもなく ぼくたちは
よく歩いたよネ
夏の街の夕暮れ時は 泣きたいほど淋しくて
ぼくひとりでは とてもやって
ゆけそうもないヨ


4.早春にて /五線譜“早春にて”

『君の好きな
 黒いセーター
 =かきあげる長い髪=
 故郷へ帰る後姿
 =さよなら もろく=
 =滅びた 青春たち=
 いつまでも見ていた
 
 肩をたたいて 
 ただ友情だけは』

君の好きな黒いセーター
故郷へ帰る後姿
いつまでも見ていた
肩をたたいて ただ 友情だけは
信じると 淋しく笑った

99 名前:born115 投稿日:2007/ 5/30 21:01 >>98 born115
森田童子・手書き楽譜カット・その3
5.早春にて /五線譜“早春にて”

『黒いセーター Mかきあげる長い髪M
 故郷へ帰る
 後姿いつまでも見ていた』

君の好きな黒いセーター
故郷へ帰る後姿
いつまでも見ていた


6.春爛漫 /五線譜“ ? ”

『=桜並木の下=桜の花びらふんで歩いた
 君と肩くんで 熱くこみあげた
 =遠い春=
 春よ 春に 春=は=の 春は』

桜の花びら
踏んで 歩いた
君と肩くんで 熱くこみあげた
春よ 春に 春は 春の
春は遠く


【記号の説明】
『 』内が童子さんの手書きのカットです。
=……=、X……X、M……M は、……が それぞれ、2本線、×印、波型の
線で消されていることを示します。 
V……V は、……が V印で挿入されていることを示します。

100 名前:born115 投稿日:2007/ 6/ 1 19:59 >>1 born115
今日は6月1日です
♪今日1日は 君に会わない 今日だけは … …

この曲、聴いてみたいです。 
誰か聴かせてくれないかなぁ、口ずさむだけでもいいから…。

101 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 6/10 21:47 >>1 born115
“春爛漫”と“今日は奇蹟の朝です”
「マザー・スカイ」の中でもどこか異彩を放っているような気がします。
本格的に女性コーラスが入ったのは、「マザー・スカイ」からであり
同アルバム中、シーザーが編曲したこの2曲だけなんですよね。
“今日は奇蹟の朝です”は、当時から不思議な気持ちで聴いていましたが
詩とアレンジが絶妙なバランスで融合していて、やっぱりいいなぁ‥!と
思ってしまいます。

102 名前:born115 投稿日:2007/ 6/21 21:47 >>101 nonko551jp
Re: “春爛漫”と“今日は奇蹟の朝です”
こんばんは、nonko551jpさん。
7年ぐらい前、新宿の中古レコード屋さんに森田童子のレコードを探しに
行ったときのことです。 そのお店に飾られていた「マザー・スカイ」の
LPを見てびっくりしました。 なんと “J.A.シーザー 作品” というレッテル
が貼られていたのです。 最近はオークションなどの商品説明で、“J.A.
シーザー関連”という文字は、よく見かけるようになりましたが、このLPが
シーザーファンのコレクターズアイテムになっていることを、そのとき初め
て知りました。

私は、この2曲は間違いなく他とは別セッションのものだと思ってます。
バイオリンと女性コーラスがメインで、石川鷹彦さんのギターが無いこと
からも、他の曲とは曲調が違いますよね。
何と表現したら良いかわからないけど… J.A.シーザーのこのアレンジは
聖歌調とでもいうんでしょうか?

ライブでの童子さんのアレンジは、またひと味違ったように思われます。
“春爛漫”は、激しいストローク奏法で情熱的に唄われたような印象を
うけました。
“今日は奇蹟の朝です”のほうは、アルペジオ奏法で完全な“童子節”に
なってたように思います。
アレンジを比較するのも興味深いですね。

103 名前:born115 投稿日:2007/ 6/24 17:41 >>1 born115
2度目の文芸坐ル・ピリエ公演が83年に??
下は最近見かけた1983年の音楽雑誌の記事です。
連続7日間のコンサート、実際に開かれたんでしょうか?
もしそうなら、狼少年創刊準備号の公演軌跡に書かれてても
よさそうに思えるんですが…。

『これから何色にでも染まる色が“白”ならば、一切、外側
からの影響を寄せつけない色、つまり“黒が森田童子の色
なのだ。
 7月11日から17日までの連続7日間、東京・池袋文芸坐ル・
ピリエにて森田童子のコンサートが開かれる。タイトルは
森田童子「ねじ式」。料金は前売り2400円、当日2700円。
 激しい抵抗力を持つ“黒”という色に、ほんの少し触れて
みないか。』

料金は、その年12月の前進座劇場とそっくりそのまま同じですね。

104 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 7/ 7 23:15 >>1 born115
“友よ”の謎
ポリドール版『カテドラル』のテープのB面一曲目ですが、
“友よ”になっていますね。
ちなみにポリドール版のレコードの方は「友よ泣かないのか」
です。
なぜなんでしょう??
「友よ泣かないのか」については、これで3通り
タイトルがつけられたことになるんでしょうか?

105 名前:born115 投稿日:2007/ 7/ 8 21:28 >>104 nonko551jp
Re: “友よ”の謎
> ポリドール版『カテドラル』のテープのB面一曲目ですが、
> “友よ”になっていますね。

ワッ! 今まで気がつきませんでした!
早速調べてみたら、なるほど、外装ケースにも歌詞カードにも、
タイトルは「友よ」と書かれてました。

「ぼくたちは輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」に
代わるタイトルとして最初に候補にあがったのが、この「友よ」
だったのかもしれませんね。 でも岡林信康の同名異曲が
あった…。
最終的に「友よ泣かないのか」に決定されたんだけども、
CTはLPほど重要視されてなかったので、変更されない
まま発売されてしまった。 と、いう推理はどうでしょう?

でも、童子さんとしてのこの曲のタイトルは、ずっと「ぼく
たちは輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」であったと、
わたしは思っています。
アルバム“ア・ボーイ”に収録される予定だったのに、収録
されなかったというのも、タイトルで折り合いがつかなかった
ことが一因のような気がしてなりません。

106 名前:born115 投稿日:2007/ 7/12 20:12 >>1 born115
森田童子・全CT
カセット・テープ版の話題が出ましたので、そのリストを
載せておきます。
これがすべてだと思います。
番号からいって、カセットでは「マザー・スカイ」が最初だった
ようですね。
1993年のベストコレクションI、II にもカセット版があったの
にはおどろきました。
2003年のときは、カセット版はプロモだけだったはずです。

==========================================
森田童子・全カセット

CR 2066 マザー・スカイ
CR 2071 GOOD BYE グッドバイ
CRF 5038 ボーイ
CRQ 4036 森田童子全曲集
CRF 5071 森田童子ライヴ

LKF-1002 森田童子全集/グッドバイ
LKF-1003 森田童子全集/マザー・スカイ
LKF-1004 森田童子全集/ア・ボーイ
LKF-1005 森田童子全集/聖マリア大聖堂録音盤

LKG-7002 友への手紙
LKF-7016 ラスト・ワルツ
LKF-8039 夜想曲
LKF-8063 狼少年

16L4-95  映画「グッドバイ」

WPTL-735 ぼくたちの失敗 ベスト・コレクション
4509-94629-4 たとえばぼくが死んだら ベスト・コレクションII

TOCT-24979 森田童子ベストコレクション(プロモのみ)
TOCT-4444 ぼくたちの失敗/蒸留反応 (プロモのみ)

==========================================

107 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 7/13 20:40 >>105 born115
Re: “友よ”の謎
bornさん、こんばんは!

>CTはLPほど重要視されてなかったので、変更されない
>まま発売されてしまった。 と、いう推理はどうでしょう?

LPに比べ、確かにCTは地味なイメージがありますよね。
それにしても、こんなことがあるんですね〜。
おっしゃるように、“友よ”は「友よ泣かないのか」に決まる前の
候補だったのかも知れませんね。
(ちなみに、ワーナー版カセットの『カテドラル』は「友よ泣かないのか」ですね。)
「ぼくたちは輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」を踏まえて、
このことで「友よ泣かないのか」に落ち着くまでのタイトルの変移というか、そういったものが垣間見れたように思います。

もし、「友よ泣かないのか」が『ア・ボーイ』に収録されていたなら
誰の編曲でどのような仕上がりになっていたのでしょうネ。

108 名前:born115 投稿日:2007/ 7/14 20:54 >>107 nonko551jp
Re: “友よ”の謎
> ちなみに、ワーナー版カセットの『カテドラル』は「友よ泣かないのか」 ですね。

そうなんですか! 全集IV のカセットは持っていないので分からなかった
のですが、ワーナーは、ちゃんと修正して発売していたんですね!

ところで、以前にも書きましたが、カテドラルの1年前に音楽雑誌に掲載
された詩では、タイトルが「新しい朝のために」になってます。 テーマを
的確に表わしているタイトルのように思います。

「新しい朝のために」
「友よ ぼくたちは輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」
「友よ」
「ぼくたちは輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」
「友よ泣かないのか」

候補はきっと、いろいろとあがったんでしょうね。

> もし、「友よ泣かないのか」が『ア・ボーイ』に収録されていたなら
誰の編曲でどのような仕上がりになっていたのでしょうネ。

スタジオ録音は、絶対してると思うんですよ。 いつか世に出て欲しいもの
ですネ。 
若草恵さんか、木田高介さんか、…想像するだけでも楽しいです。

109 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 7/19 21:33 >>108 born115
Re: “友よ”の謎
>「新しい朝のために」
>「友よ ぼくたちは輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」
>「友よ」
>「ぼくたちは輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」
>「友よ泣かないのか」

>候補はきっと、いろいろとあがったんでしょうね。

こんなにあったんですか〜。

風よ 泣かないのか
時よ 泣かないのか

を入れれば1番の詩が完成しますね。
メッセージが1番(4番)の歌詞に集約されている感じがします。

110 名前:born115 投稿日:2007/ 7/28 18:47 >>1 born115
童子さんのサインの傾向
ネットなどから資料として集めてきた童子さんのサイン、何年か
ぶりで集計してみました。

●アルバム別集計 サインの(延べ枚数)/(種類)
・グッド・バイ    8曲 26/12
・マザー・スカイ   5曲 20/11
・ア・ボーイ     4曲 11/6
・東京カテドラル   1曲 1/1
・ラスト・ワルツ   7曲 15/12
・夜想曲       3曲 11/7
・狼少年       3曲 12/9

            計 96/58

データが96枚になりましたので、サインに対する童子さん
の傾向が、ある程度わかってくるのではないかと思いました。

まんべんなく多いのがグッド・バイとラスト・ワルツですね。
マザー・スカイも多いけど、偏りがあります。
グッド・バイでは2曲が、ラスト・ワルツでは1曲がまだ
見つかっていません。 この3曲すぐに推測できますか?

曲別に集計して一番多かったのは 「サナトリウム」 でした。
8枚で、種類も多く、5種類も見つかってます。

種類別で一番多かったのは 「君と淋しい風になる」 の
『いつか ひとりで 淋しい風になる』 のサインです。
6枚見つかっています。

111 名前:born115 投稿日:2007/ 7/30 20:11 >>1 born115
童子さんのサイン・曲別集計
(延べ枚数)/(種類)
●good-bye/グッド・バイ
4/1 G0 Good Bye
1/1 G1 早春にて  
2/1 G2 君は変わっちゃったネ  
2/2 G3 まぶしい夏 
0/0 G4 雨のクロール  
2/1 G5 地平線  
2/1 G6 センチメンタル通り  
5/2 G7 淋しい雲  
0/0 G8 たんごの節句  
3/1 G9 驟雨(にわか雨)  
5/2 G10 さよなら ぼくの ともだち

●マザー・スカイ
1/1 M0 きみは 悲しみの青い空をひとりで飛べるか
2/2 M1 ぼくたちの失敗 
0/0 M2 ぼくと観光バスに乗ってみませんか 
5/2 M3 伝書鳩 
4/1 M4 逆光線 
0/0 M5 ピラビタール 
4/3 M6 海を見たいと思った 
0/0 M7 男のくせに泣いてくれた
0/0 M8 ニューヨークからの手紙 
4/2 M9 春爛漫 
0/0 M10 今日は奇蹟の朝です

●a boy/ア・ボーイ
1/1 A0 a Boy
0/0 A1 蒼き夜は 
6/1 A2 君と淋しい風になる 
0/0 A3 ふるえているネ 
0/0 A4 ぼくを見かけませんでしたか
0/0 A5 セルロイドの少女 
2/2 A6 淋しい素描 
1/1 A7 ぼくが君の思い出になってあげよう  
1/1 A8 G線上にひとり 
0/0 A9 終曲のために第3番「友への手紙」

●東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤
0/0 T6 友よ泣かないのか
1/1 T10 風さわぐ原地の中に

●ラスト・ワルツ
2/2 L1 赤いダウンパーカーぼくのともだち 
2/2 L2 菜の花あかり 
3/2 L3 海が死んでもいいョって鳴いている 
1/1 L4 グリーン大佐答えて下さい 
4/3 L5 みんな夢でありました 
1/1 L6 きれいに咲いた 
0/0 L7 たとえば ぼくが死んだら 
2/1 L8 ラスト・ワルツ

●夜想曲
1/1 Y1 蒸留反応 
2/1 Y2 淋しい猫 
0/0 Y3 ぼくは16角形 
0/0 Y4 麗子像 
8/5 Y5 サナトリウム 
0/0 Y6 船がくるぞ
0/0 Y7 孤立無援の唄 
0/0 Y8 哀悼夜曲 
0/0 Y9 ラスト・ワルツ

●狼少年
1/1 O1 愛情練習(ロシアン・ルーレット) 
4/3 O2 ぼくを見つけてくれないかなァ 
0/0 O3 ぼくは流星になる 
0/0 O4 151680時間の夢 
0/0 O5 球根栽培の唄(ときわ荘にて録音) 
0/0 O6 ぼくのせいですか 
7/5 O7 憂鬱デス
0/0 08 狼少年・ウルフボーイ

・「孤独な ぼくたちの 長い影が 春の陽射しに ひなたぼっこ」
・「今夜のような 暗い夜 どんな星の 話をしましょうか」

112 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 8/ 3 23:11 >>110 born115
Re: 童子さんのサインの傾向
bornさん、こんばんは。

>グッド・バイでは2曲が、ラスト・ワルツでは1曲がまだ
>見つかっていません。 この3曲すぐに推測できますか?

ものすご〜く考えて、当たったのは「グッド・バイ」の“たんごの節句”
1曲だけでした(笑)。

>種類別で一番多かったのは 「君と淋しい風になる」 の
>『いつか ひとりで 淋しい風になる』 のサインです。
>6枚見つかっています。

何度か目にしたことはありますが、6枚とは!
それもピンポイントで!
童子さん、お気に入りのフレーズだったのかな?
なんだかとても嬉しい気持ちになりました。

113 名前:born115 投稿日:2007/ 8/ 4 20:57 >>112 nonko551jp
Re: 童子さんのサインの傾向
のんこさん、こんばんは。

“たんごの節句”と“たとえばぼくが死んだら”がまだ見つかって
いないというのは、ぼくにとってはちょっとした驚きです。 
両曲ともサインとして、個人的にぜひ欲しいフレーズがたくさんある
んですヨ。

“君と淋しい風になる”が『いつか ひとりで 淋しい風になる』の
部分のみに(ピンポイントで)集中してるというのも注目ですね。
サビ中のサビというか、童子さんの気持ちもこのフレーズに集約され
てたんじゃないかと思っています。

114 名前:born115 投稿日:2007/ 8/ 5 21:23 >>1 born115
つれづれなるままにかく語りき
「つれづれなるままにかく語りき」は、おそらく1973年頃からだと
思いますが、1977年まで、長年にわたってmcSister で連載されました。
“語り部”として登場したのは、吉田拓郎、高田渡、イルカ、リリィなど、
フォーク界のシンガー・ソングライターばかりだったようです。
イラストは毎回、鈴木康司(スズキコージ)さんでした。

最近、童子さんの連載が始まる直前の回に、童子さんの登場を“予告”
するような記載をみつけましたので、私のプロフにアップしておきます。
鈴木康司さんの6コマまんがのうちの1コマです。

童子さんがデビューして半年ちょっとしか経っていないのに、連載の依頼
がきてたことになります。
童子さんは全部で4回執筆しました。
「つれづれなるままにかく語りき」の最終回を飾ったのは、童子さんです。

115 名前:born115 投稿日:2007/ 8/15 17:18 >>1 born115
アルバム“ラスト・ワルツ”のジャケット
LPのジャケットは、童子さんの、スーツ姿で直立・横顔の写真。 高梨豊
氏撮影によるもので、場所は名画並木座(LPのクレジットより)。

最近、このジャケット写真と全く同一・同サイズの offprint が見つかりま
した。 ジャケットの製造過程を知らないのでなんとも言えませんが、ジャ
ケットの“原版”として使用されたものなのか、試し刷りみたいなものなの
か、あるいは何かのプレゼント用にプリントされたものなのか …

この写真をよく見ると、今まで意識しなかったことですが、周りが黒マジッ
クで縁取りされています。 裏ジャケットもそうです。 いかにも手作業だ
と、一見してわかるように …

1993年、全7枚のオリジナル・アルバムがCDとして再発された際に、この
“ラスト・ワルツ”のジャケットだけが表、裏とも一新されました。

表ジャケットは、ギターを弾く童子さんを左上方から撮ったモノクロの写真。 
童子さんの親指の爪が印象的です。 この写真は、1978年6月、ポリドール
時代の集大成として発売されたCT森田童子全曲集のジャケットして使われ
ました。 ただし、モノクロの写真そのものではなく、写真からおこしたフル
カラーのイラストになっています。 photographer は、渡辺○一さん(日本
デザイン専門学校デザイン科1年在学中)で、 designed by Sakai Design
Room (CTのクレジットより)。

裏ジャケットの写真は、1980年11月の黒色テント“夜行”のときのものです。 
楽譜集“夜想曲”に掲載された写真と全く同一のものですが、時計まわりに
約60度も回転されています。 左下隅の斜めの棒状のものは、本来ほぼ
水平であるはずの、マイクスタンドのアームと思しきものです。 端っこが
切れたためでしょう、修正加筆されています。
(私のプロフに、元の写真を乗せておきます)

116 名前:k_1920 投稿日:2007/ 8/18 2:14 >>115 born115
Re: アルバム“ラスト・ワルツ”のジャケッ
born115 さんこんにちは!
久しぶりに書き込みします。

>このジャケット写真と全く同一・同サイズの offprint
>が見つかりました。
同じ写真ですか、これは凄いですね!

>周りが黒マジックで縁取りされています。
>いかにも手作業だと、一見してわかるように …
そうだったのですか、ネガフィルムを手作業でプリントする時に
絵柄の縁をマスキングせずに画面すべてを印画紙に焼き付けたもの
だと思ってましたが、マジックだとは気が付きませんでした。

>“ラスト・ワルツ”のジャケットだけが表、裏とも一新されました。
ラスト・ワルツのみ何故なんでしょうね。

117 名前:born115 投稿日:2007/ 8/22 18:58 >>116 k_1920
k_1920 さん
お久しぶりですね!

このoffprintは、ブロマイドなんかに使われる印画紙と同じ紙質のもの
で、経年による焼けもみられるので、たぶん当時のものだと思うんです
が、原画なのか複写したものなのか、素人なので判断できません。

> 絵柄の縁をマスキングせずに画面すべてを印画紙に焼き付けたもの

そうなんですか。 素人なのでわかりませんでした。
この掲示板を見たかたから指摘されたのですが、“ラスト・ワルツ”の
特典の写真も、同じように縁取りされていました。 太さは、特典のほう
は少し細くなっていますが。

>>“ラスト・ワルツ”のジャケットだけが表、裏とも一新されました。
> ラスト・ワルツのみ何故なんでしょうね。

私としては、これだと強く確信している理由があるのですが、しょせん
推測なのでここには書けません。 でも、k_1920 さんが推測されている
理由と、きっと同じはずですよ!(^^)

118 名前:born115 投稿日:2007/ 8/22 19:36 >>1 born115
○○が落とした△
『森田童子の美しい言葉は あまりにも孤独で
 まるで ○○が落とした△のようだ(川崎市/湯本◇雄)』

これは、夜想曲のときのものです。
童子さんを形容するキャッチ・フレーズは沢山ありましたが、
おそらくこれが時期的に最後のものでしょう。
湯本さんは、「狼少年・創刊準備号」の“編集人”であり、
おそらくエッセイ“夜想曲”の U少年ではないかと思います。

『森田童子の歌声は、○○が落とした△に似ています』

というのもあります。 童子さん公認のキャッチ・フレーズと
なってます。

○○、△の部分はあえてふせました。 クイズのつもりですが
バレバレですか?

119 名前:born115 投稿日:2007/ 8/23 19:47 >>118 born115
訂正です↓
あまりにも孤独で(誤り) → あまりに孤独で(正)

です。 申し訳ありませんでした。

120 名前:born115 投稿日:2007/ 8/28 20:25 >>1 born115
ベストコレクションに収録されなかった曲
1993年の“ラスト・ワルツ”のジャケット変更もそうですが、ベスト・
コレクションの選曲も意味深のように思われます。

2003年、東芝EMI に童子さんの“オフィシャル・サイト”が立ち上げら
れたとき、“ルポルタージュ”と題する田家○樹氏による巻頭文みたい
なのが載っていました。 その中に、

「(2003年の)ベストコレクションの中に“さよなら ぼくの 
ともだち”を入れるよう要請したらしいが、童子の意向により
拒否されたという」

という趣旨のことが書かれていました(文面は正確ではありません)。
また聞きのような文だったので、真相は定かでないと思いますが、
どちらにしてもベスト・コレクションの選曲には、あれっと思うほどの
偏りがありますね。

1993年のベスト・コレクションI、II、2003年のベストコレクション、この
3枚のベスト盤に収録されなかった曲は、

・ 7.5曲 = グッド・バイ 
・ 5 曲 = マザー・スカイ 
・ 4 曲 = ア・ボーイ 
・ 1 曲 = ラスト・ワルツ 
・ 2.5曲 = 夜想曲 
・ 3 曲 = 狼少年 

です。

121 名前:born115 投稿日:2007/ 8/29 21:24 >>120 born115
Re: ベストコレクションに収録されなかった
ベスト・コレクションに入らなかった曲

G1 早春にて  
G2 君は変わっちゃったネ  
G3 まぶしい夏   
G5 地平線  
G6 センチメンタル通り    
G8 たんごの節句  
G9 驟雨(にわか雨)  
(G10 さよなら ぼくの ともだち)

M3 伝書鳩 
M5 ピラビタール 
M6 海を見たいと思った 
M8 ニューヨークからの手紙  
M10 今日は奇蹟の朝です

A4 ぼくを見かけませんでしたか
A5 セルロイドの少女 
A6 淋しい素描   
A9 終曲のために第3番「友への手紙」

T6 友よ泣かないのか
T10 風さわぐ原地の中に

L4 グリーン大佐答えて下さい 
  
Y2 淋しい猫  
Y4 麗子像  
(Y9 ラスト・ワルツ)

O3 ぼくは流星になる 
O7 憂鬱デス
O8 狼少年・ウルフボーイ

122 名前:born115 投稿日:2007/ 9/ 1 19:44 >>1 born115
憂鬱デス/歌詞の変遷
【Ver.1】の時期は不明ですが、
   【Ver.1】→【Ver.2】→【Ver.3】
と変わっていったと考えるのが自然かと思います。

=================================================
【Ver.1】studio out-take
1. 畳にうつぶしては おもしろくなく
仰向けに寝返っては かなしく
体をねじってみては おかしい
※※ refrain
2. 書物を燃す煙りに 目をこする
洗濯の乾き 淋しいにおい
掻きあげる指に 脱毛を見る
※※ refrain
「語り」
3. 暗がりに目を凝らす ふとんの中
友に手紙を書いては 金の無心
悲しい夢に目覚めて 歯を磨く
※※ refrain

【Ver.2】ライブ(81〜83年頃)
1. 畳にうつぶしては おもしろくなく
体をねじってみては おかしい
※※ refrain
2. 書物を燃す煙りに 目をこする
洗濯の乾き 淋しいにおい
※※ refrain
「語り」
3. 暗がりに目を凝らす ふとんの中
悲しい夢に目覚めて 歯を磨く
※※ refrain

【Ver.3】アルバム狼少年 
1. 畳にうつぶしては おもしろくなく
体をねじってみては おかしい
※※ refrain
2. 悲しい夢に目覚めて 歯を磨く
洗濯の乾き 淋しいにおい
※※ refrain “ただ何もなく 青いだけの空は”に変更
「語り」
3. 逆立ちして見ては ひとりごと
物干し台の猫が 逃げた
※※ refrain
=================================================

参考のため、refrain は
『 ただ自堕落に おぼれてゆく日々に ひとりここちいい
  明日に祈る気持もなく 明日に生きてみる 』、
「語り」は、“ ひとりサクサクと柿を喰らう ”の語りです。
ちょっと危険な投稿ですが、童子さんの貴重な原詩、埋もれ
させたくないのでアップしました。

123 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 9/ 2 21:21 >>122 born115
Re: 憂鬱デス/歌詞の変遷
bornさん、こんばんは!

>3. 暗がりに目を凝らす ふとんの中
>友に手紙を書いては 金の無心


76年10月10日 筑波大学17号練105号

『(略)寝たきりの放哉は、病苦と孤独と空腹に悩み、
蒲団の中から膨大な数の手紙を書いては、知人に送っています

その手紙の内容は、お金と餅の無心ばかりだったそうです。』

童子さんのエッセイを思い出しました。


ちなみに「憂鬱デス」という同タイトルの漫画が“夜行”に
載っていますが、まったく無関係でした(笑)。

124 名前:born115 投稿日:2007/ 9/ 3 22:13 >>123 nonko551jp
Re: 憂鬱デス/歌詞の変遷
> 76年10月10日 筑波大学17号練105号
> 『(略)寝たきりの放哉は、病苦と孤独と空腹に悩み、
> 蒲団の中から膨大な数の手紙を書いては、知人に送っています。
> その手紙の内容は、お金と餅の無心ばかりだったそうです。』
> 童子さんのエッセイを思い出しました。

このエッセイのことは、すっかり忘れてましたよ!
Ver.1 は尾崎放哉を詠った詩だと直感してはいたのですが、その
ものずばりの言葉が童子さんのエッセイの中にあったとは、気づき
ませんでした。

7年前どこかの掲示板に書いたことがあるのですが、Ver.3の
「逆立して見ては ひとりごと」 は 「せきをしてもひとり」 
を思い起こさせてくれますよね。 

76年10月10日、このエッセイの直後に唄った曲は何だったので
しょう? 
それに、“憂鬱デス”の詞、曲がいつ頃できたのか?
80年11月の黒色テント夜行のとき、発売されたばかりの“ラスト
・ワルツ”のLPのジャケットに、童子さんはもう、
   「悲しい夢に 目覚めて 歯を磨く」
とサインしているんです。 
ということは、“憂鬱デス”は、ほんとうは“ラスト・ワルツ”に
収録されるはずの曲だったのかもしれませんね。

125 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 9/ 7 19:47 >>124 born115
Re: 憂鬱デス/歌詞の変遷
こんばんは!


>76年10月10日、このエッセイの直後に唄った曲は何だったので
>しょう?

気になりますね〜。
『孤独(ひとり)』がキーワードになると思うのですが、
たくさんありすぎて難しいですね〜。
「淋しい素描」
わたしの中ではピッタリくるのですが…。
それに「憂鬱デス」とは“ラジオ、消しゴム、万年筆…”の語りの
共通点もありますし(笑)。
でも残念ながら、「淋しい素描」(『ア・ボーイ』)はまだ
出来ていないんですよね?

>それに、“憂鬱デス”の詞、曲がいつ頃できたのか?
>80年11月の黒色テント夜行のとき、発売されたばかりの“ラスト
>・ワルツ”のLPのジャケットに、童子さんはもう、
>   「悲しい夢に 目覚めて 歯を磨く」
>とサインしているんです。

アルバムの発売イコールすべて“新曲”(直前に出来た曲)
だとは限らないんですよね。
たとえば、レコードの帯であるとか、サインだとかの
詩の一部をとってみても、そのことがわかりますよね。
もちろん詩の一部だけで、曲が完成していたと判断出来るわけでは
ありませんが、その可能性も含め、いろいろと想像は膨らみますネ。

余談ですが、昔ウォークマン(死語?)を聴いていて、「憂鬱デス」がかかると、とたんに軽快な足取りになってしまうのが自分でもよくわかりました(笑)。

126 名前:k_1920 投稿日:2007/ 9/ 9 0:57 >>124 born115
Re: 憂鬱デス/歌詞の変遷
こんにちはborn115 さん。
それにしても、貴重な歌詞ですね。
【Ver.2】の歌詞をライブで聴いた事を覚えてます。
当時はまだ発売されてなかった新曲でした。
その時聴いた歌詞は【Ver.1】studio out-takeでは
無かった気がしています。
曲名も違ってたと思いますが。
当時の記憶を思い出してみます。

>ほんとうは“ラスト・ワルツ”に
>収録されるはずの曲だったのかもしれませんね。
収録されてたら、どんな曲調になったのでしょうね?
想像するだけで、ワクワクします!

nonko551jpさんお久しぶりです。
>童子さんのエッセイを思い出しいました。
凄い記憶力ですね「尾崎放哉」確かにそうですよね!

127 名前:born115 投稿日:2007/ 9/12 21:10 >>126 k_1920
Re: 憂鬱デス
nonko551jpさん

> 余談ですが、昔ウォークマン(死語?)を聴いていて、
> 「憂鬱デス」がかかると、とたんに軽快な足取りになって
> しまうのが自分でもよくわかりました(笑)。

そう言われて、確信できました。
端的に言えば、“studio out-take” バージョンと “狼少年” の
バージョンは、もう別の曲だというべきなんでしょうね。
アレンジによって、一つの曲がこうも変わるものかと思い知ら
されます。
“studio out-take” バージョンは、完璧な “グッド・バイ” の
「君は変わっちゃったネ」 や 「さよなら ぼくの ともだち」 の
路線の曲だと思うんです。 それが、 “狼少年” では、おそらく
“暗い”と言われたイメージを払拭するためだったのでしょうが、
歌詞やアレンジ、唄い方まで変えることになった…
ファンの一人として、私は絶対 “studio out-take” バージョン
を支持しています。

k_1920さん

> その時聴いた歌詞は【Ver.1】studio out-takeでは
> 無かった気がしています。
> 曲名も違ってたと思いますが。
> 当時の記憶を思い出してみます。

そうですか。 では、かなり早い時期に【Ver.2】になったと
考えてよさそうですね。
因みに、童子さんの唄い方の違いですが、
【Ver.1】では、 “たーたーみーに〜〜” と平坦なのに対し、
【Ver.2】と【Ver.3】では、 “たたーーみーに〜〜” と、
パッパッと切るようにアクセントをつけてますネ。語り方
もそうなってますし。
タイトルですが、81年12月の両国黒色テントでは、もう
「憂鬱デス」 になってます。
ぜひ、当時を思い出してくださいネ!

128 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 9/16 23:34 >>127 born115
アレンジ
『ちょっと、こう暗めだから何とかビートで明るくこれを表現しようとか
いうんですけれども、その人のなかに確かさがなくてアレンジやられた場合
ってのは、たとえば向こうのね何とかビートをもってきたり、リズムを
もってこられてもただそれは、職人というか、その‥記号で適当にやるだけ
のことでしょ。それが合わなければ「ああ、全然違うね」とか
「意外にこうあれば違和感があって面白いね」とか、そのぐらいの基準だと
つきつめようがない‥どこがよくないかとか…(略)
その人がその人のこの部分で泣いてくれたりね、心情をぶつけてくれれば、
それが音にならなくてもね‥私はいいと思ってるんですけどね。』

童子さんのアレンジに対する考え方、姿勢がとてもよく感じとれますよね。


k_1920さん
こちらこそ、k_1920さんの注意力には頭が下がります!

129 名前:k_1920 投稿日:2007/ 9/20 0:47 >>127 born115
「憂鬱デス」について
こんにちはborn115 さん
>ァンの一人として、私は絶対 “studio out-take” バージョン
>を支持しています。
同感でございます。感無量デス。

>タイトルですが、81年12月の両国黒色テントでは、もう
>「憂鬱デス」 になってます。ぜひ、当時を思い出してくださいネ!
当時の記憶と資料を調べ思い起こすと・・
初めにこの曲を聴いたのは80年代初めでした。
その頃のタイトルは「じだらくした春」か「だらくな春」
そのようなタイトルだったように思います。
当時この曲を数回聴いてるのでタイトルが違ったのは確かです。

コンサートやライブを多く聴いた経験から言える事は、
童子さんはアドリブでお話をするってこともあまり無かったですし
前日と殆ど変らないコンサートやライブの進行風景が有りました。
童子さんは唄を朗読してるかのように“ひとりひとりに語りかけて“唄って
くれていたのですネ!その歌詞をじっくり受け止め聴いていただけでしたが、それが
“暗い”イメージになってしまったのでしょうか?
ある意味、コンサートホールで静かに聴くクラッシック音楽
のような気がします(クラッシックが静かとは限りませんが)
当時の皆さん同様!ライブを“かぶりつきで”(笑)聴いていた時も
今でも“暗い”と言うイメージは皆無ですしネ!

nonko551jpさん
>こちらこそ、k_1920さんの注意力には頭が下がります!
いや〜結構注意散漫ですよ〜
精神年齢は当時も今も変らない自分がいたりしますが(苦笑)

130 名前:k_1920 投稿日:2007/ 9/22 21:36 >>129 k_1920
Re: 「憂鬱デス」について
born115 さん年代間違えてました〜済みません。
>初めにこの曲を聴いたのは80年代初めでした。
(81年)のミスです!今頃気が付きました〜遅いですよね(汗

書き込みついでに・・
時々ライブで出会う数人のファンの方達は顔は知ってるのですが
皆さんお話することもなくライブが終わると帰って行くという状況でした。
でも83年4月29日その日一度だけですが5〜6人のファンの方々と
近くの居酒屋さんで盛り上がった事があります!
看護師さん専門学校生・社会人と様々なメンバーでした。
ファンの方々とご一緒する事はほとんど無かったもので
すごく楽しい思い出になりました。

演奏が終わた後のサイン会は童子さんとお話が出来る
唯一の場で興奮したり緊張したりしてサインを頂きました。
レコードの他にカメラのボディーにサインして頂いたのですが
使ってるうちにどんどん消えてしまいました(泣)
サインを待つ列は毎回すごかったですよね!

131 名前:nonko551jp 投稿日:2007/ 9/25 0:31 >>129 k_1920
Re: 「憂鬱デス」について
k_1920さん、こんばんは!


>【Ver.2】の歌詞をライブで聴いた事を覚えてます。
当時はまだ発売されてなかった新曲でした。

>その頃のタイトルは「じだらくした春」か「だらくな春」
そのようなタイトルだったように思います。

そうなんですか。「春」!
bornさんの書き込みからも、どの時期の歌詞にも一貫して
“柿を喰らう”の語りは入っていたようですね。
いままで、「憂鬱デス」は“サクサクと柿を喰らう”の語りから
『秋』のイメージがあったのですが、最終的にタイトルが
「憂鬱デス」に変わったのは、そんなこともあってのことだった
のでしょうか。

>今でも“暗い”と言うイメージは皆無ですしネ!

まったく、同感です!
“暗い”
童子さんの唄の印象として一般的によく耳にする言葉ですが、
本質はもっと別の次元にあるように思うんですけどネ。

132 名前:born115 投稿日:2007/ 9/29 19:18 >>128 nonko551jp
Re: アレンジ
> 『ちょっと、こう暗めだから何とかビートで明るくこれを表現しようとか …

1983年2月の放送の中での話しですね。 

1980年5月には、童子さんは下記のようなことを話されています。

《 森田童子全集I、IIより、「さよなら ぼくの ともだち」 と 「逆光線」を
聴き、この2曲のアレンジの感想を求められて 》

『 う〜ん、やっぱりこう付け足していく作業なのかどうか、っていうか、
やっぱ取り除いていくことなんじゃないかと思うんですョね。
なんかまだ、余分なものがついてるような気はしてるんですけどね。
詞でもそうだと思うんですね。 やっぱり最終的にこう、出す段階に
なって、いかにそれを、いろんなもう、くっついてるものを取り除いて、
すごくこうシンプルな、簡素なものにしていくかっていうところで、
すごく苦労するわけですけどもね。
なんかゴタゴタくっついて、何言ってるか、こう、分からないような、
音とか言葉とか、そういうものをいかにこう、元に戻すっていうかね、
その辺がいちばん… 建設じゃなくて、やっぱ壊していくっていうところ
がいちばん… 』

133 名前:born115 投稿日:2007/ 9/29 21:59 >>130 k_1920
Re: 「憂鬱デス」について
k_1920 さん、
当時の感動のひとつひとつを思い出していただき、ありがとう
ございます。 童子さんのライブの興奮が、私にもまるで昨日の
できごとのように伝わってきました。

カメラのボディーにサインしてもらったひとなんて、後にも
先にも k_1920 さんだけでしょう! それに、k_1920 さんは
もらったサインのうち、3つも同じフレーズのものがあるそう
ですが、童子さんはきっと k_1920 さんに、何かを感じる所
があったんでしょうね! でなきゃ、いつも同じフレーズに
なるなんて考えられないですヨ。

「憂鬱デス」(タイトルは別)が、81年の初頭に、もう唄われて
いたというのは、びっくりですね。 この時期はまだアルバム
“ラスト・ワルツ” が発売されて間もないころですから、
アルバム発表後にすぐまた次のアルバムのための新曲を
披露するというのは、ちょっと不思議な感じがします。 
ですから 「憂鬱デス」 は、“ラスト・ワルツ” に収録される
予定だったんじゃないでしょうか?

その “ラスト・ワルツ”ですが、
“ 幻の名盤・森田童子全集 ” の販促のチラシを見ますと、
「 森田童子ニューアルバム、9月25日発売決定 !! 」
と書いてあるんです。 実際には、11月20日、黒色テント劇場
夜行の公演に合わせて発売されたわけですが、当初は、その
二ヶ月前に発売される予定だったんですね。

このチラシには、
「 森田童子/超満員御礼速報 !! 」 
として、6月3日から5日間公演された池袋文芸坐のコンサート
のことが書かれていますので、6月か7月に印刷されたもの
でしょう。

ニューアルバムの発売が延期された理由は何だったのか、
想像はいろいろ膨らんでしまいますが、「憂鬱デス」 の
未発表バージョンは、この頃レコーディングされたのでは
ないかと想像しています。

134 名前:nonko551jp 投稿日:2007/10/ 5 0:35 >>132 born115
1980年5月の話
bornさん、こんばんは!

>詞でもそうだと思うんですね。 やっぱり最終的にこう、出す段階に
>なって、いかにそれを、いろんなもう、くっついてるものを取り除いて、
>すごくこうシンプルな、簡素なものにしていくかっていうところで、
>すごく苦労するわけですけどもね。

[憂鬱デス」の歌詞の変遷にも、通じるところがあるように思いました。


なぜでしょう…
“壊していく”という言葉に敏感に反応してしまいました(笑)。

135 名前:born115 投稿日:2007/10/13 18:11 >>1 born115
三重県のKさんのこと
三重県に、KYさんという古くからの童子ファンの方が
いらっしゃいます。
Kさんが初めて童子さんの曲を聴いたのは、FMで録音した
グッドバイからの5曲で、その後少しずつ興味を持つよう
になり、アルバムを買われたんだそうです。

お気に入りは「地平線」と「まぶしい夏」。
あるとき、旅行先で「地平線」をみんなの前で披露した
ところ、唄い終わった後で、「今の歌は詩吟か?」と、
Kさんの親しい友人に尋ねた人がいたんだそうです。
また、テープで「たんごの節句」の歌詞を覚えようと
した頃、「夏虫鳴いて」が、どうしても「水虫鳴いて」とか
「うつ(鬱)虫鳴いて」と聞こえてしまったんだそうです。

Kさんはその後、童子さんの記事の切り抜き等を収集して
大変なコレクターになられたそうです。
あるとき、童子さんが、Kさんのスクラップブックを見て、
ぜひ貸して欲しいと頼まれたんだそうです。

1982年、放送局などに配られた見本盤「夜想曲」には
10ページのコピーから成る、童子さんの記事などの資料
が、添付されていました。 
一見、無造作に切り抜かれた記事なんかもいろいろ混ざっ
ていて、この中の資料のいくつかが、もしかしたら、
Kさんのコレクションだったのかなぁと、思ったりしてます。
Kさん、ぜひ一度お話しを聞いてみたい方のひとりです。

136 名前:k_1920 投稿日:2007/10/15 23:35 >>1 born115
早いもので・・
born115さん
本日で掲示板開設一周年ですね!
いろいろ貴重なお話をありがとうございます。
こらからも宜しくお願い致します。

137 名前:nonko551jp 投稿日:2007/10/22 18:48 >>135 born115
Re: 三重県のKさんのこと
>また、テープで「たんごの節句」の歌詞を覚えようと
>した頃、「夏虫鳴いて」が、どうしても「水虫鳴いて」とか
>「うつ(鬱)虫鳴いて」と聞こえてしまったんだそうです。

わたしも、「球根栽培の唄」を聴いていて
“長い思想のむなしさを読む”が、“ナガイイッソウのむなしさを読む”
に聞こえて長い間ずっとそう思い込んできました。
ナガイイッソウ?文学者の名前か何かだとばかり…(^^;)
『狼少年』は当時、歌詞が載っていなかったので、CDで初めて
間違えて覚えていたことに気付きました。
だけど、一度刻み込まれた記憶というのは簡単に消せない
ものですね。いまも、染みついてしまっています。

138 名前:born115 投稿日:2007/11/ 2 21:53 >>136 k_1920
Re: 早いもので・・
k_1920 さん、こんにちは。
最初は3ヶ月か半年のつもりでいたんですが、味気ない“アゲ”を
することもなくよく1年も続いたものだと思います。 k_1920 さんや
nonko551jp さんのおかげですね!

nonko551jp さん、
“ナガイイッソウのむなしさを読む”はオモシロいです!
私は“マツ虫鳴いて”が、こびりついて離れません(笑)。

139 名前:nonko551jp 投稿日:2007/11/ 9 18:55 >>138 born115
bornさん
こちらこそ、いつも貴重なお話をしていただき、
楽しませていただいて感謝の気持ちでいっぱいです。

唐突ではありますが、やはり『グッド・バイ』は入魂の一枚ですネ。
一曲、一曲が心に浸透していく感じがします。
なかでも「地平線」を聴くと、とても穏やかな気持ちになったり、また
あるときは思わず気持ちが昂って、こみ上げてきたり…
魂を揺さぶられるような…うまく表現できないのですが、
「地平線」はわたしにとってかけがえのない、いっとう好きな唄です。

140 名前:born115 投稿日:2007/11/16 20:05 >>139 nonko551jp
nonkoさん .Re:地平線/グッド・バイ
nonkoさん

> やはり『グッド・バイ』は入魂の一枚ですネ。
> 「地平線」はわたしにとってかけがえのない、いっとう好きな唄です。

ぼくもですね、童子さんを好きになってからナンバーワンとツーは
ずっと変わらない“わけ”です。 ワンは「地平線」。

『グッド・バイ』のときは、後の『マザー・スカイ』収録曲の約半数を
含めて、数多くの名曲の中からえりすぐられたということなんですよね。
だから最もインパクトの強いアルバムになったんだと思っています。
充電後の『ラスト・ワルツ』にも同じことが言えそうですね。

下記、以前載せたことがあるかもしれませんが、貴重なインタビュー
記事です。

●ファースト・アルバム、『グッド・バイ』からちょうど1年経ちますが、
今回の『マザー・スカイ』に納められている曲は、『グッド・バイ』の頃
からすでに作っていた曲ですか。
●半分はそうです。『グッド・バイ』以後作った詩は、「ぼくたちの失敗」
とか、「今日は奇蹟の朝です」などがあります。
 一番初めのLPの中で「さよならぼくのともだち」がシングル・カット
され、一つの私の世界と思われる部分がありますが、私が一番こだわって
いるのは「地平線」な訳です。

141 名前:nonko551jp 投稿日:2007/11/23 22:05 >>140 born115
地平線
bornさん、こんばんは〜。

>ぼくもですね、童子さんを好きになってからナンバーワンとツーは
ずっと変わらない“わけ”です。 ワンは「地平線」。

マイ・ベストテンには必ず入っていたのですが
なかなか順位がつけられなくて…
でも、自分の最期の時に聴きたい唄って考えたときに
迷わず「地平線」って思ったんですヨネ。
その時から、わたしの中で揺るぎないものになりました。
ですが、今でもその他の曲の順位というと大変悩んでしまいます(笑)。

>私が一番こだわって
いるのは「地平線」な訳です。

「地平線と狼少年」について、童子さんのインタビュー記事をもとに
これまで、いろんなお話をうかがってきましたが、
童子さんがずっとこだわり続けてきたことを、あらためて
うかがい知ることの出来る本当に貴重なインタビューですね!

142 名前:born115 投稿日:2007/11/25 22:19 >>1 born115
1977年7月
1977年7月31日新宿ロフトでのライブの曲順が、最近2ちゃんねるに
投稿されました。
ロフト出版の本によれば、このライブで“コンサート活動一時休止”
ということになります。 ちょうど“ボーイ”のレコーディングに入る頃
ですね。

曲目リスト↓を見て、いくつか興味深いことがあります。
この時点でまだ未発表で、その年12月発売の“ボーイ”に収録され
たのは、「淋しい素描」と「セルロイドの少女」の2曲です。
「G線上にひとり」が唄われてなかったのは、ちょっと意外でした。

「淋しい素描」は、地味なので“グッド・バイ”に入らなかった曲なん
だそうです。早くから完成されてた曲だったんですね。初耳です。

「セルロイドの少女」は、このときはまだタイトルが「家族合わせ」
だったようです。アルバム収録直前なんですけどね。 メロディーの
ほうは、アルバム収録のものと同じようなハイテンポのものになって
いるそうです。

「ぼくたちは 輝く陽射しを目ざすべきではなかったのか」は、この頃
のコンサートのアンコールに必ず唄ってますね。
“ボーイ”に収録される予定だったのに、なぜ予定で終ってしまった
のか、… 。

「風さわぐ原地の中に」は、このときが初公開だった可能性が高いと
思われます。


%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
77.7.31(日)新宿ロフト(コンサート活動一時休止)
            (2ちゃんねるより) 
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
(童子のギターのみでサポート無し、効果音無し)
1 まぶしい夏
2 淋しい素描
3 君は変わっちゃったネ
4 にわか雨
5 雨のクロール
6 逆光線
7 ぼくと観光バスに乗ってみませんか
8 風さわぐ原地の中に
9 地平線
10 男のくせに泣いてくれた
11 伝書鳩
12 春爛漫
13 家族合わせ(セルロイドの少女)
14 海を見たいと思った
15 ピラビタール
16 ぼくたちの失敗
17 センチメンタル通り
18 さよなら ぼくの ともだち
(アンコール)
19 (友よ泣かないのか)
20 春爛漫
          (Thanks to Xさん)

143 名前:born115 投稿日:2007/12/ 2 17:52 >>1 born115
森田童子スタジオライブ
判明しているのは、下の5回です。
ほかに、前語りのみライブで入れてるものがいくつかあります。
地方の放送局でのライブもあると思うんですが…。

%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

@77年2月FM東京(FM東京第1スタジオにて収録) 
「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」など全4曲。

A77年3月(北上、放送局不明)
「ぼくたちの失敗」など全7曲(+α?)。(Thanks to ケンブンさん)

B78年3月FM東京  
「さよならぼくのともだち」1曲。

C78年4月FM東京
「蒼き夜は」など全8曲。

D80年11月NHK-FM
「菜の花あかり」、「きれいに咲いた」の2曲。

144 名前:born115 投稿日:2007/12/ 5 22:06 >>1 born115
木森敏之さん
木森敏之さん、
1975年、28歳のときにアルバム“グッド・バイ”の「さよなら ぼくの ともだち」以外の
9曲を編曲されました。 
その直後、たしか勉強のためアメリカに渡られたんだっと思います。
1882年に、「聖母たちのララバイ」(共作)が大ヒットし、木森さんの代表曲となります。
1988年、病気のため40歳の若さで亡くなりました。

以前に、森田童子研究所の掲示板で、「聖母たちのララバイ」は「地平線」のリメイクだ、
という趣旨の投稿がありました。 外国の方の投稿でしたが、私にはいまだにその意味が
よくわかりません。

最近、木森さんの大変面白い作品を発見しました。
1984年にポリドールから発売された、レインボー・シスターズの「悲しきウェザーガール」です。
テレビ朝日のお天気番組のテーマ曲だった歌ですね。
当時からレコードは持っていたのですが、木森さんの作品(作曲・編曲)だとはまったく気づき
ませんでした。
この「悲しきウェザーガール」という曲は、「地平線」と編曲上おもしろい共通点があります。
曲の初めと終りに、雷の効果音が入ってるんですネ。

https://img.atwikiimg.com/www35.atwiki.jp/presenile/attach/703/10/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90%E3%81%95%E3%82%93%E2%80%A61-144.htm

27. 2020年9月08日 17:16:59 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[34] 報告
●伝言板Vol.1
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng1.html


sumimasenこれで、いいかしら!かなぁ〜

森田童子の春爛漫の頃に、やはり心というか印象に残ったのが荒井由美とかいう人
。ちょっとなら五輪真弓という人。女流であったから?ではないような気がします
。真弓さんの「雨」、由美さんのベルベットイースター、叫んでいた童子の春爛漫
の一方、男性は「人間なんて」を経て、井上某の10年は一昔、かぐや姫の神田川
、古井戸のポスターカラーだったのかなぁ。
真弓さんはトタン屋根、由美さんは飛行機雲、童子は蒼き、青の、青い!というと
きに、ポスターカラーの色味とか、赤い手拭いとか、風鈴とか、ススキとか・・・
。ベクトルというか動きが違っていたと思う。
吉田拓郎というか、その一派というか、広島のもんじゃというのが東京に来て、チ
ャーリー石黒の門を叩いてそっけなく断られてその後、自棄酒を飲んだのか否か?
知りませんが、森田童子もその詩に謳っているイズミヤ、「ギターは打楽器だ!」
との名文句。あの頃ギターというとガロのリードギターのマーチン、とかいろいろ
ギブソンとかでした。
一方、ギルド系の最右翼が山崎ハコで、やっぱ童子でした。(この変は値段が違う
)。童子のギターは10万とうん万円。セコイ!我ながら情けない。あのころ弦と
いうかストリングスが1400円くらい。一本切ったら、3000円!
何だか書いていて、貧乏たらしくて嫌になりますが・・・。そんなものだったので
は・・・。その点で行くと、ギルドは基本がコードというか、和音ですから、多少
古くても何とかなるっという訳ではないでしょうが、童子はギルドでした。いわゆ
るリズム楽器と考える訳です。童子の歌をコピーしましたが、一緒になることが多
々あり、その割に歌は別なのでした。
何を言っているのだろう?いいたいことはたった一つで、童子は基本的に儲からな
かったのでは?ということ。新宿のロフトで1500円を200人からいただいた
としても、ベースとドラムと、佐久間さんのギターとバイオリン、そして彼女自身
のギルドの消耗品だけで、ん万円するはず。と考えると彼女は歌いたいから謳った
だけ!ではないのかなぁ〜。書いていて自分でなんだか分りませんが、ありゃ儲か
らない!と思うのでした。でも、儲かる歌がいいのではなくて心というか記憶に残
る歌、例えば森田童子の全曲集とかあったら欲しいなぁ〜。10000円くらいに
してね。じゃないと買えない!亀、でした。

yatto MORITA DOUJI no HP ga arimasu!

mae ni nan kai mo sagashitan da kedo ima made nakatta mitai desu.

boku wa kanojo no DAI FAN da kara, HP wo tukutte kurete arigatou gozaimashita.

Tom

Kita様へ

WWWのあちこちへ行って読んでみると「森田童子は暗い…」と書かれてあり、しばらく考えこんだ時期がありました。僕は森田童子を聴き始めてからもう20年になりますが、最初からまた最近まで暗いと思ったことはないのです。60年代末から70年代にかけて歌謡曲には暗い歌がいっぱいありました。いや暗い歌が大部分をしめていました。今でもタクシーに乗るとそのころの歌謡曲が流れてきて「暗いな… 何?この暗さは」などと思います。
 ではどう感じていたかと言うと「悲しい…」と言う言葉でしょうか。暗い歌があふれていた時代だったから「透明な悲しみ…」だと感じていました。森田童子が好きな友人とは「存在の悲しみ…だよねえ」と言いあっていましたが、それを認めない友人もいます。なお「悲しみ」は「哀しみ」の字でしょうか。でも「悲しみ」の方が好きです。
 「高校教師」が放映されたとき、僕も2〜3回目からしか見ていませんが、毎週毎週見ていました。森田童子が好きな友人は「あのドラマは何だ」と怒りながら言いましたが、僕はストライクゾーンがその友人より広いので「いいんだよ」と言いながら見ていました。(そしてドラマのおかげでCDとしては未発売だった後半の3枚が発売されたので助かりました。レコードプレーヤーを処分できました)主題歌としてつかわれた「ぼくたちの失敗」は僕のもっとも好きな歌だったので、毎週うっとりして見ていました。ただこのドラマが好きなわけではありません。とくに脚本家の野島伸司については、その後のドラマは1本も見ていませんし、映画「高校教師」も見ていません。(うん、ビデオ借りてきて見よう)それは、野島伸司のドラマのなかに、あざとさを感じてしまうからです。これは個人的な感覚です。「高校教師」はいいドラマだったと思います。
 ドラマ放映中に始まったいろいろなマスコミの騒ぎも、そんなものかと思っていました。今は活動を停止して10年たてば忘れさられているというマスコミの感覚におどろきました。

 ところで朝日新聞に連載されていた「夜想曲」の掲載された年・月・日のデーター解りますか?今データーだけでもわかれば掲載して、みんなが朝日新聞を探しやすいようにしたいので、出来れば知らせて下さい。


 さて僕の好きな曲。1週間ぐらい考えました。オーディオのアンプも壊れていてCDを聴くことができないので、アンプ買ってきました。歌詞カードを床に落としたら、床の上で遊んでるうさぎが見つけて1cmぐらいかじってしまいました。

1位 ぼくたちの失敗
2位 淋しい雲
3位 雨のクロール
4位 ニューヨークからの手紙
(以下順不同です)
ぼくと観光バスに乗ってみませんか
たとえばぼくが死んだら
G線上にひとり
赤いダウンパーカーぼくのともだち
蒼き夜は

以上九曲ですが…以下次点
ラストワルツ 
さよならぼくのともだち 
終曲のための第3番「友への手紙」
次点の3曲は1〜3位にしてもいいのですが、こうなってしまいました。曲は好きでも編曲が嫌いというのがあります。主にヴァイオリンの編曲です。

伊藤重夫(管理人)

 子供たちへ、夏休みの幻燈会のこどもたち へ、思い出を大切に・・・・

嗚呼、僕が僕であろうとし、僕がどこまでも僕であろうとし!僕がいつかどこまで
も、どこかで僕であろうとし・・・・ですかねぇ。
僕は僕であり続ければよいのであって、
それ以外はないですね。ただ、森田童子が言うとおり
「僕は斜めに捩じれて逆さに宙ずりだ!」ということになります。
ということは、僕が僕であることはいけない!もしくは辛い!!もしくは、出来な
い!!!ということになりますが、
今、私たちが必要としていること、願うこと、祈ることは
「わたしたちは幸せになれるのでしょうか?わたしたちの祈りは届いたのでしょう
か?グリーン大佐!答えてください」ということになりますね。
「麗子像」でしたね、「見えぬあなたに恋をして震えます」でよいのではないので
しょうか?所詮、浅き夢見し・・・ではございます。
本音を言えば、森田童子にはやっぱり復活して欲しい。俳句のほうでありますが「
全力か否か崩るる雲の嶺」ですよね。彼女がいないと崩れてしまう、そんな優しさ
世代もいますよね。情けないと言ってしまえばそれまでですが、人間生きていれば
シンドイこともあるので、そんな時、童子みたいに「僕が君の思い出になってあげ
よう」とか言ってくれる人が今、必要なのでしょう。
小学生とかによく聞かれるじゃないですか、「戦争したり、人を殺したり、嘘をつ
いたりして、何で大人は生きているのかなぁ〜」とか、しょうがないから答えるじ
ゃないですか
「いつか、どんなに辛くてもいつか幸せになれると思うから生きているのですよぉ
〜」とか、
大人として今、子供たちに言えるもしくは、言わなければいけないのは、童子じゃ
ないですけど、幸せに、少なくてもわたしたち大人(何時の間にか大人になってし
まった・・・)よりは幸せになって欲しいのです。ということ。
みんなぁ〜、本当に、みんなぁ〜!幸せになってください。お願いしますよ。小学
生、中学生、高校生のみんな、本当に思い出を、いい若しくは自分が理想とする思
い出を作ってくださいね!

From:亀岡達也

 森田童子を聴き始めてから5年程になります。多くの人がこれで知ったように、ぼく
も高校教師で彼女を知りました。普段あまりドラマを観ないので1回目の放送は逃して
しまい、再放送でこのドラマに夢中になりました。
 知り合いからベストコレクションのCDを借りて聴いたときはあまりの暗さに眩暈が
しそうでしたが、逆にこの感覚がたまらなくなり、正に”自分の世界を見つけた”と感
じました。特に「逆光線」の”安全カミソリがやさしくぼくの手首を走る”でゾクッと
きます。と書いてしまうとちょっと異常なやつと思われるかもしれませんが、普段は明
るく生きてます。明るい世界と暗い世界、どっちが自分の本来の姿かわかりませんけど

周りにも高校教師にはまった人はたくさんいましたが、森田童子の世界にはまったのは
結局ぼくひとりでした。今まででも彼女のことを好きって人には出逢ったことがなかっ
たので、このHPができたことは嬉しく思っています。
 伝言板の中には昔からのファンの方もいらっしゃるようなのでちょっとお聞きしたい
のですが(ここはNewsやMLではないので回答はないかもしれませんが)、高校教師とい
うドラマで彼女の曲が使われて再び脚光を浴びたことをどのように感じたのでしょうか
?ぼく自身はこのドラマに心底はまりまして、彼女の曲がどのような場面で使われ、そ
れがどのような効果やストーリーに影響を及ぼしているか分析したこともあります。ぼ
く自身の表面的な生き方は変わってないつもりですが、感受性という部分ではこのドラ
マを観たこと、そして森田童子の詩、曲、世界観によって確実に大きく変わりました。
 それからはCDをすべて集めましたが、何といっても20年程前の活動だし、周りに
も好きな人がいない状態なので詳しい情報が得られませんでした。ただCDにも掲載さ
れている朝日新聞に連載されていたエッセイ「夜想曲」の全編を見つけに国会図書館に
行ったことがあります。縮小刷りで載っていました。このHPのマスコミ資料には載って
いなかったので、是非これも許可が取れたらHP上に掲載したらいかがでしょうか。
 この伝言板を見ると彼女のフィルムが残っているということで、ぼくも本当に観たい
です。何か動きを起こすのでしたらぼくも是非協力したいと思います。ただ、森田童子
本人はそれを望まないかもしれませんが。

アルバム「ア・ボーイ」
曲「G線上にひとり」
ぼくがもっとも気に入っている作品です。

>From Kita
kita@sic.co.jp
BZA01766@niftyserve.or.jp

ありがとうございます。

ぜひこのHPに掲載(活字メディアじゃないんですが、他に適当な言葉が見つかりません)
させて下さい。大変うれしいです。「森田童子研究所」と言いながら、過去に自分でした
対談しかなくて、恥ずかしいやら、困っていました。よろしくお願いします。

なお連載された分、郵送か、また枚数が少なければFAXでも、どちらか選んで下さい。
(以下メールとして住所、FAX番号を送りましたので省略します。)
伊藤重夫(管理人デス)
 森田童子のホームページをうれしく読ませていただきました。

 実は、私は数年まえに地方のミニコミ誌にささやかな森田童子論を連載しました。
自分勝手な思い入れに満ちた独断的なものですが、もし研究所の資料にでも加えて
いただけたら、あるいは感想などいただけたらうれしくおもいます。

 そちらに送付する方法などないでしょうか。
                          札幌市 笠井
森田童子のベスト10
寝ないで考えた結果を発表します。
一位、「今すぐ海を見たいと思った」というやつ。
二位、やはり「春爛漫」。最初に聞いた歌だから?
三位、不思議ですが、「赤いダウンパーカー」。
四位、「あぁ!僕が僕であろうとし、」というやつ。
五位、「暗闇の中に写しだされた幻燈会の〜」というやつ。
六位、「僕が愛した友達の、そして模型飛行機の〜」という詩。
七位、原田美枝子が好きというか変に、同級生だったので「雨のクロール」。当時
、あの役をできるのは彼女しかいなかったと思っている。
八位、やっぱ、佐久間さんのギターがよかったので「風騒ぐ原地の中に〜」という
やつ。
九位、「辺り一面菜の花明かり」というやつ。
十位、みどりちゃんが「青春、逆立ち、宙返り」したやつ。

番外、「悲しき巨人、ニューヨーク」「ラストワルツ」「グリーン大佐」「高橋和
己」「さよなら僕の友達」「聖母マリアが浮上する」「麗子像」「あさき夢見し人
の世は」「海へ行くにはどういくんですか、それから僕はどう生きるんですか?」
「地獄固め」「汗をかいて眠った」・・・・

追補、「センチメンタル通り」

補の補、「僕が、君の思い出になってあげよう・・・」
でした。

蒼き夜とかないですから、順当とは言い難いのですが・・・。伝言板を見ていて妙
に納得したのは「そうかぁ!童子は練習とかしなかったんだぁ〜」ということ。

それと、何でみんなが童子を好きなのだろうということ。
本当、お若い方も好きなようで・・・・。森田童子は天才とは思いませんが、やっ
ぱ、思い出になってくれたからかなぁ〜と思っています。

俳句系の人からは笑われるのですが、
影踏みや母の呼ぶ声、風花す。
懐旧の情やらイメージは、俳句ではあってはならないのですが、童子がいうとおり
、思いでまたはおもひでしかないですね。人間って・・・・。反論が沢山来そうで
すね。まぁいいかぁ〜。

From:亀岡達也
みなさん、こんにちは。
インターネットは、昨日から始めた初心者ですが、森田童子と検索で探したらここを
見つけました。とても感激です。

大学2年の頃から3年間森田童子さんのライブはすべて見に行ってました。たぶん。
それ以降、彼女は活動を止めてしまっていたので、高校教師のテーマ曲に使用された
ときは、ビックリしました。しかし、残念ながら、活動再開にはいたりませんでし
たが。

今となっては、新宿ロフトに朝早くから並んだことや、両国のテントで行われたライブ等
は、遠い昔ですが、彼女の神秘的な世界は、他のアーティストにないものであり、今でも
その歌声やメロディーは、私の心を震わせます。

実は、ロフトでのライブの帰りに彼女を待っていて、少しだけですが、お話をしたことが
ありますので、その内容を一部ご紹介します。

私「森田童子さんの曲は他の誰のものとも違い素敵ですが、どんなアーティストの影響を
受けているのですか。」
森田さん「実は、音楽はクラッシックも含め何も聴いていません。本当は色々聞いて勉強
しなければいけないのですが。」
私「えっ。それで、こんなにも個性的な世界をきずけるのですね。」
森田さん「それは、わかりませんけど。」

彼女は、やはり天才ですね。

そこで、提案ですけど、この場を盛り上げていき、是非もう一度だけでも、彼女のライブを
実現してもらいませんか。無理ならフィルムコンサートでも良いですが。
もちろん、運営は昔のようにボランティアによるテントライブで。

ちなみに私が一番好きな曲は、「君は変わっちゃったね。」です。

アンソニー
horiikeさんいろいろアドバイスありがとうございます。

今はワーナーパイオニアでなく、ワーナーミュージック・ジャパンになっていますが、レコード会社には連絡しようと思っています。ここはまだホームページを持っていない会社なので、手紙を書くのが、おっくーになっています。
最近WWW上で「月刊タウン情報とやま」83年7月号にに「森田童子インタビュー」というのがあり、何とかコピーでも手に入らないかとメールでお願いしています。
http://www.vcnet.toyama.toyama.jp/toyama/infomart/toyama/new/data/TYM8307.html
ただしここにはインタビューが公開されているのではなく、記事の索引があるだけです。


>ファンが選ぶ森田童子のベスト10など企画しませんか?
ぜひおこないたいとおもいます。だだまだここに来ている人は少ないと思われますので、しばらくは

●私の好きな森田童子の10曲
というかたちで、森田童子の好きな10曲を書いてもらえませんか。集計出来るぐらいの量になればベスト10という形にします。

伊藤重夫(管理人デス)
森田童子のファンの人たちは、他にはどんな音楽を聞いているのでしょうか?
僕の廻りのかつて森田童子のファンはマイルスとかジェフベックとかキャロル
の「ファンキーモンキーベイビー」、拓郎の「元気です」なども
聞いていました。当時「グッドバイ」が発売された頃のはなしですが。
最近の若い人で森田童子を好きになった人に是非聞いてみたいです。

ITOUさんへ
ファンが選ぶ森田童子のベスト10など企画しませんか?
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horiike@bc.mbn.or.jp masanobu horiike
Yono-City Saitama JAPAN
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森田童子自殺説が出てましたので、そうじゃないよということで書きます。
「高校教師」で森田童子が再び見直され始めた時に、レコード会社が、ワーナーパ
イオニアですが、再デビューを試みようとしたらしいのですが、再び歌うつもりは
ない云々ということらしいです。
また、その時にライブ映像も販売しようと考えたらしいです。
現在、主婦として、森田童子には主婦という言葉はあまりふさわしくないとは思い
ますにで、言葉を変えれば、当時、一緒に音楽活動をしていたダンナと結婚して、
幸せにやっているとのことです。(以上、スポーツ新聞より)
ワーナーの森田童子担当のディレクターに問い合わせれば、少しくらいは教えてく
れると思いますよ。
すぐ人にふりますけれど、ホームページを始めているとか、ファンクラブをつくる
とかであれば、レコード会社も協力してくれると思います。
というのは、わたしは、他にベンチャーズのファンでファンクラブにも属していま
すが、ファンクラブも少しずつ大きくなってゆきました。ついには、ファンクラブ
のコンベンションに、東芝EMIの担当ディレクターが出席したり、ベンチャーズ
のベースのボブさんがアメリカから来日して、演奏までしてくれるほどになってい
ます。
わたしも、1分位ですが、ボブさんと話もしました。なぜかしらないけど村下孝蔵
さんもベンチャーズのファンで出席していまして、彼ともお話できました。(余談
もいいとこですが)
そんなわけで、みんなで力を合わせてゆけば、ワーナーでもっているライブ映像も
、だしてくれるかも。
やっぱり、これは誰もがみたいものですよね。
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horiike@bc.mbn.or.jp masanobu horiike
Yono-City Saitama JAPAN
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わーーーい
なんか
このあいだここをみたときは、まだ書き込みがなかったのですが
書こうかな、と思いながら、詳しい人ばかりだと恥ずかしいな
と思って書かなかった。
今日来たら書き込みがあって、嬉しくなって書いてます。
ああ、森田童子がすきな大学生です。

私は、「雨のクロール」にたいして
私はまだ泳いだことないのに、もう泳げないのかなーー
と思ってしまいます。
あれもダメ、これもダメ・・で
手も足も、出し方も知らぬまま。。。。

泳ぎ方から、開発しなきゃ、わからないんでしょうね

あー帰ってこれないほど、暗く沈んでしまう。
健康には良くないかもね、森田童子

こういちろう (97.6.23)

最近風の便りで、森田童子は自殺してもうこの世にいないという噂を耳にしまし
た。本当ですか?彼女はいったい今どこで何をしているのですか?
               
森田童子の隠れファンの夫婦より
ついに、インターネットに、、森田童子の、、、サイトが、、、、出来た!ということで感無量!!涙が出る!!!いいですねぇ、頑張ってください。
ところで、わたしは40歳の童子オタクなのですが、森田童子の顔をみたことがない。だいたい、引退したことすら知らなかった訳です。なんでだろう?いつだろう??森田童子が引退したことを知って、「あぁ!」と思いました。
森田童子が普通の主婦しているのかなぁ〜、でも、案外似合うかもしれないなぁとか・・・・。ところで誰と結婚したのかなぁ。佐々木さんかなぁとか・・・・。とかちょっと考えましたが、人間忙しさに紛れていつの間にか忘れていました。
ただ、森田童子の言語感覚というものは消えないもので、それともちろんワルツのリズム。これらは一生残ります。言語感覚というもの・・・。リズムというもの・
・・・。
もちろん森田童子が好きで、新宿のロフトに行っていたころは大学生で、そんな大学生が新聞社の社員となり、ロフトになんぞ行けなくなり、新聞社を辞め広告代理店に入り、広告代理店が倒産し、フリーランスになり、しょうがないから広告代理店を起こし今日ですが、いろいろあり、現在一人でいる・・・・そんな境遇というか、結構ミジメでも、あまり気にせずいます。社員達も去り、本当に考えてインターネットとかアトピーとかを扱い、それでも嘘がつけなくて、失敗してまた考えて
いますが、案外幸せ。
企業を作って10年になるのだと思いますが、企業たるもの上場して社会のものに・・・という意見もまたありますが、N証券やらDK銀行やらのことを思うと、「?」になりますね。「どうして?」
森田童子の感覚ならば「僕が君の思い出になってあげよう」なのであって、当然企業ならば思い出になってあげれる企業でなければ・・・とも思います。
森田童子が見ていた大人、今、大人企業がダメになって、「ダメになった僕を見て〜」になって、大人政党がダメになって・・・大人大学さえダメになって・・・・
本当に恐い感じがします。
森田童子を否定的に見る人も確かにいますが、暗いとか陰気とか、どんなにシンドくても森田童子的なものを見つめることが今、必要なのかも知れません。

蒼き夜、菜の花明かりに噎せるとき

たつやでした。失礼。

From:亀岡達也
森田童子のホームページをようやくみつけました。
yahooでは見つかりませんでしたが、NTT dictionaryでようやくです。
半年かかりましたよ。

その昔、森田童子のコンサートは2回いきました。
渋谷の屋根裏部屋と新宿のルイードです。
LPレコードはすべてもっていますが、<]8^Yレコードは2枚のみです。
何枚シングルレコードが出たかは$わかりませんが。
残念ながら私は、所属していませんでしたが、ファンクラブがあったようなので、所属していた人が見つかれば、情報がいろいろ手にはいるかも。
あと、ライブのフィルムをレコード会社にあるらしいのですが、是非見てみたいものですね。
何人位、同好の人がいるのでしょうか。
これからも、ちょくちょく寄らせてもらいますので、宜しく。
では。

From: h oriike

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng1.html

28. 2020年9月08日 18:07:07 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[37] 報告
●伝言板Vol.2
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng2.html

佐野 高久 様

貴重な楽譜集をお貸しいただけるとのこと、ありがとうございます。

>  また、注目すべきは、巻末に、森田童子に関して、各界の人が寄せた文章があ
> ります。その中に近藤正臣氏などの名も見えるというのは、なかなか貴重なもの
> であるかも知れません。

ただ、内容については、直接公開は出来ませんが、楽譜集を見せていただける
なら、各界の人が寄せた文章の内容を解説紹介していきたいとかんがえていま
す。(いずれは、連絡のとれる人からWWW上での公開をお願いしてみるつもりで
すが)

なお個人的なことで、まことに恐縮ですが、ここ1ヶ月ぐらいのうちに、引っ越
しをします。(遠くでなく、近いところなのですが)その準備と整理のため1ヶ
月ぐらい、わちゃちゃの状態なので、貴重な楽譜集をなくしたり等あるといけま
せんので、1ヶ月あとぐらいにもう一度、メールにてお願いしたあと送ってもら
う、というのでいかがでしょうか。

リンクはこちらもはらせてもらいます。よろしくお願いします。
なおメールにはそちらのURLがないので、お知らせ下さい。

PS. 信州・松本にお住まいとのこと、僕も何度か行きました。1週間後には、う
ちの奥さんが、仕事で白馬と大町に3日間ぐらいいきます。もう5回目ぐらいなの
で、あまりあわてていませんが、今年の寒さはどんなぐらいだろうと、準備をは
じめています。

管理人 伊藤重夫
(以上のものをメールでも送りました)
 実は、20年ほど前に出版された楽譜集を所有しています。
 自筆であるのかわかりませんが、楽譜の合間に、演奏に関するアドバイスなど
が記載されています。
 また、注目すべきは、巻末に、森田童子に関して、各界の人が寄せた文章があ
ります。その中に近藤正臣氏などの名も見えるというのは、なかなか貴重なもの
であるかも知れません。いまでも、ギターケースの中にその楽譜集を入れたまま
で、ただあるだけです。
 斯様に素晴らしいWEBコンテンツのために、必要な期間お貸しする覚悟をいたし
ました。ご入用であれば、折り返しご連絡下さい。

 なお、ワタクシもWEBサイトを運営しておりますので、かかるサイトにリンクを
張らせていただきたいと思いますが、構わないでしょうか。


破目仙人@空相庵.信州/松本
/佐野 高久/

>かし、例によって現在の森田童子はどうしているのかなどと追いか
>けられ主婦になっているという話を見かけましたが、写真週刊誌に
>取られて掲載されたりしなかったのは救いでした。

僕もおなじ気持ちでした。

数年前に、つげ義春原作の映画「ゲンセン館主人」がつくられましたが、完成パーティだったか試写会だったか、森田童子さんに招待状をだしたところ、花束が送られてきたとのことです。僕は出席していないので、花束は見ていませんが、映画製作にも関わったて、森田童子さんに招待状を出した(弱小)出版社社長から電話で聞きました。僕のまわりの森田童子ファンは「森田童子さんをマスコミに出すような事しだめだよ。」と、その出版社社長に怒りながら、よろこんでいました。
森田童子さんから花束が送られてきたのは、かってコンサートのタイトルにつげ義春の「ネジ式」を使ったからだと想像します。20年前に僕がその出版社社長に「森田童子という歌手が好きだ」と言ったとき「そんな名前の人から、お菓子か何か送って来ていた。誰だろうと思っていた。」と言うので、コンサートのタイトルに「夜行」とつけてるからだよ、と想像していました。その出版社は「夜行」という単行本の劇画誌を出しているのです。

管理人 伊藤重夫

私が森田童子の曲を最初に聞いたのは、大学生の頃深夜のラジオから
流れてきた「雨のクロール」でした。

それ以前に、音楽雑誌などで森田童子のあの風貌は目にした事はあった
のですが、その風貌からうけるイメージと実際に聞いた彼女の声と曲の
イメージのギャップに引かれて「グッド・バイ」のアルバムを買ってきました。

その後アルバムは「マザー・スカイ」「ア・ボーイ」「東京カテドラル聖マリア
大聖堂録音盤」と買いましたが、最初のアルバムのインパクトが強かった
分、「グッド・バイ」が私にとってのベストです。

当時私は山崎ハコのアルバムも買っていたのですが、彼女の場合も
やはりファーストアルバムにのめり込んで、その後のアルバムにもの足り
なさを感じてしまっていました。

個人的には、森田童子や山崎ハコといったタイプのアーティストの場合、
その後のアルバムが音楽的にうまくなったり完成度が高くなっても、
その人の持っていた最も芯になるものが凝縮して詰まっているのがファー
ストアルバムなのではないかと感じています。
ですから、私がもっぱら「グッド・バイ」ばかり聞き込んでいました。

私が大学生の頃、学生運動は一時ほどでないにしろまだ続いていて
自分自身はノンポリでしたが、「グッド・バイ」の中の「さよなら僕のとも
だち」に出てくる「君」と「僕」との話も何となく身近に聞く事ができました。

「グッド・バイ」はCDで買い直そうとしたら廃盤になっていて、入手ももう
不可能だろうなとあきらめていたら、「高校教師」の主題歌でのヒットで
再発売され入手できました。
昔のアーティストの曲が何かのきっかけでまたヒットするという現象は
度々ありましたが、昨今の音楽市場では森田童子はその可能性の
低いアーティストだと思っていただけにうれしい誤算でした。
しかし、例によって現在の森田童子はどうしているのかなどと追いか
けられ主婦になっているという話を見かけましたが、写真週刊誌に
取られて掲載されたりしなかったのは救いでした。
当時森田童子の歌を聴いていると、この人は将来どうして行くんだろう
と思ったりしましたが、主婦になっているという話を聞いてどこかホッと
しました。
昔、ロックは大人になったらやってられないといいながらローリング
ストーンズが50歳を過ぎてもロックしていますが、森田童子の歌はあの
当時、あの年代だから作り歌う事が出来た歌ではないかと思います。

森田童子のライブは新宿のルイードで下田逸郎と二人出演したときに
見ました。最初に森田童子が歌い、その後下田逸郎が歌ったのですが、
下田逸郎が「彼女は僕より年下なんどろうけど青春が終わったって唄っ
てますが、僕は30でまだ青春してます。」と話していたのを妙にはっきり
憶えています。

ぜんちゃん

20年前,小学生だった僕は,姉と二人で繁華街へでかけたのは,その時が最初だった.
ビラを受け取り,大人扱いされたことに,少し有頂天になったのだった.
その時受け取ったビラが,森田童子のビラで,サングラスにアフロヘアが強く印象に残った.
中学生になり,森田童子の歌と出会い,その容姿からは想像もできないアグネスチ
ャンのような歌声とあまりにもせつない詩とメロディにのめりこんでいった.
当時,森田童子はFMラジオには,たまに出演していて,高橋基子のニューサウン
ズスペシャルでは,なかなか大ボケをかましていたのを記憶している.
岩手の岩泉というところのマルコンレコードにも行き,店主に当時の様子を尋ねたこともある.
ドラマ高校教師のCMで,TVから森田童子が流れた時は,一瞬耳を疑った.ただ,彼女が,
一切マスコミに顔を出さなかったことは,昔からのファンとしては,ほっとした.
笑福亭鶴瓶氏が,昔ラジオ大阪で「ぬかるみの世界」という番組をやっていて,よく森田童子
をかけていた.多分,彼も森田童子のファンだったと思う.

菜の花あかりです。

あかりがこの名前を10年来、パソ通なので使ってきたのは、もちろん童子
さんの歌の題名からです。童子さんと出会ったのはコンサートツアーの50
0人劇場、、、もぉ20年くらい前のことかなぁ。

あかりの家には、昔の「非行少年」のフアンクラブの会報があります。

コンサートの後で、フアンの方の集まりに出席された童子さんは、要望によ
り、サングラスをみなさんの目の前ではずしたそうです。

とてもまぶしそうに細い目をこすっていたという記事が印象的でした。

ちなみに「500人劇場」で、あかりの住む岡山に来たときのとうじつの
朝、深夜の地元の山陽放送のラジオに生出演して、童子さんは「今カブトム
シを飼っていて、部屋に入るとカブトムシの匂いがします」と言っていた。
アナウンサーの方が「八重歯がかわいいですね」と言ったのが、とても頭に
残っています。

そうそう、昔レコードを買っていただいた品ですが、あかりの手元には、童子さんのサイン
色紙が2枚あります。はっきり言って、宝物です。(^_^)ちなみにあかりは、30代前半で
す。。。

森田童子さんのホームページを作っていただいたことに感謝します。

やっぱりいたんですね〜森田童子さんのファンが。
私がはじめて森田童子さんの曲を聞いたのは、中2の頃だったかな。
もう20年以上前のことなんですね。
その後しばらく離れていましたが、大学生の時レンタルレコード店で「夜想曲」を
見つけて思わずレンタルしてしまい、むさぼるように聴いた記憶があります。

ところで、アルバム「狼少年」をLPで持っている方にお聞きしたいんですけど、
歌詞カードってはいってましたか?

おまけ
ギター本ありますよ。
「森田童子全曲集」
国際楽譜出版社というところから、¥1700で発行されてました。
ただし、「夜想曲」までしか載っていませんが・・・

E−MAIL: tenpoint@blk.mmtr.or.jp

  なんとなく立ち寄ったホームページを見てアルバイトをして、ようやく手に入れ
た国産のフォークギターに、Gigsonのロゴマークを貼り付け得意になっていた
ころを思い出しました。

  私には、15年間くらいずっと捜し求めていた曲があります。ある日ラジオから
流れていた今日がどうしても頭の中に残り、曲名も、歌手名もさっぱり分からないま
ま、似たような曲が流れてくるたびになんか違うな〜などと思っていたものでした。
そんなある日、テレビからあの曲が流れてくるではありませんか、私の探していた曲
は、「ぼくたちの失敗 」でした。その時心の霧が晴れたのと同時に 、ほかにも聞き
たい曲が沢山頭をもたげてきてしまいました。なぜなら、学生時代集めていた100
枚近いレコードを実家の母に処分されてしまったのです。まあ10数年ほったらかし
にしてあった私も悪いと思いますが、何も捨てなくてもいいと思いません?メジャー
な曲は、すぐに手に入るけれどマイナーな曲はほとんどないですね〜
              トホホ・・・・・・・

  話は変わりますが、彼女はギルドのギターを使っていたのですか〜私もギルドの
ブルーグラス系は、大好きです。ギルドのクラフツマンは、エピフォンからスピンア
ウトした人を集めたなんて事、知ってました?

                                 乱文でした
   R390

はじめまして。突然ですが、私が始めて森田童子を知ったのは、中3の時、高校教師
というドラマを通してです。今まで聴いたことの無い感じのする曲調で、一気にはま
ってしまいました。そのころはCDを全て買い、飽きることなく毎晩聴きました。今
でも熱烈なファンで、よく聴いています。彼女の歌からは、60年、70年代の若者の
、怒りや、さみしさや、その他諸々の感情が伝わってくるようで、聴く度にその世界
へ入り込んでしまいます。周りに森田童子を知る人はいなかったので、このホームペ
ージを知る事が出来て、本当に嬉しく思っています。また、直接森田童子のライブに
行った方が羨ましいかぎりです。ちなみに私が一番好きな曲は、ピラビタールです。
森田童子に関して、もっと色々知りたいです。それではまた。

志帆子より

こんなホームページがやはりあったのですね!

大学時代、1980年にわたしは、初めて森田童子のレコードを聴きました。そのこ
ろよくあったレンタルレコードで借りた「マザースカイ」で、その時はすでに復
刻版でした。ぼろぼろのアパートでたばこを吸いながらA面に針を落としたあの
時のことは今も忘れられません。最初の1曲目「ぼくたちの失敗」は、今も変わ
らず森田童子の中で一番好きな曲です。あの曲を聴きながら私は真っ暗な地平線
の向こうにぎりぎりの光のある風景を見、そして口笛とともに後ろに引っ張られ
て魂が抜け出たような感覚を味わいました。
 森田童子の世界というのは確かに明るいとはいえませんが何か単純な中に私を
放さないものがあります。あの詩とメロディそしてわたしは石川鷹彦のギターが
大好きです。
 大学の4年(1984年?)ぐらいのとき大阪・梅田のバナナホールでライブをし
たときに私は見に行きましたがライブが終わった後、アルバムを買うと森田童子
自身がひとりひとりジャケットにサインをしてくれるのですが、買った人を見て
それぞれ何か文章を書いていました。わたしはその時「マザースカイ」を買い、
彼女がじいーっと私を見て(実際はサングラスなのでよくわからない)「母よ僕
の鳩を撃て 大阪にて森田童子」という文を書いてもらいました。そのアルバム
は今も私の部屋にあります。またその時のチケットは今も持っています。その他
「夜想曲」を買ったときのポスターとか、そういえば森田童子のギターの本と
か、「マザースカイ」のカラー版とかいろいろ探すとあるんじゃないかなぁ。な
にか協力できるかなぁとも思います。それでは。

大阪 36歳 音楽関係の会社員です。

 高校のころラジオの深夜放送から突然流れた曲が僕たちの失敗でした。もちろ
んそのときは曲名も歌手もしらずで、放送局に電話し、歌手名を調べ、翌日レコ
ード屋に駆け込みました。それから22年たった今でも忘れることのできない人
です。でもこんなページを開いてくれる人がいるとは感激です。また明日あたり
こんどはCDを注文しにいこうかと思います。ところで森田童子さんは今どうし
いらっしゃるのでしょうか。

「サイン会」があったというのは驚きました。
森田童子のサイン入りLPですか…。羨ましいです。ぼくはモノを集め
たりはしないので、欲しくはないのですが、世の中に「サイン入りLP」
が在るということがうれしいです。

伊藤重夫

はじめまして。

わたしの自慢は森田童子さんのサイン入りLPをもっていることです。
みんなおどろくばかりで羨ましがってはくれませんが。
「サイン会」なんてものがあったことが面白くて,自慢なんです。
なんとも似合いませんよね。
千葉のデパートもどきにて,ワーナー移籍直後だったとおもいます。

ダンナの学生時代に大事にしていたオーディオが実家から届いたとき,
ほいほいとア・ボーイをかけてもらったら,レコードにかびがはえてて
今や高価なレコード針をだめにしてしまいました。

もう5年も前になってしまったわけですね。
背中を向けていたTVからいきなり「森田童子」がながれてきて,
なんだ?いったいなんなんだ?
とふりかえったことがありました。
そのあとしばらく興奮状態でした。

高校生のときに一人で両国の黒テントのコンサートを見に行きました。
こんなに人が詰まってしまって,火事でもおきたらどうなるんだろうと
おもったことのほうが,コンサートの中身よりも記憶にのこっています。

優良な森田童子ファンではありませんね。

この盆休みにはじめてインターネットをつなぎました。
つないでよかったなあ。
ときどき参加させてください。


千葉市 さるるるる(33才)

あるわけないよなーと思いつつホームページの検索をかけていたら
なんとあるではありませんか。
もっと早く気がついていれば良かったのにと思っています。

僕のまわりには、僕のまわりに限らず多くの場合そうだと思いますが
ほとんど森田童子について語ることのできる人はいませんし、
そもそも知らないという人がほとんどで残念に思っておりました。
このようなホームページが発展していくことを願ってやみません。

僕はついにコンサートを見る機会を得ることができなかったのですが
レコードとCDは全て持っています。
まあおおげさにいえば(そうおおげさでもないのですが)僕の
人生に常に影響を及ぼしているといっても良いかもしれません。
「何の理由も何の行為も持てない僕たちの時代に」というメッセージは
まさに僕の存在そのものに対する問いかけであり、ますます
人の精紳的存在領域が希薄になっていゆく世のなかにあって
時を経てさらに重さを増しているように思います。

本当はもっと書きたいのですがまずはごあいさつまで。
今後ともよろしくお願いいたします。

ふと思いついて森田童子のキーワードでホームページを探してみたら,あったじゃないですか!考えて見たらこれがネットワークのあたりまえの使い方で,世間の人はみんなそうして使っているのかもしれないのですが,点在している共通項を持つ少数の人達を結びつけるインターネットの存在価値を私は初めて実感しました.うーん!!

私が初めて森田童子を聞いたのは21-22年前の高校生の時で,KBSが行っているラジオの深夜放送に森田童子がゲストとして出演し,”早春にて”と”さよならぼくのともだち”がかかりました.初めに聞いたこの2曲が今でも好きです.そう多分私は典型的な森田童子ファンだと思います.今でも彼女の曲は好きですが,残念ながら当時感じたほどのぴりぴりした心に刺さるような感動は味わえなくなりました.年をとったせいか,時代が変わったせいか良く分かりませんが,皆さんはどうなのでしょうか.

今森田童子が歌っていた世界がどういう意味を持つのか私には良く分かりません.ただ彼女のファンには共通の価値観と彼女の歌から得た共通の何かがあるように思います(どのアーティストにも言えることかもしれませんが).そしてそれらは今後私たちの生活の中でより大切になって行くような気がしています.抽象的で上手く言えませんが,このホームページからそんな将来への何かを与えて頂ければと期待しています.

いしくら(97 8 11)

当時というか、今から20年以上前、全共闘が崩壊したとしてもそのイメージおよ
び残滓は残っていたものでした。高校生に・・・。
子どもはどうしても大人に憧れるもので、高校生は大学生に憧れたものでした。全
共闘というムーブメントはものの見事に失敗したのですが、その基本つまり政治が
変わればなんとかなるのではないか?という思想は高校生に残ったわけです。今思
えばとっても子どもの考えですが、当時はそれがありました。
いちご白書、コロンビア大学、公民権運動、人知れず微笑まん、安田講堂、二十歳
の原点・・・・と書いてしまうと身もふたもないのですがやはり基本は公民権運動
でしょう。いまだに否定する人もいますが(笑)・・・・。
公民権運動を知らない人もいるでしょうが平たく言えば、黒人も人間だし白人と平
等なのだということです。拡大解釈すれば黄色人種も平等だということになります
。みんな平等だと・・・(笑)と思ったわけです。人間は平等だという考えが唯一
の真実だったわけですから行動はちぐはぐになったわけです。荒井由美さんの「就
職が決まって髪を切った・・・」というやつ。森田童子の「長い髪をかきわけて」
というやつ「髭をはやした」やつとか、「仲間がぱくられた日曜の朝」とか「キャ
ンパス通りを炎と染めた」とか・・・・ですね。
髪を切った人を堕落といいましたが、現実に考えれば髪を切らなかった人の現在、
つまり97年の今日を考えた場合、暗澹たる気持ちになります。髪を切らなかった
人たちが、何と誰よりもエグイ、というか自己保身というか、単純に言えば面白く
ない人たちになってしまったのか!と・・・。
一応、わたしは髪を切って、新聞社かなんかに入ったのですが、当時の会社という
か新聞社が持っていたメカニズムは、それは嫌でした。ありゃ、熱情だということ
。つまり全共闘運動は一時の迷い、大人になれ!ということです。
当時、田中角栄という人が椿山荘でパーティーを開いたことがあります。わたしは
行けといわれました、当然「嫌です」といいました。今、反省しています。行くべ
きであったと・・・。
不思議ですが、田中という政治家を今は尊敬しています。全共闘世代の人には申し
訳ないのですが、根っこというか根本の思想は田中某のほうが上というか、確たる
ものでした。
その意味でいけば韓国の朴(ぱく)大統領も上でした、現実の政治を!ということ
です。
政治というのは未来です。未来を掴むためには一歩一歩、鈍牛の歩みしかない、と
いう大平首相の考えは正しいと今は思います。わたしたちが忘れていた若しくは、
見えなかったのは田中も朴も大平も理想というか、高邁なイメージを持っていたと
いうことです。
ただ当時のわたしは田中、醜悪。朴、最低。大平、醜男というようなもので見えな
かった・・・。
森田童子なら「見えぬあなたに恋をして」震えた、麗子ですね。
ただ、やはり公民権運動というか思想、つまり人間はみんな、黒人でも白人でもイ
エローモンキーでも平等だというのは正しいと思います。思えばそのための方法論
の問題でした。童子にいわせれば黒人でも白人でも、黄色人種でも「友達」だとい
うことですから・・・。そのために「短兵急」をしてしまったのが僕たちの失敗だ
ったのでは?
ただ、思想というか信念というか真実というか、その意味では人間はみんな平等で
あると愚考しています。40歳になった今でも気持ちは22年前のわたしのままで
ありました。
「僕が愛した友達の、そして模型飛行機の工作用ナイフで切った、鳩の首筋のやわ
らかな温かさよ。僕たちの内なるやさしさの・・・」でした。チャンチャン!
亀より。

はじめまして。
素敵なホームページですね。
デザインもシンプルでとてもきれいです。

森田童子さんが最後のライブ活動を続けていた頃,
僕たちは大学の音楽サークルで彼女の歌を歌っていました。
もちろん彼女の歌は,まねして歌えるようなものでもなく,
あくまでも彼女の作った作品を
僕たちなりに歌っていたということですが・・・。
その当時でも彼女の歌を知る人はほとんどいなくて,
その印象的な名前だけが,わずかに知られている程度でした。
それでも彼女の歌を歌い始めると,
ライブを見に来てくれていた人々は静まり返り,
歌の世界に耳を傾けてくれました。
彼女の作品世界の魅力を,わずかでも伝えることが
できたのかもしれません。

ドラマをきっかけに,彼女の歌が取り上げられたことは
とてもよかったと思っています。
それまで彼女の存在を知らなかった多くの人々に
「こんな世界をもった人がいたんだ」
と認識してもらうことができたのですから。
所詮,彼女の歌は流行とは無縁なもの。
にもかかわらず,
このページに参加しているみなさんのような
新しい聞き手が現れてくれたのですから,
やはり野島伸司さんには「ありがとう」と言いたいですね。

それでは「細く・長く」このページを続けてください。


East Asia より

蝉がジージー鳴く季節になると、通勤の車の中で、「逆光線」を聞きます。
リピートで何度も何度も何度も聞きます。
「夏はさみしい白いランニングシャツ」で、何十年か前の、確かに夏がさびしか
った自分を思い出す様な気がします。
否、今でも本当は静かに発狂する夏なのかもしれません。
ただ、毎日抱え込んでいる雑事に忙殺されて、それさへ気づこうとしないだけな
のかもしれません。

自分が安全かみそりを使わないですんでいるのも、この歌の美しさのおかげかも
しれません。
童子さん、ありがとう。
本当にありがとう。

森田童子の隠れファン夫婦の妻より

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng2.html

29. 2020年9月08日 18:08:09 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[38] 報告
●伝言板Vol.3
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng3.html


●●●●●●
最初に森田童子に触れたのがたしか、15才の時でした。
毎年、LPが出るとすぐにレコード屋に買いにゆき、毎日聞いていました。
「太宰治」を読んだのも、「高橋和己」を読んだのも、「チャーリーパーカー」
を聞いたのも、
「ジャイアンツ」を見たのも、みんな森田童子から教えてもらいました。

私が住んでいた九州の片田舎でも、2度ほどコンサートが開かれました。
コンサートホールというにはあまりにもみすぼらしく、小さな会場でした。

大学2年くらいの頃から、森田童子に関する情報が私の周りから消えてなくなり
ました。
そして、あの、「高校教師」で突然私の耳に懐かしい声が聞こえて来ました。

涙が出ました。

海へゆくにはどうゆくのですか?
それから僕は、どう生きるんですか?

私は今、37才で嫁さんと2人の子供の4人家族で幸せに暮らしています。

たぶん、森田童子もどこかで家族と幸せに暮らしているのでしょうね!

                     37才のしがないサラリーマン
●●●●●●


>完全な、童子のディスコグラフィーが知りたいです。(LP&シングル、C
>D版MT版含む。)

「犬のしっぽ」さんから、レコード・CDの資料を送っていただきましたので、もう少し詳しく正確なディスコグラフィーを作成中です。シングル、CDシングルも作成中です。もう少し待って下さい。
管理人 伊藤重夫
●●●●●●

はじめまして。22歳の会社員(98/2/1現在)です。サーチエンジンで「森田
童子」を検索したところ、発見しました。ただ、驚きの一言です。

私が森田童子の事を知ったのは、もう5年も前の事です。その当時高校2年生だった
僕は「101回目のプロポーズ」で感動して以来、野島伸司の脚本のドラマ、映画を
よく見るようになったのですが、その時も新しく始まるドラマ「高校教師〜禁断の愛
と知らずに〜」がオンエアされました。そして、タイトルが出て、流れてくる主題
歌。字幕をチェックしてみると「森田童子 「ぼくたちの失敗」」と書いてありまし
た。あれ?新人かな?と思いながら、その時は気にもとめませんでしたが、TVの週
間雑誌をチェックしてみると、それはもう、10年以上前に活動していた方だと判明
しました。たしか、CDの発売日(シングルカット?)は1月25日だったような気
がします。僕は1日前にCDを買い、ここぞとばかりにC/Wの「男のくせに泣いて
くれた」にも、はまってしまいました。案の定ドラマの主題歌にすぐはまってしまう
私は、例の如くその後に出たベストアルバムも買いました。そして、そのアルバムの
中のはがきに、今まででていたアルバム(昔でいうLPに当たるのカナ?)が出る
(再発)ということで、なんだか嬉しくなりました。もちろんその7タイトルのアル
バムを買いました。何故かというと、ドラマで使われた曲が全て聞いてみたかったか
らです。ドラマで使われた曲は「ぼくたちの失敗」「男のくせに泣いてくれた」「G
線上にひとり」「ぼくが君の思い出になってあげよう」「君と淋しい風になる」「君
はかわっちゃったネ」の6タイトルでした。ドラマ放送時には、タイトルがわから
ず、それを知りたいと言う意味もありました。
半年後位に、映画版「高校教師〜もうひとつの繭の物語〜」が放映されました。よ
かったです。主題歌・挿入歌に「たとえばぼくが死んだら」と「ラスト・ワルツ」が
使われました。
その当時アルバムを全て買った私を友人は「あんな暗い歌、よく買ったね」と言いま
すが、私は単に暗いとは受け止めませんでした。
今でも、森田童子の曲を聴くと、ドラマの一場面が浮かびます。学園闘争(よくわか
らん?)が激しかった日々に活動していた森田童子ですが、僕はそんな時代は知ら
ず、単にドラマの一場面しか浮かびません。
リアルタイムで、ライブやコンサートに行けた人がうらやましく思います。もう
ちょっと(10年位前)に生まれてればなあ、と思った5年前です。
私のベストはやっぱり、「ぼくたちの失敗」です。
P.S.完全な、童子のディスコグラフィーが知りたいです。(LP&シングル、C
D版MT版含む。)あと、CD版なのに、あまり音が良くないなぁ〜。それがいいの
カナ?

ペンネーム 羽村隆夫
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>昔『オレンジ?????』とか言う映画の中で”さよな
>ら ぼくの…”が、使われてたけど、アレは何だったんだ〜

『オレンジロード急行』の脚本・監督の大森一樹氏とは、近くの飲み屋でたまに出会います。(数年に一回かなー)こんど、出会ったときに聞いてみます。でも数年は出会わないかも…。
管理人 伊藤重夫
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森田童子のHPがあるなんて、ビックリ!!

俺、大学生の時、友達から借りた”GOOD BY”にはまって…
池袋文芸座ル・ピリエでのライブから、新宿ロフト、池袋三越裏や、両国駅での
テント、吉祥寺前進座まで、通い続けていたっけ。
なんではまったかと言えば、今はマトモに、サラリーマンやってますが、
将来をちょっと不安に思いながらも、昼過ぎに起きて、澁谷全線座や、新宿パレ
スに友達探しに行って、夕方食事して、スナックで飲んで、踊りに行って…
”センチメンタル通り”や、”早春にて”の世界が自分と重なってたから。
ライブで好きだったのが、曲に入る前の短い語り。ジ〜ンて感じで。
現役だった頃でも、有線で聞くことなど、めったに無かったのに、テレビの威力
はスゴイ!とか思ってしまった!!
正直言って、あのドラマとイメージが全然違うので『使うな!!』とか思ったけ
れど、お陰で、CDは出たし、昔の友達から連絡があったりで、マ、いいかって
感じかナ。
イメージがって言えば、昔『オレンジ?????』とか言う映画の中で”さよな
ら ぼくの…”が、使われてたけど、アレは何だったんだ〜
それと、東京12チャンネルでやってた森田童子のドキュメント。リバイバルブ
ームで再放送をチョット期待してたけどヤッパリなかった!!
また、HP寄ってみま〜す!!            TAKASHI
●●●●●●

友よ僕達は輝く日差しを目指すべきでは

なかったのか!

確かにその通りだと思う。そしてそれは今からでも「遅くはない」と思う。

森田童子が「友よ泣かないのか?」と謳ったが・・・

「泣きゃいいのよ」と思う。

できなかったら泣けばいいと思う。でも、出来るかも知れない。だったら、「やろ
う」ということ。
「やろう!」アトピー、介護、神戸・・・・・。やってみるよ。
亀岡達也
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はじめまして、Harukaといいます。29歳の女性です。森田童子で検索したら、こ
のHPに出会いました。童子さんの情報を探すのはむずかしいので、とてもうれ
しいです。

私が初めて童子さんの曲を聴いたのは、ドラマ「高校教師」に曲が使われて、ベ
スト盤のCDが出たころでした。私は「高校教師」を見ていません。レンタルCD屋
で何気なくシングルのところを見ていたとき、あの麗子像のジャケットと「僕た
ちの失敗」という曲名が目に入ってきました。タイトルのよさにひかれて借りて
聴いてみたら、とても心にしみたので、次にベスト盤を借りました。そのベスト
盤でガーンときてしまったのです。その後アルバムが全部CD化されたので、全部
買いました。あの澄んだ声と、心に響く歌詞と、うつくしい曲のアレンジがとて
も好きです。

なんていっても、詩がすごいですよね。玉川上水のアパートにいた「太宰の好き
な君」は睡眠薬飲んで、借りた本は形見になっちゃうし、安全カミソリがやさし
く「僕」の手首を走ってしまうし、サナトリウムでは「僕」の左の肺に真っ赤な
花が咲いてしまう・・・。かと思うと、「君」のまつげに雪がふって重たそうだから、
「僕」のくちびるで溶かしてあげるなんていう、想像の中にしかないうつくしい
場面を言葉だけで語ってる。私も昔から詩を書いているのですが、童子さんの詩
の世界に出会って、すごく影響を受けました。読み返してみると、童子さんの詩
の自分流解釈と言える作品も多くあります。「君のまつげに・・・」には、逆立ちし
たってかないそうにもありませんが。

童子さんの世界は、とても切なくて愛しいです。さぞかし童子さんは辛かったの
だろうと思います。痛みを乗り越えて生きるためには、詩を書いて歌うしかなか
ったのだと思います。童子さんが引退して今は結婚していることを聞いたとき、
とてもうれしかった。もうあんなに悲しい歌を書かなくても、生きてゆけるよう
になったのだと思ったら、涙がこぼれてしまいました。もしかしたら、今も詩を
書いているのかもしれませんが、レコードになった歌とはきっと違うと思います。
もしもそうなら、すごくうれしい。童子さんに聞いてみたいことはただひとつ。

「あなたは幸せになれたでしょうか?あなたの祈りは届いたでしょうか?」

ご本人にしたらすごく失礼な質問かもしれませんが、それでも聞いてみたいです。

長いメールになってしまいました。また近いうちに、ここを訪れます。そして、
童子さんのことをもっと知りたい。もっとファンの人の言葉を聞きたいと思いま
す。これからもよろしくお願いします。HPがますます発展するよう、祈ってい
ます。 *** Haruka ***
●●●●●●

私、沙耶と申します。初めまして。
私、森田童子が大好き。

もしどなたか、藤岡清という脚本家ご存じですか?
私が知りたいのは、sayonara bokuno tomodachiをベースに脚本をした事があるら
しいの。その作品は森田童子さんの曲がイメージなのか、知りたいの。

では、失礼いたします。
●●●●●●

リンクありがとうございます。

> > 間違い→***********http://www.ask.or.jp/gont/
正確には→http://www.ask.or.jp/~gont/

チルダを忘れておりました(初歩的ミスですいません)。

森田童子といえば、マザースカイのJ.S.シーザー、J.S.シーザーといえば、
先日最終回を迎えて一部で盛り上がりを見せているテレビアニメ
「少女革命ウテナ」で使用された合唱の音楽に名前が出ていました。
この音楽がかなりのインパクトで、アニメファンがいきなり
寺山修司の演劇世界とリンクしていたり……おもしろいですね。

流れとしては、
「少女革命ウテナ」→J.S.シーザー→マザースカイの森田童子

で、ファンになる人もいるかもしれません(いないかな?)

それでは、また。
**************************************
ゴント
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エヴァンゲリオン→ウテナ→J.A.シーザー→とたどって来たら、このHPに
たどり着きました。大学生のころ(7〜8年前)深夜のFMで松沢呉一が
紹介していた「逆光線」を聞いてショックを受けました。その後、高校教師で
森田童子がリバイバルしたとき、CDやレコードを集めました。そのころ、
JOJO広重が「逆光線」をカバーしていて、蝉の泣き声の部分をノイズギター
にしていました。そして、すべて森田童子のカバーのアルバムも出しました。
そのバンドでのライブを渋谷まで見に行きました。JOJO広重のギターが
ちょっとうるさすぎでした(非常階段も嫌いではありませんが‥)。
イースタンユースと言うバンドも「たとえば僕が死んだら」をカバーしていま
す。

エヴァンゲリオンと森田童子の共通点‥‥暗い所と蝉の声‥‥

--
哲也(長野県在住)
●●●●●●

「わたしたちは幸せになれるでしょうか
わたしたちの祈りは届いたでしょうか
グリーン大佐教えてください。
いまだみぬ母の手に・・・」
平成9年も終ろうとしている今。40の爺ぃになった森田童子ファンとしてはわた
したちは幸せになる!と断言できるようになりました。確かに株価は13000円
台になると思います。土地は来年中、下がり続けるでしょう。当然犯罪は増え続け
、自殺も相次ぐでしょう。殺しも増えるでしょう。実に愚かだとは思いますが、し
ょうがない。
今日、荒井由美のベスト版を聞いていたら22〜23年前のことを思い出しました
。今ではいい爺が、ベルベットイースターとか山崎ハコの「うちなんでこげなとこ
ろに」とか、森田童子の「俄雨」とか聞いてた、やっていた、信じていたのですか
ら。あれから20年以上経って・・・立派な大人になった!のではなくて・・・
「風騒ぐ原地の中に、俺とお前が涙ぐんで立ってるよぉ〜」となっちまって・・・
なのですが「何の行為も何の理由も持てない、僕達の時代に、僕達はその内なる優
しさを抒情!でしか言い表すことができない」という童子の言葉。その通りだと思
う。抒情、リリシズム。リリックに生きよう来年から。甘い人間でなめられて・・
・でもいいやぁ!最近、とってもリリック!な亀岡でしたぁ〜。
●●●●●●

あぁ、森田童子がここにあったんですね。うれしいですね!
デザインもかっこええし!

ゴントといいます。

コミックボックスさんから飛んできました。
もう15年以上も前になりますか、2年ほど毎日、
森田童子ばかり聴いていました、完全にハマッテた(笑)。
たぶん、歌詞、全部覚えてるんじゃないかな、まだ。

森田童子が唄う世界の背景、知らない。

学生運動やってたわけでもなし、高校たって、
昔に機動隊乱入して生徒会なくなっていて、
そういうこと、みんな知る由もなかったな。
どうでもいい勉強ばかりしている連中と一緒にいるのが
嫌だったけど、なんか、こう、世界となじまない
自分がいて、深夜のラジオで聴いた「逆行線」が
気に入って、それからはまった。ともかく出てるレコードやテープを買う。
ひたすら聴く、聴かないといられない。
最初は、どういうわけか、男が唄っていると思った。
高校卒業式のとき、物理の教室の黒板に
「終曲のために 第三番 友への手紙」を大書して帰った、
別段、いじめられてたわけじゃないけど……(笑)。

自分、その当時の2年間、ほとんどなにもできなかった。

ある日、最後の「狼少年」を聴いていて、
最後のフレーズで音が転調して、やたらと勇壮になるところがあって。
何回聴いたかわかんないぐらい聴いて、遠くへ行く気になった。

遠心分離器みたいな唄だったな、地平線から見たこともない
恐ろしい朝焼けが迫ってきて、そして真っ黒な宇宙に飛び出す……

レコード買ったときに景品の色紙ももらったんだけど、
大切な友だちにあげてしまった。もう会えないそいつの、
座布団に座って、今、この文章を書いている。いいやつだったんだ。

も一回、聴きなおしてみるか〜、なんか発見、あるかもしれないし!
よっしゃ! それでは!

そういえば、FMのラジオに出演したときのテープ、あったんだけど、
どこかへいっちゃったかな? 今度探してみましょう。

リンク貼らせてくださいまし
*********************http://www.ask.or.jp/gont/
●●●●●●

>チャーリーブラウンの店
>飯田橋の神楽坂よりの坂道を登って、左に折れたところに昔チャーリーブラウンと
>いう喫茶店がありました。わたしは「童子はこの店に来るのかしら?」「うるうる
>!」と思っていました。昔の話し。

亀岡さんありがとうございます。ふと今でもあるかしらと思いました。お茶の水で仕事をしている友人に、調べに行ってもらいます。(何のために?といわれそうだけど)

桑木さん、ありがとうございます。ここで欠けているデータがうめられるとうれしいです。

>伝言板で山陽放送のラジオに森田童子さんが生出演して・・・という
>のがありましたが,たぶん録音したテープが残っていると思います.また,調べてみます.

…すごい。前にここでhoriikeさんから、ライブのフィルがレコード会社にあるはず、と教えてもらったときも…すごい。と思いましたが、あるとうれしいです。

管理人 伊藤重夫
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はじめまして.
ぼくは,岡山に住む35歳の男性です.インターネットをはじめて10日ほどになり
ます.
まさかないだろうと思って検索した「森田童子」のキーワードに反応してくれた
コンピュータとホームページをつくってくださった方に感謝します.
本当に感激でした.
ぼくが森田童子を知ったのは昭和55年,高校3年生の時でした.
山崎ハコが好きだったぼくにとって衝撃的な歌でした.
その頃からラジオ大阪で放送されていた「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」を聞き
始め,この放送の中でも時々森田童子の曲がかかっていました.(伝言板でどな
たかが書かれてましたね)

それから,伝言板で山陽放送のラジオに森田童子さんが生出演して・・・という
のがありましたが,たぶん録音したテープが残っていると思います.また,調べ
てみます.

ぼくは,レコードはポリドールから出たものと,ワーナーから出たものの両方を
持っているのですが,ワーナーから出た復刻版の方には童子さんのサイン色紙が
入っていました.
「ただ自堕落におぼれてゆく日々にひとりここちいい 森田童子」というのと,
「きみはぼくを見つけてくれるかなア 愚かな日々に埋もれてくぼくを」という
のを持っています.
(直筆ではなくコピーみたいなんだけど)
岡山にコンサートに来た時(昭和56年4月20日)は,コンサート後レコードにサ
インをしてくれました.ぼくはその当時発売されていたレコードは全部持ってい
たのですが(「マザー・スカイ」はポリドールの方を),サインがほしいばっか
りに「マザー・スカイ」のワーナー版を買いサインしてもらいました.
「目にしみるぞ青い空 淋しいぞ白い雲 森田童子」と書いてくれました.
そして,握手もしてもらいました.(恥ずかしながら,数日間,手を洗わなかっ
たことを今でも覚えています.)

「夜想曲」が発売された頃,「森田童子を支持する会」というのがありました.
それに入会したのですが,会誌「地下室」が4回送られてくるはずだったのです
が,創刊準備号が送られてきただけでした.でもこれも今となっては貴重な宝物
となりました.(現在でも所有しています)

ぼくが持っている情報は雑誌「ラジオマガジン」の1983年2月号に2ページを割
いてインタビューが載っていました.(当時,たまたま本屋で立ち読みしていて
見つけたものです.現在でも所有しています)
あと,国際楽譜出版社から発売された「森田童子全曲集」(ラスト・ワルツま
で)を持っています.
レコード,CDはすべて持っているのですが,「友への手紙 森田童子自選集」
は持っていません.CDベストコレクションU「たとえはぼくが死んだら」は持
ってます.(ジャケットを送りましょうか?)
ご覧になりたいものがあれがいつでもお送りします.

昨日,ホームページを見つけ,感動してなかなか寝付けず,今日は大急ぎでこの
メールをつくっています.取り留めのない文章になってすみません.

また,落ちついてメールを書いてみたいと思っています.それから森田童子ベス
ト10も.

森田童子のホームページに出会えた感動をお伝えし終わりたいと思います.

PS:伝言板にあった「狼少年の歌詞カード」の件ですが,ぼくも気になり買っ
てすぐレコード店の人に聞いたことがあるのですが,「歌詞カードはない」とい
うことでした.

「犬のしっぽ」
●●●●●●

偶然この頁を見つけて,いろいろな事を思い出しました.
私が最初に聞いたのは,中学二年の頃,昼休みの校内放送で先輩がか
けていた『僕と観光バスに乗ってみませんか』でした.ライヴ盤の方だ
ったと思いますが,定かではありません.もう二十年も前のことになる
んですね.
 レコードを買ったのは高校に入ってからです.当時は本ばかり買って
いてレコードを買う金はなく,私が購入したのは,結局『ア・ボーイ』
と『東京カテドラル・・・』の二枚だけでした.
 生意気だった私は,彼女の歌に本当に打ちのめされたように感じてい
たものです.あの頃どんな風に彼女の歌を聞いていたか,今でもよく覚
えています.
 やはり最初に聞いた曲の印象が強いんでしょうね.私が一番好きなの
は,『僕と観光バスに・・・』です.
 そう言えばここ数年,私はずっと同じコートを着ています.

穴山@山梨県(33)
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電車が通る度、なつかしく揺れる。チャーリーブラウンの店で君を見つけた。赤い
ダウンパーカー、僕の友達。
あの頃君は名画座の中でいつもスクリーンの向こうに孤独を見ていたね。赤いダウ
ンパーカー、僕の友達。
何もなかった、僕達の終わりに君と冷たい牛乳飲んで、声を出さずに笑った。赤い
ダウンパーカー、人込みに消えた。

記憶だけなので、童子さんの正しい詩になっているか?不安。

チャーリーブラウンの店
飯田橋の神楽坂よりの坂道を登って、左に折れたところに昔チャーリーブラウンと
いう喫茶店がありました。わたしは「童子はこの店に来るのかしら?」「うるうる
!」と思っていました。昔の話し。
名画座
童子の場合、やっぱジャイアンツなのだろうな、と思っています。
ダウンパーカー。
当時は20年位前はダウンパーカーが流行っていました。当然、まがいものもあっ
た訳で、わたしの友人(もう死んでから5年になるのかなぁ〜)は、ダウンパーカ
ーという名の綿入れを2万円で買いました。
でも、童子さんが通っていたチャーリーブラウンの店って、どこにあったのだろう
?。ガード下のはずなのだが・・・。


でも・・・童子はいいよね。

亀岡達也

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng3.html

30. 2020年9月08日 18:09:03 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[39] 報告
●伝言板Vol.4
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng4.html


かくれ童子ファンの2児のだめ親父様

ちょっとお邪魔します。
はじめまして。田中敦子と申します。
寺山修司が亡くなったのは私の大学1回生のことなので、実はリアルタイムに知っているとは言えませんが、大学で現代演劇を専攻しました。そこで 天井桟敷について、私の知っていることを少し…。

天井桟敷は、「演劇実験室」を名乗りました。主宰した寺山修司は作・演出を手がけ(別の人の作・演出作品も多くありますが)、その前衛的な舞台は世界的にも評価されたようです。
結成は1967年1月1日、寺山修司31歳の時。前衛劇はあったもののほとんどが新劇か商業演劇しか存在しなかった時代に登場したインパクトは強烈で、その後のアンダーグラウンド演劇、小劇団演劇の先鞭をつけたという意味で、現代演劇の祖ともいえるかもしれません。
天井桟敷では、ほとんどの役者が演劇的訓練を受けていない人たちで、その作風も従来の演劇のあり方を破壊し続けるものでした。73年には街の中で突然芝居を展開し、劇場から演劇を“開放”(街頭劇『地下空洞説』)しました。75年には30時間にも及ぶ市街劇『ノック』が“上演”されています。
横尾忠則 が手がけた天井桟敷のポスターも、当時かなりの衝撃を与えました。ちなみに、学生時代の小椋桂氏も、天井桟敷に音楽担当としていたそうです。
ただ天井桟敷や寺山修司を、現代の文化的状況で捉えるのは難しい問題です。あの時代特有の前衛的ムーブメントは、あの時代の空気を吸った人にしかわからないだろうと思うからです。

83年、寺山修司の死去によって天井桟敷は解散しました。
解散後5〜6年たった頃でしょうか、再結成された天井桟敷による『奴婢訓』の大阪公演を見たことがあります。いやぁ舞台美術が見事で、ほんとうの前衛だなぁと思ったものです。

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れいこです。はじめまして^^
最近フォークソングが大好きでよく聞いています。
森田童子も好きです。
なんか挫折の」ような歌がいいけど、今はそんな気分で、
よく聞いています。泣きますね。(i_i)
やぱり、こういう気分のときはこういう曲聴きながら思いっきり泣いた方が
いいんでしょうか・・・。もうむちゃくちゃになって泣きました。
いい曲多いですよね。これからもよろしく!それでは

HN 実可子

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こんにちは。初めてお便りします。
不意に「森田童子」が気になって、ヤフーで検索したら見事ヒット、貴重なサ
イトに出会うことができました。
伝言板、じっくり読ませていただきました。当時を知る方が多く、「1993年追
体験者」には大いに刺激になりました。
彼女が音楽シーンからいなくなって15年。その時間はゆっくりだったんでしょ
うか?それとも、世の中の動きのように、急激だったのでしょうか。
もちろん人それぞれでしょうが、私は童子さんの歌を聴いていると、「時間」が
両端からひっぱられる感覚におそわれます。(今でもそう)

私は、小学生から大学生まで、要は子供の時代を過ごした15年でした。
大学浪人などして、そのころ「童子」を体験して、そのころ橘いずみ(ご存知
でしょうか?)にもハマったりしていました。
同じ世界観、なんて書くと、どうも言葉が軽重になってしまう感じがしますが、
「自分」へと向かい、「夜」を見つめて、「時間」をすごしていました。
それでいいと思ったし、今思えば「楽」だったのかもしれません。

そういえば、このころある音楽番組で「今暗い歌が流行ってる」なんて特集を
組んでいて、ハコさんの「呪い」とならんで童子さんの「逆光線」が取り上げ
られていました。バブル崩壊とか何とか言いながら。
案の定、キワモノ扱いされていて閉口した記憶があります。

今、「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」のCDを探しています。
レンタルでも中古でも見かけません。
楽しないで、ちゃんと見つけたいと思います。

とりとめないお手紙になりました。申し訳ございません。
また、お便りさせてください。

くっちゃん24歳 学生

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先日の伝言板でピラビタールは睡眠薬と書きましたが調べたら解熱鎮痛薬であること
が解りました。
ピラビタールは薬品名ではなく成分名だそうです。
薬品で登録されているにはザルソカイン注射薬(宇治薬品)だけです。
いい加減なことを書きましてすみません。
それであらためて歌詞をみてみましたがそーかなと思いました。
昔ラジオ番組で童子が「安全なうたってつまんないよネ」と言っていました。
山崎ハコも危ない歌をうたっていましたが、何か違うような気がします。
森田童子の歌の中には特別な厳しい世界があるのでしょう。
「死んだ鳩の首筋の柔らかなあたたかさよ」すごい表現だと思います。
太宰治、寺山修司、天井桟敷 みんな童子に教えてもらったものです。
私ごとですが太宰治では「葉桜と魔笛」がいいですネ。
寺山修司の本はかなりよみましたが、天井桟敷についてはよく知りません。
どなたか教えて下さい。
そろそろ台風が接近しているそうですが今はとても静かです。
いつも話が断片的ですみません。
二人の子供も寝そうです。もう寝ます。

隠れ童子ファンの2児の駄目親父より

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星野さんの伝言板について
ピラビタールとは楽譜「森田童子全曲集」によれば「クスリに含有されてる成分の名
前」と記述されています。
私は睡眠薬の一種と何かで知ったことがあります。
「ピラビタール製剤」?
医療関係の仕事をしていますので詳しく調べてみたいと思います。
話は変わりますが、「孤立無援の歌」いいですよね。
それで初めて「高橋和己」をしりました。
分厚い本を買いましたが、まだ半分も読んでいません。
難しいですよね。
でも、高橋和己は「痔」の手術で入院?のとき難しい本を読んで痛みを克服したとか・・・・・。
私も難しい「孤立無縁の思想」を読み返して生活の痛みを克服しようかな。

隠れ童子ファン2児の駄目親父より

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隠れ童子ファン2児のだめ親父 様

こちらは「森田童子研究所」の管理人です。しばらく「伝言版」へメッセージをくれる方がいなかったので、たいへんうれしいです。
僕の奥さんは結婚して初めて7〜8年前森田童子の歌を聞きました。どちらかと言うとレゲエとかがわりとノーテンキな歌が好きなのですが、その妻に森田童子は暗いかどうか聞いたことがあります、奥さんは「暗いとは思わない、ただものすごく切ない、ものすごくピュアでか細い声と歌だ」と言っていました。
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はじめまして。
森田童子のHPがあるなんて、高校教師の主題歌で「ぼくたちの失敗」が流れたくらいびっくりしました。
私が森田童子を知ったのは、兄の影響で中学一年くらいだと思います。
「さよならぼくのともだち」をギターで弾いていました。
レコードもポリドールの頃の「Goode Bye」からすべて買いました。
移籍してジャケットが安っぽくなった感じがしました。
コンサートは、京都と名古屋(雲竜ホール)に見に行きました。
森田童子の曲は暗いとまわりの人はいいますが、情緒的といって欲しいと思います。
一人で聴いてほっとするんです。
私の宝物は、15年くらい前に友人からもらった東京FMに森田童子が出演し弾き語りを
しているテープです。
何曲か歌ってますが、特に「逆光線」は激しいストロークから始まり歌もレコードとは違い
かなり激しくうたっています。
もしかして「マザースカイ」の収録前の放送かも知れません。
森田童子について話せるなんて、うれしいです。
私でできることは協力します。
このHP続けて下さい。また書きます。

隠れ童子ファン2児のだめ親父より

●●●●●●●

「good Bye」からもう23年?。プレーヤーはとうに壊れていても、
LPだけはまだ持ち続けている、もう聞く事は無いだろうなあなんて
思ったりもする、かと言ってCDを買うと言うのも・・・。
本人が、とうにgood Byeして主婦やってる様に、自分も今は普通の
親父であり、きっとあれは、あの時代だけの物語だった、と、言う事に・・・しよう。

                  旅がらす

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やっぱりあったんだね、そうさないはずがないさ、
僕らは、ずっと思っていたさ、
でもその確信は、なかったはずさ、
今日は、ずっとっずっと昔の歌が聞こえてきそうな夜です。
驟雨、この文字を読める人がどれだけいるんだろうか、
僕はこの歌が一番好きでした。

mst@hukuoka

●●●●●●●

結構マヌケで・・・ところで森田童子の名前は?と聞かれて・・・「うぅ〜分らな
い」状態です。内緒ですが・・・山崎ハコも好きなので「どっちを買うか?」で悩
んでいた10代、20代ではありました。
ハコは初子さんなのだけど・・・童子の名前jは・・・・情けないことに・・・知
らない。
少ない顔写真で「うふっ!童子ってとっても日本人顔」とは思っていたのですが、
顔も知らない。
まぁ〜顔は、童子の横顔が案外好きなのでいいのですが・・・ほとんど「愛しのア
ッ子ちゃん風」。でも童子の本名は何だったのだろう?

まぁ、童子は童子だから名前なんかどうでもいいけど・・・・。

結構「勘」が鋭いので
篤子、厚子、敦子、淳子、亜津子あたりだったりして・・・・。

麗子像という名曲はあるけど「レイコ」じゃないような気がする。「マサコ」でも
ないよなぁ〜。よっしゃ、一点決打ち!逆転は「和美(カズミ)」くらいだわ。
決めた!アツコ!

本当にいいかげんな童子ファンでした。

●●●●●●●

僕は最近、インターネットにつないだのですが、まず初めに森田童子で
検索してみました。すると一件。一通り読みましたが、リアルタイムで
聞いていた人が多くて不思議な感じです。

僕はといえば、あのテレビドラマで初めて知ったくちです。失礼な事で
すが、初めはドラマの主演の女優が歌っているのかと思いました。ピッ
チもあんまりしっかりしてないじゃないですか。だから。
それにしてはあまりに良すぎる曲でした。
そして森田童子が歌っている事を知って(すぐ分かりましたが)、ベス
ト盤を買い、その後の7枚のオリジナルアルバムを買い、最近(去
年ぐらいかな)、レコードでもアルバムはすべてそろいました(ラスト
ワルツは見本盤ですが)。
あのドラマで初めて聞いてから今まで、4,5年ですか、彼女の世界
に浸りきってしまっています。どうしてこのようなすごい歌い手をそれ
まで知らなかったのでしょう。不思議でなりません。こんなにも今僕に
影響を与えているのに。
去年僕は東北と北海道のほうにギターをもって旅をしました。岩手県は
盛岡で歩いていたら、車に乗った女の人が声をかけてきました。車に乗
らないかと。僕は森田童子が好きなんです。と言ったらその女の人は森
田童子のライブを見た事があるというのです。僕はリアルタイムで森田
童子を聞いた人に会ったのはこれが初めてでした。ライブのMCの感じ
とか話してくれました。それはちょうど北上川のほとり旅の途上の出来
事でした。

「ピラビタール」これが僕の一番美しいと思う曲です。一番好きとは違
うかもしれないけど、感傷的にならず、淡々として、そして美しい。
「ピラビタール」とは一体なんでしょう。くすりのことですか?誰か教
えて下さい。

これからも森田童子と同時代に生きた人の言葉が聞けるのを楽しみにし
ています。

それではまた、星野でした。

●●●●●●●

Hello! M.Miho Azuma

I was also surprized that I reseived the English mail.
So I know English a little.....
Well, I will answer your question.
That song is ''Kimi to sabisii kaze ni naru ", belong to the album "a boy".
The CD-album number is "WPCL-748,Warner music Japan".
The album is her 3rd. album.

If you can't understand that I type, please send me a mail again.
I wish you get the album.

Atsuko Tanaka

●●●●●●●

I was really surprized and glad that I found this page. I have been
looking for one of her song, but I don't know the title.
The lyric is following:
 Sukini naruto donoyouni / Boku wa kimio aisudarou /
 (I don't know in between)
  Katachi no nai ai wa / Omoide dakeo surinukete /
 Itsuka hitoride / ...........
I really don't know exactly, but I want to get this song. If somebody
knows the tile or the title of the album, please tell me.

P.S. Since I can't type Japanese, (I still can read Japanese homepages),
I wrote this in English this time. Please forgive me.

hawaiianhula
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80年代の初めに京都で僕は彼女の音楽に出会いました。淋しさと孤独の中に奇妙な
やすらぎを感じました。その頃僕は、詩や短編小説を書いたり、芝居を観たりして京
都の街を漂って生きていました。そして10数年が経ち、今僕は山陰の片隅で平凡な
人生を送っています。もう、何かを始めることはないだろうと思います。結局、僕は
僕であることができなかったのだと...そう思います。        少年B
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こんばんは、森田童子研究所HPをなつかしくみさせていただきました。
レコードジャケットは独特の世界がありほんとに好きでした。
友への手紙以外にも、ベスト盤があります。
グッドバイのLPを買おうかなと思っていたのですが、このテープを
見つけ、たくさん曲が入っていたので買った記憶があります。
たぶん'77年頃だったと思います。

森田童子全曲集 Polydor CRQ4036 (カセット)

・さよならぼくのともだち
・早春にて
・雨のクロール
・蒼き夜は
・ぼくを見かけませんでしたか
・ピラビタール
・ぼくと観光バスに乗ってみませんか
・ふるえているね ・海を見たいと思った
・地平線
・ぼくたちの失敗
・逆光線
・まぶしい夏
・伝書
・君は変わっちゃったネ
・センチメンタル通り
・君と淋しい風になる
・春爛漫
・G線上にひとり
・セルロイドの少女

手元にテープがありますが、のびてしまい聴けなくなっています。
これからも頑張ってください。とりあえず、お知らせまで。
----------------------------------- まっく猫
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ちょうど浪人している時でしたので、森田童子を聞いたのはもう20年くらい前に
なります。
友人からテープにダビングしてもらい、浪人という気分に妙にマッチしてはまっ
ていた頃の事を懐かしく想い出します。とくにカテドラル聖堂でのライブ盤での
MCは深く心を打ちました。個人的に好きだったのは「春爛漫」「雨のクロール」
「地平線」などですが、ライブ盤までの4枚はそれこそテープが擦り切れるくら
い聞いたものです。CDとして再発売になると知った時は思わず7枚予約しました
(笑)。取りに行った時のCDショップの店員の不思議そうな顔を今でも覚えてい
ます(爆)。映画やテレビドラマのテーマソングとしてどうだったかと言った私
感は割愛させていただきますが、あれのおかげで再発売されたのですから、感謝
しています。このホームページ・・・感激しました。ちょっと辛かった時代、私に
とっての一つの青春時代に戻る事ができました。これからもがんばってくださ
い。また来ます。 by Akii
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ご無沙汰致しております、伝言板には初めてお便りを出しました。
さて森田童子のレコードをずーと探しているのですが、なかなか
出会えなくって、CDも何時廃盤になるか判らないので、持ってない
狼少年&ラストワルツ の2枚を注文しました、
しかしどうしてこんなに深く切ない声が出るのでしょう。
店でかけるときは思わず、マジに聞いてしまい、仕事に
成らなく成る時が有り、今は少し自嘲してます、でも
森田童子が大大好きなんですと、言われると困るかな?(笑い)
しかし彼女ももう、多分40台半ばだろうと思うのですが、
また、何時かマイペースで良いですから、歌い始めないですかねー?
最近また歌い始め出す方が居ますし、でまた良いんですよね。
年輪を積み重ねた重みのある詩を聞きたいですね。
洋風居酒屋イングイングイングの店主でした。 -- --------------------------------------------   
イング TATUKAWA
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こんにちは はじめまして オリハッサムと申します。
このページのおかげではじめて森田童子について知りました。
さすがインターネットというか、アレンジャーの名前で検索をしてみたら
『グッド・バイ』が出てきたので、最近はじめてこれを購入するまでに至りました。
このアルバムは非常に気に入りました。ありがたい話です。
私はこのアレンジャーの熱狂的ファンなので、この人の作品としては
いいたいことがいろいろあるのですが、
「森田童子ファンのみなさんの伝言板」という趣旨からはずれてしまう(と困る)ので、
最低限にとどめておきます。

木森敏之は『聖母たちのララバイ』などでヒットをとばした作曲家です。
それで、この歌詞は山川啓介となってますが、
よくみるとあきらかに森田童子の「地平線」からとったものなんですね。
おそらくアレンジャーにとってもこのアルバムがデビュー作なんだと思います。

これで私のもっていた謎がひとつ解決しました。

このアレンジャー・作曲家(おそらく森田童子の歌詞そのものの人生を送っていた ?)
のプロフィールを公開できたらと考えてるのですが、問題がありそうなので
今のところ作成中で非公開になってます。他にそんなマニアがいないともわかりませ
んが。

完成したら森田童子研究所に真っ先にリンクを張りたいと思ってます。

まだ自分のページもたいした内容ではない(シューベルトのMIDIファイルをつくって
ます) ので、いろいろコメントを頂けるとありがたいです。
とりあえずメールしてみます。

オリハッサム (98年2月28日) mk1752@geocities.co.jp url: http://www.geocities.co.jp/Hollywood/1752/index.html
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俳句は五歳の童子にさせよ

ということなのでしょう。童子は幸せになったかしら?なったに決まっている。理
由?簡単、童子だもの。

童子と大人の違いは?これも簡単、記憶。

きれいに咲いた
「君と撲が肩を組んで、くるくる落ちて行く〜
夜空に花火みたいに君と撲きれいに、咲いた
あぁあぁあ〜。
夏休みの幻燈会に映し出されたということで、僕の母と弟があの船に乗っていると
いうイメージは、わきません。
あの頃、童子の桜は上から渦を巻いて落ちて来る桜でありました。(爺臭ぁ)当時
、山崎ハコと玉三郎の歌集アンド写真集が売れていたと思う。大森さんの映画オレ
ンジロードエキスプレスは童子からは、とても離れていたと思う。

と書き出すと、今どうしているかほとんど分からない、原田美枝子さん、どうして
いるのかしら。あの頃、童子の雨のクロールをやれるのはなぜか原田さんしかいな
い!と思っていた。
となると、森田童子の女性感ということになる。

森田童子が描いた女性のなかで誰か一人!とかいわれたらやっぱ、ミドリちゃん。
碧ちゃんは好きですよね。
「青春、逆立ち、宙返り」してしまうミドリちゃん。えへ!失敗しちゃったぁ〜と
かいいながら、汗をかきながらモーレツに努力をしてしまう、ミドリちゃん・・・
。「はるか、希望を見つめてミドリちゃんは〜」ということになるのだろうな。
と、考えるとミドリちゃんは、何なのだ!と思う。
「青春、逆立ち、宙返り」してえへ!失敗しちゃったぁ〜とかいいながら、汗をか
きながらモーレツに努力をしてしまう、ミドリちゃん・・・いつも笑っているミド
リちゃん。「えへっ!!」。
森田童子はミドリちゃんが恐かったと思う。その意味では森田童子さんは今も分か
らないと思う・・・ミドリちゃんのことを。「友よ泣かないのか」とか行ってもミ
ドリてゃんは「えへ!」だもの・・・・。
「青春、逆立ち、宙返り」「青春、逆立ち、宙返り」「青春、逆立ち、宙返り」・
・・・・きついしぃ〜、そんなことようせんほうが・・・・とは思う、でもミドリ
ちゃんは好きだったのだよきっと・・・・そういうことが。「えへぇ〜」、失敗し
ちゃったぁ〜・・・・えへ!
亀岡達也
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 森田童子がデビューした時、私は20歳の浪人生。彼女のせつなすぎる歌声は味気 ない日常の慰めであり、その歌詞の背景に思いをはせながら、早く大学生になること を願っていた。「雨のクロール」はつげ義春の「海辺の叙景」だろうか、「さよなら ぼくのともだち」できこえる轟音は三里塚を覆う巨大なジェット機か・・・。その 後、今はパソコンショップとなった新宿のロフトでのライブ(「楽屋口で垣間見た彼 女の素顔が頼りなげで淋しそう」とその日、日記に書いた)、池袋での黒テント公演 に足を運んだりしたが、アルバムはファーストのみ。なんとなく、というより、自分 の感傷癖に嫌気がさして、その後はぱったり。しかし、今も時々、当時録音したFM のスタジオライブは聴くことがある。高橋基子が司会したものと、竹谷英子が司会し た時のもの(オレンジロード急行の監督とトークしている)。実は「高校教師」が放 映される1年程前に、無性に森田童子のことが気になり、友人を介してアプローチし たが、「今は主婦として幸せな生活しているから」との返事だった。とうとう会えず じまいの森田童子。でも、こんな時代。消費されるための復活なんてしない彼女の潔 さ。いいね。
 この前思い切ってセカンドアルバムを買った。レコードはプレーヤーがいかれてか ら聴いていないし。23年ぶりに聴くアルバム。シーザーとのコラボレーションか。 そういえば「少年極光都市」という戯曲(高取英・作)の初演で森田童子が詞と曲を 提供している。詞は高取との共作。いかにも森田童子らしい”はかなさとせつ なさと凛々しさ”がいい。                        厄年を終えたサラリーマン
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はじめてメールを出します。
 森田童子の歌は、私が中学から大学にかけて、泉谷しげる・友川かずき(友川かずき
をご存知でしょうか?まだ、アピアで歌っておられます)と並んで聞いていた歌で、私
の性格の形成に随分影響を与えたのではないかと思います。(おかげで今でも暗ーい人
生を歩んでいます。)
 私の場合、四国の田舎に住んでいたし、少し遅れてきたファンだったため(現在、3
4才です。)、一度も実物を見る機会もなく(田舎者だから東京へ行くという発想も
かったし、ライブハウスという存在も名前しか知らなかったのです。田舎者にとって東
京はとても恐い所だったのです)、確か「地下室」という名前だったファンクラブに入
る勇気もなく(森田童子のファンクラブだから、左の方の集まりで、入ればデモとか行
かなくてはならなくなってしまうと思っていたのです。頭脳警察じゃないんだから、思
い込みとは恐ろしいものですね)、ただただ、LP(古い!)を聞いていたファンでし
た。
 でも、このホームページで「あのテレビドラマのおかげで、CDを集める事ができた
」等思わずうなずいてしまう意見を読めてうれしかったです。とくに、森田童子が「主
婦」をしているという書き込みがあり、とてもほのぼのとしてしまいました。(だって
、中島みゆきやユーミンじゃないんだから)。でも、もし、もう一度歌ってくれるのな
ら、ちょっと聞いてみたいと願っているのも本当です。とても生意気なことを言うよう
でひじょうに恥ずかしくて申し訳ないのですが、「狼少年」で
 小さな生き方を少しずつ憶えてきたようなそんな気がしています。
と聞いたとき、何かを見つけたんだなと思いました。学生運動、永島慎二の「ひだまり
」、太宰やカフカ(私はこの2人とも嫌いです)、そして黙示録、そんな世界を越えた
ものを見つけて、引退してしまったのではないかと思いました。多分、それは、「日常
」とか「家族」とか呼ばれているものじゃないかと思います。残念ながら私はいまだ、
それを見つけられないまま生きています。それで、引退してから育て続けたその「何か
」をどう表現するか聞いてみたい気がしています。多分、もう歌ってくれる事はないで
しょうし、歌わない方がいいのだろうと思います。このホームページをみて、ちょっと
感傷的になってしまい、つまらぬことを書いてしまいました。
 では、また、のぞいてみますのでこのホームページ続けて下さい。

           ペンネーム:森永 誠

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng4.html

31. 2020年9月08日 18:10:07 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[40] 報告
●伝言板Vol.5
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng5.html


私が44才ですから、彼女は今45、6才のはずですね。

昭和48年から53年まで弘前にいたのですが、弘前でのコンサートに来た時、
歌いながら涙を流す姿が印象的でした。
新宿ロフトや、少し後になりますが池袋の黒テントにも行きました。
数年前、黒テントでのコンサート姿がテレビ放映されていて、夢中で録画しました。
でも最後に会ったのは確か15年ほど前、いわき市でのコンサートでした。
人が集まらず小さな喫茶店でやることになったのですが、一番乗りした私を気遣
い主催した店のご主人が森田童子に紹介してくれました。
自分の歌にかなり自身を無くしているような事を言っていたと記憶しております。
コンサートが終わった後も打ち上げには出ないで、近くのホテルで休んでいたら
しく、皆で探しました。
結局探し当てて駅まで送ったのですが、光栄にも送る途中ギター持ちをさせても
らいました。
このとき始めて彼女の素顔も見ました。
そして今、突然私たちの前から去った彼女は今何処で何をしているのでしょうか。
もう一度、あの時代の新しい歌と詞を連れて戻って来てくれることはないのでし
ょうか。

大和田 潔

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はじめまして。

森田童子との始めての出会いは高校生の時、訪れた東北のYHでみんなで飲
んだ夜、YHの人のラジガセから延々流れていた「good Bye」のテープでした。

あの飛行機のジェット音が印象に残り、中古レコード屋でコツコツLP全て
揃えました。

あの頃も今もロックを中心に聞いていますが、彼女の声と世界に打ちのめさ
れました。

その後、「ラスト・ワルツ 」か「夜想曲」の頃かはっきり憶えてませんが
「ぴあ」でSTAFF募集の告知を見つけ何度かワーナー・パイオニアに通いま
した。 警察の目をかいくぐって町中にあのチラシを貼ったり、電話でLIVE
の案内を出したりしました。

ロック・ミージシャンの中にもいわゆる「隠れファン」もいて、テープの貸し
借りをしていました。特にPUNK/NEW WAVEファンに多かった。

もう10年以上前の話です。

=== === === === === === === === === === === =
鈴木 康之
mailto:y-bell@stones.com

●●●●●●●

久しぶりに手紙を出します。
誰もいない会社はとても静かで、
家族の寝息を遠い夜の向こうにおいて、
つい一人で、手紙を書いています。
前回自分が出した手紙の後に、
いろいろな人が出した手紙を読みながら、
昔のことを思い出しながら夜だけがふけていきます。
本当にたくさんの人たちが、
今でも彼女のことを心の中に、
大事に持っているのだと思うと、
冬の夜空が、一層すきとおって、
見えるようです。
僕らが初めて彼女の声を聞いてから、
もうずいぶんと長い時が流れ、
免許証の年齢ばかり重ねてしまったけれど、
心の奥底にある、あの頃は、
今でも思い出すことができる。
でも、あの時すぐそばにいた人は、
もういない。
それでも、進んでいく時に身をまかせ、
明日のことを考えている。
すみません、こんな事しか書けませんでした。
もう子供もできて、
相変わらずです・・・

MST@Fukuoka

●●●●●●●

 いろんな人が、いろいろな森田童子の体験をしていること、しっかりと伝わっ
て来ます。
 ある人はLPレコオドの時代から知っているし、ある人は「高校教師」というテ
レビドラマの主題歌になったから知ったし。
 そういえば「ピラビタール」って何なのか聞いている人が伝言板にいましたね。
「〜全曲集」に書いてありましたが、薬物の一種らしいですね。どんなものか僕
はよく知りません。
 でも、そんなものですら歌になっているのですね。ハイミナールやフジミナー
ルに含まれるキナゾロンのことは聞いたことがありますが、ピラビタールは知り
ません。
 僕が進学で東京に出た頃は、既に新宿駅の植込みはなくなっていましたし、ハ
ヤリはネルボンでしたし。まあ、知らなくてもよかったんですけど。
 森田童子の世界にはいろんなものが詰まっている、そんな気がしますね。僕は、
当時、どちらかというと音量の大きいバンドの音を好んで出していましたけど、
ふと、アパートに帰ると、誰かが部屋に入り込んでいて、森田童子をかけていた。
そんな思い出が多いです。どうも、部屋の鍵をかけるのが嫌いだったんですね。
 今でも、実は家に鍵をかけることって嫌いなんだな。

破目仙人(佐野高久)
NBE02167@nifty.ne.jp

●●●●●●●

僕が初めて森田童子を知ったのはいつの頃だったんだろうか。ロックバンドに一
生懸命で、毎日というくらいレコード屋に立ち寄っていた高校時代、店頭で見た
んだと思う。1970年代も最後に近い頃。今僕はその頃の倍の年齢になっている。
そして、なんとなく印象に残っているレコードジャケットの顔の人物が、実際に
僕の目の前に存在することになった。そう、1979年。夏はもう過ぎていたと思う。

僕の住む松本市には、市民会館の他にいくつかコンサートができる施設があった。
パイプオルガンまで備えた本格的なホールも完成したばかりだった。
そんないくつかある施設の中で、僕が最もその頃なじみがあったのが中央公民館
だ。明治以前は松本城のお堀だった川沿いに四柱神社というのがあって、その神
社の境内の一部でもあるかのように建てられた、コンサートホールとしてはさほ
ど大きくもなく恵まれてもいない施設だ。なんか主流からはずれた、場末の演芸
場といった感じだった。
当時、市の職員が有志を募って「音楽を愛する若者の会」という活動をやってい
て、月に一度定例の演奏会が中央公民館で行われていた。僕も何度かステージに
立ったことがあったし、川沿いの商店街にもよく買い物に来ていたので親近感が
あった。

ある日僕は、神社の神殿の前を横切って、中央公民館前の小径を歩いていた。そ
こに彼女がいた。爆発したようなカーリーヘアーにサングラス。端整な鼻筋で、
黒い長いコートを着込んだ年齢不肖の女性が、小径の脇の玉砂利を踏んで中央公
民館へと入っていこうとしたところだった。彼女は―そうコートで体形はわから
ないしスラックスを履いていたけどすぐに女性だとわかった―すれ違いざまに軽
く頭を下げ、建物の方へ歩いていった。一目でマーチンのものとわかるギターケー
スをぶら下げていた。
「どこかで見たことあるなあ」。そう思って目で彼女の歩いて行った先を追った。
『森田童子コンサート』という、顔写真入りでモノクロの地味なポスターが目に
入った。どうしてか「もりた・どうじ」という女性らしからぬ読みを、その時の
僕は知っていた。伝奇的な物語が好きだった僕は「酒呑童子」だとか知っていた
ので、そう読んだだけかもしれないのけれど。

その時はコンサートを聴くということはしなかった。何か他に用事があったのだ
と思うし、高校生でそんなにお金も持っていなかった。だけど、これから演奏を
する人が一人で会場の脇の寂しい神社の片隅にいたのも何か不思議な気がしたし、
何よりも、軽く頭を下げて通り過ぎた女性の雰囲気が、何故か印象に残った。

それからしばらくして、僕は行きつけのレコード屋で『聖カテドラル大聖堂』を
買った。レコード屋のあんちゃんは「いつもギャンギャンしたロックばかり買う
お前さんが、宗旨替えかい」とからかった。

ロックやR&B系は相変らず好きだったけど、愛聴するレパートリーに『森田童子』
が加わって、僕は進学のため松本を離れた。

結局、実際に彼女が歌う姿は数回しか見に行かなかったし、チラシはもらったも
のの『森田童子を支持する会』にも入ることはなかった(郵便物をちゃんと投函
しないズボラな奴だっただけで、申込書は書いたんだけど…)。
ただ、東京ローカルのテレビ局で、森田童子のドキュメンタリー番組を見たこと
がある。学生寮のテレビを持っている先輩の部屋に、いつも何人かがたむろして
夜更かしをしていた。他の人はチャンネルを換えようと言ったけど、頼み込んで
わがままを通した。

きっと僕は、松本の場末の演芸場のような中央公民館の前の小径で、神社の境内
の玉砂利を踏んで僕の前を通り過ぎた、真っ黒気な服装の不思議な雰囲気の女性
に恋をしてしまったんだろう。
だから今でも切ないような、それでいてどこか甘い気分で森田童子のことを、淡
いけど心の奥深いところに染み込んだ思い出として持ち続けているんだと思う。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
第38回日本SF大会「やねこん」スタッフ
破目仙人@空相庵.信州/松本(NBE02167@nifty.ne.jp)
◆ 佐 野 高 久 ◆
空 相 庵URL=http://www.vimage.co.jp/~kuu-soan/
空 相 房URL=http://www.vimage.co.jp/~kuu-soho/
E-Mail=kuu-soho@vimage.co.jp
やねこんURL=http://member.nifty.ne.jp/yanecon/
ポスペ 専用=kuu-soan@vimage.co.jp
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

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 はじめまして。
 このページは、たまに覗いてました。
 中尾幸世さんの名前が見られるとは。
 残念ながら、録音はしてませんが、私が覚えてるのは、北村想と共演してた化石や
日記が出てくる話です。途中から聞いたので、さっぱりわけがわかりませんでした。
タイトルも忘れました。が、森田童子の曲がたくさん使われてて、エンド・テーマが
「ラストワルツ」
 最後に配役を聞くまで、森田童子本人が出てるのだと思ってました。
 最近は、中尾さんのお声も聞きませんね。

 森田童子をはじめて知ったのは、「ラストワルツ」が出たときで、地元のFMで3
曲くらい聞きました。「夜想曲」が出たときのNHK−FMは聞いてました。いまで
も思い出せるところもありますし、「雪よ降れ」と「僕は16角形」はそのとき以来
頭から離れなくなりました。そのとき買わなかった「夜想曲」は、CDになってよう
やく聞けたんですが、それに先立つ5年くらい、中古レコード屋をかなり回ったもの
です。
「夜想曲」は、いまでも車に乗せてよく聞いてます。
「夜ノ魂号」

●●●●●●●

こんにちわ

私も森田童子のファンです。
自分のホームページで彼女のファンであることを
ふれているせいか、TING LEEさんからメールがきました。
英語なのであわててしまいましたが、
それほど詳しいわけではないので、
童子のサイトがないかと探してたどり着きました。
伝言板のページがとても熱いので、僕も何か書きたくなりました。
僕は、今43才、童子との出会いは、ラジオで「さよならぼくのともだち」を聴いて
LP レコード「グッド・バイ」を買ったのが20才だった。大学1年だったと思う。
高校時代、フォークソングが好きで、友部正人のまねして歌ったりもした。
いつしか学生運動というか、新左翼運動のシンパになっていた僕は、
1年の秋、初めて、デモに参加した。たった 20人程度のジグザグデモだった。
その後、いろいろやったけど、3年の時には、たったひとりぼっちになってしまったし、
自分の弱さみたいなものを自覚して、急激に運動から遠のいて、ただの受験生になっていた。
絵描きになるんだという言い訳みたいなものを用意して、美大を受験した。
ことごとく落ちて、浪人。
東京に出て、予備校へ通ったけど、1ヶ月もしたら、昼夜逆の生活になり、
ラジオと本を友に、最低の生活を1年おくった。
どうにか、教育大系の美術科に入って、毎日遊び、酒ばかり飲んでいたけど、
ふいに童子の声が僕をおそった。それ以来、離れられなくなった。

僕なりに童子の情報というか、お願いを
何年か前、NHK FMのラジオドラマFMシアターで、何度か童子の歌が、挿入歌に使われた。その時の作品を録音した方がいたら、ダビングしてほしいのですが。
覚えているのは、つがわいずみ作品で中尾幸世主演「広場 まぼろし」。その他にもあったと思います。
僕は、中尾幸世のファンでもあり、たぶん童子が好きなら、彼女も知ってるという人がいると思うんだけど。

自分のホームページに自分の作品載せています。
よかったら、見てみてください。

http://www.bekkoame.ne.jp/^t.terui/
よろしく。

●●●●●●●

HI!

MY NAME IS TING LEE,I 'M FROM TAIWAN.
I LOVE森田童子'S MUSIC VERY MUCH,ALTHOUGH MY
JAPANESS ISNT' WELL,
I CAN GUESS HER LYRIC,WHAT SHE WANTS TO TALK
ABOUT.
IT'S HARD TO GET HER MUSICAND INFORMATION IN
TAIWAN.

I'M HAPPY TO FIND YOUR SITE AND KNOWING SO MANY
PEOPLE ARE HER FAN.
BUT I CAN'T READ THE CONTENT IN YOUR SITE.
SO,COULD YOU TELL ABOUT 森田童子'S HISTORY? HER
PROFILE?
IS SHE ALIVE? WHY SHE STOP SINGING SINCE '80 ?

I'M LOOKING FOR HER INFORMATION FOR YEARS,I'VE
ASKED FRIENDS IN JAPAN,
BUT I GOT NOTHING.
HOPE YOU CAN HELP ME TO KNOW 森田童子.
THANKS VERY MUCH!

BEST REGARDS FROM TING LEE ,IN TAIWAN.

●●●●●●●

私は、現在28歳の男性ですが、このホムべジがあることを
知りませんでした。
現在、すべてのCDを保有しており、私のギタでいつも引いております。

以上です。

●●●●●●●

 学生時代に池袋や阿佐ヶ谷のライブ
ハウスにぴあをなめるように調べいき
ました。
時とともにレコ−ドもどこかにいって
しまいました。今彼女はどうしている
のでしょうか?

●●●●●●●

品田信昭さま

 はじめまして。
 童子&当研究所ファンの金太郎です。
 私も「森田童子自選集 友への手紙」を所有しており、購入当時、MCのあの
部分が気になって調べたことがあります。恐らく間違いはないと思いますので、
お知らせします。

 ○○○○○○○○は、岸上大作(きしがみだいさく)です。
 この人は、歌人で60年安保闘争に身を置き、20歳の若さで自○により亡く
なっておられます。あまりにも悲しすぎて…。もっと詳しくお知りにないたい場
合はサーチエンジンで‘岸上大作’をキーワードにして検索してみてください。

 当時、図書館で著書を借りて読んだことがあります。10年の違いはあります
が安保闘争と云う共通点に於いて、森田童子さんが共鳴した一人であることに間
違いないでしょう。
 その後、古書店で数冊購入しましたが、幾度かの宿替えで紛失してしまいまし
た。

 以上なのですが「森田童子自選集 友への手紙」をお持ちでない方のために、
このMC部分の全文を紹介しておきます。

「ラジオ、消しゴム、万年筆、新聞、腕時計、短歌、岸上大作、灰皿、マッチ、
4月1日、エープリール・フール」です。

 森田童子さんの歌詞に惹かれた方には、お薦めの歌人です。(^_^)

98年11月15日 金太郎

●●●●●●●

管理人様 このようなHPを開設くださいましてありがとうございます。

私が森田童子を知ったのは20年近く前の16歳のときでした。
今でもドップリつかっています。
ポリドール時代のレコード4枚、ワーナー時代の3枚、「高校教師」以降のベスト盤を
含む全作品のCD(これより以前に発売されていたグッドバイからカテドラルまでの
モノクロのCDジャケットのものは買いそびれているうちに「高校教師」が大ヒット
してしまった)そして「森田童子自選集 友への手紙」を持っています。
その「友への手紙」にはいっている「淋しい素描」の2番のあとにレコードにはない語
り(台詞?)があるんですが、何と言っているのか御存知の方いましたら教えてくだ
さいませんか。 「ラジオ、消しゴム、万年筆、新聞、腕時計、短歌、
○○○○○○○○、灰皿、マッチ……」の○○○○○○○○の部分です(その前の
「短歌」も怪しいんですが)。
このカセットテープを買って16年、何度繰り返し聞いてもわかりません。
このHPをご覧の方で御存知の方いましたらぜひ教えてください。 お願いします。

管理人様、このHPをこのような私事のために利用しようといたしまして申し訳ござ
いません 。 許されるなら伝言板の片隅に載せていただけませんか このHPのさら
なる充実を期待しています。 頑張ってください。

品田信昭

●●●●●●●

情報ありがとうございます。
ディスコグラフィに追加しておきます。

>スキャナ持っていませんので、ジャケット写真送れません(^^;
あしからず。

残念です。もし将来デジカメでも買うようなことがあれば
ぜひ、撮影して送ってください。

管理人 

●●●●●●●

偶然、このページを見つけました。

一番最初に森田童子を聞いたのは、
NHK・FMで「セルロイドの少女」ss
がかかっていたころで、高校生でした。

シングルレコード、俺の持っている3枚が
リストに載っていなかったので紹介します。

●「さよならぼくのともだち/まぶしい夏」ポリドール DR1989
●「ぼくたちの失敗/ぼくと観光バスに乗ってみませんか」ポリドール DR6060
●「セルロイドの少女/蒼き夜は」ポリドール DR6184

スキャナ持っていませんので、ジャケット写真送れません(^^;
あしからず。

それから、CDももう製造中止で手に入らないのがあります。
「夜想曲」のCD!誰か譲ってくれないかな〜

むらちゃん

●●●●●●●

童子を知ってもう20と何年。
40歳代になり、今思うと懐かしい思いです。
この間LPを久々に聞こうとしたら、回転数がままならず。
CDにするか・・・。

by 福岡→名古屋→東京→大阪→福岡→鹿児島 の会社員

●●●●●●●

インターねとをさまよっていたらこのHPを、偶然見つけ、森田童子さんさんのライブのVIDEOやレコードなどが聞きたくなったので、店に行ったところどこにも見当たりません。どなたかVIDEOやレコード、CDをダビングして譲ってくれる方はいませんか?お願いいたします。

mail ss@mail.isnet.ne.jp ネーム SS

●●●●●●●

「森田童子研究所」の管理人です。

>デシャバッテすいませんでした。

いえいえ、たいへん助かりました。
ありがとうございました。
訂正しました。また何か間違いがあれば、お願いします。

●●●●●●●

はじめまして。
森田童子、本当に良いですね。
早速ですけど、家のCDを見たら、マザー・スカイとグッド・バイの番号が入れ替わってますよ。
マザー・スカイ  CD:WPCL−746
グッド・バイ    CD:WPCL−747
が、正解です。
デシャバッテすいませんでした。
本当は、お礼が言いたかったんです。
楽しませてくれて、有難うございました。
>>>>>>>>>>>>>>>>>
        佐  藤      洋

●●●●●●●

いつもここおとずれるときは、
「なくなってたらどうしよう」て、どきどきです。

まわりのひとには、「いまさらなんで?」ていわれるけど、
森田童子のうた、だいすき。
はじめて聴いたのは「高校教師」で。中3のときだったな。
すきとおるような、おさないような、
そんな声に、あたしの涙腺はこわれた。

すきなうたたち
1. 逆光線
2.さよならぼくのともだち
3.サナトリウム
4.ぼくたちの失敗
5.蒸留反応
6.ぼくを見つけてくれないかなァ
7.G線上にひとり
8.春爛漫
9.蒼き夜は
10.菜の花あかり

蛍光燈のあかりがきらいなあたしは、ふだん
ろうそくのあかりでくらしてて、そのなかで
森田童子聴くの、すごくはまる。
そんなときよくわかる。いろいろのことが、あたしのまわりに
あるけれど、結局あたしは、ひとりなんだ、て。

そして、ホームページもつくってる。
http://pweb.sophia.ac.jp/~e-kimura/
森田童子のこともすこし。ほんとは、これをメインに
したいんだけど、なんか、てれちゃって。

歌詞も、コトバの選び方がすごくいい。
みみにすうってなじむ感じ。
彼女のうたは、文学的だとおもう。
文学作品のあじわいと、よくにてる。

あと、ぼくときみ。性別がわからない主人公たちの
あいまいな性の存在も、いいなー。

ほんとうに、かたり尽くせない、彼女の魅力。
このページをおとずれた、感性豊かなみなさんと、
もっとおはなししたいな。

あんず

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng5.html

32. 2020年9月08日 18:11:03 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[41] 報告
●伝言板Vol.6
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng6.html


はじめまして。

森田童子さんの曲は、心の鈴が同じところに響くというかうまく言えないけど、共感するところが多くて好きです。

初めてであったのは、自分が高校卒業のころのリバイバルでした。

そのころの私は、高校生活を楽しむということからはかけ離れた、とても苦しい日々を送っていました。でも、学校では勤めて明るかったと思います。進路面談で、父と担任と、3人で少し話をして、父が帰ったあとでした。誰もいない教室で、先生はあたしのために泣いてくれました。私も泣きました。
自分が辛くて、というよりも、こんな私のために泣いてくれている先生をみて、泣けてきました。

「男のくせに泣いてくれた」・・・このうたをきくと、いまでも胸がせつなくなります。

あのころよりもずっと世間になじんで汚れてずるくなった私でもまだ、こんな、歌を聴いて涙がでるようなやわらかいところが残ってる・・そう思うと、少し、安心します。
年代を超えて感動をくれた森田童子さんの歌声に、感謝してます。

ハンドル名(ちぱちぱ)

●●●●●●●

 TAMAKISS様
 広島の方でいらっしゃいますか???
わたし 月龍も広島です。
 わたしも一生懸命 森田童子のCD等を
探していますが、全く手がかりがありません。
古本屋などで訊いても「古いものですからねぇ…」
という返事などしかかえってこなくて。
レンタルショップとかでも もう置いていなかったり。
でも TAMAKISSさんは 何か見つけられましたか???
わたしは 探し始めてから 
まだそんなに経っていないのですが、
見つかりそうな気配は感じられません。
もし何か情報をお持ちでしたら 教えてください。
 えっと… 伝言板上にメアド等 何もなかったので
個人的にお送りすることができませんでした。
わたしのメアドは公開するので、よろしかったら
メールください。
お待ちしてます☆

   月龍(ユエルン)
  ta61@enjoy.ne.jp

●●●●●●●

 始めてお便りします � �
 森田童子さんのことを知ったのは、やはり、「高校教師」というドラマによってでした。 年代的な差の悲しさを思います。
 野島さんの、ある種冷ややかな内容の 脚本が好きなので、「高校教師」をみはじめその際に、童子さんの曲に生まれて始めて 出会いました。
 あ、という間にに引き込まれました。 でも、その頃の私は、大学時代 いろいろ悩んでいたときだったためか、その世界にはまり込んで行くのが 怖かったため、気にはなりつつも CDを手にするのがためらわれていました。
 今は,必死にレコードを捜しまわる日々です。
 地方なので、都心よりは お店に並んでいる期間が長く見つかりやすい気がします。でも、それまでの過程が難しいでしょうね。
 大学時代、関西にすんでた頃、 寺山修司さんに、焦がれてカルメン・マキさんの「時には母のない子のように」 などのレコードを 大阪や京都などで探していたけれど まったく見つからなかったですよ。
 広島に帰ってきて、その他のレコードも 見つけたときには、うれしくもあり それだけ、広島って、こういった宝物に気がつかない人が多いのかなって妙な気分でしたよ。
 よく、学生の頃、 友人たちと言ってました。「私たちって、熱がないよね」って。 だから、すごく、そういった時代にあこがれていました。
 広告のキャッチコピーを考えるコンテストで応募したコピーを70年代生まれの僕らは「神田川」を知らないと書いて大学の友人に見せたところ お互い、黙り込んでしまいました。 もちろん、「神田川」というあの唄は知ってます。 ただ、あの唄に歌われているような世界を 私たちは、知らない,生きていない、 それは、あたりまえなんだけどね。
 だから、森田さんの曲を聞きながら、 何かを探していたりするんですよ。
そうそう、「ぼくたちの失敗」の歌詞にもあるけど、JAZZ喫茶って、響きあこがれるな。 広島では「g」とかがそれに近いのかな。(ローカル内容で、ごめんなさい)でも、ほんと、こちらでは、ないですね、そういう感じの場所。 う〜ン、絵を描こうとおもって PCたちあげたのに、つい、久しぶりにネットしてしまって、 明日は仕事だというのに、 こちらのHPを発見てしまったばかりに、うれしくて、テンションがあがってしまって メールを書いてしまいました。眠いです。
  私なんかは、こちらのホームぺージ情報源としてアクセスさせていただくばかりで 何もご協力できないのが申し訳ないのですが、これからも、楽しみにしてますので、 管理のほう大変と察せられますが がんばってください。
tamakissより � � � � � � � �

●●●●●●●

管理人です。
K3様 ご指摘ありがとうございます。
 LPジャケットについては、ディスコグラフィーにて現在オリジナルのみ使用しています。このLPは「犬のしっぽ」さんから送っていただいたものが大半です。そのときパイオニア盤も一緒に送っていただきました。オリジナルLP、モノクロ盤ともジャケット表だけではなく、裏、歌詞カードとすばらしいものがありますが、著作権等の問題があり、当サイトでは公開できません。インターネット上の他のサイトではジャケットや本の表紙さえも、掲載していないところがあります。ぼくがこのサイトを作る時に、長年の友人である、ある出版社の編集長に相談し、出版界において、ジャケット・表紙のみは長年の慣習として掲載していると聞き、このサイトも同じ立場で掲載しています。ただしインターネット上と出版界は違うものなので、ジャケット表紙はいいということではありません。それから当サイトのホーム上に「資料の収集を…」とあるのを、もう少し違った表現に書き換えなくては、と思っています。

もう1つのご提案の「用語集」はさっそく作りたいと思います。「森田童子用語辞典」叉は「森田童子国語辞典」なんてタイトルはどうですか?
グリーン大佐……
高校教師……
ガリ版刷りのアジビラ……
火炎ビン……
球根栽培の本……
玉川上水……
高橋和己……
寺山修司……
と言う感じで、書いてください。また他の方もよろしくお願いします。ひとつの言葉をひとりの方…ということでなく、何人かが書いてもいいと思います。

●●●●●●●

はじめまして。森田童子のデビュー以来のファンのひとりです。 最近、やっと自宅でインターネット環境ができたもので、「ないだろうなあ」と思いながら検索して、出てきたサイトがあまりに立派なものだったので、正直おどろいています。これからもがんばってください。
資料収集もかなり本格的にされているので、たぶん入手されているとは思いますが、手元に以下の資料があります。よろしければ、研究所にお貸しいたしますので、メールでご連絡ください。ただし、当方にスキャナー・デジカメがないので、資料は郵送させていただくことになります。
1.ポリドールからワーナーへ移籍直後に発売されたLPは、それまでのカラー印刷のものが、モノクロ印刷になり、発売されました。現在それを所有しているのですが、ジャケットサイズの高梨豊撮影のモノクロ写真がついてきていました。その裏面には、ライブでの童子の言葉や短編小説などが掲載されています。実は、当時、それを目当てに、それまで持っていたカラーのポリドール版を、やはり森田童子のファンにしてしまった友人に譲って、新しく買い替えたのですけれども、もしかすると、この写真は、移籍直後だけのおまけだったのかもしれません。ジャケットのオビにも「特典」と書いてありました。
2.多分「FMファン」だったと思うのですが、「夜想曲」の発売された頃と思われる雑誌の切り抜き(2ページ分)の紹介記事があります。その中に少しですがインタビューが載っています。
3.おまけの情報 � 伝言板に「キシガミダイサク」の質問があったように、特に高校教師以後の若いファンの方にはわからない言葉が歌詞の中に結構あるんじゃないかなあと思います。今の20代の人って「ガリ版刷りのアジビラ」ってイメージできるんでしょうか。全共闘世代を知っているおじさんの素朴な疑問です。このまえ、職場の若い人に話のなりゆきから、「火炎ビンって知ってる?」と聞いたところ全員に「なんですか、それ?」と言われてしまいました。 � それから、ちなみに、これは、童子のライブで直接本人が言っていたの覚えていまのですが、「球根栽培の本」というのは、実は極左の人たち御用達の爆弾製造のノウハウ本なのだそうです。アブナイ方面の話ばかり恐縮ですが、わたし自身も、いまだに「グリーン大佐」や「ミセス・カーマイケル」が誰なのか知りません。そういう詩の中に出てくる用語集のコーナーなんかもあればいいのにな、と思います。
  ハンドルネーム� K3

●●●●●●●

はじめまして。
はるのぶです。
この伝言板を見ましたら何人の方がCDを探しているよう
でしたが、私も「夜想曲」のCDを探しています。もう、見つけ
ることは不可能に近いと考えています。ですが、「ベストコレ
クション1/2」なら中古のCDを取り扱っているところでたまに
見かけます。「ベストコレクション」で良いという方なら、それ
でたぶん見つかると思います。でも、秋葉原や都心の店では
難しいと思います。秋葉原のすべての店を回りましたが、ま
ったくありませんでした。ので、ちょっと都心から離れた店、
または田舎の方の店をお勧めいたします。
CDをお探しの方、頑張って回ってください(笑)
では、これにて失礼致します。

PS・ 「ベストコレクション1/2」ならたぶん手に入れられると
思います。どうしても欲しいという方はご一報下さい。
・h-gonta@t-cnet.or.jp

●●●●●●●

はじめまして。
私は、就職活動中の大学4年生です。
先日まで高校教師の再放送を見ていました。
以前放送されていたときも見ていたのですが、
今回は自分でも不思議なくらい熱心に見ていました。
内容は覚えていたのになんでこんなにはまっている
のだろう??
それは、森田童子にはまっていたのかもしれません。
早速CDを探しに行きましたが店頭には見当たらず、
「僕たちの失敗ー森田童子 ベストコレクション」を
注文したら廃盤だといわれてしまいました。
ショックでしたが、何とか手に入れようと必死です。
どなたか入手方法をご存知でしたら教えてください。
また、ドラマの挿入かとして使われていた曲に関する
情報も教えていただきたいと思います。
どんなささいなことでも結構です。
よろしくお願いいたします。

●●●●●●●

 はじめまして。
月龍(ゆえるん)と言います。

 わたしが初めて森田童子の歌を聴いたのは、
高校教師の 映画版のビデオを見たときでした。
ここの書き込みを見ていたら 多くの方はTVドラマの方を
最初に見られてたみたいですけれど、
TV版の方は「僕たちの失敗」ですよね。
それで 映画版の方は「たとえば僕が死んだら」。
いきなり 冒頭から「たとえば ぼくが 死んだら… そっと忘れてほしい」
なんて そんな歌詞が出てきて、わたしは 衝撃を受けました。
しかも あの透明な声で。
わたしが それまで普段 聴いていた曲と言ったら、
尾崎豊とか ブルーハーツ、B’z、小松未歩、FIELD OF VIEW、
MY LITTLE LOVER、エリック・クラプトン(デレク&ザ ドミノス)、
……などなど そういう感じだったのですが、
わたしの一番好きな尾崎豊に匹敵するくらい
森田童子の歌は ココロに しっくりくる歌でした。

 でも、今 CDを探しているのですが 全く手に入りそうもありません。
もし 同じのを2枚持っている方など いらっしゃったら
譲っていただけないでしょうか?
それとか、もしよろしかったら カセットにダビングしていただけないでしょうか。
レコードはプレイヤーがありませんし、中古で探しても
全く手がかりすらありません。
練習してカラオケで歌いたい、ひとりで聴きこみたい。
そう思うのに、今は 聴こうと思ったら
高校教師のビデオを借りたりするしかありません。
どなたか おねがいします。
もし カセットを送ってくださるとか云ってくださる方がいらっしゃったら
メールください。
おねがいします。

             ta61@enjoy.ne.jp
             月龍

●●●●●●●

在宅で仕事を!とインターネットを使っているうちに、ふと検索に「森田童子」と入
力してしまった。きっとのめりこみそうで今まではあえて避けてたのに・・・。

田舎から進学のために親元を離れるときに環境も変わるけど、自分自身も今までとは
違うところから出発してみようという事で「森田童子」もしばらく聴くことをやめて
から、10年以上も過ぎてしまった。

でも、こんなにも多くの人が彼女のことを愛してくれてることの嬉しさと、かつて私
のまわりにいた人々の評価とこのホームページの中で今語られていることの違いに驚
いている、というのが正直な気持ちです。

というのも、私が出会った頃のまわりの反応は「悪くはないけど・・・、なんか難し
い」という意見が多かった。(あくまでも私のまわりですが)

かつて1977年2月19日沖縄県コザ市(現沖縄市)でのコンサートに始まった私
の森田童子との出会いは、私がまだ中二でギターを弾き始めて間もなく、住んでいた
所も田舎であるゆえに情報の少ない上に、一緒に応援してくれる人はなく、とにかく
音楽雑誌などで情報を集めるしかない状況でした。

しかし、私はその頃出ていた「グッド・バイ」と「マザー・スカイ」のLPを学校か
ら帰ると気がつくと一日に一度は聞いていて、1977年10月頃、2度目のコン
サートで「a boy」が発売され、そのとき最初の2枚が毎日聴いていたためにかなり
すりきれていることに気がつき、我ながら驚いたことがあった。

そんな私も今は東京で2人の娘を持つ主婦で、ふと気づくと当時、歌詞の中に出てく
る「玉川上水」沿いに住んでいる!

地理的には歌詞や語りでよく出てくる「久我山の線路沿いの・・・」「井の頭線・・
・」など、選んだわけではないのに地名を聞けば、私の記憶の奥に残っている懐かし
い童子の声が蘇ってしまうような場所である。

これも何かの縁?というのでしょうか。

そんな訳でこれからもこのページが続くことを祈りつつ、私が集めたポリドール時代
とワーナー時代のそれぞれのLPなど実家の倉庫に眠っているはずなので、今度帰省
した時にでも探してみたいと思います。資料として使えそうなものがあれば送ります。

P.S 1981年3月卒業の3年5組の文集に私が森田童子のことを書いているの
ですが、私自身がその文集をなくしてしまったので、もし持っている方は、そのペー
ジだけでもコピーしていただけないでしょうか?当時自他共に「もりたどうこ」と
いっていた者です。

globekan@geocities.co.jp 西野みかん より

●●●●●●●

「高校教師」再放送がはじまったみたいで、
よろこんでます。
いいな、森田童子。
映画「グッドバイ」も、みたいなあ。
これは、どうやったら手にはいるんですか?
>犬のしっぽさん

「ア・ボーイ」すごくよかった。
これで最後のアルバムだから、って、
ずっと聴かないでいたんです。
ときどきこころにすうっとしみいるのは、
こころがからっぽだからなのかな。

あたしもギター弾くので、
いつか童子のようになりたい。
e-kimura@hoffman.cc.sophia.ac.jp
http://pweb.sophia.ac.jp/~e-kimura

-- *:..・☆。*:..・★上智大学法学部 あんず☆。*:..・★。*:..・☆。

●●●●●●●

タカさんのご質問ですが,
この曲はファーストアルバム『Good bye』の2曲目の『君は変わっちゃったネ』です.この曲は4枚目のアルバムの『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』にも入ってい
ます.
また,ちょっと見つけにくいかもしれませんが,

映画『グッドバイ』のオリジナル・サウンドトラックにも入っています.
それから,私は持っていませんが『森田童子全曲集』にも入っているんですね.
また,ドラマ『高校教師』に使われた曲ですが,これに関しては,ドラマ全編を見てないので,ちょっと分かりません.
ごめんなさい.

      犬のしっぽ

PS:カテドラルライブの3曲目に,この『君は変わっちゃったネ』が入っています.
   レコード・CDリストのページはこの曲が抜け落ちてるみたいです.
   また,お暇なときに付け加えて下さい.
   いつもいつも,お願いばっかりしてすみません.
   それでは,お身体に気を付けて.

●●●●●●●

ハンドルネーム
タカ

yahooで1件ヒットしたので驚きました。
自分はいわゆる高校教師をきっかけとしてのファンなんですが、現役のころからのファンも多い事を当ページでしり驚きました。
それをきっかけでベストCDをかいました。
質問なのですが
高校教師で8話ぐらいか?の冒頭で真田が近親相姦を目撃した後ホームでたたずんでいる時流れていた歌のタイトルをだれかご存じですか?
「ひさしーぶりーだねーぼくらはーあいーかわーらずー」
て歌詞だったような・・
いまでもCDにはいってますかね
レコードでも探すつもりなのでタイトルと収録されているLP知りませんか?
すごくインパクトがある歌なので
あとドラマに使われた曲がたくさんはいったアルバムをしっている方もいませんか?
これからもがんばってください

●●●●●●●

森田童子という名前を何気なく入力し、このHPを見つけてしまったが最
後、長らく心の奥底に封印してあったはずの、さまざまな思い出がよみが
えってきてしまいました。西荻ロフトやルイード、黒テント、早稲田小劇
場、前進座など童子のライブも思い出しますが、その時に知り合った人た
ちと過ごした時間が懐かしい。当時まじめっこの高校生だった私にとっ
て、青い旗の会の大学生たちと一緒にいることが楽しくて仕方がなかった
ように思います。初めてお酒を飲みに連れて行ってもらったり、朝まで街
を歩きまわったり。マツオさん、カメイさん、アキラ君元気ですか?その
後、就職をしてマスコミの仕事に就いた私は、個人的趣味で企画を通し
て、童子さんのインタビューをしました。新宿の高野フルーツパーラーの
喫茶店で1時間程インタビューをしました。沈黙が流れることもなく、
淡々と話してくれたように記憶しています。これからどうしたいかという
ような趣旨の質問をしたとき、童子さんは「このまま静かに忘れられた
い」と言ったので、原稿はその言葉で締めくくりました。そして、その言
葉通り、その後間もなく活動を止めてしまいました。   HARU

●●●●●●●

 森田童子と出会ったのは中学2年の頃、友達の兄貴の車の中でした。
カルチャーショックと言うか電気が走ったと言うか、世の中にはこんな凄い唄を歌う
人が居るんだと本当にショックでした。それから間もなくしてその時聴いたミュー
ジックテープを買い毎日のように聴いていた事を憶えています。
 それから高校を卒業し今住んでいる神奈川(藤沢)へ就職、自分で好きにお金を使
えるようになってからは、世に出ている森田童子のレコード、テープを買いあさりま
くりました。(と言っても他の歌手のように何十枚も在る訳ではありませんが)
 そして何年前だったでしょうテレビから流れてきた「僕たちの失敗」。 一瞬自分の
耳を疑いました。 絶対テレビなんかで使われる訳が無いと思っていた森田童子の曲
が流れてきたのですから、 あの頃は何と言って表現して言いか分からないほど嬉し
い日々を過ごさせて頂きました。テレビの力は凄いもので主題歌に使われるや否や瞬
く間に100万枚突破と言う見出しが新聞を賑わせ、あの森田童子がメジャーになって
しまいました。それも 今は昔の話 もう誰一人森田童子の事を話す人は居なくな
り、元に戻った訳ですが、あのブームのおかげでレコードだったアルバムがCD化さ
れた事を喜びつつ、今は、またいつ来るか分からないブームを待っている今日この頃
です。
           森田童子ファン歴23年のK2からでした。

●●●●●●●

 森田童子のホームページがあるなんて、感動してしまって、この感動が消えないうちにメールを書いてみます。
 私が初めて森田童子を見たのは、吉祥寺の前進座でした。当時、私は武蔵小金井に住んでおりまして、平日の吉祥寺が好きだったので、ぶらついていたら、古本屋に大きなポスターが貼ってあったのが目にとまり、観に行ったのを記憶しています。しかし、今の吉祥寺は当時とは、かなり空気が違いますね。そのときのチケットをまだ持っていたので、今、見ましたら、12月1(木)2(金)3(土)9(金)10(土)11(日)連続6日公演だったんですね。(何故か私には寒かった記憶は無いのですが)私が見たのは何日だったか、もう思い出せませんが、コンサートのオープニングは、何のアルバムに入っているか忘れましたが、爆発音だった事を記憶しております。チケットには、同時上映 森田童子黒色テント記録映画とありますが、どんな内だったかはっきりとは思い出せません。どなたか知っていらっしゃる方、教えてください。それにしても、全席自由、前売り2400円、当日2700円は安い!
 83年、12月25日のshinjuku loft(ドリンク付で2000円!)にも行きました。そのときは、狼少年に扮した学生服を着た劇団員の人がモデルガン改造のくだりを小さな壇上で叫んでいたのを憶えています。あれは何の曲の間奏中だったのか? あと、森田童子がライブでしか歌わない曲がありますよね。(確かタイトルは6月1日でしたっけ?)あの曲好きなんですが歌詞が、はっきり分からないのですが、どなたか教えてください。その日のライブの後ではレコード販売とサイン会があったのですが、森田童子は狼少年の裏ジャケットの服装でした。私の森田童子に関する情報はこのくらいが関の山です。
 私は今は三鷹に住んでいて35の春、生きる術なく暮らしています。
ps、このホームページは、どの周期で更新されるのでしょうか? どなたかメルフレになって下さい。 

    しげる。
    k-shige@pop06.odn.ne.jp (shige)

●●●●●●●

はじめまして。

森田童子の歌を聴いたのは高校生の頃で、すっかり好きになりました。
今は22歳で、もう5年近く聴いているのですが、飽きるどころか
聴く度になにかしら新しい発見があるようで、涙が出てきます。
もっと男らしくしろ、なんて言われてすごく窮屈な思いをすることも
多いこの日本社会ですが、たまには泣くのもいいだろうなんて
自分に言い訳するように、森田童子を聴いています。

森田童子にはまったからかどうかは分かりませんが、学園紛争が
あった時代のことが、まるで自分の思い出のように感じられる時が
あります。その当時、まだ僕は生まれてもいないのですがね。

森田童子のほかにも世間一般のいわゆるネアカ人間には
敬遠されがちな、中島 みゆきや尾崎豊も大好きでよく聴きます。
僕はかなり内向的な人間なので、ただひたすら明るい歌は
聴いているとかえって疲れてしまいます。

と、森田童子から話がずれてしまいましたが、とにかく
こういうホームページが見つかって、嬉しかったのでメールを
出しました。私事ばかりですみません。

                     高田 祥弘
●●●●●●●

とても会いたい人だったから
会いに行かなかった

いいえ
ほんとは会いに行けなかった

 

あなたのおかげで
自分の意思で
生きることをはじめられたような気がしています

あの頃のわたしを
自分自身を許せないわたしを
あなたは
そっと あたためてくれたから

 

どんな痛みでも
いつかは

癒されるものなのかもしれない

あなたのおかげで
それに気づくことが出来たように思います

 

ありがとう

だけど
15年も経ったいまでも
あなたを探してる.......

  こんなことじゃ
  いけないね

あなたのしあわせを
わたしは祈ってる
わたしをしあわせにしてくれた
やさしいあなたのしあわせを

                    ねこの

●●●●●●●

はじめましてこんにちわ。
先日インターネットをはじめたばかりの初心者です。やっとホームペ
ージの開き方が分かりました。
私が森田童子に出会ったのは、ふとした偶然でした。
数年前のある平日の夕暮時、いまとなってはなぜその時間にいたの
か覚えていませんが、私は何気なくテレビのスイッチを入れました。
とり立て見たい番組があったわけでもなく、ただ一人の虚しさを消す
ように、自然と手が伸びたのです。
そして次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは、茜色のフィルターを
張りつけたような映像でした。
池のある公園のベンチで寄り添う一組の男女。
二人は、水面に揺らぐ逆光のなかを泳ぐ数羽の鳥に視線を投げかけ
ながら、静かに言葉を交わしていました。その静けさのなかに歌い手
の声はゆっくりと浸透していき、その時、森田童子という一人の歌手
を初めて知りました。
ショックでした。
それまで私が知り得ていた歌手とは明らかに一線を画すものでした。
おぼつかないメロディーから流れる詩は、やさしさと残酷さ、そして言
い知れぬ不安が入り交じった一曲でした。
飾らない、薄化粧の、この歌を聞いたとき、ブラウン管の前で立ち尽
くす自分がいました。
目まぐるしく様変わりしていく世界、立ち止まりは敗者となる風潮にう
んざりしていた私にとって、この歌はジャンヌだったのかもしれません。
そして、このホームページによせられた方々の言葉を見たとき、自分
のなかで何かが変わったように思えます。
そして、ただ、森田童子を過去の人ではなく、同じ時間をともに共有
した人達がうらやましいかぎりです。
乱筆乱文になってしまいましたが、これにて失礼致します。
では。

・はるのぶう h-gonta@t-cnet.or.jp

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng6.html

33. 2020年9月08日 18:12:07 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[42] 報告
●伝言板Vol.7
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng7.html

こんばんわ
夏の終わりに、童子の歌が身にしみます。

             たかし

●●●●●●●

久保田浩(いとい)

この前 曲を教えて欲しくて乗った者です。おかげで
「君と淋しい風になる」という事が分りました。
犬のしっぽさん、d0ujiさん ありがとうございました。
お二人とも 森田童子のホームへ゜ージを持ってるんですよね。

●●●●●●●

管理人さまはじめまして
私は森田さんのことは以前ドラマで流れていた曲のみの知識で
それも聴き流していただけでした(ドラマはほとんど見ないので)
昨日、別れた彼の車の中で流れていたのが森田童子さんでした
私は75年生まれ、彼は60年生まれ
今となっては彼の車で聴いた曲が何だったのかすら分かりません
尋ねることもできません
彼は「自分の気持ちとずばっと合った」と言っていました
彼の気持ちを知りたくて、ここに訪れました
しばらく散策させていただきます

●●●●●●●

管理人様、童子ファンの皆様、こんにちわ。
いつも楽しく、この掲示板を拝見しております。
私が、森田童子を知ったのは、TVドラマ「高校教師」
で使われているのをきいてからです。
当時30歳をすこし越えて、なかなか思いどうりに
ならない人生を思い知って、青春の終わりを実感
していた時期で、彼女の歌声は胸にせまりました。
「もう一度やりなおすなら どんな生き方があるだろうか」
という歌詞は、まさにわたしへの、言葉のように感じられました。
私は1960年の生まれです。
森田童子が活動していたころは高校生か大学生
でしたので、彼女の存在を知ってさえいれば、ライブや
コンサートに行っていたかもしれなかった世代なのですが
不運にも、そのころは、まったく知らずにいたのです。
また彼女がその歌の中で対象としている時代、
つまり彼女が高校生だったころと、その後の時代、
1960年代後半から1970年代前半、全共闘運動が
激しかったころと、その後の時代には、私はまだ小・中学生でした。
その二重の意味で、私は森田童子との同時代を
直接経験し損なったわけです。
私にとって、森田童子は心に深くくいこんでいる存在
であると同時に、伝説の彼方の存在でもあるのです。
そして、今となっては、彼女について分からなくなって
しまったことが、たくさんあるように思えます。
これほど重要なアーテイスト、詩人であるのにもかかわらず
彼女について、本一冊出ているわけでもなく、今では
CDすら手に入らなくなっているといいます。
このままでいいのかと、憤りに似た気持ちを持っていました。
その意味で、このホームページをはじめて下さった管理人
さんに、深く感謝しています。

分からなくなってしまった事、のひとつは、たとえばこの
伝言板のなかでも話題になっていました、ピラビタールという題名です。
最初にこの歌を聴いた時、なにかの薬のようだなと
思って、薬学辞典等を調べて、薬の種類については
わかったのです。
しかし疑問は残りました。
このピラビタールという言葉を、何故、どのような思いで彼女は
あの歌のタイトルにつけたのか?と言う事。
彼女と同じ時代を過ごした方々に、是非、お尋ねしたいの
です。あのころの若者たちの間では、ピラビタールという
言葉は、日常の中で、ごく一般的に使われていたのかどうか。
もしそうでなければ、それは森田童子個人と、直接まわりに
いた人々にとってのみ、意味のある言葉とも考えられます。
あれを聴いて、即座に意味のわかる人たちもいるのか、
なんて想像してしまいます。それはどんな深い意味を
持っていて、そこには、彼女の青春の、どんなドラマ
が、隠されているのか?

別の歌のなかで、「球根栽培の本を知ってますか?」
と、彼女はさりげなく歌っています。
最初、私はそれを知りませんでした。
あとで調べて分かるのですが、この言葉ひとつを
知っているかどうかで、この歌に対する理解の仕方は
まるで違ってしまう。
言葉のひとつひとつを、童子をより理解するために
しりたいなあ、と願います。
皆様の御教示を仰ぎたいしだいです。

P.S. 全国にこんなにたくさんの童子ファンが
    いることがわかって、本当にうれしいです。
     童子に直接会って、握手した方がいらっしゃる
    なんてオドロキです。

     やまもと たかし

●●●●●●● 

久しぶりに書きます。
伝言板の久保田さんの知りたい曲は「君と淋しい風になる」ではないでしょうか。
「高校教師」は私も見ましたがこの曲が使われていたかどうか覚えていません。
歌詞は「形のない愛は いつもぼくをすりぬけて いつかふたりは 淋しい風になる」
です。もしこの曲だとするとアルバム「a Boy」に入っています。
また調べてみます。違っていたらすみません。
ところで私も簡単なホームページを作りました。
森田童子さんの部屋もありますのでよって下さい。
 http://fish.miracle.ne.jp/douji/
隠れ童子ファン2児の駄目親父でした

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久保田浩(いとい)
itoi8782@mvj.biglobe.ne.jp

ある曲が知りたくてお願いに上がりました。
僕は30才の、森田童子はやはり「高校教師」で知りました。
ドラマにも惹かれたが、その中の挿入歌が まるで僕の昔から
好きなアリスの「終止符」とそっくりのメロディーで 確か
サビが「大切な物は、いつも形が無くて」という感じでした。
 それからレコード屋にあるCDベスト盤2枚買っても、古レコード
屋でたまたま見つけた2枚目というアルバムにも、1枚目のCDは
製造中止と言われるし、もうだめかなーとオモつてたら まさか
このような黄HPがあつたのです。
 「高校教師」のなかにあるはずが、ビデオ化されてるのをみたら
何故か曲がカットされてるし。
 誰か知ってる人がいたら タイトルだけでも教えてくれたら幸いです。
 
森田童子を好きな人は暗いとか言われるけど 僕はそうは思わない。別に
自分も暗いとは言われないし、明るいとも言われないけど。
 とにかく5年位気になっているのです。 よろしく。

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前略
 僕が森田童子を初めて知ったのは今から20年ちょっと前、高校2年の時でした。
その日、いつもの仲良し4人で徹夜で麻雀をしていたときのことです。何気なく聴い
ていたラジオの深夜放送から森田童子の「ぼくたちの失敗」が流れてきたのです。初
めて聴く曲に感動するなんてことはそれまで一度も経験したことがなかったのです
が、そのときは泣きそうなくらいに感動したのを覚えています。ただ、その時は曲名
とかアーチスト名を聞き漏らしていたので、「どんな人が歌っているのだろう」とい
ろいろ調べ当てて、やっとのとでシングルレコードを買いました。
 そして、今年の夏休みに里帰りしたとき、今では物置になっているかつての僕の部
屋に、捨てられずにそのときのレコードが残ってました。ジャケット写真とデータが
ないみたいですのでお送りします。森田童子研究所HPのお役に立てれば幸いです。
 中谷 晋  1999.08.15

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私は、37才になる男性です。
森田 童子のHP ありがとうございました。
現在の私には、遠く照れ恥ずかしく、でもけして忘れられない童子の世界が、
甦ります。
できる事ならば、童子の痕跡は、いつまでも・・・。
    cbr90530@pop21.odn.ne.jp 樋口

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はじめまして。こんにちは。このHPを最近知って喜んで
います。森田童子さんを知ったのは7年程前でそれまで
は全く知らず、お名前といくつかの曲を知ってもいつくらいに
どういう所で活動されていたのかなど、知りたかったけど、
まったく分かりませんでした。だからこのHPをみられて
よかった。またたくさん曲をだされていたのだと知ると、
古い曲を全てとても聴きたくてたまらなくなりました。CDでさえ、
もう手に入らない状態になっているんですね。
5年くらい前にCDの一つを借り、カセットで1,2年間くらいよく
聞いていました。だから、そのCD一つ分の曲しか知りません。
そしてそのカセットももうありません。でもずっと気になって
いました。本当に詳しくてよく分かるHPで感謝したい気持ち
です。どこかに保存してあって誰でも聞けるお店のような所は
ないかな・・と思います。
                    HN  麻実 

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はじめまして。偶然にも、インターネット上にて、貴研究所の存在を知り、
驚きかつ感激しています。わたしも森田童子の世界に、深く感動し、共感する者のひ
とりです。彼女の現在の生活をおびやかすなどという事は
毛頭考えませんが、彼女のかつての活動がどんなものだったのかについて、関心を
持っています。過去の新聞や雑誌の記事を集めたり、アナログレコードを求めて、中
古レコード店をまわったりしてきましたが、個人の能力に限界を感じているところで
す。童子について語りだすときりがないので、また改めてメールを送らせていただき
ます。童子ファンの未だ見ぬ友たちよ!よろしくお願いします。

やまもと たかし

yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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はじめてメールします。

大阪在住の哲学科専攻の大学生で、夜想花と申します。
もちろん、このハンドルネームは森田 童子さんの
アルバムタイトルを参考にさせてもらいました。

尾崎 豊、太宰 治が僕の思想の基盤を為していますが、
森田 童子さんから受けた影響ははかりしれません。
あの、優しくて、悲しい、澄んだ歌声が、
僕が今までに失ってきたものを思い起こさせて
つい涙がこぼれてしまいます。
リアルタイムで森田さんを知った者ではないので
あまり知った様なことは言えないのですが、
これほどまでに心を深くえぐる唄が、かつてあったでしょうか。
僕らの時代は、学生闘争の時代のような完全燃焼はなく
ただ時に流されて生きることしかできません。
はたして、僕らは生きているのでしょうか?
それとも、生かされているのでしょうか?
しかし、たとえ時代が僕らに対して不完全燃焼を要求しているとしても
僕は、どこまでもはやくこの命を駆け抜けたいと願っています。
鈴木 いづみの言葉に
「速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっている。
 細く長くか、太く短くか、いずれにせよ使い切れば死ぬ。
 どのくらいのはやさで生きるか?」
というのがあります。
森田 童子さんはあの時代の中で燃え尽きることが
できたのではないかと、僕は思っています。
そして、だからこそあんなにも疲れ切ってしまったのでは
ないかとも・・・
森田 童子さんの近況はわかりませんが、つつましくも
幸せに暮らしていることを願っています。

若輩者の僕がながながと、したり顔で書いてしまいましたが
森田 童子さんのことは友達にも話さないので
このページを見つけてつい興奮してしまいました。
(しかも、かなり堅苦しい文章になってしまいました。)
これからもこのホームページを応援していきます。
がんばって下さい。

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今、気を緩めたら涙がこぼれてしまいそうです。
彼女の事を、ネットで調べるなんて思い付きもしませんでした。
中学1年生の冬、ドラマ「高校教師」で心を打たれ、
以来彼女の歌声に取り付かれ、
そんな私も後12日で20歳になります。
ずっと知りたかった事を、少しだけ知る事が出来ました。
ありがとうございます。
今晩、彼女の歌声に包まれて眠ろうと思います。

あや

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はじめまして
森田童子のファンクラブについてお便りします。
「童子の会」と言う名前で名古屋の方が主催されていました。
入会金200円・会費月100円だったと思います。
会員証
ステッカー(黒と緑の2枚)
写真(コンサートが終わって童子が帰る所)
カレンダー(オリジナル)
Tシャツ(2種類)
会報(〓1〜9) 童子へのインタビュウ−
 アンケート
 レコードになっていない歌詞
 会員からの便り  
詳しい内容は又お知らせします。
チケットの半券、コンサートの宣伝ビラ、ポスター(9枚)
カセット、レコード等あるのですが...郵送でしか
送れない環境(ワープロ)なので、すみません。

温治

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森田童子研究所管理人様

大内政太と申します。

私が大学に入学した当時昭和57年、私が先輩から教えてもらい、今でも忘れられな
いものは
森田童子の「ア・ボーイ」と伊藤重夫「青紫」です。

管理人様はもしかするとその伊藤重夫さんですか?
(済みません。この伝言板ではもう当たり前のことかもしれませんが。)

貴重なHPをありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     
     fwba1496@mb.infoweb.ne.jp
http://village.infoweb.ne.jp/~ouchi/

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ありがとう。 今はそれだけしか言えません。
ありがとう
ありがとう
ありがとう


今夜は森田童子のレコードに針を落とし、酒を飲みます。
たぶん、今夜は眠れないでしょう。
ありがとう。 森田童子をありがとう。
               笠 真人 1961生

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久しぶりにメールします。

その昔、新聞の切り抜きを送ったものです。

この2年あまりでレコード,CD収集した結果、
レコード、CD資料にのっていないものや写真が
ないものを入手することが出来ました。
次回、画像として提供したいと思います。

「さよならぼくのともだち」のジャケット違いのシングルレコード
「たとえばぼくが死んだら」のシングルCD
「高校教師」のTVサントラ盤のCD
「森田童子の世界」販促用のLPレコード
「セルロイドの少女」シングルレコード

CDは、7枚共集めることができました。

群馬のあるところでは、中古ベスト盤のCDは
10枚以上、在庫しているところもありました。
あるところには、あるもんだなと感心いたしました。
でも、そんなに簡単に手放してほしくないですね。

堀池
horiike@bc.mbn.or.jp

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管理人です。
 メールソフト不調のため、受け取りは出来るのですが、こちらからはメールが出せません。連絡の必要な方…すいません。しばらく待ってください。コンピュータも不調です。しばらくしたら根本的な解決をはかります。

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 今、レンドルミン2錠とレキソタン2錠飲んだのですが・・・ 酒を足します
 深夜、このホームページを一人であるくのが唯一の癒しです。
 最後のコンサートのチラシ見る度に涙が出てしまいます
 国会で今、いろいろな法案がどんどん可決されていってしまい、非常な虚無感に襲われます
未だにデモはできるだけいくようにしていますが・・・
 森田童子がかつて各地に実践したように私も全国の空き地に黒テントをたてて巡業したいという夢はあきらめていません。森田童子の唄は癒しとともに強さを教えてくれたし、
自らを消すという行為はどんなアンダーシーンよりも私に孤独の中の前進と実践をおしえてもらいました
 この伝言板で中尾幸世さんの名前を見たときもうれしかったです 中尾さんの声を最初に聞いたのは寺山修司のラジオドラマでした
 そうそう、森田童子のアレンジャーのファンの方もいらっしゃいましたね 私もとても皆さんがすきで追いかけた時期があります 木森敏之さん、石川鷹彦さん・・・
 今皆さんはどうされているのでしょう
 でも こんな時代だからこそ かたりつがれていくのでしょうね アプリオリではなく秘密の暗号と傷を伴いながら

http://get.to/kiryukan 原田

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 こんにちは、月龍です。

 森田童子さんのCDを ずっと探していたのですが、
とうとう発見しました!!!!!!!!!!!!!

 今 広島パルコでは 中古CDフェスタみたいのを
やってまして(3F)、ふらっと そこに行って 
「無いだろうなー」って思いながら探したら、
ありました!!!!!!!!!!!!!!!!!
 オドロキです。
5枚も買いました。
ただ、同じのが2枚あるってことはありませんでした。
だから、わたしの見た限りでは あと1枚しか残ってません。
(同じ内容のがあったから 買わなかった。)
でも、26日に また 内容の入れ替えがあるみたいなので、
もう1回行ってみようと思います。
 収穫としては、
「ア ボーイ」
「マザー スカイ」
など(CDを部屋に置いてきてしまったので 今は具体的に書けない)、
いっぱいです。
あと 買えなかったのは
「夜想曲」とか「たとえば僕が死んだら」です。
わたしは 「たとえば僕が死んだら」が欲しかったんだけど、
これが入ってるのはありませんでした。
だから、26日にまた 行ってみる予定です。
 何か 資料として提供するべき情報があるでしょうか?
何か 欠けてる資料があって
それが わたしの買ったCDの中にあるのだったら
提供いたします。
管理人様。

 ではでは、広島の方は ぜひ!行ってみてください。
御連絡くだされば CDも お貸しします。
カセットのダビングは時間がないのでできないと思いますが…。

 それでは。

                  ta61@enjoy.ne.jp
                    月龍(ユエルン)

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今年37歳の男です。
 森田童子に対する色々な思いを皆さん持ってらして、興味深く読ませて
いただきました。
僕の(僕と書くのは何年ぶりだろう!)思い出を少し語らせて下さい。
僕が森田童子の歌を聴き始めたのは中学生(昭和52年頃だったような)
の頃でした。その当時は陽水・拓郎・ユーミン・チューリップ・甲斐バンド
など、一通り聞き込んでいました。特に陽水は神様だと今でも思っています。
そんな中、同級生の悦栄(よしたか、と読む)にこれ聞いてみ!と貸して
もらったテープが〜さよならぼくのともだち〜でした。
 ここからは皆さんと同じように静かに深くファンになっていきました。
当時、ラジオの深夜番組ではよく流れていたような記憶があります。食い入
るように耳を傾け、チャンスが有れば録音のボタンを押して、・・・。
もちろんレコードも心待ちにして買いに走っていました。
特に衝撃を受けた曲は、〜伝書鳩〜でしょうか、クッククッククーと白い
開襟シャツが今も当時のままの記憶で残っています。
 森田童子という存在は、僕の中では歌手の中のひとりという訳ではなく、
森田童子というジャンルなのです。好きな歌手は?と聞かれて、森田童子
をあげることもなければ、一番好きな曲は?と聞かれて、伝書鳩をあげる
こともありません。森田童子はやっぱり森田童子です。・・・と、訳のわ
からん文章になってきたのでこのくらいで止めます。
 最後に、森田童子を僕に引き合わせてくれた悦栄が3年前に他界してし
まいました。このホームページを読まなければ森田童子と彼と僕の思い出
も少し遠くなっていたような気がします。ホームページの作者の方に心か
ら感謝いたします。これからも頑張って下さい。
                          熊本の高士より

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霧生館結社球根栽培細胞の絵津といいます。出身地の群馬県に黒テントとともに森田童子がきたのは小学生の頃でした。夢中になったのは20歳をすぎてからです。アニメーターをやっていたころ職場の先輩がテープをもっていました。ワーナー盤を慌てて買い中古屋でカラージャケット盤を買い楽譜集を古本屋であさりました。森田童子をつかった映画は何本もありますがどれも違うなあと思いました。そこで独立してつくったアニメ映画が少女椿という作品です。原作は青林堂というところから出版された劇画でした。
コンサート同時上映されたつげ義春さんの幻灯劇画にならい地下幻灯劇画というサブタイトルをつけました。第3創造社にもいきました。しかし森田童子氏の了解はもらったのですがワーナーの対応が当時はずさんで(映画グッドバイがつくられる前の話です)けんかしてやめてしまいました。しかし私は毎日森田童子の曲をかけつづけています。
映画のほうはJAシーザーが担当し、当時の天井桟敷と森田童子の活動などを話を聞きました。そういうわけで少女椿の初演では「両国駅構内の」という語りから始めたのですが。本当に森田童子の歌がしみるのはもちろん自分が傷ついた時です。
2000年2月に下北沢鈴なりで再上映します。秘密の暗号をちりばめて。そう。もう都市には見世物アニメを上映できるテントをたてることもできない。それならばみずから消えるという方法があるだけ。ラストで場内に桜を降らすのですがそうもちろん春欄慢です
http://members.aol.com/jjj99jjj/kiryukan.html

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管理人の伊藤重夫です。

あの高名なオーディオ評論家の三浦 孝仁さんから、こうして連絡をいただき、驚いています。いつも雑誌の記事や特集の座談会読ませてもらっています。昨年の「Stereo Sound」の「ノーチラス801」の長文のレポートは、文章のなかから音を想像しようと4度、5度と読み返しました。と言っても原音再生派ではなく、森田童子の最初の2枚のレコードのレコード会社の音づくりが不満で、なんだかんだやっているうちに、高音も低音も切りまくったモノラルの装置になってしまいました。それではその2枚以外のレコードは聞けたものではないので(森田童子だけではなく、ロックやクラシックのレコードやCD)ウォークマンで聞いていました。いつかはと思いながら、今は雑誌だけ読んでいる読者です。

「森田童子プロモート・アルバム 森田童子の世界」について連絡いただいてありがとうございます。ここにくる方々も見たことのないLPだと思います。ぜひ紹介させてください。以下メールにて、連絡します。

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前略

貴殿の「森田童子」HPを時々閲覧しています。私は現在39歳。新宿区在住の
既婚男性。オーディオ専門誌に執筆しているライターです。学生時代に東京池袋
で「黒テント」を見たことがある、ファンです。音楽メディアがLPからCDに
移行してから彼女のCDは最初にワーナーパイオニアからリリースされた4枚を
購入した後、僕たちの失敗の2作品を手に入れたに過ぎません。ポリドール音源
がCD化されていたとは思いませんでした。現在では入手不可能なようで、非常
に残念です。

ところで、拙宅には「森田童子プロモート・アルバム 森田童子の世界」という
スペシャルDJコピー(非売品)LP 規格番号LS−110があります。貴殿
がホームページ上に資料レコードとして掲載したいとお考えでしたら、返却を前
提にお貸しいたします。これまで使われたことのないであろうモノクロームの写
真ジャケットです。HPのサイズではうまく顔が見えないかも知れません。

では。

三浦 孝仁

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自分で何気なく検索したらこんなに
凄いH.P.があるなんて感激しました。
自分が森田童子を知ったのは小学校
の時『タレント名鑑』のようなものに
期待の新人のような記事ででした。
歌を聞き始めたのは中学校の時
たどたどしい歌い方の彼女の世界に
どんどん引き込まれどっぷり浸かっていました。
ギターをやり始めたころには弾き語りの本を
2冊買ったものです。一冊は『はとばす』が表紙
の物。もう一つは真っ黒な表紙にシルバーの
シルエットの物です。
ラジオでは彼女は青森で生まれたか育ったような事を
言ってた記臆がします。そう言えば青森には『森田村』
と『外童子』『内童子』と言う名称が有り一人納得したものです。
そして親友の『死』がきっかけで歌を歌うようになったとか?
今は結婚して引退していると言う事を『高校教師』でヒットしている時
テレビで言ってました。
自分の宝物にしていて今は無くなってしまったポスター
白黒でよーく見るとシェパードが5匹廻りを囲んでいる
物がありました。そのポスターは顎の線がシャープでは無くふっくら
していたのが女性らしくて気に入ってました。
取り留めのない事を沢山書いてしまいました。
どうもすいません。
Nobu
I Love "You" e-Mail
gibson@infoaomori.ne.jp
From AOMORI Japan

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すいません「伝言版]の書類をm-deng1.htmlと書くところをm-deng.htm(lがぬけていた)として送ってしまい、また追加したのも何度もm-deng.htmと送っていたので、しばらく古い伝言版しか表示さらないというミスをしました。ここから上のNobuさん、三浦さん、絵津さん、高士さん大変ご迷惑をおかけしました。 (管理人です)

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 ええ歳こいたオッサンですが宜しいでしょうか? まさか森田童子で検索してこ
んな立派なHPがあるなんて感激です。
貧しかった学生時代、何のために自分は生きているんだろうと自問自答しつつ四畳半
一間の下宿で安酒をあおりながら聞いていたのを思い出します。残念ながら当時はラ
ジカセしか持っていなかったのでエアチェックした雑音だらけのテープしか持ってお
らず、何も資料提供できませんけれど森田童子研究所が益々充実されることを願って
やみません。  デビュー当時からのファンの方から高校教師で初めて聞いたという
方まで世代がどれぐらい離れているのか良く分かりませんが、森田童子で繋がってい
る事がナンカすごくいいなぁて思います。

鹿児島の変なオヤジ(大友裕子も好きです)  samuel.fujinaga@nifty.ne.jp

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ベストコレクションのCDは、今年(99年)になっても店頭で
見かけたことが有ります。
確かに田舎でないと見かけないかも・・・。

森田さんは今どうしているんでしょうね。
うちにはサインTシャツ、サイン色紙が各1枚
カセット1、LP5、CD4かな。

初めて聞きに行ったコンサートの金額いくらだったかな・・・
1,000円位だったかな。
ライブハウス飲み物付で500円ってのもあったと思うけど。
暗〜いとか言われながらもコンサートなんかに行ったものですが。

あの頃はお金が無かったけど時間があった。
今は、その時間が無い・・・・・。

GW中も電話で呼び出されるし、今日もまた。
ああまた愚痴になる。

《地方都市に勤務するY2Kで忙しい会社員》

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このHPからきてくれた同年代のおんなのこを
たずねて、神戸に行ってきました。

東海道線鈍行で9時間。かえりは、いろいろと
途中下車したりで、5泊6日の青春の旅になった。

はじめてあうともだちと、港町をあるいた。
彼女は、ギター弾きのねこのすすめでふるいふるいギターを買い、
メリケンパークで、童子のうたをいっしょに歌った。

「チャーリーブラウン」という名のバーをみつけて、
一緒にお酒をのんだ。「赤いダウンパーカーぼくのともだち」に
でてくる名前が気になったから。

神戸の中古レコード屋で、ポリドールのレコード
「ラストワルツ」「ボーイ」「グッドバイ」を買った。
「ラストワルツ」は、CDも買った。

童子はもう、あたらしいうたをうたうことはない。
だから、いままで出されたレコードやCDは取り寄せれば
きっと手にはいるんだろうけど、あえて、そうしない。
なぜなら、それらを手にいれてしまったら、もう後はないから。

ねこ
e-kimura@hoffman.cc.sophia.ac.jp
http://pweb.sophia.ac.jp/~e-kimura/

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初めまして、「菜の花あかり」と申します。34歳主婦です。
パソコン通信をしていた時、雑誌に小説を書いていた時、そして今も、ずっと童子さ
んのフアンで「菜の花あかり」と言うハンドルを使ってきました。よく人から「素敵
なハンドルね」と言われて嬉しくなったものです。
犬のしっぽさんが書き込まれていましたが、昭和56年でしたか、私の住む岡山に童
子さんがコンサート「500人劇場」でいらした当時、あかりは高校生でした。TVで
コンサートの告知が流れた時「美しき明日についても語れず、ただあなたとしばしこ
の時を」という「ラストワルツ」がバックに流れ、なにもない舞台の上に童子さんが
一人立ち、紙吹雪が天井から落ちてくるモノクロの映像。美しい女性の歌声なのに、
画像で見る童子さんはすらっと背が高くて男性のよう。それがあかりと童子さんとの
出会いでした。「行きたいっコンサートに行きたいっ」でも、当時のあかりのお小遣
いは、LP1枚買うのがやっと。コンサートはあきらめてLPを買いました。
その後ファンクラブにも入り、地元山陽放送のラジオに「ラストワルツ」をリクエス
トしてかけて頂いたり。童子さんが引退してことも知らぬまま、「高校教師」で注目
されてビックリしました。
岡山でのコンサートの前夜(厳密に言えば午前0時を越えていたので当日)山陽放送
ラジオに生出演。アナウンサーの方が「笑うと八重歯が可愛いですね」と言っていた
のが印象的でした。童子さんは「今、カブトムシを飼っています。部屋の中がカブト
ムシの匂いがします」と言っていました。

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng7.html

34. 中川隆[-11432] koaQ7Jey 2020年9月08日 18:13:49 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[43] 報告
●伝言板Vol.8
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng8.html


国立国会図書館は、二十歳以上の人しか利用できません。
念のため。

              やまもと たかし

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こんにちは

森田童子の7枚のCDは、国立国会図書館の
音楽映像資料室で、聴く事が可能です。
閲覧許可申請書に、調査目的、研究テーマを記入する事を
を求められますが、全くの個人的目的でかまわないとの
ことです。(この点、電話で確認しました。)
最後の手段?という気もしますが、ご参考まで。
一日に、LPとCDは3枚まで利用可、貸出しは不可。
くわしくは国立国会図書館のホームページを
ご覧下さい。
今後、より身近な図書館やレンタルビデオ店で
童子のCDをおいてあるところをさがして、
お知らせしたいと思います。

             やまもと たかし
          yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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「人によって、それはもちろん違うだろう。でも、たいていの
人には、青春が終わってしまったと、感じる瞬間があるんじゃ
ないだろうか?その時、人生はひとつの終着点にたどり着き、
後ろを振り返れば燃えるような風景が輝き、前を見ると漠たる
荒野が果てしなく続いているように思える、そんな瞬間が。。。
”男たちは変わったか?−全共闘世代の20年後”(鈴木泰子著/
第三書館/1992)という本がある。森田童子が”あの時代”と呼ぶ、
1970年前後の激しい日々に青春を過ごした10人の男たちの
その後の人生を、彼らと同世代のひとりの女性がインタビュー
している。彼らの世代の人々の生き方を、かいまみる事が
できる気がする。
”あの時代”の中で、彼らは連帯し、共に闘った。しかし時が
移り、熱い季節が終わった時、彼らはひとりひとりの個に立ち返り、
個としてその後の人生をひきうけた。それぞれの人生の、個で
あるが故の重さが、この本を読むと痛いほどよくわかる。
それからどう生きるのかが、本当にたいへんなんだ。
森田童子の歌が、普遍的価値を持っていることを十分に
承知した上で、それでも僕は思わざるを得ない。童子は
まず第一に、この世代のこのような人たちのために
歌ったのだと。彼女が歌う”友よ・・・”とは、このような人たち
のことなのだ、と。
彼女がかつて共に生き、共に闘ったけれど、時代の変化の
中で去っていった”友”たち、あまりにも純粋でひたむきで
あったからこそ傷ついて、それでもひとりで立ち上がって、
歩き始めるしかなかった”友”たちへの、限りなくやさしい
呼びかけなんだ、と。
そしてある時期がきて、彼女自身、歌う事ををやめて、
匿名性の彼方へと去っていった。”個”としての人生を引き受ける
ために。他の”友”たちみんながそうしたように。」

今日、散歩をしながら、上に書いたような事を考えていたら、
潔くて、こんなにもやさしい森田童子の人間としての偉大さ
に気がついて、胸が熱くなってきてしまった。

                    1999年10月14日

                     やまもと たかし
                    (東京都在住 39才)
           yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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douko様
リンクありがとうございます。数日うちにこちらもリンクします。
どうぞ、こちらのものは何でも使ってください。

>もちろん、森田童子のコーナーもあります。コンサートの感想だけなので
>資料とはいえませんが、
>全国のデータが集まればおもしろいカナと
>思ってます。(研究所でそんな構想はありませんか?)

前には、デッスコグラフィーと共に「コンサート・ライブの記録」というコーナーがありましたが、何も集まらなくて、少し前に(1年半ぐらい前かな)廃止しました。また近々はじめたいと考えています。どうゆう形にすればいいか、少し考えさせてください。
管理人

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廃盤になってしまった童子さんのCD、LPを探しています。
探しているのは「ア・ボーイ」と「東京カテドラル
聖マリア大聖堂録音盤」の2枚です。
できれば定価+送料で譲って下さる方、メールお待ちしています。
こんなメッセージですいません。
でもどうしても聴きたいのです。
そして救われたいのです。
皆さんよろしくお願いします。

  くまぐま holybear@xc4.so-net.ne.jp

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森田童子聴いてると、よくわかる。
いろんなことがまわりにあるけれども、結局あたしは、
ひとりなんだ。

あたしたちは「ひとり」だけど、だんだんとまわりとつながって
ゆけることを学ぶ。
こんな風にでも、同じように森田童子の世界に魅かれた同士が
つながってゆければいい。

あたしと同じような思いで森田童子を聴いているひとがいることを
知ることは、あたしの癒しにつながります。

でも、ひとりはときにはいいきもち。それに、
すごくは淋しくならないかなァ。
いそがしい夢があるから。

ねこ
e-kimura@hoffman.cc.sophia.ac.jp
http://pweb.sophia.ac.jp/~e-kimura

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ぼくの小さな海辺の観光地に もうすぐ冬が来ます。
君も一度気がむいたら たずねて下さい。 雅兄

      「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」より

HPを作りました。
http://www2.freeweb.ne.jp/~chi-ka/
もちろん、森田童子のコーナーもあります。
コンサートの感想だけなので
資料とはいえませんが、
全国のデータが集まればおもしろいカナと
思ってます。
(研究所でそんな構想はありませんか?)

douko@mutt.freemail.ne.jp

p.s リンク用のバナーが見当たらなかったので
コーナートップのバナーを使わせてもらいましたが、
よろしいでしょうか?

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管理人様
私の書き込みを最後として云々は、
コンピューターに不慣れな私の、単なる勘違い
でした。失礼しました。
童子ファンの方々の書き込みは、私にとって、
ますます感動的というか、エキサイテイングです。
著作権のことが話題になってますね。
難しい問題で、私には良く分からないのですが、
できる限り、管理人さんを応援したいと、
思っています。
非力な私に、何ができるか、、、
でもそういう気持ちでいます。

    やまもと たかし
yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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こんにちは。譲りたい童子さんのLPとCDがあるのですが、
ここではそういう伝言はやはりだめでしょうか。
私は十分聞きましたので、レコード屋さんではなく、欲しいと
思われる方にお譲りしたいのですが・・・。古い4枚のLPとCD1枚です。
値段は定価より高くすることはありません。
聞きたいけれどなかなかお店で見つからないという方へ。
   「グッド・バイ」
LP 「ア・ボーイ」
   「マザースカイ」
   「ラストワルツ」
CD 「狼少年」
です。「グッド・バイ」はジャケットが古びていて、「狼少年」は
パッケージに細かい傷が。後はきれいです。

budouya@mail.goo.ne.jp

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雪之丞さま
ありがとうございます。eastern youthに関することも…

なお、情報をいただいたので、考慮のすえ、森田童子の曲のカバーレコード、CDのディスコグラフィーをつくります。今までにもJOJO広重さんのカバーCDに関する情報が伝言板によせられていましたが、それを森田童子ディスコグラフィーに掲載するのは、カバーCDを出しているミュージシャンに失礼になるんじゃないかと悩んでいました。でもおおらかに考えようと(何という結論)ディスコグラフィーをつくります。

そんなわけで、森田童子の曲のカバーレコード、CDの情報をお持ちの方教えて下さい。
管理人

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伊藤様

CDの番号等です。
「高校教師」〜禁断の愛と知らずに〜
オリジナルサウンドトラック
ワーナーミュージックジャパン
WPCL-757 93.10.10発売 \2,900(税込)
アートディレクターと画家の表記はありません。

東宝映画高校教師主題歌
たとえば僕が死んだら
ワーナーミュージックジャパン
WPDL-4363 93.10.10発売 \1,000(税込)
アートディレクターの表記はありません。
画家は 風間完・画 とあります。

なお、あまり関係ありませんが、eastern youthというグループの
「口笛、夜更けに響く」というCDに「たとえば ぼくが死んだら」
というタイトルで「たとえば僕が死んだら」のカバー曲が収録され
ています。作詞作曲のクレジットがありませんが詞・曲は同じもの
です。
インディーズです。 坂本商店 SAKASHO-3 

    雪之丞
-------------------------
Minoru Mitsuhashi
mihashi@ca2.so-net.ne.jp
--------------------------

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こんなのここに載せていいのかなぁ・・・

ずいぶん長くなるけど、新しいメッセージも
少ないみたいだから。テープおこし、したの送ります。

A BOY の出た頃の FM小室等の音楽夜話より。

    ”僕が君の思い出になってあげよう”  のあとに

小室:( A BOY のジャケットについて)
    ・・・・森田童子さんらしき人がうつぶせに倒れている
わけですね。
    それで、右手の腕の付け根のあたりが破けていて、
そして、プラスチックみたいな肌がちょっと見えていて、
プラスティックが壊れて、中を見ると、コイルとか
トランジスターとか、ねじみたいなものがみえて
どうもロボットみたい・・・・

童子:ん・・・もうちょっとそれ正確に出てたら、もっと面白いん
   ですけどね。ちょっとそこを、もうちょっと細かければ・・・
良かったと思うんだけどね。

小室:・・・・・・・・・・ロボットが、こう、力尽きて倒れてるというのは、
かわいそうだね、すごく。

童子:まえ、つげ義春さんかなんかのマンガで、ねじ式っていうのも
ここがね、血管がこういう風につながって、そこをねじで、
とめてあるの。ああいうの 好きネ、とても、絵ではね。

小室:人間がね、突っ伏して倒れて、もうほとんど、死ぬだろうと、
いうような時に もちろんそれはそれで、悲しさとかいうのは、
感じるわけだけどさ、そこには、なんかこう、理由付け、
いい理由付けさえできればね、納得いきそうな感じがするじゃ
ないですか。でもロボットが死んでいることの悲しさ
っていうのはどう理屈つけても理屈のつけられない
悲しさっていうのがあるね。

童子:あの・・正月にね、狼に育てられた子っていうのを読んでたんで
すよね。山奥と言うかね、ほらあなで発見されて、牧師さんに育
てられるのかな。で、孤児院みたいなとこで育てられるのね。
で、夜中吠えたり、やっぱりするわけね、薄明かりの中で。
言葉を初めてしゃべろうとする時にね、人に話し掛けるんじゃ
ないわけね、立ってる木に話し掛けたりね、夕方のこう・・・
何にも無い部屋で、壁に向かってね、なんか独り言を
いってるわけ。だから、人間と話すというん じゃなくて、
まずその、狼に育てられた少女ね、
アマルっていう、10歳前くらいの少女がね、こう、話す事を
覚えるときに、物とこう、しゃべるわけね。ものすごい、こう
感動的っていうかね、それ読んで、正月すごい泣けてしょうが
なかったのね。だから、はじめ、そういうもんだったんだと思うよ。
なんかこう、人間と人間が、わかりあうってことではなくてね、
人と物がこうしゃべるとかね、そういうもんだったんだよね。

小室:いちばんはじめ、原点がね、そこかどうかっていうのは、僕も
もひとつわからないけどね、ただ、人間が、物と確実にかかわり
あっていたと思うよね、かつて・・・人間だけではなくって、木で
あったり、石であったり、星であったりさ、宇宙であったり。
そう言うものと確実に、かかわりあっていたろうし、確実に
コンタクトを とれていたんだと思うね。

童子:そう,割とそうういうのは、あれみたい。あの、書いてある人はね、
しゃべるのをこう見てて、まず、こう、人としゃべる自信が
無いからね、物としゃべってる風にとってるけども、そうではない
ような気がするのね。もっとその前のところなんじゃないかと思う
けれどね。

小室:いつから人間はそれを忘れてしまったのかね。
(2人ちょっと笑) 困ったもんですな。

         ”ぼくをみかけませんでしたか”が、かかる。

・・・初めて聞いたのが、Mother Sky ずっと、青い空に浮かんでた。
good bye の、「まぶしい夏」の太宰が入門で、本にはまった。
「淋しい雲」からサイモンとガーファンクルを聞いた。
A BOY で、もう、最後のアルバムかもしれない、と思った。
どっぷりつかって、ぐ〜んと、沈みこむ感じが とても心地よかった。
その後は、ちょっと変わった感じもしたけどとても好きな曲もあった。
でも、自主コンサートのスタッフとして、はじめて、森田童子と直接
かかわる事が出来るんだと、気分も最高潮だったその時、
会場で初めて聞いた“サナトリウム”
いきなり「くちづけ」と言うその言葉にショックをうけて・・・・
2年くらい聞けなくなってしまった。
ふふふ・・・若い頃の話。今では、よく口ずさむ 好きな歌。

チケット係だったので、「チケットが欲しい、車椅子で来るから」
という手紙をもらい、20年近くも、腎臓病で入院している女性の
お見舞いに行って、40歳くらいかな・・・「何度も死にたいと思った。
森田童子がささえてくれた。」と、笑顔で話すそんな人に
会ったことも、ショックだった。
でもほんとは、それは、思い出すには、つらいこと。
涙しても、心地よく浮遊したり、ず〜んと 地に沈んで沈んで、そして
突き抜けて,結局、宙にうかんでる。それが、わたしにとっての
森田童子の聞き方。
昔、友達に、「酒やたばこもせずに、よく森田童子が聞けるね」
とか言われたけど。
あの頃の、わたしには、「死ぬ」ということも なんだか、
魅力的な甘い感じがしたんです。
大島弓子でいえば、雛菊物語の・・・・「極上のワインを一瓶、
雪の上で飲み・・・眠る・・・凍死する・・・・(うっとり)」
というところでしょうか。大島弓子を誤解されちゃいけないけど。
ダリアの帯とか、草冠の姫とか、つるばらとか、アポストロフィー、
ト短調とか、バナナブレッドとか・・・・胸が苦しくなるくらい・・・・
いけない、いけない。ここは、童子のページだった。
最近出会った友達が、童子は、死に向かうし、大島弓子は、
生きるに向かう。相容れない。と言っていたけど。
わたしにとっては、そこだけじゃなくて、歌詞だけじゃなくって、
声とか、メロディーとか、今回の対談とか、書いたエッセイとか
からも感じられる、森田童子なんです。
大島弓子の作品にも1976年に狼少年を扱ったものがあって、
まったく別の描きかたをしてるけど、よくあるのが、風や、木と
話すとか、そういうところ、私の好きなところなんだけど。
2人の名前を同時に出すと変かな〜。
私が個人的に好きなだけなんだけど、昔から、結構
チェック入れられる所なんです。
2人とも、私の胸に響くだけの、ごく、個人的なものです。

ずいぶん長いこと、おじゃましました。
                  
                          おがた

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 初めまして、森田童子研究所をいつも拝見させていただいています。

 CDのうちシングルの東宝映画高校教師主題歌「たとえば ぼく
が死んだら」とTBS「高校教師〜禁断の愛と知らずに〜オリジナ
ルサウンドトラック」のジャケットのJPGファイルがあるのです
がシングル表、アルバムの表・曲名で1.2MBぐらいあります。
 そのまま送るか、あるいは指定していただければファイルサイズ
を小さくします。

 お返事いただければメールの添付ファイルで送ります。

                         雪之丞

                      (Minoru Mitsuhashi)

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>レコードのジャケットの画像はどのような方法でサンプリングしているのでしょうか。
>教えて下さい。

レコードのジャケットは紙をコートしていますので、接写用の照明セットがないと光ります。ここでは、蛍光灯下で何枚も撮ったデジカメ画像を合成しました。

>それから、余計なお世話ですが、インターネットで歌の歌詞やジャケットの画像を
>無許可で公開するのは著作権の問題に抵触すると思うのですが
>どうなっているのでしょうか。

 もちろん抵触しますよ。だだ著作権法の何条か忘れましたが、評論・批評に著作物を引用することは、認められています。ただこれも無原則に認められるのではなく、裁判では個々について合法、違法の判決を出しています。つまりこれぐらいならいいよという量ではなくて、内容が適切かにより判断し、個々に判決をだしているんです。たくさんの判例がありますから、簡単にいうことは出来ません。

 少し前、ある画家にたいする研究書に対する判決では、本に引用、掲載され図版が違法とする判決が出されました。これはどういう意味かというと、たとえば森田童子の評論、又は研究書のふりをして、歌詞集を出そうとしたらだめですよと言う判決です。  
 反対に最近では、「ゴーマニズム宣言」に対する批判書「脱・ゴーマニズム宣言」の50数点のマンガのコマの引用が認められる判決が出ました。またこれらは出版物にたいする判決で(最近著作権上の裁判がすごく多くなってきたような気がする)HPについての判決は知りません。

 歌詞は著作権者のの許可ではなく、音楽著作権協会に1点につき何円払うと決まっています。ただCD、単行本、雑誌については発行部数により何円と決まっていますが、音楽著作権協会のHPにはHPについては検討中と書いてあり、今、現実的には許可をとって払うということも出来ない状態です。ここでは、なくても意味がわかる「対談/森田童子をめぐって」では歌詞の引用をカットし、評論「森田童子、あるいは共犯幻想のこちらがわ」ではカットすると評論じたい成立しないのでそのままです。

 レコード、CDジャケットの画像についてですね。もちろん抵触しますよ。著作権だけではなく、肖像権やアートデレクター、デザイナー、写真家などたくさんの人がかかわっています。

 ここで違法か適法かでなく、これは、ディスコグラフィーだからジャケットの画像だけは許してね作戦です。また僕はディスコグラフィーや作品目録にたいして、権利者は使用禁止を言ってはならないという立場です。画像の使用サイズをふくめて、これは僕個人の責任。訴えられたら責任をとりましょう。Web上では最近これはひどいとか、ここまでやっちゃいけないよと思うものを多く見かけるようになりました。そろそろ著作権法で摘発がはじまるかなぁと、思ったりしています。

 博物館なら…、こんな基準もありません。レイアウト半分まで出来ていて、権利者や弁護士との数カ月の交渉の末、出版中止になったMookを知っています。

 個人的な体験ですが、僕は漫画と児童文学のさし絵で10数冊の本を出していますが、本の紹介や書評で新聞や雑誌に表紙が載っていますが、今まで一度も許可を下さいなんて連絡が来たことなんてありません。この前家の近くで展覧会に原画を出品していると新聞の記事で読んだけど、知らなかった。Webでも僕の作品目録をつくっている方がいて、表紙を掲載しているけど、抗議なんてしませんよ。
 一度、美術館で本の展示するのでと、許可してくださいの連絡がきました。展示のためにわざわざ許可をとるんだなーと思っていると、展覧会用のカタログに印刷・販売する目的もあったからでしょう。この時美術館で販売するため本の表紙をハガキに印刷したいと要請があり、数千枚分の印税をもらいました。僕なんかでもこんなことがあるので、権利は尊重しています。それはCDの発売だけではなく、CDジャケットを本にしたりすること、カメラマンが森田童子の写真で写真集をつくったりすること等、将来にわたって、それが出来なくならないよう注意しています。AppleがiMacに関して、「iMac小僧」は訴えなくて「e-one」を訴えた意味解りますか。

>どうなっているのでしょうか。

 一言で言えないので長くなりました。著作権をきびしく運用すれば、世の中から客観的な紹介や批評がなくなって、広告だけになってしまうでしょう。また著作権をゆるめれば、権利者は被害が大きくなります。最近の判例では権利者を守り、きびしい判決になりつつあります。(つづく)

管理人

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 未鏡(いまだかがみ)です。

 ホームページの著作権の話は、最近仲間内でも話題になりました。

 現役編集者の友人の話だと、文章が主体で写真などが従であれば引用として認めら
れるとのことです。
 また、ホームページ全体が一種の博物館のような作りであれば、引用ということに
できるだろうとのことでした。

 このホームページは、「森田童子資料館」的な要素が強いので問題ないのではない
でしょうか?

 もちろん、使用の許可を得ていれば全く問題ないのでしょうけれど。

 e-mail:ts4078@geocities.co.jp

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はじめまして。
突然ですが、大昔、森田童子を聞いていました。
最近また聞きたくなってホームページ検索していたらこのサイトに
ぶつかりました。
テレビドラマの主題歌に取り上げられなければ
たぶんそのまま、ず〜っと、殆ど誰も知らない存在で終わっていたと
思います。

ところで、
レコードのジャケットの画像はどのような方法でサンプリングしているのでしょうか。
教えて下さい。
デジカメでは、接写用の照明セットが必要そうだし、A4サイズのスキャナーでは
はみ出してしまうし、A3サイズのスキャナーは個人向けの値段ではないし...
いい方法があるのでしょうか。

それから、余計なお世話ですが、インターネットで歌の歌詞やジャケットの画像を
無許可で公開するのは著作権の問題に抵触すると思うのですが
どうなっているのでしょうか。

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(E-mail) okabe@po.net-ibaraki.ne.jp
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 はじめまして、未鏡(いまだかがみ)というものです。

 「森田童子」さんは、15年くらい前まだ学生だったころに友人に紹介されて聴きま
した。歌詞のテーマが重いのでずっしりとくる感じですよね。
 数年前、TVドラマのテーマ曲になっていて驚いたものでした。

 わたしも拙いながらホームページを作っています。やはり15年くらい前に描いた漫
画なども掲載していますので、興味のある方は覗いてみてください。
 http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8719/

 また立ち寄らせていただきます。それでは…

 e-mail:ts4078@geocities.co.jp

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 初めまして。こんにちは。
あるHP(ゆみさんのおっしゃっていた「クムイウタ
」の歌うたいさんのファンの)の掲示板で、童子さん
を好きな方で「クムイウタ」さんも好きな方をよく聞
くことがあるというようなことを書き込んだところ、
高校2年生のある方に
「引退してらしたんですか。今の時代にこそ必要な
方なのに残念ですね。」
との返答を頂き驚いて嬉しくなってしまいました。

私もその「クムイウタ」さんや大島弓子さんもファンで、
でも結びつかないと思われる気がして童子さんが
好きというのとは、一緒に言ったことなかったんです
が、伝言板をみていたところおられたので、驚きました。

HN 雪穂

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みなさま

童子のこと好きなみなさん。童子の歌をバックに使った
短編ラジオドラマが、かれこれ15年くらい前にありました。
ご存知の方はいらっしゃるかな?
「カフェテラスのふたり」という、今はもうなくなってしまった
NHK−FMの番組です。私は、童子を知ってまもなくその
ドラマに出会い、選曲をしたディレクターとも知り合いに
なることができました。彼は、いまでも私のたいせつな
ともだちです。

聴いてみたいとお思いのすべての方に聴かせてあげたいけど、
どうすればよいやら・・・。へんなメールですみません。
はげしい雨の夜に。

ラジオドラマファンのKより。

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やまもとさま
>ここ一月ほど、私の書き込みを最後として
>新しい書き込みがありません。
>どうしたのかな?なにかまずいこと、書いて
>しまったのかな?と、少々心配です。

いえいえ、そんなことはないと思います。

おがた みえさま
>私の基本は森田童子と大島弓子から出来て

森田童子と大島弓子で体が出来ていたら、風が吹いたらこわれてしまいそう…
いえ否定的に言ってるのではありません。共感しています。
僕はニューヨークに行ったとき、エンパイヤ・ステート・ビルの展望台のもう少し上にに登ったところにも小さな展望台があり、そこには誰もいなかったので、マンハッタンを見ながら<ニューヨークからの手紙>を歌いました。雨が降っていました(それだけです)

>童子と丸尾末広の繋がりについて知っている方教えてください。

この伝言板の下の方にある霧生館結社球根栽培細胞の絵津さん
http://members.aol.com/jjj99jjj/kiryukan.html
この方なら、童子と丸尾末広さん、両方を知っておられると思います。
ホームページに行って、メールで聞いてみてください。また絵津さんが解らなかったら丸尾末広さんに聞いてもらえるかも?

管理人

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管理人様
残暑厳しきおり、お元気でお過ごしでしょうか。
いつも、掲示板を楽しみに拝見しておりますが、
ここ一月ほど、私の書き込みを最後として
新しい書き込みがありません。
どうしたのかな?なにかまずいこと、書いて
しまったのかな?と、少々心配です。

    やまもと たかし
yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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こんにちは。はじめまして。

私が、好きな歌うたいさんの好きな歌手のところに、森田童子、
と記されていました。彼女がまだ全くの無名時代の雑誌記事の
中でのこと、彼女は、私と同い年22歳です。(クムイウタという
アルバムをだした人です)。
けれど、その雑誌記事は、彼女が18歳の頃のものです、タブン。
その欄に’森田童子’と記されていたことが、頭の片隅に残って
いたようで、地元の中古店で、「高校教師」放送後に発売された
アルバムを最近見かけ、思わず購入してしまいました。
ドラマ『高校教師』の放送は、今から何年ぐらい前だったので
しょうか・・・。記憶が定かでありません。

森田童子さんの歌を全部聴きたいです。いまは、まだその頃に
だされたベスト2枚しか持っておりません。
皆さんの書き込みを拝見していると、入手困難なCDが多そうで
すね。地道に探そうと思います。
森田童子さんの歌は、私の中にすーっと入ってきました。
夜、布団に入りながら聴くのがいちばん心地よいです。

ゆみ ’99.9.13

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こんばんは。
本日はメールをいただき,またリンクしていただきありがとうございます。
いつも,森田童子研究所の伝言板を読んでは,
「君とぼくは,同じ線で結ばれた,友だちという,やさしい放浪者だった。
 君と二人して,夜明けの町の荒々しい空気に酔いしれて,二人はさまよった。
 いつか,君とぼくは,同じ線で結ばれた,友だちという,やさしい放浪者だった
。」と言う童子の言葉を思い出します。
この,伝言板に集まってくる人たちが,実際には出会ったことはないにしても,
同じ線で結ばれた,優しい放浪者のような気がするのです。
そして,どうか,「さよなら,ぼくの友だち」と言わないで欲しいと,祈ってしまう
のです。

犬のしっぽ:papillon@mx1.tiki.ne.jp
しっぽのさんぽ:http://ww1.tiki.ne.jp/~papillon/top.htm

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伝言板の5や6を遡って読んでみて、しみじみとしています。
「君は変わっちゃったネ」とか、とても懐かしい曲を思い出して
つい口ずさみました。そういえば何故か、「たんごの節句」を
口ずさむことがあります。なぜだろう・・・
昨日、今日この伝言板を読みながら、20年くらい前のことを、
いろいろと思い出しています。高3の文化祭で、森田童子をかけよう
ということになって、長崎の高校だったんですが、担任は、学生時代を
早稲田で過ごした人でした。今はもう亡くなってしまいましたが、
森田童子と同じ年 くらいの方で、私の持っていた、童子のギター本を
パラパラとめくりながら、「部屋を真っ暗にして、水割りを飲みながら
時々聞く。」と、ぽつり、と
言ったことが印象的でした。それだけで、黙っていました。そのとき、
<森田童子と、同じ時代を過ごしたひと>という、 高校生の私たちには
どうしてもなれない、距離と憧れを感じました。
そのころ、FMの「小室等の音楽夜話」で、森田童子がゲストに出ることを
知り、私の地域では電波が入らなかったので、深夜 屋根に登り、
ラジカセに電池をいれ、つま先立ちになり、両手を上に上げて、
録音に成功しました。
はじめて聞く森田童子の話す声にそれはもう、感動しました。
狼に育てられた少女の話をしていました。
テープが今でもあるのですが、テープスピードの調整ができるもので
あれば聞けると思います。
大学生になって、寮に入り、寮の屋上で、またラジカセを持っていって、
夕焼けの街に向かって、ボリュームを上げ、<ニューヨークからの手紙>
を聞いていたら、ほかの寮生がちらほらとやって来て、みんな黙って
ひたっていました。友達にとっても印象的な思い出のひとつらしいです。

今帰ってきただんなさんと話していたら、今夜、喫茶店の有線放送で
「太宰の本を借りて返せなかったとかいう歌が流れていた。」と言うので、
「それは森田童子だ。こうでしょ♪〜」と、うたって聞かせました。
9月10日の夜、福岡の有線にリクエストしたひと、見てますか?
インターネット初心者ですが、このページにはまってしまいました。
また、おじゃまします。
              おがた

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感動!!

おがた みえさんのメッセージで

 女の子向けのファッション雑誌に

とありましたが、当時その雑誌を探せなくて
何か私が勘違いしたのだとばっかり思ってました。
けっこう長い間覚えていて探したのですが・・・。
という雑誌に童子が、という思いもあったけど
どこかの記事で読んだ記憶があったのです。
ほとんど忘れかけていた事ですが、
他の記事も含めて、ぜひ読んでみたいものです!
この研究所で公開して頂けることを
楽しみにしてます。
よろしくお願いします。

          douko
globekan@geocities.co.jp

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童子ファンの皆様、はじめまして。
森田童子のことは、高一の時、20数年前からのファンです。   
この年になっても私の基本は森田童子と大島弓子から出来ているといえます。森田童
子のうた、詩と曲は、私にとっては、決して暗いものではなく、
透明な感じ、空に浮遊する感じでした。何より落ち着く やさしい世界でした。はじ
めて聞いたときから5年間くらいは、毎日、部屋にいる限り聞きつづけていました。
はまってしまったためのエピソードもたくさんあります。そのころは、童子を好きな
人も周りにいて、いろいろ話をする機会もあったけれど、それぞれのとり方があるの
で“童子を聞くと死にたくならない?”と友達に聞かれて、“わたしにとっては、透
明な感じ、うっとりする感じだ” と答えると、“わかってないのね”みたいに言わ
れて、がっかりした記憶があります。大人になって、時々 テレビの思いがけないと
ころで童子の曲が使われたりしたときは、ドキドキすると同時に テレビの制作側に
 あのころのファンがいるんだなぁ と、ちょっと嬉しく思いました。高校教師の予
告で 童子の曲がかかったときは、鳥肌が立ちました。ドラマもヒットして、音楽番
組で取り上げられるようになると また、暗い歌とか言われたりしてちょっと不満
だったりしました。この伝言板を見て、いろんなファンがいて、いろんな思いがある
だろうけど、わたしがはまったときみたいに、いろいろ集めてる人もいるみたいだか
らその頃の、 雑誌とかの情報をおしらせします。インターネットを始めたばかり
で、この資料を、どうしたら皆さんに見せてあげられるのか分からないけど・・・

・21年くらい前の  女の子向けのファッション雑誌に
 童子・銀次・渡のリレー随筆  文・森田童子 絵・鈴木康司  
                (今、絵本作家のスズキコージさんです)
 というのがあります。何回の連載か分かりませんが、
「つれづれなるままにかく語りき」と言うタイトルで、私は、4号分もってます。

・デビュー当時の<ユリイカ>の記事
 シンガーソングライターの青い影@山羊座の鎮魂歌 森田童子の世界

・マンガ宝島  昭和57年3月 
  丸尾末広の「カリガリ博士復活」と言う作品の表紙の名前の上に
   <森田童子に・・・ >というそれだけのメッセージがあります。
  その意味が知りたくて、福岡で自主コンサートがあったとき、話せる機会
があったので、丸尾末広って知ってますか?と聞いたらその時は、      
知らないと言う答えで 、東京に帰ってから聞いてみましょうということで
した 。その後に出たアルバムが、ねじ式レコードF<狼少年 >で
歌詞カードのかわりに 丸尾末広の幻想絵巻 というものがついたアル
バムでした。童子と丸尾末広の繋がりについて知っている方教えてください。
狼少年が出る前の 創刊準備号 NO.0 と言う新聞もあります。
丸尾末広の単行本の「カリガリ〜」には、この 森田童子に・・と言うのは 
消されています。
  ずいぶん長くなったので、今日は、このくらいにしておきます。

                   おがた みえ 1999.9.10

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng8.html

35. 中川隆[-11431] koaQ7Jey 2020年9月08日 18:15:00 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[44] 報告
●伝言板Vol.9
●上が新しいという形です。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng9.html


浅井さま

廃盤の森田童子CDについてはこのページの下の方に、雪穂さんと隠れ童子ファン2児の駄目親父さんの紹介があります。jbookというネットの本、CD、ビデオやさんです。僕も行ってみました、森田童子はずらっとありました。ただ駄目親父さんも言ってるように、僕も注文したわけではないので、本当に手に入るかわかりません。
念のためもう一度URL

http://www.jbook.co.jp/index.asp

(僕は森田童子は持っているので、別のですが、無理だろうと思っていたバンドの9年前のビデオが検索してみたら、jbookにあったので驚いています。新品なのか中古なのかはわかりません。注文しようとしましたが、ブラウザが古いせいかjavaエラーで、はねられてしまいました。ネットスケープの3,0と4,0でした。近時か新しいブラウザを入れて注文してみます)
管理人

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はじめてメールいたします。浅井と申します。
早速、用件ですが、ある人の紹介で、最近、初めて森田童子を知りました。
そこで、CDを買いたいと思ったのですが、廃盤になっているようで、手に入りません。
欲しいのは東京カテドラルでのライブ盤です。お手数ですが、もし入手の方法をご存知でしたらお教えください。宜しくお願いします。
森田のうたは、あの激動の時代のレクイエムのように聞こえます。

ac-asai@tokyo.email.ne.jp

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douko様、おがた様

ありがとうございます。

            たかし

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はじめまして、やまもと たかしさま。
こちらこそ,いつも興味深く拝見させて頂いてます。
お問い合わせの件なんですが、
切り抜きを友達に貰ったものなので、はっきりした号数は
わかりません。4号分しかないので、その前後が、
あったのかどうかも・・・(mc sisterとは、メンズクラブの妹雑誌の
ことです。)1979年前後のものだと思います。
ユリイカは、寮にはいったとき、本棚に積んであった、
古い雑誌を読んでいて見つけたもので,
そのページだけ切り取ったのですが、
内容から、デビューしてすぐの頃のだと思います。
20年以上も前のものなので、ユリイカは、まだ薄っぺらい
雑誌だったように、記憶しています。
そして、私は,持ってはいないのですが、
34年生まれの兄が読んでいた高三コース、もしくは、蛍雪時代
(童子のデビューを考えると、高二コースとかかもしれない・・・)
で、“フォーク界(ニューミュージック界?)期待の新人2人”
ということで、中島みゆきと比較して、大きく扱われていたことも覚えています。
どっちが売れるかみたいに・・・。

伝言板は、ほとんど毎日みています。
また,楽しみにしていますね。

                         おがた

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たかしさん、いつも励ましのメールをありがとう。

さっそくですが、今日「森田童子研究所」の伝言板に
おがたさんあてのメッセージを見ました。

実はおがたさんから、私が長年「つれづれなるままにかく語りき」を
読みたかったと伝言板にメッセージを残したものを見て、
資料をちょっと前に貸して頂いています。

「ユリイカ」の記事も「つれづれなるままにかく語りき」も
それぞれページを切り取ってあって何年の何号かということは
わかりません。

mc Sisterの「つれづれなるままにかく語りき」は
表題に回数などもなく、サブタイトルだけで
  サブタイトルなし
  「夜汽車にて」
  「ぼくたちの失敗」
  「僕の回想を少し・・・・・・」

の4号分だけです。

とりあえず個人的にコピーしたあと、
おがたさんからはHPなどを通して
できるだけ多くの方へ伝えてほしいとのことなので
著作権などのこともあるので
どうしたらいいのか現在、思案中です。
研究所の管理人さんにも相談してみようと思っています。

                       douko

URL http://www2.freeweb.ne.jp/~chi-ka/
Email douko@mutt.freemail.ne.jp

●●●●●●●

おがた 様

おがた様の投稿、いつもとても興味深く拝見しております。
しばらくまえの投稿の中で、

   mc Sister「つれずれなるままにかく語りき」と、
   
   <ユリイカ>
     シンガーソングライターの青い影
     1、山羊座の鎮魂歌 森田童子の世界

を、紹介されていましたね。
それぞれの、具体的な号数をお教えいただけないでしょうか?
是非、読んでみたいのです。
よろしくお願いいたしします。

              やまもと たかし
      yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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今日、国会図書館の音楽・映像資料室に行ったのですが、
そこでは、森田童子関係の映像は発見できませんでした。
映像資料は思ったより貧弱な品揃えで、少々がっかり
しました。童子のCDはひととおり、ありました。
国会図書館はわりと気さくなところですね。
女性館員さんが親切でした。

        たかし

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伝言板Vol.1に
horiikeさんが
>ライブのフィルムをレコード会社にあるらしいのですが、

と書かれてあるので、森田童子のライブフィルムあるんだろうと想像しています。でも見た人がいないので上映・放映、販売されなかったんでしょう。テレビの「高校教師」での森田童子再ブームの時にCD再発売と一緒に発売されても良かったんじゃないか?と考えていますが、音楽番組で「ぼくたちの失敗」が上位ランキングされれたとき何度かTVを見ていましたが一度もライブの映像やジャケット写真以外の写真を見たことが無いのが不思議で、はっきりとは知らないですがTVは規則で一定時間以上静止画を流すことが出来ないはずなので(時々やむおえず静止画の時…これは故障ではありませんとテロップが流れます)「これは森田童子が許可していないんだろうなーと」想像しました。考えすぎかもしれません。もしTVや新聞雑誌でライブの映像やジャケット写真以外の写真を見た方がいたら、教えてください。
でも待っていればいつかは…と思っています。またテレビ東京で放映された森田童子のドキュメンタリー番組もあるので、いつか見ることが出来るかもと思っています。

管理人

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douko様
私も、ライブフィルム見たいです。
昔、黒テントで童子のコンサートがあった時に、
いくつか ビデオが回っていました。
どこにあるんだろ。
どうしたら見れるんだろう。
フィルムコンサートでもあれば、東京まですぐ飛んでいきます。
                         
                               おがた

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森田童子ファン必見!!

NHK人間講座「漂泊の俳人たち」
教育テレビ 月曜日23:00〜23:30
再放送   火曜日15:30〜16:00

第11回 尾崎放哉 12月13日(月)放送  
             12月14日(火)再放送
 
                       たかし

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私が行った森田童子さんのコンサートのことを
HPで読んでくれた人が
「出会ったことのなかった者たちにとっては貴重な証言」
というメールを頂き、とても嬉しいと同時に
自分1人だけの思い出として、とっておくよりも
公開することの責任を感じました。
当時の資料などは実家に残したままで
記憶だけが頼りですが、
以外にも鮮明に覚えているものです。

ところで、森田童子さんのライブ・フィルムなどは
残っていないのでしょうか?
フィルム・コンサートでも出来たらいいナ、と
最近、HPを通して思いました。
ライブ盤はありますが、やはり
映像で彼女を誰しも観てみたいと思うのでは・・・。

                       douko

URL http://www2.freeweb.ne.jp/~chi-ka/
Email douko@mutt.freemail.ne.jp

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 玉川上水を、森田童子は歩いたのだろうか?
「まぶしい夏」の、”夏には窓に竹の葉がゆれて”という詩に、
玉川上水と竹をイメージとして結びつける事ができなかった
僕は、彼女が実際には玉川上水を知らずに、太宰からの
連想で、それを書いたのかと考えた。
武蔵野を流れる玉川上水に、広葉樹の雑木林の風景ばかり
を、思い描いていたからだ。
 先日、玉川上水沿いの道(杉並の富士見が丘から三鷹まで)
を、実際に歩いてみて、知らないのは僕のほうだと分かった。
 何ヶ所かに、確かに竹林があったのだ。
 それだけの事で、何かを証明できるとは思わない。けれども
僕の中では、この歌の情景に、作り物ではないリアリテイを
感じる結果になった。
 後に森田童子として歌い始める若い女性が、アパートの一室
で、自殺を図って睡眠薬を飲んだ友人、あるいは恋人を看病
している。
 そんな時、ひとは何を考えているだろうか。
 実際的な事は何も考えられず、ただ呆然と思考停止の状態で
時が過ぎて行くだけではないか。そして後になって思い出すのは、
窓の外に揺れていた、竹の葉ばかりだったりする。
 そんなものではないだろうか。

                         たかし

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童子とともに生きた君に
童子の歌を直に聴く事のできた君
テレビで童子に出会った君に
友達にもらったカセットテープで
童子を知った君
ラジオで偶然童子を聴いた君に
そしていつか童子に出会うだろう未来の君よ
童子は君のものだ
童子が僕のものであるように
幾千の孤独な夜のしじまに
童子の歌う言葉に
静かな慰めを受けとめる
震える心を
君が持つかぎり

                    たかし

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とっても、うれしいです。
てる童子さんのお話には、私が憧れていたものが、たくさん詰まっている。
童子をライブハウスで見たかった。ライブハウス行きまくりなんて・・・ぅぅ。
天井桟敷も見たかった。グランギニョルも。ぁぁ・・・
ライブハウスの話もっと聞かせてください。疑似体験させてください。
このホームページに出会ってから、昔 大好きだったいろいろなものに
再会しています。
管理人様、 私からも本当にありがとうございま〜す。
    
                                 おがた

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 未鏡(いまだかがみ)です。

 私の森田童子さんとの出会いは、13年くらい前でちょうど大学生のころでした。
 友人が気に入っていて聴かせて頂いたのですが、心が休まるようなそんな音楽だと
思いました。共感できるということでしょうか?

 友人の方は、「死にたくなる」と言っていましたので、受け取り方は人それぞれで
すね。

 現在は、音源が故郷のほうにありますので聴くことができませんが、ドラマのテー
マ曲として流れていたのには驚きました。
 でも、こういう使い方もいいのでは?と思って聴いていました。

 この冬には帰省の予定がありますので、聴き直してみようかと思います。

 e-mail:ts4078@geocities.co.jp
 HP:http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8719/

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こんばんは。
ご無沙汰いたしております。
てる童子さんがおっしゃっていた,
>ドラマ「高校教師」で流行った時、複雑な気持ちになったオールドファンは
>私だけではないはずです。
>なんか、大事なものを盗られたような気がして・・。
よく分かります。私も同じ感情を持ちました。
私はドラマは好きではないのでほとんど見ないのですが,
「高校教師」だけは,童子の曲がどの様な形で使われるのか気になって毎週見てました。
(初回から見ていたわけではなく,たまたまチャンネルを変えていたときに,
童子の曲がTVから流れてきたときには,本当にビックリしました。)
最初は怒りの感情を持って見ていました。
なぜ,今になって森田童子の曲を使うのだろうと思っていました。
けれども,中盤あたりから,なんとなく素直に見られるようになりました。
未だに,宝物が一般大衆化してしまったような気持ちは拭い切れませんが,
「高校教師」を通して森田童子を知った友達と,
インターネットで童子の話をすることができたことも事実で,
そのような意味では,「高校教師」と野島伸司氏に感謝するところであります。
これからも,同じ線で結ばれたやさしい放浪者がネットを通して繋がれることを楽しみにしています。

犬のしっぽ:papillon@mx1.tiki.ne.jp
HP(しっぽのさんぽ):http://ww1.tiki.ne.jp/~papillon/top.htm

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はじめまして。
僕は、年齢的にはあなたとほぼ同世代ですが、童子との
出会いは、「高校教師」のときのブームの時です。
童子のコンサートやライブを経験した人達をコンサート・ライブ世代、
僕のようなテレビドラマで知った人々をCD世代と、僕は勝手に
呼んでます。年齢は、この点では関係有りません。
CD世代としては、童子について知りたいことがたくさんあります。
いろいろ教えて下さいね。よろしくお願いします。
僕も、このHPに出会った時、狂喜乱舞いたしましたよ。

                      たかし
       yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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はじめまして。
HN「てる童子」とさせて頂きます。
いや〜・・あったんですね。こういうHP・・びっくりしました。
はっきりいって感動してます。森田童子さんは、私の青春には
絶対欠かせない人ですもの。私は今37才ですが、上京して一番
最初にやったことは 彼女のライブを見ることでした。
文芸座、ロフト、黒テント、前進座・・・行きまくりでした。
初めて聞いたのは「聖カテドラル・・」のLP。高校生の時でした。
「地平線」を聞いた時の衝撃は今でも忘れません。森田童子ワールド
にはまって はや20年・・。もちろん今でも聞いてますよ。
1度だけ握手したことあるんですけど、非常にゴッツい手(失礼)
だったのが印象的でした。LPは「夜想曲」以外は全部持ってます。
「ラスト・ワルツ」のLPには「美しき明日についても語れず
ただあなたと アン・ドウ・トロワ 森田童子」とサインを頂きました。
ドラマ「高校教師」で流行った時、複雑な気持ちになったオールドファンは私だけではないはずです。なんか、大事なものを盗られたような
気がして・・。まぁ、野島しんじさん(でしたっけ?)には感謝
してますけどね。彼女・・もう唄わないんですかね・・。
私は今、舞台役者をやってるんですけど、森田童子さんはもちろん、
寺山修二さんや高取英さん、丸尾末広さん、花輪和一さん、つげ義春さんなんか ほんと好きでした。「聖ミカエラ学園・・」見ましたね〜。
「東京グランギニョル」の あめやさん、島田久作さん、好きでした〜。あ〜〜〜、もっと早くこのHP知りたかったな〜。森田童子を、一緒に
語ってくれる人が欲しいぃ〜〜〜。誰か もしよかったらメールくださ〜い。最後にこのHPを作ってくれた管理人さんに感謝です。
ありがとう。

てる童子 fujieda@mint.ocn.ne.jp

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ラジオドラマファンのK様
 
 童子の歌をバックに使った「カフェテラスのふたり」を
 お持ちだそうですが、是非お聞かせ願いたいのですが・・・。
 
 連絡をいただければ嬉しいです。
 お待ちしています。

  ラジオドラマファンのMより
 
 ks419ya64s@aries.bekkoame.ne.jp

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ところで、CDの歌詞カードに

       写真・資料提供:海底劇場

と、ありますが、海底劇場って何なんでしょう?

                      たかし

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森田童子いいなって思って、ずいぶん聴いた。
言葉の選び方、歌い方、ギターを抱える姿などそれぞれが
ぜんぶ尊くって、
「このようなひとが世の中に存在してくれたこと、
こころにじんとしみいるような作品を残してくれたこと、
そんなことがうれしい」
としみじみ思ってます。
彼女の語る「おとこのひと同士の友情とか愛情」
とかいうものの本質がすこしわかったような気がしてます。
同性の彼女の存在がうれしくて、せつなくて、
いとおしいような気持ちです。

Etsuko
e-mail e-kimura@hoffman.cc.sophia.ac.jp
URL http://pweb.sophia.ac.jp/~e-kimura/douji.html

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兵庫県神戸市に住む26才の男です。
僕が森田童子さんを聴き始めたのは、ドラマの主題歌だった「僕たちの失
敗」がきっかけです。それから、アルバムをそろえました。好きな歌がた
くさんあります。でもやっぱり、ライブに行きたかったな。もっと早く生
まれてきたかったです。小説でしか知らないあの時代を生きたかったです。

こんな僕に、森田さんのこといろいろ教えてください!

tomoro28@webtv.ne.jp

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雪之丞様

イースタンユースによる「たとえば ぼくが死んだら」、
聴きました。
童子のこの歌の、思いがけない一面、気がつかなかった
パワーを知る事ができて、新鮮でした。
イースタンユースというバンドも、はじめて知りました。
すごいバンドですね。僕はハマリました。
童子の名曲を、いったん自らのものとして消化して、
その上でこの歌の核心をはずすことなく、見事に
表現しています。
若く、才能ある表現者が、童子をこのように理解して
とりあげていることが、僕はうれしいです。
貴重な情報、ありがとうございました。

                     たかし

         yamamoto-takashi@mth.biglobe.ne.jp

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以前1度だけ書き込みさせていただいた者です。
1週間ほど前、急に無性に聴きたくなって、
「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」を引っ張り出しました。
あの中にあるMCが聴きたくなったんです。
彼女が語るいくつかのノンフィクション。
最後に語りかける「さよならぼくのともだち」。
挫折の真っ最中だった浪人時代に繰り返し聴いたことを想い出します。
ちょうど70年安保の次の時代でした。
いわゆる三無主義の時代・・・
それだけに何故か心に響いたのでした。
若者なりに一生懸命もがいている時代だったのかもしれません。

                     Akii

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久しぶりに此処へやってきた。
森田童子を通して色々な人と話が出来た。
心に傷を負っている人やそうで無い人も
森田童子の歌にある鋭いナイフで心の
中にある何かをえぐり出しながら
そしてみんな温かく優しい友達だ。
--
Nobu
gibson@infoaomori.ne.jp
http://www5.freeweb.ne.jp/art/bogimas1
From AOMORI. Japan
See You Later.

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こんなページがあって、よかった!あんまり、メジャーなアーチーティストではないけど、当時、新しい風を、日本の音楽シーンに送り込んだ人だと思います!森田童子は!
このページを見て、とても懐かしく思います!

たしか、「ア・ボーイ」や、「聖カテドラル・・・」を出したころ、よく、FM系の音楽番組に出ていたと思います。FMTokyoの、ライブ番組のテープが、家に残っています。

伝言板の「おがた」さんが、引用していたラジオ番組も、当時聞いていた記憶があります。(もしかしたら、どこかにテープがあるかも・・・)

森田童子の、LPジャケットは、正式版(?)と、再販版があるはずです!
再販版は、ジャケットが、モノクロで、定価が、1500円(1800円?)と、安くなっていたと思います。15・6年前、メディアが、LPからCDに移行する頃出されていました。ファーストアルバムから、シリーズで、一通り出ていたはずです。(こっちの方が、レアかも?)

資料集めは、大変ですが、必ず誰か貴重なものをもっています。当時、「森田童子が好き!」と、声に出す人は、少なかったかもしれないけど、好きだった人は、たくさんいたはずなんです。レコード屋さんの、わずかな一角を、彼女の名前が確保していたのだから・・・。地道に、がんばってくださいね。

Ramu

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久し振りです。
北風が吹く季節になりました。
秋はいつだったんでしょうか。
ところで森田童子さんのCD販売のページを見つけました。
私もそこで買った事がないので本当に手に入るかわかりませんが
参考までに。

http://cdnow.co.jp/artist.asp?artistid=35593&pid=2670

隠れ童子ファン2児の駄目親父でした

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僕は1978年生まれの男です。森田童子さんの唄に出会ったのは中2の時でし
た。TVドラマで知りました。
初めて聴いた時、凄い感動しました。『これは、この唄は今まで聴いたことが
ない!』と。それから僕は、その時出たシングルCDはもちろん、アルバム7枚
とベスト盤を買いました。クラスのみんなにも貸しまくりました。歌詞もほと
んど覚えるほど聴きました。
しかし、それから7年ぐらい聴いていなかったんすが、こちらのHPを観てか
ら、部屋をあさって7枚のアルバムを探し出し、中学時代を思い出しながら聴
いてい

-------
Bo 1999
-------

●●●●●●●

こんにちは。
よく分からないけれどjbookってHPに
童子さんのレコードは無かったですが、
CDが検索できました。よかったら見て下さい。

http://www.jbook.co.jp/index.asp

雪穂

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久保田浩(いとい)
itoi8782@mvj.biglobe.ne.jp

久々にこのコーナーに載らせてもらいます。
「なおこさん」森田童子のレコードを探している
そうですが、まず無いでしょう。ベスト版のCDはたまに
貸しレコ屋にあるけど、他のアルバムはまずどこにも無い
でしょう。私も散々東京中探してなくて、このHPで知り合った
方に、郵送とかの都合でダビングしたテープを譲ってもらい
ました。

なおこさん、そういう訳でカセットテープならほとんど持って
ますが、それでよければ渡せます。
ちゃんとしたレコードがよければ、他を当たって下さい。

●●●●●●●

 はじめまして。森田童子さん関連の資料とか写真をみられるだけでも嬉しいです。
このページにきてよかったです。
 私の母がテープをもっていたのがきっかけでよく聴くようになりました。しかし私
の家には一本のテープがあるだけで近頃はもっと曲を聴きたいなと思うようになりま
した。
 レコード店に行けば売られているのでしょうか。やはりベスト盤のほうがいい曲を
聴けるということでしょうか。
 …とにかくお店へ行ってみます。              
                              なおこ

●●●●●●●

やまもとさま

なるほど、国立国会図書館というのがありましたね。
いろいろ調べてもらってありがとうございます。
管理人

●●●●●●●

 どうもはじめまして。インターネットで森田童子のページを見つけて
驚いています。

 彼女のCDは2枚のベストセレクションしか持ってないのですが
さすがにこれ以外のCDを見つけるのは難しいですね。時々、
中古店を見つけては立ち寄っているのですが、なかなか。

 森田童子国語辞典で玉川上水という項目がありましたが、
僕の記憶が確かなら、これは太宰治が入水した場所だと思います。

 ではまた立ち寄らせていただきます。
                        ゴン

http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng9.html

36. 2020年9月08日 18:17:29 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[45] 報告
森田童子の言葉
http://www.gogorocket.jp/doji/h/goro/m-goro1.html


●●
今の時代で、あまりにも不確かになってしまったもの。たとえば愛とか。そういったものを、もう一度たぐって突きつめてみたいと思ったんです。人間がプリミティブなものとして持っている心情の機微を、人形芝居でたどって見たらどうなるだろうと考えた。人形ってぎこちない手足を動かしながら、もどかしいぐらい抱き合う。もどかしいぐらいに泣くわけでしょう。生身の人間が同じことやるより、すごく切ない。そういった人形たちに、人間の心情の機微をふきかえて、簡単な言葉と簡単な動作で表現してみたかった。 ―夜想曲について―

●●

私、決して人が嫌いじゃない。異常なんです。一度接するとその人の後をついて行きたくなっちゃうの。だから、嫌いとは違うんだなァ。昔は対人恐怖症がひどかった。親に顔見知りしてたぐらいだから。

●●

コミニュケーションなんてない。

●●

私は何もできない。動けなかった。私の歌は、周囲を見ていた自分の意識の投影なんです。人も風景もどんどん変わっていく。だけど自分だけが同じ所にいるような気がして……。何もしていなかった時間を、どうやって経験してきたか。こうなって欲しかった。多分こうだったんじゃないかという想いが、私の一つのエネルギーになっているんです。

●●

ステレオなんてもってませんよ。あまり聞かないから。テレビはあります。夜、テレビをつけてないと眠れない。地方に行くと、ホテルで、テレビをガンガンつけて、電気をコウコウと明るくして寝るの。でないと不安でダメなんです。真っ暗だと頭の中に目ができちゃって、こわくて。

●●

私、寝台車って大好き、電車のゴトン、ゴトンという音が胎内の音に似てる気がして、安心できる。よく眠れるの。

●●

人はそれぞれ崇高な孤独を持っていればいい。

●●

もし、感動を伝えるとするなら個から個へと伝わるものでしかありえない。

●●

私、チューニングができないんです。それはどういうことなのか調べていったら、人の話を理解してないからできないんだって、言われました。人の話を理解していたら自然にできてくるもんなんですって。

●●

芝居は切ない女の嘘に似ているのだから─。

http://www.gogorocket.jp/doji/h/goro/m-goro1.html

37. 中川隆[-11430] koaQ7Jey 2020年9月08日 18:20:41 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[46] 報告

*はるのぶう
http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-bun2.html
 

*「はじめに」*****

 私と森田童子との出会いは1993年TBSにて放映 されたドラマ「高校教師」の再放送の途中からという、あまり良い出会いとは言えませんが、彼女の歌声はそれらの障害をすべて拭きさるに値するものでした。
 やはり、ブラウン管やCDを通して見聞きするのではなく、自分の目と耳とで彼女の歌声を聞きたかったものです。伝言版に書かれる大半の方は実際にライブなどで見聞きした方ばかりで、それを読むと、ただうらやましいかぎりです。
 そんな私が彼女のことについてなにか書くにしても、無理があるので私なりの考えをここにまとめてみました。
 題して[私的意見、森田童子・1993年の歌声]、読んでもらえれば幸いです。

*「現状把握」*****

 では、ドラマ「高校教師」が放映された1993年、平成5年前後の社会情勢を、簡単に表したいと思います。

・1992年1月 ボスニア内線、そして4月にはロサンゼルスにて暴動があり、10月天皇、皇后が中国を訪問。その他として「貴花田、宮沢りえの婚約発表」「サザエさんの作者、長谷川町子死亡」「バルセロナ・オリンピックにて女子水泳平泳ぎ、岩崎恭子(14歳)優勝。女子マラソンで有森裕子が銀メダル」やはりメインは「ヤミ支配の終焉?、佐川急便事件」でしょう。
・1993年 1月皇太子妃として小和田雅子。6月「結婚の儀」。2月第42代大統領にビル・クリントン就任。5月日本最初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」始まる。7月北海道南西沖地震、津波により被害甚大。8月細川内閣が成立。10月冷害、コメ不足、コメ輸入。その他として 「角川春樹社長、コカイン密輸の容疑で逮捕」「環境保護団体「グリーンピース」がロシアの核廃棄物が日本海に大量廃棄されていると発表」
・1994年4月細川内閣、総辞職。同月、羽田内閣発足、6月総辞職。6月、村山内閣発足。同月天皇、アメリカを公式訪問。10月ノーベル文学賞に大江健三郎氏。
その他 「東京都昭島市の父親が息子に「悪魔」と命名して出生届けを出す」「学校にて、いじめが原因の自殺が増える」

・1991〜1994年の主だった流行「MUSIC&MOVIE」

・1991年 「SAY YES/チャゲアス 」「あなたにあえてよかった/小泉今日子」「oh! yeah/ラブストーリーは突然に/小田和正」MOVIE 「ターミネーター2」「プリティーウーマン」「おもひでぽろぽろ」
・1992年 「涙のキッス/サザン」「ガラガラヘビがやってくる/とんねるず」「もう恋なんてしない/槙原敬之」MOVIE 「愛人・ラマン」「エイリアン3」「シコふんじゃった」
・1993年 「エロティカ・セブン/サザン」「真夏の夜の夢/ユーミン」「YAH YAH YAH/チャゲアス」「Make up Shadow/ 井上揚水」
MOVIE 「ジュラシック・パーク」「月はどっちに出ている」
・1994年 「ロマンスの神様/広瀬香美」「イノセント・ワールド」
MOVIE 「学校」「シンドラーのリスト」「釣りバカ日誌6」
・流行と流行語

・1991年 「クレジット破産」「・・・じゃあ〜りませんか」
・1992年 「もつ鍋」「ほめ殺し」「カード破産」「きんさん、ぎんさん」
「ジュリアナ東京のお立ち台」「冬彦さん」
・1993年 「ひとつ屋根の下」「ダブルキッチン」「都合のいい女」
・1994年 「ブルセラ」「Jリーグ」「ヘアーヌード」「矢ガモ」「コギャル」
「UFOキャッチャー大流行」「リストラ」
@「総括」*****

「バブル」この文字が最初に使われたのは1990年平成2年の時でした。しかしその時、まさかここまで景気が落ち込んだ日本を想像できた人がいたでしょうか?。まず、いないでしょう。
 そして1991〜1994年それは、衰退していく日本経済。それに拍車をかける「証券不祥事」「政治家汚職」「災害」「億単位の裏取引発覚」「イラク戦争」「いじめによる自殺」等々、まさに「世紀末」に向かっていく今の日本のひな形を作った時代なのかもしれません。

そんな時代のTVは、

・1991年 「東京ラブストーリー」「101回目のプロポーズ」「夜も一生けんめい」「たけし・逸見の平成教育委員会」
・1992年 「ウゴウゴ・ルーガ」「セラムン」「ずっとあなたが好きだった」「おんなは度胸」「愛という名のもとに」
・1993年 「ひとつ屋根の下」「ダブルキッチン」「都合のいい女」
・1994年 「家なき子」「人間・失格」「春よ、来い」「開運・なんでも鑑定団」
次に野島伸司氏が手掛けたドラマを上げます。

・1988年 君が嘘をついた「パーティーで知り合った男女のラブストーリ」
主題歌/Get Crazy/Princess princess
・1989年 愛しあっているかい!「ユーモアたっぷりの学園ラブストーリー」
主題歌/学園天国/小泉今日子
・1990年 すてきな片思い「女性心理を巧みに描いたラブストーリー」
主題歌/愛してるっていわない!/中山美穂
・1991年 101回目のプロポーズ「万年係長の熱烈アプローチ物語」
主題歌/SAY YES/CHAGE&ASKA
・1992年 愛という名のもとに「大学卒業3年後、始まる愛と友情の物語」
主題歌/悲しみは雪のように/浜田省吾
・1993年 高校教師「女子校を舞台に教師と生徒との禁断の愛、レイプ、同性愛、近親相姦など、過激なエピソードが話題」
・1993年 ひとつ屋根の下「 両親を亡くし離れていた兄弟が一つ屋根の下で暮らし始めることで、心が通い合っていくドラマ」
主題歌/サボテンの花/財津和夫
・1994年 この世の果て「暗い影を背負う2人の幸薄いラブストーリー」
主題歌/OH MY LITTLE GIRL/尾崎豊
・1994年 家なき子「同情するなら金をくれ!」一人の少女の物語
主題歌/空と君のあいだには/中島みゆき
・1994年 人間・失格「中学で自殺に追いやられた息子を持つ父の物語
 これは野島氏の作品だけですが、これだけを見ても分かるように、1993年の高校教師を境にドラマの流れに新たな道筋が出来たように思えます。高校教師以前のドラマは、ごく普通の、典型的な、ハッピーエンドのラブストーリーがメインで、それはドラマの主題歌にしてもその傾向があり、キョンキョンの学園天国やSAY YESといったアップテンポの旋律で、野島作品に限らず、「東京ラブストーリー」の小田和正や、古いので言えば「スクールウォーズ」や「プロゴルファー礼子」「熱っぽいの」等々、ノリの良さ、勇気の出る歌詞、その時代に合った歌い手、そして、「人気ドラマの主題歌はその時代をあらわす」と、誰かが言いましたが、まんざら嘘ではないように思えます。1992年に放映した、(題名は忘れました)名セリフの「冬彦さん」でさえ、ユーミンが「真夏の夜の夢」が主題歌で、高校教師以前の作品は90%と言っていいほど、主題歌か、ドラマの内容のどちらかが、明るい?(うまい表現が見つかりません)仕上げになっているように思えます。
 私の個人的な意見では、「高校教師」は森田童子なしには成功はなかったでしょう。
 スローテンポで進むストーリー、沈んだ世界観、病的なものと排他的な性質を背負った人々。そして、最終話を待たずにしても誰の目にも明らかな結末・・・・・。森田童子の世界観なしには成り立たなかったでしょう。
 高校教師のヒットは、それだけ世間が共鳴したことのあらわれでもあり、それを待ち望んでいた社会、たとえば「自虐的」なものであったり、「破滅的」なものかもしれません。
 高校教師以降の作品では、上であげたような要素を含んだ作品が登場するようになり、人間・失格の「自殺といじめ」、聖者の行進の「知的障害者をテーマ」など、それ以外にも、最後で主人公らが一緒に仲良く自殺する、といったのもあります。
 「変革をもたらしたドラマ」そんな言葉が似合う作品と言っていいのではないでしょうか?
 上記で「人気ドラマの主題歌はその時代をあらわす」と書きましたが、これと関係あるかは定かではありませんが、1994年一人の中学生が死にました。名前は大河内清輝と言います。いじめによる自殺です。これにマスメディアは過剰とも言えるほど敏感に反応し、連日連夜の報道の結果、2週間の間に同じような事件が2件おき、それ以後、こういった事件に関して報道が鈍くなった事実があります。
 1993年7月7日には鶴見済著者の「完全自殺マニュアル」が刊行され世間の話題をさらいもしました。
 よく世間では「死ぬ勇気があるんだったら、仕返しでもケンカでもすればいいんじゃない?」などと、アホなことを言う人がいますが(とくにテレビ関係)まさに偽善者の最たるものです。死にゆく者にとって、死と仕返しを量りにかけたとき、死ぬ方が簡単であり、楽なだけなのです。「なぜ、まわりの人たちに相談しなかったの?」「自分を変えようとすれば?」そんなことが出来るのだったら、自殺はしません。それができなかったから死んでいくのですから。
 森田童子を聞く上で避けては通れない「死」の語りと、上記の「死」とは根本的に違うと思います。うまく表現できませんが、なにかが、違うと感じます。
 昭和50年代の死と、平成時代の死との間にはなにか得体の知れないものがあるのでしょうか?私にはよく分かりません。

 話は変わりますが、私は今28才です。彼女が活躍していた頃、鼻タレ小僧で、アニメの タイムボカンなど見ていました。昭和50年代といえば、安保闘争や三島由紀夫事件などと縁遠い時代ですが、彼女の歌詞は赤ヘルメ ットの学生運動の頃を歌った歌詞であり、それが昭和50年代で受け入れられたわけで、それはその時代を(赤ヘル時代)生きた彼女の感情であり、心であり、叫びであり、それが受け入れられるのはさほど不自然ではなく、むしろ時代の流れを書き綴る歴史家のように、彼女の歌声は一つの時代の終焉を歌い上げた、そう私は考えます。
 森田童子を生で知る方たちにしてみれば、なんのことはない事柄ですが、平成の彼女しか知らない私にとっては難しいことなのです。
 大げさかもしれませんが、1993年、その歌声がもたらしたものは、現在の日本に少なからず影響を与えたという事実。
 これからの社会のことを考えると、また、彼女の歌声は復活するのではと、私は思います。

@「最後に」

 乱文になってしまいましたが、つたない文章をここまで読んで下さってありがとうございます。そして、こんな文章を載せて下さったことを感謝いたします。
 では、これにて失礼いたします。

PS. ご感想がありましたら、h-gonta@t-cnet.or.jpまで。
平成11年3月21日 はるのぶう

http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-bun2.html

38. 2020年9月08日 18:26:46 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[47] 報告
森田童子国語辞典
http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-jiten.html

「伝言板」にて要望のあった「森田童子国語辞典」です。始めました。
とりあえず伝言版の中から解答をさがし、知っていることを加えました。
あいているところみなさんの投稿をお待ちしています。また現在書かれている内容も不完全ですので追加も、
また新しい言葉もお願いします。現在はまだ言葉の数が多くないので、適当に並べていますが、
いずれ「あいうえお」並べ替えます。お気軽に。


玉川上水
先日、玉川上水沿いの道を歩いてみました。杉並の富士見が丘から三鷹まで。森田童子も、実際にこの道を歩いたのだろうか、なんて思いながら・・・村松昭さんによる「玉川上水散策絵図」という、とてつもなく長い地図を、もって行きました。この地図、すごくおもしろいです。(孝)  


寺山修司  


高取 英
●劇作家で「月蝕歌劇団」主催者。そして漫画評論家。寺山修司最後の弟子と言われている。代表作「聖ミカエラ学園漂流記」「少年極光都市」なお「少年極光都市」には劇中歌として森田童子の曲、歌が使用された。フャンクラブ機関誌「狼少年」0号では、森田童子が高取 英の事を語り、高取 英が森田童子の事を語る文章が掲載されている。近作「新撰組in1944〜ナチス少年合唱団」著書「聖ミカエラ学園漂流記2」(ふゅーじょんぷろだくと1994)等。先日20年ぶりぐらいに会ったとき、 高取さんはとんかつ定食を食べ、僕はオムライスを食べた。森田童子のことを聞こうかなと思いましたが、ちょっと恥ずかしくなり、やめた。(い)


黒テント  

ミセス・カーマイケル  

花輪和一  

グリーン大佐
第77話 "The Savage Curtain" 「未確認惑星の岩石人間」

第3シーズン 製作番号 77 本国放送順 77 日本放送順 75
放送日 1969/3/7
宇宙暦 5906.4 [西暦 (2269)年]
監督 Herschel Daugherty
原案 Gene Roddenberry ジーン・ロッデンベリー
脚色 Gene Roddenberry ジーン・ロッデンベリー, Arthur Heinemann
メディア LD: 「スター・トレック<TVサード・シーズン>」 (パイオニアLDC) 収録

小説 ハヤカワ文庫「宇宙大作戦 禁断のパラダイス」収録 『非情なる終幕』 第77話「未確認惑星の岩石人間」  惑星表面が溶岩で、有毒の大気を持つ無人惑星を探査中エンタープライズは、炭素系の未知の生命体反応をキャッチしていた。しかも、その部分には人工の力がファクター7で働いており、かなり高度の文明があることも予想された。しかし、通信に応答が無く地表にも降りられぬ為、カークは探索を諦めかける。その時である、探査光線と共にブリッジのスクリーンにリンカーン大統領の姿が現れ、乗船許可を求めたのは。疑惑を抱いたまま、カークはその要求に応じるが乗り込んできたリンカーン大統領は本物そっくりで、スポック共々惑星へ降りることを要請されると、カークは何故かそれに応じる気持ちにさえなってしまった。溶岩と有毒大気の中に千平方キロの地球そっくりの環境が作られていた。ここに二人を呼び、何をさせようというのだろうか。カークとスポックは転送されるが、フェイザーとトライコーダーが転送されなかった----そして地上でスポックは、バルカン文明の父ともいうべき伝説の人物スラクに出会い、息をするのも忘れるほど驚いていた。やがてこのドラマを全て用意したこの惑星の住民がその姿を現した。それは岩石状の生物で、ヤルネクと名乗りここエクセルビアの住民が皆、今見つめていることをカーク達に告げた。カークを呼んだのは人間の相反する二つの観念「善と悪」の対決を行うためであった。善はカーク、スポック、リンカーン、スラクであり悪は新たに呼んだジンギスカン、21世紀に地球全滅を計画したグリーン大佐、惑星のティビュロンで生体実験を行ったゾーラ、クリンゴン帝国の独裁制の基礎を作ったカーレスの四人であった。----善悪の観念がまるで異質でヤルネク達はこの実験でいずれが強力か、確かめるつもりだったのだ。カークは戦いを拒否するが、エンタープライズが破壊されそうになり、勝利すれば釈放を条件に戦いを承諾した。勇敢なスラクとリンカーンの犠牲、そして正面攻撃で悪は敗れ「新しい物を知りたい」宇宙人の要求は満たされ、カーク達は釈放された。歴史上の人物は全員カークとスポックの心のイメージを元に岩石生物が同類の肉体を再編成したものと判った。カーク達の知識欲の旅もまた再開する。 年代的に合うかどうか不明ですが、スタートレック(宇宙大作戦)に登場する「グリーン大佐」です。(n)

J.A.シーザー  

高橋和己
●小説家・評論家・京都大学助教授、小説「悲の器」「憂鬱なる党派」「邪宗門」「我が心は石にあらず」。僕は60末〜70初、高橋和己を読んだことのない人に会ったことがなかった。(い)


孤立無援の思想
●高橋和己の評論・エッセイ集(い)

東京カテドラル
聖マリア大聖堂
●もちろん『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』がライブ録音された場所。このほかにも朝比奈隆がブルックナーの交響曲をライブ録音していて、その紹介で「音が天井に駆け上がって、その後観客に降り注いでくる」と読んだ記憶があります。すごいと思いました。(い)

球根栽培の本
●極左の人たち御用達の爆弾製造のノウハウ本(K3)
●昔新宿に「模索舎」という自費出版物・ミニコミを扱う書店があり、持ち込まれたものは無条件で販売してくれた。爆弾事件がれんぞくしたとき、この本を売っていた「模索舎」は警察の捜索をうけたと記憶しています。(い)


岸上大作
●この人は、歌人で60年安保闘争に身を置き、20歳の若さで自○により亡くなっておられます。あまりにも悲しすぎて…。(金太郎)
●歌人(1939-1960)「岸上大作集」現代歌人文庫「岸上大作全集」思潮社
血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする(意志表示)(い)


ピラビタール
●そういえば「ピラビタール」って何なのか聞いている人が伝言板にいましたね。「〜全曲集」に書いてありましたが、薬物の一種らしいですね。どんなものか僕はよく知りません。でも、そんなものですら歌になっているのですね。ハイミナールやフジミナールに含まれるキナゾロンのことは聞いたことがありますが、ピラビタールは知りません。僕が進学で東京に出た頃は、既に新宿駅の植込みはなくなっていましたし、ハヤリはネルボンでしたし。まあ、知らなくてもよかったんですけど。(破目仙人)


高校教師  


チャーリー
ブラウンの店
●飯田橋の神楽坂よりの坂道を登って、左に折れたところに昔チャーリーブラウンという喫茶店がありました。わたしは「童子はこの店に来るのかしら?」「うるうる!」と思っていました。昔の話し。(亀)


地下室
●昭和55年6月池袋文芸坐『地下室』連続5日間のべ2500人を動員、入りき
れなかった人400人余(「狼少年」―森田童子ファンクラブ機関誌より)(い)


双頭の旗  


夜行 ●昭和55年11月池袋・三越裏空地 森田童子黒色テント劇場『夜行』連続5日間、のべ3500人を動員、入りきれなかった人400人余。<ぼくが眼をさましたら東京の真ん中に巨大な母船()が浮かんでいた。テント劇場はぼくたちの最後のせつない夢だ>(「狼少年」―森田童子ファンクラブ機関誌より)
●(やぎょう)不定期刊の単行本形式の劇画雑誌。創刊号執筆者はつげ義春、つげ忠男、林静一、鈴木翁二、古川益三(現「まんだらけ」代表)等、60年代「ガロ」の主要メンバーだった、劇画界の極北と言われた(誰が言ったんだろう?)(い)

ねじ式
●昭和56年11月 森田童子黒色テント劇場『ねじ式』連続5日間。昭和58年『私達の旅するねじ式劇場』1年がかりで全国をまわる。
●森田童子のアルバム「狼少年」(L-12547)はねじ式レコード(7)。
●つげ義春の傑作、「ガロ臨時増刊号・つげ義春特集」で発表された。(い)


500人劇場
●昭和56年3月から5月 森田童子500人劇場。収容人員400〜800人の中型ホールを選び全国20カ所でコンサート。(「狼少年」―森田童子ファンクラブ機関誌より)(い)


第3創造社  


山陽放送ラジオ  


雨のクロール
●森田童子のファーストアルバム「good Byeグットバイ」1975の4番めの曲、「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」1978ではライブバージョンが収録された。(い)
●個人的に大好きな曲です。そしてこの曲は僕は、つげ義春の「海辺の叙景」の衝撃的な、かつ美しいラストシーンにインスピレーショウを得て創られたと思うんです。友人に「ね、ね、そう思わない?」と言っても賛成は得られません。(い)


チャーリー・パーカー
 
地下のジャズ喫茶


http://www.gogorocket.jp/doji/h/bun/m-jiten.html

39. 中川隆[-11429] koaQ7Jey 2020年9月08日 19:42:32 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[49] 報告
「犬のしっぽ」 森田童子関係のミラー・サイト
http://www.minus273.eu/mirrors/douji/


森田童子 年表 (2002.3.23)
http://www.minus273.eu/mirrors/douji/douji_history/framehistory.htm

森田童子 ディスコグラフィー
http://www.minus273.eu/mirrors/douji/


森田童子研究所 笠井嗣夫
http://www.gogorocket.jp/doji/h/index.html

40. 中川隆[-11428] koaQ7Jey 2020年9月08日 20:04:30 : DHRA9aICKc : M3lwWEUwbmFIUXc=[50] 報告
森田童子 年表 (2002.3.23)
http://www.minus273.eu/mirrors/douji/douji_history/framehistory.htm


1952年(昭和27年)のできごと

 1月15日(火) 東京に生まれる

1968年(昭和43年)のできごと

高校入学。学園闘争の激しい最中に高校時代を送る。彼女のほとんどの級友,幼友達もこの闘争に巻き込まれていった。その頃,ラジオに深夜放送から流れてくるサイモン&ガーファンクル,アル・スチュアートのメロディは,悲しく淋しかった彼女たちにとって,とてもやさしさに満ちたものだった。(「月刊カドカワ」1993年5月号より)


1970年(昭和45年)のできごと

高校を中退。暇にまかせてふらふらと旅に出る。
中退した後の童子の新しい仲間が十何人も,申し合わせたように規則正しく集まってくる喫茶店があった。そこにはいつも,アメリカへ行くことばかり夢見ている男,へたくそな自称詩人,売れない役者,映画青年,競馬新聞ばかり見ている退屈な男など…。そこには,遊園地のメリーゴーランドのように,陽気で,また淋しい空間だった。(「月刊カドカワ」1993年5月号より)

1972年(昭和47年)のできごと

夏,友達が亡くなったことを葉書で知る。このひとりの友人の死をきっかけに,童子はめまぐるしく,疾風のように通り過ぎていったいくつもの青春のかたちを振り返って,ひとつずつ思い出すように唄い始めた。

北海道帯広市の旅行先で,J&K(音楽出版)の社員と出逢う。童子は,歌を入れたテープを送る約束をしたが,J&K社員のところには結局,送られてこなかったという。そしてそれっきり童子からの便りはなかった。
                              (「月刊カドカワ」1993年5月号より)

1974年(昭和49年)のできごと

10月,二年の空白の後,童子がJ&Kにふらりと訪ねてきた。
                              (「月刊カドカワ」1993年5月号より)

1975年(昭和50年)のできごと

11月21日(金) デビュー・シングル「さよならぼくのともだち」,ファーストアルバム「グッド・バイ」をポリドールよりリリース*
* 「月刊カドカワ」1993年5月号には10月21日に両アルバムをリリースしたと記されているが,11月21日の誤りではないかと思います。シングル「さよならぼくのともだち」の歌詞カードの一部に「7511」の文字があります。これは1975年11月を意味しているのではないかと思われるからです。

「高校時代,お金が欲しくてアルバイトをしようとすると,父がお金をくれた。これからは暇に耐えられる人間になることが大事だ,というのが父の教育方針だったのね。おかげでずいぶんと暇には強くなった」(当時のインタビューより)「月刊カドカワ」1993年5月号


1976年(昭和51年)のできごと

 1月12日(月) 新宿ルイード ライブ(絵夢,いまなりあきよし)
 1月17日(土) 西荻窪ロフトライブ(飛べないアヒル)
 2月12日(木) 新宿ルイード ライブ(結城大,いまなりあきよし)
 3月18日(木) 西荻窪ロフトライブ(福沢諸)
 4月16日(金) 西荻窪ロフトライブ
 4月21日(水) 紀伊国屋ホールライブ
 4月28日(水) 新宿ルイード(南らんぼう)
 5月21日(金) 新宿ルイード ライブ(西嶋三重子)
 5月23日(日) 西荻窪ロフトライブ(あべあきら)
 5月30日(日) 甚六屋ライブ(森田童子+1)
 6月25日(金) 西荻窪ロフトライブ(ゲスト:浜田省吾)
 6月26日(土) 新宿ルイード ライブ(下田逸郎)
西荻窪ロフトライブ
 7月25日(日) 西荻窪ロフトライブ(小林倫博)
 8月27日(金) 新宿ルイード ライブ(下田逸郎)
 8月29日(日) 西荻窪ロフトライブ
 9月19日(日) 西荻窪ロフトライブ
 9月20日(月) 新宿ルイード ライブ(ルパン)
10月 9日(土) 西荻窪ロフトライブ
10月10日(日) 筑波大学17号棟105号(森田童子全集「マザー・スカイ」ライナーノーツより)
10月11日(月) 岡山・津山文化センター(バンバン)
10月13日(水) 新宿ルイード ライブ(みなみらんぼう)
11月10日(水) 新宿ルイード ライブ(古時計)
11月19日(金) レコード発売記念コンサート 新宿ロフト
11月20日(土) レコード発売記念コンサート 新宿ロフト
11月21日(日) 2ndアルバム「マザー・スカイ」をポリドールよりリリース
12月 シングル「ぼくたちの失敗/ぼくと観光バスに乗ってみませんか」をポリドールよりリリース
12月14日(火) 新宿ルイード ライブ(大野真澄)
12月17日(金) 西荻窪ロフトライブ

* ( )内は同じ日にライブがあったアーティスト

1977年(昭和52年)のできごと

 1月 8日(土) 新宿ルイード ライブ(古時計)
 1月16日(日) 西荻窪ロフトライブ
 2月 8日(火) 新宿ルイード ライブ(伝書鳩)
 2月19日(土) コザ市でコンサート *1
 2月26日(土) 新宿ロフトライブ
 3月 6日(日) 新宿ルイード ライブ(尾崎亜美)
 3月27日(日) 西荻窪ロフトライブ
 4月 1日(金) 金沢北国講堂(森田童子全集「グッド・バイ」ライナーノーツより)
 4月17日(日) 新宿ルイード ライブ(ブック・エンド)
 4月30日(土) 西荻窪ロフトライブ
 5月29日(日) 西荻窪ロフトライブ
 6月 豊島公会堂「童子像」コンサート
 (早稲田大学音楽プロデュース研究会)
 6月26日(日) 西荻窪ロフトライブ
 7月20日(水) 森田童子支持宣言7.20コンサート(四谷公会堂)*3
 7月31日(日) 新宿ロフトライブ (コンサート活動一時休止)*2
10月 コザ市でコンサート *1
12月 4日(日) 京都府立勤労会館 コンサート  チラシ画像
12月10日(土) 3rdアルバム「ア・ボーイ」をポリドールよりリリース
12月17日(土) 西荻窪ロフトライブ

注 ( )内は同じ日にライブがあったアーティスト

*1 doukoさんのHPより情報をいただきました
*2 「ROCK is LOFT」には,この7/31に「コンサート活動一時休止」と書かれている。
  たしかに12/17の西荻窪ロフトでのライブを除けば78年5月21日の西荻窪ロフトでのライブまでロフトへは出演していない。
*3 MCsisterの「渡・童子・銀次のリレー随筆」に記載がありました。

1978年(昭和53年)のできごと

 3月 シングル「セルロイドの少女/蒼き夜は」をポリドールよりリリース
 5月21日(日) 西荻窪ロフトライブ ライブハウスに戻る
 5月27日(土) <がんばれ新宿ロフト>ライブ 新宿ロフト
 6月16日(金) 豊橋市市民文化会館ホール 前売\1500 当日\1800
 6月30日(金) 新宿ロフトライブ
 7月 9日(日) 西荻窪ロフトライブ
 7月29日(土) 「鎮魂歌」コンサート
「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」を録音
 (早稲田大学音楽プロデュース研究会)
 8月 NHK-FM 千葉 「リクエストアワー」にゲスト出演 DJ:遠藤正明 *1
11月 1日(水) 4thアルバム「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」を
ポリドールよりリリース
11月18日(土) 西荻窪ロフトライブ
11月19日(日) 西荻窪ロフトライブ
12月 5日(火) 山形市民会館大ホール
12月 7日(木) 京都会館(森田童子全集「グッド・バイ」ライナーノーツより)

*1 ロムさんよりエアチェックテープをいただきました。

「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」発売記念ツアーのサポートは佐久間順平さん(ギター)と女性1人(バイオリン)


1979年(昭和54年)のできごと

 3月26日(木) 新宿ロフトライブ
 4月30日(月) 新宿ロフトライブ
 5月 那覇市でコンサート *1
 5月13日(日) 西荻窪ロフトライブ
 5月26日(土) 新宿ロフトライブ
 5月27日(日) 新宿ロフトライブ
 6月26日(火) 豊橋市民文化ホール(主催:ほくと企画)
 6月29日(金) 森田童子劇場(旧早稲田小劇場 銅鑼魔館) チラシ画像 *2
 6月30日(土) 森田童子劇場(旧早稲田小劇場 銅鑼魔館) チラシ画像 *2
 7月 1日(日) 森田童子劇場(旧早稲田小劇場 銅鑼魔館) チラシ画像 *2
 8月 早稲田小劇場での3日連続公演
10月 沖縄国際大学学園祭 *1
10月27日(土) 新宿ロフトライブ*4

*1 doukoさんのHPより情報をいただきました
*2 森田童子劇場のチラシは犬のしっぽがオークションにより手に入れました。
*3 エアチェックテープをロムさんよりいただきました。
  NHK-FM「ニュー・サウンズ・スペシャル」にゲスト出演。DJ:高橋基子は1980年であることが判明。
  間違った情報すみませんでした。
*4 翌年6月の池袋文芸座ル・ピリエ「地下室」コンサートまで休養する。


1980年(昭和55年)のできごと

 4月 森田童子全集(LP4枚)がワーナー・パイオニアよりリリースされる
 6月 池袋文芸座ル・ピリエ「地下室」コンサート 連続5日間で2500人動員
 6月30日(月) 中小企業センター(愛知)*4
11月20日(木) 5thアルバム「ラスト・ワルツ」がワーナー・パイオニアからリリースされる
               雑誌「噂の真相」裏表紙画像 *1
11月20日(木)
  〜24日(月) 黒色テント劇場「夜行」(東京池袋三越裏空き地)5日連続公演で
3500人動員 (スタッフ68/71)
               雑誌「噂の真相」裏表紙画像 *1
11月28日(金) 札幌コンサート(Yahooオークション情報)
11月30日(日) NHK−FM「ニュー・サウンズ・スペシャル」にゲスト出演。DJ:高橋基子*3
12月 沖縄コンサート *2


1981年(昭和56年)のできごと

 1月30日(金) <死ぬなライヴ・ハウス>新宿ロフトライブ
 1月31日(土) <死ぬなライヴ・ハウス>新宿ロフトライブ
 2月27日(金) 新宿ロフトライブ \1100
 3月10日(火)
  〜5月 森田童子500人劇場コンサート 雑誌「噂の真相」裏表紙画像2 *1
 3月16日(月) 名古屋・愛知勤労会館 *6 チケット画像 
 4月 5日(日) 森田童子500人劇場コンサート 千葉セントラルプラザ
 4月10日(金) 森田童子500人劇場コンサート サンリオ劇場(松戸)
 4月14日(火) 森田童子500人劇場コンサート 神奈川県民小ホール
 4月16日(木) 森田童子500人劇場コンサート 和歌山市民会館
 4月17日(金) 森田童子500人劇場コンサート 三重県教育文化会館
 4月18日(土) 森田童子500人劇場コンサート 豊橋市民文化会館
 4月20日(月) 森田童子500人劇場コンサート 岡山市民文化ホール  犬のしっぽ参加 チラシ画像
 4月21日(火) 森田童子500人劇場コンサート 広島中国新聞ホール
 4月22日(水) 森田童子500人劇場コンサート 徳島郷土文化会館
 4月24日(金) 森田童子500人劇場コンサート 高知県民文化小ホール
 4月26日(日) 新宿ロフトライブ \1100
 5月18日(月) 森田童子500人劇場コンサート 福井市民福祉会館
 5月19日(火) 森田童子500人劇場コンサート 石川県教育会館
 5月25日(月) 森田童子500人劇場コンサート 大阪厚生年金中ホール
 5月30日(土) 新宿ロフトライブ \1100
 9月26日(土) 新宿ロフトライブ \1200
10月5日(月)
 〜8日(木) 早稲田大学大隈講堂裏特設テントにて「双頭の歌」コンサート
10月31日(土) 新宿ロフトライブ \1100
11月 3日(火) 埼玉大学大学祭
11月5日(木)
 〜8日(日) 早稲田大学大隈講堂裏劇団「木霊」アトリエにて「双頭の歌」コンサート *2 チラシ画像 チラシ画像の裏
11月23日(月) 法政大学工学部学大学祭
11月26日(木) 名古屋・愛知勤労会館
11月28日(土) 新宿ロフトライブ \1100
12月 沖縄コンサート *3
12月3日(木)
 〜7日(月) 森田童子「ねじ式」黒色テント劇場B
 国鉄両国駅西口構内 (68/71黒色テント)   チラシ画像 *4 チケット画像*5
12月16日(水) 千葉市民会館小ホール
12月24日(木) 大阪・御堂会館

1982年(昭和57年)のできごと

 2月28日(日) 新宿ロフトライブ \1500
 3月21日(日) 都久志会館(童子を支持する福岡の会)
 4月 4日(日) 新宿ロフトライブ \1500
 6月26日(土) 新宿ロフトライブ \1400
 9月19日(日) 新宿ロフトライブ \1400
11月10日(水) 6thアルバム「夜想曲」をワーナー・パイオニアからリリース
11月23日(火) <LP「夜想曲」発売記念コンサート>新宿ロフト \1400
12月29日(水) <LP「夜想曲」発売記念コンサート part.2>新宿ロフト \1400

1983年(昭和58年)のできごと

 2月 6日(日) 新宿ロフトライブ \1400
 3月 1日(火) 山形市民会館小ホール
 3月 2日(水) 仙台戦災復興記念会館
 3月 3日(木) 岩手教育会館
 3月 5日(土) 秋田市児童会館
 3月 6日(日) 能代文化会館小ホール
 3月 7日(月) 青森芸夢
 3月13日(日) 天童
 3月14日(月) 郡山市公会堂
 3月15日(火) 会津若松文化センター
 4月22日(金) 久慈市民会館
 4月29日(金) 新宿ロフトライブ \1400
 5月16日(月)
  〜17日(火) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 大阪・バナナホール
        チラシ画像1 チラシ画像2 チケット画像1
 5月18日(水) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 名古屋・雲竜ホール
        チラシ画像1 チラシ画像2 チケット画像1
 6月 4日(土) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 砺波市文化会館多目的ホール
        チラシ画像1 チラシ画像2
 6月12日(日) 新宿ロフトライブ \1400
 6月28日(火) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 福岡都久志会館
        チラシ画像1 チラシ画像2
 6月29日(水) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 山口市三好屋レコード3Fホール
        チラシ画像1 チラシ画像2
 6月30日(木) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 西宮公同教会チャペルホール
(会場の電源容量不足のため公演中止になりました。
 チケットも販売されていませんが,
 下記のチケット画像は金太郎さんが
 プロモーターにお願いして記念にいただいたそうです。)
        チラシ画像1 チラシ画像2 チケット画像1
 7月 1日(金) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 京都教育文化センター
        チラシ画像1 チラシ画像2 チケット画像1
 7月 8日(金) 森田童子「ねじ式」劇場コンサート 宇都宮文化会館小ホール
        チラシ画像1 チラシ画像2
10月30日(日) 新宿ロフトライブ \1500
11月26日(土) 新宿ロフトライブ \1500
11月30日(水) 7thアルバム「狼少年 wolf boy」をワーナー・パイオニアよりリリース
12月 1日(木)
  〜 3日(土)
12月 9日(金)
  〜11日(日) 森田童子「ねじ式」Cコンサート 前進座劇場(吉祥寺)
        チラシ画像3 チラシ画像4 チケット画像2
12月25日(日)
    26日(月) <前進座劇場「狼少年」追加公演>新宿ロフト \1500
  活動を終了する


41. 中川隆[-11416] koaQ7Jey 2020年9月09日 10:29:48 : p3ZYzmdjKF : YlZoZ05vMExyUXc=[12] 報告
森田童子 インタビュー 1975年 「NHK若いこだま」より


42. 中川隆[-11402] koaQ7Jey 2020年9月11日 05:49:33 : GFANGIOfgs : V3hmTDR2RFFmREU=[3] 報告
森田童子 - (5th)夜想曲




森田童子 - (1st)good-bye グッドバイ


43. 2020年9月11日 11:30:35 : GFANGIOfgs : V3hmTDR2RFFmREU=[16] 報告
Morita Doji - Mother Sky (1976年)
2012/04/12






Album: Mother Sky
Year: 1976

Tracklist:
01. Our Mistake
02. Let's Take Sightseeing Bus With Me
03. A Carrier pigeon
04. Back Ligh
05. Pirabital Mesmerism Medicinel
06. I Thought I Wanna See A See
07. He weeped for me
08. Letter from NY
09. Best Spring
10. Today is the Miracle Morning

44. 中川隆[-11392] koaQ7Jey 2020年9月11日 20:03:58 : GFANGIOfgs : V3hmTDR2RFFmREU=[23] 報告
男のくせに泣いてくれた


45. 2020年9月12日 04:35:02 : yfVFU2YMo2 : eFFQYXluUmtGaXM=[1] 報告
森田童子 - (best)友への手紙 森田童子自選集


46. 中川隆[-11367] koaQ7Jey 2020年9月15日 11:34:32 : CPdEo490W2 : Lm5MY01XbzF4VlU=[5] 報告
地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた
悪い夢のように 時がなぜてゆく

ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
チャーリー・パーカー 見つけたヨ
ぼくを忘れたカナ


April In Paris - Charlie Parker






What Is This Thing Called Love · CHARLIE PARKER


47. 2020年9月15日 12:39:58 : CPdEo490W2 : Lm5MY01XbzF4VlU=[6] 報告

チャーリー・パーカー 〜 エイプリル・イン・パリ
https://ameblo.jp/memeren3/entry-12130653998.html


 チャーリー・パーカーと言えばモダン・ジャズの巨人にして、破滅型の人生を歩んだ人ですから、ストリングスと共演などというぬるい所業は全く似合いません。そう思ったのは私だけではなくて、プロデューサーのノーマン・グランツも同じです。

 ストリングスすなわちムード・ミュージックという思い込みは今でもある程度生きています。このセッションが行われた1949年頃はなおさらそうで、パンクみたいなものだったモダン・ジャズのミュージシャンと共演するなど非常識極まりないものでした。

 猛反対したノーマンを押し切って、強引にストリングスとの共演を実現させたのはパーカー自身の主張でした。その結果は大成功で、グランツの考え方のみならず、ジャズ界全体のストリングス物に対する考え方を変えてしまいました。私も変わりました。

 セッションは1949年、50年、52年の三回にわたって行われています。後に完全盤が出ますが、LP時代には二枚のアルバムに分かれて発表されています。そのうちの一つがこの「エイプリル・イン・パリ」です。

 これは、そのアルバムにもう一枚のアルバムから4曲を加えた16曲を収録した作品です。ジャケットは本邦初のオリジナル・ジャケットだそうです。何だかおばさんのような姿ですけれども、どうやらチャーリー・パーカーのようです。

 各楽曲はいずれもスタンダードばかりです。ストリングスとの共演でスタンダードを演奏するわけですから、パーカーは、いつものように即興バリバリとはいかず、ある程度、決められたメロディーに忠実にサックスを吹いています。

 ストリングスをバックにパーカーがサックスで歌っていると思えば分かりやすいです。サックスは人の声に近いということが良く分かりますし、しばしば使われる歌心という言葉が、これほど腑に落ちる演奏はありません。

 パーカーのサックスは聴く人すべてが絶賛しています。ムード音楽に堕してしまいかねないフォーマットですが、何よりも音が素晴らしく綺麗ですし、そこに溢れる歌心が素晴らしい。美しいとか穏やかとかパーカーらしくない賛辞が素直に似合います。

 共演陣もいいです。時にソロを分かち合うミッチ・ミラーのオーボエや、ミョール・ローセンのハープなどの色合いも見事ですし、サックスを生かすことを第一に考えたような心憎いストリングス・アレンジメントだと思います。

 本作ではA面がジミー・キャロル、B面がジョー・リップマンによるストリングス・アレンジになっていて、微妙に異なるところも聴きどころです。パーカー・ファンの間にはストリングス・アレンジを酷評する意見が多いですが、それには同調しかねます。

 先鋭的なチャーリー・パーカーももちろん素晴らしいですが、こうしたスタンダードを正面から吹いている姿もいいものです。初心者向きと言われますが、初心者にも耳慣れた人にも等しく新鮮に響く作品ではないかと耳慣れていない私は思います。

April In Paris / Charlie Parker with Strings (1952 Verve)

https://ameblo.jp/memeren3/entry-12130653998.html



Charlie Parker With Strings - Summertime






48. 中川隆[-11366] koaQ7Jey 2020年9月15日 13:01:02 : CPdEo490W2 : Lm5MY01XbzF4VlU=[8] 報告
チャーリー・パーカー の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1026.html
49. 2020年10月01日 08:34:44 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[15] 報告
森田童子 友への手紙 自選集 B&W Nautilus 804



50. 2020年10月01日 08:35:54 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[16] 報告
B&W Nautilus 804 森田童子 狼少年 ウルフボーイ 空気録音


51. 2020年10月01日 08:37:00 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[17] 報告
森田童子 東京カテドラル 聖マリア大聖堂 録音 レコード再生


52. 2020年10月01日 08:38:02 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[18] 報告
グッドバイ 森田童子   レコードA面  高音質


53. 2020年10月01日 08:39:02 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[19] 報告
Morita Doji | 君と淋しい風になる (I become a lonely wind for you) | 1977


54. 2020年10月01日 08:43:43 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[20] 報告
森田童子 カテドラルライブ 1978年


55. 2020年10月01日 08:46:15 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[21] 報告
森田童子さん  名曲をライブで




森田童子 NHK FM スタジオライブ 1976年 AIR CHECK

♪伝書鳩 ♪ぼくと観光バスに乗ってみませんか ♪春爛漫 ♪ぼくたちの失敗 ♪センチメンタル通り ♪さよならぼくのともだち
56. 中川隆[-8655] koaQ7Jey 2021年1月03日 19:56:10 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[25] 報告

2018年12月13日
森田童子の自宅へ美女と一緒に行く
https://open.mixi.jp/user/614168/diary/1969546621


12月10日(月)

狭山市のホテルをチェックアウトした。
待ち合わせは午後からだから時間がある。

もう一度、死体発見現場などを散策してから西武新宿線に乗る。
東村山で降りて朝マックをする。

志村けんの「東村山音頭」で訪れたいと思っていた。
もちろんなんの特徴もない普通の街だった。
フォト


西武国分寺線に乗り恋ヶ窪駅で降りる。
国分寺の街を散歩する。

まだ時間があるので独りで観光する。

国分寺駅南口近くに「国分寺書店」の跡地があった。
椎名誠のエッセイデビュー作「さらば国分寺書店のオババ」の古本屋だ。
ここも来たくてたまらなかった。
現在は閉店してブティックになっている。
フォト


そこから坂道を降りていく。
村上春樹が作家になる前に開いていたジャズ喫茶の跡地がある。
ビルの地下にあり「ピーター・キャット」という名前だった。
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ほかにも国分寺には古刹や庭園などがあるらしいが、あまり興味がないのでやめた。

13時になった。
待ち合わせの時間だ。
JRの改札口に行く。

若い女性がやってきた。
「まかみしさんですか?」

かなりの美人だ。
こんなにきれいな人だとは想像を遥かに超えていた。
背が少し高くてスレンダーで、ストレートな黒髪と高く形の良い鼻が知的な雰囲気を醸し出している。
肩を並べて歩くだけで心臓が高鳴ってきた。

彼女とは今日が初対面だ。
お互いに森田童子のファンだということで、ネットで知り合った。

森田童子は1970年代から80年代にかけて活躍したシンガーソングライターだ。
独特の内省的な暗い雰囲気の歌を歌っていた。
「たとえばぼくが死んだら」「海が死んでもいいよと鳴いている」「ぼくたちの失敗」など。
1983年、突然に活動を停止して引退した。
それからすべての音信が途絶えた。
本名、経歴、実生活などはすべて非公開。
いつもサングラスをかけていて素顔も謎だった。

2018年4月、新聞に森田童子死去の記事が載った。
65歳だったそうだ。

わたしはどうしても森田童子の正体が知りたくて調べた。
ネットを探し周り、少しずつ情報を追っていった。
ようやく本名、住所、正確な死亡年月日などがわかった。
森田童子の本名は前田美乃生さん。
住所は国分寺市。
旧姓は中西で、なかにし礼の姪になる。

わたしが調査しているころ、やはり同じ森田童子の正体を知りたい女性と知り合った。
それが国分寺駅で待ち合わせをした美人だ。

東京に不案内なわたしを森田童子の自宅へ連れて行ってくれることになった。

まずは夫の前田亜土がよく来店していたカフェへ行く。
「カフェroof」という名前の小さくて雰囲気の良いところだ。
フォト


しかし前日はオタクのような男ばかり7人で殺人現場を歩いていて、今日は美女と二人きりでえらい違いだ。

二人でランチを食べる。
あらためてお互いの自己紹介をする。

マスターにも話しかけて森田童子情報を少しだけ教えてもらった。

そこから歩いて森田童子が住んでいた家へ行く。
住宅街の一画にある小さな2階建てのモルタル木造家屋だ。
今は空き家になっているが親族が定期的に手入れをしているようだ。
グーグルストリートビューで見たときは家の壁にツタが生い茂り悲惨な状態になっていたのに、最近すべて剪定されたようだ。
もちろん家には鍵がかかっているが窓越しにダンボール箱や洗剤の容器などが確認できて、まだ生活感がただよっている。

これがあの森田童子が生活していた住居かと思うと感激して足が震えてきた。
いつまでも家の前に立って眺めていたかった。
美人の彼女も同じ気持ちだろう。
つぶらな眼差しで壁を見つめている。
フォト


しかしまあ、いつまでもここにいるわけにもいかない。
国分寺駅に戻っていく。
日が沈みそうな時刻だ。
でもまだ別れがたいので「ほんやら洞」へ行った。
中山ラビさんがオーナーをしている店だ。

ここのオススメであるカレーライスを注文する。
かなりスパイシーで汗がたくさん出てきた。

午後8時になったら中山ラビさんが店に来た。
隣りに座っていた美人の彼女がスマホのイヤホンを一つ渡してくれた。
YouTubeで中山ラビの歌を一緒に聴いた。
本人を前にして曲を聞くのも不思議な感じだった。
フォト


新幹線の最終に乗って名古屋に帰らなければならないので店を出た。
国分寺駅で彼女とお別れした。


しかし今日は若くて美人な女性と散歩したけど、気分がシャキッとして身体に良いことだと思った。
こういうことをときどき行なえば健康寿命も延びて長生きできるのではないか。
太極拳だの黒酢ニンニクだのよりずっと効果があるような気がする。
高齢な女性の方はイケメンの若い男と散歩すれば良い。


コメント

mixiユーザー2018年12月13日 19:30

東村山駅からちょっと歩いたところに正福寺というお寺があって、ここの地蔵堂は国宝の建物です。

こんなところに国宝建造物があるなんて…という住宅街の中にぽつねんとあるお寺で、普段は観光客(参拝客)もほとんどいない「国宝ぶってない」穴場中の穴場です。
また来られた際にはどうぞ行ってみてください。

また東村山のスーパーマーケットで販売されてる(東村山以外で売ってるのを見たことない…→ネット通販はあります)ポールスタアのソースはオススメです。


mixiユーザー2018年12月13日 19:55

中山ラビさんが歌をやりながらも引き継いで伸ばしたとかいう旧「ほんやら洞」の自家製カレーだの、古書店だの、英国古物ファッショングッズを扱う店舗だのが中地下にズラリと入る国分寺マンションだの、そのすぐ近所にある村上春樹さんがオープン前からもよくかかわっていたというジャズ喫茶のピーター・キャットもあるようですね。昨年の秋に、真っ赤なワンピース・ドレスを身に付けた篠原 ともえさんが中山ラビさんとも話し合う映像がNHKBSプレミアムで放映され、最後まで見ていました。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3414/2620085/index.html


でも、わたしは、西武新宿線、国分寺崖線、湧き水といった、国分寺あるいは府中、小金井、埼玉県入間郡一帯に広がる「武蔵野」の魅力よりも、立高(都立立川高校)で優れて美文のアジビラを印刷して配布していた古川あんずさんにいかれていたんです。国際的な舞踏もやり、状況劇場の唐十郎・李麗仙や江古田の大駱駝館を主催した麿赤児とも交流を持った美女でしたよね。後の時代になって、私の中の個人的幻影のファンともなった「古川あんず」さんは、今でこそ、中公新書『高校紛争』(小林哲夫)に、ちょこっとだけ、YMOの坂本龍一さんと並記される程度ですが、当時からものすごく才能があり、超絶な美人でした。

そういえば、またNHKのお話になってしまいますが、飛行機墜落事故で亡くなった脚本家の向田邦子さんの傑作「阿修羅のごとく」の4姉妹が育ったという設定にした実家のある場所が、一橋大学もある国立駅の南側でしたよね。国分寺も含めたあのへん、いいところですよね。ところで、森田童子の件、いろいろありがとうございました。追っておられたんですね。玉川上水とそこに身投げした太宰治を歌によみこめる森田童子は凄いと思いましたし、吉祥寺南の弁財天のある湧水池と、そこからも流れ出る玉川上水にも惹かれて、私はよく、井の頭線沿線をバイクで走ったもんでした。https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1867/2148201/index.html


mixiユーザー2018年12月14日 23:53

めっちゃ面白かったです。まかみしさんは凄いなぁと改めて思いました。

森田童子さんとか浅川マキさんとか、このあたりの人たちの世界は、僕の中ではビリー・ホリデーと重なります。

国分寺書店のオババ、懐かしかったです (^^)


mixiユーザー2018年12月19日 13:30
> mixiユーザー 

貴重な情報ありがとうございます!
住宅街の国宝って面白そうですね!
じつは昨日までまた東京に行ってました。
BANBAMさんの書き込みを読んでいたら違った行動をとっていたかもしれません。
来年行くときの参考にいたします。


mixiユーザー2018年12月19日 13:43
> mixiユーザー
 
わたしの知らない情報ばかりで、ありがとうございます。
古川あんずさんってアングラな人だったようですね。
しかしあのへんの人達って、いま映像で見ると素朴な感じがしますね。


mixiユーザー2018年12月19日 13:45
> mixiユーザー 

この話には続きがありまして、今週また東京へ行ってきました。
また日記に書きますね。
国分寺書店は椎名誠さんの本と違って、かなりまともな古書店だったようですね。

mixiユーザー2018年12月19日 13:56
> mixiユーザー  

確かに。お化粧の方法ばかりではなく、なんとなく埃っぽいですよ。

mixiユーザー2019年03月03日 00:53

私も森田童子さんのファンなのですが、つい先日国分寺のルーフと森田童子さんのご自宅を拝見してきました。
雨が降って寒い昼過ぎでした。傘をさしてご自宅の前に立つのも不審者みたいな気がして、ほんの数分しか見ることが出来ませんでしたが、あまり実感もわかず、車を出してくれたくれた友達とルーフさんでランチをして帰りました。
オーナーさんも、あまり森田童子さんのことを詳しく話したく感じでした。
きっとそっとしていてあげよう、という気持ちがあったんだと思います。

mixiユーザー2019年03月03日 12:45
> mixiユーザー
 
ありがとうございます!
roofにはまだ前田亜土さんの写真は飾ってありました?
ちらほらと森田童子ファンが訪れるとおっしゃってました。
オーナーも口は重たいけどこちらが質問すると的確に答えてくれましたので、そういう性格もあるんじゃないかと思いましたがいかがでしょうか。
だからもしも次に行くときがあれば前もって質問を考えておいたほうがいいかも。
わたしはこのときから一週間後にもう一度国分寺へ行きました。
二つ後の日記に書いてありますので読まれました?
調査の結果は興味深いものでしたよ。

https://open.mixi.jp/user/614168/diary/1969546621

57. 中川隆[-8654] koaQ7Jey 2021年1月03日 20:02:25 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[26] 報告
森田童子が死去…素顔や性別と本名&死因まとめ|結婚や旦那など家族情報も公開
https://newsmatomedia.com/morita-douji


1976年に「ぼくたちの失敗」が大ヒットし、1970年代からシンガーソングライターとして活躍してきた森田童子さん。2018年4月24日に亡くなっていたことが分かり話題になっています。

亡くなった死因を含め、森田童子さんの生前の活躍について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。

森田童子〜本名も生い立ちも一切不明の謎のシンガー

森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子さんは本名と同様に生い立ちや家族についても現役当時から現在までに明かしたことはなかったようです。また、森田童子さんはさる有名作詞家の姪だという噂が流れていたようですが、本人が認めたわけではないためあくまで噂に過ぎないようです。

本名: 前田美乃生
生年月日: 1953年1月15日
出身地: 東京都
死没: 2018年4月24日(65歳没)
ジャンル: フォーク、J-POP
職業: シンガーソングライター
活動期間: 1975年 – 1983年
レーベル: ポリドール(1975 – 1979)、ワーナー・パイオニア(1980 – 1983)
事務所: 小澤音楽事務所、海底劇場

引用:Wikipedia – 森田童子

森田童子さんは高校生だった1970年頃に巻き起こった学生運動で友人が逮捕されてしまったことをきっかけに高校を中退しました。

しばらく何をすることもなく自由な生活をしていた森田童子さんですが、友人が若くして亡くなったことをきっかけにして歌を作り始め、この友人を歌った歌「さよならぼくのともだち」がデビュー曲となりました。

同曲により森田童子さんは1975年10月にポリドール(現・ユニバーサルミュージック合同会社)からシングルレコードで歌手デビューを果たしています。

森田童子さんは1980年には同レーベルからワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍しましたが、テレビなど表舞台にはほとんど姿を見せずライブハウスを中心にコアなファンを獲得して活動していました。

森田童子の性別は女〜引退後は西荻窪で専業主婦として子育て生活?

森田童子
出典:https://twitter.com/

最期まで露出を拒み続けた森田童子

森田童子さんは1975年に「さよならぼくのともだち」で歌手デビューを果たすと、当時の若い世代の生き苦しさを代弁するような歌詞と、囁きかけるような切ない歌声が絶大な支持を呼び、「孤立無援の唄」「男のくせに泣いてくれた」などヒット曲を連発したシンガーソングライターでした。

森田童子さんは徹底して露出を拒み、本名などプライベートな情報は不明の謎のシンガーで、基本的にライブハウスを中心に活動をしていました。

また、森田童子という変わった芸名の由来は、当時ラジオドラマで放送された『笛吹童子』から来ているそうです。

1983年までにシングル4枚とアルバム7枚をリリースして、同年に最後のアルバム「狼少年 wolf boy」を発売するとともに同年に新宿ロフトでのライブを行い、それを最後に音楽界から引退してしまいました。

引退後の森田童子さんは結婚して主婦として子育て中心の生活をしていたと言われていますが、プライベートの実生活について徹底して秘密主義を貫いていたため、トレードマークとなっていたサングラスにカーリーヘアー以外に素顔は見られておらず、本名すら明るみに出たことは一度も無いようです。

ちなみに、森田童子さんは一部ファンの間では東京・杉並区の西荻窪周辺に住んでいると噂されていました。

引退後となる1988年には森田童子さんのアルバム『GOOD BYE グッドバイ』『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』『A BOY ボーイ』『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』の初期4作がCD化されてリリースされました。

1989年9月には学生運動と恋愛をテーマにした映画『グッドバイ』に森田童子さんの楽曲が使用され、映画の音楽と合わせてサウンドトラックCDが発売されています。

若者の心情を代弁するような歌詞も森田童子さんの実体験を元にしたわけではなく、自らのこう在りたいという願望を書いたものであり、性格は非常に大人しく寡黙で、曲に対して自分の生活感を入れ込むことは避けていました。

以下のYouTube動画は森田童子さんの代表曲である「ぼくたちの失敗」です。


YouTube: 【Music Video】森田童子「ぼくたちの失敗」

森田童子の家族〜結婚した旦那はマネージャーの前田亜土

森田童子
出典:https://images-na.ssl-images-amazon.com/

音楽界からフェードアウトした森田童子

森田童子さんのレコーディングの編曲を担当したのはアコースティックギター奏者の石川鷹彦さんがしており、マネージャーを担当していた前田亜土さんとその後結婚して子供にも恵まれたと言われていますが、旦那は2010年に他界しています。

森田童子さんは音楽界を引退してからは主婦として子育てをしながら生活しており、二度と表舞台には姿を見せませんでした。

その理由の1つとして2010年5月に朝日新聞の取材に対し、音楽活動をできない理由として旦那である前田亜土さんが同年に死去したことによるショックと、持病を抱えているからだと明かしています。

【追悼】森田童子
さっきTVで特集してた。ロフトの平野さんが出ていた。この方が森田童子を見いだしたんだね。#新宿ロフト#森田童子#高校教師 pic.twitter.com/kbzbKx01b3

— 先輩のハト🇯🇵 (@senpai_hato) 2018年6月13日

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森田童子、『高校教師』の主題歌起用で一躍メジャーに!!
森田童子、1993年ドラマ『高校教師』の主題歌が大ヒットに!
森田童子
出典:https://auctions.c.yimg.jp/

メジャーを嫌った森田童子

森田童子さんはメジャー化することを嫌っていたためライブハウスでの活動にこだわり、コアなファンにはカリスマ的な人気を得ていましたが広く知られたミュージシャンではありませんでした。

しかし、1993年1月から放送されたドラマ『高校教師(TBS系)』の主題歌に森田童子さんのヒット曲『ぼくたちの失敗』が起用されたことで、そのシングルCDはミリオンヒットに迫る売上げを記録しました。


出典:https://www.pinterest.jp

1993年版ドラマ『高校教師』

真田広之と桜井幸子が演じ大ヒットに!

同ドラマの脚本を務めた野島伸司さんは、高校時代に友達に誘われて行ったライブハウスで森田童子さんの歌を聴いて衝撃を受けたため自身のドラマで起用したようです。


出典:http://ichigen-san.cocolog-nifty.com

同ドラマは高視聴率を記録したため、同年3月には森田童子さんのベストアルバムとなる『ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション』がリリースされました。

これにより森田童子さんの曲は多くのファンを獲得することになり、同年4月にはオリジナルアルバム7枚全てがCD化(4枚は再CD化)されて、当時の若い世代にも人気を集めましたが、それによりメディアがこぞって取材を申し込むも森田童子さんは露出を嫌い受けることはありませんでした。

同年11月には映画『高校教師』で森田童子さんの楽曲『たとえばぼくが死んだら』が主題歌に起用されました。

森田童子さんの楽曲について当時リアルタイムに心酔していたファンは以下のように述懐しています。

1976年発売のシングルに光があたり、採用されたわけだが。まるで90年代前半、その時代のリアルタイムの曲のようだった。まさに、私たちのために存在するかのような詩の世界観、空気感だった。思わず、シングルだけでなく、当時、リリースされたアルバム(ベスト盤を中心に聴いたのだが)も入手したが、ますますその想いを強くした。

引用:BLOGOS – 90年代前半の空気感そのものだった森田童子

森田童子、2003年に上戸彩が演じた『高校教師』でも主題歌に

出典:http://www.tbs.co.jp

2003年1月に10年振りに藤木直人と上戸彩によるドラマ『高校教師』が放送され、森田童子さんの楽曲『ぼくたちの失敗』は再び主題歌に起用されました。


同ドラマに合わせて森田童子さんは2003年にもベストアルバム『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』をリリースしましたが、アルバム『ラスト・ワルツ』収録曲である「海が死んでもいいョって鳴いている」の歌詞を一部変更、「ひとり遊び」は森田童子さんが自宅でギターとハーモニカの演奏をしながら新しくレコーディングされたことで最後の作品となりました。

森田童子さんの音楽活動は完全に途絶えましたが、2015年9月に公開された映画『GONIN サーガ』では「ラスト・ワルツ」が挿入歌に起用されています。

1993年版ドラマ『高校教師』のアルバムは廃盤となっていたため市場に出回らず入手困難な状況が続いていましたが、23年ぶりとなる2016年7月に再発売がされています。

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森田童子の楽曲は様々なアーティストがカバー

森田童子
出典:https://auctions.c.yimg.jp/

様々なアーティストによって楽曲がカバー

森田童子さんの楽曲は多くのアーティスによってカバーされてきました。

森田童子さんの楽曲はドラマ『高校教師』によりメジャーとなり、代表曲である「ぼくたちの失敗」は音楽グループ「YMCK」や歌手・cheeさんなどによりカバーされています。

「たとえばぼくが死んだら」はロックバンド「eastern youth」や歌手の山中さわおさん、YO-ENさんなどにカバーされています。

また、ノイズ系ミュージシャンのJOJO広重さんが率いるユニット「スラップ・ハッピー・ハンフリー」でもカバーされており、多種多様なミュージシャンに愛されてきました。

森田童子さんの話題性に乗っかって多くのメディアが出演依頼などをオファーしましたが、森田童子さんは「今は普通の主婦なのでそっとしておいて欲しい」と表舞台に出ることを拒否し続けてきました。

森田童子さんがここまで露出を拒んだ理由をファンは以下のようにコメントしています。

なぜか。それは、彼女の歌が「時代の痛み」を共有するものだったからだ。

 デビュー曲の「さよならぼくのともだち」は70年安保の学生運動で挫折した若者たちへの哀切に満ちた挽歌であり、明るいラブソングは、ドロップアウトした孤独な若者の痛みに寄り添っていた。

 そんな彼女が時代に合わせた歌を歌うわけがない。

引用:@niftyニュース – ベールに包まれた森田童子さん 時代の“痛み”背負い生きた

森田童子65歳の若さで死去〜死因は心不全
森田童子、2018年4月24日に死亡していたことが判明

森田童子
目もとのダルダルが加速する原因は「お風呂で〇〇をしていないから」皮膚科医の...
目もとのダルダルが加速する原因は「お風呂で〇〇をしていないから」皮膚科医の妻が暴露
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森田童子は2018年4月24日に亡くなった

森田童子さんが2018年4月24日に亡くなっていたことが6月1日に分かり報じられました。享年65歳でした。

森田童子さんの死因は心不全だと報じられていますが、6月1日に発行された「日本音楽著作権協会(JASRAC)」の会報に訃報が掲載されていたことから明らかとなりました。

森田童子さんの亡くなる前の様子を音楽関係者が語っており、2017年頃から体調不良のため入退院を繰り返していたようですが、退院して間もなく心不全を起こして亡くなったそうです。

森田童子さんの訃報は芸能界にも波紋を広げ、有名芸能人らが追悼のコメントを出しています。

森田童子への追悼コメント エドはるみ
森田童子
出典:https://www.suruga-ya.jp/

エドはるみは森田童子の大ファンだった

お笑い芸人のエドはるみさんは2018年6月13日に自身のオフィシャルブログを更新して森田童子さんの訃報にコメントを掲載しました。

エドはるみさんは森田童子さんの全盛期に聴いていた世代のようで、突然の訃報に落胆した様子を綴っています。

森田さんの訃報に触れ「森田童子さんが亡くなったと、昨夜遅くに帰宅して知った。とてもショックだった」とつづった。

「森田童子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。魂を揺さぶる歌を本当にありがとうございました」と感謝の言葉で結んだ。

引用:日刊スポーツ – エド・はるみ「心癒やしてくれた」森田童子さん悼む

エドはるみさんが初めて森田童子さんの曲に触れたのは小学校6年生の頃だったようで、「雷に打たれたような衝撃だった」と語っています。

それからは森田童子さんのレコードを買い漁ったようで、エドはるみさんは当時小学生ながら森田童子さんの繊細な感性に心を癒されて虜になっていたこと、17歳の時に初めてコンサートをで生歌に触れて涙が止まらなかったことを明かしました。

エドはるみさんの実家には現在も森田童子さんのレコードがすべて残っているそうで、追悼の意味も込めて帰郷した際には森田童子さんの世界に浸ろうと思っていることを綴っています。

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森田童子への追悼コメント 東国原英夫

森田童子
出典:https://pbs.twimg.com/

番組で訃報にコメントした東国原英夫

2018年6月13日に放送されたバラエティ番組『ゴゴスマ〜GOGO!Smile!(TBS系)』でコメンテーターとして出演した東国原英夫さんは森田童子さんの訃報に眉をしかめながらコメントしました。

東国原英夫さんは当時森田童子さんに魅了されたひとりであることを明かしています。

「僕はコンサート行きました。超有名でしたから。あの頃はみんな行っていますよ。吉田拓郎さんとか井上陽水さんとかも行った」という。「僕は昭和51年に高校卒業して大学に入った。(森田さんは)昭和50年デビューでフォーク全盛時代でしたから」と振り返った。

引用:スポーツ報知 – 東国原英夫氏、森田童子さんのコンサートに「行きました。超有名でしたから」

東国原英夫さんは学生運動で傷ついた若者を癒す歌も歌っていた森田童子さんについて「暗い、重たい感じでした」と感想を述べる一方で、フォークソングは対照的に聞きやすい良い歌詞、歌であったことを語っています。

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森田童子への追悼コメント 福島瑞穂、小室みつ子

森田童子
出典:http://www.kinyobi.co.jp/

その他著名人が森田童子の訃報にコメント

芸能界のみならず政界からも森田童子さんの訃報にツイッターなどでコメントを出しています。

社民党の福島瑞穂さんや作詞家の小室みつ子さんなどがツイッターで森田童子さんの訃報にコメントを投稿しています。

社民党の福島瑞穂参院議員(62)はライブハウスに足を運んでいたそうで「つぶやくような、語りかけるような透明な歌声。たくさん歌を聴いていた」。作詞家の小室みつ子氏(60)は「透明な声も、歌詞もメロもサウンドも心の奥深くまで突き刺さる力があった」とそれぞれツイッターで悼んだ。

引用:RakutenInfoseek – 森田童子さん突然の訃報に各界ファンから悲しみの声

まだまだ多くの著名人が森田童子さんの訃報にブログやツイッターなどSNSでコメントを出しているようで、露出は極端に少なかったもののその存在の大きさを物語っているようです。

森田童子への追悼コメント 海外の反応
森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子は中国でも人気だった

森田童子さんの訃報は中国でも報じられ、ファンはSNSなどで悲痛な思いを投稿しています。

世界でのツイッターに当たる中国のSNS「微博(ウェイボー)」では、森田童子さんの訃報が伝えられたことで『高校教師』などのドラマを観ていたファンらが悲しみの声を投稿していました。

「愛する日本の女性シンガー、森田童子さんをしのぶ」とする記事を12日未明に投稿した中国のファンは、「森田さんの訃報を友人から伝えられた」とし、森田さんの「たとえばぼくが死んだら」を聞きながら朝まで過ごすつもりだとつづっていた。

引用:Record China – 森田童子さんの訃報に中国で驚きと悲しみの声、名曲聴いてしのぶファンも

森田童子さんは日本でも決して有名なミュージシャンではありませんでしたが、その繊細で心に訴えかけるような歌声は国外でも愛されていたようです。

森田童子、死去後にカバーやファンイベントの動きも…

森田童子
出典:https://www.asahicom.jp/

森田童子を偲んでファンがイベントを企画

森田童子さんの追悼イベントとしてファンらがカバー音源などを持ち寄って追悼イベントを企画しているようです。

多くのファンにカバーされてきた森田童子さんの楽曲ですが、メジャーシーンでも有名アーティストらがカバーアルバムで追悼の意を表す動きがあるようです。

「森田さんを尊敬しているアーティストは多いので、イルカ、中森明菜、谷村新司などがカバーアルバムを出す可能性があると聞いています。名曲もたくさんありますし、潜在的なファンも多いですから」(音楽ライター)

引用:exciteニュース – 名曲「ぼくたちの失敗」森田童子死去…ファンがイベントを開催か

そして、森田童子さんが亡くなったという情報が広がると同時にYouTubeなどでの動画再生回数は軒並み急上昇しているようで、実店舗、通信販売問わずCD販売店ではベストアルバムの予約が殺到しているそうです。

その勢いは森田童子さんのベストアルバム『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』がオリコンチャートのベスト10入りを果たすかもしれないと言われています。

森田童子さんを曲が再注目されることで、高視聴率を稼ぐことができるドラマ『高校教師』も再びリメイクされる可能性があるようです。

#森田童子さん安らかに

高校の時
先生と恋をしました

春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
うもれていたぼくは 弱虫だったんだよね

ぼくがひとりになった部屋にきみの好きなチャーリー・パーカー 見つけたよ
ぼくを忘れたかな

ドラマ『高校教師』主題歌
森田童子/ぼくたちの失敗 pic.twitter.com/ULqpql6NyB

— じゃど〜る(いいねが消える。ごめんちゃい) (@jadore_injoy) 2018年6月12日

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像特集

森田童子
出典:https://ord.yahoo.co.jp/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像@

森田童子さんはカーリーヘアーに丸型サングラスがトレードマークでミステリアスな雰囲気を漂わせていました。

森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像A

素顔をほとんど見せることが無かった森田童子さんですが、美人の雰囲気を持っていることが分かります。

森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像B

森田童子さんは容姿ではなく歌そのものに没頭して欲しいと思って素顔を見せなかったのかもしれませんね。

森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像C

この画像が森田童子さんかどうか確証はわりませんが、素顔で検索すると出てきます。

森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像D

この画像も森田童子さんの素顔で検索すると出てきますが本人かどうかはわかりません。

森田童子
出典:https://ord.yahoo.co.jp/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像E

この画像は森田童子さんによる弾き語りと言われていますが、比較的近年撮影されたものかもしれませんがやはり本人かどうか確証はありません。

森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像F

この画像が昔の若い頃の森田童子さんならかなり美人だったことが伺えます。

森田童子
出典:https://twitter.com/

森田童子の昔の若い頃や素顔の画像G

森田童子さんを検索すると出てくるこの女性は月蝕歌劇団の役者の白永歩美さんという人で別人です。

森田童子さんの素顔について完全に本人を特定できる写真は無かったようですが、6枚目は鼻の特徴が似ていることから本人なのかもしれません。

Jun.16 🎶⌒♬
Ⓖⓞⓞⓓ Ⓔⓥⓔⓝⓘⓝⓖ
最近、森田童子さんの
素敵な曲、詩の数々を知りました。
何とも言えない
触れると壊れてしまいそうな
ガラス玉のような声
とても繊細で惹かれています
~☆
🎼 ~G線上にひとり・森田童子
https://t.co/0eqmjmzPNK pic.twitter.com/CYiYpLWqO7

— yumiko☘⌒♡ (@yumikostats) 2018年6月16日


森田童子について総まとめすると…
・森田童子の性別は女性、本名は非公開で生い立ちも謎のシンガーソングライターである。

・森田童子は1983年、新宿ロフトでのライブ最後に音楽界から引退した。

・森田童子はマネージャーだった前田亜土さんと結婚。子供にも恵まれたようで引退後は専業主婦をしていた。

・森田童子は2018年4月24日に65歳で死去。死因は心不全だった。

1970年代から若者の心の葛藤を代弁するような歌詞と歌声でカリスマ的な人気を誇ったシンガーソングライター・森田童子さんについて総まとめしてきました。

森田童子さんは2018年4月24日に心不全のため亡くなっていることが同年6月1日に分かりましたが、訃報を機に知って曲を聴き始めた人も少なくないようです。

森田童子さんは65歳という若さで亡くなりましたが、子供は現在20、30歳代くらいだと思われます。

日本の音楽シーンの中でも特に森田童子さんは稀有な存在でしたが、またひとり昭和のカリスマが亡くなり世代交代が進んでいるということでしょう。

https://newsmatomedia.com/morita-douji

58. 中川隆[-8653] koaQ7Jey 2021年1月03日 20:07:00 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[27] 報告
☆☆ 森田童子について語りませんか ☆☆
http://music4.2ch.net/test/read.cgi/legend/1041553283/
☆☆ 森田童子について語りませんか Part.2 ☆☆
http://music8.2ch.net/test/read.cgi/legend/1132826757/
☆☆ 森田童子について語りませんか Part.3 ☆☆
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/legend/1221585808/
☆☆ 森田童子について語りませんか Part.4 ☆☆c2ch.net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1486286494/
☆☆ 森田童子について語りませんか Part.5 ☆☆
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1530267127/
☆☆ 森田童子について語りませんか Part.6 ☆☆
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1532530974/
☆☆ 森田童子について語りませんか Part.7 ☆☆
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1533661210/
☆☆ 森田童子について語りませんか Part.8 ☆☆
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1539527568/l50


森田童子の本名は前田美乃生・旧姓は中西美乃生
死亡日は推定 平成30年4月16日
一週間後の24日に孤独死による変死体で発見される
死亡時の年齢は65歳
住所は東京都国分寺市本多2丁目〜〜

番地は「大島てる」の事故物件サイトで確認のこと
この建物は昭和57年3月に新築
自宅購入にあたり前田美乃生さんは夫と連名で住宅ローンを組んだ
夫の前田亜土こと本名・前田正春は平成21年10月31日に死亡している

正春の死後、2015年に自宅には公明党の掲示板とホームセキュリティの監視カメラが導入された
これは森田童子こと前田美乃生が夫・正春の死後、精神的に不安定になったからではないかという説が出されている

この家は有限会社海底劇場音楽出版の登録上の本店でもある
森田童子の作品の原盤権を管理している会社だ
詳細は会社の法人登記謄本、該当住所の不動産登記謄本をダウンロードされたい

59. 中川隆[-8652] koaQ7Jey 2021年1月03日 20:42:49 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[28] 報告
伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった...親交のあった劇作家が素顔と音楽を語る
リテラ2018年7月4日
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_4105/


伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった...親交のあった劇作家が素顔と音楽を語る

       
 4月に亡くなっていたことがわかった森田童子。森田といえば、1975年にファーストシングル『さよなら ぼくの ともだち』を発表して注目を集め、当時の若者からカルト的な支持を受けていたフォークシンガーだが、その素顔は謎に包まれていた。本名は非公開、人前ではサングラスを外さず、アルバム7枚、シングル4枚を発表して、1983年に事実上の引退。1993年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマ『高校教師』(TBS系)の主題歌となり、シングルCDが100万枚近くのリバイバルヒットとなったが、そのときも表舞台に出てくることはなかった。

 そして、森田が伝説のまま逝ってしまったいま、その音楽をリアルタイムで感じたことのある人も少なくなっている。いったい彼女は当時の若者にとってどういう存在だったのか。そして、その素顔は......。森田の歌のファンで彼女と親交があった劇作家の高取英に話を聞いた。

 高取が森田童子と知り合ったのは、森田がデビューしたすぐあと、1976年から1977年のことだったという。

「『音楽全書』(海潮社)という音楽誌で森田童子について書いたのですが、彼女のマネージャーでイラストレーターの前田亜土さんから連絡がありまして。前田さんと親しくなって、それから付き合いが始まったんです。公表してませんでしたが、前田さんは森田童子のパートナー、夫でもあった」

 以後、高取は森田のライブに足しげく通い、ライナーノーツも執筆したり(『森田童子全集V a boyア・ボーイ』などに収録)、森田も高取の演劇の公演に顔を見せるようになった。そして、お互いの音楽、演劇に批評文を寄せ合う関係になったという。

「私が作った芝居『少年極光 (オーロラ) 都市』の音楽を作っていただいたこともあります。僕の詩に曲をつけるのに、『私、人の詩に曲つけたことないんですよねー』って言うから、『好きにしていいですよ』と、彼女のいいと思う形に変えてもらって、3曲作ってもらいました」

 高取は当時、自分たちが森田童子に強く惹かれた理由について、こう分析する。

「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1〜2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」

 全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が"弱さ"に光をあてていたことだった。

「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」

●森田童子引退の理由は? ドキュメント映像で語っていた消えていく覚悟

 また、森田は、当時、まだ根強く残っていた「男は強くたくましく」「女はおしとやかに」という性の固定観念からも解放してくれる存在でもあったという。

「当時はさまざまな価値観が大きく転換し始めた時期ではありますが、まだ、男らしさ、女らしさという意識は残っていました。そんななかで、森田童子の歌の内容は、センチメンタルというか、ある種"女々しさ"と呼ばれるようなものだったかもしれない。でも、その女々しさを堂々と歌い上げたことで、男女の性差を超えて、孤独感のある人、友人をな無くした人、運動に挫折した人、そういう、やさしくて弱虫かもしれないという人たちに響いた。『さよなら ぼくの ともだち』という歌の中にも『弱虫でやさしい静かな君を僕はとっても好きだった』という一説があるんですが、そんなことを歌う人はこれまでいなかったんですよ。強がっている人はたくさんいるけど、強い人なんて実はいない、弱虫であること、それが好きだったといってくれた」

 森田の音楽を"女々しさ"という言葉で説明する高取だが、実は森田の側も高取の作品に同じく"女々しさ"を見ていた。高取の代表作『聖ミカエラ学園漂流記』を批評する文章の中で、森田はこう書いている。

〈『聖ミカエラ学園漂流記』の高取英の劇作法は、拙い少年少女の肉声を惜りることによって、高取英の女々しい反逆の試みは、確かに不思議な説得力を持ち得た〉

 ふたりが表現で深く繋がっていたことを物語るエピソードだが、しかし、その高取も、森田の素顔についてはよくわからないままだったという。

「サングラスを取った素顔は、わたしも見たことがありません。カーリーヘアもおそらくカツラでしょうし、素顔は一切隠してましたね。プライベートなことも一切話さない。前田さんと結婚していることも、本人たちは一切話しませんでした。それに物静かで、とつとつとしか喋らない人なので、感情の動きもよくわからなかったし、曲のイメージそのままでした」

 1983年、彼女が音楽活動を引退する直前には、こんなこともあったという。

「『聖(セント)ミカエラ学園漂流記』(群雄社出版)の出版記念パーティーに来ていただいたんです。それで、『スピーチをお願いできますか?』って言ったところ、彼女はイヤだとははっきり言わないで『え、え......』って。そのあと、3分ほどしたらその場から消えていました。スピーチの話を急に言われてとまどったのでしょう、悪いことしたなって」

 森田らしいエピソードだが、それからまもなくして、森田は本当にすべての表舞台から完全に姿を消してしまった。

「引退の理由を出産とか病気とかいう人もいましたが、そういったことではなくて、音楽活動をするなかで、自分が言いたいことはもう言いつくしたという感じだったんじゃないかな。80年頃、森田童子の屋外ライブの企画から実現までを追った『夜行』というドキュメント映像があるんですが、その中で森田が『私たちの歌が消えていくさまを見てほしいと思います』という言葉を口にしています。やることをやったら消えていく、最初からそういう覚悟があったんでしょう」

 しかし、彼女の歌と記憶はそれから30年以上たったいまも、1970年代に青春を過ごした人々の心の中に強く刻まれている。7月19日には、高取も出演する追悼イベント「夜想忌 〜さよならぼくのともだち〜 追悼 森田童子」が開催される予定だ。(敬称略/高橋南平)

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_4105/

60. 中川隆[-8651] koaQ7Jey 2021年1月03日 20:55:10 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[29] 報告
381可愛い奥様2020/12/27(日) 19:25:44.56ID:PCLbmfwo0
流れブッタでごめん

なかにし礼の実兄、中西正一娘の中西美乃生は森田童子って知ってた?

森田童子の旦那がアドプロモーション社長の前田亜土(前田正春)
なかにし礼の兄は住〇連合の構成員だった、風吹ジュン軟禁事件の首謀犯
4人とも亡くなってるけど
豊悦がなかにし礼で、兄役がたけしのドラマが昔あったわ
現実はもっとドロドロだったんだね

なかにし礼はキャンディーズに1曲だけ作詞しているけど、
ナベプロとも何かありそうね

https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/ms/1608963474/381

61. 中川隆[-8650] koaQ7Jey 2021年1月03日 20:59:15 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[30] 報告
風吹ジュンさん誘拐事件
2020-11-27
https://ameblo.jp/morino3106/entry-12636293643.html

風吹ジュンさん
芸能界で長く活躍されて
ます。
今も綺麗ですよね。
若い頃は、凄く可愛らしい、サイダーが合いますね

https://twitter.com/bijyobijyojapan/status/1075001016309829633?s=09


そんな風吹ジュンさん、
昔、移籍問題で、
大変恐い目にあったそうです((( ;゚Д゚)))

なかにし礼さんは、
昭和歌謡の作詞家で
今も小説など書いて
活躍されてます。
お兄さんは中西正一
というんですね。

若い頃は、兄弟で、
なかなかヤンチャな❓❔
一面があったのですね。
不仲なんて、信じられませんね❓❓

この事件Wikipediaに
載ってませんね?

 

「高校教師」(TBS)のテーマソングで大ヒットした
「ぼくたちの失敗」
あの歌を歌った
森田童子さんは、
なかにし礼さんの姪に
当たるそうです。

森田童子さんて、
一人っ子のイメージが
ありますが、
三人兄弟で、
姉と弟がいるそうです。


森田童子さんは、
2年前に亡くなっています


公明党の掲示板
一週間後に発見……

https://ameblo.jp/morino3106/entry-12636293643.html

謎めいてますね……

62. 中川隆[-8649] koaQ7Jey 2021年1月03日 21:04:10 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[31] 報告
【弟:なかにし礼】兄:中西正一の画像↓死因や年齢も
2020-12-25
http://mybouzu.info/entertainment/%e3%80%90%e5%bc%9f%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%97%e7%a4%bc%e3%80%91%e5%85%84%e4%b8%ad%e8%a5%bf%e6%ad%a3%e4%b8%80%e3%81%ae%e7%94%bb%e5%83%8f%e2%86%93%e6%ad%bb%e5%9b%a0%e3%82%84%e5%b9%b4%e9%bd%a2

今回は、作詞家の「なかにし礼」さんを取り上げます。

2020年11月2日、風吹ジュンさんの事務所独立を巡る誘拐事件が「デイリー新潮」にて取り上げられました。

実は、この誘拐事件に礼さんと”その兄”が関与していたのです。


一体、礼さんの兄とはどんな人物なのでしょうか?


風吹ジュン誘拐事件に「なかにし礼」と兄が関与していた

風吹ジュンさんの誘拐事件についてデイリー新潮は次のように報じています。

かなり古い話になるが、
1974年9月に「風吹ジュン誘拐事件」が起きた。

当時、
風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、
レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎなかった。

これに不満を持ち、
倍の月給を提示してきたガル企画という事務所に移籍してしまった。

そんな折、
フジテレビで収録を終えた風吹の前に、
旧所属事務所であるアドプロのマネージャーなど3人が現れ、
風吹の腕をつかんで連れ去ってしてしまったのである。

彼らは風吹をホテルに軟禁状態にし、
事務所移籍を考え直すよう迫ったのだ。

風吹が

「翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならない」

と言い、階下に降りたところ、
待ち構えていた大勢の警官によって保護されることとなった。

人だかりの中には包帯を巻いたガル企画の石丸末昭社長の姿もあった。

この間、石丸社長は、暴力団の事務所で監禁され、
暴行を受けていたというのだ。

風吹を軟禁した中には作詞家のなかにし礼もいたが、
石丸社長は自身の解放の条件として、
風吹との契約を解除するよう、
なかにしの実兄の中西正一から迫られたという。

(2020年11月2日配信)

上記の通り、礼さんの兄である正一さんは風吹さんの契約を解除するように、移籍先の事務所社長を脅迫していたのです。



世間の反応
この記事読んで、春馬くんの事が浮かんだわ。

日本の俳優仲間が何も言わないのは、
芸能界は闇が深いからなのかな…

余計なことを言って、
明日は我が身だとすれば恐くて誰も何も発言出来ないし…

誰も何も言ってくれないから、
余計にそう思ってしまう。

風吹ジュンさんにこんな事があったなんて知らなかった。

表に出てないだけで、
他にもたくさんあるんだろうな…

芸能界の闇、暴力団とのつながり、
かねてから色々ささやかれていますが、
膿を出しきって変革する時が来ているのではないでしょうか。

脅しとか、パワハラであることは勿論、度がすぎれば犯罪です。

マスコミ含め、
業界のあり方が変わらないと、
ブラックすぎて視聴者もドン引きです。

デイリー新潮さん、
他の媒体が春馬事件を避けている中、記者魂を感じます。

今この内容に触れるということは
ふんわりと外堀から掘り進めているのでしょうか。

今後も期待しております。

芸能界は裏社会との駆け引きなど、
旧態依然としていることはよくわかりました。



兄:中西正一の画像あり
礼さんと共に風吹さんの誘拐事件に関与していた正一さんですが、彼はどんな人物なのでしょうか?

そこで、兄について調べたところ、以下の画像が確認されたのです。


※「http://01670167.blog74.fc2.com/blog-entry-2013.html?sp」より引用

礼さんは兄との関係を「兄弟」というノンフィクション作品として発表しています。

その著書によると、兄は放蕩の限りを尽くしており、16年間にも亘って絶縁状態だったと言います。

礼さんは兄が作った巨額の借金を返済する日々に追われており、正一さんが亡くなった時は「万歳」と口にしたようです。



死因や年齢は?
兄の正一さんは1996年に死去されています。

兄が放蕩して作った借金を長年尻拭い。

家と青山のビルを2軒売っても
72年当時で3億円以上の借金が残った。

借金を払い終えた2年後に兄が他界(=96年)。

※「https://www.pasonica.com/なかにし礼/」より引用

著書「兄弟」によると、兄は14歳年上とのこと。

つまり、死去した1996年当時、正一さんの年齢は72歳だったことになります。

ただ、具体的な死因については一切公表されていないため、不明となっています。



【12月25日追記】なかにし礼が死去↓持病の心疾患(心臓病)とは?
2020年12月24日、礼さんが都内の病院で死去していたことが分かりました。

ただ、死因については公表されておらず、詳細は不明となっています。

なかにし礼(本名:中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが24日、
東京都内の病院で死去した。

82歳。

死因は明らかにされていないが、
1カ月ほど前に持病の心疾患で入院していた。

※「スポニチアネックス」より引用
(2020年12月25日配信)

上記の通り、礼さんは心臓に持病を抱えていたのです。

この記事では持病の心疾患については言及されていませんが、その病名は「心筋梗塞」でした。

http://mybouzu.info/entertainment/%e3%80%90%e5%bc%9f%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%97%e7%a4%bc%e3%80%91%e5%85%84%e4%b8%ad%e8%a5%bf%e6%ad%a3%e4%b8%80%e3%81%ae%e7%94%bb%e5%83%8f%e2%86%93%e6%ad%bb%e5%9b%a0%e3%82%84%e5%b9%b4%e9%bd%a2

63. 中川隆[-8648] koaQ7Jey 2021年1月03日 21:13:50 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[32] 報告
《脱法芸能12》風吹ジュン誘拐事件──弱小事務所間の紛争は暴力がモノを言う
2014年10月14日 カテゴリー 星野陽平《脱法芸能》
http://www.rokusaisha.com/wp/?p=5062


私は拙著

『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E8%8A%B8%E8%83%BD%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%B9%B2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B&hvadid=386583246371&hvdev=c&jp-ad-ap=0&tag=asyuracom-22&ref=pd_sl_56sgc3vz17_b

の中でこう書いた。

「芸能資本の力の源泉は有力タレントを所有することにある。だが、タレントは『モノを言う商品』であり、放っておけば芸能資本の手から離れていってしまう。それを防ぐために必要なのは、(1)『暴力による拘束』、(2)『市場の独占』、(3)『シンジケートの組成』の三つである。これは古今東西を問わず、同じ構造だ」

1974年9月に発生した「風吹ジュン誘拐事件」は、(1)「暴力による拘束」に分類されるものだった。


歌の下手さが衝撃だったデビュー曲「愛がはじまる時」(1974年5月ユニオンレコード)

◆デビュー曲25万枚ヒットでも風吹の月給は23万円

富山県出身の風吹ジュンは、京都で中学を卒業した後、18歳で上京し、銀座のクラブで働いていた時にスカウトされた。有名写真家デビッド・ハミルトンがユニチカのカレンダー用に撮影した写真が話題となり、1974年5月、「愛がはじまる時」でレコードデビューし、25万枚が売れ、一躍スターとなった。

当初、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円にすぎなかった。事務所に相談できる人がいないこともあって、9月9日、風吹に倍の月給を提示したガル企画に移籍した。その矢先、事件が起きた。

同月12日午後8時過ぎ、フジテレビで収録を終えた風吹がスタジオから出てくると、旧所属事務所のアドプロのUマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで局の隣にある喫茶店に連れ出した。

風吹がガル企画の石丸末昭社長に電話で連絡をしてみると、「ジュンか、石丸だけどね、君はU君の指図どおりに動いていいんだ。わかるか」と言われた。そこで風吹はUに従って車で品川のホテル・パシフィックへ向かった。

ホテルに3つ取っていた部屋の真ん中に風吹が入ると、アドプロの社長、前田亜土が現れて、「お前は、自分の二重契約を知ってるのか。オレのところにいればいいんだよ」と言った。

さらに作詞家のなかにし礼の実兄である中西正一が風吹とガル企画の専属契約の委任状を見せ、「ほら、これをみればもう納得もいっただろう」と言い、代わる代わる人が入れ替わって、風吹の事務所移籍を非難した。

そのうちなかにし礼が現れて、風吹の腕をつかんで、「そろそろ、あんたにも事態がどうなっているかわかってきただろう」と言った。

そのまま全員でベンツに乗って高輪プリンスホテルに移動し、また風吹への説得が始まった。そして、なかにし礼がやってきて、「要するにアドプロで仕事をすればいいのサ」と言った。

そんなやりとりが延々と続いた後で風吹が翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならないと言い、風吹、U、なかにしの3人で階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって風吹が保護された。そして、人だかりの中には包帯を巻いた石丸社長の姿もあった。

◆筋書きを書いた「黒幕」なかにし礼

石丸社長の身に何があったのか?

同月12日午後5時ごろ、石丸社長はガル企画で働くYマネージャーがなかにし礼の事務所にいたときに作った借金の返済するため、暴力団、住吉連合系大日本興業のI事務所を訪れていた。

石丸社長がIに60万円の借金を返すと、部屋にいたIの子分たちがドアの前に立ちふさがり、別の子分からハンガーで顔面を殴られ、ゴルフのアイアンで、頭や首、手などを叩かれ、残りの3人からも殴る蹴るの暴行を受けた。そして、Iが「床に正座しろ!」と怒鳴った。

やがて奇妙なことに、なかにし礼から電話が入り、Iが「いま石丸を監禁してる。お前の友人だろう。この石丸の身柄を引き取らないか」と、なかにしに言った。Iが石丸社長に「お前からもなかにしに頼んだらどうだ」と言うので石丸社長も受話器を取り、「礼さん、お願いだ、身柄を引き取ってくれないか」と懇願した。だが、なかにしは「いや、それはだめですね、石丸さん」と言って電話を切った。

「オレがもう一度なかにし礼に頼んでやろう」と言ってIがなかにしに電話をかけ、石丸社長が「お願いだ、なんとかしてくれないか」となかにしに頼んだが、なかにしは「いやだめだね」と言ってまた電話を切った。

また、しばらくすると、礼から電話があり、実兄の中西正一に頼めと言った。そこで石丸社長は中西正一と電話で話すことになったが、その際、中西正一は、石丸社長の身柄引き取りの条件として、風吹ジュンが石丸社長に書いた委任状を渡し、風吹との契約を解除し、石丸社長がなかにし礼に貸した280万円の借金を帳消しにすること、を突きつけた。

恐怖のあまり、この条件を石丸社長が飲むことにしたところ、フジテレビの隣にある喫茶店から電話があり、風吹と話をさせられたのだった。

午後8時30分ごろ釈放された石丸社長は、病院に行ってケガを治療してもらい、事務所に戻り、弁護士と相談してから警察に通報し、警視庁に出頭した。事態を重く見た警視庁は、パトカー20台と警官80人を高輪プリンスホテルに動員し、風吹を保護した。

そして、9月20日、風吹と石丸社長らは、連名でなかにし礼、中西正一、アドプロの前田亜土、大日本興業のIらを相手に監禁、強要、強盗傷人などの罪で告訴した。

この事件で筋書きを書いた「黒幕」とされたのが、なかにし礼だった。アドプロ社長の前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女。なかにし兄弟はとおにアドプロの重役であり、石丸社長を襲ったIは金融面でアドプロと繋がりがあったという。

一方、なかにし礼側の主張によれば、石丸社長の親戚には九州の暴力団組員がいて、石丸社長は風吹の移籍問題でもそれを持ち出してアドプロを脅していたという。

◆暴力沙汰は「諸刃の剣」

なぜ、このような問題が起きたのだろうか、ということを考察してみたい。

まず、風吹ジュンをめぐって争奪戦を演じた石丸社長と前田亜土は、もともと芸能界とは縁がなかったということがある。石丸社長は上野で鉄鋼業を営んでおり、ガル企画を設立したのも、風吹と個人的に「私の芸能活動についてすべてを石丸氏に委任します」と一筆もらってからのことだった。前田亜土にしてもイラストレーター上がりで、芸能事務所を始めたのも風吹を抱えることになってからのことだった。

大手の芸能事務所であれば、業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)に加盟しているが、音事協ではタレントの引き抜きは禁じており、基本的にこの種のトラブルは起こらない。風吹ジュン誘拐事件は、芸能界のメインストリームを外れた弱小事務所同士だからこそ起こった事件だった。そして、弱小事務所同士の紛争は暴力がモノを言う。

だが、風吹の移籍トラブルは、誘拐事件として大きく報道されたため、風吹を奪った側のなかにし陣営は大きなダメージを受け、結局、風吹の所属先は、ガル企画に落ち着いた。また、風吹自身も、この事件によって経歴詐称なども暴かれ、大きくイメージダウンを余儀なくされた。

タレントの引き抜きなどで、芸能界では暴力事件が起こることもある。だが、事件が明るみに出ると、タレントを奪う側としても、奪われる側としても、そして、業界全体としてもダメージは大きい。そのため、芸能界では諸刃の剣ともいえる暴力が発動されることは滅多にない。そもそも、引き抜きを未然に防止することが重要であり、そのために音事協という組織があるのだ。

(星野陽平)
http://www.rokusaisha.com/wp/?p=5062

64. 中川隆[-8647] koaQ7Jey 2021年1月03日 21:26:05 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[33] 報告
>なかにし礼の実兄、中西正一娘の中西美乃生は森田童子
>森田童子の旦那がアドプロモーション社長の前田亜土(前田正春)
>なかにし礼の兄は住吉連合の構成員だった、風吹ジュン軟禁事件の首謀犯


>アドプロ社長の前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女。
>前田亜土にしてもイラストレーター上がりで、芸能事務所を始めたのも風吹を抱えることになってからのことだった。

前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女

というのが

中西美乃生=森田童子

なんですね。


65. 中川隆[-8646] koaQ7Jey 2021年1月03日 21:44:10 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[34] 報告
【追記 18-07-28】

ネット上には、どこからともなく、彼女が著名な作詞家の姪らしいという噂が流布されていた。なかにし礼、という固有名詞を挙げてあるものも最近では少なからず、先日このふたりをキーワードにして検索。その結果から次のふたつに注目してみた。

松風亭日乗:densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html

「なかにし礼」のコメントが作家作詞家なかにし礼本人なのかどうか。別人がそんな事をしてどんな意味があるのか私にも謎だが、ネットは何でもありというのも確かな経験則である。とした上で、「自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてる」 と断定しているのは、上に紹介した10年の朝日新聞の記事内容を踏まえれば首肯できない。
「自殺誘発ソング」の旗手だったとはいえども、近親者(配偶者であるとは後で判る)との死別、自らの病いに苦しむ有様は、バチが当たったと反省しているのではないか、とでも形容されていい状態だったからだ。

永井均 tweet:twitter.com/hitoshinagai1/status/852547262966243328
永井均はヴィトゲンシュタインを読んでいた時にお世話になった。判り易い説明で核心がストンと腑に落ちたという記憶がある。はるか昔の話だ。
スレッドを辿ると愛憎相半ばする書き込みに意表を衝かれるが、「深く深く納得した。事実は小説より奇なり!」という言葉に導かれて、なかにし礼『兄弟』を読む事に。報告は後日。


【追記 18-08-01】

文学作品として鑑賞しようとは思わなかった。私小説形式の自伝として、童子との関連で目を通した。

登場人物名でいうと、兄の次女、中西美以子が童子に該当する。それ以外に年齢的にマッチする近親者はいない。
兄夫婦は小樽、東京、青森と流れ、再び上京して、すぐ次女が生まれる。
特攻崩れを自称する兄は人格破綻者に近くなり、「事業」を目論んでは失敗して借財を膨らませ、弟の禮三(なかにし礼)が作詞家として成功した後は、「家長」として弟の稼ぎを犯罪的な手法で平然と流用する。
なかにしの2度目の結婚を契機に彼らは暮らしを別にするが、これが71年。童子デビューの2年前になる。
この後も、兄の巨額の尻拭いは6年後の母の死を経て更に2年後の訣別まで続く。ざっといえば童子の活動期間とほぼ一致する時期である。

このような係累を持つ人間なら、誰でも秘匿しようとするだろう。
この事はとてもよく判るが、彼女の父親がこの黄金を生む娘をどのように利用したか、あるいは利用しようとしたかについて、『兄弟』は全く触れていない。というよりもその前に、自分の姪が童子である事は、匂わされてもいない。
また、童子がなかにしの姪であるとすれば、阿久悠と並んで稀代の作詞家たる彼の血を引いたと、つい思いたくもなるが、彼自身の作品であるという可能性はないのか。小説より奇なり、とは、実はこのような、あるいは更に別の、この作品から離れた事情を指摘しているのではないか。


【追記 18-08-07】

この歌もそうか、あの歌もそうか、というミューズの化身のような時代が、作詞家なかにし礼には確実にあった。しかしその初期から中期にかけて、恥部とでもいうべきふたつの事件の中心人物として、彼はマスメディアの集中砲火を浴びた。「芸能界相愛図」事件と風吹ジュンへの拉致監禁事件である。いうまでもなく『兄弟』では片鱗も窺う事ができない。
前者はこの文章と関わりを持たないので省略。後者について、最も詳細に説明された記事を次行に紹介しよう。
デジタル鹿砦社通信:《脱法芸能12》風吹くジュン誘拐事件
ここに登場するアド・プロモーション社長前田亜土の名前が、童子のマネージャ兼配偶者として彼女の死後、私たちの聞き及ぶところとなった。
事件とその後の収束期間を考えれば直後といえるような時期に童子はレコード・デビューしているのだが、何故ここに犯罪的なプロダクションの社長が関わってくる事になるのか。浮世離れしたシンガーソングライターの背景に広がる闇の世界、はたまた汚濁の池に咲く白蓮、とでもいうべきだろうか。いやはや何とも。


【追記 18-08-09】

匿名掲示板の「森田童子について語りませんか Part.4」スレから。
森田童子の夫、前田亜土は
森田童子を手掛ける前に
風吹ジュンの事務所社長(アドプロダクション)だった

安月給などの劣悪条件で風吹ジュンを拘束
風吹ジュンが事務所移籍を画策
移籍先の社長を暴行し風吹ジュンを
ホテルに拉致して脅したのが
例のあの風吹ジュン事件

なかにし礼と兄が前田亜土を業界に引き入れた
アドプロダクションはなかにし兄弟が重役

森田童子の事務所、海底劇場は
アドプロダクションの次に作った事務所
事務所自体も同じマンションの部屋を
そのまま使ってた

風吹ジュンからしたら森田童子は
聴きたくない歌手だったろうね(No 564)
という事のようではあるが、
吹雪(ママ)ジュンの件についてどっちが悪かった誰が悪かったとかは別の話だからどうでもいい
問題は前田亜土の妻であった森田童子が中西正一の娘だというのは事実かどうか
もし事実ならなかにし礼の書いた『兄弟』によって森田童子の背景が少しは明らかになる(No 599)

と、理性的な意見交換がされている。好むと好まざるとに関わらず、事実を特定するような「証言」の登場も、おそらくは時間の問題だろう。
http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm

66. 中川隆[-8645] koaQ7Jey 2021年1月03日 21:46:04 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[35] 報告

1976年の荒涼と森田童子
http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm

 1976年、ぼくには食事を共にしてくれるガールフレンドもなく、考えて
いることの出口は見つからず、軽い神経衰弱にしてやられながら、ラスコーリ
ニコフのようにうろちょろしていた。春先の風邪を放置したせいで肺炎になり、
この年の後の半分はベッドの上で過ごさざるを得なかった。森田童子の歌をベ
ッドの上で聞いたりしては、ますます荒涼とした場所に落ちていく自分自身を
どうすることもできなかった。

 2・3日前、どこでなのか判らないが、確かに森田童子の歌を聴いた。
 TVでも、この1週間のうちに聴いたような気がする。信じられないけど。
uploading nifty 93.??.??

「高校教師」のテーマソングを何処かで耳にしていた私が、1976年に貴方は何をしていたか、というネット上の質問に回答している。
「高校教師」をロクに知らなかったのは、せっせと 夜学に通っていた からだ。

詩と決別したランボーは砂漠の商人になり、歌と決別した彼女は家庭に落ち着いた。83年にステージから退いたのだから高校生くらいの子供がいたって不思議ではない。

時には子供にハラハラし、時には "Lady Madonna" を口ずさみ、時にはPCに向かって「森田童子」を検索して、びっくりするほどの量が表示されて苦笑したりする。増えてきた白髪は気にせず、週2回は近くのアスレチッククラブに通い、環境保護運動に熱心に関わっている……
という風に、無名市民として穏やかな日々を送っているのだろうか。恙なしや?

この投稿を、森田童子という不世出の個性の為に、ここに掲載した。

記 01-06-15

【追記 10-07-16】

朝日新聞の記事が彼女に触れていた(5月22日)。山坂いくつもあるのが人生だと、ここでも実感させられる。

記事の中の「病」に拘ってみると、彼女は学齢からして在学中に1年の遅れが生じ、更に高校中退後3年ほど北海道で療養生活を送っている。
『さよなら ぼくの ともだち』は友人の死を契機にここで生まれたのだが、してみると、この時期からの長患いの後遺症のようにも思える。最終部分を引用したい。
『ぼくたちの失敗』が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で、「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにはあった。
しかしこの署名記事には、「森田童子」を偽名だとするのが論外だとしても(もちろん戸籍名ではないが、「偽名」とは文章のプロとして気は確かか?)、詰めの甘い箇所が少なくない。例えば「ひとり遊び」のレコーディングとCD制作(2003年)を知らなかったのだろうか。それとも判り易いプロットに当て嵌めるため意図的に無視したのか。後者であれば気持ちは半分だけ判る、といっておこう。

詞の中に飼い馴らしたかの「ぼく」や「きみ」の無数の死も、生身の人生には耐性を育まなかった。あるいは、成熟という名の感受性の劣化をこそ彼女は拒否し続けているのか。


【追記 18-07-02】

古い友人と久しぶりにメールのやりとりをしていたら、彼女の訃報がネットに流れた。私のGメール・アカウントは moritadoji.inochi で、不可思議な符合に驚いたと触れていた。まだ若いのに、と続いていたが、私としては「そうだったのか」と深く寂かに納得するものがあった。

彼女については謎が多い。公表された情報が少ないのだから当然かもしれないが、例えば誕生年や出生地は複数の情報が流れていて、どこからも訂正されず始末が悪い。

私が折に触れて参照したのは次行のサイトで、しかしながら長らく更新されておらず、いわばアーカイブ状態だ。

森田童子研究所:www.gogorocket.jp/doji/h/

また、このサイトで頻繁に登場する「犬のしっぽ」さんのサイトは既に消滅しているが有難い事に次行のミラー・サイトがあって、
「犬のしっぽ」ミラー・サイト:www.minus273.eu/mirrors/douji/
ここから彼女の年表を覘いてみよう。

52年1月15日、東京生まれ
68年、高校入学

なのだが、順当にいけば高校入学は67年だからどちらかが間違っている筈で、そうでなければ入学以前に1年の遅れが生じている。
70年、高校を中退。暇にまかせてふらふらと旅に出る。
とあるが、やはり同じサイトの、雑誌「ラジオマガジン」のインタヴュー記事によると事情は異なる。一部を引用すると、

彼女は高校半ばにして不幸にも胸をやみ,転地治療という形で3年間を北海道で過ごした。その時代,'60年代末期は学園闘争が激しく吹き荒れていた頃だった。
そしてこの記事に従うと、極めてデリケートかつエキセントリックな神経と感受性に言葉を失いそうになるが、自分の過去を捏造するとも、思えない。また、
失われた青春の残像を拾い集めて五線のキャンバスに描き続ける詩織人−森田童子 31歳。

と結ばれていて、83年1月の時点で31歳、つまり誕生年が52年である事を前提にしている。誕生年53年説の元祖は、実は JASRAC 会報に載った訃報(65歳と表示)ではないのかと睨んでいる。
記事の最後にも触れてある80年の黒テント公演はTVドキュメンタリとして放送された。下の静止画はその最終部のものだ。

写真:森田童子(もりたどうじ)、TVドキュメンタリ『夜行』より

私(わたくし)達のコンサートが不可能になってゆくさまを見てほしいと思います。そして、私達の歌が消えてゆくさまを見てほしいと思います。ひとつの時代の終わりに向けて、私達の最後の切ない夢を、見てほしいと思います。
無垢なリリシズムと甘味なセンチメントに包まれた魔法のような世界が、そこには確かにあった。


http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm

67. 中川隆[-8644] koaQ7Jey 2021年1月03日 21:56:03 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[36] 報告
2013年12月18日水曜日
「そうか、森田童子がいたんだ」のコメント

以前書いた森田童子の記事に、「なかにし礼」さんからコメントをいただいた。
コメント内でお返事しようかと思ったのだが、少し落ち着いて考えたいので、記事にすることにする。
「なかにし」さんのコメントの全文は以下の通り。

「彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。

森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。」

森田童子の歌を聴いて自殺した人がどれほどいるか、私には分からない。ただ、いても不思議はないと思う。私自身、童子の歌を聴きながら、あの記事で書いたように、「深入りしたら危険だ」という思いと「深入りせずにいられない」という思いがせめぎ合っていた。

死への誘惑という点でいえば、文学の方がよりポピュラーだと思う。芥川龍之介の晩年の作品なんかまさにそうだし、中原中也の詩や宮澤賢治の童話だって死に近い。極め付きは太宰治か。太宰の弟子を自認していた田中英光なんか、太宰の墓前で自殺したくらいだ。しかし、彼らはその落とし前をつけるように、早死にしたり自殺したりした。とすれば、そのような作品を世の出した者は死ななければならないのか、という話になる。

人間には死に近づく時期がある。だからこそ、古今東西、死に近い作品は多いのだ。しかし、そこから逃れられれば、それはそれでいいじゃないか。森田童子は、とにかく生き延びたのだ。彼女が死の誘惑から逃れることができたとすれば、それはそれで喜んであげてもいいと思う。

今、昔のアルバムが結構CDで復刻されているけど、森田童子のオリジナルアルバム復刻の話は聞かない。単にセールスが見込めないのか、それとも本人の了解が得られないのか。

もし、森田童子が昔の作品が世に出ることを頑なに拒んでいるとすれば、それが彼女なりの落とし前のつけ方なのかもしれない。
投稿者 densuke 時刻: 21:58


匿名 さんのコメント...

森田童子の強烈なファンです。自殺誘発ソングとのご指摘ですが、とんでもない評価ではないでしょうか。童子の歌は自殺とかいう負の行為に逃げないで真剣に向き合った歌です。どうしようもない悲しみに背かない詩で優しく僕たちを癒してくれた詩です。現実に背を向けた詩では癒せない時も人生の中にはあると思います。

2014年4月28日 3:35
http://densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html

68. 中川隆[-8643] koaQ7Jey 2021年1月03日 21:58:46 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[37] 報告
2012年6月21日
そうか、森田童子がいたんだ
https://densukedenden.blogspot.com/2012/06/blog-post_21.html

大福さんのブログを読んで、森田童子のことについて書きたくなった。

森田童子を知ったのは、高校生の時だ。友川かずきがディスクジョッキーをしていた「若いこだま」というラジオ番組で『さよならぼくのともだち』を聴いたのだと思う。(私はこの番組で、三上寛、なぎらけんいち、ジャニス・ジョプリンなどを知った。)甲高い繊細なその声を聴いて、私はケイト・ブッシュみたいだと思ったのを憶えている。

石岡のレコード屋で、童子のデビューアルバム『グッドバイ』を見つけて買った。ジャケットの彼女は、もじゃもじゃのカーリーヘアに丸いサングラスをかけ、革ジャンを羽織っていた。まるで少年のような容貌で、「ぼく」と「きみ」の歌を歌う童子は、性を超越した存在に思えた。
保育園から高校まで一緒だったH君から『マザースカイ』と『ア・ボーイ』の2枚のアルバムをダビングしてもらった。私はこの3本のテープを持って、川崎のアパートに引っ越していった。

特に『マザースカイ』は好きだったな。1曲目の『ぼくたちの失敗』からラストの『今日は奇蹟の朝です』まで、緊密な統一感にあふれた、まさにトータルアルバムと呼ぶべきものだった。

1980年に出た『ラストワルツ』。これも買ったが、これを川崎の四畳半で聴いていると、我ながらやばいと思った。このままいったらまずいよなあと、『たとえばぼくが死んだら』を聴きながら思ったものだ。

そういえば、昔聴いた、なぎらけんいちのライブアルバムで、なぎらがこんなことを言っていた。

山崎ハコの歌を聴いていると、条件反射的に暗くなって死にたくなる。そこで『パブロフのハコ』という歌を作った。
ハコも暗いが、森田童子は超弩級に暗い。以前ツアーで一緒に回った時があった。ある街で、宿で打ち上げをやったが、そのうち外に出ようということになった。童子も誘ったが行かないという。そこで「じゃあそこにいて」と言って皆で出かけた。

2、3時間して帰ってくると、童子は出かけるときと寸分たがわぬ姿勢で同じ場所に座っていた。

深入りすると危険だという雰囲気と、深入りせずにはいられない魅力が森田童子にはあった。(ラストアルバムとなった『狼少年』も、私はしっかり買った。)
大福さんも書いていたが、ドラマ『高校教師』での森田童子ブームには違和感を覚えたな。あの時発売されたベスト盤は90万枚以上売れたという。当時は意地でも買わなかったけど、今思えば、90万人の人が童子の歌に心を揺さぶられたということなのだな。

あのブームでも、森田童子は表に出なかった。新聞記者の取材には、「今は普通の主婦なのでそっとしておいてほしい」と言ったという。
現在、森田童子と道ですれちがっても誰も彼女とは気がつくまい。しかし、カムバックしないということは、今の生活が彼女の守りたい幸せなのだろう。

そうか、あの森田童子が主婦か。よかったなあ。彼女が平凡な幸せを手に入れたことは、私にとってもささやかな希望に思えてくる。
森田童子、間もなく60歳に手が届くはずである。
投稿者 densuke 時刻: 23:13

4 件のコメント:

なかにし礼 さんのコメント...
彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。
森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。

2013年12月2日 2:07
たそがれ さんのコメント...
森田童子を検索していて、このブログにたどり着きました。
あの世界観は唯一無二ですね。
それにしても彼女の歌が自殺誘発ソングとは。
僕は彼女の歌に生きることの意味を聴きました。

2014年4月15日 15:02
匿名 さんのコメント...
わたしも生きる意味を感じています。

2014年6月26日 11:05
匿名 さんのコメント...
自殺誘発ソングだなんて、浅すぎる。
童子の歌に救われた人もいっぱいいる。

2018年4月22日 23:35
https://densukedenden.blogspot.com/2012/06/blog-post_21.html

69. 中川隆[-8642] koaQ7Jey 2021年1月03日 22:03:48 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[38] 報告
フラッと現れた森田童子の暗くて沈んだ歌声に恋心を抱いた【ロフト創業者が見たライブハウス50年】
2020年12月7日 9時26分 日刊ゲンダイDIGITAL
https://news.livedoor.com/article/detail/19339279/

森田童子の1枚目のオリジナル・アルバム「GOOD BYE グッドバイ」


【ロフト創業者が見たライブハウス50年】#24

司会は下北沢の安アパート暮らしの坂崎幸之助だった

 新型コロナに翻弄された2020年も12月を迎えた。ライブは<密>を避けて<配信>というスタイルに変わり、演者とファンとの間に存在していた<濃密なつながり>は分断され、音楽を熱く実体験することができなくなった。コロナ禍はいつ収束するのか? 先が見えない。夜中に一人で酒を飲みながら、森田童子の悲しい調べに身を委ねる。青春時代の思い出が走馬灯のようによぎる。あれは……本気の恋だったのだろうか?


 1973年の秋というよりも、夏の終わりと言った方がいいかもしれない。その年の6月に西荻窪ロフトが北口商店街の一角にオープンした。秋口に入っても残暑が厳しく、店前の(東京)女子大通りの打ち水が、キラキラと光り輝いていた。

 森田童子がふらっと現れて「すいません、私もここで歌えますか?」と聞いてきた。彼女のトレードマークとなったサングラスも掛けてなかったし、クルクルのカーリーヘアでもなかった。まるで少女のようだった。

 売れていない歌い手が売り込みに行く際、さすがに真っ黒のサングラスはないだろう――ということだろうが、彼女の素顔を見たのは、この時が最初で最後だったような気がしてならない。

 手渡された一本のテープを聞いた瞬間、大きな衝撃が脳天を突き抜けるように走った。「なんて暗い歌なんだ!」。そう思いながら、じっくり歌詞を読み込むと<あの政治の季節>が、まざまざと思い出された。私たちが遮二無二に闘ってきた「大学闘争時代の挫折」をこれでもか! これでもか! と突き付けられた。「どうして彼女は挫折した者にしか分からない心情を歌詞にして歌えるのか?」。不思議でしょうがなかった。同時に大きな好奇心が芽生えた。

 学園紛争で高校を中退し、72年の友人の死をきっかけに自作自演で歌い始めたというが、それにしても<革命を叫びながら機動隊にやみくもに突撃していった>私自身の全共闘運動時代の原風景を想起させる歌に「この少女の過去に何があったのだろうか?」と思わないではいられなかった。

 暗くて、そして沈んだ歌声。そう言われていたが、個人的にはちょっと違う。あくまで<あの独特の雰囲気>が、そう思わせたのだろう。後で知ったが、恋人が学生運動中に自殺したという。

 彼女は、いつもロフトのステージの上で涙を流しながら歌っていた。

 私は、森田童子に恋心を抱いていた。(平野悠/「ロフト」創業者)

https://news.livedoor.com/article/detail/19339279/

70. 中川隆[-8641] koaQ7Jey 2021年1月03日 23:25:56 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[39] 報告
中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?
2020年12月25日
https://www.youtube.com/watch?v=h_bmvRcVc68



日本歌謡界を代表する作詞家のなかにし礼さんが今月23日に都内の病院で亡くなっていたことが分かりました。

なかにし礼さんと言えば、お兄さんについて実話を素に小説『兄弟』を書かれていますね。

ドラマ化した際には、『兄弟〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』というタイトルに衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか。

そこで今回は、なかにし礼さんの兄である中西正一さんについて調べてみました。


中西正一は『風吹ジュン誘拐事件』に関与していた!?

 かなり古い話になるが、1974年9月に「風吹ジュン誘拐事件」が起きた。当時、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎなかった。これに不満を持ち、倍の月給を提示してきたガル企画という事務所に移籍してしまった。そんな折、フジテレビで収録を終えた風吹の前に、旧所属事務所であるアドプロのマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで連れ去ってしてしまったのである。彼らは風吹をホテルに軟禁状態にし、事務所移籍を考え直すよう迫ったのだ。

 風吹が「翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならない」と言い、階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって保護されることとなった。人だかりの中には包帯を巻いたガル企画の石丸末昭社長の姿もあった。この間、石丸社長は、暴力団の事務所で監禁され、暴行を受けていたというのだ。風吹を軟禁した中には作詞家のなかにし礼もいたが、石丸社長は自身の解放の条件として、風吹との契約を解除するよう、なかにしの実兄の中西正一から迫られたという。

引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/473c7caf4981ce89cc8c73f49230e93c87e7d5de

報道の内容から分かるように、なかにし礼さんの兄である中西正一さんは、風吹ジュンさんの移籍先である“ガル企画”の石丸社長対し、『風吹ジュンさんとの契約解除』を理由に脅迫していたようです。

ネットの声
・この記事読んで、春馬くんの事が浮かんだわ。
日本の俳優仲間が何も言わないのは、芸能界は闇が深いからなのかな…
余計なことを言って、明日は我が身だとすれば恐くて誰も何も発言出来ないし…
誰も何も言ってくれないから、余計にそう思ってしまう。

風吹ジュンさんにこんな事があったなんて知らなかった。
表に出てないだけで、他にもたくさんあるんだろうな…

・デイリー新潮さん、他の媒体が春馬事件を避けている中記者魂を感じます。今この内容に触れるということはふんわりと外堀から掘り進めているのでしょうか。今後も期待しております。
芸能界は裏社会との駆け引きなど、旧態依然としていることはよくわかりました。

・この記事が出てきたのは、今でもこのような事件が起きているんでしょう。。。
一般人には、理解し難い世界ですが、春馬さんの死によって、闇雲にしてきた事が未だ続いている現実に驚愕しています。闇が暴かれる日が来る事を願うばかりの毎日です。

引用:Yahooコメント



中西正一の顔画像は?
中西正一さんの顔画像について調べてみるとずいぶん昔のものですが、下記の画像が見つかりました。



中西正一の死因は何?
中西正一さんは、1996年に72歳で亡くなられましたが、死因については情報がありませんでした。

新たな情報があり次第追記していきます。

中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?まとめ
今回は、中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?についてまとめてみました。

なかにし礼さんの兄・中西正一さんは、1996年(72歳)に亡くなられていましたが、死因については現時点では情報がありませんでした。

また、1974年に起きた『風吹ジュン誘拐事件』の裏には、中西正一さんも関与していたという事実があったようです。

新たな情報があり次第追記していきます。
https://www.youtube.com/watch?v=h_bmvRcVc68

71. 2021年1月03日 23:35:09 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[40] 報告
>>70
リンク訂正
https://buzzcreateofficial.com/?p=4881
72. 中川隆[-8640] koaQ7Jey 2021年1月04日 11:25:03 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[1] 報告
>>58 に追記

☆☆ 森田童子について語りませんか Part.8 ☆☆
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1539527568/

森田童子について語りませんか part9
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1601014401/

「森田童子」って評価されなかったって本当? 本人が完全にやる気無くしてから持ち上げられたんでしょ? 
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1593908793/l50

【音楽】森田童子「夜想忌」プレ企画に内田雄一郎、JOJO広重、久貝巧、井塔由梨 #douji_shiji [少考さん★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1598075166/

73. 中川隆[-8639] koaQ7Jey 2021年1月04日 11:43:28 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[2] 報告
12伝説の名無しさん2020/10/19(月) 16:45:37.81

森田童子の本名は前田美乃生・旧姓は中西美乃生

死亡日は推定 平成30年4月16日
一週間後の24日に孤独死による変死体で発見される
死亡時の年齢は65歳

住所は東京都国分寺市本多2丁目〜〜
番地は「大島てる」の事故物件サイトで確認のこと

この建物は昭和57年3月に新築
自宅購入にあたり前田美乃生さんは夫と連名で住宅ローンを組んだ
夫の前田亜土こと本名・前田正春は平成21年10月31日に死亡している

正春の死後、2015年に自宅には公明党の掲示板とホームセキュリティの監視カメラが導入された
これは森田童子こと前田美乃生が夫・正春の死後、精神的に不安定になったからではないかという説が出されている

この家は有限会社海底劇場音楽出版の登録上の本店でもある
森田童子の作品の原盤権を管理している会社だ
詳細は会社の法人登記謄本、該当住所の不動産登記謄本をダウンロードされたい


13伝説の名無しさん2020/10/19(月) 16:46:11.00

森田童子となかにし礼との関係は、なかにし礼の実兄・正一の次女が森田童子で、なかにし礼の姪にあたる
森田童子には姉と弟がいる。

前田夫妻には子供がいなかった。
それで国分寺市の不動産は姉と弟が共有名義で相続、海底劇場音楽出版の役員は弟が引き継いだ
詳しくはなかにし礼の小説「兄弟」自伝「翔べ!わが思いよ」を読み、謄本を参照すること


14伝説の名無しさん2020/10/19(月) 16:46:46.38

「有限会社海底劇場音楽出版」という会社名をグーグル検索してください
森田童子のワーナー・パイオニア移籍以降の楽曲を管理しているところです

所在地が国分寺市ですね
大島てるに投稿された平成30年4月に女性が死んだ事故物件と同一住所ですね
グーグル・ストリートビューで電気メーターも確認しましょう

次にこの会社の登記簿謄本です
「閉鎖事項全部証明書」には役員に関する事項として

代表取締役 前田正春 平成21年10月31日死亡

と書いてあります
前田亜土の本名です

https://imgur.com/gPjgCwf.jpg


「履歴事項全部証明書」の役員に関する事項を見ます

取締役 前田美乃生 平成30年4月16日死亡

と書いてあります
これが森田童子の本名です

https://imgur.com/y9YZWIk.jpg

15伝説の名無しさん2020/10/19(月) 16:47:18.13

森田童子こと前田美乃生さん宅の建物の不動産登記謄本です
有限会社海底劇場音楽出版の所在地でもあります
番地を消して表題部と権利部(甲区)だけをアップしました

あの家は昭和57年2月に新築なんですね
わたしは未確認ですが少し前に子供が生まれたらしく、アルバム「夜想曲」を出した年でもあります
床面積は以前書いたとおり1階2階とも約9坪です

最初は正春さんと二分の一ずつで共有名義にしています
平成21年に正春さんが亡くなったときに美乃生さんが全部の持ち分を相続してます
これで前田正春さんと美乃生さんが夫婦で、相続のときには子供がいなかったことが推察されます

https://imgur.com/12lBEZn.jpg


謄本の下には「権利部(乙区)」があります
ここでは当初に借り入れした金融機関と融資金額がわかります
また抵当権抹消日付により、毎月の返済金額を概算することができます
さすがにそこまで公開するのはためらわれたので皆さまご自分で取り寄せてみてくださいこれもネットですぐにダウンロードできます
ついでに建物図面や土地の方の謄本も確認すると面白いです

16伝説の名無しさん2020/10/19(月) 16:47:54.05

森田童子こと前田美乃生さんの自宅の推移です
ごぞんじのようにグーグル・ストリートビューでは過去に撮影した画像も見ることができます

いちばん古い前田家の画像は2010年2月です
前田亜土こと正春さんが亡くなってまだ3ヶ月ちょっとです
このときはとくに特徴のない普通な感じの家ですね
これが2014年になるとセコムのホームセキュリティを導入しています
2015年には玄関に監視カメラが設置され、西側の塀に公明党のポスターが貼られています

https://imgur.com/O3uyS6r.jpg

私は創価学会の人に訊いたのですが、こういうポスターが貼られている家が学会員である可能性は半々で、聖教新聞を購入している確率はほぼ100パーセント近いそうです
なぜならこんなポスターを掲げていると、たとえ関心がなくても近所の学会のオバサン連中が押しかけてくるから新聞を取らざるを得ません

監視カメラは最新の2017年の画像だと一階南側にも取り付けられています
暴力団の事務所のような重警備ですね
国分寺市ってそんなに治安が悪いのかと思って近隣を見てみましたがホームセキュリティを契約している家は他に見つかりませんでした

これは私の想像ですが、森田童子こと前田美乃生さんは夫の正春さんが死んでから精神的に不安定な状態にあったのではないでしょうか
セコムと公明党について他に良い説明が考えつきませんがいかがでしょうか


25伝説の名無しさん2020/10/20(火) 09:31:25.17
森田童子の旧宅は壊されて3階建ての建売りになったね
まだ売れ残ってるのかな
事故物件だから値引きしないとなあ

26伝説の名無しさん2020/10/20(火) 10:45:27.58
更地でしょ
建物がたったの?

27伝説の名無しさん2020/10/20(火) 10:52:14.86
もう完成してるよ
一階がピロティで車が入るようになっている

17伝説の名無しさん2020/10/19(月) 16:48:29.29

なかにし礼は森田童子の親戚で叔父になります
最初にこのことを聞いてから、なかにし礼の小説「兄弟」を読みました
なかにし礼と自分の実兄との葛藤を書いた自伝小説です
時代は終戦直後から実兄が死ぬ1994年までです
小説には実兄の家族も登場します
そのなかで兄の次女である「中西美以子」というのが森田童子だとされています

実際に読んでみると森田童子の履歴とされているものとオーバーラップしてくるのですね
たとえば、森田童子こと前田美乃生さんは幼少の頃の愛称が「ミーコ」だったそうです
小説「兄弟」のなかの「美以子」さんは1953年生まれだと書いてあります
なかにし礼のサイトの年譜によりますと、一家はこの年に青森から東京へ出てきています

森田童子は自分の出身が青森とか東京とか、どっちつかずなことを言ってました
つまり出生地が青森でゼロ歳児のとき東京に来ていたんですね

小説「兄弟」では、なかにし礼本人と夫人以外の親族は仮名になってます
兄の正一は政之という名前になってます
その子供は三人いて、小説の中では長女の智子、次女の美以子、長男の哲雄がいることになってます
新潮文庫版の324ページを参照ください

なかにし礼の小説「兄弟」の該当部分です
https://imgur.com/RUnzhfT.jpg


それからこれが有限会社海底劇場音楽出版の謄本の「役員に関する事項」です
前田美乃生さんの死去に伴い役員になったのは小説のなかの中西哲雄、三つ年下の弟さんで間違いありません
そして前田美乃生さんの旧姓が「中西」であることがこれでわかります
https://imgur.com/unpayid.jpg

74. 中川隆[-8638] koaQ7Jey 2021年1月04日 11:48:16 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[3] 報告
なかにし礼

誕生 中西 禮三(なかにし れいぞう)
1938年9月2日満州国、牡丹江省牡丹江市
死没 2020年12月23日(82歳没)

職業 小説家、作詞家
最終学歴 立教大学文学部仏文科

代表作 作詩
『天使の誘惑』
『今日でお別れ』
『北酒場』
『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』

小説
『兄弟』
『長崎ぶらぶら節』
『赤い月』
『夜の歌』

オペラ
『天国と地獄』
『ワカヒメ』
『静と義経』

主な受賞歴 日本レコード大賞(3回)
日本作詩大賞(2回)
直木三十五賞(2000年)

配偶者 石田ゆり(中西由利子)

なかにし 礼(なかにし れい、1938年9月2日 - 2020年12月23日)は、日本の小説家、作詞家。本名は中西 禮三(なかにし れいぞう)。

満州国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満州からの引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで小学校は東京と青森(青森市立古川小学校)で育ち、中学から東京品川区大井町に落ち着く[1]。青森市在住時には入会していた読売ジャイアンツのファンクラブの誘いで青森市営野球場での試合のバットボーイを担当したが、その試合は藤本英雄が日本初の完全試合を達成することとなった。東京都立九段高等学校卒業後、一浪して1958年に立教大学文学部英文科に入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部仏文科を卒業する(立教仏文の第1期生)。その後、東京に在住。実兄は立大から学徒出陣として陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。

大学在学中、1963年に最初の妻と結婚する。一女をもうけ、1966年に別居、1968年に離婚する[2]。

元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルのバーで『太平洋ひとりぼっち』(映画1963年公開)を撮影中の石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。石原に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1年後に作詞作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。 1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。

1971年、週刊ポスト(7月9日号)に俳優や歌手などの乱れた関係を暴露する「芸能人相愛図」を掲載するが、後に、週刊ポストの記者から強要されて書かされたものだとして告訴。記者2人が逮捕される事件へ発展する[3]が、後に和解した。

若い時から繰り返した心臓疾患、離婚、特攻隊の生き残りで戦後、鰊漁に投資した兄の膨大な借金を肩代わりして返済に苦しむなどの困難を抱えたこともある。1998年にその兄を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。

テレビ朝日系列で放送されているワイドショー『ワイド!スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年3月5日の放送で、食道癌であることを報告。治療のため休業することを明らかにした[4]。医師たちから抗がん剤、放射線治療、手術という治療法の説明を受けるが、自身の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、インターネットを活用して陽子線療法の存在を見つける。2012年2月から6月にかけての闘病の様子は著書『生きる力 心でがんに克つ』に詳しい。闘病の結果がんを克服、同年10月に復帰。執筆、コメンテーター等の仕事も再開した。

2015年3月、自身のラジオ番組「なかにし礼「明日への風」」で癌を再発し、休養することを明らかにした[5]。その後、同番組を休止することが発表された[6]。

2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」とも語っている。核兵器、原発に反対する歌「リメンバー」(歌唱:佐藤しのぶ)の作詩、毎日新聞からの依頼で書き起こした詩「平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう」など、平和で自由に生きることを人間の根源的な権利とする主張を続けている。2015年6月、『サンデー毎日』で小説「夜の歌」連載開始。戦争体験が自分をどう作り上げてきたか、自らの戦争体験に基づき内面的な葛藤を描いた、もう一つの自伝的小説と言える。2015年9月、『週刊現代』のインタビューで再発がんが消えたことを語り、公式サイトでも発表。テレビ出演などの活動も再開。

2016年4月、植え込み型除細動器(ICD)と心臓ペースメーカーを体内に植え込む手術を受ける[7]。2016年12月、サンデー毎日に連載していた「夜の歌」が単行本化され発刊。がん再発、穿孔による大量出血の危機が迫る危機的状況の中で書き始められた小説である。2016年、BS日テレの報道番組「深層NEWS」に毎月1回のペースでほぼ定期的に出演した。2017年10月、『サンデー毎日』でエッセイ「夢よりもなお狂おしく」連載開始。2018年10〜12月、読売新聞連載記事「時代の証言者」(「言葉を紡いで」なかにし礼)。

2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため東京都内の病院で死去[8][9]。82歳没。


作品

主な作詞曲

あ行
朝丘雪路 - 「雨がやんだら」(1970年)
梓みちよ - 「風来坊」(1968年)
アン・ルイス - 「グッド・バイ・マイ・ラブ」(1974年)
石川さゆり - 「風の盆恋歌」(1989年)
いしだあゆみ
「恋のシャドー」(1967年)
「喧嘩のあとでくちづけを」(1969年)
「あなたならどうする」(1970年)
「昨日のおんな」(1970年)
「何があなたをそうさせた」(1970年)
石原裕次郎
「男の嵐」(1967年)
「帰らざる海辺」(1967年)
「ひとりのクラブ」(1967年)
「サヨナラ横浜」(1971年)
「何故か愛せない」(1972年)
「不思議な夢」(1976年)
「みんな誰かを愛してる」(1979年)西部警察主題歌
「よこはま物語」(1980年)
「時間よお前は」(1982年)西部警察主題歌
「勇者たち」(1983年)西部警察主題歌
「さよならは昼下り」(1985年)
「わが人生に悔いなし」(1987年)
『男の詩/石原裕次郎 なかにし礼を歌う』アルバム(1972年)
市地洋子 - 「恋算数」(1970年)
岩崎宏美 - 「女優」(1980年)
岩崎良美
「赤と黒」(1980年)
「あなた色のマノン」(1980年)
小野木久美子 - 「マジカル・ナイト」(1979年、『ザ・スーパーガール』主題歌)
奥村チヨ
「恋の奴隷」(1969年)
「恋泥棒」(1969年)
「恋狂い」(1970年)
「中途半端はやめて」(1970年)
尾崎紀世彦
「五月のバラ」(1973年)
「許しておくれ」(1974年)
「サマー・ラブ」(1987年)
か行
川中美幸 - 「愛は別離(わかれ)」(1986年、『必殺仕事人X・旋風編』『風雲竜虎編』主題歌)
北島三郎 - 「まつり」(1984年)
北原ミレイ
「石狩挽歌」
「春」
キャンディーズ - 「哀愁のシンフォニー」(1976年)
黒沢年男/なかにし礼 - 「時には娼婦のように」(1978年、作曲も担当)
グラシェラ・スサーナ -「サバの女王」(1972年)
琴風豪規 - 「まわり道」(1982年)
小林旭 - 「思いやり」(1982年)
小柳ルミ子
「京のにわか雨」(1972年)
「冬の駅」(1974年)
「ひとり歩き」(1978年)
さ行
ザ・キング・トーンズ - 「暗い港のブルース」(1970年)
ザ・ゴールデン・カップス
「いとしのジザベル」(1967年)
「愛する君に」(1968年)
ザ・ドリフターズ
「ズッコケちゃん」(1967年)
「のってる音頭」(1968年)
「ドリフのズンドコ節」(1969年)※補作詞のみ
「大変歌い込み」(1969年)
「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」(1970年)※替詞のみ。原詞は野村俊夫
「冗談炭坑節」(1970年)
「誰かさんと誰かさん」(1970年)
「ドリフのおこさ節」(1970年)
「ドリフのツンツン節」(1971年)
「ドリフ音頭 北海盆歌より」(1971年)
「ドリフのツーレロ節」(1971年)
西城秀樹
「サンタマリアの祈り」(1980年)
「Blue Sky」(1988年)
「夏の誘惑」(1988年)
坂本スミ子 - 「夜が明けて」(1971年)
五月みどり - 「熟女B」
佐良直美 - 「風のメロディー」(1978年)
志学館中等部・高等部 - 「志学館高等学校校歌」(1983年)
島倉千代子 - 「愛のさざなみ」(1968年)
島津ゆたか
「ホテル」(1985年)
「くせになりそう」(1986年)
下成佐登子
「花のささやき」(1985年、世界名作劇場シリーズ『小公女セーラ』オープニングテーマ)
「ひまわり」(1985年、同上・エンディングテーマ)
菅原洋一
「知りたくないの」(1965年)
「今日でお別れ」(1969年、第12回日本レコード大賞受賞)
た行
タマコ
「私は私」(1970年/作曲:藤本卓也)
ザ・タイガース
「花の首飾り」(1968年)【補作詞】
「美しき愛の掟」(1969年)
ちあきなおみ - 「私という女」(1971年)
鶴岡雅義と東京ロマンチカ - 「君は心の妻だから」(1969年)
ザ・テンプターズ - 「エメラルドの伝説」(1968年)
TOKIO
「AMBITIOUS JAPAN!」(2003年)
「駅・ターミナル」(2003年)
玉井邦彦(東京放送児童合唱団) - 「あっそうか!」(1986年)
トニーズ - 「アカプルコの娘」(1967年)
な行
奈美悦子 - 「大阪ブルース」(1967年)
丹羽応樹 - 「恋路海岸」(1978年)
NEWS - 「星をめざして」(2007年)
野口五郎 - 「愛の証明」(1980年)
は行
ハイ・ファイ・セット - 「フィーリング」(1976年)【日本語詞】
橋幸夫
「そばにいておくれ」(1967年)
「少年時代」(1973年)
ハナ肇とクレージーキャッツ - 「酒のめば」(1969年)
氷川きよし
「櫻」(2012年、第45回日本作詩大賞受賞)
「母」(2020年、作詞家としての遺作)
ピーター(池畑慎之介☆) - 「夜と朝のあいだに」(1969年)
ザ・ピーナッツ
「恋のフーガ」(1967年)
「恋のオフェリア」(1968年)
「愛のフィナーレ」(1968年)
「ガラスの城」(1968年)
「帰り来ぬ青春」(1975年)
弘田三枝子 - 「人形の家」(1969年)
布施明 - 「バラ色の月」(1969年)
フランク永井 - 「生命ある限り」(1967年)
ザ・ブルーインパルス
「太陽の剣」
「夜明けに消えた恋」
「メランコリー東京」
「小さな恋人」
ペドロ&カプリシャス - 「別れの朝」(1971年-日本語詞)
細川たかし
「心のこり」(1975年)
「みれん心」(1975年)
「北酒場」(1982年、第24回日本レコード大賞受賞)
「星屑の街」
「酒場であばよ」
「人生航路」
「うかれ節」
「ねぶた」(2011年)
「津軽へ」(2012年)
ま行
前川清 - 「花の時・愛の時」(1987年)
黛ジュン
「恋のハレルヤ」(1967年)
「霧のかなたに」(1967年)
「乙女の祈り」(1968年)
「天使の誘惑」(1968年、第10回日本レコード大賞受賞)
「夕月」(1968年)
「不思議な太陽」(1969年)
「雲にのりたい」(1969年)【補作詞】
「涙でいいの」(1969年)
「土曜の夜何かが起きる」(1969年)
「自由の女神」(1970年)
「時は流れる」(1970年)
水原弘
「さよならは言えない」(1969年)
美空ひばり
「かもめと女」(1974年)
「むらさきの涙」(1974年)
「かすりの女」(1974年)
「初恋」(1974年)
「しのび泣き」(1974年)
「年下の人」(1974年)
「女の部屋」(1974年)
「許して下さい」(1974年)
「雨の日記」(1974年)
「金の星」(1974年)
「恨んでいます」(1974年)
「海で死んだ人」(1974年)
「傷心 (いたみ) 」(1976年)
「さくらの唄」(1976年)
「おんな酒」(1976年)
「われとわが身を眠らす子守唄」(1988年)
「終りなき旅」(1988年)
ムッシュかまやつ - 「20才のころ」【安井かずみとの共作】
森進一
「港町ブルース」(1969年)【補作詞】
「波止場女のブルース」(1970年)
森昌子
「バラ色の未来」(2006年)
や・ら・わ行
矢沢永吉
「いつか、その日が来る日まで...」(2019年)
「海にかかる橋」(2019年)
由紀さおり - 「手紙」(1970年)
RYTHEM - 「ブルースカイ・ブルー」(2003年)
レイジー
「地獄の天使」(1978年)
「ハローハローハロー」(1978年)
ロス・インディオス - 「知りすぎたのね」(1968年、作曲も担当)
和田アキ子
「涙の誓い」(1971年)
「美しき誤解」(1974年)
「バ・カ・ダ・ネ」(1985年)
「愛、とどきますか」(1992年)

アルバム
マッチ箱の火事(フォーライフ・レコード、1977年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
黒いキャンバス(東芝EMI、1979年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
昭和 忘れな歌〜なかにし礼アンソロジー〜(ユニバーサル ミュージック、2004年 - 作詞・訳詞曲を集めた3枚組アルバム)[10]
なかにし礼と12人の女優たち(日本コロムビア、2015年1月、映画・舞台・ドラマなどを通じて縁のある12人の女優たちがなかにし礼作品を歌唱)
なかにし礼と75人の名歌手たち(日本コロムビア、2015年11月) - 作家生活50周年記念のオムニバスアルバム [11]
なかにし礼と13人の女優たち(日本コロムビア、2016年9月、なかにし礼 作詩家・作家生活50周年記念アルバム、シリーズ第2弾)

クラシック音楽
ベートーヴェン「歓喜の歌」(交響曲第9番終曲の日本語訳)
モーツァルト歌曲集(日本語訳 音楽之友社)
西村朗:合唱曲「そして夜が明ける」(作詞 NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
ジャック・オッフェンバック:オペラ「天国と地獄」(日本語訳)[12]
三木稔:オペラ「ワカヒメ」(台本)[13]
三木稔:オペラ「静と義経」(台本)[14]
三枝成彰:オラトリオ「ヤマトタケル」(台本)[15]
小六禮次郎:世界劇「眠り王 -愛とまごころの約束-」(作・構成)
小六禮次郎:世界劇「黄金の刻 -愛と永遠の絆-」(作・構成)
甲斐正人:世界劇「源氏物語」(作)


著書

詞集
『エメラルドの伝説』(作品集 新書館、1969年)
『シャンソン詩集141・さらば銀巴里』(さがみや書店、1991年)
『なかにし礼訳詞によるモーツァルト歌曲集』(音楽之友社、1991年)
『昭和忘れな歌―自撰詞華集』(新潮文庫、2004年)
絵本詩集『金色の翼』(響文社、2014年)
『平和の申し子たちへ 泣きながら抵抗を始めよう』(毎日新聞社、2014年)

創作
『花物語』(新書館、1970年、のち新潮文庫)
『昭和左膳只今参上』(東京スポーツ新聞社、1970年)
『大人の紙芝居・まぼろし劇場―丹下左膳 暁のG線上に死す』(継書房、1973年)
『兄弟』(文藝春秋、1998年、のち文春文庫、新潮文庫)
『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋、1999年、のち新潮文庫、第122回直木三十五賞受賞)
『赤い月』(新潮社、2001年、のち新潮文庫、文春文庫、岩波現代文庫)
『てるてる坊主の照子さん』(新潮社、2002年、のち新潮文庫) - 2003年度のNHK連続テレビ小説『てるてる家族』としてドラマ化
『夜盗』(新潮社、2003年、のち角川文庫)
『さくら伝説』(新潮社、2004年、のち新潮文庫)
『黄昏に歌え』(朝日新聞社、2005年、のち幻冬舎文庫)
『戯曲 赤い月』(河出書房新社、2005年)
『戦場のニーナ』(講談社、2007年、のち講談社文庫)
『世界は俺が回してる』(『産経新聞』2009年1月1日-8月31日 角川書店、2009年)『イカロスの流星』文庫 -『世界は俺が回してる』の鍵となる曲を集めたイメージ・サウンドトラックCD(ソニー・ミュージックダイレクト、2009年)
『なかにし礼と12人の女優たち』(日本コロムビア、2015年)-12人の女優によるなかにし礼作詩曲の競演アルバム
『なかにし礼と75人の名歌手たち』(日本コロムビア、2015年)-作詩家・作家生活50周年記念アルバム。時代を追ってオリジナル歌手の歌唱で収録されたコンピレーションアルバム
『なかにし礼と13人の女優たち』(日本コロムビア、2016年)-女優たちによるなかにし礼作詩曲の競演アルバム、前作のヒットにより第2弾リリース。
『昭和レジェンド 美空ひばりと石原裕次郎』(テイチクエンタテインメント、2016年)-なかにし礼が手掛けた、美空ひばり・石原裕次郎のすべての音源を収録。
『夜の歌』(毎日新聞出版、2016年、のち講談社文庫) - がん再発との闘いの中で執筆開始した「サンデー毎日」連載小説の単行本化。

随筆・その他
『ズッコケ勝負―終わりなき愛の遍歴』(双葉社、1969年)
『青春の愛について』(新書館、1972年)
『遊びをせんとや生まれけむ〜なかにし礼の作詩作法』(毎日新聞社、1980年)
『音楽への恋文』(共同通信社、1987年) - 「音楽の話をしようす」(改題、新潮文庫)
『翔べ!わが想いよ』(東京新聞出版局、1989年、のち文春文庫、新潮文庫) - 自伝
『時には映画のように』(読売新聞社、1997年) - 「口説く」(改題、河出文庫)、「恋愛100の法則」(改題、新潮文庫)
『愛人学』(河出書房新社、1997年、のち河出文庫)
『天上の音楽・大地の歌』(音楽之友社、2001年)
『道化師の楽屋』(新潮社、2002年、のち新潮文庫)
『さくら伝説―松坂慶子写真集』(フォーブリック、2002年) - 原作・監修
『人生の黄金律 自由の章―なかにし礼と華やぐ人々』(2003年、清流出版)- 対談集
『月夜に飛んで人を斬る』(作画:ふくしま政美、芳文社、1979年)- 劇画原作
『三拍子の魔力』(毎日新聞社、2008年)
『歌謡曲から「昭和」を読む』NHK出版新書 2011
『人生の教科書』(ワニブックス、2012年)
『生きる力 心でがんに克つ』(講談社、2013年)
『天皇と日本国憲法 反戦と抵抗のための文化論』(毎日新聞社、2014年)
『生きるということ』(毎日新聞社、2015年)
『闘う力 再発がんに克つ』(講談社、2016年)
『芸能の不思議な力』(毎日新聞出版、2018年)
『がんに生きる』(小学館、2018年11月)
『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』(河出書房新社、2019年7月)
『作詩の技法』(河出書房新社、2020年10月)

翻訳
ドーデ『哀愁のパリ・サッフォー』(角川文庫、1970年)
ラディゲ『ラディゲ詩集』(弥生書房、1973年)

映画
コント55号とミーコの絶体絶命(1971年、出演)
超能力だよ全員集合!!(1974年、出演)
時には娼婦のように(1978年、原案、脚本、出演)
動天(1991年、企画、原作)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC

75. 中川隆[-8637] koaQ7Jey 2021年1月04日 11:53:05 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[4] 報告
なかにし礼『兄弟』のあらすじ
https://www.miray.tv/2019/03/01/%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%97%e7%a4%bc%e3%80%8e%e5%85%84%e5%bc%9f%e3%80%8f%e3%81%ae%e3%81%82%e3%82%89%e3%81%99%e3%81%98/
76. 中川隆[-8636] koaQ7Jey 2021年1月04日 11:58:21 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[5] 報告
「兄弟」と「赤い月」をつないだ直木賞 なかにし礼さんを悼む
2020年12月27日
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700099&g=soc

 なかにし礼さんが23日に亡くなった。82歳だった。数々の名曲で昭和の流行歌最盛期を彩り、小説家としても活躍した多才な人だが、「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受けたことは、なかにしさんの創作活動にとって大きな意味を持っていた。歌詞と小説。何をどう書くか。昭和から3時代を駆け抜けた表現者が、リレーからマラソンへ転じた瞬間でもあった。

  ◇  ◇  ◇

 2012年に食道がんが見つかり、克服した後で15年に再発。近年はテレビで話すのを聞くと、年齢のせいもあってか声が枯れ気味だったなかにしさん。そのたびにあの日の声を思い出した。

 00年1月14日に直木賞受賞が決まり、その2、3日後だったと思う。当時、文化部で文芸担当をしていた筆者に電話があった。「申し訳ない」。かすれた声。すぐに事情を察した。受賞決定直後からお祝いの電話やら何やらがひっきりなしで寝る時間もなく、風を引いてしまったという。

 一般紙は芥川賞・直木賞に選ばれた人に受賞エッセーを寄稿してもらうのが常で、当時は弊社も地方紙向けに配信しており、各候補者に「選ばれた時には」と依頼してあった。その締め切りを延ばしてほしいとのこと。

 過去の受賞者から、家の中が祝いの花で埋まると聞いていた。文学賞の場合、それまでの関係者だけでなく、新作を書いてほしい出版社からも花が届く。レコード大賞を何度も受けたなかにしさんでさえ「おろおろとするほど」だった。「大変でしょう。お体が良くなってからお送りください」「ありがとう」。幸い、さほど日を置かずに原稿が届いた。

 「長崎ぶらぶら節」が候補作になると聞いて、選考会前にインタビューしていた。直木賞候補になるのは2回目だった。前回は98年上半期。初めて発表した小説「兄弟」がノミネートされた。才能は評価されたが、次作を見ようとなって受賞には至らなかった。自らの体験を題材にした作品であることが、大きな理由の一つだった。

 誰の人生にも物語はある。だから人は一生に一つなら小説を書ける、ともいわれる。新作のテーマに行き詰まって自分の体験を書く小説家も少なくない。

◇昭和から平成へ、リレーからマラソンへ

 だが、「兄弟」は「兄が死んだ。/姉から電話でそのことを知らされた時、私は思わず小さな声で『万歳!』と叫んだ。」という痛烈な書き出しで始まる。終戦によって、生まれ育った旧満州(現中国東北部)で「地獄」を見たなかにしさんの人生を、さらに壮絶にした兄への愛憎。戦後、北海道でニシン漁への投機に失敗し、多額の借金を作った兄。その後もゴルフ場開発に手を出して失敗し、売れっ子作詞家の弟がばく大な借金を背負った。生半可な物語ではなかった。

 なかにしさんは昭和から平成への変わり目を機に、いったん作詞を離れて小説家への転身を決めている。「昭和への思いが強くて、昭和だから歌を書けたという気持ちもありましたから」

 「歌詞というのは、言いたいことを全部書いちゃいけないんですよ。作曲家、歌い手、聞き手が想像を膨らませる余地を残しておかないと。みんな書いちゃったら曲も歌も入り込めない」

 いわゆる「ベタ」な歌詞が増えた昨今と違い、昭和の流行歌の書き手はみんなそうだった。だから時代を超えて歌い継がれるのだが、なかにしさんから直接聞くと、改めて説得力を感じた。受賞エッセーでは、歌を作詞家と作曲家、プロデューサー、歌手による4×100メートルリレーに、小説をマラソンに例えている。

 作詞家としては、想像力をかき立てる言葉を選び抜き、七五調を排し、立教大時代に訳詞を手掛けたシャンソンの風を吹き込んで数々の名曲を書いたが、表現者としては、全てを吐き出したわけではなかったのだろう。北原ミレイが歌った「石狩挽歌」(1975年)は、ニシン漁をモチーフにした名曲だが、歌詞では兄との相克を書き尽くせなかった。

 「兄弟」の書籍刊行は98年。平成も10年になっていた。この間、古今東西の名作を次々と読み、物語の展開や文学の修辞を学んで「小説家の脳をつくる修行」をしていた。決して天賦の才に任せた華麗な「早替わり」ではなかった。「兄弟」は自伝的とはいえ、小説として昇華させた自負もある。だから直木賞の選に漏れた理由には、納得し切っていない様子だった。

◇「地獄」を書き残すために

 それならと書いたのが「長崎ぶらぶら節」だった。長崎の芸者・愛八と郷土史研究者が、忘れられていた長崎の古い歌を掘り起こしていく、実話を題材にした物語。オペラ制作のために聞いた民謡のCDがきっかけで長崎を訪ねると、ちょうど「愛八をしのぶ会」が開かれていて、取材の糸口ができたという。「これは自分が書かなくてはと、運命みたいなものを感じた」と、ソフトな口調で熱く話した。

 優れた小説の条件の一つは、胸突き八丁を書き切れたかどうか。マラソンなら30〜35キロの壁。「長崎ぶらぶら節」も、選考委員には「まだ少し作詞家の癖が残っていて、ここぞというところをスーッといく感がある」との声があった。

 その点はなかにしさんも分かっていたと思うが、自らの体験ではない物語で直木賞を受けたことが、満を持していた次作「赤い月」の執筆を大きく後押しした。

 終戦前夜から旧満州で死線をさまよい、ハルビンへの逃避行、引き揚げまで、阿鼻(あび)叫喚の1年余を「事実だけで」書いた。執筆中から「これを書くために生きてきた」と話していた大作。「怖くて行けない」と言っていたハルビンを再訪したのは、刊行から3年後の04年だった。

 以後も「てるてる坊主の照子さん」「戦場のニーナ」「夜の歌」などの小説を書き、オペラ、ミュージカルなども手掛けた。それぞれの技法を知り、最もふさわしいと思う手法で人々に伝えてきた表現者。「地獄」から生還し、その後は聴衆や読者へ伝えることに力を尽くしていたから、人と会う時は肩の力が抜けたようにスマートだったのかもしれない。

 ある時、筆者が十代の頃、身の程知らずにも作詞家志望だったと明かすと、「そうだったんだ。新聞記事は言いたいことをしっかり伝えないといけないから、歌とは対極じゃないの。でもそれも大変な仕事だ」と優しく励ましてくださった。もしも今、なかにしさんが若かったら、ネットの海を前にどうしただろう。

 直木賞前の取材の終わり際、筆者が開いていた「長崎ぶらぶら節」の書籍に手を伸ばした。「サインをしましょう」。頼んではないのに、「スタア」だなあと思っていると、バッグから筆を取り出した。毛筆の美しい文字で書かれたサイン入りの受賞作は、転勤のある我が家を避けて実家へ運び、今も大切に飾られている(時事通信社・若林哲治)。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700099&g=soc

77. 中川隆[-8635] koaQ7Jey 2021年1月04日 12:03:48 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[6] 報告

なかにし礼生い立ち〜家族と兄弟仲に無謀過ぎる兄に振り回された半生
https://oitachi-ima.com/sakka-oitachi/2977/


現在ではコメンテイターとしても顔を見なくなった
作詞家のなかにし礼さん。

妻に元女優の石田ゆりさんを持ちその姉にいしだあゆみ
さんが見えるなかにし礼さんの生い立ちや家族と兄について
壮絶な過去を追ってみようと思います。

昭和歌謡曲の作詞を多数担当し、数々のヒット作を
世に送り出したなかにし礼さん。

1998年からは小説家としても活動し、2000年には
『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞されています。

またラジオやテレビ番組でのコメンテーターなど様々な
顔を持ち活躍を続けています。

そんななかにし礼さんの生い立ちから兄に振り回された
半生などをまとめてご紹介します。

なかにし礼プロフィール
本名 中西 禮三(なかにし れいぞう)
生年月日 1938年9月2日(80歳2018年9月現在)
職業 小説家、作詞家
出生 満州国の牡丹江省牡丹江市
学歴 東京都立九段高等学校、立教大学文学部英文科

大学在学中にシャンソンの訳詞を手がけました。

1964年に『知りたくないの』のヒットを機に
作詞家になり、『今日でお別れ』『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』など約4000曲の作品を残し
日本レコード大賞など数々の賞を受賞されています。

その後は作家活動を開始し1998年に『兄弟』次作に
『長崎ぶらぶら節』など作家としても数多くの
作品を残されています。

なかにし礼の生い立ち〜裕福だった満州時代と家族
なかにし礼さんの両親はなかにし礼さんが
生まれる前に北海道の小樽から、旧満州(中国東北部)
に渡りました。

醸造業を営むなかにし礼さんの両親は関東軍に
お酒を納め、ガラス工場やホテルも経営し成功を
収めていたそうです。

なかにし礼さんは従業員に「坊ちゃん」と呼ばれ
当時は相当な裕福な家庭で育ちました。

その後なかにし礼さんが小学1年生の時に終戦し
満州から引き上げて8歳の時に小樽に戻りました。

その時に家族とともに何度も命の危険に遭遇し
その時の体験が以後の活動に大きな影響を
与えたと言われています。

戦前戦後を生きた人特有の壮絶な体験をなかにし
さんも体験されていたようですね。

今では想像もつかないような壮絶な経験から
数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。

なかにし礼さんは当時の混乱の様子を実体験に
基づいて『赤い月』という小説を書かれています。

なかにし礼の家庭崩壊の始まりは戦後の兄の傍若無人から
なかにし礼さんには14歳も年の離れた兄がいました。

14歳とかなり年齢の離れた兄弟だったため恐らく
なかにしさんの年齢(現在80歳)では徴兵制度で
戦争に駆り出される年齢には届いていませんでした。

だが14歳も年上の兄は当然徴兵で日本男児の義務と
して戦争に駆り出されているはずです。

兄は戦時中特攻隊に所属していて生き延び、終戦後
何とか命からがら生き延びた少数派の一人として
なかにし礼さん達家族の元へ帰ることができました。

父親の死後、一家の大黒柱として祖母、母、姉から
頼りにされましたが、戦後の兄は人が変わったように
破滅的で大金を投資しては失敗し、一家はすぐさま借金を
抱える事に没落したそうです。

頼りにするどころか兄の自暴自棄な精神状態に巻き込まれて
一家はどんどん貧乏になっていったそうです。

戦争が一人の青年に与えた影響はやはり生還してきた
極一部の強運を持ったなかにし礼さんのお兄さんであれ
人生観を破壊される程のインパクトとショックがあって
の変貌だったのでしょう・・・
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なかにし礼の兄に振り回された半生と絶縁
ただこの時代の長男と言ったらもうそれはそれは特別な
存在で14歳も年下の弟が意見うぃ言えるような立場では
ありません。

どうにか家庭を立て直したいなかにしさんら兄弟を
傍目にちっとも元に戻りそうにない兄の尻拭いがこの
時代特有の兄弟関係でかなり壮絶な目にあうことに・・・

なかにし礼さんには兄の借金を肩代わりしていた
時期があるそうです。

作曲家として起動に乗り世間でいう成功者となりつつ弟が
夢に向かう最中になかにし礼さんは兄に振り回され
憎しみを抱くようになったそうです。

なかにし礼さんがどんどん有名になりお金を稼ぐように
なっても兄がどんどんなかにし礼さんから借金して
浪費してしまいます。

最後にはなかにし礼さんの名義でお金を借りて
全てを使い切ってしまうほどでした。

なかにし礼さんは兄の借金を返済するのに
大変苦労されたそうです。

その金額も破格の7憶円もの大金を肩代わりしていたとか。

普通なら返しきれない量の借金だったんですね。

ただそんな兄を疎ましく思いつつ兄を憎むが兄嫁が
長男の嫁であるため、献身的になかにしさんらの
母親の介護をしていたこともあり兄を切り離すことが
できなかったそうです。

だがそれも母親が生きているうちは何とか我慢しても
母親が亡くなり家族ができたなかにし礼さんは兄と縁を
切る覚悟をしたそうです。

当然でしょう・・・

あまりにも傍若無人な兄の振舞いは限度を超え過ぎです。

なかにし礼さんもほとほと嫌気がさしていたのでしょう。

縁を切ってからは16年間一切会わず兄が亡くなったと
電話があったときは内心喜んだそうです。

この辺りの心境がなんともリアリティがあります。

そんな兄との関係を自らの体験に基づいた自伝小説
『兄弟』は直木賞候補にもなり1999年にはテレビ朝日の
開局40周年スペシャルとしてドラマ化されています。

「兄さん、死んでくれてありがとう」
という有名な台詞がありますが聞いたときは
衝撃的でした。

今書いてても相当インパクト大過ぎます。汗

でも自分に置き当てたら、死んでくれてありがとう〜では
済まされないとは思いますが・・・

だって7億ですよ。

せめて自分が稼いだ金で借金して欲しいものです・・・

兄弟とは言え人のお金を、身勝手過ぎます。

なかにし礼さんのデビュー作にして代表作の『兄弟』
を読んだことがない方はぜひチェックしてみましょう。


兄弟 (文春文庫)

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おわりに

現在は2012年に食道がんを患い完治するも2015年に再発しこれも克服したなかにし礼さん。

戦争が幸いして精神状態が破綻したであろう兄弟の莫大な借金を身勝手で理不尽な借金と分かりながら返済を続けてきたなかにし礼さんは絶望的な半生を送って相当苦労されています。とは言えそんな兄さんもお亡くなりになられましたし改めて戦争の恐ろしさを考えさせられるエピソードでした。

現在も精力的に活躍を続けどんな状況でも希望を失わずに生きてきたなかにし礼さんの作品をぜひ読んでみてください。
https://oitachi-ima.com/sakka-oitachi/2977/

78. 中川隆[-8616] koaQ7Jey 2021年1月04日 17:46:54 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[27] 報告
森田童子の顔画像
https://ameblo.jp/driptime/entry-12383117226.html

2018年4月24日に、66歳の年齢で亡くなった森田童子さんの若い頃の顔画像です。

79. 中川隆[-8615] koaQ7Jey 2021年1月04日 18:11:20 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[28] 報告
「高校教師」の森田童子死去 「ロフト」オーナーが語る謎の素顔
太田サトル2018.6.21
https://dot.asahi.com/wa/2018062000015.html?page=1

本名も素顔も、謎の多いアーティストだった(※写真はイメージ)


 1993年放送のドラマ「高校教師」の主題歌「ぼくたちの失敗」などで知られるシンガー・ソングライターの森田童子さんが、心不全のため4月24日に亡くなっていたことがわかった。65歳だった。デビューは75年。森田さんをデビュー前から83年末の活動休止まで約10年間見守った、ライブハウス「ロフト」グループのオーナー、平野悠さんが振り返る。

「ここで歌えるんですか?」

 まだ20歳ぐらいだった彼女が、デモテープを手に、平野さんの前に現れた。テープを受け取っただけで、そのときの印象はあまり覚えていないそうだ。

「テープを聴いて、その声質とリアリティーのある詞に、ぶっ飛びました。しかし、当時の音楽状況の中で、これがウケるとは思えませんでした」

 平野さんが言うには、当時は日本のロックが一気に市民権を得た時代。

「これからはロックだという時代に、太宰がどうしたとか、誰かが死んだとかいうようなことを、いつもボロボロ泣きながら、顔じゅう涙で濡らしながら歌ってたんです。友達が学生運動の最中に倒れて死んだ。そのひとのことを歌いたくて始めたんだということをよく言ってました」

 そんな彼女の歌に惹きつけられた若者が、ロフトに足を運んだ。

「コートの襟立てて、ボロボロのズボンはいて、だいたい一人で……。自分の生きる意味がわからない、うまく生きられない、行き場を失った若者が救いを求めるように集う場所でした」

 本名も素顔も、謎の多いアーティストだった。

「決して寡黙ではないけど、自分のことについては、絶対に話しませんでした。服装も、黒ずくめ以外見たことなかったですね」

 83年末の新宿ロフトでのコンサートが、表舞台に姿を現した最後だったと平野さんは振り返る。活動休止から10年後、ドラマであらためて脚光を浴びた当時も、一度も彼女は表舞台に姿を現さなかった。

「『私は専業主婦です。もう人前に出て歌うことはありません』と言い、ステージに出なかった。彼女の美学だよね」

(本誌・太田サトル)

※週刊朝日 2018年6月29日号

https://dot.asahi.com/wa/2018062000015.html?page=1

80. 中川隆[-8614] koaQ7Jey 2021年1月04日 18:15:26 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[29] 報告
平野悠「ロフト」創業者
1944年8月10日、東京都生まれ。71年の「烏山ロフト」を皮切りに西荻、荻窪、下北沢、新宿にロフトをオープン。95年に世界初のトークライブ「ロフトプラスワン」を創設した。6月、ピースボート世界一周航海で経験した「身も心も焦がすような恋」(平野氏)を描いた「セルロイドの海」(世界書院)を刊行。作家デビューを果たした。

ロフト創業者が見たライブハウス50年
「ワラシ」森田童子の引退ライブは葬式のように静かだった
公開日:2020/12/21 06:00 更新日:2020/12/21 06:00
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/282780


ロフト発行の刊行物「ルーフトップ」/(提供:ロフトプロジェクト)

 1983年12月。森田童子は新宿ロフトでのライブを最後に引退した。その10年前の73年。彼女は西荻窪ロフトで初めてライブハウスのステージに立った。今でもファンたちは、西荻窪ロフトを「聖地」と呼んでいると聞いた。私が、デビューから引退までを見届けた唯一のミュージシャンとなった彼女は2018年4月、静かに65歳の生涯を閉じた。

 私が「ワラシ」と呼んだ森田童子は、とても不思議な女性だった。リハーサルを終え、本番までの間に西荻窪ロフトの隣の喫茶店に行き、2人でおしゃべりすることがあった。

 一緒にアルコールを飲んだことは一度もないから……飲めなかったのだろう。定かではないが。

 いつも彼女にこう問うた。「君の歌を聴いているとそれなりに想像はつくが、君の過去に一体何があったんだ?」。いつもニコニコするばかりでワラシは、何も答えようとはしなかった。政治的な話もしなかった。彼女の心情は、ステージから類推するしかなかった。

それでも少しずつ、口を開いてくれるようになった。マネジャーの話題になったことがある。

 後に彼女のダンナとなるマネジャーのMさんとレコード会社は「明るくて万人受けする曲」を作ってメジャーの仲間入りを狙っていたが、ワラシはかたくなだった。


 新宿ロフトでの引退ライブ。初期の曲をメインに選び、いつものように客席は静かだった。

 彼女が「この曲を最後に歌手生活に終わりを告げることにします」と話しても、店内はまるで葬式のようにシーンとしていた。選曲自体、最後のこだわりだったと思う。

 ライブの後、いつものようにレコード即売会を開いた。ファンの差し出すレコードすべてに長いメッセージを丁寧に書き込んでいた。これも見慣れた光景だった。

 亡くなる前年の17年のころから体調を崩し、入退院を繰り返していたと聞いた。76年リリースの「ぼくたちの失敗」が93年にテレビドラマのテーマ曲に採用され、瞬く間に100万枚の大ヒットになっても、ワラシは素顔も本名も明かさず、ひっそりと生きていた。

 森田童子の歌声はか細く、柔らかく、幻想的だった。彼女がステージで流す涙が、あまり話題にならなかったのは、ステージの暗く落とした照明のせいだったのか……。

81. 中川隆[-8613] koaQ7Jey 2021年1月04日 18:19:00 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[30] 報告

ロフト創業者が見たライブハウス50年
森田童子の引退10年後「ぼくたちの失敗」がミリオンセラー
公開日:2020/12/14 06:00 更新日:2020/12/14 06:00
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/282456


 1973年に西荻窪ロフトでライブハウスデビューを果たした森田童子は、10年後の83年12月に新宿ロフトのステージに立ち、これを最後に引退した。さらに10年後。彼女の旧作「ぼくたちの失敗(76年)」のCDが、100万枚に迫る大ヒットを記録した。TBS系の金曜ドラマ「高校教師」(93年1〜3月放映)の主題歌に採用されたのだ。

 当時のテレビドラマの主題歌は、大半がレコード会社とのタイアップだった。


 ところが「高校教師」の脚本を書いた野島伸司さんはタイアップを断固拒否。一部狂信的ファンはいたが、まだ無名の存在でしかなかった歌い手の曲を採用した。

 新たにベスト盤が発売され、オリジナルアルバム7枚がCDで再発売された。森田童子の再デビューを期待する声が湧き上がり、中には「古巣のロフトで彼女のライブが実現したら凄いことになりますね」と言ってくる人もいた。が、彼女はかたくなに再デビューに背を向け、その素顔をさらすことはなかった。

彼女は、私が恋心さえ抱いた最初で最後の女性ミュージシャンだった。

 ロフトのステージで森田童子は、決して上手じゃなかったギターを弾きながら、ボロボロと涙を流しながら歌っていた。
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 客席には小汚いジーパンをはき、ヨレヨレのコートの襟を立て、小脇に文庫本を抱える<孤独でネクラな雰囲気を醸し出している男>ばかり。

 ライブ中、いつも会場はシーンとしていた。

 あの狂おしい政治の季節が終わり、世間は<可愛らしい夢><小さな幸せ><素晴らしき人生>を渇望していた。彼女は<憂鬱><絶望><孤独><自殺>といったキーワードを掲げた曲を愚直に歌い続けた。挫折感に打ちひしがれ、時代に置いていかれる焦燥感にさいなまれた<学生運動崩れ>の男性ファンは、森田童子の世界観にグイグイ引きずり込まれた。

暗くて沈んだ歌声と評されるが、か細くて透明感のある歌声だったと私自身は思っている。

 67年の羽田闘争で京大生・山崎博昭さんが命を落としたことを契機に高校生だった彼女は学生運動に深入りし、そして恋人だった大学生のO氏が自殺してしまう……。
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 80年代に入るとメッセージソングは絶滅危惧種となり、ロフトのブッキング担当者に「森田童子なんか入れたら業界の笑いものになります」と言われ、絶句したことを鮮明に思い出す。

 ♪地下のジャズ喫茶 変われないぼくたちがいた 悪い夢のように時がなぜてゆく だめになったぼくを見て 君もびっくりしただろう 春のこもれ陽の中で 君のやさしさに埋もれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ♪

82. 中川隆[-8612] koaQ7Jey 2021年1月04日 18:23:22 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[31] 報告

ロフト創業者が見たライブハウス50年
フラッと現れた森田童子の暗くて沈んだ歌声に恋心を抱いた
公開日:2020/12/07 06:00 更新日:2020/12/07 06:00
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/282135


森田童子の1枚目のオリジナル・アルバム「GOOD BYE グッドバイ」

 新型コロナに翻弄された2020年も12月を迎えた。ライブは<密>を避けて<配信>というスタイルに変わり、演者とファンとの間に存在していた<濃密なつながり>は分断され、音楽を熱く実体験することができなくなった。コロナ禍はいつ収束するのか? 先が見えない。夜中に一人で酒を飲みながら、森田童子の悲しい調べに身を委ねる。青春時代の思い出が走馬灯のようによぎる。あれは……本気の恋だったのだろうか?

 1973年の秋というよりも、夏の終わりと言った方がいいかもしれない。その年の6月に西荻窪ロフトが北口商店街の一角にオープンした。秋口に入っても残暑が厳しく、店前の(東京)女子大通りの打ち水が、キラキラと光り輝いていた。


 森田童子がふらっと現れて「すいません、私もここで歌えますか?」と聞いてきた。彼女のトレードマークとなったサングラスも掛けてなかったし、クルクルのカーリーヘアでもなかった。まるで少女のようだった。

売れていない歌い手が売り込みに行く際、さすがに真っ黒のサングラスはないだろう――ということだろうが、彼女の素顔を見たのは、この時が最初で最後だったような気がしてならない。

 手渡された一本のテープを聞いた瞬間、大きな衝撃が脳天を突き抜けるように走った。「なんて暗い歌なんだ!」。そう思いながら、じっくり歌詞を読み込むと<あの政治の季節>が、まざまざと思い出された。私たちが遮二無二に闘ってきた「大学闘争時代の挫折」をこれでもか! これでもか! と突き付けられた。「どうして彼女は挫折した者にしか分からない心情を歌詞にして歌えるのか?」。不思議でしょうがなかった。同時に大きな好奇心が芽生えた。

 学園紛争で高校を中退し、72年の友人の死をきっかけに自作自演で歌い始めたというが、それにしても<革命を叫びながら機動隊にやみくもに突撃していった>私自身の全共闘運動時代の原風景を想起させる歌に「この少女の過去に何があったのだろうか?」と思わないではいられなかった。

暗くて、そして沈んだ歌声。そう言われていたが、個人的にはちょっと違う。あくまで<あの独特の雰囲気>が、そう思わせたのだろう。後で知ったが、恋人が学生運動中に自殺したという。

 彼女は、いつもロフトのステージの上で涙を流しながら歌っていた。


 私は、森田童子に恋心を抱いていた。

83. 中川隆[-8608] koaQ7Jey 2021年1月04日 21:50:25 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[37] 報告

113伝説の名無しさん2020/12/30(水) 20:58:01.00

森田童子、本名前田美乃生(旧姓中西)
現在森田童子(海底劇場音楽出版)の版権を継いでいるのは
森田童子の弟の中西さん


118伝説の名無しさん2020/12/31(木) 07:40:09.20

縁故デビューだったか


119伝説の名無しさん2020/12/31(木) 09:44:58.64

レコードデビューに至るまでは縁故だっただろうけど
その後の活動はなかにし礼とは
まったく関係無い本人(と前田亜土)の力

縁故をライブやレコード販促に利用したことも
まったくないし


120伝説の名無しさん2020/12/31(木) 10:50:44.08

ワーナー移籍後は、なかにし礼よりも演劇関係というか前田亜土関係者との繋がりが顕著。これは森田童子&前田亜土の意図なのか、なかにし礼と縁が切れたのか。(「兄弟」によると、なかにし礼が兄の顔を最後に見たのが兄の亡くなる16年前)


124伝説の名無しさん2020/12/31(木) 15:08:53.76
>>120
前田亜土はアドプロ社長とはいえ
芸能関係は素人
バックにいたのがなかにし礼(とその兄中西正一)

風吹ジュンの事件の後数年のうちに前田亜土が袂を別ったと考えられる
有限会社海底劇場音楽出版には中西兄弟の名前は無い

なかにし礼というより
父親に森田童子の活動の邪魔をされたくなかったはず


125伝説の名無しさん2020/12/31(木) 16:12:12.67

活動やめたのは

秘密ゆえメジャーになることも避けていたし
ということはビジネスとしては大きくはならないということだし

秘密があるんだから隠し通すのに疲れていただろうし
83年前後は音楽シーンがフォーク→ロックへの端境期だったし

本人が自分の中で表現したいこと(特に全共闘世代へのレクイエムみたいなもの)は
表現した感があっただろうし

いろいろ理由は考えられるわねえ


126伝説の名無しさん2020/12/31(木) 16:28:23.78

童子自身が語っているだろ

「音楽が面白く無くなった」 

「作り手側が結果を計算しすぎて作っている事に原因があると
思っています」

これ事実上の森田の最後の言葉 この数か月後森田は姿を消した。

127伝説の名無しさん2020/12/31(木) 16:40:34.99

それは、ロフト平野さんが最近夕刊に書いてたことと繋がるわね
前田亜土さんとレコード会社は
明るく万人受けする曲を作りメジャーになるよう求めたけど
童子は頑なだったと

134伝説の名無しさん2020/12/31(木) 23:52:35.04>>135>>176

それから風吹ジュン誘拐監禁事件

前田亜土の妻でなかにし礼の兄の次女が出てくるが、これが森田童子こと前田美乃生さんだ
そしてこの事件が森田童子デビューのきっかけになった
しかしこのとき森田童子は夫と父が逮捕されて大変だったろうな


182伝説の名無しさん2021/01/04(月) 15:31:56.71

風吹ジュン事件で中西正一や前田正春は逮捕じゃなくて告訴されただけでした
逮捕されたのは関係者である暴力団組員2人でしたね


137伝説の名無しさん2021/01/01(金) 09:14:10.83>>176

元自宅の近所の roof のマスターは前田亜土の武蔵野美術大学の後輩だった
こちらから質問すればいろんなことを教えてくれるぞ
前田亜土の死因はガンだったとかな


178伝説の名無しさん2021/01/04(月) 13:17:48.95>>182

マスターが本当にそう言ったなら微妙に嘘が混じってる
確かに正春さんはよく通っていたけど、美乃生さんは正春さんと一緒にたまに行くことがあったという程度
何回も聞かれるうちに「よく来てた」に思い出補正がかかったんだろうな
正春さんは一日に2回行くこともあったくらいしょっちゅう通ってた

141伝説の名無しさん2021/01/01(金) 16:32:21.46

国分寺の北側に住んでたんだ
雰囲気のあるいいところだよ


142伝説の名無しさん2021/01/01(金) 17:29:44.79

中央線って
全共闘の流れを引きずる世代や店が結構あって
高円寺、西荻、吉祥寺、国分寺、国立など
そういう独特の文化があった
今はもう希薄になったけど

森田童子が国分寺住まいだったというのは
なるほどと思う
玉川上水も近い
詩の背景がわかる

149伝説の名無しさん2021/01/02(土) 09:03:52.69

上に玉川上水あたりで詩の背景がわかると書いたのは
「まぶしい夏」のこと
そしてこの曲で歌われているのは
「さよならぼくのともだち」と同一人物

どう聞いても実体験


171伝説の名無しさん2021/01/04(月) 00:39:50.68

永井龍雲は作家、太宰治の作品の影響を受けているが、ミュージシャンとしては、森田童子の名前を挙げた。森田はマスメディアに対し、
実生活を明らかにしないカリスマ的な孤高のシンガー・ソングライターだった。メジャーになることを拒否したミュージシャンでもあった。

 森田は1975年に友人永井龍雲はデビュー前、森田の久留米などのツアーに前座して出演していた。森田も太宰の作品に傾倒していたという。

                                                            西日本新聞夕刊より抜粋


67伝説の名無しさん2020/11/29(日) 15:50:14.03

俺の父親が森田童子さんと中学の同級生だったそうです
卒業アルバム内の写真を見せてもらいましたが、三つ編みセーラー服で細く鼻スジの通った美人でした
成績も優秀でいわゆる優等生だったらしいのですが、やはりどこか陰のある大人びた雰囲気をまとっていた、と
言ってました。

68伝説の名無しさん2020/11/30(月) 01:04:39.21

友達亡くなったから歌を始める


69伝説の名無しさん2020/11/30(月) 01:05:40.33

それで歌手デビューもするってすごいな・・


70伝説の名無しさん2020/12/07(月) 07:31:46.26

前田亜土は1994年にレコーディングスタジオを作ってるが、
この人、スタジオ経営でもしてたのか?
2003年のひとり遊びの録音は自宅で行われたらしいが、
このスタジオとは関係無いのだろうか。
http://www.gess.co.jp/plan/std_system_hyou.html


72伝説の名無しさん2020/12/07(月) 22:44:56.15>>73
>>70
このスタジオで録ったものでしょう
前田さんは他の人のプロデュースもしていた


73伝説の名無しさん2020/12/07(月) 23:02:38.27
>>72
なるほど。手広くやってるひとだったんだな。
94年ってことは、きっと高校教師の印税で設備改装を...


75伝説の名無しさん2020/12/08(火) 01:47:00.38

ひとり遊びは自宅で録音してるよ


76伝説の名無しさん2020/12/08(火) 02:17:24.22
>>75
前田宅
自宅のスタジオやろ


77伝説の名無しさん2020/12/08(火) 07:00:27.93
>>76
twitterに解体中の前田宅写真があがってたが、
あの写真や海底劇場登記謄本を見る限り
前田宅には>>70のような設備は無いだろうな。
ひとり遊びを自宅で録ったんだとしたら
>>70とは別の機材で録ってるんだと思う。


78伝説の名無しさん2020/12/08(火) 12:26:01.96

あの録音を分析してた人がいるよ
8畳ほどの部屋で民生用機器を使っている
たぶん2階の東側の部屋じゃないか
前田美乃生さんの引退後は基礎疾患もあったので手遊び程度にしか歌ってなかったようだしね


81伝説の名無しさん2020/12/08(火) 15:09:29.39
>>78
だから、タイトルがひとり遊び...

147伝説の名無しさん2021/01/02(土) 06:10:38.19

2000年代に再録したのも知らなかった
聴いてみたけど何ていうか歌を忘れて何年もたっちゃった感じ
失礼ながら少し…加齢によるものか?

ドラマで使われたころも再録のときも全く出てこなかったのは
父親や夫もとっくに死んだり縁が切れてるかもしれないと仮定すると…
何かを恐れていたとしたら、なかにし氏?
冷酷な業界人という気がしてたものでね。あんがい合ってるかもしれないよね


148伝説の名無しさん2021/01/02(土) 08:53:26.79>>152>>176
>>147
2003年ひとり遊び(ラストワルツの一部変更版)の頃は前田亜土さんはまだ存命
というか、再録のプロデュース&エンジニアリングは前田さんがしたと考えられる
前田さんは2010年死去

いろいろな点で音源としての出来が現役時代に比べて良くないので
完璧な音を求める童子は
それ以降のリリースを諦めたと思う

103伝説の名無しさん2020/12/29(火) 00:48:20.88

ラストワルツを何で2枚連続で収録したんだろう。


104伝説の名無しさん2020/12/29(火) 23:40:47.08

毎回辞めたかったのだろう


105伝説の名無しさん2020/12/30(水) 11:03:51.58

最後のアルバムのラスト曲で、地平線を狼少年にタイトル変えて歌ったのも「何度死にたい死にたい歌えば気が済むのだ」的な自嘲から来てるんだろうか。本人はあれで辞められて清々したのかもしれない。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1601014401/

84. 中川隆[-8607] koaQ7Jey 2021年1月04日 22:06:17 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[38] 報告
森田童子の世界(全曲のコメント)
https://11146484morita.blog.fc2.com/


森田童子の曲についてコメントしていきます。

2020/08/10
森田童子のアルバム
オリジナルアルバム
1.グッドバイ
2.マザースカイ
3.ア・ボーイ
4.ラスト・ワルツ
5.夜想曲
6.狼少年

ライブアルバム
1.東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤

ベスト
1.森田童子自選集「友への手紙」
2.ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション

オリジナルアルバム6枚、ライブアルバム1枚、ベストアルバム2枚 計9枚のアルバムを発表している。
活動期間は22歳から30歳までの約8年。
作詞・作曲能力はもちろん、稀有な歌声はファンを魅了した。
そういう森田童子に魅かれる人へ、「聴くべき順番」を参考に書く。

1.東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤
  まずは、何といってもこれ。最初に聞くべきアルバムだ。
  ライブなので、森田の魅力がすぐそこにある。
  森田の歌声が素晴らしい。語りもいい。
  もちろん選曲も良い。
  加えて、弦楽四重奏とコーラスが見事。
  教会の録音のせいか、音も素晴らしい。

2.グッドバイ
  森田のデビューアルバム。2番目はこれ。
  この1枚だけでも森田の魅力が十分溢れている。
  どの曲もいい。名曲がそろっている。
  森田童子ってどんな人?と思ったら、この1枚。

3.マザースカイ
  森田を有名にした「ぼくたちの失敗」が入っている。
  この頃の森田は湧き出る泉のように名曲を作っていた感がある。
  3番目はこれ。

4.狼少年
  森田最後のアルバム。
  そのせいか、森田も力を入れて作ったような感がある。
  最後に森田はどんなアルバムを作ったか、4番目はこれ。

5.ラストワルツ
  森田の様々の才能がわかる。「みんな夢でありました」「ラストワルツ」
  といった曲は、森田でないと書けないと思う。

6.夜想曲、ア・ボーイ
  この2枚は森田の様々な面を知りたい状況になってからでも遅くない。
  多くの才能があったことを知ることができる。

7.自選集、ベストコレクション
  この2枚は一番最後で良いと思う。

2020/08/10
ひとり遊び
アルバムは森田のベスト盤。
ただ、おそらくは森田の意向はあまり入っていないと推測される。
ファンが望む曲を並べ、既に発表済の「自選集」とは曲が重ならぬように配慮した感がある。

このベスト盤の最後の1曲が「ひとり遊び」だ。
森田が活動停止してから20年後の、森田50歳の歌声だ。
ピアノ、ギター、ハーモニカも森田である。

「海が死んでもいいヨって鳴いている」の歌詞を一部変え、題名も「ひとり遊び」に変えている。

ただ、歌詞の変更はごく一部である。

・2番と3番を逆にしている。
・4番は「海が死んでもいいヨって鳴いてます」を
    「海が僕と死んでもいいヨって鳴いてます」にしている。

どうだろうか?まず歌詞だが、
2番と3番の交換は、意図してやったことだろうか?
4番の歌詞に「僕と」を入れる意味はあったのだろうか?
おそらくは、
「できるかわからないけど、とりあえず遊びのようにやってみる」
として録音したのではないか?
(ここで題名を「ひとり遊び」と思いついたのではないか?)

あまり書きたくないことを書く。

森田も残念ながら年をとってしまったのだ。
ずっと音楽活動をしなかったであろうから、
声も50歳の声になってしまったのだ。
自分の曲とはいえ、20年以上前に作った曲だ。
同じに歌えというのは無理がある。
20年間、おそらく曲づくりも停止していたであろうから、
おそらくこの曲1曲、不完全なままでしか録音できなかったのだ。
録りなおす気にもなれなかったと推測される。

森田に音楽活動再開を期待していた音楽関係者も
「これ以上は勧めてはいけない」と、この1曲で判断できたであろう。

人は年老いて、そしていつか死ぬ。
キラキラ輝いている期間はほんのわずかだ。
悲しいがそれが現実だ。

それでも言いたい。

「ひとり遊び」は50歳の森田童子がピアノを弾き、ギターを弾き、ハーモニカまで吹いて
そして50歳の等身大の自分で歌ったのだ。
森田はファンに最後、ひとつだけプレゼントしてくれたのだ。
これ以上、欲張ってはいけない。
むしろ、歌うこともなかなかできない状況で、録音に挑戦してくれたことに
感謝したい。

森田童子さん、ありがとう。
私がいつか、あちらの世界に行ったら、
また歌ってくださいね。


2020/08/10
ぼくたちの失敗 森田童子ベストセレクション(2003年3月5日発売)森田50歳
森田童子が音楽活動を停止後、1993年1月(森田40歳)に、テレビドラマ「高校教師」の主題歌として、
森田の「ぼくたちの失敗」が使われ、シングルCDは100万枚を超える大ヒットとなった。

最初は大物若手のデビューと勘違いする人もいたが、既に活動停止して10年になる森田の曲だった。
当然、マスコミは黙っていなかったが、森田はあくまでも沈黙を守った。

ところが、それから更に10年後の2003年1月(森田50歳)に、ドラマ「高校教師」の新作が放送され、
主題歌は再び「ぼくたちの失敗」が使用された。

森田が活動停止してから20年が経過していた。

ここからは想像だ。

音楽関係者の中には、森田に再度「歌うこと」を熱心に勧める人も当然いた。
森田はずっと拒み続けていたが、中には仕事だからではなく、
どうしても世の中に再度、50歳になった森田の音楽を聴かせたいと願う音楽関係者もいた。
その人の熱意に折れ、森田は1曲だけ歌ってみようという気持ちになった。
音楽関係者も、新曲ではなくとも、1曲だけでも森田に新たに歌ってもらえれば、
それが呼び水となって音楽活動再開も期待できると考えた。

歌う1曲を何にするのか?録音はどこで、どのように?いずれも森田に任せた。
森田は自分の曲「海が死んでもいいヨって鳴いている」の歌詞を一部変更して、
「ひとり遊び」というタイトルで、自宅にてピアノ、ギターを自ら弾き、ハーモニカも吹いて
歌った。20年ぶりの森田童子の演奏・歌声は、2003年に発売された森田のベスト盤
「ぼくたちの失敗 森田童子ベストセレクション」の最後に収録された。

私は「ひとり遊び」1曲のためにアルバムCD1枚購入する気にはなれなかった。
しかし、森田のオリジナルアルバムを全部入手して聴いていくと、「ひとり遊び」が
聴きたくて結局購入した。


2020/08/10
狼少年・ウルフボーイ
ラストの8曲目は「狼少年・ウルフボーイ」である。

聴いた瞬間、あれ?「地平線」じゃないか?と思った。
ただ、4番の歌詞が入れ替えされて
「狼に育てられたぼくは涙も 笑うことも知りません」として歌っている。

森田はどんな意図で8曲目にこの曲を入れたのか?

まずはこれで音楽活動を辞めようと決心していた。
最後の曲は、これまでの曲の中から1曲、「地平線」を選んで
歌うことにしたのではないか?
「地平線」は、ライブ「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」でも
オープニングを飾る素晴らしい出来栄えだったこともあり、
「地平線」で決まった。

しかし、ここでひとつ問題があった。
前アルバム「夜想曲」も、
最後にその前のアルバムでも収録した「ラストワルツ」を再度入れて、
おそらくあまり評判が良くなかったのではないか?

今回もそういうことが起きないようにひと工夫が必要だった。
そこで、歌詞の一部を入れ替え、タイトルも「地平線」でなく、
「狼少年・ウルフボーイ」にしたのではないか?


2020/08/10
憂鬱デス
7曲目は「憂鬱デス」だ。

気のせいか、6曲目にメドレーで続く歌のような感じがする。

間奏の森田の語りがいい。
「ひとりさくさくと柿を食らう」がいい。

6枚目のアルバムは、ここまで、ほぼ森田の思惑どおりに進み、
また、石川鷹彦との息も合い、上々の出来だったと思う。

2020/08/10
ぼくのせいですか
6曲目は「ぼくのせいですか」だ。

なんだかせつない歌だ。
短い歌だが、「去年の夏にあなたが海で死んだ」ときて、
それが「ぼくのせいですか?」「海のせいですか?」と問うている。

森田の実体験だとすると、これは森田が歌い始めたきっかけかもしれない。


2020/08/10
球根栽培の唄(ときわ荘にて録音)
5曲目は「球根栽培の唄」だ。

曲は森田得意のパターンに思う。もちろん悪くない。
「ガリ版刷り」「アジビラ」「赤ヘルメット」などという言葉は、
今の若い人には何のことかわからないだろう。

「ときわ荘」というのは、当時、森田が住んでいた阿佐ヶ谷のアパートの名前のようだ。
マンガ家が住んでいたアパートとは異なる。(笑)

なぜ、わざわざ「ときわ荘にて録音」と入れたのか?
音が悪いから?そんなことはない。スタジオ録音と思うような音だ。
あ、いや、まてよ?
エンディングで変な笛の音がするぞ?
体育の先生が吹く、首から下げた笛。あの笛の音が何度か聞こえてくる。
「ときわ荘」の外で誰かが吹いていた笛の音が入ってしまったのだ。
だからもう一度録音しなおしも考えたが、
聴いてみると不自然ではないので、そのままにした。
でも、一応(ときわ荘にて録音)と入れたのではないか?

この曲も間奏で森田が語る内容が今ひとつわからない。
「ぼくはどこまでも ぼくであろうとし ぼくがぼくで ぼくであろうとし」

2020/08/10
151680時間の夢
4曲目は「151680時間の夢」だ。

まず、「151680時間」って、どこから来ているのだ?と思った。
もしかして?と思ったのは、
森田が思春期を迎え、創作を初めてからの期間を言っているのではないか?ということ。
森田の思春期が12歳として、今回のアルバム発売が30歳。
それまで18年間となる。
1日24時間として、
24時間×365日×18年=157,680時間だ。近い。
森田は理系が得意だったのではないか?

前置きが長くなったが、ちょっと不思議な歌だ。
エンディングで語る森田の話もちょっとよくわからない。

ただ、この曲で、自分の思春期以降の期間を「ぼくの夢」として
「もうやりなおせないほど いつの間にか ぼくは
夢の中で 生きてしまったのです」と振り返っているような気がする。

2020/08/10
ぼくは流星になる
3曲目が「ぼくは流星になる」だ。

これはいい。
何しろ「キーラキーラキーラララ」で始まる。
森田、一生懸命歌っている姿が見えるようだ。
曲もいいが、歌詞もいい。

満員電車の中で ぼくは左耳をおさえて
去年の夏の海鳴りを聞いてる

これが詩人森田だ。

2020/08/10
ぼくを見つけてくれないかなァ
2曲目は「ぼくを見つけてくれないかなァ」だ。

素敵なタイトルだ。
しかも3番の最後は「君がぼくを見つけてくれないかなァ」と言う。
とてもシンプルでいい曲だ。
素直に今の気持ちを歌う森田の心が感じられる。
いい。


愛情練習(ロシアン・ルーレット)
1曲目は「愛情練習(ロシアン・ルーレット)」である。
石川鷹彦の編曲が見事で、おしゃれな曲調に仕上がっている。

森田の「ステップ」の歌声が舌足らずな感じでかわいらしい。
森田の素顔を知る人は身内のごくわずかな人たちだったようだが、
このような歌声を聴く限りでは、美人だったと思う。

森田は作詞の才能はもちろんだが、作曲のセンスも優れていたことが
この曲を聴いただけでもわかる。
どんな曲でも書けた。

それにしてもだ。「愛情練習」ってすごいタイトルだ。

2020/08/10
「狼少年wolf boy」6枚目のアルバム(1983年11月30日発売)森田30歳
森田のオリジナルアルバム6枚目「狼少年wolf boy」は、森田の最後のオリジナルアルバムとなる。
この後、森田は音楽活動を辞め、表舞台から姿を消す。

編曲は全曲石川鷹彦である。
森田はおそらくこのアルバムを最後に音楽活動を辞める決心をしていたのだろう。
最後は一番相性の良かった石川鷹彦に全曲の編曲をお願いしようと思ったのではないか?
最後は気持ちよく終わりたかったのではないか?

22歳でデビューした森田も30歳になっていた。
区切りとしても良いと考えたのではないか?

私生活はほとんどわからないままだが、
イラストレーターでもあり、マネージャーだった人と結婚したようである。
しかしその夫も2010年に没しているとWikipediaには書かれている。
それから8年後の2018年4月24日に森田も亡くなる。

2020/08/10
ラストワルツ
9曲目は「ラストワルツ」である。

よくわからない。森田はどういう意向でこの曲を最後に入れたのか?
前作アルバム「ラストワルツ」の最後の曲も「ラストワルツ」だったではないか?
どこが違う?
前作では、最後に古いラジオから流れるような雑音の入ったラストワルツが続く。
今回はそれをカットした少し短いバージョンである。

うーん。わからない。
そこまでして再度、最後に入れないといけなかったのか?
曲の出来が良いのはわかるが、何故なんだ?

森田が8曲目の「哀悼夜曲」でアルバムを終わらせたくなかったのか?
8曲だと曲が少ないということになり、もう1曲となったが、
森田の手持ちにその1曲が無かった?いや、そんなことはないだろう。
未発表の作品はたくさんあったはずだ。
前作に入れていた曲を再度入れなくても良かったではないか?
ファンとしては、森田の別の曲を聴きたかった。
少し残念に思う。
森田に何かあったのか?と心配になる。

2020/08/09
哀悼夜曲
8曲目は「哀悼夜曲」だ。

これも宗教音楽だろう。
森田でないと書けない曲だ。

ちょっとついていけない感じになってきた。


2020/08/09
孤立無援の唄
7曲目は「孤立無援の唄」だ。

このけだるさは何だ。
高橋和巳って誰だ?
小説家で、「孤立無援の思想」という著書がある。
この本をヒントにして書いたのか?

それにしても「プロレス」とか「でんぐり返って地獄固めだね」などと
森田が使う言葉とは縁遠い歌詞が出てくる。


2020/08/09
船がくるぞ
6曲目は「船がくるぞ」だ。

個人的にこの曲が好きだ。
最後の「クロール クロール」がとても良い。

間奏で森田が語る。
「まるで夏休みの臨海学校の新しいシーツをかぶった時みたいだ」
うーん。わからないなあ。

2020/08/09
サナトリウム
5曲目は「サナトリウム」だ。

いきなり「漱石の本」と来る。本来の森田の世界だ。
曲の最後に森田の語りが入る。

「もうすぐ ぼくの左の肺の中に 真赤な花が咲くはずです」

森田だ。


2020/08/09
麗子像
4曲目は「麗子像」だ。

何だかようやく本来の森田の歌を聴くようで少しホッとする。
歌詞に「ショパンのワルツを踊ります」とある。
この歌詞とこの曲からヒントを得て「夜想曲」というアルバムタイトルを
つけたのではないか?

この曲は日本ではない国の歌のようだ。
「四頭引きの馬車が走ります」なんて日本じゃない。
森田の頭の中にある風景なのだろう。

2020/08/09
ぼくは16角形
3曲目は「ぼくは16角形」

さっぱりわからない題名だ。
しかも歌詞も何だかわからない。

2020/08/09
淋しい猫
2曲目が「淋しい猫」

力を抜いて、サラっと歌っている。
そういう曲なのだろうが、どうすればこのような曲を書けるのか?

森田が手の届かない所へ行ってしまいそうな感じだ。


2020/08/09
蒸留反応
1曲目が「蒸留反応」だ。

そもそもどうやったらこのような題名を思いつくのか?
普通は絶対に思いつかないのではないか?

サビの「雪よ降れ んーん」のメロディーが良い。

2020/08/09
夜想曲 5枚目のアルバム(1982年11月20日発売)森田29歳
5枚目のアルバムが「夜想曲」である。

ノクターンを訳したのが「夜想曲(やそうきょく)」。夜の情緒を表す、抒情的な楽曲・・・ということか?
4枚目のアルバム「ラスト・ワルツ」の流れはあるが、少し違う方向も感じる。
森田も間もなく30歳。いろいろな変化もあったことだろう。

2020/08/09
友への手紙 森田童子自選集(1981年9月発売)28歳
森田自身が自分の曲から選んだアルバムだ。
よって、ベスト盤というわけでもない。

しかし、最初から通して聴くと、何となくわかってくる。
このアルバムは、森田のリアルな実体験を曲にしたものを選んだのではないか?

「さよならぼくのともだち」「赤いダウンパーカーぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」「早春にて」
は、強い影響を受けた友人のことを歌っている。

「菜の花あかり」「まぶしい夏」「逆光線」「蒼き夜は」
は、死の影が漂う。

ラストの4曲はライブアルバムからの選曲だ。
私がライブアルバムから選曲するとすれば、
「風さわぐ原地の中に」ではなく、「センチメンタル通り」とか
「地平線」だと思うのだが、おそらくこの2曲は森田のリアルな実体験とは
少し違うのではなかったか?

2020/08/09
ラストワルツ
8曲目が「ラストワルツ」このアルバム最後の曲である。

名曲である。森田のアルバムの最後に入れる曲は傑作だ。
1枚目のアルバムのラストは「さよならぼくのともだち」
2枚目が「今日は奇蹟の朝です」
3枚目が「G線上にひとり」
(3枚目のラストは「組曲のために第3番「友への手紙」だが、これは詞の朗読なので外す)
そして
4枚目が「ラストワルツ」
いずれも名曲である。

一体、どうすればこのような詞を書けるのか?
森田はもっと曲を書くべきだった。
自分で歌わないまでも他人に提供することはできなかったのか?
森田は拒んだのだろう。そんなことはできないと。
きっとそうだ。


2020/08/09
たとえばぼくが死んだら
7曲目は「たとえばぼくが死んだら」である。

ちょっと怖い題名だが、佳作である。
前奏もギターで短く、すぐに歌に入るところが良い。

短い歌詞で4番まである。
とにかく森田はあまり長い歌詞を書かない。
ところが曲を聴くと短いと感じない。
不思議な感覚である。

2020/08/09
きれいに咲いた
6曲目が「きれいに咲いた」である。

歌詞が私にはよくわからない。
森田の曲にはそういう詞が時々ある。

しかも間奏の森田の語りがまた難しい。

「幻燈会」などという言葉を使う。
チャップリンのかなり古い映画にこの題名の作品があるという。

この曲だけ、このアルバムではちょっと異質である。

2020/08/09
みんな夢でありました
5曲目は「みんな夢でありました」である。

学生運動を曲にする試みは、何人かのアーティストが挑戦している。
しかし、森田のこの曲こそ本当の学生運動の姿を歌っているように思う。

あんなに燃え上がっていた学生運動を振り返り、
「みんな夢でありました」と言ってしまう。
かなり勇気のいる表現だったのではないか?

歌詞も曲もいいが、森田の歌声が抜群に良い。
これが男性ボーカルとか、普通に歌が上手い人の声だと
こうはいかなかっただろう。
何回聴いても「いい」と思う。

2020/08/09
グリーン大佐答えて下さい
4曲目は「グリーン大佐答えて下さい」だ。

そもそもグリーン大佐って誰なんだ?
調べてみると、どうやらスタートレックに登場し、
21世紀に地球全滅を計画した人物のようだ。

しかし、森田に直接聞いたわけではないので
正確にはわからない。
しかし、そういうような(地球全滅を考えるような)人を
森田は「グリーン大佐」としたのではないか?

この曲も宗教めいたものを感じる。

エンディングで原子爆弾でも爆発したかのような
音が聞こえる。

2020/08/09
海が死んでもいいヨって鳴いている
3曲目は「海が死んでもいいヨって鳴いている」だ。

やっぱり4枚目のアルバムは本来の森田に戻っている。
この曲なんかも本来の森田だ。

孤独を感じながらも必死に前を向いて
どうにかなりそうだけれども懸命に生きていこうとしている
そんな歌のように思う。

暗い歌ではないと私は思う。


2020/08/09
菜の花あかり
2曲目は「菜の花あかり」である。

こういう曲を森田はおそらくササっと書くような気がする。
ウーンなどと唸ったりはしない。
サラサラと書いていくように思う。

そして美しい光景が目に見えるように歌い上げる。
こういうのを才能と言うんだろう。


2020/08/09
赤いダウンパーカーぼくのともだち
1曲目は「赤いダウンパーカーぼくのともだち」だ。

ここで言う「赤いダウンパーカー」は、おそらくジェームズディーンが
映画「理由なき反抗」で着ていたものを言っているのではないか?

ジェームズディーンといえば、「エデンの東」が有名だが、
私は「理由なき反抗」のジェームズディーンが好きだ。
彼の本来の性格がそのまま出ているように感じるからだ。

映画「理由なき反抗」で印象的だったのは
ジェームズディーンが着ていた赤いダウンパーカーで、
森田はおそらくそこからこの題名を考えたのではないか?

この曲は「さよならぼくのともだち」の兄弟のような曲だ。
間奏で「さよならぼくのともだち」の歌詞を一部語っていることからも、
間違いないと思う。出来もなかなかのものだ。

最後の歌詞に「何もなかった ぼくたちの終わりに」という表現に唸ったし、
続く「君と冷たい牛乳飲んで 声を出さずに笑った」にもまいった。
君との最後に飲んだのは「酒」ではなく「冷たい牛乳」だったのだ。
そして「声を出さずに笑った」のだ。
何ともすごい表現だと私は思う。


2020/08/09
ラストワルツ 4枚目のアルバム(1980年11月20日発売)森田27歳
オリジナル4枚目のアルバム(ライブ盤を除いて4枚目)

このアルバムからそれまでのポリドール・レコードではなく、
ワーナー・パイオニアとなる。

3枚目のアルバムが、どこか違う感があったが、
この4枚目のアルバムで軌道修正されたみたいで、
元の森田に戻った感があると思うのは私だけだろうか?

22歳でデビューした森田も27歳となった。

2020/08/09
風さわぐ原地の中に
10曲目はアンコールで「風さわぐ原地の中に」だ。

まず、この曲も「友よ泣かないのか」と同じで、他のアルバムに入っていない。
森田には珍しく、激しい曲だ。アンコールにふさわしいと考えたのではないか?

歌い出しの「風」が聞こえない。「・・・さわぐ!」と聞こえる。
でもかまわないのだ。

「原地(はらち)」って、あまり使わない言葉だけど、そういう言葉を森田は使う。

前奏で森田ではないギタリストのリードギターの間に、おそらくそのギタリストが
「イェー」と言うところがあるが、
どうも気になる。「イェー」と言ってほしくなかった。
森田のコンサートに「イェー」はふさわしくないように感じる。
私だけだろうか?小さなことだけど。

2020/08/09
さよならぼくのともだち
9曲目が「さよならぼくのともだち」だ。

当時の森田は、コンサートのラストでこの曲を歌うことが多かったようだ。
それにしても歌う前の森田の語りはどうだ!

「君と僕は同じ一線で結ばれた、友達というやさしい放浪者だった。
君と二人して、夜明けの町の荒々しい空気に酔いしれて二人は彷徨った。」

ここまでも良いが続きも良い。

「いつか、君と僕は同じ一線で結ばれた、友達というやさしい放浪者だった。
さよなら、ぼくの友達」

2020/08/09
センチメンタル通り
8曲目は「センチメンタル通り」である。

歌う前に森田は3年前にライブハウスで歌い始めたことを語る。
3年前といえば森田が22歳の時だ。
ライブハウスで歌い始めてから、わずか3年でこのようなライブができた。
やはり森田は只者ではないと思う。

「センチメンタル通り」も私のお気に入りだ。
というか、この曲も初めて聴いてからしばらくの間、
私の頭の中で鳴りやまなかった。

2020/08/09
海を見たいと思った
7曲目は「海を見たいと思った」である。

森田は夜汽車が好きだったようだ。
それにしてもどうだ。
このライブを聴いていると会場は「森田童子ワールド」になっている。

あまりの森田ワールドの素晴らしさのせいか、
強い拍手が邪魔に聞こえるのは私だけだろうか?

2020/08/09
友よ泣かないのか
6曲目は「友よ泣かないのか」である。

この曲は、他のアルバムに収録されておらず、このライブ盤にだけ収録されている。
曲を始める前に、森田は「友人の土門とその彼女モンちゃん」の話をする。
二人は阿佐ヶ谷のアパートに住んでいるということで、
当時、高円寺に住んでいた私は、森田に親近感を覚えた。

私も数年前に「友よ」という曲を作ったが、
森田の詞を読んでいると、その差に愕然とする。

2020/08/09
ぼくと観光バスに乗ってみませんか
5曲目は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」だ。

森田がラジオで「東京のはとバスに乗ったことがあって・・・」といった話をしていたと
記憶しているが、「はとバス」をヒントにして作った曲なのだろうか?

ところで、
「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」という題名で曲を書け、と言われたら、
このような曲を書けるだろうか?
とても無理である。
森田の才能を感じる1曲である。

2020/08/09
雨のクロール
4曲目は「雨のクロール」だ。

私が完全に森田童子のファンになったのは、おそらくこの「雨のクロール」を聴いてからだろう。
何て美しくもはかない名曲なんだろうと思った。
このライブでは、女性コーラスがこの名曲を更に盛り上げている。
初めて聴いた時から、毎日のように頭の中で「雨のクロール」が鳴り響いていた。

2020/08/09
君は変わっちゃったネ
3曲目は「君は変わっちゃったネ」だ。

曲の前に、親しかった「松本さん」という先輩の話をする。
3曲目の「君は変わっちゃったネ」にスムーズに続くような話で味わい深い。

よくあるテーマだが、森田の手にかかると傑作に仕上げられる。
そんな見事な出来栄えである。

間奏に森田が言う。
「あの頃、井の頭線の線路沿いのアパートに、君と暮らし始めた。
何もない無力なぼくは、ただ君を愛すことしか知らなかった」

クー!いいね。
井の頭線には通学で毎日乗っていたので、リアルだった。
彼女がいない私にはうらやましくもあり、別世界のこととしか思えなかった。
私より5歳しか年上ではない森田が、10歳以上年上に感じた。


2020/08/09
逆光線
2曲目は「逆光線」である。

1曲目が終わると、森田は「今日のコンサートの弦楽四重奏は武蔵野音大の友達です。」
と紹介する。それに呼応するように弦楽四重奏が奏でられ、2曲目の「逆光線」を
森田が歌い始める。

勝手な想像だが、1曲目を「地平線」にすることはすんなり決まったのではないか?
続いての2曲目を何にするか?
「地平線」に続く曲・・・と繰り返しているうちに、同じ「線」つながりの「逆光線」はどうだろう?
と、遊び心から、「それじゃあやってみましょうか?」となって、
武蔵野音大の友達の紹介から、弦楽四重奏の呼応、「逆光線」を歌い出すアイディアが
生まれたのではないか?
(もちろん、すべて想像である。)
とにかく1曲目〜2曲目までは最高のすべり出しである。

私はこのアルバムから森田を聴き始めたので、「逆光線」の歌詞は少々ショッキングだった。
森田が「只者ではない」ことを実感していた。

2020/08/09
地平線
1曲目は「地平線」である。

いきなり教会の鐘の音が聞こえ、続いて雷鳴がして海猫が鳴いている。
再度雷鳴がして、静かに森田が歌い始める。素晴らしい。

重なり合って女性コーラスがずっと続き、弦楽四重奏と共に
曲を美しく盛り上げる。

間奏で森田が言う。
「ぬけるように青い六月の空は、限りないぼくたちの失敗の空です。」
なんて素敵なんだろうと、聴き入ってしまう。
もし、その会場にいたら、泣いていたかもしれない。

2020/08/09
東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(1978年11月1日発売)森田25歳
森田童子唯一のライブ盤「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」である。

1枚目と2枚目のアルバムからの選曲に、
「友よ泣かないのか」「風さわぐ原地の中に」の2曲を加えた10曲の構成である。

まずは、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で歌ったことが特筆される。
こういう会場は、フォークソングのコンサートには貸出しない傾向にあるのだが、
森田の場合、バックの演奏に弦楽四重奏が入ったり、美しいコーラスが入る。
そういう面を前面に出して使用許可をもらったらしい。

次に選曲だが、当時の森田の曲で評判の良かった選曲と言っていい。
バックの演奏・コーラスもしっかりしているだけでなく、
森田の歌声が実に素晴らしい。魅力あふれるライブが楽しめる。
大聖堂のせいか、音も良く、ライブであるが、ベスト盤といってもいい。
また、曲間の森田のモノローグも味わい深いものがあり、聴き飽きることなく、
あっという間にコンサートが終了する。

私が森田のレコードを最初に買ったのが、シングル「さよならぼくのともだち」。
次にアルバムが欲しくなって、迷った末、このライブ盤を購入した。
森田入門編にはピッタリのアルバムだった。うれしかった。
(当時はインターネットも無く、よって、You tubeも無い時代だった。)


2020/08/08
終曲のために第3楽章「友への手紙」
9曲目は「終曲のために第3楽章「友への手紙」」だ。

とはいえ、これは演奏だけで森田は歌わない。
だから物足りない・・・が、森田が作った詞の朗読がある。

うーん。この詞の良さが、私には今ひとつよくわからない。
「さよなら ぼくを愛さなかった友達よ」とは?

「さよなら ぼくのともだち」との関係は?

やっぱりこの3枚目のアルバムは「何か違う」感が漂っている。

2020/08/08
G線上にひとり
8曲目は「G線上にひとり」である。

まずは「G線上」って何なのだ?
バッハの「G線上のアリア」からきているらしい。
バイオリンの一番低い音がソ(G)で、このG線だけで
演奏できることから「G線上の・・・」と呼ばれているらしい。

その「G線上にひとり」ということは何を意味しているんだろう?
・・・・わからない・・・・しかしそれがどうした。

名曲である。

心地よいメロディー、森田の魅力的な歌声。
素晴らしいのは「あくびして涙ふいた」の「あくびして」を
本当にあくびしながら歌っているように聞こえることだ。
しかも、本当にあくびして歌ったら、きっと「ダメ、もう一度」と
なっていただろうが、そのギリギリの線で歌っている。
森田の歌声は天才的なものを感じる。

2020/08/08
ぼくが君の思い出になってあげよう
7曲目は「ぼくが君の思い出になってあげよう」だ。

これは思いっきりプライベートソングのように思う。
出来は悪くない。(悪いわけがない)
ただ、あまりに素直すぎて何となく通り過ぎていく感じがする。

アルバムの中では、最後の少し前あたりに置くべき曲だ。

2020/08/08
淋しい素描
6曲目は「淋しい素描」だ。

「素描(そびょう)」は、いわゆる「デッサン」だ。
いきなり「浅き夢みし 人の世は」ときた。
まるで百人一首のようだ。

森田はどんな詞でも書けるような、そんな才能を感じる。

2020/08/08
セルロイドの少女
5曲目が「セルロイドの少女」だ。

この曲は森田の新たな挑戦と感じた。
何と!テーマは「サーカス」だ。

サーカスといえば、ビートルズの「ミスターカイトのために」を思い出すが、
こっちは17歳のミドリちゃんだ。

曲調、歌詞、歌い方も全部、これまでの森田ではない。
しかも題名が「セルロイドの少女」ときた。

歌の最後に「家族合わせ」という歌詞が来るが、
カルタの一種の遊びらしい。
森田は「家族合わせ」という言葉の響きからこの詞を書いたのだろうか?

サーカスの雰囲気が見事に出ている。
なかなかの曲だし、森田も気に入っていたのではないか?

森田のシングルは「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」ときて、
3枚目がこの「セルロイドの少女」なのだ。

おそらく、森田の意向でこの曲を3枚目のシングルにしたのではないか?
面白い曲で魅力はあるが、シングルで発売する曲ではないように思う。
でも、そういう挑戦をした(推測だが)森田がいいと思う。

ラジオか何かで、「この曲は1枚目のアルバムの時に一度録音してボツになり、
2枚目のアルバムでも候補だったがボツになって、三度目の正直で収録された」
と話していた。

1枚目と2枚目のアルバムでボツになった理由は明白だ。
アルバムのトーンに合わなかったのだ。

1〜2枚目のアルバム成功により、
3枚目は(おそらく)かなり自由に作れたのではないか?
だからある程度の実験も可能だった。挑戦も可能だった。
「セルロイドの少女」はこうして世に出せた(と思う)。

2020/08/08
ぼくを見かけませんでしたか
4曲目は「ぼくを見かけませんでしたか」である。

間奏で森田が言う。
「ぼくは いまひとり 北上川にほとり 旅の途上にいる」
森田はコンサートで全国を回っていたのだろうか?

その旅の途中で書いた曲なのだろう。
割と素直な詞なので、わかりやすい。

しかし、最後の詞が森田らしい。

ゆきかう電車の窓越しに 真新しいセビロの ぼくを見かけませんでしたか

うーん。森田の世界に引きずり込まれた。

2020/08/08
ふるえているネ
3曲目は「ふるえているネ」である。

何と短い詞なのだろう。
これで1曲にするという発想が森田にはあった。
私には無い。(そりゃそうだ)

たぶん私小説的な内容なのだろう。
よって、なかなか入り込めない世界である。

やっぱりエンディングの演奏は長い。


2020/08/08
君と淋しい風になる
2曲目は「君と淋しい風になる」である。

編曲がいいなと思ったら石川鷹彦だった。

それにしてもやはり森田の歌声は素晴らしい。
「形のない愛は・・・」からグッときて、
「いつかふたりは」の「ふたりは」が森田でないと歌えない魅力的な歌い方だ。


2020/08/08
蒼き夜は
1曲目は「蒼き夜は」である。

「蒼」は、「青」と違い、「草の青さ」「草が青く茂る様子」を言うのだそうだ。
アルバムジャケットの森田は夜の芝生の上にうつぶせ寝している。
1曲目のイメージからだったのだろうか?

それにしてもいきなり「春はまぼろし」という歌詞から始まって
森田の世界に引きずり込まれる。
森田の歌声がとてもいい。


2020/08/08
A BOY 3枚目のアルバム(1977年12月10日発売)森田24歳
森田童子3枚目のアルバムは「A BOY」である。

このアルバムだけ、私はいまだに「よくわからない」のである。
曲は悪くはない。森田の曲なのだから、悪いはずもない。
しかし、ほかのアルバムと比べてしまうと、どこか「何か違う」感がある。

森田唯一のライブ盤「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」は、
1978年7月29日のライブである。
「A BOY」の発売は、1977年12月10日なのであるが、
この「A BOY」からは1曲もライブ盤に入っていない。
基本的に1枚目と2枚目のアルバムからの選曲である。
これは何を意味するのか?たまたまか?そんなことはないだろう。

森田は2枚のアルバムを出し、評判も良かったわけで、
3枚目のアルバムは何か新しい挑戦をしたかったのではないか?
前の2枚のアルバムとは少し違うものを創りたかったのではないか?

それが「どこか、何か違う」感を出しているような気がする。
「G線上にひとり」は間違いなく森田の傑作のひとつである。
「セルロイドの少女」は、これまで見せたことのなかった森田の新たな一面である。

個人的にどうしても気になるのが、曲のエンディングの演奏の長い曲があること。
「ふるえているネ」「淋しい素描」
「終曲のために 第3番「友への手紙」」は、演奏だけで、後半は手紙を読む。
これは編曲者のアイディアだったのか?森田の意向だったのか?
「ふるえているネ」「淋しい素描」は、エンディングの演奏が長すぎるように思う。

正直に言うなら、これらの曲のエンディングの演奏をもう少し短くして、
もう1曲、短くても「歌う森田」の曲を入れてほしかった。

ただ、全体を通して「孤独」を感じること。
アルバムタイトルが「A BOY」である。
少年の孤独な心をアルバム全体のトーンにしたかったのではないか?

森田は女性(だと思う)ので、少年の孤独な心を表現するという
新たな挑戦をしたのではなかったか?

謎である。

2020/08/02
今日は奇蹟の朝です
10曲目、ラストは「今日は奇蹟の朝です」だ。

これは素晴らしい。森田童子でないと書けない曲だ。
森田童子ワールド全開といった感じ。

これこそ森田がキリスト教信者と思われる理由のひとつだ。
そういう人でなければ書けないだろう。

まるで砂浜にいる森田が海に向かってひざまづいて祈っているようだ。

最後のフレーズが「いま聖母マリアが浮上する」で見事に歌い終わる。

アルバムのタイトル「マザー・スカイ」は、この曲から出て来たように思う。

2020/08/02
春爛漫
9曲目は「春爛漫」である。

ファーストアルバムも最後から2番目に「たんごの節句」が入っているが、
セカンドアルバムも最後から2番目に似たような曲調の「春爛漫」が入っている。
偶然か?いや、そんなことはないだろう。
おそらく、実験的な試みをしてみたかったのではないか?
自分はこういう曲も歌いたいんです・・・みたいな。

ただ、やっぱりちょっとどうかと思ってしまう。
もちろん一定のレベルは越えているが・・・。


2020/08/02
ニューヨークからの手紙
8曲目は「ニューヨークからの手紙」である。

森田はニューヨークへ行ったのだろう。
何となく違和感もあるが、そう理解しないと進まない気がする。
何もかも嫌になって、ニューヨークへ行き、「私を忘れてほしい」と、
そうして旅立ったのだろうか?

メロディーはとても良い。
ただ、森田の気持ちがなぜこのような詞を書かせたのか、わからない。


2020/08/02
男のくせに泣いてくれた
7曲目は「男のくせに泣いてくれた」である。

これは森田の実体験だそうで、高校生だった頃、自分の苦しみを先生に打ち明けたところ、
男の先生だったのに泣いてくれたそうで、感激したようだ。

ただ、そういう体験をこんなふうに曲にできるだろうか?
なかなかできるものではない。
しかもドラマ「高校教師」でも挿入歌として使われたほどの曲に仕上げている。
ドラマヒット時、森田は活動停止していたが、ドラマのヒットにより、シングルCDが発売された。
「ぼくたちの失敗」「男のくせに泣いてくれた」である。オリコン5位までになったそうだ。

2020/08/02
海を見たいと思った
6曲目は「海を見たいと思った」だ。

森田は「夜汽車」が好きだと何かで話していた。
そうだ。夜汽車が好きでない人に「暗い電燈」だとか、
「窓ガラスに もう若くはない ぼくの顔を見た」なんて書けない。

間奏で語る。
「飲めない酒を飲んだ 泣いてみようとしたが 泣けなかった」
クー!詩人だなあ。

2020/08/02
ピラビタール
5曲目は「ピラビタール」だ。

ピラビタールとは、鎮痛剤・鎮静剤の中に入っている
少しだけ気持ちよく眠くなる作用のある薬だそうだ。

こういうのを題名にするって、なかなかできない。
「悲しいときは頬をよせて 淋しい時は 胸を合わせて」
と言ってるけど、そうだったかな?と、考え込んでしまう。

2020/08/02
逆光線
4曲目は「逆光線」だ。
これは昔で言うところの「問題作」だろう。
今、発表していたら「放送禁止」扱いされていたかもしれない。

「安全カミソリがやさしく ぼくの手首を走る」
「静かに ぼくの命は ふきだして」

「手首を切る」ではなく、「手首を走る」として、
「ぼくの血液は ふきだして」ではなく、
「ぼくの命は ふきだして」としている。

しかも切るのは「安全カミソリ」である。「カッター」ではない。
こういうちょっとした表現の違いが、ギリギリ芸術作品にとどめている。

それでも「やさしく発狂する」のは怖い。


2020/08/02
伝書鳩
3曲目は「伝書鳩」だ。

子供が複数で「青い空」「白い雲」と歌っているようだ。
結構ピッタリはまっている。
アレンジャーを調べたら石川鷹彦だった。

「朝の街にぼくの カイキンシャツが飛ぶ」なんて書けない。
「母よぼくの 鳩を撃て」ってどういう意味なんだろう。

でもそんなことはどうでもいい。
気づいたらセカンドアルバムでも、完全に森田童子の世界に引き込まれていた。

2020/08/02
ぼくと観光バスに乗ってみませんか
2曲目は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」だ。

この曲も森田自身、よくライブで歌っていたようだ。
しかし、「観光バス」に乗ってみませんか?というのが森田らしい。
「ぼくとドライブしてみませんか」ではないのだ。
しかも「トランジスターラジオ」まで出てくる。
あの「ドゥーユーワナダンス」を持ってくるのもいい。

そして、森田お得意の間奏のモノローグ。
「君も一度 気が向いたら たずねて下さい 雅兄」
「雅兄」って何だかわからなかった。
男か男の友人に出す手紙で、敬愛しているというような意味だそうだ。
森田はかなりの文学少女だったと推測される。
それと、「遊びにきて下さい」ではなく「たずねて下さい」なのだ。
ちょっとした違いだが、曲を格調高くしていると思う。

2020/08/02
ぼくたちの失敗
1曲目が「ぼくたちの失敗」だ。
森田の活動停止後の1993年、テレビドラマ「高校教師」の主題歌に使われ、大ヒットした。
テレビで「高校教師」の予告編を何気なく見ていたら、森田童子の曲だったので驚いた記憶がある。
このテレビドラマは大ヒットし、この主題歌を聞いて森田童子を知った若い人がたくさんいたと聞く。

何ともすごい題名だ。「ぼくたちの失敗」なのだ。普通、こんな題名をつけない。
マイナスのイメージが強すぎるからだ。でも、いいのだ。

1曲目に森田が持ってきただけあって、おそらく自信作だったと思う。ピアノもとてもいい。
ファーストシングルは「さよならぼくのともだち」だったが、
セカンドシングルには「ぼくたちの失敗」を持ってきている。

「君のやさしさに 埋もれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ」ときた。
こういうフレーズに人は弱い。「弱虫だったんだヨネ」と認めているのだ。
「だめになったぼくを見て 君もびっくりしただろう」にもやられた。
こんな詞は胸に迫ってくる。

チャーリーパーカーは、アメリカのジャズ アルトサックスの名プレーヤーだそうだが、
残念ながらジャズをあまり聴かない私にはよくわからない。失礼。
森田の彼氏はジャズが好きで、森田も影響を受けたのだろうか?

それにしても「電熱器」って何だかわからない若い人は多いのではないか?
しかもそれをストーブ代わりに使っていたなんて、イメージがつかないかもしれない。

しかし、それがどうした。そんなことはおかまいなしに、ドラマ「高校教師」の主題歌として、
大ヒットしたのだ。
このドラマの脚本家の推薦に、プロデューサーが応じて主題歌として採用されたらしい。

何かふわふわしてどこかに飛んでいきそうな歌い方がこの曲にマッチして絶妙である。
こういう歌い方は森田でないとなかなかできないだろう。

2020/08/02
マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=2枚目 1976年11月21日 森田23歳
森田童子 セカンドアルバムは、ファーストアルバム発売のぴったり1年後に発売された。

レコードジャケットがドキッとする。十字架が砕け散る写真なのだ。
森田の音楽には宗教(キリスト教)を感じさせるところがある。
しかし、宗教ドップリではないことは、このジャケット写真でわかると思う。

ファーストアルバムは素晴らしかったが、セカンドアルバムもなかなかのものだ。
この頃(森田23歳)は湧き出る泉のように名曲が出来上がっていたのではないか?

それにしてもジャケット写真は衝撃だった。

2020/07/31
さよならぼくのともだち
ラスト10曲目が「さよならぼくのともだち」だ。

森田童子の代表曲。
まだ22歳というのになんて大人びた詞を書くのだろうと驚く。
「行ったこともないメキシコの話を 君はクスリが回ってくると」
などという詞を書けるだろうか?

「仲間がパクられた日曜の朝 雨の中をゆがんで走る」
などという詞を若い女性が書けるだろうか?
男でも無理だ。

私はこの曲がずっと頭から離れなかった。


2020/07/31
にわか雨
9曲目は「にわか雨」。
(タイトルの「にわか」は難しい字を使っている。)

さりげない、目立たない曲である。
静かにひとりでいる時に聞くと良さそうなおとなしい曲だ。

しかし、メロディーはなかなかだ。

2020/07/31
たんごの節句
8曲目は「たんごの節句」。

正直に言えば、この曲はこのアルバムのトーンに少し合わないような気がする。
曲は悪くないし、歌声ももちろん良い。(特に最後の「たんごの節句!」がすごい。)
ただ、幼い姉と弟がいっしょにお風呂や川に入るというのが、
ちょっとだけこのアルバムのトーンに合わないと感じてしまう。
(ぜいたくだろうか?そうだ。きっとレベルの高いアルバムを聴いていると更に上を望んでしまうのだろう。)

2020/07/31
淋しい雲
7曲目は「淋しい雲」。

タイトルと曲がなかなか結びつかない。
それよりも驚くのは、アグネスチャンが歌っているように聞こえることだ。
この曲に限って言えば、歌い方が森田らしくない。
・・・といえば批判的に聞こえるかもしれないが、批判しているのではない。
もしろ、森田はこういう歌い方もできたのかと驚かされる。
ひと言で言えば「とてもかわいらしい声」なのだ。
森田はこの歌い方をこの1曲でやめたようだ。
自分の曲のイメージに合わないと判断したのだろうか?
少し残念だ。

ところで、「ミセス・カーマイケル」って誰なのかと思ったら、
昔の海外ドラマの「ルーシーショー」の「ルーシー」のことだそうだ。
そういう名前をさりげなく歌詞に入れるのが森田だ。


2020/07/31
センチメンタル通り
6曲目はセンチメンタル通り。

映画「ジャイアンツ」と言えば「ジェームズディーン」だと思っていたら「ロックハドソン」ときた。
やっぱり森田はただものではない。
そもそも題名が「センチメンタル通り」である。
この時代を見事に描いている。

「みんな夕方になると集まった」の次にまさか「映画館」が来るとは思わなかった。

森田は22歳だが、本物の大人だった。そう思う。そうでなければこんな詞書けない。

個人的に、ひとつ残念に思うのは、冒頭のオートバイの音だ。
この時代のこの曲に合うと思って入れた効果音と思うが、私は不要だったと思う。
5曲目までの雰囲気がちょっと壊されるような気がするからだ。
あくまでも個人的な感想だ。曲そのものの素晴らしさは変わることがない。

2020/07/31
地平線
5曲目は「地平線」。

一体、どうすればこのような歌詞が書けるのだろうか?
素晴らしいのひと言に尽きる。

この曲もライブアルバム(東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤)に入っており、
オープニングを飾っている。このライブアルバムでの「地平線」でもコーラスが良い。
コーラスを聴いているだけでも満足しそうな曲である。
しかもモノローグも良い。森田は詩人だ。


2020/07/31
雨のクロール
4曲目は「雨のクロール」。

美しい名曲である。
このアルバムの「雨のクロール」もいいが、
私は森田のライブアルバム(東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤)の「雨のクロール」が一番好きである。
前奏・間奏でのコーラスが美しく、耳から離れない。

この歌詞は素直に「僕」が男性で、「君」は女性で良いようだ。
「君は花柄のワンピース置いて」と来るものだから、少しドキッとした。
森田は「ワンピース脱いで」とせず、「置いて」としたところが見事だ。
曲の品を落とさず、名曲に仕上げた。

森田は「泳ぐ」=「クロール」と決まっているようだ。
アルバム夜想曲の「船が来るぞ」でも「クロール クロール」と歌っている。

短い曲だが、本当に素晴らしい。森田の代表曲のひとつである。

2020/07/31
まぶしい夏
3曲目は「まぶしい夏」。

タイトルだけではわからないが、曲を聴くと森田は「太宰治」が好きだったと推測される。
いきなり「玉川上水」が出てきて、「太宰の好きな君」が出てくる。
「君から借りた太宰の本は、寂しい形見になりました」とダメ押しが来る。
(アルバムのタイトルが「GOOD BYE」である!)

森田20歳のときの友人の死がきっかけで歌を歌い始めたようだが、これはその友人のことかと想像する。
仮にそうだとすれば、そんな衝撃的な出来事をこんな美しくもはかない曲に仕上げる森田。
唸るしかない。

森田は「汗をかく」「汗ばんだ」といった「汗」を歌詞にすることが好きなようである。
(「さよならぼくのともだち」にも汗が出てくる)

2020/07/31
君は変わっちゃったネ
2曲目は「君は変わっちゃったネ」。

森田はこの曲を気に入っていた模様で、ライブでよく歌っていたようだ。
もちろん私もお気に入りの曲だ。

歌詞は素直に自分が子供っぽいのに、君は大人になったと書いている。
後に森田唯一のライブアルバムでは、間奏のモノローグが効果的である。

素直な詞であるが、メロディーが良いものだから、忘れられない曲になる。
そう。森田は言うまでもないが才能豊かなシンガーソングライターだった。

2020/07/31
早春にて
1曲目の「早春にて」は、森田童子の魅力満載である。
歌声、メロディー、歌詞、なかなかのものである。

森田は女性(だろう)と思っていたが、歌詞を聴いていると、
「君」が女性のようで違うようで、「僕」は男性のようでそうでない。
後日、わかったことだが、森田は自分を「僕」と表現しているようなのだ。
女性が「僕」と言うと不思議な魅力を感じる。

間奏でモノローグが入るが、これが何とも言えずいい。
「もうすぐそこに夏が来ています」なんて、いい。

森田の歌詞は比較的短いのだが、不思議なことに短く感じない。

エンディングの効果音は飛行機の離陸する音のようだが、
最初、何で飛行機の離陸音なのかわからなかった。
しばらくして、彼は飛行機で故郷へ帰ったのだろうと推測できた。
あの頃、飛行機は高額であまり利用できなかったから、ピンとこなかった。
「飛行機の離陸する音を入れてください」と森田は言ったのだろうか?
いや、私にはそんなことを言うとは思えない。任せたのではないかと思う。

2020/07/31
GOOD BYE 1枚目のオリジナルアルバム1975年11月21日発売(森田22歳)
森田童子のファーストアルバム「GOOD BYE」は、森田22歳の時に発売された。
私は森田よりも5歳年下だから、私が17歳の時にラジオの深夜放送で「さよならぼくのともだち」を聴いたと思う。
このファーストアルバムが素晴らしい。名曲ぞろいである。
わずか22歳でこれだけの曲を書けるのだから、相当な才能である。

私は東京で4年間、大学生をやっていた。「いつか森田童子のコンサートに行こう」と思っていたが、
結局、行かないまま卒業し、故郷に戻ってしまった。後悔している。
あの4年間で、何としてでも行くべきだった。おそらく一生後悔して生きていくと思う。

2020/07/29
森田童子の世界

もう40年以上前のことです。東京の大学進学に向けての受験勉強中、ラジオの深夜放送を聴いておりました。
そこで流れてきたのが「さよならぼくのともだち」でした。とにかく引き込まれたことを覚えています。
魅力的な歌声でしたし、繰り返す「さよならぼくのともだち」が良かったし、まだ見ぬ大学生の生活が
ぼんやり浮かんだような気がしました。

「弱虫でやさしい静かな君」というのは「つまらないダメな人間」と思っていましたが、「ぼくはとっても好きだった」
と歌われ、「この人、誰なんだ?いいな!」と思いました。

これが私の森田童子との出会いです。当時は、どんな人が歌っているのか、情報もありませんでした。

85. 中川隆[-8605] koaQ7Jey 2021年1月04日 22:25:45 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[40] 報告
18tattyanneko2018/10/15(月) 10:15:52.09

なかにし礼の小説「兄弟」は森田童子ファンなら必読です
これを読むといろんな事がわかりますが、他の資料と照らし合わせるともっと詳しいことが見えてきます

たとえば、なかにし礼の他の著作で「翔べ!わが思いよ」というのがあります
1989年、東京新聞に連載された自伝です

なかにし礼と森田童子こと中西美乃生さんは1968年から1971年まで、東京都中野区にある同じ家に暮らしていました
前回引用した部分、美以子さんが十五歳のときから十八歳までです

一方でなかにし礼は「なかにし礼商会」を1970年に設立
1973年に解散しています

この会社に前田亜土がいたのです
以下は「翔べ!わが思いよ」新潮文庫版、232ページからです

中野区江原町に土地を買い、そこに家を建てた。北青山三丁目に小さなビルが売りに出たので、即金で買った。

思いもかけぬと言ったら嘘になる。ついに、待ちに待ったというべきか。とにかく、意外に早く大きな幸運がやって来たのだ。
三十歳になったばかりの私は、夢の中にいるように呆然としていた。
中野の家には兄の家族や母も一緒に住んだ。千家和也や初信之介といった弟子たちも寝泊まりしていた。

北青山のビルには″なかにし礼商会″という名の会社をつくり、私が社長になって、社の真似事をやつた。ワイワイただ騒いでいるだけのもので、会社らしい目的も実行力も持ち合わせていなかった。と言ったら、その時の仲間の、杜洋之輔、前田亜土、
沢井貞夫などにすまない気もするが、社長の私が言うのだから間違いなかろう。だけど、ワイワイ騒ぐというのは楽しいものだ。お祭り騒ぎ……有頂天……。
そういえば『日本の祭り』というチャンとした仕事もしたっけ。
年末のレコード大賞は残念ながら『いいじやないの幸せならば』に決まった。

https://imgur.com/vpbAlrK.jpg


じっさいにこのころ、なかにし礼の著作を前田亜土がいくつか装丁をしています
この本にあるように前田亜土もなかにし礼の家に寝泊まりしたかもしれません

こうして森田童子こと中西美乃生さんと、前田亜土さんこと正春さんが出会ったのでしょう
美乃生さんはまだ未成年だった頃ですね

19tattyanneko2018/10/15(月) 10:16:15.57

それからもう一つ、この文章で考えたことがあります

なかにし礼の弟子、千家和也と初進之介がなかにし礼宅に寝泊まりしていたという部分です

つまり家で作詞の仕方を教えていたわけで、そのときに森田童子も教わったんじゃんないかと想像しました
森田童子の歌は書きっぱなしポエムじゃなくて、ちゃんとした流行歌の歌詞になってます

詞のアクセントとメロディーを合わせる、聴かせどころに新奇なフレーズを使うといった作詞の基本などもこのときに学んだんじゃないでしょうか
だからあれだけすごい曲ができたのでは

私としては世の中に流布している「森田童子の作品はなかにし礼の代作説」より「森田童子はなかにし礼に教えを受けた仮説」のほうがそれらしく思えます

20tattyanneko2018/10/15(月) 11:43:19.49

ちょっと調べてみました
中西家は父方も母方も石川県出身ですね
森大河の本名「対馬」という名字は津軽地方土着のものです
だから血縁関係はないでしょう


21tattyanneko2018/10/15(月) 12:03:45.06

ついでに「森田」についても調べてみました
北陸地方に多い名字ですね
とくに金沢あたりです
なにか関係があるのかもしれません

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1539527568/

86. 中川隆[-8601] koaQ7Jey 2021年1月04日 23:10:02 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[44] 報告
34伝説の名無しさん2018/10/15(月) 22:31:03.38

子供がいたのに孤独死って
疎遠になっていたって事?


35tattyanneko2018/10/15(月) 22:38:28.40>>37
>>34
子供はいませんでした
証拠があります

森田童子こと前田美乃生さん名義の不動産は姉と弟が相続しているからです
子供がいれば兄弟が相続することはありません
登記事項証明書をアップしてもいいのですが、また偽造だなんだと書かれるのが面倒なのでご自分で確認してください
PCがあればネットで簡単に取得できます


37伝説の名無しさん2018/10/16(火) 00:43:33.98
>>35
それは子供がいない証拠にはならないけどな
子供が相続しない例はいくらでもある
でもそれは証拠にならないというだけで
亡くなった時点で子供はいなかっただろうな


38伝説の名無しさん2018/10/16(火) 00:46:59.29

事実だけを言えば森田童子に子供はいた
それが後に精神を病む原因となった
辛い話だよ

87. 中川隆[-8600] koaQ7Jey 2021年1月04日 23:26:45 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[45] 報告
139tattyanneko2018/10/29(月) 23:44:52.31

毎日書き込みを見てましたが、ジュンアンドケイに言及されたレスがあったので書き込んじゃいます

音楽出版ジュンアンドケイは面白い会社ですよ
この年表を見るといろんなことが想像されます
http://www.jkmusic.co.jp/company/history.html

あとここもご覧ください
http://www.jkmusic.co.jp/catalog/cat24/

たぶん、なかにし礼と親しかった松村慶子さんの会社・ジュンアンドケイが出資して森田童子をデビューさせたんでしょう
同じ会社の浅川マキの妹のような路線で売り出そうとして、かなり成功したんじゃないでしょうか
それで森田童子の3rdアルバムまでの楽曲はジュンアンドケイがいまだに所有してます
原盤権というのはアルバムを作るときにお金を出した割合で原盤印税を分配します
おそらく森田童子はお金を出さず、ジュンアンドケイが制作費を払ったのでしょうから、原盤印税はほとんど森田童子には行きません
「ぼくたちの失敗」がいくら売れても森田童子はあまり儲からなかったでしょう

レコード会社を移籍した理由も金のためだったと思います
自分たちに原盤印税がたくさん入ってくるようにと狙ったのでしょう
あと森田童子のお父さんとなかにし礼の確執があったのかもしれません
小説「兄弟」によれば、兄弟が絶縁したのが移籍した時期と重なります
でもパイオニアではスタッフに恵まれず、あまりヒットしませんでした
やはり、なかにし礼人脈は大きかったんでしょうね

お父さんが1994年に死にます
その年に海底劇場音楽出版が設立されてます
つまりお父さんがそれまで握っていたパイオニア時代の原盤権を前田夫妻は受け継いだのですね

160伝説の名無しさん2018/10/30(火) 08:16:57.94>>162>>164

会社と不動産の現在事項証明書、つまり登記簿謄本の写しから確実に言えることは次のとおり

有限会社海底劇場音楽出版という会社が1994年から現在まで存続している
その本店所在地の住所の土地建物は今年の8月まで前田美乃生という人の所有だった
美乃生さんは海底劇場音楽出版の社長でもあった

美乃生さんは今年の4月に死んで不動産は中西某とある女性が半分ずつ相続した
不動産は2009年まで前田正春が二分の一所有していたが死亡により美乃生さんがすべて相続した

88. 中川隆[-8597] koaQ7Jey 2021年1月05日 00:39:35 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[49] 報告
315伝説の名無しさん2018/11/13(火) 15:28:00.86
>>316
宗教はともかく
父親がヒロポンのせいで人格破綻していたので
普通の家庭でなかったことは確かだわね
89. 中川隆[-8596] koaQ7Jey 2021年1月05日 01:02:27 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[50] 報告
464伝説の名無しさん2019/04/07(日) 14:01:35.82

新婦人1963年3月号(*より一部抜粋)
■若い芸術家■舞台美術家/前田亜土

私が生まれたのは一九三九年出生地は北海道阿寒である。幼い頃小学校の仲間から「ギリ」という渾名をたてまつられてその頃の私はその意味が解らずに父に問うた挙句、父の叱責を招いたものだが、今想えば、それはギリアックの略であったらしい。

中学校を終えた私は住みなれた清き阿寒の湖をあとに或る満月の夜「家」の鎖を断ち切る為、家出をしたのだが、青函連絡船で海峡を渡る数時間、私は甲板の手摺に靠れたまま滑らかな海を見続けた。

海上に浮遊していた、腐りかけの林檎、セルロイドの血、何かを中にくるんだ菰包、針のない柱時計、――

昭和14年3月生/武蔵野美校卒/劇団表現座所属

471伝説の名無しさん2019/04/09(火) 14:39:32.89
>>464
なかにし礼(1938年9月2日生まれ)と
前田亜土(1939年3月生まれ)は、
同学年だったんですね。

466伝説の名無しさん2019/04/07(日) 17:26:37.53

森田童子の生年月日は1952年1月15日が正しいです

90. 中川隆[-8595] koaQ7Jey 2021年1月05日 01:11:20 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[51] 報告
486伝説の名無しさん2019/04/12(金) 23:17:23.23

風吹ジュン誘拐監禁ですが、暴力団とか事件の詳細はどうでもいいです。
ここで興味深いのはアドプロモーションの社長が森田童子の夫、役員が父と叔父だということです。

1974年9月に事件が起きて、1年後に森田童子がレコードデビューしてます。
デビューアルバムには松村慶子をはじめ、当時の一流のスタッフで、なかにし礼が懇意にしている人たちが集まってます。

まるで、もう一度、風吹ジュンに代わってアイドルを売り出そうとするかのようです。

これは想像ですが、風吹ジュン事件で中西、前田ファミリーは負債を負ったことでしょう。

そこでアイドル風吹ジュンの穴埋めとして、家族の一員の前田美乃生さんを森田童子にして歌わせたんじゃないでしょうか。
もちろん本人に有り余る才能があったればこそでしょうが。

たぶんこれはそんなに外れたことじゃないと思います。
そう考えると、森田童子の歌や正体を隠していたことなど違った見方ができるんじゃないでしょうか。


488伝説の名無しさん2019/04/13(土) 09:15:24.33

週刊平凡 1974年10月10日号
「風吹ジュンがなかにし礼さんを強盗傷人罪などで告訴!」(*抜粋)

9月20日―。東京・高輪警察署に一通の告訴状が提出された。
告訴人は風吹ジュン、『ガル企画』の石丸末昭社長、同・杠洋之輔マネジャーの3名。

被告訴人はなかにし礼氏(本名・中西礼三)、実兄の中西正一氏、『アドプロ』の前田亜土社長、同プロの宇野マネジャー、それに住吉連合の幹部・岩井政道氏、その配下・小川利行氏の6人。

岩井氏と小川氏は即日、高輪署に逮捕された。
今後の捜査の状況によっては、人気作詞家・なかにし礼氏に、司直の手がのびないという保証はどこにもない。

『ガル企画』が発足したのは9月9日だが、発足以前にはなかにし礼氏自身も経営者のひとりとして参加予定だったという。それを石丸社長があえて外したのはなかにし氏の評判がかんばしくなかったためといわれる。なかにし氏が、これをおもしろく思うわけがない。

さらに『アドプロ』の前田亜土社長の夫人・美乃生さんは中西正一氏の娘さんである。彼にとっては姪に当たるわけだ。金の卵に逃げられた親類のため、芸能界に顔をきくなかにし礼氏がひと役買って出た気持ちを思えば、あわれである。


495伝説の名無しさん2019/04/14(日) 02:09:28.18

本名を出して素顔を公開したら色んな事がバレてしまうし、
売れてしまったら週刊誌が正体をつきとめようとつけ回る。
だから正体を隠し、わざと売れないようにメディア露出を避けていたのかな。
そしてそれは引退後も。

497伝説の名無しさん2019/04/14(日) 02:46:19.80

いろんなことがはっきりわかった。昔の平凡記事アップしてくれた方ありがとう。
森田童子(中西美乃生→前田美乃生)という名前が報道されていたので
本名では活動できなかったわけだね。
だいぶ謎が解けた。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1539527568/

91. 中川隆[-8594] koaQ7Jey 2021年1月05日 01:18:48 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[52] 報告
518伝説の名無しさん2019/04/15(月) 22:34:29.14

東京新聞夕刊 昭和51年5月31日より

…前略…

 太宰のどこがいい?と問えば「太宰のことは聞かないでください。いいたくありません」

 高校を中退し、実家を離れておばの家に同居中という。でも「学校や家庭のことはわたしの歌となんの関係もありません」とまたもやパンチを食らう。

 しかし、歌の話になると素直だった。

「高校時代にサイモンとガーファンクルのLPを聴いて、わたしも歌を作りたくなったんです。僕と君という対話のことばが何かやさしくて思いやりがあっていいなと思った。

”卒業”という映画に女の人をさらう場面があるんだけど、何かもの悲しくて、青春とはあんなことぐらいでしかないのかとも思った」

四、五年前から作詞、作曲を始め、昨年八月に初めてポリドールでLPをレコーディングして以来、コンサートを十数回。

「引っ込み思案で人前に出るのがこわかったから、私がいないというところから始めればよかったんだけど、コンサートやってみて、案外と露出症だということがわかり、スリリングがあって、けっこう楽しんでいます」といった調子。

…後略…


1974年9月20日、なかにし礼、前田亜土、中西正一(森田童子の父)らが強盗傷人罪で告訴される

   9月22日、風吹ジュン事件で暴力団事務所を家宅捜索、組員二人を逮捕

1975年8月、森田童子がファーストアルバムをレコーディング
   11月21日、「GOOD BYEグッドバイ」発売

ラジオマガジン1983年2月号より

森田『私は女系家族の中で育ち、女の嫌な部分、泥々した部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった。』

森田『昔は対人恐怖症がひどかった。親に人見知りしてたぐらいだから』

2016年 アルバム全集発売

92. 中川隆[-8591] koaQ7Jey 2021年1月05日 01:51:18 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[55] 報告

726伝説の名無しさん2020/01/14(火) 11:48:56.99

山崎ハコはサラリーマン家庭で高校生のときからコンテストに出て成り上がってきた
音楽がなければ生きていけないってところがある

森田童子はデビュー前から結婚していて、家族親戚ぐるみのプロモーションで売り出した
突然音楽活動をやめちゃったように、どこかアマチュアっぽい

731伝説の名無しさん2020/01/14(火) 17:15:23.66

森田童子は夫、前田正春がマネージャーだった
父、中西正三が後期の原盤権を管理する会社の社長だった

叔父、なかにし礼が懇意の当時の一流ユニットで録音、デビューした
まさしく家族親戚に支えられての音楽活動だった

こういう背景を知ると童子の音楽もより深く鑑賞できる

93. 中川隆[-8590] koaQ7Jey 2021年1月05日 01:57:55 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[56] 報告
797伝説の名無しさん2020/01/25(土) 00:08:12.86

森田童子こと前田美乃生さんは普通の初老の主婦でした
明るいも暗いもありません
生前は近くのスーパーで半額の値札が貼られるまでじっと待ってました
お刺身が好きだったようですね

公明党の支持者で、近所の人に嫌がらても健気に国分寺で聖教新聞を配達してました
健康のためにいいから一石二鳥でーす、なんて言われたこともあります
変だけど可愛いオバサンでした

94. 中川隆[-8589] koaQ7Jey 2021年1月05日 02:00:11 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[57] 報告
809伝説の名無しさん2020/01/26(日) 23:26:52.51

「“ぼく”や“君”という男性語には、固定した男女関係じゃなく別の、
 数人の仲間うちだけで通いあう思いやりや優しさがあって、
 それはあの時代の仲間たちが求めていた
 優しさや思いやりであったと思うんです。
 それに、私の気持ちを表現するのに一番自然だとも・・・」
                                      森田童子インタービュー

95. 中川隆[-8587] koaQ7Jey 2021年1月05日 03:12:22 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[59] 報告
748伝説の名無しさん2018/09/25(火) 13:24:33.67

『兄さん、お願いだから死んでくれ〜』っタイトルでドラマ化もされてるね
なかにし礼役はトヨエツで兄役はビートたけし

あの気性の激しい兄の娘だったんだ?

弟の印税を使い込んでは何度も会社潰してたらしいからそりゃ素性明かせねーわな
いろんな方面から恨まれてたろうし
娘をデビューさせたのは金儲けしたい兄(父)の差し金か?

兄は華麗にアコーディオンを弾きこなす音楽センスがあったらしいから
童子は受け継いだのだろうね


756伝説の名無しさん2018/09/25(火) 19:11:31.53>>757
>>748
童子が頑なに正体を隠していたのとリンクしますね。
1994年に亡くなってるなら、
ミリオンセラーでブレイクした時は介護中だったんだろうか。


757伝説の名無しさん2018/09/25(火) 19:20:20.47
>>756
小説を読めば父親がどうやって死んだか書いてある。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1533661210/

96. 中川隆[-8586] koaQ7Jey 2021年1月05日 03:19:57 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[60] 報告
768伝説の名無しさん2018/09/26(水) 02:10:36.33

ネットで兄弟のあらすじを読んだがなかにし礼と森田童子が一時期同居してたなんて信じられないような事実だな
童子の学費もなかにし礼が払ってたらしいが

774伝説の名無しさん2018/09/26(水) 16:23:16.87

森田童子さんのちょっとした関係者です。
検索しててここを見つけて最初の方から読んできました。

公的証明書をUPしている人へ。
今すぐ削除した方がいいですよ。
あなたのやっていることでご遺族に具体的な実損が出た場合、ご遺族は弁護士を通して間違いなくあなたを訴えるでしょう。
どなたかが書いていたように死者に個人情報保護法やその他の法律はほとんどの場合適用されません。

ですが、死者が生存中に秘密にしていたことを死後に他人が公開して、存命しているご遺族等に実損等が出た場合はその限りではありません。
死者が存命中に秘密にしていた理由がそれを回避するためであると考えられるからです。
簡易版ではなく、全判例を検索すればその手の判例がいくつも出てきます(有料になりますが)。

森田童子さんには自らの個人情報を公にできない理由がありました。
身近な人で知っている人は知っていることです。
だから誰もが口をつぐんでいるのです。
それは亡くなった今も同じです。
ご遺族は生きていらっしゃるのですから。

森田童子さんの遺されたものは単に楽曲群というだけではありません。
それによって作られた様々な人の思いでや費やされた時間、記憶といった無形のものがたくさんあり、それはここに集っていらっしゃる皆さんも同じでしょう。

ここを読んでずいぶんと罪深いことをする人がいるものだと信じられない思いなのですが、
書いてしまったものはしょうがありませんね。
ただ、せめて公的書類などは削除できるものなら削除してあげませんか?

森田童子さんが存命中に隠し通したことを、亡くなられてから赤の他人が公開することは墓荒らしと変わらないくらい、いやもしかしたらそれ以上の死者とご遺族への冒涜です。

人間として知りたいと思う気持ちがあるのはわからなくもありませんが、それをこうした場で公開する人を僕は心の底から軽蔑します。

どうか皆さん、彼女の歌をいつまでも忘れないでいてあげてください。

長々と失礼しました。
僕はできればここのような精神的暴力の場を知りたくなかったです。


786tattyanneko2018/09/26(水) 19:20:07.58>>799
>>774
森田童子こと前田美乃生さんの情報を書き込んだものです

丁寧なご忠告ありがとうございます
掲示板にて返事させていただきます

お尋ねしたいのですが、あなたは森田童子さんのどのような関係者でしょうか?
また私の行為でご遺族にどのような実損が出るのでしょうか?

なぜこのような質問をさせていただくかといいますと、あなたの書き込みがいたずらである可能性を考えているからです
たいへん失礼かと存じますが、できる範囲で結構ですからお答えください
またそれを裏付ける資料も提示していただければ幸いです
その内容によりリンク先の画像の削除を考えます
掲示板への書き込みが憚られるようでしたら私が公開しているメールアドレスに送ってください

送られたメールについては秘匿することをお約束します

こんなにいろいろ暴露している人間を信じられないとお考えかもしれませんが、今まで公表したことは全て合法な資料と、私の推測だけです

また推測については錯誤はあるかもしれませんが虚偽は書いておりません
ですので「公開しないでほしい」と一言添えてメールを下されば、それについては公開しません

それから、そんな事は考えられないのですが、もしも仮にこの件で訴訟になった場合は訴状を含めて全ての裁判資料をここで開示しようかと思ってます


791伝説の名無しさん2018/09/26(水) 21:50:40.08

↑あんた、なかにし礼??
なかにし礼に実害あるの?????????

794伝説の名無しさん2018/09/27(木) 00:25:32.03

ここってホントになかにし礼が、カキコしてるんじゃない??

97. 中川隆[-8585] koaQ7Jey 2021年1月05日 03:23:08 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[61] 報告
811tattyanneko2018/09/27(木) 20:22:40.80

なかにし礼の小説「兄弟」は森田童子ファンなら必読です

これを読むといろんな事がわかりますが、他の資料と照らし合わせるともっと詳しいことが見えてきます

たとえば、なかにし礼の他の著作で「翔べ!わが思いよ」というのがあります
1989年、東京新聞に連載された自伝です

なかにし礼と森田童子こと中西美乃生さんは1968年から1971年まで、東京都中野区にある同じ家に暮らしていました
前回引用した部分、美以子さんが十五歳のときから十八歳までです

一方でなかにし礼は「なかにし礼商会」を1970年に設立
1973年に解散しています

この会社に前田亜土がいたのです
以下は「翔べ!わが思いよ」新潮文庫版、232ページからです

中野区江原町に土地を買い、そこに家を建てた。北青山三丁目に小さなビルが売りに出たので、即金で買った。

思いもかけぬと言ったら嘘になる。ついに、待ちに待ったというべきか。とにかく、意外に早く大きな幸運がやって来たのだ。
三十歳になったばかりの私は、夢の中にいるように呆然としていた。
中野の家には兄の家族や母も一緒に住んだ。千家和也や初信之介といった弟子たちも寝泊まりしていた。

北青山のビルには″なかにし礼商会″という名の会社をつくり、私が社長になって、社の真似事をやつた。ワイワイただ騒いでいるだけのもので、会社らしい目的も実行力も持ち合わせていなかった。と言ったら、その時の仲間の、杜洋之輔、前田亜土、
沢井貞夫などにすまない気もするが、社長の私が言うのだから間違いなかろう。だけど、ワイワイ騒ぐというのは楽しいものだ。お祭り騒ぎ……有頂天……。
そういえば『日本の祭り』というチャンとした仕事もしたっけ。
年末のレコード大賞は残念ながら『いいじやないの幸せならば』に決まった。

https://imgur.com/vpbAlrK.jpg

じっさいにこのころ、なかにし礼の著作を前田亜土がいくつか装丁をしています
この本にあるように前田亜土もなかにし礼の家に寝泊まりしたかもしれません

こうして森田童子こと中西美乃生さんと、前田亜土さんこと正春さんが出会ったのでしょう
美乃生さんはまだ未成年だった頃ですね

812tattyanneko2018/09/27(木) 20:23:12.86

それからもう一つ、この文章で考えたことがあります

なかにし礼の弟子、千家和也と初進之介がなかにし礼宅に寝泊まりしていたという部分です
つまり家で作詞の仕方を教えていたわけで、そのときに森田童子も教わったんじゃんないかと想像しました
森田童子の歌は書きっぱなしポエムじゃなくて、ちゃんとした流行歌の歌詞になってます

詞のアクセントとメロディーを合わせる、聴かせどころに新奇なフレーズを使うといった作詞の基本などもこのときに学んだんじゃないでしょうか
だからあれだけすごい曲ができたのでは

私としては世の中に流布している「森田童子の作品はなかにし礼の代作説」より「森田童子はなかにし礼に教えを受けた仮説」のほうがそれらしく思えます


昨日の>>774の自称関係者の方からはメールもなにもありませんでした
なのでこれはいたずらだと判断して引き続き書き込みをしました
もしも連絡したいことがおありなら、いつでもお待ちしております

98. 中川隆[-8582] koaQ7Jey 2021年1月05日 03:32:21 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[64] 報告
918伝説の名無しさん2018/10/08(月) 14:15:53.69

ここ、ホントになかにし礼がカキコしてるだろ

中西太とか森田拳次とか前田美波里とかの
今40〜50代の世代さえ、ググって調べないとよくわからない固有名詞書いてるの
80歳ぐらいの爺さんじゃないと説明つかんわ

http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1533661210/

99. 中川隆[-8580] koaQ7Jey 2021年1月05日 11:56:59 : KoPkAW14ZU : NHlneEhGcUs5OFk=[2] 報告

464伝説の名無しさん2018/09/14(金) 01:19:36.33

森田童子は、コンサートやラジオ出演で歌うとき、曲の前に語りを入れてから歌に入ったり、曲の間奏の時に詩を朗読するような語りを入れたりしていた。

「ぼくたちの失敗」を歌う前には

「仲間が何人も申し合わせたように,規則正しく集まって来る喫茶店があった。

いつもアメリカへ行く事ばかり夢みている男,へたくそな自称詩人,売れない役者,映画青年,競馬新聞ばかり見ている退屈な男達,

それは遊園地のメリーゴーランドの様に騒々しく陽気でまた淋しいものでした。」

と語ってから歌が始まりました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1533661210/

ジッタンボーレ・ヘンコッチョ伯爵さん 2007/4/18 23:55
森田童子の「ぼくたちの失敗」の歌詞の中で、

『あの子はまだ元気かい』

という一節がありますが、「まだ元気か」というのは、
2人の間に出来た子供が不治の病にでもとりつかれていたという事ですか?
それとも、『付き合い始めたあの子とはまだ元気に付き合っているの?』という意味ですか?

それにしても、「昔の話だね。」というのはずいぶんひどいような気がします。・・・・・????


ベストアンサー bou********さん 2007/4/19 18:28
「ぼく」って女の子が自分のことを言っているんですよね。
「きみ」は付き合ってたカレ。よって「あのこ」は、カレの新しいカノジョ。

<ボーイッシュなキャラ>が森田童子。
当時は自分を「ぼく」っていう女の子は、ぽつぽつといました。

やさしくしてくれる彼に甘えて(大丈夫だろうと思い、なにもできずに)あの子に彼を取られてしまった、
自虐的ナルシズムな少女の歌です。昔の純少女マンガの世界です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411356829


東京新聞夕刊 昭和51年5月31日より
「高校時代にサイモンとガーファンクルのLPを聴いて、わたしも歌を作りたくなったんです。僕と君という対話のことばが何かやさしくて思いやりがあっていいなと思った。


icoさん 2015/6/13 16:59
現在60歳以上のの女性が"僕"という一人称を使う(人がいる)のはどういうことが理由として考えられますか?

というか吉田美奈子と森田童子の一人称が"僕"らしいのですが、その二人が僕という一人称を使うのは時代的な要因は考えられるのでしょうか?

その二名は1953年生まれと1952年生まれで年代も似てますし、そこらへんの時代では僕という一人称を女性が使うのも特に変ではなかったみたいな感じだったのでしょうか?それとも当時ものすごい「僕っ子(娘)」の漫画が流行してそれに影響されて一人称が"僕"になった女性がすごくたくさんいたとか・・・?それともなんか当時はほぼ朝鮮戦争とかベトナム戦争とかがあったりで、規律を教えられるために"僕"で男も女も矯正されたとか・・・なんかそれっぽい理由ありますか?僕女の歴史が気になります


ベストアンサー you********さん 2015/6/14 11:19
昔から新しがりの女学生が使ってたそうです

大正時代の女子学習院で君僕が流行ったそうですし昭和8年の石原洋次郎の若い人と言う小説に函館の女学生が自分の事をボクと言つてます

著者は女学校の先生だったので本当の事でしょう

女が君僕、男がおねえ言葉

平和です
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13146667688


森田は女性(だろう)と思っていたが、歌詞を聴いていると、
「君」が女性のようで違うようで、「僕」は男性のようでそうでない。
後日、わかったことだが、森田は自分を「僕」と表現しているようなのだ。
女性が「僕」と言うと不思議な魅力を感じる。

間奏に森田が言う。
「あの頃、井の頭線の線路沿いのアパートに、君と暮らし始めた。
何もない無力なぼくは、ただ君を愛すことしか知らなかった」
https://11146484morita.blog.fc2.com/


後に森田童子として歌い始める若い女性が、アパートの一室で、自殺を図って睡眠薬を飲んだ友人、あるいは恋人を看病している。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/dengon/m-deng9.html


ぴよにんじんさん 2010/10/7 1:06
森田童子のぼくたちの失敗について・・・ 歌詞の意味は分かりますか?一体、何を失敗したのですか?

ベストアンサー h_d********さん 2010/10/7 2:55
森田童子は友人の死を切っ掛けに歌い始めた人です。そして、その友人の死には学生運動(全共闘運動)が大きく関わっており、彼女も少なからず関わっていたと推測されます。この曲に登場する「君」がその友人で「僕」が森田童子。運動に敗北し「君」が死に「僕」は志も友人も失ってだめになってしまった。そんな内容の歌詞だと思いますので、生き方を「失敗」したのだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1148245361


ken********さん 2007/4/12 17:36
森田童子さんの「僕たちの失敗」の歌詞を解読できる方いますか?
歌というのは理解とかではなく、感じるものだということは解かっているんですが、ここの歌詞はこう思うとか解かる人お願いします。


ベストアンサー jan********さん 2007/4/12 18:02
あくまでも個人的な解釈ですが。
この歌がリリースされたのは、1976年です。
60年代後半の全共闘など、日本は高度成長時代の歪みを抱え、
不安定な時代になっていました。

全共闘の時代を学生として過ごした面々も、結局は社会に取り込まれ、せかせかと働き個を消されていく。モラトリアムや、大人社会に埋もれる無力感が若者の間に蔓延した時代でありました。

森田童子さんが歌を歌いだしたきっかけは、自分の友人が亡くなったことだそうで、歌詞中には、歌詞上の主人公を見守る親友が描かれていることが多いです。この歌にも、主人公とその親友が描かれています。

「ぼくたちの失敗」は、サラリーマンとしての生き方になじめず、ジャズ喫茶などに入り浸っていた若者たちが、いつしか住む世界を変え、社会の荒波の中で自分を見失ったとき、ふと過去の出来事を思い出す姿を描いているのだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311300653?query=%E5%83%95%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%A4%B1%E6%95%97%20%E6%AD%8C%E8%A9%9E

100. 中川隆[-8570] koaQ7Jey 2021年1月05日 15:31:39 : KoPkAW14ZU : NHlneEhGcUs5OFk=[13] 報告
489伝説の名無しさん2018/07/13(金) 21:03:01.41

北海道時代に小澤音楽事務所傘下の Jun & Kay の社員と知りあう
東京に戻ったのち、歌を作り始める。その後

1.森田童子が語るところでは
独自にライブハウスに出演するようになり、のちに Jun & Kay に連絡を取る

2.前田亜土が語るところでは
Jun & Kay に作った歌を売り込みにきたので、自分で歌うよう勧めたところ
チリチリヘアとサングラスに変身して現れた

この辺りの前後関係はよくわからん


490伝説の名無しさん2018/07/13(金) 23:49:10.28

最初に来たときの童子はなんと
ポニーテールだったらしいね

492伝説の名無しさん2018/07/14(土) 00:24:50.58

森田が発表したアルバムのプロデュースを手がけた松村慶子(現・ライブハウス「RUIDO」会長)は、デビューする約1年前、知人の紹介で自作曲のデモテープを持参してきた森田は、人前で歌うつもりは、まるきりなかったという。

「本人は髪形をポニーテールにして、どこにでもいる少女のような印象でした。
でも作品には、聴いているとイメージの扉を開かれて慰撫されるような唯一無二のフィーリングがあったので、絶対に何かある、これはいける!と直感しました。

ただし、その独特の世界は本人が歌わないと響いてこないので、あんたが歌ったほうがいいと説得したんです

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1530267127/

101. 中川隆[-8569] koaQ7Jey 2021年1月05日 16:22:43 : KoPkAW14ZU : NHlneEhGcUs5OFk=[14] 報告

425伝説の名無しさん2018/06/14(木) 22:38:00.97

森田童子は明るくて饒舌だったか?それとも無口だったか?
呼び屋のスタッフの関係者のブログがあったがそれによると、公演後の打ち上げに
は出ないで帰ったらしい。静かにひっそりと会場に来て2曲歌って静かに帰っていったらしい。

俺もNHKの「若いこだま」に出たのを聞いた事があるが、MCの平田俊子の質問にも
口数少なく答えていた記憶がある。

やはり自分の事を「ぼく」と言ってた。

ちなみにこの掲示板のパート@からAまでに、なぎら健壱の証言とか色々逸話が
あるから読み返すのもいいかも


434伝説の名無しさん2018/06/15(金) 00:10:33.50

動画は見つけきれないが、1975年のNHKラジオでの「若いこだま」で頭脳警察のパンタとのやりとりを見つけた。
そこでは自分の事を「あたし」と言ってる。

438伝説の名無しさん2018/06/15(金) 08:19:51.60

自分の世界観に入りきってる時の一人称がぼく
ラジオのゲストでざっくばらんに話す時には私
そんな感じだったと記憶してます
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1486286494/

102. 中川隆[-8568] koaQ7Jey 2021年1月05日 18:29:50 : 7LFOdaLgys : MVEvSFdXTk5SYXM=[1] 報告
「グッドバイ」の意味
2006年12月05日
http://doujinobigaku.jugem.jp/

大学時代に「美術史」という授業の試験で、“美”に関することならどんなテーマでも内容でも構わないというので、前期・後期ともに、「森田童子の歌に見る“青春の破滅と美学”」というタイトルで小論文を書いて提出した。
後にも先にも「秀」という成績を取ったのはこの授業だけ。

「青春の破滅と美学」というのは、森田童子自身が使っていた言葉で、色紙などに書いていた時期もあった。

高校生だった彼女が、新宿の「風月堂」という喫茶店で、少し年上の仲間たちの会話に耳を傾け、その仲間たちが学生紛争に加わり、クスリをやっている姿を見ていた時期。
自分自身はまだ行動に移せない、でもいつかは直接行動できると思っていた。
彼女のとても大切な人が、おそらく一緒に暮らしていたその人が、捕まったそのときも、まだその期待はあったのではないか。

「さよならぼくの友だち」を聴くと、この曲が始まりであり、本当はここで終結していたことを感じる。
「ぼくたちの失敗」は明らかにその続編であり、アンサーソング(過去の自分とその人への)ともいえる曲。

デビュー前、森田童子はソングライターとしてのみで、本当は他のシンガーに歌ってもらう予定だったと、本人から聞いたことがあった。
しかし、歌える人がいなかったので、仕方なく自分で歌ったのだとー。
デビューアルバム1枚で終わるつもりで「グッドバイ」というタイトルをつけたのだとも。

そのとき交わした彼女と私の会話はこんな風だった。

私「グッドバイというタイトルは、太宰治から取ったんですよね」
童子「そう」
私「もしかして、このデビューアルバムで終わるつもりで?」
童子「(笑いながら)へえ、よくわかったわね。本当はこの1枚で終わるつもりでつけたんだけど」

過去の自己と決別するために作ったアルバムだったのかもしれない。
でも、ライブで歌ううちに、彼女はそこに来る“病んだ”若者たち、“今に失望している”若者たちを目の前にして、「変わっていった」ではないか―。
本質的なものはもちろん変わってはいなかっただろうが、一種の「使命」のようなものを感じたように思うのだ。

そして、その必要がなくなった、と感じだときに、消えていったのではないかと。

しかし、時代を超えて今なお、どこか自分と社会(あるいはもっと目に見えないもの)に折り合いをつけることのできない人たちの耳にとまり、心を動かす―。

そして、聴いた者は彼女の歌に癒され、救われていく。

http://doujinobigaku.jugem.jp/

103. 中川隆[-8555] koaQ7Jey 2021年1月06日 02:28:24 : BlPirF74G2 : TVZFcWFqMFVsL1E=[14] 報告
「ぼくたちの失敗」がリバイバルヒット 森田童子のドラマ主題歌を一覧にしてみた。
2020.10.17
https://music-drm.com/drama-douji-morita/


今回は森田童子さんのドラマ主題歌をみていこうと思います。

1975年にデビューし、1983年の新宿ロフトでのライブを最後に、引退宣言などすることなく活動を休止した伝説的シンガーソングライター森田童子さん。1975年デビューから1983年まで10年に満たないほどの活動期間であったのに、なんでこんなにも平成を通して今令和の日本においても名前が知られているのか?

と聞かれたらそれは確実に人気ドラマ『高校教師』の存在と答えます。なかでも「ぼくたちの失敗」は1993年と2003年にTBSの制作・放送による同タイトルドラマにおいて一番にフィーチャーされ2度のシングル再リリース、それが大ヒットを記録すると彼女の代表曲として現代(当時)の日本に知れ渡りました。

でも考えてみるとこれってたまたま「ぼくたちの失敗」がフィーチャーされただけですよね。もちろん1976年11月発表の2ndアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』に収録されていた「ぼくたちの失敗」をその2ndアルバムと同時に2ndシングルとしてリリースしている点からして収録曲の中でひとつ頭抜けた楽曲であったことに間違いはないのだろうけど。

『高校教師』ではないドラマ作品が森田さんに目を付けてタイアップに別の曲を起用していたら代表曲は別になっていたかもしれない。そう思うと埋もれている名曲がまだまだありそう。聴かなきゃこれはわからない。

ぼくも正直「ぼくたちの失敗」以外ちゃんと聞いてなかったかもしれないです。ドラマによるリバイバルヒット以来入手困難であったCDも2016年に23年ぶりにCDが再発し、初のCD化も含む計9タイトルがリリースされています。引退した1983年から数えれば実に30年以上かかった全作品のCD化。

サブスク全曲配信もまだまだ期待できるようにも思います。

世界をまたに掛けてシティポップブームが起こっているのもこの1993年におこった森田童子さんのリバイバルブームが少なからずきっかけになっているとも感じています。

さて、

森田童子の歌う連続ドラマ主題歌は何曲あると思いますか?

今回の連続ドラマは『高校教師』だけ!!スッキリ。

始めます。

森田童子とは

日本の女性シンガーソングライター。1983年に引退。

2018年6月12日に2018年4月24日未明に亡くなっていたことを各誌が報じました。

1975年10月21日発売の1stシングル「さよならぼくのともだち」でデビュー。

1983年の引退までに、1981年1月25日発売の「ラスト・ワルツ」でシングルを4枚、1983年11月30日発売の『狼少年 wolf boy』でアルバムを6枚、発売した。

「ぼくたちの失敗」は1976年11月21日発売の2ndシングルで、1993年と2003年の2度に渡りシングルが再発されている。1980年11月20日発売の4thアルバム『ラスト・ワルツ』収録の「たとえばぼくが死んだら」もまた1993年の映画主題歌に起用されシングル用にミックスされリリース。

1993年のリバイバルヒットの最中はご本人は引退済のためひたすらに沈黙を守っていたが、2003年には『ラスト・ワルツ』収録の「海が死んでもいいョって鳴いている」の歌詞を一部変更した「ひとり遊び」を自宅で新たに歌唱・録音、これが最後の作品となり3月5日発売のベストアルバム『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』に収録されている。

TBS系金曜ドラマ『高校教師(1993)』真田広之と桜井幸子主演作品の使用曲リスト

ぼくたちの失敗
1976年発表の2ndアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』に収録。全編において主題歌。


男のくせに泣いてくれた
1976年発表の2ndアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』に収録。第4話エンディングテーマとして使用。

G線上にひとり
1977年発表の3rdアルバム『A BOY ボーイ』に収録。第5話のエンディングテーマとして使用。

ぼくが君の思い出になってあげよう
1977年発表の3rdアルバム『A BOY ボーイ』に収録。第7話エンディングテーマとして使用。

君と淋しい風になる
1977年発表の3rdアルバム『A BOY ボーイ』に収録。第8話のエンディングテーマとして使用。

君は変わっちゃったネ
1975年発表の1stアルバム『GOOD BYEグッドバイ』収録曲。第9話オープニングテーマとして使用。


▲△▽▼

TBS系金曜ドラマ『高校教師(2003)』藤木直人と上戸彩主演作品の使用曲リスト

ぼくたちの失敗
1976年発表の2ndアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』に収録。第1話、第4話、第5話、第7話、最終話の主題歌。

ぼくと観光バスに乗ってみませんか
1976年発表の2ndアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』に収録。第9話の主題歌。

淋しい雲
1975年発表の1stアルバム『GOOD BYEグッドバイ』収録曲。第3話、第6話、第8話、第10話の主題歌。

君と淋しい風になる
1977年発表の3rdアルバム『A BOY ボーイ』に収録。第2話の主題歌。



▲△▽▼


【番外編】映画作品タイアップから1曲

たとえばぼくが死んだら
1980年発表の4thアルバム『ラスト・ワルツ』に収録。1993年11月6日公開、唐沢寿明さんと遠山景織子さん主演の映画『高校教師』の主題歌。ドラマ主題歌でヒットした「ぼくたちの失敗」も挿入歌として使用。


まとめ

いかがでしたでしょうか。

森田童子さんの連続ドラマ主題歌を紹介してきました。

挿入歌含め、1993年と2003年に使用された楽曲を合わせると8曲でした。

1993年の作品はあくまでも「ぼくたちの失敗」が主題歌であとは挿入歌という扱い、2003年は全てが主題歌というくくりとなっていました。

とはいえ、情報はWikipediaを中心に参考としているので何話で使用されたという表現は出てきてはいますが、実際は未確認なのでズレや間違いがある可能性もあります。ご了承ください。

あくまで曲紹介、聴くきっかけ!

ほか、番外編で1993年に公開した映画で唐沢寿明さん出演の『高校教師』の主題歌も入れました。合計で9曲紹介したことになります。

YouTubeも公式ではないのでリンクは控えますが、サブスクもないので今はCDで聴くのがベストです。一時は入手困難とされた作品もいまは再発され入手が可能となっている様子。ぜひゲットしていろいろ聴いてみてくださいね。

ぼくも聴いてみます。

では、
https://music-drm.com/drama-douji-morita/

104. 中川隆[-8545] koaQ7Jey 2021年1月06日 12:59:10 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[8] 報告
森田童子の1枚目のオリジナル・アルバム「GOOD BYE グッドバイ」
(オリジナル発売日:1975年10月21日)

収録曲
01. 早春にて
02. 君は変わっちゃったネ
03. まぶしい夏
04. 雨のクロール
05. 地平線
06. センチメンタル通り
07. 淋しい雲
08. たんごの節句
09. 驟雨(にわかあめ)
10. さよならぼくのともだち


グッドバイ 森田童子   レコードA面  高音質





グッドバイ  森田童子  レコードB面  高音質


105. 中川隆[-8544] koaQ7Jey 2021年1月06日 13:06:46 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[9] 報告
森田童子 - (live)東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤


『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』は、森田童子の最初で最後のライブ・アルバム。1978年11月01日にポリドール(現:ユニバーサルミュージック合同会社)より発売された。


収録曲
全作詞・作曲・編曲:森田童子

地平線
逆光線
君は変わっちゃったネ
雨のクロール
ぼくと観光バスに乗ってみませんか
友よ泣かないのか
※オリジナルアルバム未収録
海を見たいと思った
センチメンタル通り
さよならぼくのともだち
風さわぐ原地の中に
※オリジナルアルバム未収録






106. 中川隆[-8542] koaQ7Jey 2021年1月06日 13:14:37 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[11] 報告
森田童子 夜行










107. 中川隆[-8540] koaQ7Jey 2021年1月06日 13:24:39 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[13] 報告
森田童子 - (best)友への手紙 森田童子自選集





108. 中川隆[-8538] koaQ7Jey 2021年1月06日 13:29:01 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[15] 報告
森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション


1. ぼくたちの失敗
2. 蒼き夜は
3. 雨のクロール
4. 蒸留反応
5. 哀悼夜曲
6. 孤立無援の唄
7. さよならぼくのともだち
8. 逆光線
9. サナトリウム
10. 男のくせに泣いてくれた
11. 春爛漫
12. G線上のひとり
13. ラストワルツ



109. 中川隆[-8535] koaQ7Jey 2021年1月06日 13:35:23 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[18] 報告
昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 真田広之・桜井幸子 高校教师 (TBS 1993年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1000.html
110. 2021年1月06日 19:30:31 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[31] 報告
桜井幸子 高校教師 ラストワルツ



111. 中川隆[-8521] koaQ7Jey 2021年1月06日 19:35:22 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[34] 報告
男のくせに泣いてくれた


112. 中川隆[-5745] koaQ7Jey 2021年4月14日 08:58:56 : FQrGsP3YVY : VUVVL3ZhT3JrRms=[3] 報告

柳武作太夫
5つ星のうち5.0 私は個人的な音楽の趣味はノリのよいディスコサウンドなのだが、森田童子の悲しげで美しいメロディも好きだった
2020年5月21日

私は30歳ころ偶然ラジカセのスイッチを入れたとき、流れてきた音楽が、山崎ハコさんの「ひとり歌」でした。この曲は姉が嫁いで母と二人だけになりコンピュータ(出たばかりの8080Aなどを利用して)を自作しました。Tiny-Basicで書いたプログラムは、1 ハコ ガ スキ 〜 10 ハコ ガ スキ for-next ループでした。「うち、ばかやもん」と唄う彼女の歌は、私の当時の心境をぴったりと、代弁してくれていたので、皆、山崎 ハコは、暗いと言っていたけど中島みゆきより感性が優れていると感じました。

それで、ファン倶楽部に入ったら小さな新聞が届いてその中で「森田童子」は、頭で歌っていると評論されて、いたけど、ハコと比較されるほどなら、素晴らしいかも知れないと思ってFM放送の「森田童子特集」番組を聞きました。

彼女は「何もかも完成されて居る時代にうまれた、私達はなにを、すればいいだろうか?」と言いました。音楽も「バッハ」のころに、完成していて美術も「レオナルドダビンチ」のころに、完成されてしまっていると、いいました。そして、弾き語りで「菜の花明かり」と言う曲とか、「たとえば、僕がしんだら」とか、数曲演奏しました。

ずっと、後の時代になって、高校教師というドラマが放送され主題歌に私の知らない「僕たちの失敗」が、放送されました。森田童子も全国に知られるようになったな!と思ったのですが、主題歌だけ聴いてドラマは見なかったので、先生と生徒の間の恋物語かな?と思っていたら、最近私に、ドラマの内容を教えてくれた人が、いて「それも、あるけど、実は近親相姦の内容です」との話でした。


当時加山雄三さんが、私の娘が森田童子に夢中になって全てのCDを購入して聴いているが、何も新しくない。新しいコード進行がないといいました。

加山雄三さんは作曲できたし、エレキギターが上手だったし、蒼い星屑だの好きな曲もあるけど、歌はハートであり、ギターのコード進行に新しものがなくても、心をうつメロディを感性で感じ取った娘さんの感性の方が加山雄三より鋭いと思いました。歌は心であり感性であり、コード進行うんぬん・・・ではありません。

加山雄三の無感覚!馬鹿野郎!

私は明るい韓国の女性K-POPの初期のT-ARAの曲が好きだけど、童子が懐かしくなり、アマゾンから中古のCDを買いました。知ってる曲も数曲あるが、知らない曲も沢山ありました。全16曲を3回くらい聴いた。

美しい旋律だと思うけどどの曲も「悲しげ」であり、失望感の表明であり、自殺予告かと、思う曲もあるが、彼女は自殺はしなかった。腎臓病の持病でなくなった。最後まで、本名は名乗らなかった。真っ黒いサングラスをしていたから、目元を知っている人はいないと思います。

シンガーソングライターだった。東京出身かもしれない。なぜ、「ぼく」と言うのか。「女性であることを否定したい人なのか」可愛い声であり、ほんとは、恥ずかしがりやさん、(シャイなひと)目元を見られるのが恥ずかしいから、真っ黒なサングラス???不明です。

Wikipediaで亡くなっていることを、知りました。ご冥福を祈ります。73歳もなると、森山加代子さんも大腸がん ステージ4でなくなっていることを、これもWikipediaで知ったし、好きだった人がどんどん、亡くなっていきます。寂しいです。

加山雄三の無感覚 バカか、音楽はハートで鑑賞すべきであり、コード進行が新しい必要はありません。

ばかもの!以上!

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%A4%B1%E6%95%97-%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90/dp/B01FFVT8H4/ref=sr_1_1?adgrpid=115247167823&dchild=1&hvadid=492662838120&hvdev=c&hvqmt=b&hvtargid=kwd-758155555179&hydadcr=5168_10960512&jp-ad-ap=0&keywords=%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90+%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88+%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0&qid=1618358023&sr=8-1

113. 2021年4月16日 07:29:15 : mV2k7WRgio : MGYvb2xWOERxY0k=[3] 報告
Date: 4月 27th, 2018
昔ステレオサウンドで読んだ、あるエピソードは、興味深いものがある。
http://audiosharing.com/blog/?p=25671

55号の音楽欄に掲載されている。

「今日の歌、今日のサウンド ポピュラー・レコード会で活躍中の三人のプロデューサーにきく」

RVCの小杉宇造氏、CBSソニーの高久光雄氏、ポリドールの三坂洋氏が登場されている。
聞き手は坂清也氏。

9ページの記事。
引用するのは、三坂洋氏の発言のごく一部である。
機会があれば、この時代の日本の歌の録音を聴く人は、読んでほしい、と思う。
     *
 たとえば森田童子の最初のLPを制作したときのことですが、彼女は弾き語りでうたったときのニュアンスが最高にいいんです。彼女のメッセージの背後にあるデリケートな体臭とか人間性が、弾き語りのときには蜃気楼みたいにただようんです。それをレコーディングのときに、まずオーケストラをとり、リズム・セクションをとり、そのテープのうえに彼女のうたをかぶせる、といった形で行なうと、その蜃気楼みたいなものが、どこかへ消えてしまうんじゃないか、と確信しました。
 そこで、まずいちばん先きに彼女のギターとうただけをとり、そこにベースをかぶせドラムスをかぶせ、さらに弦をかぶせて、そのあとでベースとドラムスをぬいてしまったんです。したがって出来上りは、弦のうえに彼女の弾き語りがのっかる、という形になったわけです。ベースとドラムスは弦のためみたいなもので、ことにドラムスのリズムの拍数が分らないと、弦は演奏できませんから(笑い)。
     *
森田童子の最初のLP、
「GOOD BYEグッド・バイ」でとられたこういう手法は、
何もこのディスク(録音)だけにかぎったことではなく、
ずいぶんと多いと思います、と三坂洋氏はつけ加えられている。

http://audiosharing.com/blog/?p=25671

114. 2021年8月16日 08:23:04 : Zuf7i5dxxo : MFFxVTlPQ00xLjI=[19] 報告
高校教師 插曲《男のくせに泣いてくれた》 作詞:森田童子 作曲:森田童子 主唱:森田童子


115. 中川隆[-14090] koaQ7Jey 2022年1月23日 20:29:13 : SqaUv9RCQ6 : UGxERWhFLnBXOUE=[20] 報告
2022.01.23
業界騒然! 謎の歌手・森田童子の父親が「なかにし礼の兄だった」事実が意味すること
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91686

なかにし礼『血の歌』と『兄弟』をめぐって

作詩家なかにし礼とシンガーソングライター森田童子が叔父と姪の関係であることを明らかにしたことで、『血の歌』(毎日新聞出版)が話題を集めている。同時にこの作品は、短篇ではあるが、なかにしのヒット作『兄弟』(1998年、文藝春秋)と表裏をなす重い内実をたたえている。

『兄弟』は作詩家から小説家になったなかにしの初めての本格的長篇。特攻隊の生き残りで、事業の失敗や弟名義での借金でなかにしを破滅にまで追いこむ常軌を逸した兄(話題となったテレビドラマではビートたけしが演じた)となかにしの愛憎と葛藤を描いた小説で、「兄さん、死んでくれてありがとう」と主人公が独白する結末が当時、大きな反響を呼んだ。そのモデルである兄の娘(次女)が、何と森田童子だったのだ。

映画の中のなかにし礼と森田童子
音楽史において、大衆の心に響く歌謡曲の作詩家であるなかにしと、孤高のシンガーソングライターの森田は対極的な存在であるが、映画史においては、この叔父と姪は踵を接し、1978年にともにスクリーンデビューしている。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


この年に公開された大森一樹監督の『オレンジロード急行』で、森田童子のメジャーデビュー作『さよなら ぼくの ともだち』が初めて映画の挿入歌として使われ、同年に公開された『時には娼婦のように』(小沼勝監督)はなかにし礼の同名曲の大ヒットを当てこんで製作されたからだ。

『時には娼婦のように』は、《当時、(兄が作った─引用者註)借金に追われている時期で、好条件を提示されたこともあり、原案、脚本、音楽、さらには主演までこなした》(『わが人生に悔いなし─時代の証言者として』、河出書房新社)となかにしが語るロマンポルノであるが、なかにし礼のバイオグラフィにおいてはきわめて重要な作品である。

この映画に現れる心臓発作と性への耽溺、兄の借財を背負わされる弟、複数の女性との同棲、なかにしが第二の故郷と呼ぶ青森への郷愁といったなかにしの人生に欠くべからざる光景が、なかにしがのちに書く『翔べ!わが想いよ』('89年、東京新聞出版局、新潮文庫、文春文庫)から『夜の歌』(2016年、毎日新聞出版、講談社文庫)にいたる自伝小説のプロトタイプ(試作品)になっているからだ。


なぜこの原稿が書かれたのか
この作品を起点として、なかにしを「戦争と歌謡曲を交響楽(シンフォニー)のように、硝煙とエロスをカットバックで描いた作家」と評した、私の『夜の歌』講談社文庫版('20年)の解説を読んだなかにしは、私を西麻布「キャンティ」に招いてくれた。だが、交遊が始まってまもなく、2020年12月になかにしは突然他界した。死後に机の引き出しから発見された未発表原稿をなかにしの子息で音楽プロデューサーの中西康夫が刊行したのが、『血の歌』である。


『血の歌』は作家の死後に刊行された未発表原稿の常として、多くの謎につつまれている。

どうして作者がこの原稿を書いたか、が第一の謎である。後記で中西康夫が『血の歌』は1995年に執筆されたと推測しているように、『血の歌』は'96年に小説のモデルである兄(中西正一)が死去する1年前に、『兄弟』の習作として書かれたものと思われる。

『血の歌』は、兄が語り部に近い立場で書かれていることから、仮借なく兄を描いた『兄弟』よりも兄へのシンパシーが宿る。また、『血の歌』において戦時中に兄が操縦する戦闘機を失墜させる場面は、ほぼそのまま『兄弟』の完成稿に使われている。『血の歌』でなかにしは、兄の視点から娘(森田童子)を描き、同時に娘を小説の「狂言回し」に使えないかと模索していたと憶測できる。


では、なかにしはなぜ封印したのか
しかし、'95年の執筆当時、森田童子は音楽活動を停止中だったとはいえ、'93年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマの『高校教師』の主題歌として使われたことから再ブレイク中だった。なかにしや正一との関係が世間に知られれば、彼女のプライバシーや作品評価に差し障ると考え、なかにしは森田童子をモデルとする『血の歌』を封印したのだろう。

『兄弟』を担当した元文藝春秋の編集者・鈴木文彦は述懐する。

「『兄弟』執筆の前、お兄さんが亡くなられる以前に、かなり感情移入の激しい習作を読んだ覚えがおぼろ気にあります。当時、お兄さんをモチーフにしたいわゆる“兄モノ”の習作がいくつかあって、その一つが『血の歌』だったのではないでしょうか。森田童子については、兄の娘だとなかにしさんから直接うかがったことがあります。『血の歌』はモデル小説の引きの強さがありますが、森田童子が存命だった執筆時点では、彼女のプライバシーにも配慮していたので、発表には至らなかったのではないかと思います。結果として、お兄さんの死を待って長篇仕立てで『兄弟』に結実し、なかにしさんの代表作になっていきます」

『兄弟』という大作に濃密に関わった編集者ならではの見方と言えるだろう。

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父から見た娘、また娘から見た兄という視点が削られ、弟から見た兄という視点で小説を一貫させたことで、『兄弟』の構成は堅牢になり、作品は直木賞候補になるなど大きな評価を得た。『血の歌』は『兄弟』のいわば試作品であったのだ。

そのようにいったんボツにした草稿をなかにしはなぜ残していたのか、が第二の謎である。後記で中西康夫が書くように、なかにしはつねに原本(草稿)を廃棄していたという。彼が『血の歌』だけを残しておいたのは、将来何らか形での発表を意図していたと考えるのが自然だろう。

次に湧き上がる謎は、なかにし礼が森田童子の音楽的才能をどのように捉えていたかという点である。その謎を解き明かしてくれたのが、『血の歌』では「お貞さん」、『兄弟』では「藤原慶子」と呼ばれて作中に登場する辣腕音楽プロデューサーの松村慶子である。彼女は'64年に『知りたくないの』(菅原洋一)で作詩家・なかにし礼を、'74年に『さよならぼくのともだち』で森田童子を、ともにメジャーデビューさせた。

松村は「礼ちゃんは童子を『手に負えない才能だ』と高く評価していて、本当は応援したかった」と証言した。しかし、森田童子は「叔父の七光りで世に出たくない」と反発し、松村も「メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃんの姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制で売りたい」と戦略を立て、「森田童子との関係をずっと隠し通すこと」をなかにしに提案、なかにしがその約束を死ぬまで守り続けてくれたことを感謝する。


小説『時には娼婦のように』を構想していた
森田童子の音楽が、なかにし兄弟が育った満州牡丹江の裕福な家庭にあった音楽的な環境に胚胎していることは疑いがないだろう。しかし、森田は叔父の後ろ盾なしで自らの音楽世界を築き、父親の戦争中の失墜と戦後の堕落に対して全共闘世代の挫折感を対置させ、先行世代への鎮魂歌を歌いつづけた。彼女は中西家の「虚無という血」を引き継いだ、と私には思える。

「『血の歌』が出たとき、さすが礼ちゃんと感心したわね。童子と自分が死んだあと、すべてを明らかにする。礼ちゃんらしい見事な自己演出だと思った」と語る松村は、なかにしが『血の歌』の原稿を意図的に家族の目に付きやすい場所に置き、自分の死後の出版を暗に望んでいたと考える。中西康夫もそれが父の遺志だと信じている。なかにしとの共同作業で数々のヒット曲を生み出した辣腕プロデューサーと、なかにしと最も身近に接してきた子息の見解には、確かに説得力がある。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


しかし私は、『血の歌』を読んで、一つの別な想像をめぐらせた。

私がなかにし礼と最後に会ったのは、なかにしが亡くなるちょうど2年前、'19年の12月だった。「キャンティ」で私と話すうちになかにしは、『時には娼婦のように』というタイトルで、'70年代の懶惰な日々を小説にしたいと思い立った。7人の女性が住み、彼女らの世話をする年配のマダムがいる一軒家。なかにしにはそこを訪ねて遊んだ日々があった。特権的な時間であったとは思うが、平和ボケの極みのような退廃と乱倫のなかに、なかにし独自の共生と気づかいの哲学を再発見しようとしたのかもしれない。なかにしはその時代を描きたいと切実な調子で言い始めたのだ。

その後、なかにしはその小説の構想を河出書房新社の担当編集者に持ちかけたと聞いたが、それが実現しないまま終命の時を迎えた。ここから先は私の憶測だが、なかにしはこの作品に、'74年の森田童子の歌手デビューを絡め、当時の音楽状況をふくめて回想しようと目論み、その時のために、いつか作品の形を与えようと思っていた草稿を机の引き出しに入れておいたのではあるまいか──。

こんなふうに『血の歌』は、さまざまな空想を喚起し、なかにし礼の死が創作活動を無残にも途絶させたことを、悲しみとともにあらためて思い起こさせる掌編なのである。


▲△▽▼


2022.01.01
「僕たちの失敗」の森田童子の父親は、なんとあの人だった
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91082

なかにし礼の未発表作品に書かれたこと

作詩家であり、作家のなかにし礼が亡くなって1年が経つ。それにあわせ、死後に自宅から発見された未発表作品『血の歌』(毎日新聞出版)が刊行された。そこに書かれていた主題が、一部で波紋を呼んでいる。なかにしの代表作『兄弟』で描かれたあの破滅的な兄。その娘こそ、一世を風靡した森田童子であったのだ。つまり、森田は、なかにしの姪にあたる。なぜ、なかにしは森田との関係をここで明かすことになったのか。森田と交流もあった元『ガロ』編集長の高野慎三が記す。

テレビドラマ『高校教師』のあの歌声

かつて森田童子という類まれなシンガーソングライターが存在した。一部で熱狂的に支持されたようだ。その後1990年代前半に、テレビドラマ『高校教師』のバックに流れる「ぼくたちの失敗」で一般的に知られるようになった。そのときの語りかけるような音律と透き通る細い歌声が聞く者の心をとらえた。そして、「暗く悲しい歌」の歌い手として認知された。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


森田童子の存在をはじめて知ったのはいつのことだろう。70年代の終わりに、わたしより一回り以上も若い青年たちが「一度聞いて欲しい」と録音テープを届けにきた。聞いてみて、「いやにセンチメンタルな歌だなあ」とそのときは思った。


突然の電話
従来、わたしは音楽にほとんど関心を持たなかった。クラシックも、ジャズも、ロックも聞いたことがない。戦前・戦後の歌謡曲のいくつかと、森進一や八代亜紀の2、3の歌を好んだ。

1970年以降のフォークソングにも馴染めなかった。森田童子の歌も私的な生活を言葉にしたフォークとさほど違いはないものとわたしは思い込んだ。

ただ、若い友人たちのこだわりが尋常ではなかった。森田童子のコンサートにしばしば出かけていたようだ。「ぼくたちの歌」と捉えているふしがうかがえた。この場合の「ぼくたち」とは1960年代後半の「反乱の季節」における高校生世代を意味する。たぶん、森田童子の歌のなかに自らを重ね合わせていたのだろう。その心情を理解できなくはなかったが、「青春の甘酸っぱさ」は願い下げたかった。

そんなある日、森田童子の関係者から突然の電話がある。用件は、「つげ義春さんの作品を使用したいのですが」との問い合わせだ。

わたしは1967年から71年までマンガ雑誌『ガロ』の編集長を務め、つげ義春さんを担当した。その縁で、辞めてからもつげさんの取次役のようなことをやっていた。つげさんに連絡を取ると即時に承諾。「使用料は考えないで」との言葉も伝えた。また別の日に「作品のタイトルをコンサート名にしてもいいですか?」と問われ、これもつげさんから了解を得た。

森田童子がつげ義春の愛読者であることを知って、わたしは新たに格別の興味を抱いた。それでも、もっと歌を聞いてみたいとまではならなかった。

森田はなぜつげ義春に執着したか
ところがである。「これから森田とお邪魔します」と、また電話があった。1時間ほどして、杉板づくりの大きなリンゴ箱を肩に担いだ男性が、わたしが営む小さな文具店のガラス戸を開けた。「森田がいろいろお世話になりました」と言うと、表通りの歩道をふり返った。帽子を深くかぶったサングラス姿の彼女が深々とお辞儀をした。あわててわたしも返した。パートナーと思われる男性は「これからつげさんにもお届けします」と急いで車に戻った。森田童子と接したのはこのときが最初であり、最後だ。

挨拶の言葉ひとつ交わすこともなかったが、感じのいい出会いだった。

同じころ、住まいに近い渋谷道玄坂裏の円山町のラブホテル街の電柱に「森田童子コンサート・夜行1」とか「大場電気鍍金工業所コンサート」とかのステッカーを見かけた。『夜行』は、つげ義春の新作を掲載した本だ。どれほど彼女がつげ義春に執着しているかを想った。いや、つげ義春だけではない。下町葛飾の労働者たちの60年安保闘争を描いた実弟のつげ忠男のマンガ集『懐かしのメロディ』に寄せて、彼女は「絶望と孤独の風景」と綴り、つげ忠男への限りない愛惜を表明した。

以後、森田童子との接点は途絶えたままになった。歌うことをやめ、東京を離れたと風のうわさが流れた。気になりだしてCDを購入し、ときどき聞いた。いくつもの歌詞から森田童子の立ち位置が想起され「ああそうだったのか」との思いに襲われた。つれ合いが森田童子の歌を聞きながら、台所でふと手を休め、「いい歌よね」と言う。そして「正しい歌だわ」と続けた。冗談じゃない、歌に正しいも正しくないもあるものか、と言い返そうとして、思いとどまった。

なかにし礼の『血の歌』が明かす森田童子の過去
森田童子より2歳年上のつれ合いは、森田童子の頑なな意思と、ときどきの危機意識を瞬時に受け止めたのかもしれなかったからだ。その「正しさ」とは「理念を持っている」ということではないだろうか。森田童子の歌は「闘い」の歌ではないかもしれないが、「抵抗」の意思を示す歌ではあるだろう。「正しさ」とは「抵抗」の謂いでもあるのだろうか。

「反乱の季節」を若者たちとともに闘おうとした作家・高橋和己の「孤立無援の思想」をモチーフとした歌もあった。つげ義春の「海辺の叙景」をイメージした作品もある。

いったい、森田童子とは何者なのか、と疑問を抱いた。しかし、わたしにはどのような情報も届かなかった。森田童子は謎に包まれたままの存在となった。それから20年が経ち、30年が経ち、予期しないときに訃報が飛び込んできた。わたしはつれ合いの遺影のある小さな部屋で、森田童子の歌を流した。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


そして、いまになって、なかにし礼の未発表小説『血の歌』(毎日新聞出版)によって、森田童子の過去が明らかにされた(作品のなかでは「美納子」「森谷王子」となっている)。森田童子は、なかにし礼の姪だったのだ。なかにし礼の代表作である『兄弟』のモデルだった、「特攻帰り」で、戦後、放埒に生きたという実兄の娘だったのである。そのあまりに衝撃的な人間関係に驚きを禁じ得ないが、しかし、それらはある意味、充分に納得のいく事柄であった。

荒廃した父親を通して「戦後」を感知し続けた
《堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。墜落を恐れながら、みずからさらなる墜落を求める父。あるいは美納子は中西よりも、いや中西の背中越しに、戦争の興奮を見てしまったのかもしれない。そして、興奮から遅れてやってくる、傷と孤独。それは美納子にとって、時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか》(『血の歌』より)

森田童子の歌から感受される途方もない「暗さ」は、たんに父親という存在の個性に求められるべきではないだろう。青春期に戦争を体験した、いわれるところの純粋戦中派にとって、敗戦後をどのように過ごしたかは、ひとりの個人の問題に還元されるべきことがらではない。つげ忠男がいくつものマンガで描き続けた「特攻帰りのサブ」の生き死には、B29撃墜の戦闘機パイロットであった父親像とみごとにオーバーラップする。いわば、敗戦後における父親の自堕落な姿は、下町で虚勢を張る与太者の「サブ」と寸分の違いもない。

つげ忠男は、工場街の裏町で目撃した実像の与太者を通して「戦後」を凝視した。森田童子は、父親の荒廃した実像を通して「戦後」を触知した。つげ忠男の一連の作品が戦後の「正しさ」を描き留めたように、森田童子も「戦後」のなかで自らの「正しさ」を追い求めた。

『血の歌』は、森田童子の秘密に触れると同時に、戦争体験を経た「戦後」という時間の秘密をも物語る。森田童子の歌が存在する限り、つげ忠男の作品が存在するかぎり、「戦後」は終わらないのである。


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血の歌 Kindle版
なかにし 礼 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09NQVTK1R/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B09NQVTK1R&linkCode=as2&tag=asyuracom-22&linkId=fcb312468f0c633b2dc696aa2dce0968

痛ましい歌声が、俺の胸を血まみれにする。
戦争の昂揚と絶望、そして戦後の果てない堕落。兄の人生を見つめたその娘は、「謎の歌手」に生まれ変わった。
代表作『兄弟』の原型にして、いまに鮮烈な未発表作品、なかにし礼の死後1年目に衝撃の単行本化!

116. 中川隆[-13423] koaQ7Jey 2022年3月25日 21:35:26 : wN51kKTSAK : c05GVzJZYnVwZC4=[16] 報告
森田童子さんの評伝本、遺族「許諾を得たなんて嘘」と激怒でお蔵入り騒動
2022/03/25 16:15NEWSポストセブン
https://news.goo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-1738070.html

記念すべき森田さんのファーストアルバム『GOODBYE グッドバイ』のジャケット(画像はユニバーサルミュージックジャパンのホームページより)

(NEWSポストセブン)

 世の中には謎のままにしておいた方がいいこともある。亡くなった人の謎であれば言うまでもない。その“パンドラの箱”を、不作法に開けた人と遺族との間でトラブルが起こっているという。懐かしい女優の名前も聞こえてくるが、どうやら誰もが悲しむ状況で──。

 儚さを感じさせる、つぶやくような歌声。カーリーヘアにサングラス姿という中性的なスタイルで、男性か女性かさえも明確にせず、“謎の歌手”と評された森田童子さん(享年66)。1975年にデビューするも、シングル発売は4枚のみ、たった8年で引退してしまった。当時の映像や写真はほとんど残っていない。

「1993年、ドラマ『高校教師』(TBS系)の主題歌に起用された森田さんの楽曲『ぼくたちの失敗』は、CD売り上げが100万枚に迫り、一世を風靡しました。しかしそれは森田さんが引退してから10年経ってのこと。当時、結婚していて主婦として生きると決めた森田さんは、まったく表に出てきませんでした。

 2018年4月に亡くなり、2か月後には全国的に報じられています。『高校教師』で森田童子を知った人たちは、まさに謎の歌手として認識しているでしょう」(音楽関係者)

 そんな森田さんの生誕70周年となった今年1月、単行本『夜想忌 森田童子大全』(Pヴァイン)が4月1日に発売することが発表された。森田さんの関係者インタビューや寄稿をもとに“真実”が明かされる評伝本だ。

「寄稿した人のなかでも『高校教師』の脚本を担当した野島伸司さん(59才)は、特別な思いがあると思います。高校時代にライブハウスで森田さんの歌を聴いて衝撃を受け、“絶対に自分のドラマで使いたい”という長年の思いを実現したのがこのドラマでしたからね」(芸能関係者)

 主演を務めた桜井幸子(48才)は、2009年に芸能界を引退しているが、13年ぶりの“芸能活動”ということになるのか、寄稿した人物の一覧に桜井の名前が載っている。

「最高視聴率33%をたたき出したこの作品で、桜井さんは一躍人気女優になります。主題歌でドラマを支えた森田さんについていま思うことや当時のエピソードを聞けるのであれば、貴重な本といえるでしょう」(前出・芸能関係者)

 今回の『森田童子大全』よりも先に、謎に包まれた森田さんの正体を明かしたのは、昨年12月、作詞家のなかにし礼さん(享年82)の没後1年に出版された遺作『血の歌』(毎日新聞出版)だった。

「その本のなかで、森田さんがなかにしさんの兄の娘、つまり姪であることが明かされていたんです。そこには血縁関係であることを隠すに至った経緯なども書かれています」(別の芸能関係者)

 その直後に出版されると発表されたのが『森田童子大全』だっただけに、謎に包まれた森田さんの素顔が明かされるのではないかと、ファンの期待は膨らんだ。しかし、2月末に事態は一転する。

「予約注文していましたが、突然“無期限発売延期”のメールが届きました。延期の理由はまったくわかりませんが、タイトルも内容も変わるとのこと。大々的に宣伝していたレコードショップでもいまは予約できません。お蔵入りになってしまうのでしょうか」(60代女性ファン)

「名前を使う限り許さない」
 森田さんの遺族を訪ねると、開口一番から怒気をはらんだ声で怒りをぶつけ始めた。

「森田童子が死んでいるからといって、何をしてもいいというわけではない。私たちは許しませんよ!」

『森田童子大全』の宣伝文には《本書は森田童子さんのご遺族から許諾を得て制作した“決定版”である》とわざわざ記載されている。だが、激しい剣幕を見るに事実は違うようだ。遺族が経緯をこう説明する。

「今年の1月、遺族の1人がふとネットを見ていたら、この本の告知を見つけたんです。何も聞かされていないので本当に驚きましたよ。慌てて監修として名前があったA氏に連絡をしました。

 というのも2021年11月に、A氏が私たちのところに、“企画書”と称したメモ書きを寄越してきたんです。しかし、肝心な内容がまったく書かれていない。なので、詳細な内容が知りたいと伝えましたが、その後、A氏からも出版元からも一切連絡がありませんでした。遺族の許諾を得たなんて嘘です。連絡もないから許諾のしようがない状況なんです。そんななかで、本の告知がされました」

 森田さんの持つ楽曲や肖像権などの権利は、森田さんの遺族が管理をしている。遺族が怒るのは至極真っ当なことだろう。

「“森田童子”の名前で、4000円ほどもする高価な商品を売るのであれば、私たちを通すべきでしょう。それを無視された。私たちは発売を中止すべきだと主張しましたが、出版元から『販売網の都合もあるので一度延期ということにして、そのうえで考えてほしい』と言われました。顔を立てる意味で受け入れましたが、ホームページでは発売中止と告知してほしいと話したのに、いまだに発売延期となっています。

 この企画はやめるべきです。森田童子の名前が使われる限り、私たちは許しません」(前出・森田さんの遺族)

 遺族がここまで激怒するのにもわけがある。

「私たちは、身内として彼女を守らなければならないんです。森田童子としてのイメージを守ることも当然大事。しかし、それ以上に引退後の約35年間を一般人として共に過ごしてきた家族である彼女を守りたいんです。

 ファンのかたは、歌と自分の人生を重ね合わせて、それぞれの愛し方をしてくれていると思っています。本の監修であるA氏はファン代表みたいな態度だったと聞きます。謎多きまま引退して亡くなった森田童子の“真実を伝える”とか“決定版”とあおるような本を、ファンのかたは本当に欲しいのかな、と疑問に思っているんです」(前出・森田さんの遺族)

『森田童子大全』には、森田さんをプロデュースした松村慶子氏がインタビューで登場するとの記載がある。今回の経緯について松村氏に聞くと、寝耳に水といった様子だ。

「え! そうなんですか? 延期になったことはまったく知りませんでした。いつしか話したことの使用許可を求める連絡が一度だけきましたが、新たにインタビューなんて受けていませんよ。過去に自分で話したことについては“はい、どうぞ”と承諾しました。連絡はそれきりですね」

 この調子では、桜井の寄稿や、ほかの関係者のインタビューなどもどんな体裁のものなのか疑問が残る。遺族はほかの点にも疑義を呈する。

「40年以上前にFM東京(現:TOKYO FM)で放送したラジオライブの音源がCDとなって付いてくるらしいんですが、これはFM東京から提供されたものなんでしょうか。そういった丁寧な説明もないまま告知するなんて不信感しかありません」

(TOKYO FMの広報部は「現在、調査中ですが、広報として番組使用申請があったと把握していません。もし、付録CDが許可なしで発売されるのであれば、法務部に相談したうえで差し止めなど然るべき対応をします」と回答した)

 これを機に、遺族は“正式な窓口”作りを始めている。

「公式ホームページを作っている真っ最中で、開設は森田の命日の4月24日を予定しています。今後、楽曲の使用や企画などの対応は、すべてここを通して行います。『ファンの心を無視した逸脱行為は許さない』『本も承諾していない』と記載するつもりです。今回の混乱について、ファンのかたには申し訳なく思っています」(前出・森田さんの遺族)

『森田童子大全』の出版元は「プロジェクトに関することはお答えしません」と回答。草葉の陰の森田さんが、遺族が、そしてファンが、喜ぶ形を再考する必要があるかもしれない。

※女性セブン2022年4月7・14日号

https://news.goo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-1738070.html

117. 中川隆[-12933] koaQ7Jey 2022年8月25日 18:58:15 : XboiKyUdfk : bkZRZERuckkuZVE=[6] 報告
テレビドラマ なかにし礼『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』(テレビ朝日 1999年)

脚本:竹山洋
制作:テレビ朝日、カズモ

動画
https://www.youtube.com/watch?v=nF7G3xh3hYI
https://www.youtube.com/watch?v=_RtekDfDZaY






「兄弟」はなかにし礼の小説である。

実兄・正一の人生を題材にした、自伝的小説となっている。

破滅的人生を送る実兄・正一に翻弄され、苦闘を強いられた弟・禮三の愛憎と葛藤を描いている。

1997年6月号から1997年12月号までオール讀物に連載(ただし10月号は休載)され、1998年に文藝春秋に刊行された。そして第119回直木賞候補になった。文庫本では2001年に文春文庫を、2004年に新潮文庫として刊行された。

テレビドラマ
『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』のタイトルで、1999年3月10日にテレビ朝日の開局40周年記念スペシャルとしてドラマ化された。

キャスト
ビートたけし
豊川悦司
桃井かおり
高島礼子
工藤静香
麻生祐未
余貴美子
馬渕晴子
梨本謙次郎、坂本長利、生井健夫、村田則男、磯村千花子、芦田昌太郎、田島基吉、西田聖志郎、市村直樹、北河多香子、森たまき ほか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%84%E5%BC%9F_(%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC)


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