ジョンソンは関係ないよ J・F・ケネディ-は何故暗殺されのか? 2018.08.31 フランケンハイマー監督の映画「5月の7日間」が上映されます
ジョン・フランケンハイマーの監督した映画「5月の7日間」が9月26日に東京琉球館で上映されます。 この映画の原作はジャーナリストのフレッチャー・ネベルとチャールズ・ベイリーが1962年に書いた小説。1961年7月にアメリカ空軍の参謀総長に就任したカーティス・ルメイをインタビュー、それが小説を書くひとつの切っ掛けになったようです。 ルメイは第2次世界大戦の終盤、東京を含む日本の都市を焼夷弾で焼き尽くして多くの非戦闘員を殺した作戦の責任者で、1948年にはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官就任します。
1950年6月に勃発した朝鮮戦争では日本以上の空爆を実施、朝鮮の人口の20%を殺したと本人も認めているほどです。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンですが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンに達しました。
1960年10月から統合参謀本部議長を務めたライマン・レムニッツァーもルメイと同じように好戦的な人物で、1961年1月に大統領となったジョン・F・ケネディは1962年9月、レムニッツァーの再任を拒否しています。
レムニッツァーが出世できた理由はイギリスの軍人、ハロルド・アレグザンダーに気に入られたからだと言われています。アレグザンダーは1943年7月にシチリア島の上陸作戦を指揮、その下にジョージ・パットン司令官の第7軍(アメリカ軍)とバーナード・モントゴメリー司令官の第8軍(イギリス軍)がいました。
アレグザンダーの紹介でレムニッツァーはアレン・ダレスと親しくなり、大戦の終盤にダレスたちが行ったナチ高官を救出するサンライズ作戦にも参加しました。大戦後、1955年から57年にかけてレムニッツァーは琉球民政長官を務めています。
1957年の初頭にアメリカ軍はソ連に対する先制核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、その内容は300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊するというものでした。1950年代に沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められましたが、これはアメリカの戦争計画と関係しているはずです。
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によりますと、1961年7月、軍や情報機関の幹部は大統領に就任して半年のケネディ大統領に対して先制核攻撃計画について説明し、63年の後半にはソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたそうです。この計画を阻止したケネディ大統領は1963年11月に暗殺されました。
そのケネディ大統領は1962年、ホワイトハウス報道官だったピエール・サリンジャーを介してフランケンハイマーにネベルとベイリーの小説を映画化するように頼みました。アメリカの民主主義が危機に瀕していることをアメリカ国民に知らせたかったと言われています。
言うまでもなく、ケネディ大統領はこの映画を見ることはできませんでした。1964年2月に公開されたのですが、その3カ月前に暗殺されていたからです。その年の12月、カーティス・ルメイは日本政府から「勲一等旭日大綬章」を授与されました。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808310000/
▲△▽▼ 2018.06.07 50年前の6月6日にロバート・ケネディが暗殺された
今から50年前の6月5日にロバート・ケネディが銃撃され、翌朝に死亡した。その2カ月前、4月4日の夕方にはマーチン・ルーサー・キング牧師が殺されている。いずれも「犯人」とされる人物は存在するが、それを信じていない人は少なくない。 そうしたひとりがロバート・ケネディ・ジュニア、つまり殺されたロバート・ケネディの息子だ。ロバート・ケネディの暗殺に兄で大統領だったジョン・F・ケネディの暗殺が関係していると推測している人もいる。
ロバートは1961年1月から64年9月にかけて司法長官、65年1月から68年に暗殺されるまで上院議員は上院議員をそれぞれ務めた。殺されたときは次期大統領を目指して活動中。当選する可能性は高いと見られていた。
この上院議員を殺したのは60センチ以上前を歩いていたサーハン・サーハンだとされているが、検死したトーマス・ノグチによると、議員の右耳後方2.5センチ以内の距離から発射された3発の銃弾で殺されたのだという。この結果は現場にいた目撃者の証言とも合致している。つまり、公式説明によると、ロバートの前を歩いていた人物が発射した銃弾がロバートの後方からあたったことになる。しかも、命中した銃弾はサーハンのピストルから発射されたものではなかった。
朝鮮戦争が休戦になって間もない1954年1月にドワイト・アイゼンハワー政権の国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは国家安全保障会議でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、CIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。このときのCIA長官はダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスだ。
その前からアメリカはインドシナの再植民地化を狙うフランスの戦争を支援していたが、1954年5月にフランス軍はディエンビエンフーの戦いで降伏、それをアメリカが引き継ぐことになった。
しかし、アイゼンハワーの次に大統領となったジョン・F・ケネディはアメリカ軍の撤退を決断、1963年10月にNSAM(国家安全保障行動覚書)263を出している。それによると、1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させることになっていた。そうした動きは秘密でなかったようで、米軍の準機関紙、パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。
言うまでもなく、これは実行されなかった。ケネディ大統領が1963年11月22日に暗殺されたからだ。ケネディ暗殺を受けて副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは1963年11月26日付けでNSAM273を出して撤退計画を取り消してしまったのだ。
ジョンソン政権は1964年8月の「トンキン湾事件」を利用してベトナムへ本格的な軍事介入を開始しているが、この「事件」はアメリカ側が仕掛けた偽旗作戦だった。翌年の2月には本格的な北爆を開始、地上部隊を増派する。1965年末になると、ベトナムで戦うアメリカ兵は18万人に達していたという。そして1968年1月に始まったテト攻勢ではアメリカ大使館が一時占拠され、その様子がテレビで伝えられた。アメリカ人は泥沼化した戦争の実態を知ることになったのである。
ロバート・ケネディはベトナム戦争に反対、キング牧師の弁護士だったウィリアム・ペッパーによると、キング牧師側に対し、自分が民主党の大統領候補になった場合に牧師を副大統領にしたいと打診してきたという。(John L. Potash, “Drugs as Weapons Against Us,” Trine Day, 2015)
キング牧師は殺される1年前、つまり1967年4月4日にニューヨークのリバーサイド教会でベトナム戦争に反対すると宣言している。公民権運動という限られた領域の運動ではなく、アメリカの支配システムそのものと対決する道を歩き始めたとも言えるだろう。
当時、キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していたとロン・ポール元下院議員は話している。そうした発言はジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだが、牧師はそうしたアドバイスを無視した。
なお、ジョン・F・ケネディは暗殺される5カ月前の1963年6月10日にアメリカン大学の卒業式でソ連との平和共存を訴える「平和の戦略」と呼ばれる演説を行っている。フランス大統領だったシャルル・ド・ゴールは1962年8月22日、OAS(秘密軍事機構)の一派に命を狙われているが、そのド・ゴールは1968年の5月革命の影響もあり、69年4月に失脚している。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201806070000/
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2018.07.13 米英がヨーロッパ支配とソ連/ロシア侵略を目的として創設したNATO NATO(北大西洋機構)は7月11日から12日にかけて首脳会議を開いた。国防費の負担を巡ってアメリカと他の国とで対立があったと伝えられているが、アメリカが1992年2月に作成した世界制覇プランを妨害しているロシアに対する敵対的な姿勢では一致したようである。 本ブログでは繰り返し書いてきたが、この世界制覇プランはDPG(国防計画指針)として作成されたのだが、そのときの国防長官はリチャード・チェイニー。作成の中心は国防次官だったポール・ウォルフォウィッツで、I・ルイス・リビーやザルメイ・ハリルザドも参加している。いずれもネオコンだ。
このドクトリンは国防総省内部のシンクタンク、ONA(ネット評価室)で室長を務めていたアンドリュー・マーシャルの戦略に基づいているのだが、そのマーシャルはイギリス出身のバーナード・ルイスから世界観を学んでいる。ルイスはイスラエルやサウジアラビアの支持者で、ウォルフォウィッツを含むネオコンを育成したヘンリー・ジャクソン上院議員(1953年〜83年)からも信奉されていた。マーシャルは偽情報に基づくソ連脅威論や中国脅威論を広めた人物でもある。
ソ連消滅はジョージ・H・W・ブッシュ大統領(1989年〜93年)を中心とするアメリカのCIA人脈やローレンス・サマーズ、ポール・ウォルフォウィッツらがKGBの頭脳とも呼ばれたフィリップ・ボブコフを含むKGBの将軍たちと手を組んで実行した工作の結果。
東西ドイツが1990年に統一される際、ブッシュ政権の国務長官、ジェームズ・ベイカーはソ連のエドゥアルド・シェワルナゼ外務大臣に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるが、東へNATOが拡大されることはないと約束している。この約束を信じたゴルバチョフはドイツ統一で譲歩したのだが、約束は守られなかった。
NATOは1949年、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクによって創設された。ソ連に対抗することが目的だとされたが、その当時のソ連には西ヨーロッパに攻め込む能力はない。何しろ、ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。
第2次世界大戦の終盤、アメリカとイギリスはゲリラ戦を目的としてジェドバラという組織を作った。その人脈は戦後も生き続け、1948年頃にはCCWU(西側連合秘密委員会)という組織が統括していた。その人脈はNATOに吸収され、CPC(秘密計画委員会)が指揮することになる。その下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が1957年に設置され、NATOの秘密ネットワークを動かすことになる。
その秘密ネットワークはソ連軍が侵攻してきた際にレジスタンスを行うとされていたが、実際はソ連圏への工作や西ヨーロッパの支配が目的。NATOへ加盟するためには秘密の反共議定書にも署名する必要があると言われている。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)コミュニストと戦うために彼らは役に立つという理由からだという。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)
こうしたネットワークの中で最も知られているのはイタリアのグラディオ。1960年代から80年代にかけて「極左」を装って爆弾テロを繰り返していた。活動はイタリアの情報機関がコントロール、その上には米英の情報機関が存在していた。
フランスで1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)もその人脈に属していた。OASへ資金を流していたパイプのひとつ、パーミンデックスはジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。
こうした人脈が存在することは1947年6月にフランスの内務大臣だったエドアル・ドプが指摘している。政府を不安定化するため、右翼の秘密部隊が創設されたというのだ。しかも、その年の7月末か8月6日には米英両国の情報機関、つまりCIAとMI6と手を組んで秘密部隊はクーデターを実行する予定で、シャルル・ド・ゴールを暗殺する手はずになっていたと言われていた。
OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画で、4月22日にクーデターは実行に移される。
CIAはクーデターを支援していたのだが、ケネディ大統領はジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任、第11ショック・パラシュート大隊を解散させる。OASは1962年に休戦を宣言するが、ジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みて失敗。暗殺計画に加わった人間は9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン=チリー大佐だけだ。
暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリを追い出す。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。NATOへの完全復帰は2009年にニコラ・サルコジ政権が決めている。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201807130000/
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▲△▽▼ 政府紙幣を発行しようとするとロスチャイルドに暗殺される? 日銀が設立されたのは明治15年(1882年)に対してFRBが創られたのは1913年である。つまり日銀の方が古い。ただしFRB以前にも米国にはいくつかの中央銀行があり発券業務を行っていた。ただし当時の中央銀行は、政府から独立した完全な民間企業であった。 ちなみにこれらの銀行の株式のほとんどはロスチャイルド家(後にロックフェラー家も加わる)が握っていた。もっとも今日の米国連銀の大株主もロスチャイルド系とロックフェラー系の銀行である(連銀は100%民間資本であり、米政府は株式を持っていない)。 驚くことに日銀の株主にもロッフェラーやロスチャイルドの名があるという噂が根強くある(日銀の株式(出資証券)の55%は日本政府が所有しているが、残りの株主は明らかにされていないようで真相は分らない)。 政府の一部として金融政策を担う目的でFRB(理事や議長は大統領が任命し、議会が承認する)や日銀は設立された。これは発券業務だけを行うことを目的に自然発生的に生まれた欧州の中央銀行と違う点である。このせいか欧州の中央銀行が経済政策としての金融政策に躊躇してきた歴史がある。
ついでながら米国は英国から独立後も利息を払って英国の紙幣を使っていた(後にロスチャイルド家やロッフェラー家などが関係する民間銀行が発券業務を開始)。これも米国国民には発券業務をどこかが独占することに長い間抵抗のあったからである。
ただ米政府に通貨の発行権を取戻そうとした大統領が過去に三人いた。
16代リンカーン、20代ガーフィールド、そして35代ケネディである。 実際、リンカーンはグリーンバックという政府紙幣を発行している。 政府紙幣にこだわったこの3人の大統領の全てが暗殺された話は有名である。
筆者も政府紙幣と声高に主張するのではなく、国債(永久債)の日銀買入程度に抑えておこう。 http://www.adpweb.com/eco/eco737.html
J・F・ケネディ-は FRBを公有化しようとして暗殺された。 その昔、ケネディ大統領が暗殺されますた。 なぜ暗殺されたのか、いろんな理由が取りざたされていますが、皆様はエグゼクティブオーダー11110というのをご存じでしょうか?
ケネディさんは、政府紙幣を言い出した。 エグゼクティブオーダー11110というのはFRBが持っている通貨発行権をFRB以外の政府財務省が発行できるようにしましょうという法案ですた。 ケネディさんは総額42億ドルの政府券を発行したと言われています。 これをやったので殺された。 当たり前です。 奴らの力の源泉はなんですか。 何度も書いています。前の記事にも書きますた。 通貨発行権
です。 この無から有を生み出す錬金術を使って奴らは世の中を支配している。 この錬金術さえあれば、誰が法律を作ろうが、何党が政権をとろうが関係ないという話です。 無限に金を生み出せるのですから至極当たり前のことだと思います。 エグゼクティブオーダー11110は、ケネディさんがFRB以外の政府財務省が発行できるようにしましょうという法案だったのですた。アメリカ政府版の通貨を取り戻せ!をやったのです。 これをやられてはたまらない。 奴らは自分たちの力の源泉、錬金術が奪われるのですから、一番恐れる話なのです。 だからこの法案を通したケネディさんは、法案を出すが早いか瞬速の速さで暗殺されてしまったのですた。 中川さんが金融相だった時、自民党は何を言い始めますたか。 政府紙幣。 ケネディさんと同じです。 ケネディさんと同じ虎の尾を踏んでしまった。 政府紙幣というのは実は奴らが一番困る話なのです。 景気悪化。もうだめだ。日本経済は終わりだ。 そんなことを言ってこの世の終わりのように思っている皆さんには信じられないかもしれませんが、単純明快に景気を回復させる方法があります。 ごく簡単な話です。 経済の仕組みを分かっていればすぐにできてしまう話なのです。 本当なのだからしょうがありません。 単純です。政府紙幣を発行する。それも減価通貨で。 ただそれだけです。 今、民主党さんの言う子供手当とかなんとか。福祉の財源はどうするんだ。という議論が起こっていますね。 財源は政府紙幣です。これを言うだけです。 現在、日本なら日銀が通貨発行権利を持っています。 もちろん世界の中央銀行システム。 ピラミッドの頂点にはスイスのBISが存在しています。日銀はその日本支部です。FRBはアメリカ支部。 日銀は奴らの出先機関であって、日本の機関ではない。奴らの機関です。 何を今さらな一般常識です。 今のあなた方が持っているお札は日本銀行が発行している券。 競馬をやるには馬券。行列に並ぶなら整理券。子供が親に渡すのは肩たたき券。 日本で物を買うなら日銀券です。 単なる紙っぺらです。 今まで政府は公共事業なり、子供手当なり、とにかくお金のかかることをやろうとすれば日銀からお金を借りなければなりませんですた。 日銀はと言えば、やっていることは輪転機を回して紙っぺらをバカスカ刷っているだけです。 元手なんてゼロです。紙代だけの紙っぺらに巨額の利子をつけて政府に貸し出している。 お馬鹿な話です。 しかし、政府紙幣ならそんなお馬鹿なペテン話に付き合う必要はまったくありません。 日銀なんかに借りる必要はない。日本政府が刷るお金、政府発行券、政府紙幣を作りますというだけです。 日銀がやってたことを政府がやる。政府がバカスカ札束を刷りまくるだけ。 財源は?と聞かれれば政府紙幣です。何か文句ある? と言えば良いだけなのです。 単純明快なのです。 今まで日銀がやっていたことを政府がやる。 政府が紙幣を刷りまくったらインフレになるでしょという突っ込みもありそうですが、そんな心配はありません。 減価紙幣にすれば良いだけです。 減価紙幣とは一定期間、時間が過ぎるとお金の価値がゼロになってしまうお金のことです。 http://goldentamatama.blog84.fc2.com/ ケネディさんのお父さんは禁酒法時代にお酒を売ってもうけたマフィアさんですた。 エリオットネスとアルカポネさんとの死闘。映画アンタッチャブルで有名ですね。 カナダのブロンフマン一族というのを知っていますか。お酒の密売王、ブロンフマン。 禁酒法時代に嫌というほど儲けた人達です。 イーディッシュ語でブロンフマンは「酒屋」です。まぁ、名前そのまんまなのですが。
ケネディさんは親子ともどもブロンフマンさんの手下だったのですた。 部ロンフマンさんについて書くと何回かに分けて書かねばならないのでまた別にするとして、ケネディはその酒屋さんファミリーに入って大統領になるまでお膳立てしてもらった。 なのに裏切って、理想に突き進んだのです。 世の中には勇気のある人もいるのです。 これ以上好き勝手にはさせん!やらせはせん!ケネディさんは立ちあがったのですた。まさに泥の中から出でる優曇華の花。 苦しめられるイタイケナ人々を見ていられなかったのでしょう。 奴らの中にはそういう善意に目覚める人だっているのです。 ワタスが人生捨てたものじゃないと思う瞬間です。 どんな悪人でも良心に目覚める場合もあるのです。 http://nobu369.blog11.fc2.com/blog-entry-1.html ■FRBは、米国政府の支配下にある国立の中央銀行ではなく、「欧米ユダヤ国際金融資本支配下の私有私立銀行」として設立されたゆえに、米国政府は1株も保有していない。 ■「ロスチャイルドとロックフェラーが支配する民間銀行」と言えるFRBは、米国政府によって、米国通貨ドルの独占的発行権を与えられている。 <FRB制度とは> 連邦準備制度理事会(FRB)は、理事と協議しつつ連邦諮問評議会が行い、評議会は、連邦準備制の組織委員会で選定された(1914年)12の特権的都市の地区連邦準備銀行の役員によって選出される。 全米12の地区連邦準備銀行は、短期金利水準を決定し公開市場操作を行い、通貨の供給等を管理するが、その地区連邦準備銀行の中で、最大の銀行がNY連邦準備銀行。 NY連銀(1914年)の株主たる金融機関とは
(1) ロスチャイルド銀行(ロンドン)・・・ロスチャイルド系 (2) ロスチャイルド銀行(ベルリン)・・・ロスチャイルド系 (3) ラザール・フレール(パリ)・・・ロスチャイルド系 (4) イスラエル・モーゼス・シフ銀行(イタリア)・・・ロスチャイルド系 (5) ウォーバーグ銀行(アムステルダム)・・・ロスチャイルド系 (6) ウォーバーグ銀行(ハンブルグ)・・・ロスチャイルド系 (7) リーマン・ブラザーズ(ニューヨーク)・・・ロスチャイルド系 (8) クーン・ローブ銀行(ニューヨーク)・・・ロスチャイルド系 (9) ゴールドマン・サックス(ニューヨーク)・・・ロスチャイルド系 (10) チェース・マンハッタン銀行(ニューヨーク)・・・ロックフェラー系 現在のNY連銀の大株主は JPモルガンチェース+シティバンク・・・53%(実質、ロスチャイルドとロックフェラーが支配) 【参考:日銀は?】 50%=財務省(旧大蔵省) 39%=ロスチャイルド 11%=内外大手金融機関ほか http://blogs.yahoo.co.jp/kabushikisobatenbo/10121805.html 『ニューヨーク連邦準備銀行』は欧米の銀行が株の100%を保有していて、米国政府は1株も保有していません。上記の中でチェース・マンハッタン銀行が米国のロックフェラー系ですが、他はすべてがユダヤ系(ロスチャイルド系)と言われる金融機関です。つまり、外国の金融資本が米国の中央銀行を支配しているということになります。ロックフェラーはロスチャイルドの代理人であるという説もあります。ということは、全てロスチャイルドによって支配されているということなのでしょうか。
来年早々に起こるかもしれない世界恐慌は、ロスチャイルドによってシナリオが描かれたのでしょうか。彼らの独占欲は無限です。なんでもかんでも独占・寡占化していきます。彼らにとって、地球は小さすぎるのかもしれませんね。 http://ayarin.iza.ne.jp/blog/entry/841598/ ロスチャイルド一族が世界を支配していると言っても、ほとんどの人は「そんなバカな」とか「くだらない陰謀論だ」と思うことだろう。 その原因は、ほとんどの人が「おカネのことを知らない」ためだと思われる。 「おカネのことぐらい知ってるよ」と思われることだろう。しかし、本当におカネの仕組みを理解している人は、この世にほとんどいないのが実状らしい。 国家を奴隷に かくして銀行家カルテルは物質的な金に囚われることなく自らおカネを創り出し、それを誰にどれだけ分配するか決める権限を持ったのです。 このようにおカネの主流が、銀行が発券する紙幣に変わっていくと、これまでのように国家がお金をコントロールすることができなくなりました。 ヨーロッパの君主たちは、お人好しにも、銀行家は大量の金を持っているのだと信じたのです。そして、国家がおカネを必要とし、しかし税収をもう上げられないとなると、銀行家から借りるしかないとなりました。 「借りる者は貸す人の奴隷となる」(旧約聖書) こうして次々と“国家に対して貸付ける”ことによって、ロスチャイルド家は絶大な影響力を手に入れるようになったのです。 1815年、ロスチャイルド家はイングランド銀行を支配下に置き、英国の通貨発行権と管理権を手中に収めました。 1913年には米国に連邦準備制度(FRB)を設立し、米国の通貨発行権と管理権を手中に収めています。 21世紀初頭、ロスチャイルド家が中央銀行の所有権を持っていない国は、全世界でアフガニスタン、イラク、イラン、北朝鮮、スーダン、キューバ、リビアの七ヵ国だけでした。 その後、アフガニスタンそしてイラクに対する米国の侵攻により、現在では残り僅か五ヵ国のみになっています。 http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/hadano/rothschild/ ケネディを撃ったのは、運転手とグラシノールの丘の狙撃手です。 つまり、実行犯として逮捕されたオズワルドは、一切関係なかったというわけです。 この事件は、初めから計画されていたシナリオどおりの暗殺でした。 それにしても、ケネディは、なぜ暗殺されたのでしょうか? 理由の一つは、前にも述べましたが、人種差別問題、CIAとの確執、麻薬とマフィアの撲滅、軍需産業の縮小、ベトナム戦争撤退など、彼の政策は、シークレットガバメントに逆らう行為だったからです。 また、他にも彼は米政府を支配するシークレットガバメントから、自由を取り戻そうとしたり、 連中が支配している貨幣発行権を取り戻したり、 さらには、パレードの日に、シークレットガバメントの存在を、国民の前で発表しようとしていたのです。 だから、邪魔者とされ、この世から消されたのです。 ケネディは暗殺される前に、シークレットガバメントの存在を、彼の愛人だった「マリリン・モンロー」に話しています。 それを聞いたマリリン・モンローは、知人のジャーナリストに、そのことを電話で喋ってしまいました。 電話の内容は、CIAが盗聴。 マリリン・モンローもまた、邪魔者として暗殺されたというわけです。 〈マリリン・モンロー〉 ケネディが暗殺され、マリリンモンローが暗殺され、これだけでは終わりませんでした。
実はケネディの次男も殺され、 三男は車で秘書と共に海に転落させられ、秘書が死亡・・・ 以後、その恐怖で三男は政界から去ってます。 マイケル・ジャクソン、ジョン・レノン、ダイアナ妃、尾崎豊、中川昭一などは、 ケネディ同様にシークレットガバメントの命令で何者かによって暗殺された人たちです。 ファシズム国家である米国では、政府に反対する発言や行為は非常に危険で、それは警察や軍も敵に回すことになるのです。 ケネディ暗殺後、当時の副大統領だった「リンドン・ジョンソン」が中心となり、 ケネディ暗殺に関する資料や証拠物件をまとめた「ウォーレン報告書」という調査報告書が存在します。 この報告書には、事件の詳細を2万ページにも及んで記載しています。 が、その内容は未だ明らかにされていません。 〈ウォーレン報告書〉 副大統領だったリンドン・ジョンソンが、ケネディの後、大統領に就任しました。
ジョンソンは、フリーメイソンのメンバーでした。 シークレットガバメントは、彼が大統領に就任すれば、米国をコントロールするのに好都合だったのです。 だから彼をケネディの後の大統領に据えたのです。 http://sekainoura.net/oworen.html マリリンを殺した4人の男たち 1960年代アメリカ暗殺史の系譜と符号
「1962年6月、モンローの女優としての評判は下降線を辿っていた。モンローはCIAと組織の陰謀を知っていた上、著しく精神の安定を欠いていた。7月にはボビー(ロバート・ケネディ)との関係も切れ『何もかもばらす』と脅しをかけるようになった。 彼女の電話を盗聴し逐一監視していたCIAは、復讐にかられた麻薬中毒のモンローに全てを暴露されることを恐れ、ムーニー(サム・ジアンカーナ)に彼女の始末を依頼した。 1963年8月5日、殺し屋たちは暗くなるのを待って、午前零時前に自宅に侵入した。すでに彼女はボビーの医師が鎮静剤を打っていたおかげで、ぐったりしていた。 彼らはマリリンを裸にすると、口をテープで封じ、医師が特別に処方したペントバルビタールの座薬を注入した。 口から致死量の睡眠薬を服用させれば嘔吐しかねないが、座薬は肛門膜組織から直接血管に吸収され、胃から検出されるものは何も無い。彼らは彼女が完全に意識を失ったのを確認すると、テープをはがしマリリンの口元をきれいに拭いて、そして静かに消えて行った」 ---「DOUBLE CROSS」by Sam Giancana and Chuck Giancana P370-373より抜粋 モンローの死因を扱ったテレビ番組はこれまで何度か放映されてきたが、その決定的な真相に迫るものは何一つなかった。せいぜい死亡当日にボビーが彼女と言い争いをしていた程度に留まるもので、ためにボビー犯人説を示唆するという、無責任なものであった。
確かにボビーはモンローと会ってはいたが、司法長官という立場上からも暗殺までするとは考えられない。そのことを最も熟知し、徹底して利用したのがCIAだった。しかもCIAはFBIを使ってボビーが訪れた痕跡すら消して、その後の司法長官としてのボビーに圧力をかけるようになる。つまり恩を売ったわけだ。 しばらくは大人しくしていたボビーも、その潔癖な正義感から再び不正に挑むようになる。激怒した彼らは大統領でもあった兄を公開処刑してボビーに警鐘を鳴らす。自分たちに逆らう者はこうなるのだと・・・だが、ボビーはかえってそれを契機に発奮すると大統領選にうって出る。これこそが彼らが最も恐れていたことであった。再び闇の政府が始動する。その結果が1968年6月6日だった。 http://oriharu.net/gabana_n/zaakan/hibi0506/hibi-niisi-050607.htm 2039年の真実・ケネディ暗殺
本日は、政治も株式もお休みしてこの話題です。 ちょうど49年前の1963年11月22日(日本時間では翌23日未明)、米国35代大統領ジョン・F・ケネディが遊説先のテキサス州ダラス市で暗殺されました。 表題を「2039年の真実」としたのは、この事件に関する資料の機密指定解除が2039年と異常に長く設定されているからです。落合信彦氏が同題の本を書いています。 この話題を取り上げたのは、これを米国国家による陰謀・隠匿と決めつけるのは簡単なのですが、この機会にもう一度振り返ってみて米国という国の「言いようもない奥深い不気味さ」を感じたからです。 事件発生直前のケネディ大統領には、以下の「敵」がいたはずです。 まず大統領就任直後の1961年4月、キューバのカストロ政権を打倒するためにCIAが1600人もの亡命キューバ人をビックス湾に侵攻させたものの大失敗に終わりました。ケネディ大統領はCIAのアレン・ダレス長官やチャールズ・カベル副長官(実弟が暗殺時のダラス市長)らを解任し、同時に実弟のロバート・ケネディ司法長官に命じてCIAの不法行為を厳しく取り締まり始めました。 そもそもなぜCIAがキューバのカストロ政権を打倒しようとしたのかですが、カストロ以前のキューバは自由主義国でマフィアにとって大切な収益源でした。もともとマフィアと親密だったCIAも恩恵を受けていたはずで、ケネディはマフィアを厳しく取り締まると同時にCIAの解体も考えていたようです。 ケネディの父親ジョセフは禁酒法時代に酒の密輸で財をなしており、実際に息子の大統領選挙ではマフィアに協力を依頼していました。従ってマフィアにとってケネディ大統領の行動は裏切りでしかなかったことになります。 またケネディは当時のベトナム戦争を徐々に終結させようとしており、軍事予算を削り各種兵器の開発を中止しました。ケネディの存在は軍部・軍事産業全体(軍産複合体)にとって死活問題だったのです。 つまりCIA・マフィア・軍産複合体がケネディの敵だったのですが、これらも互いに密接な関係を持ち、また当時の米国政府や議会内にもこれらと親密な人物が数多くいたはずです。 ケネディがテキサス州のダラスを訪問した目的は、もちろん1年を切った次回の大統領選のためでした。前回の大統領選では地元のリンドン・ジョンソンを副大統領候補にしたもののテキサス州は僅差の辛勝で、ケネディ本人とテキサス州の民主党との関係は必ずしも良好ではなかったようです。想像を逞しくすれば、テキサス州ではリンドン・ジョンソン「大統領」待望論があったはずです。 さて事件は、ロシア亡命から帰国したリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード中のケネディ大統領に3発の銃弾を撃ち込んで暗殺し、逮捕されたオズワルドも2日後に何と警察署内でジャック・ルビーに射殺されました。 昇格したリンドン・ジョンソン大統領は、すぐに連邦最高裁判所長官のアール・ウォーレンを委員長とする調査委員会(ウォーレン委員会)を立ち上げます。約10か月後に出来上がった報告書ではオズワルドの単独犯行で一切の背後関係が無いとされていました。 唯一の証拠は、パレードの通り道にある教科書ビルの6階でオズワルドの指紋の付いたライフルと薬莢が3つ発見されたことです。 このライフル銃は第二次世界大戦時にイタリア軍が使っていた旧式のもので、オズワルドは19ドルほどで入手しています。これを報告書では5.7秒間で3発発射して2発を命中させたとしていますが、後ほど同条件でどんな名手が撃っても当たりませんでした。 さらにケネディの乗ったオープンカー(普通は防弾車を使うはずですが)にはコナリー・テキサス州知事(後に財務長官)も同乗して被弾しているのですが、実は委員会の調査中に「外れた」弾が1つでてきてしまい、ケネディが2発被弾しているため、コナリーを撃った弾丸の説明がつかなくなってしまいました。 そこで何とケネディの体を通過した弾丸がコナリーにも当たったという「魔法のような」説明で済ませています。 たまたまですが先導していたパトカーの無線がONのままで、ライフフルの発射音を捉えていますが「はっきりと5発」録音されています。音を分析すると「少なくとも2種類のライフルから発射されている」ようです。どう考えてもオズワルドの単独犯行ということは考えにくいのです。 改竄されたサプルーダーフィルムについて書く紙面が無くなってしまったので省きますが、ご興味のある方はネットにも出ていますので読んでみて下さい。 そして事件後の数年間で「目撃者」が少なくとも32人変死していることや、国立公文書館の機密資料も大半が「紛失」しているらしいことなどを考えると、2039年になっても何も解明されないような気がします。 そして現在もCIA・マフィア・軍産複合体は「健在」のままなのです。 http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-621.html 2039年の真実・ケネディ暗殺 その2 2013年11月26日 少し時間が過ぎてしまったのですが、1963年11月22日に米国第35代大統領のジョン・F・ケネディが遊説先のダラスで暗殺されてから、ちょうど50年がたちました。
また先日、ケネディ大統領の長女のキャロライン・ケネディ氏が駐日大使として着任しており、再び記憶が蘇ってきました。 昨年11月22日付け「2039年の真実・ケネディ暗殺」の続編です。ここでは軍産複合体、CIA、マフィアの「仕業」と思えるような状況について書いてありますので、併せて読んでください。 米国政府の正式な調査報告書であるウォーレン委員会報告書では、オズワルドの単独犯行で、一切の背後関係は発見されなかったとされていますが、それを信じている米国人はほとんどいません。 そこで昨年の記事で書ききれなかった内容の追加です。 ケネディが暗殺半年前の6月4日に、政府紙幣を発行する大統領令11110に署名したので、FRBを牛耳るユダヤ資本に暗殺されたという「陰謀論」があります。実際に42億ドルの政府紙幣が発行されていたのですが、ケネディの暗殺で全額が回収されてしまい、その後は発行されていません。 写真でみるとFRB発行のドル紙幣とほぼ同じデザインですが、FRBのマークの代わりにUnited States Note(政府券)と印刷されています。 それではどうしてケネディは、こんな中途半端な額の政府紙幣を発行したのでしょう? 確かにFRBは1913年に設立されたユダヤ系銀行が株主の「純粋の民間銀行」です。しかしそれだけでケネディはユダヤに対抗して通貨発行権を取り戻そうとしたというのも単純すぎます。ケネディが歴代大統領で唯一のカトリック教徒だから出てきた陰謀論でしょう。 FRBの発行するドル紙幣は、米国国債を小口・無記名・無利息に分割したもので、正確には通貨ではありません。米国憲法では通貨発行権は議会に属すると規定されているからです。しかしこのFRBが発行する「小口国債」が、世界で唯一の「米国の通貨」として流通しているのです。 米国では議会(立法)と政府(大統領・行政)の権限が厳格に区別されており、大統領には通貨発行権がありません。この大統領令11110とは、もともと憲法上で認められている政府紙幣の発行権限を、改めて確認しただけのようです。 現在でも政府は3億ドルを上限に政府紙幣の発行が認められています。 つまりケネディの大統領令11110は、FRBから「通貨」発行権を取り上げる目的でもなかったはずです。 繰り返しですがFRBは「通貨」を発行できません。しかし発行する「小口国債」が世界で唯一の「米国の通貨」として流通しているため、実質的には通貨発行権があることになります。しかし裏付けとなる米国国債を取得しなければならないので、「打ち出の小槌」を所有しているわけではありません。 どうもケネディが政府紙幣を発行したために暗殺されたというのも「無理」があるようです。 もう1つ、昨年の記事で書ききれなかったザプルーダー・フィルムについてです。 これはウォーレン委員会にも証拠として提出されており、数多くのコピーが「勝手に」作成されているのですが、どうも重要なコマが抜かれているようで肝心なところがギクシャクした動きになっていました。 しかし、コマが抜かれる前のフィルムとされるものがユーチューブにアップされています。確かに当時みたフィルムよりも動きがスムーズのようです。謎とされる晴天に黒い「コウモリ傘をさす男(?)」や、レインコートを着て合図を送るような男も映っています。 実際にみて確認してください。 ユーチューブはこちら→http://youtu.be/kq1PbgeBoQ4 いずれにしても、謎は永久に解明されないのでしょうね。 http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-956.html 歴史上最も有名な大統領令はケネディ大統領が発令したNo.11110で、政府(財務省)に政府紙幣を発行させるものでした。実際に42億ドルの政府紙幣が発行されました。 これがケネディ暗殺の最大の理由とも言われますが、2013年11月26日付け「2039年の真実・ケネディ暗殺 その2」にも書いてあるように、単なる陰謀論でしょう。 http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1922.html 2017.01.27 シークレット・サービスのベテランがヒラリー支持を表明、トランプ警護を全うしないことを示唆
アメリカの場合、大統領を含む要人の警護はシークレット・サービスの役割になっている。1865年に偽造通貨の取り締まりなどを目的として財務省の機関として創設され、大統領の警護が任務として定められたのは1951年のこと。現在は国土安全保障省(DHS)の指揮下にある。 その機関に23年近く所属しているというエージェントのケリー・オグラディが公務員の政治活動を規制するハッチ法を愚弄して大統領選挙の期間中にヒラリー・クリントン支持を表明、ドナルド・トランプが大統領になった場合、警護の責任を全うしないことを示唆していたとして問題になっている。 ジョン・F・ケネディ第35代大統領が1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された際、シークレット・サービスが大統領警護の任務を放棄していた疑いが持たれている。シークレット・サービスで最初のアフリカ系エージェントで、1961年にケネディの指名で大統領警護の任務に就いたアブラハム・ボールデンによると、機関の内部でもケネディ大統領を嫌う人物は多く、大統領が銃撃されたら道を空けるという「ジョーク」が雑談の中で口にされていたという。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)実際、暗殺当日の映像を見るとシークレット・サービスの動きに疑問点がある。
大統領が暗殺された翌年、ボールデンは内部文書を関係者に売ろうとしたとして逮捕され、6年間を刑務所で暮らすことになった。ボールデン自身はこの疑惑を否定、でっち上げだとしている。ケネディ警護を担当していた一部エージェントによる過度の飲酒などの不品行をウォーレン委員会で証言しようとしていたという。 オグラディはトランプがアメリカやそこに住む女性や少数派にとって大きな災難をもたらすと主張しているが、人類を死滅させかねない核戦争については触れられていない。第2期目のビル・クリントン政権、ジョージ・W・ブッシュ政権、バラク・オバマ政権は露骨な軍事侵略を継続、ユーゴスラビア、アフガニスタン、イラク、リビア、シリア、ウクライナなどを戦乱に巻き込み、破壊と殺戮の限りを尽くしてきた。その口実が人権、民主化、自由などだが、勿論、それは看板だけの話で中身は逆だ。別に「民主主義の押し売り」をしようとしているわけでもない。 政府機関の動きに疑惑が持たれているのはケネディ大統領の暗殺だけではない。公民権運動の指導者として知られているマーチン・ルーサー・キング牧師やケネディ大統領の弟であるロバート・ケネディにも言える。 ベトナム戦争に関する国防総省の秘密文書、いわゆるペンタゴン・ペーパーズを明らかにしたことで知られているダニエル・エルズバーグは宣誓供述書の中で、キング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBIの捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだとする話を聞いたと語っている。この話は下院暗殺特別委員会のウォルター・ファウントロイ議員から話を聞いたブラディ・タイソンが話していたという。タイソンは国連大使だったアンドリュー・ヤングの側近だった人物だ。ただ、ファウントロイ議員は後にこの話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016) なお、エルズバーグはウィリアム・コルビーCIA長官の指示でペンタゴン・ペーパーズを公表したと言われ、この公表自体に裏の事情があるのだが、今回はそこへ足は踏み入れない。 キング牧師は1968年4月4日にテネシー州メンフィスで暗殺された。この時、軍の部隊も動いていたと言われている。1956年にバス内で引き起こされた人種差別に抗議して始めたバス・ボイコット運動から公民権運動を率いることになったキング牧師はその後、労働/貧困問題、そして反戦運動に取り組んでいく。 そのキングが1968年に殺された理由として指摘されている演説がある。1967年4月4日にニューヨークのリバーサイド教会で行ったもので、ベトナム戦争に反対する声を上げようと訴えるものだった。 ちなみに、ケネディ大統領は暗殺される5カ月前の1963年6月10日、アメリカン大学の学位授与式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行っている。アメリカの軍部や情報機関の好戦派を押さえ込み、ソ連との核戦争を回避することに成功したケネディはパクス・アメリカーナ(超大国アメリカによる世界支配)を否定し、ソ連との平和共存を訴えたのである。 1968年3月にはロバート・ケネディ上院議員が大統領選に出馬すると表明、当選する可能性は高いと見られていた。キング牧師の弁護士だったウィリアム・ペッパーによると、ケネディ議員はキング牧師側に対し、彼が民主党の大統領候補になった場合に牧師を副大統領にしたいと打診してきたという。(John L. Potash, “Drugs as Weapons Against Us,” Trine Day, 2015)そのロバート議員は1968年6月5日に暗殺された。大統領に就任したなら兄の暗殺を再調査する意向を示していたとも言われている。 女性や少数派の差別に取り組むことは許されるが、労働問題に取り組んだり戦争に反対すると命が危うくなるように見える。それが支配のルールなのだろうか。そうした意味で、ロシアとの関係改善を公言しているトランプは危険な立場にいると言える。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201701270000/ アメリカでは支配層が望む選挙結果以外は受け入れられない。例えば、1932年の大統領選挙でニューディール派でウォール街と対立関係にあったフランクリン・ルーズベルトが当選すると、ウォール街はクーデターを計画している。これは失敗に終わったが、その頃はまだ支配層の力が足りなかったということだ。
ジョン・F・ケネディもそうして一例だろう。選挙戦ではタカ派的な言動をしていたケネディだが、大統領に就任してから巨大企業の行動を規制、通貨発行権を政府の手に取り戻そうと計画、キューバに対する軍事侵攻に反対、ソ連との平和共存を訴えていた。イスラエルのパレスチナ弾圧にも批判的だった。支配層にとって好ましくないこの大統領は暗殺によって排除されている。 被支配者である庶民が自分たちの計画に同意させる仕組みも重要。有力メディアやハリウッド映画を使ったプロパガンダ、教育という名の洗脳で庶民の意思をコントロールしようとしている。「安全保障」を口実にした情報の統制も人びとを操るために行っている。支配層による情報統制は1970年代から世界的な問題になっていたが、日本人は鈍感で、そうした話を「リベラル派」や「活動家」なども興味を持とうとしなかった。 第2次世界大戦の前からアメリカの支配層は有力メディアをプロパガンダ機関と見なしていた。ルーズベルトを大統領の座から引きずり下ろし、ファシズム政権を樹立しようというクーデターを計画した際、新聞で偽情報を流すことも計画に含まれていた。 大戦後、ウォール街は組織的な情報統制に乗り出す。そこで始められたプロジェクトがモッキンバードで、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムが中核グループを形成している。ダレスは破壊工作のドン的な存在で、ウィズナーやヘルムズはその側近。グラハムも大戦中、情報活動に従事していた。(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979) ヘルムズがCIA長官だった時期にウォーターゲート事件が起こり、ワシントン・ポスト紙が「大統領の犯罪」を追及、デタント(緊張緩和)を打ち出していたリチャード・ニクソンを排除することに成功した。その時の社主はフィリップと結婚していたキャサリン・グラハム。世界銀行の初代総裁だったユージン・メイアーの娘だ。 同紙でこのスキャンダルを追いかけたのは若手記者のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインだが、バーンスタインは1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977) しかし、アメリカで報道統制が強化されるのはその後。ベトナム戦争でアメリカが敗北したのは国内で反戦運動のためだと好戦派は考え、運動を激しくした責任は戦場の実態を伝えるメディアにあると評価した。自立したジャーナリストは邪魔な存在だと支配層は考え、統制を強化していく。 先日、心臓発作で急死したウド・ウルフコテはドイツの有力紙、フランクフルター・アルゲマイネ紙(FAZ)の元編集者だが、彼によると、ジャーナリストとして過ごした25年の間に嘘を教わったことは、嘘をつき、裏切り、人びとに真実を知らせないこと。多くの国のジャーナリストがCIAに買収されているとしている。その結果、ヨーロッパの人びとはロシアとの戦争へと導かれ、引き返すことのできない地点にさしかかっていると考え、2014年2月にこの問題に関する本を出したという。 西側、特にアメリカの有力メディアを有り難がる「リベラル派」や「革新勢力」がいたとするなら、一種の「トロイの木馬」だと思った方が良いだろう。ラベルで騙すのはアメリカ支配層の得意技だ。 TPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)も巨大資本が国を支配する仕組みで、被支配階級、つまり大多数の人間から基本的な権利は奪われてしまう。フランクリン・ルーズベルトの定義によると、この仕組みはファシズムにほかならない。 1953年のイラン、54年のグアテマラ、60年のコンゴ、73年のチリは悪名高い。2003年にジョージア(グルジア)で実行されたバラ革命、2004年から05年にかけてウクライナで行われたオレンジ革命もそうだと言える。最近では2013年から14年にかけてネオ・ナチを使って成功させたウクライナのクーデター、アル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)を使ったリビアやシリアに対する軍事侵略も選挙結果の否定にほかならない。民主主義の破壊とも言える。アメリカの支配層は反民主主義なのだ。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201701270000/
アレン・ダレスやライマン・レムニッツァーと同じようにソ連を先制核攻撃しようと目論んでいたひとりがカーティス・ルメイ。この好戦派グループとケネディ大統領は対立、キューバ侵攻作戦ではアメリカ軍が軍事侵攻することを認めず、ミサイル危機を話し合いで解決する。つまり、ソ連を攻撃するチャンスを潰してしまった。 アメリカ軍がキューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するというストーリーのノースウッズ作戦も拒否した大統領はダレスをはじめとするCIA幹部を解任、レムニッツァーの議長再任を認めない。レムニッツァーはNATOを指揮するようになるが、NATOには秘密部隊が存在、イタリアやフランスで要人暗殺や擬装テロを繰り返すことになる。 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやルメイを含む好戦派は1963年の終わりにソ連を奇襲攻撃する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたのだが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。そして11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その翌年、日本政府はルメイに対し、勲一等旭日大綬章を授与している。 アメリカの支配層にとって核兵器は一貫して攻撃のためのもの。これが「抑止力」や「核の傘」の実態だ。守りという点から考えると沖縄に基地を集中させるのは得策でないが、使い捨ての出撃基地だと考えれば納得できる。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708070000/ 2017.09.27 イスラエルにコントロールされているイラクのクルドが「独立」すれば「第2のイスラエル」になる
イラクのクルド組織が「独立」を問う住民投票を実施、圧倒的な多数が賛成したようだ。アメリカに侵略されて破壊されたイラクの現状、投票の仕組みを考えれば当然の結果だろう。 圧倒的な多数が独立に賛成したという点はクリミアに似ているが、両者は決定的に違う。クリミアはキエフでネオ・ナチが成功させたクーデターに反対しての行動だったが、クルドの場合はアメリカやイスラエルの中東支配のために行動しているからだ。前者は侵略に反対してのことであり、後者は侵略の一環だ。クルドの独立国家ができたなら「第2のイスラエル」になる。 前にも書いたが、イラクのクルドは遅くとも1960年代からイスラエルの支配下にある。当時の指導者、ムラー・バルザニはイスラエルの情報機関、モサドのオフィサーになったとも言われている人物だが、その息子、マスード・バルザニは現在の指導者。イスラエルはクルドを支援する目的でクルドが盗掘した石油を買っている。 西側の政府や有力メディアはイスラエルの利益になる組織や人物は実態に関係なく、好意的に扱う。そのため、クルドも英雄的なおとぎ話の主人公として語られてきた。 21世紀だけでもイラクやシリアをはじめとする中東、リビアがある北アフリカ、ロシアに接したウクライナなどを侵略、破壊と殺戮を繰り広げてきたアメリカはイスラエルの強い影響下にある。議員の圧倒的多数はイスラエルの忠実な僕だ。 アメリカがイスラエルに逆らわなくなるのは1967年からだと言えるだろう。1963年11月22日に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領は生前、イスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいる。同国のダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディ大統領は送りつけているのだ。核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告していた。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007) それだけでなく、ケネディ大統領は「イスラエル建国」のために故郷を追われて難民化したパレスチナ人の苦境に同情、住んでいた家へ戻り、隣人と平和的に暮らす意思のある難民の帰還を認めた国連決議194号の履行を支持していた。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991) ケネディ暗殺を受け、副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは上院議員の時代から親イスラエルで知られ、そのスポンサーはイスラエルの建国や核兵器開発のスポンサーだった富豪のエイブ・フェインバーグ。ハリー・トルーマンのスポンサーでもあった。フェインバーグと並ぶイスラエルの後ろ盾と言える人物はフランスを拠点にしていたエドモンド・アドフル・ド・ロスチャイルド。そのシオニズム信仰は祖父譲りのようだ。 親イスラエルのジョンソンが大統領だった1967年6月8日、アメリカ海軍の情報収集戦、リバティがイスラエル軍に攻撃されている。乗組員のうち34名が死亡、171名が負傷しているが、イスラエル軍の執拗な攻撃は船を沈没させ、乗組員を皆殺しにすることが目的だった可能性がきわめて高い。 アメリカとイスラエルはこれを「誤爆」で処理したが、アメリカの艦船だと報告、命令に背いて攻撃しなかったイスラエル軍のパイロットは処罰されている。状況から考えてもアメリカの情報収集戦だということをわかった上での攻撃だった。 この攻撃で沈没を免れたリバティは壊された通信機器を修理、第6艦隊へ救援を要請、すぐに空母サラトガから複数の戦闘機が向かおうとしたのだが、艦隊司令官やホワイトハウスは引き返すように命令している。救援に向かうのはその約1時間後だった。 この時の遣り取りは近くにいたアメリカ海軍の潜水艦や上空を飛んでいた電子偵察機が記録していたが、命令でデータは破棄され、リバティの乗組員には沈黙が命じられた。そうした隠蔽工作の責任者だった人物はジョン・マケイン・ジュニア(ジョン・マケイン上院議員の父親)だ。 実は、攻撃の2カ月前、ジョンソン政権で秘密工作を統括していた303委員会がフロントレット 615という計画を始めている。イスラエル政府の一部と手を組み、アメリカ軍がエジプトとの戦争に介入する口実を作ることが目的だった。その一部、サイアナイド(シアン化合物)作戦でリバティを沈没させようとしたと言われている。 しかし、リバティを沈没させられず、生存者がいたことから作戦は破綻してしまった。もし、計画通り沈没させていたなら、ソ連とアメリカとの核戦争が始まっていただろう。イスラエルはアメリカ支配層の弱みを握ったとも言える。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709270000/ ▲△▽▼
2017.10.21 選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている 投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。 より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。 日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。 このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。 グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007) 言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。 第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。 日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。 比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年) このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。 1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。 そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。 日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/ ▲△▽▼
モンローの肉体を嘗めたユダヤ人 / ハリウッドに張られた蜘蛛の糸 (後編) ゴイム(異教徒)を妻にするユダヤ人 http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html
マリリン・モンロー http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/5/b/5b3787c8.jpg http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/1/d/1d4d7383.jpg
テレビ東京が2013年頃、朝の時間帯に昔懐かしい「奥様は魔女(Bewitched)」を再放送していた。綺麗なカラー映像に修正されたコメディー番組を観た方も多いんじゃないか。
このアメリカ・ドラマは元々、昭和40年代に放送されたシットコム・コメディーで、主役のサマンサを演じたエリザベス・モンゴメリー(Elizabeth V. Montgomery)とダーリン役を演じたディック・ヨーク(Dick York)は今でも有名だ。義母のエンドラを演じたアグネス・モアヘッド(Agnes Moorehead)も意地悪の魔女が板に付いていて、とても印象に残る女優であった。米国にはこういった雰囲気を醸し出す、憎いくらい上手な演技をする脇役がいるからすごい。人気ドラマ「ダイナスティー」のジョアン・コリンズ(Joan Collins)みたいな実力派がいるから、ややもすると緩みがちな連続ドラマが引き締まる。 ちなみに、今回「奥様は魔女」を調べてみたら、日本版も制作されていたそうで、人気女優の米倉涼子がサマンサ役を演じていたそうだ。知らなかった。まさか日本人バージョンがあったなんて。観てないから何とも言えないが、おそらく駄作なんじゃないか。日本人がアメリカドラマを模倣して成功した例は少ないだろう。 ドラマじゃないけど、以前に野口五郎がサンタナのヒット曲「スムーズ(Smooth)」を拝借し、「恋はメラメラ」という題にして唄っていた。サンタナのオリジナル版では、人気歌手のロブ・トーマス(Rob Thomas)を起用して素晴らしい出来だったが、野口五郎の方は一度聴けば恥ずかしくて耳を塞ぎたくなるほどの代物である。元曲をあれほど無惨にしたカヴァー曲も珍しい。 脇道に逸れたから話を戻すと、ドラマの中で美人妻を演じたエリザベス・モンゴメリーは、何とプロデューサーのウィリアム・アッシャー(William Asher)と結婚していたのだ。
彼はユダヤ人の父親とカトリック信徒の母親を持つユダヤ系アメリカ人だが、ユダヤ人支配のハリウッドでは一般的にユダヤ人制作者と見なされていた。 我々とってショックなのは、貞淑な妻を演じていたエリザベスが、私生活では同性愛者や妊娠中絶を支持する筋金入りの左翼活動家であったことだ。確かに、「奥様は魔女」の中にも人種差別を取り上げたエピソードがあって、黒人を対等に扱うサマンサの姿があった。今から思えば、1960年代後半から1970年代にかけて放送されていた番組だから、リベラル色が強くてもしょうがないと考えられるが、「奥様は左翼だった」じゃ笑えない。 それにしても、売れっ子女優がユダヤ人プロデューサーと結婚するなんて、いかにもハリウッドらしい現象である。もし、彼女が一般人女性のままだったら、ユダヤ人と結婚せずに普通の白人男性と結婚していたんじゃないか。 こんな異人種間結婚を見ているから、ユダヤ人に警戒心を抱く西歐系白人や、藝能界に入りたがる娘を叱る親がいるのだろう。仔羊を狼の群れに解き放つようなものだから、まともな親が反対するのも無理はない。それに、生まれてくる孫がユダヤ人の血統なんて考えただけでも恐ろしい。 左: エリザベス・モンゴメリー http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/a/ca119a9f.jpg
中央: ウィリアム・アッシャー http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/d/7/d7e46652.jpg 右: 「奥様は魔女」 http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/6/0/603cc28b.jpg マリリン・モンローを取り巻くユダヤ人
ユダヤ人がうじゃうじゃいるハリウッド村は、藝能界というより匪賊や傭兵がたむろする無法地帯と考えた方が的確である。こんな蟻地獄に入って行く若者が跡を断たないんだから、エンターテイメント業界は麻薬に満ちた魔界と呼んでもいい。 米国史の中でも輝かしい1960年代、後世に名を残すこととなった人気女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)も、ユダヤ人の魔の手に落ちた悲惨な一例であった。 父親は不明だが、グレイディス・パール・ベイカー(Gladys Pearl Baker)の娘として生まれた、ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jean Baker)は、義父の「モンロー」姓をつけて藝能界にデビューした。 彼女はラルフ・グリーンソン(Ralph Greenson/ 本名Romeo Greenschpoon)という名うてのユダヤ人を自分の精神科医として雇っていた。このユダヤ人はモンローが自殺した時のセラピストであった。彼はマリリンの精神を安定させるために、過度な薬物治療を行っていたらしい。何かマイケル・ジャクソンに「プロポフォル(propofol)」を過剰投与したコンラッド・マレー(Conrad Murray)医師を思い出してしまう。 こんな麻酔薬(鎮静薬)を個人の邸宅で与えてしまうなんて信じられないが、アメリカという異常な国では非常識が罷り通る。たぶん、グリーンソンも自信満々の医師で、どんどん睡眠導入剤や鎮静剤をマリリンに与えていたのだろう。彼女の友人が証言していたが、マリリンはグリーンソンに会えば会うほど衰弱していったそうだ。 マリリンの周りには矢鱈とユダヤ人が多かった。グリーンソンの妹エリザベスは、ユダヤ人ミルトン・ミッキー・ラディン(Milton “Mickey ” Rudin)と結婚しており、そのラディンは有力な人脈を持ち、エンターテイメント業界で活躍する法律家であった。そして、彼はマリリンの顧問弁護士も務めていたのである。彼女と昵懇の出版業者アーサー・ジェイコブズ(Arthur Jacobs)や、娯楽企業のMCAで彼女のエージェントを務めるジェイ・カンター(Jay Kantor)とモート・ヴィナー(Mort Viner)もユダヤ人だった。
出演作でもユダヤ人監督に重宝されており、「七年目の浮気」や「お熱いのがお好き」ではビリー・ワイルダー(Billy Wilder)が監督だったことは有名だ。「恋をしましょう」だとジョージ・クコー(George Cukor)が監督で、「帰らざる河」ではオットー・プレミンジャー(Otto Preminger)が総指揮を執っていた。マリリンの個人マネージャーのナターシャ・ライテス(Natasha Lytess)もユダヤ人で、いつも一緒にいたから、二人はレズビアンの関係か、と疑われるくらいだった。また、ユダヤ人写真家のミルトン・グリーン(Milton Greene)も、マリリンのマネージャーになって親しく付き合っていたから、彼女との仲を噂にする者もいたという。 売春の伝統が根強い韓国では、体で仕事を取る藝能人が多いそうで、悲惨な運命を辿った女性も少なくない。
我が国の藝能界でも所謂「枕営業」があるそうで、さほど人気のない女性藝人は、演技力や歌唱力よりも、有力制作者とか大御所に体を提供して、望む仕事を獲得するらしい。 マリリン・モンローも名声と幸運を摑むために、誰彼となくベッドを共にしたという。 ユダヤ人が跋扈(ばっこ)するハリウッドだから、マリリンが「春」を売った相手も当然ユダヤ人だった。ユダヤ人のテッド・ジョーダンによると、マリリンはキャリアを進展させる為なら誰とでも寝たそうだ。 (Ted Jordan, Norma Jean: My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.121) また、アンソニー・サマーズ(Anthony Summers)によれば、彼女がフォックス社と最初のコンタクトを持った時、そのキーパーソンはベン・リヨン(Ben Lyon)で、彼もマリリンと性的関係を持っていたらしい。シェイラ・グラハム(Sheila Graham)も、マリリンが未来のキャリアの為にリヨンと寝たことを述べている。 マリリンの肉体を堪能したリヨンは、キャスティング・ディレクターのソル・ウルツェル(Sol Wurtzel)を呼びつけ、「デインジャラス・イヤーズ」という1947の映画で使ってやれと命じ、マリリンはちょっとした脇役を与えられたという。何とも生々しい裏話だが、藝能界って多かれ少なかれ、こんな横槍が入ってくる。 大物プロデューサーがいきなり素人の小娘をドラマに押し込んだり、ニュース番組の「お天気お姉さん」に任命したり、とやりたい放題の横暴をはたらく。周りのスタッフは大迷惑だけど、有力者に睨まれたら自分の出世が危なくなるから、長いものに巻かれてしまうのだ。 視聴者だって、あまり人気のない女優がどこからともなく新ドラマに抜擢されるから、「どうしてこんな女優が、いきなり重要キャストに抜擢されたんだ?」と訝(いぶか)しく思うだろう。でも、「大人の事情」が絡んでいるから仕方がない。 中央: ナターシャ・ライテスとマリリン・モンロー http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/b/7/b74f99ba.jpg
「美女と野獣」という映画があったけど、美女のマリリンに群がる野獣は本当に多かった。
被服業界の大御所たるヘンリー・ローゼンフェルド(Henry Rosenfeld)も、白くて美しい肌を嘗(な)めた薄汚いユダヤ人の一人だった。彼はアトランティック・シティーにある自宅にマリリンを招き、自分のスピード・ボートに乗せて、甘い一晩を過ごしたそうだ。 マリリンは映画業界で顔が利く、悪名高いユダヤ人ギャングのバグジー・シーゲル(Bugsy Siegel)とも寝ていたらしい。彼の伝記は映画化されたので、このシーゲルについて知っている日本人もたくさんいるんじゃないか。日本もそうだが、藝能界と暴力団は裏で繋がっているから、堅気の人間が毛嫌いするのも分かる気がする。 マリリンのセックス・ライフは10代の頃から既に始まっており、17歳の時にはテッド・ジョーダン(Ted Jordan / 本名 Edward Friedman)と交際していて、彼は後に『ノーマ・ジーン』という本を書いて、マリリンとの性生活を暴露していた。
このジョーダンにはテッド・ルイス(Ted Lewis / 本名 Theodore Leopold Friedman)というミュージシャンの叔父がいて、マリリンはこのルイスとも寝ていたというのだ。彼女が麻薬を覚えたのは、このルイスからであった。本当に腐った奴らである。 後に有名女優となる野心家のノーマ・ジーンは、のし上がるためには何でもすると心に決めており、ジョーダンにも、誰とでもセックスをするし、その心構えもできている、と語っていたそうだ。 そこで有言実行のマリリンは、著名なゴシップ・コラムニストで、ユダヤ人のウォルター・ウィンチェル(Walter Winchell)と寝たらしい。しかし、一介のコラムニストと性交したくらいでは、ハリウッドで大女優にはなれない。 まだ無名のマリリンはコロンビア・ピクチャーズのハリー・コーン(Harry Cohn)社長に近づいた。「またユダヤ人か !」とウンザリするが、映画会社の社長や重役にはユダヤ人が多いからしょうがない。 このユダヤ人社長はマリリンを自分のヨットに乗せ、夜のクルージングに誘ったそうだ。美しい獲物を捕まえたコーンは、マリリンに向かって服を脱げ、と命じたという。彼女は言わるままに服をぬぎ始めた。すると、あろうことか、この助平ユダヤ人は、自分のペニスを握りながら彼女に近寄ってきたのだ。 大抵の女性なら、「えっぇぇ!! 何 ! 嫌だ!!!」と真っ青になって叫ぶだろう。マリリンも同じで、彼女はコーンを拒絶したそうだ。そりゃそうだろう。こんな変態ユダヤ人とセックスするなんて、どこか精神が異常じゃないとできない。 マリリンに肘鉄を食らったコーンは、とても激怒したそうで、マリリンは「あんなに怒った人を見たことがない」、と語っていたそうだ。 (Ted Jordan, Norma Jean : My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.91) 左: マリリン http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/2/d/2d1a6171.jpg
自分のペニスを握って近寄ってくるユダヤ人なんて、想像しただけでも背筋に戦慄が走る。いくら出世のためとはいえ、マリリンの眼に映る発情したコーンの姿は、余りにも酷かったのだろう。若い娘なら当然である。
しかし、権力者を怒らせたマリリンは、コーンからの報復を受けた。彼女はコロンビアの撮影所に出入りすることを禁じられたそうである。かつて、マリリンは藝能界の実情を語っていた。 プロデューサーが女優に台本に関して話があるからオフィスに来いという時があるでしょう。でもね、それは台本の打ち合わせじゃないのよ。・・・私はプロデューサーたちと寝たわ。もし、寝ていないと言ったら嘘になるもの。 1955年に20世紀フォックス社と大きな契約を結んだ時、彼女はようやく不動の地位を手にした女優になれた。そして、マリリンはこう呟いたという。 「私はもう二度と、あいつ等のペニスをしゃぶらないわ」、と。 マリリンは年を重ねる毎に反ユダヤ的感情が募ったようで、大御所のジョー・シェンク(Joe Schenck)のことを「あの糞ユダ公(that Jew shit)」と呼んでいたらしい。他のハリウッド・ユダヤ人に対しても、「あのユダ公 ! とか、このユダ公 !」と罵っていたようだ。しかし、彼女は後にユダヤ教に改宗するが、この反ユダヤ感情は妨げにならなかったらしい。やはり、女優の頭はどこか普通と違うのだろう。 中央と右: マリリン・モンロー http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/0/4/04566c8d.jpg http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/4/4/44f8de69.jpg
マリリンは性的に弄ばれていたが、政治的にも利用されていたようだ。精神科医のラルフ・グリーンソンは、彼女の指導者みたいな身分になっていたが、彼には別の顔があった。このユダヤ人は積極的な共産党員で、コミンテルンにも係わっていたという。そして、彼の妹エリザベスの証言によれば、兄のラルフは熱心なシオニストで、イスラエルとの太いパイプを持っていたそうだ。
まったく、ユダヤ人のコミュニストって本当に多いんだから嫌になる。かつて、ハリウッドの共産主義者をあぶり出す「赤狩り」が行われたけど、真っ赤なユダヤ人の映画監督や脚本家、プロデューサーなどが至る所にいたから、保守派のアメリカ人が怪しんだのも当然である。 よく知られているのは、左派が多数を占めるユダヤ人に対するチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)の警告である。この「アメリカ第一主義」を掲げる大空の英雄はこう述べた。 ユダヤ人は我が国にとって最大の脅威である。彼らは我々の映画界、出版界、ラジオ局で広範囲な所有権を持ち、我々の政府において絶大な影響力を行使しているのだ。 (Harold Brackman, The Attack on “Jewish Hollywood”: A Chapter in the History of Modern American Anti-Semitism, Modern Judaism, Vol. 20 , 2000,p.5.) ユダヤ人の害悪については、リンドバーグのみならず、他の議員も警戒心を強めていた。例えば、ミュズーリ州選出のジョン・ランキン(John Rankin)下院議員は、ユダヤ人が合衆国政府の転覆を狙った最大の陰謀の一つに責任がある、までと述べていたのである。また、彼は大胆さを以て、米国においてユダヤ人は反政府活動の温床である、と喝破していたのだ。 現在の政治家なら絶対に口に出来ぬ発言である。しかし、当時のアメリカには、まだ言論の自由が残されていた。保守派のアメリカ人が1950年代を懐かしんだのも理解できよう。 ついでに言えば、マリリンと結婚した三番目の夫アーサー・ミラー(Arthur Miller)は、ユダヤ人の劇作家であったが、これまたハリウッドのユダヤ人らしく極左活動家で、黒人に対する人種差別に反対し、労働活動にも熱心に係わっていた人物である。彼も真っ赤なユダヤ人仲間を持っていたので、反共の闘士ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)議員に目を附けられていた。彼は下院の反アメリカ活動調査委員会に召喚されたことがあるが、仲間を裏切ることを拒否し、断じて口を割らなかったという。ユダヤ人にとったら、愛国心よりも同胞愛の方が大切だからねぇ。 マリリンがセックスした中で最も権力を持っていた男と言えば、やはりジョン・F・ケネディー大統領だろう。
大統領と姦通したマリリンがもたらす寝物語は、グリーソソンにとって貴重な情報源となったはずだ。いくら大統領とはいえ、惚れた女とベッドを共にすれば、何てことはない雑談の中で、国家機密に繋がる重要な情報を漏らすことだってあり得る。当時は冷戦真っ只中。合衆国大統領がどんな考えなのかを直に知る絶好の機会だ。 特に、コミュニストのグリーンソンは、ソ連やキューバに対する外交方針や、イスラエルに関する大統領の考えを知りたかったはず。だから、セラピストのグリーンソンに何でも打ち明ける、警戒心が全く無いマリリンは「便利な馬鹿(useful idiot)」だった。 大女優になっても精神的に不安を抱えるマリリンは、何でも医者に頼る癖がついていたという。当時のハリウッドでは、リー・シュトラスバーグ(Lee Strasberg)という精神分析医が非常に持て囃されていた。大物俳優といえども、人には言えぬ悩みを抱えているだろうから、誰かしら相談役になる人が必要だったのであろう。だから、こうした弱点を持つ有名人を食い物にするセラピストがいたのも当然で、こうした悪徳医は患者にとっての「神」を演じていたのである。 自分の判断一つで大女優や二枚目男優を操ることができたから嬉しくてたまらない。名優のマーロン・ブランドーには、ベラ・ミッテルマンという精神科医がついていたが、ブランドーはシュトラスバーグについても述べていた。ブランドーの評価では、シュトラスバーグは俳優が集まるスタジオに来る人々を餌食にする冷血漢であったという。しかも、相当な野心家で自分勝手ときている。 彼は自分自身を、まるで神託を告げる司祭か、新興宗教の教祖のように思っていたらしい。彼にたぶらかされた人々は、シュトラスバーグをラビ(ユダヤ教の教師)の如く崇めていたという。ところが、マリリンはこんな類いの精神科医に傾いていたのだ。 日本でもよく藝人が、怪しい霊媒師とか占い師に嵌まることがあるけど、アメリカでも似たような事が多い。マリリンはフロイトの精神分析にも興味を示したそうで、彼女は実際フロイドの娘アンナ・フロイトにロンドンで会っていた。彼女の診断でも、マリリンは相当精神を病んでいたらしい。 左: マーロン・ブランドー http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/e/a/eaa5c4c1.jpg
右: マリリン http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/1/2/12723b9c.jpg 精神的に不安定なマリリンだったから、薬の過剰摂取で死亡したのだろう。だが、彼女はある意味、主治医のハイマン・エンゲルバーグ(Hyman Engelberg)とセラピストのラルフ・グリーソンに殺されたようなものだ。グリーンソンは助手に鎮静剤の投与を指示していたのだ。しかし、投与されたバルビツール酸系薬が多すぎたため、マリリンは副作用を起こして心不全となり、若くしてこの世を去ることになった。助手からの報告を受けたグリーンソンが、彼女の部屋に駆けつけた時には、既にマリリンは死亡していたという。 後に、色々な陰謀説が囁かれたが、実際は薬物中毒による死亡である。それにしても、哀れな最期だ。おぞましい枕営業を経て、大女優への道を駆け上ったのに、その栄光を味わう精神が衰弱していたのとは。 華やかな藝能生活を送っていた人気女優が、裏では薬漬けの日々を送っていたのだ。何の苦労だったのか分からなくなる。 右: マリリンとジョー・ディマジオ http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/0/b/0bc4617d.jpg
何はともあれ、マリリンの人生には色々な男がいた。映画界の大物やマフィアのギャングと寝ていたかと思えば、野球選手のジョー・ディマジオと再婚したり、はたまたフランク・シナトラと浮き名を流したり、と寄り添う男の幅が広い。
中でも、ジョン・F・ケネディーとロバート・ケネディーとのダブル不倫は有名だ。 英雄は色を好むと言うが、このケネディー兄弟は異常である。 世間はハーバード大卒の爽やかな紳士と評するが、一皮剝けば下半身がだらしないアイリス系移民の倅(せがれ)たちである。兄が肉体関係を結んだ女に、弟も手をつけるなんて、恥知らずというか変態に近い。 一方、マリリンにも倫理観がこれっぽっちも無かった。女房や子供を持つ男と姦通しても平気なんだから。これではユダヤ人たちがマリリンのことを「シクサ(Shiksa)」、則ち「穢れたケダモノ」と呼んでも致し方ないじゃないか。 マリリンからすれば、男を踏み台にして出世したつもりだろうが、セックス相手からすれば、精液を噴射できる共同便所に過ぎない。 ただ、ユダヤ人に蔑まれながらも、ユダヤ人のアーサー・ミラーが結婚してくれたんだから、これだけでも彼女にとって救いになる。たぶん、ミラーは本気で彼女のことを愛していたのだろう。 ただし、ミラーがマリリンのことを「トロフィー・ワイフ」と見なしていたら残念だ。仮に、そうであっても仕方がない面もある。冴えない容姿のユダヤ人作家が、世間が持て囃す金髪美女を手に入れたのだ。親戚や友人に自慢したくなるのも無理はない。三番目の旦那なんだから、マリリンだって贅沢な要求はできないだろう。 凌辱される同胞の女性
マリリン・モンローが送った波瀾万丈の人生は、多くの事を我々に教えてくれる。 まづ、藝能界はヤクザの世界、ということだ。堅気の娘が足を踏み入れる職場ではない。 ハリウッドは賤しいユダヤ移民が築き上げた悖徳の帝國で、当初はアメリカ白人に媚びて映画界の社会的イメージを向上させたが、一旦巨大な帝國が出来上がれば、そこに飛び込んでくる白人娘を娼婦と見なした。 憧れのハリウッドに旅立つ女優の卵は、狼の群れに迷い込むひよこと同じだ。 映画での配役を獲得すべく、ユダヤ人達に“輪姦”されても、必要経費としか考えない。娘の藝能界入りを許した両親は、娘が裏で凌辱されている事に気づかないんだから、まさに「知らぬが仏」だ。 日本人の親も充分認識すべき現実である。娘がモデルとかアイドル、女優になりたいと言い出し、それを許すなら、可愛い娘を穢らわしいヤクザや下劣な朝鮮人どもへ「生け贄」として差し出した、と諦めるべきだ。 左: 桃井かおり http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/1/e/1e16a122.jpg
右: 「エロスの甘き香り」 http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/9/c96ff750.jpg ちょっと痛ましい話になるけど、女優の桃井かおりには国際政治学者の桃井眞(ももい・まこと)がいた。1991年に起きた湾岸戦争の時、報道番組に出演していたのを覚えている方もいるだろう。桃井かおりは少女時代、英国にバレー留学していたことがあり、どうも可愛い孫娘が立派なバレリーナになるようと、バレリーナの祖母が望んだらしかった。父親の真は娘をたいそう可愛がったようで、まさしく箱入り娘として育てたらしい。しかし、白人ばかりのバレー教室に通っていたかおりは、黄色いアジア人ということで劣等感を抱き、バレリーナになる夢を断念する。
帰国したかおりは演劇を始め、親に内緒で女優になっていた。一時は勘当されたこともあったそうだ。父親が女優業に反対したのも当然であろう。とりわけ、出演した映画の中にエロ作品があったからもう大変。映画ファンならロマン・ポルノ作品の「エロスは甘き香り」や、70年代らしい「けだるさ」を表現した「もう頬づえはつかない」をご存知だろう。 大切に育てた娘が、見知らぬ男と裸でからむベッドシーンを見て、父親の桃井眞はどんな気持ちだったのか? もしかしたら、劇場へは行っていないのかも。そもそも、娘の裸を銀幕で見たいと思う父親はいないだろう。だって、相手の男優が娘の肌を嘗めたり、乳房を揉んでいるんだぞ。怒りと悲しみで胸が張り裂けてもおかしくはない。映画を観る以前に、涙がこぼれてくるじゃないか。 右: 「もう頬づえはつかない」の桃井かおり http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/3/9/39b00080.jpg
若い娘を凌辱するユダヤ人はトンデモないが、それを平然と行うユダヤ人の心情とは如何なるものなのか? 一番考えられるのは、欲望剝き出しの世俗主義者という点だ。 純情な白人娘を裸にすれば、大金が儲かるからドンドン淫乱な映画を作るのは分かる。だが、その根底には、西歐社会への憎悪が漲っているのだろう。 ユダヤ人にしてみたら、アメリカ社会は西歐白人が作ったもので、彼らの祖先が築いたものではない。米国は散々ユダヤ人をイジメてきた西歐人が建てた国家であるから、彼らの倫理観や価値観、伝統文化をを守る必要性はどこにも無いのだ。 キリスト教徒が仲間の女性に求める貞操観念や立居振舞い、女性らしさ、気高さなんて、むさ苦しい生活を送ってきたユダヤ人にとって、何の意味も無いし、犬の糞みたいに踏み潰しても気にならない。むしろ、踏み潰すことに快感を覚える。 興味深いことに、ユダヤ人の監督や脚本家は、喜んでキリスト教徒の家庭を愚弄するが、ユダヤ教徒の家庭や価値観を馬鹿にすることは滅多にない。 キリスト教徒の西歐系アメリカ人であれば、「そんなに伝統的価値観を毀したいなら、まづ最初に因習的なユダヤ人社会をターゲットにしたらどうか」と提案したくなる。なぜなら、男尊女卑で人種差別の激しいユダヤ人コミュニティーには、リベラル派のユダヤ人が攻撃したくなるような材料がごまんとあるからだ。わざわざ異教徒(ゴイム)たる西歐キリスト教徒に、その矛先を向けていないで、身近な同胞のコミュニティーを批判する方が先じゃないのか。 「社会正義」をふりかざす赤いユダヤ人は、普通に黒人を「黒いケダモノ」と呼ぶユダヤ人のオバちゃんを非難しろ。 中央: ユダヤ人女性 http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/7/8/78fba827.jpg
右: ユダヤ人男性 http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/d/cd348aaf.jpg 米国のユダヤ人を見れば、いかに異人種と共存することが危険であるか、が判るだろう。
現在のアメリカでは同性愛者を擁護したり、黒人を礼讃するTVドラマが着々と作られている。すでに長いこと左翼作品が日常にしっかりと組み込まれているから、一般人はもはやその異常性を不思議と感じないのだ。 日本でも藝能界やマスコミに朝鮮人や支那人が浸透し、正常な日本人の精神を歪めている。 そして、藝能界に魅せられた少女たちが、どんどん卑劣な連中に犯され、それが表面に浮き出で問題になることはない。暴露される前に握り潰されるからだ。 ヤクザ的な藝能関係者やアジア系の大物にとって、日本人娘の肉体は、どれほど侮辱しても構わない肉の塊だ。みんなで廻して凌辱すれば、「あの淫売女め !」と酒場で笑い罵ることができ、ますます酒が旨くなる。大日本帝國に支配された朝鮮人にしたら、祖国の同胞が成し遂げられなかった復讐を、個人レベルで果たしたことになるだろう。 そして、日本人の女を性的に従属させることは、被征服民にとって勝者の証となる。ユダヤ人に加え支那人、朝鮮人といったアジア人に対抗できない気弱な民族は、徹底的に打ちのめされるまで被害に気づかない。毎回言うけれど、後悔が先に立ったことはないんだぞ。 http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html ▲△▽▼ 2017.10.22 JFK暗殺に関する資料を公開する意思をトランプ大統領は示したが、重要証拠は処分済みの可能性 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710210000/
1963年11月22日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する未公表の資料を10月26日までに公開する方針をドナルド・トランプ大統領は示した。1992年10月26日に発効したJFK記録法は25年のうちに公開することを求めている。 暗殺直後に設置されたウォーレン委員会はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だとしているが、この結論を信じていない人は少なくない。重要な証拠や証言が改竄、隠蔽、あるいは処分され、非論理的な説明がなされているからだ。そうした批判の声はすぐに広まり、それを押さえ込むために使われ始めた「呪文」が「謀略論」だ。支配層にとって都合の悪い事実、指摘、分析などが出てくるとこの呪文が連発される。 しかし、ケネディ大統領の公式見解に対して疑問を表明する人は後を絶たず、1991年に公開されたオリバー・ストーン監督の映画『JFK』は話題になった。この映画がJFK記録法を成立させた大きな理由だ。 この映画の主人公はニューオリンズの地方検事だったジム・ギャリソンがモデル。大統領暗殺に絡み、ギャリソンは1969年に実業家のクレイ・ショーを逮捕、起訴するが、その理由はショーが重役を務めていたパーミンデックスという会社にメスを入れたかったからだと見られている。 ウォーレン委員会が犯人だとしているオズワルドは厚木基地での任務を終えた後、カリフォルニア州のエル・トロ基地でロシア語の試験を受けて不合格になり、1959年9月に名誉除隊、イギリスを経由してフィンランドのヘルシンキにあるホテルへチェックインしているが、この間、軍用機を使ったと推測する人もいる。民間航空を利用すると、日程的に無理があるからだ。そしてフィンランドからソ連へ入る。オズワルドがヨーロッパへ渡る際のチケットを買った会社がインターナショナル・トレード・マートで、その理事にショーが含まれている。ショーはサントロ・モンディアール・コメルシアールやパーミンデックスの理事でもあった。 サントロはイタリアにおける反コミュニスト工作に協力、パーミンデックスはアルジェリアの独立に反対するフランスの軍人グループへ資金を供給していたとイタリアでは報道されている。 その軍人グループとは1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)。イタリア政府もサントロとパーミンデックスを危険な存在だと認識、1962年に国外へ追放する。両者は本部をヨハネスブルクへ移動させた。(Jim Garrison, “On The Trail Of The Assassins”, Sheridan Square Press, 1988) パーミンデックスがスイスで設立された当時の社長兼会長、ルイス・モーティマー・ブルームフィールドはイギリスの破壊工作機関SOE(特殊作戦執行部)の出身。第2次世界大戦後、SOEは対外情報機関MI6に吸収される。MI6とSOEはアメリカの情報活動や破壊活動の師匠的な存在の機関だ。ブルームスフィールドはカナダでシオニスト運動を指導していたとも言われている。 ケネディ大統領の暗殺を調べたウォーレン委員会は委員長がアール・ウォーレン判事、そのほかのメンバーはウォール街の弁護士で大戦後には高等弁務官としてナチスの幹部を保護していたジョン・マックロイ、やはりウォール街の弁護士で大戦中から戦後にかけて破壊活動を統括、CIA長官にもなったアレン・ダレス、FBIと関係の深いジェラルド・フォードも含まれていた。暗殺直後の週末、ダレスはバージニア州にあるCIAの極秘施設、ファームに身を潜めていたという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015) オズワルドの単独犯行説を支持していたのはマックロイ、ダレス、フォードの3人で、3人の議員は疑問を持っていた。そのうちのひとり、ヘイル・ボッグス下院議員はCIAと関係が深く、当初は単独犯行説を支持していたのだが、途中で見方を変えている。このボッグス議員はアラスカで飛行中、行方不明になった。 この暗殺では多くの証人や関係者が死亡しているが、そのひとりがマリー・ピンチョット・メーヤー。後にCIAの秘密工作に深く関与することになるコード・メーヤーと結婚、離婚した後にケネディ大統領と愛人関係になったことで知られている。妹はニュウーズウィークの幹部編集者だったアントワネット・ピンチョット・ブラドリーと、大学時代からの親友はアレン・ダレスの側近で破壊活動でも名前が出てくるジェームズ・アングルトンとそれぞれ結婚している。 マリーは機密情報を知りうる立場にいたのだが、ウォーレン委員会が報告書を出した3週間後の1964年10月12日に散歩中、射殺された。ハーバード大学で心理学を教えていたティモシー・リアリーによると、「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」とマリーは語っていたという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983) ケネディ大統領の暗殺はシャルル・ド・ゴール暗殺未遂、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディの暗殺にもつながっている可能性が高く、事実が明らかになるとひとりの暗殺に関する話では済まなくなるだろう。 当然、重要な証拠は廃棄済みで、証人も消えてしまった。マインド・コントロールを目的としたMKウルトラ、キューバへアメリカ軍が直接軍事侵攻、さらにソ連との核戦争を視野に入れていた偽旗作戦のノースウッズ、イスラエル軍がアメリカの情報収集戦リバティを攻撃して多くの死傷者を出した事件などでは証拠が廃棄されている。出てくる資料は廃棄し損なったものだけだ。ケネディ大統領暗殺も似たような状況だろうが、それでも全資料の開示は重要だ。 ▲△▽▼
ケネディ暗殺文書、全面公開せず 米情報機関が延期要請 2017年10月27日 07時56分
【ワシントン共同】トランプ米大統領は26日、これまで非公開だった1963年のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する機密文書のうち約2800件の公開を許可した。残る一部は非公開のままで、今後180日間で公開の是非を検討する。 トランプ氏は、ケネディ暗殺関連の記録について全面公開する方針を表明していた。しかし政府当局者は中央情報局(CIA)など情報機関から公開延期の要請があり、トランプ氏が安全保障上の理由で受け入れたとしている。 ▲△▽▼ マリリン・モンローから19歳のインターンまで、ケネディが流した浮名 2013年11月18日 13:45 発信地:ワシントンD.C./米国 http://www.afpbb.com/articles/-/3003473
【11月18日 AFP】ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領は多くの魅力的な女性に囲まれていた。妻のジャクリーン(ジャッキー、Jacqueline Kennedy)はもちろん、大統領就任を後押しした母親のローズ。それから映画スターに、ホワイトハウスで働く10代のインターン、マフィアと関係のある女性……。
50年前に暗殺されたケネディが、多くの女性たちと複雑な関係にあったことに疑いの余地はない。 彼がこうした女性たちを、大統領に上りつめ権力を維持するうえで助けになる人物として大切にしてきたのか。あるいは自分の旺盛な性欲を満たすために、彼女たちをもて遊んだだけなのだろうか。 「ケースバイケースだ」と言うのは、10月に『The Kennedy Half-Century: The Presidency, Assassination and Lasting Legacy of John F. Kennedy(ケネディ半世紀)』を上梓し、ベストセラー作家となったラリー・サバト(Larry Sabato)氏だ。 「JFKは、力や影響力のある人々に対しては上品で礼儀正しく振る舞った。だが彼の性欲は飽くことがなかった。今日で言うなら、彼は若く美しい女性を性の対象として扱っていたのだ」と、バージニア大学(University of Virginia)政治学センターのセンター長も務めるサバト氏はAFPに語った。 ケネディの人生の中心にいたのは、妻のジャッキーだ。旧姓ジャクリーン・ブーヴィエ(Jacqueline Bouvier)は1929年7月、裕福な家庭に生まれた。彼女の洗練されたファッションスタイルには、世界中が注目した。 ケネディがテキサス(Texas)州ダラス(Dallas)で暗殺されたとき、ジャッキーはあのオープンカーで彼の隣に座っていた。その後の数時間、彼女が夫の血が飛び散ったシャネルのピンクのスーツを着替えることを拒んだのは有名な話だ。「犯人たちがジャックに何をしたのか見せてやりたい」と、彼女は言った。 ケネディ家は現代アメリカの恵まれた家庭を象徴するイメージを世間に与え続けたが、大統領のプライベートは愛人に囲まれた生活だった。 最も有名なのは女優のマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)だ。ハリウッドのセックスシンボルは、1962年の民主党の資金集めパーティーで、色気たっぷりに「ハッピーバースデー」を歌った。誕生日を祝ってもらったケネディは喜びを隠さなかった。 今年8月に出版された『These Precious Few Days: The Final Year of Jack with Jackie(貴重な数日間:ジャックとジャッキーの最後の年)』の著者でジャーナリストのクリストファー・アンダーソン(Christopher Andersen)氏によれば、ジャッキーは2人の関係を知っていただけではなく、モンローに夫を譲ってあげると告げたという。 「あなたがホワイトハウスに入って、ファーストレディーとしての責務を負って、すべての問題を抱えればいいのよ」と、ジャッキーはモンローに語ったといわれる。モンローは1962年8月、薬物の過剰投与で亡くなった。 ジャッキーの言う「問題」には、ジュディス・キャンベル・エクスナー(Judith Campbell Exner)のことも含まれていたかもしれない。彼女がケネディと2年間、熱い関係にあったことは、歴史家たちも認めるところだ。 ホワイトハウスのインターンだったミミ・ビアーズリー(Mimi Beardsley)の場合は、ケネディに言い寄られたときはまだ19歳だった。彼女が言うには、男性と性的関係を持ったのはケネディが最初で、初めてのセックスはケネディ夫妻の寝室だった。その後、2人は大統領のバスタブでアヒルのおもちゃで遊ぶほど親しくなる。2人の関係は1年半続いた。 「後悔していない。私は若かったし、誘惑された。その事実は変えられない」と、彼女は2012年に出した回顧録で記している。 ケネディがいったい何人の売春婦を雇ったのかは誰にもわからない。だが護衛たちが、ソ連との核戦争前夜ともいわれた時代に、スパイ行為や脅迫を恐れるに足る人数だったことは確かだ。 「彼はときに、少し問題がある女性をそばに置こうとする傾向があった」と、ケネディの護衛を務めていたアンソニー・シャーマン(Anthony Sherman)氏は1997年にABCテレビのドキュメンタリー番組で語っている。素性が怪しい女性たちだ。 サバト氏も、「JFKは大統領職と家族を何度も危機にさらした。外国の諜報機関が彼の問題行動について何らかの情報を得ていたのは、ほぼ確実だ」と語っている。 母親のローズ・ケネディ(Rose Kennedy)が息子の女遊びを知っていたのは間違いない。彼女もジャッキーと同じく、夫の数々の浮気に耐えた女性だ。実業家で大使も務めたケネディの父親ジョセフ(Joseph Kennedy)は、1920年代に当時の映画スター、グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)と3年間、愛人関係にあった。それは、まるで40年後のケネディとモンローを予兆させるような関係だった。(c)AFP/Robert MACPHERSON ▲△▽▼
ケネディ暗殺 2017年10月28日 Paul Craig Roberts http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-d9a4.html
読者の皆様、皆様の中には、ラスヴェガス銃乱射事件について、更に続きをという方がおられるが、ケネディ大統領暗殺に関するファイル公開をどう解釈するべきか知りたいという方々もおられる。読者の皆様が、公式説明に関心をお持ちで、公式説明にあきたりないことを嬉しく思っている。 ジェームズ・W・ダグラスの『JFK and the Unspeakable』(サイモン & シャスター、2008年)などの徹底的に調査した書籍のおかげで、我々は既に、公開されたファイルより遥かに多くのことを知っているというのが私の答えだ。 我々が何を知っていようと、あるいは、事実が何であろうと無関係に、公式説明は決して変えないというのが私の答えだ。例えば、イスラエルが意図的にアメリカ艦船リバティー号を攻撃し、アメリカ海軍要員に膨大な死傷者をもたらしたという全く疑う余地がない事実を我々は知っているが、元海軍作戦部長で、統合参謀本部議長だったトーマス・モーラー海軍大将が率いたモーラー委員会による実に明快な反対の発言にもかかわらず、全て間違いだったといって、アメリカ政府は、隠蔽し続けている。 友好国を敵に変え、核のハルマゲドンの危険を新たにするウソと対ロシア非難の絶え間ない流れのような進行中の陰謀を防ぐのに時間を使った方が、賢明なのではないかというのも私の答えだ。実際、現代最大の陰謀論は、軍安保複合体と民主党全国委員会と売女マスコミが放っている、ロシアがドナルド・トランプと共謀して、アメリカ大統領選挙を乗っ取ったという説だ。 ロシア政府は、これがウソだと知っており、裏付ける一片の証拠も無しに、今や丸一年、ウソが果てし無く繰り返されているのを見れば、ロシア政府は当然、ワシントンは、アメリカ人を戦争に備えさせていると結論する。ワシントンの意図に対するロシアの信頼を破壊すること以上に、無謀で無責任な行為を私は想像できなき。プーチンが言った通り、人生で彼が学んだ大事な教訓は“もし戦いが避けられないのであれば、先に攻撃することだ。” ケネディ大統領を、一体誰が、一体なぜ殺害したのかを本当に知りたいのであれば、『JFK and the Unspeakable』を読まれたい。そう、他にも入念に調査した書籍がある。 ダグラスは、ケネディが平和の方向に進もうとしたがゆえに殺されたと結論づけている。彼はフルシチョフと協力して、冷戦を終わらせようとしていた。彼はピッグス湾侵略に対する、CIAによるアメリカの上空援護を拒否した。政権転覆を正当化するため、カストロにせいにするアメリカ国民に対する偽旗攻撃の実行計画、統合参謀本部のノースウッド作戦を彼は拒否していた。ライマン・レムニッツァー大将の、統合参謀本部議長再任を彼は拒んだ。彼は、アメリカ海兵隊総司令官のディビッド・シャウプ大将に、アメリカをベトナムから撤退させるつもりだと語っていた。彼は再選されたら、“CIAを粉々にする”つもりだと言っていた。こうしたこと全てが、軍安保複合体の権限と利益を脅かし、彼は共産主義に甘く、アメリカの国家安全保障にとっての脅威だと軍/安保勢力に確信させたのだ。 ザプルーダーが撮影したフィルムは、ケネディを殺害した銃弾が、前から命中して、彼の後頭部を吹き飛ばしたことを示している。ケネディ夫人、ジャクリーンが、後部座席からリムジンのトランク上に身を乗り出して、夫の後頭部を集めようとしているのがわかる。他の観光客のフィルムは、障害物無しで、直接ケネディを銃撃できるようにするため、銃撃前の瞬間に、シークレット・サービス職員が大統領のリムジンから離れるよう命じられたのを示している。フィルムは、一人のシークレット・サービス職員が命令に抗議しているのを示している。 ケネディが背後から銃撃されたという医学的“証拠”は、命令を受けた医師たちが捏造したものだ。解剖で、海軍の医師たちを手助けした海軍衛生兵たちは、正面からの射入創は無視しろというカルバン・ギャロウェイ大将の命令に愕然としたと証言している。衛生兵の一人は“その瞬間、わが国が第三世界の国よりましなわけではないことを理解しました。その時以来、政府を全く信頼せず、全く尊敬していません。”と証言した。 ウソをつくよう強いられた医師の一人、チャールズ・クレンショー医師は、後に沈黙を破り本を書き、彼を中傷する激しいマスコミ攻撃を受けた。 ベセスダ海軍病院視聴覚部長のウィリアム・ピッツァー少佐は解剖を撮影した。フイルムは正面からの射入創をはっきり示していた。ピッツァーは、海軍医療センター制作スタジオの床で射殺死体で発見された。例によって、自殺とされた。 J. エドガー・フーバーとFBIは、ダグラスが、CIAとFBI両方から給料をもらっていただろうと考えているオズワルドが、本人自身それと知らずに仕立てあげられていたスケープゴート役としての話を確立するため、CIAによってキューバに送られたことを知っていた。とは言え、フーバーは、LBJや、アール・ウォーレンや、ウォーレン委員会のメンバーたちと同様、アメリカ国民に、大統領は、アメリカ軍とアメリカの治安機関によって暗殺されたなどと言うことか不可能だということを理解していたのだ。冷戦という不確かな時代には、自国政府に対するアメリカ国民の信頼を破壊するのが無謀なことは明らかだった。 フィニアン・カニンガムが、集められた証拠の多くの要約をしてくれている。あらゆる専門家たちは、とうの昔に、ウォーレン委員会報告は隠蔽工作だと結論づけていた。 https://www.strategic-culture.org/news/2017/10/28/jfk-files-cover-up-continues-president-assassination.html 私は専門家ではない。ダグラスがしたように、調査し、目撃者にインタビューし、目撃者たちの原因不明の死を追跡し、得られる膨大な情報つなぎ合わせ、全体像をまとめるのに30年間あるいはそれ以上を費やしたわけではない。一体何が起きたのかを知りたいのであれば、スマートフォンを置き、画面を閉じ、ダグラスや同類の本をお読み願いたい。 Paul Craig Robertsは元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニュー ズ・サービスと、クリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼 の新刊、 The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOST、The Neoconservative Threat to World Order.が購入可能。 ▲△▽▼ フーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013) 1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。
その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。 ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。 計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。 それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934) その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。 こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。 ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。 OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。 この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。 その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012) テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。 この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/ ▲△▽▼
FBI長官、発生2日後に陰謀説を警戒、何を語るケネディ暗殺事件文書 樫山幸夫 (産經新聞前論説委員長) http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11158
ジョン・F・ケネディ米大統領の54回目の命日が11月22日(日本時間23日)にやってくる。中年以前の人たちには、なじみが少ない名前かもしれないが、若くして超大国の指導者となり、在任3年足らずで暗殺された悲劇の大統領だ。2017年1月に離任したキャロライン・ケネディ前駐日大使の父親といったほうが、通りはいいかもしれない。 ケネディ暗殺についてはいまなお謎が多いが、それに関する機密文書が公開された。膨大な量にのぼり、現在、米内外の記者、研究者らによる精査の真っ最中だ。情報機関の横ヤリで、多くの文書が公開を見送られ、事件の全容解明に結びつく資料は少ないとみられているが、いくつか興味深い事実も明らかになっている。 容疑者殺害で多くの謎が未解明に ケネディ大統領暗殺事件は1963年11月22日(日本時間23日)に起きた。大統領は再選めざしてテキサス州を遊説、ダラス市内をオープンカーでパレード中、何者かに狙撃され頭部などに銃弾を受け死亡した。現場の通り沿いの教科書倉庫ビルで働くリー・ハーベイ・オズワルド(当時24歳)という元海兵隊員が、6階の窓からライフル銃で大統領を撃ったとして、事件直後に逮捕された。オズワルドは2日後にダラス警察署内でナイトクラブ経営者のジャック・ルビーという男に撃たれ死亡した。 ケネディ氏の死後、副大統領のリンドン・ジョンソン氏が大統領に昇格、同氏は真相を解明するために、事件から1週間後の11月29日、連邦最高裁長官(当時)のアール・ウォーレン氏を委員長とし、当時下院議員だったジェラルド・フォード氏(その後、大統領)ら7人のメンバーからなる委員会(通称、ウォーレン委員会)を設置した。委員会は延べ500人以上から証言を求めるなどして調査を行い、翌年9月に「オズワルドの単独犯行」という報告書を提出した。しかし、疑問点が数多く未解明のまま残っていたため、いまなおさまざま憶測がなされている。 1991年に制作されたオリバー・ストーン監督の「JFK」もそうした疑問に根差した映画だった。もっとも強い疑問は、オズワルドの単独犯行なのか、動機は何かーだ。オズワルド自身は犯行を否定、本格的取り調べが始まる前に殺害されているために、疑問が残るのは当然だった。 今でも6割以上が陰謀説信じる 未解明の謎は、憶測に発展する。 「大統領と実弟のロバート・ケネディ司法長官がマフィアの取り締まりを強化したために報復を受けた」 「米国と冷戦状態にあったソ連(当時)、やはり敵対していたキューバが関与していたのではないか」 「ケネディ大統領の外交政策を嫌う中央情報局(CIA)のクーデター≠セった」 ジョンソン大統領の関与説まで流布され、半世紀を経た2013年の世論調査では、61%にのぼる米国民がいまだに陰謀説を信じているという結果が出た。 公開で、明らかになった興味深い事実を見るとー。
オズワルド暗殺予告
•FBI(連邦捜査局)のフーバー長官(当時)が事件翌々日の11月24日、「前夜、FBIダラス支局に、オズワルドを殺害する委員会≠フメンバーと名乗る男から電話があった。ダラス警察の責任者に連絡したが、適切に保護がなされていると請け合った。今朝、もう一度連絡したが、十分な保護がなされているということだった。しかし、実際は、なにもされていなかった」と部内で語った(1963年11月日24日のFBI内部文書) •フーバー長官は、「オズワルドが死んだという以外に何もわからないが。オズワルドが真の暗殺者であることを示す何かを公開する必要がある。そうすれば国民を納得させられるだろう。ジャック・ルビーは、共犯者はいないといっている」と語った(同文書) •キューバの駐カナダ大使のケネディ暗殺に対する反応は喜ぶべき、幸せなこと≠セった。しかしオズワルドがキューバ・フェアプレー委員会≠ニいう団体に関係していたことから、米国で反キューバ感情が起こるのを警戒して、キューバの国連大使が駐カナダ大使に、深刻ぶった¢ヤ度をとるように求めた(1963年11月27日のCIAオタワ支局から本部あて報告) ソ連はジョンソン大統領関与説 •CIAの通信傍受記録では、オズワルドは1963年9月、メキシコシティのソ連大使館を訪ねた際、ソ連行きのビザのことで、領事と話したが、この領事はKGB(旧ソ連の情報機関、国家保安委員会)の要員だった(1963年11月23日のCIA内部から副長官代理へのメモ) •FBIの(ソ連内部の)情報源によれば、ソ連はオズワルドとは何の関係もないと主張している。KGBは、「ジョンソン大統領が事件に責任があることを示すデータをもっている」といっている(1963年12月1日のフーバー長官からマービン・ワトソン大統領特別補佐官へのメモ) •FBIの情報源によると、ソ連は、ケネディ大統領の暗殺によって米国内のリーダーシップが失われ、無責任な将軍たちがソ連にミサイル攻撃を仕掛けてくるのではないかと恐れていた(同) •ケネディ暗殺の25分前、英国のローカル紙に「ビッグ・ニュースがあるからロンドンの米大使館に連絡しろ」と電話があった。地元警察が英国の情報機関、MI5を通じてCIAに連絡した(1963年11月26日のCIA副長官からFBI長官あてのメモ) ケネディ暗殺に関連する文書は過去にも随時、公開されてきたが、ことし7月から11月月までは、5回にわたって約3万1000件が順次公開された。 注目されたのは10月26日の公開だった。ケネディ暗殺の機密指定を25年後に解除するという1992年の法律の期限が、この日で切れるため、すべての機密文書が日の目を見るのではないかと期待が高まっていた。 ところが、CIAのポンペオ長官らが、安全保障上の問題を理由に解除延期を要請。トランプ大統領は法律に従って公開を容認する方針を示していたが、当日になって一転、CIA、FBIの要請を容れ、一部非公開を決めた。 情報機関が公開に反対することについて、諜報活動の実態が明らかにされるのを避けたいという思惑と、大統領暗殺を防げなかった不手際≠ェ暴露されることを恐れているのではないかなどの憶測もなされている。 未公開分については、今後180日間に公開の是非が検討される。11月以降公開されたのは、指定解除に問題なしと判断されたとみられる。 米国立公文書館に保存されているケネディ大統領暗殺に関連する公文書は全部で500万ページにものぼるというが、10月22日のロイター電子版は、これらが全面的に公開されても、リー・ハーベイ・オズワルドの動機についてあらたな大きな情報は期待できないとする一方で、マフィアやキューバの存在を指摘する陰謀説も将来にわたって、消えないだろうという研究者の分析を伝えている。 ケネディ暗殺に関して、筆者はワシントン在勤中の2003年11月、故大統領の40回目の命日にあわせて、ウォーレン委員会メンバーで当時、ただひとり健在だったジェラルド・フォード元大統領(在任、1974年ー77年、2006年死去)にインタビューし、陰謀説などについて聞いてみたことがある。
妻に男らしさ≠ンせるのが動機
Q:ウォーレン委員会の報告は正しい結論という確信には今でも揺るぎはないか? 元大統領「委員会は全員一致で、オズワルドが暗殺実行犯、国内外のいかなる陰謀についても証拠はなかったという結論に達した。(1979年の)下院特別委員会も同様の報告を取りまとめている。私自身、この二つの結論に対していかなる疑問ももっていない」 Q:しかし、あなたは回想録「和解への時」のなかで、「ウォーレン報告は必ずしも完全ではない」と述べている。 「暗殺事件というものはいつでも疑問に包まれたものだ。リンカーン大統領の暗殺だって、100年以上たったいまでもさまざまな憶測がなされている。批判というものは常にある。委員会の結論は正しい」 Q:1979年の下院特別委員会報告は、マフィアによる陰謀の可能性にも言及している。 「マフィアの関与というのは、“あったかもしれない”という推測にすぎない。下院委員会の報告もオズワルドの犯行という結論には同意しているはずだ。陰謀の証拠は、どの調査でもみつかっておらず、マフィアによる犯行という推測には同意できない。 Q:ウォーレン報告では、オズワルドの犯行の動機が解明されていない。 「(オズワルドの)妻やその他の人たちの証言によると、オズワルドは精神的な問題を抱えていたようだ。日ごろから夫人に軽侮されており、それを見返すために“男らしい”、劇的なことをしてみせる必要があった。それが大統領暗殺にかりたてたとみるべきだ」 20世紀最大の謎のひとつといっていいケネディ大統領暗殺事件。当時を知る人たちにとっては、忘れようにも決して忘れることのできない事件だ。未解明のまま、歴史の闇に消えていくのだろうか。 いまなお語り継がれるケネディ神話 第35代、1961年1月、選挙で選ばれた大統領としては最年少の43歳で就任した。父親は元駐英大使というボストンの名門の出身、若くてハンサム、美しい妻、ジャクリーン夫人という存在もあって、その周辺は華やかさに包まれ、米国だけでなく全世界でその人気を誇った。第2次世界大戦では魚雷艇艇長として活躍、日本軍との戦闘で、自らも負傷しながら部下を救ったという英雄でもあった。悲劇的な最期と相まって、理想化された人物像、その時代は「ケネディ神話」と呼ばれ、いまだに追慕する米国民は少なくない。 政権の司法長官をつとめた実弟のロバート・ケネディ氏が、兄の死から5年後、大統領選挙運動中にやはり暗殺されたことも、「神話」をいっそう劇的なものにしている。 現代において、大統領が多くの国民の目の前で撃たれ、その瞬間が全世界でテレビ放映された衝撃は大きく、暗殺事件にとどまらず、大統領やその家族らにまつわる書物、映画などが数多く制作された。夫人の愛称をタイトルに、夫を失ったのちの、その生き方を描いた映画「ジャッキー」が今春、わが国でも公開された。 ▲△▽▼
本ブログでは何度か指摘したが、アングロ・シオニストは遅くとも20世紀初頭からロシアを侵略する戦略を始動させている。日本もその手先として使われた可能性が高い。 第2次世界大戦後、ドイツとの死闘で疲弊したソ連を破壊するため、アメリカの好戦派は1957年にドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊しようとしていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していた。これが「核の傘」である。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。 ソ連消滅後、ロシアはボリス・エリツィン大統領の時代に国の資産は略奪され、軍事力も大幅に低下した。アメリカ支配層の内部でもそうした感覚は21世紀に入っても残っていたようで、キール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)の2006年3/4月号で、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると主張している。 ネオコンをはじめとするアメリカの好戦派は今でもロシアや中国を核戦争で脅している。米ロ、米中間で相互に核兵器発射はしない体制を構築しているということはない。正常な感覚の持ち主なら、この状況を知れば恐怖するだろう。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201712010000/ ▲△▽▼
2018.01.23 自由と民主主義を破壊し続けるアメリカが中東に執着する理由(その1:ウォール街の利権) 日本にはアメリカを「自由と民主主義の旗手」と呼ぶ人もいるが、そのアメリカを支配してきた人々は民主的に選ばれた政権を軍事力、あるいは破壊活動で破壊してきた。つまり「自由と民主主義の破壊者」がその実態であり、彼らのターゲットのひとつがシリアにほかならない。アメリカによる侵略、破壊、略奪は大統領の個人的な資質によるのでなく、構造的な問題なのである。大統領を交代させても問題は解決しない。公的な情報の全面公開、巨大企業や富豪から特権を剥奪し、資本の移動を制限、オフショア市場を禁止するなど民主的な「レジーム・チェンジ」が必要なのだ。 シリアに限らず、欧米諸国は世界規模で植民地化を進めていた。言うまでもなく植民地は露骨な略奪の仕組みであり、その仕組みがなければ欧米の資本主義体制は維持できなかった。当然、植民地では人々の意思が暴力的に封印され、富は奪われていく。 植民地化は戦争から始まる。そこで、アメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将は戦争を不正なカネ儲けの手段だと言ったわけだ。有り体に言うなら、押し込み強盗だ。 しかし、アメリカでは1932年の大統領選挙でこうしたカネ儲けに反対する人物が当選してしまう。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。そこでウォール街の住人たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。この計画を議会で明らかにしたのがバトラー少将。クーデターを成功させるためにはバトラーを抱き込む必要があったのだが、その工作に失敗したということだ。バトラーはクーデター派の中心はJPモルガンだとしている。 接触してきたクーデター派に対し、バトラーはカウンター・クーデターで対抗すると警告、またバトラーの話を聞いて取材したポール・フレンチは議会によると、クーデター派は「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と答えたという。 JPモルガンは関東大震災以降、日本の政治経済に大きな影響力を持った巨大金融機関。そのJPモルガンの総帥と結婚した相手のいとこ、ジョセフ・グルーをハーバート・フーバー大統領はアメリカ大使として日本へ送り込んだ。その前年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こし、1932年には「満州国」の樹立を宣言している。 当然のことながら、植民地やファシズムに反対する姿勢を見せていたルーズベルト政権が日本の中国侵略に対して厳しい姿勢で臨むことになる。日本はアメリカの情勢変化に対応できなかった。日本の支配層はウォール街の傀儡だからだ。 植民地やファシズムに反対していたルーズベルトはドイツが降伏する前の月、1945年4月に急死、第2次世界大戦が終わると欧米諸国は植民地の継続支配と目論むのだが、それに異を唱える人物がアメリカの上院に現れた。1957年7月にジョン・F・ケネディ上院議員がアラブ世界の自己統治とアラブ諸国に対する帝国主義的な介入の終焉を訴えたのだ。 ケネディは1961年に大統領となり、軍や情報機関の好戦派が目論んだソ連に対する先制核攻撃を阻止、63年6月にはアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える「平和の戦略」を宣言する。 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1960年10月から62年9月までJCS議長を務めたリーマン・レムニッツァーやSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたが、この目論見の前にもケネディ大統領が立ちはだかった。そのケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺される。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801230001/ ▲△▽▼
2018.03.23 東京の下町が米軍の空爆で10万人前後の市民が焼き殺されて73年経つが、変わらない米支配層の体質
今から73年前の3月9日から10日にかけて東京の下町、深川、城東、浅草などがアメリカ軍の投下した焼夷弾で火の海になり、7万5000人から20万人の非戦闘員が殺された。焼夷弾とは一種のクラスター爆弾で、中には38個の小爆弾が収納されていた。上空約610メートルで子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後、焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組み。 日本の軍や警察による政策が被害を拡大させた要因のひとつではあるだろうが、アメリカ側の作戦や戦略を徹底的に検証することも重要だ。たとえ、それが不都合な真実であったとしても。
この時の爆撃は典型的だが、ターゲットは軍事工場でなく一般市民。先住民を殲滅したように、日本の市民を皆殺しにしようとした作戦であり、都市部の爆撃は「無差別」でなく「計画的」だったとする人もいる。
この作戦を指揮したアメリカ空軍のカーチス・ルメイは広島と長崎に対する原爆投下、あるいは朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。1950年6月に勃発した朝鮮戦争でルメイは朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊、多くの市民を殺している。ルメイ自身の話では、3年間に人口の20%にあたる人を殺したという。勿論、カーチス・ルメイが独断で行った大量殺戮ではないだろう。彼の周辺には仲間がいる。
ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、朝鮮戦争が休戦になった翌年の54年にはソ連を核攻撃する作戦を立てている。それによると、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。
SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだが、市民の大量虐殺自体も目的だ。この当時もSAC官はルメイ。
この計画で攻撃目標とされた都市はモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。
日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていたことは確かだろう。1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行され、基地化が強引に進められた。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。
沖縄の基地化が進められていた1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーは後に統合参謀本部議長に就任、ルメイを同じようにキューバへの軍事侵攻、ソ連への核攻撃を目論んでいる。つまりルメイとレムニッツァーは仲間。第2次世界大戦の終盤、アレン・ダレスはフランクリン・ルーズベルト大統領の意向を無視してナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を実行したが、レムニッツァーもその作戦に参加していた。
レムニッツァーとダレスを引き合わせたのはイギリスの軍人。連合軍大本営最高司令官だったイギリス人のハロルド・アレグザンダー伯爵だ。レムニッツァーはイギリスの貴族に憧れを持っていた人物で、シチリア島上陸作戦の際に知り合い、アレグザンダーから目をかけられることになった。
この人脈が影響したのか、1960年10月にレムニッツァーは統合参謀本部議長へ就任、CIA長官になっていたアレン・ダレスとキューバへの軍事侵攻を目論む。その背後にはソ連や中国に対する先制核攻撃計画があった。この攻撃計画にはダレス、レムニッツァー、ルメイも参加している。
レムニッツァーとルメイはジョン・F・ケネディ大統領と激しく対立した。ケネディ大統領がソ連に対する先制核攻撃に反対、戦争の準備だったキューバ侵攻作戦ではアメリカ軍の直接的な介入を阻止する。
キューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するという「ノースウッズ作戦」をレムニッツァーは1962年3月に国防長官のオフィスで説明するが、ロバート・マクナマラ長官は拒否する。(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)ケネディ大統領はその年の10月、レムニッツァー議長の再任を拒否した。そのレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがハロルド・アレグザンダーだ。
再任拒否の直前、1962年8月にアメリカの偵察機U2がキューバで対空ミサイルの発射施設を発見、10月にはアメリカ軍がキューバを海上封鎖する自体になっていた。いわゆるキューバ危機だが、これを外交的に解決したケネディ大統領に好戦派は反発、ダニエル・エルズバーグによると、その後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)
本ブログでは何度も書いてきたが、レムニッツァーやルメイのような好戦派は1963年の後半がソ連を核攻撃するチャンスだと考えていた。先制攻撃に必要なICBMが準備できる見通しで、ソ連が追いつく前に戦争を始められると考えていたのだ。
ところが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月のことだ。その翌年、日本政府はルメイに対し、「勲一等旭日大綬章」を授与した。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803230000/
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1961年1月からアメリカ大統領になったジョン・F・ケネディはイスラエルのレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙を送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)のだが、そのケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されてしまった。 副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは議員時代から親イスラエル派の中心的な存在で、富豪のエイブ・フェインバーグを後ろ盾にしていた。この人物はベングリオンから信頼され、ハリー・トルーマン大統領のスポンサーとして知られているが、フランスのエドムンド・ド・ロスチャイルドと同じようにイスラエルの核兵器開発を資金面から支えていたという側面もある。 1969年からアメリカ大統領を務めたのはリチャード・ニクソン。その補佐官だったヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語ったという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991) https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803280000/
▲△▽▼ 情報と資金の流れていく先に権力は存在する。その流れが変化すれば体制の変革が起こるということでもある。したがって支配層はそうした流れの変化が起こらないように努めるわけだ。秘密保護法の制定や1970年代から米英主導で行われた「金融改革」の主要な目的のひとつもそこにある。アメリカで内部告発を防止するための仕組みが1970年代から強化された理由も同じだ。アメリカの場合、「国家安全保障」も情報隠蔽の理由に使われている。例えば、国防省との取り引きがあると、企業は情報の開示を免れることができるのだ。権力犯罪を内部告発すると厳罰に処されるということは本ブログでも書いてきた。 情報を統制するため、第2次世界大戦の前から新聞は巨大資本に支配されていた。戦後間もない1948年頃からメディアを支配するためにモッキンバードというプロジェクトがアメリカでスタートしたことも知られている。そのプロジェクトの中心になっていた人物がワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハム、戦時情報機関のOSS、戦後創設されたCIAで大きな影響力を持ち続けたアレン・ダレス、ダレスの側近だったフランク・ウィズナーとリチャード・ヘルムズの4人。この4名は秘密工作(テロ活動)にも深く関与していた。ダレスとウィズナーはウォール街の弁護士で、ヘルムズは母方の祖父が国際決済銀行の初代頭取。グラハムの場合、妻のキャサリンの父親が世界銀行の初代総裁だ。 (Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979) フィリップ・グラハムはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺、キャサリンがワシントン・ポスト紙の社主に就任している。キャサリンはウィズナーの妻、ポリーと親しかった。
ワシントン・ポスト紙の編集部でキャサリンから目をかけられていたベンジャミン・ブラッドリーの妻がトニー・ピンチョット。その姉にあたるマリーはOPC/CIAの幹部だったコード・メイヤーと結婚していた時期がある。離婚後、ジョン・F・ケネディと親密な関係になったのだが、ウォーレン委員会がケネディ大統領暗殺に関する報告書を公表した3週間後に射殺された。マリーは生前、ケネディ大統領暗殺の内幕を知っていることをうかがわせる発言をしていた。
リンドン・ジョンソン政権でアメリカはベトナムを本格的に軍事侵攻して泥沼化、反戦気運が高まった1972年の大統領選挙では戦争反対を明確にしていたジョージ・マクガバンが民主党の大統領候補に選ばれ、民主党の幹部は慌てる。そこでヘンリー・ジャクソン上院議員を中心に反マクガバン派がグループを組織する。それがCDM(民主党多数派連合)。ネオコンはこのグループを核にして編成されていく。一般党員に支持されたマクガバンを民主党幹部が潰したのだ。
その結果、当選いたのがリチャード・ニクソン。そのニクソンがデタント(緊張緩和)を打ち出すと支配層内の好戦派が激怒、スキャンダルが浮上する。それがウォーターゲート事件だ。このスキャンダルでワシントン・ポスト紙が活躍したのは必然だった。
ウォーターゲート事件を追及したワシントン・ポスト紙の若手記者のうちボブ・ウッドワードは少し前まで情報将校だったこともあり、取材の大半はカール・バーンスタインが行ったと言われている。そのバーンシュタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。有力メディアがCIAの影響下にある実態を明らかにしたのだ。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)ウォーターゲート事件の内幕と見ることもできる。
公文書の改竄も報道統制も根はひとつ。権力者による情報支配だ。その情報支配を妨害するメディア、サイト、個人が現在、攻撃されている。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804030000/
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1972年の選挙で勝利したリチャード・ニクソンもベトナム戦争の現実を無視できず、デタント(緊張緩和)政策を推進する。大統領選挙が行われた年の2月に彼は中国を訪問して毛沢東や周恩来と会談、ベトナム戦争から手を引く動きも見せた。1973年1月にはパリ休戦協定が調印されて停戦が実現している。そのニクソンがウォーターゲート事件で1974年に辞任、副大統領から昇格したジェラルド・フォード大統領はホワイトハウスからデタント派を粛清、好戦的な政策へ戻している。
このフォードを破ってジミー・カーターが大統領となった1977年にバーンシュタインはワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いた。それによると、400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとするCIA高官の話を紹介している。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)
バーンシュタインの記事はウォーターゲート事件の内幕と解釈することもできる。本ブログでも繰り返し書いてきたが、戦後間もない1948年頃からメディアを支配するためにモッキンバードというプロジェクトがアメリカでスタートしている。
そのプロジェクトの中心になっていた人物がワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハム、戦時情報機関のOSSや戦後創設されたCIAで大きな影響力を持ち続けたアレン・ダレス、ダレスの側近だったフランク・ウィズナーとリチャード・ヘルムズの4人だ。(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979)
フィリップ・グラハムはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺、キャサリンがワシントン・ポスト紙の社主に就任している。キャサリンはウィズナーの妻、ポリーと親しかった。新社主もCIAと緊密な関係にあったのだ。
ワシントン・ポスト紙の編集部でキャサリンから目をかけられていたベンジャミン・ブラッドリーの妻がトニー・ピンチョットで、その姉にあたるマリーはOPC/CIAの幹部だったコード・メイヤーと結婚していた時期がある。離婚後、ジョン・F・ケネディと親密な関係になるが、ウォーレン委員会がケネディ大統領暗殺に関する報告書を公表した3週間後に射殺された。マリーは生前、ケネディ大統領暗殺の内幕を知っていることをうかがわせる発言をしていた。
第2次世界大戦後、ベトナムが独立を目指したのに対し、それを阻止するためにフランスが軍事介入する。アメリカもその方針を支持していた。ところが1953年5月にフランス軍はディエンビエンフーで北ベトナム軍に包囲され、翌年5月に降伏する。その4カ月前、1954年1月にジョン・フォスター・ダレス国務長官は国家安全保障会議でベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案している。その年の夏、ダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスが長官だったCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、破壊活動を開始した。この時の大統領はアイゼンハワーだ。
それに対し、1961年から大統領になったジョン・F・ケネディはベトナム戦争から手を引く決断をしていた。1963年10月、ケネディ大統領はアメリカの軍隊をインドシナから撤退させるためにNSAM(国家安全保障行動覚書)263を出したのだ。
NSAM263によると、1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させるとしている。そうした動きは秘密でなかったようで、米軍の準機関紙、パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。
しかし、この覚書が出された翌月にケネディはテキサス州ダラスで暗殺され、新大統領のリンドン・ジョンソンは同年11月26日付けでNSAM273を、また翌年3月26日付けでNSAM288を出し、NSAM263を取り消してしまった。
ケネディが暗殺された11月22日に「大統領」、つまりジョンソンはベトナム駐在のヘンリー・ロッジ大使と話し合い、「南ベトナムに関する討議」の内容を再検討、NSAM273を作成したとされている。この討議は暗殺直前の11月20日にホノルルで行われていた。
ホノルルの会議にはディーン・ラスク国務長官やC・ダグラス・ディロン財務長官のほか、内務長官、労働長官、商務長官、そして農務長官が参加しているのだが、NSAM263の作成に関与したマクナマラ国防長官とロバート・ケネディ司法長官は出席していない。アメリカが本格的な軍事介入を始める口実に使われた偽旗作戦、トンキン湾事件が引き起こされたのは1964年8月のことだ。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804050002/
こうして始められたベトナム戦争にマーチン・ルーサー・キング牧師は明確に反対していたが、こうした発言に困惑する人もいた。人種差別に反対する公民権運動の指導者という位置づけからの離脱を受け入れられなかったのだ。リバーサイド教会でも彼の周囲のそうした雰囲気を口にしている。平和と公民権は両立しないという人もいたという。 ロン・ポール元下院議員によると、当時、キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していたという。そうした発言はジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだが、牧師はそうしたアドバイスを無視したのである。
大統領の意思には関係なく、戦争に反対し、平和を望む人々をアメリカの支配システムは危険視している。例えば、FBIが1950年代にスタートさせた国民監視プロジェクトのCOINTELPRO、CIAが1967年8月に始めたMHケイアスもターゲットはそうした人々だった。
MHケイアスによる監視が開始された1967年はキング牧師がリバーサイド教会でベトナム戦争に反対すると宣言、またマクナマラ国防長官の指示で「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」が作成された年でもある。この報告書の要旨、つまり好戦派にとって都合の悪い部分を削除したものをニューヨーク・タイムズ紙は1971年6月に公表した。いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」である。
この報告書を有力メディアへ渡した人物はダニエル・エルズバーグだが、エルズバーグはその後、宣誓供述書の中でキング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBI捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだと聞いたことを明らかにしている。
その話をエルズバーグにしたのはブラディ・タイソンなる人物。アンドリュー・ヤング国連大使の側近で、エルズバーグは国連の軍縮特別総会で親しくなったという。タイソンは下院暗殺特別委員会に所属していたウォルター・ファウントロイ下院議員から説明を受けたとしているが、ファウントロイ議員はその話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)
キング牧師暗殺から2カ月後、次の大統領選挙で最有力候補だったロバート・ケネディ上院議員はカリフォルニア州ロサンゼルスのホテルで殺された。上院議員を暗殺したのは60センチ以上前を歩いていたサーハン・サーハンだとされているが、検死をしたトーマス・ノグチによると、議員の右耳後方2・5センチ以内の距離から発射された3発の銃弾で殺されたのだという。この結果は現場にいた目撃者の証言とも合致する。サーハン・サーハンが犯人だとするならば、議員の前にいた人物の発射した銃弾が議員の後ろから命中したことになる。
1991年12月にソ連が消滅した直後からアメリカの有力メディアはユーゴスラビアでの組織的な住民虐殺を宣伝、1999年3月にはNATO軍はユーゴスラビアを先制攻撃した。この宣伝は嘘だったことが判明している。
2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されると、詳しい調査が行われる前にジョージ・W・ブッシュ政権は「アル・カイダ」の犯行だと断定、アル・カイダ系武装集団を弾圧していたイラクのサダム・フセインを倒すために同国を先制攻撃している。この時に口実として大量破壊兵器が使われたが、これも嘘だった。
2011年にはリビアやシリアで戦争が始まる。西側は「独裁者」による「民主化運動の弾圧」を阻止すると主張していたが、これも嘘だということが明確になっている。アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟とイギリスとフランスのサイクス-ピコ協定コンビ、そしてオスマン帝国の復活を妄想するトルコと天然ガスのパイプラインの建設をシリアに拒否されたカタールなどが侵略の黒幕だった。その間、本格的な軍事侵攻を正当化するためにさまざまな嘘が宣伝されてきたことは本ブログでも繰り返し書いている。
この間、西側で反戦運動は盛り上がっていない。沈黙しているのだ。沈黙を正当化するために侵略勢力が提供した作り話を受け入れている。事実を見れば西側の政府や有力メディアが主張していることが嘘だということは容易にわかるのだが、嘘だと認めるたなら、破壊と殺戮を認めるのか、あるいは支配層を批判しなければならなくなる。リベラル、あるいは革新勢力を名乗る人々は破壊と殺戮を認められない。支配層の作り話を受け入れざるをえないのだ。
日本が敗戦した直後、映画監督の伊丹万作はこんなことを書いている:戦争が本格化すると「日本人全体が夢中になって互に騙したり騙されたりしていた」。「このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオの馬鹿々々しさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心に且つ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみれば直ぐに判ることである。」(伊丹万作『戦争責任者の問題』映画春秋、1946年8月)
より正確に表現するなら、「騙されたふりをしていた」のだろう。そうしたことをしているうちに、その嘘が事実だと錯覚しはじめたかもしれないが、始まりは「騙されたふり」だったのではないだろうか。事実を語るには、それなりの覚悟が必要だ。(了) https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804060000/
▲△▽▼ ケネディ暗殺に関する機密資料の全面公開がまたしても見送られた 2018年06月05日
少し前になりますがトランプ大統領は4月26日、1963年11月22日にダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領に関する機密資料の全面公開を「引き続き」見送り、2021年10月までに改めて公開の是非を検討するようCIAやFBIなど関連官庁に指示しました。
これには少し解説が必要です。ケネディ暗殺については約500万件の資料があり、そのうち約4万件については安全保障上の理由から公開禁止となっていました。米国ではその安全保障上の理由とは便利な言葉で、先日もトランプ大統領が通商問題に使っています。 ケネディ暗殺については1992年に成立したJFK暗殺記録収集法により、すべての未公開資料が25年以内に一般公開されるよう定められました。 そしてその25年目となった2017年10月26日に2891件の資料が公開され、そのうちこれまで完全未公開だった資料も53件含まれていました(後述します)。ところがトランプ大統領はそこでも安全保障上の問題があるとして、一部資料(件数は不明ですが2万件ほどあるはずです)の公開を6か月間の期限付きで見送っていました。 そしてその6か月目だった本年4月26日、トランプ大統領は再び未公開の重要資料すべてについて、今度は2021年10月まで2年半もの期限付きで一般公開を見送ってしまいました。 またそれとは別に未公開の重要資料がかなり「紛失」しているようで、ケネディ暗殺の「真相」はまだまだ解明されないことになります。これはもちろん一般公開されると都合が悪い関連官庁があるからです。 具体的にはCIA、FBI、国務省などですが、ケネディ暗殺への直接・間接の関与というより、関連する「悪事」が明るみに出ることを恐れているか、逆に致命的ミスでケネディが暗殺された責任を問われたくないからと考えられます。 さてケネディ暗殺については、事件を調査したウォーレン委員会が1964年9月に「オズワルドの単独犯行で、一切の政治的背景はない」と結論づけてしまいました。もちろん素直にそう信じている米国民はほとんどいません。 そこで2017年10月26日に公開された資料の中で、それまで完全未公開だった53件に何が含まれていたのかを見てみましょう。 まずテキサスにあったジョンソン副大統領(ケネディ暗殺で大統領に昇格)の自宅を訪れた訪問者リストがありますが、ジョンソンは副大統領だったのでテキサスの自宅も警護されていたはずで、訪問者リストがあってもおかしくはありません。 また初代のFBI長官で、何と37年間(1935〜1972年)もその地位にあったエドガー・フーバーが、オズワルド容疑者がダラス警察署内で射殺された翌日に「これでオズワルドが犯人ではなかったとの陰謀説が出回ることを懸念している」と書いたメモもあります。 いろいろな意味にとれるメモですが、そんなメモを残すということはFBIもケネディ暗殺に何の関係もなかったことになります。 そしてこの53件の中で最も注目すべきは、ケネディ暗殺の数週間前にオズワルドがメキシコを訪れ、メキシコシティにあるソビエト大使館でKGB第13課(暗殺などを担当する部門)の人物と会っていたというCIAのメモがあります。 オズワルドは1959年にソ連に亡命していますが、1962年に米国に帰国しています。そしてCIAはケネディ暗殺の2か月も前からオズワルドの家の電話を盗聴していたようです。 ダラスにおけるパレードの道順を決めたダラスのカペル市長の実兄が、ビックス湾事件の責任をケネディに問われてダレス長官とともに解任されたCIA副長官のチャールズ・カペルであり、CIAはいろいろな意味でケネディ暗殺に最も深く関与していたはずです。 そのCIAもオズワルドの電話を2か月も前から盗聴しておきながら、事件当日はオズワルドに何の警戒もしていなかったことになります。 つまり公開されなかった資料と言っても、それでケネディ暗殺の真相がすべてわかるようなものがある可能性が少なく、結局のところケネディ暗殺は永遠の謎となってしまうような気がしています。 http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-2236.html ▲△▽▼ ▲△▽▼ 2018年6月7日 ロバート・ケネディ氏暗殺から50年、再調査求める声高まるか 樫山幸夫 (産經新聞前論説委員長) http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13049
ロバートF・ケネディ氏といっても、今の若い人には、なじみが薄いかもしれない。暗殺されたジョン・F・ケネディ米大統領の実弟といえば、「そうか」と思う人もいるだろう。兄の政権で司法長官をつとめ、その死後、遺志を継ごうとしたものの、大統領選の最中に、兄同様暗殺された。
6月6日はちょうど50回目の命日だった。半世紀という節目にあって、ロバート氏の暗殺をめぐっても、その真相をめぐる憶測かまびすしい。現場に居合わせて巻き添えを食った友人や、ケネディ議員の家族が、犯人とされた人物の単独犯行説を否定、事件の再捜査を求めるなど、真相解明を望む声が再び高まることも予想される ロバート・F・ケネディ氏(Photo by Harry Benson/Express/Getty Images)
長女、次男が再調査求める 6月5日付の米紙「ワシントン・ポスト」は、故上院議員の友人で、事件当時、近くにいて流れ弾で負傷したポール・シュレード氏(93歳)の証言を掲載。シュレード氏は、他にも銃を発射した者がいて、ケネディ氏に致命傷を与えたのは、それらの銃弾だったとの見方を示した。 同じ記事で注目を引いたのは、長女で元メリーランド州副知事、キャスリーン・ケネディ・タウンゼンド女史の写真だ。「再調査が必要」とコメントし、半世紀を経た今も、「真相」に納得していないことを明らかにした。 同紙はこれに先だって先月、故上院議員の次男、ロバート・ケネディ・ジュニア氏が2017年12月に服役中の犯人に刑務所で面会したと報じた。同氏は「あなたが父を殺したとは思わない」と伝えたといい、ロバート・ジュニア氏は、「違う人が父の殺害で有罪を宣告されたかもしれない」と、キャスリーン女史と同様の懸念を持っているとことをうかがわせた。 予備選勝利直後撃たれる ロバート・ケネディ氏はどんな人物で、その暗殺の状況はどうだったのか。 大統領の8歳下の当時42歳。1963年11月に大統領が暗殺された後に司法長官を辞し、1965年からニューヨーク州選出の民主党上院議員として活躍していた。1968年春、ジョンソン大統領(ケネディ政権の副大統領、暗殺を受けて昇格)が、同年11月の大統領選への不出馬を表明したため、急遽、自らが出馬することを決断した。6月4日夜、カリフォルニア州の予備選で勝利をおさめ、ロサンゼルス市内のホテルで大勢の支持者らを前に勝利演説を行った直後、拳銃で頭部、背中を撃たれて6日に死亡した。 パレスチナ系移民で当時24歳の青年、サーハン・サーハンが現場で取り押さえられ、起訴された。動機はケネディ議員が親イスラエルであったことに反発したためといわれる。翌年、終身刑の判決を受け、70歳を超えたいまも服役中だ。 兄の大統領暗殺事件をめぐっては、さまざまな憶測が飛び交い、あまたの著作や映画を通じて真相に迫る試みがなされてきたのはよく知られるところだ。ロバート氏の暗殺についても1970年代に再捜査が行われたこともあるが、サーハン受刑者の単独犯行を覆すあらたな証拠は見つからなかった。 6月5日付けのポスト紙は、シュレード氏の証言などをもとに、暗殺についての疑問をあらためて投げかけている。 多くの物証が無視される? ほかにも狙撃者がいたというのが、もっとも有力な説だ。後頭部と背中を撃たれた傷が致命傷というが、サーハンがケネディ氏の前方に立っていたのを、多くの人たちが目撃している。
FBI(連邦捜査局)やロス市警は、暗殺現場近くのホテルの食器室のドアなどから、サーハンの拳銃に装填されていた8発を上回る数の弾丸が発射されたことを示す弾痕を発見しながら、その証拠を無視したという説、狙撃するには好都合の位置にいた武装ガードマンについて、所持していた銃の検査など必要な捜査をしなかったという説もある。サーハンが事件前、ナゾの黒髪女性と一緒にいたという証言も単独犯行を否定する根拠になっている。 ハリウッドのセックス・シンボル=Aマリリン・モンローが自殺した際に検視した著名な検視医、トーマス・ノグチ氏も登場、91歳の同氏が、最近行われた事件に関する研究会で、ケネディ氏の衣服に付着していた火薬がなどから、サーハン受刑者の銃による傷という見方に疑問を表明したという。 シュレード氏はポスト紙に対して「サーハンはロバートと他の人を傷つけたのは事実だが、致命傷を与えたのは彼の拳銃ではなかった。検察は第2のガンマン≠ェいたことを知りながら、サーハンだけを有罪に追い込んだ」と述べ、強く再捜査をもとめている。 もっとも、再捜査の是非について、ケネディ家では意見が分かれているという。ロバート・ジュニア氏、キャスリーン女史が強く求めているのに対して、長男、ジョゼフ・ケネディ元下院議員ら3人は反対。故上院議員の未亡人で90歳のエセル夫人は、沈黙を守っているといい、ケネディ家の苦悩が伝わってくるようで痛ましい。 同時期のキング牧師暗殺にも謎 暗殺事件、とくに超有名人のそれには、さまざまな謎、憶測や疑念がつきものだ。ことの性質を考えればあり得ることとはいえ、他の事件を含め、どうしてこうまで、ナゾめいた事件ばかりなのだろう。 兄のジョン・F・ケネディ大統領の暗殺について、いまなお、さまざまな議論があるのは周知のことだし、ロバート氏暗殺事件の2カ月前に起きた公民権運動指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師の殺害事件でも同様の疑念が取りざたされた。しかも、キング牧師の暗殺事件では、やはり遺族が犯人とされていた男の無実の主張を強く支持。ロバート・ケネディ暗殺事件と類似点がある。 キング牧師は、68年4月4日にテネシー州メンフィスでやはり銃で撃たれた。 ジェームズ・レイという男が逮捕、起訴され、禁固99年の刑が宣告されたが、レイ服役囚は一貫して「犯人は他にいる」と容疑者の具体名まであげて訴えていた。キング牧師の未亡人や長男は、強くこの主張を支持し、連邦政府に再捜査を働きかけるなどしていた。 レイ服役囚は、事件後ちょうど30年経った1998年4月、テネシー州の刑務所で、再審の望みかなわず死亡した。 事件の年1968年は世界が激動
ロバート・ケネディ氏が暗殺された1968年という年は、思い起こしてみれば、世界でさまざまな出来事があった。世界史上に特筆される年ともいわれている。
ベトナム戦争が激化、多くの戦死者を出し、反戦運動が米国の内外で高まりを見せた、キング牧師の暗殺はマイノリティーの地位向上を求める運動に拍車をかけた。11月の大統領選挙では、1960年にケネディ大統領相手に一敗地にまみれた共和党のリチャード・ニクソン氏がニュー・ニクソン≠スローガンにして復活当選を果たした。しかし、それは弾劾寸前に辞職に追い込まれるウォーターゲート事件という一大スキャンダルの序曲だった。 東側では、8月に起きたソ連・東欧5カ国軍によるチェコ侵入事件が世界を震撼させた。民主化を求める「プラハの春」を戦車の轍で押しつぶしたツケが、30年以上も後のソ連崩壊の遠因になったという分析もある。 日本では、学生運動がベトナム反戦と相まって頂点に達した。 札幌医科大学で、日本初の心臓移植手術が行われたが、「心臓提供者の死亡確認が不十分だったのではないか」などの疑惑から刑事事件に発展、執刀医は不起訴になったものの、外科医たちを萎縮させ、日本の移植治療の進歩を阻んだ。 栄華を誇ったケネディ家にしても、その後は衰退の一途をたどった。ケネディ家の末弟、エドワード・ケネディ上院議員も、大統領選出馬に意欲を見せたこともあったが、車に同乗していた秘書を事故で死亡させたスキャンダルなどが災いして果たせなかった。長男で駐日大使をつとめたキャロライン・ケネディ女史の実弟、ジョン・ジュニア氏は1999年、自家用機を操縦中に事故でなくなっている。 ロバート・ケネディ暗殺事件の真相解明をもとめる声が大きなうねりとなるのか、死後50年という節目のエピソードにとどまるのか−。今後の展開は、予測できないが、この事件も時代の変化への暗い象徴だったのかもしれない。 ▲△▽▼
事実に追い詰められた人びとが逃げ込む「陰謀論」という呪文 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020001/ 2018.09.03 櫻井ジャーナル 少なからぬ日本人が「アメリカ様」を信仰している。「世の中はアメリカ様の描いた予定表にしたがって動く」のであり、「アメリカ様の御言葉こそが真実」で、その「御言葉」に異を唱えることは許されないという態度だ。その「御言葉」が嘘だと言うことを事実に基づいて説明する人物が現れたなら、「陰謀論」という呪文を彼らは唱える。 本ブログでも書いたことがあるが、「陰謀論」という呪文が盛んに使われるようになったのはジョン・F・ケネディ大統領が1963年11月22日に暗殺された後のこと。新大統領のリンドン・ジョンソンはアール・ウォーレン判事を委員長とする調査委員会を設置するが、その中にはリチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキン。 大戦中から破壊活動を指揮、ケネディ大統領にCIA長官を辞めさせられたダレスや世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守ったマックロイ、フーバーFBI長官に近かったフォードがメンバーに含まれ、ランキンはCIAとFBIにつながっていた。ダレスの側近で1966年6月から73年2月までCIA長官を務めたリチャード・ヘルムズによると、彼がダレスを委員にするように説得したのだという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015) この委員会で専任だったのはダレスくらいで、調査はダレスを軸に動いていく。そして出てきたのはリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行説。この報告書が出ると疑問が噴出、疑惑の目はCIAへ向けられる。その後の調査でオズワルドはFBIに情報を提供していた可能性が高いとも言われている。少なくともウォーレン委員会の主張は矛盾だらけで、説得力は全くない。 その報告書が出た3週間後、1964年10月12日に散歩していたひとりの女性が射殺された。ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーだ。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれていた。 この女性が1958年まで婚姻関係にあったコード・メイヤーはCIAの幹部として秘密工作に関わっていた。アレン・ダレスの仲間だったわけだ。 ケネディ大統領が暗殺された直後、マリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983) その後も多くの人がケネディ大統領暗殺に関して調査、今ではオズワルドの単独犯行説を信じる人は少数派だろうが、有力メディアやアカデミーの世界でウォーレン委員会の説に異を唱えると「陰謀論」扱いだ。 ソ連が消滅した後、1990年代からアメリカを中心とする西側の政府や有力メディアは証拠を示すことなく、自分たちに都合の良いストーリーを「事実」として露骨に宣伝することになった。そうした傾向は特に21世紀に入ってから強くなり、今では事実を探すことが困難なほどだ。 ここに来て新たに使われ始めた呪文に「偽情報」とか「偽報道」というものがある。当初は西側の政府や有力メディアに向けられていた表現だが、それを批判者側へ向けている。勿論、証拠や根拠は示さない。「アメリカ様の御言葉を信じろ」ということだ。西側はすでにカルト化している。 2. 中川隆[-13583] koaQ7Jey 2018年9月18日 12:19:38: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18619] 報告 ▲△▽▼ アメリカの偽りの歴史 http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-60bc.html 2018年9月18日 マスコミに載らない海外記事 2018年9月14日 Paul Craig Roberts デヴィッド・レイ・グリフィンは、私が読めるより早く本を書く。そこで私は、悪魔的偽旗帝国という書名にした方が良かったと示唆している、グリフィンによるアメリカ合州国の歴史: 『The American Trajectory: Divine or Demonic?』のエドワード・カーティン書評を借用する。 https://www.amazon.com/American-Trajectory-Divine-Demonic/dp/0998694797/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1536407631&sr=1-1&keywords=David+Ray+Griffin
グリフィンの著書は非常に素晴らしいもので、洗脳されたアメリカ超愛国者を激怒させるのは確実だが、他の国々に対するワシントンの侵略が、政治家やマスコミやと御用歴史家の高潔な言い回しによって、いかに隠蔽されているかを徹底的に立証している。“アメリカ例外論”の尊大さと傲慢と無知が、核のハルマゲドンによる絶滅の軌道に向けて、世界を固定していると私は考えている。 カーティンは、グリフィンが、ジョン・F・ケネディ大統領の評価で、グリフィンほど注意深い学者にしては稀な途方もない間違いをしていると指摘している。ケネディ大統領は、アメリカの軌道を、悪魔的な道から変えようと試み、その企てゆえに、自身の政府によって殺害された大統領だった。だが、私が前に言った通り、全てのことを知っている人はいない。我々は他の人に頼らねばならないことが多く、他の人々も間違いをするのだ。 ワシントンの侵略戦争のグリフィンによる説明、あるいは、おそらく、カーティンの書評で単に触れられなかっただけの一つの省略は、南部連合国に対するワシントンの侵略と戦争犯罪だ。北部諸州の侵略には、一般市民に対する戦争遂行や、彼らの生活手段の意図的な破壊も含まれる。アメリカとイギリスによるドイツの都市への焼夷弾爆撃と、ワシントンによる原子爆弾での長崎と広島の破壊と、当時は変わらないものだ。 ワシントンは、道徳がその帝国を邪魔するのを決して許したことがない。 ワシントンは、条約や国内法が邪魔するのを決して許したこともない。例えば -チェイニー/ブッシュ政権は、1971年に議会で成立し、ニクソン大統領が署名した非拘禁法に違反した。 -チェイニー/ブッシュ政権は、上院が1994年に批准し、世界のどこにおいても、アメリカ政府職員が誰かを拷問することを禁じるアメリカ法に裏打ちされた拷問等禁止条約に違反した。 -チェイニー/ブッシュ政権は、一方的に弾道弾迎撃ミサイル制限条約から脱退した。 -トランプ政権は、一方的にイラン核合意から脱退した。 -オバマ政権はアメリカ憲法による適正手続きの保護を拒絶し、起訴、裁判、有罪判決無しに、アメリカ国民を恣意的に暗殺した。 上記の例は単に表面を引っ掻いたものに過ぎない。ワシントンが無効にした様々なアメリカ・インディアン部族とのあらゆる条約をお考え願いたい。 ワシントンの約束は無意味なのだから、イランとロシアがワシントンと無価値な協定を結ぶのは謎だ。答えは、希望が経験より優先するということに違いない。 Paul Craig Robertsは元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニューズ・サービスとクリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼 の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOST、The Neoconservative Threat to World Orderが購入可能。 悪魔のような偽旗帝国 エドワード・カーティン https://www.lewrockwell.com/2018/09/edward-curtin/a-diabolic-false-flag-empire-a-review-of-david-ray-griffins-the-american-trajectory-divine-or-demonic/
過去は死んではいない。眠っているのは人々だ。我々がうなされている現在の悪夢、忌まわしい白日夢は、現在にまで続く、我々の過去の奥深く焼きついている殺人に起因するのだ。いくら記憶喪失を装っても、アメリカ史の血まみれの真実、我々が自身に与えた安物の恩寵を消し去ることはできない。ハロルド・ピンターがノーベル賞講演で語ったように、我々は“ウソの巨大な織物”我々を取り巻く、虚無的な指導者や、連中の代弁人マスコミが極めて長い間が語ってきたウソを食べ物にしている。真実の抑圧と、国内と外国での、何百万人もの人々の残虐な殺害の積極的、あるいは沈黙の共犯者であることを認めないことで、我々は良心の呵責を感じているか、感じるはずなのだ。 だが、ピンターが言った通り“途方もない困難が存在していますが、我々の生活と社会の本当の真実を明らかにするという、市民として、ひるまず、動じない強い知的決意は、我々全員に託された極めて重要な義務であると私は思います。それは実際、必須の義務です。” この高貴な取り組みで、2001年9月11日の攻撃以来、次から次の著書で、丹念にアメリカ帝国の裏面と、その悪の主人たちを暴露するデヴィッド・レイ・グリフィン以上に象徴的な人物はいない。人々に手を差し伸べ、彼らに攻撃の結果の恐怖を警告しようとする彼の粘り強さは類まれだ。彼の哲学と神学の著書を除いて、これは2004年以来、こうした生と死や世界の未来という重要な問題に関する彼の15冊目の著書だ。 この素晴らしい本で、最初のヨーロッパ人入植者到着の初めから、この国、アメリカは神の力によって設立され、導かれたというあらゆる言説にもかかわらず、“良性というよりは悪性で、神のようにと言うより悪魔的だ”という説得力ある歴史的主張を彼はしている。主張を証明する詳細な文献で裏付け、彼は年代順に、この歴史を提示している。彼の以前の著書『Bush and Cheney: How They Ruined America and the World』で、グリフィンは、9月11日の内部犯行/偽旗攻撃に続く、悪の行為を羅列したが、その前日談の本書では、彼は、何世紀もさかのぼるアメリカ史の教訓を示し、アメリカ合州国を“偽旗帝国と呼んだ方が正しいことを示している。 2001年9月11日の攻撃は、彼の二冊の本がそれを軸にしている偽旗作戦だ。何千人もの無辜のアメリカ人の死を招いた行為本来の残虐さゆえのみならず、それが世界中の何百万人もの人々に死をもたらした“対テロ戦争”と呼ばれるアメリカ合州国による進行中の残忍な軍事作戦の正当化になっているので、あの攻撃の重要性は強調しすぎることはない。international array of expendable people。Terrifying as they were、and were meant to be、この歴史の多くは闇に隠されているとは言え、彼らには多数の前例があるのだ。 グリフィンは、そこに光を当てており、彼の分析の大半は、1850年-2018年の期間に集中している。 神学と哲学の学者として、社会として、国民をテロと、生活の無数の恐怖から守る方法、保護の神話によって アメリカ合州国が他の国々を脅すのに、巧みに利用してきた、非宗教的な支配者にとっての、宗教的正当化の必要性の重要性を彼は十分承知している。アメリカが神に“選ばれた国”として、アメリカ人が神に“選ばれた人々”として正当化に使われる用語が、宗教からの分離と、多元的共存が根付くにつれ、時代とともにいかに変わったかを彼は示している。名前こそ変わったが意味は変わっていない。神は我々の側にあり、そうであれば、相手側は呪われており、常に悪魔(el diabalo)と戦っている神が選んだ人々に殺されてしかるべきなのだ。 国を導く“見えざる手”と“神意の代理人”について語ったジョージ・ワシントンの最初の就任演説から始め、“私は全身全霊で、アメリカ例外論を信じている”というオバマの言葉を引用して、これを実証し、この二つの間に、アンドルー・ジャクソンの言う“天祐がこの祝福された土地に、無数の天の恵みをどっさり与えてくださった”や、1900年、アメリカが神から与えられた任務を“自明の宿命説”と特徴付けたヘンリー・カボット・ロッジがある。現在のアメリカの宗教はアメリカ例外論、古めかしい“神の新イスラエル”やら“世界の救い主”の更新版の遠回しな言い方。 このことば遣いの中核には、ヒラリー・クリントンが、“我々は善なので、我々は偉大だ”と言って、2016年大統領選挙運動中に宣言したように、また2004年、ジョージ・W・ブッシュが“我々以前の世代と同様、我々には自由のために戦うよう、空から与えられた天命がある”と言ったように、祝福された良き国として、“民主主義”と“自由”を世界中に広める神から与えられた任務があるというアメリカ合州国の妄想がある。グリフィンが実証している通り、そのような決まり文句は、時折、アメリカの暴力的指導者によって“自由”にされた無数の犠牲者による嘲笑いを受けるだけでしかない。 神に与えられた立場というアメリカの主張の事実を明らかにした後、アメリカ合州国が善良か悪性かという問題で、一方の側についた様々な思想家を彼は検証する。これは全て、この本の核心、アメリカの軌道の中核にある悪性度を立証する歴史の教訓への準備だ。 “アメリカ帝国主義は、キューバとフィリピンが主な獲物だった1898年に始まったと言われることが多い”と彼は始めている。“とは言え、その時点で新しかったのは、アメリカが北アメリカ大陸外の国々を支配したということだけだ”。他者の土地を強奪し、彼らを殺害する“神の権利”は、通常の帝国主義の解釈である海こそ渡っていないものの、ずっと前から始まっており、アメリカ先住民の大量虐殺は、1898年よりずっと前のことだった。メキシコとの戦争と、メキシコの土地占領と、太平洋へと西への拡張を推進した“自明の宿命説”もそうだった。この帝国形成期は、“人類に対する他の大罪”つまり奴隷制度自身の吐き気がする残虐性に加え、1000万人のアフリカ人が亡くなったと推計されている奴隷貿易に大きく依存していた。“手口がいくら残虐であろうとも、アメリカ人は神の目的の道具なのだ”とグリフィンは書いている。更に、彼は、1850年に、ペリー提督がアメリカの商業のため、砲艦外交によって“傲慢な日本”に開港を強いており、海外でのアメリカの帝国主義的冒険が、1898年に始まったということさえ真実でないと正しく付け加えている。 1898年、キューバとフィリピンの占領と、ハワイ州併合で終わった“米西戦争”で、海外での帝国拡張のペースが劇的に速くなった。これらの戦争は“スペイン植民地奪取戦争”と呼んだ方がより正確だとグリフィンは言う。これらの行為の残虐さと傲慢さの彼による分析は、ソンミ村虐殺事件や、他のより最近の虐殺事件には、国家構造の一部として、長い伝統があることを読者に認識させ、フィリピン人やキューバ人や非常に多くの他の人々が虐殺される中、グリフィンは書いている。“‘我々は帝国主義をしない’というドナルド・ラムズフェルド国防長官の宣言を予想して、マッキンリー[大統領]は言った。帝国主義は‘この自由で寛大な国民の気質や才能になじまない。’” おそらくそうした全くのたわごとに対する唯一の反応は、当時、今と同様、狂った笑いで、グリフィンが、フィリピン国旗を作るのは簡単だというマーク・トウェインを引用している。 我々のいつもの国旗を使い、白い線を黒く塗り、星を頭蓋骨と交差した骨に置き換えさえすれば良い。 これは、モンロー・ドクトリン・イデオロギーのもとで従属させられたコロンビアやパナマ、プエルトリコ、ドミニカ共和国、ハイチ、ニカラグアや他の国々にも当てはまるはずだ。どこであれ、自由と国家独立が、その醜い頭を上げると、アメリカ合州国が、すぐさま強力な反革命軍隊と財政的いじめで介入する。極東では、中国、日本や他の国々を略奪するのに“門戸開放”政策が利用された。 だが、こうしたこと全て、始まりに過ぎなかった。アメリカを第一次世界大戦の局外に保ちたがったと主張する、典型的なずる賢い不誠実なリベラル民主党政治家ウッドロー・ウィルソンが、彼の資本家のご主人たちが要求したアメリカによる外国市場支配を確実にするため、いかに正反対のことをしていたかをグリフィンは示している。ウィルソンが、ルシタニア号沈没を、開戦の理由として利用するのに、いかにウィンストン・チャーチルと共謀したか、また、ヴェルサイユ条約によるドイツの厳しい扱いが第二次世界大戦のお膳立てをしたかをグリフィンは探っている。 二つの世界大戦間の時代に、ロシアと新ソ連の悪魔化がいかに始まったかを彼は説明してくれる。現在、全力でがなり立てているこのロシア非難は、アメリカの軌道で、繰り返される主題だ。その重要性はいくら強調しても、しすぎることはない。ウィルソンは、ボリシェヴィキ政府を“テロによる政府”と呼び、1918年には“数千人の兵士を北部と東部ロシアに派兵し、1920年までそこに駐留させた。” アメリカがロシアを侵略したという事実は触れられることが稀で、アメリカ人にはほとんど知られていない。おそらく、一世紀にわたるソビエト社会主義共和国連邦/ロシアの悪魔化の認識は、“ロシアゲート”と呼ばれる現在の反ロシア・プロパガンダを信じている人々を啓発するはずだ。 海外での帝国主義的干渉という“神の”行為に対応させて、ウィルソンは、国内で、赤の恐怖を醸成したが、グリフィンが言う通り、それが今日に至るまで存在しているアメリカ人の急進思想や革命への恐怖を作り出し、世界中の残虐な独裁者支持と、国内での自由弾圧(現在起きているような)の正当化として機能するので、それには持続的な、計り知れない重要性があるのだ。 彼はアメリカが支持した何人かの独裁者について簡単に要約し、もう一人のリベラルな民主党政治家フランクリン・ルーズベルトの残虐なニカラグア独裁者アナスタシオ・ソモサにまつわる有名な発言“彼はろくでなしかもしれないが、彼は我々のろくでなしだ”を挙げている。かくして、ソモサが、43年間もニカラグア国民を脅すことになったのだ。同じことが、キューバ、チリ、イラン、グアテマラ、ドミニカ共和国、ハイチなどで起きた。アメリカはムッソリーニも支持し、フランコのファシストがスペイン共和国を打倒するのを防ぐために何もせず、蒋介石右翼政権による中国支配の取り組みを支持していた。 世界中でのアメリカ行動の悪魔的本性を裏付ける実に暗く醜い歴史だ。 更に、グリフィンは、いわゆる“良い戦争”の第二次世界大戦にまつわる多くの神話を論破する。彼は日本の真珠湾“奇襲”について語られているウソを説明している。ルーズベルトが、太平洋とヨーロッパの両方で、どれほどアメリカを参戦させたがっていたか。どれだけのアメリカの経済的私利がその背後にあったか。残虐なファシスト政権との戦いで、自由を愛する人々をアメリカは献身的に守ろうと望んでいたという神話を彼は批判する。彼によれば、それは歴史の一部に過ぎない。 ところが、これは第二次世界大戦中のアメリカ政策の正確な姿ではない。多くの人々が、確かに、連合軍の勝利によって、恐ろしい独裁から解放された。だがこれらの人々が恩恵を受けた事実は偶然の結果で、アメリカ政策の動機ではない。これらの政策は[アンドリュー]ベースヴィッチが発見した通り‘倦むことを知らない私利’に基づいていた。 更に、広島と長崎に対する原子爆弾攻撃だ。グリフィンが示している通り、これ以上悪魔的なものはあり得ない。もしも、こうした一般市民の血も涙もない大量虐殺と、それを正当化するためにつかれたウソが、don’t convince読者を、アメリカ史の核心には、長期にわたり、何かradically evil、nothing will。ドワイト・アイゼンハワーや、トルーマンの首席補佐官、Admiralウィリアム・D・リーヒーを含むトルーマンと彼の顧問たちや軍幹部連中が、原子爆弾投下は戦争を終わらせるのには不要だと知っていたが、連中はそれでも投下したことを、グリフィンは示している。 クリントンによる壊滅的打撃を与える経済制裁の結果としての、500、000人以上のイラク人児童の死は、それだけの価値があったと考えるのかという質問へのクリントンの国務長官、マデレーヌ・オルブライトの答えを彼は想起させている。“でも、思うに代償は、その値打ちはあるのです。” (彼女が話した時も、これら戦争犯罪は継続中なので、“です”と言ったことに注目) だが、この人物は“我々は必要欠くべからざる国民です。我々は堂々としています”と言った同じ人物だ。 グリフィンは、他の何章かを、様々な話題の中でも、冷戦の創造、冷戦中のアメリカ帝国主義、冷戦後の介入、ベトナム戦争、世界支配への衝動、偽旗作戦に割いている。偽旗作戦については、“実際、アメリカ帝国の軌道は、この種の攻撃に大いに依存しているので、偽旗帝国と表現できるほどだ”と彼は述べている。偽旗作戦の章では、本の中で、スイス人歴史学者ダニエル・ガンサーが広範囲に実証した、共産主義者と社会主義者の信用を傷つけることを狙って、ヨーロッパ中で行ったアメリカ/NATOテロ作戦、グラディオ作戦を含む、アメリカが関与した多くの偽旗作戦を論じている。そのような作戦は、OSSや、CIAや、その長官アレン・ダレスや、彼の腹心の部下、ジェームズ・ジーザス・アングルトンや、連中のラインハルト・ゲーレン少将のようなナチス共犯者と直接つながっていた。そうした攻撃のひとつで、1980年、イタリア鉄道のボローニャ駅で、こうしたアメリカ・テロリストが、85人を殺害し、20人を負傷させた。サウジアラビアが今日イエメン人生徒に投下した爆弾は、アメリカ軍用に製造されたものだ。これら実証されたアメリカの残虐行為に関して、グリフィンはこう言っている。 “こうした暴露は、アメリカ国民が広く信じている前提の虚偽を示している。アメリカ軍が敵に対しては、時にとんでもないことをすることは認めていても、大半のアメリカ人は、アメリカ軍指導者は、政治目的のために、同盟諸国の無辜の一般市民を殺害するよう命じないはずだと思い込んでいる。グラディオ作戦が、この前提がいつわりであることを示している。” 彼は正しいが、この黒幕指導者連中は、軍同等、あるいは軍以上に、文民であることを補足したい。 “ノースウッズ作戦”の場合、ケネディ大統領に、アメリカによるキューバ侵略の正当化になるこの偽旗作戦提案をしたのは統合参謀本部だった。アメリカ国内でのアメリカ国民殺害や爆撃や旅客機乗っ取りなどが起きていたはずだった。ケネディ大統領は、そういう連中や、そういう計画を非常識と考え、そういうものを拒絶した。他の多くの大統領連中だったら、承認していたはずのことに対する彼の行動が多くを物語っている。そして、またしても、一体どれだけ多くのアメリカ人が、記録として残され、容易に入手可能なこの邪悪な提案のことを知っているだろう? 一体何人がこのことを熟考したいと望んでいるだろう? 歴史の事実から目を逸らし、アメリカ支配者の本質的な善を信じ続けるのを打ち砕くのは大変な難題だ。グリフィンは、まさにそれをしようとして、2001年9月11日に関し、かなり多数の本を書いている。 だが、歴史的事実を進んで受け入れる気があるなら、この素晴らしい本は、アメリカ支配者連中による行動の長年にわたる悪魔的本性に開眼させてくれる。読者は、自ら課した空想の世界中で暮らしているのでない限り、明快に提示されている歴史に影響されずに、本書を読み終えることはできない。連中の実績は明白で、グリフィンは、その全てのあからさまな恐怖を詳細に描いている。アメリカは“良いこと、悪いこと、両方をしているので、純粋に神々しいとか、純粋に悪魔的だとか呼ぶのは分別あることではない”と言っているのではない。そういう純度の疑問は、基本的な真実をあいまいにするのが狙いだ。そして、彼が副題で問うている疑問 - 神のようか、悪魔のようか? - 実際は答えを必要としない修辞疑問で、アメリカ史の“軌道”ということになれば、悪魔が楽勝だ。 グリフィンが読者を失望させている一カ所を指摘しなければ、私は怠慢ということになろう。素晴らしい事実と分析に満ちた長いベトナムの章で、彼らしくない致命的間違いをしている。この間違いは、ケネディ大統領のベトナム政策に関する4ページ部分にある。そのページで、グリフィンは、ベトナムに関して、ケネディが顧問連中やCIAや軍と一致していたと描いている、証拠や事実に全く敬意を払っていないノーム・チョムスキーの酷い著書『Rethinking Camelot: JFK、Vietnum War, and US Political Culture』(1993年)に依拠している。これは事実の上で間違いだ。グリフィンは、より慎重にし、これを理解すべきだった。彼を孤立化させるのが狙いで、彼の指示を無視し、ベトナムでの連中の目標を実現するために彼を殺害した悪魔のような連中に、ケネディは包囲され、取り囲まれていたのが真実だ。彼の最後の年、JFKは、ベトナムにおいてのみならず、ソ連やキューバや世界中について、和平に向けた根本的転換をしていた。そのような転換は、戦争愛好者連中にとって受け入れ難いものだった。そこで、彼は死ななければならなかった。彼のケネディ憎悪が動機で、おそらくは、何かより悪意からのチョムスキーのごまかしとは逆に(彼はウォーレン委員会も支持し、JFK暗殺はたいしたことではないとし、2001年9月11日攻撃の明らかに偽りの公式説明を受け入れている)、グリフィンは、ケネディが1963年10月11日に、ベトナムからのアメリカ軍撤退を要求する命令NSAM 263を出しており、彼が暗殺されて一カ月後、リンドン・ジョンソンが、この撤退命令を、NSAM 273でひっくり返したことを強く主張すべきだった。チョムスキーがそう言っても、あらゆる最高の研究や文書証拠が、これを証明している。素晴らしい学者のグリフィンが、ケネディからジョンソンへの交代を“この大統領交代は政策の基本的変化をもたらしていない”と書いているのは衝撃的な間違いだが、真実に熱心な人物のグリフィンは単にうっかりして、おろそかになったのだと思う。これほど真実から隔たっていることは他にない。 悪魔的進路をゆくアメリカ歴史の軌道を変えるための取り組みで、自分の生命を犠牲にした、一人の極めて重要な人物、ジョン・ケネディ大統領を忘れて、グリフィンは、実に論理的に彼の主張の正しさを説明しているのは皮肉なことだ。 これは、アメリカ外交政策の悪の本質を疑うあらゆる人々にとって必読書たるべき極めて重要で素晴らしい本の中の一つの間違いだ。もしこのまま続けば、世界を核による忘却へと運んでいる軌道を変える助けになる必要な歴史的情報源と刺激を得られるのだから、既に確信している人々も読むべきだ。 夢のような願望だが、もし『American Trajectory: Divine or Demonic?』が、アメリカの学校や大学の必読書になれば、おそらく、アメリカの悪魔を天使に変えるための新世代が立ち上がり、将来のアメリカ道徳世界の弧を公正へと向け、実に長期間そうあり続けている、現代世界最大の暴力の流布者であることを止めるだろう。 記事原文のurl:https://www.paulcraigroberts.org/2018/09/14/americas-false-history/ 3. 中川隆[-13535] koaQ7Jey 2018年9月24日 14:03:03: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18799] 報告 ▲△▽▼ 1961年にはOAS(秘密軍事機構)なる秘密組織が作られている。ド・ゴールに反発する軍人らによって構成される組織だが、その黒幕もCIAの破壊工作部門。OASはこの年の4月にマドリッドで開いた会議でクーデターを計画する。 まず、アルジェリアの主要都市、アルジェ、オラン、そしてコンスタンチンの支配を宣言し、その後でパリを制圧するという計画。その中心にはモーリス・シャレをはじめとする4名の将軍だった。 それに対し、アメリカ大統領に就任して間もないジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。クーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということを意味しているわけで、CIAは驚愕する。その後、ド・ゴール大統領はSDECE長官を解任、SDECEの暗殺部隊と化していた第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。 クーデターに失敗したOASだが、その一部は1962年8月にパリでド・ゴール大統領の暗殺を試み、失敗している。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕され、全員に死刑判決が言い渡された。ただ、実際に処刑されたのはジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐だけ。ド・ゴールを救ったケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809240001/
2018.09.24 ロシア軍機の撃墜でも登場するフランスという国(その2)
イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の父親、ベンシオンはポーランドからパレスチナへ移民した人物で、大学時代にジャボチンスキーの「修正主義シオニスト世界連合」へ参加、1940年にはアメリカへ渡り、ジャボチンスキーの秘書になった。 その直後にジャボチンスキーは死亡するのだが、死んだ後もベンシオンはアメリカで活動を続け、パレスチナへ戻るのはイスラエルの「建国」が宣言された翌年、1949年のことだ。1950年代からはアメリカの大学で教鞭を執っている。
アメリカでエマニュエル・マクロンに近いのはヒラリー・クリントン、ベンヤミン・ネタニヤフに近いのはドナルド・トランプだ。
マクロンは昨年(2017年)5月の大統領選挙で勝利、大統領になったのだが、そのときのライバルがマリーヌ・ル・ペン。フランスの裁判所はル・ペンのダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)批判に絡み、彼女に精神鑑定を受けさせるように命じた。ル・ペンにつけられた「極右」というタグに影響され、「左翼」や「リベラル」を自称している人の相当部分は反射的に敵視する。彼女からなら言論の自由を奪ってもかまわないという発想なのだろうが、その矛先は全ての人びとに向けられる。
アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権が2003年にイラクを先制攻撃した際、フランスはアメリカ政府の命令に従わず、戦争に反対した。そのときのフランス大統領はド・ゴール派のジャック・シラク。その後、シラクはスキャンダルに巻き込まれ、2011年12月に有罪判決を受けている。
シャルル・ド・ゴールは1959年から69年にかけてフランス大統領を務めた人物。アメリカ支配層とは一線を画していた。
フランスはイタリアと同じようにコミュニストの影響力が強かった国で、それはCIAの積極的な秘密工作につながる。1947年にフランスで社会党政権が誕生すると、その内部大臣だったエドアル・ドプは、右翼の秘密部隊が創設されたと語っている。その黒幕はアメリカとイギリスの支配層だったと見られている。
その年の夏、アメリカのCIAとイギリスのMI6は秘密部隊を使い、「青計画」と名付けられたクーデターを実行、シャルル・ド・ゴールを暗殺しようとする。発見された文書によると、まず政治的な緊張を高めるために左翼を装って「テロ」を実行し、クーデターを実行しやすい環境を作り出すことになっていた。フランスの情報機関SDECEも関与してたと見られている。
1961年にはOAS(秘密軍事機構)なる秘密組織が作られている。ド・ゴールに反発する軍人らによって構成される組織だが、その黒幕もCIAの破壊工作部門。OASはこの年の4月にマドリッドで開いた会議でクーデターを計画する。
まず、アルジェリアの主要都市、アルジェ、オラン、そしてコンスタンチンの支配を宣言し、その後でパリを制圧するという計画。その中心にはモーリス・シャレをはじめとする4名の将軍だった。
それに対し、アメリカ大統領に就任して間もないジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。クーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということを意味しているわけで、CIAは驚愕する。その後、ド・ゴール大統領はSDECE長官を解任、SDECEの暗殺部隊と化していた第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。
クーデターに失敗したOASだが、その一部は1962年8月にパリでド・ゴール大統領の暗殺を試み、失敗している。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕され、全員に死刑判決が言い渡された。ただ、実際に処刑されたのはジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐だけ。ド・ゴールを救ったケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。
ド・ゴール暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出した。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。完全復帰は2009年、ニコラ・サルコジが大統領だったときだ。(了) https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809240001/ 4. 中川隆[-13450] koaQ7Jey 2018年10月04日 08:26:15: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19003] 報告 ▲△▽▼
ソ連がICBMの生産でアメリカに追いつく前なら核戦争でアメリカは圧勝できるとライマン・レムニッツァーJCS議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長を含む好戦派は考えた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年後半に核攻撃するというスケジュールを決めたとされている。その作戦を実行する上で最大の障害だったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。 2018.10.04 沖縄の米軍基地は先制核攻撃のために建設され、その計画は今も生きている https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810040000/ 沖縄県知事選で翁長雄志前知事の政策を継承するとしている玉城デニーが勝利した。名護市辺野古へ新しい基地を建設するという計画に沖縄県民は反対している。そのことを改めて示したと言える。 沖縄県にある基地を存続させたがっているのは日本政府であり、アメリカ政府は執着していないという議論がある。悪いのは日本政府であり、アメリカ政府は悪くないと言いたいのだろうが、これには疑問がある。
ヨーロッパを見るとアメリカ軍/NATO軍はロシアとの国境近くまで勢力を拡大し、国境近くにミサイルを配備している。東アジアでは韓国にTHAAD(終末高高度地域防衛)を強引に持ち込み、日本はイージス・アショアが配備される。中国やロシアとの国境近くにミサイルを配備しているのだ。その理由は先制核攻撃の態勢を整えたいからにほかならならず、沖縄の基地を放棄できないのもそのためだ。 アメリカやイギリスの巨大資本は第2次世界大戦の前からソ連が的だった。ウォール街はドイツと深く結びついていた。そのドイツが軍の主力にソ連を攻撃させるが、スターリングラードで反撃にあって壊滅、1943年1月に降伏する。これでドイツの敗北が決定的になった。
そこで慌てたのがイギリスとアメリカの支配層。両国はソ連との新たな戦争について協議している。イギリスではウィンストン・チャーチル首相が中心になったが、アメリカではアレン・ダレスたちOSSの幹部がフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でドイツ側と接触している。 そして1945年5月、ドイツが降伏した直後にチャーチル首相はJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、5月22日に提出されたのがアンシンカブル作戦。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。これはイギリスの参謀本部が反対して実現していない。7月5日には総選挙があり、保守党は敗北してチャーチルは辞職した。下野したチャーチルは大戦後に冷戦の開始を宣言、ソ連に対する核攻撃をアメリカのハリー・トルーマン大統領に要請したことは本ブログでも書いてきた。
核兵器を手にしたアメリカはソ連に対する先制核攻撃を目論む。例えば1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
1954年になると、SAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(前掲書)
実際にソ連を先制核攻撃するための準備が始まったのは1957年だと言われている。この年の初頭に作成されたドロップショット作戦では、300発の核爆弾をソ連の100都市で使うというもので、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(前掲書)
核爆弾の運搬手段は戦略爆撃機かICBM(大陸間弾道ミサイル)。1959年の時点でソ連は事実上、ICBMを保有していなかった。ソ連がICBMの生産でアメリカに追いつく前なら核戦争でアメリカは圧勝できるとライマン・レムニッツァーJCS議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長を含む好戦派は考えた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年後半に核攻撃するというスケジュールを決めたとされている。その作戦を実行する上で最大の障害だったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
ケネディ大統領は1962年にレムニッツァーの議長再任を拒否するが、イギリス軍の幹部によってNATO軍の司令官に就任する。大戦中、このイギリス軍幹部の紹介でレムニッツァーはアレン・ダレスと知り合い、ナチス幹部を救出するサンライズ作戦に参加した。これはルーズベルト大統領に知らせず実行されている。
1950年代に沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていく。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になった。これがアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついていることは言うまでもないだろう。そうした土地の接収が行われていた1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めた人物がライマン・レムニッツァーだ。
この当時からアメリカの基本戦略に変化はない。ロシアとの戦争に突き進む姿勢を見せていたヒラリー・クリントンを批判、ロシアとの関係修復を主張して大統領になったドナルド・トランプだが、有力メディア、議会、司法省/FBIからの執拗な攻撃を受け、今ではロシアや中国との軍事的な緊張を高める政策を打ち出している。それがアメリカ支配層の意思であり、日本の政治家、官僚、マスコミはその意思に従う。改憲や緊急事態条項はそうした背景から出てきている。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810040000/ 5. 中川隆[-13387] koaQ7Jey 2018年10月22日 17:22:25: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19471] 報告 ▲△▽▼
1962年にソ連がキューバへ中距離ミサイルを配備したときのアメリカ側の反応 当時、ジョン・F・ケネディ大統領はキューバを海上封鎖したが、カーティス・ルメイ空軍参謀長などJCS(統合参謀本部)の強硬派は大統領に対し、即日ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたという。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993) 1950年代にアメリカ軍やCIAの好戦派はソ連に対する先制核攻撃計画を始動させ、1963年の後半に実行するつもりでいた。ICBMでアメリカはソ連を圧倒できるという判断から立てられた計画。ソ連は中距離ミサイルで反撃するしかなく、そうしたミサイルをソ連が配備できる場所であるキューバを軍事的に制圧しようとした。それが1961年4月に実行されたピッグス湾侵攻作戦で、これはアメリカ軍の直接的な介入が想定されていた。これをケネディ大統領が止めたのだ。 ルメイの仲間にはJCS議長だったライマン・レムニッツァーも含まれ、偽旗作戦でキューバを軍事侵攻するという作戦を1962年に作成している。これもケネディ政権に拒否され、その直後にレムニッツァーは議長再任を拒否された。このレムニッツァーはNATO軍のトップになるが、これはイギリス軍の幹部の計らいがあったからだと言われている。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810220000/ 6. 中川隆[-13494] koaQ7Jey 2018年11月08日 06:06:29: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20254] 報告 ▲△▽▼ 当時、アメリカでは軍や情報機関の好戦派がソ連に対する先制核攻撃を計画、その準備を始めていた。 こうした好戦派はドイツとの戦争で疲弊したソ連の状況を熟知、核兵器やその運搬手段の開発状況からアメリカは核戦争で圧勝できると信じていた。その実行期日として設定されたのが1963年。 この計画の前に立ちはだかったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。 2018.11.07 中間選挙には関係なく、米国支配層の基本戦略は侵略とファシズム化(その1) https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070000/ アメリカの中間選挙でもドナルド・トランプを悪役として描く人が少なくない。これまでニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポストアメリカ紙といった有力メディアは国外での侵略を正当化し、国内ではファシズム化を推進するために嘘をつき続けてきた。その有力メディアが必死に攻撃しているということは、トランプにはまだ希望があるということを意味しているのだろう。
トランプを排除すればアメリカは民主的な国になるかのような主張もある。「左」とか「リベラル」と見なされている有名人の中にもこうした妄想を口にする人がいる。これは非常に危険なことだ。国外での侵略と国内でのファシズム化は少なくとも1970年代以降、政権に関係なく続いてきたアメリカ支配層の基本戦略なのである。
言うまでもなく、アメリカはヨーロッパからの移民が「異教徒」、つまりインディアンと呼ばれる先住民を虐殺、土地を占領して生まれた国だ。ヨーロッパのキリスト教徒はこうした殺戮をしてもかわないと考えていたのだろうが、こうした考えを持っていたヨーロッパ人はメイフラワーでアメリカへ渡ったピルグリム・ファーザーズやその後継者たちに限らない。11世紀終盤から13世紀にかけて中東を侵略した十字軍も同じ思想に基づいている。この時点で一部のキリスト教徒はカルト化している。
しかし、侵略とファシズム化がシステム化されるのは比較的最近。アメリカの憲法を麻痺させる上で重要な役割を果たしたのは2001年10月25日に成立した「愛国者法(USA PATRIOT Act / Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act / テロリズムの阻止と回避のために必要で適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化するための法律)」である。
ニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたことを受け、1カ月あまりで書き上げられた340ページを超す法律で、議会はこれを1週間で承認している。これだけの分量の法律をこの程度の期間で書きたことには驚く。承認前にこの法律を呼んだ上が議員が多いとも思えない。
憲法の機能を停止させるこの法律がこれほど短期間に書き上げられた理由は、すでに準備が整っていたからにほかならない。1982年にロナルド・レーガン大統領が承認したCOG(政府の継続)プロジェクトによって地下政府を構築する作業が始まったのだ。
伝えられているところによると、ジョージ・H・W・ブッシュ、ドナルド・ラムズフェルド、リチャード・チェイニー、ジェームズ・ウールジーたちで構成される上部組織と、官僚、将軍、CIAの幹部、「引退」した軍人や情報機関員など数百人で編成される下部組織に分けられていた。この計画では、仕組みを作るだけでなく演習も実施している。この地下政府を始動させる当初の条件は核戦争の勃発だったのだが、1988年に出された大統領令12656によって国家安全保障上の緊急事態に変更された。そして2001年9月11日に国家安全保障上の緊急事態が発生したとされたわけだ。(つづく) https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070000/
2018.11.07 中間選挙には関係なく、米国支配層の基本戦略は侵略とファシズム化(その2) https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070001/
COGプロジェクトと並行して思想戦が始められている。「民主主義」といった標語、タグを使い、人びとの心理を操ろうということ。国内向けは「プロジェクト・トゥルース」、国外向けは「プロジェクト・デモクラシー」と名付けられた。 このプロジェクトで中心的な役割を果たしていたウォルター・レイモンドはCIAのプロパガンダ担当オフィサーで、1982年からNSC(国家安全保障会議)のスタッフになっている。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004)
COGの源流は1958年にドワイト・アイゼンハワー政権が設置した地下政府。本ブログでも繰り返し書いてきたが、当時、アメリカでは軍や情報機関の好戦派がソ連に対する先制核攻撃を計画、その準備を始めていた。沖縄の軍事基地化が強引に進められた理由もここにある。その当時、琉球民政長官だったのが好戦派のひとりでアレン・ダレスと親しく、後に統合参謀本部議長になるライマン・レムニッツァーだ。
こうした好戦派はドイツとの戦争で疲弊したソ連の状況を熟知、核兵器やその運搬手段の開発状況からアメリカは核戦争で圧勝できると信じていた。その実行期日として設定されたのが1963年。この計画の前に立ちはだかったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
このときに設置された地下政府は9つの局で構成され、それぞれの長も決められた。その後、ひとりが交代になったことから、この局長候補たちは「アイゼンハワー・テン」と呼ばれている。この計画はFEMA、そしてCOGにつながった。
世界制覇が計画され、国外での侵略の準備が始まるのはソ連が消滅した直後の1992年2月。国防総省では次官だったポール・ウォルフォウィッツを中心にDPG草案が作成されたのだが、これは世界制覇を目的としていた。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリン。ウォルフォウィッツを含むネオコンは、ソ連の消滅によってアメリカが唯一の超大国になり、国連を無視して単独で行動できるようになったと考えたのだ。
ウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官によると、ウォルフォウィッツは1991年の段階でイラク、シリア、イランを殲滅すると口にし、9/11の10ほど後にはドナルド・ラムズフェルド国防長官たちは侵略予定国のリストを作成していた。イラクからはじまり、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そして最後にイランだ。ジョージ・W・ブッシュ政権がイラクを先制攻撃したのは2003年3月、11年にはバラク・オバマ政権がシリアやリビアをジハード傭兵で侵略しはじめる。
ブッシュ政権はアメリカ軍を主力とする正規軍で攻め込んだが、当初の予定とは違って親イスラエル政権を樹立することに失敗、イランに近い体制になった。そこでアメリカのネオコンはイスラエルやサウジアラビアと手を組み、アル・カイダ系のジハード傭兵を使うことになる。その方針に基づき、オバマ大統領は2010年8月にPSD-11を出し、ムスリム同胞団を主力とする傭兵で体制転覆を目論んだのである。 ところで、国内のファシズム化や国外での侵略で中心的な役割を果たしてきたのはネオコン。基本的にはシオニストで、元トロツキストが多いと言われている。この勢力が台頭してくるのは1972年の大統領選挙だった。
当時のアメリカはベトナム戦争で疲弊、反戦的な機運が高まっていた。そこで支配層を動揺させる事態が生じる。戦争に反対していたジョージ・マクガバン上院議員が民主党の大統領候補に選ばれてしまったのである。
民主党の幹部は慌てる。そこでヘンリー・ジャクソン上院議員を中心に反マクガバン派が形成され、マクガバンを落選させるための工作が始まった。マクガバンの周辺にいたのはポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パール、ダグラス・フェイス、エイブラム・シュルスキー、エリオット・エイブラムスなど、後にネオコンの中枢になる若者たちだ。
反マクガバンのキャンペーンではジョージア州知事だったジミー・カーターも率先して参加、そのカーターに目をつけたのがデイビッド・ロックフェラーとズビグネフ・ブレジンスキーだ。カーターは1976年の大統領選挙で勝利するが、イスラエルへの忠誠度が足りなかったこともあり、再選されなかった。
選挙では共和党のリチャード・ニクソンが勝利するが、デタントへ舵を切ったことから好戦派は反発する。そうした中、ウォーターゲート事件が起こり、1974年8月に辞任し、副大統領だったジェラルド・フォードが昇格した。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官と親しく、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する委員会で委員を務めている。
このフォード政権でデタント派は粛清される。特に重要だとされているのは、CIA長官と国防長官の交代。CIA長官は議会でCIAの秘密工作の一端を明らかにしたウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ、また国防長官はジェームズ・シュレシンジャーからドナルド・ラムズフェルドへ替わっている。
1970年代の半ばから巨大資本によるメディア支配が強化され、気骨あるジャーナリストは排除される。その一方で情報機関では内部告発が難しくなるようにシステムを変更、議会の監視から逃れるために「民営化」を進めた。この民営化は他国の情報機関とのネットワーク化を推進、各国政府の情報機関コントロールは難しくなっていく。そしてCOGがはじまり、ソ連消滅をはさんでウォルフォウィッツ・ドクトリンへとつながるわけだ。(了) https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070001/
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