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人口と経済の危うい関係、中国はどうなる
トレンド・ボックス
過去の各国データが示唆する不安
2018年11月5日(月)
市岡 繁男
人口動態はその国の経済に大きな影響を及ぼします。少子化・人口減社会に突入した日本に対して、将来の成長性を危ぶむ声が出るのはそのためです。筆者は、長らく住友信託銀行(現三井住友信託銀行)の資産運用部門で勤務した後、内外金融機関やシンクタンクで資産運用や調査研究業務に携わってきました。現在は相場研究家の肩書きで講演や執筆を行うほか、財団や金融機関の投資アドバイザーをしています。各国の人口データから経済や社会の出来事を振り返ると、日本以外でも心配な国があることがわかりました。それは中国です。
(写真=PIXTA)
米国の歴史家、ウィリアム・H・マクニールは、20世紀に起きた両次大戦の背景には人口過剰問題があったと指摘しています(『戦争の世界史』中公文庫)。これは主に中東欧の情勢について記述したものですが、要約すると「農村で土地が足りなくなり、若者たちは親と同様の暮らしかたができなくなった。産業の拡大は人口の増加に追いつかず、欲求不満が社会的緊張をもたらした。この問題が最終的に解決をみたのは第二次大戦のときであった」ということです。
若者人口比率が高まると動乱が起きる傾向に
戦前の日本も30歳未満が総人口の6割強を占めるなど、似たような状況にありました。これは子供の数が多かったからですが、子供を除く若者人口(15〜29歳)に限ってみても、国民全体の25%、つまり4人に1人が若者でした。戦前の日本は10年に一度の割合で戦争や海外派兵を行っていましたが、若者主体の国なので良くも悪くもエネルギーが過剰だったためなのかもしれません。
これは日本だけの現象ではありません。戦後の各国統計をみても、若者人口比率がピークを迎える前後に戦争や動乱が起きている傾向があるのです(図1)。米国のベトナム戦争(1964年)やソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)、アラブの春(2010年)などは、それに該当する事例です。若者人口とは、すなわち兵役対象年齢なので、その数が多ければ為政者は戦争を行うことに対する抵抗感が薄れるのでしょう。戦争ではないが、日本の大学紛争(1969年がピーク)や、中国の天安門事件(1989年)もそうしたポイントで起きています。紛争や大規模デモは若者の向こう見ずな熱気が結集しなければ出来ないことです。
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では若者が少なければ事件が起きないかというとそうでもありません。少ないときには別の姿で波乱が起きています。例えばソ連の崩壊(1991年)は若者人口比率がボトムの時に起きていますし、1997年の日本や2011年の欧州での金融危機も、若者人口比率の低下が加速する局面で起きているのです(図1)。これは国家としての体力の衰えが形となって表れたということかもしれません。国民の平均年齢が上がれば、その集合体である国家も、従来なら考えられなかったような問題に直面するようです。
経済の屈折点を予見する指標
国家の若さを計るうえで、逆依存人口比率([15〜64歳人口]÷[15歳未満人口+65歳以上人口])という尺度があります。これは1人の被扶養者が何人の働き手に支えられているかという指標です。この比率が高いほど社会全体の負担が軽減され経済は発展しますが、ピークアウト後は債務が膨らみ、経済活動が鈍化する傾向にあります。
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日本では1968年と1992年の2回、逆依存人口比率がピークを迎えています(図2)。1965年の証券不況や1990年のバブル崩壊はそれを先取りした動きだったと言えるでしょう。これに対し、欧米では同比率のピーク(2007年)と株価の暴落が同時に起きています(図3)。多少の違いはありますが、経済の屈折点を予見していた格好となっていることは同じで、経済の先行きを占ううえで、一つの指標になりそうです。
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日本の逆依存人口比率は1992年以降、低下する一方なのですが、それでもまだ戦前より上の水準にあることに注目してください。戦前は軍事費負担が重かったせいもあるのですが、それ以前に被扶養者である子供の数が多すぎたので、国民は経済的な豊かを感じにくかったわけです。戦後の高度成長は人口動態の好転でもたらされた側面があるのです。それが今度は老人の数が多すぎることが原因で、1〜2年後には逆依存人口比率が戦前と同じ水準まで低下し、人口動態上の隘路にはまってしまう。一体なんという巡りあわせなのでしょうか。
こうした危うい状況にあるのは欧州など他の先進国も同じです。しかし、最も懸念されるのは中国の先行きです。2000年以降の経済急成長を推進してきた逆依存人口比率はすでに2010年にピークを迎え、その後は若者人口の比率が急減する局面にあります(図4)。先述したように、日本や欧州ではそれまで小康状態にあった若者人口比率の低下が加速する過程で金融危機が起きていますが、いまの中国はまさにそのポイントにあるのです。
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かつて日本では1990年代初頭にバブルが崩壊し、1992年に逆依存人口比率が下落に転じた後も表面的には経済成長が続きました。名目GDPがピークを迎えたのは1997年のことです。言い換えるならば、日本経済はバブル崩壊後も7〜8年はもったということです。これはその間、銀行が「ゾンビ企業」に対し追い貸しを行い、延命させていたからです。このため、1989年に200%を超えた民間債務比率はその後も増え続け、1993年になってようやく下落に転じました(図5)。
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同じことはいまの中国でも起きており、民間債務比率は2015年に200%の大台を超えた後も増え続けています。ちなみに、この200%という水準は日本のバブル崩壊、スペインの住宅バブル崩壊をもたらした水準です。
経済の推進要因失われる一方、巨額の債務負担が
BIS(国際決済銀行)によると、中国の民間債務残高は約29兆ドル(2018年3月末)で、2008年末以降、23兆ドルも増加しました。同期間における世界債務の増加額39兆ドルに対し、その6割が中国による借入だったわけです(図6)。
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かくも債務が極大化した段階で、昨年秋以降、米国金利が上昇し、それが全世界に波及し始めました。中国の長期金利も2016年10月の2.66%から今年1月には3.98%になっています。このため民間部門の利払い負担は増しており、筆者の試算では直近は名目GDP(国内総生産)の7.9%に相当します。これは2000年のITバブルや08年のリーマン危機直前の米国とほぼ同じ水準です(図7)。
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いまの中国は、若者人口や逆依存人口比率の増加という経済推進要因が失われる中、巨額の債務負担が残された形です。これは1990年代後半の日本と同じ構図です。果たして中国はこの人口動態上の難所を無事やり過ごすことができるのでしょうか。
このコラムについて
トレンド・ボックス
急速に変化を遂げる経済や社会、そして世界。目に見えるところ、また見えないところでどんな変化が起きているのでしょうか。そうした変化を敏感につかみ、日経ビジネス編集部のメンバーや専門家がスピーディーに情報を発信していきます。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226265/103100300/?
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中国人の「面子」と『ドラゴンボール』の世界
「スジ」の日本、「量」の中国
「スカウター」のように相手の「強さ」を読み合う
2018年11月5日(月)
田中 信彦
今回は、単行本『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』の中から「面子(メンツ)」について触れた部分を、ウェブ用に編集してお送りします。中国人を理解する上で重要な概念の「面子」ですが、日本にも同じ単語があるために、正確に理解することがかえって難しい概念かもしれません。コメント欄でも触れていただいた方がいました。「スジと量」で、面子を読み解くとどうなるでしょうか。
『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』
「中国人と言えば『面子(メンツ)』を大事にするそうだ。面子と『量』はどのように関係しているのか?」
中国社会を知り、日本社会と比較するフレームとして「量」と「スジ」をご紹介してきたが、こんな疑問を抱いた方もいるだろう。「中国人が面子を重視する」ことはよく言われるし、まったくその通りで、彼らを理解するキーワードでもある。そして、その底にはやはり「量」の思考が存在する。だが、「量」の話をする前に、まず「面子」について詳しく説明しておこう。日本で言う「メンツ」とは意味がかなり異なるからである。
日本語の「面子」とは意味も重さも違う
中国語でよく使われる言い回しに「面子が大きい 」という言い方がある。
「あの人は本当に面子が大きいね」とか「私は彼ほど面子が大きくないから……」といった使い方をする。
「面子が大きい」という言い方は日本語ではなじみがないが、要するにこれはその人の「問題解決能力が高い」ことを意味する。つまり「他の人にはできないことが、その人にはできる」ことである。
例えば、普通ではなかなか入れないような幼稚園や学校に、その人に頼むと、(さまざまな方法で人を動かして)何とか入れてしまう。正面からのルートではとても会えないような著名人に、その人に頼めば面会できてしまう。そういったようなケースで、「あの人は面子が大きい」ということになる。もっと生臭い話でいえば、正式には競争入札によって受注企業が決まるはずなのに、「面子の大きい」人に頼めば有利に取り計らってもらえるとか、有利な条件で国の持つ土地の使用権を譲ってもらえるとか、そういったことも当然、含まれる。
これは(日本人が好む)「スジ」的に言えば「なんといい加減な社会だ、不公平だ」ということになるのだが、よい悪いではなく、現状がそうなのだから止むを得ない。普通の人々に広く適用されているルールや常識的な相場観のようなものが存在するにもかかわらず、その人物が出てくると、その枠を飛び超えて、異例な取り計らいが実現してしまうような人が「面子の大きい人」である。
「誰よりも優れている」という、最大級の褒め言葉
中国社会において、このような「面子の大きい人」は極めて便利で、かつ大きな利益をあげられる可能性を持つ。それは時として便利や利益というレベルを超え、自分や家族の安全すら確保してくれる人である可能性がある。
だから普通の中国人にとって、「面子の大きい人」とは、非常に頼りになる、どうにかしてお近づきになりたい人である。というより、「面子の大きい」人が近くにいないと安全・快適な生活を実現するのは難しい。だから「あの人は面子が大きい」という表現は、中国社会では最大級の褒め言葉である。周囲から尊敬と羨望のまなざしで見られる人物を意味する。そして誰もが自分も何とか自分の面子を大きくしたいと考える。「面子が大きい」と世間から言われるような人になりたい、と思うのである。
このように考えてくると、中国社会における面子の本質とは、その人が「他人には不可能なことができることが明らかになる」とか、その人が「他人より優れていることを周囲の人が認める」“状態”であることがわかる。
周囲は「あの人は他の誰にもできないことができる。すごい人だ」と称賛する。本人は「自分は他の人にはできないことができる。自分は他人より優れている」と周囲から認められ、自尊心が満たされる。こういう状態が中国人にとっての、日本語で言う「面子が立っている」状態である。逆に「面子がない」「面子がつぶれる」状況とは、「自分は他人より優れていない」ことが公衆の面前で実証されてしまう事態を指す。
ルールや組織といった「スジ」が頼りにならず、「面子の大きい」人や権力者の腹一つで状況がいかようにも変化するサバイバル社会で、中国の人々は自らの力を恃(たの)んで生きている。
そこでは常に「自分は大丈夫だ。やっていけるのだ」という自信、言ってみればある種の自己暗示のようなものが不可欠である。根拠は少々薄弱でも、「自分は他人より優れている。大丈夫、勝てる」と自らに常に言い聞かせているようなところがある。
これは想像だが、おそらく日本の社会でも自営業の皆さんやプロスポーツ選手、芸能人、職人さんなど、自分の腕一本で世の中を渡っている人たちは似たようなマインドを持っているのではないかと思う(私も自営業だ)。「自分のようなものはダメかもしれない」などと思っていたら、とても競争に挑んでいくことができない。
「量」の思考法が強いる、他人との比較
さて、この面子と「量」の思考はどのような関係にあるのか。
「量」で考える基本思想について、この連載の冒頭でこう述べた。
「(中国人は)『あるべきか、どうか』の議論以前に、『現実にあるのか、ないのか』『どれだけあるのか』という『量』を重視する傾向が強い」
量とは、大きさや重さ、多さ、高さを測る言葉だが、それは「強さ」と言い換えることもできる。大きいものは強い。そして、「量」を判断の基本に置くということは「現実に、目の前の相手より、自分は強いのか、弱いのか」を、常に意識しながら生きていく、ということでもある。ここで面子と「量」がつながる。
別の言い方をしよう。
中国人は、誰かと向き合った時、人の「個性の差」よりも、相手との「力関係」を意識する傾向が強い。例えば、日本社会では「貧しいけれども立派な人」「貧乏だけど希有(けう)な趣味人」といった概念はごく普通に成り立ち得る。人には個性があるもので、みんな違う。その「違い」を認識することが人間関係の前提になっている。
しかし中国社会では、事の当否は別として、お金持ちか否か、権力・権限を持つ人かどうか、社会的な影響力を持つ(自分の意見を通せる)人物かどうか、そういった、その人物の「大きさ」「力の強さ」を重視する傾向が強い。つまり周囲との関係を「違い」ではなく「上下」「強弱」で、言ってしまえば「闘ったら勝つか負けるか」の価値観で理解する傾向が強いということだ。面子は、その強弱、勝ち負けそのものを指す概念と言っていい。いわば「量の勝負」=面子、なのである。
だから、中国社会の面子は非常に重い意味をもつ。
日本人にとっては「面子が立たない」という言葉は、ちょっと無礼なことをされたくらいの感覚で、そこに「上下」「勝負」の要素はあまりない。だが、中国人にとっての「面子」は、自分という人間が人格を肯定されるか否定されるか、くらいの意味をもつ。ここを軽く見てはいけない。「面子を立てるなんて簡単だ、失礼がなければいいんだろう」程度の気持ちでいると、相手のプライドを深いところで傷つけてしまいかねない。
「量で比較する」ことが発想や行動を強く支配するゆえに、「面子」が絡むと対人関係が「勝ち負け」になってしまう。これは中国社会のモチベーションの源泉であると同時に大きな問題でもある。
大小、上下、高低、強弱、言い方はさまざまあるが、詰まるところ評価の軸が事実上、1本しかない。そこで勝てればいいが、負けることは耐えがたく、許されない。やや極端に言うと、社会的な評価方法にバラエティが乏しく、誰もがステレオタイプの基準で相手を判断しようとする。皆が「相手に見くびられたら商売にならない」と思っていて、かく言う私も中国で暮らしている間に、そういう考え方にかなり強い影響を受けていることを自覚するようになった。
国民全員独立自営、全ては人と人の相対取引
日本でも自営業の皆さんやスポーツ選手、職人さんの世界の発想はこれに近いものがあるかもしれないと書いたが、要は中国人は全14億の国民が、全て独立自営で生きている、くらいに思った方がいい。本人が実際には企業や政府機関などの組織に所属していようが、現実には全部、個人間の相対(あいたい)取引=人vs人の勝負、なのである。
そこではまずお互いが「自分のほうが強い」とツッパリ合い、双方が値踏みし合う。その段階では笑顔も見せず、決して譲らない。しかし中国人は、会話や態度の端々から、素早く「(腕っぷしではなく、先の『面子の大きさ』を比較して)どちらが強いか」を察知する。「こいつとケンカして勝てるのか、勝ったとして得なのか」をお互いが瞬時に判断し、どちらか、もしくは双方がほぼ同時に矛を収める。その感覚は非常に鋭敏である。というのは、本当は相手の方が「強い」のに、読み誤って下手に突っ張ったら、とんでもないことになるからだ。
非常に疲れる話ではあるが、これはある意味、非常に割り切ったサバイバルのための知恵でもある。世界のどの社会でも、弱者を保護するタテマエやそのための仕組みは存在しているが、突き詰めて言えば「強いほうが強い」のが現実だ。そして、負けるのは嫌だといっても、誰もが世界一強くなれるわけはない。常にケンカし続ける訳にもいかない。
だから結局のところは、強者と弱者の間に一定の均衡が生まれて妥協が成立する。弱者は自分が弱者であることを暗黙に認めるが、一定の尊厳は与えられる。強者は利益を得るが、(相手が自分のことを尊重する限り)弱者に一定の配慮をして、叩き潰すことはしない。相手に利用価値があれば、優遇さえもする。そして何事も「誰が最高権力者なのか」という問題が決着しないと話が始まらないが、一度力関係を認めてしまえば、後は話が早い。
「まるで『ドラゴンボール』の世界ですね」
この話を担当編集者にしたところ、「なんだか、『ドラゴンボール』(作・鳥山明)の世界みたいですね」と言われた。
私はこのマンガを知らないのでピンと来ないのだが、超常能力を持つキャラクターたちがバトルする世界で、「スカウター」と呼ばれる、相手の“戦闘力”を数値化して表示するガジェットが存在する。闘う前に相手と自分とどちらが強いのかがわかるのだという。中国人は確かにそんな感じで、相手の様子を見て“戦闘力”を素早く読み取る。
「ドラゴンボール」はマンガだから、戦闘力が文字通り「桁違い」の相手にも無謀なバトルを挑むし、時には勝てたりもするようだが、もしもドラゴンボールの世界の住人が中国人だけなら、闘いが始まる前に妥協が成立してしまうかもしれない。
それはともかく、「量=大きさ=強さ」であって、「強い=面子が大きい」。面子が大きいことは、14億総自営業モード、人と人の相対取引が基本の世の中で、自分の権利を守って幸福に生きていくために非常に大事なのである。
そんなことだから、中国人の自己アピールは多くの場合、非常に強烈なものになる。
過去のあらゆる経験や知識、学歴・職歴、友人・知人などさまざまな材料を持ち出して自分をアピールする。そのため、もちろん個人差はあるが、多くの場合、中国人の自己評価は異様に高い。背景は別項に譲る(単行本106ページ、「『仕組み』が苦手な中国、得意な日本」参照)が、基本的に「自己評価」が全ての世界なので、ナルシシスト的傾向が強くなる。自分に甘く、他人に厳しい。
俗な例で言えば、身の丈に合わないほどの豪邸に住んだり、高級車に乗ったり、派手な時計をしたり、ブランド品を身につけたりすることを好む人が多いのも、同じ構造に基づく。
そうやって「自分は他の人より優れている(強い)」ことを周囲に常にアピールし、他者からの評価や称賛に執着する。そして、その努力が実って、周囲から「あなたは他の人とは違う。すごい人だ」という認知が得られると、もううれしくてたまらない。俄然、生きる気力が出てくる。もっと称賛を得たい、もっと能力を認められたい、もっと褒められたいと気合を入れて動き始める。
中国で暮らしていてつくづく思うのは、中国人とは実に褒められるのが好きな人たちだということだ。もちろんどこの国でも褒められて悪い気のする人はいないが、中国人の「褒められたい願望」の強さはすごい。オフィスなどで若い人をちょっと褒めると、実にうれしそうな顔をする。そして「ボスに褒められた」ことを周囲や家庭で大宣伝する。翌日にはまた褒めてもらおうと思って、「私はこんなことをした」「お客様にこんなことで感謝された」と知らせに来る。うるさいほどである。
逆に「自分は他人より優れていない」ことが明らかになってしまう状況に陥ると、途端にモラルが下がって、どうにも生きる気力がなくなる。そのコントラストが著しい。わかりやすいといえばわかりやすいが、起伏が激しいので時に疲れる。そこでうまくケアする人がいないと、自分が世間に認められないのは「社会が悪いからだ」とか「周囲の人間に人を見る目がないからだ」といった形で、現状を他人のせいにし始める。「自分が悪いのかもしれない」という発想が出てきにくい。これは面子の意識が強すぎることの悪弊といえる。
中国人の「面子を立てる」ためには
このように、やや誇張して言うと、中国人という人々は周囲からの称賛というエネルギーを注ぎ込み続けないと、燃料切れで動きが止まってしまうような人たちである。これは詰まるところ、面子の意識がそうさせるのである。
面子は中国人が生きていく上でのエネルギー源のようなものだから、維持するために尋常でない努力をする。自分自身を「面子が大きい」、日本人が言う「面子が立っている」状態に保っておくことに執心するのと同時に、他人の面子に対しても細心に気を配る。
私は月に1〜2回程度のペースで上海と日本を往復している。その際、日本から上海に戻る時のスーツケースはさまざまな品物で常に満杯である。中身の大半は中国人の友人たちへの土産物や頼まれ物だ。なぜ毎回、大量の品物を抱えていくかと言えば、それは面子の論理とかかわる。
中国社会で他人に何か贈り物を持っていく、頼まれたことを引き受けることは、それは「私はあなたをこんなに重視していますよ」というメッセージである。単なる「おすそ分け」や「おつきあい」ではない。極めて戦略的な行為である。先に中国人は「褒められたい」「認められたい」という願望が強いと書いた。他人が自分にものをくれる、他人が自分のために動いてくれるということは、すなわちそれだけ尊重されていることを意味する。まして海外からとなれば、評価はさらに高いと考えられる。
私も中国社会で生きているので、戦略は中国人に学ばねばならない。大切な友人、好きな友人ほど高価で、見栄えのするものを持っていく。当然ながら最も高価なものを渡すのは妻に対してである。まさに「これ見よがし」であるが、面子とは詰まるところ「これ見よがし」なのだから仕方がない。
実録、「面子の連鎖」
例えば、日本の老舗の高価なお菓子を中国の友人に渡すとする。
その際には、いかに有名な店で、○○庁御用達とか、何百年の老舗とか、国際○○賞受賞とか、海外の有名スターも食べたとか、いかに高価なものであるか、さまざまなお話をつけて、ありがたみを増幅して渡す。友人は「田中先生はこんなに私のことを重視している」と喜び、「自分は特別である。私は他人より優れている」と確信を持つ。これが中国人の「面子が立っている」状態である。
この友人はお菓子を自宅に持ち帰り、家族に「このお菓子は日本の○○庁御用達、何百年の歴史があり、国際 ○○賞……」と話して聞かせる。「世界トップ500の大企業経営者を相手にしている日本で最も有名なコンサルタントで、テレビにも頻繁に出演している田中先生が私のために日本から持ってきてくれたのだ」などと、ほとんど荒唐無稽な誇張が加わる。家族はそれを聞いて、まあ全て信じているわけではないが、とにかく「すごいねえ。こんなものが食べられるなんて」と喜び、かくも高名な先生から尊重されている父を称賛する。これで家族も含めて面子が立っている状態になる。
さらに友人の妻はお菓子を自分はほんの少ししか食べず、そのまま実家の母親に持っていく。母親は大切な人だからである。そこで友人の妻は「日本で最も有名なコンサル……、○○庁御用達の……」と口上を述べ、母親は素直に喜ぶ。ここで彼の妻の面子に加え、こんな立派な先生が友人にいる人徳のある亭主がいて、しかも自分は我慢してもお菓子を親のところに持ってくる孝行娘を持った母親とそのご主人の面子は大いに立つのである。
話はまだ終わらない。この友人の妻の母親は、もらったお菓子をほとんど食べず、そのまま老人会の友人たちに持って行く。大事な仲間だからである。そこで母親は「私の娘の亭主の友人である日本で最も有名な……、○○庁御用達……」と語り、お菓子をふるまう。仲間は自分たちが尊重されたことに満足しつつ、「立派な娘婿と孝行娘を持って幸せだねえ」と羨ましがってみせ、友人の妻の母親を称賛する。これで友人たちに加え、友人の妻の母親の面子も大いに立つのである。
このように中国人の間の「面子の連鎖」はどんどん巡っていく。自分も面子を立ててもらうが、それを使って周囲の人の面子も立てる。そうやって「面子の立て合い」をすることでコミュニティは円滑に回っていく。だから中国人は他人からものをもらった時、ご馳走してくれた時などに「なんだ、これ見よがしに、金持ち風吹かせやがって」などとは決して言わない。ものをくれるのは自分が尊重されている証しだと素直に喜ぶ。そして相手を称賛する。それがルールである。
面子はモチベーションと不満、両方の源泉
このように中国社会では、面子はコミュニケーションの根幹をなしている。相手に自分のことを好きになってほしければ、まずその相手の面子を立てなければならない。それはつまり相手が「自分は特別な人間である」「自分は他人より優れている」と実感できるようにすることである。
だから有能な中国人は、ある人に対して好感を持ったら、とにかく「あなたは能力がある」「私はあなたを高く評価している」と明確に伝える。そして相手の自尊心を満足させ、自分にも好意を持ってもらえるよう努力する……そんなことを「先払い」の話(単行本142ページ、「中国人は『先払い』、日本人は『後払い』参照)で紹介したが、そうすることによってたとえ外国人であっても中国人社会にスムーズに溶け込んでいけるし、子細に観察していれば、有能な中国人ほどそうやって相手を自分の「勢力範囲」に取り込んでいく。周囲に尊大な態度を取っている連中にロクな人物はいない(これは日本でも同じだ)。
面子はこのようにポジティブな側面を持つ一方、厄介な面もある。常に「自分は他人より優れている」ことを証明しようと行動しているのだから、分業やチームプレーが得意なわけがない。全体の利益を考えるより、自分が評価されることを優先してしまう傾向が強いのは面子の最大の弊害だ。
また、仮にある中国人が「自分は他人より優れている」と信じているとしても、現実にはそうではないケースは多いわけで、その人たちはいつか自尊心と現実の折り合いをつけなければならない。それはつらい作業である。中には折り合いをつけられない人も出てくる。
面子は中国社会のモチベーションの源泉であると同時に、社会に充満する不満の源泉でもある。ものごとを「量の大小」「力の強弱」という評価軸で判断する傾向の強い中国社会の光と陰が「面子」に表れている。日本人的なお気軽な感覚で「面子」をとらえると、認識を誤る。
中国の「面子」とは、「スカウター」を付けた14億人が、いつでもどこでも「量」を巡る真剣勝負をしている国だ、ということなのである。
続きは書籍で! 分厚くて、量もスジも読み応え満点です
『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』
「日本人と中国人の間には誤解が多い。
お互いが相違点を理解し、一緒に仕事をすれば
必ずWin-Winの関係になれる。
本書はそのためにとても役立つ」と柳井氏絶賛!
本連載と、10年に及ぶ「wisdom」の連載の中から厳選・アップデートしたコラムを「スジと量」で一気通貫に編集。平気で列に割り込む、自慢話ばかりする、自己評価が異様に高い、といった「中国の人の振る舞いにイライラする」「あれはスジが通らない」という、あなたの「イラッ」とくる気持ちに胃薬のように効き、スッキリとする。ユニークな中国社会・文化論です。
※目次・内容紹介はこちら
このコラムについて
「スジ」の日本、「量」の中国
別に、中国という国が好きでも嫌いでも、中国人が好きでも嫌いでも、それは個人の自由で、どちらでもかまわない。大事なのは、正面から向き合う覚悟を決めるか、あるいは、自らの弱さに負けて目を逸らすか、である。今はそういう時代だ、と私は思う。パソコンに例えて言えば、中国人、および中国社会のOSの構造を知っておくことが不可欠だ。少なくとも、知っておいて損はない。
中国には13億とも14億ともいわれる人がいるのだから、さまざまな個性があるのは当たり前である。いろんな考え方の人が、いろんなことを言って、いろんな行動をしている。しかし、そうは言っても、その社会にはその社会の長年の歴史的な蓄積の中から出来上がってきた共通の感覚、ある種の「クセ」のようなものがある。
いわば
「こういうことを言われたら、こう反応するのが、この社会では普通である」
「こういう光景を見たら、こう感じるのが、この社会では普通である」
といったようなことだ。これは日本社会にも当然ある。
個人差の存在は認めつつも、社会のこうした「クセ」「妥当な反応の相場」はやはり存在する。歴史的な経験に培われた条件反射のようなもの……と言ってもいいかもしれない。それを知ることが、中国に限らず、異なる文化の下で育った人たちと付き合うには、非常に重要である。
この連載では、40年近い個人的な経験の中から感じた、中国人がものを判断し、反応する時の「クセ」「反応の相場」とはどのようなものか、それらが、中国社会のどのような仕組みから生まれてきたのか、そんなことをお伝えしたい。
いわば中国の人々や中国社会の判断基準の根底にあるもの、行動原理のようなものを、できる限り具体的かつロジカルに明らかにできれば、と思う。それだけで、我々日本人が感じるストレスはかなり軽減するはずだ。
と、大上段に振りかぶって始めたが、中身はできる限り具体的にしたい。中国人の判断基準や行動原理を、実例をもとに考えていきたいが、その際に私がフレームワークにしているのが、この連載のタイトルでもある「スジ」か「量」か、という切り口である。ご愛読をお願いします。
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ロシア社会の変革を担う若き“職業”ボランティア
2018.11.5(月) 菅原 信夫
給料が支給されないのになぜプロのボランティアを目指すのか
モスクワのボランティアテントにいたボランティアたち
本年6月14日から7月15日まで、ロシアで初めてとなるサッカーW杯が開催されたことは、まだ記憶に新しい。
この大会は、ロシアがホストとなり、世界から多くのゲストを迎えるスポーツイベントという意味で、2014年のソチ冬季オリンピックに次ぐ大イベントであった。
筆者は本年12月にW杯ロシア大会を振り返るシンポジウムに、スポーツ評論家の玉木正之氏、元日本代表チームドクター福林徹氏、サッカージャーナリスト大住良之氏らとともに、登壇させていただく予定だ。
本稿ではそのシンポジウムでも触れる予定のテーマの1つ、W杯におけるボランティア活動についてリポートしてみたい。
石油・ガスを売り込むためのスポーツ戦略
冒頭からの経済論をお許しいただきたいが、ロシアという国は経済面から捉えると、国家収入の6割以上を原油ガスなど、エネルギー資源の輸出に頼るという一極型経済である。
この経済体制では、輸出先がロシア産のエネルギー資源を購入してくれることが国家経営の大前提であり、ソ連時代のように鉄のカーテンで西側と遮られていた時代とは、国家存在の流儀において大きく異なる。
2000年以降のロシア経済進展は、エネルギー価格の上昇に支えられていた部分が大きく、決してウラジーミル・プーチン大統領の手腕にのみ帰せられる話ではない。
ある意味、プーチン氏は幸運だったのだ。その幸運がいつまでも続くものでないことは、その後のロシア経済の成り行きが示している。
ロシアが欧州北限の資源大国として、西ヨーロッパのエネルギー輸入国と取引するには、西欧世界に「普通の国・信頼できる取引先」として仲間入りを果たすことが不可欠だ。
その方策の1つとして利用されたのが、2014年のソチ冬季オリンピックだった。
ソチ開催を決定した2007年のグアテマラシティーでのIOC総会には、プーチン氏自身が乗り込んだだけではなく、彼は英語・フランス語で招致演説をこなした。
我々のようなロシアウオッチャーにとっても、公式の場でプーチン大統領がロシア語以外で演説をする姿を見るのは、初めてであった。
ソチオリンピックを勝ち取ったロシアは、総額500億ドルとも言われる巨額の資金をソチに投入した。
そして2014年2月、ソチオリンピックは開幕し、真新しい施設には世界のアスリートやオリンピックファンが集った。
ウクライナ問題勃発で次なる手が必要に
ところが、成功裏に終わるかと思われた閉幕の直前に、ウクライナで騒乱が発生、突然ロシアの立場は暗転する。
思いを十分果たすことができなかったプーチン大統領、ロシア政府は、次なる対西欧融和作戦を2018年W杯に定め、再度多額の国家資金をこのサッカー大会に振り向けた。
ソチ1か所で開催されたオリンピックとは違い、ロシア11都市にスタジアムを準備し、世界から迎えるゲストのための宿泊施設、さらには各都市とモスクワを結ぶ鉄道などを整備した。
「ソチ以上のW杯を!」を合言葉に、2014年から2018年までの4年間にロシアらしからぬ計画性を発揮、最後は突貫工事まで行った。
その結果、当初予算は5億ドル(それでも巨額だ!)と言われていたが、今や150億ドルは使っただろうというのが大方の見方である。
この金額は昨年発表された2020年東京オリンピックの経費見通し(1兆6000億円)とほぼ同じだ(現在では3兆円と言われているが)。
それだけの投資効果が果たしてW杯ロシア大会にはあったか、というのが今回のシンポジウム開催の動機でもある。
これを専門家の方々からそれぞれの評価をいただこうという趣旨であるが、筆者はボランティア活動に焦点を当てて、そのロシア社会への影響という点からW杯を振り返ってみたい。
W杯の最大の課題は、ロシア社会と外国社会、特に訪露する外国人ファンとの共存関係だった。
意外にも抜群のホスピタリティ
モスクワやサンクトペテルブルクなど、良い意味で外人ずれしている大都会とは異なり、サマラやサランスクなどの小都市ではこれだけまとまった外国人を迎え入れたことはないはずだ。
そもそも、現在のロシアにも「外国人を見たらスパイと思え」というソ連時代からの教育を受けてきた人たちがまだたくさん残っている。
そのような社会に突然、見ず知らずの外国人が現れたら、ロシア社会はどう反応するのか。
この点については、日本代表チームの全試合を取材したサッカージャーナリストの大住良之さんの感想をお伝えしたい。
「(出張取材のため)ホテルを確保できない都市では、ネット予約で民泊を利用。自分はロシア語ができないし、ホスト側も英語ができない。それでもトラブルもなく、快適な滞在ができた」
「これは、ホスト側のホスピタリティーのたまものである。ロシア人が非常に温かい人たちであることが分かった」
ロシアも随分と変化したものである。
そんなロシア社会の変化を代表しているのがボランティア活動だろう。W杯で実際に活動をした人数は1万7000人を超えるという。
様々な局面で計画性のなさが指摘されるロシアではあるが、このボランティアはFIFAが中心となり、多くの大会で実施してきたルールとカレンダーによる計画的な募集活動が行われた。
ボランティア募集は2016年12月末、すなわち大会開始の1年半前にはすでに締め切られている。
学生にはボランティアは難しいはずだが・・・
その後、主に個人能力と語学力による選別が行われ、合格者には全国15か所にあるW杯センターでの研修が義務づけられた。
職種はセレモニー補助から通訳、メディア対応、ファンサービスなどからドーピング検査補助などの専門的なものまで、多種多様だ。
長い研修期間を考えると、ボランティアとは言うものの、採用通知を受けてからの拘束時間は非常に長く、学生や職業人ではなかなか参加するのが難しい。
筆者は、モスクワ滞在中にW杯観戦者をサポートするボランティアテントで働く青年たちといろいろ話しをすることができた(冒頭写真参照)。
これだけの長期間にわたりボランティア活動に参加できる彼らは普段何をしているのか、また活動に参加する理由は何か、を問うた。
そこで感じた印象は、ボランティアテントで活動する青年たちの多くは、ある意味、ボランティア専門家だ、ということだった。
普段何をしているか、という質問にははっきりした回答をしない青年も、過去のボランティア歴を聞くと堰が切れたように話し出す。
特に2014年ソチオリンピック、2017年FIFAコンフェデレーションズカップロシア大会で活動歴を持つ青年が多かった。
「自分が大きなイベントを見る側ではなく、動かす側にいることで、普段感じることのない充足感を覚える」
「この感覚を求めて、次々と国際的なイベントにボランティアとして参加するようになった」
ある青年はこう答えた。
リクルートセンターは大学に設置
昨年のコンフェデレーションズカップロシア大会は、日本が参加しなかったため、日本国内での報道は今ひとつの盛り上がりであった。
しかし、ロシアにおいては、W杯のプレ大会との位置づけが与えられ、ボランティアの募集もW杯と同時期に行われた。
このため多くのボランティアはコンフェデレーションズカップから活動を始めている。参加したボランティアの数は、コンフェデレーションズカップが5500人に対し、W杯は1万5000人であるから、その規模の違いは明白だ。
しかし、興味を引くのは、2017年から2018年までの1年超をボランティア活動に明け暮れた5500人の素性である。
ロシア人参加者は、母国語のほか、共通語としての英語、さらには第3か国語ができることが望ましいとボランティア募集要領に書かれているので、FIFAはボランティアの対象として現役学生を対象にしていると考えられる。
そのため、ほとんどのボランティアセンターは、大学内に設置され、リクルート業務を行なった。
しかし、筆者の記憶ではボランティアテントのリーダーたちは30歳前後の若者が多く、ほとんどは大学既卒者であった。
ロシアでは、大学や大学院の卒業資格を持つ若者がいかなる組織にも属さず、その場その場の仕事を見つけながら、自らの趣味に大きく傾いた生活をしているケースを結構見かける。
こういう若者の中に、ボランティアを専門的に引き受けるグループが、ソチオリンピック以来大きくなっているように見えるのだ。ボランティア専門家、とでもいうべきグループである。
ボランティアを渡り歩くロシアの若者
ボランティアテントにいたリーダーと思しき女性に、大会終了後はどうするのか尋ねると、「FIFAのボランティアプログラムの充実ぶりが大変気に入りました。来年のFIFA女子W杯でボランティアをするため、フランスに早めに移動したいと思っています」ということであった。
ちなみに彼女の職業は不詳であった。ご承知のように、ボランティアに給与は支払われない。しかし、今回のW杯を見ると、ボランティアには勤務時間内の食事、交通費、宿舎、さらにユニフォームなどは無償で用意され、ある意味、生活は可能である。
このままいくと、ロシア人の持つ個人主義的な人生観とボランティア精神が見事結びつき、ロシアは世界的なボランティア大国になるのではないだろうか。
東京オリンピックのボランティア募集も開始されたが、対象は日本人だけではなく、世界から希望者を受け入れる方針だ。
2020年、我々は東京オリンピックの会場で英語を流暢に話すロシア人ボランティアに出会うことになるかもしれない。
そして、このロシア人ボランティアたちに見られるような、世界を駆ける一匹狼が、ロシア社会を、そしてロシア政治を根底から変えていくのではないか、と筆者は感じている。
ただし、それはロシアにとって良いことなのかいまだに断言できないでいる。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54580
- 日韓「友好幻想」の終焉元徴用工判決の狙いは65年日韓基本条約のちゃぶ台返し メルケル首相が去ってもドイツの苦悩は消えない うまき 2018/11/05 11:06:08
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