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サウジアラビア人ジャーナリスト、カショギの殺害は、ムハンマド・ビン・サルマーンの終わりを告げかねない
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-8c21.html
2018年10月14日 マスコミに載らない海外記事
Federico PIERACCINI
2018年10月12日
著名なサウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギの死は、主流マスコミの偽善、サウジアラビア政権内部の緊張、欧米諸国の二重基準を暴露する重大な影響をもたらす可能性がある。
2018年10月2日、サウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギが、在トルコ・サウジアラビア領事館内で殺害されたという。事件の経緯は、殺害が計画的なものだったことを示しているように思われる。彼が死亡する二日前、アメリカ合州国で再婚する準備として、彼の離婚証明書類を得るため、カショギは在イスタンブール・サウジアラビア領事館を訪問していた。サウジアラビア領事館は、彼に書類を受領するため、10月2日に再訪するよう指示し、彼はその通りにした。彼は10月2日の午後1時頃、領事館に入ったが、決して出てこなかった。カショギの婚約者が数時間待った後、カショギが二時間たっても出てこなかったら、そうするよう指示していた通り、急報した。
ほぼ一年前のレバノン首相、サード・ハリーリーがそうだったように、国家元首を拉致するのも辞さない国、サウジアラビアの標準からしても、まるでSF小説を思わせるこの話の再構築を始める必要があるのは、ここからだ。
時にジャーナリズムと諜報機関の間に存在する、この場合には、サウジアラビアとアメリカ合州国の諜報機関が関与する協力という闇世界の代理人ジャマル・カショギは物議を醸す人物だ。カショギが、ソ連のアフガニスタン駐留時代、リヤドとCIAに雇われた工作員であることが、サウド王家内の当局者により、事実上、認められていた。
1991年から1999年まで、彼は、アフガニスタン、アルジェリア、スーダン、クウェートなどのいくつかの国々や他の中東諸国で働き続け、後にワシントンとロンドン大使となり、更に、サウジアラビア諜報機関のトップを24年間つとめた友人トゥルキ・ファイサル・アル-サウドのために、あいまいな役割を良く演じていた。
1999年から2003年まで、カショギは、サウジアラビアの主要英語雑誌、アラブ・ニューズ編集者に任命されていた。2003年末、彼はサウジアラビアで最もリベラルな、親欧米、親改革派新聞の一つアル・ワタンに移った。彼の仕事はわずか52日しか続かず、過激なワッハーブ派聖職者イブン・タイミーヤを強く批判して、追い出された。アブドゥッラー国王とトゥルキ・ファイサル・アル-サウドとの間の内部抗争の後、カショギはサウジアラビア政権に対する批判的意見の人物に変わった。
アブドゥッラー国王に忠実な一派からのカショギに対する主な批判の一つは、編集者時代、CIAのために、彼が何人かのジャーナリストを採用し、雇っていたというものだ。そのような非難は、マスコミへの、更に世論への、ワシントンが望んでいることをし損ねている指導者に圧力をかけるための影響力強化を目指しているCIAの慣習と合致する。
一体どのようにしてカショギ失踪に至ったのかを良く理解するにはカショギの政治的保護者トゥルキ・ビン・ファイサル・アル-サウドの経歴を子細に吟味することが重要だ。
ハリード国王(1975年-1982年)支配時代、トゥルキ・ビン・ファイサル・アル-サウドは、ワシントンとサウジアラビアとの関係の中心で、ソ連のアフガニスタン駐留時代、パキスタンが武器を与え、サウジアラビアが資金を与えた(後にアルカイダと知られるようになった)外人戦士の支援を得て、ソ連にできる限りの損害を与えることに専念していた。1982年、アフガニスタンでの戦争終結後、ファハド・ビン・アブドゥルアジズ・アル-サウドが国王になり、2005年まで在位した。この期間、ファイサルは、評判の良い人物で、サウジアラビア諜報界内で、誰もが認める指導者となった。2001年9月11日の数カ月前、2001年5月24日、彼は職位から外された。2001年9月11日の攻撃後、オサマ・ビン・ラディンとの彼とのつながりが、それに続く年月、トゥルキ・ビン・ファイサルを悩ませ続け、9/11犠牲者の家族に、彼や他のサウジアラビア工作員に対する何百万ドルもの訴訟で告訴までされた。2003年から2005年、トゥルキ・ビン・ファイサルは、イギリス大使をつとめ、国際社会の中で、主要なサウジアラビア人としての彼の役割が強調されることになり、カショギと出会い、彼を個人的顧問として取りたてて庇護した。
その後の年月、王国内で爆発的な分裂があり、2005年、アブドゥル・アジズ・アル・サウド国王の死で際立った、アブドゥッラー国王が継ぎ、2015年まで在位した。
ブッシュ政権時代の2005年、トゥルキ・ビン・ファイサルは、サウジアラビア・アメリカ大使に任命され、カショギはメディア顧問として同行した。この期間、カショギは、イスラエル-パレスチナ和平プロセスの最も強力な支持者の一人となり、リヤドとテヘラン間の外交論議を開始させ、彼の見解を説明するため、37以上のアメリカの州を訪れた。ワッハーブ主義に夢中なサウジアラビア政権の利益を推進しながら、同時に、イスラエル・シオニズムと、アメリカ ネオコンの友人であり続けたが、トゥルキ・ビン・ファイサルは余り過激でない姿勢をとり、より対話を好んだ。そうした理由から、アメリカ政権が、明らかに穏健派のトゥルキ・ビン・ファイサルよりも、過激派のバンダル・ビン・サルタン(ブッシュ家の大親友)をあからさまに好んだため、大使時代、ホワイト・ハウスに招かれることは多くなかった。
自然な結果として、アブドゥッラー国王は、サウジアラビアとアメリカとの間で開催される重要な会議から、彼を益々遠ざけるようになった。最終的に、ビン・ファイサルは、抗議し、辞任した。彼の後を、バンダル・ビン・サルタンが継いだ。
カショギに戻ろう。アル・ワタンをやめた後、彼はロンドンに移り、トゥルキ・ビン・ファイサル・チームの上級顧問になったことは注目に値する。トゥルキ・ビン・ファイサルのワシントン大使時代、カショギは報道関係の長になり、アメリカ・メディアの主要な国内・国際部門と直接接触するようになった。
それ以降の年月、トゥルキ・ビン・ファイサルが、ワシントンで大使として働いた間に、カショギは、サウジアラビア聖職者や、サラフィー主義全般に極めて批判的な記事を載せるリベラルなサウジアラビア新聞アル・ワタンの新発行人になった。数日後、彼は再び、辞任を強いられ、新聞を去った。この出来事の後、カショギは、サウジアラビアで最も裕福な人物の一人アル-ワリード・ビン・タラルと直接、連絡をとれるようになり、バーレーンを本拠とするアル・アラブニュース放送局のディレクターに任命された。このニュース局は、中東やサウジアラビアでの出来事に対する偏らない、客観的な見解を提供しようとしていた。アル・アラブのディレクターとして、彼は良く、BBC、ABCニュース、アル・ジャジーラやドバイ TVなどの国際報道機関に声明を出したり、インタビューをしたりしていた。近年、彼はアル・ジャジーラの常連ゲストとなり、ワシントン・ポストに毎週コラムを寄稿していた。
カショギに起きたことは、反体制派の物語というよりは、アメリカ帝国主義の新自由主義分子に対する戦いと絡み合った、極めて複雑なシオニスト-サウジアラビア-ネオコンのつながり内部の戦いなのだ。アメリカ政治を悩ませている舞台裏のあつれき、サウジアラビア独裁政権や、トルコの不明瞭な役割に関するマスコミの偽善を理解するためには、しっかり検討するに値する話題だ。
カショギに戻ると、王国存続のために必要不可欠なこととして、サウジアラビアにおける重要な改革を奨励する上で、このジャーナリストが重要な役割を演じたのはオバマ大統領時代だった。この期間、リヤド・ワシントン関係は多くの理由、特にエジプトとシリアに対する政策の違いやサウジアラビア国内の人権に関するものから着実に悪化し続けた。
サウジアラビア国内で、サウド王家を始末するため、アラブの春を利用するのにオバマは乗り気だと、サウジアラビア王家内部の多くが疑っていた。リヤドとワシントンとの間の関係はその後、史上最低に悪化した。カショギは、リヤドに対するこのマスコミと政治戦略の先陣だった。王家の近しい友人で、彼らをおおやけに批判することになった人物は物議を醸し、彼が書く本は良く売れ、注目を集めた。
我々はサウジアラビア世界の原子を分裂させていることに留意しよう。だが自国民も外国人も拷問し、殺人する政権について我々が語っていることを忘れてはならない。連中の政治目標を推進するために使われる武器として、テロを生み出す政権なのだ。道徳的ためらいで苦しむような連中ではないのだ。
それにもかかわらず、特に外交問題ということになると、権力を握っている連中が一枚岩の国など皆無だ。ことの成り行きを決めるのは、カショギの死の場合のように、競合する見解と、内部抗争なのだ。
オバマ政権時代、元サウジアラビア諜報工作員で、王家に親しい人物は、イラクとアフガニスタンでの大惨事の後、アメリカ帝国主義者の支配を拡張するための新戦略として、特にオバマ政権に好まれた権力の形としてのアメリカ・ソフト・パワーの世界(カラー革命、アラブの春)につながる広報機関として活動し続けた。リヤドが地域で演じている役割、特に、対シリア侵略に関して、このジャーナリストが評価していたとは言え、サウジアラビア王家批判は変わらなかった。
それに続く年月、サルマーン王が権力の座につくと、特にドナルド・トランプの当選後、地域と“反体制派”ジャーナリストにとって全てが悪い方向に変わった。ビン・サルマーンがサウジアラビアで権力を掌握する実力者となり、トランプのお墨付きを得て、特に、カショギを良く出演させ、ビン・サルマーンと彼の王国将来構想(Vision 2030年)に益々批判的になったアル・ジャジーラの役割を巡り、カタールとの準戦争を引き起こした。
ビン・サルマーンの弾圧作戦中、王の甥は、すかさず、彼の敵全員を攻撃するのに利用し、カショギに近い多くの人々が逮捕され、拷問され、殺害された。特に、彼がTwitterのような企業にも関わっていて、外国で最も有名なサウジアラビア人の一人なので、欧米にとって大いに不愉快なことに、彼の古い知り合い、アル=ワリード・ビン・タラールが、逮捕され、拷問された。弾圧の頂点では、レバノン首相サード・ハリーリーすらもが拉致され、リヤドに、こっそり連れ去られ、何日間も再教育された。カショギは、迫り来る危険を感じて、2017年に、サウジアラビアから逃れ、アメリカ合州国に居を構えた。
カショギはサウジアラビア政権を批判するコラムを続け、イエメンでの作戦やアル・ジャジーラ攻撃を非難し、ビン・サルマーンは、王国のためになる革命児とほど遠いと批判した。カショギの批判は、民主主義の欠如とサウジアラビア王国トップの硬化を指摘し、ビン・サルマーン批判が苛立たせ、最終的に、ジャーナリスト処分の決定になった。
イスタンブールにおける事件は、ドナルド・トランプが地域における親密な二つの同盟国イスラエルとサウジアラビアに自由裁量を認めて生じた奇怪な状況の極致だ。過去24カ月間のこの二国の行動を分析すると、ワシントンの白紙委任状の程度が明らかになる。
匿名のサウジアラビア情報源を引用して、カショギの死にまつわる奇抜な憶測をしてみることも可能だ。単純に最も明白な結論を出すこともできる。カショギは、リヤドからの昼の便でイスタンブールに到着し、カショギ殺害の数時間後に出国した約15人のサウジアラビア人工作員によって拷問され、殺害され、切断される前に、領事館内で逮捕されたのだ。常に何重もの裏切りを演じているトルコ諜報機関が、何が起きているか知らなかったとは到底信じがたい。カショギ本人は、おそらく在イスタンブール・サウジアラビア領事館は書類を受け取るのに安全な場所だと言う保証を得ていたのだろう。彼は明らかに、彼が大いに信じていた誰かに裏切られたのだ。
トルコはカタールの強力な支持者で、地域で主要な役割を演じている。リヤドとアンカラの関係は、近年最善とは言えないが、地域における両国の共通権益は極めて重大なので、トルコ国家情報機構が、カショギ暗殺と15人の工作員の出国を可能にするよう、見てみないふりをしていても驚くべきことではない。更に、エルドアンは、この話が、アメリカ合州国とサウジアラビアの間に、特にアメリカ支配体制のリベラルなマスコミ内部にもたらすはずの問題を十分承知しているのだ。
内部説明の解決から生じる問題多岐にわたる。それには、たとえ彼らが、あからさまにリヤドを責めず、ニュースを超然として扱っても、カショギの死に関する身の毛もよだつ詳細を明らかにし始めているワシントン・ポストやCNNやABCニュースなどの主流マスコミの憤りもある。様々なロビーを通したサウジアラビアの金が、カショギ失踪へのサウジアラビアの関与という直接の非難を思いとどまらせるのに成功して、そうしたマスコミの注目の影響をそぐ。時間がたてばたつほど、ビン・サルマーンの命令で、カショギが王国を批判する人間として、サウジアラビア領事館内で、どのように殺害されたのかがより明らかになる。どこかの時点で、主流マスコミは、サウジアラビアをかばいきれなくなるだろう。結局「知らなかったので、責任がない」と言うか、合法的に正当化するかの可能性ということになる。今回、このいずれの手法も、アメリカが受け入れるのは困難だ。
結論は、イスラエルとサウジアラビアとアメリカ合州国を世界の他の国々から更に孤立させる恐れのある一触即発の状態だ。そこでホワイト・ハウスは、公式な困惑と懸念の声明を出し、サウジアラビアに、カショギがサウジアラビア領事館から出た本当の証拠を提供するよう要求せざるを得なくなる。リヤドが、大使館から去っているのだから、失踪したのはトルコの責任だと主張して、ジャーナリストの失踪をトルコのせいにすることを企んでいたことも考えなければならない。
したがって、エルドアンが"カショギが今でも生きていることを証明する責任はサウジアラビアにある"と主張するのも驚くべきことではない。外国人ジャーナリストにさせた領事館内見学も、余りに明白に見えることについて沈黙させるのに失敗した。カタールのようなリヤドの地政学的な敵や、アメリカ新自由主義一派(オバマや、サウジアラビアの国教、ワッハーブ主義に対する、政治的代案を自称しているためサウジアラビアでは非合法化されているムスリム同胞団一派とつながる)にも近い不愉快な意見の人物を抹殺して、トランプの黙認に従った、リヤドはやりすぎたのだ。
過去12カ月、一連の無謀な行動で、イスラエルと、アメリカとサウジアラビアによるありとあらゆる挑発が行われた。イスラエル人パイロットの意図的な無謀な操縦による結果としてのロシア軍のIl-20撃墜、シリアという主権国家に対する200回以上の爆撃、イエメン戦争でのリヤドとの協力、ネタニヤフが国連総会で主張したヒズボラとイランに対する恫喝。サウジアラビアは、もっと酷いことをしでかしており、レバノン首相を拉致し、ダーイシュやアルカイダのような過激派への資金供与を継続し、カタールやイランに対する極悪非道な行動、イエメンを爆撃し、そして最近のサウジアラビア大使館内でのジャーナリスト殺害。アメリカは、 ここ数日で、二つのおぞましい宣言をした。つまり、一部の兵器を廃絶するためのモスクワに対する先制攻撃の威嚇と、エネルギー輸出を阻止するための海上封鎖だ。
カショギ事件とそれに続くマスコミの抗議、トランプに対する主流マスコミのイデオロギー的な憎悪や、(汚職で起訴され、妻も捜査されている)ネタニヤフの益々追い詰められる状況からして、もしこの最新の事件が、弱まる兆しはなく、逆に日に日に激しくなっているエリート支配層間の政治戦争における弾薬として機能しても決して驚くべきことではない。
中東における出来事に影響を与えるのに使えるアメリカ合州国最後の同盟諸国の一つが、ビン・サルマーンの無分別な行動の結果、ばらばらになる危険に直面している。既にエルドアンは、ジャーナリストが生きていることを証明するよう要求して、サウジアラビアに挑戦している。王国では、アンカラとリヤドの間と、ビン・サルマーンとエルドアンの間の衝突の意味合いに関してあからさまな憶測がある。この最新の無謀な行動が、わずか一年半後、王国の若き専制君主としての経験の備蓄をすっかり使い果たしたように見える支配者にとって致命的なものになりかねないと進んで断言する人々がいるのだ。
記事原文のurl:https://www.strategic-culture.org/news/2018/10/12/killing-saudi-journalist-khashoggi-could-spell-end-for-mohammad-bin-salman.html
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