プーチンが「領土棚上げ」を口走った深刻事情 「年内平和条約」の提案は何を意味するのか 美根 慶樹 : 平和外交研究所代表 2018年09月13日9月10日に会談した安倍晋三首相とロシアのウラジーミル・プーチン大統領(写真:Valery Sharifulin/TASS Host Photo Agency/Pool via REUTERS) ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は9月12日、ウラジオストクで開催中の「東方経済フォーラム」で突然、爆弾発言をした。 本連載の一覧はこちら 「いま思いついた。平和条約を前提条件なしで結ぼう。今ここでとはいわない。今年末までに結ぼうではないか」と、文字通りの"思いつき発言"をしたのだ。
これは「領土問題を棚上げして平和条約を結ぼう」というもの。日本側としては到底応じることはできない。このような提案は、プーチン大統領が誠意をもって領土問題に取り組んでいるか疑問を抱かせるものといえる。一体、その背景には何があるのだろうか。 「領土問題は一朝一夕には解決できない」 この爆弾発言に先立つ9月10日夜、安倍晋三首相とプーチン大統領は正式に会談を行っている。両首脳は、北方領土での「共同経済活動」の実現に向けた「ロードマップ(行程表)」を取りまとめた。 肝心の領土問題については、安倍首相は、「(北方領土)4島の未来像を描く作業の道筋がはっきりと見えてきた」と進展があった印象をにじませる発言。それに対し、プーチン大統領は「長年議論が続いている領土問題を一朝一夕には解決できないことはわかっている」と前置きの上、「両国国民に受け入れ可能な解決方法を探すという意味で共同経済活動に着手した」と、ロシアの立場を語っていた。 しかし、現実にはなんら北方領土問題は進展していない。この際、あらためて北方領土問題の現状と課題を見ておこう。 そもそも、今回の首脳会談において、領土問題解決の突破口が開かれるという期待感があったわけではない。あくまでウラジオストックで開かれる「東方経済フォーラム」に安倍・プーチン両首脳が出席するのを機会に設定されたにすぎない。そう考えれば、今回の会談は失敗とか成功とか評価すべきでなく、予想どおりの結果だったといえる。 日本は、北方4島は「日本固有の領土」であるという立場である。19世紀、東方へ進出してきたロシアと日本が1855年の日露和親条約で境界を確定して以来、北方4島は日本の領土であった。一方、ロシアは、「第二次大戦の結果ロシア領となった」というのが基本的な立場である。 世界の歴史において、戦争によって一部領土の領有権が移ることは実際にあったことであり、ロシアはその例を見ながらロシアの立場を正当化している。「ロシアは第二次大戦に連合国として参戦し、その結果北方4島をロシアの領土として獲得した」という理屈である。 これに対し、日本は、「北方4島がロシアによって『占領』されているのは事実であるが、領土問題は法的に解決しておらず、ロシアは北方4島について権利を持たない」と反論している。日露両方とも実際に使っている言葉は多少丸くしているが、主張の趣旨はそういうことである。 安倍首相は、このような状態を「異常な戦後」と評し、「私とプーチン大統領の間で終わらせる」と述べている。しかし、そう簡単ではない。 プーチン大統領はロシア国内の世論に忠実 日本とロシアの歴代の指導者は領土問題を解決して日露関係を正常化させるためさまざまな努力を行ってきた。人によって、また、時代とともに主張や取り組み方は違っているが、ロシア側で問題の解決に最も熱意があったのはエリツィン大統領であった。 残念なことに、同人はロシア国内での政治的立場が弱く、結局日本との交渉の結論が出る前に辞任してしまった。 プーチン氏はエリツィン氏の後を継いで大統領に就任した。ロシア国内での政治的立場は強いが、日本との関係正常化にエリツィン氏ほどの熱意は見せない。日本とロシアが1956年に行った宣言は領土問題の解決方針にも言及していたが、プーチン氏はその宣言よりも後退しているおそれがある。 プーチン氏がそのような姿勢をとるのは、ロシア国内に北方4島を日本に返還することに反対する世論が強いからであるが、それだけではない。プーチン氏の頭を占めている大きな問題はアメリカとの関係である。アメリカとロシアは冷戦の終結後も、いわゆるミサイル防衛網に関し対立してきた。さらに、2014年、ロシアが強引にクリミアを併合して以来、ロシアと米欧諸国との関係は険悪になり、「新冷戦」との呼ばれる事態に陥ってしまった。 このような状況を背景に、ロシアは、北方4島を仮に日本に返還すると、アメリカ軍に利用されることを問題視している。4島(のどこか)に、ロシアを標的とする基地が設置される可能性があるというわけだ。また、ロシアは、日本の陸上配備型ミサイル迎撃システム「イージス・アショア」の導入も問題視している。ロシアは日米同盟を警戒し、それを強くすることには極力反対するのである。 そのような安全保障上の問題は、ロシアが北方4島問題を解決したくないために使っている口実とも考えられるが、冷戦中にも時折言及していた問題でもある。 また、北方領土の日本への返還後かりにアメリカ政府から基地設置を求められた場合、日本政府は拒否できるかと言えば、それも困難かもしれない。少なくとも、米軍の基地を認めるようなことはないと断言はできないだろう。ロシアは、特に安全保障面では、日本はアメリカが嫌がることはできないことを見越して日本との交渉を有利に進めようとしているのだ。 中国と大規模な軍事演習を実施したロシア 安全保障面では日本側にももちろん言い分がある。ウラジオストックでの「東方経済フォーラム」に合わせ、ロシアは中国とともに大規模な軍事演習を行ったので、安倍首相はロシア軍の極東での軍事演習を「注視している」とプーチン大統領に伝え、牽制した。 安全保障問題はともかく、「共同経済活動」はよいことであり、この活動を通じて「両国国民に受け入れ可能な解決方法」が見つかることを期待したいものだ。 しかし、問題がないわけではない。最大の問題は、北方4島で日本側がロシア側と協力して事業を行う場合、ロシア側は「ロシアの法律に従う」ことを求めていることだ。日本側は、「それではロシアの主権を認めることになり領土問題を解決することにならない、むしろ障害となる」と反論している。 ただし、この対立を続けるだけでは何も進展しないので、日露両国は共同経済活動を実現するための「特別な制度」について協議していくことになっている。安倍首相は「特別な制度」とは「両国民が一緒に住む経済特区のようなものか」と聞かれて、「そのようなイメージだ。世界でもあまり例がない」と述べ、日本企業がサケの加工工場を建設する例を挙げた。 しかし、これでは「特別な制度」とは何か、明確でない。問題は「ロシアの法律に従う」ことを認めないでいかにロシア側と折れ合いをつけるかであり、どのような解決方法があるか、まだ不明である。 今回の首脳会談では、共同経済活動についての話し合いが進み、日本側は今年10月、民間事業者によるビジネスミッションを派遣することとなった。これは結構なことだが、「特別な制度」についての協議が進展した形跡はなかった。 また、ロシア側は、現在「共同経済活動」の対象になっている海産物の養殖、風力発電、ゴミ減容化(容積を減少させること)、温室野菜栽培および観光だけでは足りないとし、日本企業がロシア国内で大型事業に参入することなどを要望してきている。 そのようなロシア側の要望はわからないでもないが、そこまで進むには、「特別な制度」をはじめ日露間で信頼を構築する必要がある。ロシア側が、「特別な制度」については相変わらず固い態度で終始しながら、要望だけは遠慮なくしてくるのであれば、日本側としては応じられない。 総論的にはよくても各論に入ると進まず… 経済面での協力においては、安全保障関連問題と違って、日露両国は共通の利益を達成しようとしているが、それでも双方が努力しなければ進まない。共同経済活動には、約20年前、いったん合意したが、結局何ら成果を出せないまま終了した前歴がある。総論的にはよくても、各論に入ると難問が出てくる1つの例であった。 プーチン大統領の個性とロシア内外の政治状況にかんがみると、近日中に平和条約交渉がまとまる公算は、残念ながら、低いと言わざるを得ない。だからこそ冒頭の"思いつき発言"が飛び出したのだろう。 日本側は、こういう状況下では、いたずらにスピードを求めるべきではないだろう。あくまで辛抱強く、坂道で荷車を押し上げる気持ちで努力を積み重ねるしかない。「共同経済活動」は、まさにそういう気持ちで進めていく必要がある。領土問題の解決をもって平和条約を締結する、との原則は曲げるべきではない。 年金改革はプーチン氏の鬼門か 解析ロシア 譲歩案示した弱気姿勢があだ花に?
2018年9月14日(金) 池田 元博 ロシア社会で今、極めて大きな関心事となっているのが年金制度改革だ。小欄でも何度か取り上げてきたが、受給開始年齢を引き上げる政府案に国民が反発。政権批判の声が強まり、プーチン大統領の支持率も低下した。事態を重くみた大統領はついに「譲歩案」を提示、自ら収拾に動き始めた。 年金改革についてテレビで演説するプーチン大統領(写真:AP/アフロ) 「この先、長期間にわたって、年金システムの基盤と財政的な安定性を確保するのが制度改革の主な課題です。つまり、現在と将来の年金生活者の収入を維持するだけでなく、増やすことが目的なのです」――。 8月29日。プーチン大統領は国営テレビを通じて、年金制度改革に関するメッセージを国民に語りかけた。 大統領がテレビに登場すること自体は珍しくない。大統領の動静はニュースでほぼ毎日伝えられるし、自らは毎年、「プーチンとのホットライン」というテレビ番組に生出演して国民の数多くの質問や苦情に直接答えている。また、年末にはテレビを通じて国民に新年の祝辞を伝えるのが恒例となっている。 他にも大統領選への投票を呼びかけるなど、国政にかかわる重大局面で国民向けのメッセージを発表することはある。ただし、個別の政策テーマに関して、大統領がテレビを通じて国民に直接訴えかけるケースは異例だ。年金改革はそれだけ重要な課題というわけなのだろう。 とはいえ、政権にとって極めて大事な政策課題にもかかわらず、これまでプーチン大統領は前面に立って国民を説得してこなかったのが実情だ。制度改革の推進役はメドベージェフ首相率いる連邦政府と、政権与党の「統一ロシア」に委ね、自らはどちらかといえば傍観者の立場で、発言を極力控えてきた。 政府が打ち出した年金制度改革案は、年金の受給開始年齢を、男性は現行の60歳から65歳、女性は同じく55歳から63歳に引き上げるのが骨子だ。平均寿命が延び、少子高齢化も進むなかで、長期にわたる年金財政を健全化することを主眼にしている。ロシアは他国と比較しても年金制度改革への取り組みが大幅に遅れており、その意味でも受給開始年齢の引き上げが急務になっていた。 ただし、当然のことながら国民に痛みを強いる政策となるだけに、政権としてもなかなか着手できない。とくにプーチン大統領は2005年、「自分の大統領としての任期が終わるまで、受給開始年齢は変更しない」と公言していた。それだけに、なおさら難しかった。 曲折をへて、政府はようやく今年6月に改革案の概要を公表。議会の下院は年金改革法案の審議に入った。翌7月の第1読会では野党勢力がこぞって反対したものの、下院で圧倒的な議席数を誇る「統一ロシア」の支持によって法案を基本承認した。 しかし、国民の9割以上が年金受給年齢の引き上げに反対する中、批判の矛先はメドベージェフ首相率いる政府や「統一ロシア」だけでなく、年金制度改革で「中立」を装っていた大統領自身にも向かった。かつて80%を超えていたプーチン大統領の支持率はここにきて急落し、60%台まで落ち込んでしまった。 プーチン政権も実質4期目に入り、社会ではただでさえマンネリ政権への不平・不満が水面下で渦巻く。国民の反発が根強く、支持率急落の主因となっている年金制度改革の問題でこのまま手をこまぬいていれば、政権の求心力低下に歯止めがかからなくなる恐れがあった。 プーチン大統領がこのタイミングで、テレビを通じて国民向け談話を発信したのは、年金改革問題への対処を誤れば政権を揺るがす一大事に陥りかねないという危機意識が大きく働いたともいえるだろう。 では、大統領は具体的にどのようなメッセージを国民に伝えたのか。 国民の説得に苦慮 大統領はまず、多くの犠牲者を出した第2次世界大戦と1990年代の深刻な経済・社会危機によって、ロシアが深刻な人口減問題を抱えていると指摘。生産可能人口が減少すれば自動的に年金の支払い能力も低下するので、年金制度を修正していくことが欠かせないと強調した。 一方で、2005年に「自分の任期中は変更しない」と公約した過去の経緯にも言及した。当時は国民総生産の規模は小さく、賃金も極めて低かったうえ、失業率やインフレ率が高く、実質的に国民の4分の1が貧困生活を余儀なくされていたと列挙。「2000年代初頭や半ばに年金の受給年齢を引き上げるのは絶対的に不可能だった」と振り返った。 つまり当時は年金改革どころではなく、まずは1990年代のエリツィン政権時代の社会・経済混乱を収拾し、経済成長達成を優先しなければならなかったわけで、年金の受給開始年齢は引き上げないとした当時の自身の決断は、正しい選択だったと弁明したわけだ。 これに対して、ロシアは2016年からは安定した経済成長を達成し、失業率も1991年以来で最も低くなっていると説明。他方、国民の平均寿命は直近の15年間で7.8歳も延びる半面、年金保険料を納付する勤労者と年金受給者の比率は2019年に1.2対1(2005年時点では1.7対1)となる見込みで、このままでは政府の財源も不十分なまま年金財政が破綻しかねないと警告した。 ただし、いくら様々な数字を列挙して年金システムの苦境を訴えても、国民は納得しないと判断したのだろう。プーチン大統領は続いて結局は、自らの譲歩案を示して国民の理解を求めたのだ。とくに女性については、年金の受給開始年齢を現行の55歳から63歳に引き上げるとした政府案を撤回し、60歳までの引き上げにとどめると約束した。 男性については現行の60歳を65歳まで引き上げる政府案を踏襲する。つまり、男性と女性の受給開始年齢の引き上げ幅を同等とすることで、とくに女性の不満解消を狙ったわけだ。 プーチン大統領はさらに、多くの子どもを産んだ女性や、障害者などに対する優遇策を進めるほか、年金を受給する直前の年齢層の勤労者に対する雇用や社会保障対策を充実させると公約。年金生活者を対象にした公共交通機関の無料パスの配布、所得税や不動産税などの優遇策は、従来通りの年齢から適用すると表明した。 ロシア経済紙「ベドモスチ」によれば、女性の就業率は現行の年金受給開始年齢である55歳を境に急落し、60〜64歳になると、わずか26%に過ぎない。年金の受給開始に合わせて仕事をやめ、家庭で孫の世話などに専念するのが通例となっているようだ。 政府の当初案通りに女性の受給開始年齢を63歳まで一気に引き上げると、こうしたライフスタイルの抜本的な見直しが迫られるため、国民の不満が倍加したともいえる。
また国内の世論調査では、政府の年金制度改革案に圧倒的多数が反対する一方で、プーチン大統領が土壇場で政府案を全面撤回するシナリオを望む国民が相当数に上っていた。 弱みを見せてしまったプーチン大統領 プーチン大統領はかつて2000〜2008年の政権1、2期目にエリツィン前政権下で深刻化した社会混乱を収拾し、年金や公務員給料を大幅に引き上げて国民生活を大幅に向上させた実績がある。そうした「プーチン神話」はいまだに国民の間で根強く、「彼なら我々に痛みを強いることはない」「国民の立場に立って年金問題を解決してくれるはずだ」といった期待につながっている。 大統領としても結局、こうした国民の願望を無視するわけにはいかず、「国民のヒーロー」の役割を演じざるを得なかったようだ。ただし、ポピュリズム的な対応を優先させたことで、政府の財政再建策や年金制度改革は1歩も2歩も後退を余儀なくされた。 さらにやっかいなことがある。プーチン大統領といえば強権的で、何事も即断即決するタイプの強い指導者のイメージがあるが、こと国民に不人気な政策では支持率を気にして優柔不断に陥り、そのまま断行できずに譲歩するという弱みをみせてしまったことだ。 国民に年金制度改革の妥協案を示したことで、プーチン大統領の支持率低下にはひとまず歯止めがかかった。ただし、年金の受給開始年齢の引き上げに反対する国民の声は依然として根強い。デモや集会も頻発している。大統領がいったん妥協案を示したことで、今後さらなる譲歩を迫られる恐れもある。 民間世論調査会社レバダ・センターのレフ・グトコフ所長は、物価の上昇や貧困、失業問題などあらゆる分野で市民の不安や不満が広がっていると指摘。深刻な社会・経済混乱に陥った20年前の「1998年と似たような緊張がロシア社会で急速に高まっている」と警告する。年金改革問題をめぐる騒動もその一因という。年金制度改革は今後も引き続き、プーチン大統領の政権運営の鬼門になりかねない。 このコラムについて 解析ロシア 世界で今、もっとも影響力のある政治家は誰か。米フォーブス誌の評価もさることながら、真っ先に浮かぶのはやはりプーチン大統領だろう。2000年に大統領に就任して以降、「プーチンのロシア」は大きな存在感を内外に示している。だが、その権威主義的な体制ゆえに、ロシアの実態は逆に見えにくくなったとの指摘もある。日本経済新聞の編集委員がロシアにまつわる様々な出来事を大胆に深読みし、解析していく。
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