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国連事務次長だったフェルトマンが国連機関にシリア復興協力禁止の秘密指令(櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/18/kokusai23/msg/711.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 8 月 23 日 09:21:16: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

国連事務次長だったフェルトマンが国連機関にシリア復興協力禁止の秘密指令
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808220000/
2018.08.23 櫻井ジャーナル


 ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相によると、シリアの復興に協力することを国連の全機関が禁止されているという。そうした命令を昨年(2017年)10月、秘密裏に出したのは国連事務次長だったジェフリー・フェルトマン。潘基文国連事務総長が2012年6月にB・リン・パスコーと入れ替え、今年3月までその職に就いていた。

 フェルトマンはアメリカの外交官で、1991年から93年にかけてローレンス・イーグルバーガー国務副長官の下で東/中央ヨーロッパを担当してユーゴスラビア解体に関与、04年から08年にかけてはレバノン駐在大使、09年からアメリカ国務省で近東担当次官補を務めた。レバノン駐在の大使だった当時、イラン、シリア、ヒズボラを露骨に敵視していたことでも知られている。

 2014年2月にアメリカのバラク・オバマ政権はウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターでビクトル・ヤヌコビッチ大統領を排除したが、その直前、ネオ・ナチが棍棒、ナイフ、チェーンなどを手に、石や火炎瓶を警官隊に投げつけ、警官と市民を狙撃する中、ビクトリア・ヌランド国務次官補とジェオフリー・パイアット駐ウクライナ大使との電話での会話がインターネット上にアップロードされた。

 何者かが電話を盗聴、録音したのだが、その中でヌランドは次のようなことを言っている:「あなたにも話したか、ワシントンに話しただけなのか覚えていないんだけれど、今朝、ジェフ・フェルトマンと話した際、新しい国連のヤツの名前を聞いたわ。ロバート・セリーよ。この話、今朝、あなたに書いたかしら?」

 ウクライナのクーデターでフェルトマンはネオコンのヌランドと連絡を取り合っていたことがうかがえる。

 2012年7月の段階でフェルトマンはシリアが無条件降伏するシナリオを書いていたのだが、シリア軍はそれほど柔ではなかった。オバマ大統領は2015年2月に国防長官を戦争に消極的だったチャック・ヘーゲルから朝鮮空爆を主張していたアシュトン・カーターへ、また同年9月には統合参謀本部議長をマーチン・デンプシーからジョセフ・ダンフォードへ交代する。ダンフォードはロシアをアメリカにとって最大の脅威だと口にしていた人物。つまり、2015年9月の段階でオバマ政権は戦争体制を整えたのだが、その直後、9月30日ににロシア軍はシリア政府の要請で介入する。

 ロシア軍はアメリカ、イスラエル、サウジアラビア、イギリス、フランスなどが送り込んだジハード傭兵を本当に攻撃、その占領地は急速に縮小する。ユーフラテス川の北側はクルド勢力と手を組んだアメリカ軍、イギリス軍、フランス軍が基地を建設して居座っているが、南側は政府軍が奪還しつつある。残されたイドリブも政府軍による制圧は時間の問題だと見られている。そこで国外へ脱出していたシリア国民が帰国し始めた。フェルトマン、そして背後のアメリカ支配層はそうした流れにブレーキをかけようとしている。



 

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コメント
1. 2018年8月23日 12:11:18 : EfGMKKlSbH : GUx63FdCbhY[2] 報告

グータ地域をはじめとしてダマスカス周辺には避難した人々は戻る流れになっている。

 この流れで困ることは、アレッポの都市機能は復活し人々はもどったが、

 では、ラッカは?

 死者の埋葬すら放置されている。


 アル・タントにある米軍基地の南方にはキャンプが存在し避難している人々がいて、アンタッチャブル状態になっている。即ち、米軍支援のISIL戦闘員が大勢いるということである。

 このような事実が問題化するのは困る

 シリアの復興に1ドルも出させないというよりも、まずは、避難民の帰還を妨害しようとの思いであろう。

2. 2018年8月25日 22:39:12 : jXbiWWJBCA : zikAgAsyVVk[1368] 報告
アナン元国連事務総長死去「板挟みの中でつねに探ったギリギリの妥協点」

2018/08/24

花田吉隆 (元防衛大学校教授)

18日、コフィー・アナン元国連事務総長が死去した。享年80歳。初のアフリカ出身事務総長(前任のガリ事務総長は中東、エジプト出身)。たたき上げで事務総長まで上り詰めた人。2001年ノーベル平和賞受賞者。アナン氏は輝かしい経歴と数々の業績を残しこの世を去った。出身のガーナでは「国民の英雄」とされ、一時は、大統領に、との呼び声も高かった。しかしその足跡は、国連の苦悩を表すもの以外の何物でもない。


8月18日に死去したコフィー・アナン元国連事務総長(写真:ロイター/アフロ)
「世俗世界のローマ法王」と評されたアナン氏
 アナン氏は、1938年、当時、黄金海岸と言われた今のガーナのクマシ村で生まれた。名前のコフィーは、現地のアカン語で金曜日を意味する。生まれた4月8日が金曜だった。家庭には恵まれた。祖父と叔父は部族の長、家系はガーナの貴族である。コフィーは両親の愛を一身に受け順調に成長していく。1958年、ガーナの大学に進んだが、それは一部の者にしか認められない「特権」だった。続いて米国、スイスに留学、MITではMBAをとった。これ以上の恵まれた環境はない。このあたりは、途上国で名を成す人物に共通する。結局、学業の機会に恵まれることこそが途上国出身者の将来を切り開いていく。

 学業を終えたアナン氏は、1962年、WHOにポストを見つける。以来1974年から1976年までのガーナ観光会社での勤務を除き、アナン氏は国連を足場に活躍していく。

 アナン氏は物静かな人である。感情を表に出すことなく、常に自らの思い、主張を見事なまでにコントロールする。人はアナン氏を評し「世俗世界のローマ法王」という。人間が持つ、生の欲望はアナン氏には無縁である。「優秀な外交官」とはアナン氏を評するときに常に言われることだが、確かに、その、スマートでそつない言動は、洗練された外交官の極みを思わせる。アナン氏がまとうスーツは体にぴったりフィットし、その端正な顔立ちともあいまってアナン氏の姿は気品すら漂わせた。アナン氏に会うと、人は強い印象を受けずにいられない。

 この、そつなさこそが、良くも悪くも、アナン氏の40年以上にわたる国連活動に刻印されている。

冷戦の終結による「国連の台頭」
 そういう国連でアナン氏は頭角を現していく。やがて国連幹部に登用。そのかじ取りを一身に担う場に躍り出る。時、あたかも冷戦が終了、新たな秩序の模索の中で世界中が揺れ動いた時だった。その激動の波に、国連もまた一葉の落ち葉の如くのみこまれていく。

 アナン氏の生涯で際立った輝きを放つのは、事務次長及び事務総長として活躍した1993年から2007年である。中でもブトロス・ブトロス=ガリ事務総長の下、PKO担当事務次長として過ごした93年から97年は国連が冷戦後の激動に翻弄された時だった。

 当時、世界は冷戦終了に沸き立っていた。恐怖の均衡がようやく終わった。力と力が対峙する世界に代わり、今度は国連が舵取りする番だ。冷戦期間中、安保理は有名無実だった。五大国に拒否権がある以上、安保理の麻痺は避けられない。しかし、それも終わった。ようやく、国連が活躍する機会を与えられる。

 高揚感に酔う中、当時のガリ事務総長は、野心的な改革を打ち出していく。中でも画期的だったのが、国連に強制力を与える提案である。

国連に圧し掛かる「超大国の圧力」
 世界には世界政府と呼べるものがない。だから、国連がいくら良い提案をしてもそれを強制することができない。この「強制力」の問題は国連が持つ宿命的な限界である。代わって登場するのが各国の主権、就中、超大国たる米国の意思である。

 つまり、国連は、自らが掲げる理想と米国が持つ力との間で絶えず板挟みにあう。しかも、実際は米国の力の方が圧倒的に強い。米国の軍事力と拠出金なしに国連ができることは何もない。国連が追及する理想は降ろしたくない。しかし、現実の力とカネを無視して国連の存在はない。如何に両者の間にギリギリの妥協を探るか。事務総長がこなさなければならないのは、単線思考では如何ともしがたい難題である。

 国連に与えられた武器はただ一つ、国際世論だ。これとてバカにはできない。何と言っても数がある。多くの国が一つの声でまとまれば如何に超大国といえども簡単には無視できない。しかし世論は世論、出来ることには限りがある。超大国からはひっきりなしに圧力がかかる。板挟みの事務総長は身も細る思いである。

 ガリ事務総長はそういう中で国連のPKOに強制力を与える提案をした。

 新たな装いをこらしたPKOがアフリカに送りこまれた。しかし、そこで待っていたのは無残な敗北だった。1993年のソマリアでは、PKOとして活躍中の米兵がソマリア兵に捕まり惨殺、市中を引き回され世界中に衝撃を与えた。1994年のルワンダではPKOが住民の大量虐殺を前に手をこまねいていたとして世界から非難を浴びる。そして、1995年、ボスニアのスレブレニツァの虐殺でもPKOはなす術もなかった。

 結局、PKOに強制力を与える試みは失敗。1995年、ガリ事務総長は「PKOに強制力を与えるべきではない」と立場を後退させざるを得なかった。そのガリ氏の下でPKOの実際の指揮にあたったのがアナン氏である。非難は当然アナン氏にも向けられた。後年、アナン氏はルワンダの悲劇を振り返り「別の選択があっただろうか。確かにあったかもしれない。少なくともやってみるべき価値はあったかもしれない」と言っている。

自らを選んだ米国に正面から楯突いたアナン氏
 1997年、ガリ事務総長の任期満了に際し米国はその再任を拒否した。ガリは野心的すぎる、米国の言うことを聞かない。代わってアナン次長が事務総長に就任する。アナンは物静かで分をわきまえている。アナン氏のそつない言動が、米国がアナン氏を受け入れた一因とされた。

 しかし1997年の事務総長就任後、アナン氏は「ただ黙って言うことを聞くだけ」の事務総長にはならなかった。

 事務総長は国連と超大国の板挟みの中で、ギリギリの妥協点を探っていかなければならない。「ただ諾々と超大国の言うことを聞くだけ」との選択は、はなからなかった。しかし、超大国の意向を全く無視して事務総長が務まるわけもない。事務総長としてのアナン氏は、感情を表に出さず、常にスマートな言動を繰り返しつつも、板挟みの中で人知れず苦悩の日々を送っていたに違いない。

 特に、2001年の9.11後、米国はとみに単独主義的傾向を強めていく。2003年、米国が新たな安保理決議を得ることなく一方的に始めたイラク戦争に対し、アナン事務総長は「イラク戦争は違法」と強く抗議した。かくて2002年からのアナン事務総長第二期目、国連と米国との関係は緊張を孕まないではいられない。事務総長の側近は、いつアナン氏が辞任すると言い出すか、心配が絶えなかったという。

現実を知るからこそ、理想に近づくことができる
 アナン氏の第二期目、世界は冷戦終了後のユーフォリアから覚め、改めて米国の力の大きさを認識した。しかし、現実を認識することは理想を放棄することではない。むしろ現実の認識の中でこそ、理想に向けたしっかりとした足取りを踏み出すことができる。事務次長の時に手痛い失敗を被ったアナン氏は、そのことを改めて感じたに違いない。アナン氏の下の国連にはそういう確かな足取りが見てとれる。

 激動の中に翻弄された国連、その中にあって、物静かに洗練された立ち振る舞いで国連を率いたアナン氏。激動の国連の舵取りをするには向かなかったという人もいる。アナンは人を信じやすい、独裁者の表の顔だけでなく裏の残忍さも見なければならないのに、「世俗の法王」は表の顔だけ見て騙される、激動の国連には豪腕の事務総長こそがふさわしい。

 しかし、事務総長が国連の理想と超大国の力との板挟みの中にあることは忘れてはなるまい。目立った言動や立ち振る舞いは、一見、華やかで世間受けしやすく、国連の存在を世間に印象付けるかもしれない。しかし、「板挟み」の事務総長が腕力にものをいわせ、理想と現実の中で理想の方に大きく舵を切ったらどうなるか。アナン氏はそういう中で国連を沈没させることなく、粘り強く妥協点を探っていった。「スマートな」舵さばきは、はたから見れば物足りないかもしれない。しかし、「板挟み」の国連にそれ以外のどういう選択肢があっただろう。

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