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米国政府が反ファシスト派から反コミュニスト派へ切り替わった直後にできた日本国憲法(その1)
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2018.05.03 櫻井ジャーナル
現行の「日本国憲法」が施行された1947年5月3日当時、アメリカ政府内では反ファシストを掲げ、労働者の権利を認めようとしていたニューディール派の影響力が低下、反コミュニストで巨大企業の利益を優先しようというウォール街派が主導権を握っていた。ニューディール派の中心的な存在だったフランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死したことが大きい。
本ブログでも何度か指摘したように、1932年の大統領選挙でルーズベルトが勝利した直後からウォール街派はニューディール派と対立、33年から34年にかけてのころにはファシズム体制の構築を目指したクーデターを計画していた。この計画はウォール街の巨大金融機関が中心になったものだが、話を持ちかけられた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将が反発、カウンタークーデターを宣言し、議会で告発したことで発覚している。クーデター計画は失敗に終わった。
1941年6月にドイツ軍は90万人を西部戦線に残して310万人をソ連に向かって進軍させて42年8月にスターリングラード市内へ突入したのだが、その年の11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲してしまう。この段階でソ連に攻め込んだドイツ軍だけでなく、ドイツ自体の敗北が決定的だった。1943年1月には生き残ったドイツの将兵9万1000名が降伏する。
こうした状況を見て慌てた米英の支配層は1943年5月にワシントンDCで会談、7月に両国軍はシチリア島に上陸した。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この作戦でドイツ軍が負けたわけではない。米英支配層の目はソ連に向けられていたはずだ。
ドイツ軍の敗北が明らかになった1942年冬、ドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、44年になるとアメリカの戦時情報機関であるOSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループが情報将校のラインハルト・ゲーレン准将(ドイツ陸軍参謀本部第12課の課長)と接触している。ダレスたちが接触した相手にはSA(突撃隊)を組織、後にヒトラーの第一後継者に指名されたヘルマン・ゲーリングも含まれる。
1945年初頭になるとダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だったSS高官のカール・ウルフに接触して隠れ家を提供し、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。この件についてダレスと話し合うためにイギリス軍のハロルド・アレグザンダー(イギリス第8軍とアメリカ第7軍を指揮していた)は1945年3月にライマン・レムニッツァーをスイスへ派遣している。レムニッツァーはアレグザンダーに取り入ることでその後出世、ドワイト・アイゼンハワー政権で統合参謀本部議長になっている。
こうしたイタリアにおける単独降伏の秘密交渉を察知したソ連のヨシフ・スターリンはアメリカがドイツにソ連を再攻撃させようとしていると非難、それに対してルーズベルト大統領はそうした交渉はしていないと反論している。そうした最中、4月12日にルーズベルトは執務室で急死した。(続く)
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