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米国をはじめ西側の支配層が軍事的な緊張を高める中、そうした動きに抵抗するサイトにサイバー攻撃
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/
2018.03.25 櫻井ジャーナル
アメリカをはじめとする西側支配層にとって都合の悪い事実を伝えているサイトの一部がサイバー攻撃を仕掛けられ、アクセスが困難になっているところもある。(例えばココやココ)最近2カ月ほど断続的に攻撃が続けられていたが、その攻撃が成功したということのようだ。
現在、アメリカはウクライナ、シリア、イラン、東アジアで軍事的な緊張を高め、どこで戦争が始まっても不思議ではない。ドナルド・トランプ政権の閣僚人事を見ていると、親イスラエル派(シオニスト)の中でもネオコンからウラジミール・ジャボチンスキー色の濃い人脈へシフトしているようで、シリアやイランがターゲットになっている可能性がある。
ジャボチンスキーが1880年に生まれた場所はオデッサ(当時は帝政ロシア、現在のウクライナ)。第1次世界大戦で彼はイギリス軍に参加、パレスチナがイギリスの委任統治領になると、そこでユダヤ人の秘密部隊としてハガナを組織している。後にハガナが中核となり、イスラエル軍が編成された。
1925年に戦闘的シオニスト団体の「修正主義シオニスト世界連合」を結成したジャボチンスキーは1931年、テロ組織と言われているイルグンを組織している。そこから飛び出したアブラハム・スターンは1940年にレヒ、いわゆるスターン・ギャングを創設した。スターンはイタリアのベニト・ムッソリーニやドイツのアドルフ・ヒトラーに接近しているが、この関係を明らかにしようとするユダヤ人は「自虐」だと激しく批判される。
レヒの創設とほぼ同時にジャボチンスキーはニューヨークで心臓発作のために死亡、その後継者に選ばれたのがメナヘム・ベギン。後の首相だ。ベンヤミン・ネタニヤフ首相の父、ベンシオン・ネタニヤフは1940年、ジャボチンスキーの秘書になるためにニューヨークへ渡っている。
第2次世界大戦後もイルグンやスターン・ギャングの姿勢に変化はなく、1946年7月にイルグンはエルサレムのダビデ王ホテルを爆破、91名を殺害している。この工作について、デイビッド・ベングリオンはハガナとは無関係だとしていたが、実際はハガナがイルグンに実行を指示していたという。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
ネオコンの定義は難しいのだが、組織化のきっかけは1972年の大統領選挙。このときに民主党の候補者になったジョージ・マクガバンは戦争反対の立場を鮮明にしていた人物で、民主党内に反マクガバン派CDMが結成されている。その中心になったのがヘンリー・ジャクソン上院議員だ。
ジャクソン議員のオフィスには若手が訓練のために送り込まれていたが、その中にはあリチャード・バール、ポール・ウォルフォウィッツ、ダグラス・フェイス、エイブラム・シュルスキー、エリオット・エイブラムズなど後にネオコンの中核グループを形成する人々が含まれている。
ネオコンの思想的な支柱と言われているのがシカゴ大学の教授だったレオ・ストラウスで、ウォルフォウィッツとシュルスキーは同教授の下で博士号を取得している。戦略面はやはりシカゴ大学の教授だったアルバート・ウールステッターが大きな影響を及ぼした。
ネオコンの世界戦略を描いていた国防総省内部のシンクタンクONA(ネット評価室)で室長を務めていたアンドリュー・マーシャルはシカゴ大学で学んだことがあり、冷戦時代にはソ連脅威論を発信していた。1992年2月に作成された世界制覇プラン、いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンはマーシャルの考え方が反省されている。ソ連消滅後は中国脅威論を広めていた。
このマーシャルの師と言われているのがバーナード・ルイス。イギリス軍の情報機関に所属したことがあり、イスラエルの強硬派を支持していた。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)ヘンリー・ジャクソン議員もルイスの影響を受けている。
ジャクソンはフリッツ・クレーマーの影響も受けているのだが、この人物はヘンリー・キッシンジャーを見いだしたことでも有名。ただ、キッシンジャーはその後、クレーマーから離れていく。そのクレーマーの息子、スベン・クレーマーはウォルフォウィッツやフェイスなどネオコンに影響を及ぼしている。
ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。
1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。
この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。
革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。
トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
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