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ロシアを挑発するために英国政府が使った証拠のない御伽話は12年前の作戦の使い回し説
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2018.03.16 櫻井ジャーナル
セルゲイ・スクリパリとその娘のユリアをロシア政府が神経ガスで攻撃したとイギリスのテレサ・メイ首相は主張し続けている。それに対してフランスのエマニュエル・マクロン大統領は攻撃とロシアを結びつける証拠が欲しいと発言、同大統領のスポークスパーソンは「おとぎ話的な政治」は行わないとメイ首相の言動を批判していたが、そうしたフランスの姿勢は米仏両国が電話で話し合った後に変化、アメリカやドイツと同じように攻撃の責任はロシアにあると言うように変化している。イギリス議会では労働党のジェレミー・コービン党首もメイ首相の主張を裏付ける証拠を示すように求めたが、保守党だけでなく労働党の議員から罵倒される事態になった。
マクロン仏大統領やコービン労働党党首が言うように、メイ首相の主張には証拠がなく、おとぎ話にすぎない。ロシアの政府機関が何かイギリスに害を及ぼしたので批判しているのではなく、ロシアとの関係を悪化させるためにおとぎ話を作りだしたと考える方が自然だ。そのおとぎ話を真実だと信じることを要求している。その姿勢はアメリカのジョージ・W・ブッシュやバラク・オバマといった大統領、あるいは大統領になろうとしてヒラリー・クリントンと同じである。
ビル・クリントン政権の後半にアメリカは露骨な軍事侵略を始めたが、その頃のロシア大統領は西側の傀儡だったボリス・エリツィンで、反撃らしい反撃はなかった。アメリカではジョージ・W・ブッシュが大統領に就任した2001年の9月11日にニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンにある国防総省の本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されてから好戦派のネオコンがホワイトハウスで主導権を握り、03年にはイラクを先制攻撃してサダム・フセイン体制を倒し、フセインを処刑した。
ブッシュが大統領に就任した前年、ロシアの大統領選挙で圧勝したのがウラジミル・プーチン。このプーチンはエリツィン時代にクレムリンの腐敗勢力と手を組んで私腹を肥やしていた勢力、いわゆるオリガルヒの掃除を始めた。そこで相当数のオリガルヒは国外へ逃亡、多くはイギリスやイスラエルへ逃げ込んだ。その後、ロシアは急速に国力を回復させ、再独立に成功している。
しかし、エリツィン時代に作られた腐敗勢力のネットワークは経済界から根絶されていない。エリツィン時代の政策は新自由主義に基づくもので、経済顧問団はシカゴ派。ネットワークの中心にはエリツィンの娘であるタチアナ・ドゥヤチェンコ、エリツィン大統領の経済政策を作成していたアナトリー・チュバイスが含まれている。アメリカが行ってきたロシアに対する「経済制裁」はこうした勢力に対する圧力だろう。こうした勢力は資産を西側のオフショア市場へ沈めているはずで、「経済制裁」の影響を受けやすい。西側支配層はこうした勢力に反乱を促している。
それに対し、ロシア経済全体にとっては悪くない影響を及ぼしている。エリツィン時代の問題は国内の産業を破壊して外国資本に依存する方向へ動いていたこと。「経済制裁」はそうした動きにブレーキをかけ、ロシア再建を助けることになった。
ところで、セルゲイ・スクリパリはGRU時代にスペインで活動しているが、そのスペインで1995年にイギリスの情報機関MI6のエージェント、パブロ・ミラーにリクルートされ、99年に退役するまでイギリスのスパイとして活動していた。このミラーはロシアの治安機関FSBに所属していたアレキサンダー・リトビネンコともコンタクトをとっていたと言われている。リトビネンコはMI6の仕事をしていたことになるが、ロンドンへ逃げたオリガルヒのひとり、ボリス・ベレゾフスキーの下で働いていたと言われている。
アメリカのフォーブス誌で編集者を務めていたポール・クレブニコフによると、ロシアの富豪たちは犯罪組織と結びついていた。その組織には情報機関や特殊部隊の隊員や元隊員が雇われていて、抗争はすさまじいものがあったようだ。ベレゾフスキーはチェチェン・マフィアと結びついていた。(Paul Klebnikov, "Godfather of the Kremlin", Harcourt, 2000)
クレイブニコフは2004年7月にモスクワで射殺されている。この事件に関し、11月にベラルーシのミンスクでふたりのチェチェン系ロシア人が逮捕され、このふたりを含む3名の裁判が2006年1月に始まるのだが、その直後に裁判官のマリヤ・コマロワが「病気」になり、ウラヂミール・ウソフに替わって5月には無罪評決が出た。この評決はクレブニコフの遺族を含め、少なからぬ人々が批判している。
クレイブニコフが殺される前の月にチェチェンのヤン・セルグーニン副首相(親ロシア派)がモスクワで殺害され、チェチェンが何らかの形で絡んでいると推測されていた。クレイブニコフの裁判で無罪評決を出した8名の陪審員はこの事件の被告にも無罪評決を出している。
2000年10月にリトビネンコはイギリスへ渡るが、FSB時代のリトビネンコは犯罪の取り締まりが担当で、イギリス側が望む情報を持っていなかった。それでも2001年5月には政治亡命が認められたが、06年11月に放射性物質のポロニウム210で毒殺されたとされている。言うまでもなく、放射性物質は明白な痕跡を残す。何十年も前から痕跡を残さないで人を殺せる薬物は開発されていると言われているので、ポロニウム210を使ったというのは不自然だ。
リトビネンコの死について弟のマキシム・リトビネンコはアメリカ、イスラエル、イギリスの情報機関に殺された可能性があると主張しているのだが、2016年3月に同じ主張をする人物が現れた。リトビネンコはアメリカとイギリスの支援を受けたイタリア人に殺されたことを示す証拠を持っているとフランスの対テロ部隊創設に関わり、GIGN(国家憲兵隊の特殊部隊)を率いたひとりであるポール・バリルが語ったのだ。バルーガという暗号名がつけられたこの作戦はプーチンの評判を落とし、ロシアを不安定化させることが目的だったという。スクリパリのケースはこの作戦をまた使ったと推測している人もいる。
なお、リトビネンコを雇っていたベレゾフスキーは2013年3月、バークシャーの自宅で死亡した。自殺とされているが、ベレゾフスキーと愛人関係にあったカテリーナ・サビロワによると、死んだ日に彼は娘と会う予定で、サビロワとはテル・アビブへ2週間の予定で旅行することになっていた。つまり、自殺する様子はなかった。
ベレゾフスキーが死亡した後、ロシア政府は彼がプーチン大統領へ謝罪の手紙を書き、ロシアへの帰国を申し出ていたと発表した。ベレゾフスキーとビジネス上の関係があった人々はこの話を否定しているが、サビロワはロシアへの帰国をベレゾフスキーが強く望んでいたとしている。経済的に破綻していたことから帰国の望んだようで、手紙はかつてバートナーだったエレナ・ゴルブノワが11月、プーチンへ渡したという。手ぶらでロシアへ戻れば刑事事件の被告になる可能性があったので、交渉に使う何らかの情報を提供する用意があったという推測もある。当然、西側にとって都合の悪い情報だろう。
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